闇黒日記


平成十七年十一月三十日
クラスターエッジが凄過ぎる。
見なくていい。
平成十七年十一月三十日
Alertbox: アクセシビリティだけでは不十分(2005年11月21日)
なのだと。
平成十七年十一月三十日
FAQ。
Q
旧字旧かな読めません!
A
あんた略字略かなで書かれてゐても日本語の文章まともに讀めないんでせう?
Qが質問になつてゐなくてAが質問であるのは氣にしない。
平成十七年十一月三十日
窓の杜 - 【NEWS】独自エンジンを搭載したフリーの日本語OCRソフト「SmartOCR Lite Edition」
平成十七年十一月三十日
本日の買物。和辻哲郎『ポリス的人間の倫理學』。田村書店の百圓均一にて。

平成十七年十一月二十九日
便所の窗から外を見たら青い光や赤い光がちらちらぴかぴかしてゐて、ぎよつとした。
おとなりのうちがクリスマスツリーをおもてに飾つてゐた。豆電球が點いたり消えたり。創価の人もクリスマスを御祝ひするんだね。
平成十七年十一月二十九日
http://zarame.com/zide/diary/20051128.html#p01
平成十七年十一月二十九日
$sys$大和但馬屋日記 - 朝焼けの
畫像がボトムズOpの御終ひのところに見えた。
平成十七年十一月二十九日
「闇黒日記」はブログでなく反時代的と言ふか超時代的な何かなので世間の大きな話題については出來るだけスルーしておかうと思ふ。云々。
平成十七年十一月二十九日
お笑いパソコン日誌 2005/11/29 PM 5:11 「最近のトホホ・DVD-RAM 認識不調」
最近のパナソニックのDVD-RAMだつたら、少し前のドライヴではまともに扱へないみたい(?)。うちのRD-XS40でも二十枚中十五枚で書込みエラーとかそんな事あつたし。マクセルのDVD-RAMでは大丈夫でした。
平成十七年十一月二十九日
XMLにおいてマーク附けは、それ自體として重要なものでないし、ただ正確かつ汎用的でありさへすれば良い。何しろ、スタイルシートなり何なりでマーク附けは變更出來る訣で、と言ふより、データ形式を變更されても中身のデータが生殘ると言ふか意味も含めて正確に傳達される事がXMLのデータの存在意義。となると、XMLのデータは「XMLのデータ」として正確であるだけで十分。それで互換性も何も問題ない。が、さう云ふ正確なデータとして「ある」爲には、所謂「手書き」のやうなあやふやな方法で生成されてはならないだらう。「絶對やつてはいけない」とは言はないけれども、何時如何なる場合にもエラーを出さないで正確にデータを作るなんて、それは人がやつたら「職人技」、プログラム的にやる方が良いだらうと思ふ。プログラムは、最初に正確な手順さへプログラミングされてゐれば、何時でも一定のクオリティで完全なデータを生成する。何時でも一定のクオリティで完全であるべきXMLデータの生成には、プログラムで「やる」方が向いてゐる。
御互ひ同じ「語彙」を持つてゐるのならDTDだの何だのはナシで良い。DTDを書いておくなり何なりすれば、知らないプログラム同士でも、自分の「語彙」を傳へれば、相手もきちんと自分の「語彙」で理解できる。さう云ふ風にXMLは出來てゐる。形式がバンバン變換されて行つても、内容は變らないまゝ傳はる。だから、XMLにおいてマーク附けは「使ひ捨て」だと。別に貶める積りはなくて、そのくらゐ「氣輕」に使へるやうなものとしてXMLは考へられてゐるのではないかと。ただ、「氣輕」にやるのだつたら、「正確」である事が常に容易に達成されなければならないが、それには人の手入力よりはプログラムによる生成の方が便利だらうと。
XHTMLの存在意義は? 現行のXTHML 1.0にしても1.1にしても、それをそのまゝ利用するのは大して意味がないのではないか。XMLとしてサーヴァから送出するのであれば、XHTMLなる形式を守る必然性は無くて、獨自のXMLでスタイルシートをかましてブラウザが表示出來るやうにしておいても良い筈。モジュール化されたXHTMLの部品は、好きなやうに取捨選擇して、自分に都合の良い形式のXMLのデータを作るのに利用して良い。それならXMLを使ふ意味がある。XHTML 1.0とか1.1とかを「そのまゝ使ふ」事に必然的な理由があるのか。なぜXMLでなくてXHTMLなのか。「HTMLしか理解しないブラウザがある」と言ふのならば、その時にはサーヴァでXMLのデータを整形してHTMLにすれば良い。サーヴァにその種の能力が無い場合――さう云ふ場合にXMLのメリットは活かせるのか。
「これからはXMLの時代だ!」「だから何でもかんでもXMLのデータにしなければならない!」みたいな安易な發想で「XMLに移行した」と云ふ人は、案外少くないやうに思はれる。
それに、XMLであるXHTMLを受取つた側が、そのデータをXMLらしく別の形に整形して利用する、なんて事は現状、「ある」のだらうか。さう云ふ事を出來るウェブ閲覽プログラムは、どれだけ「ある」だらうか。Amaya位しか「ない」だらうし、Amaya自體いろいろとアレであると言はれてゐるのは事實。さうなると、XHTMLのデータを用意する、と云ふのは、一體何なのだらう。
「XMLを否定する」とか云つた意圖ではなくて、XMLが何らかの革新であるのならば、何らかの革新的な利用のされ方が「ある」べきだし、それが提案なり何なりされた上で、實際に運用される事が望ましいと、さう言ひたい訣。革新的な理念・觀念を創造し得るXMLが、ただ、從來の「ほーむぺーじ」記述言語のHTMLを、ただ單にXMLで置換へるなんてだけの事に用ゐられてゐるに過ぎないとしたら、それは、全く無意味とは言はないけれども、相當虚しい事だと思ふ。「言換へ」「置換へ」「書換へ」のレヴェルの事を「一生懸命やる」のが、どれだけ虚しい事であるか。進歩なり進化なり革新なりが「ある」としたら、それは全く新しい觀念・理念の想像が「ある」可きであり、單なる既存のものの言換へや書換へで滿足してゐてはならない。国字改革なるものが空しいものである所以を「わからない」人が多い日本では、理解されない主張であるのかも知れないが、敢て言ふ。「既存のものの置換へ」は、何等進歩ではない。進歩であるならば、置換へ・書換への域を越えた價値の創造を含んでゐるべきだ。「ウェブにおけるXML」の價値を信ずる人々に、XHTMLなり何なりによる新たな價値の提案がどれだけ「ある」のかが問題。ウェブのパブリッシングで、「ほーむぺーじ」の類とは違つた、より高い價値のコンテンツの生成が、XMLなりXHTMLなりでどこまで可能か。既存の「ほーむぺーじ」が書換へられて「XHTMLサイト」になつた時、書換へのみに據つて從來以上の價値がそこに突然生ずるとは思はれない。「書換へ」だけでは駄目である事。新たに何らかの價値が生れ得るやうなXMLなりXHTMLなりの活用の方法を提案しなければ、實際、説得力を持つてXMLやXHTMLの採用を既存の「ほーむぺーじ」制作者に要求出來はしないだらう。
平成十七年十一月二十九日
松岡正剛の千夜千冊『「国語」という思想』 イ・ヨンスク

平成十七年十一月二十八日
埴原氏と梅原氏の本に據れば、アイヌも琉球人も東北・關東・北陸・山陰それから九州の眞ん中邊の日本人(周辺部の特徴を示す人たち)も、ルーツは同じ縄文時代人らしいと。九州の一部・四國の一部・山陽・近畿邊に住んでゐる人々が特殊で、實は他の地域の日本人とはちよつと違ふ、朝鮮系の人々の血が入つてゐるのだと。
平成十七年十一月二十八日
「日本人」の範圍・領域は何處迄を言ふのか。日系人・日系移民は日本人か。
在日韓國人が韓國人でないのなら、日系移民も日本人でないのだらう。が、さう云ふ風に單純に考へられるか。云々。
平成十七年十一月二十八日
デジタルデータ。
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2005/11b.html#d28n01
http://gi-samurai.homeip.net/diary/2005/11/28
デジタルデータ。
DIVE(11/27)ぼくがテーブルレイアウトを使はない理由 海百合
デジタルデータ。
http://piro.sakura.ne.jp/latest/blosxom.cgi/system/2005-11-28_broken_ntuserdat.htm
デジタルデータ。デジタルデータの話。とにかくデジタルデータの話。データが「ある」限り、何らかの方法で讀める訣で、それは問題にしないのが俺。アプリケーションの互換性とか何とか、さう云ふ事は「何とかすれば何とかなる」のがデジタルの世界だと理解してゐます。ただ、それは、「何とかなつてゐる」状態――データベースのデータならばぶつ壞れないでちやんと讀書き出來てゐる状態である限り。データベースのデータファイルがぶつ壞れたら、内容をサルベージするのは屡々大變な話になります。場合によつては「全部あの世逝き」になつたり。「纏まつてゐる」のは、便利な側面もあるけれども、便利なのは「壞れてゐない間」だけ。壞れた時何うするか、それが問題だ、と俺は思ふ訣です。DivXにしてもWMVにしても、讀める間は讀めるのでそれは何うとでもなります。讀めなくなつた時――ファイルの一部でも損傷した時、その時、どうするか。DivXの動畫なんか、本の僅かな損傷でも、ブロックノイズ出捲り、色化けし捲り、になる訣で、さうなつたら最う救出不可能、と云ふ事態も起り得る。うちの某HDDくん、なんか一箇、クラスタが逝つてゐて、書込めるのに讀込むとデータが壞れてゐる。そんな時、データを何う救出するか。mpeg2ならば、一部が逝つてゐても、それ以外の部分は何とかなります。その點ではmpeg2は安心(或意味)。HTMLにしても、ローカルでは何の形でデータを取つておいても良い、と、さう言つてゐるのは、規格とか實際の運用とかの話で、「うまく動いてゐる間」「データが壞れてゐない間」はそれで良いと。ただ、「ブログ」にしても何にしてもCMSだとデータベースの形で纏められてデータが管理される、それは便利だが、便利なのは動いてゐる間だけだと、壞れないでゐる間だけだと。データが壞れた時、何うするかと。データベースのデータをバックアップする、それは慥かに可能である、バックアップから復舊出來る――本當に出來る? 確實に出來る? テキストでデータが「ある」なら、ばらばらに、個別の記事ごとに「ある」、それは、サイト全體を管理するには面倒だ、けれども、データの確實な保管と云ふ點では樂だらう。最初からデータが個別にある、一緒に纏められてゐない、ならば、纏められたデータが纏めて逝くよりは、まだ「安全」だらうと。少くとも、何らかの方法で「壞れたデータから意味のあるデータをサルベージして何とか救ひ出す」よりは、意味のあるデータが「ある」方が、そのまゝ使へる訣で「簡單」だらうと。
「使ひ捨てるデータとしてのXML」は、さう云ふものだらうと思つてゐるだけでして、「貶める」とかさう云ふ意圖はありません。と言ふより、實際、そんな風なデータ交換の爲の「中間ファイル」としての使はれ方がXMLの本質なのではないかと。「どうせ中間で使はれるのだから最初からXMLにしておかう」と云ふのは、寧ろ「あとから出て來た發想」のやうな氣がします。
あと、MAGとかMAKIとかPCXとかPiとかPICとかQ4とか、さう云つた懐かしい形式の畫像データを讀めるビューア、WindowsにならGVと云ふのがあります。
Tobita's HomePage
Macintoshで全部なんとかするんだとなると嚴しいのかも知れませんが。と言ふか、いざとなつたら昔のPC-9800とかEPSONの互換機とかを引張り出して來れば云々。なんかうちではいまだにPC-286が現役。HDDもついてない。5インチフロッピーディスクは先日大量に確保したから當面大丈夫。閑話休題。
「HTMLで十分ではないか」と言ふとXML派の人から猛反發を喰らひさうだけれども、「マーク附け」の考へ方から言つて現状のXHTMLとHTMLとではどちらが全うか――XML派の人に言はせればXHTML以外の撰擇肢はあり得ないのかも知れないが、否、寧ろHTMLだらうと俺は言ふ。と言ふのは、今のXHTMLは、XHTML 1.0とか1.1とかだけれども、HTML 4.01をXMLとして書換へたものに過ぎないから。空要素のbrなんかが「殘つてゐる」のは、XHTMLの「弱點」だらう。さう云ふものが「自然にある」のはHTMLだと思ふ。もちろん、XML派から見れば、さう云ふ盲腸(蟲垂)みたいなものが「ある」のはHTMLの「弱點」である訣だが、しかしその「弱點」を繼承してゐるのがXHTML 1.0/1.1で、ならばXHTML 1.0/1.1は完全ではない。(餘談だが、さう云ふ「弱點」を克服すべくXHTML 2ではいろいろな案が出てゐるやうなのだけれども、やつぱり露骨な「言換へ」でしかない何か變な要素が提案されてゐるやうで不安)現状、XHTMLがHTMLの書換へでしかないのならば、HTMLで良い。いや、XMLにした方が、他のデータとの整合性もあつて色々よろしい、と云ふ話だけれども、さうなると、ローカルで持つてゐるデータをXHTMLに「する」必然的な理由は全くないでせう、別にXHTMLでなくてXMLであつてもよろしいし、それをスタイルシートでHTMLなりXHTMLなりに「する」のはサーヴァ送出時で問題ない。と言ふか、XHTMLは「書く」ものなのか何うか。XMLになると、「手書き」するものではないやうな氣がする――XMLではエラーが絶對に許されないのだから、プログラムで絶對に間違はないやうにデータを作成するのが筋だらう。さうすると、ローカルのデータは、XHTMLにとらはれる必要がなく、XMLの何らかの形式であつて良いし、それをウェブで發行する際にHTMLなりXHTMLなりに整形すると。XMLは、嚴格な記法であるがゆゑにプログラム的に生成されつゝも、プログラム間では柔軟に運用されるべきものだらう。どうもhead要素の中なんかが、XHTMLの場合は、どうも「お約束」的な空要素扱ひになつてしまひ、「マーク附け」原理主義としては「説明し辛い」。あと、文書の階層構造をきちんと定義してゐる規格がISO/IEC 15445:2000しか存在しない――XHTMLで定義されてゐる規格がない――事も、俺がHTMLを選ぶ理由になつてゐます。規格の何處にも書かれてゐない「divを階層構造を明示する要素と看做す」なんて事を「運用」で「やる」なんてのは何うも「俺定義」的で受容れられない。一往、自分のやつてゐる事を全部理論的に説明出來るのが「ISO/IEC 15445:2000準據の文書でサイトを作る」事だから俺はそれを擇んでゐると。
單純である事。明快である事。理に適つてゐる事。
――といふか、なんかあちこちに話が飛んでゐてわけがわかんないけれども、適當に繋げて讀んで下さい。
書忘れたけれども、なんでCSSかと言へば、俺の場合、一度CSSでデザインを書いておけば、あとは二度と書かなくて濟むから。がんがんテキスト書き捲り垂れ流し。tableレイアウトだとか何だとかは、XMLではないけれども、やつぱり手書きでは無理でせう、GoLoveとかHomepageBuilderとか、GUIのツールを使はなければ書けない。で、ばんばん文章を書き飛ばすのに、そんなツールを一々使つてはゐられない訣。ISO/IEC 15445:2000くらゐなら、秀丸で適當に文章を書いて、見出しだの段落だのだけを適當にマーク附けして、それで「完璧な文書」を簡單に作れてしまふ。これほどサイト更新に都合の良いやり方はない訣だ。秀丸でばんばん書く――これに勝るサイト更新のやり方なんて俺は知らない。CMSなるウェブアプリケーションを使用して、ウェブのフォームから文章を送るだとか、GUIのほーむぺーじ作成ソフトを起動して、文章を打込んで一々レイアウトしてだとか、そんな面倒な事はやつてゐられない。秀丸起動→文章を打込む→FFFTP。これだけで「濟む」やうにサイト生成の仕組を作り上げてゐるのだから、俺はこれでよしなのだ。眠い。

平成十七年十一月二十七日
http://www.fastwave.gr.jp/diarysrv/misuzilla/200511c.html#20051126-4
これは多分WindowsのSetTimer API (WM_TIMER)を使ってるのでしょうね。つて事らしい。
Macintosh(OS X)とWindowsの違ひつて事みたい。
平成十七年十一月二十七日
何か書き留めたいと云ふ衝動が生じた時いつでも使へる――俺にとつての闇黒日記はさう云ふもの。
平成十七年十一月二十七日
宗教と政治
SmartOCR Lite 1.0のテスト。
SmartOCR Lite Edition(WindowsNT/2000/XP/文書作成)
画像処理、活字 OCR の専門家集団スマートリーディング
例によつて新かなのテキストを正かなに飜譯。校正・校訂よろしく御願ひします。
平成十七年十一月二十七日
少し前の讀賣新聞に據れば、蓑蟲すらも今では絶滅危惧種なのだと。

平成十七年十一月二十六日
『アイヌは原日本人か』で埴原氏は、もうひとつは、あとから話がでてくる日本人の成立に関係がある問題ですが、日本人はけっして単一の民族で成り立っているのではないということです。一方日本人はけっして単一民族ではないこともはっきりしている。と繰返し述べてゐる。
平成十七年十一月二十六日
人種とか民族とかが屡々ごつちやになつてゐる。
平成十七年十一月二十六日
何度も繰返し書くけれども「tableレイアウト」と「CSSレイアウト」とは本質的に對立し得ない。tableでレイアウトした積りであつても、結局のところ「ブラウザのデフォルトスタイルシート」を利用したレイアウトであるのだから、「スタイルシートを利用してゐる」事になるからだ。
對立し得る概念は、「見出しレヴェルに基いた文書の構造化を行ふ」事と、「文書の構造を意識しないでただレイアウトの爲のレイアウトを行ふ」事だ。見出しレヴェルを意識した文書の構造化がないならば、レイアウトの手段として採用したのが「ブラウザのスタイルシートに依存したtableレイアウト」か「ブラウザの實裝に依存したCSSレイアウト」かにかかはらず、「レイアウト目的のレイアウト」でしかないのであり、その點で全く同じである。
「tableレイアウト」がなされてゐても、見出しが見出しとして、段落が段落としてマーク附けされてゐるならば、それほどの問題はない。table關係のタグを全部取り去つてもHTML文書として通用するやうな「tableレイアウト」であるならば、それほどの問題はない。
平成十七年十一月二十六日
http://zarame.com/zide/diary/20051124.html#p01(_ [技術系][Web制作] Windows IE JavaScript のタイマーは精度が悪い)
Opera Version 8.51 Build 7712(System : Windows XP)の結果です。
6ms / 1844 / 18.44
8ms / 1828 / 18.28
10ms / 1813 / 18.13
12ms / 1984 / 19.84
14ms / 1578 / 15.78
16ms / 2906 / 29.06
18ms / 3125 / 31.25
20ms / 3125 / 31.25
22ms / 3125 / 31.25
24ms / 3141 / 31.41
26ms / 3141 / 31.41
28ms / 3125 / 31.25
30ms / 3125 / 31.25
32ms / 4640 / 46.4
34ms / 4703 / 47.03
36ms / 4688 / 46.88
38ms / 4687 / 46.87
40ms / 4688 / 46.88
42ms / 4687 / 46.87
44ms / 4704 / 47.04
46ms / 4687 / 46.87
48ms / 6250 / 62.5
50ms / 6250 / 62.5
52ms / 6281 / 62.81
54ms / 6282 / 62.82
56ms / 6265 / 62.65
58ms / 6250 / 62.5
60ms / 6250 / 62.5
IE互換つぽい。下の方の精度が非道いが。
平成十七年十一月二十六日
スポンサード - Weblog
平成十七年十一月二十六日
Archives - Weblog
zarame.com/zide/ 日記
おさんぽさんぽ[ALL]
現實の「ブログ」におけるカテゴライズの例。一般的なウェブサイトのメニューとは何となく雰圍氣が違ふ。「違つて良いのだ、ブログなのだから」と云ふ反論が返つて來さうだけれども、では、「ブログ」は一般的なウェブサイトとは違ふのであり、CMSとして一般的なウェブサイトを作るのには使へない、と云ふ事になるのだらうか。しかし、さうなると、今まで一般的なウェブサイトを作つてゐた人が或日「ブログ」に「乘換へる」なんて事態が起きる、と云ふのは何なのだらうか。
平成十七年十一月二十六日
Excite エキサイト:ブログ(blog)
securecat's exblogのやうに實際に作られてゐる「ブログ」を見ると、内容別に記事を分類してメニューを用意する、と云ふ事が「ない」。トラックバックが打ててコメントが附けられる以外、「ウェブ日記」と何も變らない。
「ウェブ日記」を最近は「ブログ」と「呼ぶやうになつた」と思つてゐる人は、世間に結構ゐるのでないか。

平成十七年十一月二十五日
なんで俺が電信八号なんてメーラを使つてゐるかと言ふと、個別のメールがそれぞれテキストデータで保存されるから。他の多くのメーラが個々のメールを別々に保存しないでメールボックスなるデータベースに一纏めにして保存する――これが何か怖くて。データベースソフトにしてもワープロソフトにしても表計算ソフトにしても、獨自の形式でデータを保存して呉れるものは何うも信用出來ない。保存してもふとした拍子にデータベースがぶつ壞れて修復出來なくなるんでないかと。CMSがSQLとかのデータベースとしてデータを保管するのは怖いやうに感じる。
平成十七年十一月二十五日
HTMLなんてものは、ネットワーク越しにデータを交換する際にだけ用ゐられれば良いファイル形式で、ローカルの環境ではアプリケーション依存のデータで持つてゐても全然問題はない。で、データ交換において、もつといろいろな目的で使へるやうなファイル形式としてXMLは作られてゐる。XMLになると、最う手動で生成するものではないし、直接人間が讀むものでもない。動畫のストリームデータを制御するのにXMLが利用される時、そのXMLのデータはただその場その場でプログラム同士が情報のやり取りをするのに「使ひ捨て」にするデータでしかない。ただ、XMLである爲に、クライアントとなるムーヴィプレイヤーは、特に限定されず、互換性のあるプログラムならば何でも良いと云ふ事になる。XMLに據る恩典は「ある」。或は、A病院の處方箋をB藥局に轉送する際、XMLのデータが渡るとする。この時、A病院でデータベースがAccessで、B藥局がFileMakerProであつても構はない。XMLは、データを渡すのに便利なファイル形式である。XMLデータは、データを交換する際に用ゐられ、すぐに捨てられるデータである。が、かうして「使ひ捨てるデータ」としてのXMLは、嘗ての「ハイパーテキスト」と懸離れた存在となつてしまつてゐる。それで當然ながらXMLからはHypertextなる文言が拔け落ちてゐる訣だけれども、さう云ふXMLの應用としてのXHTMLとは何かと云ふ問題があるし、XMLの應用としてのXHTMLしかあり得ないかと云ふ問題もある。
平成十七年十一月二十五日
「ソーシャルネットワーキング」と云ふ用語。コンピュータとコンピュータを繋ぐのも、人と人とを繋ぐのも、「同じネットワークだ!」と云ふのだけれども、何だかなーと思ふ。
平成十七年十一月二十五日
讀賣新聞朝刊「編集手帳」子曰、祈りを基調とする象徴天皇制が国民の間に根をおろしていく歳月のなかで、女性天皇を受け入れる土壌も生まれたのだろう。何時の間にそんなものが生れたのか知らないが、「何時の間にか何かが出來てしまふ社會」は、恐ろしいものではないのだらうか。日本人はそれを「良い!」と思つてゐるらしいが。
今になつて繼嗣のルールを變へるのは「良い」と思つてゐる人が多いらしいのだが、さうやつてルールを變へると、あとで「ルール違反」と云ふ批判が必然的に生ずる。しかし、その時の混亂を考へず、「良い」と思つた事を「趨勢」の力を頼みにごり押しして通すのが日本人。混亂が起きると、「混亂を起す方が惡い、逆コース!」みたいな言ひ方で徹底的に反論を封じようとする。
平成十七年十一月二十五日
讀賣新聞朝刊によると、同紙会長・主筆の渡辺恒雄が「国立追悼施設を考える会」(山崎拓会長)なる團體の勉強會で、現在の靖国神社のあり方に疑問を持っている。歴史認識を間違えさせる施設が(靖国神社の)遊就館だ。社務所の出版物も戦争責任の反省があった上で戦没者に追悼の意を表する趣旨がない。『A級戦犯はぬれぎぬを着せられた』というようなことが書いてあり、納得できない小泉(首相)さんは戦争体験はないだろうが、まじめな歴史研究を重ねて想像力をめぐらせば正しい判断ができる(戦争責任に関し)身ぎれいにして、外国にものが言えるような立場にならなければならない。時間がかかるだろうから、とりあえずは中立的な無宗教の国立追悼・平和記念碑の建設を決定していただきたい、等と述べたと云ふ。
渡辺は、いかにも現代の日本人らしい考へ方をしてゐて、「あの戰爭は惡かつた」と信じ込んでをり、「あの戰爭の事を反省しなければ、日本人はものを言ふ權利を持たない」と勘違ひしてゐる。餘りにも偏つた世間の風潮に靖國神社が抵抗してゐれば、風潮に從はない靖國神社は惡いと極附ける。「A級戦犯」については渡辺も世間と同樣の勘違ひをしてをり、犯罪者でも何でもないものを犯罪者だと信じ込んでゐる。國際法的に『東京裁判』は無效に決つてゐるから『A級戰犯』は國際法的に犯罪者でないし、假にそれが有效であるとしても、國内法で「A級戰犯」は裁かれてをらず、國内法的に「A級戰犯」は有罪ではなく、國内法的に犯罪者でない。「A級戰犯」をナベツネは「犯罪者である」と看做してゐるが、さう看做さなければならない確實な根據は何一つ存在しない。さう云ふ「A級戰犯」を祀つた靖國神社に參拜する小泉首相その他の日本人の行動を、絶對的な惡として糺彈すべき絶對確實な根據は、この世に存在しない。ならば、個人的な意見として控へ目に「參拜しないのは何うか」と提言するのが、靖國參拜反對者にとつて可能な唯一の事だが、彼等は常に居丈高に參拜する人間に説教する。ナベツネもまた、「自分は絶對に搖るぐ事のない眞實を述べてゐるのだ」と傲慢にも言放ち、小泉首相をまるで赤ん坊のやうに扱つてゐる。中立で無宗教の追悼施設などナンセンスであり、信仰心のない追悼なんてものがあつたものでない事は明かだが、日本人は屡々そんな馬鹿馬鹿しいものが存在可能だと信じ込んでをり、「無宗教教」みたいな宗教でも存在するかのやうだ。信仰心拔きの「追悼」なんてものは所詮、今生きてゐる人間の爲の功利的な行爲に過ぎない。實際、前田氏が述べてゐる通り、靖國に參拜しないのは、外交で有利に物事を運ぶと云ふ「日本の國益」の爲の功利的な手段でしかない。
ナベツネの發言を裏返して解釋すれば、中立的・無宗教の「追悼」施設なるものは、日本が自らを「身ぎれい」であるかのやうに見せかけ、對外的に有利に事を運べるやうにする爲のカムフラージュに必要なものである。土臺、「國益」が大事なのであるから、「追悼」なんて言つたつて、死んだ人間への敬意なんてものが存在する事はあり得ない。中立・無宗教の「追悼」施設が出來れば、日本人は「反省」「反省」と言つて反省した振りをしつゝ、却つて自らの利益の爲に高飛車に振舞ふやうになるのが落ちである。
――かの大東亞戰爭が帝國主義戰爭であり自國の利益追求が最大の目的であつた事を省みる時、我々は再び、方法は違へど、目的が同じ行爲を繰返さうとしてゐる事に愕然とすべきである。我々日本人は、無宗教の國民であつたのであり、ただ利益追求に血道を上げる國民であつたのであるが、その結果としてあの「大東亞戰爭の悲劇」が生じたと言つて良い。その「反省」が再び利益追求を齎すものであるならば、何と虚しい「反省」であらう。ところが今の日本人は「反省」の美名に醉つてゐる。「あの頃」と何も變らない。
ナベツネは「戰後民主主義に陷つた糞左翼」だと罵倒して良い。だが、實際には、少くない日本國民がナベツネ竝の考へしか持つてゐない。ナベツネも大多數の日本人も左である。そして、主筆からして左の讀賣新聞が、保守的な言論も載せるけれども、屡々左翼的な平和主義を宣傳する「曖昧な新聞」である事は、覺えておいて良い事だ。右派は朝日・毎日をもつぱら叩き、相對的に讀賣を持上る事が多いのだが、讀賣も大して立派な新聞ではない。
平成十七年十一月二十五日
「あの戰爭」で日本人は戰つて利益を得ようとした。その戰爭は敗戰に終つた。「反省」した日本人は、では「戰はないで利益を得ようとすれば良いのだ」と勘違ひした。その結果、千九百八十年代以來、歐米諸國との間に貿易摩擦が生じたのだが、未だに日本人は勘違ひを勘違ひと自覺出來てゐない。「あの戰爭」における日本の最大の失敗は、自らに正義が無かつた事だ。
西尾幹二がナチスと大日本帝國とを比較する本を出したらしいが讀んでゐない。けれども、どうせろくな事を書いてゐないに違ひないと思ふ。西尾に正義の觀念はないからだ。
ヒットラーは惡いか。「惡い」と日本人は誰もが答へるだらう。答へないのは餘程のファシストであるが、日本のファシストに頭の良い奴は一人もゐない。それは兔も角、ユダヤ人評論家スタイナーはヒットラーを主人公に小説を書いて、主人公ヒットラーに辯明をさせてゐる。そこでスタイナーはヒットラーにヒットラーの正義を説明させる。日本人は「ヒットラーの辯明」を「ヒットラーの行爲」を理由に最初から否定するだらう。しかし、さう云ふ日本人の態度こそ問題である。「行爲」の外見さへ良ければ、正義のない行動を取つて良いものなのか。俺は「良くない」と考へる。ユダヤ人はナチズムを嫌つてゐるだらうし、ドイツ人その他の歐米人もナチズムを忌むべきものと考へてゐるだらうが、ユダヤ人のスタイナーはナチズムの指導者ヒットラーの正義を指摘した。それは、一面ではナチズムの正義にも魅力が「ある」事の指摘であるが、他面では歐米人が正義の存在を何うしても無視出來ない事の指摘である。ナチズムが狂氣のイデオロギーであつたとしても、狂人には一種の論理がある。ナチズムにも氣狂ひじみた論理が存在し、それは強力なものである。歐米の文化は、強力な論理の構成と、自らの正當化を發達させて來た。歐米人がナチズムを自らの文化の生んだ鬼子として認め、自らの物として反省し得る所以である。が、さうした反省にもかかはらず、歐米人が正義と論理に基いた價値判斷を棄てる事は出來ない。だからこそ「生き方」としてそれらは彼等に定着してゐると言へる。我々日本人が彼等と附合つて行く時、我々の文化としての非論理性は彼等から決して許されない。それを考へると、我々がすべきなのは、利益追求の方法の反省ではなく、利益追求そのものの反省である筈である。我々は、單なる物質的な利益の域を越えた精神的價値の追求をこそ、改めて意識しなければならない――假に日本人が無宗教の國民であるとしても。
平成十七年十一月二十五日
「今日××の記事を書いた」と報告だけして記事を公開しないのは、「工事中」の看板を出してゐるのと似たやうなものである。
平成十七年十一月二十五日
東京古書會館の趣味展。黒つぽい本が多い、良い氛圍氣の古書展だつた。山田孝雄『神皇正統記述義』(民友社)。和辻哲郎『國民統合の象徴』(勁草書房)。中河與一『日本文藝論』(大日本雄辯會講談社)。田中美知太郎・吉川幸次郎『自由について 儒者の言葉』(筑摩書房・現代日本評論選3)。『東西文化の交流 中村元選集第9卷』(春秋社)。編集解説唐木順三『現代日本思想大系28和辻哲郎』(筑摩書房)。梅原猛・埴原和郎『アイヌは原日本人か』(小学館・小学館創造選書)。『昭和26年度国立国語研究所年報3』(国立国語研究所)。国立国語研究所『国立国語研究所報告20 同音語の研究』(秀英出版)。
平成十七年十一月二十五日
梅原猛・埴原和郎『アイヌは原日本人か』「はじめに」(梅原猛)

