闇黒日記


平成十七年十月三十一日
時代や状況が變化した時、「法律なり憲法なりは運用で何とかすれば良い」と云ふ發想は、慥かにその通りで、だからまともな自衞官はいざと言ふ時には「超法規的」な行動を取る積りでゐる。法に則つたやり方をしてゐては間に合はない。それは栗栖弘臣氏が四半世紀前にはつきり言つて問題になつた。今でも法的整備は全然進んでゐないから状況は變つてゐない。が、それで良いのか。
「運用で何とかしろ」と主張する人は、さう云ふ「『運用』を強要されてゐる人々」の事を考へてゐない。或意味「非人道的」だとすら俺は思つてゐるのだが、主張してゐる當人にして見れば自分は「現實的」な事を言つてゐる「だけ」の積りであるのだから質が惡い。世の中、「運用」それ自體の善し惡しではなく、「法律」なり「憲法」なりに照らして「運用」が「正しい」「正しくない」を言ふ人は尠からずゐる。その時、必要な「運用」を行つた人が泣く羽目に陷る事が「ある」のは困つた事であるが、何故其處まで考へないのだらうか。
現實社會は、欲得づくとか建前とか、それ許りでなく、正義の觀念でも動いてゐる。それ等を總體としてそれ自體として認めないのは、寧ろ非現實的だとすら言へる。
平成十七年十月三十一日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051031/p1
「民族問題」は御終ひ、と云ふ事で。引續き「憲法問題」の御話。('A`)
法の起源政治的な暴力と定義するのも、法を定めるのが政治的な闘争の結果生まれた権力であると定義するのも、マルクス主義の定義の仕方にほかならず、非人間的に過ぎるものなので、私は賛同しません。本質的に法は規則であり、規則は社會に秩序を實現する爲のものです。權力を求めて人が鬪爭する事はありますが、鬪爭に據つて初めて權力が生れる物であると云ふ訣ではありません。どうもこの邊りで私と渡邊さんの考へ方は根本的に違ふ。渡邊さんにして見れば、法は政治權力の支配下にあるものであるに過ぎません。
併し、私は以前から申し上げてゐる通り、「法治國家の建前を取る限り、權力もまた法の支配下にあるべきものである」と考へます。そして、日本は明治以來、法治主義の立場を取り、法治國家の建前を取つてゐます。さう云ふ「文脈」がある以上、また、日本國が明治以來、一貫して「一つの國」である以上、「現行憲法を認める事は出來ない」と私は考へる訣です。それは兔も角、「法治主義」「法治國家」と云ふ建前を取る限りにおいて、法は「運用」で何う斯うすべきでなく條文自體の改正によつて状況なり時勢なりに適應して行くべきだと私は考へます。日本は「法治主義」の立場を取る「法治國家」である、と云ふ條件が「ある」と私は考へます。「法治主義は正しいのか?」と云ふ一般論をする積りはありません。そもそも、私は「憲法問題」を議論したい訣ではありません。

ところで、私は日本国憲法は条文もおかしいところがいっぱいあるし、そもそも日本では憲法の扱いがおかしい、と言っているわけで、憲法一般がおかしいとはまでは言っていませんよ。

どうも渡邊さんは、なのに渡邊さんは一般論として「憲法には問題がある」と囘答された御樣子。と云ふ文章の「憲法」を「日本国憲法」ではなく「憲法と云ふ概念」と御讀みになつた模樣。それはさうとも取れるでせうが、私は「日本国憲法」と言つた積り。文脈で判ると思つた。話が全然噛合はない。なぜだらう。
平成十七年十月三十一日
それにしても、一方的に「法は政治權力に從屬するものである」とか、さう云ふ發想をする人がゐて、しかもさう云ふ人が「自分は現實的だ」とか思つてしまふのは、何なのでせうね。人が規則を作るものである。成程それはその通りでせうが、「作られた規則」も、一旦この世に存在してしまふと、それ自體として權威を持ち、人を拘束するのです。『蝿の王』について松原氏が書いてゐる。けれども、『蠅の王』の讀者は、自分の中にジャックを見出すと同時に、ほら貝の果たした意外に強い效果を認識するはずである。「現實主義者」が、權力の力許りを重視して、法の力を極端に輕視する理由が、私には解らない。權力も法も、どちらもそれなりの力を現實には持つてゐるのだから、それらをありのまゝに認める事こそ本當の現實主義だと思ふのだが。
松原正著『人間通になる讀書術』紹介
平成十七年十月三十一日
本日の買物。小川図書。福原麟太郎『本棚の前の椅子』『英文學の輪郭』。古書會館フリーダム展。フレイザー『現代の英文學』。中谷宇吉郎『民族の自立』。林健太郎『移りゆくものの影』。山田孝雄『神道思想史』。教養文庫十册。
フリーダム展は、黒つぽい本が多く、人が少い、とても氛圍氣の良い古書展。一般人も入場可。十一月二日まで。

平成十七年十月三十日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051028/p2
渡邊さんの説明では、「歴史」と「人間の社會」とが區別されてゐないやうに思はれます。

私が言ったのは、人間集団の全体に意志があると見なせば、歴史に目的を設定することになる、ということです。

歴史は人間の活動によつて「結果として生成されるもの」であつて、人間集團の意志によつて設定される目的は飽くまで人間集團の目的でしかないのではないですか。

何度も書いていると思うのですが、これについては同意します。というか、私は野嵜さんの「物の見方」を絶対的に否定してはいないと思うのですが。ただ、そうではない日本人も少数ですがいると思いますし、在日朝鮮人・韓国人は、日本人よりももっと他者を理解している人が多いし、共存を図ってもいると言っているわけです。

絶対的に否定してはいないとおつしやいますが、ならば渡邊さんは「相對的に否定してゐる」のではないですか。しかし、さう云ふ否定の仕方が今の議論において意味があるのですか。

それらはごく一部のことでここでは全体の話をしているのだから問題にならない、ということなのでしょうか。

既に私は、「麻生氏説を否定する立場」が「絶對的に『日本は一民族の國家ではない』とする立場である」と主張しなければならない立場である一方、「麻生氏説を擁護する立場」が「『日本は一民族の國家である』と看做す立場もあり得る」と主張しさへすればそれで十分な立場である事を説明しました。そこで「しかし、『日本は一民族の國家ではなく他民族の國家である』と看做す立場も『ある』んだぞ」と主張されても困る、と申してゐるだけです。

しかし全体の話をしているときも少数者の存在を無視するべきではないと思います。

論理的に言ふならば「全ての〜は」の形式で主張するか、「或〜は」の形式で主張するかのどちらかにしかなり得ません。渡邊さんは今、「全ての人間は、少數者の存在を無視してはならない」と言つてをられます。これは絶對的に野嵜の主張が間違つてゐると言つてをられる事になりますが、何故先程、というか、私は野嵜さんの「物の見方」を絶対的に否定してはいないと思うのですが。等と渡邊さんは御書きになつたのでせうか。

発言が問題視されたのは政治的な観点からでしょう。

實際、其の程度の事を私は指摘してゐるに過ぎず――と言ふより、「いろいろな物の見方」が「あり得る」のだから――今の議論も馬鹿馬鹿しいものだと思つてゐます。日本が一民族か多民族かなんて、ただの政治問題に過ぎません。少數者の問題も、多數者に對抗するだけの爲の議論であるならば、政治的な議論に過ぎません。

「根拠」についてですが、しかし、誰でも個々の生活の場での経験から抽象して民族なり国家なりを考えるより仕方がないのではないかと思います。「日本人」にせよ「朝鮮人」にせよ、具体的に顔を浮かべることができる誰かとの直接的な関わりを通して、全体像を組み立てて行くわけで(もちろん個別的な経験には偏向もありますのでいろいろな条件を勘案して偏りを修正しなければいけませんが)、そういった生活の場から完全に遊離した精神の場のようなものからは、現実離れしたイメージが生まれてきてしまうのではないか、とも思うのです。

個人の顏を思ひ浮べるのは結構ですが、そこから「日本人」だの「韓國人」だのと抽象化してゐる時點で、既に現実離れしたイメージは生じてしまつてゐるのではないですか。「国民の意志」なんてものは「ない」と言へるとしたら、「日本人」にしても「韓國人」にしてもそんな人間は「ゐない」と言ふ事が出來るでせう。

個々の話をし出したら切りがない、と野嵜さんは言われるのですが、私は、こういう話はある程度「切りがない」ものだと思います。

個々の人間の話をするのが可能な領域と、個々の話を閑却して大雜把に話をする事しか出來ない領域とが「ある」と述べてゐるだけです。私がその前者を「道徳」の領域と呼び、後者を「政治」の領域と呼んでゐる事は、既に御存じの事だと思ひます。

それでもこういった意見の交換は、個々の実践の上で意味があると考えるのですが、いかがでしょうか。

意見の交換は意味なり意義なりがあると思ひます。しかし、交換される意見について、我々は議論の文脈に即してその内容を自覺的に捉へておかなければならないと思ひます。自分がしてゐる主張、或は、否定すべき相手の主張が、「全ての〜は〜であるべきである」なのか、「或〜は〜であつても良い」なのか。さうしないと、今のやうに、「『日本人は一民族の國家である』と云ふ物の見方があつても良い」と云ふ主張に對して、「『日本人は多民族の國家である』と云ふ物の見方もあつても良い」と反論して「何時如何なる場合にも『日本人は多民族の國家である』と考へなければならない」と云ふ結論を押附ける事になつてしまひます。
論理的に「話が噛合はない」状況が出現する事で、議論が泥沼に陷る事になると私は考へるのですが如何でせうか。
論理學の發達したのが、他者との接觸機會が極めて多く、論理によつて他者を説得せざるを得ない状況が極めて多かつた西ヨーロッパであつた、と云ふ事は、注目すべき事實でせう。他者との接觸機會が少かつた日本に於て、論理的な議論の仕方が發達しなかつた事は、歴史的な事實として認めざるを得ません。西歐とかアメリカとかの「進んだ國々」で成立した理論を持つて來て、「理論的に議論する」事は、日本人は得意としてゐます。けれども、さうした理論が成立するまでになされた議論に於て用ゐられた嚴密な論理的な態度は、日本人は屡々看過してゐます。重要なのは、或「論理的な立場」に固執する事でなく、「論理的な態度」に基いてあらゆる論理なり立場なりを檢討し續けて行く事だと思ひます。どうもそれが日本人には極めて苦手であるやうに思はれます。彼我の説における「全ての」「或」の區別をしないで、「理論」として「何でも一概に相對化する」と云ふ「相對主義」は世間に瀰漫してゐますが、それでは困ります。
平成十七年十月三十日
それから、「国民」には「意志」があり得ないとする渡邊さんの主張に據れば、現行憲法の前文は眞赤な嘘と云ふ事になり、渡邊さんは現行憲法を否定しなければならなくなりますが、その邊、如何でせうか。あと第一條。
平成十七年十月三十日
最初に「馬鹿?」と云ふ一方的に麻生氏を小馬鹿にする態度を某氏が示した事に對して、さう云ふ態度は如何なものか、と俺は「疑問を呈した」のだと、そんな「文脈」が現在の議論にある事は御承知おき頂きたく存じます。
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051030/p
はつきり言つて民族が何う斯うと云ふ事の問題の決定的な解決に俺は全然興味がありません。その點もまた御承知おき頂きたく。

それは「歴史」を「人間社会の歴史」としたことからもおわかりいただけると思うのですが、「人間が作るもの」として「歴史」を考えたからです。

揚げ足取りレヴェルの指摘しかする積りがありませんのでその點も云々。「人間」が「歴史」を「作る」ものであるのならば、當然ながら目的を持つて「作る」のではないですか。勿論、渡邊さんもその邊の御自分の考へに「穴」が「ある」事は御承知であります。

私の考えでは、人間は歴史を作るわけですが、しかし統一された意志によってではなく、てんでばらばらな方向を向いた複数の意志の綱引きによって作る(できていく)のであると。

さう云ふ言換へが許されるのならば、野嵜の言ふ「意志」も、「てんでばらばらな方向を向いた複数の意志の綱引きによってできていくもの」と渡邊さんは理解なさる可きではないですか。それで渡邊さんは私の言つてゐる事につつこむ理由がなくなります。話は全て御終ひ。
平成十七年十月三十日
で、ところで、ですから、話題が完全に切替つてゐる訣で、さう云ふ風な形で議論が別の方向に進んで行くのが「良い」のか何うか、疑問がある訣ですが、まあ、こちらも憲法の話を持出したし云々。
……「日本人」「韓国人」というのは、属性ですから、「いる」とか「いない」とかいう問題ではないと思います
「属性」としてのみ「日本人」「韓國人」と云ふ觀念が「あり得る」と云ふのでせうか。そんな事はあり得ません。「誰某は日本人である」式の言ひ方しか「あり得ない」と渡邊さんは仰るのですが、では、「日本人は〜である」式の言ひ方がこの世に皆無であると云ふ證據を見せていただけますか。こちらからの反論は「ぐぐれ」の一言。
平成十七年十月三十日
ところで、「日本国憲法」に「日本国民」と云ふ言ひ方はあつても「日本人」と云ふ言ひ方がない件。
平成十七年十月三十日
憲法の話。

法律というのは基本的にはその運用が最大の問題であって、条文そのものは時代や状況によって変化してしかるべきで、もちろんそこには正義とか公正さとか論理的な正しさとかの観念を考慮することが必要だと思いますが、いたずらに偶像視して永遠不変のものと定めるなんて馬鹿げていますし、また憲法で保証されればどんなことでも正当化されると考えるのも同様です。

私も法律を餘りにも重要視する意見には贊成しませんが、渡邊さんの考へ方にも贊成出來ません。憲法について、渡邊さんは、時代や状況が變つた時、「運用で何うとでも出來る」「條文を變化させる事が出來る」と述べてをられます。が、その二つの考へ方は竝立させて良いものでせうか。それでは「憲法については適當な態度をとつてゐて良い」と云ふ事になる訣ですが、それで法治主義の國家は成立つのでせうか。
時代や状況が變つた時には、運用で何とかするのではなく、法の條文自體に修正を加へる可きである、と考へる事で、初めて「法に基いた統治」を原則とする法治國家は成立するのではないですか。「運用」で何でもやつて良いと言ふのであれば、それは最早、法治國家ではありません。日本國は法治國家との建前をとつてゐるのであり、さう云ふ建前がある以上、建前をぶち壞すやうな事をすべきでありません。偶像視が「良くない」事は慥かにその通りだと思ひますが、だからと言つて必要以上に輕視する事もないでせう。それに、必要以上の重視と必要以上の輕視とは、裏腹のものです。「それなりの筋を通すのが必要である」とする法治主義の下では、一往、「それなりに筋を通す事」が必要であり、「運用」で何う斯うすると云ふ發想は或程度までにしておかなければなりません。が、憲法論議は別にそんなにしたい事ではありませんからこの邊で終了と。
平成十七年十月三十日
と言ふのは。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

「国民」に「意志」が「ない」とする渡邊さんの立場にしてみれば、「国民」と云ふ單語を多用してゐる「日本国憲法」の文章には「問題がある」と「言はざるを得ないですよね」と質問をした訣。なのに渡邊さんは一般論として「憲法には問題がある」と囘答された御樣子。

