闇黒日記


平成十七年一月三十一日
ふたば用のネタ畫像拾ふのには便利なあにめ、まほらば。「變身」なし。なくて良いぢやん。何と言ふか苛々する展開だな。しかし、これだけ突込みどころがあるのに毎週觀てゐるのは、今期、ほかのあにめが悉くアレである爲。それにしても、一番面白い筈のキャラなのに、めがねのおねえさんが邪魔者にしか見えないと言ふのが。主人公に課題、やらせてやれよ。
まほらば 〜Heartful Site
まほらば
キャラの名前、一人も覺えられない。
平成十七年一月三十一日
休日が終る……また何もしなかつた。
そして一月も終るのである。年取ると時の經つのが早いですね困つてしまひますねあはははh。
平成十七年一月三十一日
ある慷慨の士の記録
平成十七年一月三十一日
神社新報社>歴史的仮名遣ひ
平成十七年一月三十一日

……もう一つ、日本製の略字が輸出されて、簡化字になったケースがある。

文化庁派遣の「文字改革等調査団」。中国滞在中に、某日、中国の文字改革委員会のスタッフと歓談した。その折に中国側からこんな話が持ち出された。

中国で、旧字(繁体字という)の「國」の略字は「〓(くにがまへに王)」とする慣習が以前からあった。だから「〓(くにがまへに王)」をそのまま簡化字に……は無理のないところだろう。が、どっこい、この字ばかりは<どうも気にくわん>と待ったがかかった。共産主義革命を達成した(二十四年)国なのに「くに」の真ん中に「王」がスマして座っているという字ではおかしいではないか、と異論が出た。<ほかに”いい字”はないか><日本の当用漢字、アレの「くに」にはてん(点)がついている。それにしよう>で、輸入が決ったのだそうだ。

わが国が当用漢字の字体を決定したのは二十四年である。中国の革命達成の年との付合は偶然だが、民主政体の世で<「くに」の中心が「王」では具合が悪い>とする発想が、当時の国語審議会にもあったのだろうか。

同調査団団長、林さん(字体表制定当時の国語審議会幹事)の話。

「そんな意見の委員もいた。が、それだけじゃない。点がついたのは、主としてデザイン上の問題だった。『王』では、四角の中をさらに細かく仕切るようで、見た目にきれいじゃない。そこでホクロをつけたんですよ」。

『邦文タイプライター用文字の索引』の「略字類」のページにも、「くにがまへに王」の略字しかない。
探せば幾らでも「くにがまへに玉」の「国」なる略字が古い文獻に見附かるだらうが、それらの文獻にある「国」と「当用漢字」の時の略字である「国」とは直接の關係がない。ならば、「当用漢字」で「国」はでつち上げられたのである。當事者が「デザイン」と言つてゐるのだから間違ひはない。「国」なる字が載つた古い文獻が幾ら出て來ようが關係ない。「当用漢字」の略字を作つた連中は、文献に記載された略字に基いて字體を定めたのではない。
何か知らんが、單に「同じ形の略字」が古い文獻にある、と云ふだけの理由で、「当用漢字」以來の略字が「根據があるもの」であるかのやうに言はれてしまつてゐる。しかし、當事者が「それらの文獻に當つて定めたのだ」と言つてゐない以上、それらの間に關係が「ある」と極附けるのは不當である。偶然の一致ではない、慥かに或文獻記載の略字を根據に「当用漢字」以來の略字は定められたのだ、と言ふのならば、その關係を證明するものを提示して頂きたい。
ガンダムではないのだから、「後附け設定」でもつて國字改革を擁護するのは、やめて頂きたい。
平成十七年一月三十一日
あと、「歩」は「でつち上げ」の例ではない。「整理」「デザイン」と稱して字體が弄られた事の例だ。俺はさう書いてゐる。讀めば判る。
平成十七年一月三十一日
「歩」は、足跡を表はす「止」の上向きのと下向きのとをくつ附けた會意文字で、だから「止」と「少」とでは意味を爲さない。
戰前・戰中の國定小學國語讀本で使はれた字體の調査(永野賢氏)に據ると、「歩」は、大正六年までは正しい字體で、大正七年から昭和七年まで「止+少」にされてしまつてゐたが、そのあと正しい字體に戻されてゐる。それを「当用漢字」でまた誤つた字體にしてしまつてゐる。
平成十七年一月三十一日
あと、頼むからあれは晒して呉れるなorz
平成十七年一月三十一日
CPRM對應のPowerDVD 6 Expressを買つて來た。メーカでは未檢證のやうだがアイ・オー・データのDVR-ABH2でも問題なくCPRMのコピーワンスコンテンツを再生出來た。AT-Xでやつたlainを録畫したDVD-RAMをぶちこむと、CPRMのキーを取得してから再生を始めた。
ええと、誰も動作を保證しては呉れないので、ためすなら自己責任で。俺も保證しません。
平成十七年一月三十一日
また「義」。「ノズラーとは」云々の定型文を掲示板に書込んで荒す「コピペ荒し」。掲示板荒しでネットストーカーである「義」を見掛けたら、ISPに報告して下さい。
「義」も、「アンチ野嵜」の名を辱める行爲は好い加減、やめたら何うか。
平成十七年一月三十一日
「国」と「歩」の件で、「なかつた」云々の發言は撤囘します。しかし、「当用漢字」以來の略字と、過去の略字の實例とは、無關係であり、「当用漢字」の「国」「歩」の字形は根據がない、との主張は撤囘しません。
平成十七年一月三十一日
昨日、PanasonicのDVD-RAMが一枚、逝つたのだが。
TDKのDVD-R、スピンドルで買つたら、底から一枚、貼り合はされてゐない、透明のディスクが一枚出て來たのだが。
平成十七年一月三十一日
Google News 検索: 中尊寺ゆつこ

平成十七年一月三十日
一往讀賣新聞社の『日本語の現場』を見て書いてゐるのだけれども?
平成十七年一月三十日
「ブログに移行しました」と嬉しさうに書く人は、「URLを變更しました。大變申し訣ありません」とすまなさうに書くべきである事を忘れてゐる。
URLが變つてゐないのならば結構です。
平成十七年一月三十日
バーチャルネット無職××ひきこもりの癖に「土曜日と日曜日の二日だけぢや休日足りないようわあああん」とか書いてみる。
平成十七年一月三十日
ふたばの管理人は本當ににじけっとを應援する積りがあるのだらうか。
ちなみに俺はにじけっとに行く積りはない。
平成十七年一月三十日
年末のこみけの時に灰羽の脚本集が出てゐたんだと。
コミケ
ちなみに俺は買つてゐない。そもそもこみけに行つてゐない。
平成十七年一月三十日
適宜覚書: XMailでメールを管理してみる
平成十七年一月三十日
wikiやxoopsが微妙に流行らない理由 - Webビジネスコンサルタントのネタ帳
<h1>〜<h6>、<p>、<ul>/<ol>/<li>、<dl>/<dt>/<dd>と<a>、<em>、<strong>、<img>、<object>みたいな記述しか認められない、と云ふCMSのつーるはないですかね。<font>なんかが書かれても無視してしまふの。
平成十七年一月三十日
「南セントレア市」の問題は、結局のところ、地名の問題だ。で、地名の問題は、實は國語國字の問題と同じ。どちらも、便宜とか行政の都合とかを理由に、「過去との斷絶」を齎してしまつてゐる。
朝日新聞社会部編『東京地名考 上』(朝日文庫)――例によつて拾つて來たのだけれども――の「まえがき」に、以下のやうにある。

文中、しばしば「住居表示」という言葉が出てきますので、簡單に触れておきます。昭和三十七年に、「住居表示に関する法律」が施行されました。従来は、住所を示すのに土地に付された地番を流用していたのですが、市街地の街区ごとに順番に各戸に番号をつけることになったのです。これだけなら問題はなかったのでしょうが、町域の再編成や町名の改変をも伴うものだったため、住民の反対運動が各地で起こりました。

愛着ある地名を存続させたいという住民の声を背景に、昭和四十二年に法律の一部改正、同六十年には再改正が行われ、町域の合理化を最小限にとどめ、伝統的地名を継承するという原則が確認されました。しかし、すでに東京でも大幅な町域、町名の再編成が実施されたあとでした。

この本の中にも、過去とのつながりを無視された悲劇の主人公が少なからず登場するのは、そういうわけなのです。

先に改革をやつて、既成事實を作つてから、「原則の確認」が行はれ、改革は誤でしたと言ひつゝ、既成事實は既成事實として認めてしまふ、と云ふ惡いやり方が、國字改革でも「住居表示」でも行はれてゐて、戰後の傳統の破壞が實現してしまつてゐるのである。
ちなみに、昭和四十九年施行の「住居表示」に反對し、「麻布台三丁目」になるところだつた港區の麻布狸穴町の地名を守つたのは、住民だつた木内信胤氏――國語問題協議會の元會長である。曰く、歴史は断絶するし、いいことないですよ。幸い、町の大多数の人が支持してくれましたから。でも、我善坊町とか古い町名もつぎつぎ消えて行ったし、勝ったとはいえないと思う……。
平成十七年一月三十日
http://hpbuilder.net/diary/?date=20050130#p01
_ [Accessibility]PDFのアクセシビリティ
「閲覽者が嫌がる」事を氣にせず、「制作者の論理」でPDFファイルを作る、と云ふ事例が世間では跡を絶ちません。
平成十七年一月三十日
Repetitive Restructure - Operaでのページ切り替え時のホワイトアウト現象

平成十七年一月二十九日
http://d.hatena.ne.jp/funaki_naoto/20050128#p3
現在通用の字體は、略字體だが、必ずしも手書き文字や江戸時代の俗字の字形に基いてゐるものだとは言へない。さう云ふものもあるやうだが、さうでないものも結構ある。實際には、字體の整理と稱して、僅かな點劃を弄つたものが多い。「歩」など、「整理」の爲に下半分が「少」とされてしまひ、一劃増えた。根據なく適當にでつち上げられた文字もある。くにがまへの中に玉を入れた「国」は、創作された「略字」である。こんな文字は過去に存在しなかつた。くにがまへの中に王が入つてゐる「國」の略字體は存在した。「国」の餘計な點は、「デザイン」と稱して入れられたもの。これで「よいデザインになった」と思つたらしいのだから、國字政策の當事者のセンスが知れる。閑話休題。
所謂正字體に決定的な基準はない。そして、だからと言つて、「基準がある」から現在の「常用漢字」は「良い」と思つてゐる人がゐる。根據のない一方的に決められた事でも、「決め事」とされてゐるものが「ある」のならば「良い」と云ふ發想だ。しかし、さう云ふ風にして決められた「決め事」は、安心して寄掛れるものなのだらうか。と言ふより、根據のない「決め事」は、所詮根據がないのであつて、それを「ある」かのやうに思ひ込んで安心する、と云ふのはどう云ふ事なのだらうか。
所謂正字體を使ふのに「恰好を附ける爲」と云ふ動機があると考へる人もゐる。もちろん、そんな動機は俺には無い。動機は兔も角――と言ふのは、他人の動機を勝手に極附けて非難するのは何うかしてゐるからだ――「決められた基準」がない正字體を用ゐると、なぜか年輩者の物笑ひの種になるとか考へる人間もゐると云ふ。しかし、その場合、年輩の人はどのやうな理由で物笑ひにすると言ふのだらうか、と尋ねたくなる。根據ナシに他人を物笑ひにするやうな人は、年輩者であつても、惡い人として非難して良い。なぜ新字で育つた人間が正字體を用ゐてはならないと云ふのか、全く理解出來ない。
人爲的に決められた好い加減な規則を規則だからと言つて墨守するのか、イデアや理想を信じてより正しいと思はれるものを擇んで行く努力を續けるのか――「常用漢字」を使ふか、正字體を使はうとするかの差は、結局のところ、相對的な正義の側に附いてしまふか、絶對的な眞理の側に附かうとするかの差である。
平成十七年一月二十九日
また灰羽連盟を觀たよ。氛圍氣あにめだけれども、ここまではつたりが效いてゐれば文句は無い。
――いや、文句は幾らでも出て來る。極めてリアリティのある異樣な世界の描寫は優れてゐる。しかし、なぜこのやうな世界が存在してゐるのか、この世界は何なのか、その邊の事が何一つ合理的に説明されてゐない。心理的には説明されてゐる。だが、それではSFにならない。
ロボットが出て來たり、宇宙が舞臺であつたりするだけで、「これはSF!」と主張するあにめが非常に多い。主人公に「救ひ」を與へたり「試練」を與へたりして、最後に(或は途中で)「機械神」を降臨させて、説明的に説明して「合理化」したりするあにめも甚だ多い。「ウテナ」劇場版にしても例の「うたかた」にしても、世界は「ある」のであつて、「なぜあるのか」は問題にされない。ただ、主人公の言動を餘りにも解り易く説明したり、主人公に與へられた運命を謎の「えらいひと」の仕業として處理したり、制作者は視聽者に全てを安易に説明して滿足してしまつてゐる。
例の涼宮ハルヒの最初の本にしても、はぐらかして決定的な説明は行はない――SFとしての「ネタ」が「ある」だけである。「SFである」のではない、全て「SF的なネタがある」だけである。
灰羽も、「よいおはなし」ではあるし、SF的であるけれども、SFではない。
かつて大森望が『消えたサンフランシスコ』を評して、SFとして何かあるだらうと思つて最後まで讀むと何もない、と述べつゝ、それが餘りに意外だつたからと言つて評價してゐたが、今ではさう云ふ話ばつかりである。
昔は、アニメのファンとSFファンとがかぶつてゐたのだが、今では最う兩者は一致しない。と言ふより、既にセンスとしてのSFが消滅し、ネタ・ギミック・ガジェットとしての「SF的なもの」があるのみである。そして、さう云ふネタをただぶちこんで、並べて、何となく主人公を心理的に納得させて、制作者は滿足してゐる。視聽者は置いてけ堀となつてゐる。最近の惡い例が神無月の巫女だが、あれほど支離滅裂で訣がわからない話もなかつた。が、「萌えれば正義」のアニヲタに、ストーリーは何うでも良いものであつたらしい。「うたかた」にしてもさう。ただ「不思議だね」と思つて、氛圍氣だけ樂しんで、あとはエロさへあれば良い、と考へるアニヲタは、多いとは斷言しないが、確實にゐる。それでは困ると今言つても、所詮あにめの話なのだから、誰も本氣にはしないと思ふ。
平成十七年一月二十九日
RDのHDDの空きがなくなつたので必死になつてDVD-RAMにコピーしてゐたらこんな時間だよ。眠いので寢る。
平成十七年一月二十九日
「南セントレア市」なんて市の名前が出來るんだと。おつさん連中はなぜに片假名の名稱を好みますか。センスが古い。「遷都麗空(セントレア)」については、「」が腐女子か族のセンスだななんて言つてゐる。
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2005/01a.html#d29n02
さとみちんがかの「」の正體ですか?
平成十七年一月二十九日
メディアミックスが何うたらかうたらと言ふサイトに載せたろりこん小説の習作、牧野信一の「爪」と酷似してゐる事實に氣附いたので削除。

