周辺部の特徴を示す人たち)も、ルーツは同じ縄文時代人らしいと。九州の一部・四國の一部・山陽・近畿邊に住んでゐる人々が特殊で、實は他の地域の日本人とはちよつと違ふ、朝鮮系の人々の血が入つてゐるのだと。
これは多分WindowsのSetTimer API (WM_TIMER)を使ってるのでしょうね。つて事らしい。
もうひとつは、あとから話がでてくる日本人の成立に関係がある問題ですが、日本人はけっして単一の民族で成り立っているのではないということです。
一方日本人はけっして単一民族ではないこともはっきりしている。と繰返し述べてゐる。
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祈りを基調とする象徴天皇制が国民の間に根をおろしていく歳月のなかで、女性天皇を受け入れる土壌も生まれたのだろう。何時の間にそんなものが生れたのか知らないが、「何時の間にか何かが出來てしまふ社會」は、恐ろしいものではないのだらうか。日本人はそれを「良い!」と思つてゐるらしいが。
現在の靖国神社のあり方に疑問を持っている。歴史認識を間違えさせる施設が(靖国神社の)遊就館だ。社務所の出版物も戦争責任の反省があった上で戦没者に追悼の意を表する趣旨がない。『A級戦犯はぬれぎぬを着せられた』というようなことが書いてあり、納得できない、
小泉(首相)さんは戦争体験はないだろうが、まじめな歴史研究を重ねて想像力をめぐらせば正しい判断ができる、
(戦争責任に関し)身ぎれいにして、外国にものが言えるような立場にならなければならない。時間がかかるだろうから、とりあえずは中立的な無宗教の国立追悼・平和記念碑の建設を決定していただきたい、等と述べたと云ふ。
埴原氏を私が知ったのは、そんなに古いことではない。古いことではないというより、つい一年ほど前のことである。というのは、私は三年ほど前から、日本語とアイヌ語、あるいは日本文化とアイヌ文化は、深い関係をもった言語、文化ではないかという疑問をもっていたが、通説では、日本人とアイヌは、まったく別な人種であり、したがって、言語や文化が人種と密接不可分に結びついているとすれば、この関係は、その根柢において成りたたないとされていた。
アイヌはモンゴロイド、すなわち黄色人種ではなく、コーカソイド、白人である。あるいは白人ではないにしても、日本人とはまったくちがった人種であるという考えが、今なお、日本人の常識になっている。
はたしていったいそうなのか。私は言語と文化において、どうしても同一性を認めなくてはならないと思ったが、もし自然人類学的に日本人とアイヌがまったくちがった人種であるならば、私の仮説も成り立たないのではないかと思っていた。
そしてその疑問を解くためにいくつかの本を読んだ結果、埴原氏が山口敏氏や尾本恵市氏とともに、このアイヌ異民族説にたいして、別の考えをもっておられることを知った。それであるシンポジウムに埴原氏をおよびしたところ、埴原氏は、はっきり自説を語られた。私が埴原氏に親密感を感じたのは、氏の説が私の疑問を解くことに役だったことにもよるが、真理にたいしてきわめて大胆である埴原氏の人格に魅せられたからである。その時以来、氏とは十年来の知己のような親交を結ぶことになった。
そして一度、とっくり埴原氏の説を聞いてみたいと思って行ったのが、この対談である。
原日本人であり、
和人以上に日本人であるのださうだが? 『日本人とは何か 天城シンポジウム 民族の起源を求めて』に内容が收められたシンポジウムで、梅原猛氏が思ひ附きのやうな形でアイヌと日本人との關係を指摘した時には、大野晋氏にやつつけられてゐたけれども。何うよ。
語は言語のもっとも重要な要素である。語に比べれば、音も文もそれほどの重要性を持ってはいない。幼児がはじめて言葉をしゃべろうとしているのを我々が見る場合に、子供が何かしら語を発した時に「それしゃべったぞ」と言うのが普通である。つまりしゃべるということは、まず第一に語を使用するということである。同じことが外国語学習の際にも言える。ある外国語をしゃべるということは、つまりその国語の語を正しく使い、また理解することなのである。たとえ私が英語のすべての音を正確に再現することができても、もし私が語を知らなかったり、ないしは正しく使えなかった時には、英語で私の言いたいことをわからせることはできないのである。またさらに、あまり現実にはありそうな事とも思えないが、私が英語の文章構造の規則をあますところなく知っていて、しかも語だけは自由に使えないというような時でも、やはり私は人の使う英語を理解したり、英語で自分の言いたいことを言うことはできない。
一般にきわめて数多くの現象を対象とする記述的な学問は、まずその対象を概念的に把握すべく努めるべきである。このことはほとんど無限の対象が、できるだけ剰余少なくあてはまるような一定数のタイプないし範疇を実証的に、相似性の観点に立ちながら導き出すことによってなされる。この種の効果的な分類法の実例は、リンネが定めた動植物の分類体系であり、またゲーテが「ハウアドの記念碑」なる詩においてその精神的な意義を賞揚しているハウアドの雲の分類もまたそうであろう。
語に関してもすでにこのような体系的分類の基準は色々とできている。もっとも普通なものは音的形態による分類であろう。これは、語を語幹と語尾変化の型によって区別するものであり、また最近ではその他の音声的ないし音韻的観点から分類してゆくことも行われている。
しかしながらこれらは皆などれも語の外形だけを問題にしている。ところが今日ではしろうとこそまだ語というものが音的なものだけからできていると考えてはいるが、語が音的形態のみでできていると本気で思っている学者はまずいないのである。すべての語は音的形態のほかに、Bedeutung(意義),Sinn(意味),ないしInhalt(内容)と呼ばれるものから成り立っているのだ。約半世紀このかたBedeutungslehre(意味学)とかSemantik(意味論)とかSemasiologie(記号学)というようなものが取り扱っているのは、ほかならぬこの音でない、語のもうひとつの要素なのである。この学問は言語学の他のすべての部門と違って、はじめから記述的(共時的)ではなく歴史的(通時的)な学問として成立し、現在でも個々の語に関するかぎりは、ほとんど純粋に通時的なものという性格を変えていないのである。
「正字正假名の文章が讀み難い」は「お前の字は汚い」と指摘のレベルとしては同様なのかもなー、とか思ってみた。は例によつて中田氏の揶揄。