平成十七年十月二十九日
ねたばれ注意。
漢字楽園
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はてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナ
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平成十七年十月二十八日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051027/p2
ならば選擧で「国民の意志」("国民の意志" - Google 検索)が示される事もあり得ない、と云ふ事になりますね。社會は常に何か物理的な法則のみに從ふものであるみたいな唯物論的な發想を私は採りません。然し、さう云ふ唯物論的な發想こそ、目的論的であります。
「歴史に目的がある」と云ふ發想から、どうして「集團は全體として意志を持つてゐる」と考へられる事になるのでせうか。歴史が、それ自體で目的を持つて、流れてゐるのなら、集團はただその歴史に衝き動かされ、押し流されるだけで、意志を持ち得ない事になるではないですか。
日本人が集團的な意識として「日本人は一民族の國家である」と思つてゐるか何うか、なんて事は問題になりません。私はそんな事を言つてゐるのではありません。「大體、日本人には排他的な傾向がある」と云ふ事は言へるでせう。それで「日本は一民族の國家である」説の傍證として十分であると。日本人は、意識的にであれ無意識的にであれ、「他者」(鉤括弧附きで言ふ)の存在を認めてゐないらしき節があります。
一方の在日韓國人・朝鮮人にしても、現在のところ、自分逹を「韓國系日本人・朝鮮系日本人」とは稱してゐません。飽くまで彼等は自分逹を「韓國人・朝鮮人」だと呼びます。「在日の人」は、日本で長年生活し、日本の習慣に染まつてゐます。けれどもそれは、ただ單に「自分逹のアイデンティティ」を喪失してゐるだけの事であり、消極的に日本の社會に埋没して行つてゐるだけの事に過ぎません。韓國人・朝鮮人の民族として持つてゐる文化が、日本の文化と融合し、日本の文化に影響を與へ、全體として新しい日本の文化が成立してゐた訣ではありません。彼らの文化は、日本の文化と衝突し、日本の文化に壓倒され、單に消滅した、それで彼等は日本の生活に馴染んでゐる。けれども、それでは、日本人の既存の文化が日本國の文化の成立に寄與したやうに、韓國人・朝鮮人の文化が日本國の文化の成立に寄與したものである、とは言へません。
私は、民族の問題は、人間の問題であるだけに、「物理的・唯物的な物の見方で濟ませてしまつて良い」とは思はれません。「二つ以上の民族が國境線の内側に同時に存在するから多民族國家だ」のやうな單純な論法は、私には受容れられません。もちろん、私のやうな人間の精神を重視した物の見方を受容れられない人もゐると思ひます。けれども、そこで私の主張を排除しようとするのなら、それはそれで偏狹な物の見方であると言はざるを得ません。今囘の議論に於て、麻生氏の「一民族」説を「排除する」意見が最初に提出されて、それに野嵜は反論した、と云ふ經緯があります。麻生氏の説を排除する側には「偏狹でなければならない」事を立證すべき義務が存在します。一方、野嵜は「さう云ふ見方あり得る」と立證すれば十分である事になります。野嵜は既に立證を終へてゐます。それに對して「一民族」説を斷乎として否定する立場からは、「私は××と考へる」と云ふ以上の、「一民族説」の存在を絶對的に否定する根據が提出されてゐません。

「日本は一民族の国家である」という観念を有している人が日本には多い、ということなら了解するが、その観念は実態に反しているし、またそういった観念を持っていない人も多い、ということを私は云っている。

觀念を有してゐる人が個別にゐるかゐないかは全く問題にならないのであり、日本人の態度全體で表明された日本人の意志のみが問題となります。さう云ふ「意志」が存在するのかと言へば、「しない」と言ふならば選擧に於て「国民の意志」は表明され得ない事になりますし、逆にその程度の意味で私は「意志」と言つてゐるに過ぎません。実態に反していると渡邊さんは言ふけれども、その実態を一つに決定すべき客觀的な根據を渡邊さんは全く擧げてゐない。渡邊さんは、集団が全体として「意志」を持って動いていると考えるのは、歴史に目的があるという発想からは可能だが、私は歴史には目的などないと考える。と言つてゐて、或物の見方・考へ方を否定するのに、ただ「私の考へは違ふ」と云ふ私見を披露してゐるに過ぎません。その渡邊さんの私見が、他の物の見方を決定的に排除すべきであるのなら、その根據を示すのが筋なのですが、渡邊さんは「私の考え」と言つただけで濟ませてしまつてゐます。渡邊さんは、自分の考へが普遍的であり絶對的であると信じてゐるのです。しかし、其處に「渡邊さんの排他的な態度」を見出すのは無理がある事でせうか。それに、どうもさう云ふ「自己の排他性を意識しない」傾向は、日本人には屡々「ある」やうに思はれるのです。
平成十七年十月二十八日
神田古本祭。人出で賑はふ神保町。人が増えると空氣が惡くなるのは、虹裏でも神保町でも同じで、とてものんびり本を漁れる雰圍氣ではない。古書會館の古書展も、祭だからといつてやつて來るアレな人に買はせようと、古本屋が氣合を入れてろくでもない本許り棚に並べてゐるので、普段の日の古書展のやうには掘り出し物がない。
三省堂會場で中河與一『中河与一歌論集』(1978年4月31日発行・古川書房)だけ買つた。正かな。本書所收の「あきれた文章」と題された短文で中河氏、篠弘なる人物が昭和十五年に出た「潮音」の文章の筆者・桐谷侃三の正體を中河氏と極附け、中河氏が其處で個人主義、自由主義を攻撃し、善麿の「六月」を非難し、善麿を槍玉にあげてゐた、と極附けたのに憤慨し、しかもその風説歌壇全體にわたつて殆ど常識化せられて流布してゐた事に唖然としてゐる。そして、前にも平野謙なる人物が、この篠文章と同じやうな構想で惡意にみちた根據のないことを書いて繰返し僕を執拗に中傷した、と述べ、總じて戰後の罪を全部僕にかぶせようとする演出者が何處かにゐて、左翼を利用しながら斯樣な一聯の事をまことしやかに文壇に歌壇に流布したものとしか考へられない。僕は戰後のドサクサを利用して最大の被害をうけたと云へる。と感想を述べてゐる。

少くとも評論をかくくらゐのつもりなら、さういふ捏造によつて事を論じ、批判してはならない。その心がけに於て、もつと眞劍に眞實に立つてものを言ふ習慣をつけなければならない。僕は篠といふ人がどんな經歴でどんな仕事をして來た人か少しも知らないが、少くとも偏見を排して眞實といふことを大切とする精神を先づ第一に養はれんことをすすめる。

平成十七年十月二十八日
先日拾つて來た国立国語研究所資料集2『語彙調査――現代新聞用語の一例――』(国立国語研究所 1952)に興味深い記述があつた。
「1.五十音順による語彙表」の「まえがき」。

五十音順の排列は、次のように定めた。

……

(2)現代かなづかいで書かれていないものについては,

  • a.漢字で書かれているもの
  • b.歴史的かなづかいで書かれているもの

は現代かなづかいに飜訳する。

……

平成十七年十月二十八日
http://d.hatena.ne.jp/funaki_naoto/20051025/p3
社會的には最う「歴史的假名遣の傳統」は絶えてゐると言ふしかないのではないですか。使ひ續けてゐるのは飽くまで個人に過ぎません。
で、事實・現實として歴史的假名遣の傳統は斷絶してゐるけれども、理念として正假名遣が正統の表記である事は誰も否定出來ません。

平成十七年十月二十七日
個人レヴェルでの交流或は混血は、必ずしも民族レヴェルで意味を持たない。ガーネット『水夫歸る』はさう云ふ意味で示唆的であると言へる。
平成十七年十月二十七日
「皇室典範に関する有識者会議」が女性・女系天皇を「容認する」と結論を出した。それに對して、「男女平等」の概念と結び附けて「歡迎」するとか感想を述べた人がゐるさうだ。馬鹿かと思つた。「女性・女系天皇」の主張は、天皇を維持・存續させるのが目的なのだから、明かに封建的な發想に基いた主張なのだが、そこに「男女平等」と云ふ「民主主義的な發想」が持込まれたと言つて喜んでどうしようと言ふのだらう。「男女平等」と言ひたいだけではないのか。最う馬鹿か阿呆かと。
平成十七年十月二十七日
二十六日の買物 @ 新宿展。鳥越憲三郎『歳時記の系譜』(毎日新聞社)。岡本かの子『老妓抄』(陽徳叢書7)。文/保田與重郎・写真/葛西宗誠『大和長谷寺』(淡交新社)。柳田國男『新國學談 第二册』(小山書店)。『我が師を語る 近代日本文化の一側面』(社會思想研究會出版部)。山田孝雄『連歌及び連歌史』(岩波書店)。カール・R・ポパー『科学的発見の論理(上下)』(恒星社厚生閣)。
平成十七年十月二十七日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051027/p1
彼我の民族の間に差異があるか何うかは現在の議論の「文脈」において問題にならない。問題は「一つの社會の構築に參與する意志」があるか何うかだ。赤の他人であつた男女が結婚して一つの家庭を作る事は「あり得る」どころか渡邊さんが經驗してゐる事である。しかし、赤の他人の男女が、例へば電車の座席で隣り合つて坐つたとして、その時其處に「家庭が出現した」とは言へない。韓國人やアイヌが大和民族と共同で國民國家としての日本國を作る意思を持つてゐるか。一方の日本人の側にも、彼等と共同で日本國を作る意思があるか。異る民族が隣接して別個に存在してゐる事と、異る民族が意志を一致させて一つの社會を作らうとしてゐる事とは全然違ふ。
「日本は一民族の國家」と云ふのは、良かれ惡しかれ「事實」だと思ふ。否「良い」と思つてゐるのは一般的な右翼の人であり、俺は「惡い」事だと思つてゐる。「事實」であるのは何うしやうもない事だ。けれども、さう云ふ惡き事實を認識して、それで初めて改善しようと意志する事が可能になるのではないか。「不可知論で濟ませてしまつて良い」と考へてゐるのは、寧ろ「惡き事實」を認識してゐない人の方だと思ふ。

平成十七年十月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051025/p2
むしろ大和民族にアイヌ民族や琉球民族が(ほぼ)吸収された、というふうに見るのが妥当だと思う。
何うだらう。アイヌは吸收されなかつたと私は見る。だからこそ「一民族」と見る訣。
日本には野生のコウノトリは一羽しかいないが、しかし「絶滅寸前」と云っても「絶滅した」とは云わないわけで。
正字正かなの傳統は「斷絶した」と俺は思つてゐる訣で。
アイヌの文化は、「保存」されてゐる「文化財」になつてしまつてゐる現状、既に「死んでゐる」よ。正字正かなだつて最う既に「死んでゐる」。
やつぱり問題は「ものの見方」だと思ふよ。
平成十七年十月二十六日
大和民族の「出自」を考へると、「そもそも大和民族なる概念は成立するのか」と云ふ疑問が生ずる。古代において、東國の人間と、西國の人間とでは、どうも違ひがあつたらしい。流石に「騎馬民族説」は否定されてゐるけれども、大陸方面から人々が渡つて來て、北九州から瀬戸内海・近畿にかけて獨自の文化圏を作つてゐた形跡はある。さう云つた事情を勘案すると、一つの民族としての大和民族と云ふ概念は否定する事も可能だらう。
平成十七年十月二十六日
影響を受けたと言へば、支那やポルトガル、オランダから日本人は影響を受けてきたので、それでは日本人は支那民族やヨーロッパの方の民族と歴史的に一體化したのかと言ふと、さうではない。文化には核となる部分があつて、そのレヴェルで融合が行はれたか何うかが問題となる。
平成十七年十月二十六日
アイヌと日本人とを「完全に別の民族である」と見るのも一つのものの見方でしかない。アイヌ語と日本語との間に關係が「ある」のか「ない」のかで、今も見解は分れてゐる。見方によつては、日本人とアイヌとは同一の文化に屬してゐると言ふ事も出來る。「全然違ふ」と云ふ反論も「ある」だらうし、それが普通だらう。しかし、「なまはげ」の行事をやつてゐる東北と、阿波踊りをやつてゐる四國とですら、同じ「日本の文化」に屬してゐると見られてゐる。無茶苦茶を言つてゐるやうに思はれるだらうけれども、「何を以て一つの文化圏と看做すのか」と云ふのは結構大問題だ。麻生氏の「一民族」説は、大雜把な話とすれば、強ち「誤」とは言へない。大雜把でない話を始めれば、そもそも民族の概念からして疑ふ事が出來るだらう。實際、民族の概念があり得るのか何うか、は、何處だかで疑はれてゐた筈。
平成十七年十月二十六日
言つておくけれども、俺は麻生氏を擁護してゐるのではなくて、麻生氏批判(その中でも、或種の麻生氏批判)を批判してゐる。
麻生氏批判には、「馬鹿」だの「複數の民族がゐるから仕方がない」だのと、餘りにも物事を單純に割切つてしまふ態度が目に附く。それは如何なものかと俺は思つた。麻生氏にしても割切りが過ぎる面はあるけれども、同じやうに單純に割切つて物を考へてゐる人が麻生氏を非難するのは何かをかしいと思ふ。
平成十七年十月二十六日
「民族が複數ゐる」=「ただ單に並存してゐる」。
スタティックな状態でしか歴史的な存在である民族を見ないと云ふのは、歴史的な物の見方として間違つてゐると思ふ。ダイナミックな歴史の流れを全體として捉へる事こそ、歴史的な物の見方である、と思ふのだが。
平成十七年十月二十六日
現在、アイヌが「文化を守つてゐる」としても、その「守つてゐる文化」の領域は「日本」の内部に「ある」――と言ふより、日本人はアイヌの文化を「我々」の「内部」の存在として認識してゐるのだらうか。アイヌの土地は慥かに日本の國境の内側に「ある」。けれども、アイヌの文化を日本人は「我々」の精神の内部に「ある」と看做してゐるだらうか。物理的に取込んでしまつたアイヌの文化を、日本人は精神的に取込んでしまつてゐるだらうか。さうではないと思ふ。その時、「地理的には一體」であつても、「精神的には隣接して別々に存在してゐる」と言ふ事が出來る。さうなると、我々の「日本國」を精神的に形成してゐるのは日本人だけである、と云ふ事になる。法的にアイヌは日本國籍を持つてゐるが、「同じ日本國民」として日本人はアイヌを見てゐるだらうか。依然「アイヌはアイヌ」であると看做してゐないか。同じ事は在日韓國人・朝鮮人についても言へる。彼等が飽くまで「ただ單に現在たまたま日本に居留してゐるだけの韓國人・朝鮮人」と自らの事を思つてゐるのなら、彼等は日本人にとつて異邦人であり、日本國を一緒に形成してゐる同胞とは看做せない。
平成十七年十月二十六日
アメリカに渡つた日本人。中には日本人街を作つて住んでゐる人もゐる。彼等には日系人としての誇りがある場合もあるしない場合もある。けれども、彼等はまあ大體自らをアメリカ人の一員であると看做してゐるだらう。メンタリティ的に彼等はアメリカ國民の一員である積りでゐる。アメリカに移民した多くの民族の人々が、それぞれ積極的に「アメリカの社會に參加」してゐる――この時、アメリカと云ふ國家は多くの民族によつて形成されてゐると言つて良い。
アイヌが自らを積極的に日本と云ふ國を形成する一員と看做し、日本國の形成に參加してゐると言へるか何うか――これには議論の餘地がある。在日韓國人・朝鮮人の場合、明かに彼等はエトランゼである。
ただ單に「複數の民族がゐる」だけで「多民族國家だ」と言ふ事は出來ないと思ふ。鈴木さん夫妻と佐藤さん夫妻が、たまたま同じ一つの家に住んでゐても、それぞれの夫妻がそれぞれの領域を決めて別個の生活をしてゐるならば、彼等をひつくるめて「一つの家族だ」と言ふ事は出來ない。一方、柏崎家に赤の他人のファンキージュニアが居候してゐた時、柏崎家の人々がファンキー氏を受容れ、ファンキー氏も積極的に柏崎家の生活に參加してゐるならば、彼等はひつくるめて家族である。
平成十七年十月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051026/p2
在日韓國人・朝鮮人が、個人的に、私は朝鮮民族の一員だが、日本国民である自分が朝鮮民族であることにリアリティーを持てない、と云つた風に感ずる事はあるだらう。けれども、さう云ふ個人的な話をしても仕方がない。何だつて個人レヴェルの話をすればいろいろな意見が出て來るから、「反論」は何處までも可能になる。けれども、問題は「民族」と云ふ大雜把な括りなのであり、そこで偶々知つてゐるだけの「個人」の例外を一々採上げてゐても意味がない。彼等が全體として如何に日本の社會に參與しようとしてゐるかが問題だ。大雜把な傾向として、在日が「在日」と言つてゐる時點で、彼等は日本人とは異る自分逹のアイデンティティを保ち續けようとしてゐるやうに見える。全體として韓國人・朝鮮人と日本人との間には、しつくり來ないものがある。混血は、單に物理的な現象でしかない。彼我の間に、精神面でどのやうな關係が存在するのか、を考察する必要がある。そして、「彼我」と言つてゐるやうに、彼等と我等との間には、やつぱりまだ壁がある。
平成十七年十月二十六日
日本人は戰前、「一民族」と言つてゐた。今、「一民族」と言ふと叩かれるのは、敗戰で反動が生じたからに過ぎない。事實として「一民族」か何うか、を問題にする人はゐない。ただ、叩いて押へつけるだけの爲に「一民族ではない」と云ふ結論が、風潮として「ある」だけに過ぎない。目的の爲に結論が作られてゐるのである。既に指摘したやうに、論者の見方と問題意識と條件設定によつては「日本人は一民族である」と云ふ結論が下せる。その結論を下す事を許さない爲に、さう云ふ結論が出るやうなものの見方や問題意識や條件設定を禁止しようと云ふのが現代の日本人の發想には確かに「ある」。
何れにしても、他者の存在を拒絶し、他者の理解を深めようと思つてゐない點で、戰前も戰後も日本人の態度は變つてゐない。戰前、「日本人は一民族である」と云ふ結論は、「日本人は一番偉い」と云ふ主張の根據として使はれ、それがさらに「日本人が他の民族を理解しないで良い」とする言ひ訣に使はれた。現在、「日本人は一民族ではない」と云ふ結論が「ある」。その結論が出される爲には、「日本人は既に日本人以外の民族と交流してゐる」「日本人は他の民族を既に理解してしまつてゐる」と看做さなければならない。さうした考へ方は受容れられてゐるが、何故受容れられてゐるかと言へば、「他者を理解しようとこれ以上努力する必要がなくなる」と云ふ極めて都合の良い效果が生ずるからである。
そんなに簡單に「他者を理解する事」は可能なのだらうか。現代の日本人は、多くの人が、「既に我々は他者を理解してしまつてをり、當然、他者なんてものは存在しない」と信じてしまつてゐる。「これ以上、他者を理解しようと努力する必要はない。敢て今、他者の存在を認めてしまつたら、理解する努力をしなければならなくなる。それは面倒だ」。「俺は野嵜の言ふ『他者』を十分理解してゐるんだ」「『他者』なんて言つてゐる野嵜は、頭が惡いのだ」みたいな極附けが、何うも「ある」やうな氣がしてならない。何度でも言ふが、そんなに簡單に「他者を理解する」事は出來るものなのだらうか。「理解した」と安心し切つて良いものなのだらうか。實際のところ、「日本人」と「日本人以外の人=日本人にとつての他者」との間に違ひを認めない人々は、本當に「他者」の事を完全に理解してしまつてゐるのだらうか。
平成十七年十月二十六日
正字とは何か――「『押附けられた略字』でない字體」と定義するのは何うか。
「正字正字と言つて押附けるのは良くない」と非難された時、「略字を押附ける方が良くない」「正字は、必ずしも一つに定まらないから、押附ける事が出來ない」「正字は押附けではない」と反論する事が可能になる。
平成十七年十月二十六日
「現代仮名遣」に對抗して、一つの固定された「正假名遣」を定める、と云ふのは感心しない。スタティックな「現代仮名遣」を「死んだ言葉」として非難する爲に、正假名遣は生きた言葉でなければならない。生きた言葉であるからこそ、「ゆらぎ」もあれば議論の餘地もある、と云ふ事になる。正假名遣を歴史的な概念として捉へようと俺がしてゐる理由も其處にある。
平成十七年十月二十六日
周圍の人間が皆「現代仮名遣」を使つてゐる中で、一人だけ正假名遣を使つてゐる事を考へてみる。その人は、正かなの文章を書く時と、「現代仮名遣」の文献を讀む時とで、態度を切替へてゐる。さう云ふ「切替へ」が生ずる時、その人の生き方として「正かな」はどのやうな位置にあると言へるのだらうか。「現代仮名遣」に觸れる機會が多い時、その人にとつて「現代仮名遣」の方が、正假名遣よりも「大きな存在」であると言へるのではないか。實際、現代の日本において、「現代仮名遣」の中に生きてゐる人は多いし、正かな派の人でも「現代仮名遣」と無縁でゐられる人はゐないだらう。さうなると、「現代仮名遣」をベースに、時として「正かなに切替へる」と云ふのが、正かな派の人の生き方になるだらう。傳統・文化が「生きてゐる」と云ふのが、生活の中に定着してゐる事を指すのであれば、時々「切替へる」先の正假名遣は、最早、生活の中に定着してゐるものではないのだから、傳統・文化として「生きてゐる」とは言へないだらう。

