闇黒日記


平成十八年一月三十一日
以下、グロい話なので、グロ系が嫌ひな人は讀まない事。
インフルエンザの高熱は時として人に妄想だの幻覺だのを見させるものらしいですが、うなされて變な夢を見ました。顏を外す夢。かさぶたを剥がすやうな感じで、なんか自分の顏を剥がしてしまつたんですね。で、すつきりしたんですが(夢の中で)、剥がした顏を何うしようかと。それで取敢ず軒先に吊るしておいたのですが、(夢の中で)思ふにやつぱりこれは世間體もあつて拙いのではないか。そんな訣で(夢の中で)何日か經つてから、軒先にぶらぶらしてゐる顏をおろして、裏庭に埋める事に。ところが良く見ると顏の裏側には蛆がわいてゐて云々。
平成十八年一月三十一日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20060130
例によつてリンク先の論旨とかその他のいろいろなこととかは全部氣にしないで書く。十分氣にしてゐるけれども、細かい事は氣にしないで書く。
八百屋さんの自律性とか魚屋さんの自律性とか、そんな事は現實の社會で全く問題にならない。一々文學の自律性を疑つたり論じたりするのは文學者位のものだ。自分の仕事の自律性なんてものを一々氣にするなんて自意識過剩も良いところだが、自意識過剩でないとやつてゐられないのが日本の文學者であつて、なぜなら日本で文學者なるものは職業ではないからだ。本を出してゐてそれで御立派な先生さんで、さうでなければ文學者氣取りの無職と「義」邊に嘲笑はれる。だから、それ故に文學者氣取りの青年やら中年やらは一々「文學とは何ぞや」と考へる訣だが、その結果が「文學は信ずるに價しない」であつたり「文學は糞の役にも立たない」であつたりする。
結局、「俺は文學を信じたいのだ」とか「俺の信じられる文學を頂戴」とか、そんな事の裏返しの表現だつたりするだけだ。
で、「文學は美である」――ヴァレリイとかT.S.エリオットとかもそんな事を言つてゐる。日本の文學者は大體、ヨーロッパの文學者の言ふ事を眞に受けるから、「美だ」と言つて、何だか良くわからんものにも美を見出して陶醉して見せる。が、陶醉なんてものは傍から見れば笑へるもので、だから「義」邊に嘲笑はれる事になる。が、そんな嗤はれるやうなものをしか文學が「持たない」と言つて、文學者氣取りは開き直る。開き直れば幸せになれた氣がするからそんな事をするだけで、それは世を拗ねてゐるだけに過ぎない。さう云ふ耽美派は、社會派の連中に突込まれれば大概すぐに己が立場の「脆さ」を露呈する。プロレタリア文學者の攻撃の前に脆くも自陣を打破られて自殺したのが芥川。命を賭けるほどの美なんてものは「ない」と、それはその通り。で、なんとか庵の主人みたいな號を名乘つて、樂隱居みたいな顔をして、オフコースな立場に引籠つて、それで脱俗的な文章を書いてゐる。花鳥風月を愛でると云ふ奴で、日本人が昔から好んだ文人通人の生き方だが、無職なのには變りがない。拗ねてゐるから許される丈で、無職に生きる權利は無いと言ふ「義」にはやつぱり罵倒される。逃げなんだよ。
エリオットにしても、詩の美しさを語つてゐるけれども、美しいだけが文學だとは言つてゐない。なるほど、純粹なパン屋さんも、純粹な靴屋さんもゐない、パン屋や靴屋も政治を語る、「政治的なパン屋さん」「政治的な靴屋さん」である、彼等も複数の存在を同時に生きている――馬鹿馬鹿しい話だ。純粹病と言ふ奴だ。純粹なものに憧れるのも大概にするが良い。文學者だつて、耽美派もゐればプロレタリア文學者もゐる――しかし、それは何を絶對の基準にした分類なのか。否、文學に絶對の基準が「あり得る」ものか。「ある訣がない」と思ふ價値相對主義者だから日本の文學者は悉く駄目なのであつて、ヨーロッパの文學者には絶對の價値が「ある」。エリオットは、カトリックに復歸した文學者だが、キリスト教のGodが絶對の價値だ。ヨーロッパ社會はキリスト教社會である。キリスト教社會にも慥かに無神論は存在する。けれども無神論は、實は神なき社會には存在し得ない。無神論の價値觀もまた、否定すべき神への信仰の價値觀を反映するものであつて、Godなる絶對者によつて規定される西歐社會に於いてはカトリックもプロテスタントも無神論も、基本的には絶對的な價値觀を共有する。キリスト教社會の鬼子であるマルクス主義もまた。クリストファ・ドーソンに據れば、文化とは宗教の事である。西歐の文學者は――少くとも、優れた文學者、偉大な文學者と言はれる人々は――絶對的な價値觀を己の藝術の背景に持つ。俺が興味を持つのは飽くまでさう云ふ人々であり、なぜ興味を持つかと言へば自分にさう云ふ價値觀が存在しないからである。異る價値觀を持つ存在者に興味を抱くのは自然な事だらう。それは渡邊さんも認める事だ。俺にして見れば、渡邊さんが「自分にとつては自然に感じられる筈の存在」を「異る他者」と看做してしまつてゐるのが怪訝な事なのだが、それは今はさて置く。社會に與へる影響――文學者はそれが政治的レヴェルのものである必要性を感じない筈の存在者である、さう言つたら誤だらう。優れた文學者であつたサルトルも盛に政治的な發言を繰返した。だが、政治的な演説がサルトルを偉大にしたのではない。『嘔吐』に見られる人の生き方の問題への特異な考察がサルトルを偉大にしたのであつた。現象學の理解に於てサルトルは非難される餘地があるけれども、その文學的表現としての作品にサルトルの優れた手腕は發揮されてゐる。少くない論文が讀むに堪へない詰らないものであるにしても、『嘔吐』は讀むに堪へる面白い小説であり、一方でそこでは特異に思はれる主人公の生き方が象徴的に現代人の生き方を示し、現代人の重大な問題を抉り出す結果となつてゐる。エリオットにしても、美しい詩句は深刻な現代の問題と結び附いた時のみに優れた詩として成立してゐる。マラルメが失敗したのは――或は結局マラルメが偉大な詩人と看做されなかつたのは――純粹に美しい詩なるものをしか構想しなかつた事が最大の理由であつた。マラルメの詩には思想がない――其處まで言つたら言過ぎだと言はれるかも知れないが、實際、マラルメの詩は極めて底が淺い。美しい文學を作つた事ではゴーティエもマラルメに並ぶ存在だが、ゴーティエもまたマラルメと同樣、偉大な文學者と看做す事は出來ない。ランボーやボードレールの方が、偉大と云ふ點では遙かに偉大な詩人であつた。美的にはどちらとは必ずしも決し難い筈である。けれども、エリオットが指摘してゐる。ボードレールには惡の觀念があつた。己が趣味を通して、ボードレールは惡人たる事が出來、結果として神の許しを乞ふ事が出來る。それは即ちボードレールが道徳的な人間であつた事を意味する。マラルメにはさう云ふ道徳的な價値觀と接點がない。エリオットにしてみれば、道徳的である事が文學者の價値を決めるのであり、美しい作品を作つた事がその價値を決定的に決めるのではない。さう云ふ思想を持つ――と言ふより心より信じてゐるエリオットは、或講演で政治家逹を前にして、自分は文學者であり政治の素人であるが、文學者として政治家の方々に御話をする權利がある、と堂々と言つてのけた。社會を變へるとかそんな事については「素人」である自分であつても、個人を變へる事については話す權利がある。さう言換へたら解り易いだらうか。勿論、洗腦の仕方とか、そんな低級な話ではない。人間を機械竝に扱ふのならば寧ろ政治の話である。人心收攬の術は間違ひなく政治家の領分である。しかしながら、そんな政治的な大雜把な取扱ひ、機械的な取扱ひに、全ての人間が滿足する訣はない。人間は純粹ではない。だから單純に割切つた扱ひからは「脱落」する人間が極少數でも常に存在する。さう云ふ少數者を「救ふ」、それが文學者の使命であると福田恆存は松原正氏に言つたさうである。

平成十八年一月二十九日
金曜日の夜に四十度の熱が出てダウン。インフルエンザA型。ちなみに金曜日の晝間には東京古書會館の古書展に行つてゐて、雜誌「文藝」の臨時増刊號とか雜誌「人間」の福田さんの對談が載つてゐる號とか福田恆存『戲曲集 キティ颱風』(創元社)とかを買つた。古めの本が多くて良い雰圍氣の古書展だつた氣がする。

平成十八年一月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20060125
渡邊さん無事歸宅との事。これからも大變なのでせうが。

平成十八年一月二十五日
お笑いパソコン日誌の「2006/1/24 PM 10:38」

だいたい、今だってウィンドウズは標準では DVD を再生することができない。あ、ふつーの XP ではですけど。Media Center Edition ではどうだか知らない。まさかデコーダが入ってないなんて事はないだろうけど。

マジレスすると入つてない。
Microsoft Windows XP Media Center Edition 2005: 機能

Media Center Edition のパートナーにより製造された DVD デコーダ (新しい PC 構成での標準的なハードウェア) が搭載されているメディアセンター PC では、オンライン チャプタ検索によるプログレッシブスキャン DVD 再生が可能です。

微妙な言ひ方をしてゐるけれども、デコーダはサードパーティ製の物が別途必要と云ふ事。PowerDVDとかを入れないとDVDと言ふかmpeg2の再生が出來ません。普通のWindowsXPと同じ。
【レビュー】ついに自作ユーザーに開放されたMedia Center Edition 2005を試す (3) 揃えるパーツには注意が必要 (MYCOM PC WEB)
平成十八年一月二十五日
本日のミス。首藤さんが超くせ豫告のテキストを掲示板に書込んで下さつたのを「義」と勘違ひして削除。大變申し訣ない事を。朝の十時前後にうちの掲示板を御覽になつて、データを保存してをられる方或はキャッシュから救出出來た方がいらつしやつたら乞御連絡。

平成十八年一月二十四日
指輪世界の第二日記 - 続brとp
「HTMLで見た目を定義する」と云ふ發想にとらはれてしまつてゐる。「改行を制御」等と云ふのはレイアウト的な發想だ。マーク附けは「文書構造をマーク附けする」と云ふ發想に基いた自然なマーク附けで、それを基にレイアウトはCSS、と云ふのが「W3C的」な發想。
改行は行き過ぎではないと言つてゐるが、「行き過ぎでない」と云ふ根據が全く提示されてゐない。「先に言つたもの勝ち」だとでも思つてゐるのだらう。
「文書構造に基づいてマーク附けする」と云ふ發想と、「改行を制御する」なる發想は、絶對的に「違ふ」――相對的な違ひではない。相對的な違ひでないのならば、「行き過ぎ」のやうな相對的な表現はそもそも不可能だ。絶對的な違ひであれば、その時は「あれか、これか」の撰擇が要請される事になる。
と言ふか、ISO/IEC 15445:2000的には、Pre-HTMLの段階でbrが這入り込む「隙」があれば、結果として生成されるHTML文書にもbrが出現し得る、としか言ひやうが無い。
平成十八年一月二十四日
無名氏がコメントしてゐるけれども、「改行の制御」「改行および複数行空けを使いこなす」が何を意味するのか全く解らないと云ふのは事實ですな。そんなに改行して何うするの。
無駄な改行は無ければ無い程良い。モニタの縱方向は有限だ。無駄に改行する事は、讀み手が一度に見渡せる文章の量を少くする事を意味する。「一度に見渡せる文章の量が少いのは良い事だ」と書き手が思ふのは勝手だが、それを讀み手に押附けてしまふ事は許されるのか。
讀み手にして見れば、「適切な字間・行間」が一番良いのであり、「澤山の強制改行」はただの迷惑でしかない。書き手が「これは良い!」と思つてした「澤山の強制改行」は、大概、自己滿足にしかならない。強制改行は、しないで濟むならばしない方が良い。それが本當の「改行の使ひこなし」と云ふものだ。
平成十八年一月二十四日
もちろん、人によつては解釋が「あり得る」のだから、pだのbrだのを意味段落とか形式段落とかの區別に用ゐる、と云ふ事は「あり得る」。
が、「恣意的に強制改行を埋め込む」と云ふのは「好ましくない」。それを「自由な表現」だと思ふのは誤だ。出たら目に改行したところで、讀み手は訣が解らず混亂するだけで、何も良い事はない。
「強制改行の埋め込み方」にパターンがある場合――それならばclassを指定したp要素の方がメリットがある。
平成十八年一月二十四日
会話文と地の文
こんな「遣ひ分け」の仕方は「あり得る」と思つてゐる。
平成十八年一月二十四日
なんかつかれてる。ねます。

平成十八年一月二十三日
よみがえる空の第三話を觀たけれども御蔭で眠れない。
平成十八年一月二十三日
皇室典範に関する有識者会議
俺はこの「有識者」の選擧に行つてゐないし、俺以外の一般の國民も行つてゐない。この「有権者」は、選擧に據つて選ばれたのではないからだ。即ち、彼等は非民主的な方法で選出された。「有識者会議」は非民主的な組織と言つて良い。この非民主的な組織が日本の傳統を破壞しようと云ふ政策を提言した訣だ。
非民主的に選出されたメンバーが提言し、内閣がそれを受容れて、日本の文化を破壞する、と云ふ事は、戰後の日本で一度實行され、「極めて大きな成果」を擧げた。言ふまでもなく、国語審議会に據る國語國字改革である。
戰後の民主主義の日本國で、日本の傳統を破壞しようと云ふ政策が、二度に亙つて非民主的な組織に據つて行はれようとした事實は、記憶しておいて良い。既にメンバーが選出されてしまつた事實を既成事實として全く疑ふ事なく受容れ、そのメンバーが出した提言を評價してしまふ――さう云ふ非民主的な事が民主主義國である筈の日本國で當り前のやうに存在する。これは何う云ふ事だらうか。
日本の政治家は昔から文化的な事に理解が無い。小泉も例外ではない。靖國参拝のやうな自分のパフォーマンスについては考へて行動してゐるらしいが、肝腎の政策立案で好い加減な事をやつてゐる。と言ふより、餘計な事をしようとしてゐる。小泉は、個人とか私人とかでは善い人なのかも知らんが、政治家としては無能である。有能な政治家なら、政治が文化に餘計な干渉をしようとしたら止める筈である。と言ふより、本人に皇室について定見が無いから「有識者会議」なんてものをでつち上げて「考へる」事を丸投げしたのだらう。
平成十八年一月二十三日
総務省(報道資料)
「通信・放送の在り方に関する懇談会」。これもまた非民主的な形で「選ばれた」メンバーによるものだが、「公共放送は必要」なる結論を出した模樣。竹中平蔵総務大臣が直轄する私的懇談会であるさうだが、何うしてかう云ふ私的な集りが國政だとか何だとかを動かさうとするのだらう。公共放送NHKが、かう云ふ私的な集團に據つて「必要だ」と言はれ、維持されてゐるのは、好ましい事なのだらうか。
民主主義の國で民主的に決められるべき事が、日本では非民主的な手段によつて決定されてしまふ。
平成十八年一月二十三日
某所の騙り、リモートホストが125x100x41x174.ap125.ftth.ucom.ne.jpで、やはり「義」であつた模樣。
平成十八年一月二十三日
がらくた市、二割引の日。古めの本は多いが、どれもこれも痛んでゐる。福田さんの本が二册出てゐた。函が無かつたりカヴァが無かつたり。今囘は全體として今一つといつた印象。
中村元『比較思想論』(岩波全書247)。プーシキン『オネーギン』(養徳叢書外國篇1038)。社會構成史體系・堀米庸三『中世國家の構造』、林健太郎『プロシァ農業改革とユンカー経営の發展』(日本評論社)。新村出『橿』(カヴァ缺)。ジョン・デュウイー『新訳 人間性と行為 社会心理学入門』(春秋社)。ヨハン・ホイジンガ『中世の秋』(創文社・名著飜譯叢書)。

