中には金欠なのかご飯だけ頼んで生姜山盛りにして食べる人もいるぐらいですから(牛丼屋に何食べに来てんねんというツッコミはさておき、本当の話)。
アストロビスタ氏。
明日は勉強會&忘年會なのに、雪の豫報ですか。低氣壓逝つて良し。
「正しい」と云ふ事は相對的な事で、當然客觀的な批判が可能だから、私は大好きだ。
逆に、私のやうな旋毛曲がりは、「幸せになれます」等と言はれると、妙に反撥したくなる。幸せか否かは、主觀的に決る事だから、反論のしやうがない。だから、「幸せになれ」なる言ひ方は、私には、どう考へても押附けがましい言ひ方であるやうにしか、聞えない。
今インターネットでは、「Web日記」と呼ばれる日常をつづったコンテンツを書く方が増えています。
「Web日記」ではHTMLのハイパーリンク機能を使って(お互いにリンクを張って)、意見や感想を述べ合い、話題を進めることが多いです。
所謂「Web日記」の流儀なるものに固執してゐる「Web日記」の制作者は屡々、自分の知る「流儀」の記法を用ゐてゐない人間を相手に話題を進める
事を望まない。それどころか、さう云ふ人間を人間扱ひしない場合すらある。
私が不在の間に、「健康保險なんとか機構」を名乘る人物(女性)が、「所得税の追徴金の事で」なる名目で、個人情報を聞き出さうと、電話をかけて來たさうである。
とかちゃんの「ほけほけ日記」の12月14日邊でtokaちやんが良い事言つた!
「アンカーを設置すれば、リファラが相手のところに殘るから、自分の書いた文書に相手は氣附ける」と云ふ説は、一見もつともらしいのですが、根本的なところでごまかしを含んでゐます。
まづ、リファラが相手のところに殘るのは、何故でせうか。サイトの閲覽者がそのアンカーをクリックするなり何なりして、先方の文書にジャンプしたからです。しかし、「アンカーをクリックするなり何なり」しなくても、或ハイパーテキストから別のハイパーテキストにジャンプすれば、リファラは殘ります。そして、誰かがジャンプすれば、リファラは殘るのであり、そのジャンプが、アンカーによつて惹起こされるか、例へばblockquote要素のcite屬性によつて惹起こされるかは、關係ありません。事實として、「闇黒式引用」しかなかつた時點で、胡桃の中の航海日誌に當方からのリファラが30殘つてゐました。いずしさんは、これによつて當方が胡桃の中の航海日誌の文書に言及してゐた事實に氣附き得た筈で、ならば、アンカーを設置してゐる事と、「闇黒式引用」をしてゐた事とで、結果は同じ事になつてゐた、と言ふ事が出來るでせう。と言ふか、リファラさへ殘つてゐれば良いのなら、アンカーが設置されてゐようが、「闇黒式引用」であらうが、關係ないでせう。
しかし、問題がもう一つあります。「閲覽者がアンカーなり何なりを利用してジャンプする事で、リファラが先方に殘る」と云ふ事は、「言及した事實を相手に通知した」と云ふ事と同義か、と云ふ事です。どう考へても、言及者自身が相手に直接メールを送るなり相手のサイトの掲示板に報告するなりしない限り、相手に通知した事にはならないですから、「アンカーを置いた結果、閲覽者がジャンプして、それで相手が言及に氣附く可能性がある」と云ふ事は、報告でも何でもない、と云ふ結論を出さざるを得ないのであります。
さらに言ふならば、假にアンカーを閲覽者がアクティヴにして先方にリファラが殘つたとして、先方がアクセス解析をしてゐなかつたとしたら、どうでせうか。事實として、當「言葉 言葉 言葉」の關聯サイト(含「闇黒日記」)は、アクセス解析をしてゐません。ですから、いずしさんが胡桃の中の航海日誌から當サイトにリンクを張らうが張るまいが、當方はそれによつて胡桃の中の航海日誌に言及があつた事を知る事は出來ないのであります。そして、アクセス解析は、サイト制作者の義務でも何でもないのですから、「どうしてアクセス解析しないんだ」と私が責められる理由はありません。
結局、アンカーを置く置かないだの、リファラがどうだの、といつた事を論つて、それで「言及したのに氣附けないからフェアでない」だの何だのと結論を出すのは、全く無意味なのであります。
と言ふか、言及したのにアンカーを置かないのは失禮だと言つてゐますが、いずしさん、アンカーを置いただけでこちらに何の報告もしなかつたあんただつてそれぢや失禮だらう、と言返したい。閲覽者まかせリファラまかせで、失禮も糞も無いだらう。いずしさん、あんた自身は何もしてゐないんだから。と言ふか、「アンカーが無い」と言ひたいだけだつたと違ふか? 小一時間問詰めたい。
どうも、貴方は特定の時代にスタンダードであったものを文化と呼ばれるようです。
と、變な評價をされてしまひました。私は、或特定の時代を切取つて、その中の文物を前後の脈絡ナシに拾ひ上げて、此が文化である、と極附ける氣は毛頭ありません。そもそも物を文化と呼ぶ事が間違つてゐます。また、單に、或時點での個人や集團の態度を、文化と呼ぶ事も間違つてゐます。いずしさんは、その邊を勘違ひしてゐます。
彌生時代の土器と、近代の釜とを、いずしさんは、時代を隔てて全く無關係のものとして、ただ單に對照する爲だけに採上げてゐます。しかし、土器と釜との間には、何の關聯も無いかと言へばさうではなく、段階的な進化の過程があつたと言へます。それを、時代が違ふから、と言つて、全く別々のものとして取り上げ、土器は日本の文化でないのか、釜は日本の文化でないのか、と詰問するのは、無意味な事です。
そもそも、私は炊飯器やマイコン炊飯ジャーを使つてゐる現代の直前に一般的であつた(であらう)状況を述べたに過ぎません。釜の置かれてゐた厨房は、文化住宅の時代になつて丸ごと文化的な臺所に置換へられました。さう云ふトータルなシステムを考慮した上で、私は釜と炊飯器との間に斷絶がある、と言つてゐるのであります。いずしさんは、個別主義を採つてゐますが、文化を考察する際にさう云ふ態度をとるのは間違つてゐます。
まあ、いずしさんの御家庭は、日本的でようござんしたね。日本文化にのっとった生活をしていないあなたに、日本に文化など無いと言う資格はありません。こっちはそれなりに、日本の文化生活を楽しんでおります。
は良かつたですね。ならば、正字正かなで書いてゐないあんたが、正字正かなを書いて「樂しんでゐる」人間を批判する資格こそ、無いんぢやないですか。或は、W3Cなんて知らないなどと言ひながら偉さうな口を利く資格こそ、無いんぢやないですかね。
一々、資格だの、禮儀だのと、論者の人格を云々するから、いずしさんの文章は「つつこみどころがありすぎる」と評されるのではないですか。相手の人格を否定するなら、自分の人格が完璧である必要があります。自分の人格が完璧でない人間が議論をしようとするのなら、水掛け論に陷らない爲にも、議論をする人間の資格を論つたりすべきではありません。
能や歌舞伎は、樂しんでゐる人間がゐるから死んでゐない、博物館の陳列物のやうな死物などと言ふのは量の論理だ、といずしさんは極附けます。それはいずしさんの勝手讀みです。そもそも、樂しんでゐる人間がゐる、ゐないは關係ありません。何しろ、私は觀客が何う斯うと、一言も言つてゐないのです。
能や歌舞伎に、ネクタイ姿の役者が登場したら、それはアヴァンギャルドでしかありません。それは既に、能でも歌舞伎でもありません。能や歌舞伎は、さう云ふものなのです。或特定の時代の風俗を保存したものとしてしか、存在してゐないのです。それは既に、日本人の常識と化してゐます。世間とは隔絶され、歴史の遺産としての存在を「博物館の陳列物」と私は呼んでゐるのであります。
「神」という概念が、日本人にとって「キリスト教の神」だなどと誰が決めたのですか、神様と云えば、神社に祭られていると決まっています(僕の主観ですか?)。
私はとんでもないアナクロ右翼の人物を相手にしてしまつたやうです。わらひ。
實際のところ、私はキリスト教の神の概念が、かなり強い印象となつて思ひ起されるのではないでせうか。
と言つてをります。日本人の理解し得る神樣は當然、八百萬の神樣であり、キリスト教のGodなんぞ理解したくてもさうさう出來やしません。しかし、「現人神」と言つた時に、「この神とは天照大神のやうな神樣の事だ」とか「偉い人が祀られてなる祭神のやうなものだ」とか、すぐ日本人が思ふのであれば、天皇制の論爭なんか起りやしません。キリスト教の絶對者と云ふイメージを聯想するから、天皇は現人神だ、と云ふ戰前の思想が今になつて糾弾されるのではないですか。
中島敦が「かめれおん」に、日本人を喩へてゐます。何と醜いかめれおんだ、と。
醜いなどと、そんなことを云ってはカメレオンに対して失礼ではないですか(笑)。日本人はカメレオンです。
どうしていずしさんは、話を摩り替へますか。失禮な人ですね。わらひ。かめれおんが醜いかさうでないか、を私は論じたいのではありません。と言ふか、いずしさんは、中島敦も知りませんか。さうですか。
何と言ふか、いずしさん、こちらが説明すれば、一々、その場その場で別の理窟を持ち出して、その説明を否定してかかりますが、この「論法」、どこかで見たやうな氣がしますね。全で洗腦セミナーです。洗腦セミナーでは、何を言つても否定されて、價値觀を崩潰させられるのださうです。いずしさん、洗腦セミナーにでも通つていらつしやるのではないですか。
しかし、現状を嘆いてもなにもはじまりません。
哲学者である岸見一郎は先制心理学に出会った頃・邂逅の日々に、アドラーの弟子、ドライカースに師事したクリステンセンの言葉を引用しています。
今のあるがままの自分を受け入れなさい。今日僕の話を聞いた人は、今この瞬間から幸福になることができます。しかし、そうでない人は、いつまでも幸福になることはできません
今のあるがままの自分を受け入れなさい
! ほら、やつぱりです。いずしさんは「洗腦セミナーの信者」です。
實際に、いずしさんが洗腦セミナーに通つてゐるとは言ひませんよ。しかし、洗腦セミナーの信者と同じ事をいずしさんが言つてゐる事は事實です。
洗腦セミナーで「目覺めて」しまつた人は、慥かに幸せなのでせう。ですが、彼らの言動は、どうも氣持ちの惡いものにしか、私には見えません。私の主觀ですか。わらひ。しかし、彼らがどうして幸せなのか、と云ふ事を、我々は反省してみる必要があります。
彼らは、今の自分を受容れる代りに、過去の自分を切捨ててしまつてゐるのです。過去の悩みであれなんであれ、受容れると稱しつつ、價値のないものとして、何處かに抛り出してしまふのです。そればかりではありません。彼らは、現在の自分を受容れると稱しつつ、自分自身を評價しない事を目指すのです。否、全てを評價しない事を目指すのです。
殘念ながら、評價をしないでゐられる人間は、ゐません。ですから、彼らは、自分自身を評價しない代りに、自分が他人にする事はアプリオリに良い事であると極附け、他人が自分にする事はアプリオリに惡い事である(から、自分は惡くない)と極附けます。さうする事によつて、自分を守り、自分だけは幸せになるのです。しかし、さう云ふ事をすると、普通は「傲慢だ」と看做されます。
「今の自分を在りのままに受容れる」とは、綺麗な言葉ですが、實際のところこの言葉は「今以外の、自分以外の全てのものを受容れない」と云ふ意味に即座に轉化してしまひます。それでは困るのです。
ところで胡桃の中の航海日誌では、p要素の終了タグが省略されてゐたりゐなかつたりします。別に、規格上、終了地點が明かであるならば、p要素の終了タグは省略可能なので、飽くまで規格上は問題ナシなのですが、特にCSSを利用してゐる場合、p要素の終了タグを省略すると、Netscape Navigator 4.xで障碍を惹起こす可能性があります。と言ふか、いずしさんは御自分のサイトを、Navigator 4.xで御覽になつた事があるのでせうか。Internet ExplorerやOperaと、見榮えが全然違つてしまつてゐて、大變面白いのですが。いきなりカウンタの畫像が死んでゐたりしますし。
いずしさんは、さう云ふ事まで考慮して、記法を決定していらつしやるのでせうか。
もし、Navigator 4.xは切捨てて良い、といずしさんが考へていらつしやるとしたら、その根據は何なのでせうか。もし、そんな事は考へてゐない、と言ふのでしたら、それはいずしさんの無知が結果的にいずしさんのサイトをNavigator 4.xユーザに對して排他的なものにしてしまつてゐると云ふ事になりますが、さうなると、無知は許されない、と云ふ事になるのであり、當然ながらHTMLの規格とそれに對するブラウザ等のUser Agentに關する知識を持つ事は、サイト制作者にとつて必須である、少くとも、ユーザビリティと言ふ制作者にとつては必須である、と云ふ事になると思ひますが、いかがですか。
そして、どうして、「略字新かな」が不便なのかもわかりませんでした。
は?
