法の起源を
政治的な暴力と定義するのも、法を定めるのが
政治的な闘争の結果生まれた権力であると定義するのも、マルクス主義の定義の仕方にほかならず、非人間的に過ぎるものなので、私は賛同しません。本質的に法は規則であり、規則は社會に秩序を實現する爲のものです。權力を求めて人が鬪爭する事はありますが、鬪爭に據つて初めて權力が生れる物であると云ふ訣ではありません。どうもこの邊りで私と渡邊さんの考へ方は根本的に違ふ。渡邊さんにして見れば、法は政治權力の支配下にあるものであるに過ぎません。
ところで、私は日本国憲法は条文もおかしいところがいっぱいあるし、そもそも日本では憲法の扱いがおかしい、と言っているわけで、憲法一般がおかしいとはまでは言っていませんよ。
なのに渡邊さんは一般論として「憲法には問題がある」と囘答された御樣子。と云ふ文章の「憲法」を「日本国憲法」ではなく「憲法と云ふ概念」と御讀みになつた模樣。それはさうとも取れるでせうが、私は「日本国憲法」と言つた積り。文脈で判ると思つた。話が全然噛合はない。なぜだらう。
けれども、『蠅の王』の讀者は、自分の中にジャックを見出すと同時に、ほら貝の果たした意外に強い效果を認識するはずである。「現實主義者」が、權力の力許りを重視して、法の力を極端に輕視する理由が、私には解らない。權力も法も、どちらもそれなりの力を現實には持つてゐるのだから、それらをありのまゝに認める事こそ本當の現實主義だと思ふのだが。
私が言ったのは、人間集団の全体に意志があると見なせば、歴史に目的を設定することになる、ということです。
何度も書いていると思うのですが、これについては同意します。というか、私は野嵜さんの「物の見方」を絶対的に否定してはいないと思うのですが。ただ、そうではない日本人も少数ですがいると思いますし、在日朝鮮人・韓国人は、日本人よりももっと他者を理解している人が多いし、共存を図ってもいると言っているわけです。
絶対的に否定してはいないとおつしやいますが、ならば渡邊さんは「相對的に否定してゐる」のではないですか。しかし、さう云ふ否定の仕方が今の議論において意味があるのですか。
それらはごく一部のことでここでは全体の話をしているのだから問題にならない、ということなのでしょうか。
しかし全体の話をしているときも少数者の存在を無視するべきではないと思います。
というか、私は野嵜さんの「物の見方」を絶対的に否定してはいないと思うのですが。等と渡邊さんは御書きになつたのでせうか。
発言が問題視されたのは政治的な観点からでしょう。
「根拠」についてですが、しかし、誰でも個々の生活の場での経験から抽象して民族なり国家なりを考えるより仕方がないのではないかと思います。「日本人」にせよ「朝鮮人」にせよ、具体的に顔を浮かべることができる誰かとの直接的な関わりを通して、全体像を組み立てて行くわけで(もちろん個別的な経験には偏向もありますのでいろいろな条件を勘案して偏りを修正しなければいけませんが)、そういった生活の場から完全に遊離した精神の場のようなものからは、現実離れしたイメージが生まれてきてしまうのではないか、とも思うのです。
現実離れしたイメージは生じてしまつてゐるのではないですか。「国民の意志」なんてものは「ない」と言へるとしたら、「日本人」にしても「韓國人」にしてもそんな人間は「ゐない」と言ふ事が出來るでせう。
個々の話をし出したら切りがない、と野嵜さんは言われるのですが、私は、こういう話はある程度「切りがない」ものだと思います。
それでもこういった意見の交換は、個々の実践の上で意味があると考えるのですが、いかがでしょうか。
それは「歴史」を「人間社会の歴史」としたことからもおわかりいただけると思うのですが、「人間が作るもの」として「歴史」を考えたからです。
私の考えでは、人間は歴史を作るわけですが、しかし統一された意志によってではなく、てんでばらばらな方向を向いた複数の意志の綱引きによって作る(できていく)のであると。
ところで、ですから、話題が完全に切替つてゐる訣で、さう云ふ風な形で議論が別の方向に進んで行くのが「良い」のか何うか、疑問がある訣ですが、まあ、こちらも憲法の話を持出したし云々。