私が行なったのは「『正字正假名の文章が讀み難い』という指摘」と「『お前の字は汚い』という指摘」の等価性についての示唆であって、「正字正假名」と「汚い字」の等価性などこれっぽっちも指摘していません。
いかにも一部メディアが挙げ足取りそうな発言でないですかそれ。
Operaが苦手な大量の画像が埋め込まれたものも、あっさりと表示してくれる。
なんだか知らんけど、スクロールバーの色が変。掴むと色が白くなるおかげで、見失うことが多い。なぜにシステムデフォルトにしないのだろう。
たぶん、デフォルトの外観が、Win IE とか Firefox と同じようなものだったら、すんなり受け入れていたような気もしますねぇ。
因みに、HTMLの部分が完成したら、解説サイトは公開する積もり。
「正字正かなづかひ」は、と一括りにして文句を言ふのは、何時如何なる場合にも不當であると言へます。せめて「正字」と「正かな」とは區別して考へて頂きたいものです。「正字正かな」と當方が一括りにして言つてゐるのは、或意味スローガンでしかありません。
11月22日(火)25:30より。
通常より40秒長い、25分40秒間なので要注意との事。
くわえて のべておくなら、GHQの日本去勢化政策の一環として、漢字廃止/ローマ字教育導入が こころみられた、といった「被害妄想」は、日本の独自性を 天皇制と漢字かなまじり表記にしか みいだせない、かなしいナショナリズムの産物といえるだろう。合掌。
GHQの日本去勢化政策の一環として、漢字廃止/ローマ字教育導入が こころみられたとは言つてゐない。
明かに、使節團の調査に「協力」した日本側の言語學者が、自らの信奉するイデオロギーに基いて、調査結果を歪めてゐたのである。漢字使用の全廢、ローマ字などの表音文字への移行は、日本側の言語學者が積極的に提唱したと考へるべきである。
漢字廃止/ローマ字教育導入を行つた主體は、G.H.Qでなく「日本側の言語學者」である」と野嵜が書いてゐる事が理解出來るだらう。ところが左翼氏は理解出來なかつた。「ナショナリストは戰後民主主義の責任を全部G.H.Qに押附けるものだ」と左翼氏は思ひ込んでゐて、野嵜が何を言つてゐるかをきちんと調べなかつたのだらう。それで適當にそれつぽい事を言つて、自分の主張を喚き散らしてゐるに過ぎない。かう云ふ獨善的な左翼の態度をオーウェルは批判したのだが、獨善的な左翼には自分が獨善的である事が認識出來ない。左翼に言論は通用しないらしい。困つた話である。
産軍政連合のうすぎたなさだのと言ひたい放題。すぐに他人を「妄想氏」呼ばはりする左翼氏自身だつて相當「うすぎたない」精神の持主であるだらうに。左翼は自分を棚に上げて他人を罵る傾向があるから信用出來ない。
そうじゃなくて、税金で公私の生活全般が維持され、「天皇の国事行為」に準じた「象徴」としての役割演出という義務は、当然おわねばならない、っていう、カラクリが、厳然とあるという現実だ。
国家機関の
皇室を擁護する側を嘲笑出來るのか、理解出來ない。左翼氏、ひたすら敵を嘲笑し續けてゐるのだけれども、その「嘲笑出來る理由」が――詰り、左翼氏のの根本原理が――全然わからない。兔に角ナショナリズムつぽいものを左翼氏は嘲笑してゐるのだけれども、なぜ嘲笑して良いのか、或は嘲笑しなければならないのか。
実践等してゐない。左翼氏が、「してゐる!」と思つてゐるのは、その方が相手を叩くのに都合が良いからに過ぎない。妄想の敵を叩いて、左翼氏は好い氣になつてゐる。誰が妄想氏だらう。笑。
それは、弥生時代どころか最低でも縄文時代にまでたどりつくわけで、「原ニッポン」なるものに、漢字文明なんて、まったく異質な外来物だ(笑)。
ともかく、よくもわるくも、漢文ばなれは劇的にすすみ、同時に、漢字語依存も日常生活のかかで比重をひくめていった。まあ、きいてわからんのでは、医学であろうが、法学であろうが、大学の講義はもちろん、会議や学会などでの討議も不可能になるんだから、すくなくとも、おなじ業界で文脈を共有する話者同士は、はなしことばで疎通可能なスタイルを無意識のうちにあみだしてきたといってよい。
おなじ業界で文脈を共有する話者同士が、わざわざ便利な專門用語を棄て、
はなしことばで疎通可能なスタイルなんて囘りくどい言ひ方を作らうなんてする訣がないし、實際にしてもゐない。やまとことばで抽象的かつ説明的な新しい用語を作つてゐるのは、表音主義の言語學者くらゐしかゐない。
ところが、こういったうねりに対応できない層は当然いる。
うねりは何處にも存在しない。左翼氏は、
そのいきつくさきは、かながき学術論文、ローマ字学術論文になるだろう。と言つてゐるが、「だろう」とは何だ。「だろう」「だろう」「だろう」。根據も何もナシ。「漢字假名交じりの表記が表音的な表記に移る」のには何か論理的な必然性が「ある」かのやうに左翼氏は言つてゐる。しかし、左翼氏はただ「それつぽい」事を言つてゐるに過ぎない。その「それつぽい」と云ふ事から安易に表音主義者は「表音的な表記に移行するのが必然」と言つてゐるだけで、そこに何一つ必然的な根據はない。しかし、かう云ふ「必然論」を主張する左翼が、その「必然的な結果」を生み出す爲に、革命だの何だのと言つて人爲的に「必然的な結果」を惹起こさうとするのは何なのだらう。放つておけば必然的に「なる」ものなら、放つておけば良いのに。一々表音主義の運動を「やらなければならない」とか、反對者を嘲笑「しなければならない」とか――論理が破綻してゐるのだが、そのやうな破綻した論理こそが「正しい」と信じてゐる連中に、正しい論理は「破綻した論理」にしか見えないのだらう。閑話休題。
たとえば「口語重視の言語學は前時代の遺物であり、それを基盤に國語の表音化を主張するのは時代「錯誤と言つてよい」といった、時代錯誤的な表記・主張さえでてくる(笑)。
かながきやローマ字がきを併記するかたちで、いろいろなかきかたを実践してみせている人を、わざわざ賞揚してゐるのは何なのだらう。何人もゐないからこそ賞揚すべきであると考へて、左翼氏は特に名前を出して褒めてゐるのだらうが、それは
うねりなんてものが存在しない事を自白してゐるやうなものではないか。
と同時に、非漢字圏からみたひとびとにとっては、あべ・やすし さんのいうとおり、「漢字」は「障害」物にしかならない。
「ローマ字がきは面倒だ」というセリフをはいている連中の大半は、かな入力なんぞせず、毎日ローマ字入力しておる(笑)。
「ローマ字は、よみづらくて、非能率的だ」とのたまう保守主義者殿。貴君は、そういいつつ、毎日「和魂洋才」を実践しつつ、「英字紙」(正確には「英文紙」)を速読し、いや、とばしよみしていらっしゃらないか(笑)?