いずしさん、あなたは「略字略かなが不便である事を知りたい」とおつしやつてゐますが、さう云ふ疑問を持つ事自體が間違つてゐるのですよ。不便かさうでないか、と云ふレヴェルで物を考へるべきではない、と云ふ事を、私は執拗に主張してゐるのですから。ですから、私のサイトを非難する方法として、いずしさんの方法は的外れですね。
まあ、一應説明しておきませう。「身内」にも誤解を生じてゐますし。
助詞の「は」「へ」「を」を、「現代仮名遣い」を用ゐる人も、「わ」「え」「お」でなく「は」「へ」「を」と書かないではゐられません。なぜそんな風に書かないではゐられないかと云ふと、「は」「へ」「を」に關しては助詞の機能があるからそれを示すやうな表記をしなければならない、と云ふ語意識を持たざるを得ないからです。しかし、さう云ふ語意識を感ずべきなのは、助詞だけである筈がありません。人は體系的に物事を把握するものですから、同じ文書上の機能を持つ助詞、助動詞、そして用言の活用語尾は、何れも語意識に基いて表記されねばならないと感じない筈がないのであります。
「行こう」ではなくて「行かう」の方が讀み易いし、意味を把握するのに便利である筈です。私は、その程度の意味で「正かなづかひと云ふものの正しさ」を主張してゐるに過ぎません。だから、高崎一郎さんや波江究一さんに「字音假名遣を無視してゐる」と非難される譯です。
しかし、今のところ、私の獨斷で、ここまでの假名遣は保存すべきで、ここから先の假名遣は便宜上、表音的に改めても良い、と極附ける事は出來ませんから、一應、從來の假名遣に全面的に從つてゐるのであります。漢字の遣ひ方も同じで、各畫數の多い文字が不便であるとしても、體系的で適正な形に字體を改めるには議論が必要で、しかもその議論は全くなされてゐませんから當座、從來の字體に出來るだけ從ふやうにしてゐるだけです。
私は、ただ單に、獨斷を避けてゐるに過ぎません。
そもそも、僕が引用した森毅の引用文を今回の議論と結びつける厳格な「正当性」はどこにありますか?
前後の話と全く無關係にする「引用」を適切な引用と呼べるのかどうかが問題ですね。もしいずしさんが森毅の文章を、何の脈絡もなく、自分の文章に組込んでゐたとしたら、それが自分の文章と區別の附くやうな形で組込んだものであつたとしても、適切な引用とは呼べず、無斷轉載である、と云ふ事にしかならないかも知れません。無斷の轉載は、引用と違つて、訴へられたらアウトです。訴へられなければ問題はないのですが、どつちみちグレーゾーンに入つてしまひます。そして、グレーゾーンである事は、いずしさんの考へでは、巧妙な犯罪の手口
、即ち「事實上犯罪をやらかしたのと同じで非難されるべき事」、と云ふ事になりますが、さうなると、森毅氏の文章を「引用」したいずしさんは巧妙に犯罪を行つてゐた、といずしさんが自白してしまつた事になります。
えーと、下の項目のソースは、或意味とても面白い事になつてゐるので、いずしさんは御覽になると良いかも知れません。
ちなみに、御批判は甘んじて受けますが、謝罪する氣は毛頭ありません。と言ふか、中傷され捲つて被害を受けたのは明らかにこちらですから、加害者であるいずしさんが全面的に敗北を認めなければ、こちらとしては斷乎として戰ふだけです。
と言ふか「W3Cは知りません」つて、こちらはISO-HTMLなのですから、あなたこそ當方の事を理解する以前に讀んでもゐない、と云ふ事は明かです。相手の文章を讀んでもゐない人間が貴方は僕の意見をどれだけ理解したのでしょう
も糞もないでせう。
事実無根な的外な誹謗中傷をされるとは思いませんでした。
といずしさんはおつしやいますが、當方はただ、引用すべき箇所を間違へただけであり、正しく引用してゐれば根據のある批判となつてゐた事は、あなた自身がと、これが「きゅうじげんりしゅぎ」に対する批判でなくて、「きゅうぶんごたい」は「よみにくい」と云うところにに対する不快感の表明であれば、形勢逆転です。甘んじてそのご批判を受けましょう。闇黒日記に対する直接的な批判では無かったものの、そう受け止められてもおかしくない不適切なことを書き、真に申し訳ございませんでした。
と認めてゐるでせう。
單に、どこが間違つてゐるのかを間違つて指摘しただけなのですから、もともと間違つた事をしたのはいずしさんであり、それを「間違いの指摘が間違っているから、お前が悪い」と威張つて言ふのは、的外
ではなくて、論外です。あなたが誤つた認識を最初にして、誤つた非難をしたから、問題がこぢれたのであつて、全ての責任はいずしさん、あなたにあります。いずしさん、あなたが惡いのです。
と言ふか。
と、難癖つけられたら、「きゅうぶんごたいのさいと」と「闇黒日記」の関連性を示す論理的整合性は無い。かつ、「きゅうぶんごたい」などという単語は存在しないと先方も仰っているとでも云おうか。
もしさうやつて逃げようと言ふのなら、逃げればよろしいが、さう云ふ態度こそ、他人の文章を非難する態度として禮を缺くものであり、批判されるべきである、と云ふ事を、いずしさんは認めなければならないでせう。
客觀的に、いずしさんの主張が全て、いずしさんの獨斷に基いた主觀的なものであり、全ての人間が認めなければならないやうな眞理である譯ではない、と云ふ事は、事實です。そして、さう云ふ獨斷的な餘りに獨斷的な意見を根據に他人を非難すると云ふのは、ただ單に、誹謗中傷である、と云ふ事を、いずしさんには是非とも認識していただきたいものです。
そもそも、いずしさんは、一般的な論文や書籍で、引用文のすぐそばに出典が明記されてゐないものの存在する事を、御存じないのではないですか。ものによつては、引用文の後、或は近くに「註」があつて、文章の末尾或は卷末に纏めて出典が列擧されてゐる事もあります。これでも正當な引用です。
私のHTML文書の場合、Internet Explorerなどでは、URLがレンダリングされなかつたり、マウスやキーボードの操作で即座にURLを利用出來なかつたりたりするかも知れません。しかし、ソースを見る事で、誰でもURLを見出す事が出來ます。ですから、引用のそばにある註の番號から辿つて卷末の註を參照するのと同樣、blockquote要素のcite屬性に出典を明記するのは、手間こそかかれ、出典を誰でも知る事が出來ると云ふ點で正當な出典の示し方であると言へるのではないでせうか。
と言ふか、私の引用が氣に入らないと本氣で思ふのならいずしさん、うちを訴へますか。どつちみち、出典がどうのかうの以前に、著作權法の定める引用の要件に適つてゐない「引用」が、當方にもそちらにも大量にある以上、裁判も糞も無いと思ひますが。
それから、そもそもいずしさんが他人の事を、失禮であるだの何だのと、道徳的に説教出來る權原を教へていただけますか。或は、あなたは、自分の個人的な感情を根據に他人を失禮であると極附けるならば、自分も個人的な感情を根據に非難されても當然だと認めなければならないのではないですが、いかがですか。
とたづねても、いずしさんは議論の終了を宣言なさつてゐるので、(http://mas0721.tdiary.net/20021218.html#p08)御應へにならないのではないですか。或は、自分の處の「つつこみ機能」は荒れると嫌
と云ふ事で停止しながら、當方の掲示板が荒れるのはどうでも良い事だとでも思つて、こつちに書き込みますか。
と言ふか、そもそも自分はきゅうじげんりしゅぎ
きょうの にっきは よみにくくて ごめんなさい。ひらがなで かいてみたく なったのです。よみにくいでしょう。きゅうぶんごたいで かかれているさいとも よみにくいことこのうえなし。
と極附けながら、リンクを張つて具體的に何處の誰がさうであると指摘もせず、相手に反論する機會も與へなかつた御仁が、「どうして俺のところにリンクを張らないんだ。反論できないじゃないか。失礼だ」と怒るのは、どうか(してゐる)と思ふ。
あと、相手の言ふ事を理解しようともせず、一方的に自分の主觀的な意見を押附けようとするのも、そこで行はれてゐる事が議論であるのならば、失禮ではないでせうか。
「俺にはあんたの意見が理解できない、だからあんたの意見は駄目だ」と云ふ主張は、自分の主觀は絶對の眞實である、と主張してゐるやうなものですから、どちらかと言ふと「トンデモ」であるやうな氣もしますねー。
リアル知合には、合はせる顏がありません。多分みんな、私の知らないところで噂をしてゐる筈。どうしやうもありません。
ノーベル賞でもとつたら、何とかなるんでせうが。人助けだと思つてノーベル財團には是非ともノーベル賞を一つ(無理)。
最後に、新仮名遣いはより完全な表音表記になるべきか?日本語が表音表記できるのなら、 より表音的になるべきだと思う。例えば「言ふ」「言はない」の発音は「ゆう」「いわない」 なんだから、「言」の読みは「い」でなく「い、ゆ」であるべきだろう。 といっても、漢字仮名交じり文では語幹は漢字に入ってしまうから、今でも この手の問題はほとんどないのかもしれない。