平成十七年十月二十五日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051025.html#p13
インライン要素で引用を示すのはq要素。
「?」一つ
「。」と「?」とでは全然違ふ。當り前の話だ。「たかが記號一つ」とか思つてゐるのだとしたら、文章に對して無神經過ぎる。
そして件の文脈で「馬鹿?」とした意図は「歴史」を見れば事実である以上、誰の発言であろうと同じようなことを書くでしょう。
俺が麻生氏の發言にも妥當性がある事を説明したのを讀んでゐないらしい。
たまたまニュースで肩書きのある人が取り上げられていますが、人物評価なんぞどうでもいい話です。大学教授だろうが、小学生だろうが、「(歴史を見て)一民族で成り立っている」というのは「違う」。
「馬鹿」は人物評でないのか。
それに件の文を書いた時にも、立場だの見下しだの、そんなものには一切興味なく書いています。後から単語を見れば「罵倒」であり、(立ち位置なんか興味なく)「罵倒」を用いたのは事実ですから、それについて否定しませんが。
讀者は筆者の意圖を、書かれた文章から判斷するものだ。だから文章を書く時は「書かれた結果の文章が讀者にとつてどんな意味を持つのか」に注意しなければならない。讀者にとつて「書かれた文章」が即「筆者の意圖」だ。筆者の意圖は如何なる場合にも書かれた文章に基いて判斷される。筆者の「隠された意圖」「表現されなかつた意圖」の存在が許されるのならば、全ての讀者は感想を述べる事が許されない。例へば、正かなの文章を筆者は「讀み難くない」と思つてゐるかも知れないから、「よみにくいです」等と讀者が感想を述べるのは許されない事になる。勿論、麻生氏の發言だけに基いてVid Fornが感想を述べたのは「をかしい」と云ふ事になる。麻生氏には意圖が「あつたかも知れない」ではないか。「隠された意圖」ではなく、「書かれた文章」「言はれた發言」だけが、それ自體として論評の對象となる。
そこから見下しはともかく、嫌みだの慇懃無礼だの言われても。というか、あの3行で立ち位置云々言われても困惑の方が大きい。
こちらこそ困惑してゐる。記號を意圖的に「使はない」人がゐる、と云ふのが理解出來ない。全ての文章には筆者の意圖がある。
でも、説明を見ても私には「。」と「?」のロジックの差が見えません。
では、なぜ「。」ではなく「?」を選んだのか。全く意味もなく「?」と書いたのか。全ての文章には筆者の意圖がある。「?」には明かに筆者の意圖がある。そして、讀者は誰でもあの場合、「筆者が麻生氏を見下し、馬鹿にしてゐる」と理解する。「筆者が『この人は馬鹿なのか?』と誰かに尋ねてゐる」とは絶對に理解しない。疑問文は、純粹な疑問か、でなければ反語である。疑問でない事は明かだから、反語である事は疑ひやうがない。
とぼけるのは止めて下さい。
「?」と「。」に大きな差を見出せるほど、私は国語の学がありません。ですので「表面的な印象で何でも物事を判断してしまう人」でかまいません。云々。
「間違つた事に拘る」と云ふ最惡の大人になれないのパターン。
平成十七年十月二十五日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051025.html#p06
一般に、自分の方が立場が下である表現をするのは、敬語表現の「謙譲語(へりくだる)」ではなかったかなと。
へりくだる爲の表現として「罵倒」する、と云ふ意圖はない。ある訣がない。馬鹿?
引續き、なんか辭書から引用してゐるけれども、何を考へてゐるのだらう。今やつてゐるのは「文章論」なのだから、辭書の定義なんてものを引張つて來て、それだけに基いて議論をするのはナンセンス。「罵りは惡口だ」――だから何? 辭書に「惡口を言ふ時の心理」の解説がある訣? あんた馬鹿?
上司が失敗した部下をなじる時に用いる「この馬鹿が」という表現など。で反例となる。
ならない。どんな語も、或文脈で發せられたのであるならば、文脈に基いて理解されなければならない。文脈をはつきりさせる爲に、シチュエーションをはつきりさせなければならない。
落着いて、餘裕がある状態で「この馬鹿が」と言ふ上司も「ゐる」だらう。その時、上司は部下を罵倒してゐるのではない。考へられるシチュエーション。「俺がミスをカヴァしてやるから安心しろ」と云ふ場合。或は、單に「事實」を突きつけ、部下の心を傷附けて、サディスティックな快感を覺えてゐる場合。いづれの場合も、「詰る」行動ではない。「詰る」シチュエーションを考へるならば、上司がかんかんになつて部下に怒鳴つてゐる場面のみあり得る。この時、上司が「かんかんになつて怒る」理由を考へる。
部下を「有能である筈だ」と上司が期待してゐた。その期待を裏切つて部下がへまをやらかした。その時、上司が「この馬鹿が」と詰つた。あり得るシチュエーションである。上司の意圖は何か。「罵倒である」と單純に言へるか。「馬鹿」と云ふ語は、辭書の定義では惡口だ。しかし、文脈に基いて考へれば、『單なる惡口」と看做す事が出來ない。上司が期待してゐる以上、部下に對して「馬鹿」は「激励」の意味を持つ。
「部下のミスが自分の査定に響く」と云ふ事情があつたとして、それでミスをした部下を罵つてゐるとしたら、その時、部下の立場は上司の中で「高い」ものとなつてゐたと言へる。部下の行動が自分の査定を左右してゐるのである。上司自身よりも部下の方が査定と云ふ觀點からすれば高い立場にある。
しかし、もし上司が必死になつて部下を罵倒してゐるとしたら、その上司はよつぽど部下を恐れてゐるに違ひない。單純に職務上の地位の上下で、會話における立場の上下は決定出來ない。
罵倒の生じ得るシチュエーション。團交で雇用者がなかなか要求を呑まない。社員が苛立つて雇用者に「馬鹿野郎」と言つた。この時「馬鹿野郎」は罵倒である。雇用關係が文脈として重要であるこの場合、社員と雇用者と云ふ立場の上下で會話の立場が決定される。しかし、常にさうである訣ではない。
「馬鹿。」と云ふ斷定と、「馬鹿?」と云ふ疑問、どちらの形を使うかは芸風の問題であり、どちらが良いという話ではない。
芸風にも良い藝風と惡い藝風がある。
上品ぶって見せる云々と結論付けなくても、「馬鹿」と罵るのであれば、表現形式に関わらず同じ穴の狢でしかない。近親憎悪か五十歩百歩か。
俺は表現こそが文章の命だと思つてゐる。「表現形式」が異れば、表現される筆者の意圖は變つてしまふ。「お品の良い嫌み」よりも、「品のない罵倒」の方が、屡々ずつと清潔だ。
言つておくが、- Empty Talk -の文章全體がVid Forn氏の「馬鹿?」なる發言を解釋する爲の文脈だ。Vid Forn氏は、高みに立つて、高所から物事を論評する、と云ふ態度をとつてゐる。Vid Forn氏は、大人になれないと自分を定義してゐるけれども、高所に立つて傍觀者の立場で論評する、と云ふのは、嫌らしい「頭の良い大人のやり方」だ。俺は「自分を高みに置く」やうな眞似だけはし度くない。傲慢に陷る事になるからだ。「他人を罵倒して大人げない」と嗤はれても――「嗤はれる」のならば俺の立場は低いものになつてゐる。さう云ふ點で俺は「子供」なり「馬鹿」なりで十分だと思つてゐる。「俺は馬鹿だから反省しない」と小林秀雄は言つたけれども、それは「反省しなくても良い事を反省したやうに見せかけて自分を立派に見せかける狡いやり方はし度くない」と云ふ意味だ。罵倒したら當然、反撃がある。反撃されるリスクを囘避する爲に、多くの人がレトリックを使ふ。しかし、それは狡い。俺は狡い大人にだけはなり度くない。それが俺の「藝風」。
平成十七年十月二十五日
愚者の戯言と言うのは本気ですよ。
最近は、戲れ言を言ふのも本氣であるらしい。ざれごと[戲れ言]ふざけて言う言葉。冗談。ふざけるのが本氣であるとは理解出來ない。ふざけるおもしろ半分にたわむれる。(イ)冗談を言ったりしたりする。また、子供が遊び騷ぐ。(ロ)人をばかにする。(ハ)男女が(人前もはばからず)たわむれる。ふむ。取るに足らないものと云ふ定義は何處から湧いて出たのだらう。
平成十七年十月二十五日
書いたのは。驚愕表現。
本人も解つて言つてゐた模樣。意圖的に「馬鹿?」と書いてゐた訣だ。本人が自白してゐるのだから間違ひない。
好い加減、とぼけるのは止めて下さい。
平成十七年十月二十五日
ちなみに、俺は自分が野暮天だと判つてゐる。だから恰好なんてつけない。
高々3行の文章でも、數千行數萬行の論評を書く材料となり得る。俺はそれをやる。それに、そもそも格好良く書こうとも思ってないのだから、恰好惡い事をやつても別に氣乘りがしないなんて事にはならない。なり得ない。何で恰好良い恰好惡いなんて詰らない事を一々氣にするんだ。
しかしね、「格好をつけて見せる」事もまた非常に格好が惡い事であつたりもする訣だよ。とことんまでやらないから格好が惡く見えるだけ。突詰めれば「恰好惡い」とされてゐる事でも「恰好良い」事になり得る。
自分が聡いとは到底思えない。
聰くはない――と云ふ自覺は、しをらしいやうで、實は狡い。「俺は常に間違つた事を言はうとしてゐる」と云ふ人の方が、まだ「恰好良い」。「俺は聰くない」と宣言する人は、「俺は、時々正しい事を言ふかも知れないけれども、時々間違つた事を言ふかも知れない」と言つてゐるやうなものだが、「正しい」にも「間違つてゐる」にも、どちらの方面にも徹底してゐない、實に「恰好惡い」。
「恰好良い」「恰好惡い」のどちらにも拘泥してゐない――それもまた中途半端だ。人は中途半端が一番惡い。
平成十七年十月二十五日
本日の買物 @ 新宿展。壽岳文章『和紙落葉抄』(湯川書房)。エティエンヌ・ジルソン『哲学史と哲学教育』(ヴェリタス書院)。世界史講座『ヨーロッパ世界史(二)』『西亞世界史』(弘文堂)。大類伸『西洋中世の文化』(冨山房)。和辻哲郎『原始基督教の文化史的意義』(岩波書店)。田中美知太郎『善と必然との間に』(岩波書店)。

