正式版出るまで待つのが筋なんだろうけれど云々。
中小業者が、いまの時代を生きていくには、それぞれが知恵をしぼり、同時に団結して営業とくらしをささえあうことが大切です。このホームページには、各地のすすんだ経験や勇気を出して困難を解決した事例などが紹介されています。
平和でこそ商売繁盛だなんて、故事つけに過ぎない。商賣繁盛が目的なら商賣の事だけ考へてゐれば良いんだよ。何で一々憲法の事になんか口を出すんだ。
平和と繁栄の土台、憲法9条を守れ!だなんて、論理に飛躍があり過ぎる。御話にもならない。國を失つてでも商賣繁盛だなんて、商人根性にしても人間が腐つてゐやがる。(もつとも、共産黨が商賣にかこつけてそれつぽい組織を作り、市民を騙して運動に參加させてゐるやうなものなんだらうが)
うまくない人が一人混ざってるのってなんか新鮮でいいかも。 ビバップとかノエインとか見てるとなんかそう思う。
先日言った通り、XHTMLについて再度良く考える事にしたので、その事について色々と書いてあるリソースを検索して、片っ端からブックマークしていった。読むのは明日。
閲覧環境のトレンドに依存したマナーは、時代とともに変遷していくものです。
「政治と文学」論争の火の手は大正から昭和の始めにかけて文壇を席捲したが、太平洋戦争後、特に『新日本文学』、『近代文学』の作家を中心としてふたたび燃え上がり、今なお消えるに至っていないことは、つい最近奥野健男氏のまきおこした論争でもわかる。ここでその争いに首をつっこむつもりはない。というのも、外国人にはよく理解できないことが間々あるからだ。つまり、その議論のし方にしばしば腹芸独特のまわりくどさがあるし、また、文学的には大したものとも思えないプロレタリア小説を大まじめで論じ合っているようで、ちょうどそれは、東独の共産政権が、意図は買えても才能はまるっきりない「労働詩人」ハンス・マリヒウィツァをしきりに持ち上げているのに似ている。
文学と政治のつながりは、フランスではいつも極端に密接になり勝ちで、またそれでフランス文学に益するところが果たしてあったかどうかはなはだ疑問である。ゾラやゴンクールの文章が読むにたえないほどになるのはあまり政治的な党派の片棒をかつぎすぎるからだし、最近サルトルがノーベル賞の受賞をことわったことも、必ずしも彼の芸術的な高潔さを信じさせるものではない。もちろんサルトルが現代フランスでもっとも才能豊かな作家のひとりであることは間違いなく、受賞をことわる理由として、その声明の始めの部分で「作家としての独立を保っていたいから」と言っているのには、尊敬以上のものを感じさせられはする。しかし。そのあとに続くロジックがわからない。「アルジェ戦争中だったら、私も喜んで賞を受けただろう。私と一しょに自由のために戦った人たちの栄誉となっただろうから」と彼は書いている。言いかえると、彼は本来文学に与えられることになっている賞を政治活動に対して与えられることを期待しているのである。ところが、政治活動と言っても、サルトルの場合自分の党派のための活動を意味し、同じく「自由」というのも、必ずしも他人にとって自由であるとは限らない。だから、「パステルナークが外国では許されても自国で禁じられている作品によってノーベル賞を受けたのは遺憾である」と書くわけで、これを要するに、パステルナークなどに自由はあるべきでない、『ドクトル・ジバゴ』がソビエトで禁じられたのは全く正しいし、パステルナークはノーベル賞委員会から候補にえらばれるのを禁じられてしかるベきだった、ということなのだ。サルトルは自由、パステルナークは駄目――そしてその理由は政治であって文学ではない。「アンガジュマン」の文学、言いかえると文学と政治の混ぜもので困るのは、作家も作品も共に、くだらぬ政治的な争いにひきずりこまれやすいこと、言うなれば芸術の身売りである。
「文学と政治」諭争華やかなりし頃は、イギリスでもやはり状況は同じで、スペインの内乱、ヒトラーの抬頭当時、イギリスの文壇を牛耳っていたのはレフト・ブック・クラブだった。ところがこの両者の結婚はイギリス人の気風に合わず、やがて離縁する運命となった。スペンダーやオーデンのような作家がいだいたマルクシズムの夢――それが破れたのは、一つには、一九三九年にヒトラーとスターリンの間で交わされた裏切り的な不可侵条約とその後の東欧の略奪に原因があったが、もう一つ、イギリス文人の左翼好みをぐらつかせたできごとは、終戦の頃、ケストラーの『真昼の暗黒』とオーウェルの『一九八四年』が出版されたことだった。いずれも現代の全体主義の仮面をあばいたもので、その主題は徹底して政治的でありながら、ほんとうの芸術作品の持つ洞察と説得力をもって、純然たる文学的方法で処理されているのである。