「日本人」「韓国人」というのは、属性ですから、「いる」とか「いない」とかいう問題ではないと思います。
法律というのは基本的にはその運用が最大の問題であって、条文そのものは時代や状況によって変化してしかるべきで、もちろんそこには正義とか公正さとか論理的な正しさとかの観念を考慮することが必要だと思いますが、いたずらに偶像視して永遠不変のものと定めるなんて馬鹿げていますし、また憲法で保証されればどんなことでも正当化されると考えるのも同様です。
偶像視が「良くない」事は慥かにその通りだと思ひますが、だからと言つて必要以上に輕視する事もないでせう。それに、必要以上の重視と必要以上の輕視とは、裏腹のものです。「それなりの筋を通すのが必要である」とする法治主義の下では、一往、「それなりに筋を通す事」が必要であり、「運用」で何う斯うすると云ふ發想は或程度までにしておかなければなりません。が、憲法論議は別にそんなにしたい事ではありませんからこの邊で終了と。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
「日本は一民族の国家である」という観念を有している人が日本には多い、ということなら了解するが、その観念は実態に反しているし、またそういった観念を持っていない人も多い、ということを私は云っている。
実態に反していると渡邊さんは言ふけれども、その
実態を一つに決定すべき客觀的な根據を渡邊さんは全く擧げてゐない。渡邊さんは、
集団が全体として「意志」を持って動いていると考えるのは、歴史に目的があるという発想からは可能だが、私は歴史には目的などないと考える。と言つてゐて、或物の見方・考へ方を否定するのに、ただ「私の考へは違ふ」と云ふ私見を披露してゐるに過ぎません。その渡邊さんの私見が、他の物の見方を決定的に排除すべきであるのなら、その根據を示すのが筋なのですが、渡邊さんは「私の考え」と言つただけで濟ませてしまつてゐます。渡邊さんは、自分の考へが普遍的であり絶對的であると信じてゐるのです。しかし、其處に「渡邊さんの排他的な態度」を見出すのは無理がある事でせうか。それに、どうもさう云ふ「自己の排他性を意識しない」傾向は、日本人には屡々「ある」やうに思はれるのです。
個人主義、自由主義を攻撃し、善麿の「六月」を非難し、善麿を槍玉にあげてゐた、と極附けたのに憤慨し、しかもその
風説が
歌壇全體にわたつて殆ど常識化せられて流布してゐた事に唖然としてゐる。そして、
前にも平野謙なる人物が、この篠文章と同じやうな構想で惡意にみちた根據のないことを書いて繰返し僕を執拗に中傷した、と述べ、
總じて戰後の罪を全部僕にかぶせようとする演出者が何處かにゐて、左翼を利用しながら斯樣な一聯の事をまことしやかに文壇に歌壇に流布したものとしか考へられない。僕は戰後のドサクサを利用して最大の被害をうけたと云へる。と感想を述べてゐる。
少くとも評論をかくくらゐのつもりなら、さういふ捏造によつて事を論じ、批判してはならない。その心がけに於て、もつと眞劍に眞實に立つてものを言ふ習慣をつけなければならない。僕は篠といふ人がどんな經歴でどんな仕事をして來た人か少しも知らないが、少くとも偏見を排して眞實といふことを大切とする精神を先づ第一に養はれんことをすすめる。
五十音順の排列は、次のように定めた。
……
(2)現代かなづかいで書かれていないものについては,
- a.漢字で書かれているもの
- b.歴史的かなづかいで書かれているもの
は現代かなづかいに飜訳する。
……
むしろ大和民族にアイヌ民族や琉球民族が(ほぼ)吸収された、というふうに見るのが妥当だと思う。
日本には野生のコウノトリは一羽しかいないが、しかし「絶滅寸前」と云っても「絶滅した」とは云わないわけで。
私は朝鮮民族の一員だが、日本国民である、