時代は世界化のなか。そのためには、日英バイリンガル…といくまえに、「日本語のバイリテラシー」こそ、「情報のユニバーサル・デザイン」ではありませんか。
社の広報誌を英文にするまえに、日本語表記を、漢字混用/かながき(わかちがき)/ローマ字(わかちがき)って、3つ併記するぐらいのコストがささえられないほど、みなさんの企業の業績は悪化していますか?
しかしだ。「そこらのフリーターのごときえたいのしれない人物たち」といった、過度の一般化は、あまりに野蛮であり、かりに個人的感覚がそうであれ、社会学者なら、「このての過度の一般化は、はずかしいから、くちにするのは、ひかえよう」といった抑制がきいて当然だとおもう。
出力する HTML は、HTML 4.01 Strict / HTML 4.01 Transitional / XHTML 1.0 Strict に準拠しているはずです。
だから、すべてに通ずる公的なものには従わねばならないのだ。しかるにここに言われていることわりは、すべてに通じる公的なものとしてあるにもかかわらず、多くの人間の生き方は、自分ひとりだけの私的な思慮しかないかのようである。とか
反対するものが協調するのであり、相違するものから、最も美しい音律が生まれる。そしてすべては争いによって生ずる。とか。福原麟太郎『この国を見よ』『この道を行く わが人生観』。
私は本当は、この問題に巻き込まれたくない。言葉についての確執はとても円滑に解決することのできないもので、私の師匠岡倉由三郎はローマ字問題の紛争で病にたおれた。それに、私のような考は多分、語学的にまた政治的に、通用しにくいものであると信じているからである。しかし、そういう電話や手紙を受取った以上、やはり何か考を述べるべきだと思って、ここにすこし書きつけてみる。
その前に一応断っておかなければならないことは、新カナや制限漢字がわりにたやすく行なわれたわけは誰でも想像しうるように、戦後、思想の動搖期に発令されたからであるばかりか、新聞がそれに賛同したからである。私のごときは新カナの法則など読んだこともないうちに、旧カナで書いた原稿を新聞の編緝で新カナに直されるのを見て覚え、やがて、お手間をかけるのも気の毒だからと、自分で進んで書くようになったのである。この絶大なジャーナリズムの力が送り仮名についても死活を左右することを忘れてはならない。
私は三つのことを意見として持っている。一、表音ガナは不可能である。二、文字は読むためのものである。三、言葉は個性を主張する。
また、私などは山陽道の生れだから、逢おう買おう舞おうと新カナで書く動詞を、実際の発音では逢わう買わう舞わうと言っている。しかしそんな書き方は新カナにはないのである。云々。
高所と云ふ字句に拘つて論じてゐる。如何にも
傍觀者らしい物の言ひ方をして無責任な態度をとつてゐるのが良くない、と指摘した積りなのだけれども。
どっちも出来てないんだから、素で馬鹿に決まってるじゃないですか。
私はやっぱり「馬鹿。」と断定したラベル付けをするより、卑怯でも「馬鹿?」と第三者にラベル付けをするかどうかを投げる方を選びます。
闇黒日記さんや江洲さんほど聡い人の断定ならともかく、私みたいな馬鹿の断定に万が一でも従われたら困る。
正直者が馬鹿を見るような法律はさっさと変えないと。
單に意見を聞きたいだけです。他意ナシ。と書いたら、
もう一つ意趣返しされた。平叙文と疑問文とを區別出來ない人だからなー。笑。
色々と考えるネタと言つて、なんか考へたやうな恰好をして見せるだけだつた。
私がやっと馬鹿だと気が付いた聡い人が、なぜ主張のロジックのどこが通じてして、どこがおかしなことになっているのか、その理由を精査しないのが不思議でならない。
精査した筈。それが解らなかつたのは正字正かなの所爲ですか。何でも正字正かなの所爲にすれば良いのだから、不正字不正かなの人は便利ですねえ(嫌みなので正字正かな云々については反論不要)。あーもしかして渡邊さんとの話の中で話が出て來ただけなので、Vid Forn氏は自分の事として讀めなかつたのかも知れない。
というか、そもそも相手に読む気があるのかと思ってきた。読む気が無いならどれだけ説明書いても無駄だし。向こうはこちらのために砕く気が無い=自分の意見をきちんと伝える気が無いようだし。
こう書くとかなりの御幣があると思われるが、の
御幣は「語弊」が正しい。
大和民族の伝統である事が、「日本国」に所属する「国民」として「国」の「国益」を考えた時にどんな意味があるというのでしょうかね。
世界遺産の価値が理解できない人の考え方ですな。
向こうはこちらのために砕く気が無い=自分の意見をきちんと伝える気が無いようだし。とか言つて人を非難しておきながら、自分は
自分の意見をきちんと伝える気が無いような言ひ方をするのは如何なものか。Vid Forn氏、自分には甘い癖に、他人にはやたらと嚴格になる――それが良くないと俺は指摘してゐる。卑怯だからだ。なんか卑怯なのは良い事だと思つてゐるらしいけれども、良くないよ。
コンテンツネゴシエーションを行って無拡張子でアクセスしている状態で、ページ内へのフラグメント ID を #id 形式で付けると勝手に url.html#id と拡張子が補間されてしまう。これはどうも Opera のバグっぽい。
そもそも「歴史」に対する考えかたが違っているところで、自分の主張が正しいと押し付けられてもねぇ。
1400年の伝統を壊す事の責任とその覚悟が本当にあるのか、小1時間問い詰めたい。
伝統は、誰にとつての
伝統なのでせうか。日本民族の
伝統? アイヌや琉球民族、在日韓國人・朝鮮人にとつては?