平成十七年十月二十四日
ぱにぽにだっしゅ25:45〜26:15。
平成十七年十月二十四日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051019.html#p05
…………馬鹿?と云ふ、人を見下したやうな書き方が氣に入らない。俺ならば、「馬鹿?」と疑問の形では書かないで、「馬鹿。」と、斷定の形で書く。
以下解説。
「馬鹿?」と云ふ疑問の形で書くのは、「本當にあなたは馬鹿なのですか? 違ひますよね?」と、相手を氣遣つて見せる事を意味する。相手の「愚かしい言葉」を「本氣の言葉なのか何うか」と疑つて見せるのは、「相手は本當は愚かではないのでないか」「わざと愚かな事を言つてゐるのでないか」とその人が心から疑つてゐる限り「氣遣ひ」である。「氣遣ひ」を出來る人は、「良い人」だらう。けれども、「相手を氣遣ふ」事が出來るのは、「自分の方が立場が上」の時だけである。さう考へる時、その人を「良い人」と見る見方は、ひつくり返る。「氣遣つて見せる事で、より相手を非道く侮辱する」のが「馬鹿?」と云ふ疑問の形をとらせたのではないか――即ち、より非道く相手を侮辱し、自分を高める爲に、疑問の形で表現して見せたのではないか。「自分を高める」爲に相手に投げかけられる疑問……疑つてもゐないのに、即ち、相手の事を既に「馬鹿だ」と判斷してゐるのに、わざと「馬鹿?」と書いてゐる時、はつきり言はう、それは「嫌み」である。まあ、委しく書く迄もない、誰が何う見ても、此處の…………馬鹿?は嫌みである。俺はかう云ふ「相手を低めるけれども、同時に自分を高めてしまふ」嫌みが大嫌ひだ。
「馬鹿。」と斷定するのは、相手を罵る事であるが、この時、實は自分と相手とは對當――否、寧ろ、自分の方が下の立場にある事を意味する。人は、自分より低い立場の人間を罵倒したりはしない、必ずより高い立場の人間を罵倒する。
「氣遣ひを見せる」事によつてより相手を低め、自らを高める事と、「あからさまに罵倒する」事で相手を自分と對當かそれ以上の立場に置く事と、どちらが好ましい事か。嫌みになるくらゐなら、俺ははつきり相手を罵倒する。
「その發言が結果として自分をどのやうな立場に置く事になるのか」と云ふ事を良く考へないまゝ、取敢ず形式的に叮嚀な言葉遣ひをして、上品ぶつて見せる人が、意外な程、ウェブには多い。それで當人は「禮儀正い人」である積りである。自分の馬鹿叮嚀な言葉は、結果として「慇懃無禮」になつてしまつてゐるのではないか、それが他人を苛立たせてしまふのではないか――反省して貰ひたい。そして、さう云ふ無神經な發言を平氣でする人は、多くの場合、「表面的な印象で何でも物事を判斷してしまふ人」である。
解説終り。
平成十七年十月二十四日
岩波文庫の桑原隲蔵『考史遊記』、卷末の「編集付記」に、漢字の改變と送り假名の整理に就いて記されてゐるにもかかはらず、假名遣の變更に就いては何も書かれてゐない。明治四十年からの二年間に書かれ、昭和十七年に初版本が刊行され、漢文訓讀體で書かれてゐる本書、原文は正かなだつた筈。
「現代仮名遣」に改められた本書は、とても讀み辛い。漢字の字體は變更した方が、「今の人」には讀み易いだらう。けれども、假名遣は、變更したからと言つて、讀み易くなるものではない。文庫の編緝者は、機械的に漢字と假名遣ひを變更してゐる。さう云ふ機械的な作業の結果、「讀み易い」本が出來る、と思つたら大間違ひだ。
しかし、どうもその邊の事を、文庫の編緝者は考へる事が出來ないらしい。「出來ない」と言ふか、「許されない」と言ふか。何か知らないけれども、「文庫は新字新かなに限る」みたいな風潮が出來上つてしまつてゐる。
平成十七年十月二十四日
「斷定しない」事は即「リスク囘避」を意味する。「責任逃れ」である。さう云ふ態度も感心しない。
平成十七年十月二十四日
大和民族とアイヌとが、近代より前に本質的な部分で相互の文化に影響を與へ合つたと見る事は出來ない。これら二つの民族は、單に隣接して存在したに過ぎない。そして、近代に至つて、大和民族の領域がアイヌの領域を壓迫し、遂にアイヌの領域は消滅した。その是非は今は問はないとして、事實だけを見るならば、今の日本國の領域は、全て大和民族の領域となつてしまつてゐる。
江戸時代以前。日本人は早い時期には北海道に入植してゐなかつた。平安時代に日本人とアイヌ(「蝦夷」)とが東北邊で勢力爭ひをした事はあるかも知れない。けれども、それでアイヌの文化が日本の中心にまで入り込んで來た、と言ふ事は出來ない。東北の地名――のみならず、日本各地の多くの地名にアイヌの言葉の殘滓がある事は指摘されてゐる。が、記號としての語彙における影響は、文化への影響と看做すべきものではない。日本人とアイヌとの間には斷絶があつたと看做すのが妥當である。
江戸時代、道南には松前藩が存在したが、その北端で日本人の領域は終つてゐた。日本人の領域とアイヌの領域とは完全に分れてゐた。日本人はアイヌと交易したが、日本人の文化はアイヌの文化と交流してゐない。アイヌの文化が江戸の文化に根本的な部分で影響を與へた、と云ふ形跡はない。
明治時代になつて、國民國家としての日本國が成立した時、北海道も日本國の國土として組入れられた。結果として、その是非は今は問はないで事實だけを述べるが、日本人はアイヌを完全に壓倒した。單純に、アイヌの文化は日本の文化に壓倒された。日本人とアイヌとの間で文化的な交渉が行はれ、結果として兩者が融合した、と云ふ事實はない。現在、アイヌの文化から影響を受けない状態の日本人の文化が殘存し、日本國全體を覆つてゐる。
イギリスを例に採上げる。イングランド、スコットランド、ウェールズは元々、別の民族として獨立してゐた。それらは次第に區別出來ない迄に混淆し、結果として連合王國と云ふ一つの國民國家となつた。イギリスは「複數の民族が融合して一つの國家が出來た」と言つて良い。
日本國の場合、日本人がアイヌを押しのけて國民國家を成立させた。何度も繰返すが、その是非は今は問はない。「複數の民族が融合して國民國家が成立する」條件として「民族が文化レヴェルで混淆して區別がつかなくなり、結果として一體の國民となつた」事が必要であると見るのならば、「日本國は日本人とアイヌとが融合して一體の國民となつた」と言ふ事は出來ない。その代り、「日本國は一民族の國家である」と言ふ事は出來る。勿論、アイヌの立場を尊重する場合、見方は變る。が、「ものの見方は一つではない」とする相對主義の立場からすれば、一民族の国はほかにないと云ふ言ひ方は、或見方に基けば可能であるし、他の見方を取る人も容認せざるを得ない。
平成十七年十月二十四日
讀賣新聞への投書に據ると、小泉首相は日本がやつた過去の戰爭を否定し、戰沒者を英雄と看做してゐないのださうだ。それでは何の爲に靖國神社に參拜したのだらう。英靈に失禮ではないか。
平成十七年十月二十四日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051024.html#p08
「下手に出る」では意圖的にへりくだつた態度を取る事になつてしまふ。
人は、自分より低い立場の人間を罵倒したりはしないというのが普遍とは思えないということです。
人は、相手が自分よりもより高い立場にゐるからこそ、自分と同じかそれ以下の立場に相手を引きずり下ろさうとして罵倒するものだ。人が誰かを罵倒してゐる時、その人は「相手が自分と同等かそれ以上の立場にある」と云ふ事を認識してゐる。
見下すと言うことに注目するならば、罵倒の全ては相手を見下す行為でしょう。
罵倒は全て例外ナシに「相手を自分と同等以上のものと認識した結果」の行爲だ。「自分の方が立場が上である」と思つてゐる人は、餘裕があるから、相手を罵倒する事がない。「自分の方が立場は下だ」と認識してゐる時、餘裕がないから罵倒となる。
自分の価値観に合わない相手を、感情でもって罵る行為なのですから。
罵倒を惹起こす感情は「怒り」だ。「怒り」は、見下してゐる相手、自分よりも下の立場の相手に對して決して生じない。例へば「青梗菜はなんでこんなに馬鹿なんだ」と苛立つのは、「青梗菜は本來ならば頭が惡い訣ではない筈だ」と思つてゐるからだ。自分よりも立場が下であると認識してゐる相手に對して、覺える事が可能な感情は「憐れみ」である。「憐れみ」が罵倒を惹起す事は決してない。青梗菜は、自分が偉いと思つてゐたから、野嵜を罵倒せず、憐れんで見せた。
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20051024.html#p10
その發言があればこそ、「麻生氏を見下してゐる」事がはつきり確定する。さう云ふ傍證があるからこそ…………馬鹿?と云ふ表現が益々嫌みたらしく見え、讀み手がかちんとくるやうになる。
平成十七年十月二十四日
で、古典的な言葉使いつて何ですか。江洲さんは現代語で書いてをられますが? まさか正かなづかひであるのを「古典的」とか言つてゐるのではないでせうね。
ちなみに、岩波国語辞典第三版に據れば、古典的とは、古典と呼ぶにふさわしい値打ちがあること。或は古典を重んずる傾向をもつこと。また、伝統的。の意。
また、江洲さんは、他の場所で明言されてゐますが、「芸」として正かなづかひを用ゐてゐるのではなく、「正しいから」正かなづかひを用ゐてゐます。芸風と云ふ極附けは不當なレッテル貼りであり、完全な誤です。江洲さんに謝罪した方が良いと思ひます。
平成十七年十月二十四日
それから、<span class="cite">つて何ですか。
平成十七年十月二十四日
本日の買物。木田元『NHK市民大学叢書9 現代哲学』。ヤスパアス・草薙正夫譯『理性と實存』(創元社)。竹下敬次・広瀬京一郎『マルセルの哲学』(弘文堂)。氷上英廣『ニーチェの問題』(創元社)。菱山修三『文藝管見』(東京書房)。どれもまだ持つてゐなかつたと信じたい。ダブり未チェック。
拾ひ物(田村書店)。吉田健一『東西文學論』(新潮社一時間文庫)。表紙缺。『市川博士還暦祝賀論文集』。表紙缺。141ページ以降全部缺。『國語文化講座第一卷 國語問題篇』(朝日新聞社)。369ページ以降缺(恐らく奧附ページが缺けてゐる)。
ほかに「研究社月報」(昭和30年2月1日 第5号)。「辭書」(昭和30年2月1日 第五号)。「研究社月報」。連載「印刷所見学」で「紙型」「鉛版」を採上げてゐる。今では「紙型」なんて言葉、知らない人が多いのではないか。「紙型が摩滅して」と云ふのは、「改版」の時、後書の類で必ず書かれたもの。「辭書」。野尻抱影が「今は昔」と云ふコラムを書いてゐる。もう一つ。最初の大英和で、たしか鈴木芳松氏が私のデスクへきて、「岡倉先生が、訳語のしげしげと見るを、ここはしけじけと見るとすべきだと言われるのだが」と意見を求めにきたことがある。原語はちょっと思いだせないが、「こり性の先生だな」と感心したものである。云々。
平成十七年十月二十四日
トップ2!のノノは努力と根性が足らない。醜いアヒルの子、實は白鳥でした。
平成十七年十月二十四日
「オーディーン 光子帆船スターライト」は、いろいろと足らないものが澤山あるやうな氣がする。餘りにもキャラが立つてゐないとか。昨夜、AT-Xで觀た。

平成十七年十月二十三日
Audioactive Professional MP3 Encoding and Decoding Solutions for Internet or other IP based Applications
平成十七年十月二十三日
はてなの茶碗 - 正字正假名運動
平成十七年十月二十三日
何も知らないウェブ初心者が必ず言ふ事が「お話をしましょう」。何か知らないが、とにかく「話をする」のがウェブだと信じ込んでゐるらしいのだ。
同じやうな事を正かな派も言ふ。「正かなについてお話をしませう」。何で話をしなければならないのだらうか。「正かなは本當に正しいのか」と云ふ話をしようとでも言ふのか。そんな話はする必要がない。「正かなは正しい」「不正かなは正しくない」――議論するまでもない、決り切つた事だ。そして、一々「お話」をして、「現代仮名遣い」派を一人一人説得して行く、なんて「戰略」を考へてゐる人もゐる。やめておいた方が良いと思ふ。ウェブで「一人一人」を相手にする事は不可能だからだ。ウェブで出來るのは、不特定多數の人に呼びかける事――或特定の人に呼びかける形式を取つても、その「呼びかけ」は、衆人環視の中で行はれる――だけである。
「猫のお話をしましょう」「犬のお話をしましょう」「好きなゲームのお話をしましょう」――趣味の話ならば幾らでもやれば良いし、やつて雰圍氣を盛上げるのはウェブサイトの氛圍氣を盛上げる事に繋がる。アニメの感想サイトで「萌え」「萌え」言つてゐる人々が「お話」をしても――冷めた人から「キモい」と罵られるリスクがあるだけで――微笑ましいだけだ。しかし、さう云ふ「正しい」事と何の關係もない趣味の領域の話と、「正しい」事を「正しい」と主張する「正字正かな」の領域の話とでは、「やり方」が違つてゐるのは當り前の話である。
どうも、「正字正かな」の人には、異樣なまでに樂觀的な人が異樣なまでに多い、と云ふ氣がする。俺が「正字正かなは最早日本では復活しない」と言ふと、「そんな事を言ふのは本氣でないからだ」みたいな罵倒が浴びせられる訣だが、野嵜は本當の事をありのまゝに述べてゐるに過ぎない。何か知らないが、「『現代仮名遣』は間違つてゐるのだから、そのうち勝手に崩潰するさ」みたいな顔をして、好い氣になつて御仲間の間にしか通用しないやうなイヴェントをやつて愉しんでゐる。「そんな事をしても意味はないよ」と批判すれば、「何でそんな事を言ふんだ」と、まるで「邪魔するな」と言はん許りの口調で非難される。ちよつと非道過ぎると思ふ。
國語問題協議會の松原先生の講演の時、松原先生から「最うやらないで下さい」と窘められたにもかかはらず、「假名遣腕試し」はなくならない。國語問題協議會の會報「國語國字」で市川浩氏が「忘れられる歴史的假名遣――「假名遣腕試し」に思ふ」と題して、「假名遣腕試し」が、さも「良い事」であるかのやうに書いてゐる。市川氏は松原先生を馬鹿にしてゐるのだらうか。あり得る事である。松原先生が講演の前に配られた「假名遣腕試し」の「テスト用紙」を片手に「こんなものを大人にやらせるのは人を馬鹿にしてゐる」「最うやめて下さい」と述べてをられて、野嵜も全くその通りだと思ふのだけれども、それが市川氏には解らない。市川氏は何が「人を馬鹿にする事か」が解らないのだと思ふ。だから平氣で「假名遣腕試し」なんてものを大の大人にやらせて人を馬鹿にするし、それを窘めた松原先生の忠告を無視して松原先生を馬鹿にしてしまふ。そして、さう云ふ無神經なところが、案外「正字正かな派」の人には多いのではないかと思ふ。
「正字正かな運動」が運動としてなつてゐないのには、人心を掌握する術を持たない、人間の心理を解つてゐない人が、「正字正かな派」に餘りにも多かつた事に原因がある。「樂觀主義」「自己満足」「内輪受け」――これらの傾向は、大體「トンデモ」の人が氣質的に持つてゐるものだが、さうではない筈の「正字正かな派」の人ですら屡々持つてゐるものである。あんまりにも「自分のやりたい事」が優先され過ぎる。それでは困る。「正字正かな運動」が「運動」であるならば、「やつた事」が「どんな成果を擧げるのか」「何んな效果を持つのか」を考へて行動すべきである。「正字正かな」は「正しい」と云ふ事に寄りかかつて、のんべんだらりと「正字正かなを樂しむ」なんて暢氣な事をやつてゐて、それで「『現代仮名遣』なんて勝手に消えるから放つておいて良い」等と言つてゐるやうでは、正字正かなの方こそ、あつと言ふ間に消えてしまふ。現代はマスの時代であり、ありとあらゆる物が「大衆化」と稱して低級な物に堕する時代である。「正しいもの」は「楽なもの」の攻勢に抗しなければ屈してしまふ。「正しさ」に寄掛かつてゐる運動は尻すぼみとならざるを得ない。「正字正かな派」のなすべき事は「仲間内で樂しむ」事ではない――。

平成十七年十月二十二日
「ブログ」の制作者には、一續きの内容であるのにも拘らず、ただ單に「書いた日が違ふ」と云ふだけの理由で、新たに別個の記事を作つてしまふ人がゐる。何うかと思ふ。と言ふか、さう云ふ風にしか使へないやうに作られてゐる時點で、現状の「ブログ」ツールには根本的な缺陷があるやうに思はれる。
現在の「ブログ」は、個々の記事の獨立性が極めて強い一方、記事と記事との關聯は僅かに「カテゴリ」で大雜把に分類する事によつてしか示せない。○月○日の記事と×月×日の記事が「連續してゐる」と云ふ事は、毎日讀んでゐる常連ならば「気附く」事が出來るかも知れないけれども、屡々「一見の客」には判らない。特に、後に續きの記事を追加した時、前の記事にその「後の記事」との聯關を示す「標識」のやうなものを「置く」のは、「ブログ」の一般的な慣習として定着してゐないし、さう云ふ事が出來るやうになつてゐない「ブログ」ツールも多い。
現状の「ブログ」は、個別の記事でコメント等が就いて獨自に話題が發展して行く事はあり得るけれども、それらの個別の記事を綜合して體系的なサイトを構築する事は出來ないやうになつてゐる。話題となる記事はあり得るし、さう云ふ記事が日々、續々と「投稿」されてゐる「ブログ」は「人氣ブログ」となり得る。けれども、さうした「話題の記事」は、「投稿」されてから數日間しか話題にならない。それ以後も、參照される事はあつても、最早コメント欄は活況を呈しない。
今、「ブログ」の「記事」について「投稿」と書いたけれども、通りすがりなり常連なりのコメント投稿者に限らない、「ブロガー」であつても、「記事」は「投稿」するものだ。「ブログ」は、實際には掲示板と全く變らないシステムである。虹裏のやうな掲示板で、スレを立てられる人間が限定され、コメントが附いても「上がらない」場合、その掲示板は最早「ブログ」と區別出來ない。トラックバックは「ブログ」の本質ではない。
コメントを附けられるインタラクティヴな「ブログ」は、掲示板と區別出來ない。X51.ORG : Occult News for Nerds, Truth is Out There.は、アレなニュースサイトだが、コメントの附き方を見ても、「ブログ」或は「掲示板」と區別が出來ない。ただ單に「制作者だけがスレを立てられる」と云ふ點だけで、一般の「掲示板」と區別されるに過ぎない。
「ブログ」にしてもスレッド式の掲示板にしても、記事にコメントが附くのは話題として新鮮な短い間に過ぎない。一定の期間が過ぎると、最早「議論の場」としてその記事・スレッドは機能しなくなり、顧みられなくなる。後々、參照される事はあつても、最早そこが「議論の場」となる事はない。
奇魂の掲示板でも問題になつてゐたが、掲示板の投稿は、本當に「その場限り」のもので、後々活かされる事が無い。檢索機能で「探してゐる情報」が「引掛かる」事はあり得る。けれども、整理された情報を閲覽者が得る事はない。それは「ブログ」も同じである。現在の多くの「ブログ」において、情報は未整理のまゝ放置され、閲覽者に制作者が一貫したプレゼンテーションを行ふ事は不可能である。
「掲示板」「ブログ」と同樣の傾向を持つインタラクティヴなサイト構築のシステムに「Wiki」がある。個人的に「Wiki」と云ふ名稱が氣に入らないのだがそれは兔も角、「Wiki」もまた情報の整理を苦手とするシステムである。リンクが張り巡らせられる事、記事を檢索しなくても思ひ附いた單語をウェブブラウザのURL欄に突込めば即座に記事が出て來る事等、それなりに「便利」ではあるのだが、致命的な缺陷として「全ての記事が全く同列に扱はれる」と云ふ事が言へる。カテゴライズをするには、Wikipediaのやうに「見出し語に規則を設ける」と云ふやり方をするしかない。
複數の投稿者が寄つてたかつてサイトを構築する――「We」が「blog」すると言はれる所以だが、「サイト制作者」の立場は何うなるのだらうか。言ひ方を變へよう。「I」ではなく「We」がサイトを制作する時、そのサイトは何んな魅力を持ち得るのであらうか。藝術は全て例外ナシに個人の制作するものである。集團藝術であつても、成立した藝術の魅力は常に統率者の個性の魅力である。そして、人が「惹きつけられる」のは、個人の魅力にであつて、集團の「魅力」にではない。Wikipediaの記事は個性を持たないのが當り前であるし、個性的である記事はWikipediaでは場違ひである。が、さうして成立した記事が、公正であるとしても、無個性で無味乾燥な代物である事は言ふまでもない。そこにあるのはただの情報に過ぎない。我々は屡々、正確を求める餘り、人間味を持たない記事を書き勝ちである。が、さうした記事許りを含むサイトは、閲覽者にとつて何であるのだらうか。サイトが、單なる情報源であるならば、一度情報が古びたり價値を失つたりしたら、最早閲覽者は立ち去る許りで二度と見には來ない。實際のところ、ウェブのサイトには、餘りにも早く價値を失ふ情報源が多過ぎる。
平成十七年十月二十二日
二十一日。古書會館の洋書まつりには行かなかつたのだけれども、田村書店の例の無料箱には英語教育關係の本が大量に放出されてゐて、その手の本許り集つた。昭和二十四年四月三十日發行の新英語教育講座第六卷(研究社)には土居光知「英詩の話」、福原麟太郎「英語辭書の話」、中山竹二郎「神話と聖書の話」、中島文雄「語源の話」が收録されてゐる。福原氏がPocket Oxford Dictionaryが如何に面白く、役に立つ辭書であるかを力説してゐる。當時はP.O.Dが入手困難であつたらしい。福原氏『英語科ハンドブックス 英語の感覺』(研究社)は、「英語青年」に載せた詩の譯注をベースにした本で、或概念に就いて――例へば「月」――日本人の抱くイメヂと英國人の抱くそれとには違ひがある、日本人の英語學習者は注意しなければ行けない、といつた事が書かれてゐる。市川博士還暦祝賀論文集第二輯(研究社)は、色々な人が書いた文章が入つてゐるが、例へば服部四郎「『文節』について」が收められてゐる。他に、齋藤勇『英語讚美歌』、The Penguin Book of Japanese Verseを自宅に持つて來た。前者は兔も角後者は讀むか何うかわからない。多分、死ぬまで讀まない。そんな本ばつかり。と言ふか、拾つた本、全部いつぺんにはとても運び切れないので某所にキープ状態。一年くらゐ置きつぱなしのものもあるので順番に運搬。