自分が朝鮮民族であることにリアリティーを持てない、と云つた風に感ずる事はあるだらう。けれども、さう云ふ個人的な話をしても仕方がない。何だつて個人レヴェルの話をすればいろいろな意見が出て來るから、「反論」は何處までも可能になる。けれども、問題は「民族」と云ふ大雜把な括りなのであり、そこで偶々知つてゐるだけの「個人」の例外を一々採上げてゐても意味がない。彼等が全體として如何に日本の社會に參與しようとしてゐるかが問題だ。大雜把な傾向として、在日が「在日」と言つてゐる時點で、彼等は日本人とは異る自分逹のアイデンティティを保ち續けようとしてゐるやうに見える。全體として韓國人・朝鮮人と日本人との間には、しつくり來ないものがある。混血は、單に物理的な現象でしかない。彼我の間に、精神面でどのやうな關係が存在するのか、を考察する必要がある。そして、「彼我」と言つてゐるやうに、彼等と我等との間には、やつぱりまだ壁がある。
「?」一つ
そして件の文脈で「馬鹿?」とした意図は「歴史」を見れば事実である以上、誰の発言であろうと同じようなことを書くでしょう。
たまたまニュースで肩書きのある人が取り上げられていますが、人物評価なんぞどうでもいい話です。大学教授だろうが、小学生だろうが、「(歴史を見て)一民族で成り立っている」というのは「違う」。
それに件の文を書いた時にも、立場だの見下しだの、そんなものには一切興味なく書いています。後から単語を見れば「罵倒」であり、(立ち位置なんか興味なく)「罵倒」を用いたのは事実ですから、それについて否定しませんが。
そこから見下しはともかく、嫌みだの慇懃無礼だの言われても。というか、あの3行で立ち位置云々言われても困惑の方が大きい。
でも、説明を見ても私には「。」と「?」のロジックの差が見えません。
「?」と「。」に大きな差を見出せるほど、私は国語の学がありません。ですので「表面的な印象で何でも物事を判断してしまう人」でかまいません。云々。
大人になれないのパターン。
一般に、自分の方が立場が下である表現をするのは、敬語表現の「謙譲語(へりくだる)」ではなかったかなと。
上司が失敗した部下をなじる時に用いる「この馬鹿が」という表現など。で反例となる。
どちらの形を使うかは芸風の問題であり、どちらが良いという話ではない。
芸風にも良い藝風と惡い藝風がある。
上品ぶって見せる云々と結論付けなくても、「馬鹿」と罵るのであれば、表現形式に関わらず同じ穴の狢でしかない。近親憎悪か五十歩百歩か。
大人になれないと自分を定義してゐるけれども、高所に立つて傍觀者の立場で論評する、と云ふのは、嫌らしい「頭の良い大人のやり方」だ。俺は「自分を高みに置く」やうな眞似だけはし度くない。傲慢に陷る事になるからだ。「他人を罵倒して大人げない」と嗤はれても――「嗤はれる」のならば俺の立場は低いものになつてゐる。さう云ふ點で俺は「子供」なり「馬鹿」なりで十分だと思つてゐる。「俺は馬鹿だから反省しない」と小林秀雄は言つたけれども、それは「反省しなくても良い事を反省したやうに見せかけて自分を立派に見せかける狡いやり方はし度くない」と云ふ意味だ。罵倒したら當然、反撃がある。反撃されるリスクを囘避する爲に、多くの人がレトリックを使ふ。しかし、それは狡い。俺は狡い大人にだけはなり度くない。それが俺の「藝風」。
愚者の戯言と言うのは本気ですよ。
ふざけて言う言葉。冗談。ふざけるのが本氣であるとは理解出來ない。ふざける。
おもしろ半分にたわむれる。(イ)冗談を言ったりしたりする。また、子供が遊び騷ぐ。(ロ)人をばかにする。(ハ)男女が(人前もはばからず)たわむれる。ふむ。
取るに足らないものと云ふ定義は何處から湧いて出たのだらう。
書いたのは。驚愕表現。
高々3行の文章でも、數千行數萬行の論評を書く材料となり得る。俺はそれをやる。それに、
そもそも格好良く書こうとも思ってないのだから、恰好惡い事をやつても別に氣乘りがしないなんて事にはならない。なり得ない。何で恰好良い恰好惡いなんて詰らない事を一々氣にするんだ。
自分が聡いとは到底思えない。
…………馬鹿?と云ふ、人を見下したやうな書き方が氣に入らない。俺ならば、「馬鹿?」と疑問の形では書かないで、「馬鹿。」と、斷定の形で書く。
…………馬鹿?は嫌みである。俺はかう云ふ「相手を低めるけれども、同時に自分を高めてしまふ」嫌みが大嫌ひだ。
一民族の国はほかにないと云ふ言ひ方は、或見方に基けば可能であるし、他の見方を取る人も容認せざるを得ない。