漢字政策を考へるに當つて、私の根本に持つてゐる一つの目標は、現行の漢字かな交り文を合理化することである。漢字政策の一つの方法として、漢字を全廢して、カナ專用、或はローマ字專用を目標とする場合には、その政策論の根本が異なるのであるから、これを別個に考へなければならない。この根本的な立場の相違をあいまいにして、漢字政策を考へることは危險である。漢字政策を考へるに當つては、當然かな専用或はローマ字專用といふことも、並行して考へなければならないのであるが、それらの點については、今のところ私の力が及ばないのでさし控へることとした。
次に、漢字を出來るだけ制限して置けば、或は漢字に對する知識と教育を最小限度にして置けば、そこから、自からよい國語が生れて來るであらうと考へ、かつこれを實行させようとする消極的漢字政策には、私は組することが出來ない。これは、人間を過去の文化から遮斷し、無知にして置けば、そこから、新しい文化が生れて來ると考へる破壞主義である。現代の漢字政策に、そのやうな考へがひそんでゐないとは斷言出來ないやうである。
次に、漢字制限から起る種々な支障に對して、これを救ふ手段を用意しないで政策を強行することは、無責任な方法である。惡書を驅逐するには、必ず一方に良書を推薦することが必要である。ここに積極的漢字政策の要求される理由がある。
次に、漢字政策案は、他の政策案の場合と同樣に、各個人が國語を記載しようとするに當つて、その記載行爲を達成するに役立つやうに、計畫立案されなければならない。記載する行爲を考慮の外に置いた現行の漢字政策案はおよそ無意義である。
以上述べたやうなことを根本態度として、次に現行の當用漢字表を檢討して見ようと思ふ。
私は、漢字制限表の中に盛り込まれる文字の數が、一〇〇〇字であらうと三〇〇〇字であらうと、それは問題にするに足りないことであると考へてゐる。問題はむしろ漢字制限表といふものを作成して、それによつて漢字政策を實行して行かうとする漢字政策の考へ方そのものである。眞に合理的な漢字政策を考へようとするならば、先づこの制限表による方法を一擲して、新しい方法を考案して行かなければならないのである。
既に述べてきたところで明かにされたやうに、この政策案の骨子は、いはゆる漢字制限ではない。制限ではなくして、國民必須の漢字の幅を確認し、これを合理化し、漢字教育を確立しようとするものである。世の漢字表なるものは、一定數の漢字が枠の中に入れられてゐるために、如何にも漢字が制限されてゐるやうな錯覺を與へるのであるが、上に述べて來たやうに、この表は、實踐そのものには何等の效果ももたらさないものである。從つて、實は漢字の合理化も制限も、この表には期待することが出來ないのである。
以上述べてきた漢字政策論は最初にことわつたやうに、漢字かな交り文を基礎にした立案であつて、もし、かな專用とかローマ字專用といふことを考へるならば、立論の基礎を根本的に改めねばならないのである。從つて私の案を更に確實にするためには、漢字かな交り文といふものが、どのやうな原理に立つものであるかと云ふことが、先づ明かにされてゐなければならない。かな交り文とは、ただ假名と漢字とが交用されて居ればよいと云ふものではない。それは、漢字が我が國に渡來して以後、長年月に亙つて次第にその原理を自ら確立して來た記載法であつて、根本の原理は、概念的な思想は漢字を以てこれを表記し、漢字を以て表記することの出來ない助詞、助動詞や、活用語尾、接頭語、接尾語はかなを以て表記するところの表記法である。私の立案の限界を、このかな交り文に置いたのは、國語の傳統を出來るだけ保存しようとするためであつて、國語表記の傳統を保存しようとする意圖は、國語は傳統的であることにおいて最も言語としての機能を發揮し得られると考へたからである。言語改革は、言語機能が破壞されないといふ条件内においてのみ認められるのである。
著者兼発行者の高梨健吉はチェンバレン等の研究をした慶應義塾大學の英語の先生で、この本はその高梨先生が寄稿した雜誌とかノートとかをコピーして纏めた私家本(だと思ふ。限定二百部のうちの一册。獻辭があるけれども名前を出すといろいろ差障りがあるだらうから出さない)。
日本語のシを、日本式ではsiで示し、ヘボン式ではshiで示す。「指す」という動詞のように語幹が-sで終る動詞の活用を示すには、「指さん、指し、指す、指せ、指そう」の五つの形をsas-an、-i、-u、-e、-o と書いたほうが、sashiの場合だけshiにするより簡便だと日本式の主唱者は主張する。これではシとスィとの両音を混同することになる。眼に都合がよくなるために、耳を無視したことになる。英語でもgo, went,goneという動詞の活用がある。これが不規則で目ざわりだからといって過去形をgoedに勝手に変えるわけにもゆくまい。これは言語の歴史的変遷の結果そうなったので、今さら現実を無視することはできない。
言語の歴史的変遷の結果そうなったので、今さら現実を無視することはできないと言つてしまつてゐる。あなた今、言語の歴史的變遷の結果成立した、現實に存在する日本語の漢字假名交じりと云ふ表記を否定しようとしてゐるのではないですか。ローマ字表記を根本的に否定する論理を使つてゐる事に、高梨先生は氣附かない。自分で自分の主義を否定して、高梨先生は頭が惡いなあ、と思ふ。
