マウスジェスチャーの感度だが、ぐぐったところ調整できるようです。
opera:configのGesture Thresholdの数字をいじるとよいようだ。
Opera 11でマウスジェスチャーがアレになったので、ネットで治療法を調べてGesture Thresholdを5から3にしたら症状が更に酷くなり、逆に増やして8にしたら劇的に改善した。
@acy 「A(中学生にすっと分からない漢字を使う人)は皆B(中学生にすっと分からない語の定義や文章)を書かれる」、AとBに相関関係はないのは明らかでしょう。こういうことをしょっちゅう言われるので言い返したくなった、それだけです。
@kigrui 議論の展開を見るに、根據のない言ひ掛かりと斷ずることは出來かねますね。被害妄想云々はお互ひ言ひ合つてゐる。
上記に関し、特に反対する理由はありません。と言ひながら
しかしこうした正しい理念が、現実と噛み合わず、行政指導が功を奏さない現場について、まだ十分な意見収集や議論が行われているとも思えません。と話を持つて行つてゐる事に文句を言ふ事も出來るけれども、それこそ揚げ足取りの域を出ないだらう。と言ふより、この手の懸念を言出されたら、今の萎縮した行政・爲政者は、默り込むしかない。が、だからこそ、言つてはいけない論法だらうとは思ふ。
今我が國は、民主主義國家に生れかはらうとしてゐる。政治の形態から教育や裁判の仕方までが、いろいろに考へ直されようとしてゐる。そのために、フランス大革命や人權宣言などのことが頻りと囘想せられ、論議されてゐる。これは甚だ當然なことでもあり結構なことでもあるが、我々はたださうした事柄の結果を教へられ、學びとるだけでは足りないであらう。むしろ、ああいふ革命家たちが現はれてああいふ事業をなしとげる氣運を、徐々に數世紀に亙つて準備して來た、幾多の人間の、個々の、かくれた、貴い、血みどろの經驗をば、囘顧することが必要であらう。あの第十八世紀といふ時代の向ふには、特に第十六世紀と云ふ時代があつた。それは第十八世紀以上に、我々にとつては多くの示唆に富んだ時代である。歴史家のオーゼール Hauser はアメリカの大學に行つて、『第十六世紀の近代性』といふ講演をした。それは後に單行本になつてゐるが、そこに彼は、第十六世紀が知性の革命、宗教の革命、道徳の革命を試みた時代であり、新しき政治と新しき經濟とがこの時代に胚胎したことを明らかにしてゐる。我々には、この時代の研究が、第十八世紀の研究とともに必要であらう。フランス大革命も人權宣言も、何れも第十六世紀における自我の覺醒の延長結果である。まことに、近代人の生活の第一歩はこの自我の覺醒にあるのであるが、我々日本人自らの歴史には今までこの頁が缺けてゐる。いはば我々は、これから始めて、西歐ルネッサンス人の經驗をしようとしてゐるのである。かういふ我々にとつては、自我の覺醒がああいふ社會的革命をとつて外に現はれる前に、個々人の私の生活の中にどのやうにして生れ且つ育つて來たかといふ經驗の跡をたどることが、何よりも必要なのではないかと思ふ。制度や機構の建て直しもよいが、さうした建造物の中に住むに堪へるだけの魂を先づ以て持つことが急務ではあるまいか。さういふ意味で私は、およそ『隨想録』ぐらゐ、即ち我がミシェルの魂の經驗くらゐ、今日の我々に役に立つものはないやうに思ふ。
歴史の代わりに、あるいは歴史のうわさ話である伝承の代わりにジャーナリズムをいれ替えた近代の革新は、少なくともひとつのはっきりした効果をもたらしました。それは、だれもがあらゆる物語の終わりを聞くだけであるべきだ、と保証したのです。
ジャーナリストは彼らの続き物の最終章に(ヒーローとヒロインがちょうど最後の章で抱きあおうとしているとき。というのはたまたま不可解なつむじ曲りのおかげで彼らは第一章でやるのを阻止されたので)たいてい誤読することば「あなたはこの物語をここから始めることができる」を印刷する習慣をもっていまず。しかしこれすら完全な平行現象ではありません。というのはジャーナルというものは物語の要約の一種をまさに与えるのであって、歴史の要約とは大して似ていないようなものは何も与えないからです。新聞はニュースを取扱うだけでなく、あらゆるものをまるでまったく新しいものであるかのように取扱うのです。たとえばトゥト・アンク・アモン(ツタンカーメン)はまったく新しいものでした。
まさに同じ仕方で、わたしたちはバンクス将軍がそげきされたことを読むのです。これは彼が以前に生まれていたことについてわたしたちがもつ最初の通知です。ジャーナリズムが伝記の手持ちのものを使う仕方には特に意義深いものがあります。それは、死を公示するまでは、生(涯)を公示することなど決して考えません。それは個人を取扱うように、制度と理念、思想を取扱います。