一方、「は」「を」は微妙。助詞が違う表記になることで読むときの手がかりに なっているなら残すべきだし、「わ」「お」に置き換えても意味を認識するのに かわりないなら「わ」「お」にするべきだと思う。しかし、それを調べるのに どうすればいいのやら。
旧漢字はともかく、旧仮名遣いの(そして新仮名遣いの)正当性の主張が 音韻的にどこまで正しいかを知りたかった。
と云ふ事だつたのに、音韻的に「は」「を」を考察しないのは變だと思つた。
逆に「は」「を」の表記を意味に基いて考へなければならないのならば、日本語が表音表記できるのなら、 より表音的になるべきだと思う。
と云ふ判斷が、と言ふよりは、旧仮名遣いの(そして新仮名遣いの)正当性の主張が 音韻的にどこまで正しいかを知りた
がる事が、根本的に間違つてゐると云ふ事になる。
どっちがええか結論わからんけど、ヨーロッパあたりで、悪いと知らずに悪いことをした方が罪が重いという説がある。悪いことを自覚してない方が危ないと。ためらいながら悪いことした方がまだしも安全やと。
胡桃の中の航海日誌のいずしさんには、國語國字問題解説とHTMLの定義のための覺書の文章を讀んでいただいて、その上で批判なり何なりをしていただきたいのであります。
相手の意見を讀みもしないで、ただイメージだけで非難するのは、どうも民主主義の御代にふさはしくない態度だと思ひます。また、「私はかう思つた」即「眞實」と云ふ事にはならないのであり、自説を展開するには或程度の理論的な裏附けは必要だと思ひます。もし、論理的な主張をしてゐれば、それが當座、相手に通じず、論爭で負けても、客觀的な評價、後世の評價があるとしたら、そこで高く評價される事もあるでせう。
逆に、イメージで相手を極附けるとしたら、それが當座、有效な戰術として機能したとしても、自分が卑怯者と云ふマイナスイメージで語られる事もあり得るのであり、何より客觀的な評價を得る事が出來なくなります。
國家神道は誤であつた、と云ふのは現代の「定説」であるやうですが、今の神社本廳は飽くまで國家神道を引繼ぐものであると云ふ立場を採つてゐます。國家神道が誤であつたとしても、少くとも明治の先人が近代に適應しようと努力した結果である事は否定出來ないからであります。國家神道は、結果として失敗に終つた譯ですが、失敗だつたからと言つて戰後の日本人は國家神道を全く顧みようとしてゐません。
明治以前の日本人の思想や觀念を基に、何とかそれを近代に適應させようとした結果である國家神道には、それなりに合理的な側面もあります。もちろん、巧くいかなかつた側面もあります。しかし、曲りなりにも國家神道は明治以來昭和二十年まで、日本人の精神的な支柱として機能してきたのであつて、戰爭に負けたからと言つて綺麗さつぱり捨ててしまつて良いものではない――さう云ふ譯で、G.H.Qが日本の改革を進める中で、神道界は敢て國家神道を引繼いだ。
その後の神社神道が、戰前以來の體制を引繼ぎつつ、意外な事に、優れて近代的な思想的態度を示してゐる事は、本の紹介で紹介した『現代神道研究集成(9)神道と國家』が良く示してゐると思ひます。神道關係者が冷靜に論理的な説得を續けてゐる事は、意外なやうですが、事實です。寧ろ、神道を良く知らない右翼關係者の方が、神憑り的な事を言つてゐたりします。
非合理的である筈の神道を信じてゐる人が論理的な説得をしてゐるのは、意外な事に、合理主義を信じてゐる筈の革新的な多くの日本人に納得されません。彼らは、神道關係者の論文を讀みません。讀まずに、批判します。或は、讀んでも、論旨を見ず、字句を見て、或は、結論だけを見て、非難します。どつちが合理主義なのか、容易に解つたものではありません。
それはともかく、失敗であつたものであつても、それ以前のものを引繼がうと努力した結果であつた國家神道を、形式的に引繼いだ現代の神社神道は、個人的な感想かも知れませんが、日本の傳統を正しく引繼がうとしてゐると思ひます。
國語に關しても述べておきます。
日本にはもともと、固有の表記がありませんでした。最初は、支那から漢字を輸入し、漢文を用ゐてゐました。(もつとも、元々日本に住んでゐたのは支那系の人で、彼らは漢文を自在に操つてゐた、と云ふ説もあります)その後、支那から獨立した日本人は、漢字から假名を作り、漢文から獨自の日本的な文體を創り出します。
發音や音韻の變化に伴ひ、平安末期に既に表記が亂れ始めるのであります。これに一定の制約を加へ、表記の體系を維持しようとした試みが、定家の創始したと云はれる所謂定家假名遣であります。しかしこれは、原理がしつかりしてをらず、今一つ完全ではないものでありました。一應、過去の文献を根據にはしてゐるものの、實際に使へる過去の文献の表記が既に怪しいものとなつてをり、その文献を批判する手段も見つかつてゐなかつたので、據り所とするには當てにならないものだつたのであります。
江戸時代に、定家假名遣の原理を批判し、或は原理の無さを批判し、過去の日本語と現代(當時)の日本語との整合を目指して、契冲らの歴史的假名遣が創始されます。この頃になつて、國語研究の手法も開發が進み、古典の文献も批判的に研究されるやうになりました。その過程で、幾つもの語の表記規則が解明され、その結果として歴史的假名遣が成立する事になる譯です。
この歴史的假名遣の原理を、明治政府は教育目的に採用するのですが、一方で研究者も過去の日本語の體系を解明しつつ、現在使はれてゐる日本語の表記を見直す作業を進めました。これには、上代特殊假名遣を發見した橋本進吉の研究が極めて多大な貢献をしてゐます。
かうして、大東亞戰爭敗戰直後までは、過去の日本語と現代の日本語とを一貫する規則と云ふものが日本語の表記の原理として一貫して採用されて來たのであります。この、過去と現在に一貫するものを研究し、その成果を採用する、と云ふ方針は、日本に於いて極めて珍しい理想主義的な態度でした。或意味、假名遣は、甚だ日本的ならざるものであつたのですが、その一方で、日本で唯一の正統を標榜すべき存在であつたとも言へます。
戰後、強行された「現代かなづかい」「当用漢字」は、誰がどう見ても實用主義に基いてゐるものです。即ち、日本の表記を定めるのに、それまでの理想主義的を現實主義に切替へたのです。これは原理の根本的な變更です。日本の表記は、根本的な部分を變更されたのであり、表面的には似た部分があつても、「現代かなづかい」「当用漢字」以後の表記と、正漢字正假名遣の表記とは全く違ふものです。兩者の間に連續はありません。
國語改革は表記の革命であり、表記における傳統の斷絶を狙つたものです。日本人の表記に對する態度を變へたものだから、傳統の斷絶であると斷言出來して良いのであります。
野嵜さんが想定されてる「日本文化」とは「正字正かな」以外に何がある(あった)のでしょう。まず、文化が「途切れる」ということの意味がわかりません。僕は文化が「変化する」ということならあり得ると思っています。
そして、仮に文化が途切れたとするならば、それは何時なのか教えて頂きたい。また、過去から文化が途切れることなく続いている状態というのを僕は想像できません。過去から文化が途切れることなく続いているという例は何処にあるのでしょうか。
いずしさんが、今の日本の衣食住の文化
について書いていらつしやるし、うちの掲示板にも箸を使ふのは日本の文化ではないのかと指摘がありましたので、その邊を採上げて、説明します。
白米を食べる習慣は日本の文化でなくて中国から伝わった文化なのでしょうか。お漬物、味噌汁、煮物、緑茶などはどうでしょうか。日本で使われている陶磁器は日本の文化ではなくてコリアの文化なのでしょうか。襖や畳や障子は日本の文化ではないのでしょうか。能、歌舞伎、狂言、落語などは日本の文化ではないでしょうか。各地で行われている多くの祭事は文化ではないでしょうか。神社仏閣は文化ではないのでしょうか。日記文学は日本独特の文化ではないでしょうか。
御飯を炊く時、今の我々は、電子炊飯器を使ひ、御釜を使ひません。食事をする時、一家の主人が一番の上座に坐り、下座に子供達が竝び、端の厨房に近いところで御母さんが隠れるやうにしてゐる、と云ふ事もありません。家に據つては、正坐ではなく、椅子に坐つて、テーブルで食事をする事もあるでせう。
おかずは、冷藏庫に保存され、電子レンジで温めます。「旬のもの」と云ふ概念は無くなり、何時の季節のものでも手に入るやうになりました。
カロリーや鹽分の量等を勘案して、獻立を考へる人もゐます。しかし、お百姓さんに申し譯ないから、一粒も御飯を殘してはなりません、等と言はれる子供はもう、少いのではないですか。
箸や茶碗といつた物は、慥にまだ、存在します。しかし、それ等の物を扱ふ時の氣持は、過去の日本人と今の日本人とで、同じではないでせう。また、それらの物の置かれた環境も、過去と現在とで、全く違つてしまつてゐます。
それでも、箸や茶碗は、まだ文化として生きてゐると言へます。