平成十七年十月二十一日
奇魂掲示板に「義」が出た模樣。まだ生きてゐるらしい。今度は「ダビンチ」とか名乘つて荒してゐる。
平成十七年十月二十一日
なんか知らんけれども、某所に變なコテハン連中が寄集まつてふたばを荒す話を嬉しさうにしてゐる模樣。
平成十七年十月二十一日
「粘着」の方々の思考囘路はどれも似通つてゐる。彼等は、よくわからないけれどもなぜか強いエリート意識を持つてをり、それに基づいて他人を見下して見せる。彼らの罵倒の文句は、「オタク」だとか「無職」だとか、大體決つてゐる。
平成十七年十月二十一日
少數であつても熱心に活動する奇妙な連中の行動が目立ち、それによつて大多數のまともな人間の活動が支障を來す、と云ふ事が極めて頻繁に生ずるのは、ウェブの最大の缺陷である。一人の掲示板荒しが荒すと掲示板の機能が完全に麻痺する、と云ふ事態が簡單に生ずる。「粘着」と云ふストーキング行爲は極めて「有效」に機能する。かう云ふ現在のウェブは、問題があるやうに思はれる。
平成十七年十月二十一日
今のウェブは、匿名の人間が壓倒的に有利であり、實名の人間は極めて不利だ。かうした不公平は是正されるべきだと思ふ。實名の人間が被害を蒙つた場合、何らかの救濟措置が必要である。匿名の加害者には實效性のあるペナルティが必要である。
平成十七年十月二十一日
「マスゴミ」のやうな言ひ方をしてマスメディアを罵る論調をウェブでは屡々目にする。けれども、ウェブにおいては、マスコミもミニコミも個人も、全く區別がない。
ウェブに於て問題のある「メディア」は、「マスゴミ」だけではない。「野嵜は何をやつても惡い。野嵜は無職だから」といつた無茶苦茶な「理窟」を言ふ「義」のやうな掲示板荒しもまた「惡質なメディア」であるし、一人二役で氣に入らない投稿者を包圍し「總括」するアレクセイのやうな掲示板主宰者や、自説に反對する人間に「掲示板荒し」と云ふレッテルを貼つて言論を封殺しようとするリヴィジョニスト竹下義朗もまた「惡質なメディア」である。
平成十七年十月二十一日
インターネットでは情報だけが流通する。
インターネットの情報は、「共有」が原則であるし、コピーされて何處までも廣まり得る。
インターネットでは、情報によつて「對價を得る」事が不自然である。
インターネットでは、「資本主義經濟」が成立たない。インターネットは、どちらかと言ふと「社會主義」的な「世界」である。
インターネットは、或意味「理想的な社會主義の世界である」と言へる。
――さて、社會主義は成立ち得るか。「掲示板荒し」「粘着」のやうな「惡意のある人間」が存在して、「社會主義の社會」であるインターネットの社會は成立するか。
善意を大前提とした社會主義の世界はユートピアに過ぎない。インターネットは、惡意の存在を前提にその社會が構想されたものか。歴史的事實から言へば、インターネットは、米軍のネットワーク、大學のネットワークが結合し、それ以外のサーヴィスプロヴァイダが參加して、さうして成立したものだ。何らかのはつきりした構想があつて作られたものではない。
平成十七年十月二十一日
the view from nowhere : 2005-10-20 (Thu)
どうもありがたうございます。どうしてかう云ふ事に氣附けるのかなー。それとも、國語學方面では常識なの?
安岡さん(yasuokaの日記)とかにしてもさうなのだけれども、どうして色々な事に疑問を覺える事が出來るのだらう。何か特殊な訓練をされたのですか? コツがあるのなら教へてほしい。
あと、宣長が「氣附いてゐた」のなら、うちの記述、全面的に書換へなければならないのだけれども、どう直したら良いのか解らない。よろしければ首尾一貫、完全な形に正しく書き直して、全文をメールに添附するなり何なりして送つて頂けませんか。あれはあれでそれなりに一貫した記述になつてゐるから、根本的な部分で間違つてゐるならゼロから書直さなければならない訣だけれども、俺、最う書直す氣力なんてないよ。好い加減俺も齡だし。「此所が間違つてゐる」と指摘して貰へるのはとても有難いけれども、どんな風に直したら良いのか全然解らない。取敢ず誤字だけ直した。橋本進吉の電子テキストについても昔、指摘して貰つたけれども、リンクを張つただけで未だに直してしない、やつぱり見直す氣力がない。何年もない。
と言ふか、國字問題關係のサイト、誰か引取つて代りにやつて呉れないものですかねえ。俺は無知だから、參考書を見ながらそれつぽい事を書いてゐるけれども、專門家から見たら穴だらけなんでせう? 専門家で、やつて呉れる人がゐたら、うちの文書は自由に複製して頂いても構ひません、持つて行つて、それをベースにするなり、そもそも根本的に構成から何まで駄目だから、全部最初から作り直すなりして、うちの代りのサイトをやつて呉れませんかね。最う國語關係の事は書きたくない。HTMLにしても國語にしても、最近は何うにも情熱が持てない。細かい事に氣を配らなくては行けないと云ふのが一番嫌な事で、俺は原理の話をしたいのだけれども、さう云ふ話をしようとすると話の腰を折るやうな人(「義」みたいな)が次から次へと出て來るので最近は疲れた。何うして俺が何時までも何でもかんでも背負ひ込まなければならないの?
Wikiなんかだと寄つてたかつてバンバン書直しをやつてゐる訣だけれども、(敢て言ふ)うち邊だと讀者は「此處が違ふ」レヴェルの指摘しかして呉れない。誤字だつたらすぐに直せるけれども、論據とか據つてゐる原理とかの部分で修正が必要だと、文章全部を書直す必要が出て來る。その時には根本的な部分から勉強し直さなければならない訣だけれども、その「勉強」が容易に出來たものではない。だから俺は間違ひをさうさう直せない。だからバンバン削除する氣に最近はなつてゐるのだけれども、削除したらしたで文句を言はれるから何うしたら良いのだらう。「こんな風に直せ」とか「此處の記述はかう云ふ風なした方が良いから差替へろ」とか、どんどん言つて貰ひたかつた(敢て過去形)。
と言ふか、うちのサイトは拔け殼なんだよ最う何年も前から。頼むから誰かうちを越える國字問題のサイトを作つてよ。何時までも正字正かな=言葉 言葉 言葉では何うしやうもないよ。うちは時代遲れなんだから。そのくらゐ自覺してゐる。PC Tipsで書忘れてそのまゝにしてしまつたのだけれども、サイトを作る最大のポイントは「長く繼續して維持・管理する」事。うちはその點だけはまあまあやつて來たのだけれども、うちのfollowerの方々に、この一番の肝腎な點に限つて理解して呉れなかつた人が結構ゐる。小さいまゝサイトの成長を止めたり、次から次へと形態を變へてみたり、「ブログ」に縮小してしまつたり、そんな人ばつかり。
所謂「個人サイト」の域を越えようとしない人しかゐないのでは、「正字正かな運動」(?)がウェブで運動として成立する事はあり得ない。と、矢張り敢て言ふ。あつちでは素人が素人臭い事を言ふ、こつちでは專門家が專門的に過ぎる事を言ふ、そして何れも、サイトとしては實に小さなものでしかなかつたりする。正字正かなサイトの多くが「ブログ」なり「ウェブ日記」なりのレヴェルに留まつてゐる。さうでないところも「個人の論説サイト」の域を出ない。出ようとしない。うちに代つて「ウェブで正字正かなと言つたら此所」と云ふ新しいサイトが遂に出現しなかつたのは、或意味、うちの最大の失策であるのだけれども、どうも「人任せ」と云つた風が國字問題における「傳統派」の中に「ある」やうな氣がしてならない。未だに『私の國語教室』が「聖典」であり續けてゐるのは、ちよつと何うかと思ふ。ただ一人の人を先頭に押し立ててやつて行くと言ふのでは、運動は巧く行かないよ。「定番」が出來てしまふのは即「運動の死」を意味する、とすら言ひたい。そして、「定番」にも良し惡しがある。うちは「定番」であるのだが、これは拙い事だ。うちは有形無形のミスが多過ぎる。もうちよつと專門の知識のある人が、腰を据ゑてきちんとサイトを作つて呉れれば、「運動」としてはありがたい事だ。今、ウェブの國字問題は完全に停滯に陷つてゐる
平成十七年十月二十一日
作家別作品リスト:岸田 国士

平成十七年十月二十日
文字の裏通り - 正字(旧字)のサイトを読もう
平成十七年十月二十日
縦書きブログ構築サービス : ビジネスブログ : スカイアークシステム
投稿も表示も縦書きブログ--Movable Typeベースの構築サービス - CNET Japan
そんなに「縱書き」が良いのかねえ。
平成十七年十月二十日
「インターネットにおいて自分のウェブサイトを積極的に宣傳するのはタブーである」みたいな記事を書かうかと考へてみる。

平成十七年十月十九日
GV-MVP/RZ2を買つて來た。うちに來てゐる共同アンテナの電波、三フレーム毎にブレると云ふ非道い代物なのだが、そのブレをGV-MVP/RZ2、完璧に抑へ込んで呉れる。最初からこれにすれば良かつた。
mAgicTV5、豫約録畫中に畫面を表示出來ないのかな。タスクトレイのアイコンのメニューから録畫中の映像を出せる。何もしないでも表示するやうに設定する事は出來ない。
平成十七年十月十九日
神社が日本の傳統で「ない」と云ふ認識が一般に「ある」としたら、それは「靖国問題」なんかよりもずつと深刻な問題だ。我々に傳統は「ある」のか。「ない」としたら、それは「良い」事なのか。誰もさう云ふ事を考へてゐない。
「國益」とか言ふのも好い加減やめようよ。
平成十七年十月十九日
巨大動物図鑑
平成十七年十月十九日
古世界の住人・川崎悟司イラスト集

平成十七年十月十八日
レムなら泰平ヨンを讀まないと。俺は讀んでないけど。

平成十七年十月十七日
大槻彰『アイディア探検 ―欧米生活の知恵―』(教養文庫475)讀了。著者が海の向うの國々で見掛けたアイディアいろいろ。日本にも既に採入れられて久しいもの、未だに導入されてゐないけれども導入されれば結構良ささうなものもあれば、今そんな事をやつたら拙いだらうといふものも。それよりも本書で個人的に興味深く思つた點は、假名遣がところどころで未整理であつた事。「カンズメ」みたいな表音的な表記があつたり、逆に歴史的假名遣が「殘存」してゐたり。この本が出たのは昭和39年5月30日で(初版第1刷發行)、既に國字改革が行はれて十五年以上經つてゐたのだけれども、商業出版ですらまだまだ「整理」が行屆かない現實があつた訣だ。校正が好い加減だつただけなのかも知らんが。
平成十七年十月十七日
小泉總理、例大祭の靖國神社に御參り。なんか知らないけれども、例に據つて「違憲」だの「政教分離の原則に反する」だのと教條主義的に堅苦しい事を言つて好い氣になつてゐる反對派の連中が大喜びしてゐる模樣。「またあの馬鹿が……」みたいな感じで嘲つてゐる「ブログ」の人も多いみたい。
「宗教團體の壓力に屈して政策を變へた」とか云ふのならともかく、ただの御參りだよ御參り。何で大騷ぎする必要があるのだらう。と言ふか、「參拜と云ふ儀式には文句を言ふ」癖に「支持團體の意嚮なり壓力なりに從つて政策を作る」のは全く正當と考へて「何も言はない」のは何うかしてゐる。「形式面では一々難癖をつけるのに、規則なり何なりに從つてさへゐれば何んな事であつたとしても平氣で見過ごす」と云ふのは、「惡き官僚」の典型的な態度だが、日本の「リベラル」な連中は「惡き官僚」を嗤へない。「政教分離の原則に反するから駄目」なんて、「駄目」と言ふ爲の單なる口實だよ。さう言ふ反對派は、「政教分離」が大事なのではない、ただ首相のする事に駄目出しして快を貪つてゐるに過ぎない。ただ、反體制派であると云ふ顔をして見せるのが嬉しくて仕方がないのだ。「ブログ」でも政治關係の掲示板でも見てごらんなさい、本當に事態を憂へてゐる反體制派なんて一人もゐないから。
ちなみに俺は、政治の問題に本氣になつて見せるのは馬鹿馬鹿しいと思つてゐる消極的な「體制派」(體制側にとつては都合の良い存在だらう。反體制派の連中が俺を嘲る所以)だから、別に憂へる氣になどならない。日本國の政治はどうせ祭政一致で良いぢやんよとか思つてゐるし。政治に先立つ領域の事に就いては全く無關心な日本人に、土臺、まともな政治なんて出來たものではない。どうせ「政教分離」なんて「南無阿彌陀佛」みたいなものだ。唱へてゐれば良い事があるらしい。
平成十七年十月十七日
神道が宗教か否かには議論の餘地がある。
神道が宗教である場合、その神道の「親玉」である天皇が國事行爲を行ふ事は果して「政教分離の原則」に適ふのか何うか。
天皇の行爲において國事行爲と宗教的な行爲との區別は可能か。首相の行爲において「公人」としての行爲と「私人」としての行爲との區別は可能か。何うも「政教分離の原則」を實現すると云ふ目的の爲にその種の區別が行はれてゐるやうにしか見えない。
首相も「私人としての參拜」なんて言ひ訣をしてゐないで、「首相の国事行為として憲法に明記しよう」なんて主張したら何うか。首相のノルマとして法律にしてしまつても良いだらう。今の「ファシズム政權」でならば、可なりの無茶も出來るだらうし、やれば反體制派が喜ぶ。
平成十七年十月十七日
靖國參拜が合憲か違憲かで論爭が起きて、違憲だと云ふ結論が出て、それで「決着がついてゐる」今、「違憲なのはをかしい、改憲だ」と云ふ主張が出て來ないのはをかしいのだが、恐らく出て來ない。自衞隊が違憲であるのは、軍隊が無ければ現實に起り得る事態が豫測出來る爲に「やつぱりをかしい」と云ふ主張が出てゐて早晩改憲に結び附きさうだが、靖國參拜が違憲であるのが「をかしい」と云ふ主張は、日本では絶對出て來ない。「祟りがあるかも」なんて非科學的な根據で、最早日本人は動かないらしい。
平成十七年十月十七日
野球の所爲でガンソードは25:51から。