人は、自分より低い立場の人間を罵倒したりはしないというのが普遍とは思えないということです。
見下すと言うことに注目するならば、罵倒の全ては相手を見下す行為でしょう。
自分の価値観に合わない相手を、感情でもって罵る行為なのですから。
…………馬鹿?と云ふ表現が益々嫌みたらしく見え、讀み手がかちんとくるやうになる。
古典的な言葉使いつて何ですか。江洲さんは現代語で書いてをられますが? まさか正かなづかひであるのを「古典的」とか言つてゐるのではないでせうね。
古典と呼ぶにふさわしい値打ちがあること。或は
古典を重んずる傾向をもつこと。また、伝統的。の意。
芸風と云ふ極附けは不當なレッテル貼りであり、完全な誤です。江洲さんに謝罪した方が良いと思ひます。
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つて何ですか。もう一つ。最初の大英和で、たしか鈴木芳松氏が私のデスクへきて、「岡倉先生が、訳語の云々。しげしげと見るを、ここはしけじけと見るとすべきだと言われるのだが」と意見を求めにきたことがある。原語はちょっと思いだせないが、「こり性の先生だな」と感心したものである。
むしろ、日本では、発言の真実性に対する社会的な要求が低いことが、ネット上では、匿名者による罵詈雑言を許容する社会を作り上げ、ジャーナリストの世界では「取材源の秘匿」の濫用を招いているといえるのかもしれません。
結局のところ、blogにおいて他人を攻撃する発言の匿名性を守ることにより得られるものは、匿名の陰に隠れて他人を無責任に誹謗中傷する方々を安心させるということと、そのような方々から執拗に誹謗中傷されることへの耐性がない人々のblogへの参入を阻害すること(あるいは、匿名の陰に隠れて執拗に誹謗中傷を繰り返す人々に一定の思想傾向を有している者が多い場合、彼らを刺激しかねない話題を自主規制してしまうこと)くらいであり、それはネットによるコミュニケーションの発達には却ってマイナスになるのではないかと思います。
一休さんに因縁をつけるききょう屋さんのごときとんち説と言つてゐるのが良い。
しかし、「すべからく誤用批判」は、偉そうな言葉をわざわざ使ってみっともない、という批判なのであるから、最初から、<社会性を帯びた>問題提起となっている。
この方法論的自然主義を放棄したら科学が成り立たないんじゃないの。今の科学で説明できない事柄にはすべて超自然的解決が“オルタナティヴな”科学的理論として主張されうるってことになってしまう。それこそIntelligent Fallingが冗談じゃなくなるよ。
- macska
- ちょっと前に The Onion に「インテリジェント降下理論」というパロディが載ってました。それによると、重力は単なる理論であって実証されておらず、物が落下する現象の背景にはそれを落下させる知的存在がいるという理論だとか。
- rna
- うはは。重力の中の人も大変だ!
中の人は良かつたね。
- macska
- ID論推進者の発言を聞いていると、現存する生物の多様な性質が進化では(すなわち自然発生的には)説明がつかないことを「直感的に」受け入れるよう要求しているように思います。カメラやコンピュータですら人間の意志がなければ製造できないのに、どうしてそれより複雑な人間の目や脳が自然に発生するなどと言えるのかという議論は、論理というよりは直感に訴えているでしょ。
- で、その辺りをきっちりと実証できないことはかれらも分かっていて、それを指摘されると「でも進化だって厳密には実証できないから、科学教育においては両者は対等に扱うべきだ」というところに落とし込もうとしているのね。つまり、向こうは「ID論は不完全かもしれないが、進化論だって完全ではない」という論理ですから、ID論の不備を指摘するだけでは不十分で、進化論がそれに比べてどのように有利なのか(例えば、まだ発見されていない化石や発掘調査が行われていない地層について反証可能な予測を立てることができる、みたいな)を説明しないと「両論併記論」に対抗できないです。
