闇黒日記


平成十八年二月二十八日
昔シルバーアローで某有名ミステリのネタばれやつてゐて吹いた事がある。牧あけみ何うしてゐるんだらう。
ぐぐる先生によればハーレクイン・コミックスやつてゐるんだと。自己解決。
平成十八年二月二十八日
最近はCanvas2とLEMON ANGEL PROJECTが面白くて仕方がない。寧ろ練馬大根ブラザーズの方が今一つ。コンチキマートの御話、某実況方面では評價が高いやうだけれども、話そのものが型に嵌り過ぎてゐて、小細工で面白く見せかけてゐるに過ぎないやうな印象がある。パロディの面では工夫して面白くしようとしてゐるけれども、ストーリーの根幹の部分が古臭い。一往、樂しめる人は樂しめるやうに出來てゐたので、後半録畫出來なかつた人は御愁傷さま。Canvas2は無難にストーリーが展開してゐて安心して觀られる。結構眞面目に話を作つてゐるやうな印象がある。LAPは、プレイボールの時のCMで印象が惡かつたから、豫想してゐたよりも眞面目に話を作つてゐるのでそれで印象が良くなつたもの。主役の聲優が非道いのは大體「レモンエンジェル」と呼ばれる幾つかのプロダクトでは何時もの事であり或意味「レモンエンジェルもの」のアイデンティティであるのだから問題ない。作畫がアレとか話がアレとかいろいろ文句を言へるやうな代物だけれども、千九百八十年代のテイストを再現しようとして努力してゐるらしき氣配は感じられる。と言ふか、AVEX、プレイボールと言ひLAPと言ひ、「なつかしい」路線で思つたよりも良くやつてゐると思ふ。
平成十八年二月二十八日
「このサイトはリンク先が別ウインドウで開くのが不便。もっとユーザビリティを考へた設計に」云々。

平成十八年二月二十七日
テレビ東京よみがえる空は二時から。
平成十八年二月二十七日
「中二病禮讚」みたいな文章を書いたら何うかと思ひ附いたが例によつて思ひ附いただけで書いてゐない。
誰かを「中二病」呼ばはりする奴らは理想を持たない。少くとも「中二病」の人間は理想主義者である。もつと日本人は青二才つぽい事をどんどん言ふべきだ。云々。
平成十八年二月二十七日
よみがえる空の物語の盛上がり方は異常。來週Fate/stay night @ tvkからの移行が大量に發生すると見た

平成十八年二月二十六日
http://syasya.or.tv/diary/200602#d25
Opera 9の件。例のWeekly buildのBuild 8238では元に戻つてゐるのですと。正式版出るまで待つのが筋なんだろうけれど云々。
Weekly build, Return of the Macintosh! - Desktop Team - - by Desktop Team
Weekly buildの方で色々變はるのは仕方がないけれども、Technical Previewとか言つておほつぴらに出して來た時、變へて呉れたのは如何なものかと>>Opera社の中の人。
平成十八年二月二十六日
と言ふか、赤福入れるのに大騷ぎし過ぎだ俺。
平成十八年二月二十六日
結局8.52に戻した。プログラムは最新の機能が載つてゐる事よりも安定して動く事の方がずつと重要だ。

平成十八年二月二十五日
古書展が不作だと更新が無い法則。
平成十八年二月二十五日
商店街の舖道とか驛とかがリニューアルの時、床を綺麗なタイルに張り替へられる――これは屡々とても迷惑な事だ。見た目は良くても、つるつるのタイルだと、雨が降つた時に滑り易い。昔の驛の階段、がたがたで見た目は惡かつたけれども、滑り止めが附いてゐて、今よりは安心して登り降り出來た。舖道は普通のアスファルトの方が滑らなくて良い。何故人は見た目に騙されるのだらう。
滑り難い煉瓦敷きみたいな舖道にして呉れてゐる所もある。考へてリニューアルをする人もゐるのだらう。けれども、印象が明るければそれでいいや、と云つた安易な發想で街路をデザインしてゐるところも多いやうに思はれる。驛のプラットフォームをつるつるのタイルで敷き詰めるなんて馬鹿な事をやらかす例も多い。なんでわざわざ危險な場所をより危險にしようとするのか、俺には理解出來ない。
平成十八年二月二十五日
戰爭は善である-平成山人の、あれこれ評論日誌
平成十八年二月二十五日
Opera 9のTP2、いろいろ駄目になつてない?
JavaScriptのオプション、メニューから消滅してない? User JavaScriptの設定が出來なくなつてゐる。
Opera 8.5の[Tools]-[Preferences]-[Advanced]のダイアログ
20060225Opera85.jpg
Opera 9.0 TP2の[Tools]-[Preferences]-[Advanced]のダイアログ
20060225Opera90.jpg
[Advanced]タブの中の[Content]のところ(タブではないし何て言へば良いんだこれ?)が無くなつてゐる。と言ふか、タブで分けて、そのタブの中でまた變な分類の仕方をする、なんて「屋上屋を架す」つて奴だよね? 何でこんな變な仕樣にしたんだらう。
フレームで構成されたサイトで、マウスのスクロールボタンでのスクロールが出來なくなつてるし。
Bookmarkへの登録方法が變更になつてゐる件に就いては前に文句を言つた。なんでCtrl+tが「新しいタブを開く」なんだよ。
要は「Operaはカスタマイズするな」と云ふ事なんだらうな。
と言ふか、なんでこんなにバンバン仕樣變更するんだらう。迷惑だ。プログラムのヴァージョンアップで、機能は強化すべきだが、仕樣變更は一切すべきでない。Mozillaの連中もさうだがOperaの開發者もそれが解つてゐない。HTMLとかの互換性には煩い事を言ふ癖に、プログラムの互換性には全然氣を遣はない、と云ふのは何うかしてゐる。ユーザは操作性の變更を強要されるのが一番嫌なんだよ。サイトの制作者にしてもブラウザの開發者にしても、自分逹の都合しか考へてゐない。勿論、閲覽者やユーザも自分の都合しか考へないが、それが正しいのだ。
平成十八年二月二十五日
教へていただきました。何うも有難うございます。
20060225Opera90JS.jpg
物凄く判り難い場所に隠匿されてゐる。やつぱり「弄るな」と云ふ事なんだらうなー。
平成十八年二月二十五日
TV東京・あにてれ 陰からマモル!
今夜は御休み。

平成十八年二月二十二日
田村書店での拾ひ物。
"AGENDA" Vol.8 Nos.3-4 Autumun-Winter 1970
"AGENDA" Vol.17 Nos.3-4 _ Vol.18 No.1 (3 issues) Autumun-Winter-Spring 1979/80

平成十八年二月二十一日
田村書店での拾ひ物。
Petronius "The Satyricon"

平成十八年二月二十日
よみがえる空は良い。

平成十八年二月十六日
SOLTYREI
テレビ朝日のソルティレイ、今夜は御休み。原因はオリンピック。
tvk一時十五分から二時間連續あにめ。
アニメ特集(tvk)
鍵姫物語、リンクがアレなのは御愛敬。今夜二時四十五分から。
放送時間変更&特別番組情報

平成十八年二月十五日
XHTML™ Modularization 1.1
例によつて讀んでゐない。

平成十八年二月十三日
全国商工団体連合会(民商・全商連)――日本共産党の關聯團體

中小業者が、いまの時代を生きていくには、それぞれが知恵をしぼり、同時に団結して営業とくらしをささえあうことが大切です。このホームページには、各地のすすんだ経験や勇気を出して困難を解決した事例などが紹介されています。

嘘つけよ。誰が何う見ても左翼の市民團體ぢやないか(實際には日本共産党の關聯團體)。平和でこそ商売繁盛だなんて、故事つけに過ぎない。商賣繁盛が目的なら商賣の事だけ考へてゐれば良いんだよ。何で一々憲法の事になんか口を出すんだ。平和と繁栄の土台、憲法9条を守れ!だなんて、論理に飛躍があり過ぎる。御話にもならない。國を失つてでも商賣繁盛だなんて、商人根性にしても人間が腐つてゐやがる。(もつとも、共産黨が商賣にかこつけてそれつぽい組織を作り、市民を騙して運動に參加させてゐるやうなものなんだらうが)
今日「2・13全国中小業者決起大会次第」なんてものがあつて、そのデモ行進が丁度俺の晝飯時にぶつかつた訣だ。「憲法改惡に繋がる國民投票の實施反對」とか言つてゐて、隨分國民を信用してゐないんだな、國民を馬鹿にしてゐやがる、とか思つたけれども、それはそれで良い。景気恢復とか社會保障擴充とか、そんな事は殆ど言はず、ひたすら憲法改惡反對を繰返してゐて、それが中小企業の營業と何の關係があるんだと思つたけれども、言ひたければ何を言つても良い(風が吹けば桶屋が儲かるくらゐだから、憲法が變らなければ中小企業の商賣も繁盛するんだらう)。けれども、デモ行進が三省堂の前の交叉點を渡るのに、おまはりに命じたんだか何だかやつたらしく、自分逹の渡る方の信號をずつと青にしてゐた、それが氣に入らない。途を横切るこちらは、赤信號で何分も待たされたんだ、古書會館の古書展に辿り着くのに五分は遲れた、憲法なんかよりも古本の方が大事だ。ドライヴァは苛立つは、おまはりのゐる前で堂々と赤信號を渡る歩行者もゐるは――「憲法改惡反對」とスローガンを擴聲器で繰返す運動家どもに對する一般人の印象は最惡になつただらう。デモもストライキも權利であり、他人に迷惑をかける事が許される、と俺は掲示板に書いたから「やるな」とは言はないが。
平成十八年二月十三日
で、その古書展、新宿展。買つたもの。原隨園『ギリシア文化』(百花文庫)。安本美典『ついに解明された三世紀後半の謎 邪馬台国は、その後どうなったか』(廣済堂)。三浦つとむ『大衆組織の理論』(勁草書房)。文藝春秋編緝「文學界」昭和二十五年十月號(中村光夫・福田恆存・大岡昇平・三島由紀夫「座談會 小説の秘密」掲載)。「文藝」昭和二十五年十月號(河出書房)(福田恆存・武田泰淳・加藤道夫・三島由紀夫「座談會 新しき文學への道」掲載)。「劇作 19」昭和二十四年一月號(世界文學社)(福田恆存・青山光二・武田泰淳・中村眞一郎・梅田晴夫「座談會 新劇縱横談」掲載)、「演劇」昭和二十六年八月號(白水社)(中村光夫・神西清・大岡昇平・福田恆存・三島由紀夫「座談會 劇團に直言す」掲載)、同昭和二十七年一月號(福田恆存「龍を撫でた男」と大木直太郎の戲曲鑑賞「笑わせない喜劇」を掲載)、同昭和二十七年二月號(作福田恆存・演技芥川比呂志「パントマイム超現實派」掲載。鍵吉田健一・囘答者福田恆存・千田是也・本多顯彰「十二のイメージ フォルスタッフ」も掲載)。

