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野嵜健秀(Takehide Nozaki)

「乃木將軍と旅順攻略戰」ダイジェスト

司馬(遼太郎)、福岡(徹)兩氏の旅順攻略戰觀については、……、私(福田恆存)には幾つかの疑問がある。

その第一は、戰略として失敗の連續としか見做してゐないことである。

第二は、それが乃木將軍を司令官とする第三軍の獨善と無能によるといふ斷定である。

第三は、それと關聯して、第三軍が手薄な西方正面を無視し、堅固な永久保壘が水も洩らさずめぐらされてゐる東北正面を主攻とした事に對する非難である。

第四は、その非を早くから見拔いてゐた兒玉大將が主攻方面を轉換せしめ、自ら南下し、獨り智將振りを發揮して二〇三高地を攻め落とし、旅順港内の敵艦を撃滅して、その擧句、漸く旅順要塞は陷落したといふ見方である。

戦後公刊された注目すべき戰史として谷壽夫中將の『機密日露戰史』といふ書物がある。……當の『機密日露戰史』にしても、第二、第三については、司馬、福岡兩氏とは反對の資料を提供してゐるのである。

失敗の連続といふ事

日本軍には旅順要塞の「明細な圖面は第三軍には勿論、大本營にも無かつた。」

龍眼地方の堡壘についても、その状態が當時の軍司令部、或は衝に當つた第九師團に、現在の参謀本部編『日露戰史』第六巻第七圖の樣に明細に解つてゐたら、第一囘總攻撃第一日に取れてゐたらうと言つてをり、また永久堡壘と臨時築城との差別についても、自分達の技術的能力が足りなかつたため、深く考へてゐなかつたのが失敗の原因だと言つてゐる。要するに、「もし當時、今の樣に解つてゐたら、ゐたら」の連續なのである。

旅順要塞はロシア軍が一萬五千ルーブルをかけて造つた要塞である。一萬五千ルーブルといふのは、日露戰爭で日本が消費した戰費の7分の1に當る。「さういふ金城鐡壁に對して、第三軍は15糎、9糎の青銅臼砲のみを以て攻撃を開始したのである。司馬氏が『大砲のなかの巨人』と呼んでゐる28糎砲が第三軍の手に入り、その凄じい效力を發揮したのは第二囘總攻撃開始後の9月30日であつた。」

第三軍が28糎砲を早くから使はなかつたのは、1.その命中率が惡い、2.砲床を作つてゐる時間がない──と豫想されたからである。實際には1も2も間違ひだつたが、「實際の戰爭となれば、その種の蹉跌は幾らもあらう。」

司馬、福岡兩氏は(ドイツ人雇傭教官の)メッケルが兒玉將軍の才能を頻りに稱揚してゐたことを強調し、それに較べて乃木將軍の無能を強調してゐるが、……メッケルは野戰の大家なのである。そのメッケルにかはいがられた兒玉將軍といへども攻城戰においては、果してどれほどの効果を擧げ得たかは解らない。……

とにかく、日本軍中、要塞攻撃の專門家が一人もゐなかつたといふのは事實だつたと思はれる。第三軍司令官を振り當てられた乃木將軍を悲運の人と呼んでも、あながち間違つてはゐまい。もし將軍がそれほどに愚將であるなら、さういふ人間を第三軍司令官に任じた大本營、それを認めた滿洲軍總司令部の大山總司令官、兒玉總参謀長にも責めは歸せられなければなるまい。

