実存は最も危険な生き方であらざるをえない。人間の自由の冒険だからである。パスカルでもサルトルでも、この一番大事なところでの決断について、さらりと「それは賭けなのだ」といって憚らない。同じことでも、ドイツ人では、そういう言い方は決してあらわれない。ひどく厳粛に、何とか工夫して論理的表現を見いだそうと腐心する。賭けに近い言い方は、せいぜい「遊び」で、ニーチェやハイデガーなどが口にする。しかし、遊びも哲学者の口から言われると、遊びの軽やかさが消え失せて、軽い軽いといえばいうほど、いよいよ重い感じのものになる。ユーモアが大切だと強調すればするほどユーモアから遠ざかるのと同じである。キルケゴールは、まじめ人間の典型のように思われているが、「まじめにふざける」ことを考慮に入れたり、ユーモアを地でいったり、時には賭けとか前兆とかをかりそめならぬものとして意識する。
或る劇場で、舞台の袖に火がつくという出来事があった。ピエロが出てきて、観客にそれを知らせようとした。ひとはそれを頓智だと思いこんで、拍手喝采した。ピエロはそれを繰り返した。ひとはますます歓呼した。これと同じように、私は思うのだが、事を頓智だと思いこんでいる機知的な頭脳の持主たちがみんなで歓呼しているあいだに、世界は滅んでいくだろう。
正直他人事とは思えないのだけれども、一方で、動機の點ではちよつと理解出來ない。なぜなら、怨みに思つてゐる對象は當然特定の存在である筈で、ところが「無差別」に殺すならば對象は不特定多數であるのだから、兩者は一致しない。恨みをはらすのに、何うして恨んでゐない相手を殺さなければならないのか。容疑者は後で新聞報道を見て「大變な事をしてしまつた」と述べたらしいから、「想像力不足」と云ふ事もあり得るけれども、しかし實は、日本人は「・自分・身内」の領分と「赤の他人」の領分とを、きちんと區別して考へる事が出來ず、時として安易に取違へる事がある。と言ふより、極めて良く取違へる。
なんだか「歴史的假名遣ひ」って口語を綴るには少々無理が有るのでは?と思へて来ました。
まあ、どう思われても構わないけどね。→「まあ、どう思はれても構はないけどね。」
いざ入力しやうと思ふとは、「いざ入力しようと思ふと」が正しいです。形式名詞「樣(やう)」でなく、「ない」と交換可能な場合は「よう」。
探そうは「探さう」。「用言の未然形」+「う」「よう」。
使つていると「い」を使つてゐる場所が一箇所。
また新たな入力方法を覚えなければ使へないようでは敷居が高すぎて、→「また新たな入力方法を覚えなければ使へないやうでは敷居が高すぎて、」。こちらは「う」「よう」の「よう」ではなく「樣」で、「やう」。
変わり者→「変はり者」。
言ひ換えれば→「言ひ換へれば」。換替變代と云つた「かわる」系の語はは行四段の「かはる」です。
まあ、良さそうな考え方があればさつと入れ替えちやいますけど。→「まあ、良ささうな考へ方があればさつと入れ替へちやひますけど。」。
言い回し→「言ひ回し」
当時の人達はわざわざ不自然な綴り方をしていたわけではないのでせう?→「当時の人達はわざわざ不自然な綴り方をしてゐたわけではないのでせう?」
戦国時代は怖いので、平安時代にタイムスリップしてどんな「おしやべり」をしてゐたのか聞いてみたゐですね。→「戦国時代は怖いので、平安時代にタイムスリップしてどんな「おしやべり」をしてゐたのか聞いてみたいですね。」。「みたからう」「みたかつた」「みたく」「みたい」「みたい」「みたければ」。
使う→「使ふ」
いつもShiftキー押してしまいますけど(^^;)。→「いつもShiftキー押してしまひますけど(^^;)。」
野嵜さんがSKK批判をするのは何でなんだろうなぁ。
戦前の日本国民は大量死には不慣れであったと指摘してゐる。敢て言ふが、兵藤氏の指摘は不正確で、戰前に限る必要はない。日本人は現在においても近代戰の凄慘さには
不慣れであり、死者の數に萬の單位が出て來ると途端に腰が引けてヒステリーを起してしまふ。
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『死ぬほど』というのは大げさな表現ではありません。 10 万個ほどのファイルが格納された 1GB 程度の書庫を扱った結果,監視ソフトによっては API の実行ごとに『書庫全体をウィルスチェックする』こととなり,書庫を一通り読んで情報を得ようとしただけで丸 2 日かかった…などという笑い話 (笑えないが ^^;) が実際に多数報告された過去があります。ちなみに,監視ソフトを止めたらどうなったかというと,30 秒程度で終わっていたりします。 >その報告
「鷹」を落とすぐらいなら、「鳩」を落とせばいい。は意味不明だが、
そもそも私には「常用漢字」をつくって、漢字を制限する理由がよく分からない。