平成十七年一月二十八日
AIR。第四話。なんかこの手のぎゃるげとかえろげとかへろげとかが原作のあにめらしく、普通に「トンデモ」つぽい話。
げーむ版は知らないのだけれども、世間で評價が高いらしいので、あにめの方も、今囘の話は當然伏線であり、今後、すごくもりあがるのだらうと推測。
ねむいよねむいけど舞-HiMEが始まるよ。
平成十七年一月二十八日
でその舞-HiME。こつちもトンデモ展開。でも來週また馬鹿展開が來さう。何か疲れた。
あー提供來たな。所謂一つのバイオテック的な。
最後、世間一般の皆樣の豫想した通りになつたら嫌。俺のした豫想も嫌。何とかして下さい。
平成十七年一月二十八日
福田恒存研究サイト
平成十七年一月二十八日
例によつて古書展。『福原麟太郎随想全集8 日記・書簡』(月報に福田恆存「福原先生」掲載)。唐木順三『仏道修行の用心 正法眼蔵隋聞記』。ガーネット『愛のさまざま』。江上波夫・梅原猛・上山春平・中根千枝『日本人とは何か 天城シンポジウム 民族の起源を求めて』。『牧野信一集』(創元選書149)。大類伸『現代史學』。「人間」第一卷第三號(林健太郎「歴史學に於ける科學性と藝術性」所收)、第五卷第一號(福田「キティ颱風」所收)。
『日本人とは何か』で、「アイヌ語の語彙が日本語の語彙に入りこんだのであり、逆ではない。既存の説――就中金田一京助の説は間違つてゐる」と主張する梅原猛氏の説を大野晋氏が批判してゐる。二人が言爭つてゐるのだが、例に舉げられた單語が「珍宝」なので可笑しい。

平成十七年一月二十七日
人に黒歴史あり。
平成十七年一月二十七日
最近はCSSをいぢる氣力も無いもので。dnozの新スタイルを募集してみる。
平成十七年一月二十七日
おさんぽさんぽ - ええメーラーないかね。
で、Thunderbirdにしようと思ったら、mbox形式のデータのインポートをサポートしてないといううんけぶりにあきれて、アンインスコ決定。
電信八号も駄目かな? 前のメーラでデータをテキストで出力すれば、移行出來るけれども。
データの移行がしづらいから糞とか言ふのは如何なものかと思ふのだけれども?
それにしても、なんでメーラのデータ保存形式は標準化されてゐないんでせうね。と言ふか、世間の多くのメーラはメールボックスのデータを、なんでわざわざバイナリの專用形式のファイルにまとめて保存しますかね。まあ、セキュリティの問題があるんでせうけれども。
平成十七年一月二十七日
「がんばつても無駄になる事があるんだよ」「失敗したら一卷の終りと云ふ事があるんだよ」云々。
平成十七年一月二十七日
昨日の買物。ホセ・オルテガ・イ・ガセット『ガリレオをめぐって』(法政大学出版局 叢書ウニベルシタス)。今日の買物。井筒俊彦『イスラーム文化』(岩波書店)。丸山薫『詩集 十年』(創元選書154)。どれもだぶつてゐさうなのだけれども怖いので確認してゐない。
平成十七年一月二十七日
NHKの七時のニュースで小學六年生が漢字を書けないとか言ふ調査の結果を報じてゐて、また手書きかと思つたのだけれども。「王宮」を「王球」、「計らう」を「墓らう」と誤記するケースが多い云々。漢字ドリルとかで諳記させようとするからさうなるので、意味と理窟で教へれば良いのではないかと思つた。それにしてもうちのWXGも「墓らう」と變換するよ。どうすればIMEを殺せるだらうか。NGワード:タスクマネージャ。
平成十七年一月二十七日
メールマガジン第53号 今週のおさらい/XHTML1.1実践〜スクリプトの扱い
DTD ISO-HTML仕様/初心者のためのホームページ作り
ISO-HTMLとして不正。
平成十七年一月二十七日
トミタアトリエ
トミタアトリエ……ウエブサイト
平成十七年一月二十七日
ThinkQuest
ただしいWWWの作り方
平成十七年一月二十七日
想言
スラッシュドット ジャパン ユーザ
平成十七年一月二十七日
舞-HiME - 風華学園オフィシャルWeb
第三回風華祭 結果発表!!
壁紙がやつつけ過ぎる。

平成十七年一月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20050126/search0126
糞真面目な顔して「霊剣荒鷹」て。
推測だが多分惡いのはあかほり。広井は實は眞面目な話をやりたい人なのだらうと思ふ。
何うでも良いけれども、TV版サクラ大戦はトラスタ最後の仕事なんだよなー。
平成十七年一月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/meigara/20050126#1106722852
飽くまでも “日本国の憲法” ですから、日本国民でなければ権利に制限が出るのは当然。日本で生きるなら帰化した方がよい。でも、なんで在日の人たちは帰化しないのだらう。それなら朝鮮半島に帰ればいいのに。
大體同意。NHKの7時のニュースで原告の女性が偉さうな事を言つてゐたのには腹が立つた。
「歸化の際の日本名強制は違憲」とか言ふ主張だつたら理解出來るのだが。
平成十七年一月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050124#p2
世間では文体に影響を受けるので小説を執筆中には他の作品は読まないという人もいるが、云々。
影響を受けないと何も書けない俺は、小説にしても闇黒日記の記事にしても、文章を書く前には他人の作品を讀まずにゐられない。
平成十七年一月二十六日
舞-HiMEの前々囘のかぐつち大氣圈突破はトップ2!第一話への當てつけなのでは?説を書き忘れてゐたので今更だけれども一往書いておく。當てつけと言ふか、何う考へてもトップ2!が負けてゐる訣で、サンライズによるGAINAXへの勝利宣言であると考へてみる。トップ2!第二話、期待出來ないなー。ふりくり糞だつたし。
平成十七年一月二十六日
松岡正剛の千夜千冊『聖なる空間と時間』ミルチャ・エリアーデ
再開。良くこんな長い文章を書けるよなー。偉いなー。と言ふか本文讀んでない。
平成十七年一月二十六日
?D 大和但馬屋バンブラ日記 - 常用漢字見直し
?D 大和但馬屋バンブラ日記 - とある誤解を解く試み
平成十七年一月二十六日
サイトの簡易表記が「あり」ならば、名前の簡易表記も「あり」だらう。と云ふ訣で「の」は俺。うちの掲示板で既成事實あり。餘人は使ふべからず。

平成十七年一月二十五日
へっどふぉん新調。なぜかビクター製。
平成十七年一月二十五日
特撮もどきあにめアルティメットガール。えろい。
が、それだけだ。俺はえろには騙されん。
平成十七年一月二十五日
どりふもどきあにめ月詠。いきなり金盥きたー。葉月が萌える。哀しい豫感。
ヴァンパイアねたがなくて、ほのぼの日常どらまをえんえんやつて呉れたら傑作になつたんだがなー月詠。
平成十七年一月二十五日
YOMIURI ON-LINE / 芸能・文化
常用漢字、情報化時代で抜本見直し…文化審が報告書案
漢字を身に附ける爲に手書きが重要だとか言つてゐるらしい。當然、「手で書けなければならない」→「字體の簡易化」を言ふ馬鹿が出て來るだらう。手で書けなくて良いんだよ。
讀む力さへあれば書く力なんて物は何うでも良いのであつて、「書けなければ駄目」なる表音主義者の嫌がらせ的な主張は無視すべきだ。手で書けなくてもPCで入力出來れば良いんだよ。何の爲にPCがあるんだ。
あと、人名用漢字の制限下にある人名を調査するなんて馬鹿な事を言つてゐるが、文化審議会の国語分科会は馬鹿揃ひかね。誰か「やめろ」と言はなかつたのか? ゐないのだらうなー。
平成十七年一月二十五日
我樂多市で唐木順三編『外国人の見た日本4 大正・昭和』と冨山房百科文庫の鴨長明全集上下揃ひを買つて來た。鴨長明全集は上卷だけ持つてゐたもの。據つて現在、上卷は手許に二册ある。良くある事だ。氣にしてはいけない。ダブるのが怖くて端本を買ふ事は出來ない。何うでも良いけれども今「華風子とはできない」と誤變換したWXG殺す。
平成十七年一月二十五日
さて、皇室典範有識者會議が始まつた訣だが、「男系」が絶えれば良い等と他人樣を呪ふ馬鹿がゐて、さう云ふおぞましい事を平氣で考へる連中が「民主主義」なんて言つてゐるのであつて、民主主義とは嫌なものだなあと。
理由は全く無いのだが、何處で何を聞きかじつたのか、「民主主義國だから君主は要らない」等と考へる人間が多くて困る。
もつとも、「何かを尊重する」精神があつて始めて「古來の物」を「尊重する」と云ふ發想が生れ「皇室を尊重する」事になるのであつて、「皇室を尊重しさへすれば世の中が良くなる」と云ふものでもない。が、ならば、「民主主義國に皇室なんて要らない」と言ふ人間が澤山ゐると云ふ事は、日本國の道徳觀が崩潰してゐる事を意味する。
しかし、「民主主義國に王様なんて要らない」等と平氣で言ふ馬鹿が正假名を使ふ人間の中にもゐるのだから世も末。皇室と王室とを取違へるなんて、無知にも程がある。
平成十七年一月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20050125/abarenbo
ところで同時間帯に「葵の暴れん坊」なんて番組もやつてたのを知つてる人居るかね?
源九郎旅日記ノシ
遠山の金さんV.S.女ねずみもたまに觀てゐたよ。V.S.ぢやないぢやんと毎週突込みを入れながら觀てゐたよ。文句があるなら觀るなよ。

平成十七年一月二十四日
まほらば。やつぱり素直に樂しめない。氛圍氣だけを樂しめ、と言はれても。
平成十七年一月二十四日
と言ふか、普通なら醫者に診せるのでないですか、あれ。周りの連中、何考へてゐるんだよ。
平成十七年一月二十四日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050123#p2
ちなみに私が読んだことのあるレムの作品は『ソラリスの陽のもとに』『金星応答なし』『宇宙創世記ロボットの旅』『砂漠の惑星』『捜査』『泰平ヨンの航星日記』『完全な真空』だけなのだった。
良く讀んでる方だと思ふ。
平成十七年一月二十四日
堀米庸三『ヨーロッパ歴史紀行』を讀み終へて大類伸『改稿西洋中世の文化』を讀み始めた。既に『ヨーロッパ歴史紀行』が本の山の何處かに入つてしまつて出て來ないのは何うよ。
堀米 庸三
平成十七年一月二十四日
一往傾向と對策を知る爲に半年ほどPOMつてみる。
平成十七年一月二十四日
がらくた市@東京古書會館でニーチェ全詩集とか創元社版君主論とか福原麟太郎著作集とか文明一新論とかを買つた。
がらくた市は明日もやつてゐる。二割引なので貧乏人どもは行くが良い。俺も行く。めざせ皆勤賞。

平成十七年一月二十三日
先日、日本人は、アメリカの歴史も政策もアメリカ人の氣質も國民性も輿論も、イギリス等のアメリカに對する評價も、何も知らないで、「親米」だの「反米」だのと言つてゐる、と云ふ事で、「アメリカを知るといふ事」についての某先生の講話を聽いて來たのだけれども。
日本の學校で教へるアメリカ史と言つたら、奴隷解放とフロンティアの西進の事くらゐだからなー。
なほ、講話の詳細は書かない。迷惑がかかるらしいから。
平成十七年一月二十三日
DivXToDVD by VSO, convert your avi mov and divx files to a dvd to watch it on a stand alone player
以下、trial版に關しての記述。
變換が無茶苦茶早い。ただし、DVDにするのが目的のツールなので、五分間隔で勝手にチャプタを插入し、VIDEO_TSにファイル一式を吐いて呉れる。
出來たファイルからは、TMPGEnc DVD Authorで生のmpegファイルを拔き出せる。ちやんとしたメニューなり何なりを作りたい人は、さうすると良い。
畫質は9000kbps固定。その割にファイルサイズが小さい。大きく映像が變化するところでIフレームがばんばん出現する(結果としてチャプタを打ち易い)。音聲はAC3になる。Support DivX, Xvid, Mpeg4, Mov, AVI, WMV video format and much moreとあるが、WMVのコンヴァートは出來ないやうだ。
變換後のmpegの冒頭にノイズが入る事がある。
一度變換作業が終つたファイルなのにまた變換作業を始め、前のファイルを上書きして、それまでにやつた作業を全部無駄にして呉れる事がある。作業の殘り時間の計算は、しよつちゆう狂つてゐる。
今のところテスト版。實用のプログラムと考へないで、使へれば儲けものと思つておくべき。「いつでも何の問題なく動くプログラム」を求める人には向かない。うまくmpegファイルが生成されると畫質は良好。しかし、それがきちんと規格に適合してゐるか何うかは不明。チェックしてゐない。なほ、きちんと動くやうになつたら有料の製品になる筈。

平成十七年一月二十二日
かりんとうが駄目ならすいぎんとうでも貼るかな。
平成十七年一月二十二日
つ[水銀燈]
平成十七年一月二十二日
念の爲水銀燈自作繪貼つて寢る。
Suigin.gif
平成十七年一月二十二日
OS-tan - Wikipedia, the free encyclopedia
色々と突込みたいが……。

平成十七年一月二十一日
mAgicTVで舞-HiMEに豫約を入れると、らいむ色戦奇譚もまじかるカナンもジパングもああっ女神さまっも豫約出來ない件について。
平成十七年一月二十一日
のあ
萌え單ぢやなくてのあ單つて何うかな?
あやの
……そんな事安易に言ふと「作れ」と要求されるぞ。
平成十七年一月二十一日
あやの
ほら要求された。
平成十七年一月二十一日
舞-HiME。蝿の王きたー。無茶苦茶だな。ガチで皆殺し展開になつたら俺は神。
平成十七年一月二十一日
「のあ單」に收録すべき單語と例文を募集してみる。澤山集つたら公開する。
平成十七年一月二十一日
花林糖と御茶

平成十七年一月二十日
都市伝説と現代妖怪「怖い話をしよう」
中は敢て讀んでゐない。
平成十七年一月二十日
見知らぬ人と會話した。
平成十七年一月二十日
リンク集をCGI管理させうと思ひ、スクリプトの構想を練つてをます。さあ、完成するのはいつの話かしら。
平成十七年一月二十日
アク禁とけた。