しかし、最大の失敗は、日露開戰時における旅順輕視といふことであつた。

第三軍の目的

旅順攻略は、

1.旅順艦隊とバルチック艦隊との合流をおそれた海軍の要請により行はれた。

2.大連に滿洲總軍作戰根據地を置くために、旅順に敵があつては困る。

との理由で行はれた。

3.旅順をさつさと攻め落とし、沙河、遼陽における會戰に第三軍も加はらねばならない。

──さういふ理由で急がれた。

結果論的に言へば、旅順艦隊撃滅はもう一月遲れても旅順・バルチック兩艦隊の合體は防げたであらうし、奉天會戰にも間に合つたであらう。それだけの餘裕があれば、第三軍は第一囘總攻撃の時にも強襲法を避け、徒に肉彈戰一本槍の強行をしなくても濟んだかもしれない。が、大本營は海軍側の豫測通り、37年内に強力なるバルチック艦隊が來航するといふ前提の下に、それに備へるといふ重荷を第三軍に課したのである。第三軍の旅順要塞偵察不備の非を難ずる論者は多いが、海軍及び大本營の情報活動の無能を指摘する論者は少ない。(同書)

※「が、私(福田)はこの種の結果論的批判を好まない。にもかかはらず敢へてそれを言ふのは、第三軍の旅順攻略の不手際を結果論から批判する傾向が強すぎるからである。戰爭に誤算は付き物である。」と云ふ指摘を、乃木將軍を誹謗する連中は重く受けとめよ。

彼等は(第三軍は)肉彈の前に先づ砲彈を欲したのだ。しかし第一囘總攻撃の時から大本營も總司令部も第三軍に對して強襲法による肉彈戰を強要した。滿洲における最後の決戰のために「無駄彈」を使ひたくないといふ氣持だつたのである。

……(各部隊に於ける砲彈の割當が少かつた實例)

これでも福岡氏は、何かと言へば彈丸不足を訴へる第三軍司令部を無策無能と言ふのであらうか。といつて、私は大本營や總司令部を責めてゐるのではない。日露戰爭はさういふ戰ひだつたのだ。……(同書)

※日本は旅順攻略だけでなく、その後の戰ひのことも考へねばならぬ情勢であつた。それを乃木將軍を誹謗する者は完全に忘れてゐる。旅順に全力を投入すれば、それあ旅順はもつと早くに落ちただらう。さうすれば乃木だつて、のびのびと戰つて、後世の人間に「無能」呼ばはりされなかつたかもしれぬ。

主攻方面論爭

旅順攻略に當つては、主攻を西方正面にとるか、東北正面とするかと云ふ點が問題になつた。

……司馬、福岡兩氏は東北正面を主攻とした乃木司令官の愚を嗤つてゐるが、主攻方面をどちらにするかについては、大本營、滿洲總軍、第三軍、それぞれの内部も二説に分裂してゐたのである。勿論、兩方面を同時に全力を擧げて攻めるに越した事は無い。が、限られた弾薬と兵力とを以てするとなれば、それは不可能事である。いづれか一方を選ばねばならぬ。さうなると、問題はなぜ東北正面を選んだのかといふ事と、もし西方正面を選んでゐたなら論者の言ふ如く簡單に二〇三高地が取れ、旅順開城といふ段取りになつたかといふ事と、その二點に絞られる。(同書)

東北正面を奪取すれば、直ちに要塞内部に進入でき、要塞の死命を決する事が出來る。だから第三軍は東北正面を主攻方面に選んだのである。そして西方正面を攻めた第三囘總攻撃では、二〇三高地を占領し、敵艦隊を撃滅しても、要塞そのものは1ヶ月持ちこたへたのである。最初から西方を攻略してゐたら、どれほど時間がかかつた事か解らない。

むしろ第一囘、第二囘の總攻撃で本命の東北正面を攻撃してゐたから、第三囘總攻撃の際に西方正面を攻略し得たのである。

大本營と滿洲軍總司令部との對立

しかし、第一囘總攻撃まではそれ(當方正面攻撃)でよいとしても、第二囘以後においても第三軍がなほ東北正面に固執してゐた事は愚なるものと考へる論者は、大本營と滿洲軍總司令部との間に意見の對立があつた事實を殆ど無視してゐる。……『機密日露戰史』は大本營、總司令部間の電報、交信などを列擧し、事態を詳細に追求してゐる。それを讀めば、東北正面主攻を第三軍のみが固執したとは必ずしも言ひえない。……