さきごろおこなわれた日本人の讀み書き調査について、石黒修が雜誌「國文學 解釋と鑑賞」昭和二十六年五月號に「國語國字問題と言語生活」と云ふ文章を書いてゐる。石黒は、專門委員長としてこの調査に參與したのだが、「國語國字問題と言語生活」の中で、調査の結果を引用し、日本人の言語生活に就いて、自己の見解を披露してゐる。が、これがまた驚くほど偏つた物の見方に基いてゐて、斯くも偏向した人物の指導下に國字改革が行はれたものである事には呆れざるを得ない。餘りにも石黒の言ひ樣が非道いので紹介する。と言ふか、その爲に神保町の古本屋で百五圓も出して買つて來た。
日本人の讀み書き能力は平均點七八・三點である。事が判つた。これに就いて石黒は、
正常な讀み書き能力があると認められるには、一〇〇點なければならない。と無茶苦茶なコメントを附してゐる。石黒は「漢字の書き取り」の點が惡い事を強調し、「漢字讀み」では平均八八・八點と高得點であるにもかかはらず、
以上、日本人の讀み書き能力の結果が示すところによれば文盲率は低いが、日本人は不十分なというより、みじめな言語生活、ことばや文字の讀み書きをしている。等と勝手な結論を出してゐる。「漢字は一點一劃まで正確に書けなければ駄目」と云ふ惡き「嚴格主義」は、戰後の国語教育で猛威をふるひ、度々批判されたにもかかはらず、未だに脈々と受繼がれてゐるものだが、國字改革の當事者の發言に既にその兆候があつた訣である。
その結果によつて、漢字、特にその書取が讀み書き能力に深刻な影響をおよぼしていることがわかつたが、これを救濟する方法として、第一に國語教育の技術の改善が考えられる。すなわち、漢字の書取に注意を拂うことが考えられる。と、一見もつともな事を言つて見せる。しかし、實際のところ、「漢字の書取」が影響を及ぼしてゐるのは「讀み書き能力」ではなくて「讀み書き能力調査の結果」である。石黒は詐欺的な論法でごまかしをやらかしてゐる。さらに石黒は、
しかし、それは決して、教育的に價値のあることではなく、しかも教育技術も新しい特別なものがあるわけではない。と述べる。漢字について、「漢字の書取」を恰も大問題であるかのやうに見せかけ、其處に注目させた擧句、「其處には解決策など無いし、解決しても意味がない」事を徹底的に印象づける。「漢字の書取」に關して、誰も反論出來ない方向に石黒は話を持つて行くのである。石黒は、この「漢字の書取」の問題を突破口に、國字改革反對論を封殺しようとしてゐる。
そこで、第二の提案として、文字言語そのものの改良、すなわち国語国字問題の解決、國語政策の促進をしている。
みじめと見せかける意圖があつたやうに思はれる。石黒は、この「國語國字問題と言語生活」なる文章の最初の方で、調査結果を報告するに先立ち、以下のやうに述べてゐる。
一體、日本人のことばや文字を使う力、すなわち讀み書き能力は、戰前には世界で最も高いものの一つであるとされていた。それは義務教育の普及と一般的な出版物の多いことからの想定である。
しかし、それらによつて、特に教育の普及によつて、社會生活を正常に營むにたるだけの文字言語を使う能力が賦與されているかどうか、そしてその能力が社會に出ても、そのまま維持されているかという點に疑問がある。
戰爭後、昭和二十一年十一月に当用漢字表が制定され、現代かなづかい、當用漢字音訓表、新字體がつづいて制定されて、戰爭前にくらべて、國民の讀み書き能力は、比例的に高められたことと想像されるが、讀み書き能力調査委員會は、問題の作成にあたり、漢字、かなづかいなど、すべて戰後のものによつた成績が前述の通りであるから、もつとその方策を研究し、漸進的に、かつ徹底的な處置を講ずる必要がある。と述べる。
たとえば、文字についていえば三種類(ひらがな・カタカナ・漢字)というゼイタクなものを使つてゐる國は世界にない。その文字の數、當用漢字だけでも一八五〇、これを義務教育漢字に限つても八八一で、他の多くの文化國家の十數倍ないし數十倍である。文字の數は中國よりも少ないといえるが、その用法、讀みは音訓、呉音、漢音、唐音、慣用音、現代音などがあつて、中國人もあきれるような、使い方をしている。送りがなには基準がない。句讀法も極めてアイマイである。
日本人の言語生活を改善し、向上させるには、どうしても國語國字問題の解釋をはからなければならない。日常社會生活の向上發展を願うならば、言語生活からはじめなければならない。
漢字制限、文字づかい改正を、言語統制や物資の統制と同一視して、これに反對している學者、著作家がある。それが自己の優越感を滿足させ、護持する手段として、ことばや文字という私有財産を擁護しようという氣持は、理解し、同情することができるけれども、ことばや文字は社會國家の、大衆の共有物である。それは人民の、人民のためのことばや文字でなければならない。
ただし、次回以降に細述するが、私怨などから報告されていると判断されたり、「ちょっと変わった人」程度の話と判断された場合はスルーされ、「祭り」不成立となる場合も多い。
何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なつてゐる。のみならず、道徳の敗退も一所に来てゐる。日本国中何所を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を為たつて、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂有の儘の世界を、有の儘で受取つて、其中僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外の人を、此方の考へ通りにするなんて、到底出来た話ぢやありやしないもの――
妄言師は当ブログの文章に難癖をつけた方にアカンベーをしただけ(w