日本における「文学と政治」論争にもっと似たものは、ドイツに求めたい。レン、カイザー、グラーザー、オシエッツキ、デープリンのようなワイマールの作家と、大正・昭和のプロレタリア作家の間には、たしかに対応を認めることができる。しかし、これらの作家は大てい皆、業績はたとえ堂々たるものであっても、相応ずる日本の作家と比べた場合、現実を描くことを標榜しながらその現実にははなはだ遠かったように思われる。たとえばベルリンの『ヴェルトビューネ』のような立派な雑誌が、ファシズムの勃興との戦いで自分にカを貸してくれるのはワイマールのデモクラシーだけだったろうに、かえってこのデモクラシーの基礎を危うくしてしまったことには、悲劇的なアイロニーが見られるのである。ドイツの文学が浮いた気持で左翼の手を握ったことは、ただ挫折を招いたばかりだった。この挫折から、戦後のドイツの作家たち、中でも広く宣伝された「グルッペ47」は、いまだに抜け切っていない。ベル、エンツェンスベルガー、グラース、ヨンゾンなどの詩や小説は、一見政治に関与しているかのようだが、よくよく見ると、権力者に対する漠たる不満や、世間一般へのむかつくような嫌悪や、深くしみこんだ倦怠感のみがそこから浮かび上って来るのである。こういう若い人たちの仕事として将来残るのは、すがすがしいほど冷静で飾りっけのない用語だろう。ブレヒトのドイツ文学への貢献も、恐らくそういうところにあるのではなかろうか。彼の政治的メッセージはもうすでに事実はずれで時代おくれの感があるけれども、彼の正確、明晰、簡素な文章は、ドイツ語がいつもおちいり勝ちな締まりのなさを防ぐのに、大いに効果的に働いているのである。
「br → l」や「img → object」という「空要素から非空要素への移行」のは、それこそ「ある文章をどのようにマーク付けするのが論理的か」という「意味づけ」のみに主眼を置いた置き換えであって、簡略化や効率化とは関係ありません。
繰り返しになりますが、「ある文章をどう要素構造化するか」というのは、メタ言語ではなく応用が扱う問題です。むしろ、応用が扱うのは「それ」だけです。ですから、文書をマーク付けするための応用で、
内容・意味の輕視する傾向、文書構造を明示する等の思想を輕視する傾向があるなんてことはまずないと思います。
応用が扱う問題であるのではなく、「応用が扱うべき問題」であり、その「すべき事」を現在のXHTML 2.0の仕樣策定者はしてゐない、だからこそ「形式主義」と言つて俺は非難してゐる。「形式主義」と言つて用語につつこまれるのなら、「官僚主義」とより曖昧な言ひ方に言換へる。
実際「p がブロック要素を内容にできるようになる」とか「section 要素型と h 要素型の導入」などというのは、文書構造をより適切に明示するための変更でしょう。これについても、少なくとも「目指すところ」は野嵜さんの主張に即したものだと思います。
変更もある、けれども、それが全體の方針として徹底されてゐない事が問題。全體としてXHTML 2.0には一貫した思想が存在しないやうに思はれる。もちろん、既存のHTMLにも無いけれども、今無いものだからと言つて將來も無くて良いとは思はない。その邊の議論がきちんとなされてゐるか何うか、甚だ不安。
というか、特別おかしいと思った点を指摘しただけで、議論全体に口を出すつもりもなかったので。
遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、「お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック」だそうである。
心外ですと思はれたのは當然で、私はsatoshiiさんの文章について言つたのではありません。satoshiiさんが引用された私の文章に「これはsatoshiiさんの文章についてのコメントである」のやうな記述はありません。
