マニュアル見てみたら確かにさうありました。との事。何うも有難うございます。
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ところで、ここで問題をもとにかえします。このような時代区分をわれわれはいままで使ってきているのでありますが、それにもかかわらず、この時代区分に関しては、つねにいろいろな面から疑問が表明されてきております。最もふつうな疑問は、最初に申しましたように、元来切れ目のない時間の流れの中に、勝手に切れ目を入れるのは、歴史を無理やりに一つの枠の中に押し込めて、しまうものだということでしょう。
どんな発展段階の規定でも、ある時点をとって歴史を明瞭に前後に区切ることは極めて例外的にしか行われえないことであります。時代区分をどんなに精密にしましても、それに矛盾する事実はつねに残るのは事柄の性質からやむをえないことでありますから、そこに時代区分に対する一種の不信、ないしは便宜主義的な考え方が生まれてくるのであります。(略)
そんなところからいたしまして、時代区分は全く便宜的なもの、つまり歴史を叙述するための単なる手段で、何等本質的重要性をもたないものだという考え方が生じてくるのであります。それは実際に専門の研究に従事している歴史家によって言われることが多いのであります。
ところが、実はここに大きな誤りがひそんでいるのであります。と申しますのは、いったいわれわれが時代区分をする場合、実在する、過去の総体としての歴史の中に一つの切れ目をつけようとしているのかということであります。この点については以前にもある程度言及したのでありますが、われわれの言う歴史とは存在する歴史そのままのものではない。いわば、客観としての歴史に対して、われわれの歴史は主観的な契機によってまとめられた客観的歴史の一断片なのであります。従って、この歴史の中にだけ時代区分があるのであり、存在としての歴史の中に切れ目があると考えているのではないのであります。これがまず第一に指摘しておかなければならない点であります。
しかし、われわれの時代区分が事実このようなものでありましても、それが客観的な歴史によって支えられていないのでありましたならば、架空の設定、架空の時代区分であるにすぎないのであります。そこで、わたくしどもは、われわれの歴史の中の区分であると言いましても、どこまでもそれが客観的であることを求めていかなければならないのでありまして、ここに一つの難しい問題が起こってくるわけであります。しかし、わたしがここで特に強調しておかなければならないのは、われわれの時代区分なるものが、歴史に対するわれわれの解釈を言い表わすものであるという点であります。われわれが近世という言葉を用いますときは、これは近世という一つの概念の中にふくまれる意味を中心に考えているのであって、実際に存在する歴史を近世という一つのものさしではかって、そこに一つの区切りをおくというのではなく、近世という一つの歴史的意味連関を歴史の事実の中にみいだしていこうというのが時代区分の本来の目的なのであり、歴史の統一的理解の操作なのであります。
つまりもし、歴史が、史実についてのわれわれの解釈と判断によって成立するといたしますならば、時代区分を行うことは、歴史研究そのものの本質的な操作になるのでありまして、これを便宜的なものと考えるのは、大きな間違いであるといわなければなりません。歴史の時代区分はどこまでも客観的に厳密でなければならないものであります。それはたしかに非常に困難な問題であり、究極的には不可能な問題であるということもできます。しかしながら、それが歴史に対するわれわれの解釈、判断を基準とするものである以上、それはどこまでも避けることのできない作業であると同時に、一つの歴史理解の仮説なのであり、従って、つねに事実を通してテストされ、より客観的なものにつくり上げてゆく必要のあるものであります。それによってわたくしどもの統一的歴史像もまたより正確になってくるのだということになるのであります。
結局、政治というものにはこれが決め手だと言えるような方策がないのだ。
あるのはただ暴力、二枚舌、たび重なる汚職事件ばかり。
王が、また貴族たちがわがもの顔をしているこのご時世、
強いものは強引に、弱いものは気まぐれに。
掟はただひとつ、権力を握ること、握ったら離さないこと、
気丈なものは他人の貪欲な欲望を自分のために操りおうせるが、
気弱なものはわれとわが欲望に身を滅ぼす。
神に仕えるしもべは、国王に仕えるしもべよりも、
さらに大きな罪と悲しみの危険にさらされているのだ。
なぜならば、より大いなる名分に仕えるものは、正しい行為をなしながら、
みずからをその名分の主としてしまいかねないからだ。そして政治家たちと争っているうちに、
その名分自体が政治的なものに引きさげられてしまう、政治家というものは、その行動よりも本質において、元来そうした代物なのだ。
おまえたちはわたしのことを向こう見ずとも、自暴自棄で気が狂ったとも思うだろう。
おまえたちの論法は、世間と同じで、結果によって
ある行為が善か悪かを決めようとする。
事実というものにおまえたちは頭が上がらない。ひとつひとつの人生に、ひとつひとつの行為に、
いちいち善か悪かの結果が明示されるというわけだ。
そして時がたつうちに多くの行為の結果はまじりあい、
とどのつまりは善と悪の区別もごちゃまぜになってしまう。
わたしの死は時間のなかで理解されはしないだろう。
わたしの決断は時間のそとでなされるのだ、
もしわたしが全存在をあげて曇りない同意を与えていることを
決断と称してよければだが。
人間の掟の上にある神の掟に
わたしはわが命をゆだねるのだ
閂をはずせ! はずすのだ!