最後に。天皇について――就中、事実上の立憲君主としての是非について――書く度に思ふ、地球の重力に引かれた人たちに苛立つシャア・アズナブルの気持ちがよく分かる気がすると・・・と書いてみるテスト。
地球に居續ける人々を肅清しようとした。
- 土屋清
猪木君のいったこととあまり変らないが、僕は日本でマルクス主義がなぜ流行したかというと、その一つの条件は明治以来の日本の社会に民主主義、自由主義、それから宗教的地盤、そういうものが欠如していたからではないかと思う。つまり、明治以来の日本の政治体制は民主主義的な要素がだんだん入ってきたけれども、結局、絶対主義の権力が強いときに、いま、猪木君のいったように昭和の初頭からブルジョア独裁のような形になった。こういうところで平和な漸進的な方法で社会主義を実現するという思想よりは、むしろ弾圧に対して戦って、階級闘争的に歴史を進めるという考え方のほうが受けいれやすい。
それで第二には、やはり自由主義の伝統が日本ではあまりに強くない。いまいったような自由主義思想家もいたが、それが支配的とは決していえないのです。そこにも弱さがあった。それといまの階級闘争に関連があるけれども、日本の社会には明治以後特にそうだが、非常に宗教性が稀薄になっている。西欧の社会にはキリスト教という共通の基礎があって、キリスト教がどの程度まで滲透しているかは別として、一応やはり社会の基礎に宗教的なものがある。そういうところにはやはり階級闘争という観念がそんな簡単に入るわけでないのですね、階級対立はあっても、階級闘争が絶対だ、それで歴史を進めて行くのだという考え方は、宗教性がある民主的社会では僕はなかなか出てこないと思う。ところが日本の社会では仏教は眠ったような状態だし、キリスト教は今日でも数十万の信者しか獲得していない。神道は結婚式のときにお世話になるだけで神社の前に行けば帽子をぬぐ程度だ。これは明治以来の日本の文明の取り入れ方にも関係があるので、必ずしも僕は日本人は宗教性の稀薄な民族ではないと思うが、現実において非常に宗教というものと離れてしまっている。そういうところでは階級闘争という観念は砂地に水が入って行くように入って行くわけですね。宗教の根本をどう理解するかは別として、やはり愛とか、神への帰依として一応考えれば、階級闘争とは対立するものなのだ。人の魂のふれ合いが少ないところにマルクス主義が簡単にひろがった一つの原因がありはしないかと思うのです。
- 関嘉彦
僕は宗教に全然関係がないというのではないけれども、マルクス主義が日本に入ってくる社会的な条件は猪木君がいった通りだと思う。しかしそれ以外に日本人は精神的構造という点からいうと個人主義の伝統がない。宗教改革されたキリスト教、これがその後カトリックの国においても影響を与えている、そういった宗教改革されたキリスト教の考え方から生まれる個人生義の考え方、一人の個人として妻も子供も全然別々だ、そういった意味の厳しい個人主義の考え方というものは日本にはないのではないか。そういうことが一つ権威主義的な付和雷同関係になってくる。コンフォーミズム(劃一主義)になってくる。集団の中に溶けこんでくるような考えがある。もう一つはやはり科学的な訓練をへてない。どうも日本では明治時代に厳密な社会科学的な研究をすることが許されなかった。政治学とか経済学というような訓練が非常に欠けている。科学が未発達な国におけるほどある意味において科学万能の考え方が非常に強い。科学の限界を知らないで科学によってすべてを解決しうるという考え方が非常に強い。一元論的な説明を与える自然科学的思惟が社会問題についても科学的な解決を与えるのだというふうな考え方が、科学の未発達な国においては、どうも受けいれられる。そのことが、社会科学の領域で、ニセ科学であるところのマルクス主義がインテリに非常に受けいれられている原因だ。それに補足して述べると、一つは、儒教の伝統である聖典の解釈のみに終始する訓詁学的学問、そういったような学問の伝統を受けいれている。そのため日本のマルクス主義は解釈のみで独創的な意見を出していない。
もう一つは第一次大戦以後ほとんど国立大学の先生たちがドイツに行った。マルクが安かったものだからいま、五、六十歳以上の官立大学の教授は、大部分の人がドイツに行って勉強してきて、ほとんどドイツのマルクス主義のそれをそのままうのみにしてやっている。それを官立大学という非常に権威あるところから論ずる。そのことが相当の影響を与えている。
渡名喜氏掲示板へ仮名遣意見に関する寸感書付けしまでのところへ絡んで来ずば激する必要もなかりしが言痛くむなむなし。等ととぼけて見せるし。盜人猛々しい。波江の「論理」は、典型的なスパマーの「論理」で自己中心的なものだ。
絶滅危惧種で「ない」としたら、わざわざ運動して正かなの復活を主張する必要など無いではないか。必然的に正かなが復活するものであるのならば、わざわざ正かなを使ふやうに仕向けるとか、そんな波江のしてゐるやうな事だつてする必要はあるまい。「いろはもどき」がいづれ必ず一般化するものであるならば、波江が宣傳しなくたつて、勝手に「いろはもどき」は世間に滲透するものだらう。波江は宣傳を何でやつてゐるのだらう。「『いろはもどき』が今、絶滅危惧種だから」にほかならないのではないかね。
知と知的とは本物と似て非なるものとくらゐの径庭があるのだよ野暮嵜君。
和歌俳句といふ未然なる撫象の詩形の呪縛から脱却し切れぬ発想の中では、いはば馬と鹿との識別も困難であらうが。
