制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2011-06-07

『論文の書き方』

書誌

『論文の書き方』
昭和34年3月17日 第1刷発行
昭和44年5月10日 第21刷発行
清水幾太郎著
岩波書店
岩波新書(青版)341
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「仮名が多過ぎる文章」への苦言

むしろ、戦後における文体の工夫のうちで最も顕著なものは、漢字を減らし、仮名を多くするという方向のものであった。これは、当用漢字や新仮名づかいの問題と引き離し難い関係にあることであるが、学問を大衆に近づけようという積極的な意図に支えられて、この傾向は有力になって来ている。次に紹介する水田洋氏の文章なども、きっと、考慮の末に工夫されたものであろう。

「いぜんには、その羊たちは、たいへんおとなしく、なれていて、小食だったのに、こんにちでは、きくところによると、ひじょうにおおぐいで乱暴になって、人間じしんさえも、さかんにくいころしているとのことです。」これは、トーマス・モアの『ユートピア』の一節を水田洋氏が訳したものである。なお、次のような文章がある。「そうすると、これらの共産主義思想は、もうひとつの特ちょうを、もつことにならないであろうか。すなわち、それらが、おおかれ、すくなかれ、うしろむき(復古的)であったということである。」「人民がつねにそのもとにくらしていた法であっても、それがかれらのような自由人にふさわしいものでないことを、人民がさとったならば、……げんざいかれらがもっている政府よりも有利とおもわれるものを、かくとくするために、あらゆる手段によって努力することを……ためらうべき理由をわたくしはしらない。」「マグナ・カルタじたいが、おおくの、たえがたいれいぞくのしるしをふくむ、つまらぬもの……。」(岩波講座『現代思想』第四巻、一九五七年)。

水田洋氏と限らず、こういう仮名の多い文章はよく見かけるが、正直のところ、私は、一個の読者として、非常に読みにくいように感じる。難かしい漢字は避けるのが親切である。また、「麒麟」の例を持ち出すまでもなく、漢字自体が勝手に生み出すイメージを警戒するのも、文字の向う側にあるXを生々と掴み且つ掴ませるために必要である。しかし、その半面、現在の段階では、仮名ばかりがズラリと並んでしまうと、読むものとしては、時間をかけて一字一字を辿って行かねばならず、字面がヴィジュアルにならない。ベタベタし、モタモタして、テンポが落ちてしまう。読者が疲れる。少くとも、義務教育で教える程度の漢字はもっと自由に使うべきではないのか。この点は、文字や活字の独裁が終り、映像の時代が始まったことのために、一層重要になっている。眼に訴える映像の攻撃が日増しに強くなっている時に、文章が眼に訴えるという要素を自分で捨てて行くのは、進んで城を明け渡すように思われるからである。戦後における文章の工夫の最大のものが、テレヴィジョンの挑戦の前での自発的な武装解除のように思われる。

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