「全知全能の神とやらがゐるなら、自分に逆らう人間を作つてみろ。作れないなら全知全能ぢやないし、逆らはれたらやつぱり全知全能ぢやないぢやないか」
右折はなるべく90度で曲がるとあるけれども、これは「ショートカットするな」と云ふ話を勘違ひしてゐる臭い。「まるく曲がる」「直角に曲がる」の話ではない。ショートカットすると右から來てゐる車が見えなくて危險。(この項警察庁交通局運転免許課監修『安全運轉の知識』の記述に據る)もちろん、ショートカットしないにしても、
道交法 34 条 2の規定に從はねばならない事は言ふまでもない。
4.パッシングの意味が関東と関西で違うことを意識するも、嚴密に言へば不正確で、關東だから・關西だから、と云ふ判斷をするのは危險。右折待ちの車輛に、對向直進車が減速或は停止してパッシングした場合は「御先にどうぞ」の意味になるし、對向直進車が減速せずにやつて來ながらパッシングしたら「自分が先に行くから進行するな」とこちらを蹴散らしてゐる事になる。相手が減速してゐたらこちらが進めば良いし、減速してゐなかつたら待てば良い。さう云ふ事。また、道を讓られても、蔭から別の自動車や二輪車、或は歩行者が出て來るかも知れないから、一氣に突つ切るのはダメ、相手の進行を邪魔し續ける事になつても、申し訣ないが、一時停止して安全を確認する事。これをやらないとうちの親爺が先日やつたやうに事故る。
野嵜さんはもしかしたら、というかおそらく、政治やら憲法やらの個個の話題について議論をしたいのかもしれないけれど、俺はそれらの話題には興味がないし、つて、非道く失敬な言ひ方だと思ふ。論理を言ふのはいいけれども、さう云ふ人に限つて斯う云ふ態度をとりがちなのは、ちよつと問題があると思ふ。
A ならば B であるとA であるをきちんと説明すればB であるという結論を導くことは (我我がモーダスポネンスを認める限り) 妥当だ。しかしこの場合は単にと言えばよいのであって、そこでわざわざA ならば BかつAゆえにBである勿論とか言うまでもなくとかの美辞麗句を並べる必要はない。これらの言葉は議論の展開に関して何の役割も果たしておらず、せいぜい語気を高めて読者への印象を強める程度の効果しかない。よって、このような表現がやたらと多用されている文章では、妙な印象操作によって議論の根拠がはぐらかされていないか気をつけろということだ。
美辞麗句ではないよ。それはレッテル貼りだ。あなただつて、
そこでわざわざとか
せいぜいとか、或は
やたらととか、論理的な説明をするだけなら不必要な言葉をバンバン入れてゐるでせう。まあ、あなたとしては、私相手だからと言つて、
印象操作の爲に、わざと意識してこの手の語を入れてゐるのかも知れませんが。
美辞麗句に目くじらを立てる必要はない訣だ。論理の展開に必要ない語を使ふのが問題だと言ふのなら、さう云ふ語を一々問題にして揚げ足を取るのも問題だ。
だからこそ、読者としては本質である導出の過程を的確に把握し、回りの直接関係ない語句との関係性を確認しながら読み進めることが大切なのだ。と言つてゐるから、まじかんと氏は私と同じ事を考へてゐる筈なのだけれども、それでも全く逆の結論を引出してゐるのだ。私にしてみれば、語調を整へて文章を讀み易くする事は、書き手側の當り前過ぎる程當り前の作業なのだが。
美辞麗句とレッテル貼りをして、「文系人間の書く文章は大變危險だ」「理系人間が書く味氣ない文章の方が良い文章だ」と、讀者を印象操作しようとしてゐるのは、實に珍妙かつ危險な事だと思ふ。
きちんと、
そこでわざわざ、
せいぜい、
やたらと、といつた形容の語句、
美辞麗句のやうな偏向した用語を排除する事。或は、
してしまうこともできると云ふ事、「或〜は〜である」としか言へない特稱命題の事に、いちいち目くじら立てない事。「全ての〜は〜である」と言へる場合、それが問題であるならば、單純に排除すべきであると言切れるが、「或〜は〜である」としか言へない場合、單純に「全てを排除すべきである」と言ふ事は出來ない。「問題になつてゐる場合にのみ、排除すべきである」ならば、今がその「問題になつてゐる場合」か何うかを檢討して、それから文句を言出せば良い。これがわからないで大騷ぎしてゐる馬鹿な人は多いんだよなあ。