……

……第三軍乃木司令官のみならず、大山總司令官も二〇三高地の價値を十分に認識してゐたとは言ひ難い。いや、この返電(明治37年11月19日付・東北正面でなく二〇三高地を攻略する事には疑問があるが勿論考慮してゐる、とりあへず第三軍には東北正面を攻撃させると云ふ内容)は大山元帥一人の發案とは考へられず、當然兒玉總参謀長の考へをも反映してゐると斷じて差支へあるまい。その證據に、11日、總司令部は第三軍に對して、海軍側の要求を暫く措き、28糎砲による旅順港内の敵艦攻撃を中止する樣に命令してゐる。それに對して、第三軍の方が「これ海軍を大失望せしむる事にて、すでに(海軍側の)陸戰重砲隊派遣はこの目的なり。これを全然止むるを得ず」と答へた位だが、翌12日には兒玉大將から追掛け「二兔を追ふべからず。28糎砲は威力を本攻に用ゐるべし。無駄彈丸を送るべからず」と要求して來たのである。……

兒玉大將と海軍との板挾みで、第三軍は困つてしまふ。兒玉大將は東北正面主攻作戰を指示、ついでに港内敵艦を放置せよと新命令を追加した。

……そこで乃木將軍は白井参謀を總司令部に派遣し、協議せしめてゐる。その詳細は省略するが、第三軍は新鋭の第7師團を主攻方面にではなく、遊動豫備軍として使ひたい事を申入れてゐる。後にこの師團が二〇三高地を占領した事を想ひ合せれば、乃木將軍より兒玉將軍の方が東北正面主攻作戰に捉はれてゐたと言ふべきであらう。……(同書)

……大本營と總司令部との間には同じやうな論爭が繰返され、兒玉總参謀長に至つては海軍軍令部長に對し、次の如き高壓的な抗議電報を送つてゐる。

海軍は本月末か、遲くとも12月10日以後、旅順の封鎖を緩めると豫想するを以て、爾後海上輸送は當分中止せらるべしと開陳せられたりと聞く。この言動は實に陸軍への脅威と言ふのほかなかるべし。然れども予は信ず、我が封鎖艦隊の全部を一時に船渠に入らしむるの要なかるべく、バルチック艦隊の行動は未だ斷定するを得ざるべく、旅順艦隊また必ずしも出撃すと限らざるべし。

「陸軍への脅威」とは兒玉大將も「好い氣」なものである。自分の方が先に港内敵艦砲撃の中止を命令したのであり、それこそ「海軍への脅威」であつた筈だ。……考へてみれば、大本營も總司令部も皆迷つてゐたのである。少なくとも確たる自信は無かつたのだ。……

二〇三高地陷落

以上の樣に大本營と總司令部との間に意見の相違があり、兩者共に確信が無かつたといふ觀點から見れば、兒玉總参謀長南下の目的は「頑迷、無能」な第三軍の司令官である乃木將軍から指揮權を奪ふ事であり、それによつて二〇三高地は難無く陷落したといふ「兒玉大將=鞍馬天狗」説はいささか眉唾ものになつて來る。私(福田)は兒玉大將が智將であつた事を否定しようとするものではない。兒玉大將が旅順に來て第三軍の作戰に参加する事によつて、二〇三高地の陷落は少なくとも一日は早まつたであらう。が、第三軍司令部の計劃通りにやつても、いづれは二〇三高地は落ちたらうし、或は後述する樣に、もつと早く落ちたかもしれず、いづれにせよ、爾後の作戰に支障は來さなかつたのである。(同書)