平成十八年一月二十二日
日本人は昔から大體、訣のわからないもの、難しく見えるものを有難がつて、難しいものを易しく説明するといつた事が大嫌ひだつた。「南無阿彌陀佛」にしても結局、佛教の理解とは無關係に、何だか良くわからないものを「兔に角となへる」と云ふのだから「ありがたい」となつて流行つた訣だ。
で、今でもさう云ふ「ありがたい」的な發想から、「HTMLの本質」みたいな話は毛嫌ひされて、「コピー&ペーストすれば使えます」式の一見御手輕で實は訣がわからない「小技集」の類が受容れられると云ふ按配。
平成十八年一月二十二日
國字改革をやつた連中、何でも「話す通りに書く」やうにすれば「書ける」筈だと抽象的に考へた。で、それは嘘で、實際にはそんな事、出來る訣がない。だから具體的に「は」とか「へ」とか「を」とかの「問題がある部分」を、歴史的假名遣のまゝに殘して、それで辻褄を合はせた積りになつて、「良いものを作つた!」と言つた訣だが、抽象的な表音主義が具體的な表記の慣習に敗れた訣だから、表音主義は原理として破綻してゐると看做さなければならない。ならば表記を表音的にしようと云ふ發想そのものが誤であつたと考へなければならない訣だが、抽象的に考へる人は誤の見直しが出來ない。現實に破綻してゐるのに「何とかなる」と思ふし、彌縫策で「何とか」してしまふとそれで原理も何とか「守られた」のだと思ひ込んでしまふ。
平成十八年一月二十二日
野嵜が「義」の騙りに對して「野嵜(本物)」と名乘つて書込んでゐるのを眞似して、「義」が「野嵜(本物)」と稱してまたあちこちの掲示板を荒し始めてゐる。

平成十八年一月二十一日
http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcyq100/diary/diary_0601_1.html#D20060107-1
『耳嚢』や『鸚鵡籠中記』あたりに出てきそうな文字をつまみ食いして、悦に入っているサイトをたまに見かける。あれは何なのだ。言葉遣い、文字遣いに定見があるなら文句はないが、そうでなければギャル文字を書くのと大差がない。
http://ryus.s21.xrea.com/w/#title644
世の中には変な正字正仮名論者というのが居て、何でも「昔の字」で書きたがる。 ちょうど「正しい HTML 」に目覚めた(?)いはゆる HTML 原理主義者とよく似ています。 或る意味では最初に罹る「はしか」のようなものですが、その反動として引用文のような意見が出てきます。
話がずれてゐる。三宅氏は、正字正かなを使つてゐる人に惡意を持つてゐるから、「はしか」呼ばはりして貶めようとしたいのだらう。しかし言葉遣い、文字遣いに定見があるなら文句はないとまともな事を言つてゐるRtmr氏がこの日記の今年の目標は、漢字数の削減である。とをかしな結論を出し、変な正字正仮名論者というのと言つてゐる三宅氏がで、最初に戻りますが、常識として漢字で書くべきところは漢字で書く。 自分の価値観で漢字数を削減する必要はありません。とまともな結論を出してゐる。どちらも支離滅裂としか言ひやうが無い。
平成十八年一月二十一日
ちなみに變な漢字嫌ひがゐて、今、日本の「支配層」になつてゐる世代がさういつた連中だと言つて良い。昔は、鐵道の列車名は「富士」みたいな漢字のものが多かつたけれども、さう云ふネーミングが嫌ひな「戰後世代」がおつさんになつて「おはようライナー」みたいな愛稱を列車に附けるやうになつた。京王でも、「迎光」が「迎光エキスプレス」になつてしまつてゐる。何か知らないがカタカナが好きな世代が戰後の一時期に養成されてゐて、さう云ふ連中がをかしなネーミングを好んでやつてゐる。連中にして見れば「素晴らしいネーミング」の積りなのだらう。最近は、さう云ふ風潮にも反動が生じてきて、小田急で「さがみ」の愛稱が復活したりしてゐる。かうした「カタカナ偏愛」の現象こそ、戰後の日本に生じた「はしか」のやうな現象であつた、と言へるやうになつて呉れれば良いと思ふ。三宅氏のやうな(?)漢字を憎惡するタイプのおつさんには消えて貰ひたいものだ。殘念な事に、最近「漢字は寧ろ恰好良い」と思ふやうな世代が現はれて來たと言つても、風潮として「反動」ブームが生じてゐるに過ぎず、理性的に漢字を擇んでゐる人はそんなに多くはない。「漢字を使ふのはDQN」みたいなカタカナ偏愛者の宣傳が屡々有效に機能するのは、結局のところ何でもかんでも風潮である爲。
平成十八年一月二十一日
あと、HTMLに關して。
http://d.hatena.ne.jp/ityou/20051109
カナかな団の躁鬱_Preview(948 僕は P が好きだ。私は BR が好きよ。)・http://aboutworks.com/shokodei/diary/2005/2005_12_b.html#PrintNo3
http://ryus.s21.xrea.com/w/#title644
http://www.takamagahara.info/notebook/2006/1
前から言つてゐるけれども、pにしてもbrにしても、Wordの機能をベースに仕樣が考へられてゐる氣配があるやうな氣がする。Wordだと、Enterを押して出來るのは「新しい段落」。Shift+Enterを押して出來るのは「強制改行」。それをそのまゝpとbrに置換へれば、大體HTMLのpとbrの概念と對應する。
HTMLの解説とか考へ方とかにしても、「一貫した説明が出來れば良い」のだし、俺もさう言つてゐる訣だが、歴史に裏打ちされた常識を認めるならば、歴史に裏打ちされたHTMLの發想と云ふものも認められるべきものだと思ふ。要は、HTMLを考へたのはTBLで、そこから繋がつてゐるのがIETFやW3C、果てはISO/IECのHTMLの仕樣だと云ふ事。さう云ふ「HTMLの歴史」を認める限り、一往、「W3Cの仕樣」は歴史的な正當性を認めなければならない。そして、「俺ルール」的な「HTMLの解説」を書くにしても、「HTMLの要素」がそのTBLやW3Cの發想で定められてゐる以上、其處から外れた「俺ルール」に「一貫性」の觀點からも「歴史」の觀點からも無理が生ずるのは已むを得ない。そして、より無理の少い仕樣が論理的に説得力のある「正しい」仕樣であるならば、無理に「本來のHTML」から外れた「俺ルール」よりも、「本來のHTML」の方が「正しい」と言へよう。
TBLも、最初はbrでやつて行く積りだつたらしい。けれども、後で發想を變へた。HTMLは、IETFの2.0、W3Cの3.2や4.01では、SGMLベースとされて、「段落」の概念を認めてゐる。かうした變遷は、歴史的になされたものだし、それなりの理由に基いてなされたものだから、一往尊重して良い。反對する事は可能だけれども、オリジナルの仕樣における發想の轉換の理由を理解して、その上で、そのTBLなりW3Cなりが發想を轉換した理由に問題が「ある」と言へる妥當な反對理由を示さなければならない。
平成十八年一月二十一日
何か知らんが、世間では「間違ったHTML」を支持する人が「正しいHTML」を支持する人を貶めるのは許されるが、その逆は許されないらしい。
「間違ったHTML」を支持する人は結局「無法の奨め」を説いてゐるだけではないか。
平成十八年一月二十一日
「間違つてゐると言はれてゐるものにもそれなりの正しさはあるのですよ」と云ふ反論をする人が屡々「正しい」と云ふ觀念そのものを否定してゐるのはをかしい。「それなりの正しさはある」と言つてゐる時點でその人は「正しい」事の價値を認めてゐるからだ。
平成十八年一月二十一日
大和但馬屋日記 - ヤママヤーとは西表山猫のことださうですが

ヤマトタヂマヤーへやうこそ

「ようこそ」は歴史的假名遣でも「ようこそ」ですよ? 岩波国語辞典第三版に據れば「よい」の連用形(音便の形)+係助詞「こそ」。あ〜るとか鳥坂先輩とかに騙されてはいけない。
平成十八年一月二十一日
諸惡の根源はこれか。
(6)歴史的かなづかいは定着しない
「歴史的かなづかい」は、もともと人工的に作られたものです。契沖の「歴史的かなづかい」がもとにしたのは、奈良時代から平安初期までの発音です。等と嘘を吐いてゐるし、アルファベットで表記する諸言語の中で、英語はとくに発音と綴りの乖離が著しく、一種の表意的綴りであると言われます。しかし、日本語においては、表意的要素は、かなではなく漢字がその役目を果たしておりますから、英語の綴りの例を日本語の歴史的かなづかい擁護の論拠とするのは、かなり無理があるように思います。と云ふのは尤もらしいが漢字とかなとを嚴密に區別すべき論據は何一つのないのだから「表音文字としてのかなは表音文字としてのみ使ふべきだ」と云ふイデオロギーに基いた極附けに過ぎない。このようにして、かなづかいは「乱れて」いきました。 ただし、「乱れる」というのは、歴史的かなづかいの立場からの主張にすぎません。当時は「かなづかい」という概念そのものがなく、自由に書いていたのです。と言つてゐるが、自由に書く「べきであつた」訣ではなく、ただ事實として「自由に書いてゐた」だけなのだから、「亂れではない」と言ふのは理窟になつてゐない。

このように、「歴史的かなづかい」は、明治・大正期の学校教育によって、数十年の長い期間をかけて、やっと普及しました。しかし、普及の程度は極めて不十分でした。それゆえに、昭和21年に「現代かなづかい」が登場すると、あっというまに主役の座を明渡してしまったのです。

完全な嘘。昭和二十年まで、歴史的假名遣は一般に「當り前のもの」として受容れられ、「正しい表記」と認識されてゐた。その「正しい表記」と云ふ認識が「あつた」事實が大事なのであり、「現實にどのやうな表記が行はれてゐたか」は問題にならない――と言ふより、現實に行はれてゐた表記は規範としての表記ではないし、理想としてのあるべき表記でもないから、それをもつて「あるべき表記」である歴史的假名遣であるかのやうに言ふのは話のすり替へ以外の何物でもない。「現代かなづかい」が一般化したのは、内閣告示に新聞・雜誌が一齋に從つたからに過ぎない。それに歴史的假名遣を人工的に作られたものと言ふなら、「現代かなづかい」こそ人工的に作られたものにほかならない。その證據に、「現代かなづかい」は一般に守られてゐない。「いや、みんな現代かなづかいで書いている」と主張するのは、現實を見ないからで、ウェブを見れば「現代かなづかい」(今は「現代仮名遣」)に完全に從ふ事の出來てゐる書き手は一人もゐない。大和但馬屋日記 - ATOK主催日本語テストで採上げられてゐる「テスト」、これで滿點を取れない人は多いだらう。ならば「現代仮名遣」は定着してゐない。「現代仮名遣」派の人は、「歴史的仮名遣は守られていなかったから定着していなかった」と言ふ癖に、「現代かなづかい」が守られてゐない事實から常に目を背ける。「大体守られているからいいじゃないか」のやうな考へなのだらうが、それを言ふなら歴史的假名遣もまた「大體守られてゐた」のである。「現代仮名遣」派の人は屡々公正を缺いた物の見方をする。否、彼等は「現代仮名遣」が「守られていない」事を、「定着してゐない」からと言つて「良くない」とは考へない。

もう少しだけいいますと、「現代かなづかい」には、「通る」を「とおる」と書くことなど、「歴史的かなづかい」の残滓といわれる部分が残っています。しかし、これらもいずれ払拭される運命だと思われます。私の若い友人(それも優秀な!)から、「そのとうり!」と綴ったメールが来るからです。

「そのとうり!」の「う」が「發音通り」でない事は論を俟たない、が、かうした「現代仮名遣」の規則から外れた書き方が「ある」事實は、歴史的假名遣が「定着していなかった」と言ふ「現代仮名遣」派の人にとつては何の問題にもならない。「自由でさへあれば良い」と云ふのが「ものわかりの良い人」としての『現代仮名遣」派――いや、「アンチ歴史的假名遣」と言つた方が良いだらう――の「立場」だからだ。とにかく「自由」でさへあれば良い、と云ふのが彼等の「第一の立場」である。が。