平成十八年二月十二日
軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - 「建国の日」に考える
現行憲法無效論について觸れられてゐる。
平成十八年二月十二日
それにしても土曜の御休みの日にかぶると「建国記念の日」だなんて完全に忘れてしまふな。
平成十八年二月十二日
G.B.サンソム『西欧世界と日本』、日清戰爭邊までで記述が終つてゐるのだけれども、明かに「それ以降」の日本と「それまで」の日本とに連續がある事を示唆してゐる。司馬遼太郎は、日本は日露戰爭の頃までとそれ以降とで斷絶があるかのやうに言つてゐたけれども、そんな事はない。日本人は明治の頃までは立派で、それ以後は急に獨善的になつた――司馬史觀とは「明るい明治と暗い昭和」なる圖式を前提とした歴史觀だが、どうもをかしい。「昭和史」における軍人の專横的な態度、武斷的なやり方は、士族に據る藩閥政治が行はれた明治時代に既にあつた事だ、それはサンソムの本を讀めば判る。明治政府は、公家の政府ではなく、實際には徳川時代以來の武家の政府であつた――もちろん、公家も政治にかかはつたけれども、長い間政治から離れてゐた公家だけでやつて行ける訣はない、潰された筈の徳川の家臣が明治政府でも結構活躍してゐた。特に明治初期、政府は主に士族の不滿を抑へるのに相當力を注いでゐたのであつて、その爲に、武家の經濟的な面のみならず武家の本來の仕事である軍事の面でも考慮せざるを得ない状況にあつた。日本の政治についても、サンソムは明かに現代と明治時代との間に連續性がある事を示してゐる。即ち、與黨と野黨の對立の仕方、それが明治以來、少しも變つてゐない事をサンソムは述べてゐる。明治時代から、反對黨は、單に反對の爲に野合し、嫌がらせを行ひ、時には要人の暗殺も行つた。サンソムは、明治の政治家が反對者に對して貼つた典型的なレッテルとして「天皇に對して不忠ではないか」と云ふ言ひ方があつた事を指摘してゐる。これが明治時代の與黨・政府・反對黨、全ての政治家が言つた事である、と、サンソムは指摘してゐる。かうした言ひ方は、昭和初期に、ますます強力に言はれるやうになつた事だが、實際の天皇を蔑ろにしたもので、單に反對者を默らせる爲の口實に使はれたものである點で一貫してゐた。サンソムは、日本人が西歐の文化・文明をどの程度受容れてきたかを考察してゐるが、精神的な面で日本人は昔ながらの考へ方を變へないで來てゐると述べてゐる。佛教にしてもキリスト教にしても、本質的には日本人の精神に影響は與へてゐない。
ところで、全く知らないで書いてゐたのだけれども、今日は司馬の菜の花忌なんださうですな。(司馬遼太郎記念館 菜の花忌)調べてみると伊東靜雄の亡くなつた日(三月十二日)も菜の花忌で、實はそつちの方が先。(菜の花忌)
平成十八年二月十二日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0602.html#10p3

うまくない人が一人混ざってるのってなんか新鮮でいいかも。 ビバップとかノエインとか見てるとなんかそう思う。

LEMON ANGEL PROGECTとか……あれは非道いよ。話は最近面白くなつて來た氣がするけれども。
平成十八年二月十二日
何度も何度も書いたけれどもしつこく書く。どうして御天氣情報とか地震速報とかのサイトが凝つた作りになつてゐるんだよ。フレーム構造になつてゐたり、フラッシュ使つてゐたり。JavaScriptで移動とか、何を考へてゐるんだよ。tableレイアウトも止めて貰ひたい。
凝つたレイアウトとか、アクセス出來るブラウザの限定とか、さう云ふのは「いざと言ふ時」に困る。その手のサイトは出來る限りシンプルで誰でもアクセス出來るやうに作らなければならない――天氣情報にエンタテインメントなんてものは必要ない。人の命に關る事なんだよ。少し前まで非道いところはInternetExplorerかNavigatorかでしかアクセス出來なかつた。Operaでアクセスすると見られなかつたし。
平成十八年二月十二日
Opera 9 Technology Preview 2を使つてゐるが、キーバインドが變更されたりして使ひ辛くなつた。前はCtrl+tでブックマーク登録だつたのがCtrl+dに變更(Ctrl+tは新しいタブを開くのに使はれるやうになつた)。實はブックマーク登録になんか使ふ事はなくて、Ctrl+tはキー操作だけでサイトのURLとサイト名をコピーするのに使つてゐたのだけれども、Ctrl+dのブックマーク登録ではURLが出て來なくなつてコピー出來なくなつた。OperaにはデフォルトでURLを簡單なキー操作でコピーする設定が無いものだから、この仕樣變更は甚だ迷惑なもの。F8でURL欄をアクティヴにしてコピーすれば良いと云ふ事だらうが、一度の操作でURLとサイト名をコピー出來なくなつて面倒なんだよ。なんでOperaは操作方法を變更して過去のヴァージョンと互換性がないやうにしたんだらう。過去のユーザを切捨てたいのだらうか。新しい操作方法は、何んなに「便利」で「合理的」なものであつても、昔からの方法に馴れてゐるユーザにとつては「不便になつた」事にしかならない。それに、キーボードショートカットなんかに「合理的」も糞もあつたものではない。キーボードショートカットは變へない方が良いんだよ。Operaは間違つてゐる。
平成十八年二月十二日
頑張れ、司馬史観!!
米欧回覧ニュース第12号/司馬史観「司馬史観をどう見るかーーー歴史と小説」
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/2semi/ozaki.html「司馬史観について」
有鄰 No.434 P4 「司馬史観と現代」/有鄰 No.434 「司馬史観と現代」 記事内 紹介書籍リスト
『自虐史観』を責める者の『自虐性』『妄想性』|『海舌』 -(世界の深層から動向を推理!)
自由主義史観「いわゆる「自由主義史観」が提起するもの」
think or die: 司馬の危険性
世に倦む日日 : 歴史認識と自己認識 − ブリッジとしての司馬遼太郎
http://www.ne.jp/asahi/shin/ya/desk/middleclass/13.htm「司馬史観は田舎者の素直さをねじ曲げている」
歴史修正主義の克服 立ち読み
司馬遼太郎の張り扇史観
鱧男Blog (元祖・ 藤村屋ファンクラブ):KAWADE夢ムック 司馬遼太郎の「戦国時代」
つばめ飛ぶ 餌を取りては 子のもとへ: 歴史家と歴史小説作家の違い‐松浦玲氏の見解‐
司馬遼太郎、沈寿官、NHK合議の詐術
耽美派では教えない歴史
深夜のNews: a hundred years ago その1
「人民新報」http://www.rousyadou.org/1140.1.htm/http://www.rousyadou.org/1142.htm:北田大吉「「自由主義史観」の「保険」にされた司馬文学」
読書北海道復刊第69号
主張182「今週の主張・2003年1月20日「公」は「幸」たりうるか。今年は、「坂の上の雲」ですな。皆さんのノルマは。」
文明と文化
慶應キャンパス新聞 : 『司馬遼太郎と三つの戦争』青木彰著、朝日新聞社
司馬遼太郎:没後10年、司馬作品とは−−関川夏央氏、中村彰彦氏に聞く−学芸:MSN毎日インタラクティブ
[wsfj 1378] 【所謂『ポチ保守』の解剖学その 2 】 @ODA ウォッチャーズ
松岡正剛の千夜千冊『この国のかたち』司馬遼太郎
So-net blog:遠藤浩一覚書:「近現代史の総点検」シンポジウム報告
K's home page
司馬遼太郎について考えてみました
金魚のぶんこ: ここいらで、司馬遼太郎。
鎌倉という時代/司馬遼太郎
読書エッセイ|本の水脈019
司馬遼太郎 殉死 書評カフェ
上昇気流
ゲンダイネット「【NEWSがわかる本】2005年10月25日 掲載 日露戦争の新たな史実を発掘」
現代唯物論発展のために
http://www.ccn.aitai.ne.jp/~saint/a3.htm「日露戦争 11/13」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mmr/glocal/97/g970210(496).htm「『グローカル』97/02/10(496号)」
自由主義史観研究会「ご意見箱」00/05 MAIN
映画と本と音楽にあふれた英語塾 | 司馬遼太郎 『殉死』
チャンネルK
http://www.sasakijo.com/journal011112.htm
読 書 の す ゝ め
「乃木將軍と旅順攻略戰」ダイジェスト
司馬遼太郎を読む
司馬遼太郎記念館
平成十八年二月十二日
すまない。落語天女おゆいは面白いです。がんばれさおりん。
平成十八年二月十二日
http://lan.rgr.jp/diary/2006/02b#Twelve-Two

先日言った通り、XHTMLについて再度良く考える事にしたので、その事について色々と書いてあるリソースを検索して、片っ端からブックマークしていった。読むのは明日。

さう云ふ時はリンクを張るんだ。宣言は誰も裨益しない。
平成十八年二月十二日
chris casciano's placenamehere.com: Ten Simple CSS Tips
覚え書き@kazuhi.to: Chris Casciano氏の選んだCSSティップス10選

平成十八年二月十一日
閲覧環境のトレンドとウェブデザインの作法

閲覧環境のトレンドに依存したマナーは、時代とともに変遷していくものです。

逆に言ふと、時代と共に變遷して行くものには永遠の價値等存在しない。

平成十八年二月十日
昨日拾つた本。
Port-Royal
平成十八年二月十日
皇室典範の問題。皇族で妊娠した方がをられるから已むを得ない、今囘は「改正案」を引つ込める、と云ふのだが、これで「改正」反對派は安心しない方が良い。「改正」推進派は「既に出た結論なのだから」と言つて、機會を見計らつて「改正案」を採擇するやう要求するからだ。それが半年後か、一年後か、五年後か、五十年後かは判らない、しかし、「皇族が少くなるシステム」が「ある」以上、「改正案」が再び持出される可能性は極めて高いのであつて、今囘はただ問題が先送りされたに過ぎない。
「有識者会議」なる非民主的に選出された組織、これがもつともらしく「民主的」つぽい「女系天皇」「女性天皇」を認めるべきだと結論を出して見せた。これが傳統の破壞と云ふ事で非難を浴びてゐる訣だが、兔に角結論を出して見せた事が皇室典範問題の最大の問題だ。今後、皇室典範「改正」の議論は、今囘の「結論」を大前提として行はれる事になる。既成事實が作られた訣だ。
非民主的に選出されたメンバーによつて何らかの提案がなされる、その提案が既成事實となつて以後の議論の方向が決められる――國字改革で一度使はれた手で、傳統の破壞が目的である點でも共通するのだけれども、かうした非民主的な手續きが用ゐられた、と云ふのが俺の皇室典範「改正」に反對する最大の理由。
福田 逸の備忘録―独断と偏見 : 今こそ皇室典範改正の論議を
平成十八年二月十日
書窓会。古めの本が多め。但し面出しで棚に並べられたもの多し。良い本が結構澤山あつた。以下、買つたもの。津田左右吉『思想・文藝・日本語』(岩波書店)。会田雄次・谷泰『愛と裁き カトリック 世界の宗教2』(淡交社)。ジョージ・オウエル『カタロニア讃歌』(現代思潮社)。編集大野晋「現代のエスプリ別冊 日本語の系統」(至文堂)。「思想」(「『近代化』をめぐって」千九百六十三年第十一号 第四百七十三号・岩波書店)。中谷宇吉郎『霜柱と凍上』(生活社・日本叢書一)『科學の芽生え』(生活社・日本叢書十二)(「生活叢書」は戰後直後に出た恐らく日本の出版史上最も粗末な作りの出版物。ざら紙を四つ折にして切つただけのもので、綴ぢてもゐない。中谷宇吉郎が時代に合つた優れた出版だつたとして褒めたシリーズ)。「文藝春秋編緝 文學界」昭和二十七年二月號(福田恆存「チャタレイ裁判」を掲載)。「近代文學」昭和二十二年四月號(福田恆存「ひとつの寓話」、荒正人・加藤周一・佐々木基一・花田清輝・埴谷雄高・日高六郎・福田恆存「座談會 平和革命とインテリゲンチャ」を掲載。八雲書店)。「劇作」26(福田恆存「フィガロの結婚をみて」を掲載)「劇作」29(福田恆存「堅壘奪取」を掲載)(世界文學社)。社会思想社の河合榮治郎全集を三册。

平成十八年二月九日
昨日今日と、雜誌「心」を古本屋で纏め買ひ。
ヨゼフ・ロゲンドルフ「『政治と文学』ノート ――ファウストのイデオロギー化――」(「心」昭和四十年新年号掲載)

「政治と文学」論争の火の手は大正から昭和の始めにかけて文壇を席捲したが、太平洋戦争後、特に『新日本文学』、『近代文学』の作家を中心としてふたたび燃え上がり、今なお消えるに至っていないことは、つい最近奥野健男氏のまきおこした論争でもわかる。ここでその争いに首をつっこむつもりはない。というのも、外国人にはよく理解できないことが間々あるからだ。つまり、その議論のし方にしばしば腹芸独特のまわりくどさがあるし、また、文学的には大したものとも思えないプロレタリア小説を大まじめで論じ合っているようで、ちょうどそれは、東独の共産政権が、意図は買えても才能はまるっきりない「労働詩人」ハンス・マリヒウィツァをしきりに持ち上げているのに似ている。

