複数の存在を同時に生きている――馬鹿馬鹿しい話だ。純粹病と言ふ奴だ。純粹なものに憧れるのも大概にするが良い。文學者だつて、耽美派もゐればプロレタリア文學者もゐる――しかし、それは何を絶對の基準にした分類なのか。否、文學に絶對の基準が「あり得る」ものか。「ある訣がない」と思ふ價値相對主義者だから日本の文學者は悉く駄目なのであつて、ヨーロッパの文學者には絶對の價値が「ある」。エリオットは、カトリックに復歸した文學者だが、キリスト教のGodが絶對の價値だ。ヨーロッパ社會はキリスト教社會である。キリスト教社會にも慥かに無神論は存在する。けれども無神論は、實は神なき社會には存在し得ない。無神論の價値觀もまた、否定すべき神への信仰の價値觀を反映するものであつて、Godなる絶對者によつて規定される西歐社會に於いてはカトリックもプロテスタントも無神論も、基本的には絶對的な價値觀を共有する。キリスト教社會の鬼子であるマルクス主義もまた。クリストファ・ドーソンに據れば、文化とは宗教の事である。西歐の文學者は――少くとも、優れた文學者、偉大な文學者と言はれる人々は――絶對的な價値觀を己の藝術の背景に持つ。俺が興味を持つのは飽くまでさう云ふ人々であり、なぜ興味を持つかと言へば自分にさう云ふ價値觀が存在しないからである。異る價値觀を持つ存在者に興味を抱くのは自然な事だらう。それは渡邊さんも認める事だ。俺にして見れば、渡邊さんが「自分にとつては自然に感じられる筈の存在」を「異る他者」と看做してしまつてゐるのが怪訝な事なのだが、それは今はさて置く。社會に與へる影響――文學者はそれが政治的レヴェルのものである必要性を感じない筈の存在者である、さう言つたら誤だらう。優れた文學者であつたサルトルも盛に政治的な發言を繰返した。だが、政治的な演説がサルトルを偉大にしたのではない。『嘔吐』に見られる人の生き方の問題への特異な考察がサルトルを偉大にしたのであつた。現象學の理解に於てサルトルは非難される餘地があるけれども、その文學的表現としての作品にサルトルの優れた手腕は發揮されてゐる。少くない論文が讀むに堪へない詰らないものであるにしても、『嘔吐』は讀むに堪へる面白い小説であり、一方でそこでは特異に思はれる主人公の生き方が象徴的に現代人の生き方を示し、現代人の重大な問題を抉り出す結果となつてゐる。エリオットにしても、美しい詩句は深刻な現代の問題と結び附いた時のみに優れた詩として成立してゐる。マラルメが失敗したのは――或は結局マラルメが偉大な詩人と看做されなかつたのは――純粹に美しい詩なるものをしか構想しなかつた事が最大の理由であつた。マラルメの詩には思想がない――其處まで言つたら言過ぎだと言はれるかも知れないが、實際、マラルメの詩は極めて底が淺い。美しい文學を作つた事ではゴーティエもマラルメに並ぶ存在だが、ゴーティエもまたマラルメと同樣、偉大な文學者と看做す事は出來ない。ランボーやボードレールの方が、偉大と云ふ點では遙かに偉大な詩人であつた。美的にはどちらとは必ずしも決し難い筈である。けれども、エリオットが指摘してゐる。ボードレールには惡の觀念があつた。己が趣味を通して、ボードレールは惡人たる事が出來、結果として神の許しを乞ふ事が出來る。それは即ちボードレールが道徳的な人間であつた事を意味する。マラルメにはさう云ふ道徳的な價値觀と接點がない。エリオットにしてみれば、道徳的である事が文學者の價値を決めるのであり、美しい作品を作つた事がその價値を決定的に決めるのではない。さう云ふ思想を持つ――と言ふより心より信じてゐるエリオットは、或講演で政治家逹を前にして、自分は文學者であり政治の素人であるが、文學者として政治家の方々に御話をする權利がある、と堂々と言つてのけた。