埴原氏を私が知ったのは、そんなに古いことではない。古いことではないというより、つい一年ほど前のことである。というのは、私は三年ほど前から、日本語とアイヌ語、あるいは日本文化とアイヌ文化は、深い関係をもった言語、文化ではないかという疑問をもっていたが、通説では、日本人とアイヌは、まったく別な人種であり、したがって、言語や文化が人種と密接不可分に結びついているとすれば、この関係は、その根柢において成りたたないとされていた。

アイヌはモンゴロイド、すなわち黄色人種ではなく、コーカソイド、白人である。あるいは白人ではないにしても、日本人とはまったくちがった人種であるという考えが、今なお、日本人の常識になっている。

はたしていったいそうなのか。私は言語と文化において、どうしても同一性を認めなくてはならないと思ったが、もし自然人類学的に日本人とアイヌがまったくちがった人種であるならば、私の仮説も成り立たないのではないかと思っていた。

そしてその疑問を解くためにいくつかの本を読んだ結果、埴原氏が山口敏氏や尾本恵市氏とともに、このアイヌ異民族説にたいして、別の考えをもっておられることを知った。それであるシンポジウムに埴原氏をおよびしたところ、埴原氏は、はっきり自説を語られた。私が埴原氏に親密感を感じたのは、氏の説が私の疑問を解くことに役だったことにもよるが、真理にたいしてきわめて大胆である埴原氏の人格に魅せられたからである。その時以来、氏とは十年来の知己のような親交を結ぶことになった。

そして一度、とっくり埴原氏の説を聞いてみたいと思って行ったのが、この対談である。

梅原氏らに據れば、アイヌは原日本人であり、和人以上に日本人であるのださうだが? 『日本人とは何か 天城シンポジウム 民族の起源を求めて』に内容が收められたシンポジウムで、梅原猛氏が思ひ附きのやうな形でアイヌと日本人との關係を指摘した時には、大野晋氏にやつつけられてゐたけれども。何うよ。
闇黒日記平成十七年一月二十八日
平成十七年十一月二十五日
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平成十七年十一月二十四日
小川図書でエルンスト・ライズィ著・鈴木孝夫譯『意味と構造』(研究社)と市川三喜『古代中世英語初歩』(研究社)を買つて來た。表の安賣り本。
平成十七年十一月二十四日
Amazon.co.jp:意味と構造講談社学術文庫: 本
文庫で再刊されて、また入手困難になつてゐる模樣。
平成十七年十一月二十四日
『意味と構造』冒頭より。

語は言語のもっとも重要な要素である。語に比べれば、音も文もそれほどの重要性を持ってはいない。幼児がはじめて言葉をしゃべろうとしているのを我々が見る場合に、子供が何かしら語を発した時に「それしゃべったぞ」と言うのが普通である。つまりしゃべるということは、まず第一に語を使用するということである。同じことが外国語学習の際にも言える。ある外国語をしゃべるということは、つまりその国語の語を正しく使い、また理解することなのである。たとえ私が英語のすべてのを正確に再現することができても、もし私が語を知らなかったり、ないしは正しく使えなかった時には、英語で私の言いたいことをわからせることはできないのである。またさらに、あまり現実にはありそうな事とも思えないが、私が英語の文章構造の規則をあますところなく知っていて、しかも語だけは自由に使えないというような時でも、やはり私は人の使う英語を理解したり、英語で自分の言いたいことを言うことはできない。

平成十七年十一月二十四日
『意味と構造』4〜5ページより。

一般にきわめて数多くの現象を対象とする記述的な学問は、まずその対象を概念的に把握すべく努めるべきである。このことはほとんど無限の対象が、できるだけ剰余少なくあてはまるような一定数のタイプないし範疇を実証的に、相似性の観点に立ちながら導き出すことによってなされる。この種の効果的な分類法の実例は、リンネが定めた動植物の分類体系であり、またゲーテが「ハウアドの記念碑」なる詩においてその精神的な意義を賞揚しているハウアドの雲の分類もまたそうであろう。

語に関してもすでにこのような体系的分類の基準は色々とできている。もっとも普通なものは音的形態による分類であろう。これは、語を語幹と語尾変化の型によって区別するものであり、また最近ではその他の音声的ないし音韻的観点から分類してゆくことも行われている。

しかしながらこれらは皆などれも語の外形だけを問題にしている。ところが今日ではしろうとこそまだ語というものが音的なものだけからできていると考えてはいるが、語が音的形態のみでできていると本気で思っている学者はまずいないのである。すべての語は音的形態のほかに、Bedeutung(意義),Sinn(意味),ないしInhalt(内容)と呼ばれるものから成り立っているのだ。約半世紀このかたBedeutungslehre(意味学)とかSemantik(意味論)とかSemasiologie(記号学)というようなものが取り扱っているのは、ほかならぬこの音でない、語のもうひとつの要素なのである。この学問は言語学の他のすべての部門と違って、はじめから記述的(共時的)ではなく歴史的(通時的)な学問として成立し、現在でも個々の語に関するかぎりは、ほとんど純粋に通時的なものという性格を変えていないのである。

平成十七年十一月二十四日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051115.html#p01
http://esu.oresama.org/200511c.html#20051123_s5
泥仕合。
Vid Forn氏の最初の發言、何が問題だつたかと言ふと、反感を買ふやうな揶揄的な言ひ方をした事と、揶揄だけで説明がなかつた事。
「正字正假名の文章が讀み難い」は「お前の字は汚い」と指摘のレベルとしては同様なのかもなー、とか思ってみた。は例によつて中田氏の揶揄。
http://white.niu.ne.jp/Freetalk/0511b.html#242119a
私が行なったのは「『正字正假名の文章が讀み難い』という指摘」と「『お前の字は汚い』という指摘」の等価性についての示唆であって、「正字正假名」と「汚い字」の等価性などこれっぽっちも指摘していません。
誰もそんな風には讀まないよ。或は、いかにも一部メディアが挙げ足取りそうな発言でないですかそれ。
平成十七年十一月二十四日
CMSの類は、「サイトを作る時の手段」の域に留まつてゐれば良いけれども、屡々「それを弄るのが目的」みたいになつてしまふもの。
サイト制作者は注意すべきだ。CSSやXHTMLでもそんな事が良くあつた。いや、「テーブルレイアウト」もまた。へんに凝り過ぎる人が多過ぎる。

平成十七年十一月二十三日
サイト制作者が「ブログ」ツールを使ふ時、ツールの「いかにもブログ的」な設定に滿足してしまつて、日附順以上の記事の分類・整理の方法を要求しない或は使用しない――のは不思議だと思ふ。日附順程度の分類で滿足出來るのならば、「ブログ」ツールは必要がなくて、うちみたいにがりがりHTML文書を書いてゐれば良い。
取敢ず日附順に記事を積重ねて行く事は、それはそれとして「あり」。なのだけれども、さうして積み重なつた既存の記事を改めて整理・分類して、體系的な形で再度、閲覽者に提供しないのならば、それらの既存の記事は「死に體」の状態のまゝ放置されてしまふ事になる。それで滿足であると言ふのならば、それはそれで見識だけれども、それならばわざわざ「ブログ」ツールなんてものを使ふ必要問題だらうと。しかし、古い記事が「死に體」になつて腐つてしまふのは放置したくない、何時か、何らかの形で掬ひ上げて、新しい生命を吹き込みたい――さう云ふ欲求が「ある」のであれば、CMSのツールでは日附順とは違つた、制作者の意圖に基いたコンテンツの整理法が用意されてゐる必要がある。が、既存の「ブログ」ツールではそれが十分なのか。一般的な「カテゴリ」での分類は、さう云ふ整理に役立つのか。
さう云ふ事を考へると、既存の「ブログ」ツールは、樣々な機能を装備して肥大化してゐて、いろいろと遊べさうだけれども、肝腎な部分では能力不足なのではないか。一方で、整理整頓なんて何も考へず、ただただ記事を集積したいだけであるのならば、「何らかの形のカテゴライズがそれなりに可能つぽい」と云ふ感じでそれなりの機能が實裝されてゐる現在の「ブログ」はオーヴァスペックだと言へる――と言ふより、「ただ集積したいだけ」の記事、「時期が經つたら『死に體』状態になつて腐れても構はない」と云ふ記事は、「ブログ」ツールなんかで管理しなければならない程の分量にもならないだらうし、トラックバックやらコメントやらを受附けなければならないほどの内容でもないだらうと思ふ。ちよつとした挨拶の交換や御喋り程度のコミュニケーションをしたいだけならば、極普通の掲示板で十分事足りる。其處で敢て「ブログ」ツールを使はなければならないと云ふ必然的な理由は何か。「管理が樂」とか云ふ話は信じられない――既に「面倒だからカテゴライズが好い加減になつてゐるんぢやないの?」と指摘した。それに、トラックバックスパムへの應答とかコメントへの對應とか、そんなものは面倒ではないの?
今の「ブログ」ツールは、當座、「Weが寄つてたかつてコンテンツを作り上げる」と云ふ目的に適つてはゐる――が、「それで十分」と「ブログ」主宰者が考へる理由が、俺には解らない。「Weが寄つてたかつて作り上げたコンテンツ」が、今の「ブログ」ツールでは、時間が經つと過去ログの中で「死に體」になつて腐つてしまふ。過去ログの中に記事を埋もれさせない爲には日附とは異るきちんとした價値觀に基いて過去の記事を整理しなければならない。が、「ブログ」ツールにある「カテゴライズ」の機能はそれには明かに力不足である。
今の「ブログ」ツールに就いて俺は、きちんと整理されたサイトを作りたい人にとつては「機能不足である」し、ただ記事を堆積させたいだけの人には「オーヴァスペックである」と指摘してゐる。詰り、今の「ブログ」ツールは、まともなCMSとしては機能不足だし、ただのウェブ日記生成ツールにしてはオーヴァスペックだ、と。それでなぜ「ブログ」ツールは存在し得るのか。使つてゐる人は、「今流行つてゐる」と云ふ理由で使つてゐるか、「自動化萬歳」みたいな考へで使つてゐるか、そのどちらかでしかないのでないかと疑問を投げかけてゐる。「さうではない。野嵜の指摘は的外れだ」と、さう反論したい人もゐるだらうけれども、野嵜が「ブログ」の事を「解つてゐない」としたら何を「解るべき」なのか、教へて頂きたい。「かう云ふ使ひ方も可能だ」みたいな辯明ではなく、「ブログの正しい使ひ方はかうであり、それを野嵜は解つてゐないで非難してゐる」と云ふ本質的な部分での野嵜説の否定ならば、歡迎します。
平成十七年十一月二十三日
あなたが御自分のサイトを「ブログ」化した時、なぜ「ブログ」ツールを使はなければならなかつたのか、その必然的な理由を教へて下さいませんか。さうして選んだ「ブログ」と云ふ形式、それがあなたのサイトをどんな風に良くしたのですか。あなたは、なぜサイトを公開してゐるのか、その目的の爲に「ブログ化」はどんなメリットがあつたのか、その邊を教へて下さい。
「サイトの生成を自動化したかった。ブログ化してサイトの生成を自動化できた」とか、その程度の抽象論ならば良く聞きます。しかし、「サイトの生成におけるどのやうな作業を自動化・省力化したかつたのか」「さうした自動化・省力化が實際に生成されたサイトにおいてどのやうに有效な結果を擧げてゐるか」、さう云つた具體的な指摘は餘り見ません。
どうも「Googleで檢索して記事がひつかかり易くなりました」程度の事しか「ブログ化」によるメリットは「ない」やうに思はれるのだけれども……今の「闇黒日記」ですら異常なまでにGoogle檢索でいろいろひつかかり易くなつてゐる事を考へると、「わざわざブログ化する必要はあるのか?」と疑問を以てしまふ訣です。
平成十七年十一月二十三日
と言ふか、俺はCMS自體に疑問を持つてゐる。今の物凄く單純なISO/IEC 15445:2000準據のHTML文書だと、手動でもそれなりに管理出來てしまつてゐる。何でそれでは駄目なのかなと。
平成十七年十一月二十三日

Operaが苦手な大量の画像が埋め込まれたものも、あっさりと表示してくれる。

Operaつて、大量の畫像が埋め込まれたHTML文書が苦手?
ふたばの実況の百枚〜二百枚くらゐ畫像を含んだ1MBくらゐある巨大HTML文書(しかも僞HTML)を平氣で讀込んで呉れるし、リロード繰返しても大丈夫だけれども。

平成十七年十一月二十二日
http://aboutworks.com/shokodei/diary/2005/2005_10_a.html#PrintNo3
Operaに關する問題あれこれ。

なんだか知らんけど、スクロールバーの色が変。掴むと色が白くなるおかげで、見失うことが多い。なぜにシステムデフォルトにしないのだろう。

たぶん、デフォルトの外観が、Win IE とか Firefox と同じようなものだったら、すんなり受け入れていたような気もしますねぇ。

[Windows Native]のSkinを使へば良いと思ふよ。標準で入つてゐる。
[Opera Standard]
Opera:[Appearance]-[Skin]
[Windows Native]+Windowsクラシックスタイル
Opera:[Appearance]-[Skin]
[Windows Native]+WindowsXPスタイル
Opera:[Appearance]-[Skin]
慥か導入時に[Opera Standard]か[Windows Native]か、どつちにするか擇べるやうになつてゐた筈。
平成十七年十一月二十二日
虹裏懐古祭の所爲で寢そびれた。
お笑いパソコン日誌
なんかすごくなつかしい人の生存報告。

平成十七年十一月二十一日
CMS否定論を書かうかと思つた今日この頃皆樣いかが御過ごしでせうかとたまには紋切型で書き始めて見る。何が今日この頃だよ。
「HTMLの知識なしにサイトが作れる」とか「簡單操作」とか、詐欺的な惹句で人を騙して、CMSのツールだとかサーヴィスだとかを使はせようとする人が多過ぎる。CMSは「アプリケーション固有の知識」とか「獨特の操作體系」とかを習得しないと使へないから、難しいんだよ。場合によつては「ウェブアプリケーション」になるから、操作性が最惡だつたりする。それに、サイトの運營はノウハウとか經驗とかいつたものがなければ出來ないのだから、安易に「簡單」なんて言ふ事は出來ない。
CMS - Google 検索
平成十七年十一月二十一日

因みに、HTMLの部分が完成したら、解説サイトは公開する積もり。

記事を溜め込んでおいて、或程度の分量になつたら初めて公開する、と云ふのが世間では普通なんでせうねえ。
俺は書いたそばからバンバン公開するタイプ。三行くらゐしか本文がないコンテンツを公開して、三年くらゐ忘れてゐて、或日突然思ひ出して、あんまり非道いので三十行くらゐ追加したり。
平成十七年十一月二十一日
適當にウェブのリソースを漁つて、なんか話題になつてゐるらしい事をネタに適當に文章をでつち上げて、完全自動で「ブログ」にしてしまふ――そんなプログラムのアイデアを考へて見た。自分でコーディングする氣ナシ。多分人工無腦だか何だかの類。誰か作ると話題になると思ふ。
平成十七年十一月二十一日
市ヶ谷の駐屯地で「死にたい」「死にたい」と書いてゐた三島由紀夫に對して、自衞官が「死にたかつたら死ねば良いぢやないですか」と答へ、三島が腹を斬つたか首を斬つて貰つたかして死んで騷ぎになつた、と云ふ事が實際あつた。云々。
三島が「死にたい」と云ふ言葉を言つてゐる時に、三島が返して欲しかつた言葉が「死んでは駄目だ」と云ふ類の言葉であつたと云ふ事を、云々。かう云ふ風に「死にたい」と言ふ多くの人逹は、さう云ふ言ひ方で他者の氣を引いて「死ぬな」と言つて貰ふ事で、被保護欲求みたいなものを滿たさうとする傾向があると思ふので、さう云ふ人が言ふ「死にたい」を額面通りに受けとつてしまひ、その上で「死ねば」と言へば、この人逹は(「死ぬ」と云ふ)本當はさうしたくない額面上の言葉の指示が、保護して欲しい他者によつて酷薄に命令された事と、隱された自分の「死ぬな」と言つて欲しい欲求までもが暴かれ、拒否されたやうに感じて、それこそ背中を無理矢理押されたかのやうに、腹を切らざるを得ない氣分になるものぢやないかと想像します。云々。
EXPLORE MONOGAMY BLOG - ある思い出
無斷で言囘し使つてしまつてごめんね。
平成十七年十一月二十一日
マスコミは何で「Qちゃん」みたいな言ひ方をしなければならないのだらう。俺は「ちゃん」附けが大嫌ひだ。どうも「ちゃん」と云ふ言ひ方は汚らしくて行けない。
汚らしいと言へば「ブログ」と云ふ言ひ方も非常に汚らしい氣がする。音が。