同意しますっていうか、src属性の無いobject要素は使いたくないので以下略。だとか
スキーマに valid ならば良いという考えは美しくないとは思わないのだろうか。だとか言はれても、説得力を感じない。或意味、「正しいHTML」の人が世間の人から攻撃されるのは、或意味、まともな仕樣を作らないW3Cの責任だ。さうなると、たなけん氏の言つてゐる事が或意味當つてゐると云ふ事になる。しかし、さう云ふ仕樣を「正しい」と看做して推奬する、その啓蒙者の方も、相當無責任だと言ふ事は出來ないだらうか。
空要素でなければいいやというXML 的發想なんて聞いたこともありません。そういうのが誤解だと言っているのです。
所謂云々と言つてゐるのであり、飽くまで今、俺がターゲットにしてゐる一部の「XML原理主義者」の發想を言つてゐる。俺は、根本的に勘違ひしてゐる「原理主義者」の連中を非難してゐるのだ。そして、その勘違ひをしてゐる連中を、satoshii氏はなぜか必死になつて擁護しようとしてゐる。ぐるなのである。
XML が
何でもかんでも「開始タグと終了タグで挾む」仕様になっているのは、構造解析の簡略化のためであって、応用の意味付けや構造定義とは何の関係もありません。
応用の意味付けや構造定義とは何の関係もないと云ふ事が、俺には不滿で不滿で仕方がない。そして、「XML原理主義者」がそこに不滿を持たない事が、俺には不滿で不滿で仕方がない。
XML と SGML の違いは「ある要素構造をどうタグ付けするか」であって、「ある文章をどう要素構造化するか」ではありません。にも関わらず、文章の構造化を論点とする議論の中で XML がどうのと仰っているので、的外れだと申しているのです。
誤解に基づいた批判では意味がない、
事実に即した議論なら何の問題もない、と言つてゐるが、その代りにsatoshii氏がしてゐるのは、話のすり替へであり、話題のすり替へである。「XML原理主義者」は何うしてかうも自分に都合の良い事に話をすり替へてしまはうとするのだらう。狡いとしか言ひやうがない。俺は「XMLかSGMLか」なんて話題には興味が無いんだよ。そんなのはデータを處理するプログラムの問題でしかない。データを作る人間の問題――データをどのやうに作るかの問題――それを問題にしたいのだ。そして、かうまで言つても解らないsatoshiiは、「だからデータの簡略化」云々、と、どうせまたぞろ話を「XML方面」へとすり替へるだらう。
私は HTML 3.0 が悪い仕様だったとは思いません。少なくとも HTML 3.2 よりはよっぽど上等な仕様であったと思います。特に MATH 関連の要素型が HTML 3.2 や HTML 4.0 で採用されなかったのは非常に惜しいことだと思っています。
構造解析の簡略化とは何の關係もない。satoshii氏には、飽くまで
構造解析の簡略化の觀點ではなく、
応用の意味付けや構造定義で、こちらの提言に乘つて來ていただきたいものである。もちろん、satoshii氏が「XML原理主義者」ならば、「意味づけ」だの「構造の定義」だのには全く興味が無い筈である。
構造解析の簡略化のためになされてゐる「努力」――それを「無駄な努力」と、ただ斬捨てようと云ふのではない。話が逆だと言つてゐるだけだ。内容については從來のまゝで、ただ小手先の技術で「何とか」しようしてゐる――それが今の「XHTML 2.0」の仕樣策定者のやつてゐる事である。しかし、
応用の意味付けや構造定義の觀點からHTMLの仕樣を再檢討するのが先だらうと。
応用の意味付けや構造定義とは何の関係もありません。と言つた。その
何の関係もありませんが問題だと俺は言つてゐるのに。satoshii氏が、野嵜の指摘の本質的でない一部分である「野嵜の誤解」を強調し、それによつて野嵜の指摘全體を封じ込め、「XHTML 2.0マンセー」の「原理主義者」の立場を守らうとしてゐる事は、何となく推測が附く。しかしだ、俺の言つてゐる事が非技術的で、ぼんやりとしか意圖が解らないにしても、それは俺がsatoshii氏達の意圖がぼんやりとしか解らないのと同じで、御互ひ樣である。俺は文系の人間で、satoshii氏は理系の人間かも知れない。だからこそ、「ぼんやり」の意圖であつても、汲んで戴きたい訣である。