最後まで残るのは「○○は」、「○○へ」、「○○を」でしょうか。これらは、文法を背景とした綴りですから、容易に消えることはないと思われます。

彼等は、文法の支持があれば「綴り」が「あっても良い」と考へる。これが彼等の「第二の立場」だが、「第一の立場」と「第二の立場」とが「ある」事は、彼等の考へが一貫してゐない事の明白な證據で、考へが一貫してゐないのは考へが徹底してゐない事の證據である。勿論、彼等にして見れば「徹底しない」のは「良い」事である訣だが、それがただの「いいかげん」にしかなつてゐないのでは困る。
松本氏、http://homepage2.nifty.com/kanbun/nihonn-kanbun.htmの冒頭の「更新がおくれています。」なる記述を見れば判るが、感傷的な人のやうである。かう云ふ感傷に流される「良い人」が、論理的には出たら目でしかない事を「中庸」とかさう云ふ「良い事」のやうに勘違ひして、積極的に「正しい事」を排斥しようと動く。善意が結果として惡い結果を惹起す事例である。
善意を善意であるがゆゑに「正しい」と考へ、論理的に考へる事を惡意と極附け、「論理的に正しい」事を「道徳的に正しくない」と言ひ包める――掲示板の条域がそれをやつたが、かう云ふ考へ方が日本では一般に滲透してゐる。それは良くない事だと思ふのだが、兔に角「善意である」ならば全て良し、として、その善意を押附けようとするのが「典型的な日本人」である。俺はさう云ふ「封建的な日本人」のあり方に反對だから、飽くまで論理主義で行く。閑話休題。
助詞の「は」「へ」「を」は文法を背景とした綴りである、その通り、だが、「言はう」「聞かう」「話さう」のやうな書き方も、文法を背景とした綴りである。かうした綴りは、ならば、「あるべき」ものだ、と松本氏も認めざるを得ない筈ではないか。俺は、さう云ふ意味で、その程度のレヴェルで、歴史的假名遣の復活を主張してゐる。さう云ふ主張は「あり」だと松本氏も思はないか。思はないとしたら、松本氏はただの「アンチ歴史的假名遣」の人である。
で、かう云ふ「アンチ」の人が、字音假名遣となると積極的に擁護しようとする。
(4)字音の歴史的かなづかい

最近、字音の歴史的かなづかいは、非常に冷遇されています。

歴史的假名遣の中でも字音假名遣だけ、「アンチ」の人も好意を寄せる。何うもをかしな話だと思ふ。しかし、どつちみち彼等の結論は、歴史的かなづかいは、実際の発音とは異なるだけでも厄介な上、上記のように問題が多いとなれば、「字音は現代かなづかいでよろしい」という判断になるのも、仕方がないかもしれません。と云ふ甚だ好い加減なもの。
(5)字音の歴史的かなづかいは、なぜか冷遇される
福田氏の『私の國語教室』への言及もあつて、福田氏を松本氏は非難してゐる。が、このあたりの論理は寧ろ松本氏の方が目茶苦茶だと言へる。

習得のメリットが少ないためか、歴史的かなづかいの擁護論者も、漢字音の歴史的かなづかいに対しては非常に冷淡です。急先鋒であった福田恆存(ふくだ・つねあり)氏さえも例外ではありません。「難しいから、そこまで徹底することはない」というのが、その理由です(たとえば福田氏著『私の國語ヘ室』、文春文庫、192ページ)。不思議なことに、「宣長大人の字音かなづかいが間違っているから」、という理由ではありません。

しかし、字音を現代かなづかひにしてしまふのならば、漢字以外の部分だけを歴史的かなづかひにしたところで、現代かなづかひの場合と、それほど違ひは出てきません。なぜなら、日本語は必ず漢字まじりでつづりますし、漢字の部分が全体に占める割合が多いからです。字音の歴史的かなづかひを排するならば、歴史的かなづかひを擁護する必要さへも無くなるやうな気がします。(この段落だけ、わざと歴史的かなづかひにしてゐます。)

漢字かな交り文ならば、歴史的假名遣の文章でも「現代仮名遣」のそれでも、それほど違ひは出てきません。松本氏は、漢字の部分が全体に占める割合が多いと指摘してゐるけれども、字音假名遣は漢字の背後に隠れる。字音假名遣を書く機會は少い。ならば、字音假名遣は一般的な用途としてはそこまで徹底することはない。實際に假名で書く部分の假名遣が問題なのであつて、假名で書かない漢字の假名遣である字音假名遣は問題と「しない」事は「あり得る」。が、飽くまでさう云ふ考へ方は「一般的な用途」の觀點からのものであり、それが出版物における正式な書き方とは別の次元のものである事には注意しなければならない。松本氏は、その邊の事をぼかしてゐるが、どうも嚴密には場合を分けて考へてゐないやうな感じがする。(5)字音の歴史的かなづかいは、なぜか冷遇されるの最後の段落、朝日選書のやり方は慥かに「一つの見識」として「あり」だと思ふが、文章の纏めとしては如何なものか。松本氏は「現代仮名遣」だから朝日選書を「良い」と言つてゐるのではないか。
松本氏を「アンチ歴史的假名遣」と見ると、「字音假名遣の冷遇」への「憤り」も、ポーズとしか見る事が出來ない。歴史的假名遣を支持する人に無理やり「難しい字音假名遣」を支持させる、それによつて歴史的假名遣を面倒なものに仕立て上げる――兔に角「現代仮名遣」から「一歩も後退させまい」と云ふのが松本氏の發想だとすると、「歴史的假名遣を――「比較的」にであつても――簡單にする試みは全て否定すべきものである」と云ふ事になる、「現代仮名遣」ほどに「徹底」しないのであれば。福田氏の「字音假名遣否定論」――これは實は時枝誠記博士の假名遣改訂試案に基いたものだが――を叩いてゐるのは、どうも「歴史的假名遣派に無理難題を押附ける」「歴史的假名遣派を不徹底に見せかける」と云ふ「現代仮名遣」保守としての戰略であるやうに思はれる。松本氏や「現代仮名遣」を「保守」しようと考へてゐる人々は、「現代仮名遣」を絶對の基準とし、そこから先に「進む」事は「現代仮名遣を守る事だ」と考へる一方、少しでも戻つてしまふ事は「反動」であると考へる。「歴史的假名遣の妥當な改訂」であつても、「現代仮名遣」よりも「戻つてしまふ」のであれば、「現代仮名遣」を「保守」したい人々は絶對に受容れられないと思ふ。彼等は感情的なのである。
日本漢文へのいざない
吉川幸次郎も「現代かなづかい」支持者だつた。漢文の關係者は、案外、歴史的假名遣に好意的でない。
平成十八年一月二十一日
南川航詩集『ハイウェイの木まで』
平成かなづかいのご説明
折衷假名遣。かう云ふものならば「妥協」として「あり得る」。
「現代仮名遣」は、原則として「表音主義」を採用し、それで説明が附かない部分に「例外」と稱して「表語主義」を採入れる、と云ふもので、歴史的假名遣の規則はただ言ひ訣の爲にのみ採入れられてゐるに過ぎない。本音では、歴史的假名遣の「語に從ふ」と云ふ原則は完全に打破したい、「全て發音通りに書く」やうにしたい――が、それが出來ないから仕方なく「語に從ふ」と云ふ歴史的假名遣の機能を泣く泣く採入れた、と云ふのが「現代仮名遣」だ。原則を變へてしまつてゐるのだから「現代仮名遣」が過去の假名遣ひと全く連續性がない事は明かで、にもかかはらず、部分的・斷片的に「殘存してしまつてゐる」歴史的假名遣の規則を楯にとつて「現代仮名遣」を「保守」しようと云ふ人々は「現代仮名遣」と歴史的假名遣の連續性を強調する。しかし、部分的・斷片的に「殘存してゐる」だけの「例外規定」を根據に、原理的な「連續性」が「ある」と主張する事は出來ない。問題は原理の部分で連續性を殘す事にある。
平成十八年一月二十一日
かなづかひについて

私の苦労して歴史的仮名遣ひで書いた文章を,印刷屋さんが気を利かして,すべて現代仮名遣ひになおしてくれてゐたのは言ふまでもない。

平成十八年一月二十一日
くえん_俳句鑑賞と作句のための道具箱
くえん_かな
平成十八年一月二十一日
「現代に於て歴史的假名遣を用ゐる人」を非難する人の典型的な誤――「語彙と表記を混同する」「文體と表記を混同する」。前者の誤に基いて「昔の仮名遣いを使うのなら昔の言葉を使って書けよ」「昔の仮名遣いを使うのなら今の言葉を使うのは矛盾だ」のやうな非難が發せられる。後者の誤に基いて「昔の仮名遣いを使って現代文を書いている」「昔の仮名遣いを使いたければ文語文を書いたらどうか」のやうな指摘がなされる。
平成十八年一月二十一日
◆ホームページ
歴史的仮名遣い
平成十八年一月二十一日
雑誌
平成十八年一月二十一日
http://homepage2.nifty.com/antifemi/(「反フェミニズムサイト」)
反フェミニズムサイト記事
平成十八年一月二十一日
歴史的仮名遣ひについて

平成十八年一月二十日
東京古書會館のがらくた市。今日から來週火曜日まで。日曜日から二割引。取敢ず今日は内村鑑三思想選書を、六卷まで揃つてゐたので、購入。週明け、安くなつてから、またなんか拾へるものを拾ふ積り。

平成十八年一月十九日
大和但馬屋日記 - 言ふ云ふ

平成十八年一月十七日
http://www.kosho.ne.jp/~ryusei/
有限会社 龍生書林。
http://www.kosho.ne.jp/~ryusei/bungaku/6h/hukuda-kouzon.htm
福田恆存著作・関連
平成十八年一月十七日
現在、TVでテレビ東京【三宅式こくごドリル】なる番組をやつてゐる。
番組では、「ヤバい」と云ふ言ひ方が、三十歳未滿の若い人の間では、それよりも高い年齢の人と違つた意味で用ゐられてゐる、とリポート。その最後の締め括りに曰「『ヤバい』をつかいこなせないとヤバい!」。
――テレビ東京は、「ヤバい」の「新しい言ひ方」を「つかいこなせない」人は駄目だ、年齢の高い人も若い人の眞似をしてどんどん「ヤバい」なる言葉をつかひませう、と言つてゐる。何うかしてゐる。マスコミは兎角、「若い人」の「流行」に迎合する。誰も「をかしな言葉は使ふな」と言はないから「若い人」は勝手な言葉遣ひを發明しては面白がつて使ふやうになる。それでは行けないのだが、「行けない」と言ふと、調子に乘つてゐる若い人は「『行けない』と言ふな」と言返す始末である。調子に乘つた若い人の剣幕にたぢろいで「大人」が引下つては行けない。間違ひは間違ひだ、と言はなければ、「流行」の名の下に、誤用が一般化し、それによつて日本語が破壞される事になる。言葉は破壊されては行けないのだから、破壞されないやうに誰かが守る必要がある。
「日本語学者」は、國字改革をやつて、率先して日本語を破壞した主體であり、國語を破壞しようとする若い連中には決して逆らはない。「日本語学者」の連中に日本語を任せておく事は出來ない。
平成十八年一月十七日
http://gi-samurai.homeip.net/diary/2006/01/15
にゃおりん先生だから御答へしなければなりませんでせうか。ええとですね、「偶然性の音楽」ですか、その手の「音樂」は「駄目な音樂」の最たるものと考へて良いのではないですか。實際、海の向うでは「終つてしまつた」みたいですし。
X51.ORG : 演奏時間639年の音楽、第二のコードが鳴らされる 独
なんかその手の「音樂」を「變なもの=ネタ」として採上げてゐる。
平成十八年一月十七日
「ノヂタソだけど何か質問ある?」とか言つても何うせ「ネタ」の質問しか來ないだらうし、まともな質問でも何うせ「本当に無職ですか」とかその類のものだらうから、もつと具體的に「野嵜の用語・用字」に限定して「『意味が良く解らない言葉』『讀めない字』があつたら教へて」とか言つてみる。
使へる質問が澤山集つたら「闇黒用語の基礎知識」とか適當な名前のコンテンツをでつち上げて説明する。集まらなかつたら何もしない。
平成十八年一月十七日
XMLは「自由である」訣で、だから「自由を求める人」に支持されてゐる。さう云ふ人に野嵜も「XMLを支持しろ」「XHTMLを使へ」と言はれてゐる。なのに未だに野嵜はISO/IEC 15445:2000準據の文書しか作らないから、「XML派」の人々には殆ど裏切者呼ばはりされてゐる。
「自由」にはリスクが「ある」もので――XML文書は「誰でも理解出來るもの」或は「どんなプログラムでも理解出來るもの」ではない。XML文書は、「飜譯して理解出來る可能性がある」ものだ。A形式の文書しか理解出來ないプログラムで制作されたA形式のXML文書は、XSLT等を「かまして」、B形式のXML文書に變換出來、それによつてB形式の文書しか理解出來ないプログラムで讀む事が出來る。XMLでは、スタイルシートなり何なりを「かます」事が保障されてゐるに過ぎない。B形式のXML文書のみ理解出來るプログラムは、直接A形式のXML文書を讀む事が出來ない。XHTMLと云ふのもXMLの一形式で、間接的にはあらゆるXML對應のプログラムで扱へる。けれども、直接扱へないプログラムは存在する。
一往、HTMLを「讀める」既存のプログラムでは、HTMLを「讀む」のと同じやうにしてXHTML文書も讀める。けれども、「これはXML文書ですよ」とmime typeで言はれると、Internet Explorerは「XMLとしてのXHTML文書」を讀めない。Internet Explorerは「HTML專用のブラウザ」として、Microsoftからは配布されてゐる。XMLと稱して送られて來たXHTML文書でも讀めれば讀めないよりは良いに決つてゐるが、今の處「讀めない」状態になつてゐる。Microsoftにして見れば「ウェブでの標準的な文書形式はHTMLだ」と云ふ事なのだらう。取敢ずそんな状況が「ある」。
で、HTMLは「不自由」な形式である訣だが、だからと言つて別にXMLやXHTMLよりも「創造的だ」とは言ふ積り等、毛頭ない。ただ、「現状では」HTMLのまゝの方が「より多くの人に讀まれ得る」のであり、XML/XHTMLの方が「讀めない人の方が多い」。野嵜は、趣味の爲とか自己滿足の爲とか、さう云ふ「クローズド」な目的(公共の場であるウェブサイトでさう云ふ目的が正當か何うかは議論の餘地があるが)でウェブサイトをやつてゐる訣ではなく、より多くの人に可能性として「讀まれる」事を欲する「運動」の手段としてのウェブサイトをやつてゐるのであり、そこで或程度の一般性を確保しつゝ或程度の正當性を主張したい、そこでISO/IEC 15445:2000を「擇んでゐる」――形式に於て「自由である」事は意味がないのであり、表現の目的に應じて、或程度の妥當性さへ確保してゐれば、「不自由な形式」を用ゐるのは、妥協と言つても良いが、構はない事だと思ふ。
平成十八年一月十七日
「正しいHTML」と言つてゐるけれども、「tableレイアウト全否定論」のやうな事は言つてゐないので、ただ、「文書の形式には或程度の一貫性が必要だ」と、その程度の事を主張してゐるに過ぎない。「斬る」とか言つて昔、あちこちの「解説サイト」を批判したけれども、どれもスタンスとしては「解説の内容に一貫性がない」と云ふものであつて、「W3Cのお逹しに從へ」とか「上意であるぞ」とか、そんな「義」の言つてゐるやうな主張の仕方はした積りが無い。ただ「もつと一貫した内容のものにして呉れ」「讀んで納得出來るやうにして呉れ」と云ふのが主旨の積りだつた。文章に「毒」があるのを良い事に、反對者からはその「毒」だけが攻撃目標とされてしまつた訣だけれども、結局のところ、そこにしか「非難すべき點」は「なかつた」と云ふ事だ。しかし、「毒」を削つたところで「反對者が皆、野嵜の言つてゐる事に從ふやうになる」とは思はれないので、削る積りはない。
制作者の意圖と、制作された文書のマーク附けとに、何らかの必然的な關係を認め得るやうな形のマーク附けの仕方と云ふものは「あり得る」だらう、それを「解説サイト」なら示すべきだ、と言ひたかつた。實際、ただ「タグの使い方」を澤山書き並べて、「解説!」と言つてゐるだけの、「實質的に無内容」としか思はれない「解説サイト」は現在もウェブには掃いて捨てるほど「ある」。初心者にして見れば、『考へないで使へる」その手のサイトくらゐ「便利」なものはないだらう。けれども、「初心者を考へさせる」のは、惡い事なのだらうか。「何も考へたくない、頭が痛くなる」と云ふ人が、「正しい事」を希求する人間を感情的に罵る――で、罵られると、「正しい事」を信用出來ない「正義派」の或種の人々は、すぐに腰碎けになる訣だ。だが、皆が皆「腰碎け」になつてしまつては、世の中、「何も考へないで濟む」事許りがどんどんどんどん普及してしまふ。「正しい事」だけが「普及しないで良い」と云ふ事は無い訣で、「何も考へないで濟む事」もやはり「普及しないで良い」。ならば、「何も考へないで濟む事」と對立し、それと對抗する「正しい事」の主張は、世の中には必要なのである。世の中が「何も考へないで濟む事」一色に染まつてしまつては困る。何であれ、世の中が一色に染まるのは良くない事だ。基本的に人間は怠惰な存在だから、放つておいても「何も考へないで濟む事」は普及するのであり、努力しても世の中が「正しい事」一色になる事はあり得ない。だから、積極的に「正しい事」の主張は「なされるべき」である、と云ふ事になる。
平成十八年一月十七日
諸事情に據りMac OS 9.2なんぞで作業してゐるのだけれども、WindowsXPに比べて何とも不便。「大昔」のMac OS 9.2を「最新」のWindowsXPと比較するのは酷な事かも知れないが、後發のWindows、さすがに良くMacを研究してゐると思つた。FinderよりもExplorerの方が、ファイルのコピーとか、リネームとか、その邊の操作性は良くなつてゐる。
あと、流石に「大昔」のOSで、Mac OS 9.2は良く落ちる。