平成十七年十一月二十日
「ブログ」が、日本では「ウェブ日記」の代替物のやうな感じで受容れられ、一般化したのだけれども、それは良かつたのか何うか。その所爲で「ブログ」の「サイトの自動構築ツール」としての側面は餘り認識されてゐないやうに思はれる。「ブログ」ツールは御手輕に導入され、記事とはとても言へないやうな獨り言やら呟きやらを淡々と記録するのに使はれてゐたりする。併し、そんな事に使ふには「ブログ」ツールは大袈裟過ぎる。或は、「ブログ」ツールにとつて、單なる「日記」として利用されるのは役不足だ。「技術の無駄遣ひ」と言つても良い。しかし、さうした「御手輕な使ひ方」の爲に、「ブログ」ツールが不必要に日記としての機能を擴大させて來た嫌ひがある。その所爲で、「ブログ」が「まともな使はれ方」をますますされなくなると云つた惡循環が生じてゐるやうな氣がする。
ウェブサイトの構築において、重要なのは、コンテンツの充實と分類であつた訣だが、それを手動でなく自動でやると云ふのが最近の流行りだ。否、昔からさう云ふ自動化への志向は、殊にプログラマの間で一般的であつたから、流行りなのは單に「ブログ」と呼ばれる或形式に準據した形での自動化だと言へる。即ち、「日附毎に記事を作る」「日附毎に分類する」と云ふのをベースにしたサイト構築の形式である。が、「日附毎」であるのが果して良いのか、と云ふ事は、今に至るまでさつぱり反省されてゐない。中途半端に「カテゴリ」のやうな分類方法用意されてゐる所爲だ。その「カテゴリ」式の分類が、一般にはまともに利用されてをらず、ただ「日附以外にも分類方法があるんだよ」と辯明する爲にツールには實裝されてゐるやうな状態である。現實に存在するサイトで、「ブログ」ツールの機能に依存した「カテゴリ」での分類が、手動で生成されるサイトのメニューに比べて、甚だ見劣りがするのは一般的である。日附以外の分類方法を、「ブログ」ツール利用者は、殆ど憎んでゐるやうに見える。「Web」とか「Accessibility」とか、そんな「分類」が屡々見られるが、それは分類ではない。一見分類のやうに見えるが、ただ「ブログ」ツールに「カテゴリ」機能があつて、記事を作る時には何かしらのカテゴリに分類しなければ記事が作れないから、ツールの利用者は仕方なく記事を「カテゴリ」に分類してゐる。と言ふより、記事を幾つか作つてから、あとで分類する、と云ふのが當り前の態度なのに、ツールは先に記事を分類させようとする。逆コースである。どうせやるなら、ツールが溜め込まれた記事を見て、自動でカテゴリを作つて、勝手に記事を分類して、メニューにする、くらゐの事はしたら良いと思ふ。が、其處まで完璧に出來るやうなプログラムを作るのは無理で――そんな事が出來るやうな頭の良いプログラムなら、自分で「ブログ」の記事を書くだらう――「ブログ」ツールは所詮「ブログ」ツールである。併し、根本的に今の「ブログ」ツールは駄目だと思ふ。
「日附順に記事を溜め込み、整理する」と云ふ發想を脱却しなければ、「ブログ」ツールは「死んだ記事」を量産するだけのものにしかならない。「死んだ記事」とは、過去ログの中に埋沒した記事の事で、最早誰にも省みられる事なく、スタティックな状態に落著いてしまふ記事の事を言つてゐる。さう云ふ「死んだ記事」をしか生み出さないのであれば、「ブログ」ツールでのサイト構築は、結局のところ、手動でサイトを構築するのと變りがない、と云ふ事になる。が、それでは「ブログ」の理念に反する事になる。「ブログ」が「Web 2.0」だか何だかの言ふやうにダイナミックなサイトの生成に用ゐられるものであるならば、さう云ふスタティックな状態に記事が落著くやうな現在の「ブログ」ツールの作りは改善されなければならない。が、コンテンツが生き續けるやうな活發なサイトを作る、と云ふ事がそこで考へられなければならないとすれば、我々は再び過去の――「Web 2.0」なんかよりもずつと昔の、「Web 1.0」と蔑まれるやうな時代の――サイト構築論に還らねばならない。ユーザビリティの原則は今でも五年以上前に指摘されたものがそのまゝ通用する。はつきり言つて、現在の「ブログ」ツールは、過去に提案されたサイト構築に關する方法論を、さつぱり吸收しないまゝ、場當り的にでつち上げられたものだとすら言ふ事が出來る。何うも「ブログ」ツールで自動生成されたサイトは使ひ辛い。「ブログ」ツールの運用者にも責任はあるが、ツール自體の仕樣が使ひ辛いサイトを生成し勝ちなやうに出來てゐるやうに思はれる。こんな状況で安易に「Web 2.0」とか言つてゐるやうでは困る。
平成十七年十一月二十日
ワープロソフトであるWordのほかに表計算ソフトであるExcelがあるやうに、HTML文書の閲覽ソフトであるウェブブラウザの他に表形式のデータを扱ふ「プログラムX」がウェブ用のソフトウェアとしてあつても良かつたのではないか。
tableをウェブブラウザが實裝した事が、ウェブの遭遇した不幸であつたとしたら――
平成十七年十一月二十日
無為徒食日記 二千五年十一月中旬:「Firefox否定論」
Latest topics > Firefox否定論 - outsider reflex
俺はOperaを愛用してゐるけれども、なぜFirefox――と言ふかMozilla系のブラウザを使はないのかと言ふと、Mozilla系のブラウザは本體をヴァージョンアップするとすぐに機能擴張の類が動かなくなるからだ。外見はシンプルであつても、内部では仕樣變更が多過ぎる。
俺はブラウザを「使ひたい」のであつて、ブラウザの「開發に協力したい」のではない。エンドユーザに今のMozillaは安心して使へないと思ふ。何でこんなにFirefoxのシェアが上つてゐるんだらう。
平成十七年十一月二十日
正字正かなづかひは読むのに苦労する - S.H.B
「正字正かなづかひ」は、と一括りにして文句を言ふのは、何時如何なる場合にも不當であると言へます。せめて「正字」と「正かな」とは區別して考へて頂きたいものです。「正字正かな」と當方が一括りにして言つてゐるのは、或意味スローガンでしかありません。
假名遣は「日本語の使い方的アクセシビリティ」の面で全く問題にならないと思ひます。「思ひます」よりも「思います」の方が「アクセシビリティが高い」とは、絶對に言へないと思ひます。寧ろ、假名遣に限つては、表音的な表記よりも表語的な表記の方が理解し易いと言へます。
「正字」に關して「アクセシビリティが低い」と云ふ非難はあり得るでせうし、その非難は甘んじて受けます。が、それは當方の側に責任がある「障害」だと思ひません。正字を讀めない「一般人」の人の方に「障害」があります。ですから當方はその點に就いては「改善」する積りがありません。アクセシビリティなんかよりも大事な、讓れない事だつて「ある」のです。
で、當方は、ふみんぐさんがいつもアクセシビリティアクセシビリティと言つてゐると云ふ文脈の下で――繰返し申しますが、その文脈の下で――ふみんぐさんの「ブログ」の作りがふみんぐさんの主張と矛盾してゐるのではないか、と指摘した訣です。一般論として「何時いかなる場合にも例外ナシにアクセシビリティに據つて全ての事を判斷すべきである」みたいな「絶對的な價値觀」の下に、ふみんぐさんのサイトの事を云々したのではありません、その點は御理解下さい。そんな馬鹿みたいな價値觀、誰も信じてはゐません。
平成十七年十一月二十日
まあ、某メディアミックスがどうたらかうたらとか云つたコンテンツでは妥協して「アクセシビリティが高い日本語」で書いてゐたりするのだけれども、其處まで讀んでゐる人は少いんだらうなー。PC TipsのHTMLの記事とかも、一部は「やさしく」書直したりしてゐるんだよ。妥協したつて良いところはしてゐる。けれども、正しい國字についていろいろ言つてゐるサイトで、その正しい國字が使はれてゐないとなつたら、それは突つつかれても仕方のない論理的な穴となつてしまふのではないですか。論爭的なサイトであると云ふ「文脈」があるのだから、一般論として「アクセシビリティが低い」正字であつても、このサイトに限つては讓れないもの・必要なものとして正字は斷乎用ゐなければならないものとなる。
平成十七年十一月二十日
一方、「闇黒日記」は、手拔きコンテンツだから、最初からアクセシビリティも「Web2.0」的インタラクティヴィティも何もナシ。本當に何も工夫ナシ。すつぱり割切つてゐる。讀者も割切つて呉れ玉へ。此處は單なるアイデア集積所でありネタをだらだら垂れ流してゐる場所でしかない。掲示板に書き毆つてゐるやうなもの。我ながら非道いと思ふけれども、さう云ふ風に出たら目に適當な事を言ひ捲つてブレインストーミング的に何か出て來ればそれはめつけものと言ふのではないか。何も言はないよりは増し。
平成十七年十一月二十日
けれども實際には、北極三號の正字正かな辭書をWXGのユーザ辭書にぶち込んだ時點で、正字正かなの表記が一番打込み易くなつた、と、さう云ふ事情があつたりする。新字正かなには「わざわざする」事になるので、それがめどいと。
平成十七年十一月二十日
しかし實際、讀み難い讀み難いと言ひながらみんな平氣で「闇黒日記」の文章を讀んで文句を言つて來て呉れるぢやないか。何處が讀み難いんだらう。そんなに「絶對に讀みたくない!」とか云ふほど讀み難いものでない事は、讀んでゐる「あなた」にとつては事實ではないですか。精神が耐へ切れない程讀み難くて不快で不快でしやうがないとなつたら、最う「あなた」はこの「闇黒日記」を讀んではゐないのではないですか。實際、さうした理由で「讀者にならなかつた人」は澤山ゐるのであつて、さう云ふ人々にならば「讀み難い」と云ふ非難をする權利は「ある」かも知れないとは思ふけれども、今讀んでゐる「あなた」に――
平成十七年十一月二十日
この程度の文章だつたら何千字でも何萬字でもだらだら書ける。が、だからと言つて偉いと云ふ訣ではない。

平成十七年十一月十九日
東京MXで地獄少女第六話放送。11月22日(火)25:30より
地獄通信
平成十七年十一月十九日
今日のNHK BS絶対少年最終囘は通常より40秒長い、25分40秒間なので要注意との事。
絶対少年
平成十七年十一月十九日
掲示板での垂れ込みより。
人名用漢字の戦後史-タカマサのきまぐれ時評
俺の事を「妄想氏」と呼んで呉れてゐる左翼。如何して左翼はかう云ふ風に根本的なところで性格がねぢ曲がつてゐるのだらう。敵を挑發して喜んでゐるのなら、戰爭反對だの平和主義だのと言はなければ良いのに。左翼の持つ陰險な性格が、人と人との間に對立・爭ひを生じ、對立・爭ひが戰爭を起す事は論を俟たない。が、それは人の心の問題だ。人の心が良くならなければ世の中も良くならない。左翼の連中の心は、人と人との間に爭ひを起さうとするものであり、陰濕な復讐心に基くもので、この世を決して良くはしない。君の心が戰爭を起すと羽仁五郎は言つた。閑話休題。

くわえて のべておくなら、GHQの日本去勢化政策の一環として、漢字廃止/ローマ字教育導入が こころみられた、といった「被害妄想」は、日本の独自性を 天皇制と漢字かなまじり表記にしか みいだせない、かなしいナショナリズムの産物といえるだろう。合掌。

俺はGHQの日本去勢化政策の一環として、漢字廃止/ローマ字教育導入が こころみられたとは言つてゐない。
米教育使節團の來日と「國字のローマ字化」勸告

明かに、使節團の調査に「協力」した日本側の言語學者が、自らの信奉するイデオロギーに基いて、調査結果を歪めてゐたのである。漢字使用の全廢、ローマ字などの表音文字への移行は、日本側の言語學者が積極的に提唱したと考へるべきである。

日本語の讀めない人間でなければ、「漢字廃止/ローマ字教育導入を行つた主體は、G.H.Qでなく「日本側の言語學者」である」と野嵜が書いてゐる事が理解出來るだらう。ところが左翼氏は理解出來なかつた。「ナショナリストは戰後民主主義の責任を全部G.H.Qに押附けるものだ」と左翼氏は思ひ込んでゐて、野嵜が何を言つてゐるかをきちんと調べなかつたのだらう。それで適當にそれつぽい事を言つて、自分の主張を喚き散らしてゐるに過ぎない。かう云ふ獨善的な左翼の態度をオーウェルは批判したのだが、獨善的な左翼には自分が獨善的である事が認識出來ない。左翼に言論は通用しないらしい。困つた話である。
平成十七年十一月十九日
なんか「戦争ビジネス」とか言つて「ペテン」だの産軍政連合のうすぎたなさだのと言ひたい放題。すぐに他人を「妄想氏」呼ばはりする左翼氏自身だつて相當「うすぎたない」精神の持主であるだらうに。左翼は自分を棚に上げて他人を罵る傾向があるから信用出來ない。
許し難い敵の存在を左翼氏は認めてゐる。左翼氏にとつてそれはナショナリストであり「産軍政連合」である訣だ。左翼氏は、さう云ふ敵を、攻撃はしない、嘲るだけである。が、嘲笑と攻撃とは、同じものだ。左翼氏は、武器を使つて肉體的に傷附けなければそれは「平和的」だと思つてゐる。そして、その限りに於て「平和的」であれば良いと信じてゐる。でなければ、嘲笑と云ふ手段によつて精神的に敵を傷附ける事に、こんなにも呵責を感じないでゐられる、と云ふ事はあり得ない。明かに、左翼氏は、確信犯的に、敵を嘲笑つて、精神的に傷附けようとしてゐるのである。が、問題は物理的に他人を傷附ける傷附けないではなく、精神的に他人を傷附ける傷附けないではないか。左翼の「唯物的」な發想は、人間の精神を荒ませる傾向がある。そして、荒んだ精神が人と人との爭ひを(r。左翼氏は何をやつてゐるのだらう。
ガンディーの平和主義は、自分でも實踐しようとは思はないし、眞實であるとは思はないが、それなりに筋が通つてゐるとは思ふ。日本の左翼の連中の平和主義は、全然筋が通つてゐない。筋が通つてゐないものを禮拜する事は出來ない。
平成十七年十一月十九日
漢字・漢語・漢詩-タカマサのきまぐれ時評
加藤周一が少しは良いらしき事を言つてゐるらしい。が、加藤はどつちみち左翼氏と同じ左翼だから。
平成十七年十一月十九日
皇室機関説-タカマサのきまぐれ時評

そうじゃなくて、税金で公私の生活全般が維持され、「天皇の国事行為」に準じた「象徴」としての役割演出という義務は、当然おわねばならない、っていう、カラクリが、厳然とあるという現実だ。

何ですぐに税金税金つて言ふかな。俺の拂つた税金、この左翼氏の爲にも使はれてゐるんだよね、いやだなあ。とか言つてみる。
しかし、これだけ讀んでも、なんで国家機関皇室を擁護する側を嘲笑出來るのか、理解出來ない。左翼氏、ひたすら敵を嘲笑し續けてゐるのだけれども、その「嘲笑出來る理由」が――詰り、左翼氏のの根本原理が――全然わからない。兔に角ナショナリズムつぽいものを左翼氏は嘲笑してゐるのだけれども、なぜ嘲笑して良いのか、或は嘲笑しなければならないのか。
左翼氏の「嘲笑する側」は、「嘲笑される側」を、嘲笑する事が許される――左翼氏は餘りにも當り前の事のやうに思つてゐるらしいのだけれども、どうしてそんなに「嘲笑する側」である左翼氏は偉いのか。左翼氏は、場當り的に他人の意見を罵つてゐるけれども、左翼氏がする罵倒の根柢にある一貫した原理、それを俺は理會してゐない。と言ふより、左翼氏に、據つてゐる一貫した原理が「ある」のか何うか、俺は疑つてゐる。どうも根本的なところで左翼氏の主張は論理的に破綻してゐると俺は思つてゐる。エリート教育を憎んでゐる一方で、自分はエリート面して振舞ふ、さう云ふところがこの左翼氏には「ある」――俺はエリートなんかではないよ、と左翼氏は言ふかも知れないが、川上稔氏の所謂「マイナス・エリート」は、精神的にはエリートと變らないよ。本物のエリートよりも寧ろ高慢ちきで自分を信じ切つてゐる點で、左翼氏のやうな「マイナス・エリート」の方がずつと惡質だよ。
平成十七年十一月十九日
皇室とか傳統とかが「まやかし」であるとしても、何故さう云ふ「まやかし」が存在し得たのか、のみならず、何故さう云ふ「まやかし」が必要であるのかを考察する必要がある。科學ですら實は或種の「まやかし」に過ぎない。なぜなら、眞實を言へば、「パンのみにて生くるにあらず」と云ふ事を認めた時點で、人間の生は最早、自然の動物の生と異るものになつてゐるからだ。「パンのみ」の生が「ありのまゝの状態」の生であるならば、さうではない生は最早「まやかし」の下での生であるだらう。そして、キリストのこの言葉は――キリスト教の定めるところとは違ふ事を言ふ――それ以後の人間社會を規定しただけではない、それ以前の社會をも含む、全ての人間社會を規定したものだ、その點で普遍性がある。本當に「パンのみ」――と言ふより、食糧を攝るのみの生は、動物にしかあり得ない。麥の粒をそのまゝ食べるとか――「パンにする」時點で既に人は「おいしいもの」を求めてゐる訣で、それは最早「人間的」な行爲である。野生の麥を改良して美味しい麥を栽培する、それも「人間的」な行爲である。が、さう云ふ「人間的」な行爲は全て「ありのまゝ」の状態を隱すもので、廣い意味で「まやかし」だと言つて良い。そして、天皇なり王樣なりに據る支配の原理もまた、原理であるならば、「ありのまゝ」の自然な支配の状態と違つて、「人間的」なものであり、「人間的」である事は「まやかし」なのである。キリスト教の「まやかし」を暴いた近代の科學も、「ありのまゝ」の自然を大系化し、人間の理解するものとして自然を再定義するものであるのだから、「人間的」なものであり、當然「まやかし」である。科學的な社會主義も、「人間的」であるがゆゑに「まやかし」である。マルクスの唯物論のみならず、「柔らかい社會主義」だか何だかも、全て「まやかし」である。右翼の思想も左翼の思想も、「まやかし」と言つたら「まやかし」である。人間の生に意義を認める時點で、全ての積極的な思想は「まやかし」である。ニヒリズムもまた、ニヒルをイズム化した時點で、人間の生にマイナスの評價を與へてゐる訣だが、評價の對象に人間の生を持つて來た時點で既に「まやかし」である。ニヒルを徹底するにしても、それが生き方を律するものであるならば、最早「ありのまゝ」の自然状態ではなく、人間的な態度であり、人間の生の眞實を隱す「まやかし」である。過去、宇宙が誕生し、銀河系太陽系地球が出現し、人間が存在するやうになる――現在――未來に於て、人類は死滅し、地球は滅び、太陽が死に、銀河は消滅し、宇宙は熱的死を迎へる/收縮して無に歸る/崩潰する。時空間を四次元の存在と見るならば、時間もまた空間的な三つの方向と同じものと看做し得る。さうなると、兔に角巨大ではあるが、限定された領域の内部において、人間は存在してゐるに過ぎない。かつて、世界は狹いものであり、極めて限定的な世界に於て世界觀が發達した。それらは「まやかし」だつたと言つて良い。けれども、新たな宇宙觀が現在、明かになりつゝある中で、全ての宇宙觀が「まやかし」である事を認めざるを得なくなつた時、我々人間が果して自分逹の生を意義づける事は可能か。自分或は自分逹人間の生に意義が「ない」としたら――その時、人間が自殺したり、社會を破壞しようとしたりしないで、秩序を保つて生きて行く――單に「生延びる」だけでなく、人間らしく「生きて行く」――そんな事は、可能か。「まやかし」であれ、自分の生を肯定して呉れるものが「ある」のは、人間にとつて幸福であり、それゆゑ怪しげな新興宗教に入信する人は減らない。一方、そんなものは「ない」としても、それが「ありのまゝ」なのだから、「ありのまゝ」を受容れる態度が必要であり、俺はさう云ふ態度を取つてゐる、と言つても、さう云ふ態度を取る事自體が、既に自らの生を律する意圖的で人間的な行爲であり、「まやかし」に陷つてゐると言へる。キルケゴールは「絶望」に就いて『死に至る病』で委しく論じた。辨證法的に、キルケゴールは「絶望してゐる事」も「絶望してゐない事」も「絶望」であると斷じた。同じやうに、「まやかしに陷つてゐる事」も「まやかしに陷つてゐない事」も「まやかし」であると言へる。問題は、さう云ふ「まやかし」について、或「まやかし」の立場が他の「まやかし」の立場を罵ると云ふ「意味のない行爲」が、今も續いてゐる事だ。俺は「やめろ」と言つてゐるのではない。ただ、自分の行爲が「意味があるのか無いのか」を反省しないのは、今の時代、何うか、と指摘してゐるだけだ。左翼にしても右翼にしても、「自分の生の意義」や「人間社會の存在意義」を肯定してゐる點では、全く違ひはない。ただ方法論だけが違つてゐるに過ぎない。方法論を要請する人生觀・社會觀が、既に「まやかし」であるとしたら――しかし、さう云ふ人生觀・社會觀が、現代人には寧ろ缺けてしまつてゐる。さうしなければ人間が生延びられない状態で本能的にさうしてゐるのだとしたら、現代は不幸な時代であるけれども、現代人は甚だ幸福である。
平成十七年十一月十九日
よみがな/見出し語という障碍-タカマサのきまぐれ時評
正字正かなグループ - 正字正假名覺書 - 表音主義者の方へ御返事
多分左翼氏は表音主義者でも何でもないと思ふ。自己申告は兔も角、人間として不眞面目さうだし。
平成十七年十一月十九日
あの左翼氏、オーウェルが嫌ひらしいし、言葉の使用を制限するのが大好きらしいから、言論の自由が大嫌ひで、思想統制をやりたいと思つてゐるのでせう。
俺は一往自由主義者だから、言葉の使用に制限が加へられるのを好まない。自由にものを言へないのつて嫌だよね。
平成十七年十一月十九日
人名用漢字について
平成十七年十一月十九日
再び掲示板の垂れ込みより。どうもです。
日本語をかく(自国文化論・3)-タカマサのきまぐれ時評
なんか(笑)(笑)(笑)(笑)言つてゐるけれども何なのだらう。あと、この左翼氏は、宣長のナショナリズムを肯定してゐるのか否定してゐるのか。まあ、どちらかと言ふと、宣長の主張は表音主義に近くて、寧ろ傳統的でないと思ふけれども。しかし、何れにしても左翼氏の主張こそ破綻してゐると言つて良い。「和魂洋才」が不可能である事くらゐ知つてゐるし、だれも実践等してゐない。左翼氏が、「してゐる!」と思つてゐるのは、その方が相手を叩くのに都合が良いからに過ぎない。妄想の敵を叩いて、左翼氏は好い氣になつてゐる。誰が妄想氏だらう。笑。
と言ふか、この左翼氏、日本の歴史の流れを分かつてゐないよ。漢字假名交じりと云ふ表記が歴史的に成立した事は事實であつて、さう云ふ歴史的に成立したものだから漢字假名交じりの表記が守るべき傳統になる訣だ。昔の或一時點でどう云ふ事件があつたとかどう云ふ状況があつたとか、そんな事は傳統でも何でもない。

それは、弥生時代どころか最低でも縄文時代にまでたどりつくわけで、「原ニッポン」なるものに、漢字文明なんて、まったく異質な外来物だ(笑)。

しかし、福田恆存が指摘してゐる通り、千年以上かけて、漢字の體系は日本語の體系の中に定着してゐる。定着してゐるのだから漢字は既に日本語の一部だ。そして、チェンバレンが早くに指摘してゐる通り、漢文脈を排除しない限り、日本語に於けるローマ字表記は不可能である。そして實際、初期のローマ字團體は、漢文の所爲で解散してゐる。
で、「漢文離れ」は明治の末には明かになつてゐたのだけれども、それまでに漢文の素養があつた人々によつて、漢字に據る外國語の譯語が作られてゐる。で、その譯語は今でも生き續けてゐるのであつて、さうなると、單純に「漢文離れ=きいてわかることばの普及」なんて事は起り得なくなる。そして、基本的な概念・觀念がさう云つた明治期に作られた漢字に依存してゐる現状、ローマ字表記とかカナモジ表記とかは不便である。

ともかく、よくもわるくも、漢文ばなれは劇的にすすみ、同時に、漢字語依存も日常生活のかかで比重をひくめていった。まあ、きいてわからんのでは、医学であろうが、法学であろうが、大学の講義はもちろん、会議や学会などでの討議も不可能になるんだから、すくなくとも、おなじ業界で文脈を共有する話者同士は、はなしことばで疎通可能なスタイルを無意識のうちにあみだしてきたといってよい。

左翼氏は嘘を平氣で吐く。「漢文離れ」と「漢語依存からの脱却」は、同時に進行してゐない。現在でも漢語を用ゐた討論や講義は普通に行はれてゐる。おなじ業界で文脈を共有する話者同士が、わざわざ便利な專門用語を棄て、はなしことばで疎通可能なスタイルなんて囘りくどい言ひ方を作らうなんてする訣がないし、實際にしてもゐない。やまとことばで抽象的かつ説明的な新しい用語を作つてゐるのは、表音主義の言語學者くらゐしかゐない。

ところが、こういったうねりに対応できない層は当然いる。

そんなうねりは何處にも存在しない。左翼氏は、そのいきつくさきは、かながき学術論文、ローマ字学術論文になるだろう。と言つてゐるが、「だろう」とは何だ。「だろう」「だろう」「だろう」。根據も何もナシ。「漢字假名交じりの表記が表音的な表記に移る」のには何か論理的な必然性が「ある」かのやうに左翼氏は言つてゐる。しかし、左翼氏はただ「それつぽい」事を言つてゐるに過ぎない。その「それつぽい」と云ふ事から安易に表音主義者は「表音的な表記に移行するのが必然」と言つてゐるだけで、そこに何一つ必然的な根據はない。しかし、かう云ふ「必然論」を主張する左翼が、その「必然的な結果」を生み出す爲に、革命だの何だのと言つて人爲的に「必然的な結果」を惹起こさうとするのは何なのだらう。放つておけば必然的に「なる」ものなら、放つておけば良いのに。一々表音主義の運動を「やらなければならない」とか、反對者を嘲笑「しなければならない」とか――論理が破綻してゐるのだが、そのやうな破綻した論理こそが「正しい」と信じてゐる連中に、正しい論理は「破綻した論理」にしか見えないのだらう。閑話休題。

たとえば「口語重視の言語學は前時代の遺物であり、それを基盤に國語の表音化を主張するのは時代「錯誤と言つてよい」といった、時代錯誤的な表記・主張さえでてくる(笑)。

昔のうちのリソースにわざわざリンクを張つてゐるのは、俺もそんなものを殘してゐるから惡いのだらうが、何なのだらう。それは兔も角、未だに「文章語は口頭語に隷屬する」なんて發想を持つてゐる方が餘程何うかしてゐると思ふのだが、俺は何でかう云ふ時代遲れの左翼に嗤はれなければならないのだらう。左翼思想こそ今の時代では時代遲れだし。
と言ふか、何人もゐないかながきやローマ字がきを併記するかたちで、いろいろなかきかたを実践してみせている人を、わざわざ賞揚してゐるのは何なのだらう。何人もゐないからこそ賞揚すべきであると考へて、左翼氏は特に名前を出して褒めてゐるのだらうが、それはうねりなんてものが存在しない事を自白してゐるやうなものではないか。

と同時に、非漢字圏からみたひとびとにとっては、あべ・やすし さんのいうとおり、「漢字」は「障害」物にしかならない。

言語が異るのだから文字が異つてゐても仕方がない。日本人にとつては英語は「障害」物にしかならないが、だからと言つてアメリカ人やイギリス人に英語を使ふのは止めろなんて言へない。なんで漢字だけ「止めなければならない」のだらうか。漢字は現實に「ある」のだから仕方がない。その現實を否定して、無理矢理ローマ字表記やカナモジ表記に「しなければならない」と言ふのは何うかしてゐる。

「ローマ字がきは面倒だ」というセリフをはいている連中の大半は、かな入力なんぞせず、毎日ローマ字入力しておる(笑)。

實際、俺は今、WXGをローマ字入力してゐるが、それが何か問題なのだらうか。讀者の中で一人でも俺が今ローマ字入力してゐるこの文字列に、ローマ字入力ではない文章との違ひを見出す事が出來る人がゐるだらうか。「書く」事と「讀む」事とを混同しなければ、左翼氏のやうな――それは表音主義者どもも同じだが――勘違ひは出來ない。區別すべき概念を區別出來ないから、左翼氏も表音主義者も誤つた考へ方に陷つてしまつてゐる。

「ローマ字は、よみづらくて、非能率的だ」とのたまう保守主義者殿。貴君は、そういいつつ、毎日「和魂洋才」を実践しつつ、「英字紙」(正確には「英文紙」)を速読し、いや、とばしよみしていらっしゃらないか(笑)?

ローマ字と英文の綴りとは違ふ。その違ひは無視出來るものではないが、それをしてしまふのが左翼氏の御都合主義である。英文の綴りは、表語的な表記で、ローマ字よりも寧ろ漢語に近い。knifeやらenoughやらの何處が表音的だと云ふのだらう。

時代は世界化のなか。そのためには、日英バイリンガル…といくまえに、「日本語のバイリテラシー」こそ、「情報のユニバーサル・デザイン」ではありませんか。

もつともらしい事を言つて見せてゐるが、理窟になつてゐない。カナモジ表記やローマ字表記にすれば外國人にとつて讀み易いものに「なる」訣ではない。英語を喋る連中にとつて日本語は外國語であり、その時點で「障害」である。

社の広報誌を英文にするまえに、日本語表記を、漢字混用/かながき(わかちがき)/ローマ字(わかちがき)って、3つ併記するぐらいのコストがささえられないほど、みなさんの企業の業績は悪化していますか?