文学と政治のつながりは、フランスではいつも極端に密接になり勝ちで、またそれでフランス文学に益するところが果たしてあったかどうかはなはだ疑問である。ゾラやゴンクールの文章が読むにたえないほどになるのはあまり政治的な党派の片棒をかつぎすぎるからだし、最近サルトルがノーベル賞の受賞をことわったことも、必ずしも彼の芸術的な高潔さを信じさせるものではない。もちろんサルトルが現代フランスでもっとも才能豊かな作家のひとりであることは間違いなく、受賞をことわる理由として、その声明の始めの部分で「作家としての独立を保っていたいから」と言っているのには、尊敬以上のものを感じさせられはする。しかし。そのあとに続くロジックがわからない。「アルジェ戦争中だったら、私も喜んで賞を受けただろう。私と一しょに自由のために戦った人たちの栄誉となっただろうから」と彼は書いている。言いかえると、彼は本来文学に与えられることになっている賞を政治活動に対して与えられることを期待しているのである。ところが、政治活動と言っても、サルトルの場合自分の党派のための活動を意味し、同じく「自由」というのも、必ずしも他人にとって自由であるとは限らない。だから、「パステルナークが外国では許されても自国で禁じられている作品によってノーベル賞を受けたのは遺憾である」と書くわけで、これを要するに、パステルナークなどに自由はあるべきでない、『ドクトル・ジバゴ』がソビエトで禁じられたのは全く正しいし、パステルナークはノーベル賞委員会から候補にえらばれるのを禁じられてしかるベきだった、ということなのだ。サルトルは自由、パステルナークは駄目――そしてその理由は政治であって文学ではない。「アンガジュマン」の文学、言いかえると文学と政治の混ぜもので困るのは、作家も作品も共に、くだらぬ政治的な争いにひきずりこまれやすいこと、言うなれば芸術の身売りである。

「文学と政治」諭争華やかなりし頃は、イギリスでもやはり状況は同じで、スペインの内乱、ヒトラーの抬頭当時、イギリスの文壇を牛耳っていたのはレフト・ブック・クラブだった。ところがこの両者の結婚はイギリス人の気風に合わず、やがて離縁する運命となった。スペンダーやオーデンのような作家がいだいたマルクシズムの夢――それが破れたのは、一つには、一九三九年にヒトラーとスターリンの間で交わされた裏切り的な不可侵条約とその後の東欧の略奪に原因があったが、もう一つ、イギリス文人の左翼好みをぐらつかせたできごとは、終戦の頃、ケストラーの『真昼の暗黒』とオーウェルの『一九八四年』が出版されたことだった。いずれも現代の全体主義の仮面をあばいたもので、その主題は徹底して政治的でありながら、ほんとうの芸術作品の持つ洞察と説得力をもって、純然たる文学的方法で処理されているのである。

日本における「文学と政治」論争にもっと似たものは、ドイツに求めたい。レン、カイザー、グラーザー、オシエッツキ、デープリンのようなワイマールの作家と、大正・昭和のプロレタリア作家の間には、たしかに対応を認めることができる。しかし、これらの作家は大てい皆、業績はたとえ堂々たるものであっても、相応ずる日本の作家と比べた場合、現実を描くことを標榜しながらその現実にははなはだ遠かったように思われる。たとえばベルリンの『ヴェルトビューネ』のような立派な雑誌が、ファシズムの勃興との戦いで自分にカを貸してくれるのはワイマールのデモクラシーだけだったろうに、かえってこのデモクラシーの基礎を危うくしてしまったことには、悲劇的なアイロニーが見られるのである。ドイツの文学が浮いた気持で左翼の手を握ったことは、ただ挫折を招いたばかりだった。この挫折から、戦後のドイツの作家たち、中でも広く宣伝された「グルッペ47」は、いまだに抜け切っていない。ベル、エンツェンスベルガー、グラース、ヨンゾンなどの詩や小説は、一見政治に関与しているかのようだが、よくよく見ると、権力者に対する漠たる不満や、世間一般へのむかつくような嫌悪や、深くしみこんだ倦怠感のみがそこから浮かび上って来るのである。こういう若い人たちの仕事として将来残るのは、すがすがしいほど冷静で飾りっけのない用語だろう。ブレヒトのドイツ文学への貢献も、恐らくそういうところにあるのではなかろうか。彼の政治的メッセージはもうすでに事実はずれで時代おくれの感があるけれども、彼の正確、明晰、簡素な文章は、ドイツ語がいつもおちいり勝ちな締まりのなさを防ぐのに、大いに効果的に働いているのである。


平成十八年二月八日
http://www.satoshii.org/markup/notes/2006/02#date07-2
やつとわかつた。XMLとは關係ないのに「XML的發想」と言つたから惡いと。この手の發想をする人々がXMLの仕樣を作つたのだらう、それが何か氣持ち惡い、と、さう云ふ意識があつて言つた。不適切であると云ふ事だからその用語だけ撤囘する。しかし俺は馬鹿だから謝らない。XMLを策定し、XHTML 2.0を作つてゐる人々は、大體同じメンタリティの持主だらうと思ふし、どうもそのメンタリティが氣に入らない。「邪道」とか「美しくない」とかいつた言ひ方が通用してゐる界隈だから俺の「氣に入らない」と云ふ言ひ方も通用するだらうと思つて言ふ。
平成十八年二月八日

「br → l」や「img → object」という「空要素から非空要素への移行」のは、それこそ「ある文章をどのようにマーク付けするのが論理的か」という「意味づけ」のみに主眼を置いた置き換えであって、簡略化や効率化とは関係ありません。

「意味づけ」なんてものは全然考へずに、兔に角空要素を排除したいと云ふ形式的な觀點から、單純に置換へるだけの目的で置換へてゐると思ふ。強制改行を表現するbrは訣が解るが、「行」を意味するlなんてものは理解不可能だ。brを形式的に空要素にしないだけの爲にlなんてものをでつち上げて、強制改行の前後に「行」と名前をつけて恰好を附けてゐるだけに過ぎないと思ふ。かう云ふ形式主義に俺は反對。安易な置換である時點で既に「論理的なマーク附け」の考察をしてゐない事は明かではないか。
平成十八年二月八日

繰り返しになりますが、「ある文章をどう要素構造化するか」というのは、メタ言語ではなく応用が扱う問題です。むしろ、応用が扱うのは「それ」だけです。ですから、文書をマーク付けするための応用で、内容・意味の輕視する傾向、文書構造を明示する等の思想を輕視する傾向があるなんてことはまずないと思います。

応用が扱う問題であるのではなく、「応用が扱うべき問題」であり、その「すべき事」を現在のXHTML 2.0の仕樣策定者はしてゐない、だからこそ「形式主義」と言つて俺は非難してゐる。「形式主義」と言つて用語につつこまれるのなら、「官僚主義」とより曖昧な言ひ方に言換へる。

実際「p がブロック要素を内容にできるようになる」とか「section 要素型と h 要素型の導入」などというのは、文書構造をより適切に明示するための変更でしょう。これについても、少なくとも「目指すところ」は野嵜さんの主張に即したものだと思います。

慥かにさう云ふ変更もある、けれども、それが全體の方針として徹底されてゐない事が問題。全體としてXHTML 2.0には一貫した思想が存在しないやうに思はれる。もちろん、既存のHTMLにも無いけれども、今無いものだからと言つて將來も無くて良いとは思はない。その邊の議論がきちんとなされてゐるか何うか、甚だ不安。
平成十八年二月八日

というか、特別おかしいと思った点を指摘しただけで、議論全体に口を出すつもりもなかったので。

些細な用語の問題を大袈裟に採上げて、「野嵜はこんなにをかしな事を言つてゐる、野嵜は無知は明かだ、野嵜の言つてゐる事は無視すべきだ、みなさん、野嵜の言ふ事は無視して下さい」と、さう言つて宣傳してゐるものと思つた。多分、「義」とかその邊の連中の攻撃の所爲で俺は被害妄想になつてゐるのだらう。
平成十八年二月八日
「仕樣書のどこそこのかう云ふ記述を讀むと、かう云ふ風に書いてあつて、これは斯う解釋すべきである。よつて誰某の何とかと云ふ解釋は仕樣書の記述に適合しないから成立たない」と、さう説明すれば良いのに、わざと「仕樣書を讀んだ上でさう云ふ發想が湧いて出たのであれば、根本的に讀解力がないのだらう」みたいなただ人を小馬鹿にするだけの書き方をするのは、根本的に説明力が缺如してゐるのではないか。
平成十八年二月八日
朝顔日記 - 遠足に持っていくもの
何度も書くけれども、

遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、「お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック」だそうである。

は、ソースを見て戴きたいが、これで完全な形でマーク附けが出來てゐる。一々鉤括弧の中をqとかblockquoteとかにする必要はないし、列挙された項目をリストにする必要もない。ならばobjectを噛まして云々なんて事をする必要もない。
多くの場合、最もシンプルなマーク附けが一番良いマーク附けだ(と敢て言ふ)。
個人的には、文章を改變するなんて本末轉倒だと思ふ。マーク附けの爲に本文がある、と云ふのは何う考へてもをかしな話だからだ。
平成十八年二月八日
全ての言語はリニアな形で表現され、往つたり來たりしたり、途中で分岐したりする事はない――例へばゲームなんかで分岐があつた場合でも、プレイヤーはその分岐した一つのラインしか一時點では認識出來ない。平行して複數のラインを同時に認識する、と云ふのは、曲藝的にする事であるし、それぞれのラインはそれぞれのラインで一貫した内容を保持する。
少くとも、コンピュータのデータでは、全ての情報が線的に排列される。エディタやプロセッサではインデントされたり折畳まれたりして起伏があるかのやうに見えるデータでも、デジタルデータである限り、有と無の羅列には起伏がない。どんなコンピュータも一度はプログラムやデータを頭から讀込んで、順次解釋したり、一聯の流れとして處理したりする(マルチプロセサの竝列處理は今は考へない)。
マーク附けされたテキストデータでも、話は同じで、頭から尻尾までデータは順次竝んでゐて、その中で入れ子構造なり何なりがあつてマーク附けされてゐるに過ぎない。殊、自然言語に基本的に依存するHTMLなんぞでは、データベースのデータのやうに嚴密な構造は存在しない。この點であらゆる自然言語ベースの記述は起伏がないと言つて良い。
殊に自然言語を基にしたマーク附け言語のデータは、データベースの規則だつた配列のデータと違つて、頭から順次解釋されるべきリニアなデータであり、文書のセクション構造を明示しても、それでメリットがあるとは必ずしも言へない。小學校で形式段落と異る意味段落なんて事を勉強するけれども(最近のゆとり教育で、まだそんな事をやつてゐるか何うかは知らない)、實際のところ、文章にある形式段落は、ただ見易くする、讀み易くするだけの爲にあるものであり、意味段落は單に意味の切れ目であるだけ――と言ふより、意味の纏まり毎に文章を分ける事で意味段落なる抽象的な觀念が存在するやうになるに過ぎない。文章のセクション構造の明示なんて言つてみても、精々「ありさうなもの」を「わざわざある事にして見せる」だけの事にしかならない。それはそれで意味があると言ふ人もゐるだらうが、實際のところ、意味で分かれたセクション構造を基にプログラムで何らかの解析を試みる人は皆無であらう。もし我々が、見易さ・讀み易さの爲に段落を分けるだけであるならば、それは表現の爲の行爲であり、それ自體として意味を持つものとは言へなくなる。この時、敢てセクション構造を明示する事は、制作者の自己滿足の行爲であると言ふ事すら出來る。既存のHTMLの仕樣が、事實上、プレゼンテーション・表現を前提とした仕樣である以上、現状のHTMLを用ゐる限り、セクション構造の明示は大した意味を持たなくなる。これが今後のHTMLにおいて、「意味に基くウェブ」への根本的な方針の轉換によつて(可成皮肉な言ひ方をしてゐるので用語への突込みは不可)、意味に基いた構造の明示が要請されると云ふ事になるならば、それはそれで「あり」ではあらう。が、その方針が何處まで徹底され得るのかは疑問である。
今更言ふのも何だけれども――そもそもHTMLは可能か。
平成十八年二月八日
G.B.サンソム『西欧世界と日本』讀了。多分三か月くらゐかかつてゐる。
平成十八年二月八日
http://www.satoshii.org/markup/notes/2006/02#date07-2の「追記」の部分(idが今現在latestになつてゐる處だが、この文書のlatestなるid、更新される度に場所が變つて行くと云ふ代物なので云々)。心外ですと思はれたのは當然で、私はsatoshiiさんの文章について言つたのではありません。satoshiiさんが引用された私の文章に「これはsatoshiiさんの文章についてのコメントである」のやうな記述はありません。
平成十八年二月八日
動畫のストリーミングサーヴィスなんかで使つてゐる*.asxとかのファイルがXMLもどきの記法を使つてゐたりする。