何の関係もありません、と言つた
応用の意味付けや構造定義について、俺はsatoshii氏でも誰でも、「XMLの側」の人から釋明なり何なりを聞きたい。
XML と XHTML と XHTML 2.0 を同列に扱つて等ゐない。「XML原理主義者」がさう云ふ事をやつてゐる、と、さう言つてゐるのだ。今のXHTML 2.0の仕樣は、ただ單に、語彙が制限されたXMLでしかない。そして、さとみかんを見よ、そこからリンクの張られてゐる先で、昨今の議論で、XHTML 2.0の「自由」を歡迎するかのやうな口吻を洩らすXHTMLのサイトの制作者がゐるではないか。satoshii氏よ、とぼけるのも大概にしていただきたい。
XML がと書いたのである。何とも人を馬鹿にした話である。何でもかんでも「開始タグと終了タグで挾む」仕様になっているのは、構造解析の簡略化のためであって、応用の意味付けや構造定義とは何の関係もありません。
何と言ふか、object の中身は「代替テキスト」だと言ふのが、最う「空要素でなければいいや」的な、所謂「XML 的發想」そのまんま。
空要素でなければいいやというXML 的發想なんて聞いたこともありません。そういうのが誤解だと言っているのです。
構造解析の簡略化のために
XML がと述べてゐる。さう云ふ仕樣に「なっている」のだとsatoshii氏は認めてゐる。なのになぜかsatoshii氏は野嵜の事を「誤解してゐる」と極附ける。何でもかんでも「開始タグと終了タグで挾む」仕様になっている
XML 的發想と云ふ野嵜の用語を捉へて、揚げ足をとつてゐる。全く、何をとぼけてゐるのだらう。實に汚い戰術だと言つて良いだらう。
応用の意味付けや構造定義とは何の関係もありません。と云ふXHTML 2.0の重大な問題の辯解をしないで濟む。satoshii氏は、何としてでもXHTML 2.0の現在までの改訂内容を守りたかつた。「だから原理主義者なのである」と俺は言ひたい。satoshii氏がXHTML 2.0を守りたい理由、明かに「XML的」だからであらう。そして、その發想の根柢には「SGMLからXMLへ」と云ふ「流れ」が「ある」と云ふ信念が横たはつてゐるに違ひない。何であれ「XML」でさへあればsatoshii氏はそれで良いのであり、だからこそ「ISO-HTML派」の野嵜をぶつ潰してやらうと考へたのである。satoshii氏は、野嵜がISO-HTMLの内容面を重視して、SGMLと云ふ形式である事に目を瞑つてゐる事が我慢ならない。兔に角XMLでさへあれば、内容面で何んなに問題があらうともsatoshii氏は滿足なのである。以上の邪推は、satoshii氏の反論と釋明を期待してのもの。恐らく、例によつてsatoshii氏はあきれ返つて見せるであらうが、それだけで話を濟まさうとするのであれば、俺の推測は當つたものと看做す。
<p>遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、</p>
<blockquote>
<ul>
<li>お弁当</li>
<li>おやつ</li>
<li>遠足のしおり</li>
<li>リュックサック</li>
</ul>
</blockquote>
<p>だそうである。</p>
<p><img src="Nude.png" alt="蓑蟲さん丸裸"></p>
イーデス・ハンソンだったか米国に行くとしばらく言葉が出ないと言っていた。ネイティブでも使ってないとうまくいかない。と云ふ話をしながら
日本人が日本語など学ぶ必要はないなんて結論を出せるつて何うよ。言葉が出ないイーデス・ハンソンだつて戀の相手があるなら些かの狂ひもなくI love you.位言ふだらう。馬鹿馬鹿しい。
「国語学の定義」ではなく、「福田氏およびその周辺の方が言っている国語学」のあやまりですよ。辞書よりたちが悪い。と言つたのだが、それにした野嵜の
時枝誠記氏や橋本進吉氏の學説は國語學の學説だが、それは一般的な國語學とは懸離れたものだと言ふのだらうか。と云ふ反論に反應しないで、「fukuoka人」と云ふ野嵜の言ひ方にだけ反應して見せた。無名氏は、