平成十八年一月十六日
また「義」が野嵜の名前を騙つて各地に投稿してゐますが、全て野嵜とは無關係のものです。例によつて、い い か、 お ま え ら 、き つ く 申 し わ し た ぞ 。と云ふ脱字のある文章のコピー&ペースト。三年も四年も同じ文章を使つてゐるけれども、氣附かないのかねえ。
週末になると出沒する「義」だが、何か勘違ひした「アンチネット右翼」の一人らしい。「ネット右翼」に「無職」のレッテルを貼つて好い氣になつてゐる投稿、結構あちこちの掲示板で見る。それら全てが「義」に據るものとは言へないけれども、どうもその種のメンタリティを持つた人間がこの世には確實に「ゐる」らしい。何と言ふか、マルクス主義者が唯物論に基いてやらかした圖式化が「歴史の創作」であつたやうに、「アンチネット右翼」の「無職理論」もまた「創作」になつてしまつた、と。「その人が無職か何うか」「その人が右翼か何うか」といつた事の穿鑿もまともにやらないで、兔に角「ネット右翼=無職」なる圖式で「解釋する」事が「義」をはじめとする一部の「アンチネット右翼」的メンタリティの持主の人には「正しい」事であるらしい。「圖式化して説明する事」を「事實と證明する事」だと勘違ひしてゐる人は、嘗てYahoo!掲示板にゐたFutakoto_Mikoto_Yokotoなんかもさうだ(「あまりにも適切な比喩は證明になるのです」とか言つてゐた)けれども、その手の前近代的な人間は今でも日本には多いらしい。
と言ふか、「義」が週末にだけ投稿するのは、どうやら「自分は無職でないぞ」と云ふ證明の積りであるらしい。
平成十八年一月十六日
「正しい事」は「ある」と信ずる人間は非常に不利で、なぜならその人は出來るだけ正しい態度をとらなければならないから。
「正しい事など存在しない」のやうな主張をする人は實に樂で、なぜならその人は「正しい事」を言はうとしてゐる人間に「正しくない方法」で攻撃を仕掛けられるから。
平成十八年一月十六日
「どつちが先か」が意味があるのは、後から「やつた」側が前に「やつた」側に對して批判的な意圖を持つてゐる場合。
惡性氏が自作自演をやらかして惡い事をした。それを批判する爲に「全く同じ事」としての「自作自演」をFankee_jr氏がやつて見せた
この時には「先にやつたのは惡性氏」のやうな批判が成立つ。
Fankee_jr氏のやつたのはパロディであり、パロディは批評の一つの方法として「あり得る」。惡性氏がFankee_jr氏のやつた事を非難すればするほど、惡性氏自身のやつた事が惡かつた事は明かになる。パロディ化されたものをオリジナルが「非難すべきもの」と言ふ時、そのオリジナルの非難はオリジナル自身に降りかかる――パロディと云ふ批評の狙ひは其處にある。
勿論、かう云ふパロディ的批評なる方法は、「オリジナル」に對して説得力を持たない場合もあり得る。「オリジナル」の人が「自分の事は棚に上げ」と云ふタイプの人間――「他人に對して言ふ事と、自分のやる事とが一致しないのは當り前」と思ひ込んでゐる人間――の場合、「あんたの言つてゐる事とやつてゐる事とは矛盾してゐる」と云ふ批判は、當人には全く通用しない。が、周圍の人に對して、かうした批判は、批評として認識され得るし、そこで説得力を發揮し得る。
勿論、論理に説得されず、雰圍氣で「納得した積りになる」人には、批評の方法は全く效果は無く、宣傳が唯一の有效な武器となる。が、宣傳なる方法に頼つて、眞實を歪め、デマを流したり、嘘を言つたりして、人を騙して自分に都合の良い方向に世の中を動かして行かうとする人は、後世、眞實を求める人に據つて歴史的に裁かれる事ともならう。それは確實な事ではないが、あり得る事ではある。そして、「正しくない事をしてゐた」と、後で暴かれる事は、歴史的には致命傷である。一方、正しい事を言はうとしてゐれば、それが必ずしも巧く行かなくとも、後世にも必ず存在するであらう「正しい事を求める人」に據つて再評價される事が「あり得る」。これもまた確實な事ではないが、歴史的に再評價される事くらゐ名譽な事もない。人はさう云ふ名譽を求めるべきだ。
平成十八年一月十六日
野嵜とは誰かを書直したよ。もう十分知れ渡つてゐる事柄許り並べ立てて見た。
平成十八年一月十六日
なんか最近は餘りにも「意見の相對化」が歡迎され過ぎてゐるやうな氣がする。
平成十八年一月十六日
なんか最近は餘りにも誰かの身方をするのが忌避され過ぎてゐるやうに思ふ。單純に「誰かの敵にまはる」事で安心してしまふ人が多過ぎる。
平成十八年一月十六日
なんか最近は餘りにも「正論」の價値が下がり過ぎてゐるやうな氣がする。「正論と稱してゐるだけの言論」と「本當の正論」とを區別する努力を抛棄して、何とかして「所謂正論の類ひ」は纏めて封殺してしまへ、と考へる人が多いやうな氣がする。
平成十八年一月十六日
「所謂正論の類ひ」を「相對化」する、と云ふ大義名分の下に、「所謂正論の類ひ」を言つてゐる人の敵にまはる、と云ふのは良い事だ、と思ふ人が餘りにも増え過ぎてゐる。
平成十八年一月十六日
バークレーのブログ - アクセスアップCSS
「一見さん」である俺には最初、話の流れがさつぱり讀めなかつた。と言ふか、どれが誰の文章なのかさつぱり。へへへへ。。。。とか云ふ書き方、ぱつと見「荒し」の文體だし。
なんか、自由の中から創造性が生まれるものですよ、と僕は思いますね。とか言つてゐるし。何うよ。
Amazon.co.jp:戦うWebデザイン―制約は創造性をはぐくむ: 本
全くの自由の下で創造は可能かと言へば不可能。言葉だつて規則があるから使へるのであり、「自由が良い」とか言つて訣のわからない事を喚いても、誰もそれを創造物とは認めない。少くとも、言葉に於て自由であるとは誰も思はない。却つて「言葉が不自由な人」みたいに見られるだけだらう。規則こそが創造の原點であつて、自由を創造の原點のやうに言ふのは考へが淺い。
大體、たかが「HTMLのタグ」なんかに「創造性」も糞もあつたものではないよ。「創造的なタグ」を使ひたかつたら、自分で要素を定義出來るXMLを使つたら良いと思ふ。「HTMLのタグ」は、使へるものが決つてゐる。HTMLの規則の中で出たら目に「タグ」を擇んだところで、御釋迦樣の掌の上で暴れてゐるやうなものだ、自由だと思つてゐるのは本人だけ――「井の中の蛙」はどつちだらう。
楽しみたくて楽しみたい [2006年1月16日の湾岸日記 その1]
湾岸道氏が書いてゐるけれども、書くのが樂とか、その邊。マーク附けはマーク附けとして決り切つたやり方をしておけば良い。それで、無意識にHTMLのマーク附けを出來るやうになればしめたものだ。マーク附けを氣にしないで、思ふ存分、文章を書ける。
創造性を發揮すべきはマーク附けされる文章そのものにおいて、だ。マーク附けされる文章は、まあ、誹謗とか中傷とか脅迫とかプライヴァシーの侵害とか人の名前を騙るとかさう云ふ事はしてはいけないけれども、何處までも自由。そこで何を書くかが問題であつて、マーク附けに拘つて「ありがち」な事を言つてゐるやうでは駄目だと思ふ。
要は「HTMLのマーク附けなんかで『自由』に拘つても意味がない」と云ふ事だ。

平成十八年一月十五日
W3CはHTMLの仕樣書を改訂してゐるので、仕樣書が「絶對の眞理」といつたものでない事は自明。しかし、合理的な仕樣書ならば、それは或程度の「正しさ」を持つ。
一方、或DTDに從つて書いたと云ふDOCTYPE宣言があるならば、そのDTDに基いてその文書が「正しい」か「正しくない」かを判定出來る。
さて今、野嵜は「正しい」「正しさ」と言つてゐるが、ここで單純に「同じ『正しい』と云ふ言ひ方をしたから、これらの『正しい』は全く同一に解釋されなければならないものである」と言ふ人がゐるけれども、それは間違つてゐる考へ方なので改めた方が良い。例へば掲示板に來てゐる条域ならば、かう云ふ場面でも例によつて官僚主義を發揮して「『正しい』は一つ」式の主張を執拗に繰返し、野嵜を辟易させて喜ぶだらうが、「『1+1=2』は本當に正しいのか」と言ふ時の「正しい」と、「『1+1=2』である時に成立する算數の問題で、『1+1=3』は正しくなく(不正解)、『1+2=3』は正しい(正解)」と言ふ時の「正しい」とが別の次元のものである事は理解して貰ひたいものだ。
法律や技術的な仕樣書の類ひは「全體として整合性のある事」を以て正當性を持つと言へる。言語における文法等は、歴史的に成立した體系の自然さと整然としてゐる事とを以て正統性を持つと言へる。その一方で、さうした正當性・正統性を前提にした時、それらの具體的な應用について「正しい」「正しくない」と云ふ言ひ方があり得る。
平成十八年一月十五日
例へば音樂。或種の音階の幾つかの音が適切に排列された時、それは全體として音樂として成立する。出たら目に音が發せられても、それは音樂ではない。樂曲たり得るには、正しい配列の音が必要である。そして、同じ樂曲であつても、適切に排列された音による樂曲と、拙く排列された音による樂曲が存在する。拙く排列された音による樂曲は、聽いても心地好くないものである訣だが、まあ、駄目な樂曲だらう。樂曲を作るのは言ふまでもなく作曲家だ。良い樂曲を澤山作ればその作曲家は優れた作曲家で、賞讃される。では、駄目な樂曲ばかりを作る作曲家は――さう云ふ作曲家が商業ベースで樂曲を大量に提供出來る立場に就いてゐたとする。別にコネとか裏から手をまはしたとか、そんな事を想定しなくても良い、昔は優れてゐたけれども今では才能が枯れてしまつたとか、或は、商賣のセンスがあつて重寶されたとか、さう云ふ理由で「存在した」と云ふ事で構はない。ただ、その作曲家には今、作曲のセンスだけがない――その作曲家は現在、駄目な樂曲を大量に賣り捌き得るのみである。そして實際にその作曲家は盛に駄目な樂曲を賣り捌きつつある。この時、その作曲家は、心ある音樂ファンから非難されないだらうか。或は、非難されないで良いだらうか。なるほど、駄目な樂曲もまた樂曲であり、優れた樂曲とは相對的な違ひしかない。しかし、だからと言つて「駄目な樂曲は存在しない」とは言へないし、「駄目な樂曲を作つた作曲家を非難する事は許されない」とも言へないだらう――殊に、音樂の事を眞劍に考へてゐる音樂ファンならば。「音樂なんて何うでも良い」と思つてゐる「ふつうの人」ならば「何んなに駄目な樂曲が流行らうが、そんなの俺の知つた事ではないよ」と他人事みたいに(實際さうなのだが)言ふだらう。けれども、さう云ふ態度を音樂ファンを稱する人がとつたら、それは變だらう。少くとも「良心的な音樂ファン」ではないだらう。
平成十八年一月十五日
音樂で解らなければアニメで考へても良い。駄目な作曲家の代りに「あかほり」の事を考へてみたら何うか。彼は一切非難されないだらうか。或は、一切非難されないで良いだらうか。慥かにあかほりにも取り柄が無いではない。しかし……。
平成十八年一月十五日
http://lan.rgr.jp/diary/2006/01b#Fifteen-One

文章に於いて補助的に用いる「という」は、「と云う」と表記するのが正しい。「と言う」は、誰かがある発言をした時(例:彼は「あの人は天才だ」と言う)や、物事を言葉で表現する時(例:こういう物を「決定的証拠」と言う)等に使う。

そんな決り、あつたか?