平成十八年二月七日
Objects, Images, and Applets in HTML documents
讀返してみたけれども、objectの中身は代替テキストであり、data屬性で指定されたファイルをロード出來ない時に限つてレンダリングされるべし、と、そんな事が言はれてゐるだけに過ぎず、data屬性を書いてゐない場合については何の規定もなされてゐない。仕樣策定者が單純に、img、applet、iframeを置換へる事だけしか考へてゐなかつたらしい樣子が窺はれる。何と言ふか、objectの中身は「代替テキスト」だと言ふのが、最う「空要素でなければいいや」的な、所謂「XML的發想」そのまんま。object、本當に形式的にでつち上げたに過ぎない要素つぽい。野嵜の所謂「マーク附けの理念」なんてもの、W3Cの連中はこの頃から少しも考へてゐなかつたんだらう。何でもかんでも「開始タグと終了タグで挾む」やうにすべし――その程度の發想で、HTMLの仕樣を考へてゐたんだらう。そこで出來上つた仕樣は、マーク附け言語と言はれながら、「ユーザエージェントにレンダリング方法を指示する言語」になつてしまつた。HTML 3.0と本質的に何處が違ふの、と質問したら、仕樣策定者からはどんな答が返つて來るのだらう。
正直言つて、「objectを間に噛ましてブロック要素をぶちこむ」式の記法が「絶對に駄目」「仕樣的に駄目」とすべき根據を仕樣書上に見出す事は出來なかつた。けれども、「邪道」は「邪道」なんだらう。「さうしない」事が「マナー」なのだ。どうも、この手の「マナー」が「W3C的に正しいHTML」の世界には多過ぎるやうな氣がする。W3Cの仕樣が好い加減過ぎるのだ。そして、その好い加減な仕樣を基に「嚴密な書き方」と言つてゐるから「正しいHTML」の人は「をかしい」と看做される。同意しますっていうか、src属性の無いobject要素は使いたくないので以下略。だとかスキーマに valid ならば良いという考えは美しくないとは思わないのだろうか。だとか言はれても、説得力を感じない。或意味、「正しいHTML」の人が世間の人から攻撃されるのは、或意味、まともな仕樣を作らないW3Cの責任だ。さうなると、たなけん氏の言つてゐる事が或意味當つてゐると云ふ事になる。しかし、さう云ふ仕樣を「正しい」と看做して推奬する、その啓蒙者の方も、相當無責任だと言ふ事は出來ないだらうか。
取敢ず、今の不備が多いHTMLの仕樣に從ふにしても、より嚴密な書き方をしたい人は、W3Cの指示する以上に、獨自にストイックな書き方をした方が良ささうだ。W3Cの言つてゐる事を超えた勝手な事はしないで、ただ、その範圍内でさらに限定的な記法を用ゐる。それならば文書の互換性は保たれる――もちろん、重要なのは文書の互換性である。俺は、HTML 4.01 Strictの仕樣に照らしてそれを使つてもvalidであるとされるtableなる要素を一切使はないやうにして來た。が、今後はobjectも使はないやうにしようと思ふ。imgの方がまだしも仕樣としてすつきりしてゐる。imgのalt屬性の中にはマーク附けされたテキストなんて絶對に書けない訣だし。objectを使はないで何か問題があるかと言へば、何も問題はない。仕樣的には合つてるのだから。object關係の「定説」は、何か變だと思ふが、無理に逆らふ必要もない。既に「ある」仕樣は守る、その範圍内でさらに限定する――それは自分の方針であるが、他人には推奬出來るに過ぎない事であり、押附ける事は出來ない事である。だが、取敢ず「あやしい」ものには手を出さない、と云ふのは、保守的な態度であると言へよう。俺はHTML保守派であり、革新主義者ではない。
あと、HTMLの仕樣では、form關係があやしい。「マーク附けの理論」でformを説明出來る人がゐたら、是非とも名乘り出ていただきたい。と云ふのは冗談。あれなんか、明かにGUIの部品を並べる爲の仕樣で、それを「テキストの暗示的に存在する要素を明示する」なんて説明するのは無意味だらう。
XHTMLでは、兔に角モジュールで機能ごとに分類して、それぞれでそれなりに仕樣を決める方向に向つてゐるやうだが、それら全體を一貫する思想は何だらうか。「XMLである」では話にならない。XHTMLは、「XMLである」のみならず「HTMLである」。「XMLであるだけでは互換性が低い。だから使へる要素を制限するんだ」――なるほど。では、さう云ふ制限的な意圖を持つた仕樣であるXHTMLが、XHTML 2.0で「より自由」な方向に進化してゐるのは何なのか。「objectをかましてpの中にブロック要素を入れるのには反對」と云ふ人が、「pの中に自由にブロック要素を入れられるやうになるXHTML 2.0」を大歡迎してゐる。「仕樣書で公認される事が重要なんだよ」と云ふ事だらうか。ならば、HTML 3.0が仕樣として成立してゐたら、それは「良い仕樣」であつた事になつてしまふ。ただ「仕樣として成立した」「成立しなかつた」で、その仕樣の定めるところのものが良くなつたり惡くなつたりする。ところが仕樣が「成立する」には「成立すべき所以」が必要であり、そこには仕樣を仕樣の外から判斷する觀點が必要である。今のHTML/XHTML關係の論爭では、さう云ふ觀點が缺如した「XML原理主義者」が多い。「XMLさへ理解してゐれば、野嵜さんのやうな事は言はないんですよ」なんて言ふのは、「内輪の話」に入らない人間を排除してゐるだけの事だ。XHTMLの議論では、一度、XMLの枠の中から外に出て、自由に考へる事が必要だと思ふ。
平成十八年二月七日
XHTMLは、「テキストにマーク附けする」と云ふのを原理とするのか、「ユーザエージェントに整形させる方式を指示する」と云ふのを原理とするのか、その邊の事は檢討しておいて良い。今のW3C――と言ふか、XHTML 2.0の仕樣を檢討してゐる人々――は、「兔に角XMLでありさへすれば良い」式の發想でやつつけ仕事をしてゐるやうにしか、私には思はれない。原理の部分で突込んだ議論をしておかなければ、XHTML 2.0は空中分解するだらう。
平成十八年二月七日
http://www.satoshii.org/markup/notes/2006/02#date07

空要素でなければいいやというXML 的發想なんて聞いたこともありません。そういうのが誤解だと言っているのです。

俺の誤解ではない。そつちこそ誤解してゐる。もし空要素であつても良いのなら、XHTML 2.0ではどうして空要素のbrを置換へようとしてゐるのだらう。意地になつて内容のある要素で何でもかんでもやらうとしてゐるぢやないか。それに、俺は所謂云々と言つてゐるのであり、飽くまで今、俺がターゲットにしてゐる一部の「XML原理主義者」の發想を言つてゐる。俺は、根本的に勘違ひしてゐる「原理主義者」の連中を非難してゐるのだ。そして、その勘違ひをしてゐる連中を、satoshii氏はなぜか必死になつて擁護しようとしてゐる。ぐるなのである。

XML が何でもかんでも「開始タグと終了タグで挾む」仕様になっているのは、構造解析の簡略化のためであって、応用の意味付けや構造定義とは何の関係もありません。

さう云ふ説明をして滿足してしまふからsatoshii氏は「XML原理主義」なんだよ。簡略化してゐるのは解析の都合である――そんな「プログラマ的」な視點に拘るのは好い加減にして貰ひたい。簡略化のやうな「量の觀點」は何うでも良いのであつて、マーク附けの「質の觀點」から議論せよと、俺はさう要求してゐる。XHTML 2.0の「改訂」の内容が、応用の意味付けや構造定義とは何の関係もないと云ふ事が、俺には不滿で不滿で仕方がない。そして、「XML原理主義者」がそこに不滿を持たない事が、俺には不滿で不滿で仕方がない。

XML と SGML の違いは「ある要素構造をどうタグ付けするか」であって、「ある文章をどう要素構造化するか」ではありません。にも関わらず、文章の構造化を論点とする議論の中で XML がどうのと仰っているので、的外れだと申しているのです。

完全な誤讀。俺はXMLとSGMLの違ひなんて事を話題にしてゐない。誤解に基づいた批判では意味がない事実に即した議論なら何の問題もない、と言つてゐるが、その代りにsatoshii氏がしてゐるのは、話のすり替へであり、話題のすり替へである。「XML原理主義者」は何うしてかうも自分に都合の良い事に話をすり替へてしまはうとするのだらう。狡いとしか言ひやうがない。俺は「XMLかSGMLか」なんて話題には興味が無いんだよ。そんなのはデータを處理するプログラムの問題でしかない。データを作る人間の問題――データをどのやうに作るかの問題――それを問題にしたいのだ。そして、かうまで言つても解らないsatoshiiは、「だからデータの簡略化」云々、と、どうせまたぞろ話を「XML方面」へとすり替へるだらう。

私は HTML 3.0 が悪い仕様だったとは思いません。少なくとも HTML 3.2 よりはよっぽど上等な仕様であったと思います。特に MATH 関連の要素型が HTML 3.2 や HTML 4.0 で採用されなかったのは非常に惜しいことだと思っています。