平成十七年十月十六日
野球中継の所爲でぱにぽにだっしゅの開始が二十分遲れる。

平成十七年十月十四日
東京古書會館の古書展。キリスト教系の本や國語學關係の本が纏まつて出てゐた。古めの本が多い、氛圍氣の良い古書展。筑摩書房の現代日本思想大系『内村鑑三』『田辺元』。石井勲『連想式漢字記憶術』(朝日ソノラマ)。宇野精一編『平成新撰百人一首』(明成社)。教養文庫を何册か。多分ダブりの本を何册か。

平成十七年十月十三日
「ハードディスクの増設の仕方」みたいなコンテンツも作つた方が良いかなー。SerialATAはまだ使つてゐないから知らないけれども。
平成十七年十月十三日
もし需要があれば書いても良い記事。「アンテナを立てる」「配線する」「PCでTVを觀る」「録畫する」云々。
良い映像を得るには、「より良好な電波を受信する」のも大事だけれども、實はキャプチャボードの出來が良ければ或程度何とかなつたりする。
平成十七年十月十三日
遊んでゐてへろへろ。
平成十七年十月十三日
TVゲームは有害か?
有害なものほど魅力的だらう。
平成十七年十月十三日
最近ライトノヴェル讀んでないなー。
平成十七年十月十三日
今夜も寒いみたいだけれども録畫用のPCが二臺動いてゐるから寒くないぞつと。
平成十七年十月十三日
株屋はたちがわるいから云々。

平成十七年十月十一日
青梗菜が奇魂の掲示板で當方に粘着し、當方を侮辱し續けてゐるのだが、未だに高坂氏が對處しない。最近は高坂氏、サイトを更新せず、掲示板の管理もしてゐないやうだが、何うしたのだらうか。
平成十七年十月十一日
小倉秀夫の「IT法のTop Front」:匿名性に関する日米比較

むしろ、日本では、発言の真実性に対する社会的な要求が低いことが、ネット上では、匿名者による罵詈雑言を許容する社会を作り上げ、ジャーナリストの世界では「取材源の秘匿」の濫用を招いているといえるのかもしれません。

掲示板の結構多くの「論客」がさうだし、かなり多くの「ブログ」の制作者がさうなのだが、日本人には「正しいなんて事は相對的だからどうでも良い」と考へる人が少くない。日本人の可なりの數の人が、正しい事が「ある」のではなく、正しい事に「する」ものであると考へてゐるのではないかとすら思はれる。さう云ふ發想を持つ人が尠からずゐる日本に於て、論理的な議論を通して眞實に到達すべしと考へる人は少數派であり、その所爲で掲示板や「ブログ」での議論が成立しない事は極めて多い。掲示板と云ふ媒體や「ブログ」と云ふ媒體は、媒體に過ぎず、それ自體として議論を成立させないものである訣ではないと野嵜は今でも考へてゐるが、そこで議論が成立しないとすればそれはただ單に議論をする人間の側に問題がある。「議論の議論」――「議論は如何にあるべきかの議論」――が横行し、議論すべき事が何處かに行つてしまふケースが、日本では少くない。戰術としての「自分だけの正しいの押附け」を仕掛ける側と、「正しさ――と言ふよりは眞實の追求」を希望する側とが衝突する時、議論は成立たなくなる。そして、大概の場合、前者の側が大きな顔をして後者の側を侮辱するのだが、それが議論を成立たせなくする最大の原因である事を、掲示板の投稿者や「ブログ」の制作者は認識・理解すべきだと思ふ。
と言ふか、「正しい」と云ふ事を認めない人間が、他人の意見を疑つて「それは本當に正しいのか」「お前は自分の意見を疑つた事があるのか」等と執拗に追究する事が「ある」と云ふのがそもそも異常だと思ふ。「疑ふ」のは「正しい」と云ふ事が「ある」と「信じてゐる」のが大前提である、と云ふ事を、さう云ふ人は何故か解らない。相對主義は、「主義」である時點で、その人にとつて絶對的なものとなつてしまふ。何故か「相對主義者」はそれを自覺してゐない事が多い。どうも「自覺が足らない」のやうな事を言つて、他人の意見をまともに檢討しないやうな人は、その人こそ自覺が足らないやうに思はれる。何とかならないものだらうか。
――と、かう云ふ事を書くと、「其人いよいよ居丈高になりて」と云つた事になりさうなのだけれども云々。
平成十七年十月十一日
人は屡々野嵜の掲示板での態度が惡いと評する。しかし、投稿者・發言者の態度を執拗に追究するけれども、その投稿者・發言者の投稿・發言の内容を正當に理解せず、態度に基いて曲解して、それで否定する、と云ふ論法を使ふ側には問題がないのか。「野嵜は掲示板荒し」と極附け、「掲示板荒しの野嵜の言つてゐる事だから、聞いてやる必要がない」と云ふ「論法」を使ふ人間は、Yahoo!掲示板で良く見掛けたし、今でも青梗菜がその「論法」で野嵜を攻撃してゐる。かうした「論法」を用ゐる手合は、「はじめに結論ありき」で「反論する奴は、態度が惡いとでも何とでも難癖をつけて默らせれば良い」「嫌がらせされても默らない奴は、馬鹿に見せかけて、周圍の人間が聞く耳持たないやうな状況に追込んでやれば良い」と考へてゐる。「何が正しいか」に興味が無い、と云ふ訣ではない、「何が正しいか」に彼等も或種の關心を持つてゐる。それが、「正しい事の根據を明らかにしたい」と云ふ方向の興味でなく、「如何にして自分の信ずる『正しい』を他人に巧く押附けられるか、そのやり方を知りたい」と云ふ方向の關心であるのが、駄目なところなのだが、當人、駄目である事が解らない。「正しい事」が「わかつてしまつてゐる」と云ふ思ひ込みがある以上、あとの問題は他人に押附けるだけである。自分の思ひ込みに恐ろしいまでの自信があるらしいのだが、その自信は何處から湧いてきたものなのだらうか。野嵜は、自分の考へは正しいと信じてゐるから、強く主張する。けれども、それは飽くまで「信じてゐる」のであり、「信じてゐる」事を意識してゐる時點で、實は反面、疑ひも「ある」事を自覺してゐる。さうした野嵜に對して、掲示板で鷹揚な態度で窘める人が屡々ゐるのだが、その鷹揚な態度が曲者で、疑ひを持たない確信がその人に自信を持たせ、態度を鷹揚にさせてゐる事が結構ある。さう云ふ人に限つて、「疑つて見る事も必要ですよ」等とぬかすのだが、その人の主張を疑つてゐる野嵜をその人は決して許さない。「他人の主張を大らかな態度で受止める事も大事ですよ」等と青梗菜は言つたけれども、その青梗菜が野嵜の主張に極めて狹量な態度を示してゐる事は注目に價する。青梗菜は「自分の意見は大らかに受止めよ」即ち「自分の意見は受容れろ」と言つてゐるのであり、その青梗菜が野嵜の主張を受容れないのを見れば、青梗菜は明かに自分の主張が「正しい」と確信してゐる。青梗菜は、理性とか論理とかを「疑へ」と言つてゐるのだが、實は青梗菜は自分の主張を疑ふ事が無い。「どうせ野嵜もさうだらう」と言はれるかも知れないが、野嵜は自説に必ずしも確信を持つてゐない。その點ははつきり宣言しておく。實際、自説に確信が持てない者でない限り、自説を支持する根據を出し續けるなんて事は出來ないのではないか。確信が「ある」人に限つて、信仰の押附けのやうな事を平氣でするものだ。
平成十七年十月十一日
小倉秀夫の「IT法のTop Front」:汚れたどぶ川には、清冽なる鮎は住めない

結局のところ、blogにおいて他人を攻撃する発言の匿名性を守ることにより得られるものは、匿名の陰に隠れて他人を無責任に誹謗中傷する方々を安心させるということと、そのような方々から執拗に誹謗中傷されることへの耐性がない人々のblogへの参入を阻害すること(あるいは、匿名の陰に隠れて執拗に誹謗中傷を繰り返す人々に一定の思想傾向を有している者が多い場合、彼らを刺激しかねない話題を自主規制してしまうこと)くらいであり、それはネットによるコミュニケーションの発達には却ってマイナスになるのではないかと思います。

コメント欄で匿名の人がいろいろ言つてゐるけれども、やつぱりさう云ふ言はれやうをされるのならば匿名の人に對しては警戒するのが當り前で、理念として「匿名は惡い」と考へておくのが妥當だらう。その「惡い匿名」に對して「こちらも匿名の蔭に隠れる」と云ふ實際的な對處は、飽くまで現實的な對處に過ぎず、「それで良いのだ」と云ふ理念的な價値判斷に轉訛する必要はない。匿名は汚いものだよ。田沼治世の事を擧げて論じてゐる投稿者もゐるけれども、だからと言つて「賄賂が横行するのは良い社會だ」等とも言へまい。「理想的」には實名社會が望ましいのであり、ただ、人間は全員が全員善人である訣では無いし、一人の人間の中にも惡人が住んでゐるのだから、實名社會は「現實的」でない、と云ふだけの話だ。プラトンが「理想國」を書き、トマス・モアが「ユートピア」を書いてゐるが、さう云ふ理想社會は「決して實現しない」けれども「實現を目指して努力する」と云ふ事はあつて良い。何うも日本では、かうした理想主義が流行らないけれども、徹底した理想主義の主張が社會に一度も影響を及ぼした事がないと云ふのは、日本人にとつて不幸な歴史であつたやうに思はれる。日本人は實際的過ぎる。
平成十七年十月十一日
黒岩よしひろ でぐぐれと言はれてぐぐつてびびつた。あんまりにも非道いので更新。エキサイトとかBIGLOBEサーチとかも非道い。

平成十七年十月十日
見えない道場本舗-Josh応援団(再) - 「天皇はサルの子孫か?」−山本七平の著作より
「ID説」を評して一休さんに因縁をつけるききょう屋さんのごときとんち説と言つてゐるのが良い。
「兩論併記」を言ふ人に屡々「もつと大らかに」みたいな言ひ方をする人がゐるのだけれども、實際のところ、相當大らかにならなければ「併記」出來ないやうな「トンデモ」説をさう云ふ人は主張してゐる事が多い。現代の學問は、既に「相對主義で對話を否定する時代」を乘越え、統計學等に據つて「確率の話を出來る時代」に來てゐる。さう云ふ現代に、可能性の高いと看做されてゐるダーウィン以來の進化論に、餘り可能性が高いとは言へない「ID説」がぶつけられてゐる訣だけれども、「相對主義」によつて「兩論併記」となるのは流石に何うかと思ふ。これが「兩論併記」となり得るのなら、ビッグバン理論と恒常宇宙論との方が餘程「兩論併記」と「なり得る」話だらう。やつぱり事實である可能性の低い「トンデモ」と看做されるやうな説は、教科書の類からは落されるべきだと思ふ。でなければ、「明治天皇は、實は暗殺されてゐたのです!」だとか「近衛文麿は共産主義者だつた」だとか「いろは」が何うたらだとか、そんな珍説まで教科書に載り兼ねない。
平成十七年十月十日
G.B.サンソムの『西欧世界と日本』を讀んでゐる(ちくま学芸文庫)。サンソムは、長谷川三千子氏の『からごころ』と同樣に、「洋の東西」を比較するに當つて、近代とか現代とかの近視眼的な視點ではなく、歴史の流れの中に立つて、マクロな視點から東西交流と文化の衝突の觀點から檢討を行つてゐる。慥かに東洋と西洋との間には、此處までが東洋、此處からが西洋、と云ふ風に分れる嚴密な境界線はない。けれども、矢張りヨーロッパとインドや支那とには違ひがある。表面的な影響は古代から與へ合つて來た事は間違ひない。しかしながら、根本的な部分で近代に至るまでアジアはヨーロッパから影響は受けてゐない。東洋と西洋とは、アジアとヨーロッパとは、違ふ文明に屬してゐる。そして、東洋と西洋、アジアとヨーロッパとは、異る文化同士として、衝突し、融合する過程にある。日本と西歐との文化の衝突、明治以來の近代化、そして大東亞戰爭と云ふ東西の武力衝突もその衝突と融合の過程の最中に起きた部分的な事象である。長谷川氏はさう云ふ事を極めて簡略に述べてゐたけれども、サンソムは具體的に詳細に論じてゐる。
平成十七年十月十日
近衛文麿の手記『平和への努力』(昭和二十一年・日本電報通信社)を讀んでゐる。以下、近衞に據れば、だが。大東亞戰爭開戰以前の日本の政府の努力は、只管、アメリカの參戰を阻止する事に向けられてゐた。日獨伊の同盟にしても、日ソの不可侵條約にしても、アメリカに參戰しないやう壓力をかける事が目的だつた。日獨伊とソ聯との連携は、必ずしもそれ自體を望ましいとして行つた事ではなく、アメリカとの對立關係においてのみ「あり得る」ものとして實現されたに過ぎない。が、さうした政府の努力は巧く行かなかつた。樞軸三國とソ聯との連携は、ドイツの對ソ戰開始に據つて崩潰した。近衞の考へでは、日本の對米交渉が巧く行かなかつたのは、ドイツが足竝みを揃へて呉れなかつた事が大きな要因であるらしい。政府は早い段階で「ドイツは信頼出來ない」と考へてゐた。だからドイツとの同盟は、政府はさつさと破毀したかつたのだが、陸軍がドイツを信用してゐたので、どうしやうもなかつたらしい。獨ソ戰が始まつて、日本とドイツとの聯絡もまゝならなくなつて、日本とドイツとの關係は早い段階で分斷されてゐた。かうなると、最早、日米交渉は三國同盟と無關係に行はれるやうになり、日米開戰は三国同盟の存在とは別のところで生じたものである。三國同盟の存在がアメリカに參戰を決意させたものではない。國民の間で對米感情が惡化した擧句、對米開戰の主張が強まつて、それで餘儀なく日本は對米戰爭に突入する事になつた。近衞はさう述べてゐる。
言ふまでもなく、近衞に共産主義者らしい口吻は無い。
平成十七年十月十日
キッズにおはようといってソファーにすわる! - 批判の社会性 問題の独自性
なんで「社會性」なんてものが出て來るのかが良く解らない。「すべからく〜すべし」と云ふ言ひ方は決つた言ひ方で、さう云ふ「すべからく」が「すべて」の意味で用ゐられるのは單なる言葉の誤用に過ぎない。

しかし、「すべからく誤用批判」は、偉そうな言葉をわざわざ使ってみっともない、という批判なのであるから、最初から、<社会性を帯びた>問題提起となっている。

なんか、批判の態度が問題になつてゐるのだけれども、批判の本質とは全然關係ないよなー。そもそも「誤用」の批判は「間違つた言葉を使つて見つともない」と云ふ批判であり、「須らく」を「全て」の意味で用ゐてしまふ動機の推察――その結果としての「偉さうな言葉を使ひたいのだ」と云ふ推定――は、誤用してゐる人への嫌みでしかない。そこに「社會性」なる問題意識を見出しても構はないけれども、それで批判の本質が見失はれるやうでは困る。言葉の誤用の問題で一番重要なのは言葉の誤用と云ふ問題である。
平成十七年十月十日
産経Web【教育を考える】2005.09.26 ■「反進化論」米で台頭 渡辺久義・京大名誉教授に聞く
AztecCabal - 「反進化論」米で台頭 渡辺久義・京大名誉教授に聞く

この方法論的自然主義を放棄したら科学が成り立たないんじゃないの。今の科学で説明できない事柄にはすべて超自然的解決が“オルタナティヴな”科学的理論として主張されうるってことになってしまう。それこそIntelligent Fallingが冗談じゃなくなるよ。