わたしたちがこの世にいるのは、戦いや、策略や、抵抗によって勝ち誇るためではない。
人間として獣相手に戦うためではない。わたしたちは獣たちとはすでに戦ったのだ、
そして征服したのだ。いま、わたしたちに残されているのはただ、
苦しみを受けることによって征服することだけだ。この勝利のほうがやさしい。
いまこそ十字架の勝利のとき、いまこそ
戸をあけるのだ! わたしの命令だ。戸をあけよ!
- 雜感(死後の世界)(RFC 7key)の方だよ、俺が衝撃を受けたのは。どちらかといえばだけど。
- 「メメント・モリ」に決定的に意味を与えるのは死後の世界であって、それなくしては人々は単なる快楽主義に至るのみではないか。と。
- そんな風に思惟したことがあったから、死後の世界をきっぱり否定されててちょっと驚いた。
- 疾
- →速 特に、突然過ぎていくようなハヤイに用いることがある。[例]疾い矢 疾い弾丸 疾い風
- 早
- (1)「晩」の対。物事を、始めたり終わったりする時刻や時期が、前であるようす。[例]時期が早い 早く起きる (2)物事を、急いで行なうようす。[例]早馬 早口 早替わり 手っ取り早い 言うより早く
- 速
- 「遅」の対。一つのところからもう一つのところまで動くのに、掛かる時間が少ないようす。[例]流れが速い 投手の球が速い テンポが速い 足が速い
- 早
- 仮借。匙の形。匙の物をすくう部分の形で、柄の部分をつけると是の字となる。匙のものを掻き取る部分が早の形であるから、早と蚤とが通用するのであろう。古文の早を蚤としるす例があり、[孟子 離婁、下]に「蚤く起く」と蚤を用いる。早はさじの意味に用いることはなく、その音を借りて「はやい、あさ、わかい」の意味に用いる。[用例]早起 朝早く起きること/早計 はやまった判断。早合点/早世、早逝 若死に/早晩 朝と夕。また、早かれおそかれ。いずれ/早急 非常に急ぐこと。至急/早速 急なこと。また、すぐに
- 速
- 形声。音符は束。束は雑木をたばねてくくる形。古い字形には欶を要素として含むものがあり、欶(すう)は束ねるときの激しい息遣いをいう。その急速な息遣いの意味をとって、「はやい、すみやか」の意味となる。束薪(たばねたしば)は神に捧げるものであったから、祭事に招くことを速くという。[用例]速決/速断 すぐに決めること/速効 すぐにききめがあらわれること/速度 はやさ/加速 速度が増すこと/快速 速いこと/時速 一時間に進む距離
可笑しいと感じる位相が違ふ二人は、それが同姓同士であつても異性同士であつても、なかなかうまくいかないものです。世の中には、うまくいかないことを解つてはゐても付き合はなければならない人もゐるでせうが、Suckyさんと私は無理をしてまで付き合ひ續けなければならない關系ではないと思ひます。こつそり讀んでくれるのは嬉しいのですが、その際なにを思はれても私は知る由もないのですが、面白可笑しいと感じなかつたことを明らかにされても愉快な氣持ちにはなりません。私は私の文章を、面白いと感じてくれる人に讀んでほしいのです。webに公開してゐる文章なので、必ずしもさうはならないといふことは知つてゐるのですが、わざわざ日記が面白可笑しくないと指摘を受ける經驗は、正直少い。自分がさうだからといふわけではないのですが、不愉快に感じるひとも多いのではないかと思ひますよ。できることであれば、これつきりにしてもらひたいものです。
正しい、正しい、正しいなんて、口でいふだけなら誰でもできることであつて。正しかつたか否かは、行つた結果に對して自身以外の誰かが下す判斷である。結果も殘すことができない人間が、「正しい」ことについて言及してゐる姿は滑稽以外の何ものでもない。なるほど、哲學とは便利な學問だ。
何か根本的に勘違ひしてゐるとか本氣で言へるんだらう)、自分の文章の正しさを頻りに主張してゐるのを見て、成程、人の行動はその人の主張を裏切るものなのだなあと納得した。