いづれにしても僕は毒を以て毒を制すべき劇物であるから本当はこの役割を少しはましな人間にやつてもらひたかつたが、歴史を重ね文雅に疎からぬ家系環境ととのつた家いくらもあるに、そんなもの微塵もない環境に育つた小生の靴の紐を解く値打ちもないやうないかれた代物しか出来ず、インチキかなころがしに媚びて悟らぬとはつくづく情けないとはおもふ。
以後は日記の中で。
知と知的とは云々は、日記からの轉載だつたらしい。例によつて迷惑行爲。
はて野暮嵜はどこをどう指摘せる積りなるかとんと覚えなし。
いま少し成長するを得しならばその答へは小生の作例に既に織り込まれゐることおぼろげになりとも悟るところあるべし。
正しき省察と自覚の裏打ち無しに人の歌心を云々するは笑止の極みなり。
器を知り得ての心なり。
心のあるがままの開放に急にしてかなころがしの罠に嵌りて身動きとれずゐるが国語の状況なり。
言葉にとりてのあるがままといふ楯の半面を置き忘れゐしつけは溜りゐる。
その負債を一挙に償却しゆく効能を小生の一連の業績として世が見逃すはすなはち日本語の本質をとり逃がすことと知るべし。
理屈の説得にまして国語の原設計とその理念を論より証拠と提示する創造的再興こそが以後の日本文明を導く上策なり。
証拠だよ。どうして波江は自分の「いろはもどき」が屑だと判らないんだよ。
生は正かなに「戻す」為に運動しゐるにはあらず。国語を再創造する為にこそ然しゐる。
再創造等する必要がないんだよ。それは國語の破壞にほかならない。波江は、表音主義者に反對してゐるが、實は表音主義者と同樣に、國語を破壞したいのだ。波江はただ表音主義者の國語を破壞する方法が氣に入らないに過ぎない。俺はありのまゝの國語を守るべきだと信じてゐる。
改竄せられたるは文藝者一般正しくその器にかなひたる用法を見出し得ざりしによるのみ。
かなころがし導入より今日までの六十年間とは、小生の自覚と発見によりて日本語が輝かしき再生に到るまでの一時の気の迷ひたりしと後世の輿論は一致すべし。
紅葉下界へと 降り居しるき頃 危ぶむ目搖らに 仄湧く瀬差す日 榮えぬ世を打たん 杖ぞ撫で寝まれ
戦後日本の失った最大なるものが国家の意識であると私は言ったが、この国家意識の喪失とはとりもなおさず真の自己認識の喪失に他ならぬものである。そして真の自己意識とは正しい自己認識の上にのみ成立する。それを欠く時、その自己意識は自己の他者への依存には気付かず、もっぱら被害者意識をもって自己の利益の妨げになるものを非難する。
1日4桁の読者を恒常的に得るようになってからというもの、云々。
母に毒盛れる少女のことをだに 聞き居て安からぬ思ひするかな 銀杏色づく空を降り居悩む夢 猫我をまじまじみつめ冷え冴えん 室邊頬寄せ拔け寝ん朝べ 醉ふ身故泡浮けその血手折り
自分も母に毒盛りゐし異ならぬ形に母を死なしめてしまつたのかと忸怩たるところありまして。さもありなん。自分に似たものに波江は親近感を覺えたのだらう。波江も「いろはもどき」で、自分を生ぜしめた日本國を滅ぼさうとしてゐるのである。
和歌をよもうとするみやびの心。歌を作ったり、鑑賞したりする事についての素養。波江に素養なんてものはこれつぽつちもないぢやん。
著作者の情報に尊敬する人を三人書いているが、先程見直してみたら、全員現代かなづかいに反対していた事が分かった。書いた時は気付いていなかったが、学校では教えてくれない日本語の秘密を読んでいて気が付いた。
小生の著書は二冊を除きてすべて手澤本なるが、しかもこの平成の御世にあたりて著書といふべき唯一の詩歌文藝書なり。考へても見よ。かなころがしが一朝違反として片隅に追ひやらるるに至れる期に(そはいづれ歴史の必然なるが)今小生がなしつつある如く己が正統を確信し力を致してこれの普及公布に努めんと孜孜と励み得るものありや。
詩歌文藝だよ。正統だなんてとんでもない、邪道も邪道。「言葉遊び」なのだから邪道に決つてゐる。「いろもの」だよ。流石は「いろ派」。
藩屏なく詔下し得ぬ朝に皇子もなきを危ぶむ天 晴れ冴えし空にも居むをかぎろへる 夕かげさすや代々の大海 愛植ゑつ常生ひ分けり練れる地を 通す魔故舞ひ散らせぬ圍炉裏
やまとうたをからえびすうたによみかへてかたみのすかたあきらめあはむ、なる非「いろはもどき」の歌をサイトに載せてゐて、これが「か」の音の繰返しで效果を擧げるべく作られてゐる事は明かなのだが、さう云ふ效果を擧げる事が出來ない事が判り切つてゐる「いろはもどき」が「歌」であるとは何なのだらう。日本の表音主義者が有難がる祖師ソシュールは晩年、アナグラムの研究に熱中したさうである。
野暮嵜如き者に正字正かなの校訂依頼したりなどするゆゑに、と言つてゐるが、野嵜が校訂したら
朗報を得る事が出來ないに決つてゐるのか? ならば波江は必然的な理由を示し玉へ。示せないならばそれは理窟ではない。理窟ではなく罵倒であるならば、波江は俺に謝罪し玉へ。「いろはもどき」の人間は、自分の誤も認識出來ず、謝罪も出來ない片端なのか? 「ゆゑに」と言へば理窟になると思つたら大間違ひだ。さて、野嵜に校訂を
依頼したのは若合さんであり、校訂を依頼した「責任」は若合さんにあるのではないか。ならば、波江は野嵜ともども若合さんまでまとめて罵つてゐる事になる。なぜ其處に波江は想到しないのか。
腹立たしければ岡田俊之輔氏掲示板に野暮嵜へのお尋ね書き書き込み置く。
万民平等と言ひたければ、波江究一は恰も「俺樣が一番偉いのだぞ」と言はん許りの高慢な態度をとるのは止め玉へ。
語に於て声の大きい所を独占して定着してしまつて居るインチキかなころがしを非難する波江が、他所の掲示板で「大きな聲」となり、其處の書込みを獨占し、定着してしまつてゐる事があるのは何? 「他人が獨占するのは許せないが、自分は獨占したい」――それが波江の本音か? さもありなん。