平成十七年一月十九日
公正・中立の問題はともかくとして、専用メディアなら “政党機関紙” があるぢやないか。
機關はあつても、機關は必ずしも無いし、いづれにしてもTVほどの影響力は無い。政黨の專屬TV局はない。
「報道に公正・中立を求めるべきか」の問題について意見が無いのは非常に殘念。
あとh拔くなちやんころ。
平成十七年一月十九日
正字正かなというのはルールなので、
「ルール」と云ふ言ひ方が氣に入らない。ルール化はむずかしいだろう。と云ふ後の言ひ方から考へると、この「ルール」は「規約」の意味で使はれてゐる。私は、正字正かなの表記は、人爲的に決めた規則・規約の類ではなく、自然に決つたならはし・習慣の類であると考へる。
私は、歴史的に成立した慣習の類には、それなりの合理性がある、と考へる。そして、合理性のあるものは、合理的に整備出來るものであると考へる。
實際のところ、保守派は、單純に「今を昔になすよしもがな」と考へてゐるだけの人間であるのではない。急進的な「昔のものを非合理なものとして排する革新派」に對するアンチテーゼ的な存在として、保守派は傳統的なものの合理性を信じつゝ合理的かつ漸進的な立場を取る人間である。
革新派は、言葉の表記について、規約で「正しい」ものを作り得ると信じてゐる。だから、「現代仮名遣」のやうな規約を作る事で、表記を改めるのは「正しい」と考へる。
歴史的な物、傳統的な物にそれなりの合理性を認める立場である保守派は、それなりの合理性を持つ歴史的な物、傳統的な物を合理的・漸進的に改良する方が、歴史的な物、傳統的な物の非合理的な側面のみに注目して、歴史的な物、傳統的な物を全て破毀する急進的な革新派の方法よりも、巧く行くだらうと考へる。
もちろん、單純に過去の物を非合理的に禮讚し、合理的な物は全て惡と看做す人も存在する。が、彼等は保守派ではなく、ロマン主義者であり、右翼である。保守派は古典主義であり、理性主義である。
保守派と言つて解り難ければ、漸進主義である。革新派と目的は同じで、不合理な物は合理化すべきだと考へる。しかし、手段として、革新派が過去との斷絶を主張するのに對し、保守派は過去との連續、或は歴史的な物の改良を主張する。革新派は急進主義であり、保守派は穩健主義である。
平成十七年一月十九日
現状、「日本語の表記はどのやうな物が正しいのか」と云ふ問に、適切な囘答を示し得ないのは、日本語の文法が依然、確立されてゐない事に據る。
多くの正字正かな論者が、正字正かなの普及の方法を追ひ求め、現實になされた國字改革の方法の非を鳴らし、或は、正字正かなにも存在する不合理の側面を強調する許りであるのは、正字正かなの「正」たる所以を説明しない事であり、怠慢であると言へる。この點で、當サイトの記述が不足してゐる事は、否定しない。が、問題は意識してゐるので、餘所がやらないなら、うちで文法論までやる。やつた上で、表記の原則を説明する。餘所がやらないのだから仕方がない。日本語の原則を述べて、その上で、日本語の原則に適つた日本語の表記を説明する。それは十分可能だ。
「象は大きい」「花が咲いた」は文法上も意味上も正しい日本語の文章だ。しかし「象が咲いた」は、文法的には正しいにしても、意味から言つて正しくない。かう云ふ事はあり得る。文章の意味が正しくないと、文章が文法的に正しくない事とは、別次元の話である。
「意味の通じない文章」と「非論理的な文章」とでまた、「文章」なる語の意味が屡々異る。この點も注意が必要である。一つの文について「意味の通じない文章」と言ひ、連續した一聯の文について「非論理的な文章」と言ふならば、同じ「文章」と云ふ用語が異る意味で用ゐられてゐる事になる。かうした用語の曖昧さは、合理主義・論理主義の立場から言ふならば、避けるべきである。さて、一往指摘しておくが、「合理」「論理」についても、客觀的に使はれた場合の「合理」「論理」なる語と、レトリックとして皮肉な意味で用ゐられた場合の「合理」「論理」なる語とでは、別の概念となる。「合理化」にも、「不合理を除く事」と「辯解・正當化の爲の理由附けをする事」と云ふ別の意味があるし、同じ「不合理を除く事」と言つても「論理的な根據に基づいて不合理を除く事」と「單純化する事・削減する事」の二つの場合があり得る。
「單純化」「削減」としての非合理的な「合理化」は、例へば、企業の大量解雇について時として言ふ事が出來るが、それは人員整理をしても經營の效率が上がらないに決つてゐる場合、批判して言へる事である。即ち、「人員の削減」を、企業が「合理化」と稱しても、效率アップにならない場合があり得る、と云ふ話である。「合理化」と稱する事と、實際に合理的に改革がなされる事とは異る。
「表音化」と云ふ言語を表記する規則の「單純化」――と言ふより、言語を表記するのに、表音主義と云ふ單純な規則を適用させる事――に、「單純である」即「合理的である」とは看做さない立場の人間は反對せざるを得ない。それが正字正かな派の本質的な主張であるべきである。正字正かな派は、從來の表記の規則に、非合理性のみを見出すのではなく、或程度の合理性を見出し、それに注目する。「正字正かなには一切の非合理性など無い」等とは言はない。改善不可能の點も多々ある事は認める。けれども、或意程度存在する合理性をベースに、表記を體系的に漸次、改善し、合理的な物に仕立てて行く事は可能であるし、それがベターな方法であると考へる。
平成十七年一月十九日
英語やフランス語その他の言語に、非合理的な側面がない物はないが、しかし、完全な表音主義を採用したものも存在しない。ならば、日本語だけ表音主義を採用すべき理由等無いと言へる。
完全な表音主義を採用した西歐の言語が無いのに、その西歐に追附きたい許りに西歐の文字を使はうと主張した初期の表音主義者は、表音文字と表音主義とを混同してゐた。
平成十七年一月十九日
正字正かなの文章は、合理的であるがゆゑに客觀的な操作が可能であり、機械的な處理が可能である。が、それは、正字正かなが、單純に機械的であり、非人間的なものである、と云ふ意味にはならない。普遍的な論理は、機械文明の根幹をなすものであり、俗的には機械的であるとして非難の對象となるが、寧ろ人間的であると論理學者には指摘されてゐる。これは二玄社から出てゐた『どう考えるか 知識と人間』の對談で議論されてゐてとても面白いのだけれども、品切れだから、興味のある人には古本屋を廻るか圖書館に行くかして貰ひたい。
人間は、本質的に、秩序を求める存在である。しかし、秩序が壓倒的になつた時、反撥する。が、その反撥が現代に於ては餘りにも強過ぎる、と保守派は考へる。まだまだ足りない、と革新派は考へる――のならば良いのだが、革新派は行き過ぎてしまつて、秩序そのものの破壞を企てる。「それが自然だ」と云ふ發想である。が、自然から分離して、秩序を打ち立てようとしたのが人間である。ならば、その人間のやり方を守るべきであると保守派は考へる。

平成十七年一月十八日
液晶TVを買つたので色々と遊んでみた。取敢ず、RD-XS40の畫質3.2(480x480)で録畫したデータは、この液晶TVで觀るとブロックノイズが目立つ、と云ふ事が判つた。慥かに、こんなTVで觀てゐれば、録畫データの畫質向上にはまる訣だ。
ついでに、Netfrontも使つて見た。うち邊は完璧にレンダリングして呉れる。けれども、テーブル使ひ捲り、font使ひ捲り、畫像使ひ捲りの「重い」サイトは、メモリ不足で途中で畫像の讀込みを止める。にじうらも畫像が表示出來ない。
平成十七年一月十八日
アルティメットガール。たしかにえろいが。
平成十七年一月十八日
月詠。これも多重人格もの。なぜかどりふ的演出が今囘は頻出。Opにゐなかつた葉月復活。ルナ樣退場。いろいろとえろい科白が。
平成十七年一月十八日
カートゥーンネットワークのタイムボカン。第十一話。三惡の絡みのネタよりも、話のところどころに出て來る小ネタが下らなくて面白い、極初期の御話。こまはり君がいきなり出て來るし。
平成十七年一月十八日
京王線8000系データベース
reff=document.referrer;
if(reff.indexOf('ksmiracle')!=-1){
location.replace('http://www.yahoo.co.jp')
}
うちのリンク集からのアクセスをはじいてYahoo!に飛ばさうとしてゐるサイト。閲覽者に迷惑をかけて何をしたいのでせうねえ。頭の良い人がやる事は良く解りません。
對處方法としては、JavaScriptを無效にする、アドレス欄にURL直打ちする、(Operaの場合)アンカーをドラッグして廣告欄にドロップする、等。
平成十七年一月十八日
神保町の奥野書店が自民黨の選擧事務所になつてゐる。隣の佐藤も閉店?
平成十七年一月十八日
東京古書會館のアングラカフェ。寿岳文章『わが日わが歩み 文学を中軸として』。森銑三『思ひ出すことども』。
平成十七年一月十八日
登場人物に澤山喋らせて、動きとか演技とかニュアンスとかに頼らないで、科白で話を展開して、觀客とか讀者とか視聽者とかを樂しませる御話はありませんかねえ。
なぜか「科白は少ければ少い程良い」「動きだけで表現するのが良い」と思ひ込んでゐる人が日本には多いのだけれども、巧みな科白で物語を進行させる科白劇が日本にもあつて良いと思ふ。今、科白が信用されてゐないのは、拙い科白が多過ぎるからで、だからと言つて科白を減らすのは、表現者の逃げでしかない。氛圍氣とかニュアンスとかだけで何かを表現しようとすると、却つて科白は説明的なものになつてしまつて、結局、より一層「餘計なもの」と感じられるやうになつてしまふ。
平成十七年一月十八日
田村書店の無料箱から拾つて來た『倫理資料集』(昭和58年2月10日發行・昭和60年2月10日第3刷發行・東京書籍)の21ページ、「十戒」のふりがながじゅっかいになつてゐる。「十」の讀みは、歴史的假名遣で「じふ・じつ」、「現代仮名遣」で「じゅう・じっ」とされてゐて、如何なる場合にも「じゅっ」である事はない。
平成十七年一月十八日
http://d.hatena.ne.jp/meigara/20050118#1106033681
番組内容か、政治介入か、どちらの問題が重要か。
既に述べた通り、そんな議論をするのは、單なる「法律議論」であつて、頭の體操にしかならない。
本質的な問題は、「報道に公正・中立を求めるべきか」「政治家が意見を述べる專用のメディアが存在しない現状は正しいか」である。法律の觀點から或行爲が正當か不當かを論ずるのは、法律家に任せておけば良い。もつとも、日本國には自覺のない法律屋が多過ぎる。
平成十七年一月十八日
極東ブログ: NHK番組改変問題について朝日新聞報道への疑問
平成十七年一月十八日
と言ふかさ、「報道者は、自分自身で完璧にバランスを取つて、完全に公正・中立な報道をやりなさい」だなんて、報道者の完全性を想定した非人間的で無茶な規定だと思ふよ? 皆當り前のやうな顔をして論じてゐるけれども。「NHKは政治家に御伺ひを立てちや駄目!」「政治家は一切口出ししちゃ駄目!」なんて、なんとも融通のきかない話だし。法律の規定ががちがちで融通がきかないところに、運用もまたがちがちで融通がきかないだなんて、ねえ。
平成十七年一月十八日
地震。

平成十七年一月十七日
まほらば。現状、よくある多重人格ものとしか言ひやうが。ななか6/17。
多重人格ものとしてはヤヌスの鏡と云ふ古典があるのですが、御存じの方はいらつしやいますか? 漫畫版限定。さすがに「今でも古びてゐない」とは言へないけれども、はつたりのきかせ方は最近の多重人格系あにめどころではなかつた。と思ふ。ええと、どらまは、それなりに味があるらしいのですけれども、觀てゐません。
それにしても双葉銀座。
追記。或意味ワるきゅーレも或意味多重人格もの。
平成十七年一月十七日
國語問題協議會のリニューアルの件、當方、辭退させていただきたいと存じます。
また、同會、及び、柵に關する會合も今後、當面の間、出席を辭退させていただきます。
當サイトそのものも、今後、トラブルが大きくなつた場合、閉鎖も考へてをります。その場合、國語問題協議會、柵會からも脱退させて頂き、責任を取らせて頂きたいと存じます。
某新サイトの計畫にも當方、參劃いたしません。當サイトの、問題となりさうなコンテンツも全部削除します。さう云ふ事で。

平成十七年一月十六日
唐突に2004年のあにめを總括してみる。
R.O.D. TV。途中で投げたが、放映自體が途中で終つたらしい(地上波)。古本ヲタとしてはR.O.D.には認め難い點が多々ある云々。
カレイドスター。感動の最終囘と世間ではもつぱらの評判。そらに都合良く色々と物事が動いてゐるやうな氣がするので個人的には評價低。
まぶらほ。取敢ず全部録畫した。小山氏脚本囘が實は一番増しだつたとか。(傳聞)
サヴァイヴ。途中から見始めて途中で投げたまゝ。SFとしてセンスが古い。
BURN-UP Scramble。二話まではちやんと觀た。そこまではちやんと面白い。あとはアレ。
MEZZO。アレ。
コス∞プレイヤー。それ自體としては屑。ヒットをねらえ。何囘再放送するんですか。LOVE LOVE? 取敢ず全部録畫した。
ゆめりあ。結構樂しく觀たのですが、2004年の状況では埋沒するのも無理はないかと。
ダフネ。ネタが陳腐なので云々。一往全部録畫した。
十兵衞ちゃん2。取敢ず全部録畫した。
MADLAX。ヤンマーニ。面白くなかつた。
サムライチャンプルー。取敢ず全部録畫した。僞時代劇。
せんせいのお時間。日曜日の終りを告げる番組。ときたひろこの脚本囘が良い。2004年のベスト3。
絢爛舞踏祭。取敢ず全部S-VHSで頑張つて録畫した。
花右京メイド隊。一囘か二囘觀た。
鉄人28号。そんなに原作に忠實なのかなー。キャラデザインが微妙に違ふ氣がする。金田はそんなに頤キャラだつけ?
爆裂天使。極普通のアクションものなのだらうけれども、2004年の状況では埋沒するのも無理はないと思つた。
美鳥の日々。一往全部録畫した。觀てらんない。
忘却の旋律。榎戸洋司の氣狂ひアニメだが、2004年のあにめの状況そのものが氣狂ひじみてゐるので云々。
北へDDD。茜木の中の人の所爲で將來黒歴史化されたら面白い。Opがアレなので話題になつたけれども、Edのやうな氛圍氣の話を広井はやりたかつたのだらうと推測。
恋風。一往全部録畫した。キッズステーションのみ放映された囘も録畫した。
DearS。ファーストコンタクトもののSFとして、ちやんとなつてゐる。敢て言ふが2004年のベスト。
ニニンがシノブ伝。TVKではDearSのあとに續けて放映された。この編成は良い。
Girls ブラボー。湯氣で良く觀えないが、あんまり困らなかつた。2004年の状況では埋沒して當然だと思ふ。
KURAU。なんで「くらう」なのか全然解らないが、觀てゐれば解つたのだらうか。繪が氣に入らない。
Windとはにはに。トンデモ。わかつきめぐみのをアニメ化して貰ひたかつた。
ギャラクシーエンジェル第四期。にじうら人氣につられて觀た。録畫した。DVDに燒いた。そんなに面白い訣ではないと思ふが、とても面白くてもいけない類の商品なのだらう。良く知らないが。
マリみて春。一往次囘豫告だけは全部觀た。
ファスナー。せんせいのお時間の後番組なので印象が非常に惡かつた。
BECK。實は未だに録畫繼續中。
tactics。實は未だに録畫繼續中。
遥かなる時空の中で〜八葉抄〜。一往録畫繼續中。
うた∽かた。一往最後までリアルタイム視聽+録畫した。仕掛けの見せ方と意圖が餘りに露骨なので駄目。演出は叮嚀で、取敢ず觀られたけれども。
神無月の巫女。全部録畫したけれども、飛び飛びかつ適當にしか觀てゐない。まとまりがない。ぐだぐだ。
W〜Wish〜。トンデモ。
Φなる・あぷろーち。TVK鬱アワーの最後に用意されてゐた馬鹿あにめ。やはり敢て言ふが、2004年のベスト2。
グレネーダー。女トライガン。トライガンを俺は評價してゐないので必然的にグレネーダーも評價しない。
サムライガン。僞時代劇。
げんしけん。いろいろと言ひたい事がある。
スクールランブル。觀てらんない。
ファンタジックチルドレン。未だに録畫繼續中。
ローゼンメイデン。萌えあにめとしては2004年最強だと思ふけれども、SF・ファンタジイとしては寧ろDearSの方が出來が良い。意圖的である事は解るけれども、やつぱり舞臺となる範圍が狹過ぎるのは如何なものか。
ガンダム種運命。ネタ番組として掴みは上乘だつたが。
月詠。どりふ。そんなものと思つて觀れば、そこそこ面白い。
双恋。途中から面白くなるらしいが、そこまで我慢出來なかつた。特に山羊。一往全部録畫した。
リリカルなのは。世間では評判らしいけれども。
ムスメット。世間では評判が惡いらしいけれども、觀てちやんと理解出來る話になつてゐるのは評價して良いのではないかと思ふ。うざつたいとか作畫がアレとか、さう云ふ評價をするのはその後で良いのではないか。でも七話邊で投げた。
舞-HiME。サンライズの萌えあにめ。ローゼンメイデンとバッティングしなければ、世間の評價はもつと高かつたのではないかと。でも、ローゼンが終つたら、こちらは途端に燃え展開になつてゐるし。擴げた風呂敷を疊めるか何うかは甚だ疑問。最終囘が富野的皆殺し展開になつたら俺は絶讃する。
平成十七年一月十六日
讀賣新聞本日附朝刊四面、編集委員橋本五郎氏が連載「五郎の政治ワールド」で、「『大和』撃沈60年 『国家の干城』の生と死」なる副題の下、吉田満『戰艦大和ノ最期』を採上げてゐる。橋本氏は、戰艦大和に乘組んだ青年士官逹の死の意義を論じ、戰時下に比べて自由になつた筈の戰後に生きる我々現代日本人の生の意義について考察してゐるのだが、結論の部分で福田恆存「眞の自由について」から文章を引用してゐる。