ははは、この状態ではnani人になるのかな。思った通り野嵜は短絡的だな。と書込んだのである。無名氏は、野嵜の理窟でなく、野嵜の字句に反應した。無名氏は、「国語学」なる字句を用ゐたが、それは理窟を言つたのではなく、ただ野嵜を非難する口實として持出したに過ぎなかつた。もし理窟が大事なら、無名氏は「国語学」に關して野嵜の反論に再反論しない訣には行かない。ところが無名氏は野嵜の「国語学」に關する反論に再反論しなかつた。もちろん、出來る訣がないからだが、無名氏は自分の理窟が破れてゐる事を全く氣にしない。無名氏は、ただ野嵜を罵りたかつただけだからである。しかし兔も角、文章の理窟を讀取り、理性的に反論する、といつた事が、この無名氏には出來なかつた訣である。そして、それだからこそ、この無名氏は、非論理的に、感情的に、氣に入らない相手を罵倒する、と云ふ困つた眞似をやらかした。そして、それが困つた眞似である事をこの無名氏は自覺してゐない。自分のやつてゐる「テロ行爲」が困つた事であると思つてゐないからである。
日本人が日本語など学ぶ必要はない、である。
W3Cの物を「利便性が高い」と思い込み、人に教える行為が当然ならば、
IE等を「利便性が高い」と思い込み、人に教える行為も当然である。何故なら、IE信者は後者を利便性が高いと思い込み、W3C信者は前者を利便性が高いと思い込んでいる。
W3C(の信者の主張)をIE等(の信者の主張)以外から「利便性が高くない」と結論することが出来れば、W3C(の信者の主張)は利便性が低いことになる。
IE等(の信者の主張)をW3C(の信者の主張)以外から「利便性が高くない」と結論することが出来れば、IE等(の信者の主張)は利便性が客観的に低いことになる。
W3C(の信者の主張)をIE等(の信者の主張)以外から「利便性が高くない」と結論することが出来れば、以下にもかかつてゐるからである、とたなけん氏は反論するかも知れない。が、たなけん氏の書き方ではさう云ふ風には判斷出來ない。
W3C(の信者の主張)をIE等(の信者の主張)以外から「利便性が高くない」と結論することが出来れば、W3C(の信者の主張)は利便性が低いことになる。は文章として無茶苦茶。文章が駄目なら全部駄目だ。先づ、「W3Cを『利便性が高くない』と結論する」とは何だらう。たなけん氏本人は「わかつてゐる」のかも知れない。しかし、「他人」が讀んで、この文章を「わかる」とは思はれない。次に、「W3Cの信者の主張を『利便性が高くない』と結論する」とは何だらう。()を使つて意味を賦與しようとして、文章自體をナンセンスなものにしてしまつてゐる。「利便性の高い主張」とは何の事だらう。もちろん、たなけん氏本人は「わかつてゐる」積りなのである。たなけん氏は獨り合點に基いて文章を書いてしまつてゐる。他人が讀んで意味を理解出來ない文章は、實は、書いてゐる本人がそもそも意味を理解出來てゐない文章である。
非W3Cには需要がある。需要があるから非W3C講座が多いわけだ。
需要が多い物の方が多くの人にとって受け入れられている物である。
自分が「多くの人が受け入れられる物」だと思ったものでも、ろくに確かめもせずそうだと信じ込む行為、
それは信仰宗教に勧誘する信者と変わりないではないか。
自分は無宗教に移行した。
CSS等の論争を宗教に例えたのが問題である。次いで、
無宗教を宣言したのが問題である。他人を信者呼ばはりして、自分だけ「何も信じてゐないよ」と客觀的なやうな顏をすれば、高みから他人を見下ろしてあれこれ「批評」する「第三者」たる權利を持てたやうに思へるからな。
遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、
「お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック」
だそうである。
HTML 文書の作成とは、ある文書の文書構造をタグを用いて明示化していくことです。その際には、特定のスキーマに従ってマークアップしていくこととなります。で、そのスキーマではマークアップできない文書構造というものも勿論存在します。顕著な例では、HTML 4.01 のスキーマを用いたときのリストを含む段落です。と言つてしまふのは如何なものか。「出來てゐる」と云ふ事實が「ある」のに、「出來ないと云ふのが理想」だから「出來ない」と云ふのが事實である「事にしてしまふ」と云ふ論法をいわい氏はやらかしてゐる。たなけん氏や条域もさうだけれども、「最初に結論を極附けて、その結論に持つて行く爲に事實や理窟をねぢ曲げる」と、さう云ふやり方をいわい氏もやつてゐる。「信者」のする事は云々。