平成十八年一月十四日
木曜日に鈴木大拙坐談集の一・二・四・五卷を買つて來てゐるのだけれども、その第一卷には福田恆存と鈴木大拙・古田紹欽の對談が收録されてゐる。『對話 人間いかに生くべきか』(教養文庫)に收められてゐるのと同じ對談。
平成十八年一月十四日
237 :名無し草 :2006/01/14(土) 04:25:29 
また福田マンセー病が再発したか
晒しage。信仰を病氣のやうに言はれてもな。
と言ふか、あちこち更新したよ。例によつて蟲取りヴォランティア募集。
平成十八年一月十四日
福田恆存『私の演劇白書』二十四ページ
獨斷がいけないのではない。支離滅裂がいけないのである。

平成十八年一月十三日
A「aは自分の言ふ事に出來るだけ筋を通さうと努力してゐる」とB「bは場當り的な事を言散らしてゐる」とを比較して。
aの方は努力をしてゐるのだから道徳的には善い事をしてゐるが、bの方は怠惰であるから道徳的に惡い事をしてゐると言へる。
aの方は論理的に正しい事を言つてゐる可能性が高いが、bの方は自分が論理的に誤つてゐても平氣で屡々支離滅裂な事を言つてゐる。
嘗てはbが自らを正義と稱して支離滅裂な主張を押通さうとした爲に「正義と稱する主張は疑つてかかるべきである」と言はれた。現在は、bが利巧になつて、本當の正義であるaに對してその言葉を投掛けてaの主張を封殺し、自らは正義と稱さない事に據つて相變らずb自身の支離滅裂な主張を押通さうとするやうになつた。
山本夏彦も福田恆存も「正義と稱する輩は疑つてかかるべきだ」と述べた。現在は「藥」が效き過ぎて、嘗ての「正義派」が「正義と稱さない」惡智慧を働かせるやうになつた。今は「正義と稱しない輩も疑つてかかるべきだ」と言はねばならない。
結局のところ、看板としての「正義」は疑つてかかるべきである、と云ふ事だ。看板の背後にある論理そのものが正義であるかどうかが問題なのだ。看板としての「正義」を疑ふ爲には、正義それ自體が「ある」事は信じなければならない。物事に正しい正しくないが「無い」のなら、看板としての「正義」を「疑ふ」事すらナンセンスと云ふ事になるからだ。
平成十八年一月十三日
A「aはより正しい事を言はうと努力して、結果としてxと云ふ考へを抱いてゐる」とB「bはより正しい事を言はうと努力して、結果としてyと云ふ考へを抱いてゐる」とを比較して。
未檢討の時點で、xもyも、この時點では正義であるが假説である。
xとyとは互ひに相容れない主張である可能性がある。
xとyが論理的に引出された結論である時、aとbとは論爭が可能である。
論爭に於て、aとbには各自の正義についての論證が要請される。論證の過程に於て、aはbに論證の不備があるならばその不備を、bはaの論證に不備があるならばそのの不備を、指摘する事が出來る。それらの指摘について、再反論する事は勿論可能である。指摘・再反論は、共に、第三者が妥當な方法で行ふ事が許される。
議論の過程に於て、xなりyなりに、擁護しやうのない不備が發見された時、その不備があつた主張は誤であると判斷され、議論と云ふ觀點からは論者の勝ち負けが決定される。
議論の勝ち負けは、決定的とは言へない事もあるが、大體決定的と言へる事もある。常識的に判斷して「大體決定的」と言へる場合、我々は議論に決着がついたと一往看做す。ただ、一旦決着がついた議論であつても、不備と看做された事項について後から擁護の意見を提出する事は可能であり、それに依つて何時の日にか議論がひつくり返る可能性は「ある」と云ふだけの話である。この世では如何なる事柄も完全に徹底して議論する事は出來ない。「正義は相對的である」と言はれる所以である。しかし、一往「常識を信頼する」立場の人であれば、凡そひつくり返せさうにない決着が「あつた」場合、一方を「正しい」と看做し、他方を「誤つてゐた」と看做すのは常識である。
平成十八年一月十三日
愛書会。國語文化講座一〜三卷(朝日新聞社)。十人百話の一卷と四卷(毎日新聞社)。清水幾太郎『新しき人間』。「中央公論」昭和二十四年十一月號(A.J.トインビー「歴史家の見地から見たアメリカの對外政策」を掲載)。文藝春秋編緝「文學界」昭和二十四年六月號(きだみのるの短文「架空のツウリスム」を掲載)・十二月號(丹羽文雄・中村光夫・井上友一郎・福田恆存/河盛好藏・今日出海「座談會 批評家と作家の溝」を掲載)。「文藝春秋」昭和二十七年六月號(福田恆存「九州講演旅行百態」を掲載。他に例へば高田保の「遺稿」である「出さなかつた手紙」が「友人への直言」の題の下、二通掲載され、それへの友人逹の「返信」も掲載されてゐる)。
平成十八年一月十三日
「座談會 批評家と作家の溝」より
記者
福田さんは此の問題もふくめて、作家に對する、説得といふこと、どう思はれますか。
福田(恆存)
それは作家自身を説得させるに至れば一番理想的でせうが、時には作家まで説得させることが出來ない事情があると、僕は思ひますね。さう簡單に批評家の考へが作家に通じない、といふこともあると思ふんです。
平成十八年一月十三日
「座談會 批評家と作家の溝」より
福田
丹羽さんがさういふものに對して感ずる不滿と、われわれが風俗小説といふものの流行に對して感ずる不滿と、同じことぢやないかしら。
今(日出海)
福田君、それはどういふ不滿ですか。
福田
今まで僕はさういふことを書いて來たつもりなんですがね。直接ではないにしても、自分の小説に對する理想を書いて來たのは、さういふ含みがあるつもりです。
丹羽(文雄)
僕ら不勉強で君のをあんまり讀んでないけれども、それぢや風俗小説といふものをどう考へてる?
福田
風俗小説の定義ですか。
丹羽
風俗小説といふものを否定するか、肯定するか。
福田
僕は否定するわけですよ、風俗小説一般を。
丹羽
こちらは動いてゐる人間を描くのだ。風俗は度外視出來ない。それにさういふものを増長させる社會的條件がある。
福田
だから、出來ればそこまで及ぶか及ばないか知れないけれども、その社會的方向を曲げようといふのが僕の野心なんですよ。
丹羽
大きい流れを曲げようといふんだね。特等席なら何でも言へるよ。
つまり福田君は、現代の日本が歩いてる道を曲げようといふんだね。
福田
ええ。曲げようといふと大變だけれども。
井上(友一郎)
大きく言へばさうだらうな。それは僕もあなたの書かれてるもので、さう感じるんだ。
福田
例へば現代の風俗とか一般世間、理想的な人間像、人間關係の夢、社會状態がかうあつたらいいとかいふ夢、人間である以上はいろいろ理想があるでせう、それを……。
井上
しかし理想といふものは具體的なものでせう。
福田
ええ。それに動かされるやうなことは、風俗作家の中に全然ないんぢやないか。人間とはかうありたいといふ氣もちがない。全然ないか、或ひは非常に低過ぎる……。さういふことが不滿ですね。
平成十八年一月十三日
「座談會 批評家と作家の溝」より
福田
かういふことがあるんだ。僕は丹羽文雄論とか井上友一郎論をやりたいですよ。雜誌は非常に買つてくれるわけですからね。ところで、風俗小説論は出來ても、丹羽文雄論は出來ない。どういふわけかといふと例へば丹羽さんが「哭壁」を書くでせう。それから短篇をいろいろ書いてる。どれを讀んでも丹羽さんが、生涯を賭けて追求してる主題が何かといふことは判らない。どれも材料は實に整頓されて、うまく書かれて、なるほど、世相だ、日本の一時期の姿だ、と思ふんだけど、それに對し丹羽さんがどう反應してるかといふ共通なものはない。それは何も觀念的に作品の中に浮いてでなくたつていいけれども、今までどんな作家だつて生涯を通じて一つのものしか追求してないと思ふんだ。人間一人が生涯で判ることは一つしかない。そんなにいろんなことが判りつこないですよ。それがどれを讀んでもその一つのものが見付からないと、僕たちは批評家として非常に困つちやふ。
平成十八年一月十三日
「座談會 批評家と作家の溝」より
井上
例へば日本の文壇は一應病妻ものを書くと、ほかのものを書いたら、ちよつと具合が惡いですよ。
福田
いや、題材ぢやないですよ。
井上
身邊から出られない作家がゐるんだ。出ると叩かれるから、手慣れた材料で職人的に書いてる。
河盛
それは判りますがね、僕が福田君の尻馬に乘つて言ふのは、一つの題材を追究することぢやなくて、何を書いても……例へば廣津さんは何を書いても追求してるものが出てるやうに。
丹羽
何を書いても丹羽文雄の小説だと思ふ。それ以外に何があるかね。
福田
それは判るんですよ。その點で丹羽さんが非常なモラリストであることは肯定しますよ。だけど、意見とか、見識ぢやないんです。僕の要求するのは、その作家の生活における精神の緊張度みたいなものですよ。これはどんな題材にぶつかつても生涯一つだ。さういふものがわれわれにとつて文學の魅力だと思ふ。
平成十八年一月十三日
「座談會 批評家と作家の溝」より
批評家が一世紀に一人か二人の人を志すことはいいよ。だけど、それなら批評家自身もそれに耐へる人物でなきやならないと思ふんだ。
福田
それをはをかしいぢやないですか。
骨董品といふものは、金がありさへすれば一番いいものを變へるんだ。しかし日常生活に使へぬ骨董品が一つのプレツシユアを持つて來る。その壓力に耐へる人物が所有者でなければならない……。
福田
さういふ譬喩でいふとさうですけどね。神様にお祈りを奉げるには、神様でなければならないといふことになつちやふ。
平成十八年一月十三日
「座談會 批評家と作家の溝」より
一番最初に中村君が言つたやうに、批評つていふものの中に、作家と同じやうな一つの理想を追究する面を認めろといふ、僕はけふの話の中で、それが彼の一番言ひたいことであつたらうと思ふし、僕もそれは判るんだがね、批評といふか評論の中に、やつぱり感動するものがあるね。立派な文章に節した時にはだよ。それはそこに批評家の理想追求があるからだと思ふんだがね。
福田
もちろんです。たゞ批評家にも作家と同じやうに理想追求の面を認めるといふことよりも、むしろ逆に、作家もわれわれ批評家と同樣に、人生や文學の理想を追求してみせてくれといひたいんですよ。夢を殺して、その結果として生れた現實否定か、それとも素朴安易な肯定か、それはおのづから文章が決定するんだ。どだい、あなたがたは否定はいけない、現實を肯定してゆきたいといはれるが、それこそ大天才にのみ許されたことですよ。ぼくは自分が凡人だと思ふから否定をやつてるんです。それが群小作家、群小批評家の生き方でせう。あなたがの方がよつぽど天才主義だとおもひますがね。
平成十八年一月十三日
「座談會 批評家と作家の溝」は、丹羽文雄と中村光夫の論爭がきつかけでセッティングされたもの。中村光夫が「改造文藝」に書いた批評を讀んで、丹羽文雄がちよつと遣りきれない氣もちがしたので東京新聞で言返した。丹羽の言つた事とは、記者に據れば、批評家と作家の間に一つの拔きがたい溝が出來てゐる。これは日本の文壇の、或ひは日本の文學の不幸であると云ふやうな内容のものであつたとの事。
座談會の冒頭で丹羽と中村とのやりとりがある。
丹羽
本質論としては、君(中村)の説には贊成する。ところが君の場合は技術論だな。君が批評を書く時の君の技巧といふのか、それが問題なのだ。
中村
批評の技術ですか。
丹羽
言葉づかひだ。
昔も今も同じやうな事を「批評される側」と「批評する側」とで言爭つてゐるやうな氣がする。
平成十八年一月十三日
同じ「文學界」昭和二十四年十二月號の匿名コラム「風塵雷神」より。

新假名使ひや漢字制限は、戰後のどさくさに紛れて文部省で決定してしまつて以來、不便やら不徹底やらで、容易に一般化もされぬのに、もう國語問題を打切つて知らぬ顔をしてゐる文部省は無責任である。

佛蘭西のアカデミイは二六時中、國語改良問題にだけ沒頭してゐるといふのに、重大な國語改革を、どさくさに紛れて暴力的に斷行し、それであとは野となれ山となれとは、ひどい文化國家である。

新假名使ひや漢字制限は便宜と必要からで元來が不徹底には違ひない。ローマ字論はもつと徹底して居り、日本語全廢論はそれよりも徹底してゐる。徹底の好きな國民は敗けるとわかり、國土を焦土と化しても徹底抗戰を叫んだものだ。こんな尊い經驗を經て來てゐるのに、未だ徹底したがつてゐるものが少くない。ローマ字論等は鈴木文史朗さんももつと徹底的な普及策を講じないと、田中舘翁の二代目になるのみに終りさうだ。


平成十八年一月十二日
http://www18.ocn.ne.jp/~yam/2006/01/12/#KIGURUI3
なんか長ったらしい文章が嫌ひらしいので出來るだけ短い言ひ方をするやう努力して見た。

「押附けは良くない」と云ふ通念に反對の立場ならば、仕様準拠派も反対派も両方斬るべきだと思うが。

なんで?

