制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。粘着アンチ問題。その他。

闇黒日記


平成二十一年九月三十日
新混沌日記
「だぶるえっくす」の件。マニュアル見てみたら確かにさうありました。との事。何うも有難うございます。
過去の新渾沌日記
……せつかく教へて貰つたのだけれども、しかし、Wikipediaを直しには行かない。Wikipediaの編緝なんか、やるものではないからだ。申し訣ない。
本當の事を書いても、何うせ「要出典」タグが貼られるか、粘着に「野嵜がまた何の根據も無い出たら目を書込んだw」と宣傳されるだけ。やつても空しい事はやらない。誰か責任を引受けてでも書きたい人がゐたら、書いて下さい。
平成二十一年九月三十日
【PC Watch】 続・意外に安い? ボリュームライセンスでWindows 7を導入する 〜SA特典に関する訂正とQ&A
なんか「使へない」印象が強まつた。

平成二十一年九月二十九日
DTC110は毎週月曜日の0時35分に必ず受信が止まる不具合がある。何なんだらう。
平成二十一年九月二十九日
近所に惡さをしてゐるアマチュア無線でもあるんだらうと推測。迷惑な話だ。
衛星放送に与える電波障害の原因と対策(1200MHz帯)
平成二十一年九月二十九日
まじかるストロベリィ最終卷讀了。後半は思ひ出したら買ふといつたやうな感じで餘り眞面目に讀んでゐなかつたけれども、虹裏でとしあきに教へられて初期の頃から讀んでゐた讀者としては完結と云ふのはやつぱり或種の感慨を禁じ得ない。結構きつちり伏線を囘收して、綺麗に纏めてゐるのは良かつた。多分アニメ化もされないで忘れ去られて行くだらうから興味のある人は今のうちに確保しておくといい。
ぐぐると罪のないねたばれの嵐なので、立讀みするなり一卷を買つて來るなりして相性が合ふか何うか確かめて、合ひさうだと思つたら一氣に全部大人買ひして脇目も振らず讀み通すといいと思ふ。
平成二十一年九月二十九日
使い慣れた日本語入力プログラムを再び... | 物書堂

この日本語入力プログラムは株式会社コーエーよりライセンスを受けた“egbridge Universal 2”がベースになっています。

平成二十一年九月二十九日
Wikipediaでは、エー・アイ・ソフトのかな漢字變換プログラム「WX シリーズ」の讀みを「だぶりゅえっくす しりーず」としてゐるが、「だぶるえっくす」だつた筈。WX-IIIなんかのマニュアルが出て來れば確認できる筈だが本とかアプリケーションの箱とかの山に埋もれて出てこない。
ぐぐつても情報なし。一件だけ一往。
MS-IMEについて

平成二十一年九月二十八日
Operaは、間違へてタブを閉ぢてもCtrl-zでアンドゥ出來る、と謳つてゐるが、タブを全部閉ぢてしまふとアンドゥ出來ない。
Windows版の場合、取敢ず一つタブを開いて何處でも良いからウェブサイトを表示させると、アンドゥが出來るやうになる。
理不盡な話だが、Windows版はまだしも増し。Mac版の場合だと、一度全部タブを閉ぢて、ウィンドウがなくなつてしまつたら、最う何うやつてもアンドゥ出來なくなる。Mac版だけ不便なのだ。Opera社は何を考へてゐるんだらう。
もつとも、Macの仕樣がをかしいと云ふ話もある。ウィンドウシステムなのにアプリケーションのウィンドウを全部閉ぢられるつて何なのだらう。メニューだけ殘してウィンドウがなくなつてしまふ。畫面の上にメニューが貼りついてゐるのだが、アプリケーションがバックグラウンドに行くと、最う何處にあるんだか全く判らなくなつてしまふ。ウィンドウの中にメニューがあるWindowsはその點、大變分かり易い。Macでは、ウィンドウを閉ぢただけで、アプリケーションを開きつぱなしにしてしまふ事がしよつちゆうある。OS Xになつてメモリ管理がまともになつたからいいが、OS 9時代にはメモリ不足でシステムがをかしくなる事がしよつちゆうだつた。と言ふか、私は注意してゐたが、不注意な人が身近にゐて、よくシステムををかしくしてはデータを飛ばしてゐるのを見る。畫面の利用效率とかいろいろ理窟は言はれてゐるのだけれども、マルチタスク以前に畫面が設計されたと云ふ事は、MacOSに重大な問題を殘す事になつたと言へる。結果的に、Macは案外ユーザに優しくないシステムになつてしまつてゐる。

平成二十一年九月二十七日
堀米庸三『歴史をみる眼』(NHKブックス15)p.p.83-85

ところで、ここで問題をもとにかえします。このような時代区分をわれわれはいままで使ってきているのでありますが、それにもかかわらず、この時代区分に関しては、つねにいろいろな面から疑問が表明されてきております。最もふつうな疑問は、最初に申しましたように、元来切れ目のない時間の流れの中に、勝手に切れ目を入れるのは、歴史を無理やりに一つの枠の中に押し込めて、しまうものだということでしょう。

どんな発展段階の規定でも、ある時点をとって歴史を明瞭に前後に区切ることは極めて例外的にしか行われえないことであります。時代区分をどんなに精密にしましても、それに矛盾する事実はつねに残るのは事柄の性質からやむをえないことでありますから、そこに時代区分に対する一種の不信、ないしは便宜主義的な考え方が生まれてくるのであります。(略)

そんなところからいたしまして、時代区分は全く便宜的なもの、つまり歴史を叙述するための単なる手段で、何等本質的重要性をもたないものだという考え方が生じてくるのであります。それは実際に専門の研究に従事している歴史家によって言われることが多いのであります。

ところが、実はここに大きな誤りがひそんでいるのであります。と申しますのは、いったいわれわれが時代区分をする場合、実在する、過去の総体としての歴史の中に一つの切れ目をつけようとしているのかということであります。この点については以前にもある程度言及したのでありますが、われわれの言う歴史とは存在する歴史そのままのものではない。いわば、客観としての歴史に対して、われわれの歴史は主観的な契機によってまとめられた客観的歴史の一断片なのであります。従って、この歴史の中にだけ時代区分があるのであり、存在としての歴史の中に切れ目があると考えているのではないのであります。これがまず第一に指摘しておかなければならない点であります。

しかし、われわれの時代区分が事実このようなものでありましても、それが客観的な歴史によって支えられていないのでありましたならば、架空の設定、架空の時代区分であるにすぎないのであります。そこで、わたくしどもは、われわれの歴史の中の区分であると言いましても、どこまでもそれが客観的であることを求めていかなければならないのでありまして、ここに一つの難しい問題が起こってくるわけであります。しかし、わたしがここで特に強調しておかなければならないのは、われわれの時代区分なるものが、歴史に対するわれわれの解釈を言い表わすものであるという点であります。われわれが近世という言葉を用いますときは、これは近世という一つの概念の中にふくまれる意味を中心に考えているのであって、実際に存在する歴史を近世という一つのものさしではかって、そこに一つの区切りをおくというのではなく、近世という一つの歴史的意味連関を歴史の事実の中にみいだしていこうというのが時代区分の本来の目的なのであり、歴史の統一的理解の操作なのであります。

つまりもし、歴史が、史実についてのわれわれの解釈と判断によって成立するといたしますならば、時代区分を行うことは、歴史研究そのものの本質的な操作になるのでありまして、これを便宜的なものと考えるのは、大きな間違いであるといわなければなりません。歴史の時代区分はどこまでも客観的に厳密でなければならないものであります。それはたしかに非常に困難な問題であり、究極的には不可能な問題であるということもできます。しかしながら、それが歴史に対するわれわれの解釈、判断を基準とするものである以上、それはどこまでも避けることのできない作業であると同時に、一つの歴史理解の仮説なのであり、従って、つねに事実を通してテストされ、より客観的なものにつくり上げてゆく必要のあるものであります。それによってわたくしどもの統一的歴史像もまたより正確になってくるのだということになるのであります。


平成二十一年九月二十六日
おもちくん職場でびゅー。
裏紙使用時
白紙使用時
プリンタの紙が裏紙の時と白紙の時とがあるので、それを示す看板を作成。

平成二十一年九月二十四日
ミーシャいかめしリングと出會ふ
ミーシャ、いかめしリングが不可思議でならない
スコっち、ミーシャといかめしリングの間に割込む
スコっち、何してるんだ……

平成二十一年九月二十三日
http://www.geocities.jp/janggijp/2009-09.html#D22-2
平成二十一年九月二十三日
古本とはおそろしいもので、神保町を毎日うろついてゐると、古本屋のかたが、客である私に對して、平氣でただで呉れるのである。私の意志や主張や人格は、この場合なにも效力を果さない。古本屋は自身の意思で、自ら率先して、自らの商品を私にわけてくれるのである。さすがに選り好みはしないが――男にしても女にしてみても、さつぱり本を讀まないと云ふ現状は何とかならないのだらうか。名著にしても駄本にしても、何うせ讀みもしない客にただで押附けられてまで本棚に收まりたいのだらうか。むしろ、賣れないからと言つて、店頭から處分されてしまふ習慣は何とかしなければならない。なぜ、讀みもしない本を整理しなければならないのか、私の身にもなつてくれ。
――訣の解らないパロディを作つて遊んでみる。棚からあふれて床から積み上がつてゐる本の山を整理して、通路を確保する努力をしてみた。状況は大して良くなつてゐない。しかし、夜中に默々と本の整理をするのは、樂しいね。
平成二十一年九月二十三日
敢て高橋康也譯で、T.S.エリオット『寺院の殺人』より。

結局、政治というものにはこれが決め手だと言えるような方策がないのだ。
あるのはただ暴力、二枚舌、たび重なる汚職事件ばかり。
王が、また貴族たちがわがもの顔をしているこのご時世、
強いものは強引に、弱いものは気まぐれに。
掟はただひとつ、権力を握ること、握ったら離さないこと、
気丈なものは他人の貪欲な欲望を自分のために操りおうせるが、
気弱なものはわれとわが欲望に身を滅ぼす。

神に仕えるしもべは、国王に仕えるしもべよりも、
さらに大きな罪と悲しみの危険にさらされているのだ。
なぜならば、より大いなる名分に仕えるものは、正しい行為をなしながら、
みずからをその名分の主としてしまいかねないからだ。そして政治家たちと争っているうちに、
その名分自体が政治的なものに引きさげられてしまう、政治家というものは、その行動よりも本質において、元来そうした代物なのだ。

おまえたちはわたしのことを向こう見ずとも、自暴自棄で気が狂ったとも思うだろう。
おまえたちの論法は、世間と同じで、結果によって
ある行為が善か悪かを決めようとする。
事実というものにおまえたちは頭が上がらない。ひとつひとつの人生に、ひとつひとつの行為に、
いちいち善か悪かの結果が明示されるというわけだ。
そして時がたつうちに多くの行為の結果はまじりあい、
とどのつまりは善と悪の区別もごちゃまぜになってしまう。
わたしの死は時間のなかで理解されはしないだろう。
わたしの決断は時間のそとでなされるのだ、
もしわたしが全存在をあげて曇りない同意を与えていることを
決断と称してよければだが。
人間の掟の上にある神の掟に
わたしはわが命をゆだねるのだ
閂をはずせ! はずすのだ!
わたしたちがこの世にいるのは、戦いや、策略や、抵抗によって勝ち誇るためではない。
人間として獣相手に戦うためではない。わたしたちは獣たちとはすでに戦ったのだ、
そして征服したのだ。いま、わたしたちに残されているのはただ、
苦しみを受けることによって征服することだけだ。この勝利のほうがやさしい。
いまこそ十字架の勝利のとき、いまこそ
戸をあけるのだ! わたしの命令だ。戸をあけよ!

T・S・エリオット(高橋康也譯)『寺院の殺人』二〇〇一年四月十日初版・編集 株式会社白水社・発行《リキエスタ》の会・発売 株式会社トランスアート市谷分室
平成二十一年九月二十三日
五目壽司くんとミーシャ
平成二十一年九月二十三日
このところずつと御相撲、觀てゐないな……。
クリーチャーの御相撲
ちなみに白い方はおもちくん。日本男兒。