さう云ふ馬鹿な事をやつても、外國人に嗤はれるだけだから、しない方が良い。大體、「わかちがき」なんてものが、この日本の歴史のどの時點で一般化し、どの程度の人々が用ゐ、何んな形で受繼がれ、現在、どれくらゐ統一的な方法で用ゐられてゐると云ふのだらうか。今でもローマ字表記やカナモジ表記には複數の方式が「ある」。それは「読み易く書き易い」事を「原理」とする表音主義にとつて、致命的な問題ではないか。「わかちがき」ですら、方法は一つでない。と言ふか、そもそもカナモジ表記とローマ字表記の二つの方式が「ある」時點で、表音主義は混亂してゐると言つて良いだらう。そして、混亂が「あつてはならない」のが表音主義である。混亂が「ある」中で一つの「正しいやり方」を選ばなければならない、と云ふのは、難しい事である。表音主義は「やさしくなければならない」のだから、「正しい一つの方法を選ばなければならない」と云ふのは原理的に許されないのである。一方、表語主義は、漢字かな交りを原則とする「ありのまゝの日本語の事實を認める」立場だが、複數の書き方が「ある」事實を――事實なのだから仕方がない――事實として認める。表語主義では複數の書き方が「ある」のだから、さう云ふ立場に「表語主義にも複數の書き方があるぢやん」のやうな非難を浴びせるのは無意味である。
平成十七年十一月十九日

しかしだ。「そこらのフリーターのごときえたいのしれない人物たち」といった、過度の一般化は、あまりに野蛮であり、かりに個人的感覚がそうであれ、社会学者なら、「このての過度の一般化は、はずかしいから、くちにするのは、ひかえよう」といった抑制がきいて当然だとおもう。

左翼氏は、「時代錯誤」とか「ナショナリズム」とかいつた「一般化」は「抑制」もせずにバンバンやらかしてゐるが、どんな「一般化」が正しくてどんな「一般化」が正しくないかを判斷する權限を何處からか手に入れて來てゐるらしい。

平成十七年十一月十八日
コモンダイアログの「名前を付けて保存」、最近のアプリケーションではウィンドウサイズが可變である場合が多いのに、なぜかInternet Explorer 6ではサイズ變更不可だつたりする。
「Microsoft殺す」と書くと「通報しました」とか煽られるので書かない。
平成十七年十一月十八日
週末にPC TipsのHTML解説を書き直す計畫。定義リストの説明とかが古い。
平成十七年十一月十八日
「サイト制作者に據るスタイルの指定」「ブラウザ等に據る指定されたスタイルの整形」は、全てウェブと云ふメディアを利用した「表現」の過程であり、それ自體では完結しない。整形されたHTML文書を表示したブラウザのウィンドウですら、「表現」においては單なる過程でしかない。
幾つかの過程を經て、制作者が精神の中に持つてゐた表象を、閲覽者が正確であれ不正確であれ再び精神の中に持つ時、「表現」が行はれた事になる。それぞれの「過程」で「何か結果が出る」と云ふものではない。
これらの「過程説」は、野嵜が時枝學説をウェブの表現に置換へて考へ出したものなので、「過程」の定義は時枝學説のものに準據する。なほ、ウェブの表現を「過程」で説明する方法は、一般に汎く認められてゐるものではなく、飽くまで野嵜の假説。時枝學説も假説であり、時枝博士も「科學的な反證」を是非提示して貰ひたいと述べてゐた。
ちなみに、時枝學説は、「科學的な反證」ではなく、「時枝博士はなぜそんな學説を生み出してしまつたのか」を「説明」すると云ふ「動機の邪推」に據つて、服部四郎等に葬り去られた。服部の主張を支持して「時枝學説は誤」と宣傳したのが谷沢永一。
平成十七年十一月十八日
昨日まで「さま」と呼ばれてゐた人が、今日は「さん」と呼ばれるやうになる不思議について。
平成十七年十一月十八日
定番。
picoBBS
出力する HTML は、HTML 4.01 Strict / HTML 4.01 Transitional / XHTML 1.0 Strict に準拠しているはずです。
平成十七年十一月十八日
ElvenBBS - FANTASTiX
Sylpheed - FANTASTiX
平成十七年十一月十八日
じょじょのWeb工房
平成十七年十一月十八日
田村書店の無料箱で拾つたアーデン版シェイクスピアとか、百圓均一で拾つた西田幾多郎全集(舊版)とかを少しづゝ囘收。
今の若い人がライトノヴェルを讀むやうに昔の若い人も哲學の本を讀んでゐたのかなーとか思つたり思はなかつたり。西田幾多郎の著作は續き物。

平成十七年十一月十七日
Monotone Style
平成十七年十一月十七日
企業サイトの發想が「閲覽者には出來るだけ長くうちのサイトに滯在して貰はう」である件。「長く滯在させる爲には閲覽者を遊ばせなければならない」と思ひ込んでゐる件。
或サイトを進んで見に行く閲覽者が求めてゐるのは「一刻も早く情報を得たい」と云ふ事である件。「欲しい情報を得る爲に邪魔になるものは全て嫌なものだと感ずる」と云ふ件。
平成十七年十一月十七日
「テーブルレイアウト」なるものは存在しない。全てのtableはスタイルシートの定義に基いて整形される。
平成十七年十一月十七日
本日の買物。田中美知太郎『古代哲学史 <付>ヘラクレイトスの言葉』(筑摩叢書297)。だから、すべてに通ずる公的なものには従わねばならないのだ。しかるにここに言われていることわりは、すべてに通じる公的なものとしてあるにもかかわらず、多くの人間の生き方は、自分ひとりだけの私的な思慮しかないかのようである。とか反対するものが協調するのであり、相違するものから、最も美しい音律が生まれる。そしてすべては争いによって生ずる。とか。福原麟太郎『この国を見よ』『この道を行く わが人生観』。
ところで小川図書のおねえさんが素敵だ。
平成十七年十一月十七日
「国語改革問題」(『この国を見よ』所收)

私は本当は、この問題に巻き込まれたくない。言葉についての確執はとても円滑に解決することのできないもので、私の師匠岡倉由三郎はローマ字問題の紛争で病にたおれた。それに、私のような考は多分、語学的にまた政治的に、通用しにくいものであると信じているからである。しかし、そういう電話や手紙を受取った以上、やはり何か考を述べるべきだと思って、ここにすこし書きつけてみる。

その前に一応断っておかなければならないことは、新カナや制限漢字がわりにたやすく行なわれたわけは誰でも想像しうるように、戦後、思想の動搖期に発令されたからであるばかりか、新聞がそれに賛同したからである。私のごときは新カナの法則など読んだこともないうちに、旧カナで書いた原稿を新聞の編緝で新カナに直されるのを見て覚え、やがて、お手間をかけるのも気の毒だからと、自分で進んで書くようになったのである。この絶大なジャーナリズムの力が送り仮名についても死活を左右することを忘れてはならない。

私は三つのことを意見として持っている。一、表音ガナは不可能である。二、文字は読むためのものである。三、言葉は個性を主張する。

原文のまゝ。初出は産経新聞。また、私などは山陽道の生れだから、逢おう買おう舞おうと新カナで書く動詞を、実際の発音では逢わう買わう舞わうと言っている。しかしそんな書き方は新カナにはないのである。云々。

平成十七年十一月十六日
田村書店で編集解説梅原猛『戦後日本思想大系3ニヒリズム』(筑摩書房)、森重敏『日本文法――主語と術語――』(武蔵野書院)、パスカル『病と死についての冥想』(新教出版社・新教新書)を買つた。百圓均一。

平成十七年十一月十五日
琥珀色の戯言 - 【連載】もう、個人サイト業界への「新規参入」の時代は終わった(5)〜「思い知らされる」個人サイトたち
思ひ切り赤肩。一箇月前の話題。
平成十七年十一月十五日
何と言ふか、「何もない」状態でいきなり「有名になりたい!」みたいな事を考へる人が多過ぎる。やうな氣がする。で、「『何もない』のでは有名になれない」→「既に有名であれば『何もない』でも良い」と云ふ變な發想が生れる。「リアルな世界で有名になつてからウェブで何う斯う」――これつて本末轉倒ではないか。
なんか「兔に角アクセス」「アクセスがあれば良い」「アクセスされなきや」と云ふ發想が、最近のウェブサイト制作者――と言ふよりは、「ホームページの作者」と言つた方が良からう――を支配してしまつてゐるやうに思ふ。「何故アクセスされるか」――その「何故」を、正當に考察出來てゐない人が餘りにも多い。「宣傳するからアクセスがある」と云ふ發想が、「宣傳させるサーヴィス」の所爲か何うかは知らないが、世間の人を變に宣傳行爲に走らせてゐるやうに思ふ。それが迷惑行爲となり兼ねない事を、誰も指摘しないまゝ。しかし、「アクセスされた時が勝負」である事は、もつと理解されてゐて良いのではないか。そこで「客」の心をとらへる事が出來るか何うか、それが問題だ。「アクセスされただけ」では何うしやうもない、と云ふ事が、なぜか多くのサイト制作者に理解されてゐない。
閲覽者が或サイトの或ドキュメントにアクセスした時、他のドキュメントにもアクセスしたくなるか何うか――「一つのドキュメントに立て續けに何度も何度もアクセスして欲しい」みたいな發想の人が、やけに多い。やうな氣がする。閲覽者に「あれも讀みたいこれも讀みたい」と思はせて、それでその欲求にきちんと應ずる事が出來る、そんなサイトであれば、そのサイトはその閲覽者にとつて「何度も見たいサイト」になる。それでやつとアクセスが確保出來る。「一つのコンテンツを完璧に仕上げる」よりも、「出來る限り澤山の『それなりに情報があるコンテンツ』を用意する」方が、ずつと「サイト全體のアクセス」を増やせる。ところが、どう云ふ訣か、「特定のURLにコンテンツを用意して、其處にだけ澤山アクセスがある」事を、サイト制作者は屡々望む。「全體としてそれなりにアクセスがある中で、一部の良く更新されるコンテンツが注目されて良くアクセスされる」と云ふ事が「ある」のだが、そんな事は嫌で嫌で堪らないらしい。
うちの場合、同じURLで、「闇黒日記」と云ふ題名の下、毎日毎日延々更新され續けてゐるコンテンツがあつて、そこはそれなりに注目度が高い(實際、今、あなたは注目してゐる)。が、此「闇黒日記」と云ふコンテンツは「言葉 言葉 言葉」と云ふサイトの一コンテンツに過ぎない。「言葉 言葉 言葉」と云ふサイトには、「LCP」とかこの世が舞臺とかふざけた周邊サイトまでもがあつて、で、それら全體でアクセスを集めて、その一部が「闇黒日記」に流れ込んでゐる。「闇黒日記」單體では、今ほどのアクセスは集められなかつただらう。それに、日記だけしか野嵜がコンテンツを持つてゐなかつたら、「闇黒日記」は誰からも「何か偉さうな事を言つてゐる」としか見られないで、DQNの糞日記として、無視されるか、潰されるかするだらう。今の状態でもさう云ふ見方が「ある」訣で、それ以上に非道い状況に陷つてゐた事は容易に想像出來る。しかし、一往、數だけは膨大なコンテンツを用意してゐる御蔭で、「無名」にして、普通ならばDQNの糞野郎としか見られ得ない野嵜が、「闇黒日記の中の人」として「生温かく見守つて貰へる」状況となつてゐる。注目されるにしても、2ちゃんねる風で槍玉に舉げられて「祭」にされるよりは、「生温かく見守られる」方がずつと良い。攻撃とか嘲笑の對象にされて一度に大量のアクセスをされるより、觀察されて細く長くしよぼしよぼとアクセスが續くやうなサイトの方が、長い目で見ればアクセス數は多くなるし、そもそも「長い目で見る」事が可能であるだけ増しだらう。そして、大量のコンテンツで大量の情報を提供しておく事は、閲覽者を集めるのに役立つのみならず、攻撃を避けるのにも役立つ。
ところが、それが解つてゐない人が、この「闇黒日記」の讀者にも非常に多いやうに思はれる。野嵜が「ブログは駄目」「Wikiは駄目」「自分のサイトのコンテンツを充實させるべし」と叫んでも、それを無視して呉れる人が澤山ゐる。かう云ふ言ひ方は傲慢だけれども敢て言ふ。「闇黒日記」は、閲覽者は多いし、フォロワーも少しはゐるけれども、理解者がさつぱりゐない。
「ブログ」は決してサイトのコンテンツを豐富にしない。ただ單に「同じURL」の記事が更新の度に變はるだけだ。過去のコンテンツは、ただ「檢索エンジンの利用者を捉へる爲」にしか役に立たない。「トップの記事」に興味を持つた閲覽者が過去ログを讀む事があり得る――けれども、その過去の記事は飽くまで過去の記事に過ぎない。何時でも通用する話題として認識される事はない。何より、記事に日附があるのが致命的である。或日附の記事は、その日附の時點で最大の價値を持ち、それ以後、急速に價値を失ふ。動的に生成される「ブログ」のコンテンツは、價値も動的である。同時代的である事に意味を持つ「ブログ」――現在の記事が一番大事である「ブログ」――において、過去ログの記事は既に「書かれた時點の價値」を失つてゐる。そして、價値が失はれた記事は最早死んだ記事である。死んだ記事が幾らあつても、サイトは豊かであると言へない。特定の記事が現時點で活發であり、他の記事が死に體である――そんなサイトでも、死に體の記事は依然、活性化の可能性を殘してゐる。が、特定の日附の下に書かれた記事は、過去の日附の記事となつた途端に死ぬ。そこには何の發展性もない。過去ログを讀む讀者も、一度讀んだ過去ログは二度と讀まないし、若し再讀する時があればそれはノスタルジアを感ずる爲に讀むのであつて、新鮮な感情を持つ爲に讀むのではない。その過去ログは、死に體と云ふ「まだ生きてゐる状態」ではなく、「最う死んでゐる状態」にある。死んでしまつてゐる記事は、サイトに活力を齎さない。そして、活力のあるサイトでなければ、閲覽者は増えない。
「アクセスが増える必要はない」と思つてゐる制作者が「ブログ」を書いてゐても別に非難する理由はない。けれども、「ブログだけ」で活動してゐる制作者が、アクセス數を増やしたいと希望したり、立派な事を言つたりしてゐる――さう云ふのはちよつと何うかと思ふ。ウェブは、ウェブで完結しても良い世界であり、ウェブでのプレゼンテーションたるサイトに據つて「ウェブで有名」になる事は許されるだらうし、さう云ふウェブ限定の存在し方も「あり」だらうと思ふ。と言ふより、さう云ふ風な「あり方」しかあり得ないと思ふ。やつぱり地道にサイトを作つて行くしか方法はないのであつて、「なんか一發當ててやらう」とか「宣傳で騙して引きずり込まう」とか、そんな山師的なやり方は邪道と言ふしかないし、「ブログ」で毎日記事を積重ねればサイトは充實した事になるとかさう云ふ發想でだらだらと刹那的な記事を増やしても仕方がないと言ふしかない。
平成十七年十一月十五日
文藝賞受賞者の低年齢化は、「人材不足」の結果かも知れない。
平成十七年十一月十五日
Mayura.jp
。・゚・(ノД`)・゚・。

平成十七年十一月十四日
ぱにぽにだっしゅむちゃくちゃ。
平成十七年十一月十四日
ウンゲル著『大科學者の歩める道 ローベルト・コッホの生涯』(戰前版冨山房百科文庫一〇)なんてものを讀了。今時この手の傳記を讀む人はゐないですか。講談調の譯文が良い。偉人に敬意を拂つてゐるのも良い。情報としては古いし、文體も古いけれども、「讀める文章」である點、「雰圍氣が良い」點、評價して良いところはあると思ふ。面白かつた。
平成十七年十一月十四日
本日の買物。
辰野隆編『酒談義』(日本交通公社)

平成十七年十一月十三日
Lynx for Win32 (by patakuti): Project Home Page
平成十七年十一月十三日
PCの動作が餘りにも遲くなつたのでC:ドライヴをデフラグしてみた。
虹裏から落した畫像を溜め込んだフォルダを開くのが物凄く速くなつた。效果はやつぱりあるらしい。
平成十七年十一月十三日
O'Reilly: What Is Web 2.0
またなんか變な言葉が生み出されてゐる。赤肩かも知らんが一往。
別に新しいものなんか何も出て來てはゐないのに、かうやつて言葉だけで「新しいものが現れた」みたいな風調が出來上がつてしまふのは、ウェブの惡いところ。「ブログ」も「Wiki」も、別に新しいものでも何でもない。それをわざと「新しい!」と言つて喧傳して廻る馬鹿がゐるから、すぐにをかしなブームが起る。インターネットには變革なんて起きてゐないよ。昔ながらのTCP/IPがあるだけだ。
平成十七年十一月十三日
mixiだつて、かつてのGaiaXをクローズドな「社會」でやらうとしただけに過ぎない。やつてゐる事は何も變つてゐない。「あしあと」機能だつてGaiaXと全く同じ。
しかし、「あしあと」とか、何でかう云ふ氣持の惡い用語がウェブでは盛んに使はれるんだ?

平成十七年十一月十二日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/200511.html
なんか高所と云ふ字句に拘つて論じてゐる。如何にも傍觀者らしい物の言ひ方をして無責任な態度をとつてゐるのが良くない、と指摘した積りなのだけれども。
平成十七年十一月十二日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051110.html#p25
どっちも出来てないんだから、素で馬鹿に決まってるじゃないですか。
自分の「馬鹿」の事を「良い」と思つてゐる人が麻生氏の發言に就いて「馬鹿?」と書いたのは何なのだらう?
平成十七年十一月十二日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051110.html#p26
私はやっぱり「馬鹿。」と断定したラベル付けをするより、卑怯でも「馬鹿?」と第三者にラベル付けをするかどうかを投げる方を選びます。
卑怯なのは良くないに決つてゐる。
闇黒日記さんや江洲さんほど聡い人の断定ならともかく、私みたいな馬鹿の断定に万が一でも従われたら困る。
「聡い」のを非難し、自分の「馬鹿」を容認してゐるのに、何うしてさう云ふ人が他人の「馬鹿」を否定するのだらう。
平成十七年十一月十二日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051109.html#p03
正直者が馬鹿を見るような法律はさっさと変えないと。
「馬鹿」は「良い」事なのか「惡い」事なのか。
平成十七年十一月十二日
一つの言葉を時と場合によつて都合良くいろいろな意味で遣ひ分ける人とは話しづらい。
平成十七年十一月十二日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051112.html#p09
單に意見を聞きたいだけです。他意ナシ。と書いたら、もう一つ意趣返しされた。平叙文と疑問文とを區別出來ない人だからなー。笑。
平成十七年十一月十二日
Vid Forn氏は「多民族と見るのが正しい。一民族と見るのは正しくない」と主張した。しかし「日本が『一つの民族』であると見るか『多民族』であると見るかは物の見方・價値觀に依存する。だから、斷定的にそのどちらか一方が「正しい」と決める事は出來ない。當然、「正しくない」と決める事も出來ない」とする立場もある。さう云ふ立場をとる人にとつて、Vid Forn氏の言つてゐる事は「正しくない」事になる。
Vid Forn氏がしなければならなかつた反論の仕方は、「一民族としか見てはならない」價値觀しか存在し得ないと證明する事だつた。それをVid Forn氏は全くしてゐない。ただ單に色々と考えるネタと言つて、なんか考へたやうな恰好をして見せるだけだつた。
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051112.html#p01
なんか言つてゐるけれども、どうしてVid Forn氏は自分の言つてゐる事は正しいものであると思つてゐられるのかねえ。そんなに自分の正しさを信じられるのならば、Vid Forn氏は自分の事を馬鹿ではなくて聡いと信じてゐるのではないか。反論不要。
私がやっと馬鹿だと気が付いた聡い人が、なぜ主張のロジックのどこが通じてして、どこがおかしなことになっているのか、その理由を精査しないのが不思議でならない。
「馬鹿」を肯定的な意味で使つてゐるのか否定的な意味で使つてゐるのか曖昧なのだが、笑、Vid Forn氏のロジックのどこが變であるのかを當方は精査した筈。それが解らなかつたのは正字正かなの所爲ですか。何でも正字正かなの所爲にすれば良いのだから、不正字不正かなの人は便利ですねえ(嫌みなので正字正かな云々については反論不要)。あーもしかして渡邊さんとの話の中で話が出て來ただけなので、Vid Forn氏は自分の事として讀めなかつたのかも知れない。
というか、そもそも相手に読む気があるのかと思ってきた。読む気が無いならどれだけ説明書いても無駄だし。向こうはこちらのために砕く気が無い=自分の意見をきちんと伝える気が無いようだし。
それあさうだよ。「馬鹿?」みたいな木で鼻を括つたやうな對應しか出來ない人の文章なんて、眞面目に讀む馬鹿はゐないよ。勿論、自分の意見を傳へて納得させようなんてする馬鹿もゐない。「自分は馬鹿だから聡い人の意見なんて聞けませんねw」みたいな事を言つてゐるVid Forn氏の態度が惡過ぎるんだ。
それに「闇黒日記」は、ウェブに公開されて不特定多數の人が讀むリソースだから、Vid Forn氏と云ふ特定の人だけを相手にした文章ではないし。
平成十七年十一月十二日
揚げ足取り。こう書くとかなりの御幣があると思われるが、御幣は「語弊」が正しい。
平成十七年十一月十二日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051112.html#p09

大和民族の伝統である事が、「日本国」に所属する「国民」として「国」の「国益」を考えた時にどんな意味があるというのでしょうかね。

世界遺産の価値が理解できない人の考え方ですな。

Vid Forn氏、向こうはこちらのために砕く気が無い=自分の意見をきちんと伝える気が無いようだし。とか言つて人を非難しておきながら、自分は自分の意見をきちんと伝える気が無いような言ひ方をするのは如何なものか。Vid Forn氏、自分には甘い癖に、他人にはやたらと嚴格になる――それが良くないと俺は指摘してゐる。卑怯だからだ。なんか卑怯なのは良い事だと思つてゐるらしいけれども、良くないよ。
それにしても「砕く気」つて何だらう。
あと、「國益」「國益」つて言ふのは好い加減やめようよ。
平成十七年十一月十二日
昔からこの手の困つた人には困らされて來たのだけれども、かう云ふ困つた人はすぐに「考えてみる」んだよね。何なのだらう。何か「考えてみる」とか言つて自分の好きな事を言散らすのが好きらしいのだけれども、それが相手を小馬鹿にした態度である事には想到しないらしい。
いや、解つてやつてゐるのかな。さうだらう。だから俺は何時も言ふ訣。「とぼけないで下さい」。
平成十七年十一月十二日
何でもすぐに解る「馬鹿」と違つて、頭の廻轉が惡い「聡い人」でごめんね。
Vid Forn氏は、天皇を、「伝統」と言ひながら、「世界遺産」のやうなものだと考へてゐる。即ち、「古くて珍しいもの」位に思つてゐる訣だ。博物館に陳列された貴重品みたいな感覺だらう。ただそれは「古くて珍しいもの」に過ぎない。Vid Forn氏にしてみれば、それは自分とは無關係のものであり、だからこそ氣樂にものを言つてゐられる。「古いもの」としての「伝統」が全て大事なのではない。正かなづかひだつて論ずるまでもなく傳統的なものだが、Vid Forn氏は「讀み辛い」と言つて尊重しない。自分と關係が出來てしまふと面倒臭いからVid Forn氏は排斥する。Vid Forn氏は傍觀者でありたいのだ。天皇だつて、どうせVid Forn氏は、動物園で保護されてゐる希少種のやうなものとしてしか見てはゐまい。無くなつたら「もつたいない」から何か言つてゐるだけで、別に無くなつたら無くなつたで何うでも良いと思つてゐる。Vid Forn氏の生とは「無關係」だからだ。
民族にしても、Vid Forn氏は精々「標本箱に何う並べるか」程度の發想で物を言つてゐるとしか思はれない。俺は、民族の話をする時、わざわざ最初に民族の概念そのものに疑義を投げかけ、大和民族の出自にしても疑つておいた。さう云ふ話の前提を無視して渡邊さんもVid Forn氏も俺の「民族論」を決定してゐる。
天皇にしても、俺は絶對者だと思つてゐないし、今現在の自分の生活にも關係があるとは思つてゐない。俺は、「天皇の言葉は天皇の言葉であるがゆゑに眞實である」式の飛んでもない狂信的な事を言つてゐた某鐵扇會(「亡鐵扇會」と變換するうちのWXGは或意味偉い。鐵扇會は五年くらゐ前にウェブで話題になつた「ネット右翼團體」)の會長とやりあつて「天皇は人間だ」と言つた者である。俺は狂信的な右翼をそんなに叩かない。なぜ叩かないかと言ふと、鐵扇會會長初心者・元気だぞ氏式の狂信的な發言は、誰もが皆「トンデモ」だと解つて、相手にしないからだ。をかしな奴は相手にする必要もない。問題は、さう云ふ狂信的な右翼と反對に、恐ろしいまでにシニカルな左翼が存在すると云ふ事だ。彼等は、傍觀者として、何であれ、ただ分類し、「考えてみる」だけの事しかしない。天皇が「自分の生活と何等關係がない」と云ふ事は、俺は問題だと思ふのだが、シニカルな傍觀者は問題だと思はない。そして、さう云ふシニシズムを彼等は客觀的で正しい事だと信じてゐる。しかし、その「信じてゐる」事を、彼等は自覺しない。さう云ふ自覺なき狂信は、誰もが狂信だと思ふ右翼初心者・元気だぞ鐵扇會會長の狂信以上に困つたもので、周りの人間も狂信だと氣附かないがゆゑにたちが惡い。
天皇が自分の生と無關係である――それを問題にしない事。問題視したからと言つて別にそれで何かが解決する訣ではない。自分の生とは無關係のものとして何であれシニカルに眺めるのであれば、それはそれで立場として「あり」である。だが、「自覺なき狂信」に基く「シニシズム」は、本來のシニシズムではなく、ポーズに過ぎない。シニカルな物の見方ではない。そこには解決は「ある」――「解り切つた解決」なるものがある。が、それは眞實か。正しいか。その反省が似而非傍觀者にはない。彼等は、傍觀してゐる振りをしつゝ、自分の信ずる或特定の價値觀でばつさり物事を斬る。反論されても氣にしない、「俺は馬鹿だから」式の言ひ方で受流して、結局、他人の價値觀を受容れようとしない。それはそれで一つの生き方である。が、傍迷惑な生き方であるとは言へよう。Vid Forn氏の言動は全て「自己中心的」と云ふ言ひ方で説明出來る。それはVid Forn氏自身にとつては都合の良い「生き方」だ。
右翼の狂信にしても左翼の狂信にしても――それは「シニカルな傍觀者」どもの狂信にしても、と云ふ事だが――全て「生き方」と關聯してゐる。「さう信じれば幸福に生きられる」と云ふ類ひのものだ。當人には結構な物である。が、周りの人間にとつて見れば傍迷惑この上ない代物である。が、さうした生き方で良いのだらうか、と俺は疑問を持つ。生きると言へば俺逹は宇宙の中で行きてゐる訣で、そんな當り前の事は改めて言ふ必要もないやうに見えるだらう。が、從來の非科學的な狂信が排除され、客觀的――或は純粹に唯物的な考へ方が要請されてゐる今、さうした事實は、なぜ考慮外に置かれるべきであるのだらうか。過去から現在まで、宇宙は何百億光年だかの廣がりを持つに至つてゐる。時間は勿論、未來へ流れる。が、さうした宇宙の中で、人間の生はどのやうに「ある」のだらうか。右翼的狂信・左翼的狂信、その他の全ての信仰・主觀、それらが全て排除された時、しかし我々人間は生きて行かなければならない。その時、巨大な時空の存在は、我々にとつてどのやうな意味を持つのか。我々人間の生は、流れる川に浮かんだ泡沫のやうなものである、と自覺する――それ以外に、客觀的・唯物的の世界に生きる人間の生き方はあり得ない。が、それに人間は耐へられるのか。
人間は、廣大な宇宙の中で、エントロピーの法則に抵抗する生物の一種である。その中でも特に、獨自の領域の存在を求める生物である。從來の狂信が、さうした獨自の領域の確保に、有效に機能してゐた事は否定出來ない。しかし、世界は近代以來廣がり續け、狂信は排除され續けてゐる。世界の認識は、既に宇宙全體の運命さへも豫見される迄に到つてゐる。そこには、Godの存在する必要はなく、ただ、どこまでも廣がる宇宙の時空があるに過ぎない。ここに徹底したニヒリズムが發生し得る條件が成立してゐる。それに對して、現在の「傍觀者的シニシズム」は甚だ脆弱であり、寧ろ樂觀的に過ぎる。享樂に溺れて現實から目を背けてゐるのと殆ど同じである。
現代的な宇宙論の世界で、「眞面目に生きる」事を撰擇した人間は、絶望して自殺するしかあるまい。そんな世界で「眞面目に生きる」事は可能か。「不可能である」と云ふ結論は、眞面目に出されて良いものだらうか。それによつて惹起される社會の無秩序化は、好ましいものだらうか。「深く考へなければ良い。變な事に煩はされる『聡い人』は馬鹿だ」みたいな發想で、やつて行つて良いものだらうか。日本國では、どうもさう云ふ發想でやつて行けるらしい。
――と云ふ訣で、俺も考へて見たのだ。かう云ふ事には何時もさつぱり反應がないんだよ。日本人は健全だ。