そして自分も他者への押し付けをするべきではない。

意見の押附け。

仕様準拠派の意見を聞いた上で「押し付けるな」と言っているのだから問題無いと考える。

話のすりかへ。
平成十八年一月十二日
「納得出來ない」と「納得せざるを得ないが感情的に受容れたくない」とは別だと思つた。
平成十八年一月十二日
血液型はB型。何星人かは知らない。

平成十八年一月十一日
掲示板で支援一件あり。何うも有難うございます。支援の件以外につきましても、何うも有難うございます。
平成十八年一月十一日
人は御釋迦樣にも神樣にもなれない存在だから云々。
ぜったいあくなんて虹裏にしかゐないんだよ(違。
平成十八年一月十一日
http://www18.ocn.ne.jp/~yam/2006/01/05/#KIGURUI

「押し付けるな」という意見に対して「その押し付けるなという意見を押し付けるな」なんて小学生レベルの屁理屈。普通なら「あ、俺が先に押し付けたんだっけ」と気付くべきところだと思うのだが。

「どつちが先に押附けたか」なんて言ふ方が「小學生」だらう。
真名垣氏は「押附けは良くない」と云ふ通念に反對の立場であり、さう云ふ立場からすれば真名垣氏自身の「意見の押附け」は、何の矛盾でもなく、態度として正しい。これに對して、Jk氏は「押附けは良くない」と主張してゐる立場であり、さう云ふ立場からすればJk氏自身の「意見の押附け」は、立場と矛盾するから、態度として正しくない。
「氣狂ひ」と云ふ言葉の連發が多くの人の眉を顰めさせるのは事實だらう。真名垣氏の物の言ひ方は過激過ぎる氣がする。その點は否定しない。だがそれは單に「戰術」の問題だらう。たかが説得における「戰術」的な問題を根據に真名垣氏の「正しい事」の主張を全否定するとしたら、それこそをかしな話だらう。「人にきいて貰へないやうな言ひ方をするのは、人を説得する氣がない決定的な證據である」とは言へない。「『氣狂ひ』と云ふ文言があつたら人は何時如何なる場合にも例外ナシに話を聞入れない」と云ふ理窟は、抽象論では成立するかも知れないが、現實には成立しない。用語でなく論理で物事を判斷する人が現實に一人でも存在すれば、さう云ふ抽象論は「單なる抽象論」として意味を失ふ。
平成十八年一月十一日

気狂いなんて言われたらいくら正しい事を言っても誰も聞く耳を持たない。だから「もう少し適当な言葉があるだろ?」と言っただけ。特に無理強いさせるつもりはない。

かう云ふ言ひ方は、「意見の押附け」であるのか、でないのか、その邊は議論の餘地がある。ただ「議論の餘地がある」事を指摘した丈で、特に非難するとかそんな意圖は無い。ただ、言つてゐる當人がいくら「押附けではありませんよ」と宣言しても、傍から見てどう見てもその意見を受容れなければならないやうな状況が發生してゐるのであれば、事實上の意見の押附けに「なつてしまつてゐる」場合が「ある」し、さう云ふ状況を發言者が故意に「作り出してゐる」場合には宣言に關らず事實上の意見の押附けを「やつてしまつてゐる」と看做せる場合が「ある」、と、客觀的にさう指摘してゐるだけ。
平成十八年一月十一日
http://www18.ocn.ne.jp/~yam/2006/01/06/#KIGURUI2

「押し付けるな」という意見に対して「その押し付けるなという意見を押し付けるな」というなら、相手の意見を封じてしまうだけで議論そのものが成立し得ない。だから屁理屈だと言った。

「押し付けるな」と言つた時點で相手の意見を封じてしまうだけで議論そのものが成立し得ないのではないか。そして、yam氏は「どちらが先に」を重視する立場だから、先に相手の意見を封じてしまうだけで議論そのものが成立し得ないやうな状況を作つた側、即ち、先に「押し付けるな」と言つた方が「惡い」、と判斷しなければならない。
平成十八年一月十一日

主観だが、仕様準拠派は反対派を論破すると満足してしまう方が多い。正しいHTMLを広めたいのか、無知な人間を突っつきたいだけなのか、結局何がしたいのか分からん。後者なら単なる「荒らし」だろ。どうせならもっと反対派を目覚めさせるような説得を行なって欲しいもの。その点、真名垣氏は信頼出来るまともなリファレンスをまとめているので評価出来る。

公開の場で行ふ「説得」が、單に「現時點で對象となつてゐる説得相手」のみを「説得」するのが目的の行爲である訣でないのは自明。或相手を説得する際のパフォーマンスは、實はその「説得」を見てゐる閲覽者へのパフォーマンスでもある。説得の對象の相手を説得出來たか何うかは、必ずしも問題ではない。説得とか議論とかは、慥かに當事者が「勝ち負けを認める」事もあり得る。しかし實際には、議論や説得で提示されてゐる論據や主張を通して、第三者が各自で論者の勝ち負けを判斷出來るものであるし、公開の場であるウェブで行はれてゐる議論や説得では、さう云ふ第三者へのアピールの度合が極めて大きい。
平成十八年一月十一日
テンプレートなら*.cssの形で公開されてゐる。HTML文書は、「見出しと段落とで構成される基本的な文書」ならば特に覺えなければならない難しい事は殆ど無い。初心者はただ「見出しはh1〜h6、段落はpでマーク附けする」と云ふ基本を覺えれば良い。しかし、さう云ふ「簡單に實現出來る正しい事」を初心者はけつして喜ばない。初心者は苦勞したがる。
平成十八年一月十一日
初心者の問題は、「正しい事を難しいからと言つて覺えない」のではなく「難しい事は良い事だらうと云ふ先入觀に基いて、誤つてゐるけれども難しい事を覺えたがり、簡單な正しい事で滿足しようとしない」處にある。
「正しい事」の普及が案外難しいのは、「正しい事」が權威を持たない事にある。現代は權威が崩潰してゐる時代である。兔に角「正しい事」には感情的な反感が強い。「正しい事」を幾ら主張しても「それは本當に正しいのか」と云ふ懐疑主義が恐るべき力で壓迫しにかかる。逆に、理窟で説明出來ない難しい事は、一見「難かしさう」であるが故に「權威がある」と認識される。全く理窟を用ゐないで、支離滅裂な事をただただ押附けるだけの「解説者」――初心者はさう云ふ「解説者」を「優れた權威者」と看做し、崇めようとする。
平成十八年一月十一日
人が出來る事は、少しづつ物事を發見して行く事だけである。不完全な知識を集積して、人は文明を築いて來たと言つて良い。人間の世界で、集められる知識は必ずしも一貫したものとはならない。人間の物の見方は千差萬別で、同じ事象でも異つた解釋をする場合があるからである。或事象について異つた解釋が存在する時、そのどちらかが正しく、どちらかが誤つてゐる可能性が高い。そこで、それぞれの解釋について、檢討がなされる。解釋をした主體は、それぞれの解釋の正當性を主張する。その結果、或解釋はより巧く事象を説明してをり、他の解釋は事象の説明として破綻を來してゐる、と解る。その時、より巧く事象を説明してゐる解釋の方が正しい解釋であると看做される。そして、その解釋を應用して、他の事象を説明する試みが派生する。それに據つて、從來解らなかつた事象のより根源的な説明が可能となる場合がある。解らなかつたものが解るやうになる――これは進歩である。さうした進歩の積重ねがあつて、現代の文明が成立してゐる。勿論、複數の解釋が、いづれも誤である事もあるし、或より一般的な解釋の部分でしかない事もある。が、さう言ふ事が「解つた」ならば、我々はそこから先に進める。物事の眞實を探究する――その爲には樣々な角度からの檢證が必要であるが、一方で、樣々に生じた解釋から、採るべき物を採り、捨てるべきものを捨てる、と云ふ作業が必要となる。妥當と言ひ難い解釋は、當面、一般的な用途では採用しない方が良い、と判斷される。效率の問題である。さうした正統とならなかつた學説は、それでも固執する學者がゐて、研究が續けられる事がある。時としてさうした學説は正統に返り咲くのだが、それは、その學説がより妥當と看做されるべき論據を示し、その時點で正當と看做されてゐた解釋に不當な點があつた事を明かにした時のみ、あり得る事である。いづれにしても、複數の解釋が存在する事は事實であり、それらの中から「より正しいと思はれるもの」が選擇される作業が續けられてきた事も事實である。その選擇の作業は、地道な作業のみならず、華々しい論爭であつた事も多い。論爭の華々しい側面だけが強調されるけれども、主張を支へる論者の地道な下準備があつた事は注目されねばならない。論爭で「正しい」と認められ、一般に認識されるには、「正しい事の保證」が必要であり、樣々な實驗や調査のデータが用意されたり、深い論理的・哲學的・文學的考察がなされたりする。さうした地道な下準備を行ふ事は、全ての學問において必須であり、學者にとつて要請される基本的な徳目である。それを着實に行つた學者の晴舞臺として論爭の場が「ある」。下準備をする事は、學者にとつて「當り前」で「あるべき」事であり、それを實際に着實になしえた學者は「立派な學者である」として賞讃される。屡々、論爭で學者は負けるが、それでも立派な學者は依然として立派である。負け方にも良し惡しがある。好い加減な論理、穴だらけの論理で自分勝手な事を言つて負けるのは最惡であり、正統と看做される學説に對して一歩も退かずに強力な論陣を張つた強力な「假説」は寧ろ「優れた假説」として賞讃される。(例としてはビッグバン宇宙論に對する恒常宇宙論がある。)正統派に泡を吹かせ、再反論の爲に研究を要請するやうな強烈な非正統派の假説は、それが誤であつたとしても、或は、本當に正しいと言へるのかどうか判らないものであつたとしても、全體として學問を進歩させたならば、意義を認められる事もある。(例としては、チョムスキーの生成文法の理論がある。)何れにしても論爭は眞實の探究と云ふ使命を持つ學問の中で重要な役割を果して來た。そして、眞實がなぜ探究されるかと言へば、それによつて人間の社會を高度に進化せしめる爲である。なぜ人間社會を進化せしめる必要があるかと言へば、それによつて社會の構成員である個人の人格をより高度に完成せしめる爲である。かうした考へ方は、西歐の社會で發達したものだが、その西歐では、キリスト教の方面から反論が行はれてゐる。慥かに、個人の人格完成といつた内面的な問題は、宗教であるキリスト教が擔當してゐたもので、それを社會が擔ふ事について、西歐社會では反省が要請されるのも不自然ではない。一方で、不自然にも西歐の文明を受容れた日本に於て、さうした反省が性急に採入れられるのも「不自然である」と言はざるを得ない。日本に於て西歐のやり方が不自然である事は否定出來ない。が、一方で、さうした不自然なやり方を日本人が受容れざるを得ない實状が「ある」のも確かである。日本人が「正しい事」に懷疑的であるのも、どうも西歐の最新の思想を導入した結果である面があると言へるやうだが、一方で、その「正しい事」の探究を西歐のやり方で日本人が續ける不自然を日本人は「世界が西歐に覆はれつゝある現在」と云ふ文脈の中で忍ばざるを得ない現實がある。
平成十八年一月十一日
Alertbox: WYSIWYGよ、さようなら(2005年10月10日)
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2006/01b.html#d11n01
ヤコブ先生は、WYSIWYGで表示されたデータに對する「GUIの操作性」と、操作の對象である「WYSIWYGの表示」とを、混同して論じてゐるのではないかと。

でき上がりとして想定可能なものを並べた「グラフィック・ギャラリー」という新たなインターフェイスがあり、それぞれは種々の編集操作を実行した結果と考えられる。

Photoshop Elementsの初期のヴァージョンには「画質調整」→「バリエーション」と云ふ「コマンド」があつて(今でもある?)、色味の調整なのだけれども、實行後のプレビューが表示されてゐて、それをユーザが撰擇する仕組になつてゐる。
「バリエーション」のダイアログボックスで畫像の色を調整してゐる樣子
ヤコブ先生が言つてゐるのはさう云ふものの事なのだらうけれども、「でき上り」が餘りにも多樣になり得る場合、プレビューが物凄く遲くなるだらう事が豫想される。

平成十八年一月十日
フェチバトン < Black Box
俺は二次元にしか興味が無いから云々。あー新年の古書展で和服なんていいよね。古本を包んだ風呂敷包みを胸許に抱へてゐるとか。をばちやんでも、すらりと背がのびてゐて、瀟洒な雰圍氣で、それでゐて古本マニアだつたりすると、色氣を感ずる。
例によつて先着三名樣まで勝手に「野嵜からばとんを受取つた」とか稱して囘答して下さつて結構です。
平成十八年一月十日
練馬大根ブラザーズ
TV東京・あにてれ おろしたてミュージカル 練馬大根ブラザーズ
全く期待してゐなかつたけれども案外面白かつた。一般人には全くおすすめできない。
平成十八年一月十日
渡邊さん手術へ。無事の御歸還御待ちしてをります。
平成十八年一月十日
最う行かない積りだつた今年の京王新宿古書展にまた行つた。神社新報社編『神道人の書』と、諸事情に據り某雜誌を二册購入。後者は即日某所のものに。
平成十八年一月十日
京王線が朝も夕方も遲れ發生。朝は混雜と急病人が出たのとが理由。連休明けだし、寒いし。晝夜逆轉した生活を送つた擧句の出勤では、體調を惡くしない方がをかしい。と言ふかそれは俺。歸りは混雜による何時もの遲れ。ダイヤ改定以來、夕方に遲れが發生しない日は殆ど無い。やうな氣がする。多摩センターを四分遲れで發車してがんがん飛ばして橋本に三分遲れで到着。堀之内驛を通過する時のスピードが無茶過ぎて或意味樂しい。
平成十八年一月十日
http://www.literature.jp/book/0000/0000-KokugokokujiTukan.html
「國語國字 通巻DVD」の告知らしいがよくわからない。何處で買へるのだらう。會員豫約割引中 一月二十四日迄とあるけれども、何の會員? 國語問題協議會の會員で良いの? どうやつたら豫約出來るの? 既に發行日が過ぎてゐるけれども、何うして「豫約」なの? 横濱五十番館は、新しい形式の電子書籍の出版と販売を行ふ書店として誕生しました。との事だけれども、新しい形式の電子書籍の出版と販売つて何? また新しい文書フォーマットを作つたの? 既存の書店ルートでは買へないつて事? なら何處で買へるの? どうやつたら買へる訣? そもそも一般の人が買へるの? ――説明が何一つない。ただ商品の内容をウェブで紹介してゐるだけ。これでは賣れるものも賣れないのでは? 本當に賣る氣あるの? と言ふか、本當に賣り物なの? 買ひたいのだけれども。

平成十八年一月九日
よみがえる空 -RESCUE WINGS-
話の展開が緩慢で、物語が動き始めたところで「以下次囘」。とても眞面目に作つてゐる。プロデューサーが眞面目に作る積りで作つてゐるかららしい。