第一次世界大戦後わたしたち公衆は、すべての種類の国家が解放されているところだ、ときかされはじめました。これらの国々が隷属させられている、とはかつて一語もきかされたことはありませんでした。わたしたちは植民地の紛争をさばくようよび出されましたが、それまでわたしたちは、争いがあったことすらきくのをまったく許されていなかったのでず。人びとは、セルビアの叙事詩を語ることなど、知ったかぶりのすることだと思ったでしょうし、ユーゴスラヴィアの新しい国際外交政策について、平易ないつも話す現代のことばで語る方を好みます。それで彼らは、チェコスロヴァキアとよんでいるものについて、以前にボヘミアについて一度もはっきりきくことなしに、すっかり興奮しています。
ヨーロッパと同じほどに古い物事が、アメリカの大平原で極く最近打ち込まれた木標よりも近頃のこととみなされるのです。それはとても興奮させるものです。ちょうど、まさに幕のおりる寸前に劇場に入ったばかりの人にとっての、劇の最後の仕草のように。しかしそれは、全体がどうなのかを知ることに正確に導いてはくれません。ピストルの一発とか情熱的な抱擁という事実だけで満足する人びとなら、劇のおとくい客となるそういった暇な仕方もすすめていいかも知れません。だれがキスをしだれを殺しているか、そしてなぜなのかを知りたいだけの知的好奇心に悩まされる人びとには、それでは不満足です。
現代史は特に英国において、ジャーナリズムという同じ不完全さに悩まされています。よくてもせいぜいそれはキリスト教世界(Christendom)の歴史の半分を語るだけです。しかも前半なしの後半のみを。彼らのために理性が学問の復興からはじまる人びと、彼らのために宗教が宗教改革からはじまる人びとは、何事をも決して完全に明らかにすることはできません。というのは、彼らは自分で起源を説明できないとか、そもそも想像すらできない諸制度を使って、はじめなければならないからです。ちょうどわたしたちが将軍そげきをききながら、彼が生まれていたことはまったくきいていなかったように、わたしたちはみな諸修道院の解体についてはたっぷりききましたが、諸修道院の創設についてはほとんど何もききませんでした。今日この種の歴史は、修道院を憎んだ知的な人びとにとってすら、絶望的に不十分なことでしょう。それは、多くの知的な人びとがきわめて健全な精神で敢えて憎悪する諸制度とのつながりにおいて、絶望的不十分です。たとえば、わたしたちのなかの何人かがスペインの宗教裁判とよばれる正体不明の制度についての、現代の学識ある指導的著作家たちによる何かの言及を、たまたま見ていることは可能です。まったくのところそれはほんとうに正体不明の制度です、彼らおよび彼らが読む歴史によれば。正体不明というわけはその起源が正体不明だというところにあります。プロテスタントの歴史は、パントマイムが小鬼の台所にいる悪魔の王さまからはじまるように、単純に手の内の恐るべき物事からはじまります。宗教裁判が、特に終わりごろになると悪魔たちにつきまとわれたような恐るべきものだったことはおそらく事実です。しかしもしわたしたちが、これはひどいものだった、といえば、わたしたちにはなぜそれがひどいものだったか、全然わかりません。
スペインの宗教裁判を理解するためには、.わたしたちが夢にも思ってみたことのないふたつのことを発見する必要があったでしょう。それはスペインとは何であったかということと、宗教裁判とは何であったかということです。まえのことはムーア人への十字軍についての大問題全体および、どんな英雄的騎士道によって一ヨーロッパ国家がアフリカ由来の外国支配から自らを解放したか、という問題を提出することになったでしょう。後のことはアルビ派異端へのもうひとつ別の十字軍に関することがら全体および、なぜ人びとがアジア由来のあの虚無主義的幻想を愛しまた憎んだのか、という問題を提出することになったでしょう。
わたしたちが、これらの物事のなかに元来、十字軍の突進とロマンスがあったことを理解しないならば、わたしたちはどのようにしてそれらが、人びとを誤らせるようになりあるいは人びとを悪へと引きずって行くようになったか、を理解できないのです。十字軍士たちは疑いなく彼らの勝利を乱用しました、が乱用するような勝利もありました。そして勝利のあるところ、戦場での勇気と広場での人気があるものです。行き過ぎを奨励し過誤をおおい隠す類の熱狂というものがあります。
……。彼は愛する人でした。彼は神を愛する人であり、真実本当に人びとを愛する人でした。これは可能な限りのもっともまれな神秘的召命です。人びとを愛する人は博愛主義者の反対物にとても近いのです。……。博愛主義者は類人猿を愛するといわれてもいいでしょう。
しかし聖フランチェスコは人間性をではなく人びとを愛したのですし、同様にキリスト教をではなくキリストを愛しました。……。
私はなお二つの点をここで述べおきたい。その一つは「阿片」ということだが、阿片化しやすいのは宗教だけでなく、すべて一流の思想は、阿片として通用する危険をもっているということだ。それは猛毒をふくむから、取扱い方如何によってはあらゆる危険が生ずる。特に日本のように外来思想の流入が激しいところでは、思想は観念的にうけいれられる場合が非常に多い。土着するための時間がないために、翻訳臭を帯びたまま流布し、それを自己陶酔の具にすることがある。このときも思想は阿片化する。共産主義そのものすら民衆の阿片となることがある。つまり公式主義である。公式主義とは思想の阿片化した一形態ではないか。