社會を變へるとかそんな事については「素人」である自分であつても、個人を變へる事については話す權利がある。さう言換へたら解り易いだらうか。勿論、洗腦の仕方とか、そんな低級な話ではない。人間を機械竝に扱ふのならば寧ろ政治の話である。人心收攬の術は間違ひなく政治家の領分である。しかしながら、そんな政治的な大雜把な取扱ひ、機械的な取扱ひに、全ての人間が滿足する訣はない。人間は純粹ではない。だから單純に割切つた扱ひからは「脱落」する人間が極少數でも常に存在する。さう云ふ少數者を「救ふ」、それが文學者の使命であると福田恆存は松原正氏に言つたさうである。
だいたい、今だってウィンドウズは標準では DVD を再生することができない。あ、ふつーの XP ではですけど。Media Center Edition ではどうだか知らない。まさかデコーダが入ってないなんて事はないだろうけど。
Media Center Edition のパートナーにより製造された DVD デコーダ (新しい PC 構成での標準的なハードウェア) が搭載されているメディアセンター PC では、オンライン チャプタ検索によるプログレッシブスキャン DVD 再生が可能です。
竹中平蔵総務大臣が直轄する私的懇談会であるさうだが、何うしてかう云ふ私的な集りが國政だとか何だとかを動かさうとするのだらう。公共放送NHKが、かう云ふ私的な集團に據つて「必要だ」と言はれ、維持されてゐるのは、好ましい事なのだらうか。
『耳嚢』や『鸚鵡籠中記』あたりに出てきそうな文字をつまみ食いして、悦に入っているサイトをたまに見かける。あれは何なのだ。言葉遣い、文字遣いに定見があるなら文句はないが、そうでなければギャル文字を書くのと大差がない。
世の中には変な正字正仮名論者というのが居て、何でも「昔の字」で書きたがる。 ちょうど「正しい HTML 」に目覚めた(?)いはゆる HTML 原理主義者とよく似ています。 或る意味では最初に罹る「はしか」のようなものですが、その反動として引用文のような意見が出てきます。
言葉遣い、文字遣いに定見があるなら文句はないとまともな事を言つてゐるRtmr氏が
この日記の今年の目標は、漢字数の削減である。とをかしな結論を出し、
変な正字正仮名論者というのと言つてゐる三宅氏が
で、最初に戻りますが、常識として漢字で書くべきところは漢字で書く。 自分の価値観で漢字数を削減する必要はありません。とまともな結論を出してゐる。どちらも支離滅裂としか言ひやうが無い。
歴史に裏打ちされた常識を認めるならば、
歴史に裏打ちされたHTMLの發想と云ふものも認められるべきものだと思ふ。要は、HTMLを考へたのはTBLで、そこから繋がつてゐるのがIETFやW3C、果てはISO/IECのHTMLの仕樣だと云ふ事。さう云ふ「HTMLの歴史」を認める限り、一往、「W3Cの仕樣」は歴史的な正當性を認めなければならない。そして、「俺ルール」的な「HTMLの解説」を書くにしても、「HTMLの要素」がそのTBLやW3Cの發想で定められてゐる以上、其處から外れた「俺ルール」に「一貫性」の觀點からも「歴史」の觀點からも無理が生ずるのは已むを得ない。そして、より無理の少い仕樣が論理的に説得力のある「正しい」仕樣であるならば、無理に「本來のHTML」から外れた「俺ルール」よりも、「本來のHTML」の方が「正しい」と言へよう。
ヤマトタヂマヤーへやうこそ。
「よい」の連用形(音便の形)+係助詞「こそ」。あ〜るとか鳥坂先輩とかに騙されてはいけない。
「歴史的かなづかい」は、もともと人工的に作られたものです。
契沖の「歴史的かなづかい」がもとにしたのは、奈良時代から平安初期までの発音です。等と嘘を吐いてゐるし、