平成十八年一月七日
「誤を指摘されたら尻を捲つて逃出さう」みたいな無責任な事を考へてゐる人間に限つて「『あなただけの正しい』を押附けるのは止めて下さい」とか言つて自衞しようとするものだ。
平成十八年一月七日
ところで、きらめき☆プロジェクトを觀たのだけれども、デカイオーからいろいろパクつてゐない?。
平成十八年一月七日
良く聞く紋切型に「思想の押附け」と云ふものがあるのだけれども、かの特高ですら思想の押附けは出來なかつたさうだ。本當に思想が押附けられるのならば、押附けられた人間の思想は既に變つてしまつてゐる筈だ、その時、「思想を押附けるな」なる反撃の仕方をしようと、その人は思ふ事すら出來ない筈である。「思想を押附けるな」と言ひ得るのは、自分の思想を變へなかつた人――變へたくない人に限られる。
誰某の言つてゐる事は「正しい」「間違つてゐる」と批判する事は、「思想の押附け」の名に價しない。現實に反論出來るのだし――力づくで思想を強要されたとしても、口で「轉向した」と言ふ事だけが可能であるに過ぎない。口で「轉向した」と言つたとしても、それがその人が心から轉向した事の決定的な證據にはならない。
平成十八年一月七日
自分の誤がはつきりした時、人が取れる態度は、それまでの考へを捨てて正しい事を受容れる事だけだが、それをどのやうな形で表明するかは全てその人の責任である。具體的には「間違ひを訂正する」か「黙る」かのどちらかになる。
批判によつて間違つてゐた人が沈默すると、「他人を默らせるのは惡い事だ」のやうな非難が屡々批判者に浴びせかけられる。けれども、「默る事を擇ぶ」と云ふのが、その人の責任でなされた事であつたのならば、「默つた」のは默つた人間の責任である。
「餘りにも不當なやり方で攻撃されて沈默を餘儀なくされた」と云ふ事もあり得るが、その場合には確かに默らせた方が惡い。しかし、日本では言論の自由が保障されてをり、言論に對しては對抗言論が可能である。誰でも妥當な方法で批判された時には、妥當な方法で反論する事が許されてゐる。
「正しい事」を妥當な方法で主張され、それに納得せざるを得ない、議論がさう云ふ結果で終はつたとする。その時、「負けた」側には「默る」「自説を訂正する」の二つの撰擇肢がある。「自説を訂正する」事はそれ自體、何の問題もない事で、誰もそれを禁止しようとはしない(したら、した人が非難されて然るべきである)。自發的に「訂正する」途を擇ぶ事はあり得る。一方、「默る」のもまた、自發的に「默る」事を擇んだと云ふ事を意味するのであつて、本人の意志に據るものであり、當然、本人の責任でなされた事である。
「批判の仕方に問題がある」と云ふ非難は、屡々聞くのだが、「正しい事を押附けた、それが問題だ」のやうな類の非難は許されない。正しい事を主張するのは當り前の事で、それに間違つた主張が負けるのは何の問題もない事だからだ。
平成十八年一月七日
あと、ウェブに於ける議論で驚くのは、言爭つてゐる論者が互ひに一對一で決鬪してゐるかのやうな氣持ちになる事だ。議論で負けた人は、決鬪に負けた積やうなりになつて、面目を失つたとかそんな慘めな氣分になつて退場、なんて事に良くなる訣だけれども、自分獨りの面子とかそんな事を考へるのは何うかしてゐると思ふ。問題は、議論した結果としてより正しい事が明かになるか何うかであつて、勝負で自分の面子が潰れるかどうかではない。正しい事が議論の結果判つたのならば、それに飛附けば良いだけだ。正しい事を支持するのは立派な事で、非難されるべき事ではない。
平成十八年一月七日
大體、批判されるとさつさと默つてしまふ人は、論破されて自分の主張が決定的に誤だと明かにされる事を望まない人だ。まだ「自分の主張には正義を主張する餘地がある」と云ふ段階で態と逃げて、それで「俺は俺の正義を守り通したぞ」と自己満足する。
最初から議論を囘避しようとする人は、實は、自分の主張に理がない事を自覺してゐる。理がない主張は、單なる我が儘だが、我が儘を通したいのは人情であつて、その爲に何とか理の無い主張を他人に押附けようとする訣で、それで押附けが決して實現しない議論を囘避して、反論するなと言つて言ひつ放しの主張をする譯である。
議論が行はれれば、我が儘は通らない。その時、我が儘を言つてゐた人は、拗ねて默る――默つても悔しいから恨む。で、その恨みは逆恨みなのだが、逆恨みであつても一般に「恨まれる人間は惡い人間である」と云ふ「論理」を用ゐれば、我が儘を許さない人間を惡人に見せかけられる。さう云ふ理由で恨みを表明する事が一般に行はれ、「默る」と云ふ報復行爲が行はれる。

平成十八年一月六日
「最後まで書く」のは大事なこと
俺は氣に入らないHTML解説サイトを批判して、矢張り文句を言ふだけではアレだと思つたから、解説を書いた。別に一瞬の怒りのエネルギーなんてものは要らない。ただ、「正しい事」が「ある」べきだと信じてゐるのならば、觀念を體系化する作業は苦とならない。今に至るまで、俺は誰かのHTMLやら何やらの解説に心から納得した事はないし、それで俺が納得出來るやうな解説文を書かうと思つた(だから俺の「ウェブ文書のマーク附けに關する解説」は、決して最良のものとは呼べないにしても、唯一にして無二のものたり得てはゐる、と思つてゐる)。取敢ず、俺の「マーク附け理論」はそれ自體として完結し、そこいらの解説に比べれば理論的に堅牢なものとなつてゐると思ふ。
實際のところ、さう云ふ理論の體系化・堅牢な理論の構築、なんて事をやるより、行當りばつたりに「偉さうな事を言つてゐる」他所のサイトの「正しい事」を罵つて、「反論は要りません」とか言つて「舌を出す」やうな眞似をしてゐた方が、面倒はなかつたと思つてゐる。ただ、皮肉とか毒舌とかを使はないで、叮嚀語を使つて、上品な人物であるかのやうに裝つてゐれば、世間の人は「騙されて呉れる」らしいのだから。俺は他人も自分も騙したくなかつただけ。
平成十八年一月六日
うちのサイトの記事は、轉載も流用も可だけれども、「轉載專門業者」とか、自分のものではない他人の文章を無闇矢鱈とコピー&ペーストして掲示板を荒す掲示板荒しとかには、利用を御遠慮頂いてをります。
平成十八年一月六日
民主主義の時代の論爭では、それぞれの論者が「正しいと思ふ事」を持出して、それらをぶつけ合ふ事で行はれるべきだと思ふ。論者同士が自分の信ずる「正しい事」をぶつけ合つて、それで「より正しいと思はれる事」が生殘つて、それが現實にフィードバックされる――さうすれば世の中はより良くなつて行くだらう。
「正しいと思ふ事」を主張する論者に、「正しい事なんて存在しません。正しい事の主張なんて止めなさい。それは傲慢です」なんて言つて、議論そのものを最初から成立たせないやうにするのは、そもそもの民主主義における言論活動を根柢から否定する事で、好ましくない事だ。
平成十八年一月六日
そもそも「『絶對に正しい』と云ふ事は存在しない」「如何なる主張であつても、それなりの『正しさ』がある」と云ふ相對主義は、主義である時點で、それを主張する人間にとつての「正しい事」となつてしまつてゐる。そして、自分が信ずる「正しい事」に、その人は從はなければならない。その人は、全ての他人の主張のみならず、自分の主張についても、その「正しい事」を、原理として、適用し、批判しなければならない。
他人に、何んな主張であれ「主張するな」と命令する――對象の主張を「誤」と看做してゐるからであるが、それは正誤の觀念に基く。他人の言ふ事を「誤」と看做すのは、その人が何らかの「正しい事」を信じてゐるからにほかならない。その「正しい事」の内容が「正しい事なんて存在しない」と云ふ觀念であつても問題はない――「正しい事なんて存在しない」と云ふ觀念をその人は「正しい事」だと信じてゐると看做して良い。
「全ての主張にはそれなりの『正しさ』がある」と主張する人は、「『自分だけが正しいと信ずる事』を主張する人」の「自分だけが正しいと信ずる事」ですら「それなりの『正しさ』がある」と看做さなければならない。「それなりの『正しさ』がある事」全てを肯定しなければならないのならば、「自分だけが正しいと信ずる事」もまた肯定しなければならない。
「『絶對に正しい』と云ふ事はない」「如何なる主張であつても、それなりの『正しさ』がある」と主張する人は、他人の主張であつても自分の主張であつても全て例外ナシに「それなりに正しい」と看做さざるを得ないし、「それなりに正しい事」を否定するのが許されないのならば、他人の主張であつても自分の主張であつても全て例外ナシに肯定しなければならない。さうすると、その人は、他人の思想について批評する事を、自らの思想に基いて、自らに禁じなければならない。「全ての主張にはそれなりの『正しさ』がある」とする時、誰かの主張を否定したら、それは「その主張の正しさを認めない」とする事であり、「全ての主張にはそれなりの『正しさ』がある」と云ふ前提に矛盾する。矛盾は許されない。
「何であれそれなりに『正しい』のだから、自分だけの『正しい』を主張する事は一切許されない」と主張する「相對主義者」が、平氣で他人の「正しい」事の主張を否定するのは、當人が『正しい事』として「相對主義」なる正義を信じてゐると故意に自覺しない事で辛うじて可能となつてゐるに過ぎない。が、それは矛盾であり、矛盾であるがゆゑに非難されて良い事である。
平成十八年一月六日
本日より新宿京王百貨店で新春蔵開き古書市。夕方寄る豫定。
平成十八年一月六日
寄つて來た。神社新報社編『神道指令と戰後の神道』『近代神社神道史』。大久保正太郎編『講座日本語4 国語と国字』(大月書店)。『司馬遼太郎対談集 日本語と日本人』(中公文庫)。大類伸『現代史學』(弘文堂)。『大類伸博士喜壽記念史學論文集』(山川出版社)。『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記1930-32,1936-1937』(講談社)。司馬の對談集は単行本を持つてゐた。『現代史學』はダブり。ウィトゲンシュタインの日記は昨年十一月に出版された許りのものだが、最う古本として出てゐた。
平成十八年一月六日
「規格には從ふべきだ。だから私はXHTMLと云ふ規格に從つてゐる」と書く「XHTML派」の人がゐるとする。野嵜はISO/IEC 15445:2000なる規格に從つた文書を公開してゐる。「XHTML派」の人が「ISO/IEC 15445:2000は惡い規格だから、從つてはならない」と言つて野嵜を非難する。野嵜は納得しない。――。
「規格には從ふべきだ」ではなくて「自分の從ふ規格は××と云ふ理由で良いものであり、だから從ふべきである」と言つて、相手を説得するのが筋だらう。
平成十八年一月六日
實は野嵜は、XHTMLに反對してゐる。なぜかと言ふと、「ウェブの文書はSGMLの規格に基いて記述する」と云ふ事が先に決められてゐたからだ。「ウェブの文書の規格としてはSGMLに歴史的な優先權がある」。先に存在する規格に「理念に基いて整理された新規格」が取つて代らうとする、と云ふのに、野嵜は反對の立場だ。歴史的假名遣に「現代仮名遣」が取つて代らうとしたが、野嵜は「現代仮名遣」に反對し、「歴史的假名遣に優先權がある」と主張してゐる。

平成十八年一月五日
サヴァイヴ(再放送)→キン肉マン2世→鍵姫物語。
平成十八年一月五日
他人をフルネームで呼ぶ奴は富野喜幸の信者。
平成十八年一月五日
アニメ番組改編状況【2005→06年 年末年始】
平成十八年一月五日
ねます。
平成十八年一月五日
HTML小技集 / 役立つ雑学
言つてゐる事は大體正論。ただ、言つてゐる當人が自分の言つてゐる事を守つてゐないから問題になるだけ。
マニアックな用語はなるべく使用しない、と云ふのは良い指摘。なのに、通称 ネスケ・NNなんて書いてゐるのは矛盾。
余計なタグは利用しない、と云ふのは良い指摘。なのに、見出しの部分に
<A NAME="1"></A>
<TABLE BGCOLOR="#808080" WIDTH="100%" CELLPADDING=3 CELLSPACING=1><TR>
<TD BGCOLOR="#FFE0FF" WIDTH="100%"><B> <IMG SRC="../img/li.gif" WIDTH=10 HEIGHT=11 ALT="∴">表示スピードってなに?</B></TD>