疑ってかかるべしと、疑念を呈するに留まつてゐる。だが、私の知る限り、「疑念を呈する」と云ふやり方こそ、「問題にすべきでない事があるにもかかはらず、それらが全て恰も問題であるかのやうに見せかけられる」惡質な印象操作の方法だ。政治的な論爭に關はつてゐると、この手の危險な「疑念の呈示」は、しよつちゆう出くはす。左翼が國家權力の「危險性」を言ふ時は、必ずこの、まじかんと氏流の「疑念の呈示」と云ふレトリックを使つてゐる。
勿論とか当然とか言うまでもないなどの表現は、説明すべき根拠をろくに説明しないまま、説明したことにしてしまういわば魔法の言葉であるから、こういう表現が頻出する文章は基本的に疑ってかかるべしと思っている。
勿論とか
当然とか
言うまでもないとか言つてみたくなるね。「AならばBである」。「Aである」。勿論、當然の事ながら、言ふまでもなく、「Bである」。既に根據を説明し、それが最う何うにも動かしやうのない事になつてゐる、そこで、
我我は根拠をこそ充分に説明しなければならないなんて、改めて御説教されても、困るんだよね。
こういう表現が頻出する文章は基本的に疑ってかかるべしみたいに、話が一般論化され・箴言みたいにされて、結論にされると、それこそ疑はしいよ。喜六郎が良く使ふレトリックだ。或は、「疑つてかか」りたければかかればいいけれども、本當に疑はしいか何うかは、個別の事例で判斷が異る。それを亂暴に一括りにして「疑はしい」みたいな印象を與へるやうな事を言つてしまふのは、何うかと思ふよ。と言ふか、「疑つてかからねばならない」とは、「何時如何なる場合にも例外ナシに、必ず、間違ひである」と言へない時、悔しがつて、印象操作の爲に言ふものだ。
又、ルネサンス人文主義者が古き傳統から離脱したとはいい條、それは完全な離脱ではなかつた。グラープマンもジルソンも、對スコラ哲學攻撃の矛先は、實際には、ここから分裂し墮落した後日の唯名論唯名目論に向けられたものであったと説き、且、ヴァラやエラスムの如き代表的人文主義者をも含めて、いかにトマス・アクイナスを高く評價する人々の多かつたかということを現している。然し更に見るべきは、當時代の氛圍氣がカトリック的文化に全く浸つていたこと、そしてヒューマニズムが、他からは受けたこともないほどの靈感をそこから受け取つたことである。「人間の創造的活動力は當時絶頂を極めていた」とベルジャエフはいつている。「全西歐文明は古代に源を發する正統(カトリック)キリスト教の有する文化の上に根をおいていた……」更には、反人文主義的とあれほど蔑視される中世の禁欲主義すら、人心調節の役割を帶び、あの訓育をほどこして、書記ヒューマニズムを活かしたのであつた。「中世は人間の力を安全に保護し、ルネサンスの絢爛に至る道を備えた。人は中世の體驗を、中世の準備を經てこの開花に到達し、かくてルネサンスの有する眞に偉大なる一切のものは、キリスト教的中世に結ばれたものなのである。」
ヒューマニズムは傳統的キリスト教なくしては存在し得ず、これなくしては不具となりやがて消え去るほどにも、これと親しく近いものなのである。「ヒューマニズムとは、根本的に寄生蟲である」とT・S・エリオットはいう。「苟も存在するがためには、それは何かしら他の心的態度に依らねばならぬ。」而してこの「何かしら他の心的態度」を、この國の現代人文主義者たちはまさに今とりいれつつあるところなのである。彼等はもはや「純正人文主義者」ではない。實存主義、リベラリズム、社會主義、共産主義あるいは虚無的な辨證論の陣營の内に、彼等はその勢力を分散した。これら「心的態度」の一つ一つを宗教にまで昇格せしめようと彼等は無注になつて努めている。丁度過去四世紀にわたつて、合理主義者、觀念主義者、プロテスタント等の先驅者が努めた如くに。人文主義的人間は、宗教的基礎からの絶縁が招き出しそこに彼をつきおとしたあの孤獨の淵には堪えられなかつた。彼は擬似宗教を、摸擬教會を作り出す。「ヒューマニズム轉じて宗教となることは、即ちルネサンスの生んだ悲劇のやま、現代とよばれる一時代の終焉である。」(ベルジャエフ)