アルファベットで表記する諸言語の中で、英語はとくに発音と綴りの乖離が著しく、一種の表意的綴りであると言われます。しかし、日本語においては、表意的要素は、かなではなく漢字がその役目を果たしておりますから、英語の綴りの例を日本語の歴史的かなづかい擁護の論拠とするのは、かなり無理があるように思います。と云ふのは尤もらしいが漢字とかなとを嚴密に區別すべき論據は何一つのないのだから「表音文字としてのかなは表音文字としてのみ使ふべきだ」と云ふイデオロギーに基いた極附けに過ぎない。
このようにして、かなづかいは「乱れて」いきました。 ただし、「乱れる」というのは、歴史的かなづかいの立場からの主張にすぎません。当時は「かなづかい」という概念そのものがなく、自由に書いていたのです。と言つてゐるが、自由に書く「べきであつた」訣ではなく、ただ事實として「自由に書いてゐた」だけなのだから、「亂れではない」と言ふのは理窟になつてゐない。
このように、「歴史的かなづかい」は、明治・大正期の学校教育によって、数十年の長い期間をかけて、やっと普及しました。しかし、普及の程度は極めて不十分でした。それゆえに、昭和21年に「現代かなづかい」が登場すると、あっというまに主役の座を明渡してしまったのです。
人工的に作られたものと言ふなら、「現代かなづかい」こそ
人工的に作られたものにほかならない。その證據に、「現代かなづかい」は一般に守られてゐない。「いや、みんな現代かなづかいで書いている」と主張するのは、現實を見ないからで、ウェブを見れば「現代かなづかい」(今は「現代仮名遣」)に完全に從ふ事の出來てゐる書き手は一人もゐない。大和但馬屋日記 - ATOK主催日本語テストで採上げられてゐる「テスト」、これで滿點を取れない人は多いだらう。ならば「現代仮名遣」は定着してゐない。「現代仮名遣」派の人は、「歴史的仮名遣は守られていなかったから定着していなかった」と言ふ癖に、「現代かなづかい」が守られてゐない事實から常に目を背ける。「大体守られているからいいじゃないか」のやうな考へなのだらうが、それを言ふなら歴史的假名遣もまた「大體守られてゐた」のである。「現代仮名遣」派の人は屡々公正を缺いた物の見方をする。否、彼等は「現代仮名遣」が「守られていない」事を、「定着してゐない」からと言つて「良くない」とは考へない。
もう少しだけいいますと、「現代かなづかい」には、「通る」を「とおる」と書くことなど、「歴史的かなづかい」の残滓といわれる部分が残っています。しかし、これらもいずれ払拭される運命だと思われます。私の若い友人(それも優秀な!)から、「そのとうり!」と綴ったメールが来るからです。
最後まで残るのは「○○は」、「○○へ」、「○○を」でしょうか。これらは、文法を背景とした綴りですから、容易に消えることはないと思われます。
文法を背景とした綴りである、その通り、だが、「言はう」「聞かう」「話さう」のやうな書き方も、
文法を背景とした綴りである。かうした綴りは、ならば、「あるべき」ものだ、と松本氏も認めざるを得ない筈ではないか。俺は、さう云ふ意味で、その程度のレヴェルで、歴史的假名遣の復活を主張してゐる。さう云ふ主張は「あり」だと松本氏も思はないか。思はないとしたら、松本氏はただの「アンチ歴史的假名遣」の人である。
最近、字音の歴史的かなづかいは、非常に冷遇されています。
歴史的かなづかいは、実際の発音とは異なるだけでも厄介な上、上記のように問題が多いとなれば、「字音は現代かなづかいでよろしい」という判断になるのも、仕方がないかもしれません。と云ふ甚だ好い加減なもの。