襖や疊、障子も、家によつては生きてゐるでせう。しかし、輕量鐵骨の家は、襖や障子や畳が使はれてゐたとしても、最早日本の建築とは言へないものです。また、畳はあつても、疊の上での作法まで生きてゐる家は、日本にどれくらゐ殘つてゐるでせうか。疊の上での立居振舞ひが身に附いてゐる人は、どれだけゐるでせうか。また、疊の上で生活してゐても、服は洋服です。
生活の中の要所要所にかつての日本の文化の殘滓はまだあります。しかし、トータルな生き方としての文化は最う、日本には殆ど殘つてゐません。その理由は、不便であるからと言ふ事もありますし、封建的であるからと云ふ事もあります。近代以來、日本人は便利で合理的なやうに、生活を改善してきました。それは「變化」と呼んでも良いでせう。
だが、物だけ洋風のものを採入れて、魂だけ日本的なものを殘す、と云ふ都合の良い事は出來ないのであります。明治時代の先人は「和魂洋才」と言ひましたが、明治以來の日本人は、「洋才」は身に著けられたものの、「和魂」は失つたと言へるでせう。
能にしろ、歌舞伎にしろ、狂言にしろ、日本人の日常の娯樂とは最早なつてゐません。落語はまだ、テレビ演藝としてそれなりに人氣は保つてゐるとはいへ、その他の傳統的な演藝は、既に映畫やテレビと言つた舶來のエンタテインメントにその地位を讓つてゐます。能も歌舞伎も、最早博物館の陳列物
のやうな死物としてしか、一般の日本人には認識されてゐません。
しかし、博物館の陳列物
がなぜ死物であるか、それが問題です。博物館の陳列物
ですが、それは一般の人間にとつて如何なるものであるか。生活に關係のないものであります。一般人の生活を組立て、有機的な統合體を作り上げるのに、何の役にも立たないものです。
箸や茶碗、おみおつけに御飯、襖や障子や疊――これらのものは、慥かに今でも生きてはゐます。しかし、今の日本人は、朝晝晩、御飯とおみおつけで濟ませる譯には行きません。マクドナルドも、中華料理も、イタリアンレストランも、今の日本人は利用します。
今の日本人の思想觀念も同じです。例へば、「神」と云ふ概念一つをとつても良いでせう。今の日本人が「神」と言つて思ひ出すものは、一體何でせうか。キリスト教の神の概念が、かなり強い印象となつて思ひ起されるのではないでせうか。その癖、キリスト教は信じてはゐない、知識としての神樣しか日本人は知らないのであります。その一方で、天照大神や素戔嗚尊の神話は既に忘卻の彼方です。日本人は、神樣と言へば傲岸不遜で絶對の權力者であるかのやうなイメージで語つて見たり、憎んで見たりする一方で、絶對者を戴く民族の苛烈さだけは身に著ける事が出來ず、依然、2000年前と同じ「和をもつて貴しとなす」民族である。その一方で、マルクスやレーニンのやうに、神を否定しても見せる。
中島敦が「かめれおん」に、日本人を喩へてゐます。何と醜いかめれおんだ、と。
もちろん、有史以來、日本人は支那や韓國の文物を採入れて來ました。だが、その過程で、日本人は、非日本的なるものも日本的に、と云ふ事は日本人の生き方に合ふやうに、變化を加へて來ました。日本人が變化をすると同時に、日本的ならざる物も日本人の生き方の一環として改變され、日本人の生活に組込まれて來たのであります。
それが激變したのは、明治以來の事です。
明治の文明開化では、西歐の文物を形だけ、そつくりそのまま日本人は採入れてゐます。福田恆存が言つてゐますが、日本人は西歐の合理主義は採入れたものの、合理主義を生んだキリスト教と云ふ壮大な不合理の體系は拒絶しました。その不合理な體系の部分には、既存の「日本人的な精神」を殘した儘、日本は近代化を推進めた。
しかしながら、精神と物質とはやはり、不即不離のものであつたのであります。キリスト教なき近代化を推進める爲に、明治政府が作り上げたのが、皇室を中心とした國家神道の體系だつたと言へるのですが、これが巧く機能しなかつた事は、論ずるまでもないでせう。精神拔きの合理主義は結果として國軍を生み、實生活の裏附けのない思想體系である國家神道は皇國史觀を生みました。兩者が結び附いて日本的な餘りに日本的な軍國主義を出現させるのですが、大東亞戰爭の敗北と云ふ悲劇で結末を迎へたのも無理はありません。
大東亞戰爭の敗北は、畸形的な發達を遂げざるを得なかつた皇國史觀に致命的な打撃を與へました。一方で、畸形的な發達を遂げて來た精神拔きの合理主義は、目に見える軍隊なる存在を失つたものの、平和主義と云ふ目に見えないイデオロギーを得て、却つて力を得たと言へます。
現代の日本人の多くが、無神論者を自稱してゐます。これなど、或意味非常に日本的な現象なのですが、日本人が精神拔きの合理主義者である事を、端的に示すものであると言へるでせう。しかしながら、合理主義を信じてゐると自稱してゐる日本人が、合理的にものを考へる事が出來ないでゐるのであります。無神論者を自稱し、非合理的な物を拒絶する一方で、その人は世論を信ずるのです。世論が必ずしも合理的であり、論理的に正しいものでもないのは、火を見るよりも明らかなのですが、それでもその人は信じてしまふ。しかし、日本人は昔から、さう云ふ傾向がある。
その點、日本人は昔から全く變つてゐないとは言へるのですが、しかし、同じ不合理であつても、今の日本人と昔の日本人には大きな懸隔があります。昔の日本人の方が正直であつたし、眞摯であつた、少くとも今よりは増しであつた。昔の日本人は、世間の多くの人がするやうに振舞つたが、世間が全體で不合理な何かを信じてはゐた。今は違ひます。今は、世間がみんな合理主義であるかのやうに言つてゐるにもかかはらず、實は甚だ不合理な事を一齋にやつてゐる。
なるほど此も變化であると言へば言へるでせう。しかしながら、日本人の生き方はやつぱり違つてしまつたと言ふべきではないか。箸を使つて御飯を食べてゐる。なるほど、外見は同じかも知れません。しかし、昔の日本人と、今の日本人とでは、同じ御飯を食べてゐるにしても、その心構へは全く異つてしまつてゐるのではないか。そして、その心構への部分を無視して、今も昔も同じである、とは、言つてはならないのではないか。
眠いのと、例によつてだらだら書いてゐるのとで、話が一貫してゐません。論旨は一貫してゐる積りですが、どこかで論理は飛んでゐるやうな氣がする。
例へば、「人を殺さないようにしよう、という立場もあって良い。しかし、仮に人を殺してはならない、と言われたとしたらかなわない。イスラム法を守って生活する立場(イスラム原理主義)はあっていいとは思うけど、イスラム法こそが正しく、イスラム信者(あるいは全世界の人間が)は須くイスラム法を遵守すべきと云っているイスラム原理主義過激派に似てはいないだろうか。」と云ふ主張はどうか。
誤解されたら、間違つてゐると言ふだけです。「引用なのに出典が明記されてゐない」と誤解されたら、blockquote要素のcite屬性に明示してある、と答へるだけです。
讀み難い、と言ふか、見ただけで頭に來る文章と言ふかサイトと言つたら、神楽坂倶楽部をまづ、擧げるべきでせう。
この人が以前、雜誌「正論」に連載を持つてゐたんですよ。信じられますか。
僕は、リンク方式の正当性を主張しているのではなくて、貴方のリンク方式だとこちらがどのスレからリンクされているかを知ることが出来ないと云っているのです。そういう意味でフェアーじゃあないと云われたらどう反論しますか
とか書いてみるテスト
フェアかどうかは知りませんが、自分の知らないところで誰かが自分の事をどうかう批評するのは、どうしやうもない事です。それは當り前の事でせう。
ウェブ上だらうが何だらうが、知らないところで批評されてゐるならば、氣附かなければ、無いも同然で、氣にしやうがありません。もし自分でさう云ふ批評の存在する事に氣附いたなら、批判者に報告されなくても問題はない譯で、「何で報告しないんだ」と怒つても仕方がありません。
大體、ウェブ外の現實世界で噂されたら、對處のしやうがありません。私の場合、特にウェブ外での噂のある事が豫想されるくらゐで、ウェブ上での噂を殊更氣にする氣にもなりません。
私がインターネットのユーザビリティを向上すべきだと説く時、普通は、企業がウェブサイトから得られるビジネス価値を減じていることを根拠に挙げている。顧客サービスが悪ければ、顧客は減る。だが、もっと大きな視点からみると、さらに悪いことが起きている。期待通りの動作やデザインに準拠していないページがひとつでもあると、間違いなく、ウェブに対するユーザの概念モデルは損なわれる。このせいで、他のサイトも簡単に、自信を持って、楽しく使うことができなくなっていく。この世界と「マグル」たちにユーザビリティの低いサイトを押し付けているデザイナーは、まさに邪悪な魔法使いなのだ。
これはいろいろ、ネタに使へさう。「仕樣に準據してゐない文書が一つでもあると、間違ひなく、ウェブに對するユーザの概念モデルは損なはれる」とか。
Phoenixの新名稱案に「めかもじら」つて出てないかな?