何か根本的に勘違ひしてゐると思ふのだが、私は「聲もかけずに、尻を摺り寄せて電車に乘らうとする習慣」について話をしてゐるのであつて、乘つた後のことを話をしてゐるのではない。もう車内は滿員なのに、尻で人を押し分けてまで乘らうとするな、と言つてゐるのだが、それを理解の上での感想なのだらうか。少し言ひわけをすると、私は滿員電車が嫌ひなため、十分くらゐは何本か電車をやり過ごしてでも、少しでも空いてゐる電車を待つよ。まあしかし、話をおもしろおかしくしようと仔細を後囘しに書いたのが拙かつたのかと、多少反省の餘地がないでもない。が、どうせ惱むのであれば、先ずは自身の讀解力のなさに惱んでみては如何か、見知らぬ他人にトラックバックを送信する前は特に。
讀解力のなさを強調して責任逃れしようとしてゐるが、素直に自分の文章力のなさを認めたら何うか。何でひたすら自分の正しさを主張して、他人の誤を嘲笑するんだ。「正しいものは正しい」と言ひたいのなら、正しさを言ふ人間を嘲笑するのはをかしいだらう。これだから聖人君子づらする奴は皆ろくでもないんだ。
聲もかけずにが重要だと言ふのなら、
尻、
尻、と書いたのは何なのだらう。女性は、尻を男にすりよせるのを目的としてゐない――電車に乘る事が目的だ。七鍵氏は話を歪曲してゐるのであり、その點で七鍵氏には辯護の餘地がない。話を面白をかしく書く必要はない。私なら、「満員電車で、後から乘つて來るのに、すみませんの一言もなしに、無理に力押しで乘つて來る人がゐる。ちよつと何うかと思ふ」のやうに書く。これなら絶對に誤讀の餘地はない。
自身以外の誰かが下す判斷である。誤讀されておきながら、正しい解釋を滔々と述べる七鍵氏の
姿は滑稽以外の何ものでもない。
なるほど、哲學とは便利な學問だ。
東京とはおそろしい地域で、電車に乘つてゐると、女性のかたが、男である私に對して、平氣で尻をすりよせてくる地域である。私の意志や主張や人格は、この場合なにも效力を果さない。女性は自身の意思で、自ら率先して、自らの尻を私にすりよせてくるのである。
なぜ。望みもしない尻を觸らなければならないのか、私の身にもなつてくれ。
正教が、とくに「正」教といっているのは、単に正しい教え、という意ではなく、「正教徒は神を正しく信じ讚揚する」という意味である。英語で言えば"the Orthodox (Eastern) Church"であるがこのオーソドックスという言葉は、ギリシア語のオルソス(正しく)と、ドクサ(神に栄光を帰す)の二つの単語から成ったことばである。
オーソドックスといえば、一般的には、単に正統的な、伝統的な、という意味につかっているけれども、もともとは、前述の様な意味で、heterodox(ヘテロドックス)「異端的な、非正統的な」との対語になる。
この、正しく信ずる、という「正しい(オーソドックス)」という定義は、解釈がたいへんむつかしいが、要するに、キリストの教え、使徒の教え、また、七つの公会議で定められた条項を忠実に守ることを指し、それらに対して、人為による勝手な解釈や行為は許されない、ということである。
正教の教えの根本には、まず聖書に記された天啓としての神の言葉、第二には使徒たちによって伝えられたことばの数々、 次に聖書に定められていないことの指針となる聖伝がある。(略)。
正教会では、カトリックや新教で「クリスチャン」というのと同じに、正教徒のことを「ハリスティアニン」とよんでいる。神の子を信じ、そのいましめを守る者を指し、正教会信徒は、神を正しく讚揚するもの、と定義されているのはこの冒頭に述べた通りである。
正教では、旧約・新約の両聖書が用いられているが、現在使われている訳は、ニコライ大主教の口述を補佐した漢学者・中井木菟麻呂の訳である。
(略)
