……もう一つ、日本製の略字が輸出されて、簡化字になったケースがある。
文化庁派遣の「文字改革等調査団」。中国滞在中に、某日、中国の文字改革委員会のスタッフと歓談した。その折に中国側からこんな話が持ち出された。
中国で、旧字(繁体字という)の「國」の略字は「〓(くにがまへに王)」とする慣習が以前からあった。だから「〓(くにがまへに王)」をそのまま簡化字に……は無理のないところだろう。が、どっこい、この字ばかりは<どうも気にくわん>と待ったがかかった。共産主義革命を達成した(二十四年)国なのに「くに」の真ん中に「王」がスマして座っているという字ではおかしいではないか、と異論が出た。<ほかに”いい字”はないか><日本の当用漢字、アレの「くに」にはてん(点)がついている。それにしよう>で、輸入が決ったのだそうだ。
わが国が当用漢字の字体を決定したのは二十四年である。中国の革命達成の年との付合は偶然だが、民主政体の世で<「くに」の中心が「王」では具合が悪い>とする発想が、当時の国語審議会にもあったのだろうか。
同調査団団長、林さん(字体表制定当時の国語審議会幹事)の話。
「そんな意見の委員もいた。が、それだけじゃない。点がついたのは、主としてデザイン上の問題だった。『王』では、四角の中をさらに細かく仕切るようで、見た目にきれいじゃない。そこでホクロをつけたんですよ」。
文中、しばしば「住居表示」という言葉が出てきますので、簡單に触れておきます。昭和三十七年に、「住居表示に関する法律」が施行されました。従来は、住所を示すのに土地に付された地番を流用していたのですが、市街地の街区ごとに順番に各戸に番号をつけることになったのです。これだけなら問題はなかったのでしょうが、町域の再編成や町名の改変をも伴うものだったため、住民の反対運動が各地で起こりました。
愛着ある地名を存続させたいという住民の声を背景に、昭和四十二年に法律の一部改正、同六十年には再改正が行われ、町域の合理化を最小限にとどめ、伝統的地名を継承するという原則が確認されました。しかし、すでに東京でも大幅な町域、町名の再編成が実施されたあとでした。
この本の中にも、過去とのつながりを無視された悲劇の主人公が少なからず登場するのは、そういうわけなのです。
歴史は断絶するし、いいことないですよ。幸い、町の大多数の人が支持してくれましたから。でも、我善坊町とか古い町名もつぎつぎ消えて行ったし、勝ったとはいえないと思う……。
_ [Accessibility]PDFのアクセシビリティ
腐女子か族のセンスだななんて言つてゐる。
で、Thunderbirdにしようと思ったら、mbox形式のデータのインポートをサポートしてないといううんけぶりにあきれて、アンインスコ決定。
第三回風華祭 結果発表!!
糞真面目な顔して「霊剣荒鷹」て。
飽くまでも “日本国の憲法” ですから、日本国民でなければ権利に制限が出るのは当然。日本で生きるなら帰化した方がよい。でも、なんで在日の人たちは帰化しないのだらう。それなら朝鮮半島に帰ればいいのに。
世間では文体に影響を受けるので小説を執筆中には他の作品は読まないという人もいるが、云々。
常用漢字、情報化時代で抜本見直し…文化審が報告書案。
ところで同時間帯に「葵の暴れん坊」なんて番組もやつてたのを知つてる人居るかね?