これが「XML原理主義者」の本音である。彼等もまた「table原理主義者」同樣、「自由なマーク附け」をしたいのであり、それは即ち「自由なレイアウト」なのである。
しかし、ここでsatoshii氏が仕樣の良い惡いを評價してゐるその基準は、構造解析の簡略化とは何の關係もない。satoshii氏には、飽くまで構造解析の簡略化の觀點ではなく、応用の意味付けや構造定義で、こちらの提言に乘つて來ていただきたいものである。もちろん、satoshii氏が「XML原理主義者」ならば、「意味づけ」だの「構造の定義」だのには全く興味が無い筈である。
平成十八年二月七日
俺には、コンピュータの技術に携はる一部の人々の、餘りにも無機的な表情、餘りにも平板な文體が、氣持ち惡く感じられて仕方がない。「〜です」「〜でしょう」と叮嚀は叮嚀な文體を使ふ彼等だが、其處に全く人間味を感じられない。satoshii氏にしてもさうなのだが、彼等は、餘りにも自信に満ち、餘りにも冷静に應對してゐる。彼等が感情を見せるのは、せいぜい高所に立つて相手にあきれて見せる時だけ――俺は思ふのだが、「向きになつて怒るやうな、さう云ふ眞似をしないのは良い事である」と、さう信ずる人、その結果、ひたすら餘裕ぶつこいて見せてゐる人が、ウェブには多過ぎやしないか。さう云ふ人々が、技術の仕樣を語り、法律の條文を論ふ。彼等は、それが良い事だと信じてゐるのだらう。しかし、人間味を缺いた話しぶり、人間味を缺いた議論が、技術に偏向した機械的な仕樣の押附けや、法律の文言を楯にとつた冷酷な糺彈に繋がつてゐるとしたら。先日のたなけん氏の文章をぶつ叩いた俺だが、或意味、氏の見解には贊成せざるを得ない。慥かに、機械的に仕樣を扱ひ、技術を技術であるがゆゑに他人に押附ける一部の人々は、信者である。HTMLの議論で、俺はさう云ふ非人間的な「信者的」な態度を排除したい。技術、技術と言つてゐる人々からは鼻で嗤はれるかも知れないが、俺は技術至上主義に抵抗する立場である。技術的に餘りに無知である事はよろしくないと俺は思つてゐる。けれども、だからと言つて、ひたすら技術技術と言ふ事もよろしくないと思つてゐる。仕樣には從ふと言つても、盲從する積りはない、こちらから仕樣に關與する餘地があつても良い筈である。
平成十八年二月七日
XHTMLにしても、構造解析の簡略化のためになされてゐる「努力」――それを「無駄な努力」と、ただ斬捨てようと云ふのではない。話が逆だと言つてゐるだけだ。内容については從來のまゝで、ただ小手先の技術で「何とか」しようしてゐる――それが今の「XHTML 2.0」の仕樣策定者のやつてゐる事である。しかし、応用の意味付けや構造定義の觀點からHTMLの仕樣を再檢討するのが先だらうと。
平成十八年二月七日
XHTML 2.0は、プレゼンテーションの爲の言語を作るのが目的なのか。「然り」――ならば、なぜ「テーブルレイアウト」をあんた逹は非難するのかね。「結果としてプレゼンテーションと云ふ目的を達成出來れば良い」――これは野嵜の發想ではない、けれども、さう云ふ考へ方をしてゐる人は確實に存在する。さう云ふ人をXHTML 2.0を「プレゼンテーション言語」として作つてゐる人々は、どうやつて説得するのか。「構造解析が簡略化出來る」云々と説いたところで、彼等は「でも、結果としてプレゼンテーションが出來れば何だつて良いんだ。俺は慣れたやり方が良い」と言返して來るだけだらう。「XMLなんて嚴格なの、やつてられない」と言ふかも知れない。ユーザエージェントなり何なりが苦勞しても、普通の人は困らない。そこで何と言つて説得するか――そこを俺は聞きたい訣だが、satoshii氏は答へない。答へないで「野嵜は無知だ」「分かつてゐればそんな疑問はそもそも抱かない」と、かう言ふ。新興宗教の信者が、非信者に言ふのと同じ科白だ。宗教でないのなら、説明すれば良い。それが納得出來るものならば、納得するだらう。satoshii氏の説明は、俺には全く納得出來ないものだつた。と言ふより、そもそもsatoshii氏は説明してゐないのである。satoshii氏は、応用の意味付けや構造定義とは何の関係もありません。と言つた。その何の関係もありませんが問題だと俺は言つてゐるのに。satoshii氏が、野嵜の指摘の本質的でない一部分である「野嵜の誤解」を強調し、それによつて野嵜の指摘全體を封じ込め、「XHTML 2.0マンセー」の「原理主義者」の立場を守らうとしてゐる事は、何となく推測が附く。しかしだ、俺の言つてゐる事が非技術的で、ぼんやりとしか意圖が解らないにしても、それは俺がsatoshii氏達の意圖がぼんやりとしか解らないのと同じで、御互ひ樣である。俺は文系の人間で、satoshii氏は理系の人間かも知れない。だからこそ、「ぼんやり」の意圖であつても、汲んで戴きたい訣である。何の関係もありません、と言つた応用の意味付けや構造定義について、俺はsatoshii氏でも誰でも、「XMLの側」の人から釋明なり何なりを聞きたい。
平成十八年二月七日
俺はXML と XHTML と XHTML 2.0 を同列に扱つて等ゐない。「XML原理主義者」がさう云ふ事をやつてゐる、と、さう言つてゐるのだ。今のXHTML 2.0の仕樣は、ただ單に、語彙が制限されたXMLでしかない。そして、さとみかんを見よ、そこからリンクの張られてゐる先で、昨今の議論で、XHTML 2.0の「自由」を歡迎するかのやうな口吻を洩らすXHTMLのサイトの制作者がゐるではないか。satoshii氏よ、とぼけるのも大概にしていただきたい。
そもそもsatoshii氏よ、あなたはl要素とかいつた單なるbrの置換へを、歡迎してゐるのか。XHTML 2.0を支持するとは、さう云ふ單なる書換へを全面的に是認する、と云ふ事を意味する。即ち、意味に基いたマーク附けや文書構造に基いたマーク附けのやうな理念拔きの、單なる技術的な置換へを支持する、と云ふ事を意味する。
「さうではない、誤解です」とsatoshii氏が言ふなら、話は解る。それでsatoshii氏が、XHTML 2.0が、從來のHTML/XHTMLに比べて、如何に優れたマーク附け言語となつたか、を説明すれば、俺は納得しただらう。ところがsatoshii氏は、XML が何でもかんでも「開始タグと終了タグで挾む」仕様になっているのは、構造解析の簡略化のためであって、応用の意味付けや構造定義とは何の関係もありません。と書いたのである。何とも人を馬鹿にした話である。
平成十八年二月七日
そもそも。

何と言ふか、object の中身は「代替テキスト」だと言ふのが、最う「空要素でなければいいや」的な、所謂「XML 的發想」そのまんま。

空要素でなければいいやというXML 的發想なんて聞いたこともありません。そういうのが誤解だと言っているのです。

objectが空要素imgその他の單なる置換へである事は、事實ではないか。何處にも誤解はない。
おまけに、XHTML 2.0で檢討されてゐるl要素が、單なる空要素brの置換へに過ぎない事も、これまた事實である。何處にも誤解はない。
W3Cの仕樣策定者は、既存の空要素を嫌つて、内容のある要素を作りたかつたのである。疑ひやうのない事實である。
satoshii氏は、「誤解だ」「誤解だ」と繰返してゐる。ところが、satoshii氏は、構造解析の簡略化のためXML が何でもかんでも「開始タグと終了タグで挾む」仕様になっていると述べてゐる。さう云ふ仕樣に「なっている」のだとsatoshii氏は認めてゐる。なのになぜかsatoshii氏は野嵜の事を「誤解してゐる」と極附ける。
satoshii氏は、XML 的發想と云ふ野嵜の用語を捉へて、揚げ足をとつてゐる。全く、何をとぼけてゐるのだらう。實に汚い戰術だと言つて良いだらう。
以下、敢て邪推を書く。satoshii氏は、何としてでも野嵜が誤解してゐる事にしたかつた。さうすれば、野嵜の批判を封殺する事が出來る。野嵜の批判を封殺すれば、応用の意味付けや構造定義とは何の関係もありません。と云ふXHTML 2.0の重大な問題の辯解をしないで濟む。satoshii氏は、何としてでもXHTML 2.0の現在までの改訂内容を守りたかつた。「だから原理主義者なのである」と俺は言ひたい。satoshii氏がXHTML 2.0を守りたい理由、明かに「XML的」だからであらう。そして、その發想の根柢には「SGMLからXMLへ」と云ふ「流れ」が「ある」と云ふ信念が横たはつてゐるに違ひない。何であれ「XML」でさへあればsatoshii氏はそれで良いのであり、だからこそ「ISO-HTML派」の野嵜をぶつ潰してやらうと考へたのである。satoshii氏は、野嵜がISO-HTMLの内容面を重視して、SGMLと云ふ形式である事に目を瞑つてゐる事が我慢ならない。兔に角XMLでさへあれば、内容面で何んなに問題があらうともsatoshii氏は滿足なのである。以上の邪推は、satoshii氏の反論と釋明を期待してのもの。恐らく、例によつてsatoshii氏はあきれ返つて見せるであらうが、それだけで話を濟まさうとするのであれば、俺の推測は當つたものと看做す。
平成十八年二月七日
俺は今更SGMLに返せ戻せと喚いてゐるのではない。ただ、今の「流れ」に「ある」やうな、内容・意味の輕視する傾向、文書構造を明示する等の思想を輕視する傾向を是正すべきだ、と主張してゐるに過ぎない。その邊、餘りにも「XML擁護」の立場に拘るsatoshii氏は誤解してゐるやうに思はれる。
object要素にしても、餘りに形式的・技術的な面からのみ議論されてゐる。技術の話だから、XMLは形式だから――そんな「理窟」を言つても仕方がない。解つてゐる。問題はXMLアプリケーションであるXHTMLの「語彙」をどのやうに撰擇するかの問題である。要素をどのやうに決めるかが問題である訣だが、そこで「XMLである」と言つてみても仕方がない、XMLの仕樣の中で如何に人間さまの意圖を活かすかが問題なのであり、そこには人文的な思想の問題が必然的に議論の對象となる。それが今、餘りにも等閑にされてゐる、さう俺は指摘してゐる。satoshii氏がその邊の事を全く理解しなかつた事(しようともしなかつた事)を俺は殘念に思ふ。
平成十八年二月七日
「objectを間に噛ましてpの中にブロック要素をぶち込む」記法に反對する意見は、「気持ちが悪い」「邪道」「不思議マークアップ」といつたレッテル貼りをする、「仕様書にはこういう風に使ってもよいとは書かれていない」と述べつゝ反對の立場を表明する、「objectの中身は代替テキストでしかない」と言つて仕樣策定者の意圖を推測して見せる、の三パターンに分けられる。何れにしても根據としては薄弱なものだ。それなのに、「この界隈」では既に「タブー」が雰圍氣として出來上りつゝある。
平成十八年二月七日
object問題の議論の都合上、仕樣書を讀み返して見た。それで氣附いたのだけれども、object(要素の名前でなく一般名詞として)にしてもparagraphにしても、仕様書は全く定義してゐない。
pの定義は「パラグラフを示す」なのだけれども、そのパラグラフの意味が解らない。さうなると、「p要素はパラグラフを表現する」なる定義はナンセンスである事になる。仕樣書に基いて確實に言へる事は、pなる要素はただ單に「ブロック要素を含む事が出來ないブロック要素」だ、と云ふ事だけだ。さうなると、pは意味段落か形式段落か、とか、pの中にリストを入れるにはどうしたら良いのか、とか、その手の議論は全てナンセンスである、としか言へない事になる。「ブロック要素を含む事が出來ないブロック要素」ならばpであるのだから。
「リストを含む事が出來ない」などの不滿がナンセンスである事も理解出來る。別に一般的な意味で段落の途中であつても、マーク附けの時にはそこでぶつた切つて、pを終了させて、それに續けてリストを書けば良いのだ。で、リストが終つたら、一般的な意味で段落の途中からであつても、そこから新しいブロック要素のpを作れば良い。

<p>遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、</p>
<blockquote>
<ul>
<li>お弁当</li>
<li>おやつ</li>
<li>遠足のしおり</li>
<li>リュックサック</li>
</ul>
</blockquote>
<p>だそうである。</p>

惱む事などない。pはただ單に「ブロック要素を含む事が出來ないブロック要素」であるに過ぎないのだから。
そもそもW3CがHTMLの生成について「既存のテキストにマーク附けしてHTML文書を作る」なんて事を考へてゐないのであり、ならば、一般的な意味で言ふ段落とpとを一致させなければならない必然的な理由もない。どうも、だらだら並べるブロック要素は基本的に全部pにしてしまへば良いらしいやうに思はれる。箇條書も、一々リストにしないで、それぞれの項目をpにしてしまつても、別に大した問題と看做す必要はない。どうせ、普通言ふところの段落ではない、埋め込み要素――imgやobject――であつても、それだけを中身にpを作る事が出來るのだ。

<p><img src="Nude.png" alt="蓑蟲さん丸裸"></p>

この手の例示はHTML 4.01の仕樣書に載つてゐる。填込まれるオブジェクトにはピリオドも句點も存在しない。代替テキストが文章でなければならないなんて規定は勿論存在しない。なのにこのオブジェクト(畫像)はpの中身であるし、これは正當な書き方である。だから「pは一般的な意味の段落とは一致しない」或は「pは必ずしも一般的な段落をマーク附けするものではない」と確定的に言つて良い。ただ單に、pでマーク附けされたら、その部分は「パラグラフ」なるものに「なる」、と、それだけの事だ。段落をpでマーク附けするのではない、pとマーク附けされたら「パラグラフ」なるものになる、それだけだ。
平成十八年二月七日
リストにしても、unorderedとかorderedとかdefinitionとか、そんな名前は全く意味を持たない。どれも並んでゐる條項は順番に並んでゐるのであり、ordered listにするのはただ、順番を強調すべき情報を含んでゐるからに過ぎない。unordered listはナンバリングなしにレンダリングされ、ordered listは何らかの方式でナンバリングされるだけの事だ。基本的にulとolは、ユーザエージェントにリストと云ふ表現をさせる爲の要素であると言つて良い。それは結果としてリストとして表現されると云ふ事であり、リストをulやolとしてマーク附けすると云ふ事ではない。dl/dt/ddは、termとdescriptionとで構成されるが、termにしてもdescriptionにしても仕樣書は一般的な意味でのtermやdefinitionには限定してゐない。ただ確實に言へるのは、termと呼ばれる部分は、dt要素であり、インラインの内容に限定され、descriptionと呼ばれる部分は、dd要素であり、ブロック要素を含む、と云ふ事だけだ。兩者の關係は全く定義されてゐない。インライン要素とブロックレヴェル要素とが同列に並べられた事を表現するのがdl/dt/ddだとしか解釋しやうがない。何れにしても、仕樣書の規定では、リストをマーク附けするのでなく、マーク附けされた結果、リストとなるのである。
平成十八年二月七日
ところで、a要素もobject要素と同樣、全ての屬性が省略可である。
平成十八年二月七日
img要素では、src屬性とalt屬性が必須である。img要素では、必然的にこれら二つの屬性を書かなければならない。object要素では、屬性を書いても良いに過ぎない。
平成十八年二月七日
W3CのHTML關係の仕樣書を文言通り解釋する限り、我々はマーク附けの正しい方法については推測以上の事を言ふ事が出來ない。仕樣書は、ユーザエージェントがデータをどのやうに表現するかを指示してゐるに過ぎないからだ。