平成二十一年九月二十二日
「規範は主觀的なものだ」と主張する爺が「野嵜の意圖」を主觀的に極附けてゐるのも、なるほどその論理の中では「一貫してゐる」。さうした一貫性がナンセンスだからこそ、「反證可能性」と云ふ事が言はれるやうになつた訣だ。
平成二十一年九月二十二日
雜感(死後の世界)へのご意見・ご感想
  1. 雜感(死後の世界)(RFC 7key)の方だよ、俺が衝撃を受けたのは。どちらかといえばだけど。
  2. 「メメント・モリ」に決定的に意味を与えるのは死後の世界であって、それなくしては人々は単なる快楽主義に至るのみではないか。と。
  3. そんな風に思惟したことがあったから、死後の世界をきっぱり否定されててちょっと驚いた。
平成二十一年九月二十二日
ところで私がさつぱり説得力のない事ばかりを言つてゐるのにも理由があるのであつて――「人間は死ぬ」と云ふ餘りにも確實な事實を根據にせず、「死後の世界」だか「あの世」だかが「あるかも知れない」と云ふ餘りにも不確實な考へ方・觀念を根據にしてゐるからだ。
しかも、私自身、「あの世」なんてものが「ある」とは信じてゐないのであり、その點では全くのニヒリズムの中にある訣だが、にもかかはらず私は絶對に「流される」のだけは拒否する。さう云ふ痩せ我慢主義なんてものが説得力を生む筈がないのだが、では説得力だけの爲に自分の生活を自堕落なものにし、他人にもそれを推奬するなんて――さう云ふ事をするのが「好ましい」と言へるだらうか。
死への恐怖とともに「あの世」の「豫感」もまた人間の存在に刻み込まれてゐるのであり、ならば死と共に「死の先」もまた實際に「ある」のでないか――だが、科學的な私に、「死の先」なんてものが「ある」とは斷定出來ないし、信ずるなんて事も出來ない。
ただ、宇宙なる存在は何時か「死ぬ」と云ふ事は大體明かになりつゝある。將來は、どんどん膨脹が進んで行つて、何もかもが崩潰し盡し、宇宙空間は極稀に素粒子が飛んで行くだけの、何もない空つぽの空間に成り果てるか、或時點で膨脹がストップし、今度はどんどん縮小して行つてビッグバン以前の火の玉状態に囘歸するか――何れにしても人間は何時か、その存在した痕跡全てを消し去られる。さうすると、現世を基盤とした發想は全てナンセンスであると言はざるを得なくなる。「現實を完成する」――完成した現實とやらは、確實に消滅する。これは「あの世」は無いなんて事以上に確實な事だ。
けれども、だからと言つて、刹那の快樂に溺れても、それは所詮逃避に過ぎぬと言はれたら誰も反論出來ない。
――となると、我々は一樣に「追詰められてゐる」のであつて、そこで我々が何らかの安心を得てゐるとしたら、それ自體が大變な勘違ひの中にある訣である。もちろんそれは幸福な勘違ひであり、我々は羨んでおいて間違ひはない。殘念ながら、勘違ひから「目覺めた」人間は、幸福の領域に入る事が出來ない。繰返すが、其れは不幸な事である。「信ずる者は濟はれる」――その通りだ。「信者」の類を安易に嗤ふシニシズムの人が、却つて自分の絶望に氣附いてゐないのは、悲しむべき――憐れむべき――事なのだ。もつとも、キルケゴールが絶望について書いてゐるのを、日本人の私は餘所毎としてそれ程眞劍に思はないで讀み終つたものだ。程度の差はあれ、日本人は誰もが鈍感なのであり、相對的な違ひしかない中で互ひに「繊細過ぎる」だの「鈍感」だのと罵り合つて暇を潰してゐるだけに過ぎない。
平成二十一年九月二十二日
BSアンテナで受信してゐる機械でBS-FUJIの青い花の録畫にまた失敗した。これで三度目だ。必ずAパートが始つて三分くらゐの所で受信が止まる。アンテナの電源が落ちるか何かするらしい。月曜深夜の0時30分を少しまはつた邊で必ず切れる。それ以外の時間帶では大丈夫。狙ひすましたかのやうに、この日の、この時間にだけ、切れる。何なんだらう。
DTC110からアンテナの電源を取つてゐるから、これの不具合だらう。ソフトウェア制御してゐるらしいから、ソフトウェアに不具合があるに違ひない。デジタル機器は、ソフトウェアで動くから、信用ならない。機械的に動くものの方がソフトウェア制御のものより信頼性が高い事は、誰もが知つてゐる。ソフトウェアで制御するやうにしてゐるのは、一時は明かに技術者の自己滿足の爲だつたが、現在はデジタル化と云ふお題目が出來て技術者は免責されるやうになつた。もちろん、デジタル化と關係のない、BSアンテナの電源供給なんて部分で、わざわざソフトウェア制御にするのが馬鹿なのだが、技術者は自分が馬鹿だと氣附かない人種だからしやうがない。
もともとBSアンテナの仕樣は異常で、なぜかアンテナ線經由でTV等のチューナから電源を供給しなければならないやうになつてゐる。TV一臺につきアンテナ一本を使ふのなら話は簡單だが、ヴィデオデッキ・HDDレコーダを併用する、二部屋以上の場所で複數のTVを觀る、といつた環境の時に、一臺のチューナからアンテナに常時電源を供給するやう設定するには、設置する側が工夫しなければならない。この仕樣を考へた技術者は「俺とてもいい仕樣を考へた!」と誇りに思つてゐるのだらうが、複數の機器を使ふのが常識となつてゐる現在、この仕樣が無駄に設定をややこしくしてゐる。最初の設計が惡いと何うしやうもない。實際にシステムの運用が始つてから、仕樣と云ふものは不備を露呈するものだが、さうなつても一般に使はれ始めたシステムでは仕樣を變へる訣には行かない。BSアンテナの場合もさう。シンプルにコンセントから電源を取るやうにすればいいのだが、なぜかチューナから電源を供給する事に技術者が無意味に拘つたから、一般ユーザが迷惑する事になつた。
分配器・分岐器:マスプロ電工
価格.com - 『アンテナ電源が常時供給できない』 東芝 VARDIA RD-S600 のクチコミ掲示板
RD−X4でBSアンテナ電源設定が勝手にOFFになる問題の顛末
BSアンテナ用電源設定 -OKWave
BSアンテナの電源供給について - 質問・相談ならMSN相談箱
BSアンテナを2箇所で見るための2分配器・・・ 店長の日記2
オーディオ&ビジュアル板過去ログ
リンクは適當。ぐぐつて引掛つたそれつぽい記事をランダムに。
――探すと幾らでもこの問題のトラブル事例は出て來る。これでも技術者は「簡單にしてある」と本氣で主張する筈だ。理念で彼等は理解してゐるから、現實が理念を裏切つてゐても、現實を認めようとしない。
正直、PCのシステムの方が、デジタル放送のシステムよりも簡單だよ。今のデジタル放送は難し過ぎる。機器の相性だの何だのが未だに問題になるのはTV周りだけだ。PCは、機器の互換性の問題が最う大分前から可なり解消されて來てゐて、適當に組んでもさうさうトラブルを起す事はない。TVだと、録畫機やら何やらを組合せ、配線して、一度全部で見てみて、録畫を實行し、しばらく樣子を見ないと、全部の機器が巧い事動いて呉れてゐるか何うかは、判らない。ちよつと配線をいぢづたくらゐで途端に映らなくなる事もあるから怖い。
しかも、これだけ纖細なシステムである割に、放送は百%確實に受信出來なければならない。録畫は絶對に失敗してはならない――失敗したらリカバリ出來るやうに出來てゐないからだ。P2Pだの何だので補完する事は、今後は法律で明確に禁止されるし、今でも違法行爲に加擔する形になる。本放送一發できつちり録畫しなければ、合法的にライブラリを作る事は出來ない。ところが、今の録畫システムは、全く信用出來ない代物なのだ。PCの方が遙かに安定して動作する。今のTV放送は、不安定極まるもので、技術的な信頼性が大變低い。
平成二十一年九月二十二日
ちなみにBS-FUJIは、J:COM經由でも見られるので、青い花はそちらでも録畫豫約してある。そちらの録畫は成功してゐる。
BSは、受信の信頼性が低いので、バックアップの方法を幾つか用意しておかないと危ない。雨が降つたくらゐで受信できなくなるやうな纖細な放送なので、地上波の放送に取つて代る事はあり得ない。
平成二十一年九月二十二日
「早い」と「速い」 その 2: まじかんと雑記
武部良明『角川小辞典2 漢字の用法』(角川書店)によると、「はやい」における漢字の遣ひ分けは以下のやうな基準によるものとされます――
→速 特に、突然過ぎていくようなハヤイに用いることがある。[例]疾い矢 疾い弾丸 疾い風
(1)「晩」の対。物事を、始めたり終わったりする時刻や時期が、前であるようす。[例]時期が早い 早く起きる (2)物事を、急いで行なうようす。[例]早馬 早口 早替わり 手っ取り早い 言うより早く
「遅」の対。一つのところからもう一つのところまで動くのに、掛かる時間が少ないようす。[例]流れが速い 投手の球が速い テンポが速い 足が速い
白川静『常用字解』(平凡社)には以下のやうな説明があります。
仮借。匙の形。匙の物をすくう部分の形で、柄の部分をつけると是の字となる。匙のものを掻き取る部分が早の形であるから、早と蚤とが通用するのであろう。古文の早を蚤としるす例があり、[孟子 離婁、下]に「蚤く起く」と蚤を用いる。早はさじの意味に用いることはなく、その音を借りて「はやい、あさ、わかい」の意味に用いる。[用例]早起 朝早く起きること/早計 はやまった判断。早合点/早世、早逝 若死に/早晩 朝と夕。また、早かれおそかれ。いずれ/早急 非常に急ぐこと。至急/早速 急なこと。また、すぐに
形声。音符は束。束は雑木をたばねてくくる形。古い字形には欶を要素として含むものがあり、欶(すう)は束ねるときの激しい息遣いをいう。その急速な息遣いの意味をとって、「はやい、すみやか」の意味となる。束薪(たばねたしば)は神に捧げるものであったから、祭事に招くことを速くという。[用例]速決/速断 すぐに決めること/速効 すぐにききめがあらわれること/速度 はやさ/加速 速度が増すこと/快速 速いこと/時速 一時間に進む距離
白川氏の辭書にしてもさうですが、多くの辭書がこの邊の語義の違ひをはつきりと書いてはゐません。
ただ、理窟は理窟、字の遣ひ分けには昔からの決りがあります。實は辭書の説明もその決りを基に、用例を幾つも探して、そこから語義を抽出してゐるだけに過ぎません。そして言葉の使ひ方では、昔からの決り事が、單純な理窟よりも優先されます。と言ふより、決り事は正しいのであり、それを説明する爲に後附けで語義が示されるやうになつただけです。辭書の説明が不十分なら、語義の追究が不十分であるだけであり、「理窟がないんだらう」とか即斷するのは考へが淺薄です。

平成二十一年九月二十一日
あけび。中は甘いが種が多い。皮は燒いて食べた。香ばしく、ほろ苦い味がする。
平成二十一年九月二十一日
Suckyさんへの返事へのご意見・ご感想

可笑しいと感じる位相が違ふ二人は、それが同姓同士であつても異性同士であつても、なかなかうまくいかないものです。世の中には、うまくいかないことを解つてはゐても付き合はなければならない人もゐるでせうが、Suckyさんと私は無理をしてまで付き合ひ續けなければならない關系ではないと思ひます。こつそり讀んでくれるのは嬉しいのですが、その際なにを思はれても私は知る由もないのですが、面白可笑しいと感じなかつたことを明らかにされても愉快な氣持ちにはなりません。私は私の文章を、面白いと感じてくれる人に讀んでほしいのです。webに公開してゐる文章なので、必ずしもさうはならないといふことは知つてゐるのですが、わざわざ日記が面白可笑しくないと指摘を受ける經驗は、正直少い。自分がさうだからといふわけではないのですが、不愉快に感じるひとも多いのではないかと思ひますよ。できることであれば、これつきりにしてもらひたいものです。

七鍵氏も、うち邊を讀んで、正しいと言ふ人間に腹を立てて惡口を言ふのは、やめたら良からう。
結果論へのご意見・ご感想
ああ、七鍵氏は、ひとりごとを言つてゐるのか。私を非難したのではないのか。何の契機もナシに斯う云ふひとりごとを言へると云ふのは、相當幸せな腦の作りをしてゐるのだらう。
リンクを張らないでゐれば責任逃れは幾らでも出來る。「哲學」を「便利な學問」として使ふ人もゐれば、「哲學」を使はないで便利に物を言ふ人もゐる。
しかし、七鍵氏も、嫌なら東京を出て行けばいいだらうにと、ますます思つた。無理してなぜ七鍵氏は東京に居座り續け、不平を抱へながら満員電車に乘らなければならないのか。擧句、批判を浴びたからと言つて居丈高に相手に「嫌なら讀むな」と言放つ。批判されたくなければ、無難な事だけを言つてゐれば良からう。

正しい、正しい、正しいなんて、口でいふだけなら誰でもできることであつて。正しかつたか否かは、行つた結果に對して自身以外の誰かが下す判斷である。結果も殘すことができない人間が、「正しい」ことについて言及してゐる姿は滑稽以外の何ものでもない。なるほど、哲學とは便利な學問だ。

七鍵氏が「東京」うんたらかんたらの一聯の記事で(なんで「東京」と云ふタイトルを附けておきながら何か根本的に勘違ひしてゐるとか本氣で言へるんだらう)、自分の文章の正しさを頻りに主張してゐるのを見て、成程、人の行動はその人の主張を裏切るものなのだなあと納得した。
平成二十一年九月二十一日
實際、ウェブで「言葉だけなら誰でも言へる。行動で示せ」式の罵倒・侮辱を口にしてゐる人は、必ずろくでもない行動をとつてゐるものだ。
Kirokuroを見よ。「理想より人」とと言つてゐるKirokuroは、粘着行動は大變良い事である、と心から信じてゐる異常人格者である。
そして、人は誰でも、程度に差はあれ、ろくでもないのであつて、ならば、人の事は棚に上げておいて、主張それ自體を問題にして議論しなければならない。
Kirokuroのやうに、主張それ自體から目を逸らして、揚げ足取りに走るのは、主張それ自體について、ろくな事を言へない自覺があるからで、要は、それでも自己主張したい、と云ふ欲望が背後にある事を示してゐる。
Kirokuroや七鍵氏の自己愛の強さには、ほとほとあきれる。

平成二十一年九月二十日
謎の人逹
平成二十一年九月二十日
HTML 5と云ふものは、文書のマーク附けをする爲のものではなく、ウェブアプリケーションのUIを記述する爲のものであると、理解していいのだらうか。
Life is beautiful: GoogleのAndroid向けのアプリビジネスはなぜ魅力的ではないか?
Life is beautiful: で、実際のところHTML5でどのくらいのアプリが実装できるのか実験してみた
Life is beautiful: モバイルブラウザーのデファクトスタンダードになりつつあるWebkit
平成二十一年九月二十日
「違和感を感じる」はおかしいか: まじかんと雑記
「歌を歌ふ」「踊りを踊る」はをかしくないけれども、「違和感を感じる」はをかしいと思ふ。違和感を覺える。
平成二十一年九月二十日
あけびは上品な甘さで美味しかつた。
平成二十一年九月二十日
「早い」と「速い」: まじかんと雑記
早口言葉ではなく、速口言葉の方が漢字で書くといいような気がするんですけど。こ... - Yahoo!知恵袋
平成二十一年九月二十日
Kirokuroによれば、他人の考へが氣に入らないからといつて粘着行爲をするのは、大變心の廣い人間である證據なのださうである。粘着の考へは、私のそれと本當に相容れないものらしい。
と言ふか、常人と粘着とは、常識が正反對であるらしい。
平成二十一年九月二十日
罪と云ふものを知つてゐる人間は、一人の例外も無しに、罪を犯してゐる。
罪を犯してゐる人間は、ならば、「みんなも罪を犯していいよ」「その方が氣樂だよ」と言ふべきだらうか。だからこそ、「人は罪を犯すべきでない」「罪を反省せねばならない」と主張すべきだらうか。
平成二十一年九月二十日
「人あつての理想」と某氏は安易に言つてゐるけれども、論ずるまでも無く、「理想あつての人」だ。某氏は、「よい人」あつての「理想」だと言ひたいのだらうが、人のよしあしは何で決定されると言ふのであらうか。