- (The Onion の記事、それです。たまたまどこかで拾って読んでました。)
科学的思考が可謬性の認識を「理論の反証可能性」という形で実装していることは、恐らく科学的思考の最も公正な特質だろう。カール・セーガンは「科学の価値は、民主主義の価値と相性がよく、この二つは区別できないことも多い」と書いている。すべての理論的認識は「未だ反駁されざる仮説」に過ぎないという科学的認識の内側では、特権的な「神」は存在し得ない。
優美は、何かしら纖細とは全く異つたものである。後者は前者より稀なものだし、また一段と道徳に密接なものだ。前者が見る目も美しく存在してゐる處でも、後者は缺如してゐる事がある。ユウゴオもジャナンもジョルジュ・サンドも、ある點では、限りない優美を備へてゐるが、纖細といふものになると、全くこれを缺いてゐる。
ギュスタヴ・プランシュ――嚴格主義(リゴリスム)の僞裝によつて、最も尊敬されてゐる現代の批評家。この怠惰な道樂好きな威張り腐つた精神が、一度言ひ出した事を、引込めさせようなどと希つてはならぬ。彼は幾度でも繰返す、永久に繰返すだらう。
スノント侯に就いて、アミルトンの「グラモンの騎士の思ひ出」の中に、かう書いてある。「博學と殘忍とが、お好みの才能だつたらしい」碑銘研究會の幾人かの學者には、恰好な銘句ではあるまいか。
相對主義が必然的に混亂とアナーキズムとに人を導くのは、それが多くの原理、多くの價値を同時に認めるからではない。むしろ、認めるふりをして本當は認めないからなのです。相對主義は、けつして「他人の選び取つたものの見方」を、自分のものの見方にまさつてゐると認めたり、それを積極的に學ばうとしたりはいたしません。逆に、自分自身の狹いものの見方以外を學ばすにすませる口實として「相對主義」と稱するにすぎないのです。
意圖的かどうかは知らない*1が、政教分離を誤解して、或は誤つた意味合ひで用語を使ふのは、どうなのだらう。と言ひながら、
まあ一應意圖的=煽りと捉へて、直接的な出典の明示をしないことにすると言ひ訣してゐるが、
意圖的=煽りとレッテル貼りもやつてゐて、極めて惡質。實際のところ、俺の記事の何処がどのやうな理由で「誤り」であり、俺が何う「誤解」してゐるのかを、karpa氏は述べない。述べないで、ただ一般論を言つてゐる。一般論を言ふのは、「批判對象の人間を、一般論も知らない愚か者であるかのやうに見せかける」のが目的である。
すると總理大臣の靖國參拜といふ問題は、公の問題として捉へるのが妥當なのである、
其の問題を公の問題であるかと問ふことも重要である、と書いてゐるが、
公の問題として捉へたからどうなのであらうか。
重要であるとは何なのだらうか。何だつて「重要である」と言へば、尤もらしく見えるだらう。詰り、何の意味もない。karpa氏が、なぜ俺に嫌みを言つてゐるのか、俺は全然解らない。しかし、とにかく野嵜に嫌みを言ひたいのだ、と云ふkarpa氏の意圖だけは理解出來る。自分の主張にしつかりした根據がなく、野嵜を面罵は出來ないので、仕方がないから嫌みを言ふに留める、と云ふ態度が嫌らしい。
であるから、これは公の場、政の場では「宗教」關係のことはおほつぴらに言はないやうにしませう、といふ原則が政教分離といふことであり、「宗教=キリスト教」である・あつた歐米社會では、聖書を持ち出すことはなんら不思議な行爲ではなかつたし、政治家自身の宗教は誰も問題にしてゐないと云つてよい。
けれども、その反對者が、例へばクリスチャンであつたら何うだらう。と俺は假定の話をしてゐる。クリスチャンは、サンプルである。クリスチャンに限らない、俺の批判してゐるのは、「政教分離」と云ふ「原則」を靖國問題に教條主義的に當嵌める――「政教分離」の「原則」を當嵌める爲に靖國參拜の問題を「政治と宗教」と云ふ構造と看做さうとする――さう云ふ「首相の靖國參拜に反對」の人全ての事である。彼等が、「此所は日本である」「神道は日本の文化である」と云ふ事實を無視して、深い考察を缺いたまゝ、單純に「政治と神道と云ふ宗教」と云ふ「構造」を議論に持込んでゐる誤――karpa氏も同じく冒してゐる誤――を、俺は指摘し、批判した。