平成十七年十一月十一日
Make-a-Flake - A snowflake maker by Lookandfeel new media
平成十七年十一月十一日
NOX INSOMNIAE; YASUDA's Home Page
旧仮名・旧字変換支援 misima
misima 旧仮名遣い・旧字変換支援
平成十七年十一月十一日
さるさる日記 - 龍宮城と現代の落差にビックリ
平成十七年十一月十一日
本日の買物。例によつて東京古書會館。
日本諸學 創刊號(昭和十七年三月三十日發行・日本諸學振興委員會)

平成十七年十一月十日
http://return0.dyndns.org/d/2005/10/27#s4

コンテンツネゴシエーションを行って無拡張子でアクセスしている状態で、ページ内へのフラグメント ID を #id 形式で付けると勝手に url.html#id と拡張子が補間されてしまう。これはどうも Opera のバグっぽい。

うちのOperaくんは大丈夫みたいだけれども? Version 8.5、Build 7700。
http://return0.dyndns.org/d/2005/のディレクトリが丸見えなのは何うなのだらう。それはそれで良いのかな。別に何も問題ないからさうなつてゐるのかも知れないけれども一往報告。
平成十七年十一月十日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051108.html#p15
「××の言ってる事はをかしいよ。馬鹿?」みたいな事を言ふ人は、實は物事が間違つてゐようが正しからうが興味ないのであるらしい。自分の發言に就いては「間違つてゐようが正しからうが興味ない」けれども、他人の發言に就いては「正しい」とか「間違つてゐる」とか言ふんだ。
そもそも「歴史」に対する考えかたが違っているところで、自分の主張が正しいと押し付けられてもねぇ。
この人、自分が最初に「麻生氏の歴史に對する考へ方」を否定して、自分の「歴史に對する考へ方」を他人に押附けようとした事を、完全に忘れてゐる。馬鹿? まあ、これを含めて「ネタ」として「馬鹿だな」と見られる事を想定してゐるらしいから、さうなのだらう。しかし、馬鹿と見られるのがそんなに嬉しい事だとは――いやいや、この人、自分では「馬鹿と見られるやうな演戯」をしてゐる積りらしい。馬鹿を演じてゐるのだから、如何にも「馬鹿に見える」のは、演戲を襃められてゐる事であり、それは嬉しい事であると。しかし、演戲でも何でもなく、素で馬鹿なのだと思はれてゐるとしたら。なんか「馬鹿に思はれない爲の演戯」つて言ふのが見え見えであるのは、ちよつとイタいのですが。
ええと、當方も「やる氣」なんてありませんから。反論不要。一々反應するな。
しかし、また中田氏が何か逝つてゐるらしいが。
平成十七年十一月十日
http://esu.oresama.org/200511a.html#20051109_s5
平成十七年十一月十日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051108.html#p10
1400年の伝統を壊す事の責任とその覚悟が本当にあるのか、小1時間問い詰めたい。
その伝統は、誰にとつての伝統なのでせうか。日本民族の伝統? アイヌや琉球民族、在日韓國人・朝鮮人にとつては?
單に意見を聞きたいだけです。他意ナシ。
平成十七年十一月十日
昭和二十六〜二十七年頃の雜誌を八册買つて來た。各百五圓。「國語と國文學」三册。「國文學 解釋と鑑賞」二册。「文學」二册。
「國語と國文學」昭和二十六年一月號。時枝誠記氏が「漢字政策上の諸問題」と云ふ文章を書いてゐる。

漢字政策を考へるに當つて、私の根本に持つてゐる一つの目標は、現行の漢字かな交り文を合理化することである。漢字政策の一つの方法として、漢字を全廢して、カナ專用、或はローマ字專用を目標とする場合には、その政策論の根本が異なるのであるから、これを別個に考へなければならない。この根本的な立場の相違をあいまいにして、漢字政策を考へることは危險である。漢字政策を考へるに當つては、當然かな専用或はローマ字專用といふことも、並行して考へなければならないのであるが、それらの點については、今のところ私の力が及ばないのでさし控へることとした。

次に、漢字を出來るだけ制限して置けば、或は漢字に對する知識と教育を最小限度にして置けば、そこから、自からよい國語が生れて來るであらうと考へ、かつこれを實行させようとする消極的漢字政策には、私は組することが出來ない。これは、人間を過去の文化から遮斷し、無知にして置けば、そこから、新しい文化が生れて來ると考へる破壞主義である。現代の漢字政策に、そのやうな考へがひそんでゐないとは斷言出來ないやうである。

次に、漢字制限から起る種々な支障に對して、これを救ふ手段を用意しないで政策を強行することは、無責任な方法である。惡書を驅逐するには、必ず一方に良書を推薦することが必要である。ここに積極的漢字政策の要求される理由がある。

次に、漢字政策案は、他の政策案の場合と同樣に、各個人が國語を記載しようとするに當つて、その記載行爲を達成するに役立つやうに、計畫立案されなければならない。記載する行爲を考慮の外に置いた現行の漢字政策案はおよそ無意義である。

以上述べたやうなことを根本態度として、次に現行の當用漢字表を檢討して見ようと思ふ。

云々。

私は、漢字制限表の中に盛り込まれる文字の數が、一〇〇〇字であらうと三〇〇〇字であらうと、それは問題にするに足りないことであると考へてゐる。問題はむしろ漢字制限表といふものを作成して、それによつて漢字政策を實行して行かうとする漢字政策の考へ方そのものである。眞に合理的な漢字政策を考へようとするならば、先づこの制限表による方法を一擲して、新しい方法を考案して行かなければならないのである。

云々。その「方法」についての提言あり。略。

既に述べてきたところで明かにされたやうに、この政策案の骨子は、いはゆる漢字制限ではない。制限ではなくして、國民必須の漢字の幅を確認し、これを合理化し、漢字教育を確立しようとするものである。世の漢字表なるものは、一定數の漢字が枠の中に入れられてゐるために、如何にも漢字が制限されてゐるやうな錯覺を與へるのであるが、上に述べて來たやうに、この表は、實踐そのものには何等の效果ももたらさないものである。從つて、實は漢字の合理化も制限も、この表には期待することが出來ないのである。

現在に至るまで、制限漢字表における文字の出し入れ、字體の入換へだけが問題になつてゐるが、全て無意味な事だつたと言へる。「常用漢字表」の制定も勿論無意味である。最近になつて漸くこの制限漢字表の廢止の話が出て來たやうだけれども、併し何うもこれには「裏」がありさうな氣がする。今出て來てゐる「制限漢字表の廢止」は、「常用漢字表」の廢止の事だが、實際に漢字制限の役に立つてゐない制限漢字表は、表音主義者にとつては何の價値もない。今はコンピュータの時代で、PCでは「常用漢字表」の制限は意味を持たない。實際、それで「常用漢字表」の廢止が取沙汰されてゐるのだが、今の漢字政策を牛耳る表音主義者逹にとつて、實はこれが絶好のチャンスに見えてゐるのではないか。即ち、コンピュータで用ゐられるJISの文字セット――これが現在、實質的な漢字制限表となつてゐる。これがまた極めて有效に漢字制限の機能を果してゐる。問題視され易く叩く材料に持出され易いけれども實效性の無い「常用漢字表」なんてものは廢棄して、代りに、技術的な事をいろいろ言へるので反論を封殺し易いJISの文字セットを漢字制限の武器として行けば良いのではないか――表音主義者はさう考へてゐるのではないか。考へ過ぎかも知れないが、今の老齢化した國字正常化の運動家に、文字セット・文字コードに關する知識がなく、技術で押切られたら何も言へない状況が生じてゐるのは確かである――實際には、そんなに年取つてゐない人も混じつてゐるが、さう云ふ人もやつぱり解つてゐなかつたりするので、困つたものです。文字コードに問題がある事を知つてゐる人でも、結局漢字の出し入れとか字體とかにしか興味が無くて、國字問題として認識してゐない、と云ふ人は多いし。時枝氏の文章に話を戻す。

以上述べてきた漢字政策論は最初にことわつたやうに、漢字かな交り文を基礎にした立案であつて、もし、かな專用とかローマ字專用といふことを考へるならば、立論の基礎を根本的に改めねばならないのである。從つて私の案を更に確實にするためには、漢字かな交り文といふものが、どのやうな原理に立つものであるかと云ふことが、先づ明かにされてゐなければならない。かな交り文とは、ただ假名と漢字とが交用されて居ればよいと云ふものではない。それは、漢字が我が國に渡來して以後、長年月に亙つて次第にその原理を自ら確立して來た記載法であつて、根本の原理は、概念的な思想は漢字を以てこれを表記し、漢字を以て表記することの出來ない助詞、助動詞や、活用語尾、接頭語、接尾語はかなを以て表記するところの表記法である。私の立案の限界を、このかな交り文に置いたのは、國語の傳統を出來るだけ保存しようとするためであつて、國語表記の傳統を保存しようとする意圖は、國語は傳統的であることにおいて最も言語としての機能を發揮し得られると考へたからである。言語改革は、言語機能が破壞されないといふ条件内においてのみ認められるのである。

「漢字かな交り文」が日本語の「正しい表記の原則」であると云ふ事は、「常用漢字表」の策定時には一往大前提となつた。が、時枝氏の言ひ分が認められた訣ではない。いろいろな事情があつて、それで形の上で認められたに過ぎない。時枝氏の主張が認められたのであれば、「常用漢字表」なんてものは作られず、漢字制限自體が廢止されてゐた筈である。しかし、時枝氏の主張は尤もなものだと思ふ。何でかう云ふ尤もな主張が採入れられないのだらうと思ふが、日本は政治の國なのである。
平成十七年十一月十日
ふたばがいろいろな意味で祭。
既に一段落状態。

平成十七年十一月九日
『英語研究ノート』なる本を拾つて來た。著者兼発行者の高梨健吉はチェンバレン等の研究をした慶應義塾大學の英語の先生で、この本はその高梨先生が寄稿した雜誌とかノートとかをコピーして纏めた私家本(だと思ふ。限定二百部のうちの一册。獻辭があるけれども名前を出すといろいろ差障りがあるだらうから出さない)。
三田評論昭和52年3月號に載つた「ローマ字表記について」なる文章で高梨先生、日本式・訓令式のローマ字を罵つて、ヘボン式の方が良い、と言つてゐるのだけれども、要するにこの先生はローマ字主義者である。全文紹介して、そこで展開されてゐる論理のををかしい事を一々指摘したいのだけれども面倒なので一部分だけ引用。日本式ローマ字を批判して高梨先生曰。

日本語のシを、日本式ではsiで示し、ヘボン式ではshiで示す。「指す」という動詞のように語幹が-sで終る動詞の活用を示すには、「指さん、指し、指す、指せ、指そう」の五つの形をsas-an、-i、-u、-e、-o と書いたほうが、sashiの場合だけshiにするより簡便だと日本式の主唱者は主張する。これではシとスィとの両音を混同することになる。眼に都合がよくなるために、耳を無視したことになる。英語でもgo, went,goneという動詞の活用がある。これが不規則で目ざわりだからといって過去形をgoedに勝手に変えるわけにもゆくまい。これは言語の歴史的変遷の結果そうなったので、今さら現実を無視することはできない。

高梨先生、自分では論理的な事を言つてゐる積りなのだらうけれども、その「論理」が目茶苦茶。「表記は發音に從ふべし」と言つてゐるのだけれども、その例證に高梨先生、英語の表音的ならざる綴りを持出してゐる。擧句、言語の歴史的変遷の結果そうなったので、今さら現実を無視することはできないと言つてしまつてゐる。あなた今、言語の歴史的變遷の結果成立した、現實に存在する日本語の漢字假名交じりと云ふ表記を否定しようとしてゐるのではないですか。ローマ字表記を根本的に否定する論理を使つてゐる事に、高梨先生は氣附かない。自分で自分の主義を否定して、高梨先生は頭が惡いなあ、と思ふ。
書き言葉と話し言葉を混同してゐるから高梨先生の「論理」は根本的に論理として異常。しかし高梨先生はその異常を自覺出來ない。なぜかと言ふと、高梨先生は「書き言葉と話し言葉を混同して區別しないのは正しい」と思ひ込んでゐるから。
表音主義者は皆、「文字が少い方が簡單」とか「書き言葉は話し言葉に從ふべし」とか、恐ろしく單純な「理論」を信じて、それに從つて現實の表記を弄り囘してゐる。彼等は自分の信ずる、さうした單純な「理論」が本當に正しいものなのか、決して疑はうとしない。「餘りにも當り前なので疑ふ必要なんて感じられない」と彼等は言ふだらう。しかし、實際のところ、それらの「理論」は全て疑はしいし、實際、簡單に誤である事が證明出來るのである。「文字が少ければ簡單」と云ふ「理論」は、「ぢやあなんで0と1しか使はないパンチカード式の入力が廢れて、BasicやC/C++みたいなプログラミング言語が開發されたんだよ」みたいな「揚げ足取り」で一發で粉砕される。
實際、國字改革の結果、表音主義者の考へたやうに日本語は簡單にならなかったし、現在の「文字の世界」は異常なまでに混亂してゐる。日本語文字セット・文字コードはぐちやぐちやだし、人名用漢字は相變らず大論爭を惹起こすし。明かに「國字改革は失敗だつた」のが判つてしまつてゐるのだが、表音主義者は反省しない。精々「國字改革が不徹底だつたから失敗したのだ」くらゐの事しか考へてゐないだらう。實際、未だに國語政策に深く入り込んでゐる表音主義者は、何とかして文字の劃數を減らさうと劃策してゐる。最早、一般人には這入り込めない程、國字の問題は混亂・複雜化し、その爲に「國語エリート」となつてゐる表音主義者は安心して「自分の領域の中だけで苦しむ」事が出來てゐる。しかし、さう云ふ一般人の這入り込めない「聖域」が「出來てしまつてゐる」事自體、表音主義者の理想と、國語の現實とか乖離してしまつてゐる明白な證據ではないか。
國字改革の理想において、國字は人民に解放されるべきであり、「專門家」の存在は否定されるべきものであつた筈だ。それなのに國字問題には「專門家」が存在し、さうした僅かな數の人間が國語政策を仕切つてゐる。彼等「專門家」は自分逹のやつて來た事を誤だと認めない。今も彼等は既定の路線を突進んでゐる。未だに「反對者は反動」である。併し、彼等が自分逹の無謬なる事を信じ――或は、自分逹の無謬なる「事實」を人民に押附けて自らの「エリート性」を守らうとしてゐるのなら、さう云ふ迷妄は打破されるべきである。我々「人民」は、「エリート」に成上がつた彼等表音主義者の愚民政策に欺され續ける事なく、民衆の常識を武器に反抗すべきである。
――と言ひたいのだが、ソ聯と違つて日本の表音主義者は強力な敵を持たず、今に至る半世紀以上の間、安穩と暮して來たやうに、これからも安閑としてゐられるであらう。何事も無ければ、國字政策の反對者は爆發的に増える事はない。日本で國情が大きく變化するのは、外國の情勢變化が唯一の原因である。餘程の事がなければ日本人の發想は轉換しないし、ならば國字に對する一般の意識もさうさう變化はしない。そして今、世界の情勢が大きく變化すれば、日本國は多分、すぐ潰れる。潰れないまでも、恐らく世論操作の巧い表音主義者に煽られて、一氣に漢字廢止――或は日本語廢止にまで行つてしまふ可能性すらある。何處かの飛んでもなく御人好しな國が日本を侵掠して、國語の正常化を押附けてでも來ない限り、日本の國語政策はまともにならないし、世間での意識も變らない。
が、何う考へても御人好しが侵掠をする訣がないので、まあ、野嵜は「そんな事あり得ない」と言つてゐるのだと理解して下さい。反論不要。
平成十七年十一月九日
Wikipedia關係の人はちやんと百科事典を手許に揃へてゐるのだらうか。

平成十七年十一月八日
連合軍總司令部民間情報教育部と文部省とによつてさきごろおこなわれた日本人の讀み書き調査について、石黒修が雜誌「國文學 解釋と鑑賞」昭和二十六年五月號に「國語國字問題と言語生活」と云ふ文章を書いてゐる。石黒は、專門委員長としてこの調査に參與したのだが、「國語國字問題と言語生活」の中で、調査の結果を引用し、日本人の言語生活に就いて、自己の見解を披露してゐる。が、これがまた驚くほど偏つた物の見方に基いてゐて、斯くも偏向した人物の指導下に國字改革が行はれたものである事には呆れざるを得ない。餘りにも石黒の言ひ樣が非道いので紹介する。と言ふか、その爲に神保町の古本屋で百五圓も出して買つて來た。
調査の詳細について今は省略する。讀み書き能力調査の結果、日本人の讀み書き能力は平均點七八・三點である。事が判つた。これに就いて石黒は、正常な讀み書き能力があると認められるには、一〇〇點なければならない。と無茶苦茶なコメントを附してゐる。石黒は「漢字の書き取り」の點が惡い事を強調し、「漢字讀み」では平均八八・八點と高得點であるにもかかはらず、以上、日本人の讀み書き能力の結果が示すところによれば文盲率は低いが、日本人は不十分なというより、みじめな言語生活、ことばや文字の讀み書きをしている。等と勝手な結論を出してゐる。「漢字は一點一劃まで正確に書けなければ駄目」と云ふ惡き「嚴格主義」は、戰後の国語教育で猛威をふるひ、度々批判されたにもかかはらず、未だに脈々と受繼がれてゐるものだが、國字改革の當事者の發言に既にその兆候があつた訣である。
石黒は、漢字の書き取りの「問題」を重視し、その結果によつて、漢字、特にその書取が讀み書き能力に深刻な影響をおよぼしていることがわかつたが、これを救濟する方法として、第一に國語教育の技術の改善が考えられる。すなわち、漢字の書取に注意を拂うことが考えられる。と、一見もつともな事を言つて見せる。しかし、實際のところ、「漢字の書取」が影響を及ぼしてゐるのは「讀み書き能力」ではなくて「讀み書き能力調査の結果」である。石黒は詐欺的な論法でごまかしをやらかしてゐる。さらに石黒は、しかし、それは決して、教育的に價値のあることではなく、しかも教育技術も新しい特別なものがあるわけではない。と述べる。漢字について、「漢字の書取」を恰も大問題であるかのやうに見せかけ、其處に注目させた擧句、「其處には解決策など無いし、解決しても意味がない」事を徹底的に印象づける。「漢字の書取」に關して、誰も反論出來ない方向に石黒は話を持つて行くのである。石黒は、この「漢字の書取」の問題を突破口に、國字改革反對論を封殺しようとしてゐる。そこで、第二の提案として、文字言語そのものの改良、すなわち国語国字問題の解決、國語政策の促進をしている。
石黒のした事は、「科學的な調査結果」を、偏見に基いた目で見て、恣意的に解釋する、と云ふものだつた。最初の「調査結果」を「科學的」と稱し、その「調査結果」を言ひ訣にする事で、國字改革を「科學的」に見せかけようと云ふもの。しかし、「調査結果」を「どう解釋するか」は、愼重であらねばならなかつた。石黒の解釋は、その慎重さを缺く。それは、國字改革を正當化する「爲にする解釋」であり、最初から漢字を惡玉に仕立て上げる事を狙ひとした「解釋のやうなもの」であつた。
漢字について、國字改革當事者のやうに「完璧に讀めて、完璧に書けなければ、讀み書き能力ナシと看做す」のは誤である、「それなりに書けて、大體讀めればそれで能力はあると認めなければならない」と指摘したのは福田恆存である。福田氏の解釋の方が常識的で妥當である事は言ふまでもない。それに、福田氏の判斷は、連合軍の判斷と一致してゐる。連合軍の判斷を無視して國字改革を強行したのは「日本人の側」であつた。占領時代に日本人が連合軍に堂々と逆らつた數少い事例として國字改革を擧げて良い。が、占領軍ですら「すべきでない」として取止めた占領政策を、日本人が率先して代行した、と見ると、國字改革は恐るべき國賊的行爲であつたと言へる。
と言ふより、そもそも「漢字の書取」を調査する事が科學的に意味のあるものであるのか何うかが事前に檢討されてゐなければ、この調査は「科學的」とは言へない。「漢字の書取」で惡い點が出るだらうから、其處から「漢字は惡い」と云ふ結論は容易に出せる、よし、「漢字の書取」を調査項目に含めよう、と云ふ意圖で調査が行はれたのであれば、それは「初めに結論ありき」の「調査」であり、少しも「科學的」ではない。また、どの程度の點數を以つて「良い」「惡い」を決定するか、その根據は何か、を定めず、「百點滿點でなければ駄目」と云ふ無茶苦茶な考へ方で良し惡しを決める積りだつたのであれば、矢張り調査としては駄目である。どうも調査をやつた日本人は、最初から日本人の言語生活をみじめと見せかける意圖があつたやうに思はれる。石黒は、この「國語國字問題と言語生活」なる文章の最初の方で、調査結果を報告するに先立ち、以下のやうに述べてゐる。

一體、日本人のことばや文字を使う力、すなわち讀み書き能力は、戰前には世界で最も高いものの一つであるとされていた。それは義務教育の普及と一般的な出版物の多いことからの想定である。

しかし、それらによつて、特に教育の普及によつて、社會生活を正常に營むにたるだけの文字言語を使う能力が賦與されているかどうか、そしてその能力が社會に出ても、そのまま維持されているかという點に疑問がある。

どうも、(連合軍側は兔も角)日本人の側には、最初から「戰前の通念を打破する」意圖が「あつた」やうに思はれてならない。さう云ふ意圖があつて行はれたにもかかはらず、この時の調査は「科學的」であると石黒は言ふ。多くの場合、當事者の自畫自贊は疑つてかかつて良いものだらう。この場合もさうであらうと思ふ。
石黒の文章の續き。石黒は、戰爭後、昭和二十一年十一月に当用漢字表が制定され、現代かなづかい、當用漢字音訓表、新字體がつづいて制定されて、戰爭前にくらべて、國民の讀み書き能力は、比例的に高められたことと想像されるが、讀み書き能力調査委員會は、問題の作成にあたり、漢字、かなづかいなど、すべて戰後のものによつた成績が前述の通りであるから、もつとその方策を研究し、漸進的に、かつ徹底的な處置を講ずる必要がある。と述べる。

たとえば、文字についていえば三種類(ひらがな・カタカナ・漢字)というゼイタクなものを使つてゐる國は世界にない。その文字の數、當用漢字だけでも一八五〇、これを義務教育漢字に限つても八八一で、他の多くの文化國家の十數倍ないし數十倍である。文字の數は中國よりも少ないといえるが、その用法、讀みは音訓、呉音、漢音、唐音、慣用音、現代音などがあつて、中國人もあきれるような、使い方をしている。送りがなには基準がない。句讀法も極めてアイマイである。

日本人の言語生活を改善し、向上させるには、どうしても國語國字問題の解釋をはからなければならない。日常社會生活の向上發展を願うならば、言語生活からはじめなければならない。

こんな偏見をもつた人物が、國字改革を強行したのである。調査・統計を武器に國字改革を正當化してゐる石黒だが、屡々「數字は人を騙す」――もちろん、適切に用ゐれば統計資料は有益である。しかし、石黒は自己の偏見を正當化する爲に「數字の詐術」を利用したやうにしか、私には思はれない。

漢字制限、文字づかい改正を、言語統制や物資の統制と同一視して、これに反對している學者、著作家がある。それが自己の優越感を滿足させ、護持する手段として、ことばや文字という私有財産を擁護しようという氣持は、理解し、同情することができるけれども、ことばや文字は社會國家の、大衆の共有物である。それは人民の、人民のためのことばや文字でなければならない。

既にマルクス主義の時代は過ぎ去り、多くの人が解らなくなつてゐるだらうが、この邊、明かにマルクス主義的な言辭である(文化大革命の支那で、紅衞兵が學者・文化人を吊し上げた時には、この手の言辭が屡々見られた。反對者の動機を勝手に極附け、惡人に仕立て上げるのは、マルクス主義者に良くある事である)。虐げられた人民の解放を謳ひ、プロレタリア獨裁を高らかに宣言したソ聯は、エリートによる指導體制を確立して、却つてプロレタリアートを壓迫するやうになつた。日本でも、「ことばや文字の解放」なるプロパガンダの下に國字改革を行つた連中は、「ことばや文字を支配」する體制側に「なる」事によつて、結果として民衆を支配し、壓迫する事にはならなかつたか。
半世紀以上に亙つて表音主義者は「文字の專門家」「ことばのエリート」になりすまし、國字を支配して、好き放題に文字を弄つて來た。「讀み書き能力調査」は、大衆が國字改革を望んでゐる事を全く證明してゐなかつた。國字改革の當事者は、自分逹の「理想」「信念」に基いて、單なる數字を恣意的に解釋し、自己正當化を圖つて來たのである。今の文字コード問題、人名用漢字の問題、表外字の問題――國語の混亂――は、全て彼らの獨善的な「政治」の所爲である。私は彼ら「國字エリート」の「暴虐」な「國字支配」を否定する。國語・國字を民衆に返す事――國語の正常化を主張する者である。エリートに據る愚民政策的な國語の簡易化は、自然な國語の變化とは違ふ。國語は自然に進化する。國字改革はさう云ふ自然の進化を妨碍し、不自然な人工言語を創出する事に因つて、却つて國語を混亂に陷れ、專門外の素人の發言を不可能にした。更にさう云ふ混亂を收拾すべく、國字改革の推進派は場當り的なやつつけ仕事を行ひ、自分逹の冒した誤を糊塗しようとしてゐる。剩へ、今の問題の原因を「改革の不徹底」と極附け、更なる國字の簡略化を狙つてゐる。誤に誤を重ねようとしてゐる。全ての問題は戰後の國字改革にある。改革の誤は、改革以前に戻す事によつてのみ、訂正が可能である。ロシア革命は、七十年以上經つて、否定が行はれた。もちろん、現在のロシアには混亂が續いてゐる。しかし、だからと言つて、ソ聯時代がそのまゝ續けば現状はもつと良くなつてゐただらう等と考へる人はゐない。今、日本の國字改革が取消されても、長期に亙つて惡影響は殘るだらう――恐らく永遠に殘る。が、それでも國字改革は、誤だつたと認められ、反省されるべきである。
平成十七年十一月八日
ガンパレ時間變更。なんか朝つぱらから。
平成十七年十一月八日
砂沙美 −魔法少女クラブ−
……。
平成十七年十一月八日
ヤマトはリメイク/續篇→黒歴史の元祖。