うちのサイトで一二を爭ふ「よみにくい」文章と言つたら、漢字御廢止之儀でせう。
ポツダム(米英華三国)宣言も、案外讀み難いのでは。
天使のしっぽのアニメを觀て、「面白い」と思つてしまひました。すみません。
と言ふか、ゲームのCM、わけがわからん。
……一月二十四日附の産經新聞によれば、アメリカのアフガニスタン攻撃の是非については「保守派」知識人の間に意見の對立があり、アメリカを支持する田中英道、田久保忠衞及び八木秀次とアメリカを批判する長谷川三千子及び小林よしのりとが「封決」するシンポジウムがこの程開かれる事になつたといふ。馬鹿らしい話である。アメリカを批判する事もアメリカを支持する事も、道徳とは寸分の關はりも無いし、日本の「保守派」に支持されてアメリカが喜ぶ筈も無く、批判されてしよげる事も無い。詰りは全くの無駄事である。私は無論アメリカを支持するが、それは支持する事が日本國の利益になるからで、アメリカを道義的に支持するからではない。外國を道義的に支持するなどといふ事はナンセンスである。私は北朝鮮を支持しないが、それは支持する事に何の利益も見出せないからで、それゆゑ私は北朝鮮を道義的に批判した事が一度も無い。北朝鮮には金正日なる獨裁者がゐて人民に言論の自由が與へられてゐない。けれどもそれは致命的な政治的缺陷ではあつても道徳的缺陷ではない。政治的缺陷を多々有する國にも善人はゐる。北朝鮮にもゐるに決つてゐる。ゐるに決つてゐるが、その北朝鮮の善人は政治的に非力で我が日本國を寸豪も益しない。それゆゑ私は北朝鮮に對して非友好的で、友好的に振舞ふ手合を輕蔑してゐる。
同樣に、私はアメリカを批判する手合をも輕蔑する。周知の如く、アメリカは世界最大の債務國、日本は世界最大の債權國である。然るに日本は、幾ら不況に喘いでも、所有するアメリカの莫大な國債を賣却する譯に行かない。軍事的に非力だからである。小林よしのりにも長谷川三千子にもその事が解つてゐない。陸海空自衞隊の武器は米軍のそれに到底及ばない。例へば我が海軍は航空母艦を有しないが、空母を所持しない國は所持する國と到底互角の戰ひが出來ない。タリバンの指導者オマルにはその事が解つてをらず、國内の反米輿論を抑へてアメリカに協力したパキスタンのムシャラフには解つてゐた。ムシャラフは賢明な指導者で、オマルのはうは愚昧な指導者だつた。宗教的信念といふ事になれば囘教徒ムシャラフも持合せてゐる。が、宗教道徳と政治とは切離して考へなければならない。小林よしのりは産經新聞を「アメリカべつたり」と評したさうだが、「アメリカべつたり」で何が惡いのか。ブッシュが報復を決意するとブレアは早速アメリカへ飛んでブッシュと握手し支持を表明したではないか。核兵器も空母も所持してゐないのだから、イギリス以上に我が日本國は「アメリカべつたり」でやつて行くしかない。それは道義に關はる迎合ではない。マキャベリや夏目漱石が云つたやうに、究極のところ、國家と國家との間に道義は入り込む餘地が無い。而も、アメリカ「べつたり」の協力をしながら一目置かれるやうに振舞ふ事は出來る。例へば改憲である。憲法を改正して日本國の陸海空軍が米軍と共に堂々と戰へるやうにする。さうなつたらアメリカは一目も二目も置くやうになる。アラビア海の洋上で米海軍の補給艦に燃料を補給したり、空自の輸送機が米軍の物資をグアム島へ運んだりする、そんな姑息な手段では到底駄目である。「專守防衞」の看板を下さず「テロ對策特別措置法」なるいかさま法にもとづく「支援」だから、燃料や物資くらゐしか運べないが、恐らく今囘自衞隊が補給し輸送した物資は米軍が自力で補給し自力で運べる物ばかりだつたに相違無い。無論、米軍にとつて自衞隊の協力は不愉快ではなかつたらうし、軍事的貢献をしないといふ事は重大な瑕疵ではないとブッシュも云つたが、それは外交辭令に過ぎない。半世紀もぐうたら「平和憲法」に呪縛されてゐるやうな國を諸外國が輕蔑しない道理は無い。北朝鮮はなぜ我國の良民を拉致するか。軍事的報復を皆目怖れてゐないからである。もう書いてもよいと思ふし、本人は書き難いだらうから本人の許可も得ずに書くが、佐藤守が南西航空混成團司令だつた頃、尖閣列島の領有を主張する臺灣がヘリコプターを用ゐて侵犯を計畫した事がある。それを知つた佐藤は、F4ファントムを一機交替で常時張附け、T4を哨戒させ、場合によつては撃墜するといふ意志を明確にした。臺灣はどうしたか。侵犯を斷念した。斷念してぐうたら國の空軍を見直したに相違無い。
では、臺灣が警告を無視して斷念しなかつたらどうなつたらうか。無論、我がファントムがヘリコプターを撃墜して、それは極樂蜻蛉國の大事件になつて、佐藤は詰腹を切らされたであらう。だが、それを知つて諸外國の軍人は佐藤を稱揚し深く同情するに決つてゐる。國家と國家との間に道義は入込む餘地が無いと書いたが、國家が他國から一目置かれるやうになるためには、政治家や外交官や軍人個人の、飽くまでも一個人の、叡智や道徳的な勇氣が不可缺なのである。
さういふ個人の孤獨な道徳的決斷の大事に較べれば、アメリカを支持するか否かを巡る論戰なんぞ所詮は閑人の寢言に過ぎない。「アメリカべつたり」以外に我國の選擇肢は無い。選擇肢の無い事柄について論議するのは閑人の所行である。さういふ至極簡單な道理がなぜ長谷川や小林に解らないのか。自國の軍事的非力を自覺してゐないからに他ならない。詰りは夜郎自大なのだが、その道理輕視の夜郎自大がまたぞろこの國を亡國の淵へ引き摺り込む事になる。……
文字方向が縱か横かのレヴェルで議論されるべき文章の内容は、それほど大した物ではないのではないかと思ひますが如何。
松原正氏の紹介コーナで「保守とは何か」の第五囘から第七囘までを公開したところ、すかさず小林よしのり信者にして西部邁信者の人から中傷の書込みを掲示板に貰ひました。間違ひなく、「保守とは何か」の文章を、この人は讀んでゐません。
「馬鹿左翼」は根據ナシのレッテル貼りをして他人を陷れようとするが、同じやうな事を「馬鹿右翼」もする。馬鹿に左右ナシ。
しかし、松原先生が西部や小林の惡口を「言い歩いている」と非難したこの信者氏、うちの掲示板のほかに、「地獄の箴言」と「古典文學の村」の掲示板に書込んで、松原先生の惡口を「言い歩いている」のですが、困つたものです。人は自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る。
ところで、どう考へてもHTMLの事を良く知らない胡桃の中の航海日誌のいずしさん、html
と書いてゐるんですね。
私が以前、粹がつて小文字で書いて、何人かの人に惡影響を與へてゐたのですが、それとは全く關係のない處で素人さんがhtml
と書いてゐる。これはどこかに元凶が存在すると推測すべきかと思ふのですが、何なのでせうねえ。
良くわからないのですが、取敢ず目立つ處にアンカーを置いておけば納得して貰へるみたいなので、大々的に書いておきます。胡桃の中の航海日誌、胡桃の中の航海日誌、胡桃の中の航海日誌。
さあ胡桃の中の航海日誌へれっつごー。
「闇黒式引用」というのが正しいのか、W3Cなんてそもそも知らないし、知らなくてもhtmlは一応書けてるわけで。正式な引用の書式であろうが、出典との関係を明示する方式として良かろうが、使えないものは使われないのです。それは日本語であってもhtmlであっても言語であれば同じこと。
「闇黒式引用」と言ふのは、當「闇黒日記」常連さんならおなじみの用語と云ふ事で使つたローカルな用語です。いずしさんには通じないし、世間一般でも通じない「スラング」ですが、うちの常連さん相手にならばとても良く通じる用語です。特に某方面。
殘念ながら、いずしさんが使われない
とおつしやつても、私が既に使つてゐますし、某方面でも一部で使はれてゐます。そして、實際に、HTMLの仕様書を見ればちやんと載つてゐる正式な規格ですから、文句を言はれる筋合ひではありません。
僕は、引用方式の正当性を主張しているのではなくて、貴方の引用方式だとこちらが引用されていることを知ることが出来ないと云っているのです。そういう意味でフェアーじゃあないと云われたらどう反論しますか。
引用された事に被引用者が氣附かなかつたからといつて、問題はありません。フェアではない――そんな事は知りません。引用は、引用なんだから、いずしさんに氣附かれなくたつて、全然問題ないものです。こちらは、こちらの都合で引用しただけですから。
實際のところ、「俺の氣に入らない事をするな」と凄まれて相手が引つ込まなければならないとしたら、言論の自由と云ふものは消滅するのではないでせうか。
今回はたまたま僕が見ていたからわかったものの、自分が書いている文章がどこか知らないところで論われているのはちょっといただけない。
私だつて、自分の事を蔭で批評されれば嫌ですが、公開の場に文章を晒してゐるのだから、どこで何を言はれようが、仕方のない事でせう。他人の口に戸は立てられません。決つてゐるぢやないですか。嫌なら、他人に讀まれる處に文章を公開しなければ良いのです。
引用文とアンカーに必然的な関係はないってのは、どう考えても屁理屈としか思えません。
思えません
、つて、そんなあなたの個人的な意見を押附けられても困ります。
記述の正しさの為なら読者が辞書片手に読まなければならないという不便さは意に介さないということですか。
その通りです。
不便だらうが何だらうが、より正確である事の方が大事です。出來るだけ正確な言ひ方をしておけば、あとで言ひ譯出來ますから。好い加減な事を言つたら、通じる時は良いが、通じなかつた場合、面倒な事になりますからねー。
私の表記の場合、辭書をひけば、意味は解る譯ですから、「最低限のアクセシビリティ」は確保されてゐると言つて良いでせう。