平成十八年二月六日
Landport Co.,ltd.
メディアボックス

平成十八年二月五日
極東ブログ: 日本人が日本語など学ぶ必要はない
昔からある俗論だが、イーデス・ハンソンだったか米国に行くとしばらく言葉が出ないと言っていた。ネイティブでも使ってないとうまくいかない。と云ふ話をしながら日本人が日本語など学ぶ必要はないなんて結論を出せるつて何うよ。言葉が出ないイーデス・ハンソンだつて戀の相手があるなら些かの狂ひもなくI love you.位言ふだらう。馬鹿馬鹿しい。
「書き言葉なんて普通の人間には必要ない」みたいなこの手の發想だが、「俺樣だけ書ければいいんだよ」といつた「一般人ども」を見下してゐる「言語エリート」のものであるやうな氣がするのだが。
「美しい日本語」とか言つてゐる齋藤孝を基準に極東ブログの中の人は話をしてゐる氣がするのだけれども、慥かに今の日本人は「美しい日本語」なんて曖昧なもので納得するやうな人間ではあるまいと思ふ。極東ブログの中の人は、「美しい日本語」を否定して、自分で「美しい日本語」を書いて見せてゐる。その程度の文章なら、或意味、誰だつて書けるだらう、「美しい」と云ふのは主觀的なものだから。野口英世のお母さんのたどたどしい手紙の文章、あれだつて「美しい日本語」には違ひない。「美しい日本語」が、あゝ云ふ文章で良いのなら、誰も勉強しないだつて書けるだらう。だが、今の時代、それだけで十分なのか。
「論理的な言葉の遣ひ方」は何うだらう。「自分で論理的に文章を書く」のみならず「他人が書いた文章を論理的に讀みこなす」事、これは學ばなければ出來るやうにはなるまい。そして、今の時代、これは誰にでも要求される基本的な技術だ。「書く必要がある人間だけが書ければ良い」なんて極東ブログの中の人は言つてゐるが――どうも、俺は思ふのだが、「讀む」方は「誰でも出來なければならない」事であるやうに思はれるし、その「讀む技術」こそ教へられなければならない事ではないか。
「義」にしても掲示板で俺に絡んできてゐる無名氏にしても、野嵜の文章を讀んで、妙な讀取り方をしてゐるやうに思はれる。山本夏彦が言つてゐるけれども「字句に怒つて」ゐるやうに思はれる。理窟に怒つてゐるのではない。彼等は明かに理窟を理解出來てゐない。ただ、何となく氣に食はないとか、雰圍氣が氣に入らないとか、その程度の事で怒つてゐるだけのやうに見える。掲示板に書込んできた無名氏、「国語学の定義」ではなく、「福田氏およびその周辺の方が言っている国語学」のあやまりですよ。辞書よりたちが悪い。と言つたのだが、それにした野嵜の時枝誠記氏や橋本進吉氏の學説は國語學の學説だが、それは一般的な國語學とは懸離れたものだと言ふのだらうか。と云ふ反論に反應しないで、「fukuoka人」と云ふ野嵜の言ひ方にだけ反應して見せた。無名氏は、ははは、この状態ではnani人になるのかな。思った通り野嵜は短絡的だな。と書込んだのである。無名氏は、野嵜の理窟でなく、野嵜の字句に反應した。無名氏は、「国語学」なる字句を用ゐたが、それは理窟を言つたのではなく、ただ野嵜を非難する口實として持出したに過ぎなかつた。もし理窟が大事なら、無名氏は「国語学」に關して野嵜の反論に再反論しない訣には行かない。ところが無名氏は野嵜の「国語学」に關する反論に再反論しなかつた。もちろん、出來る訣がないからだが、無名氏は自分の理窟が破れてゐる事を全く氣にしない。無名氏は、ただ野嵜を罵りたかつただけだからである。しかし兔も角、文章の理窟を讀取り、理性的に反論する、といつた事が、この無名氏には出來なかつた訣である。そして、それだからこそ、この無名氏は、非論理的に、感情的に、氣に入らない相手を罵倒する、と云ふ困つた眞似をやらかした。そして、それが困つた眞似である事をこの無名氏は自覺してゐない。自分のやつてゐる「テロ行爲」が困つた事であると思つてゐないからである。
極東ブログの中の人は「それがどうした」とでも言ふだらう。極東ブログ氏にしてみれば、これは國語の問題でないからである。極東ブログ氏は、民主主義だの自由主義だのは誰もがアプリオリに理解し、完全に守る事が出來る物である。しかしだ、横井の文章を理解出來なかつた津下四郎左衞門が「横井小楠は嫌な事を言つてゐる」と思つて横井を斬り殺したやうに、文章を讀めない人間が氣に入らない事を言つてゐると言つて言論人相手にテロを仕掛けるなんて、そんな事が今の民主主義の世の中で横行してしまつては困るのではないですか。
民主主義の現代は、情報や意見が提供されて、それに基いて人々は自らの意見を決める、さう云ふ事になつてゐる。かう云ふ時代に「文章をまともに讀めない」「感情的に何でも判斷する」と云ふのでは、とんでもない政治が出來するのであるし、嫌な世の中が出現するのである。言論以外の暴力・テロリズムが、言論を壓殺する――それはファシズムと何ら變りがない。
自由と民主主義を日本人は戰後、アメリカに押附けられた――とは言ふものの、そもそも、日本人は開國以來、西歐の文明を押附けられ、それを受容れて來たのである。別に押附けだからと言つて、それだけで拒絶すべきものでもない。今の日本國は、自由主義の國であり、民主主義の國である。これは、ネット右翼の一部の人々や、共産主義者やアナーキストならば兔も角、大體の日本人ならば是認する事だらう。ならば、自由主義や民主主義は一往、我々日本人の共通して認める價値觀である。この誰もが認める價値觀である自由主義や民主主義が、實現し得る環境は、整備されなければ出來し得ない。極東ブログ氏だつて、民主主義があるなら、その時いささかの狂ひもなく、日本人は正しい判斷をするだらう、なんて安易には言はないだらう。そして、情報なり意見なりに基いて正しい判斷をするには、訓練が要るのである。極東ブログ氏に限らず、ほぼ全ての日本人が「情報や意見がちやんと提供されれば、全ての人は適切に判斷出來る」と思つてゐる。でなければ、ここまで「ブログ界」で法律の條文だの仕樣書の書き方だのだけが問題になるなんて非道い状況は現れない。今、情報なり意見なりは、大體のところ適切に提供される時代である。その一方で、公開された情報や意見を享受する一般の人間が、それらを適切に扱へるかどうか。「扱へるよ、問題ない」――そんな事を、「書き言葉」だけに注目する極東ブログ氏や、國字改革をやつた連中は、言へるだらうか。自分が表現する事だけに注目し、他人の表現を受止める事を日本人は徹底的に無視してきた。その結果が、日本人が日本語など学ぶ必要はない、である。
慥かに、現状の國語教育が、正しい文章の讀み方を教へない、缺陷のあるものである事は、事實であると認める。けれども、「だから國語教育は要らない」と云ふ事にはならないだらう。缺陷のある教育ならば、「なくしてしまへ」ではなく、「直さう」とすべきである。日本人のこれまでの教育に對する態度――否、全ての物事に對する態度は、「缺陷があるなら、いつそ無かつた事にしてしまはうぜ」であつた。天皇然り、國語然り。で、「無かつた事にする」やり方がこれまたどれも似たり寄つたりで「非民主的である」と云ふのが、戰後の日本の駄目なところ。「エリート意識」が皆、多過ぎる。

平成十八年二月四日

W3Cの物を「利便性が高い」と思い込み、人に教える行為が当然ならば、
IE等を「利便性が高い」と思い込み、人に教える行為も当然である。何故なら、IE信者は後者を利便性が高いと思い込み、W3C信者は前者を利便性が高いと思い込んでいる。
W3C(の信者の主張)をIE等(の信者の主張)以外から「利便性が高くない」と結論することが出来れば、W3C(の信者の主張)は利便性が低いことになる。
IE等(の信者の主張)をW3C(の信者の主張)以外から「利便性が高くない」と結論することが出来れば、IE等(の信者の主張)は利便性が客観的に低いことになる。

たなけん氏、「思い込み」「思い込み」と繰返してゐるけれども、人は何であれ「根據ナシに思ひ込んでゐるものである」とでも思つてゐるのだらうか。。
「理窟で以つて他人を説得する」行爲を全く受附けない人間は、どうも「W3C派は何の根據もナシに自分逹の事を『正しい』と思ひ込んでゐる」だの「何の根據もナシに野嵜は『正しい』からな」だのと言ひがちであるやうに思はれる。
「W3C派」であれ野嵜であれ、何らかの根據なり理窟なりがあつて、それで或物について「正しい」と判斷してゐる。ところが、「W3C派」や野嵜が、恰も自らを絶對者なり權威者なりのやうに看做して、絶對權力や權威で以つて勝手な意志を他人の押附けてゐるかのやうに言ふ人々がゐる。彼等は、「W3C派」や野嵜が或結論を最初に「正しい」と極附けて、さうなるやうに理窟でも何でもでつち上げてゐる、とでも思つてゐるらしい。ところが、實は、或結論に持つて行く爲に理窟や根據をでつち上げる、と云ふのは、「W3C派」や野嵜を非難する人々の方なのである。彼等は、「W3C派」や野嵜を最初に「惡」「誤つてゐる」と極附ける。そして、さう云ふ事にする爲に、彼等は、「W3C派」や野嵜の態度を「思い込みだ」と極附けて見たり、「無職」だからそんな事を「言つてしまふのだ」等と動機で説明しようとしたりしてしまふ。
「理窟で以つて他人を説得する」行爲を受附けない人間は、多くの場合、理窟と云ふものが根本的に解つてゐない。たなけん氏もさうだ。たなけん氏の「何故なら」が奇妙な「何故なら」である事は、理窟で考へられる人ならばすぐに判る。「何故なら」は「だから」に言換へられる。そこで、たなけん氏の「理窟」は次のやうに言換へられる。「IE信者はIEを『利便性が高い』と思い込んでいる」だから「IEを『利便性が高い』と思い込み、人に教える行為は当然である」。いや、そんな言換へは不當である、「何故なら」はW3C(の信者の主張)をIE等(の信者の主張)以外から「利便性が高くない」と結論することが出来れば、以下にもかかつてゐるからである、とたなけん氏は反論するかも知れない。が、たなけん氏の書き方ではさう云ふ風には判斷出來ない。
たなけん氏の文章、妙に「もつともらしい」「それつぽい」言ひ方が多い。それがただ「もつともらしい」「それつぽい」の域を出ず、出たら目で訣のわからないものにしかなつてゐないのが問題だ。今、「前者」「後者」とたなけん氏は言つてゐる。具體的に「前者」「後者」は何と云ふ語句を指すのだらうか。國語の問題である。――たなけん氏、「前者」「後者」と云ふ言ひ方、今の文章では不適切だよ。理窟が解つてゐない人は、この手の代名詞を好い加減に用ゐる傾向がある。
W3C(の信者の主張)をIE等(の信者の主張)以外から「利便性が高くない」と結論することが出来れば、W3C(の信者の主張)は利便性が低いことになる。は文章として無茶苦茶。文章が駄目なら全部駄目だ。先づ、「W3Cを『利便性が高くない』と結論する」とは何だらう。たなけん氏本人は「わかつてゐる」のかも知れない。しかし、「他人」が讀んで、この文章を「わかる」とは思はれない。次に、「W3Cの信者の主張を『利便性が高くない』と結論する」とは何だらう。()を使つて意味を賦與しようとして、文章自體をナンセンスなものにしてしまつてゐる。「利便性の高い主張」とは何の事だらう。もちろん、たなけん氏本人は「わかつてゐる」積りなのである。たなけん氏は獨り合點に基いて文章を書いてしまつてゐる。他人が讀んで意味を理解出來ない文章は、實は、書いてゐる本人がそもそも意味を理解出來てゐない文章である。
「信者」「被害妄想」のやうな價値判斷の結果として言ふべき用語を、價値判斷の根據の段階で持出してゐるのも問題。根據の段階に不用意に主觀を持込むのは、「私は偏見で以つて物事を判斷してゐます」と宣言するやうなものだ。「野嵜の言つてゐる事は○○と云ふ理由で誤つてゐる。そんな誤つた事を言ふのだから野嵜は馬鹿である」――これならば話は解る。ところが「野嵜の言つてゐる事は誤つてゐる。何故なら野嵜は馬鹿だからだ」――これでは御話にならない。「野嵜が馬鹿である事」がどうしてこの論者には「わかつた」のだらう。この論者が偏見に基いて物を言つてゐる事は明かである。たなけん氏の「何故なら信者だからだ」式の「論法」も、この「御話にならない論法」の類になつてしまつてゐる。
平成十八年二月四日