平成十七年一月十五日
何でこの寒い夜に恐怖畫像祭なんてやるんだよう。
平成十七年一月十五日
MS-IME補強計画

平成十七年一月十四日
AIR。観鈴ちんの聲は宇宙海賊ミトの中の人の聲。
観鈴ちんの聲を聽いてミトを聯想出來るのならば「逆もまた眞なり」である筈だ。今度試してみよう。
かのn
平成十七年一月十四日
呆状記:新作長篇『死地に咲く花』一擧公開 (2005-01-14 00:20)
平成十七年一月十四日
ヴァレリー全集第十二卷を讀んでゐるよ。本書所收の「党派」は「政治とは何か」を端的に表現した短文。みんなヴァレリイを讀むと良いと思ふ。結構難しいよ。
平成十七年一月十四日
舞-HiME怒濤の展開。サンライズは本氣だ。
平成十七年一月十四日
中川さんと安倍さん、及びNHKによると、政治的壓力は無かつた、番組の改變もなかつた、と。朝日新聞の誤報である、と。一方、朝日新聞に據れば、ちやんと取材したから間違ひはない、と。何が眞實なのやら、さつぱり解りません。
報道機關にはいろいろと問題がある。
「報道機關は公正・中立でなければならない」と云ふ規定なり何なりがある事。報道機關の報道を監督する機關なり機構なりが無い事。報道機關の偏向報道を抑止する第三者の介入手段が存在しない事。報道機關が公正でも中立でもない偏向報道を勝手に出來てしまふ仕組になつてゐる事。實際にどんな報道をしてゐても報道機關が「俺逹は公正・中立である」と主張してしまふ事。
今のNHKの存在もをかしい。NHKは、國民が出した金で運營され、國會が豫算を決めるにもかかはらず、國の機關ではなく、國を批判する番組を平氣で作る反體制的なTV局である。かう云ふ中途半端な存在だから、介入があつただの無かつただのと騷ぎを起すのである。NHKではなく、國が支配する國營放送であつたならば、政府・政治家が番組制作に口を出すのは當り前となる。その方が良いと思ふ。
民間のTV局も、公正だの中立だのと言つてゐないで、うちは右翼だ、うちは左翼だ、と立場を明かにした方が良いと思ふ。
それでは報道の公正・中立が守られないではないか、と反論する人もゐるだらう。しかし、報道なんて物が中立である訣はないのである。ならば、最初から、右翼の立場から、或は、左翼の立場から、うちは報道してゐます、とTV局が言つた方が、視聽者もTV局の報道を鵜呑みにしなくなつて、良いだらう。と言ふより、今のやうに、視聽者がTV局を信用してゐるのは良くないと私は考へる。我々國民は、TV局に批判精神を預けてしまつてゐる。TV局が國なり何なりに批判的である時、自稱「公正・中立」のTV局の主張を視聽者は鵜呑みにする。それでは國民の批判精神は育たない。寧ろ、右翼だ左翼だと言ふTV局の報道を觀させられれば、其れを批判する事で國民は批判精神を養へるだらう。そして、右翼なり左翼なりの立場にもかかはらず、捏造や好い加減な報道が少い側、評判の良い側が出て來れば、國民はそれを參考に、支持する對象を決定出來るだらう。今のやうな、表面的な「公正・中立」の陰に隠れて、TV局が偏向報道を繰返してゐる現状では、國民はTV局の報道に振囘されるだけである。
國の立場から報道する國營放送、其れを擁護し支持する體制側の放送局、反體制の放送局、またそれらとは別に獨自路線を取る放送局――そんな個性的で多樣な放送局が幾つも存在すれば、少くとも今よりTVは面白くなるだらう。
平成十七年一月十四日
TVが壞れたよ。取敢ず明日にでもブラウン管の安い奴を買つて來る豫定。液晶なりプラズマなりは、あと三年位したら安くなるのではないかと。それまで待ち。
平成十七年一月十四日
ベースアップは良いけれども、「ベア」と略すのは氣に入らない。
俺はパーソナルコンピュータを「パソコン」と略するのが嫌ひである。テレヴィジョンを「テレビ」と、アニメーションを「アニメ」と云々。
平成十七年一月十四日
昨日拾つて來た本。
ラインバーガー『心理戰爭』(みすず書房)
SFファンならばぴんと來る筈。
平成十七年一月十四日
「正字正かな派」と言ふのはをかしいだらうか。「ISO-HTML派」が「あり」であるのならば「正字正かな派」も「あり」だらう。と、一年前の加納氏の記述に反應してみる。
平成十七年一月十四日
保守派であるがゆゑに政治と道徳とを區別しなければならない、等とは誰も言つてゐない。政治と道徳とを區別しなければならないがゆゑに、政治的な發言や政治運動をしてはならない等とは言つてゐない。簡單な二分法ではないのに、自分の頭が簡單な作りである人はそれが解らない。一年前の以下略。
平成十七年一月十四日
正假名遣であるから保守的な考へ方をしてゐるとは限らないが、保守的な考へ方をしてゐるならば正假名遣を使ふのは當り前である。そして、正字正かなを使はない保守派は、保守派として信用出來ないに決つてゐる。
「現代仮名遣を使ふ事で後ろめたさを意識出來るから、私は保守派だが現代仮名遣いを使う」等と言ふのは詭辯である。
少くとも、これは陽明学的な過剰な情念をとりはらったうえでいうのだが、知行合一をたえず念頭におくべし、これが私の覚悟といえば覚悟なのである。と述べた西部邁が、假名遣に關して知行を合一しないのは、をかしな話である。
平成十七年一月十四日
Other Voices(2004-01) -Poesia
平成十七年一月十四日
私は「反米派」「親米派」の本を全く讀んでゐない。しかし、私はウェブでウェブの論客の方々の發言を讀み、それを基に批判してゐる。
それから、「反米の主張は道徳的なものである」等と云ふ愚かしい主張が罷り通つてゐるやうだが、アメリカなる國家に對して「親」であるか「反」であるかは、道徳の問題ではなく、政治的な態度の問題である。西部や加納氏の言葉を借りれば、反米である事が道徳的である事とは蓋然性で結ばれてゐるかも知れないが、反米である人が常に道徳的に立派である事にはならない。
平成十七年一月十四日
misima 旧仮名遣い・正字変換支援プログラム
新字新かなが一般的な今の時代、正字正かなは違和感がある、と云ふ意見。正字正かなに好意的な人――例へば加納氏――も、もちろんアンチ正字正かなの西部も、この手の事を平氣で云ふのだが、かう云ふ人たちは單に世間で一般的な意見を採用してゐるだけで、結局、流行に乘りたいだけなのではないかと思ふ。詰り、左翼・反體制運動が流行らなくなつて、それで右翼とか保守思想とかに乘換へただけなのではないかと。
平成十七年一月十四日
正字正かなを使ふから立派で、新字新かなで書くから駄目である、とは誰も言つてゐない。松原正氏は『文學と政治主義』で、新字新かなで書いた中野重治を褒め、正字正かな派であつた三島由紀夫を批判してゐる。だが、中野は左翼で、三島は右翼である。その右翼の三島が「下水道で西洋に通じてゐる」と非難した福田恆存は、三島を「下水道で日本に通じてゐる」と批判した。その福田氏が用ゐた正字正かなを西部は用ゐない。さて、單純な二分法で割切るには、何うすれば良いだらう。
平成十七年一月十四日
西部は、全共闘の鬪士であつた事と、今の保守主義者である事との間に、筋を通さうとしてゐない。清水幾太郎は、かつては革新勢力に屬し、のち保守派に轉向したけれども、失敗したとは言へ、何とか自分の生き方に筋を通さうと努力した。
平成十七年一月十四日
いろどりのアナグラ
平成十七年一月十四日
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20050114#1105712082
舊字舊假名遣です。と言はれるのは何だかなーだが。
實は「舊字舊假名遣」でぐぐつて發見した。
平成十七年一月十四日
古書會館。新村出『言語学序説(改訂版)』(星野書店)。堀米庸三編『西欧精神の探究 革新の十二世紀』(日本放送出版協会)。福原麟太郎『英文學旅程』(玄理社)。S・ウルマン『意味論』(紀伊國屋書店)。津田左右吉『日本上代史の研究』(岩波書店)。新村氏の本は、戰後の改訂版で、序文が例によつて「假名遣のない文章」になつてゐる。福原氏がローマ字の擁護をしてゐるのにはがつかりした。
拾ひ物。編集金子武蔵・大塚久雄『講座近代思想史5機械の時代』(弘文堂)。マルクス主義系の論文許りを收録。殆どが古びてゐる。寺田透の文章「写実主義、自然主義、印象主義」だけは今でも讀める文學・文藝の御話。

平成十七年一月十三日
ペトロ三木ホームページ
Flash強要。Operaでplug-inを無效にしてゐると閲覽出來ない。
より多くの人に閲覽して貰ひたいのならば、改善した方が良いのではないですか。閲覽して貰ひたくないのでしたら何もしないで結構です。
平成十七年一月十三日
また本を拾つて來た。Que sais-je?文庫なんて何册拾つて來ても讀めないよ。フランス語苦手。フロイド『日常生活に於ける精神病理』(岩波文庫)。固有名詞を失念するのも、心理學的な理由があるのです。私の經驗から言つてさうです。云々。意譯。フロイドの論證は毎度トンデモだなあ。
平成十七年一月十三日
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20050112#1105512859
井伏鱒二とか。漫畫は知らない。かりあげクンとか? 真柴ひろみは天才よ。
平成十七年一月十三日
qkana
平成十七年一月十三日
nomadism: blockquote内のpについてのバグ
平成十七年一月十三日
芥川賞。orz
「メッタ斬り!版 芥川賞、直木賞選考会」 ニュースな本棚|Excite エキサイト : ブックス
平成十七年一月十三日
筑紫哲也氏に教へて貰つたのだが、民主的に擇ばれた政治家は國民の敵であり、誰からも頼まれてゐないのにTV番組を制作してゐるTV局は國民の「知る權利」を實現する國民の身方なのださうである。
政治家の方々には、現代の實質的な權力者であるマスコミの連中の壓力にめげず、今後もどんどん政治力を行使していただきたいものである。
――一往註釋。今、マスコミの絶大なる力を用ゐる事が出來るのは、政治家ではなく、マスコミ自身である。ならば、國民に對する強い影響力を持ち、國民を實質的に支配してゐるのは、政治權力ではなく、マスコミと云ふ「權力者」である。この邊りの事を解つてをらず、相變らず「マスコミは、弱體にもかかはらず、政治の壓力を受けながら必死に鬪つてゐる英雄である」と考へてゐる人が少くない。寧ろ、國民を煽つて反體制運動に驅立てるマスコミの方が、政治權力や政治家よりも強大である。そして、眞に反権威的な人であるならば、實質的に強大な權力を持つマスコミにこそ抵抗しなければならない。
マスコミ内部にゐる人間は、單に反政府的にしかなれず、反權力にはなり得ない。マスコミとマスコミ人こそが、現代に於ては眞の權力者だからである。筑紫哲也氏は、その影響力を考へれば、或意味、權力者であり、權威である。

平成十七年一月十二日
虹裏@img鯖の閉鎖祭、瞬間風速で566人まで行つた。
その後、めどいさん祭に移行。一時からまた別の祭が豫告されてゐる。
平成十七年一月十二日
「Aである可能性は百パーセントである」と云ふ主張を否定するには、「Aでない可能性」がわづかでも「ある」事を指摘すれば良い。
平成十七年一月十二日
のあ
「UFOは幼女の乘物」つて何うかな?
あやの
何うかな? つて言はれても……。(かなり困惑してゐる)
なぜかfankee_jr亂入
反論。「UFOは阿部の乘物」説を否定してみなさい。やらないか。
のあとあやの
歸れ!
平成十七年一月十二日
「」の一人が「マジか」「落ち着け」Tシャツを作るらしい。
のあ
マジか?
あやの
落ち着け。
平成十七年一月十二日
寒い冬の夜の星空は美しいですね。なつかしやオリオン座。一年ぶり。
――明るい星が普段より二つ多いので暫く眺めてゐたら、じりじり動いた。飛行機だつた。
平成十七年一月十二日
オーディオ機器のプラグは、どうして「差込むだけ」のものが多いのだらう。ねぢ込み式とか――せめて捻子で止める方式にした方が良いと思ふのだが。差込んだだけだと、拔け易いし接觸不良になり易い。接觸が惡いと音聲や映像の信號が傳はらないんだよ。
家電の世界の「取敢ず便利に使へた氣になれるやうにすれば良い」と云ふ發想は、本質的に駄目なものだ。AV機器も、家電だから、「綺麗な音聲を聽けるやうにする」「綺麗な映像を見られるやうにする」と云ふ發想で物が作られてゐない。
一方で、「綺麗な音聲」「綺麗な映像」を錦の御旗とするデジタルテレビは、「コピー禁止」なんてまた餘計な事をして呉れる。
平成十七年一月十二日
著作權の保護期間を延長するしないで揉めてゐるけれども、延長反對なんてしないで、「著作權の觀念そのものがそもそも前近代的である」として著作權自體を否定してかかるべきだ。著作權は、copyrightであり、原語の語義から言つて複製權であり、コピーする權利である。が、「コピー・複製は困難である」と云ふ時代に著作權は作られた。利益を上げなければ複製出來ない時代の權利なのである。今のやうなデジタル時代には、複製は容易に出來る。だから本質的に複製權である著作權は時代錯誤的なのだが、なぜそんなものが未だに生きてゐるのかと言ふと、必要とする人がゐるからである。なぜ必要かと言ふと、複製によつて利益を上げる事が、その種の人の生業となつてゐるからである。複製に據つてコンテンツを賣る産業が、現在、存在するからである。が、その種の産業は、活字に據る出版が實現して、初めて成立したものである。メディアの容れ物が出來て、メディア産業は成立した。その容器としての書籍の複製を行ひ、それに據つて利益を上げる權利を守る爲に、著作權は成立させられた。が、その後、レコードのやうな音樂・音聲のコンテンツや映像のコンテンツの複製を行ふ權利をも、著作權は守るやうになつた。複製する權利を守るのが著作權の考へ方である。が、容易に複製出來ない時代のアナログなメディア――書籍やCDやヴィデオテープに加へて、現在は容易に複製出來るデジタルのメディア――インターネットが出現した。そこで、アナログ對デジタルのメディアが對峙してゐると言ふ訣だが、グーテンベルク以來の大革命と言はれるインターネットの出現――實はデジタル革命なのだが――に據つても、我々は發想の轉換を出來てゐないのである。
問題はインターネットが半ば商業的に運營されてゐる事にある。インターネットが、假に完全に善意的で良い意味で共産主義的な政府なり人類補完機構なりに據つて運營され、利用者に公正な態度で對價を要求するやうなものであつたならば、「革命」は極めてスムーズに行はれたに違ひない。が、さう云ふ「假に」の話は、現實みがない、單なる想像である。とは言へ、さう云ふ非現實的な方法でしか本質的な解決がないのであれば、我々は矛盾を抱へて取敢ず場當り的に何でもやつて行くしかなからう。が、いつまでもそれで問題を凌いでゐては困るのである。
平成十七年一月十二日
昔――パトロン――小部數――藝術
少し前まで〜今――趣味人〜一般人――そこそこの部數――商品
今〜將來――一般人〜逸般人――大量コピー可能――虹裏的やつつけ
今後は大藝術の出現は期待出來さうにない。
平成十七年一月十二日
ヘッドフォンの右の音が時々出なくなつた。原因はプラグの接觸不良でもケーブルの斷線でもなく、スピーカ自體が故障してゐる爲。垂直に立てると鳴る、水平に倒すと鳴らなくなる。謎。
ついかつとなつて振囘したら直つたのだが。
平成十七年一月十二日
田村書店店頭の無料箱から研究社の「英米文学史講座」を拾つて來た。一、八、九、十卷、別卷。福原麟太郎の文章が良い。
それで思ひ出した事。大學の卒業論文を書く時にエリオット著作リストを作つた。で、それをずつと探し續けてゐるのだけれども、今に至るまで見附けられない。ExcelかIBM WorksかCSVかSYLKの、どれかのデータで殘つてゐる筈なのだけれども。フロッピーディスクを一枚一枚チェックするの、めどいです。
平成十七年一月十二日
ISUZU GEMINIと書かれた耳あてが出て來た。
ISUZU:GEMINI