現代歴史の結實は、ただに俗化ヒューマニズムが今いつた過程を辿ったことを示すのみならず、更に、其事は明澄さを以つて、この展開が終に何處に到達するかを指示するものである。何となれば、俗化ヒューマニズムは、傳統的キリスト教に抗つて身を引いたすべての異端が併せ持つ三つの特徴を明らかに示しているからである。即ち、カトリック教理(ドグマ)の全般から二三の教理(ドグマ)を拾いあげたこと、その教理(ドグマ)を殘る教理(ドグマ)全般に對立せしめたこと、第三に、これは一際目立つことであるが、かく拾いあげた教理(ドグマ)が正に教理(ドグマ)であることを意識していない點である。すべての異端は一つの點において共通する。即ち勝手に拾いあげた教理(ドグマ)をカトリックの教理(ドグマ)的全構成及びこの全構成の論理的前題から引きはなすこと、それである。彼等は、この作りあげた教理(ドグマ)を自明の眞理であると宣明する。しかし實際においては、彼等は自身の氣分若くは時代の氣分と、客觀的良心及理性とを混同しているのである。次の時代が新しい氣分を伴つて訪れれば、彼等の教理(ドグマ)はすたるのである。初期改革者逹の創案した教理(ドグマ)が、その反對者逹によつて潰され取つて代られてから既に久しい――「信仰」のみの教理(ドグマ)は文化プロテスタンティズムのとなえる「善業のみ」の教理(ドグマ)に屈し、「聖書のみ」の主義は高等批評主義の「理性のみ」に屈服した。
現代人文主義者は、彼の思想は如何なる教理(ドグマ)をもつてはいないと叫ぶであろう。が、事實はもつているのだ。そして彼の打ちたてる教理(ドグマ)というものは、時の推移と共に、人々には理解しにくいものとなつていくのである。
自身、ホヰットマンのヒューマニズムからカトリシズムに轉向した改宗者、G・K・チェスタトンは、キリスト教的ヒューマニズムについて、現代の如何なる文人の筆をも凌駕する一書をあらわしている。「永遠の人」という題名からして、彼自身と同じく現代世界の渾沌に直面して立つカトリック人文主義者逹の樂天思想をあますところなく示している。「The Thing」という一卷におさめられたエッセイの中で、彼チェスタトンは、俗化ヒューマニズムに對するカトリック的所見を次の如くにのべる。
事實、現代世界は、現代の動向と相共に、カトリックという資本によつて生きているのである。それは、キリスト教の古き寶庫から、いまだ殘されている多くの眞理をひき出しては使い、使い果たしていく。この寶庫の中には、キリスト教によつてみがきをかけられた古代異教の眞理も、もちろんふくまれているのだが。それなのに、自分自身では、一向に新しいものなんぞつくり出してはいない。新奇さというものは、當然の廣告みたいなもので、レッテルとか名稱だけの問題だ。あるいはこうもいえよう、全く消極的なものなのだ――と。將來までもひきつづき、たしかにもち越していけそうな新鮮味は、何一つ生み出してはいないで、そのかわりに、到底背負つてはいけない古いものをあちこちつまみあげている。というのは、現代の道徳理想の二大特徴は次のようなものなのだから――第一、それは、古代若くは中世の手から借り出したか、かすめとつたかして來たものであること。第二、それは、現代の手の中で、おそろしく早くしぼんでいつてしまうこと。(犬養道子譯)
たゞぼくにとつて問題なのはエゴイズムの処理なんですよ。個人のエゴイズムといふものは、ときには国家の名において押へなければならない。それなら国家のエゴイズムといふのは何によつて押へるかといふと、この原理は天皇制によつては出てこないだらう。日本の国家のエゴイズムを押へるといふことは、天皇制からは出てこない。ぼくは天皇制を否定するんぢやなくて、天皇制ともう一つ併存する何かがなくちやいけない。絶対天皇制といふのは、どうもまづい。