第一に、兒玉大將が旅順に南下した目的は乃木將軍からその指揮權を奪ふためだつたとする司馬、福岡兩氏の説は充分の根據が無い。……

第二に、……第三軍司令部が兒玉大將の案を輕視した……これは果して事實であらうか。……

……やはり最後まで皆が迷つてゐたと言ふほかは考へられない。

第三に、兒玉大將が現地で發揮した智將振りは『機密日露戰史』によれば、次の二點に盡きる。一つは直ちに重砲隊を高崎山に陣地轉換し椅子山を制壓する事、次は一度二〇三高地を占領したなら、28糎砲を以て、一晝夜15分毎に砲撃し、敵の逆襲を退ける事である。第一項についてはそれが困難であるといふ理由で重砲隊副官奈良少佐が反對した。しかし攻城砲兵司令官の豊島少將の言を容れ、兒玉大將はこれを一晝夜で完了する事を命じた。問題は第二項である。11月27日、第三軍が自發的に始めた二〇三高地攻撃においても30日に一度は高地を占領してをりながら、まもなく奪囘されてゐる。それに對する憤りが兒玉参謀長をして第二項提議を行はしめたものであらうが、占領高地に向つて15分毎に28糎砲を撃ち込めといふのは無茶である。占領中の身方を殺傷するからだ。奈良少佐は第一項に對してと同樣、これにも反對した。ところが、『機密日露戰史』によると、「攻撃は身方打ちを恐れずとて肯ぜず」となつてゐる。……

……高地の一劃を奪取し奪取され、敵身方の屍が四重五重に重なり、攻撃前は二子山だつたその鞍部が死體で埋め盡されて乃木將軍の詩そのまま「山形改る」に至つた激戰場に臨んだ兒玉大將が、「攻撃は身方撃ちを恐れず」と言つたとすれば、ここに第一囘總攻撃の肉彈戰以來、部下から數萬の死傷者を出してきた乃木將軍との心境の差が見られはしないか。兒玉大將は智將だつたかも知れないが、名將とは稱し難い。

第四に、兒玉大將派遣前、大山總司令官は「二〇三高地に對する状況不利なるは指揮統一の宜しきを得ざるもの多きに歸すと言はざるを得ず。(中略)高等司令部及び豫備隊の位置遠きに失し」云々の訓電を發してゐるが、それに對して第三軍日誌には肉太の字で次の如き一文が記されてゐるといふ。

二〇三高地失敗の原因、果して右の如きか。軍は必ずしも然らざるを信じあり。然れども、今、敢へて軍の行動を庇護するの要なし。すべからく、この訓辭を服膺して、ますますその然らざらん事を期するのみ。

實踐の場に臨んだ者の無言の斷腸の苦衷は總司令官の訓電以上の迫力を以つて吾々の心を打つ。(同書)

第五にロシア側の状況である。……

……(ロシア側の記録・11月30日に日本軍が二〇三高地を一時占領、夜になつてロシア側が再度高地を確保、しかしロシア軍の防御力は限界にきてゐた、と云ふもの※伊藤整『年々の花』よりの引用)

11月30日といへば兒玉大將來順の一日前である。前述の如く、この日二〇三高地は一時日本軍の占領するところとなつた。が、それは再び敵軍の手に落ちた。日本軍の戰術が拙かつた爲ではない。油斷をした爲でもない。二〇三高地の山頂にはもはや大砲も無く、敵身方は爆裂彈と石をもつて爭つてゐたのである。第三軍津野田参謀が、「二〇三高地の状態は、戰略、戰術の巧拙の問題ではなく、鐡と血を投入する量によつて決するものだ」と言つた事實を擧げてゐる。(同書)

……なほ伊藤(整)氏はロシア側にとつて二〇三高地陷落がもう一息といふところで、日本軍がこれを休止し、12月1日から4日間休止状態に入つた事實を注意深く記録してゐるが、ロシア側からすれば、この4日間は謎の休止期であつたらう。この休止はいふまでもなく、兒玉將軍來順の爲で、それが無くとも、或はそれが無ければ、二〇三高地は12月1日か2日には陷落してゐたかもしれぬといふ見方も出來ないではない。谷中將を始め、司馬、福岡兩氏は兒玉將軍の演じた活躍を鞍馬天狗のそれになぞらへ、少々話を面白くしすぎてゐる嫌ひがある。兒玉將軍の來順如何に拘らず、二〇三高地は既に熟柿の如く落ちるべき時期に達してゐたのではないか。(同書)