そんなの屁理屈でしょう。ウェブを読むとき片手で辞書を持っている人など、多分あまりいないでしょう。それでアクセシビリティが確保されていると思われているのなら、ちょっと僕にはわからないなあ。
困りましたねえ。私が「最低限のアクセシビリティ」
と書いたのに、最低限の
と、大事な鉤括弧を削られてしまひましたよ。「最低限のアクセシビリティ」とアクセシビリティの一般的な意味とは、違ふんですが、いずしさんには混同されてしまひました。
そして、仮に同音多義語は必然的に意味を判別できないよ、というのであれば、よほど想像力が貧困なのか神経質なのかどちらかでしょう。普通は自動的に、文脈に沿ったり自分の理解しやすいほうに解釈するはずですから。
しかし、例のせいひ
の場合、解釋で決定出來ないんですよねー。せいぜい、「ダブルミーニング」である、としか解釋出來ません。
と言ふか、自分の理解しやすいほうに解釈
されたら、やばくないですか。それつて、「誤解されてもOK」と云ふ事になりますよ。その「誤解」を論據に攻撃されたら、困つた事になり兼ねません。書き手が「それはあなたの誤解です」と言つても、讀者にして批判者の人から「俺はかう解釋したのだ」と言張られたら、「解釋して下さい」と言つた書き手はその批判を受容れざるを得ません。
その僕の「文化」というものは現在進行形で不定形な有機的な系をなしているものだと思っています。
私の場合、文化と云ふものは現在進行形で、過去から現在まで途切れる事なく全部繋がつてゐる筈のものだと思つてゐます。ですから、既に日本に文化は殆どありません。昭和20年の時點で、最後の殘滓は日本語だけだつたと言つても良いくらゐでしたが、國語改革の所爲で日本語の連續も消滅してしまひました。ですから、現在の日本に、博物館の陳列物的な文化の遺産はあれど、文化自體は殆どありません。
高坂さんには、野嵜さんはどう見ても筋金入りのナショナリストであり、
なんて書かれてるし。
「ナショナリスト」が一生懸命、HTMLはISO/IEC 15445:2000だ、とか、スタイルシートがどうだ、とか、Opera 7は良い! とか言つてゐるのだから世の中、平和だ。
アメリカをちくちく刺戟して無事に濟むと考へてゐられる「反米保守」の人は、「反米左翼」の連中と同じくらゐ、おめでたいと私は思つてゐる。
日本人は大東亞戰爭で、アメリカにこつぴどくやつつけられてゐるのに、どう云ふ譯かアメリカ人を恐いと思はないらしい。それ以前に、アメリカ人の事を憎いとも思はないのだから、相當に御人好しなのだと思ふ。
自分で自國を守りたくてもアメリカの支援ナシに日本は何も出來ないと云ふ現状を考へれば、少しでもアメリカの機嫌を損ねるやうな事を言つて無事に濟まされる譯がないのだが、そもそもさう云ふ想像も出來ないと云ふ事は、彼らはそれほど知識のある譯でもない私よりも防衞に關する知識がない、と云ふ事にほかならない。
今ある戰鬪機よりも旋囘半徑の小さい戰鬪機を作れば有利になる、とか何とか、石原愼太郎氏は言つたらしいのである。そんな事をしたら、Gでパイロットは失神してしまふ。だから今の戰鬪機はあの程度の旋囘しかしない。
さう云ふ知識のない石原氏が『NOと言へる日本』を書き、「反米」を煽つてゐるのである。危險な事だと思ふ。
あれれ、奇魂掲示板のログが飛んでるよ。海老氏を斷罪斷罪また斷罪の大長篇論文が消えてしまつたよ。
或意味良かつたのかも知らんが。
かう云ふ批判がくるから、「闇黒式引用」はやめられない。
ぼうあんこくにっきへんせい14ねん12がつ13にちでは、りんく させずに(っていうのは、ずいぶん しつれいで、ぼくも かるく みられたことだなあ)あげつらわれて しまったのだけれど、それは だとうなこと(りんりてきに ただしいこと)なのですかねえ。ぼくの ぶんしょうに ちょさっけんは ないですか。そんな かち ないってことですかねえ。
HTML文書のソースを見ていただければすぐにわかる事ですが、私はblockquote要素のcite屬性に、引用元をはつきり明示してをります。これはW3Cが定めた正式な引用の書式です。單に引用文のそばに關係があるのかないのか良くわからないアンカーを置く「一般的」な方式よりも、當方の書式の方が、引用文と出典との關聯を明示する方式としては良いものです。
大體、引用文のすぐ近くにアンカーがあつたとして、それがその引用文と必然的な關係がある、と、どうして證明するのですか。「ほら、すぐそばにあるだらう」と引用者が辯明しても、引用された側に「すぐそばとは何だ。引用文と離れたところにアンカーを置いてごまかしてゐるだらう」と言つて非難されたら、どう反論しますか。
Mozilla/Netscape 6/7でこの書式はきちんと認識されます。Internet Explorerはこの書式を無視します(不具合です)が、コンテクストメニュー追加セットを利用すれば、出典URIを利用出來るやうになります。
てにをはと、それ以外の語とで、假名と漢字を遣ひ分けたり、讀點で區切つたりして、讀者が意味を取り易くなるやうに心掛けてゐます。
と いったからといって、よみやすい とは かぎらないんじゃあないですかねえ。「これとおなじく」よみにくいことは おなじだと おもいますよ。「きゅうじ」が なぜ よみにくいのかと いうと、つかわれている かんじが よみなれて いないからですよ。「きゅうかな」は まだ よめるとは おもうのですけど。まちがって いるのなら してきして ください。
私は「讀み易い」とは言つてゐませんよ。讀者が意味を取り易くなるやうに
、と言つてゐるぢやないですか。これは、
ゆーざーの あくせしびりてぃというのは まったくかんがえないのでしょうか。
と云ふ指摘に應へたものです。
まあ、でも「きゅうじひょうき」というのは ひらがなひょうきに くらべても よみにくいこと このうえ ないんじゃあないかなあ、ひらがなだと すくなくとも おとだけは わかるしねえ。
讀み易い讀み難いのレヴェルが違ふのです。單に、「おとだけは わかる」と、「意味を取り易い」とでは、話が全然違ひます。
フランス語の文章を、私は音讀しろと言はれたら、多分、大抵のものは音讀出來ます。さう云ふ風に、フランス語の表記は出來てゐるからです。しかし、譯せ、と言はれたら、多分、かなり易しい文章でもしくじります。
意味の話と、發音の話とは、レヴェルが違ふのです。そして、音がわかる、と云ふ事は、意味がわかる、と云ふ事とは違ひます。そして、ユーザビリティ・アクセシビリティの話は、「音がわかる」レヴェルの話ではないでせう。
ところで。
というか、ぼくの げんせつの せいひを どがいしして かんがえると げんごの もんだいでなくて しゃかいがくてきな もんだいのような きがします。
これ、「正否」ですか、「成否」ですか。全く判斷出來ないのですが。小學生はおろか、學者にだつて、判別出來ませんよ。何としても意味が通じないのは、コミュニケーションをとる上で、致命的ではないですか。
かう云ふ意味の判別が出來ないやうな語を含む文章の記法は、ユーザビリティだかアクセシビリティだかが高いんですか。書く側は都合が良いかも知れませんが。
私の表記の場合、辭書をひけば、意味は解る譯ですから、「最低限のアクセシビリティ」は確保されてゐると言つて良いでせう。
基本的に、個人の好みだけで他人樣を非難するのは、場合によつては中傷と取られ兼ねません。だから私は、好みに從つて何かを言ふにしても、一應、根據には客觀的であると思はれるものを持つて來るのであります。それでも私の批判を「中傷である」と極附ける人も多いのですが、根據を擧げて批判するのも許されないとなると、人は世間で一般的である事を言ふしか文句を言はれないやうにする手段が無くなるのではないですか。さうなると、事實上の言論統制ですよ。
自分が何を書いてゐるのか、僕は分かつてゐる。「ほーむぺーじ」の多くの制作者は、僕が何を書いてゐるのか知らない。もし僕のサイトの文書がISO/IEC 15445:2000だつたとして、誰かが僕のサイトをほーむぺーじだと言つたとしたら、僕は、いやこの文書は本當はISO/IEC 15445:2000なんだよと思ふだらう。
慥に意味不明かも知れないです。
喧嘩終結。
高坂さんには御迷惑をおかけします。しかし、「オートマティズムだ自己批判しろ」と頭ごなしの説教から入つて、「議論にならない」と言つて逃げる海老氏には以下略。
人の文章讀んでねえんだからなあの野郎。
「終了」で終つたためしがない。
土日は自宅で靜養します。「とても健康的な忘年會」は(やるとしても)來週日曜日以降に持越し。ごめんなさい。
「あんたなんか嫌ひだ」「言はれなくてもわかつてゐる。俺が一番俺を嫌ひだ」
欝欝とーくをげらげら笑ひながら書く人。
「闇黒日記」の讀者に、もう長い事コンピュータウイルスに感染したPCを使ひ續けてゐる方がいらつしやるやうです。毎晩、「同じメールアドレス」からウイルスメールが屆いて、J-COMのサーヴィスにはねられてゐます。
きょうの にっきは よみにくくて ごめんなさい。ひらがなで かいてみたく なったのです。よみにくいでしょう。これとおなじく きゅうぶんごたいで かかれているさいとも よみにくいことこのうえなし。ゆーざーの あくせしびりてぃというのは まったくかんがえないのでしょうか。ぼくは いちおうかんがえているつもりで、いつもびくびくして ぶんしょうをかいています。それもひくつかな。
これとおなじく
、つて、何が同じなんだよ笑ひ。
私の場合、てにをはと、それ以外の語とで、假名と漢字を遣ひ分けたり、讀點で區切つたりして、讀者が意味を取り易くなるやうに心掛けてゐます。全文平假名で書くとか、無闇に漢字を平假名に「開く」とか、さう云ふ事をしても、日本語の文章と云ふ奴は讀み易くなるものではないですからね。
ところで、きゅうぶんごたい
つて何ですか。