平成十七年十一月七日
ぱにぽにだっしゅで「もう寝なさい」。
スタッフ虹裏を見てゐる事が確定。
平成十七年十一月七日
ブログで自滅する人々(第2回)〜「祭り」はこうして進行する / デジタルARENA
ただし、次回以降に細述するが、私怨などから報告されていると判断されたり、「ちょっと変わった人」程度の話と判断された場合はスルーされ、「祭り」不成立となる場合も多い。
うち邊は「義」とか何とか係とかの粘着がゐて呉れる御蔭で却つて祭のターゲットにされ難くなつてゐたりする。
「かなり變つた人」とも思はれてゐるし。
平成十七年十一月七日
夏目漱石 それから

何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なつてゐる。のみならず、道徳の敗退も一所に来てゐる。日本国中何所を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を為たつて、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂有の儘の世界を、有の儘で受取つて、其中僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外の人を、此方の考へ通りにするなんて、到底出来た話ぢやありやしないもの――


平成十七年十一月六日
Google 検索: 緊急地震速報
ウェブで一番早く地震情報を得られるのは虹裏。
平成十七年十一月六日
?D 大和但馬屋泊まるな日記 - DVD-RAMその後
うちのRD-XS40もDVD-RAMの書込みエラーを連發して呉れる。ドライヴの故障ではないのだと思ふ。最近のDVD-R、新しいドライヴ向けに最適化されてゐて、昔のドライヴでは書込みづらくなつてゐるのだと思ふ。
平成十七年十一月六日
http://d.hatena.ne.jp/meigara/20051105
妄言師は当ブログの文章に難癖をつけた方にアカンベーをしただけ(w
晒し上げ。話にならん。
平成十七年十一月六日
なんかまた「義」が出て來てゐる。今度は「国民」と名乘つてゐる。
平成十七年十一月六日
妄言師@無銘の銘柄 - 闇黒日記さまへ
最後に。天皇について――就中、事実上の立憲君主としての是非について――書く度に思ふ、地球の重力に引かれた人たち に苛立つシャア・アズナブルの気持ちがよく分かる気がすると・・・と書いてみるテスト。
ネオジオン総帥となつたシャアは、アクシズを落して地球に居續ける人々を肅清しようとした。
――のだけれども御禿樣、ラストでそれを實現させなかつた。逆シャア、それまでの話もへろへろだつたけれども、あのラストは本當に酷かつた。あの映畫を面白いと思ふ人の氣が知れない。
御禿樣、イデオロギー宣傳とリアリティのある物語作りとの間で搖れ動いて、シャアを妙に中途半端なキャラにさせてしまつた觀がある。宇宙世紀ガンダムで、シャアは、世間的には一番の人氣者だけれども、自分の意思を持たない「作者の傀儡」となつてしまひ、結果として最も人間的な魅力のない人物となつてしまつてゐる。
王樣を殺せば、國民の絶對的な支持の下、獨裁者が出て來るものだ。ガンダムでは、シャアがファンの絶對的な支持を受けてしまつた。左翼である御禿樣は、さう云ふ「絶對的な獨裁者」としてのシャアなる存在は、思想的に認められない。困つた擧句、仕方がないから、シャアをあゝ云ふ中途半端に「人間的」なキャラに仕立てざるを得なくなつた。シャアは、御禿樣の思想の爲にキャラとしての生命を殺されたのである。
平成十七年十一月六日
シャアの演説〜ダカールの日〜
何度でも言ふけれども、シャアよりもギレンの方が演説は巧かつたりする。「エコロジスト」よりも「ファシスト」の方が屡々魅力的である事は、その理由を考察しておく必要がある。
平成十七年十一月六日
と言ふか、何で俺はまたガンダムを熱く語つてゐるのだらう。俺はガンダムよりもヤマトの方が好きなんだよ。
平成十七年十一月六日
ガンダムの事を書いてゐたら銀盤カレイド終つちやつた。実況參加し損なつた。蟲師始まるまで録畫したのを見る。
平成十七年十一月六日
猪木正道が自分の歩んだ「民主社会主義への道」を語つてゐたりする社会思想研究会出版部刊現代教養文庫299『民主社会主義とはなにか』より。日本人の宗教意識
土屋清

猪木君のいったこととあまり変らないが、僕は日本でマルクス主義がなぜ流行したかというと、その一つの条件は明治以来の日本の社会に民主主義、自由主義、それから宗教的地盤、そういうものが欠如していたからではないかと思う。つまり、明治以来の日本の政治体制は民主主義的な要素がだんだん入ってきたけれども、結局、絶対主義の権力が強いときに、いま、猪木君のいったように昭和の初頭からブルジョア独裁のような形になった。こういうところで平和な漸進的な方法で社会主義を実現するという思想よりは、むしろ弾圧に対して戦って、階級闘争的に歴史を進めるという考え方のほうが受けいれやすい。

それで第二には、やはり自由主義の伝統が日本ではあまりに強くない。いまいったような自由主義思想家もいたが、それが支配的とは決していえないのです。そこにも弱さがあった。それといまの階級闘争に関連があるけれども、日本の社会には明治以後特にそうだが、非常に宗教性が稀薄になっている。西欧の社会にはキリスト教という共通の基礎があって、キリスト教がどの程度まで滲透しているかは別として、一応やはり社会の基礎に宗教的なものがある。そういうところにはやはり階級闘争という観念がそんな簡単に入るわけでないのですね、階級対立はあっても、階級闘争が絶対だ、それで歴史を進めて行くのだという考え方は、宗教性がある民主的社会では僕はなかなか出てこないと思う。ところが日本の社会では仏教は眠ったような状態だし、キリスト教は今日でも数十万の信者しか獲得していない。神道は結婚式のときにお世話になるだけで神社の前に行けば帽子をぬぐ程度だ。これは明治以来の日本の文明の取り入れ方にも関係があるので、必ずしも僕は日本人は宗教性の稀薄な民族ではないと思うが、現実において非常に宗教というものと離れてしまっている。そういうところでは階級闘争という観念は砂地に水が入って行くように入って行くわけですね。宗教の根本をどう理解するかは別として、やはり愛とか、神への帰依として一応考えれば、階級闘争とは対立するものなのだ。人の魂のふれ合いが少ないところにマルクス主義が簡単にひろがった一つの原因がありはしないかと思うのです。

平成十七年十一月六日
『民主社会主義とはなにか』日本人の宗教意識
関嘉彦

僕は宗教に全然関係がないというのではないけれども、マルクス主義が日本に入ってくる社会的な条件は猪木君がいった通りだと思う。しかしそれ以外に日本人は精神的構造という点からいうと個人主義の伝統がない。宗教改革されたキリスト教、これがその後カトリックの国においても影響を与えている、そういった宗教改革されたキリスト教の考え方から生まれる個人生義の考え方、一人の個人として妻も子供も全然別々だ、そういった意味の厳しい個人主義の考え方というものは日本にはないのではないか。そういうことが一つ権威主義的な付和雷同関係になってくる。コンフォーミズム(劃一主義)になってくる。集団の中に溶けこんでくるような考えがある。もう一つはやはり科学的な訓練をへてない。どうも日本では明治時代に厳密な社会科学的な研究をすることが許されなかった。政治学とか経済学というような訓練が非常に欠けている。科学が未発達な国におけるほどある意味において科学万能の考え方が非常に強い。科学の限界を知らないで科学によってすべてを解決しうるという考え方が非常に強い。一元論的な説明を与える自然科学的思惟が社会問題についても科学的な解決を与えるのだというふうな考え方が、科学の未発達な国においては、どうも受けいれられる。そのことが、社会科学の領域で、ニセ科学であるところのマルクス主義がインテリに非常に受けいれられている原因だ。それに補足して述べると、一つは、儒教の伝統である聖典の解釈のみに終始する訓詁学的学問、そういったような学問の伝統を受けいれている。そのため日本のマルクス主義は解釈のみで独創的な意見を出していない。

もう一つは第一次大戦以後ほとんど国立大学の先生たちがドイツに行った。マルクが安かったものだからいま、五、六十歳以上の官立大学の教授は、大部分の人がドイツに行って勉強してきて、ほとんどドイツのマルクス主義のそれをそのままうのみにしてやっている。それを官立大学という非常に権威あるところから論ずる。そのことが相当の影響を与えている。

平成十七年十一月六日
「義」がまた木村さんの名前を騙つてゐる。
平成十七年十一月六日
いろは 伊呂波 IROHA - 鹿は馬になれぬ理を
スパム的なサイト宣傳をしてゐなければ波江を非難しない。「寸感」とか言つてゐるが、それに故事つけて自分のサイトを宣傳してゐる態度が見え見え。波江の自己顯示欲は露骨過ぎる。「歌」だの何だのも、「意圖」が餘りにも見え透いてゐて白ける。波江の詩才のなさは歴然としてゐる。氣附いてゐないのは本人だけだが、何十年もやつて來て、未だに誰からも受容れられてゐないのだから、波江は自分のやつて來た事を疑ふべきだ。普通の神經の人間ならば、これだけ相手にされなければ、自分の言つてゐる事に疑問を抱く。
波江の場合、反對者を一々挑發する。だから、こちらもどんどん語調が荒くなる。渡名喜氏掲示板へ仮名遣意見に関する寸感書付けしまでのところへ絡んで来ずば激する必要もなかりしが言痛くむなむなし。等ととぼけて見せるし。盜人猛々しい。波江の「論理」は、典型的なスパマーの「論理」で自己中心的なものだ。
サイトの宣傳をしてゐれば、反撥を喰らふのも當り前だらう。その反撥を「する方が惡い」とか思つてゐるのならば勘違ひだ。反撥する人には、ちやんと説明して納得して貰ふのが筋。感情的に罵倒する波江は何うかしてゐる。自分は理に適つた事を言つてゐて、それなのに相手が何うしやうもない嫌がらせをしてくる(例へば「義」)、とか云ふのなら話は別だが、波江の場合、言つてゐる事が目茶苦茶で、まともな理窟になつてゐない。大體、「宣傳すると、信奉者しか出現しない」とか思つてゐるのならば、根本的に波江は勘違ひしてゐる。もつとも、勘違ひ野郎の波江なら、本氣で勘違ひしてゐる可能性はある。
あと、波江は鹿だの馬だのと何年言ひ續けてゐるのだらう。その文章が次の文章と繋がつてゐない邊、波江の頭の程度が知れる。波江は場當り的に惡口をつき交ぜて「それつぽい」文章をでつち上げてゐるに過ぎない。
正かなが一般に使はれてゐない事は事實だし、それを認識しないで樂觀論ばかり言つてゐるのは、夢の中でまどろんでゐるやうなもので、妄想家のやる事だ。波江は最う何十年も妄想に浸つてゐる。きちんと現状を認識してこそ、自らの取るべき態度も判らうと云ふものだ。それに、正かなが絶滅危惧種で「ない」としたら、わざわざ運動して正かなの復活を主張する必要など無いではないか。必然的に正かなが復活するものであるのならば、わざわざ正かなを使ふやうに仕向けるとか、そんな波江のしてゐるやうな事だつてする必要はあるまい。「いろはもどき」がいづれ必ず一般化するものであるならば、波江が宣傳しなくたつて、勝手に「いろはもどき」は世間に滲透するものだらう。波江は宣傳を何でやつてゐるのだらう。「『いろはもどき』が、絶滅危惧種だから」にほかならないのではないかね。
正かなの復活ではなく、何だか良くわからない「波江語」を創始しようとしてゐる波江に、一々正かなの事に首を突込んで貰ひたくはない。それから、波江の家の正面には「いろは歌」の看板がでかでかと掲げられてゐるのだらうねえ。仙臺驛前で「いろは」を刷り込んだティッシュを配つて見たら如何。
平成十七年十一月六日
新聞一面の下の方にあるコラム、「よみうり寸評」とか「編集手帖」とか云ふ奴。一見高尚な感じの話の「枕」があつて、そこからどんどん話をずらして行つて、最後に卑俗な結論に持つて行く、と云ふのがパターンだけれども、あれは非常に良くないよ。波江もあれに惡影響を受けてゐる。
「ちよつと良い話」の類の文章の書き方は、本當に文章を書きたいと思つてゐる人ならば避けるべき書き方だ。「いかにもそれつぽい」と云ふ書き方は、紋切型と云ふ奴で、紋切型は避けねばならない。紋切型は書き手が劃一的な思考に陷つてゐる事を意味する。劃一的な思考は避けねばならない。
紋切型は、劃一的な思考の顯れだが、劃一的な思考は卑俗な思考のパターンと看做せる。大體、「大衆社會」では、思考が低俗化しがちだし、それがパターン化する傾向がある。卑俗なパターン思考に抗する思考が、所謂文學的な文章を生み出す原動力となるものだし、それが文學の存在意義でもある。
現代に生殘つた大新聞は、全て大部數を維持する爲に、大多數の讀者に媚びた物の言ひ方をする。現在「ジャーナリスティック」と看做される新聞の物の言ひ方は、さうした卑俗なパターン思考をなぞつたものでしかない。新聞による教育が「あり得る」としたら、さうした新聞の嫌らしい面を強調して、それに抗する事を教へる事でしかあり得ないが、現在の大新聞が推進するNIEがさう云ふ「自らの敵を作る」やうなものである訣がない。
マスメディアの外部にある人間が、「俗流」の「ジャーナリズム」に抗して行く事は、現代と云ふ時代において反現代的な態度であるが、さう云ふ態度は必要であると信ずる。
で、波江の場合、言つてゐる事は表面的には反時代的であるのだが、書いてゐる文章が矢鱈と現代的で、パターン思考的に陷つてゐる現代人に媚び捲つてゐる――と言ふより、波江自身が卑俗な思考パターンの持主で、さう云ふ現代人の波江は現代的な思考パターンに從つた低俗下劣なパターン化された文章を綴つて平氣でゐる。言ひ方は古風だが、言つてゐる事はありきたりな内容で、實に詰らない。ところが、さう云ふ低俗さを、波江は「良い」と信じてゐる。
前にも述べたけれども、今、「傳統的」な立場にある積りでゐる人には、江戸時代の戲作文學に見られるやうな文體を用ゐる人が非常に多い。そして、それを「良い」と思ひ込んでゐる。けれども、江戸時代の文化は、大衆文化で、そこで成長した戲作文學が極めて卑俗なものである事は論を俟たない。現代もまた大衆文化の時代である。その大衆文化に抵抗し、流行や風調に反撥してゐる立場の「傳統派」であるが、さう云ふ立場の人間がなぜわざわざ大衆文化の戲作文學に據らなければならないのだらう。擬古文を書くとなぜか戲作調になつてしまふ――現代の日本人としての反省が足らないやうに思はれる。
大正デモクラシー以來、日本にも大衆社會が再び到來し、それは江戸時代の大衆社會とは違つて、完全に傳統と切離された近代的な大衆社會ではあるが、そこでは常に大衆的で卑俗・低俗な紋切型が存在する。その紋切型は、文章の書き方、用語、のみならず、思考パターンまでをも言ふ事が出來る。大衆文化は、一種の生命力を持ち、一概には否定出来ないものであるけれども、それ自身のみに據つては低落傾向に齒止めをかけられない。
近代の大衆社會において、大衆の啓蒙を自ら使命とした教養人が出現する。それを論じたのが唐木順三で、『現代史の試み』は大正から昭和初期に活躍を始めた啓蒙派の知識人を採上げてゐる。唐木氏は、社會の大衆化が進んだ戰後、江戸時代を飛越えて、中世の數奇・寂び・侘びの世界に入つて行つた。飽くまで大衆化とは異る次元の、世間からは單に「高尚」としか看做されない傳統・文化に、唐木氏は關心を懷き、現代的な大衆文化に抗する道を探し求めた。
大衆文化は、生命感に溢れるものである筈だけれども、自己淨化能力を缺くがゆゑに、刺戟のないまゝ長期に亙つて續いてゐると、段々と生命を失つて、澱んだ水が腐るやうに、活氣を無くしてしまふ。だから、低俗・卑俗な領域のみならず、俗界から隔絶された領域が必要となる訣だが、さうした領域は江戸時代以前に還らなければ日本では求め得ない。
唐木順三は、政治的に左翼であり、文藝の世界にゐ續ける事も出來なくて、晩年には隨分駄目な事を言つてゐるけれども、文藝の立場としては根本的に反時代志向で、さうした立場に基いて興味深い文章を幾つも書いてゐる。うちをきつかけに唐木順三を讀み始めた人は殆どゐないやうな氣がするけれども、文章も良いものだし、中世の文學や禅に關する本は「讀める」ので、是非讀んで下さい。唐木氏の本は殆ど筑摩から出てゐるけれども、創文社の實存主義系の本にも唐木氏はちよくちよく顏を出してゐた。
平成十七年十一月六日
多くの人が地獄少女と云ふあにめを誤解してゐる。「地獄少女はホラーではない、ギャグだ」とか言つてゐる人がゐる。ホラーはみんなギャグなんだよ。笑へるがゆゑに地獄少女は本質的にホラー。
詰らんと云ふ事は否定しない。
平成十七年十一月六日
「ありがとうございます」と云ふ文句、會話では極めて良く使はれるけれども、書き言葉ではそれ程使はれては來なかつたのではないか。まともな小説では、「ありがとうございます」なんて科白は一々書かれない。「感謝の言葉を述べた」とか説明してみたり、或は、「頭を下げた」とか「頷いた」とか、仕草で表現してみたり。そんな訣で、從來、文章語で「ありがとうございました」が出現する機會はそんなになかつたのではないかと思ふ。ところが今、インターネットで「ありがとうございました」は極めて良く見られるやうになつてゐる。掲示板で感謝の意を表現するには「ありがとうございました」と言ふしかない。「感謝の言葉もありません」とか、言換へてみても、却つて技とらしくなつてしまふ。そんな訣で、ウェブには「ありがとうございました」と云ふ文字列が溢れ返つてゐるのだが、文章語で「ありがとうございました」と書かれてゐるのは、ちよつと何うかと思つてしまふ。
昔、永井荷風が、「のである」と云ふ言ひ方を嫌つて、文章を草した事があるけれども、嫌ひではあつても使はざるを得ないのである、と云ふのが結論だつた。「ありがとうございました」も、何うも氣に入らないけれども、では何か代りの言ひ方が「ある」のか、と詰問されても、考へつかない、としか答へやうがない。
口頭で「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べるのには抵抗がない。けれども、それを文字に書く、それも「そのまゝ」書く、と云ふのには抵抗を覺える。「野嵜には他人に感謝する氣がないのだ」等と「義」に極附けられると困るので、普通の人には解るだらうと思ふけれども馬鹿念を押しておく。
平成十七年十一月六日
「2ちゃんねる用語」は、文法學で最近注目されてゐる。しかし、その成立の過程から考へて、寧ろ文藝學的な觀點から論じられるべきものだらうと思ふ。けれども、それは殆ど不可能だらう。學者の先生が2ちゃんねるを覗いてジャーゴンが成立し、盛んに用ゐられて行くやうになる過程を觀察する樣子なんて、想像出來ない――と言ふより、その成立の過程に身を投じなければ、ジャーゴンはニュアンスのレヴェルで理解する、と云ふ事は出來ない筈である。
學者先生は眞面目で野暮だから――と云ふのもあるけれども、やつぱり2ちゃんねるは廣過ぎる、全てのスレを浚つて、用語の進化・變遷を跡附けるなんて事は、さうさう出來たものではない。
が、2ちゃんねるならまだめじゃーだから注目され得るのであつて、ふたば邊になると最うまともな研究者は見向きもしない。が、まいなーだけあつて、虹裏方面の用語に關して、利用者の知識はやけに深いものがある。が、あんまり委しくなるのも考へものと云ふやうな知識ばつかりであるのも事實。

平成十七年十一月五日
波江が再び岡田先生の掲示板に書込んでゐる。

知と知的とは本物と似て非なるものとくらゐの径庭があるのだよ野暮嵜君。

和歌俳句といふ未然なる撫象の詩形の呪縛から脱却し切れぬ発想の中では、いはば馬と鹿との識別も困難であらうが。

 いづれにしても僕は毒を以て毒を制すべき劇物であるから本当はこの役割を少しはましな人間にやつてもらひたかつたが、歴史を重ね文雅に疎からぬ家系環境ととのつた家いくらもあるに、そんなもの微塵もない環境に育つた小生の靴の紐を解く値打ちもないやうないかれた代物しか出来ず、インチキかなころがしに媚びて悟らぬとはつくづく情けないとはおもふ。

 以後は日記の中で。

また同じ事の繰返し。「馬」と「鹿」がどうたらかうたらと云ふのは波江の常套句で、よくも飽きないものだと思ふ。
こちらは漢詩文の傳統も示してゐるのに、例によつて無視して和歌と俳句を非難してゐる。餘程和歌と俳句が憎たらしいらしい。しかも、惡口を言つてゐるだけで、何が惡いのか、具體的には何も指摘してゐないのだから呆れる。それにしてもこの根據の無い自信は何なのだらう。
人について言ふ時、「誰某は知である」等とは言はない、「誰某は知的である」と言ふ。「知」と「知的」とは違ふ、等と言つても意味がない。ちなみに、「波江は病氣だ」と「波江は病的だ」とでは径庭が無い。しかし、かう云ふ風に反論されても波江は氣にしない。言ひつ放しの惡口だからである。蛙の面に小便。こちらはいい面の皮。
いかれてゐるのは波江の頭だ。波江の「歌」の何處が良いのか。「悟らない」「悟らない」と波江は嘆くが、「悟らない」のが當り前で、波江の方が何うかしてゐる。波江の「歌」を「良い」と思ふのは馬鹿か氣狂ひだけだ。何処が何う良いのか、説明しろと言つてゐるのに、波江は何一つ説明しない。波江こそ、自分の「いろはもどき」が屑である事を早く悟れよ。
「かなころがし」に「媚て」等ゐない俺を、波江は「媚てゐる」と云ふ。波江はこの手のレッテル貼りが大好きだ。氣に入らない相手にはすぐレッテルを貼る。波江の常套手段だが、人間性が疑はれる。「義」とやつてゐる事が變らない。情けないのはこつちの方だ。波江のやうに傲慢で不遜な人間が正かなと言つてゐる。反吐が出る。波江のやうな氣狂ひには、國字問題に首を突込んで貰ひたくないものだ。
平成十七年十一月五日
いろは 伊呂波 IROHA - 紅葉下界へと
知と知的とは云々は、日記からの轉載だつたらしい。例によつて迷惑行爲。

はて野暮嵜はどこをどう指摘せる積りなるかとんと覚えなし。

とぼけるな。と言ふか、「覚えなし」とは何だ。覺えがあるもないもない、下の記述を見ろ。波江には目が附いてゐるのか? まあ、波江には自分に都合の惡いものは見えないらしいが。

いま少し成長するを得しならばその答へは小生の作例に既に織り込まれゐることおぼろげになりとも悟るところあるべし。

「作例」「作例」と、常套句の繰返し。胡麻かしも好い加減にしろよ詐欺師。

正しき省察と自覚の裏打ち無しに人の歌心を云々するは笑止の極みなり。

自分の事を棚に上げて、偉さうな説教をするな。

器を知り得ての心なり。

適當な事を言ふな。何を知つてゐるんだ。知つてゐるのなら説明出來る筈だ。波江は説明してゐないではないか。「作例」を見ろとかいつて胡麻かすな。大體、波江の「作例」は、どれも波江の説を裏切つて、屑揃ひぢやないか。

心のあるがままの開放に急にしてかなころがしの罠に嵌りて身動きとれずゐるが国語の状況なり。

話をずらすな。胡麻かすな。波江は何時も「惡いのは俺ぢやない、国語の状況だ」と言つて逃げる。國語の問題を持出して波江の問題を胡麻かすのは、「国語の状況」を利用する事だ。波江は「国語の状況」を非難してゐるやうで、實は自分を偉く見せかけるために利用してゐる。

言葉にとりてのあるがままといふ楯の半面を置き忘れゐしつけは溜りゐる。

奇怪な言葉を喋るな。「ゐ」「ゐ」と言へば良いと言ふものではない。

その負債を一挙に償却しゆく効能を小生の一連の業績として世が見逃すはすなはち日本語の本質をとり逃がすことと知るべし。

「知るべし」「知るべし」「知るべし」。馬鹿か。説明しろと言へば「悟れ」。波江は實に横着な人間だ。

理屈の説得にまして国語の原設計とその理念を論より証拠と提示する創造的再興こそが以後の日本文明を導く上策なり。

「いろはもどき」の何處が証拠だよ。どうして波江は自分の「いろはもどき」が屑だと判らないんだよ。

生は正かなに「戻す」為に運動しゐるにはあらず。国語を再創造する為にこそ然しゐる。

再創造等する必要がないんだよ。それは國語の破壞にほかならない。波江は、表音主義者に反對してゐるが、實は表音主義者と同樣に、國語を破壞したいのだ。波江はただ表音主義者の國語を破壞する方法が氣に入らないに過ぎない。俺はありのまゝの國語を守るべきだと信じてゐる。

改竄せられたるは文藝者一般正しくその器にかなひたる用法を見出し得ざりしによるのみ。

器だの何だのと適當に「それつぽい」事を言つて胡麻かしてゐる。波江はいつもこれだ。かうやつて好い加減に「それつぽい」事を言つて、周りの人間が感心すると思つてゐるのである。