習得のメリットが少ないためか、歴史的かなづかいの擁護論者も、漢字音の歴史的かなづかいに対しては非常に冷淡です。急先鋒であった福田恆存(ふくだ・つねあり)氏さえも例外ではありません。「難しいから、そこまで徹底することはない」というのが、その理由です(たとえば福田氏著『私の國語ヘ室』、文春文庫、192ページ)。不思議なことに、「宣長大人の字音かなづかいが間違っているから」、という理由ではありません。
しかし、字音を現代かなづかひにしてしまふのならば、漢字以外の部分だけを歴史的かなづかひにしたところで、現代かなづかひの場合と、それほど違ひは出てきません。なぜなら、日本語は必ず漢字まじりでつづりますし、漢字の部分が全体に占める割合が多いからです。字音の歴史的かなづかひを排するならば、歴史的かなづかひを擁護する必要さへも無くなるやうな気がします。(この段落だけ、わざと歴史的かなづかひにしてゐます。)
それほど違ひは出てきません。松本氏は、
漢字の部分が全体に占める割合が多いと指摘してゐるけれども、字音假名遣は漢字の背後に隠れる。字音假名遣を書く機會は少い。ならば、字音假名遣は一般的な用途としては
そこまで徹底することはない。實際に假名で書く部分の假名遣が問題なのであつて、假名で書かない漢字の假名遣である字音假名遣は問題と「しない」事は「あり得る」。が、飽くまでさう云ふ考へ方は「一般的な用途」の觀點からのものであり、それが出版物における正式な書き方とは別の次元のものである事には注意しなければならない。松本氏は、その邊の事をぼかしてゐるが、どうも嚴密には場合を分けて考へてゐないやうな感じがする。(5)字音の歴史的かなづかいは、なぜか冷遇されるの最後の段落、朝日選書のやり方は慥かに「一つの見識」として「あり」だと思ふが、文章の纏めとしては如何なものか。松本氏は「現代仮名遣」だから朝日選書を「良い」と言つてゐるのではないか。
私の苦労して歴史的仮名遣ひで書いた文章を,印刷屋さんが気を利かして,すべて現代仮名遣ひになおしてくれてゐたのは言ふまでもない。
い い か、 お ま え ら 、き つ く 申 し わ し た ぞ 。と云ふ脱字のある文章のコピー&ペースト。三年も四年も同じ文章を使つてゐるけれども、氣附かないのかねえ。
へへへへ。。。。とか云ふ書き方、ぱつと見「荒し」の文體だし。
自由の中から創造性が生まれるものですよ、と僕は思いますね。とか言つてゐるし。何うよ。
文章に於いて補助的に用いる「という」は、「と云う」と表記するのが正しい。「と言う」は、誰かがある発言をした時(例:彼は「あの人は天才だ」と言う)や、物事を言葉で表現する時(例:こういう物を「決定的証拠」と言う)等に使う。
237 :名無し草 :2006/01/14(土) 04:25:29 また福田マンセー病が再発したか
獨斷がいけないのではない。支離滅裂がいけないのである。
- 記者
- 福田さんは此の問題もふくめて、作家に對する、説得といふこと、どう思はれますか。
- 福田(恆存)
- それは作家自身を説得させるに至れば一番理想的でせうが、時には作家まで説得させることが出來ない事情があると、僕は思ひますね。さう簡單に批評家の考へが作家に通じない、といふこともあると思ふんです。
- 福田
- 丹羽さんがさういふものに對して感ずる不滿と、われわれが風俗小説といふものの流行に對して感ずる不滿と、同じことぢやないかしら。
- 今(日出海)
- 福田君、それはどういふ不滿ですか。
- 福田
- 今まで僕はさういふことを書いて來たつもりなんですがね。直接ではないにしても、自分の小説に對する理想を書いて來たのは、さういふ含みがあるつもりです。
- 丹羽(文雄)
- 僕ら不勉強で君のをあんまり讀んでないけれども、それぢや風俗小説といふものをどう考へてる?