朝日新聞の天声人語に、次のような文の載ったことがある。当用漢字の制限に触れた文章の一部であるが、
当座の内閣訓令は、漢字制限により『国民の生活能率をあげる。』といっている。漢字を少なくするほど能率が上がるとは必ずしもいえない点もあるだろう。それに、能率だけが生活ではない。言葉を機械的にやさしくするだけでは文章の香気を失い、人間の頭もやさしくなりやすいという一面もある。聖書マタイ伝をやさしく翻訳し直して、こういう本が出た。『あなたがたには、まだ悟っていませんね。すべて口から入るものは、みんな腹を通って厠へ落ちることを知らないのですか。』これでは、まるで幼稚園だ。やはり『なんぢらも今なほ悟なきか。凡て口に入るものは腹にゆき、遂に厠に棄てらるることを悟らぬか』の方が、味があるように思えるのだが――。
これは、近ごろ相次いで出た聖書の口語訳を例にとって、文章の香気のなさを、やんわりと皮肉ったものだが、たしかに、聖書の口語訳も結構だが、聖書の言葉のもつ美しい香気を忘れている場合が多い。
名訳と名の高い、中井木菟麻呂の訳は、文語訳の中でも最もむずかしいかもしれないが、漢学者としての素養を基盤としているだけに、聖書のもつ威厳と格調は見事に活かされている。後述の「奉神礼」その他に、その一部を引用してあるので読んでいただけると思うが、日本語に訳すときの木菟麻呂の苦心が、その一言一言の精緻な言いまわしににじみ出ているようで、心にしみるものがある。
相撲放送を観ていて気付いた。地デジの方が衛星放送よりもきれいなんだね。
さてこの祝詞は神に奏上するものであるが、何事を奏するかといふに、祈願と感謝との二つであることは明らかである。それもその祝詞の場合々々によつて、或は感謝が主となり或は祈願が主となり、或は二者同等に並び存し、或は殆ど一方のみであることもあり得る道理である。しかし、第一にあらはれた祈年祭の祝詞では、實際に於いてはその名の如く年穀の豐饒を祈願するのであるが、語として、祈願の形でなくて感謝の形になつてゐる。これは如何なる譯であるかといふに、恐らくは正しい事をしてゐれば必ず神が守護するものであるといふ思想が基になつてゐるのであらう。「正直の頭に神やどる」とか「祈らずとても神や守らん」といふことは古典には出てゐない語ではあるが、それが神道の本旨であり、それは太古から行はれた信條であつたであらう。即ち、神にある事を祈願するといふ事は信ずる度の低いものであり、或る意味では神を輕く見てゐるといふ事になる。それは人間相互の間にもある事で、信じ合つてゐる間に改まつた事をいふのは、その人を深く信じてゐなかつたといふことの一の證據にもなるのである。それゆゑに、眞實に神なり人なりを信ずるものには、祈願がなくて感謝だけでよい筈である。後世みだりに祈願をするのは、一種の墮落と云つてよいのである。神社が宗教と異なつてゐる點の著しいのは、この祈願なくして感謝のみであるといふことにも存するであらう。而して祈願なくして感謝のみであることは、人間では親子の間に最も著しいのである。わが神道に於いて神人の關係が親子の關係であるといふことは、この祝詞の最も純な形のものによつて示されてゐるともいふべきである。從つて神道は國民道徳の具體的儀式化したものともいひ得るのである。祝詞の本質はやがて、神道の本質であり、又國民道徳の本質でもあるといひ得らるるのである。
大野は当事者に取材を進めるうち、さらに驚くべき事実を知った。
なぜ教育漢字が八百八十一字になったかについて、当時の文学省国語科の担当者が語ったのは、次のような事実である。
国語審議会の建議では、八百八十字となっていた。ところが発表の日の朝、数え直してみると、一字多い八百八十一字だった。それで教育漢字は八百八十一字と決められた、といったのである。