……。
天皇制の必要と、それを超える――優位といふ意味ぢやなくて――他の原理を立てなければならないんだけど、自由主義とか民主主義といふのではだめなんだ。だめといふのは、いまの自由主義、民主主義といふのはいけないんで、それでは真の自由といふのは何か、といふものをもつと考へなくちやいけない。自由陣営といつたつて、本当はアメリカだつて真の自由といふものは考へてゐない。結局は、精神の自由とか文化といふものだ。さういふものの価値意識が必要なんだ。
ぼくの「文学と政治の峻別」といふのは、ひどく誤解されてゐるんだ。文化もさうだし、精神だつてさうなんでね、人間の精神とか文化つてそんな強いもんぢやないんだ。これはよほど用心して、こはさないやうに守り育てなけりやだめなんだけれども、その最新の注意といふものが足りな過ぎるんだな。と述べてゐる。
- 司馬
- 明治維新のキリシタンぎらいがみな明治政府の大官になるくせに、フランス式の民法を入れるでしょう。これは一夫一妻でしょう。これには抵抗をおぼえないんですよ。あれはキリスト教から来ているのだということを知らなかったのか、もしくはキリスト教が法律という技術になってしまっているから無害だと思ったのか、そういうことにはわりあい抵抗をおぼえなかったというのはおもしろいですね。だから、私がかねがね考えているように日本人は原理には鈍感ということじゃないでしょうか。こういう民法がヨーロッパやアメリカでなぜできたのかということを深刻に考えて、これはキリスト教であると思ったら、明治維新政府はクリスチャンになればいいでしょう。国教をキリスト教にすればいいのに、幹を取らずに枝葉だけ取ってくる。それは便利だからそうするのですけれども、しかし、ことばを裏返していえば、原理がわからない民族じゃないか。
ところが、反語的になりますが、ぼくは日本人をいちばんすばらしいと思うのは、むしろ逆にさっきから言っている、原理というややこしいものに煩わされることが少なかったというところなんです。と言つてゐる。これは氣に入らない。
万葉の大宮人によって、あおによし寧楽の都……とうたいあげられた平城京は、ひとしおのにぎわいにつつまれていた。
すなわち、じっさいには天平という名にふさわしくない政治の動揺が、そこに渦まいていたのである。
じっさいに大仏の鋳造は難事業であった。
いまは、そうした「帰化人」の役割を、天平の奇偉といわれた大仏開眼供養の一斑からうかがったにすぎない。
「キーンさんに会って対談しませんか。」
と私にすすめたのは、中央公論社の会長の嶋中鵬二氏であった。私は最初、それほど憂鬱なことはありません、とことわった。私は日本の作家の名簿の中に入っているが、それらの名簿は他人が作ったもので、私自身は自分を作家だとおもったことがなく、むしろそう思わないように努力している。また自分が書いているものが小説であるか何であるかということを自分で規定したことがなく、もしそう規定すれば一字も自分の文章が書けないということも自分でよく知っている。第一、私にとってもっとも知らない世界は、日本文学史である……。
「偶然というものが作為的につくれるものなら、そのような条件をつくってください。つまり日本人と日本文化について関心をもっている同年配の人間二人が、ふと町角で出くわして、そこはかとなく立ちばなしを交わした、というふうな体にしてくださるとありがたいです。」
日本人と日本文化について関心をもっている人間である事は、はつきり自覺してゐた。さうした司馬自身の發言から考へれば、司馬の「小説」から「司馬史觀」なるものを「讀取る」事が、必ずしも誤とは言へず、その「司馬史觀」に對して歴史的な觀點から批判を行ふのは寧ろ妥當だと言ふ事が出來る。