いつまで決まり文句のケチつけて居る気なものか。早稲田OB諸君かかる者を恥と思はねば早稲田の将来はないね。
それと学識ある諸君やら詩歌壇にて名を得てをられる方新進大家素人を問はず私の開発した「字数歌」はまづ試みておくこと。さなくば日本文化の未来はない。作りて小生のブログに書き込む者あらば添削してやらんでもないぞ。
決まり文句を波江は最う何十年も言ひ續けてゐるのである。何時まで決り文句を言ひ續ける氣なのか。
和語の語彙語脈味到の能力にかけて野暮嵜が「大失敗」をしでかしてしかも滑稽なことに一向それに気づかずに居るといふところなり。
参加する文藝といふ基本性格をわきまへずして、自ら実作を試みることもなくして批評の高みにをらうとする態度は自慰にふける類として絶えず己をカリカチュアにしゐる愚挙と悟る日はつひになからむや。
参加する文藝等と云ふ性格を持たない。波江の場合は、文脈を考へず、何でもかんでも自分の大好きな
参加する文藝なる概念に引附けて話をしようとしてゐるだけである。「空氣を讀めない」波江には、個別のものを正當に認識する能力が缺けてゐる。半可通も糞もない、波江こそものを知らないのである。何年生きてゐるのだらうか。
同年生まれの「ホリエモン」の爪の垢でも煎じて呑めとでもいひたきところ。と言つてゐるが、「ホリエモン」の爪の垢を煎じて呑んだら何うなると言ふのだらうか。波江は適當に知つてゐる有名人の名前を引合ひに出して野嵜を罵つてゐるに過ぎない。半可通とは誰の事であらうか。波江自身である。
言語に内在する規則性とそれに伴ふ制約を自覚的に発見かつ之を駆使しつつ行はるる叙事叙情が詩といふものなり。
漫然たる行分け文もてほどほどの感動を伝え得たればとて之を「詩」称して足れりとしゐる間は国語問題は百年河清を待つがごとき状態にとどまりをらむ。
漫然たる行分け云々と繰返し言つてゐるが、日本語の詩歌の傳統には、和歌俳句の他に漢詩の系列もある。まあ、かう云ふ事を書くと、條件反射的に波江は漢詩を否定しにかかるだらうが、何うもさうやつて波江はどんどん自分の世界を狹めて來たものらしい。依怙地な人間と云ふのには困つたものだ。
人を書き込み禁止に処して置きながら、自分は当の禁止処置者のブログに書き込み放題といふ神経が問題なり。
正字正かななりいろはといふ器の調律の仕方も知らぬまま妄りにわかつた風な口利きも笑止なり。
「同じ語句が頻出」云々の指摘も所詮わかつた風の小賢しき短慮なり。「ゐゑろわ」等和語に於ける語彙例少なければ然なるは当然にして、かかる制約を逆に活用していかほどの範囲を叙情し描写し得るものなりやの実験をしゐるまでなり。
これ更に笑止にしてかかる例を幼児症的とはいはずや。渡名喜氏の掲示板へははかなごとの記事見つつつれづにひらめいたところをはかなごとにまづ書き込み渡名喜氏の下へもご参考までに追記せしなり。
つれづれにひらめいたと言つてゐるが、波江は自分のサイトの宣傳をしてゐるではないか。波江は、他人の掲示板に書込む時、常に自分のサイトの宣傳をしてゐる。宣傳宣傳また宣傳と云ふ神經が問題なり。寧ろ無神經が問題なり。波江の「波」は、寄せては返す波のやうに何度も何度も繰返し自分のサイトを宣傳する厚顔無恥な波江の行爲を象徴してゐるのではないか。しつつこいのにも程がある。何一つまともな事を言はず、誰が何う見ても「たかが言葉遊び」でしかない「いろはもどき」の「歌もどき」をしつこく押附け、反論されれば恨んで感情的に罵倒する――こんな波江は、ウェブではただの迷惑なおつさんに過ぎない。
言葉に弄ばれないやうにする為にも心がけて言葉を存分に遊ばせてやることが必要だといつて居るわけでして云々。
荒らし放題なのだと。
まずこの部分ですが、成程、ようするに憲法の「文章」だけを問題にしていた質問だったわけですか?
次に憲法と言うよりも「法」の話ですが、繰り返しになりますけれど私は「法の起源は政治的な権力であるが、しかし法の根拠となるのは正義の観念でなければならない」といっているわけです。政治的な闘争というのは戦争や革命だけではなく選挙や国民投票なども含みます。
政治的な闘争と云ふ用語、これに私は「意味のコア」を見出す事が出來ないでゐます。
政治的な闘争と言へば、物部氏と蘇我氏の爭ひや、戰國時代の武將同士の爭ひ、或は三銃士に出て來るやうな陰謀、自民党内部の權力鬪爭、さう云つた「爭ひ」ならばイメージ出來る。けれども
選挙や国民投票なども含みますと言はれると、「ちよつとマテ」と言ひたくなる。社會學か何かの用語法かも知れないですけれども、文學的な私には違和感を覺える用語法です。一つの用語で無闇に廣い範圍をカヴァするのは、何うも「聯想ゲーム」みたいに「言葉」で故事つけて話を繋げて行くやうで、そこに胡麻かしが這入り込む隙はないのか。
「権力(政治的闘争の勝者)が法を定める」とは言へなくなります。「日本国憲法」の解釋において、憲法の存在意義は「『法律を制定して國民を統治する爲政者』の專横を防ぐ爲のものである」とされます。實際、「日本国憲法」を遵守する義務は公務員にのみ「ある」事になつてゐます。(
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。)と言ふか、權力者が國民を統治する爲に制定する「法律」と、「法律の法律」として「法律」の制定を制約して權力の專横を防止する使命を持つ「憲法」とは、區別されるものであり、一概に論ずる事が出來ません。本質的に憲法は、
国家権力を制限し、国民の自由を保障しようとするものです。
また、法の執行者(裁判官や官吏など)は運用によって悪法に抵抗して良いと考えます。