平成二十一年九月十九日
職場の風景。
おみやげのパン
ミーシャとパン その一
ミーシャとパン その二
ミーシャとパン その三
新顏――いや、實は古株だつたり
USBめもりくん登場
ミーシャとUSBめもりくん
結構前からゐるのだけれども、「闇黒日記」には初登場のUSBめもりくん。
トロイカ體制
スコっち亂入
ミーシャあきらめ顏
平成二十一年九月十九日
意外にも名前が附けられて定着してゐるらしい。
名前はアナーキー
「アナーキーどこー」と某さんが言つてゐるのを聞いてひつくり返りさうになつた。
アナーキーとミーシャ
ミーシャはただ遊んでゐるだけなのだが、このアナーキーは結構よく働いてゐるやうだ。ただ、時々行方不明になるので、その時は皆であちこち搜索しなければならなくなる。
平成二十一年九月十九日
ミーシャは職場、青Gくんは自宅に住んでゐるので二人は最う隨分長い事會つてゐなかつたりする。
現實ではなかなか會へない二人
平成二十一年九月十九日
羨しい考方 - 鬱と躁の日々
東京(2)へのご意見・ご感想

何か根本的に勘違ひしてゐると思ふのだが、私は「聲もかけずに、尻を摺り寄せて電車に乘らうとする習慣」について話をしてゐるのであつて、乘つた後のことを話をしてゐるのではない。もう車内は滿員なのに、尻で人を押し分けてまで乘らうとするな、と言つてゐるのだが、それを理解の上での感想なのだらうか。少し言ひわけをすると、私は滿員電車が嫌ひなため、十分くらゐは何本か電車をやり過ごしてでも、少しでも空いてゐる電車を待つよ。まあしかし、話をおもしろおかしくしようと仔細を後囘しに書いたのが拙かつたのかと、多少反省の餘地がないでもない。が、どうせ惱むのであれば、先ずは自身の讀解力のなさに惱んでみては如何か、見知らぬ他人にトラックバックを送信する前は特に。

七鍵氏は、他人の讀解力のなさを強調して責任逃れしようとしてゐるが、素直に自分の文章力のなさを認めたら何うか。何でひたすら自分の正しさを主張して、他人の誤を嘲笑するんだ。「正しいものは正しい」と言ひたいのなら、正しさを言ふ人間を嘲笑するのはをかしいだらう。これだから聖人君子づらする奴は皆ろくでもないんだ。
聲もかけずにが重要だと言ふのなら、、と書いたのは何なのだらう。女性は、尻を男にすりよせるのを目的としてゐない――電車に乘る事が目的だ。七鍵氏は話を歪曲してゐるのであり、その點で七鍵氏には辯護の餘地がない。話を面白をかしく書く必要はない。私なら、「満員電車で、後から乘つて來るのに、すみませんの一言もなしに、無理に力押しで乘つて來る人がゐる。ちよつと何うかと思ふ」のやうに書く。これなら絶對に誤讀の餘地はない。
――と言ふか、斯う云ふ風に誤讀されるのも、自身以外の誰かが下す判斷である。誤讀されておきながら、正しい解釋を滔々と述べる七鍵氏の姿は滑稽以外の何ものでもないなるほど、哲學とは便利な學問だ。
平成二十一年九月十九日
普通は、七鍵氏の最初の文章は、「東京への呪詛」「満員電車への呪詛」と讀む。ならば「東京から出て行けばいい」「満員電車には乘らなければいい」と云ふ感想になる。
平成二十一年九月十九日
と言ふか、七鍵氏は、自分が先に乘つてゐるなら既得權があり大きな顔をして良い、後から乘つて來る人間は先に乘つてゐる人間に迷惑をかけるのだから小さくなつてゐなければならない、と思つてゐるのだらうか。隨分思ひ上つた考へ方だと思ふ。七鍵さん、あなた自身も、その電車を滿員にしてゐる一因なんですよ。先に載つてゐようが後から乘込まうが、その電車を滿員にしてゐる點では變らない。ならば、後から乘つて來る人間の爲に、先に乘つてゐる人間は、場所を詰めるべきだ、と云ふ主張も成立つ。勿論、さう云ふ議論をしても仕方がないのであるが――七鍵氏は、一方的に他人を責めるばかりで、それが私には氣に入らない。自分だけは聖人君子であるかのやうに何時も何時も振舞つてゐる――少くとも、ウェブの文章を見る限り、七鍵氏は何時も自分を中心に考へてゐるやうに思はれる。文章でろくでもない事を書いてゐる人間が、現實の社會で立派な行動を取つてゐるとは、とても思へない。しかも、さう云ふ人間に限つて、「口に出す前に、行動で示せ」と言ふのだ。それもまた一種の「哲学」であらう。
平成二十一年九月十九日
と言ふか、七鍵氏は、その場で尻をけり飛ばすなり、女に説教するなりして、實績を作れば良かつただらう。なんで七鍵氏は、實際には何もしないで、ウェブでこそこそと正しさを説いてゐるのだらうか。七鍵氏は、他人は聖人君子でないのだから正しさを言ふのは滑稽だが、自分は既に實績のある聖人君子なのだからウェブで聖人君子として振舞つても滑稽ではないと思つてゐるのではないか。なんて思ひ上つた考へ方だらう。
平成二十一年九月十九日
自分が正しさを主張したいのならば、他人が正しさを主張してゐるのを「正しさを主張してゐる」と云ふだけの理由で否定するのはナシだ。滑稽だの何だのと侮辱を加へる事も許されない。と言ふより、それをするなら、自分は默つてゐるしかない筈だ。
個人サイトなんてやる人間が實績を持つてゐる訣がないのであつて、そこで實績が何うの斯うのと言立てるのはをかしい。自分が實績を示してから言へばいい――が、そんなに實績がある人間が、わざわざ個人のサイトなんてものをやる必要があるか。
しかし、實績がある人間が、その實績を前面に押出し、他人を「實績がない」と嘲るならば、それはそれで非常に嫌な印象を與へるものだらう。
平成二十一年九月十九日
なぜかまたあけびが一つだけ實をつけた。ころんとしてゐて面白い。
あけび その一
あけび その二
あけび その三
平成二十一年九月十九日
“女子高生×デジカメ” マンガ「瞳のフォトグラフ」誕生秘話 - デジカメWatch
一册二十分くらゐで讀めてしまつた。
平成二十一年九月十九日
赤ミーシャ出現

平成二十一年九月十八日
職場の風景。
ミーシャ、一口で?
ひとくちサイズの御煎餠。
相變らずスコっちはわけがわからない
お菓子に圍まれて御滿悦? のスコっち。
二人の關係も相變らず
ミーシャとスコっち、微妙な距離。
おづおづとスコっちに近附くミーシャ。
平成二十一年九月十八日
結果論へのご意見・ご感想
結果を殘したか殘してゐないかは、自分では判らない
人は自らを空しうして理想に附き從はなければならない。が、その時には、自分が何うであるかなんて氣にせずに、理想を語らなければならない。自分が結果を出したか何うかを氣にするのは、自分が可愛いからだ。行つた結果に對して、自分以外の誰かが判斷を下す――ならば、自分がやつた事の結果を氣にする必要はない。他人は自分の結果を見て呉れてゐるだらうか――そんな事を七鍵氏は頻りに氣にしてゐるらしい。馬鹿げた事だ。
滑稽に見られようが人から嘲られようが、正しさの必要は語られなければならない。理想とはさう云ふものだ。
理想は、語られなければ、それを尊重する人間がゐなくなつてしまふ。道化にでも何にでもなつて良い。人が大事なのではなく、理想が大事なのだから。そこまでして理想を尊重するならば、理想の爲に人は自らを擲つ事が出來るだらう。
平成二十一年九月十八日
理想を語るならば自分を棚に上げて語らなければならない。結果論を言ふのならば自分を棚に上げるのは許されない。
――だが、自分を氣にして、自分をかはいがつてしまつてゐるのは、どちらだらう。七鍵氏は、その邊の事を、考へた事があるのだらうか。ないのではないか。私は七鍵氏が自己愛の強い人間だと思つてゐる。
毎度の事ながら、リンクも張らず、當てこすりを言ふ陰濕ぶり――斯う云ふ鄙劣な行爲を正當化する自己中心的な「處世術」を身に附けてゐる人間ほど、他人を嘲つて好い氣になるものだ。
平成二十一年九月十八日
ついでに言ふと、人が結果を殘したか否か――それは本當は他人でも判らないものだ。神樣でもなければ、人の功罪を正しく判斷するなんて事は、出來やしない。
しかし、神なき國・日本に生きる我々日本人は、さう云ふ現實を忘れて、人間の能力を過大評價し勝ちである。日本人は、自分逹人間が現實以上に偉大であると屡々勘違ひし、思ひ上る。人間の價値は人間が判定可能である――何と傲慢な發想だらう。クリスチャンの連中は傲慢の罪を免れてゐる。けれどもそれは、日本人にとつては免れ難い事である。日本の文化の深刻な弱點である。問題は、多くの日本人がこの弱點を弱點と認識してゐない事だ。
正しさを言ふ事・理想を言ふ事が、ポーズかパフォーマンスかだとしか、日本人には思へない。しかし、その爲に、日本人は、正しさや理想を言ふ人間を小馬鹿にし、同時に、正しさや理想それ自體を馬鹿にしてしまふ。正義や理想を日本人は失ひ勝ちである。それはその人を立派にしない。ただ他人を侮辱して好い氣になる、傲慢の罪に落ちるだけである。が、その人は、相變らず他人を惡人にして、罵つてゐる事で、自分を免責した積りになつてゐられる。本當にたちの惡い事だと思ふが、日本人は本當に屡々さう云ふ誤を冒す。冒して恥ぢない。
平成二十一年九月十八日
と言ふか、七鍵氏も、Kirokuroとか「義」とかと同じ事を言ふのな。
平成二十一年九月十八日
正しさを説く人間は胡散臭い――さう云ふ常套句を吐いて、何うしようと言ふのだらう。
私にしてみれば、斜に構へて、正しいなんて事はないんだよとか、正しさを言ふ前に正しさを實踐して見せろとか言つてゐる人間だつて、やつぱり胡散臭い。何でさう云ふ事を言つてゐれば、胡散臭くなくなるのだらう。誰でも良いから私を説得して貰ひたい。
同じ胡散臭い人間ならば、正しさを禮讚してゐる方が、まだ増しだらう。僞惡者よりも僞善者の方が好ましいと福田恆存は言つた。私は、恰好いい僞惡者氣取りになる積りはない、胡散臭い僞善者でいい。
平成二十一年九月十八日
正しさと云ふものへの不感症と、それ故の正しさへのアレルギー反應と云ふ奴。
何と言ふか、「正しい事」と云ふ概念に、變なアレルギー症状を起す人つて、何なんだらうと。
「言ふべきでない事」=「耻かしい事」と云ふ「大人の感覺」を、露骨に表明するのは、恐ろしく耻かしい事だと思ふのだけれども。
默つてゐられないなら、「默つてゐろ」なんて言ふなよ。
自分にだつて正義の心くらゐあるだらうに、他人に正義の影を嗅ぎつけるや否や、自分の正義の心は押隱して、「こいつ正義なんて言つてゐるよ」と嘲笑に走る。さうやつて他人の正義を馬鹿にして、何が嬉しいんだ。自分が如何に偉いかを宣傳したいだけだらう。
平成二十一年九月十八日
Yagi Kusigahama (kusigahama) on Twitter
長文書込めるならTwitterも良いかも知らん。
手もとにログとつておくのが面倒なんだらうけど。ウェブ上にオリジナルのデータがあると云ふのは餘り好きではない。
平成二十一年九月十八日
多くの人が「不愉快なものを見せられた」と苦情を言ふ。
「不愉快なものを見せられた」「だからお前も不愉快にしてやる」
「不愉快なものを見せられた、だから私は他人を不愉快にしたくない」と云ふのなら解るのだが……。
平成二十一年九月十八日
「汚いものを見せられて不愉快になつた」――「自分の汚い樣を見ないやうにしてきたのに、わざわざ見せ附けられて不愉快になつた」。「だからお前も不愉快にさせてやる」。
平成二十一年九月十八日
「不快感」を賣りにする人々。
自分が「不快に思つた」とあからさまに言ふ人々。
「不快」と云ふ感想ぐらゐ、レッテル貼りに便利に使へる言葉はない。自分の感想なのに、相手が惡いと云ふ印象を與へて責任轉嫁するのには、大變便利。
だから私は「不快」と言はないやうにしてゐる。
平成二十一年九月十八日
チェスタトンは爺さんになつても論敵に攻撃されたら倍返しにしてやり返してゐたのだが、彼に比べて最近の私は、惡い意味で老け込んでしまつて、攻撃された時に反撃するのを恐れるやうになつてゐた。これは良くない事だと思ふ。
人は高みから人を見下して託宣を下してゐるやうでは駄目だ。それは傲慢の罪に陷るものだからだ。下の立場にゐるからこそ、人に怒る事が出來る。
他人の間違ひを指摘し、攻撃する――それは常に自分に跳ね返つて來る事だ。悧巧な人は他人を批判しない事によつて保身をはかる。だからこそ、自分を律する爲には、他人を批判し、自分に批判が跳ね返つて來るやうにしなければならない。もちろん、他人は、受けた批判を跳ね返す事で、保身をはかりつゝ、反撃して來る。「反撃されるのが嫌なら默れ」と彼等は言ふ訣だが――「嫌」な氣分に追込まれた茲數年の私は、彼等に負けてゐた事になる。彼等の價値觀に屈してゐたからだ。だが、彼等の價値觀こそが間違つてゐるのであり、絶對に屈してはならない。
反撃される事を恐れて他人を批判しないのは、罪だ。他人を批判するのは、惡い事ではない。他人を批判しない事こそが惡い事なのだ。その惡い事を推奬する連中を批判しないで默り込む事は、それこそ立場的に矛盾してゐる。だから私は默らない。
平成二十一年九月十八日
土臺、實績なんてものがない人間なんだから、だからこそ好き勝手言へる訣だ。この自由を滿喫しない手はない。
さうした自由がない人は、自由な人間に嫉妬して、嫉妬した事實を隠蔽する爲に、ますます居丈高になつて、人を罵り、嘲るだらうが。
平成二十一年九月十八日
なるほど、これは「哲学」だ。だが、あなたの言つてゐる事も「哲学」ではないのかね。「哲学とは便利なものだ」と他人事のやうに言つてゐるのは、結局、哲學を攻撃の爲の道具に使つてゐるのは自分だと、白状してゐるやうなものだ。自分の事を棚に上げれば何だつて言へるさ。そこで反論を封じ込めるやうな言ひ方で、他人だけを一方的に罵倒するならば、「保身が目的」と見られても仕方がないだらう。
――そこで言ひ訣しない卑劣さも發揮するのが悧巧な人間の惡いところだ。言ひ訣しないのは、飛んでもなく惡い事だ。言ひ訣する人間の方が遙かに好ましい。少くとも、話をする氣はあるのだから。
平成二十一年九月十八日
HTML 5は、長持ちする規格だらうか。三十年經つて、通用する規格か否か。「ブログ」專用の文書フォーマットであるHTML 5は、「ブログ」ブームが去れば、何の價値も無くなるのでないか。
ISO/IEC 15445:2000は、宇宙人がやつて來てコミュニケーションの概念も方法も根柢から覆つてしまつた、なんて事態でも起きない限り、マーク附け言語として何時までも通用するものだ。文章の構造を明示するマーク附けの最も本質的な方法だからだ。文章が階層構造を持つ限り、ISO-HTMLは基本的なマーク附けの方法として通用する。
HTML 5は何うだらうか。餘りにも實用的過ぎて、技術の進歩とともにすたれてしまふのではないか。
ブラウザの進化は、既に袋小路に入り込みつゝある。PCの畫面上にウィンドウを開いて、そこに文書を表示する。ただ表示出來るものが「リッチ」になつただけだ。それは量的な發展であり、質的な變化ではない。ブラウザは、一點に留まりながら、ぶくぶくと太るだけになつてゐる。けれども、そこで技術的なブレイクスルーが出來して、根本的にブラウザの概念を覆す、なんて事態が起きないとも限らないのだ。その時、HTML 5は、何うなるだらう。新たなる技術の出現に、ついていけるのだらうか。
平成二十一年九月十八日
東京へのご意見・ご感想
七鍵氏は東京を出て行けばいいと思ふ。少くとも、電車に乘らなければいいだらう。何で他人の所爲にして、自分が被害者のやうな面をするんだ。