税金の話はとかく技術的でわかりにくいが、正しい議論と間違つた議論を見分けるたつたひとつのシンプルな基準がある。それは税金の額が全體として増えるか減るかだ。取られる税金が全體として減るのなら、正しい議論。逆に増えるのなら、どんなにもつともらしい理屈に見えても、間違つた議論だ。
わたしは「自ら清くない者は人を咎めてはならぬ」というのではない。だつて、それでは咎めうるものは一人もなくなるであろう。「同種の罪を持つものは」とさえもいうのではない。ただ我等の判斷が、問題の人を咎めつつも、なお且つ内部的裁判によつて、我等をも假借することなきを欲するのである。自分における一つの不徳を除き得ざる者が、それにも拘らず他人におけるそれを除こうと努めるのは、よしその方が自分におけるものほど惡性でも頑固でもない場合ですら、とにかく慈悲の行爲である。折角こちらの過失を警告してくれた者に向つて、「それはお前にもあるではないか」などと答えるのは、當を得たものとは思われない。それは何故か。それにしてもその警告は眞實であり有益であるからだ。
ここにもう一つわたしが大いに益を享けている警告がある。それは、「論爭や談論においてこれは善(うま)いなと思われる語句悉くを、そつくりそのまま眞に受けてはならない」ということである。
智慧は御身に自ら満足し自らたのむことを禁じ、御身をして常に不滿危惧を抱いて去らしめるのに、一方頑固と無謀とがその主人たちに愉悦と確信とを滿喫せしめるということは不幸である。常に戰鬪より光榮と歡喜とに滿ちて歸還し、人々に輕侮の眼をなげかけるのは、最も無能な者にきまつている。
わたしはこの程、タキツスの歴史を一氣に通讀した。……。
こういう風な歴史は特に有益である。公の事件(ことがら)はむしろ運命の指導に従うのであるが、私の事件(ことがら)の方は我々自らの指導に従うのだ。タキツスの歴史は歴史の敍述ではなくむしろその批判で、そこには物語よりも教訓の方が多い。それは讀むべき書物ではなく、研め且つ學ぶべき書物である。それは格言に充滿していて、そこには正しいのもあればまちがつたのもあるが、とにかくこの本は、世を指導する地位に立つべき人々のための養いとも飾りともなる道徳論政治論の苗床である。
リバタリアニズム(libertarianism)とは、他者の權利を侵害しない限り、個人が自由に振る舞ふことを最大限認めるべきだとする政治思想です。
リバタリアニズムでは權利の對象を個人の生命・身體・財産に狹く限定し、その代はり、これらの權利への侵害は、よほど正當な理由がない限り、許さないといふ態度をとります。
よほど正當な理由がない限りが曲者で、「正當か不當か」の判斷基準は絶對に示されない。いざとなれば「權利を侵害するのはダメ、絶對!」と言つて判斷の中止に逃込むから、この手の權利を言ふ人々は信用できない。木村さんを批判して、爺さんが「反證」を擧げればよろしいとコメント欄に書いてゐたが、リバタリアニズムはそもそも反證が擧げられない「イズム」である事に注意が必要。
個人の生命・身體・財産に、本當に限定できるかと言へば、そんなのは無理だ。特に、政治に於ては。
.htmlの拡張子にする事で単なるテキストをブラウザで見れるように変換したのです。とか
.htmlの拡張子にしたので、メモ帳でもブラウザでも見る事が可能になりました。とか非道いと思ふ。
環境依存文字・特殊文字の指摘は、「ガイド」の記述に
メモ帳の文字コードは、「ANSI」「Unicode」「Unicode big endian」「UTF-8」から選択保存しますが、今回はShift_JIS(CP932)で記述する旨、「ANSI」を選択します。とあるので、
Shift_JIS(CP932)なるものの範圍内で適切に記述してゐなければ駄目、と言つておけばよろしい。