スキーマに valid ならば良いという考えは美しくないとは思わないのだろうか。
それで、多作能力のある者は、恐るゝところなく多作していゝのであるが、多作能力者が勢揃ひして、千枚單位を呼聲として筆を執りだしたら、小説愛好者は脅威を感ずるであらう。一年は三六五日である。一日は二十四時間である。寢食を廢して小説を讀んでばかりゐても、數十人數百人の作家の、千枚單位の作品がどれだけ讀めるであらう。私は長編は、非常に面白くて、卷を擱けないほどのものなら兔に角、大抵の長編は拔き讀みすることにしてゐる。さういふ讀み方をして作品の價値が分るものかと云ふ作家は、事理に疎い、杓子定規の徒輩である。一日は二十四時間で、一年は三百六十五日である事にさへ氣のつかない人間である。私は「カラマゾフ」を讀んで感に堪へてゐるのだが、それでも、その長つたらしいのに當惑してゐる。いはんや凡庸の徒の千枚單位をや。廣く讀まれ、よく讀まれるためには、十枚單位、十五枚單位を心がけてはどうであらうか。西洋の小説には長つたらしいのが多い。日本には俳句和歌はじめ、短小の文字で思ひを述べる習慣が傳統的に存在してゐるのである。徒に西洋の眞似をしなくてもいゝではないか。……。
最近ジョン・デューヰの「自由主義と社會的行動」を飜譯する機會を得たがで始まる福田恆存の論文「民衆の心」を收録。多分持つてゐるが本の山の中に埋もれてしまつて出て來ないので買ひ直した)、第九號(昭和二十一年九月號・オルダス・ハックスリ・福田恒存譯「社會改革とその限界」を掲載)、第十號(昭和二十一年十月號)。「文藝」昭和二十年十一月號(第二巻第八號)。ヴァレリイ「固定觀念」(多分持つてゐる)。濱田青陵『東亞文明の黎明』(創元社・日本文化名著選)。
どうやったらそんな結論が導かれるんですかねのやうな人を小馬鹿にしたやうな言ひ方をして野嵜を論破したかのやうに思つてゐる。野嵜は全く論破などされてゐないのであつて、そもそもの条域の主張がわけがわからないものである以上、条域の主張が野嵜の主張を壓倒する事もなく、依然として野嵜の主張の正しさは守られてゐるのである。
僕は野嵜さんの「言葉遣いへの批判」を、「他者に対する不法な攻撃」と考えているので、僕自身は民主主義・自由主義に反対しているつもりなどありません。
但し、自己と相反する思想や言論を攻撃するときに、攻撃された側が防御手段を取ると攻撃者側が勝手に抱く被害妄想のシンボルとして作用することもある。言論の自由のすり替えに注意すべし。基本的な理念として公的な事柄における自分の意見を発表する自由を示し、それは他者に対する不法な攻撃などには適用されないものである。
察するに、「XHTML でない XML で事足りる」という意味だとは思うのですが、その場合、その「XHTML でない XML」の語彙はどこから持ってくるんでしょうか。制作者ひとりひとりが勝手に定義するんですか? そんなことをしたら相互運用性も何もあったものじゃないからこそ、HTML 元にして標準の語彙を策定したのだと思いますが。
そんなことをしたら相互運用性も何もあったものじゃないと云ふのは當り前の話で、だからこそ私はXHTML 2.0はHTML 3.0の二の舞になり兼ねないと指摘してゐるのです。
野嵜さんの XML 観はおかしいというか変というか、間違っていると思います。妙な書籍にありがちな「XML は HTML の進化形」のような誤解をなさっているんじゃないでしょうか。
「XML は HTML の進化形」のような誤解をしてゐるからこそ、「XHTML派」の人々は「自由なマーク附け」を望み、「より自由にマーク附けできるXHTML 2.0」を禮讚してしまつてゐるのではないですか。
野嵜さんはよく「XML は云々」式の批判をなさってますが、それらの批判はほとんどの場合「SGML は云々」と言い換えても成立するものです (むしろ、実際には XML の場合の方が問題が緩和されているものがほとんどです)。XML について議論する時は、その辺りを踏まえてお書きいただきたいのですが。