東京とはおそろしい地域で、電車に乘つてゐると、女性のかたが、男である私に對して、平氣で尻をすりよせてくる地域である。私の意志や主張や人格は、この場合なにも效力を果さない。女性は自身の意思で、自ら率先して、自らの尻を私にすりよせてくるのである。

七鍵氏はエスパーなのだらうか――女性の心理が、何うして七鍵氏には判つてしまつたのだらう。Kirokuroもさうだが、なぜか他人の考へが「判つてしまふ」人が多過ぎる。その「判つてしまつた事」が眞理だと云ふ前提で、彼等は立論する。何しろ「判つてしまつた事」は、眞理なのだから、間違ひはない――彼等の議論は常に「絶對に正しい」。
――もちろん、七鍵氏は、自分に都合良く、他人の心理を極附けてゐるのである。
と言ふか。

なぜ。望みもしない尻を觸らなければならないのか、私の身にもなつてくれ。

或意味、犯罪の自慢だよな。癡漢をやつた、と、日記で「自慢」してゐるやうにも見える。mixi邊で不用意な人が斯う云ふ事を書いて炎上したりするらしいけれども、書きやうで「ごもつとも」「ごもつとも」と讀者が思つてしまふやうな事になるらしい。けれども、客觀的に見れば、この文章は、七鍵氏自身が、であるが、「七鍵氏が電車の中で女性の尻を觸つた」事實を、述べたものだ。女性の尻を觸つたなんて書いたら、まづいだらう。他人の所爲にすれば、さう云ふ事を書いて良いのか。
少くとも、七鍵氏のこの文章には、大變な嘘がある。七鍵氏は、女性の尻を觸つても嫌な氣分がするだけだ、と云ふ内容の事を書いてゐる。けれども、男性が女性の尻に觸れて、嫌な氣分になるだけでない事は、男性である私は、良く知つてゐる。明かに、七鍵氏は嘘を吐いてゐる。聖人君子を氣取るのも、大概にするがいいのだ。

平成二十一年九月十七日
中村保男『絶對の探求 福田恆存の軌跡』(麗澤大學出版會)を先日買つて來て、讀み始めたのだが、此數年來の問題で、私が解決を示せなかつた事柄の多くについて、或種の正解が示されてゐるのを見て――正直、驚きを隠せない。
勿論、福田恆存と云ふ人が示した數多くの眞實、それに全ての答は「ある」訣で、福田さんの本を讀み返せば、私なんかが興味を持つやうな事については、大抵の事は道が示されてゐる。けれども、福田さんの思想・著作の中でも、特に重要と思はれるものを採上げて、改めて語り直した中村氏のこの著作は、我々「福田恆存の讀者」が持つであらう或種の價値觀を改めて提示し、讀者は自らが福田恆存を通して知り・學んだ事柄を、改めて認識・自覺するのに役に立てられる。
一方、本書は同時に、福田恆存のアンチ的讀者に對する反論でもある。福田ファンなら「讀んで損はない」が――私としては此數年、或はそれ以上に亙つて、私と對立してきた多くのアンチの方々にこそ、この本を讀んでいただきたいと思つてゐる。
中村氏は、福田氏の一番の教へ子であり、本書は福田氏への敬意とともに親愛の情を示し、同時にしつかりと福田氏の思想の變遷を辿つて、餘すところがない。福田氏の特有のレトリックを讀解くのは、實は慣れれば簡單なのであるが、それを自分の言葉で説明するのは、案外難しく、また、可能であつても、はつきり言葉に出して言ふのは氣恥づかしいくらゐ「馬鹿げてゐる」(=タネを明かせば簡單、と云ふ事)のであるが、中村氏はそれを眞面目に・叮嚀にやつて呉れてゐる。本書は、福田氏のレトリックを讀解いて、理解出來ないでゐた人逹に説明する内容を含んでゐるのであつて、だからこそ福田氏嫌ひの人々には敢てすすめたいのであるが、同時に、「良く知つてゐる」筈の福田氏ファンにも、改めて自分の理解の仕方を反省させる機會を與へて呉れる。さう云ふ意味で、本書はファン・アンチ雙方にとつて大變良い本である訣だ。是非とも御一讀いただきたい。
福田氏入門としても讀める筈だが、福田氏を知つてゐる人間が復習の爲に讀むのが一番面白いだらう。土屋道雄氏や井尻千男氏の本も見たが、福田氏と同じ英文學を專門とする中村氏の書いたこの本が一番福田氏の感覺を良く捉へてゐるものと思ふ。自らを空しうして福田氏の言葉に耳を傾け、福田氏の思想に附合つて、理解を深めようとしてゐる姿勢が好ましい。
追記。土屋氏、井尻氏の福田恆存論も、それぞれの立場で、矢張り飽くまで福田氏の思想に忠實であらうとするものである。お二人のさうした姿勢も、大變好ましく感じられた事は、言つて置かねばならない。

平成二十一年九月十六日
精神論と言つても、良い精神論と惡い精神論があるんだよ。
日本では、「人をやり込める爲の精神論」が横行するから精神論が嫌はれるけれども、それは結局、その精神論が良いものか惡いものか、見極めるのをさぼつてゐるだけの事だ。
平成二十一年九月十六日
全ての價値觀は、人間の精神があつてこそ存在するものであり、價値觀の問題は全て精神の問題として檢討されねばならならない。ゆゑに價値觀の議論は精神論を前提とするのであり――そこで精神それ自體が客觀的に檢討される事を要求される。「論者は資質を示して議論に參加する資格を得る必要がある」と考へる人は、「自己の資質を示す」爲に「精神を態度で示す」事の「重要性」を強調するのだが、しかしそんな事――「論者の資質」なるものには、何の意味もない。
「無職のくせに偉さうな口をきくのか」式の「アンチネトウヨ」の人々の常套句があるが、「職を持つてゐて、金を稼いで、社會に貢献してゐるか否か」が、議論に參加する資格を左右するとは、私には思はれない。なぜなら、重要なのが、「金を稼ぐ」事にないのは當り前の話で、社會に貢献する事であるのは火を見るよりも明かである。とすると、世の爲人の爲に役立つ事を言はうとするのはそれ自體として意味があるのであり、それ自體として論者が發言する理由となる。それ以前に「論者の資質」なんてものが云々されるのは全く意味がない訣だ。大體、「アンチネトウヨ」の人は、「金を稼ぐ事の重要性」を叫ぶ時、「私腹を肥す」惡の問題を少しでも考慮する氣がない。アダルトヴィデオを撮影して荒稼ぎするやうな連中でも、「アンチネトウヨ」の人は「金を稼いでゐるのだからお前より増しだ」のやうな事を言ふ。けれども、さう云ふ人々のする鬼畜にも劣る非道を彼等は肯定するのか――しかしこの「アンチネトウヨ」の人々は、自分自身、殘酷無比の・冷酷極まる態度を、平然と取る。「義」を見れば誰でも判る通り、彼等は大變鄙劣なやり方で、氣に入らない人間の發言を封じ込めようとする。暴力的な態度をとるやうな精神の持主だからこそ、樣々な暴力的な主張を平然と行ふし、露骨に暴力的な物の言ひ方で氣に入らない論者を脅しつけて默らせようともする。さう云ふ人間がゐるからこそ、發言者が發言する權利は生得のものとして「ある」と云ふ事を「認める」態度を説く「精神論」が必要となる訣である。それは、精神論と言つても、要は「自分が話をする」時の精神・「他人の話を聞く」時の精神を指導するもので、當然の事ながら穩當なものとならざるを得ない。もつとも、私の考へる「穩當」が、世間一般の常識として認識されてゐる「穩當」とは、必ずしも一致はしないのだが。
平成二十一年九月十六日
「義」の行動に就いては、既に大變多くの人が「をかしい」と感じ、非難をして呉れてゐる。「野嵜とは別人の『義』なる人物が、野嵜の名を騙つて各地の掲示板を荒らした」と云ふ事實があつた爲だが、それを多くの人が「明かにをかしい」と認識し、それで「ブログ」界には一齋に「事實を知らせる」記事が出現した。「義を見てせざるは勇なきなり」――「義」は、いろいろとをかしな人物で、その「義」を諫める文章を公開するのは勇氣が要つた筈だが、しかし明かに「義」が間違つてゐるので、多くの人が「義」を非難する行動に出て呉れた。それは私を擁護する内容の記事であつたのだが、私としてはそれぞれの記事の作成者の方に感謝せずにはゐられない。しかし、結局は「義の行動が間違ひであつた」事が、人々にさうした行動をとらせた理由である。少しでも「義」に理があつたならば、決して單なる「野嵜擁護」のためだけに人々は行動を起さなかつただらう。人々は單なる同情ではなく、誤を正すべきだと云ふ決意から行動した訣である。
だからこそ、今のKirokuroの「ブログ」に對して、多くの人が沈默を守つてゐるのだらう。Kirokuroの非難の仕方には大變な問題があるが、しかし「野嵜が間違ひを言つた」のは誰も否定出來ない事實であり、その事實を指摘してゐる點でKirokuroの行動は正しい。
しかし、「義」のやうな「誰が何う見てもをかしいと思ふ行動」を「とらない」事は大變に重要なのであつて、私は自分に或種の「をかしい發言」「をかしい行動」は「してはならない」と言聞かせてゐる。それは本當に大事な事で――斯うした精神論もまた、必要なものだらうと思ふ。實際、私はさうした精神論に從ふべき事を知つてゐて、出來るだけ從はうとしてゐるが、それはパフォーマンスが目的ではなく(あつてはならず)、飽くまで「他者の目」と云ふ日本的な・相對的な「權威」に基いて自己を律する爲のものでなければならない。精神論を言ふのも結局は自己に跳ね返つて來るからで、全ては自己の精神の問題となる。この點で、「精神を見せる」「示す」のやうな餘裕は無いし、あつてはならない。繰返すが、餘裕を見せ附けるのは、大變嫌らしい事だ。
平成二十一年九月十六日
議論に於て、當事者は互ひに相手の人格を尊重せねばならない。これは基本的な精神論だ。これに對して「論者の資格」として「職の有無」だの何だのと言ふのは、結局のところ相手の人格を認めない自己の偏見の正當化に過ぎない。幾ら尤もらしい事を言ひ訣に言つたところで、相手の人格を認めてゐない時點でその人の態度は不當である。「義」もKirokuroも、その不當な態度を平然ととつてゐるのだが、さうした誤つた態度・をかしな精神に基いて、彼等がしようとしてゐるのは――議論ではあり得ない。事實、「義」は一方的な罵倒と共に成濟ましによる鄙劣な名譽毀損を手段として採用し、Kirokuroは粘着行爲と云ふ不愉快な行動をパフォーマンスとして展開してゐる。斯うした場合、彼等の嫌がらせに関する尤もらしい理由附けは寧ろ無視さるべきであり、態度それ自體を精神論的な觀點から非難しなければならない。もちろんそれで人格攻撃を止めるほど彼等がまともな精神を持つてゐるとも思はれないが、しかし、公開の場の論爭と言ふものは、實はそれ自體がパフォーマンスなのであり、第三者に對するアピールである。Kirokuroが野嵜個人を傷つける發言をした時、Kirokuroは野嵜が何う感じるかだけを考へてゐるが、さうした發言を讀んだ第三者はKirokuroの人間を見る事になる。「他者の目」が「ある」事は、ウェブでの議論の極めて大きな特徴であり、それを認識しておく事は必要である。それは、自己にをかしな發言をさせない爲に――自己を律する爲に必要であり、と同時に、そもそもの議論なるものの存在する意味をあらしめる爲に必要である。思ふに、Kirokuro自身も自分が「ブログ」なるものを・「アーカイヴ」なるものを何の爲に作成したのか、はつきり知つてゐる筈である。そこでなぜかKirokuroが飛んでもない侮蔑的な發言や、偏見丸出しの嘲笑的態度をとつて見せる事を躊躇しない事が解せないが、しかしさうした主觀丸出しの態度をとるKirokuroが野嵜を攻撃してゐる事實をどのやうに理解すべきか。彼(彼女?)が野嵜の誤を持出す時、その意圖が奈辺にあるか、我々は推測する事が可能だと思ふ。
人は客觀的な理窟を言ふと同時に、主觀的に價値觀を撰擇してゐる。人は客觀的であると共に主観的でもある。その邊を、自分に都合良く理解してしまはないで、冷靜に考へて・檢討して行かなければならない。
平成二十一年九月十六日
慥か一昨日拾つて來た高井寿夫『ギリシア正教入門』(教文館)を半分位まで讀んだ。例によつて興味深いところを拔き書き。