かなころがし導入より今日までの六十年間とは、小生の自覚と発見によりて日本語が輝かしき再生に到るまでの一時の気の迷ひたりしと後世の輿論は一致すべし。

波江の奇怪な「言語」が普及する一階梯として「かなころがし」は必然的に存在すべきものであつたと。波江は、「かなころがし」を否定してゐるのでなく、實は肯定してゐるのだと。
波江は、「正假名遣→『現代仮名遣』→『波江語』」と日本語が必然的に變化するものだと考へてゐる。と云ふ事は、明かに、波江は正かな否定論者である。
波江は正かなの敵である。
平成十七年十一月五日
しかし、波江が本當の正かな派でない事は、數年前に指摘した事だ。
好い加減にして呉れよ。波江のやうな「休まない馬鹿」が一番困る。
平成十七年十一月五日
波江の循環論法。「説明しろ→作例を見なさい」「波江の『作例』は屑ぢやないか→悟りなさい」「何を悟るんだ、説明しろ→作例を見なさい」「波江の『作例』は屑ぢやないか→悟りなさい」。
平成十七年十一月五日
紅葉下界へと
降り居しるき頃
危ぶむ目搖らに
仄湧く瀬差す日
榮えぬ世を打たん
杖ぞ撫で寝まれ
波江は詩の本質を全く理解してゐない。「紅葉」とか「下界」とか、それつぽい語を羅列する事が詩ではないんだよ。適切に語を選ぶのみならず、適切に語を排列し、適切に語を結合する事が、詩作では必要だ。さうして、全體として調和が生じ、鑑賞者の精神に感興を呼起さなければならない。波江の「歌」には、心に響いて來るものがない。如何にも作り物めいた非人間的な印象が、讀み手の心を冷めさせる。面白がつてゐるのは作者だけ。一人で愉しんでゐては駄目だ。良い發句は良い附け句を自然に附けさせる。波江の「歌」は、コメントし辛い。波江は、讀み手が歌に積極的に「參加」しようとしてそれで初めて「參加」出來るものだと考へてゐる。しかし、良い歌ならば、自然に讀み手をして作歌に參加させる事が出來る。
今まで波江の主張が世間に受容れられなかつたのは何故か――波江が他人の心を動かして來なかつたからだ。何時か日本人は波江の主張を受容れるであらう等と豫言者を氣取つても仕方がない。成果が出てゐなければだめだ。波江のやつて來た事の結果は既に出てゐる。誰も波江の歌に感動しなかつた。波江のやつて來た事が「正しい」ものであつたのならば、四半世紀も運動してゐるのだから、一人や二人どころではない、結社くらゐ出來てゐた筈だらう。なのに波江は孤獨である。ウェブであんなに宣傳してゐるのに、波江に追隨する動きはない。
波江のやり方が「あつても良い」――しかしその「あつても良い」筈の波江のやり方が、四半世紀の間、何の結果も出してゐない現實がある。ならば、これから何年波江が運動を續けたら、日本は波江の前に膝を屈する事になるのか。はつきり言つて、波江のやつてゐる事は效果を擧げない――もし效果を擧げて、日本人がこぞつて「いろはもどき」を作り始めたら最う日本も終りだが、それはない。流石に其處まで日本人も馬鹿ではない。
兔に角、波江が今まで何年も頑張つて來た、それは事實だ。しかし、それで現在、成果は全然擧がつてゐない。ならば、今後、これ以上の結果が出ると云ふ保證はあるのかね。波江は、「作例」を見ろとか「悟れ」とか横着な事を言つて胡麻かしてゐるが、現實に波江のやつて來た事は成果を擧げてゐないのだ。「作例」なんてものは幾らでも作れる。しかし、それが實際に人を動かし、何らかの潮流を作り出してゐるのか。それがなければ、波江の言つてゐる事に説得力は生じない。
理窟ではない、と言ふ事は簡單に出來る。しかし、「理窟でないもの」で、波江は他人を動かせたのか。ゐないぢやないか。實際に成果を擧げてから偉さうな事は言ふものだ。
客觀的な事實として、波江の「いろはもどき」が世間に浸透し、大勢の人が波江を慕つて波江のやうな文章を綴つてゐる――そんな現實が出現したら、俺も波江の言ふ事を信用しよう。けれども、今の波江は孤獨である。誰からも慕はれてゐない。波江の「歌」は、他人の心を動かしてゐない。駄目である。俺だけが駄目出ししてゐるのではない、世間の多くの人が波江の歌を默殺してゐるのである。波江はさう云ふ現實を認めるが良い。現實を認識出來ないのは氣狂ひである。
平成十七年十一月五日
世間が波江の事を解つて呉れない。世間が惡いと波江は言ふ。解つて呉れない相手なら、解るやうに言ふのが筋ではないか。居丈高な態度をとつて、「作例を見よ」だの何だのと命令してゐれば、それで世間は「解る」やうになるものか。波江の頭の中で、世間と云ふものは實に簡單に出來てゐるやうだ。波江は世間をなめてゐる。
波江の「高尚」な「歌」を世間が解らない、しかし波江は世間に自分の「歌」の價値を理解させたい、ならば説明すれば良いぢやないか。なぜしないんだ。横着してゐるのである。威張つて、押附けてゐれば、そのうちなぜか世間は波江を禮讚するやうになるだらう。波江は多寡を括つてゐるのである。併しそんなに世間は甘くない。
大體、そんなに波江を解らうとしない「愚かな」世間に、なぜ波江は自分の「歌」を理解させたいと希望するのか。そこからして俺には理解出來ない。波江は世間を何う思つてゐるのか。世間は愚かなのか、利巧なのか。利巧ならば、なぜ波江を受容れない。愚かならば、なぜ波江は受容れて貰ひたがる。
平成十七年十一月五日
世間の判斷と云ふ相對的なものを基準にして困る事になるのなら、自説が眞實である事を示さなければならない。そこで必要なのは、具體的な説明であり、論理的な説明であり、妥當な説明である。檢證可能な主張である。波江の主張は、檢證不可能な主張である。現代は科學の時代である。科學は、反證可能性のある主張しか、檢討の對象としない。波江の主張は、現代の人間にとつては、檢討の對象とならない。現代はさう云ふ時代である。波江は、さう云ふ時代に「媚びる」のは嫌だと言ふのだが、時代と云ふものは、或面では進歩するのであり、その進歩にただ逆らつても無意味である。逆らふべき領域で逆らふのは良いが、逆らはないで良い領域で逆らつても意味はないし、逆らふべからざる領域で逆らふのは誤である。
現代には、第三者の檢討を可能とすべき現代的なルールが定められてゐる。反證可能性のある主張の仕方をする、と云ふのがその一つで、それは或程度、普遍性と妥當性を持つ。それに反對したければ、反對する事で眞實により近附ける事を述べなければならない。波江はその手續きを怠つてゐる。
波江は知的怠惰である。知的怠惰は道徳的怠惰だが、横着な物の言ひ方をしてゐる一方で、傲慢なものの言ひ方をしてゐる波江は、慥かに道徳的にも怠惰である。怠惰は何んな時代であれ許されるものではない。「なすべからざる事をなさず、なすべき事を見定めて、きちんとなしとげる」――何でも「やつておけば良い」と云ふものではない。知的怠惰によつて、本當にやらなければならない事をやらなかつたら、それは結果として惡である。波江は、「いろはもどき」が「やれる事」でしかないと言つてゐる。ところが、波江は、「やれる事」である「いろはもどき」が、他にも「やれる事」が「ある」中で、他の手段・方法を押しのけて、唯一「やらねばならぬ事」になる、と言つてゐる。複數の「やれる事」の一つである「いろはもどき」だが、それが唯一の「やらねばならぬ事」であり、他の全ての「やれる事」をおしのけるべきであると波江は言ふ。が、その理由・根據は何か。波江は今まで答へてゐない。況してや、それが本當であるか何うかを第三者が檢討する事が可能な理論を波江は示してゐない。「作例」は理論の應用に過ぎない。そこから理論を還元するのは、波江は讀み手の側、鑑賞者の側だと極附けてゐるが、實はその「還元」の仕方は波江によつて説明さなければならないのである。なぜなら、波江の主張は文藝的な主張であり、文藝作品を鑑賞する一つの方法論の提唱であるからである。「『作例』から方法論を取出すのに、『作例』の中にある方法論を使ふ必要がある」と云ふのは、「車の中に閉ぢ籠められてゐる車のキーを取り出すのに、閉ぢ籠められたそのキーを使ふ必要がある」と云ふディレンマと同じである。
波江は無理を言つてゐる。無理を言はれて困つてゐる人間を見て、波江は喜んでゐる。本當に自分の主張を他人に解つて貰ひたければ、波江は説明してゐる筈である。今の今まで、波江は「解るやうに説明する」と云ふ事をしてゐない。世間の多數の人間が「解らない」のだから、野嵜だけが馬鹿なのではない筈である――いや、假に野嵜が殊さら馬鹿だとしよう。ならば、その馬鹿な野嵜に理解出來るやう、波江は解り易く説明すべきである。野嵜を理解させるのに成功すれば、野嵜よりも増しな頭の世間は用意に納得するだらう。波江はなぜそれをしないのか。波江は何故、何時までも居丈高で傲岸不遜であり續けるのだらう。
さて、これだけ言はれても、波江は解らない筈である。豫言しておく――そして野嵜の豫言は良く當る――波江はこれからも全く變らずに、サイトを宣傳し、「いろは」を唱道し續けるであらう。そして氣に入らない相手、自分のスパム行爲を批判する人間を、人格的に貶めて、憂晴しをするだらう。波江は「他人の言ふ事を謙虚に聞く」と云ふ能力が缺けてゐるのである。
平成十七年十一月五日
四日のぐろりや展 @ 東京古書會館。黒つぽい本は多いけれども雰圍氣が餘り良くない。なんか面出ししてゐる本許りで量が少いし、共産主義とか戰爭とかの政治的な本が可なりの割合を占めてゐるし。林健太郎『戦後五十年の反省』(原書房)を二千圓で購入。

戦後日本の失った最大なるものが国家の意識であると私は言ったが、この国家意識の喪失とはとりもなおさず真の自己認識の喪失に他ならぬものである。そして真の自己意識とは正しい自己認識の上にのみ成立する。それを欠く時、その自己意識は自己の他者への依存には気付かず、もっぱら被害者意識をもって自己の利益の妨げになるものを非難する。

千九百八十年代終りから千九百九十年代初頭にかけて書かれた時事問題に關する文章を收録。卷末に「昭和思想史と清水幾太郎」「追悼 福田恆存」とを收める。
平成十七年十一月五日
妄言師@無銘の銘柄 - 三笠宮寛仁親王、女系天皇に異論
林氏に據れば、フランス革命を「自由主義の出發點」ではなく「全體主義の原點」と見るのが現在のフランスでは一般的な事なのであると。
王樣をギロチンに掛けたら直後に恐怖政治、次いで帝政、と、フランス革命は短期的に非道い結果を生じた。のみならず、その後、長期に渡つて續いた政治的な不安定は、國家の弱體化を惹起し、ナチスによる占領と云ふ事態までも招いてしまつた。フランス革命の長期的な影響は、現在にまで至つてゐる。簡單に「フランスが羨ましい」等とは言へたものではない。
愛國心ですら、フランス革命出自である。清水幾太郎の『愛國心』(岩波新書)を參照の事。
「王樣がゐなくなるのは良い事だ。なぜなら、理論上、王樣がゐなくなるのは良い事だからだ」と云ふ考へ方をする左翼の人が多いのだけれども、現實には君主制を急激に打倒して、何の問題も生じないで民主政・共和政に移行出來た國なんて、さうさうあつたものではない。君主が排斥されると、多くの國で、政治的混亂が生じて、悲慘な状況が出來してゐる。
『現代神道研究集成(9)神道と國家』
葦津珍彦は「國民統合の象徴」で、傳統的な君主を戴いておく事が有效である所以を、論理的に、かつ、現實の歴史を傍證として具體的に示して、説得力のある議論を展開した。
平成十七年十一月五日
妄言師@無銘の銘柄 - 闇黒日記さまへ
もしよければ「なぜ」さう考へるのかを説明していただけないだらうか。理窟で説得されればこちらも納得するかも知れないから。
あと、天皇と王樣とは全然違ふものだけれども、その邊については。
平成十七年十一月五日
最近立讀みした本。
Amazon.co.jp:スパマーを追いかけろ―スパムメールビジネスの裏側: 本
Amazon.co.jp:ブログ&掲示板攻撃・防衛マニュアル: 本
平成十七年十一月五日
權力者は絶對惡である。善良なる人民は權力者と常に鬪爭しなければならない。
權力者は人間である。人間は、時には正しい事をするが、時には正しくない事をする。權力者が正しくない事をした時、それを相對化し、是正する手段を用意しておく必要がある。
――これらの二つの發想のうち、どちらの方が「より現實的なものである」と言へるのだらうか。權力者を絶對惡と看做して、兔に角叩いてゐさへすれば良い、と考へる人が、日本には餘りにも多過ぎる。

平成十七年十一月四日
奇魂の紙の雜誌、休刊なの?
平成十七年十一月四日
現実との折り合いのつけ方
1日4桁の読者を恒常的に得るようになってからというもの、云々。
すごいなー。うちだつて精々一日三桁だよ。多分二百とかそのくらゐ。
記事の内容と言ふか話の本筋には全く興味ナシ。
平成十七年十一月四日
波江が執拗に岡田先生の掲示板を荒してゐる。自分の「ブログ」が他人のコメントで埋め盡されると怒るのに、自分は他人の掲示板を投稿で埋め盡し放題と云ふ波江の神經が問題で、多賀城の住人、仙台の住人、東北の住人全體の名譽にかかつて來るだらう。
平成十七年十一月四日
いろは 伊呂波 IROHA - 母に毒
母に毒盛れる少女のことをだに
 聞き居て安からぬ思ひするかな

銀杏色づく空を降り居悩む夢

猫我をまじまじみつめ冷え冴えん
室邊頬寄せ拔け寝ん朝べ

醉ふ身故泡浮けその血手折り
御得意の「字数歌=いろはもどき」では「はは」とすら言へないから、「二囘づゝ使ふ」と云ふ規則をでつち上げて「歌」を作つてゐる。波江究一にとつて大事なのは、假名遣でなく、文字を一度なら一度づゝ、二度なら二度づゝ使ふ、と云ふ風に、「文字を公平に扱つてやる」事であるらしい。波江にとつて、假名遣ひよりも文字が大事なのである。本末轉倒。
相變らず扱つてゐるのは時事ネタ。例によつて言ひたい事は最初の二行で述べられてしまつてゐる。あとは、剩つた文字を適當に並べて、呪詛だか妄想だかに見えなくもないやうな奇怪な文字列を作つただけである。詩としては片端。
單語を組合せてでつち上げられた奇怪な文字列を見ると、波江の現世に對するうらみつらみの心情が看て取れる。面白いと言ふか哀れである。自分を生ぜしめた社會を恨みつゝ、「実験」の結果を「ブログ」で報告し續けてゐる、と云ふ邊、「歌」で採上げてゐる「少女」と波江自身との相似を指摘せざるを得ない。波江自身も言つてゐる、自分も母に毒盛りゐし異ならぬ形に母を死なしめてしまつたのかと忸怩たるところありまして。さもありなん。自分に似たものに波江は親近感を覺えたのだらう。波江も「いろはもどき」で、自分を生ぜしめた日本國を滅ぼさうとしてゐるのである。
平成十七年十一月四日
三日の野嵜の指摘に、波江は答へない。答へられないからだ。答へられないのは當り前だ。答へたくとも、波江には理がない。もし理があるならば、波江は、感情的に罵倒したり、嘲笑して見せたり、餘所の掲示板で「早稻田系」の人間に八つ當りしたりしないで、冷静に野嵜の指摘に反論出來た筈である。――と、かう書くと波江は、「わざわざ答へるまでもない事だからですよ」と決り文句を言ふが、これは反論出來ない人間の負け惜しみである。野嵜が、反論するまでもない卑小な相手であるのなら、波江はしつこく岡田先生のところを荒して、野嵜に當てつけたりする必要はない。卑小な人間なら、相手にするまでもなく、單に無視してゐれば良いだけである。ところが波江は野嵜を無視してゐない。波江は、野嵜の事を意識せざるを得ないのである。波江は、自分に理がなく、利もない事を知つてゐる。しかし波江は、自分が一番偉く、他人が自分に屈伏し、自分の命ずるまゝに「いろはもどき」を作らなければ氣が濟まない。だから、自分に從はない野嵜の事が氣に入らず、仕返ししたくて堪らない。理窟では完全に野嵜に言ひ負かされてゐる。それでも波江は自分の誤を認められない。認めたら自分の人生が無駄だつた事になる。だから自分のアイデンティティを守る爲に、波江は必死になつて野嵜を攻撃するのである。だが、波江一個人の人生の爲に、日本國の文化が崩潰してしまつては困る。波江にも、自分一人の利益でなく、もつと汎く世の中の爲となる事を考へて貰ひたい。波江のスパマー的・掲示板荒し的行動は、一般人をして「正かな派は馬鹿なのか」と疑はせしめる事になる。波江のやうに「品性下劣で知性がない」と云ふのが、一般に「正かな派の人間の特徴である」と思はれてしまつては困る。波江の故事つけや偉さうな態度に感心する人間は全て馬鹿である。ちよつとでも頭の良い人間は一人だつて波江の説に感心しない。知性が感じられないからだ。そして、正かなの普及において大事なのは、知的な人間の存在である。此處からは波江なんかではなく國語問題協議會の中の人やその他の正かな派の人に申し上げるのだが、騙したり、無理やり押附けたり、兔に角やらせて馴れさせたり、と云つた方法で、正かなを普及させようとしても、そんなのは無理である。無理でないとしても、間違ひである。邪道である。さもしいやり方である。まともな人間のする事ではない。「結果として正かなを使ふやうになれば良いのだ」式の發想は、もし持つてゐる人がゐたら、捨てて頂きたい。正かなの普及は、説得に據るべきだ。正かなに轉向するかしないかは人に自由に撰擇させるやうにしなければならない。自由な撰擇の結果、「進んで正かなの制約を受容れる」と云ふのでなければ、その人は再び惰性で他の表記に流れてしまふ虞がある。或は、洗腦したり刷り込んだりして正かなを押附けるのでは、國字改革をやらかした連中と同じ事をする事になつてしまふ。「正かな運動」が「運動」として行はれるのならば、飽くまで「正假名遣が正しい事を理窟で納得して貰ふ」事――これを目標に運動しなければならない。勿論、感情的に反撥する人も多いだらう。けれども、「理窟では反論出來ないが、感情的に反撥してゐる」人と、「理窟で納得しつゝ、同時に正かなを愛する感情を持つ」人とでは、後者の方が意志が強固であり、自然であるから、「運動」においては強い力を發揮する。かう云ふ人物を見出し、育てる事が、「運動」としては大事である。波江のやうなごり押し一邊倒・何でもかんでも力づく、と云ふ態度では、正かなの普及は望めない。そして、力づくで「正かなの世界」を實現したところで、意味はないのである。
平成十七年十一月四日
誰だつて「言はれてやる」よりも「自分からやらうと思つてやる」方が熱心になるものだ。「納得づくで」と云ふのは結局「自ら撰擇して」と云ふ事で、自分から積極的に正かなを用ゐようとする事を意味する。そして氣力の繼續は、氣力を維持する思想的背景を必要とする。茲で強力な理論のバックアップがある事は重要である。理論に破綻があれば、氣力の維持にも支障が生ずる。もちろん、波江のやうに「依怙地になる」例もあるだらうが、あれはアレなのであつてまともな人ならあゝにはならない。
平成十七年十一月四日
あと、言つておくけれども、普通の意味での歌心は、波江には無いよ。歌心――和歌をよもうとするみやびの心。歌を作ったり、鑑賞したりする事についての素養。波江に素養なんてものはこれつぽつちもないぢやん。
どうやら波江は「いろはもどきを作る氣がある事」を「歌心」と稱してゐるらしいのだが、そんな身勝手な定義は認められない。
平成十七年十一月四日
SKKで正字正かな

平成十七年十一月三日
文化なき文化國家の文化の日。
平成十七年十一月三日
Latest topics > 消費者ではなく生産者を食い物にするビジネス - outsider reflex
「生産者」も、「食い物」に「されてゐる」と云ふ自覺はなくて、この手の「出版社」から出した本を「著書」と稱して威張つたりする。
【創栄出版】ホーム
此處もその手の「出版社」だけれども、ここから本を出して貰つて、それで大威張りしてゐる人が實際ゐたりする。
いろは 伊呂波 IROHA - 案内と自己紹介及び著書
【楽天市場】とはのあめつち:楽天ブックス
「著書」なんて言つてゐるけれども、「自費出版」は「著書」扱ひしないのが普通。
多賀城市立図書館
「波江究一」で檢索すると、なんか「究一房叢書」とか云ふ「叢書」が澤山出て來る。同人出版だらう。本物の出版物ではない。こんな「本」でも、寄贈されれば受容れなければならない圖書館が氣の毒。書庫に抛り込まれて死藏される訣だが、こんな屑本の爲に他の本を置く場所が減つてしまふのだから、波江の「出版」と「寄贈」は或意味「犯罪行爲」だとすら言へる。駄本はない方が良い。
BOOK OFFでも、片隅に、詩集や歌集や句集が溜まつてゐる異樣な棚があつたりするけれども、似たやうな經緯で「出版」された「本」が多いやうだ。裝釘が綺麗だからBOOK OFFでは扱ふけれども、まともな古本屋では先づ扱はれない。古書としての價値がないからだ。
平成十七年十一月三日
Googleが繋がり難くなつてゐるのだけれども、googlesyndication.comも繋がり難くなつてゐて、廣告の所爲でなかなか表示されないぺーじが續出。快適Webスペース 無料レンタルサーバー land.toとか。當座の對策としてウェブブラウザでJavaScriptをオフにすると良い。
グーグルサイトが一時ダウン--DNS関連の問題で - CNET Japan
平成十七年十一月三日
波江の一番の問題は、「他人には寛容さを要求する癖に、自分は他人に對して餘りにも寛容さを缺く」事だ。
「他人には自分の主張に寛容である事を要求しながら、自分は他人の主張に寛容でない」――アレクセイもさうであるし、例の青梗菜もさうであるし、一聯の「トンデモHTML」の唱道者もさうである。麻生氏の「一民族」説を嘲笑した某氏もさうである。
平成十七年十一月三日
で、さう云ふ事を書くと必ず來る反論が「野嵜だつて他人に對して寛容でないぢやんかよ」。結論しか見ないから、論理的に考へられないから、さう云ふ「反論」が反論として通用すると思つてしまふ。條件としての「他人には寛容さを要求する癖に」の部分を讀み落としてゐるのである。
他人に「俺には寛容になれ」と要求してゐなければ、「自分が寛容でない」事は問題にならない。俺は「何時如何なる場合にも寛容でなければならない」とは言つてゐないし、さう云ふ理由で「寛容でない波江」その他を非難してゐるのではない。
しかし、かう云ふ理窟を言つても、「理窟が解らない人間」には通じない。逆に、理窟が解る人には、改めて理窟を言はなくても、既に話が通じてゐるものだつたりする。
平成十七年十一月三日

著作者の情報に尊敬する人を三人書いているが、先程見直してみたら、全員現代かなづかいに反対していた事が分かった。書いた時は気付いていなかったが、学校では教えてくれない日本語の秘密を読んでいて気が付いた。

福田恆存は戰後、「現代かなづかい」に反對した。
けれども、森鴎外と芥川龍之介は、戰前の人だから、戰後の「現代かなづかい」に反對してゐない。反對のしやうがない。生きてゐたら反對してはゐただらうと思ふ。表音的な「假名遣」には反對してゐる。
平成十七年十一月三日
波江が岡田先生の掲示板も荒してゐる。他人に迷惑を掛けるのは止せよ。正かな派の恥さらしだ。まあ、波江は、本物の正かな派ではなく、「いろ派」である訣だが。ありとあらゆるものから「いろは」を聯想し、自分の「いろはもどき」に故事つけて、自分のサイトを宣傳する「いろ派」。擧句、餘所の掲示板を「いろはもどき」の投稿で埋め盡す。
各地の掲示板に野嵜の發言を轉載し捲つてゐるのは、多分、「野嵜が波江批判を續けるなら、關係者に迷惑をかけ捲つてやるぞ。それが嫌なら批判を止めろ」と壓力を掛けてゐる積りなのだらう。しかし、さう云ふ言論以外の嫌がらせに俺は屈しない。
自分の「ブログ」の中に籠つてゐるのなら、別に波江が「いろは」「いろは」と同じ事を繰返してゐようと文句は附けない。他所に出張つて、盛んに迷惑をかけてゐるから、俺は波江を「スパマー」「掲示板荒し」と看做して叩いてゐる。
「スパマーの論理」「掲示板荒しの論理」くらゐ身勝手で腹立たしいものはない。「論理」の皮を被つてゐるが、彼らの言ふ事は論理でも何でもなく、ひたすら自分に都合の良い事を言つて他人を支配しようとするのが目的の、レトリックに過ぎない。
言論が提供するものは、判斷の材料だ。或言論に接して、その正邪を讀者は自分の頭で判斷する。逆に、讀者の判斷の機會を奪ふものは、言葉を用ゐてゐても、本來の言論ではない。波江は、讀者に判斷させない爲に、掲示板に投稿して、「野嵜は馬鹿」と云ふ豫斷を持つやう、惡口を言觸らしてゐる。波江は、知性の面でも最低のレヴェルにあるが、人間としても最低である。
平成十七年十一月三日
いろは 伊呂波 IROHA - 民草へ願ふ思ひ「私的」に
波江がなんかまたこちやこちや言つてゐる。

小生の著書は二冊を除きてすべて手澤本なるが、しかもこの平成の御世にあたりて著書といふべき唯一の詩歌文藝書なり。考へても見よ。かなころがしが一朝違反として片隅に追ひやらるるに至れる期に(そはいづれ歴史の必然なるが)今小生がなしつつある如く己が正統を確信し力を致してこれの普及公布に努めんと孜孜と励み得るものありや。

波江に據れば、自分の「いろはもどき」が普及しないのは、「かなころがし」(波江の造語、「現代仮名遣」の事を言つてゐるらしい)の所爲であるらしい。「かなころがし」が普及する以前、一度として「いろはもどき」が普及した事實がない事を見れば、「かなころがし」は關係ない事が解る。解らないのは波江だけ。
大體、波江の「いろはもどき」の何處が詩歌文藝だよ。正統だなんてとんでもない、邪道も邪道。「言葉遊び」なのだから邪道に決つてゐる。「いろもの」だよ。流石は「いろ派」。
藩屏なく詔下し得ぬ朝に皇子もなきを危ぶむ天

晴れ冴えし空にも居むをかぎろへる
 夕かげさすや代々の大海

愛植ゑつ常生ひ分けり練れる地を
 通す魔故舞ひ散らせぬ圍炉裏
日本語にすらなつてゐない。最後の行は明かに「剩りもの」の文字を並べ替へて單語を作つてそれを羅列しただけである(もつとも、今囘のこれはいつも以上にへろへろで、全體に「やつつけ」の感じが強くする)。ところが波江に據れば「日本語になつてゐない」のは「いろはもどき」の「制約」ゆゑで「當り前」なのだと。をかしいと判つてゐてやつてゐるのだから質が惡い。
しかし、波江自身、やまとうたをからえびすうたによみかへてかたみのすかたあきらめあはむ、なる非「いろはもどき」の歌をサイトに載せてゐて、これが「か」の音の繰返しで效果を擧げるべく作られてゐる事は明かなのだが、さう云ふ效果を擧げる事が出來ない事が判り切つてゐる「いろはもどき」が「歌」であるとは何なのだらう。日本の表音主義者が有難がる祖師ソシュールは晩年、アナグラムの研究に熱中したさうである。
續けて波江は、若合さんの名前を引合ひに出して出して野嵜を罵つてゐるが、結果として若合さんを罵る事になつてしまつてゐる。波江の配慮の足らないところである。野暮嵜如き者に正字正かなの校訂依頼したりなどするゆゑにと言つてゐるが、野嵜が校訂したら朗報を得る事が出來ないに決つてゐるのか? ならば波江は必然的な理由を示し玉へ。示せないならばそれは理窟ではない。理窟ではなく罵倒であるならば、波江は俺に謝罪し玉へ。「いろはもどき」の人間は、自分の誤も認識出來ず、謝罪も出來ない片端なのか? 「ゆゑに」と言へば理窟になると思つたら大間違ひだ。さて、野嵜に校訂を依頼したのは若合さんであり、校訂を依頼した「責任」は若合さんにあるのではないか。ならば、波江は野嵜ともども若合さんまでまとめて罵つてゐる事になる。なぜ其處に波江は想到しないのか。
若合さんにまで失禮極まりない事を言つて、それで波江は何をしたいのだらう。波江は、對照として引合ひに出した人までも、野嵜と合せて罵る對象にしてしまふ。餘程敵を作りたいらしい。