- 福田
- 風俗小説の定義ですか。
- 丹羽
- 風俗小説といふものを否定するか、肯定するか。
- 福田
- 僕は否定するわけですよ、風俗小説一般を。
- 丹羽
- こちらは動いてゐる人間を描くのだ。風俗は度外視出來ない。それにさういふものを増長させる社會的條件がある。
- 福田
- だから、出來ればそこまで及ぶか及ばないか知れないけれども、その社會的方向を曲げようといふのが僕の野心なんですよ。
- 丹羽
- 大きい流れを曲げようといふんだね。特等席なら何でも言へるよ。
- 今
- つまり福田君は、現代の日本が歩いてる道を曲げようといふんだね。
- 福田
- ええ。曲げようといふと大變だけれども。
- 井上(友一郎)
- 大きく言へばさうだらうな。それは僕もあなたの書かれてるもので、さう感じるんだ。
- 福田
- 例へば現代の風俗とか一般世間、理想的な人間像、人間關係の夢、社會状態がかうあつたらいいとかいふ夢、人間である以上はいろいろ理想があるでせう、それを……。
- 井上
- しかし理想といふものは具體的なものでせう。
- 福田
- ええ。それに動かされるやうなことは、風俗作家の中に全然ないんぢやないか。人間とはかうありたいといふ氣もちがない。全然ないか、或ひは非常に低過ぎる……。さういふことが不滿ですね。
- 福田
- かういふことがあるんだ。僕は丹羽文雄論とか井上友一郎論をやりたいですよ。雜誌は非常に買つてくれるわけですからね。ところで、風俗小説論は出來ても、丹羽文雄論は出來ない。どういふわけかといふと例へば丹羽さんが「哭壁」を書くでせう。それから短篇をいろいろ書いてる。どれを讀んでも丹羽さんが、生涯を賭けて追求してる主題が何かといふことは判らない。どれも材料は實に整頓されて、うまく書かれて、なるほど、世相だ、日本の一時期の姿だ、と思ふんだけど、それに對し丹羽さんがどう反應してるかといふ共通なものはない。それは何も觀念的に作品の中に浮いてでなくたつていいけれども、今までどんな作家だつて生涯を通じて一つのものしか追求してないと思ふんだ。人間一人が生涯で判ることは一つしかない。そんなにいろんなことが判りつこないですよ。それがどれを讀んでもその一つのものが見付からないと、僕たちは批評家として非常に困つちやふ。
- 井上
- 例へば日本の文壇は一應病妻ものを書くと、ほかのものを書いたら、ちよつと具合が惡いですよ。
- 福田
- いや、題材ぢやないですよ。
- 井上
- 身邊から出られない作家がゐるんだ。出ると叩かれるから、手慣れた材料で職人的に書いてる。
- 河盛
- それは判りますがね、僕が福田君の尻馬に乘つて言ふのは、一つの題材を追究することぢやなくて、何を書いても……例へば廣津さんは何を書いても追求してるものが出てるやうに。
- 丹羽
- 何を書いても丹羽文雄の小説だと思ふ。それ以外に何があるかね。
- 福田
- それは判るんですよ。その點で丹羽さんが非常なモラリストであることは肯定しますよ。だけど、意見とか、見識ぢやないんです。僕の要求するのは、その作家の生活における精神の緊張度みたいなものですよ。これはどんな題材にぶつかつても生涯一つだ。さういふものがわれわれにとつて文學の魅力だと思ふ。
- 今
- 批評家が一世紀に一人か二人の人を志すことはいいよ。だけど、それなら批評家自身もそれに耐へる人物でなきやならないと思ふんだ。
- 福田
- それをはをかしいぢやないですか。
- 今
- 骨董品といふものは、金がありさへすれば一番いいものを變へるんだ。しかし日常生活に使へぬ骨董品が一つのプレツシユアを持つて來る。その壓力に耐へる人物が所有者でなければならない……。
- 福田
- さういふ譬喩でいふとさうですけどね。神様にお祈りを奉げるには、神様でなければならないといふことになつちやふ。
- 今
- 一番最初に中村君が言つたやうに、批評つていふものの中に、作家と同じやうな一つの理想を追究する面を認めろといふ、僕はけふの話の中で、それが彼の一番言ひたいことであつたらうと思ふし、僕もそれは判るんだがね、批評といふか評論の中に、やつぱり感動するものがあるね。立派な文章に節した時にはだよ。それはそこに批評家の理想追求があるからだと思ふんだがね。