ちなみに私が読んだことのあるレムの作品は『ソラリスの陽のもとに』『金星応答なし』『宇宙創世記ロボットの旅』『砂漠の惑星』『捜査』『泰平ヨンの航星日記』『完全な真空』だけなのだった。
Support DivX, Xvid, Mpeg4, Mov, AVI, WMV video format and much moreとあるが、WMVのコンヴァートは出來ないやうだ。
リンク集をCGI管理させやうと思ひ、スクリプトの構想を練つてをリます。さあ、完成するのはいつの話かしら。
公正・中立の問題はともかくとして、専用メディアなら “政党機関紙” があるぢやないか。
正字正かなというのはルールなので、
ルール化はむずかしいだろう。と云ふ後の言ひ方から考へると、この「ルール」は「規約」の意味で使はれてゐる。私は、正字正かなの表記は、人爲的に決めた規則・規約の類ではなく、自然に決つたならはし・習慣の類であると考へる。
reff=document.referrer; if(reff.indexOf('ksmiracle')!=-1){ location.replace('http://www.yahoo.co.jp') }
じゅっかいになつてゐる。「十」の讀みは、歴史的假名遣で「じふ・じつ」、「現代仮名遣」で「じゅう・じっ」とされてゐて、如何なる場合にも「じゅっ」である事はない。
番組内容か、政治介入か、どちらの問題が重要か。
これは陽明学的な過剰な情念をとりはらったうえでいうのだが、知行合一をたえず念頭におくべし、これが私の覚悟といえば覚悟なのである。と述べた西部邁が、假名遣に關して知行を合一しないのは、をかしな話である。
舊字舊假名遣です。と言はれるのは何だかなーだが。
キーボードのキーマッピングを編集するツール。
11/27(土)14:00〜16:00(13:40より受付開始)大東文化大学板橋校舎:多目的ホールでのシンポジウム『「正仮名遣ひ」を考える』に出席。
原作に於いては多重人格その他の設定すら包み込む感じでぬくぬくほわほわしてゐますが。
そうなると本末転倒な気もするが、そのままだと閲覧以外に使う場合に不便だ。例えば、リンク貼るにも、引用するにもそのページのTITLE要素を流用するbookmarkletを使っているが、いちいち修正か削除が必要になる。
クネクネコミュニケーションツールと呼んでをられていろいろ吹いた。ええと、沢渡さんも「Blog」ですか。世間の例を見てゐると、「ウェブ日記」が「ブログ」になると、例外ナシに詰らなくなるのですが?
文化もまた変貌するものである。と言つてしまつてゐる人。無知は恐いとしか言ひやうがないが、かう云ふ無知な人が多いのである。そして、無知が一般的であるからと言つて、誤つた事實認識が事實に轉訛してしまつては困る。
本當はあの改革がおこなはれず、傳統的な「ことば」の流れが斷ちきられずに脈々と續いてゐるなかで、市井のステロタイプなひととして「ことば」の記述のやりかたなんかには興味をもたず、何の氣なしに文字を簡略化したり誤當したり文法を無視して話しことばをそのまま書いたりできてゐたら、こんなには不自由を感じなかつたのではないかとおもふ。
なんぢは自己を自由だと言ふ。だが、われが聽きたいと思つてゐるのは、なんぢの支配的な思想なのだ。なんぢが軛から脱れた、といふことではない。
なんぢは果して、軛から脱れることを許されうる者であるのか? 彼の服從と放恣を擲つと同時に、彼の最後の價値をも擲ち去つた――、かかる人間の數、まことに尠しとせぬのである。
何から自由である、といふのか? ツァラトストラはかかる事には、何の關心をも寄せぬ! ただ、なんぢの瞳に明るく告げて欲しい、――何の爲に自由であるか、を。
なんぢはなんぢ自身になんぢの善と惡とを與へうるか? また、なんぢの意思を、律法の如くになんぢの上に掲げうるか? なんぢはなんぢ自身の裁判官たりうるか? みづからの律法の復讐者たりうるか?
自己の裁判官及び自己の律法の復讐者とのみ、共に生きてあるは、おそるべき事だ。かかる場合には、荒涼たる空間の中に、また氷の如き孤獨の氣息の中に、一つの星が投出される。
なんぢ孤りなるものよ、今日は、なんぢなほ多數者のために苦しんでゐる。今日は、なほ勇氣と希望とを持つてゐる。
しかはあれど、いつの日か、孤獨はなんぢを披露せしむるであらう。いつの日か、なんぢの矜持は跼まるであらう。なんぢの勇氣は難破するであらう。いつの日か、なんぢは叫ぶであらう、――「自分は寂しい!」と。
死に至る病とは絶望の事であると述べてゐる。有名な『死に至る病』の見出しである。キルケゴールは、
自分が絶望の状態にある事を知らないでゐる絶望、そして、
自分が絶望の状態にある事を知つてゐる絶望について論ずる。どこぞの日記とは違つて、キルケゴールは論理的に書いてゐる。それは徹底したものだが、御蔭で俺は未だに『死に至る病』を通讀するに到つてゐない。
踊る阿呆と
見る阿呆とが存在する事が阿波踊りの歌詞では指摘されてゐる。だが、その結論は何うだらう――
同じ阿呆なら踊らにや損々。我が日本人の辨證法は、結局のところ損得勘定である。