平成十七年一月十一日
アルティメットガール。特撮をパロディ化したあにめ。いろいろパクつてゐるのだが、單にパターンをなぞつてゐるやうにしか見えないのが。
あと、なんで今頃唐突に「ヒットをねらえ!」を再放送するのですか?
平成十七年一月十一日
實はそこそこ面白い月詠。ルナ御孃樣再臨。エンディングはふらんす語の方がやらしい感じで良い。次囘豫告にいよいよどりふネタ投入。
平成十七年一月十一日
[css-d] CSS signatures
" CSS signature " を付けたよ - Note @ Temporary-Depot
平成十七年一月十一日
アルティメットガールの感想で、「オーキ伝」との類似を指摘してゐるのが一件もない。
追記。或意味ワるきゅーレとも類似。
平成十七年一月十一日
言葉の發音をそのまゝ寫すべしと言ふ表音主義を原則とした場合、「意味」に基いて一部の語について發音通りでない假名遣を採用するのは、單に基本原理に反する第二の原理を導入する事になり、システム的に一貫性を缺く事になる。
一方、語の「意味」に基いて表記する場合、例へば感動詞のやうな「發音通り」である事に意味がある語句を「發音通り」に表記する事は、「發音通り」なる意味に基いた表記であるから、「表意主義」に「表音主義」を接ぎ木した二本立てのシステムになるのではなく、飽くまで原則は「表意主義」のまゝであり、システム的に一貫性を保つ事が出來る。
HTMLについても、似たやうな事を言ふ事が出來る。
某と●●氏流の、ブラウザでの見た目に基いたマーク附けでは、font等のブラウザのレンダリング機能を制御する爲の要素と、h1〜h6、em、strong、blockquote、以下略、といつた「意味」に基いた要素との二本立てとなるが、兩者の整合性はなく、恣意的にマーク附けがなされる事となる。
一方、文書構造に基いたマーク附けの場合、何らかの理由で見た目を制御する爲の要素、font等を補助的に用ゐるにしても、全體として整つたHTML文書が生成される。
平成十七年一月十一日
So-net blog:petrosblog:今週の「バカは死ね」/討論で「クリンチ」を繰り返す..
できるだけごまかさないで考えてみる:ペトロ三木氏のブログに対して
http://d.hatena.ne.jp/Coold/20050101#p2
http://d.hatena.ne.jp/Coold/20050107#p1
長々とぺトロ三木氏批判を書いたのだけれども、取敢ずバトルして視聽者に樂しんで貰はうとするのが出演者の義務だ説をぺトロ氏がコメント欄で述べてゐるので、ばつさり削除。さう云ふ立場を俺は決して好まないが、解つて意識的に演技してゐるのならば、それはそれで立場として認められる。「非存在の證明」を要求して、確實な反論がないからと言つて、「だから確實に存在するのである」と主張する事は不可能であるが、ぺトロ氏はその邊の事も解つて言つてゐるのだらう。取敢ず、俺は意識的に「釣り」をやつてゐるんだ宣言を本人が出してゐるのだから、釣りネタそのものに附いてはスルーする。クマー(AA略)
と言ふか、俺は、TVはあにめしか觀ない事にしてゐるので、TVタックルなんて當然の事ながら觀てゐない。TV番組は一般に觀る價値が無いものである。
あにめは、觀る爲に觀てゐるのではない。録畫する爲に録畫して、ついでに觀てゐるだけである。どらまやばらえてぃは、一般の人が觀るもので、プレミア性が少い。あにめはヲタしか觀ないもので、どらま等よりもずつとプレミア的な價値がある。だから私はあにめを録畫する。それだけの話である。私は、普通の人と違つた事を好む者である。闇黒日記の讀者諸氏にはその點、勘違ひしないで頂きたい。
平成十七年一月十一日
あと、「超常現象」關係の議論つて、曖昧な事象を持出して、決定的な事を言へない状況で、「存在派」と「非存在派」を引張り出してバトルさせようと言ふのだから、TV局が仕掛けた視聽者相手の壮大な「釣り」だよ。俺はそんな物には引掛からない。釣つたり釣られたりを樂しみたいのならば、2ちやんねるに行くのが一番手つ取り早いし、スリリングである。筈である。にじうらに入り浸りで2ちやんねるには行かないので、最近の2ちやんねるの氛圍氣は良く知らない。
對立する二つの解釋をぶつけ合はせて見せて、それを面白がれと言ふ番組制作者の意圖を俺は疑ふ。TVが事實を報道する機關ならば、決定的な證據を掴んできて、事實として報道すれば良い。それが出來ないから態と曖昧なものを持出して、「識者」に議論させて、TV局自體は責任を囘避しようとしてゐる、と看做す必要はない。實は、TVは報道機關でないのである。
平成十七年一月十一日
http://d.hatena.ne.jp/Coold/20050104#p1
平成十七年一月十一日
http://d.hatena.ne.jp/Coold/20050103#p1(「字音假名遣」)
http://d.hatena.ne.jp/Coold/20050102#p2(「漢字制限」)
http://d.hatena.ne.jp/Coold/20050102#p3(「内輪揉め」――『旧字旧かな入門』批判)
平成十七年一月十一日
めも。
Download details: Microsoft Keyboard Layout Creator (MSKLC) Version 1.3.4073
キーボードのキーマッピングを編集するツール。
平成十七年一月十一日
世間の人は、本屋さんとか古本屋さんとかBOOK OFFとかをはしごする習慣がないのか???
本屋さんに行つたら、買ふ買はないに拘らず、次の本屋さんに行くのが當り前ではないのか?
まんがとかライトノヴェルの續き物を揃へようと思つた時、一軒めで揃はなくても二軒め、三軒めとはしごして揃へる、或は、その日に揃はなくても、別の日に他の町に行つた時、突然思ひ出してそこの本屋で探して揃へる、なんて事は日常茶飯事ではないのか。たまに揃へられないまゝ放置。
つ[本を売るならBOOK OFF(ブックオフ)]
平成十七年一月十一日
せつかくの三連休を、俺はにじうらで潰しました。後悔はしてゐる。反省はしてゐない。

平成十七年一月十日
なぜか今更げんしけん第一話。いや、だから――違ふのだよ。大學サークルと言ふものはだ、もつと氛圍氣がギスギスしてゐるものだと。其れは例へば祭が起きてゐない時のにじうらみたいな云々。
取敢ず某WMCは、あゝまで纏まりがある集團ではなかつた。
平成十七年一月十日
まほらば。一往觀た。
やつぱり變な設定拔きでほのぼの日常どらまをのどかにやつた方が面白いのではないですか?
あと、Flash強要のhttp://www.mahoraba.info/は如何なものか。http://www.mahoraba.info/top.html
平成十七年一月十日
めも。
?D 大和但馬屋日記 - かなづかひについて
平成十七年一月十日
メモ。
觀察日記の平成17年1月9日(日曜)の項。「略字略かなのメール」なる記事。
平成十七年一月十日
まだ讀んでゐないけれどもメモ。
@IT:やさしく読む「XML 1.0勧告」 第28回 文字符号化の問題に決着を付ける Page 1
平成十七年一月十日
ついでだからメモ。
@IT:W3C/XML Watch - 12月版
平成十七年一月十日
2004年下半期の仕事・身辺雑記
11/27(土)14:00〜16:00(13:40より受付開始)大東文化大学板橋校舎:多目的ホールでのシンポジウム『「正仮名遣ひ」を考える』に出席。
昨年秋に正かな關係のイヴェントがあつたらしい。
平成十七年一月十日
暴力的なゲームの影響を受けて子供が狂暴化するのか、暴力的な傾向を既に持つてゐる子供が暴力的なゲームを好むのか、と云ふ問題。
否、そもそも人間が最初から狂氣を潜在的に持つてゐるのだ! と云ふ説。
平成十七年一月十日
そして、大概の人間が正義と云ふものに依存してゐる事。
俺は正義なんてものは信じない、と言ふ人も、實は相對主義と云ふ正義を信じてゐる。
平成十七年一月十日
暴力的な傾向があるにしても、人間には、その暴力をすら正當化しないではゐられないと云ふ最う一つの傾向があるのである。
平成十七年一月十日
めも。と言ふか何と言ふか。
ヤマト運輸に600万円請求した男〜ジャムおじさん祭りまとめさいと
ja: 日本:OpenOffice.org日本ユーザー会
SourceForge.jp: Developer Profile
スラッシュドット ジャパン ユーザ
khirano の日記 (18409)
たにぐち放浪記 - 冬至 - , あったけえなあ。きもちいいなあ。 , 東大ICカード 毎日 , 「コンプライアンス (compliance) とは何か」 (平野一成,2004) (セ..
たにぐち放浪記 - しかたがないので平野一成氏と運送業者の紛争の分析 MyNewsJapan
ノビイズム 「コンプライアンス (compliance) とは何か」
http://distance.ddo.jp/index.cgi?year=2004&month=12#20041228
うんちくを騙る(語るにあらず): マザコンジャム男のサイトが香ばしい
ええと、當方は單に情報を提供してゐるのみですので、云々。最近は私もチキン野郎になり、世の中にタブーと云ふものがあるらしい事も漸く判つて來たので、かう云ふ事については敢てコメントしないのが得策であると判斷してをります。
平成十七年一月十日
ワレモノ注意
なんか徳保氏が既にネタにしてゐるし。
平成十七年一月十日
ちなみにhttp://www.mynewsjapan.com/、死んでるみたい。
平成十七年一月十日
★★ヤマト運輸を労働基準法違反で告発しよう★
なんかこんなサイトもあるし。
平成十七年一月十日
http://openoffice-org.hp.infoseek.co.jp/――「私のライフワーク」?
2195-2920-2045
……。
平成十七年一月十日
Hirano, Kazunari
……。
平成十七年一月十日
商品破損等のトラブルの多い輸送業者はどこ?
ネタにされてるし。
平成十七年一月十日
Kylix Power Solutions レビュー
http://www3.big.or.jp/~ja1ura/snail/ajian_1.html
XOOPS日本公式サイト - ニュース
平成十七年一月十日
そんな事より宗教の話をしようぜ。
:: Blog by Kazu | デンマークとキリスト教〜クリスマスの日に一筆 ::
平成十七年一月十日
一太郎Web - 一太郎情報ポータル:進化し続けて20年、日本語ワードプロセッサ「一太郎」/ビジネス文書作成にも最適!
一太郎2005のアウトライン機能、スタイル機能と絡んで、ちやんと「使へる」のでせうかねえ。
一往、「スタイルセット」を用意してゐるやうだけれども?
ワード竝に一貫性のあるプログラムになつてゐるのだつたら、使つて見ようかと云ふ氣にもなるのだけれども。なんかWordの一貫した作りに比べると、一太郎のは駄目駄目な感じがする。
2004では「ブロック要素」と「インライン要素」の區別がワードほどきちんとしてゐないやうだし。
一太郎2005、2005年2月10日發賣。
平成十七年一月十日
なんか頭が働いてゐない。寢ます。
平成十七年一月十日
社會の複雜さは幾何級數的に増加するのに對し、教育レヴェルは算術級數的にしか増加しない。
さらに言ふと、人間の頭は、この數千年・數萬年の間、生理的・生物學的に進化してゐないし、近い將來においても、さうさう進化するものではないと考へられる。
平成十七年一月十日
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20050110#1105304304
原作に於いては多重人格その他の設定すら包み込む感じでぬくぬくほわほわしてゐますが。
多重人格みたいな設定も何もナシで、極々當り前の人が當り前の状況で當り前の對話をして當り前の事をする、と云ふ御話つて、本當に少いですねえ。チェホフでも讀むしかありませんか。さうですか。
あと、めぞん一刻はヲタの基本圖書ですよ? 私も讀んでゐませんが、一往、設定くらゐは知つてゐます。
さう言へば昔、優&魅衣なんて漫畫があつたのですが、皆樣、御存じでせうか。昔のあろひろしは面白かつたですね。
平成十七年一月十日
[徳]OOo のアレについて
お布団 OpenOfficeのコンプライアンスをかたろう 2005年01月10日 14:37更新
void GraphicWizardsLair( void ); //2005年01月10日(月) お布団: OpenOfficeのコンプライアンスをかたろう_
平成十七年一月十日
[ス] サイト簡易表記一覧
またローカルルールかよ。大反對。
「Blog」の類に、見出しに「●」とか「_」とかの意味のない文字を埋め込んでアンカーポイントにする、と云ふ事をする例が良くあるけれども、「サイトの簡易表記」もまたそれと同じで、大きな御世話機能、單なる邪魔もの、としか考へられない。本質的でない「ちよつとしたアイデア」は要らないんだよ。
適宜覚書: サイト簡易表記
そうなると本末転倒な気もするが、そのままだと閲覧以外に使う場合に不便だ。例えば、リンク貼るにも、引用するにもそのページのTITLE要素を流用するbookmarkletを使っているが、いちいち修正か削除が必要になる。
私の場合、さう云ふ餘計な文字も、わざと殘しますよ? 特に闇黒日記では。
平成十七年一月十日
私が「Blog」の類のサイト自動生成ツールを嫌ひなのは、それらが例外ナシに「制作者の論理」で作られてゐるからだ。
「Blog」は、機能が詰込まれ過ぎである――と言ふよりも、一般の閲覽者にとつて要らない機能が必要な記述と入交じつてゐる。その「要らない機能」を、サイト制作者が「要らないものだ」と認識してゐない事に問題がある。
掲示板でも良くある「管理用」なんてアンカーは、サイト管理者以外、要らないものだ。だが、さう云ふ物は、サイト管理者・制作者も「一般の人には要らないもの」と認識出來る。其れはまだ良い。
「恒久的なURL」「トラックバックを送る」なんてアンカーは、「Blog」を持つてゐない「見てるだけ」の閲覽者には全く要らないものだ。だが、それがサイト制作者に解らない。「マウスの右ボタンでクリックすればURLを取れて、リンクを張るのに便利でしょ?」と言つたりする。リンクを張らない「見てるだけ」の閲覽者に、そんなアンカーの何が役に立つのだらうか。時々、見出しに見出し自身へのアンカーが設定されてゐる事がある。「見てるだけ」の閲覽者にとつて、それが何ら役に立たないばかりでなく、クリックしても「何も起きない」と云ふ事で混亂を招く事も考へられる。
カテゴリで記事を分類して表示する機能が、一般の閲覽者にとつて使ひ易いやうに實裝された「Blog」ツールは存在しない。デフォルトで、カテゴリによつて分類した記事の一覽を表示する、と云ふ「Blog」ツールは存在しない。何んなカテゴリがあるのかが、一般の閲覽者は直ぐには解らない。時として、意味のないカテゴリを設定して面白がつてゐる獨り善がりのサイト制作者もゐるが其れは論外。
平成十七年一月十日
「Wiki」で作られてゐるコンテンツで、閲覽者の數よりも制作者の數の方が多いものは、結構「ある」のではないか。
平成十七年一月十日
「ネットワーク」と云ふ用語が極めて解り難い。「インターネット」「イントラネット」と、「ソーシャルネットワーキング」とが、平行して用ゐられてゐる事に、我々は疑問を感じて良いのではないか。
TokiMeki Networkの沢渡さん(@ 「」疑惑)が掲示板でmixiをクネクネコミュニケーションツールと呼んでをられていろいろ吹いた。ええと、沢渡さんも「Blog」ですか。世間の例を見てゐると、「ウェブ日記」が「ブログ」になると、例外ナシに詰らなくなるのですが?
平成十七年一月十日
おけまして の検索結果 約 7,420 件中 1 - 10 件目 (0.22 秒)
あめでとうございます の検索結果 約 4,220 件中 1 - 10 件目 (0.16 秒)
平成十七年一月十日
ローゼンメイデンの單行本、そんなに珍しいのかなー?
高田馬場の芳林堂にも、橋本の福家書店にも、いつぱいあつた。
平成十七年一月十日
正と反の觀念を昇華して合の觀念へと持込む辨證法を用ゐたマルクス主義が陷つた過ちの一つ。宗教を、單純に「民衆の阿片」と定義した事。さう云ふ結論を出す事を私は必ずしも禁じようと思はないが、しかし、さう云ふ結論を下される以前の宗教自體の持つ相反した二つの性質は、省みられるべきであつた。其れを怠つたがゆゑにマルクス主義が、結果としてドグマに陷り、事實上の新興宗教と化した事は否めない。ただ、現在の共産黨が宗教團體に分類されず政黨に分類されるのは、共産主義が個人を、直接的に救濟するのでなく、民衆一般を救濟した結果として間接的に救濟する政治主義的な方法を主張してゐるからに過ぎない。