きたちょうせんの おかれているじょうきょうは かなりきびしいものが あります。それを ことじち に にほんの しゅちょうを のませるのも なんだか もんだいが あるような きもします。
「言質」は「げんち」と讀みます。「げんしつ」と讀むのは誤。「ことじち」は論外。2ちゃんねるで使つたら大流行しさうです。
オレンジペコにて「紺野さんエディタ」開發中。2002-12-13の記事
意氣とか志とかは結構だけれど、HTML文書のソースが非常にアレなので、何とかして下さい。「お尻p」は今更ないんぢやないですか。
見捨てられてゐなければ良いのだけれど。
指摘されてゐる問題點。
を拾つただけ。class="issue"
37.2度。
樂しくない體温日記。
早く寢ろ>俺。
早く寢ろ>俺。
スパイウェアが氣になるあなたへ。
「どこがダウンだ」と言はれたら反論出來ない。ねます。
再びダウンしますた。もうだめぽしました。
『楽しい数学』(シャックル著・市場泰男訳・現代教養文庫618)を讀む。
高坂さんの所で戰爭談議と言ふか反米論爭。大變に申し譯ないのだけれども、大事な問題なので高坂さんの意見を全否定する勢ひで。
以前から俺は、保守派とか右翼とか名乘つてゐる人が、保守派でも右翼でもなくて、實は左翼である、と云ふ指摘ばつかりしてゐるやうな氣が。鐵扇會の會長を左翼呼ばはりしたのは懷かしい思ひ出。
郵政事業の生みの親、前島密(ひそか)が徳川慶喜に「漢字御廃止の儀」という建白書を提出したのが1866年(慶応2)。この中に言文一致の主張もふくまれていました。それまでは話ことばと文章とが完全に分離し、文章を書くといえば漢文中心の文語体ときまっていました。非常にふしぎなのは、だれ一人この習慣を怪しまなかったことです。日本人は、言語に関してはウルトラ保守なのでしょう。
慶應2年、岸田吟香が言文一致の日記を書いてゐる。『お言葉ですが…』(高島俊男著・文春文庫) だれ一人この習慣を怪しまなかった
、は間違ひ。或は、きだ氏の調査不足。
日本人は言語に關してウルトラ保守
なのだときだ氏は非難する。言語に關して保守的であるのは良い事なのだから、ウルトラ保守
などと、恰も惡い事であるかのやうに言ふのはをかしい。
rubyと云ふのは、表音主義者・きだじゅんいちろう氏らが執拗に策定を主張し、例によつてInternet Explorerでフライング實裝されてしまつて、仕方なくW3CがXHTMLで正式な規格とした代物です。讀み上げ系のユーザエージェントで不具合が出る(漢字と振假名の兩方を讀上げる)のを見れば明かですが、rubyの仕樣は大變に拙いものです。私は現行のruby要素を廢止すべきだと考へます。
生きてゐます。まだ死んでゐません。
ダウンしました。「まじ」です。
「37度」とか「38度」とか、初期の「闇黒日記」のネタにしてゐましたねーなつかしいですねー力無い笑ひ。
酒が入るとやばい事を口走りさうで。
と言ふか、以前非常にやばい事を言つてアレな事になつて欝になつてヤケ酒飮んで(馬鹿)死にかけた事がある。
あと、喧嘩して以下略と云ふ事件があつたのも、常連さんにはおなじみ。すみませんでした>某さん。
8日は、J-COMの査察を受けたり、買物に行つたり、ついでに高原書店によつたり。休日の方が働いてる。
高原書店では、前囘「200圓」と言はれて突つ返した本を、40圓とか80圓とか120圓とかで買へた。レジの店員によつて値段が變る。何とかして下さい。
ほかに、『ヨーロッパをどう理解するか』(C・ドーソン著・南雲堂不死鳥選書)とか「諸君!」創刊號とか季刊「教育法」1985年8月臨時増刊号「日の丸・君が代」とか「フラワーデラックス保存版カラーイラスト傑作集 高橋亮子 ボクちゃん――その世界」とかを購入。
Opera 7で閲覽してゐると、どう考へても略字略かなしか知らないであらう制作者によつて作られてゐるサイトの字體が一部、正字體でレンダリングされてゐる事がある。
實際のところ、閲覽者の環境やユーザエージェントの設定その他の理由により、「日本語フォント」で表示される事を期待してゐるサイト制作者は、漢字が略字體で表示されるか正字體で表示されるかを、確實に判斷する事が出來ない。
制作者が、閲覽者の立場で「正字正かなサイト」を閲覽した時、「正字體の漢字」に讀みがなの振られてゐない事に不滿を覺えるのは別に構はない。人の思想にまで干渉する積りはない。だが、自分がサイトを作る際に、その制作者は、閲覽者の全ての可能性を考慮して、自分では略字の積りで使用してゐる漢字にも、豫めルビを振つておくべきだ。
繰返し書くが、制作者本人が略字體の積りで使用した漢字が、閲覽者の環境で常に略字體で表示される、と云ふ保證は全くない。
この項、「ねこまたぎ」ですよ > 某方面。
沒原稿より。
或人間が生まれてくる事は奇蹟的だが、或人間が或瞬間に生きてゐると云ふ事もまた奇蹟的と言つてよからう。
人間の存在を否定する存在はあり過ぎる程にある。就中、同じ人間が敵となるのだから、堪つたものではない。だが、人間の最大の身方が人間である事も疑ひやうのない事實なのであつて、だから人間は集團を作る譯である。しかし、いかにしようと、人間にとつて、自らの生命の危機がゼロパーセントとなる事はない。
いついかなる時にも、人には攻撃を受ける可能性がある。「世界最強」の國家であつたアメリカも、2001年9月11日、大規模なテロによる被害を出した。既に、宣戰を布告して國家と國家とが決鬪を行ふ戰爭は、舊式のものとなつてゐたのだが、このテロによつてアメリカははつきり「新しいタイプの戰爭」を認知した。眞珠灣攻撃を「だましうち」と呼んだ國が、宣戰布告ナシで戰爭を行はうとするのだから、一部の日本人にアメリカの態度は厚顔無恥に見える筈だが、アメリカにしてみれば、自國を守る事だけが重要なのだし、何より自分から進んで方針を變へた譯でもないのだから、何を言はれても氣にはすまい。
ここで續きを書くのを諦めました。
ととと……
「奇魂」の第六號が到着したのです。どうもありがたうございます。
封筒に2册入つてゐたのですが。
本棚を組立てて、「それぢや、この棚にはこつちの棚の福田全集を移植しませうか」とやつたら、家族にぶちきれられた(脚色あり)。本を幾ら竝べても終らない。洒落ではなく床が拔けると云ふ貴重な經驗を近いうちに出來るかも知れない。何うしたら良いのでせうか。
ところで『お言葉ですが…』を落して帶を破いた。致命的なミス。欝だ以下略。
- 常識
- 他人を説得するためには決して用ゐるべきでない言葉だと思ふ。それを常識と信じる根拠を示せるならともかく,他人に「こんなの常識だよ」といふ場合にそこまで考へてゐることはまずない。単にオレルールを強要するための性質の悪い恫喝だ。
- 投稿時間:
- 2002/12/07(Sat) 10:23
- 投稿者名:
- 波江究一
- Eメール:
- URL :
- タイトル:
- Re^5: 暗示
- 本文
五十音が意識的に整理された音韻の體系である、と云ふのはわかりますが、だから全ての音を使つて歌を作らなければならない、と云ふ理由は全くわかりません。そこに飛躍があります。その飛躍を埋める義務が、波江さんにはあります。
飛躍でも何でも無い。やれば出来ることはやるべし。そこに山があるから登る。言語を一の生命体として尊重してこれに対峙する至極全うな筋道です。
波江氏の「俺ルール強要」は迷惑だ。
私は「正かなで書くべきだ」と思つてゐますが、その根據に「私が決めた勝手な原理」は何一つ入れてゐない積りです。
「現代仮名遣い」が駄目である以上、最善ではなくとも、次善のものである事は間違ひのない歴史的假名遣を日本人は使はざるを得ない、と私は言つてゐるに過ぎません。
もつとも、「ダブルスタンダードは惡い」「一貫性がないのは惡い」と云ふ價値判斷が一般的な價値判斷でないのならば、私野嵜は勝手な事を言つてゐる、と云ふ事になるのでせうが。
或は。
文章の構造を示す語に語意識が殘るものと考へられるならば、「は」「へ」「を」だけに「表意的」な假名遣を殘す必然性はない、むしろ、文章の構造を示す全ての語に假名遣を殘す必然性がある、と考へられます。だから私は、字音假名遣等よりも、助詞・助動詞・用言の活用語尾の假名遣の方が、重要である、と考へるし、さう主張してゐるのであります。
事前連絡も無しで載せられた
も何も、「闇黒日記」なんか、某サイトのalternativealternate stylesheet一覽に紛れ込んで、タイトルだけ雜誌に載つたりしてゐるんですが。
http://www.moonstone.jp/ を XHTML1.1 としてチェックしました。
29個のエラーがありました。このHTMLは 84点です。タグが 22種類 232組使われています。文字コードは Shift JIS のようです。
駄目駄目。
http://www.w3.org/ を XHTML1.0 Strict としてチェックしました。
17個のエラーがありました。このHTMLは 81点です。タグが 28種類 373組使われています。文字コードは UTF-8 のようです。
labelがどうのかうのといつた邊はいろいろ説があるやうですが。
あと、
とかclass="navBlock"
とか、怪しい記述がありますが。class="invisible"
と言ふか、XHTML 1.1は、いつW3C推奬の規格になるんでせうね。
激しく既出。
「うまい酒」など、この世にある譯がない。酒は全て哀しいものだ。
忘年會大つ嫌ひ。
酒を飮まない辛気臭い忘年會をやりたい人募集。
泥醉して自轉車に乘る事はよくある。よく轢かれないものだ。さすが田舎。
この界隈での流行語は幾つも作つたやうな記憶が。
例の小説の復活と言ふか書直しを檢討中。假題「鋼鉄面皮デカイオーRePure」。
怒られるかな?
