「愛國心」は右翼の專賣特許だと思つたら大間違ひである。フランス革命當時、國王支持の右翼に對抗する左翼のフランス人は「俺たちは王を愛するのではない、國を愛するのだ」と主張した。
現存制度を擁護する事によつて愛國的義務を果さうとする立場も、現存制度に攻撃を加へる事によつて愛國的義務を果さうとする立場もあり得る、その際、兩者は互ひに相手を國賊、非國民、賣國奴と罵つてはならない、各自が合理的と判斷した方法を選ぶ事を許すのが民主主義である、と清水は述べる。
近代の愛國者は、愛國心を獨占せぬことを以て重要な資格とする。自分だけを愛國心の持主と考へ、意見を異にするものを國賊或は非國民と考へ始めるや否や、彼は忽ち未開社會のメンバーになる。彼は、民主主義が愛國心に與へた合理化のコースから脱落してゐるからである。彼はその内部に潛む原始人の魂の壓力と誘惑との前に膝を屈してゐると見なければならぬ。
清水は、「正かな派」ではないが、晩年に至るまで發音のままに、聞える通りに假名を遣ふことを不快に感じ續けてゐた
と云ふ。
「現代かなづかい」が「普及」したのに應じて、清水は現代仮名遣の文章の練習
をしてゐる。「著作集」第9卷の解題によれば、大體昭和28年中頃に清水は假名遣の切替へを行つてゐる。しかし、假名遣を變更するに當り、清水は新しい表記に適した新しい文體を作らうと努力してゐる。
「讀者への言葉」(『愛國心』まへがき)で、清水はかう書いてゐる。
なほ、同じ岩波新書の一冊として「ジャーナリズム」を書いた時は、試驗的に「新假名づかひ」によりましたが、今度は「歴史的假名づかひ」によりました。私には、前者の方が不自由で不便だと思はれたからであります。
清水はその後、『ジャーナリズム』を絶版にしてゐる。
『ジャーナリズム』は「現代かなづかい」で印刷されたが、もともと正かなで書かれた原稿を、出版社サイドが勝手に「現代かなづかい」に改めたらしい。その際、かなり亂暴な書換へが行はれたらしいと「著作集」第9卷の解題の筆者は言つてゐる。
その書換への方法に清水は反感を抱き、『愛國心』の「まへがき」で不快感を表明したのではないか、と解題の筆者は推測してゐる。假名遣の書換へが無原則に行はれた事、正かなに合はせた文體で書かれた文章を單に新假名に書換へる事に、清水は我慢がならなかつたのであらう、と云ふのである。
出版社に何度「ヵ」と直されても、清水は助數詞を「ヶ」と書いた、と「著作集」の解題の筆者は繰返し書き、讀者に注意を促してゐる。清水が「表音式」の假名遣を生涯受容れなかつた事は明かだと思ふ。
ただし、清水は「現代かなづかい」をはつきりとは非難してゐない。言葉のはしばしに「現代かなづかい」への不滿が見え隱れするのだが。審美的な見地からは認められない筈の「現代かなづかい」に迎合してしまふところが、清水の人の好さの表れであり、同時に、清水の弱點である。