正教が、とくに「正」教といっているのは、単に正しい教え、という意ではなく、「正教徒は神を正しく信じ讚揚する」という意味である。英語で言えば"the Orthodox (Eastern) Church"であるがこのオーソドックスという言葉は、ギリシア語のオルソス(正しく)と、ドクサ(神に栄光を帰す)の二つの単語から成ったことばである。

オーソドックスといえば、一般的には、単に正統的な、伝統的な、という意味につかっているけれども、もともとは、前述の様な意味で、heterodox(ヘテロドックス)「異端的な、非正統的な」との対語になる。

この、正しく信ずる、という「正しい(オーソドックス)」という定義は、解釈がたいへんむつかしいが、要するに、キリストの教え、使徒の教え、また、七つの公会議で定められた条項を忠実に守ることを指し、それらに対して、人為による勝手な解釈や行為は許されない、ということである。

正教の教えの根本には、まず聖書に記された天啓としての神の言葉、第二には使徒たちによって伝えられたことばの数々、 次に聖書に定められていないことの指針となる聖伝がある。(略)。

正教会では、カトリックや新教で「クリスチャン」というのと同じに、正教徒のことを「ハリスティアニン」とよんでいる。神の子を信じ、そのいましめを守る者を指し、正教会信徒は、神を正しく讚揚するもの、と定義されているのはこの冒頭に述べた通りである。

平成二十一年九月十六日
同じく『ギリシア正教入門』より。

正教では、旧約・新約の両聖書が用いられているが、現在使われている訳は、ニコライ大主教の口述を補佐した漢学者・中井木菟麻呂の訳である。

(略)

朝日新聞の天声人語に、次のような文の載ったことがある。当用漢字の制限に触れた文章の一部であるが、

当座の内閣訓令は、漢字制限により『国民の生活能率をあげる。』といっている。漢字を少なくするほど能率が上がるとは必ずしもいえない点もあるだろう。それに、能率だけが生活ではない。言葉を機械的にやさしくするだけでは文章の香気を失い、人間の頭もやさしくなりやすいという一面もある。聖書マタイ伝をやさしく翻訳し直して、こういう本が出た。『あなたがたには、まだ悟っていませんね。すべて口から入るものは、みんな腹を通って厠へ落ちることを知らないのですか。』これでは、まるで幼稚園だ。やはり『なんぢらも今なほ悟なきか。凡て口に入るものは腹にゆき、遂に厠に棄てらるることを悟らぬか』の方が、味があるように思えるのだが――。

これは、近ごろ相次いで出た聖書の口語訳を例にとって、文章の香気のなさを、やんわりと皮肉ったものだが、たしかに、聖書の口語訳も結構だが、聖書の言葉のもつ美しい香気を忘れている場合が多い。

名訳と名の高い、中井木菟麻呂の訳は、文語訳の中でも最もむずかしいかもしれないが、漢学者としての素養を基盤としているだけに、聖書のもつ威厳と格調は見事に活かされている。後述の「奉神礼」その他に、その一部を引用してあるので読んでいただけると思うが、日本語に訳すときの木菟麻呂の苦心が、その一言一言の精緻な言いまわしににじみ出ているようで、心にしみるものがある。


平成二十一年九月十五日
2009-09-15 - 月の塵
平成二十一年九月十五日
多分私は正しい事が好きなのだと思ふ。それは世間的には一種の「中二病」だらう。だから、嘲りたくなる「大人」の人が出てくる。それも澤山。けれども、散々嘲られても私は執拗に正しさを言ふ。だから「大人」の人逹は、餘裕が無くなつて、手段を選ばず「ガキ」を默らせようとし始める。何處かの誰だか氏みたいに、仲間と一緒になつて、中傷なる卑劣な手段に走つたりする。ところが、「ガキを潰す」のに暴力的な手段を用ゐるのは、「大人」として當り前だと言ふのだ。
「大人」の積りで「ガキ」の人間を嘲つたり、罵つたりするのは、とても嫌な事だと思ふ。
けれども、正しさを確信する人間が、正しくない事を言つてゐる人を批判するのは、何うだらう。「大人」の立場の人からすれば、嫌な事だと言ひたいだらう。けれども、私にしてみれば、それは……とても氣分のいい事だ。正しさが通用するのは、とても氣分のいい事だからだ。間違ひが通用するのは素晴らしいとは、「大人」の人でも、おほつぴらには言へないだらう。
成る程、正しさに「よりかかつて好い氣になつてゐる人」は、嫌らしいだらう。けれども、私は、正しさに倚り掛かつてゐる積りはない。正しさによりかかつて安穩としてゐるのは、非難されても平氣な顏をしてしれつとしてゐる人だ。反論しないのは安心し切つてゐるからで、私は安心してゐないから批判されたら反論する。反論しないのは不誠實の證據だと思つてゐる。もつとも、反論に再反論がないとしたら、それは相手が不誠實なのであり、さう云ふ不誠實な相手に再々反論する意味は無い――と言ふより、再反論がないのだから再々反論はあり得ない。不誠實な人間が當事者の中にゐれば、建設的な議論は不可能となる。建設的な議論を可能とする爲には、きちんとした議論をする精神が必要だ。……この點で私は或種の精神論を主張する必要を覺える。これは仕方の無い事だ。民主主義の社會でも精神論は必要になる。私は唯物主義に陷る積りはない。人間は無機的な論理だけで生きてゐられるものではない。有機的な價値觀も持たなければならない。そして、單純皮相の價値相對主義で安易に物事を方附けられるほど、私は「大人」ではない。
平成二十一年九月十五日
私には、そもそも價値觀を蔑ろにすべき理由が思ひ浮かばない――。
日本人の最大の缺點は、價値觀を蔑ろにする事だ。これは大東亞戰爭で負けて、日本人が悟らなければならなかつた事だ。ところが日本人は今に至るまで悟つてゐない。日本人は、價値について鈍感だから、根據が薄弱である事を氣にしない。力でごり押しして、それで通れば「正義」だと思つてゐる。だから、大東亞戰爭でも、詰らない事をさも御立派な理念であるかのやうに言つて、戰爭をする大義名分になると思ひ込んだ。實際には、ただただ力でごり押ししただけであり――しかも、詰らない理念ですら、實現する氣がまるでなかつた。アジアの開放なんて事を、日本人は「ただの大義名分」だと思つてゐた。ところが、大義名分が無い戰爭を仕掛けるのは、世界的に許されない事なのだ。敗戰で、大義名分の薄つぺらさは露呈し、日本人は自分逹のやつた事を反省させられる事になつた。ところが、戰爭をしようとした動機を日本人は見附けられなかつた。日本人は、自分逹が正しい戰爭をしたとは言へず、自虐史觀に陷るか、開き直つて自尊史觀に走るかしかなかつた。けれども、さうした日本人の底の淺さは、日本人の價値觀の認識が淺い事が原因である。だから、價値觀なるものを日本人は改めて考へなければならなかつたのだが――日本人には價値觀なるものが殆ど認識出來ないのだ。價値觀に「とらはれず」行動するのが「大人」である。日本人はさう信じてゐる。それが一種の「價値觀」であるのだが、世界的に見てそんな「態度」は「價値觀」ではない。
説得的な主張、立派な理念――人間は價値觀を重視するものだ。日本人は、しかし、「價値觀にとらはれない」と言ふ事で、價値觀をないがしろにする事を正當化した。しかし、價値觀にとらはれないのが「正しい」とする根據は何か。世界的に見れば、人間は價値觀にはとらはれる筈なのだ。だから價値觀にとらはれるのが正しい。日本人は、レトリックでごまかし、いんちきな自分の態度を「正當化」しようとしてゐるに過ぎない。が、さうした薄つぺらな正當化のやり方であるがゆゑに、日本人はさうした態度を權威化せずにはゐられない。「大人の態度」と言ふのがその決定的な證據である。「大人」と言ふのはそれ自體、權威的である。
しかし、「身内」の間では通用する權威主義も、世界では通用しない。だから大東亞戰爭の大義名分は、たかが敗戰と云ふ事態だけで木つ端微塵に潰え去つた訣だが、ならばもつと立派な理念を持たうと考へないで、「平和主義」のやうな從來の「なあなあの態度」を正當化する「理論」に飛び附いて、日本人は安心してしまつた。そして、「態度」であるがゆゑに、それは權威化し「大人の態度」に轉化する。冷酷無慘な暴力が、日本で横行する所以である。
自分を「大人の立場」に置く人々が、「ガキ」を見下して、人間扱ひせず、いたぶつて快を貪る事が、日本ではよくある。「ガキ」と看做す相手にも、論理があり、價値觀がある、と云ふ事を、日本人の「大人」を以て自任する人々は、常に失念する。價値觀を蔑ろにしてゐる所爲である。價値觀の存在を認めるならば、他人が價値觀を持つのは當然の事であり、價値觀を持つ他人が一個の人間であるのは當然の事である。人は他者の存在を認め、互ひに對等であらうとする。それで初めて民主的な社會が存立し得る條件が調ふ訣である。が、日本的な餘りに日本的な「大人」と「ガキ」が存在しつづける限り、日本には民主的な社會は成立し得ない。
日本人は、敗戰で、價値觀の缺如と、價値觀を蔑ろにする態度をこそ、反省すべきであつた。ところが、價値觀を持たない態度を、日本人は、助長するだけであつた。日本人が世界の人々から馬鹿にされるのは當然であるが、同時に日本國内でも差別的な態度が横行する事となつた。差別は、同じ人間同士の對話を不可能にする。問題は國際的な問題だけでなく、國内的な問題でもある。

平成二十一年九月十四日
信じ難い事に今になつてTH-15LD70のアップデータが出た。多分入つた筈。何んな風に變るのかはよくわからない。
平成二十一年九月十四日
最早日記だか何だか全くわからないが新しい仲間。
五目壽司くん
謎生物
五目壽司くんは、御覽の通り、五つ目がある御壽司のおばけ。稀にこんな勘違ひしたクリーチャーが誕生する。
謎生物の方は全くの謎。何なんだらう。
平成二十一年九月十四日
南井大介『ピクシー・ワークス』(電撃文庫)を讀んだ。
正直言つて下手な小説で、文章は讀み辛い部分が多い。けれども、ネタはありがちだが惡くないし、結構頑張つて書いてゐるらしく、熱意は傳はつて來る。飛んでしまつて御終ひ――なのは結論として何うかと思ふけれども、續篇あるんだらう。何箇所かをかしな表現があつて氣になる。特に「喧々諤々」。二箇所ある。斯う云ふところは直した方が良いと思ふ。
新人の小説だと承知で讀むならそれなり。と言ふか、最近は奇を衒つた小説を應募してくる人が多いけれども、斯う云ふ眞直ぐな内容の小説は好感が持てる。新人ウオッチャーの人にはおすすめ。みんな買つて上げて下さい。
平成二十一年九月十四日

相撲放送を観ていて気付いた。地デジの方が衛星放送よりもきれいなんだね。

BS1/BS2はSDの720×480、地上デジタルのハイビジョン放送は1440×1080以上の解像度だから、相撲中繼でBS2とNHK綜合とを比較するとNHK綜合の方が綺麗に見える事が多い。
けれども、マルチ編成の放送をやつてゐる時は、地デジでもSD畫質になる。

平成二十一年九月十三日
創作活動。
なつめ球くん
クリーチャーの子供
青のクリーチャーは、生れた時はまるくて目だけがあります。それが成長するに從つてだんだん分化して行くのだけれども、その間本人の好みで觸角を生やしたりするので、育つて行くと一體一體全部別の形になります。
――でも全部同族です。

平成二十一年九月十一日
BSデジタル放送のTVアニメ新番組一覧(2009年9月期〜) - 「最後通牒・こぼれ話」
平成二十一年九月十一日
【PC Watch】 意外に安い? ボリュームライセンスでWindows 7を導入する

平成二十一年九月九日
Amazon.co.jp: 孤高 国語学者大野晋の生涯: 川村 二郎: 本
今讀んでゐる本。評傳。
平成二十一年九月九日
文部省藏版〔日本思想叢書第四篇〕『祝詞宣命』は、山田孝雄が委囑を受けて執筆した祝詞のガイドブックだ。卷頭の祝詞の解説に興味深い一節があるので轉記する。

さてこの祝詞は神に奏上するものであるが、何事を奏するかといふに、祈願と感謝との二つであることは明らかである。それもその祝詞の場合々々によつて、或は感謝が主となり或は祈願が主となり、或は二者同等に並び存し、或は殆ど一方のみであることもあり得る道理である。しかし、第一にあらはれた祈年祭の祝詞では、實際に於いてはその名の如く年穀の豐饒を祈願するのであるが、語として、祈願の形でなくて感謝の形になつてゐる。これは如何なる譯であるかといふに、恐らくは正しい事をしてゐれば必ず神が守護するものであるといふ思想が基になつてゐるのであらう。「正直の頭に神やどる」とか「祈らずとても神や守らん」といふことは古典には出てゐない語ではあるが、それが神道の本旨であり、それは太古から行はれた信條であつたであらう。即ち、神にある事を祈願するといふ事は信ずる度の低いものであり、或る意味では神を輕く見てゐるといふ事になる。それは人間相互の間にもある事で、信じ合つてゐる間に改まつた事をいふのは、その人を深く信じてゐなかつたといふことの一の證據にもなるのである。それゆゑに、眞實に神なり人なりを信ずるものには、祈願がなくて感謝だけでよい筈である。後世みだりに祈願をするのは、一種の墮落と云つてよいのである。神社が宗教と異なつてゐる點の著しいのは、この祈願なくして感謝のみであるといふことにも存するであらう。而して祈願なくして感謝のみであることは、人間では親子の間に最も著しいのである。わが神道に於いて神人の關係が親子の關係であるといふことは、この祝詞の最も純な形のものによつて示されてゐるともいふべきである。從つて神道は國民道徳の具體的儀式化したものともいひ得るのである。祝詞の本質はやがて、神道の本質であり、又國民道徳の本質でもあるといひ得らるるのである。

