專門は社會學。ジャーナリストとして新聞に執筆し、戰中は三木清と會合を持つ等してゐたが、目立つた活動はしてゐなかつた。敗戰後、二十世紀研究所を主宰し、民主化の流れに乘つて人氣を得る。その後、平和運動に參加、福田恆存の平和論批判に再反論するなど、運動の旗手として活躍。しかし運動の退潮に伴ひ、眞先に離脱。右派メディアの臺頭に乘じて右轉囘を果して、核兵器保有にまで言及するほどのタカ派知識人に轉身、右派知識人から歡迎された。福田恆存は、世間が右傾化する中、防衛論批判を展開してをり、清水幾太郎の思想的一貫性の缺如を指摘して大いに物議を釀した。
思想的に時局便乘型であるがゆゑに、南關東大地震周期説が出ると早速反應、來るべき「次の關東大震災」への對策を急ぐべき事を唱へた。社會學が不人氣となり、平和運動の主張は時代遲れに、タカ派的な言説も陳腐化してしまつて、思想的には忘れ去られた恰好になつてゐるが、震災への警鐘を鳴らし續けた事だけは評價されてをり、『「諸君!」の30年 1969〜1999』(文藝春秋)に「関東大震災がやってくる」が再録され、2011年3月11日の東日本大震災の後にはちくま学芸文庫から震災を意識して文章を集めたとおぼしき『流言蜚語』が再刊された。
清水は東京の下町の出身で、話す時も、書く時も、江戸の言葉を用ゐた。清水の言葉は、山の手の言葉と違ふ下町の言葉。ただ、「べらんめえ」調の品の無いものではなく、「ございます」調の言葉を清水は用ゐた。嫌みの無い、すつきりとした文體が、清水の文體の特徴である。
ちなみに、後に清水批判をした福田恆存も、歴史的假名遣の實踐者であり、江戸の下町の生れである。