環境依存文字とか云つた用語が不正確であるのは言ふまでもない事で、「ガイド」が何の反省もなく當り前の用語のやうに使つてゐるのは不適切極まる。そもそも、ちやんと文字符號化の話をすべきで、JISの文字セットとかWindowsやMacの實裝とかユニコードとか、その邊のぐだぐだな状況を説明して、注意を促す方が親切だ。「わかりやすくする爲」と言つて説明を端折るのは、後々トラブルを生ずる原因になる。と言ふか、端折るにも端折り方があるので、必要な情報を端折りに端折つて何か一つの事を一般論みたいに言つて斷定してしまふのは問題がある。後述。
文字化けについての「ガイド」の説明。
ブラウザが日本語の文字コードを認識出来ず、間違った文字コードで表示してしまった為におこる現象と言つてゐるが、不正確な表現。meta要素に書かれた文字符號化方式と實際の文書の文字符號化方式とが食違つてゐれば當然化ける。また、そもそもmeta要素等に文字符號化方式が書かれてゐない場合、ウェブブラウザが判定をやるが、これが結構ミスる。
諸君がゴハリゴハリとした新聞紙型大の大型のペーヂを捲つて行かれる頃、つまり例へば詩書とか法典とか聖典とかの寫本の飴色に變色した紙葉を捲つて行かれる頃、まづ最初に頭に浮んで來るものは何であらうか。それは、その種の典籍が決して只それだけのものとして獨立して存在してゐるのではないと云ふことである。それらの典籍は、地中から發掘した貝殻の化石と同樣に一つの型に過ぎず、嘗つて生存と消滅を遂げた動物が石の中に殘した形と同樣に一つの痕跡に過ぎない。貝殻の裏には動物が居たのであり、記録の裏には人間が居たのである。動物を想像するためにでないとしたら、どうして諸君は貝殻を研究されるであらうか。同樣に、人間を認識するためにこそ、諸君は記録を研究されるのである。貝殻や記録は死んだ骸であつて、生きて完い存在への手掛りとしてのみ價値がある。我々はこの存在を把握し、それを、も一度組み立て上げるべく努力しなければならない。記録を研究するのに、それが他から獨立したものでゞもあるかのやうに扱ふのは誤つてゐる。さうするのは單なる物知りとして諸事物を取扱ふことであり、机上の空中樓閣がその最後の落ちである。究竟の所、神話があるのでも、言語があるのでもなくて只、自らの五臓六腑の欲求及び精神の生れ付きの性癖に從つて言葉や活象(イマージュ)を排列する人間があるだけである。學説自身は何でもない。諸君は學説を爲した人逹を、例へば十七世紀の人の或る姿を、或る大司教又は或る英人殉教者の四角張つた精力的な顏を見給へ。個人としてゞなければ何物も存在しない。我々が認識しなければならないのは個人自身である。學説の血筋、詩の分類、憲法の進歩、方言の變形等を明かにしたとしても、それだけでは未だ我々は地上を掃き清めたに過ぎない。生き、動き、色々の情欲を授り、七癖を背負ひ込み、聲音と人相を持ち、姿態(シナ)と着物を持ち、今の今街で別れて來た友人のやうに特異で而も完全な人間を、時間の隔たりを越えて、歴史家が發見し始めた時にのみ、眞の歴史が打ち建てられるのである。だとして見れば、自らの目で人間を觀察するのに邪魔になる時間的障壁を、出來得る限り、心眼によつて除去すべく努力しなければならないではないか。……。
経済の話はわかりにくい。わかったら誰も苦労しないのだろうけど、いつも胡散臭さは拭えない。
経済や財務・金融は金額などの数値の変化で表されるために、一見、科学に近いように思われるが、実際には文学と同様に自然科学からは遠いと僕は思う。
私はAT限定から抜け出したいのだけれども何せ面倒で、そろそろ自動車の免許を取って10年になろうとしている。
2チャンネルなんて書いてゐるのを見て、微妙な氣分になつた。正しくは平假名。
人間の目は四角ではない。しかし画面は四角だ。どうにか○に出来ないか?しかし、現製作方法であれば到底不可能だ。そこでドットが四角であるという概念を取っ払ってしまおう。そうだ、円と考えるのだ。そうすれば、円の周りにいくつの円が置けるか?6つだ。円の外には最大6つの円が置ける。と考えると蜂の巣構造にすれば良いのではないか?蜂の巣状に並べて新しいディスプレイの形を作ることを提案したい。
円じゃないじょん。全くその通りである。
頭が硬直化しているなんて言はれるけれども。