平成十七年一月九日
馬ウマ
極めて惡質なSPAMerのサイト。
勝手に人のアドレスを登録し、わざわざ退會メールを送つてやつたのにしつこくメールマガジンを送り附けて來る。
ウェブサイトを見たい讀者は、ActiveXで何か變な事をやつてゐるので、Internet Explorerのユーザならばセキュリティを「高」にしてから見る事。
平成十七年一月九日
鷹澤遊戯場 過去日記【2005/1/9:ギャラリーフェイク 第1話】
仕事速いな。
平成十七年一月九日
英語タイトルは正しいのに邦題がなぜか和製英語のファンタジックチルドレン。實はなぜか未だに録畫し續けてゐるのだが、面白いんだらうか。
平成十七年一月九日
土曜日深夜。tvkあにめ、今期は不作の模樣。ギャラリーフェイクもあんまり面白くないし。グレネーダーの地上波オリジナルOp、或意味ねたばれ。
キッズステーションのニニンがシノブ伝を觀るしか。
平成十七年一月九日
ピーチガール、慥かに面白いな。ときたひろこ。
ただ、うざい女がうざい。なぜ斯う云ふキャラを作る。
平成十七年一月九日
マシュマロ通信とスクールランブルの新春スペシャルの冒頭、坊主が2人で云々と言つてゐたけれども。
昔、たけしのここだけの話で細川隆一郎が「坊主」が何うの斯うのと發言したら、あとで「不適切な發言がありました」なんて事になつてゐたのだけれども。
平成十七年一月九日
今期は舞-HiME一人勝ち確定だな。
平成十七年一月九日
tvkをTVKと書き間違へてゐたので訂正。
平成十七年一月九日
新憲法の制定は不要。憲法改正はしないで良い。ただ、「日本國憲法」を占領下に定められた無效な憲法として廢棄し、明治憲法が今でも有效である事を確認すれば良い。
現行憲法は前文が致命的に駄目。憲法を改正しても前文は殘せ、等と言つてゐる人間は頭が惡過ぎる。
平成十七年一月九日
俺の新聞の讀み方。うちは讀賣新聞。御終ひのぺーじのテレビ欄から社會面、地方欄、デジタルテレビとラジオの欄、スポーツ面、經濟面、時間に餘裕があつたら其れより前のページも見る。
もちろん、社説なんて物は絶對に讀まない。あれは讀む價値が無いものである。あんなものを一生懸命讀むのは、暇な御爺ちやんか、讀めと言はれて素直に讀む小學生だけだ。あと、大學を受験する子の中の一部。
實は、社説くらゐ讀まれない新聞の文章もない。さう云ふ訣で、新聞の社説を採上げて論評する試みくらゐ、無意味なものもない。
そもそも、新聞自體、今の若い子は讀まないらしい。讀まなくて良いと思ふ。
平成十七年一月九日
切込隊長BLOG(ブログ) 〜俺様キングダム: 大量の資金調達を必要とするコンテンツ業界の今後
最近の廣告は、「御金儲け」の意識が露骨過ぎるとか、昔に比べて商品に天然の愛敬があるものが少いとか、さう云ふ事が書かれてゐない氣がする。今は何でも「賣らんかな」だし、賣り方にも方法論が確立されてしまつてゐて――要は、賣り物にも廣告にも人間味が無くなつてゐる。態とらしさ許りが強調されてしまつてゐる。これでは駄目だよ。
あと、「物が賣れない」事については、「不況」「景気が惡い」が一番適切な解説だつたりする。實は何も解説になつてゐないのだけれども、氛圍氣は傳はる。
それから、今は「權利」「權利」と煩過ぎ。しかしこれも、結局、元の權利者と、他人に權利があるものを二次利用したい人とが、御金をめぐつて爭つてゐるに過ぎないのであり、「御金儲け」の臭ひがぷんぷんするので嫌がられる原因となる。
購買者は、實は巧く欺されたいんだよ。正直に「御金儲けしたいから賣る」なんて言はれても嫌なんだよ。最近は皆、正直な事を言ひ過ぎる。

平成十七年一月八日
2004年アニメ適当まとめ
平成十七年一月八日
自由主義者が自由を命令するのは矛盾である。
平等主義者が平等を命令するのは矛盾である。
平成十七年一月八日
たしかアスキーダッシュで、「堅い文章語」の意味で「文語」、「會話の碎けた口調」の意味で「口語」と言つてゐる記事があつた。
平成十七年一月八日
http://d.hatena.ne.jp/with_snow/20041217#1103300199
人爲的な改變であつた國語國字改革を知らないで、文化もまた変貌するものである。と言つてしまつてゐる人。無知は恐いとしか言ひやうがないが、かう云ふ無知な人が多いのである。そして、無知が一般的であるからと言つて、誤つた事實認識が事實に轉訛してしまつては困る。
正字正かなであつた日本語の表記が略字略かなに變つたのは、變化ではなく、政策と云ふ人爲的な變更に據るものです。
平成十七年一月八日
さがさないでください。: 「ことば」を書きつける方法(漢字やかなづかひの形式)についての私的見解、ふたたび。
本當はあの改革がおこなはれず、傳統的な「ことば」の流れが斷ちきられずに脈々と續いてゐるなかで、市井のステロタイプなひととして「ことば」の記述のやりかたなんかには興味をもたず、何の氣なしに文字を簡略化したり誤當したり文法を無視して話しことばをそのまま書いたりできてゐたら、こんなには不自由を感じなかつたのではないかとおもふ。
同意。
平成十七年一月八日
日の丸・君が代を拒否すれば、それで愛國心が高まつたり、或は、「自主性」を持つた人間が養成されたりするのか、と云ふ問題。
愛國心にしても「自主性」にしても、意志が問題なのではないか。ならば、機械的な「天皇陛下萬歳」も「日の丸・君が代反對」も、意味がないのではないか。
日本人は、天皇が命令を下すと、唯々諾々として從つた――だからと言つて、かかる自主性のない日本人は、天皇と云ふ命令を下す人間が消滅すれば、唯々諾々として命令に從ふ性向を失ふものであるか。
教育の強制が人間性を破壞するとして、ゆとり教育が叫ばれ、實施された。そして、失敗に終つた。今また、天皇が「自主性」を喪失せしめるとして、天皇制廢止が叫ばれてゐる。だが、それが實現しても、もちろん、「失敗」するだらう。
抑壓無くして反抗心の養成は不可能である。反抗すべき對象を消失した人間が、反抗心を養成する事は不可能である。他人に據る抑制がなくなつた時、人間は自制心をも失ふ。その時、顯れるのは、反抗の精神ではなく、單なる放縱の精神である。
「困難を解消する事で矛盾を解消する」と云ふ方法は、困難の囘避に過ぎず、矛盾の克服とならない。
主体性の問題
日の丸・君が代の特殊性
平成十七年一月八日
ニーチェはツァラトストラをして語らせしめた。

なんぢは自己を自由だと言ふ。だが、われが聽きたいと思つてゐるのは、なんぢの支配的な思想なのだ。なんぢが軛から脱れた、といふことではない。

なんぢは果して、軛から脱れることを許されうる者であるのか? 彼の服從と放恣を擲つと同時に、彼の最後の價値をも擲ち去つた――、かかる人間の數、まことに尠しとせぬのである。

何から自由である、といふのか? ツァラトストラはかかる事には、何の關心をも寄せぬ! ただ、なんぢの瞳に明るく告げて欲しい、――何の爲に自由であるか、を。

なんぢはなんぢ自身になんぢの善と惡とを與へうるか? また、なんぢの意思を、律法の如くになんぢの上に掲げうるか? なんぢはなんぢ自身の裁判官たりうるか? みづからの律法の復讐者たりうるか?

自己の裁判官及び自己の律法の復讐者とのみ、共に生きてあるは、おそるべき事だ。かかる場合には、荒涼たる空間の中に、また氷の如き孤獨の氣息の中に、一つの星が投出される。

なんぢ孤りなるものよ、今日は、なんぢなほ多數者のために苦しんでゐる。今日は、なほ勇氣と希望とを持つてゐる。

しかはあれど、いつの日か、孤獨はなんぢを披露せしむるであらう。いつの日か、なんぢの矜持は跼まるであらう。なんぢの勇氣は難破するであらう。いつの日か、なんぢは叫ぶであらう、――「自分は寂しい!」と。

ニーチェの思想は、超人思想であり、無謀な思想である。が、ニーチェが提示してゐる問題は、現代人にとつて、受止めて、きちんと囘答する必要があるもの許りである。ニーチェは、無謀である超人と云ふ存在を禮讚してゐる――それゆゑ、私は全面的にはニーチェに賛同し得ない。けれども、さう云ふ超人的な存在たる事を人間に強ひる思想は、現代に於て、案外一般的である。
平成十七年一月八日
反抗は奴隷の思想である。ならば超人の思想は服從であれ。とニーチェはツァラトストラをして語らしめた。
ニーチェの思想は、支離滅裂なところがある。現代思想は、理論的に一貫してゐる事が特徴である。が、ニーチェの思想においては、互ひに矛盾した數々の思想が、全體として生き生きとした生命を持つてゐる。現代思想は――屡々――人間から離れた、單なる論理と化してゐる。
平成十七年一月八日
もつとも、「天皇制が廢止された」ら、それだけで「天皇制反對論者」は「成功した」事になるのである。天皇がゐなくなつた結果が何うなるかは、實は「天皇制反對論者」にとつては何うでも良い事である。彼等にとつての結果は、「天皇がゐなくなる事」である。
彼等が何んなに理窟を捏ねたところで、彼等はただ單にマルクシズムだの何だのが命ずる平等思想の遵守に機械的に應じてゐるに過ぎない。彼等の言ふ「自主性」とは、「自主的にマルクシズムの軍門に降る」「自主的に平等思想の支配下に入る」事をしか意味しない。
「天皇制」による「自主性喪失」から、「マルクス主義」「平等主義」による「自主性喪失」に移るのであるから、結局「自主性」なんてスローガンはスローガンに過ぎないのである。
或は、かう云ふ意味のない、ただ印象が良いだけのスローガンを掲げるから、私は左翼が嫌ひである。
平成十七年一月八日
小學一年生に、「一足す一は二」と云ふ算數の基礎を受容れるか受容れないか、と、自由な選擇を求めた教師は存在しない。
實際には、かかる「自由な選擇」が不可能な事柄に關しては、早くから教育する必要はない。
初等教育は、あゝだ斯うだと意見を言へて、議論になりさうな事柄を、問答無用で幼兒に詰込む爲にある。
平成十七年一月八日
Days of SpeakEasy: お天道様に顔向けできねぇ
ロックフェラー財團の招聘で、福田恆存氏と松原正氏がヨーロッパからアメリカを旅行した時の事。
福田氏と松原氏がホテルで絶對者のありやなしやについて論爭して、日本に絶對者の觀念はない、とする松原氏に反論して福田氏、いや、日本には天の觀念がある。
しかし、その時の表情は、福田氏が物を言ふ時のものとしては最も自信なさげなものであつた、と松原氏が國語問題協議會の講演で報告されてゐる。
平成十七年一月八日
昨日か一昨日のNHKの夕方のニュースで、社民黨の福島さんが「憲法改正には飽くまで反對」云々と挨拶した事を報じてゐた。
現代に於ては少數意見である程、意見の量にしては過大なレヴェルで報道される。それがバランスの取れた政治に繋がれば結構だが、大概の場合、バランスが崩れた偏つた意見がごり押しで通ると云ふ結果になるだけだ。