なんて餘計なタグが大量に存在するのは矛盾。
文字化けを防止しようと言つて<meta http-equiv="content-type" content="text/html; charset= shift_jis">なるコードを紹介してゐるのに、そのHTML文書には<META http-equiv="Content-Type" content="text/html;CHARSET=x-sjis">と記述されてゐるのが矛盾。
平成十八年一月五日
うちのIBM ThinkCentreくんにぶら下がつてゐるTVキャプチャユニットのGV-MVP/RZ2を突然ThinkCentreくんが認識しなくなつた。GV-MVP/RZ2はUSBのデヴァイスなので、ケーブルの拔差しとかPCの再起動とかを繰返してみたが、最初は何をやつても認識されないまゝ。それが十五分くらゐ經つて急に復歸。訣がわからない。
USBのやうな自動認識のデヴァイスは、自動で認識するから便利だけれども、自動で認識されなくなるから困る。と言ふか、昨日まで認識されてゐたのが今日になつて突然認識されなくなるといふのは理不盡だから頭に來る。昨日認識されてゐたものは今日も認識されるべきであり、突然認識されなくなるべきではない。かう云ふ理不盡な事が起るから今のPCは「難しい」のだと言つて良いと思ふ。「何かをすれば確實に何うなる」と云ふ必然的な因果關係が存在するならば、それは易しいものだ。しかし、「何か知らんが突然繋がらなくなつて、何か訣のわからないうちに突然繋がるやうになる」と云ふのでは目茶苦茶だ。USBのデヴァイスが、全く同じ状態にあるのに、或時には繋がり、或時には繋がらない、と云ふのは、最早、論理的因果關係に對する挑戰であるとすら思はれる。
それは兔も角。録畫の豫約が全部消えたのは非常に腹立たしい。一度設定した豫約は消えるべきではなく、機械は一度設定された豫約に從つて粛々と録畫を實行すべきである。昨今の深夜アニメの大量増殖の所爲で録畫豫約の状況も無茶苦茶ややこしい状態になつてゐるので、そこでいきなり豫約が消えるのは非常に困る事だ。民主主義の世の中では各TV局間で協議して適切に番組を編成するなんて事はあり得ないので、深夜アニメが木曜深夜に集中する、なんて「異常事態」は起り得るのだけれども、かう云ふ時には言論の自由だとか經濟活動の自由だとかは邪魔もの以外の何ものでもなく、TV局が何處かの團體なり何なりに適切に管理されてゐた方が良いと思はれたりする云々。閑話休題。
取敢ず録畫が實行されなくて後で泣きを見る前に不具合に氣附けたのは幸。GV-MVP/RZ2にはJ-COMのホームターミナルから出てゐるアナログ地上波の線を分岐させて延々引張つて來て繋いでゐるのだけれども、WOWOWアナログの電波が入つてゐる事が昨夜になつて判明――と言ふか、さう云ふ事になつてゐるのを昨夜になつて突然思ひ出した。それで急遽、チャンネルを設定したのだけれども、WOWOWは有料放送の時間帶にはスクランブル放送だから訣のわからない映像しか映らない事が多くてチャンネル設定した時にも訣のわからない映像しか映つてゐなかつたから慥かにこれがWOWOWのチャンネルだと言ふ事が出來ない状態で設定されてゐるに過ぎない。それで、無料放送の時に「ちやんと映つてゐるか」確認しようと思つたのであり、それが今日の夕方七時四十二分から八時迄の間だつたのだけれども、丁度その時にGV-MVP/RZ2が認識されない状態に陷つてゐたと云ふ次第。復舊したのが八時二分と云ふのは何うよ。GV-MVP/RZ2かWOWOWかJ-COMかが俺に怨みを抱いてゐるだらうかとすら思へた。そんな訣で決定的に現在のチャンネル設定が合つてゐると言へない状態である訣だが、もしチャンネル設定が間違つてゐれば、GV-MVP/RZ2では今夜のかりんとSHUFFLE!最終囘が録畫出來なくなる。取敢ずWOWOWの番組はいつもRDで録畫してゐるのでGV-MVP/RZ2で今夜録畫に失敗しても問題はないのだが、録畫するのならば成功しないよりはした方が良いに決つてゐる。そんな訣で事前にテストくらゐはしたいのだが、機械逹は何の恨みあつて俺にテストをさせないのだらう。
ちなみにGV-MVP/RZ2、實寫の映像はとても尤もらしく録畫出來るのだけれども、アニメのやうなのつぺりした映像はざらついた感じに録畫してしまふので、そつち方面のアレな人には餘り御薦めできない。俺はそれほどディープなマニアでないので問題はない。
平成十八年一月五日
九時五十三分からの番宣でWOWOWの受信を確認。RDのかりんの豫約を削除して代りにキッズステーションのストラトス・フォー・アドヴァンスの豫約を入れた。
平成十八年一月五日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20060105
natureに對立するものとして人間はartを創造したのだけれども、そのartを日本人は「藝術」と譯したし「人工」と譯してゐる。日本語では別物になつてゐるがこれらは結局一つのものだ。人間は自然から生れて自然から離れようとする。
自然界には見えない秩序があると言ふけれども、見える限りに於ては無秩序だ。ニーチェが永劫囘歸と言つたけれどもそれは單に、リニアな時間と云ふものにニーチェもまた耐へられなかつたと云ふだけの事に過ぎない。人間は、無秩序な自然、ただのんべんだらりと流れる時間に耐へられない。だから物語を作る。季節とか一年とか云つたものも、線的に前進するだけの時間の流れの中に節目を作つてゐるものだ。
人間的は、動物の一種であり自然の一部だから自然の無秩序や渾沌と言つたものの力強さを求めるが、一方で動物の域を脱したものであり自然から離れようとするものだから秩序とか完全とか云つたものを創造しようとする。
「藝術」にしても「人工」にしても、artに求められるものは本來「完全なるもの」であり「秩序」であると思ひます。人は、自然をありのまゝに受容れるのではなく、再構成して、科學の體系を作り出し、社會の構造を作り出し、藝術の作品を作り出して來ました――人は、と言ひましたが、それは西歐人と言ふのが實は正確でせう。日本人は科學を生まず、社會秩序の創造ではなく權力による世人の支配を望み、花鳥風月を愛でて來たに過ぎません。しかし、明治以來、日本人はさう云ふ傳統的な日本人の生き方を續けて行く事が出來なくなりました。日本人は、artを受容れなければやつて行けない現代に生きなければならなくなりました。西歐では既にさう云ふ現代に對して、反省の風調が表はれてゐます。そこで渡邊さんの良く御存じの現代思想では、秩序に對する反抗、逸脱や脱線への志向が現はれた訣ですが、それを「最新の思想だから」と云ふ理由で日本人が單純に受容れてしまふ訣には參りません。反省は、反省すべき事が無ければ何の意味もない。日本人は先づ、西歐人が行着く所まで行着いた秩序の世界を理解する必要がある。と言ふより、そもそも「秩序のある状態」の重要性を、日本人も從來は良く理解してゐました。太陽暦が普及し、さらに戰後の異樣な休日のシステムが成立して、消滅しかかつてゐますが、日本人は季節の節目節目に季節感を最大限味はふべく、祭祀を執り行なつて來ました。ただ流れるだけの時間の中に、節目を設け、人生にリズムを與へる――さうした秩序のある生き方を日本人もして來ました。秩序はそれ自體として美的である。
全ての自然を自然のまゝに受容れる――それは、口で言ふのは易しいですが、實際に人間には出來たものではない。だからサルトルは『嘔吐』を書いた。全ての人は生きる上で生き方を成立させてゐる。その生き方に基いて全ての事象を認識し、時々それらの事象によつて己の生き方を修正して行く。ただ事象から一方的に、全面的に、影響を受けて、自らのあり方を變へて行く、と云ふものではない。
人は自らの知りたいと思ふ事をしか學びません。「だからこそ廣い目で物を見るべきだ」と渡邊さんは仰るかも知れませんが、見る事なら何だつて見えるでせう、しかし、認識するには關心がなければならない。見ようと思ふから見えるのであり、さうであるならば、あらかじめ人は見える物を豫期してゐるのです。豫期した状態と、現實の状態との間に齟齬があつて、差異が認められる、その時、人は自らの物の見方をそつと修正する。
言ひ方を變へると、人は圖式化する事で世界を再構成し、認識する。その圖式化の形式が、科學の體系であり、數學の體系であり、哲學の體系である訣ですが、それが藝術に於ては個別の作品となる。非常に特殊な個人の物の見方の中で、世界は再構成され、個別的であると云ふ「文脈」のもので世界全體をも表現する普遍的な體系となる。で、さう云ふ普遍性が、現代の藝術では極端に缺けてゐます。それが現代の藝術の最大のウィークポイントであると私は思つてゐます。
渡邊さんに據れば、「私」と「私以外のもの」との間には「ずれ」がある、その「ずれ」を渡邊さんは樂しむ、と云ふのです。しかし、その「ずれ」をどのやうにして認識可能か、と云ふ點で、私と渡邊さんとでは見解が分かれるのです。私は、「私」と「私以外のもの」との間に、何か諒解可能な接點がある事を、彼我の「ずれ」をはつきりと認識する爲の條件だと考へるのです。何もとつかかりがなくて、それで相手の姿をはつきり捉へる事は出來ません。私には、渡邊さんが本と渡邊さんとの間の距離を一足飛びに飛越えてゐるやうに見える。正直言つて、渡邊さんは本の事が解り過ぎるくらゐ解つてしまつてゐるやうに思はれる。渡邊さんに言はせれば、自分は「ずれ」のある事を意識し、その「ずれ」に耐へてゐるのだ、となるのでせうが、耐へる事がなぜ樂しい讀書に繋がるのかが解らない。
さて。

ところで、漫然と書くことはあり得ない、というのは野嵜さんの執筆活動には何かしらの目的意識があるはずだ、ということで、実際野嵜さんには現代という時代状況への批判という目的があると仰られているように思えます。ただ、批評というのはやはり「流通」に関わる活動で、では「生産」に関わる活動を、野嵜さんはどのように行おうと考えてらっしゃるのか、重ねて問うてみたいと思います。

「流通」とか「生産」とか、經濟の言葉を使はれても、私には理解が出來ません。私逹は藝術の言葉で話合へないのでせうか。批評が「何も生まないもの」との定義を私は受容れてゐません。藝術であるならば批評は普遍性を持つものです。
現代が批評的な時代である事は、福田恆存にしてもT.S.エリオットにしてもヴァレリイにしても皆、はつきり判つてゐた事でした。私もそれを信じてゐます。最早、演劇の時代も、詩の時代も、小説の時代すらも終つてゐます。全ての藝術は、どれも一度、役目を終へてゐる。藝術のジャンルは全て時代の制約下にあり、時代と云ふ「文脈」があつて成立するものである。現代は批評文學の時代にある、さう私は思つてゐます。現代に於て改めて演劇なり詩なりが復權を果すとしたら、それは飽くまで現代への批判として、演劇や詩がその價値を失つてゐると云ふ事への批判として、言つてみれば「パロディ」として、でしかあり得ない。現代の演劇や詩は、一度、批判的な發想を通つて、それで初めて再び現はれる事が可能である。(小説は今、直前の時代の文藝ジャンルとして、半死半生であり、パロディとして用ゐられるには弱體に過ぎる氣はする)
藝術が「死後の私」と何か關係があるか――ないでせうねえ、私は「死ぬ男」なる小説を書いてしまつた人間です。「人は死ぬまで「自分が死ぬ」と云ふ事を信じない」。世界は、個人が消滅しても、そんなの知つた事ではないでせう。一方、個人にとつて、自分が消滅する事は、世界が消滅する事です。しかしまあ、人間では、ただ一人、イエス・キリストを除いて、死後の世界からこつちの世界へ歸つて來た人はゐません。死後の世界を本氣で云々出來る資格のある人なんてゐないのではないですか。キリストを信じないならば――最新の宇宙論では、何うもこの宇宙は何度か出來ては潰れ、出來ては潰れして、エントロピーだけが増大し續けてゐるのださうです。本屋で超ひも理論の本を立讀みしたら、そんな事が書かれてゐました。新しい理論になればなるほど宇宙理論と云ふ奴は殺伐としたものになつて行くやうですが、それが本當ならばキリストの出る幕はありませんし、人間に救ひはありません。佛教の輪廻轉生説にしても、ニーチェの永劫囘歸にしても、哲學だつたのですが、宇宙論は科學ですからねえ、ニヒリズムが科學に裏打ちされては堪つたものではありません。現代は、さめてゐる人間にとつて、信仰を懐き辛い時代です。人にとつては不幸な時代です。科學と云ふ物は、人間の肉體をより長く生かし續けるのには役に立つやうになつたのですが、人間の精神をより長く活かし續けるのには全然役に立ちません。福澤諭吉に據れば、日本人は痩せ我慢でやつて行くしかないらしいですが、痩せ我慢ですから理窟はありません。困つたものです。
平成十八年一月五日
本日の買物。結城哀草果『農村風土記』(養徳叢書21)。マイネッケ『ドイツの悲劇 ――考察と囘想――』(弘文堂 アテネ新書 No.43)。

平成十八年一月三日
eComStation 2.0 beta

平成十八年一月二日
無人惑星サヴァイヴ note

平成十八年一月一日
ドーソン『政治の彼方に』を讀んでゐたら年が變つた。讀了。
平成十八年一月一日
クリストファ・ドーソン「キリスト教と政治」(『政治の彼方に』所收)

……大勢に追随して、時代精神と世界精神の前に屈服し、誤れる輿論と大衆行動の惡と不正に目を塞ぐことは容易である。それは昔も今も宗教家の陷る誘惑であつて、權勢の自負心に阿り、その不正を看過せんとする誘惑である。しかし同樣に陷り易く更に惡性の誘惑ともいふべきものは、時代精神に消極的な敵意の態度を執り、偏狹な排他的な執信に閉ぢこもることである。それは本質的に異端の態度、宗閥の態度であつて、キリスト教の名を涜し、その效力を殺ぐ點では世俗的態度や時流随從の態度以上にその害は甚だしい。前の場合は、いはばキリスト教會の生命には無縁であるに反し、後の場合はキリスト教精神の働きの根源を毒し、善意の人々にまでもキリスト教に對する反感を懐かしめる原因となるからである。

平成十八年一月一日
Days of SpeakEasy: う〜ん
平成十八年一月一日
化ケモノ青年:2005年10月
平成十八年一月一日
ARTIFACT@ハテナ系 - 「匿名批判の禁止」黒木ルールメモ
別に發言者が名乘つてゐようがゐまいが批判が正當であれば受容れるだけだし反論すべきなら反論するだけだけれども。
意見を述べてゐるのが匿名の人であれ名乘つてゐる人であれ、意見は意見だし、一人の人が或意見を持つてゐるのならその背後に「三十人」の人が同じ意見を持つてゐる可能性は「ある」。一人の人に反論する事は、同時に背後の「三十人」に反論する事になる。ウェブと云ふ公共の場で發言すると云ふ事は、當座、特定の個人に對して物を言ふ形であつても、その結果として不特定多數の人に對してメッセージを傳へる事になる。ウェブの議論で、特定の相手を説得しようとするのは、單に議論としての形式上の事に過ぎない。その特定の相手が納得しようがすまいが關係ナシに、第三者としての讀者・閲覽者は勝手に議論の勝ち負けを判斷するものだ。ウェブに於ける議論は公開のショーであり、密室で個人と個人が話し合ひをするのとは違ふ。
「陪審員に訴ふ」より
そもそも、匿名の人にモラルが缺けてゐるとしたら、さう云ふ人に「批判禁止」なんて言つたところで意味ないよ。と言ふか、誹謗中傷ならば問題だけれども、批判ならば何の問題もない。
平成十八年一月一日
「無斷リンク禁止」にしても「儀禮的無關心」にしても、なんか御立派な理論みたいな形式を整へようとするから話がこぢれるんだよ。と言ふか、さう云ふスローガンを考へ出して廣めようとするからアンチが出て來る。ウェブでは兎角スローガンが横行するものだけれども、良くない傾向だと思ふ。「Web 2.0」だつて所詮は掛け聲なのだし。
雰圍氣を作つて世の中を動かして行かうと言ふのは、とても危險な事だと思ふ。「みんな○○を買ひませう」みたいな廣告だつたらまだ良いのだけれども、思想に關る事がスローガンで決つて行くとしたら、それはファシズムに近いものがある。

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