合鍵を持つた歴史觀

二〇三高地ばかりではない、旅順要塞そのものの開城も既に時の問題であつたやうに思はれる。ここに第三囘總攻撃における損失を顧ると、僅か1週間足らずの二〇三高地における死鬪によつて日本軍が出した戰死者數は2742人であるが、一方、主攻地點たる東北正面攻略に於ては1月1日の開城までに1310人しか戦死者を出してゐない。既に述べた樣に、主攻の東北正面に關してのみ見れば、第一囘總攻撃においては5037人、第二囘總攻撃においては2474人、第三囘總攻撃においては2310人と、戰死者數が減少してゐる。これは成功とまでは言へなくとも、或る程度まで事が計畫的に運ばれてゐた事を物語つてゐると言へよう。この事實から見ると、幾ら二〇三高地を落し、旅順艦隊を撃滅しても、旅順要塞を陷落させぬ限り、第三軍の任務は終らない以上、東北正面主攻は決して愚作と斷じ切る事は出來まい。(同書)

第一囘總攻撃の死者數が多かつたのは、日本軍に攻城戰の知識を持つ者がゐなかつた爲である。第二囘は攻城正攻法を採り、必ずしも成功しなかつた。一部の堡壘が落ちなかつた爲である。しかし第三軍は東北正面攻略に確かに手應へを感じた筈である。だから大本營からの勸奬にもかかはらず、東北正面攻略にこだはつたのである。さらに言へば、東北正面にこだはつた爲に、ロシア軍は西方正面の守りを固めなかつたのではないか。(要約)

※福田は「旅順陷落は、ロシア側の兵力、食料の缺乏がその敗北の決定的要因であつたらう。」と言つてゐる。確かに完璧な要塞であつても、食糧が不足すれば兵隊は體が保たない。コンクリートで完全に固めてあつても、そこにゐるのは飯を喰らふ人間なのである。

「歴史に對しては私たちは飽くまで謙虚でなければならぬ。結果から是非を論ずるのは易しい。が、これに身を以て加はつた者は是非を論ずる場合にも、決して斷定はしない。人物論にしても輕ゝに善玉惡玉を造り上げはしない」と福田は言つてゐる。「裏の裏を見、更にその裏を見ていけば、事實は崩壞する。善惡K白の別は付け難くなるのである。歴史に對してはそこまで付合はねばならない。」そこまでいつて始めて偏見がなくなるからである。(要約)

近頃、小説の形を借りた歴史讀物が流行し、それが俗受けしてゐる樣だが、それらはすべて今日の目から見た結果論であるばかりでなく、善惡K白を一方的に斷定してゐるものが多い。が、これほど危險な事は無い、歴史家が最も自戒せねばならぬ事は過去に對する現在の優位である。(同書)

「乃木將軍と旅順攻略戰」──結論

福田は「合鍵を以て矛盾を解決した歴史」を批判してゐる。そしてこの「乃木將軍と旅順攻略戰」で、歴史をいかに見るべきか、そのやり方を示してゐる。

司馬の、餘りにも筋の通つた、わかりやすすぎる歴史小説を讀んで、歴史をわかつた氣になるのは間違ひである。初めに謝罪ありきの「南京虐殺」「從軍慰安婦」問題についても同じである。最初に問題解決の方法を示した上で、歴史を解決して見せるやり方には嘘がある。

歴史を知るには、一つ一つの事件を「無意味な點の羅列」にまで追込まねばならない。その時それらの點は互ひに矛盾し、相容れぬものとなるであらう。だが、「その時、時間はづしりと音を立てて流れ、運命の重みが吾々に感じられるであらう。」そこまでいかねば、歴史を知つたといふことにはならないのだ。(要約)

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