しかし、政府が、わざわざ「常用漢字」を決めて、使える漢字を制限するような発想は、間違っている。は賛成。
UNLHA32.DLL, UNARJ32.DLL, LHMelt の開発を中止することに決めました、との事。多くの人が「LHAおわた」と言つて話題にしてゐるけれども、ARJのDLLも開發中止なのださうだ。
鳩山さんの会見を聞いていて、この人は本当は「日本も軍を持って、自国のことは自分で守れる状態にすべき」と言いたいんだな、でもそれをはっきりと言ってしまうと党が次の選挙で票を失うから言えないんだな、と強く感じた。
「世界の警察官」と自分自身を勝手に任命して、大きな顔をしているだのと揶揄して遊んでゐられる。
推理を裏書きしてくれる権威筋の人はたぶん日米中通じてひとりもいないはずで、内田は適當な話を尤もらしく語つて、話の眞贋を問はれる事もなく、と言ふか好い加減な内容の話に突込まれる事もなく、248人のはてなーからブックマークされるだけで、好い氣になつてゐられる。
旧仮名遣いの人と利用規約読むのが趣味の人には関わらない方が良いですよ
日本人なら必ず一家言ある言葉問題
ら抜き言葉、或は
い抜き言葉を、理由を述べて積極的に主張してゐる。
「ら抜き言葉撲滅運動」の不思議なところは攻撃対象をほぼ「見れる」のみに 絞っている点です。
「ら抜き」が問題となるのは、一段活用、か行変格活用のもの なのですが、これを説明することなく、「見れる」のみ問題としています。
「見れる」を攻撃する一方で自らは「食べれる」などと言うなど、 「ら抜き攻撃」をしている本人がそもそも理解できていないのではと疑わざるを得ない こともあります。
「ら抜き排除運動」の大きな問題として 、ら抜きを恐れるあまり、 らの入らない「走れる」を「走られる」などという人が出てきます。
攻撃対象は本当に「見れる」だけか。
攻撃する人は、必ず「食べれる」と言つてゐるか。
「ら抜き言葉」は日本語の望ましい、すばらしい進化だと思います。
「見られる」では「受身」なのか「可能だ」が分かりませんが「見れる」 では「可能だ」と分かります。
これは日本語の有るべき姿であり、合理的で正しい道です。
合理的で正しい事であり、
日本語のあるべき姿である事の根據になる、と言ふのだけれども、それは「言葉はわかりやすい事が・判別し易い事が正しいのである」と云ふ價値觀を信じてゐる限り「正しい」に過ぎないからだ。
日本語がそのように進化しているのを、無理に押しとどめるのは、 愚か極まりない行為です。
<center>など視覚タグは非推奨のまま残しても誰も困らないはずです。 ブラウザが難しくなる訳ではない。逆に「文内容タグと視覚タグをもっと完全に 分けるべきであり、内容タグにstyle属性を与えるなどとんでもない」 という方向の原理主義が出てきてもおかしくない(出てきて欲しくはありませんけど)。
<center>などの視覚タグを排除することによって誰に何の利益があるのか考えて 欲しいのです。 ’後から追加された原理’に基づく原理主義の自己満足にすぎない なら、現実を優先すべきです。簡潔な表記という元々の主義を排除するには十分な メリットを明確に示さなければなりません。
現実を優先すべきだ。と言ふか、自然言語の場合には、
元々の主義も糞もない、全て元々の形態を守るべきなのであり、
’後から追加された原理’に基く原理主義は全て排除されなければならない。「ら拔き言葉」の主張も「い拔き言葉」の主張も、全て原理主義であり――歴史的假名遣に對する「現代仮名遣い」の主張も原理主義であつて、絶對に認める事は出來ない。「現代仮名遣」に「メリット」なり「合理性」なりが假に「ある」としても、それは歴史的な表記を否定し、現代人の都合と云ふ自己中心的な觀點から主張された原理主義的な主張によつて歪曲された表記の規則だから、認められない。しかも、實際には、「現代仮名遣い」に合理性はなく、本來の日本語の形態に基く歴史的假名遣にこそ合理性はある。日本人なら――と言つて惡ければ、言葉の合理性を重んずるなら、「現代仮名遣い」なんかは否定すべきだと思ふ。
「ら抜き言葉排斥運動家」の皆さん、ら抜きなどよりこの 「お手軽ラレル尊敬語」を排斥しましょう!
学校ではこう教えましょう。
- 可能表現では「ら」を抜きましょう。
- 尊敬語としての「られる」は使ってはいけません。
- 「られる」は受身でのみ使います。
NHK始め、明確さの要求される放送機関もぜひこの方針で。
お手軽ラレル尊敬語をやめよう、と云ふのは、解るんだよ。けれども、「言はれた」ではなく「仰つた」をちやんと使はう、と言へば、それで話は濟む。わざわざ「可能」「尊敬」で「使ひ分けろ」なんて言ふ必要はない。
形容詞に"です"が付けられない、と云ふ感覺。私にはこれ、全然抵抗がないです。
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