非W3Cには需要がある。需要があるから非W3C講座が多いわけだ。
需要が多い物の方が多くの人にとって受け入れられている物である。

自分が「多くの人が受け入れられる物」だと思ったものでも、ろくに確かめもせずそうだと信じ込む行為、
それは信仰宗教に勧誘する信者と変わりないではないか。

代名詞を不用意に用ゐてゐたり、修辭を用ゐてもつともらしく見せかけたりしてゐるけれども、ただ「多くの人に受容れられる事だけが正しい事なのだ!」と云ふたなけん氏の思ひ込みを力強く宣言しただけの文章になつてしまつてゐる。「W3C宗」(?)の人が、自分達の主張を「本当は多くの人が受け入れられるものだから正しいのだ!」と思つて「信じた」のだとたなけん氏は極附けてゐる。しかし、そんな「W3Cは多數派なのである」式の發想をしてゐる「W3C宗」の人なんてこの世に存在しない。實は、たなけん氏は、「多くの人が受容れてゐる」と云ふ現實論と、「多くの人が受容れるべきである」と云ふ理想論とを、區別する事が出來てゐないのである。「W3C宗」の人が「さうなるべきだ」と理想論を語つた時に、「でも、現實にはさうではないではないか」とたなけん氏は言返してゐる。たなけん氏は「現實を見ろ」と言つてゐる。しかし、「W3C派」の人間にしてみれば、現實が「さうである」からこそ理想として「さうあるべきである」と語る。それでさらに「いや、現實をこそ受容れるべきである」とたなけん氏が言ふのであるが、かうなると寧ろたなけん氏こそ「現實主義者」或は「現實信者」であると評すべきではないか。
或は、多數の人間であつても「信じてゐる」のならばそれは信者である。そして、「多數の人間が受容れる」事を、實はたなけん氏も「信者」であると認識してゐる。だからこそ「宗教3」で「IE信者」と言つてゐるのであるが、そこでたなけん氏は「利便性」の觀點で「W3C」と「IE」とを評價出來ると言つてゐる。そんなたなけん氏、最初の項の「宗教」で、かう述べてゐる。

自分は無宗教に移行した。

詰り、たなけん氏は、「W3Cの理想」主義にも「IEの現實」主義にも與しない、と云ふ訣だ。が、これは、即ち、最後の「宗教3」で述べた結論、「利便性」の觀點から「W3Cか、IEか」は檢討出來る、と言ふたなけん氏が、實は「檢討は出來るけれども、決定的な結論は出せるもんか」と考へてゐる――否、信じてゐる事を意味する。
最初に「結論は出ない」と信じたからこそ、たなけん氏は「無宗教」と(譬喩を使つて)言つてゐる訣だ。これに對して、たなけん氏の所謂「W3C宗」の人々は、檢討の結果として「W3Cだ」と言つてゐる訣である。一方で、「IE宗」の人々が檢討を經て「IEだ」と言つてゐるとは思はれない。
平成十八年二月四日
長々と書いて、なんか今一つの内容なのだけれども、せつかく長く書いたのだから沒にするのももつたいないのでそのまゝ公開するが、物凄く端的にたなけん氏の今囘の文章の問題を指摘すると――最初にたなけん氏がCSS等の論争を宗教に例えたのが問題である。次いで、無宗教を宣言したのが問題である。他人を信者呼ばはりして、自分だけ「何も信じてゐないよ」と客觀的なやうな顏をすれば、高みから他人を見下ろしてあれこれ「批評」する「第三者」たる權利を持てたやうに思へるからな。
平成十八年二月四日
http://aboutworks.com/shokodei/diary/2005/2005_12_b.html#PrintNo2

遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、
「お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック」
だそうである。

今までの全ての論者が見落してゐる事がある。この文章には鉤括弧と句讀點が使はれてゐる。鉤括弧と句讀點はマーク附けと排他的な關係にある文字であると言へる。鉤括弧と句讀點を排除すれば、いろいろなマーク附けは考へられる。が、排除しなければ、上のやり方で完全なマーク附けがなされてゐる事になる。ソースを參照の事。
HTMLの要素・文字方向の變更(bdo)
テキストの書字方向を直接指定する體裁用の文字符號と、bdo要素とは、排他的に用ゐられる。それと同じやうに考へれば良いと思ふ。
平成十八年二月四日
RobaQ's Memo 2006-02:HTML 4.01 の p 要素に block level 要素が入れられない理由
平成十八年二月四日
WordではWord文書をオブジェクトとしてインラインに插入出來る。
インラインにobject枠を形成し、その中にリストを含んでゐる。これのどこが不自然なのだらうか。Wordではインラインにリストを含むオブジェクト枠を插入出來る、ならば、HTMLでもインラインにリストを含むobjectを插入出來て當り前だ、と、俺は思ふ。
平成十八年二月四日
あるスキーマに準拠するということ ( Re: 遠足に持っていくもの ) [/design/html] - 行動記録
實際にobjectを「かまして」マーク附け出來てゐるのに、HTML 文書の作成とは、ある文書の文書構造をタグを用いて明示化していくことです。その際には、特定のスキーマに従ってマークアップしていくこととなります。で、そのスキーマではマークアップできない文書構造というものも勿論存在します。顕著な例では、HTML 4.01 のスキーマを用いたときのリストを含む段落です。と言つてしまふのは如何なものか。「出來てゐる」と云ふ事實が「ある」のに、「出來ないと云ふのが理想」だから「出來ない」と云ふのが事實である「事にしてしまふ」と云ふ論法をいわい氏はやらかしてゐる。たなけん氏や条域もさうだけれども、「最初に結論を極附けて、その結論に持つて行く爲に事實や理窟をねぢ曲げる」と、さう云ふやり方をいわい氏もやつてゐる。「信者」のする事は云々。

スキーマに valid ならば良いという考えは美しくないとは思わないのだろうか。

「スキーマが何う斯う」と云ふ發想で考へる事がそれ自體としてをかしい。それこそ「XML原理主義者」の發想だ。object要素を使つてリストを……と云ふマーク附けが自然なものであるのならば、スキーマなり何なりがそれに對應出來ないのならばそれに合はせて變更すれば良いし、既に存在するW3Cの仕樣が既に「對應可能」な状態であるのならば「美しくない」「邪道」等と言つた偏見・極附けに固執しないでさつさと考へ方を變へてしまへば良い。そこで固執しようとするから「信者」であり「原理主義者」だと。と言ふか、「美しい」とかそんな事を言つてゐる時點で云々。
平成十八年二月四日
なんかanonymizerを通して惡口を言つて來た人がゐるけれども、感情的に氣に入らないからと言つて掲示板を荒す、と云ふのは餘りにも短絡的なやり方ではないか。前の投稿でも、野嵜の言つてゐる事ををかしなものに見せかける爲に野嵜の據つてゐる國語學ををかしなものに見せかける、と云ふ短絡的な事をやつてゐたけれども。
誰もが承認する前提から出發して、その前提に合致するから何うであると結論を出すのなら話は解る。けれども、或結論がある、その結論を出す爲に前提をでつち上げる、と云ふのをこの無名氏はやつてゐる。いわいもさうだが、自分の結論は正しいと盲信してゐる爲に、結論の出し方がおざなりになつてゐるのではないか。
平成十八年二月四日

それで、多作能力のある者は、恐るゝところなく多作していゝのであるが、多作能力者が勢揃ひして、千枚單位を呼聲として筆を執りだしたら、小説愛好者は脅威を感ずるであらう。一年は三六五日である。一日は二十四時間である。寢食を廢して小説を讀んでばかりゐても、數十人數百人の作家の、千枚單位の作品がどれだけ讀めるであらう。私は長編は、非常に面白くて、卷を擱けないほどのものなら兔に角、大抵の長編は拔き讀みすることにしてゐる。さういふ讀み方をして作品の價値が分るものかと云ふ作家は、事理に疎い、杓子定規の徒輩である。一日は二十四時間で、一年は三百六十五日である事にさへ氣のつかない人間である。私は「カラマゾフ」を讀んで感に堪へてゐるのだが、それでも、その長つたらしいのに當惑してゐる。いはんや凡庸の徒の千枚單位をや。廣く讀まれ、よく讀まれるためには、十枚單位、十五枚單位を心がけてはどうであらうか。西洋の小説には長つたらしいのが多い。日本には俳句和歌はじめ、短小の文字で思ひを述べる習慣が傳統的に存在してゐるのである。徒に西洋の眞似をしなくてもいゝではないか。……。


平成十八年二月三日
和洋會 @ 東京古書會館。「黒つぽい本」が多く(買手に年寄が多くてそれがいろいろアレだつたりするものの)氛圍氣の良い古書展。以下は買つたもの。「群像」昭和二十五年九月號(金森徳次郎・茂見義郎・中島健藏・福田恆存・舟橋聖一「座談會 『文學と風紀』論爭」を掲載)。季刊「文藝評論」第一輯。「展望」第三號(昭和二十一年三月號・最近ジョン・デューヰの「自由主義と社會的行動」を飜譯する機會を得たがで始まる福田恆存の論文「民衆の心」を收録。多分持つてゐるが本の山の中に埋もれてしまつて出て來ないので買ひ直した)、第九號(昭和二十一年九月號・オルダス・ハックスリ・福田存譯「社會改革とその限界」を掲載)、第十號(昭和二十一年十月號)。「文藝」昭和二十年十一月號(第二巻第八號)。ヴァレリイ「固定觀念」(多分持つてゐる)。濱田青陵『東亞文明の黎明』(創元社・日本文化名著選)。