本書は昭和七年七月に初版が發行されてゐる(昭和七年七月十五日發行。參照したのは昭和十五年五月十日の六版)。谷氏は、山田氏の指摘から半世紀以上經つて、「正直」と云ふ事が神道の本質或は日本人の道徳の根本的なものであると、改めて述べる事になる。
平成二十一年九月九日
川村二郎『孤高 国語学者大野晋の生涯』讀了。多分大體著作に基いて大野晉の生き方を説明した評傳で、主な業績や有名なエピソードを紹介してゐるから、大野氏の讀者なら御馴染みの事柄許りだらう。誤植が二、三箇所あつたのを見掛けたし、橋本進吉博士の死の理由を大野氏の證言に基いて「榮養失調」としてゐるのが氣になつたけれども(橋本博士の子孫の方から以前メールを頂戴して、病死であるとの由)、要領良く纏められてゐるので、大野氏を餘り知らない人には入門書として便利だらうと思ふ。
大野氏が国語改革に反對の立場であつた事が書かれてをり、幾つかある有名なエピソードが本書にも出てゐる。

大野は当事者に取材を進めるうち、さらに驚くべき事実を知った。

なぜ教育漢字が八百八十一字になったかについて、当時の文省国語科の担当者が語ったのは、次のような事実である。

国語審議会の建議では、八百八十字となっていた。ところが発表の日の朝、数え直してみると、一字多い八百八十一字だった。それで教育漢字は八百八十一字と決められた、といったのである。

昭和二十六(一九五一)年、人名用の漢字として九十二字が追加して発表された。大野は新聞に載った、追加された漢字の中に自分の名前の「晋」や「麿」の字があるのを見て、奇異な感じを受けた。どちらも、そうそうある名前ではないからである。

長く疑問に思っていたが、答がわかったのは昭和三十四(一九五九)年、毎日新聞の企画で国語審議会で主導的な立場にあったRomajikai会長、土岐善麿とカナモジカイ理事長、松坂忠則の三人で座談会をしたときである。

その席で松坂は人名漢字について、本当は百字追加するつもりで字を探したのだが、適当な字がない。それで九十二字になった、という話をした。大野がすかさず、
「だから、うるさい大野晋の『晋』の字とか、味方の土岐善麿の『麿』の字を入れておいたわけですね」
というと、松坂は上機嫌で「ご名答!」といった。

松坂は、樣々な策略をめぐらして漢字の廢止の爲に活動したが、このエピソードでは如何にも御調子者らしいノリの發言を披露して呉れてゐる。まるで何處かのKirokuroみたいだが、このやうな輕佻浮薄の手合が日本の文化を氣樂に破壞してしまつた事を、大野氏はずつと憤つてゐた。
本書は大野氏の生き方に附合つて、主な主張を網羅してゐるから、大野氏の国語改革に對する批判を幾つも收録してゐる。著者の川村氏自身が国語改革について何う考へてゐるかは判らないが(大野氏の情熱に打たれてゐるにしても、その主張に全面的に贊同してゐるとは、必ずしも言へないやうである)、大野氏の發言・主張をありのまゝに書いて呉れてゐるから、本書は(限定的であるが)国語改革に關する入門の書にもなつてゐる。注目すべきは、国語政策が役人の手によつて操られてゐるのに觸れてゐる事である。

大野が三期六年、(国語審議会の)委員をしてみてわかったことといえば、国語審議会なるものは他の多くの審議会や諮問委員会と同じように、役人があやつっている一種の隠れ蓑にすぎないのではないか、ということだった。……。

最近、白石良夫が盛に「歴史的かなづかい批判」を繰返し、戰後の国語改革を正當化し、さらに推進しようと必死になつてゐるけれども、白石氏は文部官僚であり、国語改革の當事者である。本書は、最近の白石氏の發言を正面から批判するものではないが、氏の活動に側面から批判を加へるものとなつてゐる。
平成二十一年九月九日
調べてゐてぐぐつたら引掛つたのでちよつと見たが、高崎氏、相變らずをかしな事を言つてゐる。
『かなづかい入門(白石良夫)』讀後感(平成疑問かなづかひ)

「重要ではない部分」をどう考へてゐるのか、私はとても興味があります。

高崎氏は、假名遣の「重要ではない部分」だけに興味がある人だ。別にそんなものに一人で關心を持つて一人で樂しんでやつてゐるなら自由にやれば良いのだけれども、平然と私が興味を持つてゐる部分に、あなたも興味を持ちなさいと趣味の押附けをやるから何うしやうもない。

 表記法とは「どう書くか」を示すために存在する。もちろん活用變化がうまく説明できる方がよいだらう。しかし「重要ではない箇所はどうでもよい」とはゆかない。まして「統制」云々は運用上の問題であって、表記法そのものの責任ではない。彼らは歴史的假名遣の全體像をまったく掴めてゐないのではないか。

 それとも「定家假名遣と同樣に、歌物語だけ書ければ十分」と考へてゐるのだらうか。それなら漢字に隱れる部分など氣にしなくてよい。ただ、それでは近代的國民國家の共通基盤にはなり得ず、「現代かなづかい廢止」の説得力には著しく缺けるだらう。據って立つものが異るから、『かなづかい入門』への反論はできないだらうし、ひょっとすると何が書いてあるか讀み取れないのかもしれない。國民年金の納入記録が大問題になったが、氏名の讀み間違ひを原因とするものが少なくなかったらしい。これも「どうでもよい」範圍なのだらうか。

馬鹿な高崎氏は、「重要な部分と重要でない部分の兩方」を合はせて「歴史的假名遣の全體像」と言ふのに、なぜか「重要でない部分」だけを重視せよと主張する。重要でない部分は例外の部分であり、例外に許り目を向けるのは根本的な事・本質的な事に高崎氏が關心を持つてゐない事實を示すが、重要な事を重要視しないのは明かにをかしい。ところが、高崎氏は、自分がをかしいとは少しも思つてゐないのだ。

 「重要ではない部分」をどう考へてゐるのか、私はとても興味があります。ネット檢索もずいぶんされてゐる樣子ですから、この記事も早晩氣づかれるでせう。私も數日に一度ぐらゐは覗いてみますので反論をどうか宜しく。

Kirokuroのやうな粘着的發想だが、粘着は自分のねちねちした言ひ方がどれだけ嫌らしいものかを全く氣にしない。高崎氏も、Kirokuroと同じやうに、彼らの特色云々と言ひ、この頃から運動としての國語問題がいっそう嫌ひになった。と人に惡罵を浴びせて快を貪るのだが、私にしてみればさう云ふ粘着的・アンチ的態度こそ嫌で嫌でならないものだ。何故Kirokuroや高崎氏は、自分は平氣で嫌らしい態度をとりながら、他人のする事を「嫌らしい」と言つて平氣で罵倒出來るのだらう。
高崎氏の論理は目茶苦茶で、

それとも「定家假名遣と同樣に、歌物語だけ書ければ十分」と考へてゐるのだらうか。それなら漢字に隱れる部分など氣にしなくてよい。ただ、それでは近代的國民國家の共通基盤にはなり得ず、「現代かなづかい廢止」の説得力には著しく缺けるだらう。據って立つものが異るから、『かなづかい入門』への反論はできないだらうし、ひょっとすると何が書いてあるか讀み取れないのかもしれない。國民年金の納入記録が大問題になったが、氏名の讀み間違ひを原因とするものが少なくなかったらしい。これも「どうでもよい」範圍なのだらうか。

の部分は、反論のしやうがないくらゐ出たら目だが、本人は自分が大變尤もな事を言つてゐる積りでゐるから處置なしである。歌物語だけ書ければ十分とは、何なのだらう。この手の訣のわからないレッテル貼りは粘着の常套手段だが、「野Q」なるレッテル貼りに反論するのが不可能(と言ふより無意味)なのと同じで、反論をどうか宜しく等と言はれても出來る訣がないのだが、ところが粘着はそこで「反論出來ないだろガハハ」と威張るのである。
しかし、私は「この言葉はどう書くか」とだいぶ具體例を出したが、反應はなかった。これでは話にならない。と言ふのが高崎氏で、要は高崎氏は「答を出せないものであつても『答を出せない』と率直に言ふ事が出來ない」=「兔に角何でも答を出す事が重要」と考へるトンデモさんなのである。私にしてみれば――と言ふより、學問的な立場からは、答が出ないものは出ないと言ふしかない。それが當り前の態度なのだから私はさう云ふ態度を取るのだが、高崎氏はそれが氣に入らない。高崎氏も私も、國語學の素人であるが、高崎氏はそもそも學問と云ふものそれ自體を知らない。私も大して知つてゐる訣ではないが、それでも「絶對にやつてはならない事」が學問の世界には「ある」と云ふ事くらゐはぼんやりと知つてゐる。
――しかし、斯う云ふ原理原則の話をすると、納得しないのがトンデモの人の特徴である。彼等は理念・觀念の話が始まると、必ず「具体例」を要求し、「知らないんだろ」と言つて人を小馬鹿にして來る。具體例の話は、其の人が知つてゐる事柄に話を持込めば、一方的にその人が有利になるから、トンデモの人が好むのだが、さう云ふ論戰をするのは學問的にナンセンスであり、私は好まない。
……實際のところ、「ありのまゝに事實を認める」或は「正しい事を正しい事と認める」と云ふ學問的な態度が、重視されないところに、国語改革なる政治運動が出現し、「現代仮名遣い」のやうな「規範」が出現する原因があつた。だからこそ、學問的な態度を知り、身につける事、そしてそれを推奬する事が、国語改革に反對する上で大變重要な事となつて來る。だが、高崎氏は、国語改革に反對である筈ながら、国語改革の前提となる非學問的態度を平然と取つてゐる――と言ふより、高崎氏自身は、自分が十分學問的な態度であると思ひ込んでゐるのである。が、それが素人の淺はかなところ。
しかし、字音假名遣を私は「無視せよ」と言つた事はないのであり、字音假名遣を實裝し、使用者がそれを熟知してゐれば、IMEの變換效率は向上するだらうと言つてゐたのである。ただ、字音假名遣よりは、もつと重要なものがある、と指摘しただけなのだが、それだけの事で高崎氏はかんかんになつて怒つたのである。斯うした偏狹さは、未熟な人間・トンデモの人間の示す典型的な「症状」だ。問題は、彼等が普通の病人と違つて、自身の「症状」を自覺しないところにある。高崎氏にしてもKirokuroにしても、自分がをかしい事を全く自覺しないか、或は自覺してゐても「それの何が惡いか」と平氣で開き直れるもう一つの異常さを持合せてゐる。渠らは絶對に反省しないのであり、反省しないのは「病氣」だが、それが解らない。斯うした手合が「同じ国語改革への反對派」にゐると云ふのは、實に嫌な事だが、「同じ現代仮名遣派」にトンデモの人がゐる事實を、その邊の人は、知つてゐない訣がないが、全然氣にしないのである。なぜ正かな派だけが「身内」の異常者の存在を氣にして、殊さら憎まなければならないのだらうか。
平成二十一年九月九日

 著者の論點は次のやうに整理できると思ふ。

  1. 歴假名の定義は「平安時代中期以前の文獻用例に從ふ」。
  2. これは優れて學術的。
  3. しかし學術上の正確さと、表記法としての合理性は必ずしも兩立しない。
  4. 『疑問假名遣』などに記された破綻例に鈍感なのは、權威にひれ伏してゐるからだ。
  5. 表記法としての合理性は、現假名の方が遙かに勝ってゐる。

 なるほど論の立て方として隙はない。ただ、これは「歴史的假名遣の信奉者」の實態をあまりよく捉へてゐないと、私は思ふ。著者は「地動説以前(72ページ)」のやうにとてもよい着眼點なのだから、もう少しよく分析してほしかった。