児童小銃 .456 - ID って統一教会なの?
macska
ちょっと前に The Onion に「インテリジェント降下理論」というパロディが載ってました。それによると、重力は単なる理論であって実証されておらず、物が落下する現象の背景にはそれを落下させる知的存在がいるという理論だとか。
rna
うはは。重力の中の人も大変だ!
中の人は良かつたね。
macska
ID論推進者の発言を聞いていると、現存する生物の多様な性質が進化では(すなわち自然発生的には)説明がつかないことを「直感的に」受け入れるよう要求しているように思います。カメラやコンピュータですら人間の意志がなければ製造できないのに、どうしてそれより複雑な人間の目や脳が自然に発生するなどと言えるのかという議論は、論理というよりは直感に訴えているでしょ。
で、その辺りをきっちりと実証できないことはかれらも分かっていて、それを指摘されると「でも進化だって厳密には実証できないから、科学教育においては両者は対等に扱うべきだ」というところに落とし込もうとしているのね。つまり、向こうは「ID論は不完全かもしれないが、進化論だって完全ではない」という論理ですから、ID論の不備を指摘するだけでは不十分で、進化論がそれに比べてどのように有利なのか(例えば、まだ発見されていない化石や発掘調査が行われていない地層について反証可能な予測を立てることができる、みたいな)を説明しないと「両論併記論」に対抗できないです。
(The Onion の記事、それです。たまたまどこかで拾って読んでました。)
平成十七年十月十日
めも。
電網山賊2005-08-23

科学的思考が可謬性の認識を「理論の反証可能性」という形で実装していることは、恐らく科学的思考の最も公正な特質だろう。カール・セーガンは「科学の価値は、民主主義の価値と相性がよく、この二つは区別できないことも多い」と書いている。すべての理論的認識は「未だ反駁されざる仮説」に過ぎないという科学的認識の内側では、特権的な「神」は存在し得ない。

民主主義の原則の一つである「言論の自由」は、議論の自由と同義であり、「全ての主張は假説に過ぎない」と云ふ大前提の下で各自が妥當と思はれる意見を述べ合ふ事が想定されてゐる。キリスト教文明の下で出現した科學と民主主義とで「区別できない」價値を認めてゐるのは或意味當り前で、結局のところGodを積極的に否定したところに近代の科學も近代の民主主義も存在してゐるからだ。そして、Godの否定は即座に科學や民主主義の「絶對化」「無謬化」に繋がる訣だが、それは流石に現代では反省されてゐる。ID説を含む「擬似科學」や、或種の現代的な思想は、さう云ふ科學や民主主義の反省につけこんだもので、それだけに一見「尤もらしい」のだが、實は極めて圖々しい主張である。かうした圖々しい主張に對して科學は謙虚に應對すべきか。「俺は馬鹿だから反省しない」式に「開き直つた」態度で應ずるのも、一つの手だらう。科學にしても何にしても、反省し過ぎてゐては、却つて不毛な議論に陷るだけでしかないやうに思はれる。「トンデモ」の人、「電波」の人は、圖々しいし、すぐに圖に乘る。「反近代の思想」の末裔であり、袋小路的な進化を遂げて畸形化した「トンデモ」思想は、逆にそれこそが乘越えなければならない現代の思想である。福田恆存は「反近代の思想」では不十分で、「超近代の思想」が必要だ、と述べた。
平成十七年十月十日
ぷァ 乃GJ! 擬似質問 メロディー周期が長いこと やめるきっかけ 欲しくなくても、貰うのが賢い生き方 事実と循環構造2005-08-19
平成十七年十月十日
と言ふか「頭の體操」みたいな次元で話をしてゐる人が殆ど。「ブロガー」とか掲示板の「論者」の類の人々は皆、法律でも科學でも歴史でも政治でも、パズルを解くやうな感じで話をする。「俺は本氣なのだ!」みたいな事を言つてゐる人も、或は日本の將來を憂へて見せてゐる人も皆、同じやうな雰圍氣。「パズルを解く」のが樂しくて話をしてゐるやうにしか見えない。
平成十七年十月十日
くわしまにあ: ちわッス!「ことりかわいいよことり同盟」作るッス!
平成十七年十月十日
記憶更新履歴(2005年10月) - Final β Laboratory「Blogの(Blogじゃないけど)見出しのアンカーの閲覧者による利用例」

平成十七年十月九日
俺はことりスキー。
平成十七年十月九日
獨自にGUIを構築してゐるアプリケーションでは、コントロールパネルのマウスのプロパティで「ポインタを自動的に既定のボタン上に移動する」のオプションを有效にしてゐても、獨自のダイアログのボタンでポインタが移動しない場合がある(WindowsXP)。本物のボタンではない爲だ。
矢張り、Windowsの標準のGUIでアプリケーションが作られてゐた方が、ユーザにとつては便利である。見た目は「恰好良い」「いかにも判り易さう」なGUIでも、獨自に作り込まれたものは、ユーザにとつては屡々不便である。アプリケーションのGUIをデザインする方々には、「Windows標準」の機能を活かせるやうなものを作つて頂きたいものだ。「見た目だけで物事を判斷するデザイナ」は要らない。

平成十七年十月七日
東京古書會館の古書展。黒つぽい本が多くて良い雰圍氣だつた。値段も安め。三千八百圓で色々拾へた。以下、本日の買物。きだみのる『日本文化の根柢に潛むもの』(講談社・單行本版。ダブりではない)。原隨園『ギリシア史研究』第一、第三(創元社・第一は、第五版を持つてゐるが、今日買つたのは初版。ダブりではない。第三は持つてゐなかつた。前書に「第四卷も出したい」と云ふ希望が書かれてゐるけれども、出たのだらうか)。久野収編集・解説『戦後日本思想大系15 現代日本論』。『現代紀行文学全集 補遺篇』(修道社)。岸田國士『罪の花束』。川田順校注『金塊和歌集』(冨山房百科文庫八・持つてゐるかも知れないが百圓だから問題ない)。教養文庫を何册か。
平成十七年十月七日
おさんぽさんぽのカテゴリは全て横文字で表記されてゐるけれども、ふみんぐさんはこれで自分のサイトのユーザビリティだかアクセシビリティは「良い」のだと思つてゐるのだらうか。
なんで「ブログ」の人はかう云ふ使ひ辛いカテゴリわけをして平氣でゐられるのだらう。
平成十七年十月七日
RD、自作の無名戰士弐號くん、IBM ThinkCentre、の三臺總動員の録畫體制。最近は耳許でPCのファンが唸つてゐないと寢附けなくなつた氣がする。
なんか全部電波のソースが違ふ。J-COMの再送信、近所の共同アンテナ、自宅ヴェランダの安物U/Vアンテナ。
平成十七年十月七日
舞-乙HiME第一話。結構樂しめる氣がする。
平成十七年十月七日
苺ましまろ第十一話。珍しく面白かつた。

平成十七年十月五日
殊更人を貶めるか、嫌みたらしく「襃め殺し」をするか、そのどちらかしか出來ない人がゐるやうですね。こちらは「普通に評價して呉れ」と言つてゐるだけなのに。例の「はてなブックマーク」が某氏によつて書換へられて頭に來たのか、わざとWikipediaにうちの宣傳みたいな書込みをした馬鹿がゐるのだと。
俺は絶對にサイトの宣傳をしないから、何處かの掲示板にうちの宣傳が書かれてゐても全て俺以外の誰かの仕業で俺の責任ではありません。
と言ふか、Wikipediaが「即時削除」しまつたので、「誰がやつたのか」が判らない。さう云ふ眞似をする投稿者のリモートホストくらゐ晒しても良いだらうに。荒しなり騙りなりの投稿は、さつさと削除していただけるのは慥かに有難いのだけれども、リモートホストを晒して呉れるともつと有難い。
晒されてゐるさうです。宮城OCN青葉通り。インターネット喫茶か何か? 以前にもそこから荒した奴がゐる。
と言ふか、誰か知らないけれども、「場の空氣」を讀めよな。Wikipediaで書くべき事ではないだらう。野嵜の名前を出して場の空氣を惡くすれば、當然野嵜の印象が惡くなる――。
kahusiの日記擬き - 某Wikipedia
平成十七年十月五日
自動組版は、夢か幻か?
何と言ふか、「デザイナーの拘り」が一番の問題だと思ふ。變な拘りが多いんだよあの人達は。
平成十七年十月五日
ARTIFACT@ハテナ系 - メガネっ子による漫画喫茶
どうして何でもかんでも接客業にしたがるのだらう。本物のヲタがリアルな女子に接客されるのを望む訣がない。ヲタは二次元を好む。と言ふか櫻花さんになんか萌えない。
平成十七年十月五日
HDDを買つて來た。ただのATA。250GB。バルク。日立製。狹苦しい筐體に填込まなければならないので四苦八苦して、で、PCの電源を入れてみたら、認識する筈の前から繋がつてゐるHDDが認識しない。何だと思つたら、電源ケーブルの接觸不良だつた。弄つてゐるうちに緩んだ模樣。
今のPCで一番レガシーなデヴァイスの一つが電源ケーブルだと思ふ。SATAの爲の新しいケーブルは變化してゐるけれども、それ以外のは1980年代以來の物凄く古臭いもの。拔差しが力任せと言ふのが最低。個人的にデヴァイスは全て有線で繋がつてゐないと安心出來ないから無線化すれば良いと思はないけれども、PCの中のケーブルは、最うちよつと何とかならないものかと思ふ。ケーブルと言ふかコネクタ。しつかり留まつて勝手に拔け難く、しかし、外さうとすれば簡單に外せる、と云ふのが理想。
HDD、只今フォーマット中。30%。
平成十七年十月五日
ドラフト制度があるプロ野球のティームは、半分籤で出來てゐるやうなものだ。どこそこのティームの選手なんて言つたつて、半分は「たまたまそこにゐる」に過ぎない。
平成十七年十月五日
小泉自民黨大勝利の現状が「ファシズム」と呼ぶべきものであるのなら、憲法が改正出來るやうな状態もファシズムの状態だらう。憲法改正が實現するとしたら、それはファシズム政權の下での事であるらしい。
みんな今の憲法が大好きなんだな。「保守派」の文春も。
平成十七年十月五日
讀むための正字分類表
平成十七年十月五日
50%。

平成十七年十月四日
PanasonicのLF-M821JDを使用し、太陽誘電の16倍速對應DVD-R「DR-47WPY10BN」にZulu2で書込んでゐたところ、一枚のディスクでベリファイがかからず、燒きに失敗。ちなみに十枚入りスピンドルケースの一番下には、厚みが普通のDVD-Rの半分しかない透明なディスクが一枚。
DVD-Rは、臺灣製等が駄目なのは有名だけれども、日本の製品も案外信用出來ない。マクセルのDVD-Rが二枚に剥がれたのも目撃してゐるし。本に據ればDVD-Rは結構短期間で劣化するみたい。やつぱりHDDを買ひ増しして行くのが一番なのかな。
平成十七年十月四日
同じドライヴを使用し、やはり太陽誘電の8倍速對應DVD-R「DR-47WPY10BA」に書込んだら、また書込み失敗。
最う二度と太陽誘電は使はない。
平成十七年十月四日
「DR-47WPY10BA」、二枚目も書込めない――と思つたら、ファイルが毀れてゐるんだ。前から何度scandiscをかけてもなぜか檢出されないのだけれども、クラスタが一つ逝つてゐるらしく、丁度それにファイルが一箇かかつてゐた模樣。

平成十七年十月三日
サント・ブーヴ/小林秀雄譯『我が毒』(養徳叢書外國篇1002) p.35

優美は、何かしら纖細とは全く異つたものである。後者は前者より稀なものだし、また一段と道徳に密接なものだ。前者が見る目も美しく存在してゐる處でも、後者は缺如してゐる事がある。ユウゴオもジャナンもジョルジュ・サンドも、ある點では、限りない優美を備へてゐるが、纖細といふものになると、全くこれを缺いてゐる。

平成十七年十月三日
サント・ブーヴ/小林秀雄譯『我が毒』(養徳叢書外國篇1002) p.39

ギュスタヴ・プランシュ――嚴格主義(リゴリスム)の僞裝によつて、最も尊敬されてゐる現代の批評家。この怠惰な道樂好きな威張り腐つた精神が、一度言ひ出した事を、引込めさせようなどと希つてはならぬ。彼は幾度でも繰返す、永久に繰返すだらう。

平成十七年十月三日
サント・ブーヴ/小林秀雄譯『我が毒』(養徳叢書外國篇1002) p.40

スノント侯に就いて、アミルトンの「グラモンの騎士の思ひ出」の中に、かう書いてある。「博學と殘忍とが、お好みの才能だつたらしい」碑銘研究會の幾人かの學者には、恰好な銘句ではあるまいか。


平成十七年十月二日

相對主義が必然的に混亂とアナーキズムとに人を導くのは、それが多くの原理、多くの價値を同時に認めるからではない。むしろ、認めるふりをして本當は認めないからなのです。相對主義は、けつして「他人の選び取つたものの見方」を、自分のものの見方にまさつてゐると認めたり、それを積極的に學ばうとしたりはいたしません。逆に、自分自身の狹いものの見方以外を學ばすにすませる口實として「相對主義」と稱するにすぎないのです。

平成十七年十月二日
3C-FVのケーブルを5C-FVのに替へたらTVの映りが良くなつた。氣がする。

平成十七年十月一日
karpa’s ― 非行非善 - 政教分離のこと
うちの記事を受けてゐるのに、態とぼかして書いてゐる。はつきり此處が「出典」と言はないのは明かに責任逃れで鄙劣。意圖的かどうかは知らない*1が、政教分離を誤解して、或は誤つた意味合ひで用語を使ふのは、どうなのだらう。と言ひながら、まあ一應意圖的=煽りと捉へて、直接的な出典の明示をしないことにすると言ひ訣してゐるが、意圖的=煽りとレッテル貼りもやつてゐて、極めて惡質。實際のところ、俺の記事の何処がどのやうな理由で「誤り」であり、俺が何う「誤解」してゐるのかを、karpa氏は述べない。述べないで、ただ一般論を言つてゐる。一般論を言ふのは、「批判對象の人間を、一般論も知らない愚か者であるかのやうに見せかける」のが目的である。
karpa氏は、前からなぜか俺につつかかつて許りゐるのだが、何なのだらう。何か俺が氣に入らない事を言つたのだらうか。
kapra氏は、一般論を述べてゐるだけで、何を主張したいのかを完全にぼかしてゐる。すると總理大臣の靖國參拜といふ問題は、公の問題として捉へるのが妥當なのである其の問題を公の問題であるかと問ふことも重要である、と書いてゐるが、公の問題として捉へたからどうなのであらうか。重要であるとは何なのだらうか。何だつて「重要である」と言へば、尤もらしく見えるだらう。詰り、何の意味もない。karpa氏が、なぜ俺に嫌みを言つてゐるのか、俺は全然解らない。しかし、とにかく野嵜に嫌みを言ひたいのだ、と云ふkarpa氏の意圖だけは理解出來る。自分の主張にしつかりした根據がなく、野嵜を面罵は出來ないので、仕方がないから嫌みを言ふに留める、と云ふ態度が嫌らしい。
平成十七年十月一日
karpa氏は、以下のやうに述べてゐる。

であるから、これは公の場、政の場では「宗教」關係のことはおほつぴらに言はないやうにしませう、といふ原則が政教分離といふことであり、「宗教=キリスト教」である・あつた歐米社會では、聖書を持ち出すことはなんら不思議な行爲ではなかつたし、政治家自身の宗教は誰も問題にしてゐないと云つてよい。