平成十八年二月二日
http://lan.rgr.jp/diary/2006/01c#Twentynine-Two
「不快感を与えただけで犯罪に」--米国新ネット関連法の危うさ - CNET Japan
Matimulog: America:匿名の卑怯者禁止法
President Signs H.R. 3402, the "Violence Against Women and Department of Justice Reauthorization Act of 2005"
Rauru Blog » Blog Archive » 匿名での嫌がらせを取り締まる法律
個人的には「義」のやうな輩を逮捕できるならばどんな法律でも歡迎。
法律の條文自體に曖昧なところが「ある」として批判が續出してゐるとの事。しかし、法律ならば憲法の規定には逆らへない訣で、全うな言論ならば當然のやうに憲法の規定により保障・保護される。法律は、言論でない不法な行爲(暴力・恐喝・中傷・侮辱・壓力)を取締るものだと考へて良いだらう。
平成十八年二月二日
合法的なものだから言論であり批判である。不法なものは言論でも批判でもなく中傷や侮辱である。条域にしても彼を「刺客J」などと呼んで喜んでゐる某所の無名氏にしても、条域の「不法な批判」なる言ひ方をこれつぽつちも疑つてゐないのだからどうしやうもなく頭が惡い。野嵜のやつてゐる批判を不法だと言ふのならば、そもそも批判とは呼ばぬが良い。はつきり「お前は中傷してゐる」「他人の名譽を故なく毀損してゐる」と言へば良いのである。勿論、彼等がさうはつきり言はないのは、さう云ふ言ひ方をして、野嵜を犯罪者呼ばはりすれば、それが事實でないならば、却つて自分逹が野嵜の名譽を毀損した事になり、犯罪者として訴へられ兼ねないからである。要は責任逃れをするためにわざと曖昧な言ひ方をして逃げてゐる訣であるが、さうやつて逃げなければならない程、彼等の論據は曖昧である。条域の説は、ただ「野嵜のしてゐる事は惡い事であり、駄目な事であり、迷惑な事であり、不法な事である」と云ふ罵詈雜言の羅列に過ぎず、さう云ふ結論を必然的に引出さなければならない大前提を缺く。条域の説には、大前提となる思想(それも誰もが認める考へ)が存在しない。「惡い事をしてはいけない」と云ふのが大前提ださうだが、その結論が「野嵜は惡い事をしてゐる」と云ふものでは、意味がない。「何故野嵜が惡い事をしてゐると言へるのか」を条域は全く言はない――否、言つてゐる、と反論するだらうが、野嵜は既に自己の正當性を述べてゐるのであり、それに對して条域はただ「野嵜の主張とは異る条域自身の主張」を繰返してゐる。条域はひたすら「野嵜の主張と異る条域自身の主張」を野嵜に押附けようと力でごり押ししてゐるに過ぎない。
俺は「条域の言つてゐる事は訣が解らない」と言ひ、「条域の主張」を讀解かうとしてゐるに過ぎないのだが、条域はどうやったらそんな結論が導かれるんですかねのやうな人を小馬鹿にしたやうな言ひ方をして野嵜を論破したかのやうに思つてゐる。野嵜は全く論破などされてゐないのであつて、そもそもの条域の主張がわけがわからないものである以上、条域の主張が野嵜の主張を壓倒する事もなく、依然として野嵜の主張の正しさは守られてゐるのである。
平成十八年二月二日

僕は野嵜さんの「言葉遣いへの批判」を、「他者に対する不法な攻撃」と考えているので、僕自身は民主主義・自由主義に反対しているつもりなどありません。

条域は野嵜のやつてゐる事を「不法」と呼んでゐる。不法行爲をするのは犯罪者である。即ち、条域は野嵜を犯罪者呼ばはりしてゐると云ふ事だ。犯罪者でない人間を犯罪者呼ばはりするのは人の名譽を毀損するものであり、他人を犯罪者呼ばはりした當人が犯罪者になる事になる。これを条域は「被害妄想」等と言ふかも知れない。
はてなダイアリー - 言論の自由とは
レヴェルの低いはてなのキーワードの中でも最低のレヴェルの記述。

但し、自己と相反する思想や言論を攻撃するときに、攻撃された側が防御手段を取ると攻撃者側が勝手に抱く被害妄想のシンボルとして作用することもある。言論の自由のすり替えに注意すべし。基本的な理念として公的な事柄における自分の意見を発表する自由を示し、それは他者に対する不法な攻撃などには適用されないものである。

はてなのユーザはこの記述を見て何とも思はないだらうか。思ふ思はない以前の話である。どうせ大半のユーザは、こんな記述がある事を知らなかつただらうからだ。大半のユーザが知らないうちに好い加減な定義がはてなのシステムの中ででつち上げられる。無責任な話である。が、さう云ふ無責任が罷り通るやうなシステムをはてなは今まで一生懸命作つて來た。そして、「被害妄想のシンボル」だの何だのと言つた不用意な言ひ方が条域の御氣に召して、今、野嵜攻撃の材料に持出されたのである。はてなは条域の野嵜攻撃に荷擔してゐる――さう言へば本當に「被害妄想」だが、實際、はてなのシステムには再三迷惑を蒙つてゐる。「このキーワードの記述は信用できません」とでも書いておくならば可愛げもあるのだが、はてなは自分のサーヴィスだから如何にも信頼出來るものであるかのやうに裝つてゐる。何處の馬の骨とも判らんやうな手合に自由に書かせるのだから、そのコンテンツが「信用出來る」ものであるやうに見せかけるのは殆ど「詐欺」だ。キーワードのやうなシステムがあると(Wikipediaにしても同じ)、既成事實として「ある」のだからといつて兔に角面白がらうとする人間が多過ぎる。
平成十八年二月二日
P 要素の中にブロックレベル要素を配置するための OBJECT の使用は推奨されない
W3CのValidatorでvalidの判定が出る。pの中にobjectを「かまして」ブロック要素をぶち込む記述の仕方が「仕樣準據」である事は間違ひない訣で、そこで「駄目」と主張する立場があるとしたらそれは「仕樣準據」の立場であるのか何うか。
平成十八年二月二日
ミニりんご
平成十八年二月二日
http://www.satoshii.org/markup/notes/2006/02.ja.html.sjis#date02

察するに、「XHTML でない XML で事足りる」という意味だとは思うのですが、その場合、その「XHTML でない XML」の語彙はどこから持ってくるんでしょうか。制作者ひとりひとりが勝手に定義するんですか? そんなことをしたら相互運用性も何もあったものじゃないからこそ、HTML 元にして標準の語彙を策定したのだと思いますが。

XHTML 2.0はHTMLをより自由なマーク附けを出來るやうに擴張しようとしてゐるが、それはテキストをマーク附けすると言つた理念拔きに、ただHTMLを自由なだけのものにしようとしてゐるだけの事に過ぎない、しかしそんなに自由なマーク附けが好きならば制作者は各々勝手に語彙を定義すればよろしからう、自由にXMLを使へば良からうと、さう言つてゐるに過ぎません。「何時如何なる場合にも絶對にXHTMLの類は使つてはならない」等とは言つてゐない。ただ、「自分の好きな風に、自由にマーク附けできるやうにしたい」と云ふ觀點で「XHTML 2.0」を禮讚してゐる人々を私は批判してゐるのです。そんなことをしたら相互運用性も何もあったものじゃないと云ふのは當り前の話で、だからこそ私はXHTML 2.0はHTML 3.0の二の舞になり兼ねないと指摘してゐるのです。

野嵜さんの XML 観はおかしいというか変というか、間違っていると思います。妙な書籍にありがちな「XML は HTML の進化形」のような誤解をなさっているんじゃないでしょうか。

私が誤解をしてゐるのではなくて、私が攻撃してゐる人々が誤解してゐるのです。「XML は HTML の進化形」のような誤解をしてゐるからこそ、「XHTML派」の人々は「自由なマーク附け」を望み、「より自由にマーク附けできるXHTML 2.0」を禮讚してしまつてゐるのではないですか。

野嵜さんはよく「XML は云々」式の批判をなさってますが、それらの批判はほとんどの場合「SGML は云々」と言い換えても成立するものです (むしろ、実際には XML の場合の方が問題が緩和されているものがほとんどです)。XML について議論する時は、その辺りを踏まえてお書きいただきたいのですが。

誤讀です。XMLについての議論なんて、私は全然してゐません。私は「既存のテキストをマーク附けする」事の議論、或は「XHTMLの議論」をしてゐるのです。
平成十八年二月二日
エロスタイルデザインのお誘い < Black Box
うちもero styleを作つて見た。代替スタイル。撰擇するとNude.pngが出現する筈。

平成十八年二月一日
p要素の中に「object要素を噛まして」ブロック要素を含められるやうに仕樣上はなつてゐる説を以前主張した事があります。それに對して、「氣持が惡い」なる感情的な反撥は論外としても、ブロック要素インライン要素の序列は守られるべしobjectの中の「代替テキスト」もその例外にはあらざるなりと云ふ「暗默の諒解がある」説は慥かに「あり得る」と思つたし、實際、head要素中のobjectで内容のあるものは許されないと言つた「暗默の諒解」が「ある」以上は「暗默の諒解」で話を解決してしまつて良いと思ひました。仕樣上は。(HTMLの要素・汎用のインライン要素(object)は昨年秋の時點で書換へ濟みです)
私見では、pの中にはobject經由でブロック要素を含められるやうにすべきだし、その方がすつきりしてゐて氣持が良いと思ひます。div要素なんて使ふよりずつと増しです。XHTML 2.0ではp要素の下に直接いろいろな要素を置けるやうになるらしいですが、嫌で嫌でなりません。XHTML 2.0は、從來のHTMLの問題を單なる「XML的な言換へ」でやつつけようとするだけの、姑息な仕樣にしかなりさうにないのが氣掛りです。「brはXML的に良くない→brの前後の要素をl要素にしよう」。br要素は、技術的には排除されましたが、思想的には殘存してゐます。「行を書きたくて書きたくて堪らない人」は存在しません、「或地點に強制改行を入れたい」人だけが存在します。「行を書きたい人はl要素を使って下さい」なんて言つても誰も理解出來ません。「強制改行を入れたい時には、強制改行を直接示す代りに、前後をl要素でマーク附けして下さい」のやうな解説は出現するでせう。そこに「不便ですが仕方がありません」位の註釋が附いても當然です。現状のXHTML 2.0の議論では、「XMLに改めれば良い」式の安直な發想が支配的であり、それが「人は如何にテキストをマーク附けするか」の根本的な考察を缺く結果に繋がつてゐます。
現在示されてゐるXHTML 2.0の「あり得る姿」は、一貫した思想を根本的に缺いてゐます。「思想的な問題であつても小手先の技術で解決してしまへばそれで十分だ」と云ふ刹那的な發想に基いて、既存の仕樣を弄り囘しただけの、實に愚劣な仕樣です。否、「XMLでありさえすれば、それでいいんだよ」のやうな「單純明快」な發想は慥かに「ある」訣ですが、それならばXHTMLなんて必要ないではないですか。XMLを使へば良いだけの事です。「XHTMLはなぜ必要なのか」――XHTML 2.0の仕樣書を讀んで理解出來れば良いのですが、どうも訣のわからないまゝに「仕様として出來ちやつたんだから、これでみんな滿足しろ」のやうな「思想の押附け」いや思想なんて「ない」のだから「技術の押附け」が出現するだけのやうな氣がします。XHTML 2.0がHTML 3.0の二の舞になりさうな豫感がするのは私だけでせうか。
object要素の「問題」にしても、「問題視するのは當り前」で、「問題ではない」と考へる事自體が許されない状況が生じてゐます。と言ふより、「問題ではないと見る發想」を「仕樣的にをかしいから」と言つて兔に角排除しなければならない、とする「仕樣原理主義」が横行し捲つてゐるやうな氣がします。もちろん、仕樣は仕樣として尊重する必要はあります。が、仕樣の見直しはあり得る。一方、見直しをするならば、小手先の技術でやつつけるやうな事は許されないし、仕樣自體の一貫性を維持しようとする事は必要でせう。今の何でもかんでも「流れはXMLだ」式の、「兔に角XMLつぽければ何でも良い」式の發想は、をかしいと思ひます。XML自體には罪はない訣で、ただ、XMLなる技術に先行するマーク附けの思想がおざなりにされてしまつてゐる、そこに危機感を覺える、と云ふ事です。「XHTML 2.0で実現される自由なマーク附け」が「正しいHTML」派の人の間で恐ろしい勢ひで「神格化」されつゝある。そんなに自由なマーク附けが良いのなら、どうして「tableレイアウト禁止」「font濫用禁止」が叫ばれ、「テキストサイト風の自由なマーク附け」が否定されねばならなかつたのでせう。
平成十八年二月一日
Macに慣れない。多分キーボードの所爲。BackSpaceがdeleteなんて名前になつてゐるのも異樣だけれども、clearキーが殊に異常に思はれる。clearを押すとなんか文字が入力される。Finder上でアイコンを撰擇してenterを押してもアプリケーションが起動しないで名前の變更になつてしまふのも不便。やつぱりOS/2のWorkplaceShellの操作性が一番だね云々。
株式会社PFU | Happy Hacking Keyboard
平成十八年二月一日
IE7を入れたが、*.mhtでの保存が出來ないのでアンインストールした。

關聯リソース

前の記事
日記バックナンバー
2006年1月
「闇黒日記」の關聯サイト
Love Cream Puff
言葉 言葉 言葉
PC Tips
inserted by FC2 system