- 福田
- もちろんです。たゞ批評家にも作家と同じやうに理想追求の面を認めるといふことよりも、むしろ逆に、作家もわれわれ批評家と同樣に、人生や文學の理想を追求してみせてくれといひたいんですよ。夢を殺して、その結果として生れた現實否定か、それとも素朴安易な肯定か、それはおのづから文章が決定するんだ。どだい、あなたがたは否定はいけない、現實を肯定してゆきたいといはれるが、それこそ大天才にのみ許されたことですよ。ぼくは自分が凡人だと思ふから否定をやつてるんです。それが群小作家、群小批評家の生き方でせう。あなたがたの方がよつぽど天才主義だとおもひますがね。
ちよつと遣りきれない氣もちがしたので東京新聞で言返した。丹羽の言つた事とは、記者に據れば、
批評家と作家の間に一つの拔きがたい溝が出來てゐる。これは日本の文壇の、或ひは日本の文學の不幸であると云ふやうな内容のものであつたとの事。
- 丹羽
- 本質論としては、君(中村)の説には贊成する。ところが君の場合は技術論だな。君が批評を書く時の君の技巧といふのか、それが問題なのだ。
- 中村
- 批評の技術ですか。
- 丹羽
- 言葉づかひだ。
新假名使ひや漢字制限は、戰後のどさくさに紛れて文部省で決定してしまつて以來、不便やら不徹底やらで、容易に一般化もされぬのに、もう國語問題を打切つて知らぬ顔をしてゐる文部省は無責任である。
佛蘭西のアカデミイは二六時中、國語改良問題にだけ沒頭してゐるといふのに、重大な國語改革を、どさくさに紛れて暴力的に斷行し、それであとは野となれ山となれとは、ひどい文化國家である。
新假名使ひや漢字制限は便宜と必要からで元來が不徹底には違ひない。ローマ字論はもつと徹底して居り、日本語全廢論はそれよりも徹底してゐる。徹底の好きな國民は敗けるとわかり、國土を焦土と化しても徹底抗戰を叫んだものだ。こんな尊い經驗を經て來てゐるのに、未だ徹底したがつてゐるものが少くない。ローマ字論等は鈴木文史朗さんももつと徹底的な普及策を講じないと、田中舘翁の二代目になるのみに終りさうだ。
長ったらしい文章が嫌ひらしいので出來るだけ短い言ひ方をするやう努力して見た。
「押附けは良くない」と云ふ通念に反對の立場ならば、仕様準拠派も反対派も両方斬るべきだと思うが。
そして自分も他者への押し付けをするべきではない。
仕様準拠派の意見を聞いた上で「押し付けるな」と言っているのだから問題無いと考える。
「押し付けるな」という意見に対して「その押し付けるなという意見を押し付けるな」なんて小学生レベルの屁理屈。普通なら「あ、俺が先に押し付けたんだっけ」と気付くべきところだと思うのだが。
気狂いなんて言われたらいくら正しい事を言っても誰も聞く耳を持たない。だから「もう少し適当な言葉があるだろ?」と言っただけ。特に無理強いさせるつもりはない。
「押し付けるな」という意見に対して「その押し付けるなという意見を押し付けるな」というなら、相手の意見を封じてしまうだけで議論そのものが成立し得ない。だから屁理屈だと言った。
相手の意見を封じてしまうだけで議論そのものが成立し得ないのではないか。そして、yam氏は「どちらが先に」を重視する立場だから、先に
相手の意見を封じてしまうだけで議論そのものが成立し得ないやうな状況を作つた側、即ち、先に「押し付けるな」と言つた方が「惡い」、と判斷しなければならない。
主観だが、仕様準拠派は反対派を論破すると満足してしまう方が多い。正しいHTMLを広めたいのか、無知な人間を突っつきたいだけなのか、結局何がしたいのか分からん。後者なら単なる「荒らし」だろ。どうせならもっと反対派を目覚めさせるような説得を行なって欲しいもの。その点、真名垣氏は信頼出来るまともなリファレンスをまとめているので評価出来る。
でき上がりとして想定可能なものを並べた「グラフィック・ギャラリー」という新たなインターフェイスがあり、それぞれは種々の編集操作を実行した結果と考えられる。
會員豫約割引中 一月二十四日迄とあるけれども、何の會員? 國語問題協議會の會員で良いの? どうやつたら豫約出來るの? 既に發行日が過ぎてゐるけれども、何うして「豫約」なの?