西歐的な概念である宗教とは必ずしも言ひ難い神道の社會である日本では、神社に參拜する事は何ら不思議な行爲ではない。政治も祭祀も「まつりごと」であるのだから、首相が靖國神社に行つても問題にする方がをかしい。それが「公」か「私」かなんて事は下らない事だ。日本人に公私の區別なんてものはない。修身齊家と治國平天下とを混同するのが日本人だ。修身齊家とは「私」の領域に屬し、治國平天下とは「公」の領域に屬するものだ。この二つを、日本人は全然區別しない。一々「公の問題」なんて言ふのが、日本の社會では異常だ。「靖国問題」は、さう云ふ何でもかんでもごつちやにする「日本の社會」の事件として解釋しておけばそれで良い。
もちろん、俺の立場は、西歐流に個人的な事と社會的な事とを嚴密に分かつべし、と云ふ立場だ。(その點で俺はkarpa氏と(多分)同じ立場だ。だから俺はkarpa氏に憎まれる理由がないのだが、karpa氏は俺を蛇蝎の如くに嫌つてゐる。俺はkarpa氏が理解出來ない)ただ、「日本人は道徳と政治とを嚴密に分かつべし」と云ふ立場と、「日本人は道徳と政治とをごつちやにするものである」と云ふ認識とは、全く矛盾しない。
クリスチャン(はつきり言はなかつたが、誤讀の餘地なく「日本のクリスチャン」の事である。日本國内の問題に餘所の國のクリスチャンが一々絡んで來た事はない)が「政教分離」を楯にとつて首相の靖國參拜に反對した事を俺は非難してゐる。これは、既に述べた通り、「日本の社會」と云ふ「文脈」をクリスチャンが理解せず――勿論理解してゐないのはそれだけでない、とにかくクリスチャンが教條主義的に「政教分離」の「原則」を「原則」が「ある」と云ふだけの理由で――首相の靖國參拜を非難してゐるのに對して、否、「對して」ではなく、けれども、その反對者が、例へばクリスチャンであつたら何うだらう。と俺は假定の話をしてゐる。クリスチャンは、サンプルである。クリスチャンに限らない、俺の批判してゐるのは、「政教分離」と云ふ「原則」を靖國問題に教條主義的に當嵌める――「政教分離」の「原則」を當嵌める爲に靖國參拜の問題を「政治と宗教」と云ふ構造と看做さうとする――さう云ふ「首相の靖國參拜に反對」の人全ての事である。彼等が、「此所は日本である」「神道は日本の文化である」と云ふ事實を無視して、深い考察を缺いたまゝ、單純に「政治と神道と云ふ宗教」と云ふ「構造」を議論に持込んでゐる誤――karpa氏も同じく冒してゐる誤――を、俺は指摘し、批判した。クリスチャンが政治に口を出してゐる。これは「政教分離の原則」に牴觸する事になるのではないか。と俺は書いたが、教條主義的に「政教分離」の「原則」を適用して見せただけで、皮肉である。karpa氏は、さう云ふ俺の意圖を理解出來ず、單なる煽りであると看做し、「煽り」であるからと言つてかちんときて、野嵜を小馬鹿にして憂晴しをしようとしたに過ぎない。
平成十七年十月一日

先日アメリカ合衆國で、毎日學校で星條旗に誓ふ「神の下に」を違憲ではないかとする裁判が起こつた。むべなるかな

karpa氏の本性が顯れてゐる。karpa氏は、「神の下に誓ふ」事を「違憲だ」として訴へたアメリカ人の行爲を肯定してゐる。それが當然の事だと考へてゐる。
この上の引用は、下の文章に附された注記である。

であるから、これは公の場、政の場では「宗教」關係のことはおほつぴらに言はないやうにしませう、といふ原則が政教分離といふことであり、「宗教=キリスト教」である・あつた歐米社會では、聖書を持ち出すことはなんら不思議な行爲ではなかつたし、政治家自身の宗教は誰も問題にしてゐないと云つてよい。

karpa氏は、注を附けた部分を過去形で書いてゐる。飽くまで、過去には「不思議でなかつた」に過ぎない、とkarpa氏は考へてゐる訣だ。即ち、現在は「不思議」に思ふのが當然である。かうした事態は、「傳統の衰退」が背景にある訣で、ならば、「傳統の力」が強くなくなれば、傳統的に認められてきた「神の下での宣誓」は「不思議」と看做されるべきである。そして、Godなんてものは存在せず、キリスト教が「傳統の力」を持たない日本國であるけれども、一般に「傳統の力」なんてものは最早「衰退」してゐるのである。「現代的」なアメリカの事例に倣つて、先進的な日本人も「傳統的に認められてきた神道的な行爲」を「不思議」と看做すべきである、首相の靖國參拜も單純に違憲と看做すべきである。――さうkarpa氏は考へてゐるのである。
即ちkarpa氏は、首相の靖國參拜は「違憲である」と考へるのが當然である、と信じてゐる。それで、野嵜が「違憲でない」と云ふ結論を仄めかしてゐるのが「不思議」でならない。そこでkarpa氏は、野嵜を異常人と看做し、自分を納得させようとしてゐる。が、それをはつきり書く事は「やばい」と思つてゐる。だから直接的な出典の明示をしない。karpa氏は所詮、異るイデオロギーを信じてゐるからと云ふだけの理由で野嵜を毛嫌ひし、感情的に野嵜を罵つてゐるだけである。さて、どうせkarpa氏は最後までこの文章を讀んでゐないだらうから書く、karpa氏は好い加減に以上の文章を讀み、karpa氏の文章を野嵜が分析してゐるのを見附けて、「この人はまた妄想を書いてゐる、相手にする必要はない」と見下したやうな、呆れたやうな言ひ方で投げやりなコメントをするだけだらう。或は、karpa氏は野嵜の以上の文章を完全に無視するだらう。とにかく、まともに反論する事だけはない。しかし、それはkarpa氏の負けである。
karpa氏は、一般論を滔々と並べ立てただけであり、野嵜を馬鹿に見せかけようとしたに過ぎない。「日本の傳統」「日本の社會」と云ふ「文脈」を無視してゐる。だから、karpa氏の文章は、ただ單に「それつぽい事」「もつともらしい事」に過ぎず、主張としてなつてゐない。
平成十七年十月一日
長谷川三千子『からごころ』(中公叢書)を讀んでゐるが、「日本的なもの」の分析として面白い。宣長が非難した「からごころ」と、「やまとごころ」「やまとだましひ」を賞揚した宣長の態度とは、矛盾・對立するやうで、實は根柢では繋がつてゐる――さう長谷川氏は指摘してゐる。「支那のもの」であつた佛教や漢字を、日本人は受容れた。しかし、同時に、それ等が持つてゐた「支那のもの」としての本質を、日本人はそつと「日本的なもの」にすり替へてしまつた。「自分の外部のもの」を受容れるのは苦痛である。日本人はその「外部のもの」を、恰も慫容として受容れてゐるかのやうに見える。けれども、「受容れられた結果」としてある佛教も漢字も、本質の部分で「日本人なもの」になつてしまつてゐる。支那の發音と文法に基いて讀まれてゐた漢字を、日本人は訓讀みし、てにをはの中に置いてしまつた。その爲に、漢字の持つてゐた「中國語としての言靈」は消えてしまつた。漢字は今や日本語の一部であるやうにしか見えない。が、「見えない」やうにする操作は、慥かに行はれてゐるのである。アメリカからの「押附け憲法」もまた日本人は、「自分のもの」に本質の部分をすり替へてしまつてゐる――すり替へ、と云ふ野嵜の言ひ方は正しくない、「外部のもの」としての本質を「自分のもの」としての本質に變換する作業を行ひながら、それを日本人は「見ようとしない」、と長谷川氏は述べてゐる。元來、聯合國に日本が最う二度と反抗しないやう國家として骨拔きにすべく「日本国憲法」に盛込まれた平和主義であるが、日本人はそれを昔ながらの「和を以て尊しとなす」の傳統の中に位置づけて理解してしまつた――と言ふより、元々の意圖を無視したのである。「無視の構造」は、たしかに日本文化の根本構造であり、もっともすぐれた特質をなしてゐるものである。……「外部のもの」と「自分のもの」との「ずれ」を日本人は「見ようとしない」。さうした態度は、外部の文化を受止める立場に常に立たされる日本人が身に着けた「智慧」だが、その「智慧」が逆に「日本人とは何か」を日本人が考へる時、日本人に苦痛を與へる。……けれども、そこには底知れぬ「おぞましさ」がぴつたりと背中合はせになつて張りついてゐるそれは、自らでないものを自らと取り違へて生きることの醜さ、とでも言ふべきものである。

いまもまた、我々は、自分逹が何物であるかを本當には見ないことによつて、我々らしさを保つて生きてゐる。そしてこの生き方を貫くためには、「見ない」といふことに絶えず神經をとがらせてゐなければならない。

長谷川氏は、憲法論議における個別の條文についてあれこれ言合ふ議論――「現象面」での議論を、必ずしも、と言ふより、餘り重視しない。

たとへば今、「日本国憲法」の内にあるおぞましさなどといふものは、人の目に露はになつてはゐない。いはゆる憲法論議と言はれてゐるものは、まだ本當の憲法論議ではない。第九條をめぐつての今のところの議論も、むしろ、止むに止まれぬ現實の出來事に附隨しておこる、實際的の議論と言へる。或は、それは、法律學者や政治學者がその成り立ちや手續きをめぐつて繰り廣げる、「專門的」の議論を出てゐない。

けれども、いづれ何時かは、この憲法全體を貫く精神のおぞましさ、或はむしろ、全體を貫く精神の無いことのおぞましさが、人の心を蝕み始める時が來る。その時に如何したらよいのか、その時我々は如何生きたらよいのか――我々にはまだ全くその備へが出來てゐない。考へれば身の毛がよだつほど、まったく出來てゐないのである。

大東亞戰爭にしても――と言ふより、大東亞戰爭それ自體や、その中の個別の事件を採上げるのは、矢張り「專門的」に過ぎる事でしかない。林房雄の『大東亞戰爭肯定論』を長谷川氏は採上げて論じてゐる。林氏は、大東亞戰爭を日本が近代化する歴史の中に位置附けようと試みた。それは正しい意圖である。けれども、『大東亞戰爭肯定論』でも依然、完全な位置附けは出來てゐない、と長谷川氏は指摘する。林氏は、日本の近代化の歴史を、アジアとヨーロッパとの對立と云ふ大きな歴史の流れの中で見てはゐる。けれども、大東亞戰爭にしても、矢張り「日本人が日本人らしからぬ振舞を餘儀なくされて來た歴史」の一部である。それを林氏ははつきりとは認識してゐない。

林房雄氏が「敗戰痴呆症」とみたものは、實にこの日本國民の「民族の智慧」であつた。しかし、すべてのさうした「智慧」と同じく、この「智慧」も、持つてゐる人自身それに氣附いてはゐない。「貿易摩擦」のたびに、「教科書問題」のたびに、ただひたすら頭を下げつつ、さうすることによつて自分逹がいかに斷固たる民族主義をつらぬいてゐるか、といふことには氣附かないのである。

これはそもそも「氣附かぬこと」を特徴とする智慧とも言へる。われわれのこの民族主義は「民族主義」として自覺された瞬間にその民族的性格を失ふのである。何故かと言へば、「和の世界觀」は己を主張せず他に沿ひ從ふ、といふことを基本としてゐて、それなしには成り立たない。したがつてそのやうな態度を一つの「主義」として吹聽すること自體がその基本に背くことになるのである。……

「細雪」論で長谷川氏は「日本人特有のリアリズム」を指摘してゐる。「黒い雨」論では、戰爭における「敵」の存在と、その「敵」から目を逸らし勝ちな日本人の傾向を採上げてゐる。
『からごころ』の出版は昭和六十一年六月一日で、それまでの五年間に書かれた文章が收められてゐる。その後の長谷川氏の、如何にも「保守派」としての言論活動には疑問を覺える事も多いけれども、本書所收の論文はどれも文明論・文藝論として興味深く讀める。
平成十七年十月一日
靖國問題續き。と言ふか一言だけ。神道が宗教か何うかは檢討の餘地がある。宗教をどのやうに定義して、神道をどのやうに定義するかで、「神道は宗教か」と云ふ問ひの答へは變る。單純に「靖国神社は宗教法人だから宗教。決定!」みたいな亂暴な言ひ方で濟ますのは、本質な議論の回避である訣だが、まあ、そんな風にして逃げてゐたければ何時までも逃げ續ければ良からう。何うもね、そんな風にしてこれからも日本は「何とかやつて行く」やうな氣はする。それは「良くない」と俺は思ふのだが、現實は良い惡いでなくたださう「なる」だけ。さうなると、今の全ての靖國關係の議論は無意味だし、裁判もただ「やつてゐるだけ」でしかない事になる。實際、訴訟を起してゐる連中は、ただ訴へてみてゐるだけだし、言はばちよつかいを出してゐるだけの事に過ぎない。判例が出て、そのうち何となく「大體の傾向」は現はれて來るかも知らんが、まあ、本質とは全然關係のない「統計データ」の域に留まる事だらう。が、その「統計データ」が意味を持つて現實の動向を決定し、本質的な良し惡しとは關係なしに、世の中の流れを動かして行くのが日本国である。我々日本人は、意味のない「統計データ」の類に意味を賦與して、それが世の中を動かす事に正當性を「與へてしまふ」。が、それは所詮「自分で自分を納得させる」或は「納得し難い事には目を瞑つて何となく世の中が動いて行くやうにする」だけの事である。
平成十七年十月一日
靖國神社は、戰沒者の追悼を目的とした施設であり、ただ神社と云ふ形式を取つてゐるに過ぎないと見れば、政治的な目的の施設であり、そこを首相が政治的な理由で訪れても問題はない、と見る事が可能である。
平成十七年十月一日
が、實は、宗教施設を政治家が訪れる事を違憲と一概に極附けてしまふ事がそもそもの誤だ。無名戰士の墓は、アメリカではアーリントン國立墓地にあり、イギリスではウェストミンスター寺院にある。アーリントン國立墓地では、一部の日本のクリスチャンが嘘を吐いて「無宗教だ」と言つてゐたが、實際にはユダヤ教・キリスト教の司祭・牧師が參列してそれぞれの宗教のやり方に基いて埋葬をする。ウェストミンスター寺院は、誰が何う見てもキリスト教の教會で、宗教施設である。さう云ふ宗教施設に、國内外の政治家が追悼の爲に訪れるが、それは「違憲」と言はれないし、「政教分離の原則」に「反してゐる」とも言はれない。
外国を見て考えてみよう
平成十七年十月一日
“靖国史観”とアメリカ
赤旗の記者も、「政教分離」の原則なんてものは持出せないものであるとはつきり認識してゐる。だからこそ「靖国史観」なんてものをでつち上げて、靖國神社のしてゐる事が「ただの戰沒者の慰靈・追悼ではない」=「日本の侵掠戰爭を美化・正當化する政治運動である」と言つて、その「政治運動の意圖」が「正しくない」、その「正しくない政治運動に小泉首相は荷擔してゐる」と云ふ論法で、赤旗は首相の靖國參拜を非難してゐる。
平成十七年十月一日
鷹澤遊戯場 過去日記【2005/10/1:憲法違反総理、小泉】
実際のところ、憲法の文面通りに判断されたまっとうな判決ではあるんだが、正直、高裁でこういう判断が出るというのはちょっと驚いた。
條文通りだと全うな事が「違憲」となるのが「日本国憲法」。自衞隊も「違憲」である。しかし、自衞隊――と言ふよりも軍隊が國家にとつて必要である事は確かで、それを「違憲」としてしまふ「日本国憲法」は異常。早く改正すべきである事は論を俟たないが、結構な數の國民もその邊が段々「判つて來てゐる」模樣。「條文を見ると違憲である=違憲の事は許されない」と鷹澤氏は短絡的に考へてゐるが、「違憲だから許されない」と云ふ訣でない事は憲法の條文に改憲の條項が「ある」のを見れば自明。
衆議院で與黨が三分の二の議席を占めてゐるだけの現状で、憲法改正の議論のみならず實際の改正の發議まで行くか何うかは微妙なところ。多分、例によつて「先送り」となりさう。郵政問題を解決したら、それだけで小泉氏は滿足して、首相を辭める積りらしい。「郵政改革をやり遂げる」みたいなポーズが國民にアピールする爲の單なるポーズであり、本音は何處かに隱してゐる、と言ふのなら良いのだが、政治家小泉に俺は其處まで期待出來ない。
平成十七年十月一日
曲りなりにも「日本国憲法」に憲法改正の規定がある事が、實際に憲法改正が行はれないで來た理由であるやうに思はれる。假に「日本国憲法」に「この憲法は絶對無謬であるから改正の必要はない」「いかなる場合にもこの憲法を改正してはならない」のやうな規定が「あつた」としたら、もつと早く日本人はこの憲法を廢棄してゐた事だらう。現状の憲法の規定は、「改正を認める」立場にも、「改正を認めない」立場にも、それなりに都合良く利用出來る「妥協的な文言」となつてゐる。或は、今の憲法は、「改正は、極めて困難だが、規定上は可能である」とも「改正は、出來るやうに規定されてゐるが、現實問題として極めて困難である」とも言へる。どつちつかずの曖昧な規定だから、「一氣に廢棄」のやうな事をやり難い――特に日本人にはやり難い。
平成十七年十月一日
所謂アメリカインディアンの「モヒカン族」について調べようと思つてぐぐつても、例の譬喩としての「モヒカン族」の説明許りに行當ると言ふ現状は如何なものか。
はてなダイアリー - モヒカン族とはは、本來の意味が下の方にちよろつと書かれてゐるだけで、「譬喩」的な意味が「主人公」みたいになつてしまつてゐる。
ジェイムズ・フェニモア・クーパー『モヒカン族の最後』は、D.H.ロレンスがアメリカ文學論で採上げた小説で、ハヤカワ文庫NVから出てゐる。
平成十七年十月一日
大勢の人が寄つてたかつて「公正な一つの記事」を書く、と云ふのは可能か。
複數の意見が個別にあつて「讀み手が、より良いと思はれる意見を各自の責任において擇ぶ事が出來る」と云ふ風になつてゐる方が、全體として「より公正な状態である」と言へるのではないか。

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