これなど、明かに高崎氏の隙と同じ隙を白石氏が作つてゐるだけの事なのだが、それが高崎氏には判らない。と言ふより、高崎氏は「身方」を見附けてはしやいでゐるのである。誰が何う考へても「疑問假名遣」は歴史的假名遣の「破綻例」なんてものではないのだが――しかし、ならば、高崎氏は、自分が歴史的假名遣の破綻を繕つてゐる英雄だと思ひ込み、思ひ上つてゐるのである。呆れたものだと言ふしかない。
福田恆存が言ふやうに、重要な問題は原理・原則にあるのであり、そこで爭へないから白石氏は例外に逃げたのである。ところが、同じ例外に興味を持つから、高崎氏は白石氏が逃げた事實を指摘できない。白石氏の土俵に引込まれて、どうせ決着のつかない「論爭」をさせられる羽目に陷るだけなのに、それが樂しい高崎氏には、白石氏は自分に有利な土俵を用意して呉れた親切な人にしか見えない。Kirokuroの所謂「正字正かな派の内ゲバ」をやつて高崎氏は樂しくて樂しくてしやうがないのだが、「内ゲバ」で憎たらしい野嵜一派をやつつける爲に、高崎氏は「眞の敵」でも利用しようと云ふ訣である。私にしてみれば、斯う云ふ事を平氣でやる高崎氏こそ、運動としての國語問題を嫌らしいものにしてしまつた元兇の一人だと思はれてならない。だが、國語問題協議會の内部でも、長い間、嫌な状況は續いてゐたのである。結局のところ、正統のやり方でやるしかないと私は思つてゐるのだが、高崎氏にしてみれば、「例外」「重要でない事」の存在を楯にとつて、正統派を非難・攻撃して遊ぶ方が、樂しいのだらう。しかし、ならば、白石氏のやうな、或は何處ぞの元オウムのブロガー氏のやうな「歴史的かなづかい批判」も――いやいや、Kirokuroのやうな粘着行爲にしても、所詮は遊びでやつてゐる攻撃に過ぎないのである。妨碍で潰される眞の研究はないさうだが、遊びで潰される眞の運動もないだらう。言つてゐる事が正しければ、當座その運動が潰されても、正しさを認める人が何時かまた現はれて、正しさを主張する運動を始めるだけの事だ。悲觀する必要はないのである。逆に言へば、正しさそれ自體を據りどころにする人がこの世からゐなくなつた時、この世は最早生きるに値しなくなるのである。
平成二十一年九月九日
長々と書いたが、問題は簡單だ――即ち、「重要な事」と「重要でない事」のどちらを重視すべきか
誰が何う考へても重要な事が重要であり、重視すべきであるのだが、そんな簡單な事も解らない人逹が一生懸命「重要な事」を攻撃し、嘲つてゐる。正かな派の高崎氏も、国語改革の當事者である白石氏も、重要でない事柄を誇張して言ふ事で、重要な事を殺してしまはうとしてゐる。例外よりも原則の方が大事であるのは論ずるまでもない明白な事だが、彼等はその邊の事を殊さら「論ずる」事によつて、明白な事を曖昧にしてしまひ、重要な事の重要さをぼかしてしまつてゐる。
「現代仮名遣」の原理的・根本的な問題を、高崎氏は氣にしないし、白石氏がごまかしても看過してしまふ。しかし、それでは困るのだ。
さて、高崎氏は、私の指摘に、反論して來ないと思ふ。高崎氏は、氏の指摘から私が逃げたと思ふからだ。ところが、高崎氏こそ、重要な問題から先に逃げてしまつてゐるのである。そして、重要とはとても言へない例外事項に首を突込んで、問題から目を逸らしてゐる事で、高崎氏は何時までも何時までも不毛な議論を續けられる。それが氏は樂しくて樂しくて仕方がないのである。粘着が人に絡み續けるのは、不毛極まる議論が樂しいものに見える「病氣」だからで、兔に角言爭ひを續けられれば粘着氣質の人間は幸福なのである。迷惑な話。
平成二十一年九月九日
白石氏のやうな「現代仮名遣」禮讚派の人は、「疑問假名遣」のやうな、解決のつかない問題について、「現代仮名遣」が「解決」を與へた事を高く評價する。即ち、「今の發音」に基いて表記する、と「ばつさり」やつてゐる事を一つの「解決」として認めるのであるが、私はそれは便宜でこそあれ、正しく問題を解決したのでは無いと思つてゐる。が、便宜であるのなら、歴史的かなづかひを使ふ人でも、本來の書き方が判らない語は便宜的に表音的に書いてもいいのである。それが「現代仮名遣」禮讚派の人には許せない事に見えるらしいのだが、その種の「嚴密主義」の立場を歴史的假名遣派の人は取つてゐないのであり、勝手に立場を極附けて相手を不利にしていたぶらうとするのが「現代仮名遣」禮讚派の惡どい手口である。
昔、アレクサンドロス大王は、解いたものはアジアの支配者になると言はれたゴルディオスの結び目を見て、劍でばつさり斬つてしまつたのださうだ。大王はマケドニアから出征して、連戰連勝、インドのすぐ近くまで支配領域を擴げるのであるが、三十代で若死にしてしまつた。その死後、大王の領土は分裂してしまふ。
平成二十一年九月九日
私は高崎氏がなぜ歴史的假名遣を支持してゐるのかが解らない。尋ねれば、高崎氏は「歴史的假名遣が正しいのは、野嵜さん、あなた自身御存じでせう」と返すだけで、説明しないのだ。そして、私が歴史的假名遣の正しさを説明するのを見て、高崎氏は苦々しい表情を浮かべる。高崎氏は、歴史的假名遣の「缺陷」をふさぐ事を主張し、「疑問假名遣」の存在を頻りに強調する。それは、恰も「歴史的假名遣は正しくない」と主張するやうな行爲であるのだが、しかし高崎氏は歴史的假名遣は正しいと信じてゐるらしい。
かなづかひの確定しない語について調べるのも、結構な事だ、どんどんやればいい。字音假名遣の研究も、すればいい。高崎氏のやつてゐる事は、結構な事だ。けれども、それらを私が「やらない」からと言つて、高崎氏が非難するのは、許されない。「やれ」「やれ」と高崎氏は高壓的に言ふが、私にはさう云ふ高慢な態度をKirokuroが非難しないのが理解出來ない。或は、何處ぞの「旧かな」ブロガー氏もまた。
なぜ正しい事を正しいとストレートに言ふのが惡いのだらう。正しい事を正しい事であるとありのまゝに認めるのは、必要な態度だ。私にしてみれば、さう云ふ態度を世間の人が身に附ける事こそが、最も重要な事だ。事實をありのまゝに認めるのは、學問の基本中の基本である。それが出來る人間なればこそ、國語のありのまゝの姿と云ふものを認めて、受容れる事が出來る。それが正道中の正道だと私は信ずる。
高崎氏のは搦め手から攻めると云ふ奴で、正道ではない。邪道だ。白石氏も、その邪道の部分から歴史的假名遣を攻立ててゐる。白石氏に反論するには、白石氏のやり方の邪道なる事實を指摘するだけで良い。と言ふより、それで十分でなければならない。だが、邪道を正道と取違へてゐるからこそ、高崎氏には邪道な白石氏が「歴史的假名遣の隙」を衝いたものと勘違ひせざるを得なかつたし、邪道の方面で永遠に續くであらう泥仕合に飛び込む事の「悲壯な決意」をせざるを得なかつた。しかし、高崎氏の決意は「皮相の決意」に過ぎない。何が問題であるのか――原則・理念こそが重要だ。何度でも繰返すが、そもそもの原則・理念がなく、やつつけで作られた「現代仮名遣」が正しくない事實を、事實として認める事を、正かな派は世間の人々に要求し續けなければならない。高崎氏は、その義務を抛棄し、趣味の世界に逃避してゐる――しかし「趣味」である事實を認めたくない許りに、高崎氏は自分のやつてゐる事こそが義務であるかのやうに嘘を言はなければならなくなつた。高崎氏の主張は、Kirokuroのそれを同じく、如何にもねぢけた主張だが、さうまでして自己を正當化し、自己の偉大さを他人に認めさせたいのか。Kirokuroの場合は、平然と「さうだ」と答へさうだが、高崎氏にはそこまで恥知らずな考へはないだらうと期待したい。
平成二十一年九月九日
私が昔、掲示板でいろいろな人とやりあつて、相手を「非道く叩いた」と云ふ事で、野嵜はなんて非道い奴なんだと多くの人が感じたらしい。けれども、私にしてみれば、間違つた事を平氣で言つてゐる人に怒るのは當然の事で、逆に言ひたいのだが――私の事を非難する人々は「間違つた事を言ふのは良い事だ」と本氣で信じてゐるのでないか。
「そんな事はない」「野嵜がまたお得意の歪曲を始めた」と多くの人が思ふだらうが、しかし、さうでも思つてゐない限り、間違ひを言ふ人間を許すなんて事は出來ない筈である。
「電腦正統記」をやつてゐた右翼は、野嵜のさう云ふやり方が相手にとつて氣の毒であつたと言ひ訣して、野嵜を非道い目に遭はせてやれと好い氣になつてつつかかつて來たのだが、頭がをかしい。右翼だから、甘い言葉を使つてでも仲間に引き込めればいいと思つてゐたのだらうが、さう云ふ政治主義的な行爲は私には到底受容れられない事である。
學問に於ては、人が嚴しいのでなく、正しい事・眞理が誤を嚴しく裁くのだ――これは私にしてみれば餘りにも當り前の話で、疑つた事もないのだが、この發想が世間の多くの人に通じない事實は私にとつては意想外の事であつた。實際、私が誰かの誤を叩くのと同樣、と言ふよりそれ以上に、多くの人が私の誤を叩いてゐるのであり、ならば世間の人は、正しさと云ふものがある事を知つてゐる筈である。ところが、彼等は、正しさそれ自體よりも、正しさを言ふ人間に、もつぱら興味があるらしいのだ。これが私には本當に理解出來ない。赤の他人であつても、或は、赤の他人だからこそ、人を問題にし、主張を問題にしない。そこまでして人の事を知りたいのか、と疑問に思ふのだが、彼等が私を責める時は常に私を「惡い人間」と歪曲して宣傳するので、「本當の野嵜」の事を彼等が知りたくて野嵜と云ふ人間を問題にしてゐるのではないと云ふ事が解つた。何れにしても、本當の事を知る快を誰も求めてゐないらしい。しかし、知る事は樂しみだらう。知らない事を知るのは樂しみだ。本當の事を知るのは樂しみだ。それが「樂しみでない」としたら、既に自分の知つてゐる事を「信じる」事がそれ自體として快樂になつてゐるのだとしか考へやうが無い。ところが、「信じてゐるのは野嵜だ」「野嵜は信者だ」と言つて、彼等は私を攻撃してゐるのである。
言つてゐる事とやつてゐる事とが乖離してゐる――これは大變な問題だと私は思ふのだが、世間の人は思はないらしい。寧ろ、さうやつて他人を欺す事に、そして自分を欺す事に、世間の人は「立派さ」「偉大さ」を見出してゐるやうなのだ。私には何うしても理解できない事である。
しかし、さう云ふ表裏のある自分を意識してゐるならば、私にも裏があるとどうしても思つてしまふのだらうなと、漸く私は氣附いた。が、氣附いたからと言つて何うしやうもない。斯う云ふ盲信は、説得して何とかするのが無理なのだから。
平成二十一年九月九日
研究社 英米文學評傳叢書26 THOMAS GRAYを、福原麟太郎の書いた本と云ふ事で買つて來たのだが、その序にいきなりこんな事が書かれてゐる。

傳記を書いて見ると、あらゆることを事實が説明して呉れる。批評はそのうちにある。想像の上でつくりあげた批評は、一つのそれに反對する事實によつて見事ひつくりかへされてしまふ。私はこの傳記を書いては見たが、もう一度もすこし詳しく事實をしらべてこれをやり直してみたい希望に驅られてゐる。

文學が、科學そのものでない事は言ふまでもないが、しかし、人文科學として、大變嚴密な學問としてのルールを持つてゐる事もまた言ふまでもない事實である。そこには一種の反證主義のやうなものすらも存在を認める事が出來る。

平成二十一年九月八日
葦津珍彦『明治維新と現代日本』(昭和四十一年四月一日 非売品 神社本庁 明治維新百年記念叢書一)と谷省吾『思想史の研究』(平成六年三月三十一日発行 皇學館大學講演叢書第七十四輯)を讀んだ。何れもパンフレット。
葦津氏は『明治維新と現代日本』で、日本人が近代化を成し遂げた事の背後に、開國派・攘夷派の立場の違ひはあれど、日本の國を眞劍に思つた人々の存在があつた事を述べ、彼等に敬意を拂はねばならない事を説くと共に、底の浅い、浅薄な弱みが現在の歐化した日本には存在する事を指摘してゐる。明治時代の先人は、日本が獨立を守る爲には近代化せざるを得ないと悟つて、西歐の文物を採入れるのに大變な努力を續け、それは確かに成功した。しかし、その後の歐化は、日本人独自の体験の裏づけもなく、深い実感の裏づけもない、單なる西歐の模倣と化してしまつてゐる。我々はさうした問題が現在「ある」事を自覺し、改めて反省する必要があるが、その際には明治維新まで遡つて考へてみる事が必要であらう。
谷氏の『思想史の研究』は氏の退職記念講義を再録したものだが、そこで谷氏は自身の過去の研究生活を振返つて、樣々な本や人に影響を受けた事を述べてゐる。氏は倫理・宗教を研究するにしても、多くの研究が純客觀的に・ただ淡々と事實を記述したものである事に飽きたらないでゐたが、シュヴァイツァーの著作を讀んで、精神科學における人間の精神の重要性を悟つた。人の心を動かすものは何か――先人の苦鬪・努力を知る事こそが重要である。またシュヴァイツァーは、神秘と云ふ事にも觸れてゐる。谷氏の恩師である平泉澄も、神道の本質を知るには、一種の神秘の領域にまで立入る必要のある事を示唆してゐた。精神科學と云ふものは、單純に物事を割切る自然科學と根本的に異る。精神科學は自然科學のやうな精確さは持たない。しかし、自然科學に於て取りこぼされる微妙なもの、を扱ふのが精神科学である――それは、ディルタイやマイネッケの著作にも書かれてゐる。以上が谷氏の講義で先づ述べられる事柄である。次いで、神道そして日本人が自然に持つてゐる倫理感について、谷氏は述べる。日本人の倫理感は、生命の連續と云ふ事實の上に成立してゐる。宣長や闇斎も、さうした考へに基づいてゐる。デカルト以來の近代的な發想では、餘りに理性的・餘りに抽象的に過ぎて、自然な生命感と懸離れてしまひ、倫理感と結び附かない。バートランド・ラッセルに至つては、合理主義の立場から倫理の破壞を企てる始末である。が、道徳の崩潰は全世界的な問題として現在、認識されてゐるのであり、近代的・合理的な發想は反省されねばならない――さうして谷氏は、自らの過去を省みて、母の言葉として「正直」の奬めの言葉を思ひ出す。正直と云ふ事・何時も神樣が見てゐると云ふ觀念は、神道の根本的な倫理感ではなかつたか。谷氏は、學問的な生活の中で、人としての普通の生活を忘れ、生活感に基いた當り前の觀念を忘れてゐたのでないか、と反省してゐる。
平成二十一年九月八日
永山昌克インタビュー連載:こだわりのカメラブランド――リコー「GR DIGITAL III」開発者に聞く (1-3) - ITmedia +D LifeStyle

平成二十一年九月七日
らくがき。
青くじくん
平成二十一年九月七日
咲が終つたところで表に出て、空を見上げたら、妙に馴染みのある星の形が目に入つた。オリオン座が東の空に昇つて來るところだつた。
平成二十一年九月七日
永らく放置中のmixiに何となくログインしてみたが、何も書く事がなく、結局プロフィルの畫像を青Gくんに差替へただけでログアウトした。何をやつてゐるんだらう俺。
平成二十一年九月七日
ひだまりスケッチ四卷まで讀んだ。