昭和二十六(一九五一)年、人名用の漢字として九十二字が追加して発表された。大野は新聞に載った、追加された漢字の中に自分の名前の「晋」や「麿」の字があるのを見て、奇異な感じを受けた。どちらも、そうそうある名前ではないからである。
長く疑問に思っていたが、答がわかったのは昭和三十四(一九五九)年、毎日新聞の企画で国語審議会で主導的な立場にあったRomajikai会長、土岐善麿とカナモジカイ理事長、松坂忠則の三人で座談会をしたときである。
その席で松坂は人名漢字について、本当は百字追加するつもりで字を探したのだが、適当な字がない。それで九十二字になった、という話をした。大野がすかさず、
「だから、うるさい大野晋の『晋』の字とか、味方の土岐善麿の『麿』の字を入れておいたわけですね」
というと、松坂は上機嫌で「ご名答!」といった。
大野が三期六年、(国語審議会の)委員をしてみてわかったことといえば、国語審議会なるものは他の多くの審議会や諮問委員会と同じように、役人があやつっている一種の隠れ蓑にすぎないのではないか、ということだった。……。
「重要ではない部分」をどう考へてゐるのか、私はとても興味があります。
表記法とは「どう書くか」を示すために存在する。もちろん活用變化がうまく説明できる方がよいだらう。しかし「重要ではない箇所はどうでもよい」とはゆかない。まして「統制」云々は運用上の問題であって、表記法そのものの責任ではない。彼らは歴史的假名遣の全體像をまったく掴めてゐないのではないか。
それとも「定家假名遣と同樣に、歌物語だけ書ければ十分」と考へてゐるのだらうか。それなら漢字に隱れる部分など氣にしなくてよい。ただ、それでは近代的國民國家の共通基盤にはなり得ず、「現代かなづかい廢止」の説得力には著しく缺けるだらう。據って立つものが異るから、『かなづかい入門』への反論はできないだらうし、ひょっとすると何が書いてあるか讀み取れないのかもしれない。國民年金の納入記録が大問題になったが、氏名の讀み間違ひを原因とするものが少なくなかったらしい。これも「どうでもよい」範圍なのだらうか。
「重要ではない部分」をどう考へてゐるのか、私はとても興味があります。ネット檢索もずいぶんされてゐる樣子ですから、この記事も早晩氣づかれるでせう。私も數日に一度ぐらゐは覗いてみますので反論をどうか宜しく。
彼らの特色云々と言ひ、
この頃から運動としての國語問題がいっそう嫌ひになった。と人に惡罵を浴びせて快を貪るのだが、私にしてみればさう云ふ粘着的・アンチ的態度こそ嫌で嫌でならないものだ。何故Kirokuroや高崎氏は、自分は平氣で嫌らしい態度をとりながら、他人のする事を「嫌らしい」と言つて平氣で罵倒出來るのだらう。
それとも「定家假名遣と同樣に、歌物語だけ書ければ十分」と考へてゐるのだらうか。それなら漢字に隱れる部分など氣にしなくてよい。ただ、それでは近代的國民國家の共通基盤にはなり得ず、「現代かなづかい廢止」の説得力には著しく缺けるだらう。據って立つものが異るから、『かなづかい入門』への反論はできないだらうし、ひょっとすると何が書いてあるか讀み取れないのかもしれない。國民年金の納入記録が大問題になったが、氏名の讀み間違ひを原因とするものが少なくなかったらしい。これも「どうでもよい」範圍なのだらうか。
歌物語だけ書ければ十分とは、何なのだらう。この手の訣のわからないレッテル貼りは粘着の常套手段だが、「野Q」なるレッテル貼りに反論するのが不可能(と言ふより無意味)なのと同じで、
反論をどうか宜しく等と言はれても出來る訣がないのだが、ところが粘着はそこで「反論出來ないだろガハハ」と威張るのである。