平成十七年一月七日
AIR終つた。もちろんげーむを知らない俺なので、素でまつさらの状態で觀たのだが、面白かつたよ。げーむを知つてゐて觀ると面白さを増すと云ふ類ひのものか何うかは解らない。
と言ふか、事前に漫畫とかげーむとかを樂しんでゐて、或日突然てれびあにめ化してびつくり、と云ふ經驗を、俺は殆どした事がない。例外はただ一度、真柴ひろみのBelieveがTVドラマ化された時だけ。ただ、あれは原作が真柴ひろみの作品の中でも今一つ駄目な方だつたし、ドラマも慥か四話やつたうち最初の二話を録畫し損ね、當然、見損ねてゐるから、正當な評價ではないかも知らんが、とにかくセンチメンタルに流れて駄目などらま化だつたので結構がつかりした。が、さう云ふ出來のものだし、二度とオンエアされる事はあるまいと思はれるので、録畫し損ねたのは返す返すも殘念。
駄目あにめとか駄目どらまとか、とにかく世間的に評價されない作品は、それゆゑに世間から早々に忘れさられ、あとで何とかして觀たいと思つても觀る事が出來なくなる。それゆゑ私は、詰らんあにめでもいろいろな方法で録畫し、保存する。
ところでAIRの合間に流れたローゼンメイデンのCM、相變らず非道く印象が強いのだが。再放送して呉れないかなーBS-i。ええと今夜も何だかへろへろでアレなのだが、眠いので推敲しない。寢ます。取敢ずらいむいろとああっ女神さまっはRDに任せる。がんばれRD。MXでは東鳩やつてるし。何を今更なものばつかり。
平成十七年一月七日
寢ようと思つたら舞-HiMEが始まつてしまつたよ。寢られない。前囘の分、録畫したまゝ、まだ觀てゐないのだけれども。
なんか凄い事になつてゐるし。燃える。
平成十七年一月七日
女神さまっに突入。寢させろ。
平成十七年一月七日
女神さまっリアルタイム視聽やめ。舞-HiME前囘分補完。女神さまっはRDに録畫させてあるので問題ない。
平成十七年一月七日
aozora blog: 著作権保護期間延長反対ロゴ
「著作権保護期間延長反対ゴロ」に見えた。
平成十七年一月七日
新世紀エヴァンゲリオンがのちのあにめに與へた影響は大きかつたと言はれてゐるが、根本的なところでエヴァ以後のアニメーションはエヴァから教訓を學んでゐないのではないか。
と言ふのは、エヴァはTV版最終囘の「學園エヴァ」でSF否定を行つてゐるからである。エヴァ本篇よりも劇中劇の「學園エヴァ」を觀たいと願つた視聽者は少くない筈だ。實際、庵野氏自身、SF・ファンタジイに強い思ひ入れがある訣ではない。
しかし、さう云ふ側面からエヴァが語られる事は意外に少い。そして、エヴァの影響を受けたとされるあにめ作品は、全て設定厨的SF或はミステリアスなファンタジイであつた。「SF否定」「ファンタジイ否定」と云ふ意味で、エヴァの殘した影響は皆無であつたとすら言へる。
舞-HiMEなんかを觀てゐても、アクションシーンやミステリアスな設定によつて一生懸命興味を繋いでゐる努力はわかる(し、それはそれで樂しめる)一方、樂しさうな普通の「學園生活」をキャラクタ達にさせてやれよ、と言ふか、そつちの方が或意味ファンタジイ話よりも面白いんでないの? とつつこみを入れたくなる事がある。
わかつきめぐみの『ぱすてると〜ん通信』とか『月は東に日は西に』とかの御話をアニメ化したらそれはそれで面白いのではないかとすら思つたりする。のだが、わかつきめぐみは、『So What?』で星雲賞を受賞してゐるし、ファンタスティックな御話、或はガチのSFを描いてゐる漫畫家である。そして、そつちの御話はまた、やつぱり、何でSFにするのよ? と言ひたくなるやうなものが結構あつたりする。星雲賞の『So What?』ですら、味はひはSF的と必ずしも言へないものだつたりする。神樣の御話は見てゐられないものがある。
ええと、昨夜、眠い時に思ひ附いた話なので、落ちがありません。あー、あにめ「月は東に日は西に」がわかつきめぐみ原作でなかつたのに怒り狂った人間は少くない筈だ。制作者は腹を切つて以下略。唯一神でぐぐると何か非常に適切なところが一番上に出て來るし。
平成十七年一月七日
東京古書會館の古書展。
小西甚一『日本文藝の詩学 分析批評の試みとして』(みすず書房)、九鬼周三『文藝論』(岩波書店)、世界文學全集4『ドン・キホーテ』(新潮社)、西谷啓治『神と絶對無』(創文社)。小西氏は、精密な讀みを通して文藝作品の與へる感動の本質に迫るべき事を主張してゐる。批評の基礎は、大學の文學部の基礎教養で教へられるべきである。だが、大學では案外、斯うした「技術としての批評」の方法が教へられてゐない。
平成十七年一月七日
らいむいろ流奇譚で、ノートに書かれた「恋教へて下さい」が新字體だつた。糞決定。
それにしてもあかほりは、なぜ安つぽくて淺薄で馬鹿馬鹿しい紋切型の表現を好みますか。
脚本家は、緩急を附けてゐる積りかも知れないが、寧ろ全篇平板で單調である。登場人物の間の對話が皆無であるのは致命的。全ての登場人物が單獨で動き、一人で完結してゐるので、人物と人物との間に緊張が無い。
平成十七年一月七日
丸まらないだんご蟲。動かないだんご蟲。

平成十七年一月六日
シェイクスピアの『ハムレット』は、矛盾を含んだ複雜な性格を持つ主人公・ハムレットの存在により永遠の生命を持つ。モリエールの『ドン・ジュアン』は、構成の混亂、やつつけ仕事としての不完全と云ふ作品全體の性格を明確に示しながらも、その主人公の多面的で複雜極まる性格によつて、永らく議論の對象となつてきた。
簡單に極附ける事の出來ない人物を描く事は、作家――小説家・戲曲家――にとつて、名譽である。そして、極めて單純な設定を與へられた薄つぺらな人物を、屡々我々は「漫畫的」と表現する。事實として、單純明快な人物が、漫畫には多い。そして、あにめにおいても同じ事が言へるのである。
が、だからと言つて、さう云ふ單純な性格を、何時いかなる場合にも、あにめの主人公が持つとは限らない。典型的には、岩倉玲音が、多面性を漫畫性と漫畫的に折合を附けてあにめ作品に登場したが、必ずしも漫畫ちっくな表現を漫畫は要請しない。
腹黒、非常識、鐵面皮、性惡――斯る嫌な性格を持つ女性が、同時に、純心、誠心誠意、本氣と云つた好ましい性格をも身につけてゐる事は、漫畫的には矛盾であるが、眞實から懸離れてゐるとは決して言へない。さう云ふ訣で、益田西守歌が、矛盾した性格を同時に體現してゐて、何ら問題ないのであり、それ許りでなく――と言ふより、それゆゑに、私は2004年最高のあにめはΦなる・あぷろーちである、と斷言するのであるが、同意して呉れる人は世間にあんまりゐない事と思ふ。
しかし諸君、前の週までDearS→シノブ伝と云ふ愉快なひとときを提供して呉れてゐたtvk週末のあにめアワーが、うたかた→神無月の巫女→w-wishと云ふぬる鬱あにめあわーに化けてしまつて、愕然としてゐるところに、無茶な始まり方をしたΦなる・あぷろーちは、視聽者(俺)にとつて干天の慈雨にも等しいありがたいものであつた、と云ふ事は、指摘しておいて良い事實である。ギリシャ時代、悲劇が演じられた時、必ず締括りとして、狂喜亂舞のサテュロス劇が附された。太陽の死としての冬、その再生としての春を、祭禮であつたギリシャ古典時代の演劇は、象徴してゐた。そのサテュロス劇と同樣の、再生の喜びを、鬱あにめを一時間十五分も見續けて來た視聽者はΦなる・あぷろーち第一話に感じたのである。かかる效果は、作品そのものの價値とは異るものであるとも言へるが、或作品評價の文脈的理解には役立つものであらう。しかし、狙つてこんな編成にしたならば、tvkは神。多分違ふ。
とは言へ、少くとも、土曜日深夜のあにめを、このΦなるの爲に、切れなくなつた事は、俺に關しては本當の話である。あゝ、西守歌もえだ惡いかバッカ野郎。ええと俺は何を書いてゐるのでせうか。眠い。
平成十七年一月六日
あゝねぎま!が普通におもしろいよ。宮崎なぎさ。
平成十七年一月六日
電車男には中の人がゐるのか。
平成十七年一月六日
http://www.hyuki.com/diary/200501#i20050105223341
なんか今夜はこちらも頭がまはつてゐないので、えいえんはあるよ……とか適當なコメントを附けて寢る。と言ふか、元ネタ知らないんだが。
「えいえんはあるよ」でぐぐるとうちが一番上に來るのは何とかして下さい。
平成十七年一月六日
さて、茲數日の文章から、讀者はキルケゴールの名を想起せねばなるまい。取敢ず俺は、想起した。そこで本日はキルケゴールの御話である。
キルケゴールは、死に至る病とは絶望の事であると述べてゐる。有名な『死に至る病』の見出しである。キルケゴールは、自分が絶望の状態にある事を知らないでゐる絶望、そして、自分が絶望の状態にある事を知つてゐる絶望について論ずる。どこぞの日記とは違つて、キルケゴールは論理的に書いてゐる。それは徹底したものだが、御蔭で俺は未だに『死に至る病』を通讀するに到つてゐない。
飜つて、日本人の態度を考へてみよう。日本人における「辨證法」の典型は、阿波踊りである。踊る阿呆見る阿呆とが存在する事が阿波踊りの歌詞では指摘されてゐる。だが、その結論は何うだらう――同じ阿呆なら踊らにや損々。我が日本人の辨證法は、結局のところ損得勘定である。
彼我の違ひを痛い程感じさせられる。あと、今、あんまり面白くない事を書いてゐる俺も相當イタいのではないかと感じられる。世間の人は、冗談と云ふ言葉を知りませんか。
平成十七年一月六日
元駐日大使のライシャワーが、近代化の概念はアメリカでは學問の對象とするには詰らないものとされてゐるが、殊日本では事情が違ふ、日本に於て近代化の概念は大變重要なものであり、日本に於て近代化の概念が問題にされた事自體が問題であり、そもそも日本の近代化そのものが大きな意味を持つてゐる、と『日本近代の新しい見方』(講談社現代新書56)のはしがきで指摘してゐる。で、例によつて、この本の頭の十ページくらゐしか讀んでゐないので、内容に關する委しい議論はしない。
平成十七年一月六日
世間には、「日本」と云ふ範疇で物事を語るのを何とかして阻止しようと努力してゐる人がゐて、さう云ふ物の論じ方をする人間がゐると、その人間の事を如何にも愚かしい輩であるやうに見下して見せる事がある。その時、その人は、屡々「この愚かしい人間は、未だに國家の觀點から論じてゐる」と言ふ。未だに國家の觀念にとらはれてゐる古い人間である、と言ひたげである。しかし、さう云ふ非難は何うかしてゐると思ふ。
日本は、文明、文化、民族、言語、宗教、地理的範圍、行政範圍がほぼ一致する世界でも珍しい地域であり、國であり、文明圈である。さう云ふ特殊事情の存在する日本について論ずる時、單純に國家の觀點から批判を加へる事は不可能である。だから、「日本は」と言つた時、單純に「日本國家は」と言つてゐるとは言へないし、國境線を重視した「國家主義」の觀點から語つてゐるとも言へない。
「日本は」「日本人は」と言つて日本の特殊事情を語る人を、單純に「日本の國家は」「日本の國民は」と言つてゐるものと看做し、嘲笑するのは、却つて嘲笑する人の方が「アンチ」の意味で國家なる觀點にとらはれてゐると言ふ事が出來る。
平成十七年一月六日
カレー。とっぴんぐにチーズ。おまけにコロッケ。
C&Cの店員に顏を覺えられてゐる模樣。
平成十七年一月六日
神保町の古書モール@三省堂アネックス第二ビル五階は、平日、暇潰しをするには良い場所だ。人が少いし本が澤山ある。
買ふべき本はあんまりない。
平成十七年一月六日
スマトラ沖の地震災害の件。これが政治の問題に過ぎないならば、御金で解決出來る。と云ふ訣で日本政府も御金を出す模樣。もちろん、政治で解決し得ない問題も附隨して必然的に發生してゐるが、さう云ふ事にまで私は本氣になる事が出來ません。
平成十七年一月六日
日記。の2004年01月05日の邊に「日記の振り分け」なる項目が。
當方は、ここ(何處)のdiary.htmlをyyyymmxx.html(xxは01からの番號)としてiswebのdiaryディレクトリにコピーし、バックナンバのmetaを書換へるだけなので手間が全然違ふ。と言ふか、本當はtitleとh1を書換へるべきなんだらうなー。SEO的にアレなのだらうけれども今更めどいです。
正確に言ふと、秀丸でdiary.htmlを開いて別名保存でisweb\diary/に保存し、FTP、ついでにindex.htmlとバックナンバを書換へ、その後、diary.htmlを改めて開いてエントリを削除、云々。
ちなみに、なぜ毎日下から上に繰り上がつて行つて、その日の中では上から下へ、なのかと言ふと、讀む人は上から讀むだらうと。で、バックナンバなんて讀む人はゐないだらうとの前提の下、適當にコピーしただけで誤魔化してゐるのだけれども、讀んで呉れる人がたまにゐる。ありがたい話ですが、舊惡を今更のやうに見せ附けられる事があつて、時々心が痛いです。誰か補完して下さい。ええと、私は自分の文章なんて滅多に讀返しません。推敲もあんまりしません。まともにやつてゐたら、何も公開出來ません。大昔に書いて、一度公開して、その後ひつこめた某小説を書直さうと思ひ立つて、書直し始めたのですが、挫折しました。よつぽどアレな記述だけ何とかして、そのまゝ再公開します。そのうち。昔の文章は、眞面目に直さうとしてはいけません。適當にやらないと、全文削除しか途がなくなります。
平成十七年一月六日
にじうら分裂してるし。img鯖とdat鯖。imgの方が虹裏で、datの方が二次裏らしい。
どつちにもJ-COMから書込めない。

平成十七年一月五日
虹裏に書込めないので寢ます。
平成十七年一月五日
また、某讀者さんにうちのサイトの蟲取りをして戴いたので、ここで感謝の言葉を述べます。どうもありがたうございます。
平成十七年一月五日
「國家から自由になるべきだ」と主張する人がゐる。さて、では、「國家から自由になる」とは何う云ふ事か、考へてみたい。
「國家から自由になるべきだ」と主張する人は屡々、「國家に從はない」事が「國家から自由である」人間の義務であると考へる。中には、「國家のする事に反對する事」が「國家から自由である」人間の義務であると考へる人もゐる。だが、茲で「義務」と云ふ言葉が出て來るのに氣を附けたい。「〜しなければならない」と云ふ命令が出現する――これは、果して本當に自由な事なのであらうか。
「國家から自由になるべきである」と「國家には反抗すべきである」とを、イコールで結び附ける人がゐる。しかし、「べき」論は、果して自由の主張と言へるのであらうか。
「國家の言ふ事には常に反抗しなければならない」と言ふから、話がをかしくなるのである。「國家」の何等かのアクションに對して「常に」反動的な態度をとる、と言ふのであれば、それは自己の態度の原理に「國家」が存在する事を意味する。結局、國家から自由になり切れてゐないのである――それ許りでなく、寧ろ、國家に逆に束縛されてゐる、とすら言ふ事が出來るだらう。「正」の態度と「反」の態度とは、單純な對立の概念で理解されるべきではなく、辨證法的に昇華されて理解されねばならない。
眞に自由な精神は、「國家の言ふ事に、時として從つても良いし、時として從はなくても良い」のである。國家に從ふか從はないかを判斷する時、「國家」なる觀點から離れた立場から判斷するのであるならば、それは自由な判斷である。ただ單に、國家がAなる事を言ふから、自分は自動的・機械的に非Aなる事を言ふ、と考へるならば、その人は、辨證法的に、國家に支配されてゐる、と言ふ事が出來る。