腹立たしければ岡田俊之輔氏掲示板に野暮嵜へのお尋ね書き書き込み置く。

波江は他人に八つ當りしてゐる。大の大人のすべき事ではない。なぜに岡田先生。同じ早稻田? 今までの話と何の關係もない。この手の「聯想ゲーム」が許されるのなら、「同じ男」みたいな括りで波江もマルクスも表音主義者も一緒くたにしてしまつて良いとか云ふ話になるだらう。波江のやつてゐるのは、野嵜の「身内」に對する脅迫である。こちらも對抗して「波江の言つてゐる事を肯定し、波江のやうに『いろはもどき』を作らうとする人は、誰であれスパマーの仲間と看做し、非難・攻撃の對象とする」みたいな事を言ひたくなる。
と言ふか、波江は多賀城の恥、仙臺の恥、東北の恥、日本の恥だよ。
平成十七年十一月三日
いろは 伊呂波 IROHA - うつしみ百一 ひつぎ
万民平等と言ひたければ、波江究一は恰も「俺樣が一番偉いのだぞ」と言はん許りの高慢な態度をとるのは止め玉へ。
それから、語に於て声の大きい所を独占して定着してしまつて居るインチキかなころがしを非難する波江が、他所の掲示板で「大きな聲」となり、其處の書込みを獨占し、定着してしまつてゐる事があるのは何? 「他人が獨占するのは許せないが、自分は獨占したい」――それが波江の本音か? さもありなん。
平成十七年十一月三日
と言ふか、自分で自分の「歌」の解説なんかやつて、恥かしくならないのか?
平成十七年十一月三日
それにしても、これだけ波江の「ブログ」を宣傳してゐるのに、誰一人波江のところに書込まないのは何なのだらう。
平成十七年十一月三日
波江が偉さうな事を言つてゐる。

いつまで決まり文句のケチつけて居る気なものか。早稲田OB諸君かかる者を恥と思はねば早稲田の将来はないね。

それと学識ある諸君やら詩歌壇にて名を得てをられる方新進大家素人を問はず私の開発した「字数歌」はまづ試みておくこと。さなくば日本文化の未来はない。作りて小生のブログに書き込む者あらば添削してやらんでもないぞ。

馬鹿も休み休み言へと言ひたいが、この決まり文句を波江は最う何十年も言ひ續けてゐるのである。何時まで決り文句を言ひ續ける氣なのか。
波江の「いろはもどき」の眞似をする人間が増殖したら、それこそ日本國が危ふくなる。「馬鹿が増える」事になるからだ。理窟の解らない馬鹿だから「いろはもどき」なんてもので「日本が救へる」と信じられる。
波江に言つて置くが、「やれる事」だから「やらねばならない」等と云ふ事はない。殺人は「やれる事」だし時には「やらねばならぬ事」ではあるが常に「やらねばならない事」ではない。それに、他に幾つも「やれる事」がある時に、それ等を差置いて一つの「やれる事」である「いろはもどき」を撰擇しなければならないとしたら、その理由は何か。「いろはもどき」の效能が、他の全ての「やれる事」を凌ぐと云ふ事を、波江は今まで一度も説明してゐない。ただ「信じろ」或は「やれ」と強要してゐるに過ぎない。「やれば出來る事」は、「必ずしもやらなくて良い事」、時には「やつてもやらなくても良いけれども、どちらかと言へばやらない方が増しな事」でもあるんだよ。
波江が説明しないのは、説明出來ないからである。説明出來ないのは、理がないからである。理がない事は間違つてゐる事である。波江は間違つてゐるのである。
一々判り切つた事を言ふ訣で、こちらが馬鹿に見えてしまふやうな氣もしないでもないけれども、ウェブでは聲の大きい方が勝つ、放つておいたら波江があちこちの掲示板を占據してアジ演説を繰返し、何も知らない人を騙してしまひ、結果こちらの立場が惡くなり兼ねない(既に「義」とか竹下義朗とかアレクセイとかにそれを繰返し繰返し繰返し執拗にやられて、こちらの立場は非常に惡くなつてゐる)。だから對抗上、俺は詰らない事を何度でも繰返して言はざるを得ない。波江究一はトンデモ。或は電波。波江の言ふ事を信ずる勿れ。「いろはもどき」なんて馬鹿なものを一生懸命作る可からず(暇潰しになら勝手にやれば良いとは言つておく。所詮言葉遊びなのだから、遊びとしてやる分には目くぢら立てる積りはない。波江の場合、「やれ」「やれ」と宣傳して廻るから、俺は怒つてゐるに過ぎない。と言ふか、「まじめにふまじめ」とか「眞劍に遊ぶ」とか、そんな馬鹿な言ひ方を平氣でしてしまふ邊、日本人は本當に駄目だと俺は思ふ)。
平成十七年十一月三日
自分のやつてゐる事が本當に正しいのか何うかは、常に反省されねばならない。猪突猛進、一度決めた事だからと言つて、疑ふ事もなしに何時までも何時までも同じ事を續けるのは、自己の主張の絶對性を盲信した結果である。
憲法にしてもさうだし、國語政策にしてもさうだ。が、夫れを非難してゐる波江自身、方法論としての「字数歌」を疑ふ事なく何年も何年も飽かずに唱道し續けてゐる。自己の主張の絶對性を盲信した結果である。
何であれ盲信が良くない事は論を俟たない。何も「自分自身を疑へ」等と言ふ積りはない、ただ、時々反省してみるのは善い事だと言ひたいだけだ。人間のする事に絶對はないのであつて、全體の方針が正しいとしても、理論で、方法論で、行爲で、態度で、何らかの缺陷が見附かる事はあり得る。それを見出して改善するならば、本質的に正しい思想であつても、更に良い思想となるだらうし、其處から生れる實踐行爲もより效果的なものとなるだらう。反省なくして改善なし、改善なくして進歩なし。
平成十七年十一月三日
批判はそれ自體として建設的ならず。
されど、實踐行爲もまたそれ自體として常に建設的であると云ふ訣ではない。「やつても無駄な事」は、何んなに積重ねても無駄のまゝである。
平成十七年十一月三日
と言ふか、波江は自分が他人の掲示板を荒してゐると云ふ自覺が本當にないのか? 俺は波江を批判してゐるだけだし、「ブログ」のコメントも純粹にその波江の記事に對するコメントでしかない。波江のしてゐる宣傳とは質が違ふ。宣傳が正しくてコメントが「荒し」とは、何う云ふ事なのだらう。波江の神經を疑ふ。
いろは 伊呂波 IROHA - 言痛き「荒らし」の言ひ種を

和語の語彙語脈味到の能力にかけて野暮嵜が「大失敗」をしでかしてしかも滑稽なことに一向それに気づかずに居るといふところなり

根據のない極附けである。波江の場合、かう云ふ「印象」を書く癖がある。これは批評ではない。

参加する文藝といふ基本性格をわきまへずして、自ら実作を試みることもなくして批評の高みにをらうとする態度は自慰にふける類として絶えず己をカリカチュアにしゐる愚挙と悟る日はつひになからむや。

「ブログ」は本來、批評的な文章を書く場である。波江にはその自覺がない。それに、野嵜は批評と云ふ文藝ジャンルを意識してウェブで文章を書いてゐるのであり、波江のやうに何でもかんでも「歌」「歌」「歌」と考へてゐない。批評は近代的な文藝ジャンルであり、参加する文藝等と云ふ性格を持たない。波江の場合は、文脈を考へず、何でもかんでも自分の大好きな参加する文藝なる概念に引附けて話をしようとしてゐるだけである。「空氣を讀めない」波江には、個別のものを正當に認識する能力が缺けてゐる。半可通も糞もない、波江こそものを知らないのである。何年生きてゐるのだらうか。同年生まれの「ホリエモン」の爪の垢でも煎じて呑めとでもいひたきところ。と言つてゐるが、「ホリエモン」の爪の垢を煎じて呑んだら何うなると言ふのだらうか。波江は適當に知つてゐる有名人の名前を引合ひに出して野嵜を罵つてゐるに過ぎない。半可通とは誰の事であらうか。波江自身である。

言語に内在する規則性とそれに伴ふ制約を自覚的に発見かつ之を駆使しつつ行はるる叙事叙情が詩といふものなり。

よくもまあ、何年も何年も、同じ文句ばかり並べ立てられるものだ。諳記してしまつてゐるのだらう。自分で自分を洗腦してゐれば世話はない。「いろはもどき」の何處が詩だよ。いろは歌は詩だが、波江の「いろはもどき」の殆どは詩でない。言語の規則と制約とに自覺的に從ひ、且それ等を駆使して書くものが詩であるが、夫れは要するに「正しい言葉遣ひで書く」と云ふ事だ。「いろはもどき」のほぼ全てで、波江は異常な言葉遣ひをしてゐる。それに、多くの「いろはもどき」が驚くほど低俗下劣な内容を含んでゐるが、それは波江が野暮天であり俗人であり品性下劣である事を示してゐる。

漫然たる行分け文もてほどほどの感動を伝え得たればとて之を「詩」称して足れりとしゐる間は国語問題は百年河清を待つがごとき状態にとどまりをらむ。

「いろはもどき」の「行分け」が「漫然たる」ものでないとは思はれない。波江の「いろはもどき」は、どれも文章のリズムがなく、感動も傳はつて來ない。脈絡ナシでいきなり「通す魔」とか「圍爐裏」とかの語が出現すれば、讀み手は白けるのが當り前だ。ところがそれを指摘されると、「いろはの規則性」とか「制約」とか言つて、波江は逃げてしまふ。あのな波江、「いろは」は具體的な「歌」に過ぎないんだよ。あいうえおかきくけこ云々は、ただの文字セットに過ぎない。それらを「一度づつ」使つたところで、文字セットの「制約」の中で何かをしてゐる事にしかならないんだ。文字セットと言語とは次元が違ふ。簡單な話、文字セットではあいうえおかきくけこ云々しか音がない。けれども我々はにょとかぴょとか言ふ。文字セットとありのまゝの言語とは違ふ。違ふものは違ふものなのだから仕方がない。夫れを波江は認めない。しかし、現實は正しく見据ゑるべきだ。波江は妄想の中に生きてゐる。「こつちの世界」に歸つていらつしやい。「そつちの世界」に一人でゐるのは寂しいから、仲間を作らうとあちこちの掲示板で宣傳してゐるのだらうけれども、俺逹は妄想の中に生きる積りはない。
それから、波江は漢詩を知つてゐるのだらうか。漫然たる行分け云々と繰返し言つてゐるが、日本語の詩歌の傳統には、和歌俳句の他に漢詩の系列もある。まあ、かう云ふ事を書くと、條件反射的に波江は漢詩を否定しにかかるだらうが、何うもさうやつて波江はどんどん自分の世界を狹めて來たものらしい。依怙地な人間と云ふのには困つたものだ。
平成十七年十一月三日
と言ふか、波江、野嵜の文章を轉載して「晒した」積りになつてゐるらしいのだが、それは掲示板荒しの常套手段だよ。如何にもDQN。
平成十七年十一月三日
波江は學問をしないから駄目なんだ。
平成十七年十一月三日
波江は、正かなで書かなければ「いろはもどき」を作れないからと言つて「いろはもどき」を作らせようとする。
文語の苑も、正かなで書かなければ文語にならないからと言つて文語で物を書かせようとする。
何か根本的に間違つてゐるやうな氣がする。
正かなが目的になつては行けないんだよ。正しい假名遣は物を書く正しい手段であるに過ぎない。重要なのは、正しい手段で書かれたものが優れたものである事だ。そして、その時、最早正かなか何うかは問題にされてはならない。書かれたものの良し惡しは、「正かなで書かれてゐるから」とか、そんな理由で決定されてはならない。正かなよりも先のところで物の善し惡しが判斷される――それが自然な事にならなければならない。
平成十七年十一月三日
さうか、文化なき文化國家だからこそ、日本には波江のやうな文化と云ふ事を勘違ひした人間が出て來るんだよ!
ΩΩΩ<な、なんだってー。

平成十七年十一月二日
『現代日本思想大系5 内村鑑三』(筑摩書房)卷頭の龜井勝一郎の解説は良い論文だと思ふ。乞御一讀。
平成十七年十一月二日
内村の文明論も興味深い。取敢ず電子テキストをでつち上げた。新字新かなの本をスキャンして假名遣を正かなに改めただけ。内村鑑三は千九百三十年に死去。著作權は消滅してゐる。
日本国の大困難
平成十七年十一月二日
『菊と刀』の勉強(000)
平成十七年十一月二日
いろは 伊呂波 IROHA - 言痛き「荒らし」の言ひ種を
掲示板荒しでスパマーの波江究一が惡口を言つてゐる。

人を書き込み禁止に処して置きながら、自分は当の禁止処置者のブログに書き込み放題といふ神経が問題なり。

理窟になつてゐない。波江の書込みは惡質だから書込禁止にするのが當り前。當方は波江の「ブログ」に書込んでゐるが、批判であり、正當なコメントだから問題ない。波江の「やられたからやり返す」と云ふ發想はまるで子供。で、この「問題なり」と云ふ根據のない斷定に、以下のやうな惡口が續く。

正字正かななりいろはといふ器の調律の仕方も知らぬまま妄りにわかつた風な口利きも笑止なり。

理窟になつてゐない(日本語にもなつてゐない――或は、日本語として「なつてゐない」――やうな氣もする)。波江は、最初に罵倒して、その罵倒から話を擴げて行つてゐるが、根なし草の暴言に過ぎない。まあ、「俺は兔に角野嵜を罵りたいのだ」と云ふ波江の感情だけは傳はつて來る。

「同じ語句が頻出」云々の指摘も所詮わかつた風の小賢しき短慮なり。「ゐゑろわ」等和語に於ける語彙例少なければ然なるは当然にして、かかる制約を逆に活用していかほどの範囲を叙情し描写し得るものなりやの実験をしゐるまでなり。

「実験」と言ふのは、文學において手拔きや語彙の貧困その他の作品の缺陷を胡麻かすのに使ふ常套句。しかし、結果として語彙が貧困になる事が明かになつたのならば、波江の「実験」は「大失敗」であると結論を出して良いのではないか――と、かう書くと、波江は反論するだらうが、最初から「大成功」と結論が決つてゐるのであれば夫れは「実験」ではない。

これ更に笑止にしてかかる例を幼児症的とはいはずや。渡名喜氏の掲示板へははかなごとの記事見つつつれづにひらめいたところをはかなごとにまづ書き込み渡名喜氏の下へもご参考までに追記せしなり。

盜人猛々しい。つれづれにひらめいたと言つてゐるが、波江は自分のサイトの宣傳をしてゐるではないか。波江は、他人の掲示板に書込む時、常に自分のサイトの宣傳をしてゐる。宣傳宣傳また宣傳と云ふ神經が問題なり。寧ろ無神經が問題なり。波江の「波」は、寄せては返す波のやうに何度も何度も繰返し自分のサイトを宣傳する厚顔無恥な波江の行爲を象徴してゐるのではないか。しつつこいのにも程がある。何一つまともな事を言はず、誰が何う見ても「たかが言葉遊び」でしかない「いろはもどき」の「歌もどき」をしつこく押附け、反論されれば恨んで感情的に罵倒する――こんな波江は、ウェブではただの迷惑なおつさんに過ぎない。
平成十七年十一月二日
波江曰、言葉に弄ばれないやうにする為にも心がけて言葉を存分に遊ばせてやることが必要だといつて居るわけでして云々。
fankee_jr曰、酒に飮まれないやうにする爲にも心がけて酒を存分に飮ませてやる事が必要だ? 酒飲みだつて、そんな事を言ふ馬鹿はゐないぞ。もしゐたら、そいつは病院に連れて行くべきだ、頭をやられてゐる。酒にビールを飮ませたら、ちやんぽんぢやないか。惡醉ひする。
良い酒飲みは他人に迷惑をかけない酒飲みだ。飲んで絡むな。下戸に酒を強要するな。そこいら中にゲロを吐くな。
実験とか言つて二六時中酒を飮むな。時に醒め、時に醉ふ、それでこそ酒は旨いのである。
しかし、この世には、酒を飲んでもゐないのに、醉拂ひよりも質の惡い醉拂ひ方をする人間がゐて困る。以上、fankee語録より。
平成十七年十一月二日
キモメンとか非モテ系とかの話をし始めるとサイトなり「ブログ」なりが詰らなくなる法則。
平成十七年十一月二日
本日の買物。フリーダム展。大類伸『ルネサンス文化の潮流』(文藝春秋選書)。小西茂也『風流滑稽譚 拾遺』(新樹社)。『中江兆民全集7 理学鉤玄』(岩波書店)。寺田透『道元の言語宇宙』(岩波書店)。教養文庫。その他。
平成十七年十一月二日
ここで最終兵器を投下。

平成十七年十一月一日
波江究一に據れば、自分が他人の掲示板を自分のサイトの宣傳で埋め盡す事はスパムではなく正當な行爲であり、他人が自分のブログにそれぞれの記事についてコメントを附すと荒らし放題なのだと。
俺の附けた投稿を一々コピー&ペーストしてうちの掲示板に轉載し、俺を罵倒して嫌がらせをした波江の方こそ掲示板荒しだらう。波江は何で自分が惡い事をしてゐると云ふ自覺がないのだらう。嫌がらせは惡い事に決つてゐる、當り前の話だ。と言ふか、罵倒と居丈高な説教だけで人は從ふものではない。波江には人情の機微と云ふものが解つてゐない。
ちなみに俺は、波江の「ブログ」で、批判はしたけれども罵倒はしてゐない。具體的に「歌」の拙い所を個別に指摘し、波江の「作歌」の態度で改善すべき點を擧げたに過ぎない。俺の忠告に波江がきちんと對應すれば、波江の「歌」は、今よりも増しなものになるだらう。依怙地になつて、今の「作歌」の態度に固執してゐる頑迷固陋な波江は、これ以上成長する積りもなく、自分の「歌」を進歩させようとする氣もない。それで良いと思つてゐるのだから病膏肓云々。
以前にも指摘したが、波江は、「正かなが大事」と言ひながら、實は假名遣ひよりも「いろはもどき歌」の方が大事で、「いろはもどき歌」の爲には國語を積極的に破壊せよと主張する「二重スパイ」の過ちを犯してゐる。自分の事を決して省みない傲慢な人間だから、波江は自分が「誤つてゐる」と絶對認めない。しかし、誰が何う見ても波江の言つてゐる事は可笑しいのであり、その可笑しさを自覺出來ないのだから波江は異常。俺は、ありのまゝの國語を守るべきだと信ずるから、波江のやうな獨り善がりな發想の持主は絶對に許さない。特定の目的の爲に國語を破壊せよと主張する波江は、表音主義者と全く同じだと考へてゐる。
平成十七年十一月一日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051031/p2

まずこの部分ですが、成程、ようするに憲法の「文章」だけを問題にしていた質問だったわけですか?

さうです。正にそれだけの意圖で憲法は引合ひに出したのでした。
個人的に、單なる統計學的な「傾向」としての「意志」と云ふのでなく、人間的な意味での「意志」は、「ある」民族には「ある」と思ふ。「ない」のは――實際、日本人には「ない」やうですが――それはそれで問題だらうと思ひます。と言ふより、さうした「意志」を持たない「民族」として日本人があり、さう云ふ日本人によつて日本國と云ふ民族國家が成立してゐる、としたら、それこそが深刻な問題ではないですか。

次に憲法と言うよりも「法」の話ですが、繰り返しになりますけれど私は「法の起源は政治的な権力であるが、しかし法の根拠となるのは正義の観念でなければならない」といっているわけです。政治的な闘争というのは戦争や革命だけではなく選挙や国民投票なども含みます。

思ふのだけれども、渡邊さんの用語の重大な問題は、さう云ふ風に「意義が擴大される」ところにあります。私も不注意で良く曖昧な物の言ひ方をして、現に渡邊さんを混亂させてゐるけれども、その曖昧さは、嚴密に言ふべきところで嚴密に書く手間を省いた好い加減な態度によるのであり、消極的な理由で生じてゐるものです。ところが渡邊さんの場合、前の「意志」についてもさうですが、今の場合も、積極的に用語の意味を「ずらす」操作をなさつてゐる。ほかの議論での事ですが、論爭相手を問詰めた時、相手がそれを意圖的にやつて逃げようとした事が何度もあります。ちよつと議論の仕方として「意圖的に用語の意味を擴張する」のは「ずるい」と思ふ訣です。もちろん、概念の意味が歴史的に擴張された事もあるでせうし、それは時代の變遷に伴つて必然的に起る事です。けれども、個人の思想において、一箇の用語が不必要に廣大な領域に渡つて「意味を持つ」のは何うかと思ふのです――と言ふより、用語の「意味のコアの部分が、時と場合によつて、微妙にずらされてゐる」と云ふ事、これは「ありがち」な話ですが、何うもよろしくないやうに思はれる。私は、「意志」の定義において、「傾向」と云ふ渡邊さんの定義に半ば同意しましたが、しかし、飽くまで私の立場は「統計學的な傾向としての意志」ではなく「人間的な意味での意志」の存在を認めるものであり、後者が私の用語の「意味のコア」である事に變りはありません。今の渡邊さんの政治的な闘争と云ふ用語、これに私は「意味のコア」を見出す事が出來ないでゐます。政治的な闘争と言へば、物部氏と蘇我氏の爭ひや、戰國時代の武將同士の爭ひ、或は三銃士に出て來るやうな陰謀、自民党内部の權力鬪爭、さう云つた「爭ひ」ならばイメージ出來る。けれども選挙や国民投票なども含みますと言はれると、「ちよつとマテ」と言ひたくなる。社會學か何かの用語法かも知れないですけれども、文學的な私には違和感を覺える用語法です。一つの用語で無闇に廣い範圍をカヴァするのは、何うも「聯想ゲーム」みたいに「言葉」で故事つけて話を繋げて行くやうで、そこに胡麻かしが這入り込む隙はないのか。
それから、國内法と「國際法」とでは、發想を根本的に變へて良いと思ひます。同じ「法」と言つてゐるから「聯想ゲーム」で同じやうに考へようとしてしまひますけれども、「國際法」は法治主義的な意味での法では「ない」と考へてしまつて良いと思ひます。一方の國内法は、夫れに依つて國家を運營すると云ふ方針を、建前としてとる事にしてゐる國家であれば、權力の暴走を防ぐ爲の國民の防壁なり何なりの役を果す事となり、單純に「権力(政治的闘争の勝者)が法を定める」とは言へなくなります。「日本国憲法」の解釋において、憲法の存在意義は「『法律を制定して國民を統治する爲政者』の專横を防ぐ爲のものである」とされます。實際、「日本国憲法」を遵守する義務は公務員にのみ「ある」事になつてゐます。(第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。)と言ふか、權力者が國民を統治する爲に制定する「法律」と、「法律の法律」として「法律」の制定を制約して權力の專横を防止する使命を持つ「憲法」とは、區別されるものであり、一概に論ずる事が出來ません。本質的に憲法は、国家権力を制限し、国民の自由を保障しようとするものです。

また、法の執行者(裁判官や官吏など)は運用によって悪法に抵抗して良いと考えます。

議員内閣制をとる日本の「三權分立」の考へ方から言へば、爲政者としての立法權に、國民の權利を擁護すべき司法權が對立する事になります。惡法で以つて國民を統治しようとする爲政者に、裁判官は憲法で以つて對抗します。
かうした「法律」と「憲法」との對立構造を想定する時、さらにそれ等を超越した絶對的な「正義」の觀念と云ふものは意味をなしません(そもそも、正義は相對的なものであり、文脈によつて「正しい」事は決ります)。ただ、飽くまで法治主義の立場を取る限りにおいて(さう云ふ文脈において)、法律を用ゐる爲政者の專横に對抗する爲に、憲法が堅固であり權威を持つ事が重要になります。其處で初めて憲法の正當性と正統性が重要になる。現在の法治主義の立場を取る日本國において、國民の權利を守る爲には、憲法がまともである事が大切な要件となります。もし、法律や憲法を越える價値觀を重視し、「それさへあればよろしい」と言ふのであれば、その人は既に法治主義を否定してゐる事になります。一往、法治主義の下では、統治者と被統治者との間に「鬪爭」の規則が「ある」事になります。が、その「鬪爭」は、最早「鬪爭」と呼ばれず、「訴訟」と呼ばれます。最近は、一部の國民がその訴訟を惡用し、裁判官の權威を利用して特定の價値觀を爲政者に押附けるのに裁判と云ふ手段をとる事があつて、大衆社會の問題を露しつゝありますが、從來、餘りにも強大であつた爲政者の權力を抑制する手段として法治主義と云ふ方法は有效であり、現在もそれに代るものがない爲に使はれ續けてゐます。裁判制度の問題を考へるにしても、法治主義の立場を一往は是認してその效能を理解しておく事は必要だと思ひます。
平成十七年十一月一日
既視感を覚える
例によつてHTML/CSSの論爭。今後の展開のフォローは徳保さんにおまかせ。
戰略として、いきなり「W3Cはかう言つてゐる」と入るか、「○○さんは、△△について、茲では□□と言つてゐるが、別のどこそこでは××と言つてゐて、矛盾してゐる。W3Cは☆☆と説明してゐるが、論理が一貫してゐる」とやるか。???
「tableかCSSか」と云ふ對立構造は成立しない。div厨のCSSサイトよりは、見出しレヴェルに基いてきちんと文書の構造化のなされてゐるtableサイトの方が増し。重要なのは見出しに基いた文書構造がきちんと表現されてゐるか何うか。tableもCSSも飾りです。えらいひとにはそれがわからんのです。
文書構造の議論になると、W3Cの仕樣書はてんで役に立たないから注意。
平成十七年十一月一日
本日の買物。フリーダム展。編集解説桑原武夫『現代日本思想大系27 歴史の思想』(筑摩書房)。柳田國男『言葉のいろいろ』(蓼科書房)。竹山道雄『京都の一級品』(新潮社)。『鈴木朖 百三十年記念』(鈴木朖顕彰会)。教養文庫。日本古典全集。その他。
平成十七年十一月一日
何か知らないけれども、「正かな派」の中に何故か江戸時代の戲作文學の文章こそ「正統」の日本語の文章であると信じてゐるかのやうな文章を書く人がゐる。如何なものか。

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