クリスチャンが政治に口を出してゐる。これは「政教分離の原則」に牴觸する事になるのではないか。と俺は書いたが、教條主義的に「政教分離」の「原則」を適用して見せただけで、皮肉である。karpa氏は、さう云ふ俺の意圖を理解出來ず、單なる煽りであると看做し、「煽り」であるからと言つてかちんときて、野嵜を小馬鹿にして憂晴しをしようとしたに過ぎない。
先日アメリカ合衆國で、毎日學校で星條旗に誓ふ「神の下に」を違憲ではないかとする裁判が起こつた。むべなるかな
であるから、これは公の場、政の場では「宗教」關係のことはおほつぴらに言はないやうにしませう、といふ原則が政教分離といふことであり、「宗教=キリスト教」である・あつた歐米社會では、聖書を持ち出すことはなんら不思議な行爲ではなかつたし、政治家自身の宗教は誰も問題にしてゐないと云つてよい。
直接的な出典の明示をしない。karpa氏は所詮、異るイデオロギーを信じてゐるからと云ふだけの理由で野嵜を毛嫌ひし、感情的に野嵜を罵つてゐるだけである。さて、どうせkarpa氏は最後までこの文章を讀んでゐないだらうから書く、karpa氏は好い加減に以上の文章を讀み、karpa氏の文章を野嵜が分析してゐるのを見附けて、「この人はまた妄想を書いてゐる、相手にする必要はない」と見下したやうな、呆れたやうな言ひ方で投げやりなコメントをするだけだらう。或は、karpa氏は野嵜の以上の文章を完全に無視するだらう。とにかく、まともに反論する事だけはない。しかし、それはkarpa氏の負けである。
「無視の構造」は、たしかに日本文化の根本構造であり、もっともすぐれた特質をなしてゐるものである。……「外部のもの」と「自分のもの」との「ずれ」を日本人は「見ようとしない」。さうした態度は、外部の文化を受止める立場に常に立たされる日本人が身に着けた「智慧」だが、その「智慧」が逆に「日本人とは何か」を日本人が考へる時、日本人に苦痛を與へる。
……けれども、そこには底知れぬ「おぞましさ」がぴつたりと背中合はせになつて張りついてゐる。
それは、自らでないものを自らと取り違へて生きることの醜さ、とでも言ふべきものである。
いまもまた、我々は、自分逹が何物であるかを本當には見ないことによつて、我々らしさを保つて生きてゐる。そしてこの生き方を貫くためには、「見ない」といふことに絶えず神經をとがらせてゐなければならない。
たとへば今、「日本国憲法」の内にあるおぞましさなどといふものは、人の目に露はになつてはゐない。いはゆる憲法論議と言はれてゐるものは、まだ本當の憲法論議ではない。第九條をめぐつての今のところの議論も、むしろ、止むに止まれぬ現實の出來事に附隨しておこる、實際的の議論と言へる。或は、それは、法律學者や政治學者がその成り立ちや手續きをめぐつて繰り廣げる、「專門的」の議論を出てゐない。
けれども、いづれ何時かは、この憲法全體を貫く精神のおぞましさ、或はむしろ、全體を貫く精神の無いことのおぞましさが、人の心を蝕み始める時が來る。その時に如何したらよいのか、その時我々は如何生きたらよいのか――我々にはまだ全くその備へが出來てゐない。考へれば身の毛がよだつほど、まったく出來てゐないのである。
林房雄氏が「敗戰痴呆症」とみたものは、實にこの日本國民の「民族の智慧」であつた。しかし、すべてのさうした「智慧」と同じく、この「智慧」も、持つてゐる人自身それに氣附いてはゐない。「貿易摩擦」のたびに、「教科書問題」のたびに、ただひたすら頭を下げつつ、さうすることによつて自分逹がいかに斷固たる民族主義をつらぬいてゐるか、といふことには氣附かないのである。
これはそもそも「氣附かぬこと」を特徴とする智慧とも言へる。われわれのこの民族主義は「民族主義」として自覺された瞬間にその民族的性格を失ふのである。何故かと言へば、「和の世界觀」は己を主張せず他に沿ひ從ふ、といふことを基本としてゐて、それなしには成り立たない。したがつてそのやうな態度を一つの「主義」として吹聽すること自體がその基本に背くことになるのである。……
実際のところ、憲法の文面通りに判断されたまっとうな判決ではあるんだが、正直、高裁でこういう判断が出るというのはちょっと驚いた。