平成十七年一月四日
左翼の人は屡々、反對者である右翼を輕蔑し、天皇を侮辱して見せる。ならば彼らは、他人を輕蔑し、他人を侮辱する事は良い事だと信じてゐる筈である。
平和主義を唱へる左翼が、他人との爭ひを惹起するやうな考へ方を持つてゐる、と云ふのは、矛盾であると思ふが如何。
「進歩的な思想を信じない人間は人間でない」「右翼は彈壓すべきである」と左翼が主張するならば、左翼は選民思想を持つてゐる事になるのであるが、實は左翼はイデオロギーと生き方とに矛盾を孕んでゐるのである。左翼は、自分と異る思想の持主を憎惡する事が、許されるのか、許されないのか――その邊を曖昧にしてゐる左翼が極めて多い。しかし、平和主義を標榜するのならば、他人を馬鹿にして爭ひを起さうとするのは間違つてゐるだらう。その間違つた事を左翼は屡々平氣でやる。
「右翼だつて自分と異る思想の持主を憎惡する事があるだらう」と云ふ言ひ方で話を逸らさうとする姑息な左翼が餘りにも多過ぎる。左翼の定義するところの右翼は、排他主義であり、日本を「神國」と考へる選民思想の集團である筈である。さう云ふ右翼が「自分と異る思想の持主を憎惡する」としたら、それはそれで、論理的には矛盾してはゐない。右翼と云ふ文脈において、右翼の思想と生き方とは一貫してゐる。左翼ではそれが一貫してゐない――それが問題なのである。
平成十七年一月四日
私は、右翼の思想と生き方とは一貫してゐると言つてゐる。また、左翼の思想と生き方とは屡々一致しないと指摘してゐる。これは、それぞれ、右翼の「文脈」、左翼の「文脈」における論理的な一貫性を問題にした言ひ方である。
で、斯う書くと、私の事を右翼呼ばはりする人が出て來るので申し上げておくと、單純な排外思想は受容れられないから、私は單純に右翼を支持する事が出來ない。
排外思想の右翼と、拜外思想の左翼とは、どちらも支持出來ません。
平成十七年一月四日
平和主義者ならば、他人と爭はうとすべきでない。平和主義者が民主主義者であるならば、民主主義的な手段で、平和を實現しようとすべきである。民主主義的平和主義者ならば、反對者を侮辱したり嘲笑したりすべきでない。これらの事は、論理的に自明であると考へられる。しかし、論理的に自明の事を、日本の平和主義者は全然守つてゐない。ならば、日本の平和主義者は、平和主義者でないか、民主主義者でないか、のどちらか、或はその兩方である。
平成十七年一月四日
「人間は自由であるべきである」「人間にとつて抑壓は一切許されない事である」とする某氏がゐたけれども、果して人間は完全な自由に耐へられるのか。「人間は、完全に自由であるならば、完全に抑壓はない筈である」。しかし、その抑壓とは何で、自由とは何であるか。
「人が、ありとある物から自由である――それは、人が、一切の束縛から逃れる事である」。
かつてサルトルが小説『嘔吐』で、この世の全ての事象に、必然的な聯關が無い事、全ての關係が偶然的なものである事を自覺してしまつた主人公を描いた事がある。主人公は、言ふまでもなく、完全な自由を自覺した訣である。が、彼は嘔吐感を覺える。完全なる自由に、彼は耐へられなかつた。彼は、偶然的の世界に生きる人間にとつて、必然的な假想の世界を構築する藝術に、慰撫を求める。福田恆存が『西歐作家論』で『嘔吐』を論じてゐるので、興味のある讀者は讀むと良いかと思ふ。
サルトルらの實存主義を經て、西歐では相對主義が展開する事になる。日本は西歐から、實存主義を取入れたが、それを消化し切らないうちに、次の相對主義の思想を取入れてゐる。日本に於ては、實存主義と、相對主義との間に、聯關が無い。
例の某氏もさうだが、今、抑壓を排撃する人は、相對主義の現代的な思想は知つてゐる。しかし、實存主義は知らない――實存主義は通過してゐない。ただ單に、最新の流行に乘つてゐるだけである――或は、かつての流行に乘つて、そのまゝ取殘されてしまつてゐるだけである。そして、日本では「流行」に過ぎない諸々の思想は、思想の本場、西歐に於いては、次々と繼起してゐるものである。日本人は、表面的に、流行を取入れてゐるに過ぎない。單純な「抑壓排撃」は、餘りにも幼稚な考へ方であるのだが、日本では實存主義と言つた瞬間に「古い」と云ふ流行の觀點からする否定の文句が出て來る。
「完全な自由」については、例のエヴァンゲリオン最終囘でも採上げられてゐて、あれが自己啓發セミナーのやり方に着想を得たものであるとの指摘がある。そこで即座に、自己啓發セミナー排撃から「抑壓主義者」排撃に話を持つて行つてしまふ傾向があり、某氏もそれをやつたのだが、私としては開き直り氣味に、さう云ふやり方をするから自己啓發セミナーが却つて繁盛してしまふのだと言ひたい。
現代は、相對主義の時代であり、サルトルの言ふやうに「嘔吐」すべき時代である。そして、現代の相對主義者は、或は日本の相對主義者は、そこで「嘔吐」しない。しかし、だからと言つて、相對主義者のやうに一般の人は必ずしも鈍感ではない。相對主義者は救濟の途を示さない。その時、鈍感でない人は、救濟されないのであつて、そこに自己啓發セミナーが附け込む隙が出來る。
「抑壓」をひたすら排撃する事で「完全な自由」を得ようとする單純明快な「自由絶對主義」の人は、その「完全な自由」の齎らす實存的な恐怖を自覺しない。鈍感なのである。が、彼らは、「完全なる自由」の實現に伴ふ現實的な困難を以て、「完全なる自由」の恐怖を囘避してしまつてゐるのである。其處に彼等の思想的不徹底の原因がある。彼等の惡き「プラグマティズム」が、彼等をして自己の思想の問題を自覺せしめずに濟ませてゐるのである。が、これは自己欺瞞である。そもそも、その種の「プラグマティズム」、或は現實の問題を考慮に入れるのならば、最初から「完全な自由はあり得ない」と云ふ前提に立つたプラグマティズムを採用すべきであり、「理想は完全な自由」等と現實から懸離れた「理想」を聲高に叫ぶべきではない。
で、此處は「言葉 言葉 言葉」と云ふ國語國字問題に關するサイトなので、そちらに話を持つて行つて、落ちにする事も許されるだらう。國字改革において、「表記は發音通りにすべきである」と云ふ表音主義者の主張が通つて、「現代かなづかい」と云ふものが出來た。だが、その「現代かなづかい」は、「理想としての完全な表音化」を標榜しながら、「現實には無理」と云ふ、やはり惡き「プラグマティズム」に據つて、急進性を緩和してゐる。「現代かなづかい」では、助詞の「は」「へ」「を」を、敢て歴史的假名遣のまゝに殘してゐる。が、これもやはり、表音主義者の自己欺瞞である。完全な表音化が無理であり、現實的な對應を取らねばならないのならば、原則としての表音主義は不可能なのである。原則として、從來の歴史的假名遣の原理を採用せざるを得ない。ところが、表音主義者には、さう云ふ道理が理解出來ない。ドグマと論理とが、ごつちやになつてしまつてゐるからである。
平成十七年一月四日
ローゼンメイデン視聴記
杉の木工房 - 『ローゼンメイデン』 鑑賞感想・雑記
毀譽襃貶喧しい問題作である、と適當なコメント。
取敢ず當方でTBS地上波アナログ版を最高畫質で録畫してDVD-R四枚に燒いたのだが、BS-iの放映を――横長正式版であるのに氣附かず――録り損ねたので、AT-Xか何處かでやつて呉れたら録り直す豫定。
ナナメから見てみる:終了 ローゼンメイデン レビュー
やつぱりこれは萌え狂つて觀るのが正しいあにめなんだろーなーとか。
一往、最終囘の水銀燈樣のあれ、第一話に呪ひ人形(と真紅の科白)なる伏線があつたりする訣で、結構良く出來てゐると言へるあにめなのだけれども、今一つ完璧とは言ひ難い。舞臺が限定されてゐて、せせこましい御話になつてゐるのが今一つの印象を與へるのも否めない。云々。
平成十七年一月四日
虹裏でしもんきんが凄い事になつてゐるんだが何だ?

平成十七年一月三日
うつかりカートゥーンネットワークのタイムボカンに見入つてしまつたり。作畫がシリーズで一番良かつたり、SF的なセンスが良かつたり、或意味、新鮮だつたりする。もちろん、子供騙しのシーンも多いけれども、子供騙しの設定が未だに堂々と通用してゐるアニメの世界では、今でもタイムボカンレヴェルの設定や演出は十分通用するし、堂々とやつてゐる分、タイムボカンの方が觀てゐて爽快だとすら言へる。
タイムボカンの初期は、タイムボカン後期以降、或はヤッターマン以降のタイムボカンシリーズとかなり氛圍氣が違ふのだけれども、叮嚀に作つてあつて、觀られる。良く見ると小ネタがあちこちにあつて、結構笑へる。
餘談。ガンダムのコアブロックシステムの源流はガイコッツだ説を提唱してみる。大河原だし。
あと、ボトムズOpに出て來るターレット囘轉を、マージョ一味のメカがやつてゐて、少し驚いた。侮れない。
平成十七年一月三日
思はずプラネテスとサヴァイヴの特集に見入つてしまつたり。
プラネテスは、企業ネタが今更の觀あり。あと、センチメンタルに過ぎる。
サヴァイヴは――SF考證と言ふかSF的なセンスと言ふか、その邊のところが餘りにも古過ぎて、つつこみどころ滿載。
平成十七年一月三日
美鳥の日々は、いろいろなセンスがアレで、小つ恥づかしくて觀てゐられないので、未だに通して觀られてゐない。スクールランブルとかも同樣。
さう考へると、取敢ず最後まで通して觀られた分だけ、うたかたは「俺的」には「増し」な作品だつたと言へるのかも知れない。が、やつぱり駄作だらう。
ちなみに、ムスメットはオトメットに變つた邊で視聽を中斷してゐる。
平成十七年一月三日
アシモフのロボット三原則も、鉄腕アトムも、ハードウェアとソフトウェアとをごつちやにしてゐる。今ではどちらの基本設定も、嘘臭くて、通用しないと思ふのだが。何か世間的には通用してしまつてゐるらしいのだけれども、さうやつて古臭いだけのものに拘つてゐるからSFは衰退してしまつたのではないか。SFは新鮮でなければ駄目なんだよ。
平成十七年一月三日
新年早々逃避モードに移行してゐるけれども、理由は御察し下さい。
と言ふか、必死になつてDVDを燒かないとHDDがいつぱいになる状況なので、御正月は必死になつてDVDを燒いてゐるのだ。
平成十七年一月三日
俺は、「美しい日本語」の觀點から「正字正かなが良い」と言ふのではない、と云ふ立場を取つてゐる。合理的だから正しい、と云ふ立場を取つてゐる。
が、一方で、本質的に合理的であるものは、本質的にスマートに處理出來るものである、と云ふ觀念も持つてゐる。だから、HTMLにしても、出たら目なマーク附けは糞で、ISO-HTMLとか、HTML 4.01 Strictとかは正しい、と思つてゐる。さう云ふ意味では、スマートなもの、美しいものへの志向は俺にも「ある」。
さう云ふスマートさが、國語改革に反對する正字正かな派のおつさん連中に屡々缺けてゐる事には、非常に腹が立つ。「日本語の美」を言ふ連中に、變なノスタルジアだけで物を言つてゐて、本質的な合理性とか、簡潔さとかに縁のない、言はば裝飾過剩の文章を綴つてゐる馬鹿がゐる事にも、俺は相當腹を立ててゐる。
平成十七年一月三日
表音主義者、ローマ字主義者とかカナモジ主義者とかが馬鹿なのは、發音をそのまゝ文字に寫す事が出來ると單純に考へてゐるのと同時に、文字言語が音聲言語に影響を及ぼす事は絶對にあり得ないと考へてゐるからだ。
ローマ字にしてもカナモジにしても、漢字假名交じり文と違つて、讀み辛いから、分かち書きを採用しなければならない。しかし、分かち書きをすれば、當然、「分かち讀み」をする人間が出て來る。「私は戰爭が好きだ」を、「わたしは せんそうが すきだ」とか「Watashi ha sensou ga suki da」とか書くやうになれば、「わたし! わ! せんそう! が! すきだ!」みたいな小學生のやうな讀み方をする「分かち讀み」する人間が出て來るに決つてゐる。しかし、そんなスマートでない、「ダサい」讀み方を、認めてたまるか、と俺は言ひたい。今のやうな漢字假名交じり文ならば、誰でも膠着語の日本語の文章を膠着語としてすらすらと讀む。文字言語と音聲言語とは、相對的に獨立してゐた方が良い。
以上、「表音主義者は例外ナシに馬鹿」と俺が極附ける所以である。
平成十七年一月三日
いや、そんな「分かち讀み」なんてものは發生しない、と云ふ意見もあると思ふ。大體、「分かち書き」なんてものも、そのうちなくなる、なぜなら、漢語を廢止する事になるからだ、と表音主義者は言ふだらう。しかし、それならば、結局のところ、變化の名の下に、表音主義者は日本語の、結果としての破壞を狙つてゐるのである。結果として破壊されるのであつて、積極的に破壞しようとしてゐるのではない、と表音主義者は言逃れするだらう。しかし、破壊されると解つてゐて、さう云ふ方向に進むやう仕向けるのは、積極的に破壞する事と同義である。表音主義者は、どつちみち、傳統的な日本語のスタイルを認められないのである。さう云ふ、己の獨斷に基いて、現實に「ある」ものを無理矢理改變しようとする態度は、俺は受容れられない。獨斷でない、合理的な根據を持つ改良・改善ならば受容れるが、表音主義なる獨斷は受容れられない。表音主義は非合理的なものである。
平成十七年一月三日
「常用漢字」も、「現代仮名遣」も、表音主義的な傾向のものだから、非合理的なもので、俺には受容れる事が出來ない。
平成十七年一月三日
歴史的假名遣が歴史的に存在し、漢字假名交じり文が歴史的に使はれて來た事には、それなりの合理的な理由がある。從來、全く日本語の原理に存在しなかつた表音主義を導入しようとするのは、さう云ふ歴史的事實が存在してきた合理性を故意に無視する事で、寧ろ非合理的な事であると考へる。歴史的假名遣や正漢字は封建的なものだ、と云ふ考へ方をしてゐる人間も未だに存在するが、言語に封建的も民主的もない。寧ろ、未だにさう云ふ考へ方をしてゐる方が、古いのである。
平成十七年一月三日
「自由であれば幸福である」「抑壓さへなければ幸福である」と考へる人間は、サルトルの實存主義も知らない素朴な人である。
『嘔吐』でサルトルは、この世の事象が完全に偶然的であると認識するに至つて嘔吐する人間を描いてゐる。人は、完全に自由であると、氣が狂ふ。
――で、かう云ふ事を書くと、「野嵜は抑壓主義者だ」なるレッテル貼りを始める人がゐる。彼は、單純な二分法でしか物を考へられない素朴な人である。
平成十七年一月三日
私は「抑壓主義者」ではない。そもそも、私は「主義者」ではない。この世には、「主義者」でない人間も「ある」のである。單純に「A主義者」か「非A主義者」かに分類しないで頂きたいものだ。世間には「中庸」とか云つた觀念もあるらしいし。
平成十七年一月三日
「ブス、ぶ男、ブログ」と云ふ文句を思ひ附いた。だから何だと言はれても困る。
平成十七年一月三日
西部邁氏は、保守主義の批評家ではなく、時事問題をその場その場で論じてゐる俗流批評家の一人に過ぎない。

平成十七年一月二日
「サクラ大戦」の神崎すみれ引退の御話を觀たけれども、新聞の假名遣が「現代仮名遣」なので白けた。
平成十七年一月二日
いまだにアムドライバーを切れないで録畫し續けてゐるのだが。無論、一囘もまともに通して觀てゐない。が、一往、全部CMカットはやつた。なんかダグラムみたいな御話になつてゐるみたい。ちなみに、ダグラムも通しては觀てゐない。取敢ず、ANIMAXでの放映は全部録畫した。餘談だが、先日までやつてゐたANIMAXのボトムズは、RDで録畫し直して、DVD-RAMに燒いた。ボトムズ本篇は三囘くらゐは觀てゐる。
平成十七年一月二日
国語国字の根本問題を出してゐる新風書房日本簡体字のすすめなんて本も出してゐるんですね。
平成十七年一月二日
櫻花絢爛ではちやんとしてゐた筈。さすが櫻花さん。違。
平成十七年一月二日
戰前・戰中の軍隊に據る檢閲の場合、伏せ字になるので、何處が何う削除されたのかが判るやうになつてゐた。
戰後直後のG.H.Qも檢閲をやつたけれども、何處を削除したか判らないやう版元や著者に後始末をさせたから、當時の讀者は「檢閲があつた」とは氣附かなかつたさうだ。
どちらの檢閲がより惡質であつたかは、敢て言はない。
さて、現在は、自主規制と云ふものがあるのだが、これは、自分で規制して、その結果を自分で「良い結果だ」と言ふものである。私も今年は自主規制をする事にした。既に幾つかのコンテンツを削除してゐる。自主規制は「とても良い事」らしい。私は良い事をしたらしいのである。

平成十七年一月一日
あけましておめでたうございます。今年もよろしく御願ひいたします。
平成十七年一月一日
年が改まつた氣がしない。
某サイトのHTML文書を弄つてゐる間に年が明けた。
平成十七年一月一日
琉球の風 ノート
平成十七年一月一日
真紅の豫言が當つてゐるし。

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2004年12月
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