Operaで正しく表示されると言うことはすなわち、世の中のほとんど全てのOS、ブラウザで正しく表示出来るようになると思います。
そもそも日本語の文章としてをかしいよ。
御晝に、階段でけつまづいて轉んだ。
小林秀雄の著作集が出てゐますねえ、新字新かなの。
今週土曜日は秋葉原に行く豫定。
「日の丸や君が代を自分は本気で憎んでゐる」と思ひ込める事が、そもそも異常。日の丸も君が代も、身近な存在ではないし、ならば憎めるものではない。
なのに、何だかんだと理窟を附けて排斥しようとするのは、日の丸や君が代が本當に憎いのではなく、何らかの政治的意圖があるからである。
何が狙ひなのか、目的をはつきり言ひ玉へ。反戰平和は所詮、旗印でしかあるまい。
読子さんは、店頭均一本を購はないのか。買つて來た本を棚に竝べる樂しみは知らないのか。本棚の中身の竝べかへは以下略。
ふとんのある部屋は埃つぽいので本を置かない方が良いです。うちでは置いてゐますが。
古創が痛む。左手、人差指の1cmくらゐの創痕。
Gateway2000のボードを引つこ拔かうとした時に作つた創。縫つて呉れた醫者に創の原因を説明したら嗤はれたものだ。ちなみに勞災。
全部「どうでもいい」でGO。
野嵜健秀さんのニュースサイト管理人度は100中毒中で26中毒 でした。
あなたはニュースサイトの管理人にはむいていません。
おめでとうございます。
めでたいらしい。
「小説新潮」12月號掲載の「年を經た鰐の話」は、新字新かなに改竄されてゐる。それにしても、小説新潮の癖に山本さんの語句を不適切呼ばはりするとは生意氣だ。
「闇黒日記」おなじみ戰爭と憲法の話題。別名「ねこまたぎ」。うちのサイトには、「ねこまたぎ」の記事が多いですね。閲覽者は、うちのどこを讀んでゐるんでせうね。
「諸君!」で副島隆彦と小林よしのりとが對談をしてゐた。小林氏の所謂「ポチ保守」とは、要は「日本が軍隊を持つのではなく、アメリカが日本の爲に軍事行動をとるのを期待する人」の事なのださうだ。それつて結局、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した
戰後の日本人の體制を守らうとする革新陣營の事なのではないかと思つたが、右傾化の進む現在の日本に於いて、中道寄りの右派は最早左翼でしかないらしいのである。
私は、「日本國憲法」などは(改正せず)破毀していつたん「大日本帝國憲法」を復活させ、即座に、正しい手順に則り、日本國民の(外發的ではなく)内發的な民主主義精神に基いた眞の意味での改正を行ふべきだと主張してゐる。
「復活された大日本帝國憲法を改正する際」には、「皇國臣民の生存と維持との爲の軍隊」から、「民主主義と自由そして日本國民の生き甲斐とを擁護し掩護する正義の軍隊」としての再解釋を行へば良い、と考へてゐる。
「日本國憲法」を「大日本帝國憲法を改正したもの」と看做すのは無理がある(少くとも異論がある)。既に言論の自由とか思想の自由とか民主主義とかの觀念が一般化してゐる現在の日本國ならば、「大日本帝國憲法」を復活させてもさうさう變な方向に行つてしまふ事はなからう。ならば、この機會に、憲法における傳統を再構築し、民主主義の基幹を堅固なものにしておくべきだ。
しかし、何う考へても今の日本人がこのアイデアを眞面目に考へる事は出來ない。このアイデアが實現する事は絶對に無い。それは、日本人には目の前に存在するものしか認識したり理解したりする事が難しいからで、過去から現在そして未來に一貫する傳統と云ふイデアを、一般の日本人は想像しない。だから、傳統に斷絶があつても日本人は全然氣にしない。
それは危ふい事だ。自分の思想の背景にあるものを氣にしないで、行當りばつたりに行動するのは、何う考へても危險だ。過去の記憶を整理し、そこに筋道をつけないで、考へなしに目の前の事態に對處し續けてゐれば、以前の過ちを平氣で繰返すだらう。それは避けるべきだ、と私は言つてゐるに過ぎない。
が、繰返し言ふやうに、日本人には目の前の現實以外の現實は存在しないので、いつか困つた事が起きるまで日本人は安心して現状を維持するし、過去と現在の聯關を附けておくべきだと云ふ意見を嘲笑する。もちろん、中には過去と現在の聯關について興味を持つ人もゐるにはゐるが、さう云ふ人は大概、氣に入らない相手の過去を執拗に論つて喜ぶだけである。自分の事として過去の物事を現在に結び附けて考へられる日本人は、まあ滅多にゐるものではない。
どこかで「駄目なほーむぺーじ入門を斬る」を書籍にして呉れませんかね。固有名詞を伏せ字にするなど、配慮しますが。
冗談はともかく、「どこそこを斬る」ではなくて、「よくある勘違ひと正しい理解」みたいな形式に改めれば、世間的にはなんとかなるのではないかと思つたりもするのですが。
「ISO/IEC 15445:2000による效率的なサイト運營法」みたいな文章を、「PC Tips」用に、正月休みにでも書かうかと。
メモリが足らない、人目がある、その他の理由に基き、Opera 7βをuser mode+table off+image offで使つてゐるのだが、テーブルレイアウトで左端のセルに大量のアンカーをぶち込んでゐる某サイトを閲覽したりすると本文になかなか辿り着けなくて以下略。
朝、『R.O.D』2卷と3卷しか本を持たないで家を出ると云ふ失策をおかした。明日は4卷と5卷のほかに何か持つて行く積り。ライトノヴェルの1册も2册も大した差はない。と言ふか、10分で50ページも讀める本は本ではない。
さう言へば家永三郎さんが亡くなつたさうですね。死んだら人は何處へ行くのでせうね。
平成13年12月1日の出來事。http://user2.allnet.ne.jp/noz/以下のリソースが消滅。
朝、『R.O.D』一册しか本を持たないで家を出ると云ふ失策をおかした。
読子さんは、ライトノヴェルだのスポーツ新聞だのしか持つてゐないから、すぐに讀む本がなくなるのだと思ひます。保田與重郎全集とか福田恆存全集とか持ち歩けば、3日はもつのではないかと。俺の場合、一月くらゐもちますが。
と言ふか、某櫻花さんと読子さん、變なところで設定かぶつてるし。
話は飛ぶけれども、ウェブサイトの制作者にも、閲覽者が制作者の想定してゐない閲覽の仕方をする事を、全く考慮してゐない人がゐる。
一見「親切」なナヴィゲーションも「制作者の想定した特定の閲覽方法をした際にのみ便利なものでしかない」と云ふ場合もあつて、そのナヴィゲーション機能の所爲で「閲覽者は必要な情報を集めるのに苦勞する」と云ふ事もあり得る。
昨今、ウェブには家電的な發想が蔓延してゐるやうに思はれるのだが、その所爲でウェブが使ひづらくなつてゐると考へたらどうか。
複數の映像/音聲出力から選擇して、一本の映像/音聲入力にぶちこむ「AVセレクター」はある。一本の映像/音聲出力からきたラインを複數の映像/音聲入力にわけてぶちこむ爲のものはない。みたい。
ヴィデオデッキが、映像/音聲入力の信號を出力にスルーして呉れればいいんですがねえ。
この手のカタログには、何と何が繋がるかとか、どんな時に使へますとか、さう云ふ或意味どうでも良い情報は載せられてゐるけれども、どんな風に信號が流れるのかといつた本質的に有益な情報は絶對に載せられてゐない。
メーカの想定外の使用方法をしようとすると、ユーザはただ困惑するしかない。と言ふか、或物を買つて良いのかどうか判斷出來ない。だから、物を買へない。
どうして家電製品のマニュアルの見出しは、ユーザの知らないキャッチコピーばつかりなのでせうねえ。
Windowsを使ひにくいと言ふ人がゐるけれども、テレビやヴィデオの方が使ひ難いよ。BSとかCSとかケーブルテレビとかが絡むと、本當に譯がわからない。と言ふか、有料放送が絡むと、「たかがテレビ」が途端に難しくなる。
まあ、半世紀前の規格をいまだに引きずつてゐる分野ですからねえ。
と言ふか、例によつて、一般人があんまり必要としないものを、俺は欲しがつてゐるらしい。
「シスタープリンセスRePure」の好き勝手なと言ふか素晴らしい演出が話題を呼んでゐますが、何だかんだ言つてトンデモで毎囘げらげら笑ひながら觀てゐます。
「天使のしっぽ」と云ふ内容のトンデモな事ではシスプリに負けない變なアニメがあるんですが、これも、さう云ふものだと思つて觀ると、結構樂しめたりするので、アニメと言ふものは侮れませんね。
「良い話」は、内容が「電波」であればあるほど、心につきささりますね。良くなければただの屑です。
「闇黒日記」で長い項目は駄文と相場が決つてゐます。別名「ねこまたぎ」。
日曜日。SHARP製のヴィデオデッキが、ヴィデオカセットを排出する際、テープを卷込んで(時にはぶち切つて)呉れるやうになつたので、ヤマダ電機にてS-VHSのデッキを購入。懲りずにビクター製。
しかし、どうしてヴィデオデッキつて、新しければ新しいほど、操作性が惡いんでせうねー。10年前の製品の方が、寧ろ使ひ勝手は良かつたやうな氣がする。
それと、どんどんテレビのうしろがケーブルで埋めつくされていつてゐるのですが。
取敢ず、CMの自動カット機能は要らない。この機能を使ふと、CMの直後、必ず頭が切れる。
どうしてこんな有害な機能を、メーカは載せるんだらうか。發案者は「良いアイデアだ」と思つたのだらうが、誰か「やめろ」と言はなかつたのか。
Gコード豫約機能も要らない。テレビ欄を見難くしてゐるGコードは有害無益だ。Gコードはその存在自體が迷惑だ。
CATVの再送信で地上波の放送を觀てゐるので、Gコード豫約をする爲には、チャンネルの設定を全部してやらないとならない。こんな面倒な作業を強ひられるくらゐなら、Gコード豫約は要らない。
ビクターの新しく開發したらしい豫約方法は、やたら使ひ勝手が惡い。Gコード豫約を強要されてゐるものと推測。
百歩讓つて、俺が不要だと思ふ機能を有益であると考へる人がゐるとしても、リモコンなしだとヴィデオデッキの一部の機能が必ず使へない、と云ふ現状は、全てのメーカが改善すべきだ。
今のオーディオヴィジュアル環境は、或は家電製品は、複雜過ぎ。下手をするとPCの方がシンプルだ。
この現状はをかしい。
CATVのホームターミナル、BS内藏VHSヴィデオデッキ、BS非内藏VHSヴィデオデッキ、BS内藏S-VHSヴィデオデッキ、BS内藏TV、BS非内藏TV、BSアンテナ、その他を、うちでは接續して使つて(使はうとして)ゐるのだが、既に何が何だかさつぱりわからない。ヴィデオデッキやテレビのマニュアルの接續方法の説明は、全く役に立たない。
WOWOWには加入してゐないが、加入したら、ますます譯が分らん事になるのだらう。
と言ふか、CATVのホームターミナルがネック。サーヴィス提供者は、ユーザがサーヴィスを利用しないで金だけ拂つて呉れる方が良いから、わざと機器の使ひ勝手を惡くしてゐるのだらう。
http://www.deep-black.org/diary/diary0211b.html#loveを讀んで。ねずみ氏が福岡の小學校で先生をやつてゐたら、或意味非常に恐い成績表が生徒のところに行きさうだと思つた。
愛國心の評價が高い生徒に限つて、先生に苛められたりして。
岩波文庫版『玉勝間』は、やたらと讀み難いのです。と言ふか、讀む氣をなくさせるやうな版面になつてゐますねー。
正宗敦夫の日本古典全集刊行會版『玉かつま』は素晴らしい。日本古典全集刊行會の古典の本は、讀む爲の本だ。
- 金融管理局のESメンバー
- ESメンバーの癖に素顏を晒すのがGOTTの傳統ださうだが、愚の骨頂だな。
- エクレール
- 覆面は惡人のするものつて相場が決つてゐるのよ。
あんまり面白くないんだけど、ひどく詰らないと云ふ事もない。
パスワードを書いたメモをモニタのまはりにぺたぺた貼つておいたのだけれども、何のパスワードだつたのか、すつかり忘れてる。