私は「この言葉はどう書くか」とだいぶ具體例を出したが、反應はなかった。これでは話にならない。と言ふのが高崎氏で、要は高崎氏は「答を出せないものであつても『答を出せない』と率直に言ふ事が出來ない」=「兔に角何でも答を出す事が重要」と考へるトンデモさんなのである。私にしてみれば――と言ふより、學問的な立場からは、答が出ないものは出ないと言ふしかない。それが當り前の態度なのだから私はさう云ふ態度を取るのだが、高崎氏はそれが氣に入らない。高崎氏も私も、國語學の素人であるが、高崎氏はそもそも學問と云ふものそれ自體を知らない。私も大して知つてゐる訣ではないが、それでも「絶對にやつてはならない事」が學問の世界には「ある」と云ふ事くらゐはぼんやりと知つてゐる。
著者の論點は次のやうに整理できると思ふ。
- 歴假名の定義は「平安時代中期以前の文獻用例に從ふ」。
- これは優れて學術的。
- しかし學術上の正確さと、表記法としての合理性は必ずしも兩立しない。
- 『疑問假名遣』などに記された破綻例に鈍感なのは、權威にひれ伏してゐるからだ。
- 表記法としての合理性は、現假名の方が遙かに勝ってゐる。
なるほど論の立て方として隙はない。ただ、これは「歴史的假名遣の信奉者」の實態をあまりよく捉へてゐないと、私は思ふ。著者は「地動説以前(72ページ)」のやうにとてもよい着眼點なのだから、もう少しよく分析してほしかった。
運動としての國語問題を嫌らしいものにしてしまつた元兇の一人だと思はれてならない。だが、國語問題協議會の内部でも、長い間、嫌な状況は續いてゐたのである。結局のところ、正統のやり方でやるしかないと私は思つてゐるのだが、高崎氏にしてみれば、「例外」「重要でない事」の存在を楯にとつて、正統派を非難・攻撃して遊ぶ方が、樂しいのだらう。しかし、ならば、白石氏のやうな、或は何處ぞの元オウムのブロガー氏のやうな「歴史的かなづかい批判」も――いやいや、Kirokuroのやうな粘着行爲にしても、所詮は遊びでやつてゐる攻撃に過ぎないのである。妨碍で潰される眞の研究はないさうだが、遊びで潰される眞の運動もないだらう。言つてゐる事が正しければ、當座その運動が潰されても、正しさを認める人が何時かまた現はれて、正しさを主張する運動を始めるだけの事だ。悲觀する必要はないのである。逆に言へば、正しさそれ自體を據りどころにする人がこの世からゐなくなつた時、この世は最早生きるに値しなくなるのである。
傳記を書いて見ると、あらゆることを事實が説明して呉れる。批評はそのうちにある。想像の上でつくりあげた批評は、一つのそれに反對する事實によつて見事ひつくりかへされてしまふ。私はこの傳記を書いては見たが、もう一度もすこし詳しく事實をしらべてこれをやり直してみたい希望に驅られてゐる。
底の浅い、浅薄な弱みが現在の歐化した日本には存在する事を指摘してゐる。明治時代の先人は、日本が獨立を守る爲には近代化せざるを得ないと悟つて、西歐の文物を採入れるのに大變な努力を續け、それは確かに成功した。しかし、その後の歐化は、
日本人独自の体験の裏づけもなく、深い実感の裏づけもない、單なる西歐の模倣と化してしまつてゐる。我々はさうした問題が現在「ある」事を自覺し、改めて反省する必要があるが、その際には明治維新まで遡つて考へてみる事が必要であらう。
自民と民主の得票数自体は実はそんなに大差はないけど、死に票を出来るだけ多くする事を目的にして作られた小選挙区制によって議席数はえらい大差に。
まあ、理想は二大政党制になる事なんだろうけど、小選挙区制が続く限りは僅かな票の差で議席数に大きく差が出続ける訳で、しかも、法律を作るのは当選者な上に、どこが与党になろうと与党にしてみれば小選挙区制のほうが都合がいいゆえ、小選挙区制はずっと続くから、今後も一党独裁制が続くという事なんだろうね。
一党独裁制ではない。
一党独裁ならば、選擧をやらないか、やつても必ず特定の一つの政黨が勝つ仕組になつてゐる。
さて、甚だ勝手ではございますが、このたびカレーショップC&C神保町靖国通り店は、諸事情により8月26日(水)の営業をもちまして、閉店とさせていただきます。