いまひとつ大切な点は、さきにも述べた対決力のことである。無神論者とは、私の考えによれば、キリストの教えそのものと直接的に相まみえ、悪戦苦闘のあげくそれを克服した人のことである。十年二十年あるいは生涯の戦いを要するであろう。それでもなお不可能かもしれない。一体かかる対決を持続した無神者が存在するだろうか。
私のいつも驚くことは、日本で無神論者を自称する人は、たいてい宗教に無関心であるか完全に無智であるか、いずれかであるということである。聖書一冊さえ読まない無神論者などありうるだろうか。だから私は日本には無神論者などひとりもいないと言ってきた。信仰者でもなく、無神論者でもない云わば怠惰なるもの、したがって曖昧なるものの上に「ヒューマニズム」という言葉が用いられているのではなかろうか。
また対決力の貧しさという点では宗教家も同様である。共産主義に対しその真意、その性格、その運動について、偏見なく直視しようという態度は少い。これも危険なことだ。しばしばくりかえしたように、宗教が「明晰の眼」を与えるものである以上、自己とは正反対のものに対して一層眼を開いていなければならない。眠っていてはならないものである。眠りのあるところそれは阿片と化する。
特集・甲鳥書林周辺
讀書の害についてといふ題でまづ言ひたいことは(これはむろんものを書く側の責任だが)、「難解」といふことの意味である。島崎藤村の感想集『桃の雫』の中に次のやうな言葉がある。
現代の人の口に上る合言葉、新聞雜誌の中に見つける新語、書物の中に出てくる學問上の術語、それらの多くは大きな言葉である。わたしたちが現に口にしてゐながら、それに氣づかずにゐるやうな、それらの親しみもあれば陰影もある日常の使用語の多くは小さな言葉である。筆執り物書くほどのものは、いづれもこの小さな言葉をおろそかにしない。故福澤諭吉翁はあの通り明治初年の頃に文明論を書いた人であるが、あれほどの論文も大きな言葉ばかりではなかつた。
これは現代の評論家にとつても痛い言葉だ。學問上の用語とくに哲學用語など極めて難解なものがある。これは或る點で無理もないので、云はゞ接木作用の拙劣さに發してゐると私は思つてゐる。明治以來外國の哲學が飜譯されたとき、適切な飜譯が見出せなかつたといふ事情である。日本語の語脈の中には存在しないやうな新しい言葉を生み出すために、必要以上にひねくり廻し、そのために曖昧になつた言葉がかなり多く飜譯語として流布した。とくに獨逸觀念哲學の飜譯用語がひどい。原文で讀んだ方がわかる場合が多い。外國の哲學や思想の消化がなほ日が淺いために、一概に非難は出來ないが、しかし藤村が指摘したやうに、日常使つてゐる小さなさゝやかな言葉にこもる親しみ深さ、或は陰影を犧牲にするのは致命的なことだ。哲學上の著作ほど、かうした言葉を大切にしなければならない筈であらう。プラトンの「對話」篇が何よりもそれを雄辯に語つてゐる。
……。
涙ながらにポツダム宣言の
即時受諾案に賛意を示したとあるが、本書に據れば
涙ながらに語られたのは十四日の御前會議で改めてポツダム宣言受諾案に賛成の意見を表明された際の事となつてゐる。
自刀とある。ぐぐるとウェブ上に矢鱈と「自刀」と書いてゐる人がゐるのだが、刀劍による自決は「自刃」でなければならない。
日本のメーカーがiPhoneを作るとこうなるって話なんかもそうだけど、センスが無い人は「カタログスペック上の数値が高い物」「カタログ上の機能が多い物」という観点からしか「良さ」をアピールできないんだよね。まあ、そんなセンス無しでもiPhoneを触ったら「キモチイイ!!!」って感覚は多分抱くんだよね。ただ、残念な事に、その感想が脳内のフィルタをいくつも通ってその人の口から出力される時には、どーいうわけか「あれもできる、これもできる、だから素晴らしい」的なくっだらない表現に「翻訳」されちゃうわけですよ。
同じ事が、そういう人が物を作る時にも起こるわけですよ。物を作る以上、そりゃあ、自分で「こりゃ駄目だ」って思うものよりは「これは良い物だ」って思える物を作りたくなる。でもセンスがないから、どう作れば「良い物」になるかがわかんない。しょうがないから、自分が「良い」って思った事があるものを切り貼りして集めてくるしかないワケですよ。そういう風にセンスの無い人間が、下手に決定権を持っちゃったり実行力を持っちゃったりするから、こういう物が世の中に出てきてしまうんだ。
僕はFirefox 1.5までのバージョンにしか対応できていなかったTBEに自分自身が激しくロックインされてしまって、Firefox 2にいつまで経ってもアップグレードできなかった。そんな馬鹿みたいな事に他人まで巻き込んだらあかんよ……