横濱五十番館は、新しい形式の電子書籍の出版と販売を行ふ書店として誕生しました。との事だけれども、
新しい形式の電子書籍の出版と販売つて何? また新しい文書フォーマットを作つたの? 既存の書店ルートでは買へないつて事? なら何處で買へるの? どうやつたら買へる訣? そもそも一般の人が買へるの? ――説明が何一つない。ただ商品の内容をウェブで紹介してゐるだけ。これでは賣れるものも賣れないのでは? 本當に賣る氣あるの? と言ふか、本當に賣り物なの? 買ひたいのだけれども。
マニアックな用語はなるべく使用しない、と云ふのは良い指摘。なのに、
通称 ネスケ・NNなんて書いてゐるのは矛盾。
余計なタグは利用しない、と云ふのは良い指摘。なのに、見出しの部分に
<A NAME="1"></A>
<TABLE BGCOLOR="#808080" WIDTH="100%" CELLPADDING=3 CELLSPACING=1><TR>
<TD BGCOLOR="#FFE0FF" WIDTH="100%"><B> <IMG SRC="../img/li.gif" WIDTH=10 HEIGHT=11 ALT="∴">表示スピードってなに?</B></TD>
文字化けを防止しようと言つて
<meta http-equiv="content-type" content="text/html; charset= shift_jis">
なるコードを紹介してゐるのに、そのHTML文書には<META http-equiv="Content-Type" content="text/html;CHARSET=x-sjis">
と記述されてゐるのが矛盾。逸脱や脱線への志向が現はれた訣ですが、それを「最新の思想だから」と云ふ理由で日本人が單純に受容れてしまふ訣には參りません。反省は、反省すべき事が無ければ何の意味もない。日本人は先づ、西歐人が行着く所まで行着いた秩序の世界を理解する必要がある。と言ふより、そもそも「秩序のある状態」の重要性を、日本人も從來は良く理解してゐました。太陽暦が普及し、さらに戰後の異樣な休日のシステムが成立して、消滅しかかつてゐますが、日本人は季節の節目節目に季節感を最大限味はふべく、祭祀を執り行なつて來ました。ただ流れるだけの時間の中に、節目を設け、人生にリズムを與へる――さうした秩序のある生き方を日本人もして來ました。秩序はそれ自體として美的である。
ところで、漫然と書くことはあり得ない、というのは野嵜さんの執筆活動には何かしらの目的意識があるはずだ、ということで、実際野嵜さんには現代という時代状況への批判という目的があると仰られているように思えます。ただ、批評というのはやはり「流通」に関わる活動で、では「生産」に関わる活動を、野嵜さんはどのように行おうと考えてらっしゃるのか、重ねて問うてみたいと思います。
……大勢に追随して、時代精神と世界精神の前に屈服し、誤れる輿論と大衆行動の惡と不正に目を塞ぐことは容易である。それは昔も今も宗教家の陷る誘惑であつて、權勢の自負心に阿り、その不正を看過せんとする誘惑である。しかし同樣に陷り易く更に惡性の誘惑ともいふべきものは、時代精神に消極的な敵意の態度を執り、偏狹な排他的な執信に閉ぢこもることである。それは本質的に異端の態度、宗閥の態度であつて、キリスト教の名を涜し、その效力を殺ぐ點では世俗的態度や時流随從の態度以上にその害は甚だしい。前の場合は、いはばキリスト教會の生命には無縁であるに反し、後の場合はキリスト教精神の働きの根源を毒し、善意の人々にまでもキリスト教に對する反感を懐かしめる原因となるからである。