平成二十一年九月六日
私としては別に「定家仮名遣のすすめ」でも言つてゐて構はないと思つてゐる。ただ、「定家仮名遣でもいい」と言ふ人が、その口で「しかし正假名遣と言ふのだけは駄目!」と平氣で言放つのはをかしいと思ふ。それだけの事。
平成二十一年九月六日
大日本帝國憲法を「無效だ」と言ふ人は、「日本国憲法は日本の歴史上初めて有效な憲法として制定されたのだ」と主張してゐるのも同然なのだが、ところが「日本国憲法」は建前としては大日本帝國憲法を改正したものだ。だから、大日本帝國憲法が無效だとしたら、なぜ「無效な憲法の改正」と云ふ建前を取つてゐるのか、合理的な説明をしなければならない。ところが、その必要な説明をしないで「大日本帝國憲法は有效だと言ふ野嵜は異常人格者」等と中傷を繰返すだけだ。これは、その人が、合理的な説明が出來ないのを誤魔化す爲に、他人を冒涜してゐる事を意味する。
一方、大日本帝國憲法が有效な憲法であるならば、改正の内容が不當であるがゆゑに「日本国憲法」は無效でなければならない。非常に簡單な話だ。もちろん、「改正は正當である」と言ふ人がゐる。しかし、その人は、「憲法の改正は一般に限界が存在しない」事を前提にしてゐなければならない。「神聖にして不可侵」なる規定をも改定し得ると主張するのだから、憲法の改定に限界は無いと考へてゐなければならない。ところがその人が、主權者を「国民」から「天皇」に「變へる事は出來ない」=「憲法の改定には限界がある」と、同じ口で平然と言放つのである。この時、その人は必ず「天皇主権に戻せと主張するのは反動であり人權侵害を企んでゐるのである」等と極附けるのだが、斯うした價値觀を根據にした主張は、論理的なものではなく、感情的なものである。當然、説得力は皆無である訣だが、「正しい價値觀」だと信じてゐるがゆゑに論理を無視して價値觀の性急な押附けに走つてしまふ。けれども、價値觀以前の論理のところで筋を通してゐなければならないのは、當り前の話だ――その當り前の話が、價値觀=イデオロギーを優先する人には理解出來ない。
私は、イデオロギー・價値觀以前の話をしてゐる。イデオロギー拔きに、非政治的に考へる事が、大事だからだ。これがイデオロギーを優先する政治主義の人には氣に食はない。イデオロギーを押附けるのに、客觀的・論理的な物の見方・考へ方は、邪魔になる。政治主義的な人が私を中傷し、私を世間の人が信用しなくなるやうに仕向けたがる所以である――が、さう云ふやり方をしてゐれば、當然の事ながら、「中傷・誹謗・人格攻撃によつて、自分の價値觀を信じない人間を潰さうとした」と云ふ事實だけが後世に殘る事になるし、勿論、同時代の人の中でも公正で冷靜、或は、物を見る目のある人には解つてしまふ。「馬鹿を騙せれば十分、そして世間の人間はたいてい馬鹿なのだ」と政治主義的な人は考へてゐるが、私はそんな不遜な考へ方はしないし、したくない。頭のいい人は存在するし――そもそも世間の人は案外頭が惡くはないのだ。否、頭の良し惡し以前に、鄙劣な行爲をしてゐる人の事は、普通の人ならすぐにさうと判るもので、そして普通の人なら鄙劣な行爲は嫌な行爲だと感じるものだ。その邊の印象を普通の人は普通に感じとる。だから我々は嘘を吐いたり鄙劣な行爲をしたりして、普通の人を馬鹿にするやうな眞似は、しては行けない――或は「したら結局損をする」事にならう。

平成二十一年九月五日
Opera 10 と EV SSL - A blog? with Σαιτω
サーバID - ベリサイン EV SSL証明書 | ベリサイン - SSLサーバ証明書
EV SSL証明書とは - ベリサイン -
SSLサーバ証明書のクロストラスト — EV証明書とは?
高木浩光@自宅の日記 - EV SSL導入に伴い生じ得る特有の脆弱性
高木浩光@自宅の日記 - EV SSLを緑色だというだけで信用してはいけない実例
平成二十一年九月五日
ラノベを嗤ふ人は何んな本を讀んでゐるんだらうと疑問に思つた。
平成二十一年九月五日
「ストリートビュー」悪質な二次利用には“Google八分”も検討 -INTERNET Watch
ストリートビューなんかだと話は簡單。被害がはつきり「出る」ものだと割と簡單に對策がとられる。
平成二十一年九月五日
転生68・G県厨
ストーカーに附け狙はれた被害者の報告で、ウェブ的には古典中の古典。精神異常のストーカー達は、Kirokuroや「義」を思ひ起させるが、被害者に物理的・直接的な被害を與へたので警察に捕まつた。精神的に被害者は救濟されてゐない事に注意。
平成二十一年九月五日
Googleの仕樣が日々變化してゐて、畫像檢索の表示が變つたと思つたら、今度はPDFを畫像に變換して表示して呉れるやうになつた。Adobe Reader要らないぢやん。

平成二十一年九月四日
ATOKの脆弱性を悪用した不正なプログラムの実行危険性について
ATOKによく分からない脆弱性 | 水無月ばけらのえび日記
平成二十一年九月四日
2000年だかの頃にそれまで毎月買つてゐた「正論」や「諸君!」を買ふのを止めたのだけれども、それ以來ウェブでの論爭は全く出來なくなつた――と言ふより、その手の雜誌を買つておけば、ウェブでは誰でもそこそこ上手に論爭が出來る。連載のコラムを見て、長い論文は見出しをチェックしたら内容をざつと眺める。さうしたら、取敢ずウェブで言はれてゐる事の多くの事には反論が出來るやうになる。技術の問題だ。だから、再反論=切返しも所詮は技術の問題に過ぎない訣。ウェブで論爭をしてゐる人は、相手に巧く切返す事だけが目的であり、相手を巧く凹ませる事で自らの優位をアピールし、自分の信ずるイデオロギーの正しさを證明した積りになつて好い氣になれる。誰も、正しさとか眞實とかを追究したいと思つてゐない。私なんかは、だからウェブでの論爭に興味を失ひ、雜誌の論爭も嫌になつて讀まなくなつたのだが、今でも一生懸命他人を凹ませる努力をしてゐる人がゐる。さう云ふ政治主義の人は幸せだなあと思ふのだが、「知つてしまつた」からには最う「そこ」には戻れない。小林よしのり氏が天皇論だか何だかを出してゐて、私は讀む氣がしないけれども、取敢ず店頭で手に取つて眺めてみる――卷末の參考文獻には、ここ數年に出版された本がずらりと並んでゐる。身内の人が出した本のタイトルが並んでゐる訣だが、さう云ふ新しい本を讀んでゐれば、取敢ず論爭は出來ると云ふ事だ。しかし、そんな「何年かしたら誰も讀まない本」を、今目の前で展開してゐる論爭だけの爲に必死になつて讀込んで、それで何か意味があるのだらうか。私は「馬鹿馬鹿しい」と思つたから政治の本は全く讀まなくなつた。けれども、昔はその手の論爭によく關はつたから、當時から私を知つてゐる人には、私を恨んでゐる人が澤山ゐる。右の人も左の人も、政治主義の人を片つ端から叩いたから、私は右からも左からも恨まれてゐて、だから私を右の人は左翼だと非難するし、左の人は右翼だと攻撃する。そして、政治主義の人は「野嵜こそ政治主義者だ」と極附けて、それで私が不快になるやうにと「粘着ブログ」を立上げて、毎日毎日惡口を書連ねたりするのだが――本當に頭のをかしい人は反省しないのだなあと、批判の無意味さ・言葉の無力さを、つくづく感じる。
平成二十一年九月四日
左翼の人々にしても右翼の人々にしても、本當にろくでもない人間が私に粘着して呉れる訣だけれども、さう云ふ人々は常に「正解を知つてゐる」のであつて、その「正解」を野嵜が言はないからと言つて「野嵜は愚かである」と極附ける。もちろんその「正解」なるものは、イデオロギーが「正しい」と定めるところの「正解」である訣だが、そんなものに私が興味を持てる筈もない。が、政治主義者だからこそ私を誹謗する左翼や右翼はその手の「正解」を信じてしまふ。
私は何時も「正解」よりも眞實や正義といつたものに興味を持つて話をし、相對的な正義にしても絶對的な眞理にしても、そこに到達する道筋・過程を明かにする事に興味を持つてゐた。私は何時も「正解」ではなく「正解に行きつく爲に必要な態度」を説いてきたのであり、だからこそ私に反對する人々は誤解して私の「行動における態度」或は「生きる上での態度=生き方」を非難して來た。もちろん「何の爲の態度」かが重要であるのだから、言葉の聯想ゲームで「態度」に屬する部分を捉へて只管非難するのは誤つてゐるのだが――しかしさう云ふ非難・攻撃の仕方をする惡質な粘着の人々は、自分逹がどれほど非道い生き方をし、どれほど惡辣な態度をとつてゐるか、なぜ認識出來ないのだらうか。私に粘着し、私を罵倒・嘲笑する人々は、一人の例外もなく、匿名である。彼等がどんな仕事をし――そもそも、野嵜を「無職」呼ばはりして嗤つてゐた連中が、一人でも具體的に自分が何の仕事をしてゐるか、述べた事がないのである。「もし職を明かにしたら、野嵜に密告されるから」と言ひ訣するかも知れないが、自分逹が正しい事をしてゐるのなら、野嵜に何を「密告」されようが、説明すれば上司なり會社なりは納得して呉れる筈である。ところが、彼等粘着仲間は、絶對に自分の身許を明かさない。職業も明かさない。自分の正しさを納得して貰へる自信が無いからである。「野嵜は、愚かだから、嘲笑されるべきである」と言ふ人々も、その言ひ訣が、上司や會社には通じない事を知つてゐる。詰り、解つてゐて惡い事をしてゐる訣で、本當にたちが惡いと言はざるを得ないが、さう云ふ人間が野嵜を「惡人」だと言つて誹謗を續けてゐる。

平成二十一年九月三日
小箱とたん「スケッチブック」(マッグガーデン)を六卷まで一氣讀み。たまにとても面白いねたがある。蟲が好きな人にはおすすめ。
平成二十一年九月三日
今日のミーシャ。
チョコとミーシャ
平成二十一年九月三日
六塚光『ペンギン・サマー』(一迅社J文庫)讀了。タイトルは多分エンジン・サマーの捩りだが内容は全然關係ない。時間SFで、大森望が帶に推薦の辭を書いてゐる。面白いか何うかと言へば微妙。小説としては正直言つてそれほど上手ではない。それなりにがんばつて書いてゐるらしき雰圍氣は傳はつて來る。ぼーっとしながら讀んだので讀み終へてすぐは何が何やらさつぱりだつたが落著いて最初の方からちよろちよろと見返すと何となく解つた。多分辻褄は合つてゐると思ふ。新興の文庫から出た、ラノベとしては少しだけ變つた物――と解つてゐて承知で讀むならば、それなりに樂しめよう。

平成二十一年九月二日
【選挙:2009/8/31】鷹澤遊戯場 過去日記

 自民と民主の得票数自体は実はそんなに大差はないけど、死に票を出来るだけ多くする事を目的にして作られた小選挙区制によって議席数はえらい大差に。

 まあ、理想は二大政党制になる事なんだろうけど、小選挙区制が続く限りは僅かな票の差で議席数に大きく差が出続ける訳で、しかも、法律を作るのは当選者な上に、どこが与党になろうと与党にしてみれば小選挙区制のほうが都合がいいゆえ、小選挙区制はずっと続くから、今後も一党独裁制が続くという事なんだろうね。

なぜか「一つの黨が澤山議席をとつたら獨裁政權」とか思ひ込んでゐるらしい。
斯う云ふ誤解をしてゐる人は案外多いやうに思ふから指摘しておくけれども――議員が入代はる可能性のある選擧を何年かごとに必ずやると決つてゐるのだから、日本は一党独裁制ではない。一党独裁ならば、選擧をやらないか、やつても必ず特定の一つの政黨が勝つ仕組になつてゐる。
二大政黨制と言ふのも、「選擧の度に二つの政黨が必ず同じくらゐの議席を確保し、議會で勢力が拮抗する制度」なんてものではないから。多くの支持者を持つた政黨が二つあつて、たまに政權交替をやつてゐれば、時と場合によつてどつちかがより多く議席をとり、どつちかが少く議席をとるのであつても、それは二大政黨制だ。

平成二十一年九月一日
株式会社レストラン京王 - カレーショップ C&C
株式会社レストラン京王 - お知らせ詳細

さて、甚だ勝手ではございますが、このたびカレーショップC&C神保町靖国通り店は、諸事情により8月26日(水)の営業をもちまして、閉店とさせていただきます。

絶望した。
平成二十一年九月一日
民主黨が政權を取つて、「政治主導」の政治を行ふと言つてゐる。けれども、現實には、官僚による行政支配は搖るがず、極めて廣い範圍で官僚主導の體制が維持される事にならう。そもそも「何をするか」を言ふべき「マニフェスト」で「誰がするか」許りを強調したのであるからナンセンスもナンセンスなのだが、それは今は措いておく。
官僚が「やる」事の全てが問題である訣もなく、また、或場合には多少の問題があるとしても、何でもかんでも一々政治家が口を出す事もないし、出す事も出來ない。基本的には官僚任せにしておくしかない。政治家がリードする「政治主導」なんて言ふのも、結局のところ選擧對策のスローガンだ。
が、官僚が決定し、それが重大な問題を生じてゐるにもかかはらず、多くの人が問題を意識してゐない――それどころか、國民の九割九分九厘までが「良い」と心から信じてゐて、假に心ある政治家が見直しを提案すれば却つて袋叩きに遭ふ、そんな政策も存在する。その政策は、全ての政治の場を支配し、行政の場を支配してゐるのみならず、日本人の日常生活を完全に支配してゐるのだが、全ての日本人が恰も「空氣」であるかのやうにその存在を當り前のものと思ひ込み、實はそれが官僚による國民の支配である事實に氣附いてゐない。
――言ふまでもなく、文部官僚による国語政策であるが、民主黨は絶對にその見直しをしようとしないし、文部科学省の役人に指示を出したりもしない。文部官僚によつて決定された漢字制限の政策に、ほぼ全ての國民が賛成し、政治家も一人の例外もなく賛成してゐる。現在、「常用漢字表」の見直しが行はれつゝあるが、民主黨はそれを進めようとこそすれ、止めようとは絶對にしない。「目安」に過ぎない筈の「漢字表」だが、行政の現場では完全に制限として機能し、日常生活でも實質的に制限として認識されてゐる。文部官僚は、自分逹の先輩が實施した政策であり、功績であるから、国語政策の見直しを認めないし、何らかの形で殘さうとする。「目安に過ぎない」のならば要らないのだが、しかしそれでも「要る」と言つてゐるのは、文部官僚が官僚だからである。
文部官僚の面子を守る爲にのみ「新漢字表」は作られてゐるのだが、「漢字制限」を、多くの日本人は「たいへん結構な事」だと信じてをり、意地でも守らなければならないと思ひ込んでゐる。国語政策に關して、國民は官僚に全面的に協力したいと思つてゐるし、政治家も官僚を全面的に支持してゐる。そこでは「政治主導」なんてスローガンは何の意味も持たない。
インターネット時代になつて、歴史的假名遣の正しさが言はれるやうになつた。その爲、元文部官僚が必死になつて「現代仮名遣い」擁護の「論陣」を張つてゐる。官僚の有能さとともに、官僚のやり方の汚さ・卑劣さは、強調されねばならない。しかし、既に實施され、受容れられた政策は、官僚主導であつたとしても、「保守主義的」な日本人にとつて、「意地でも保守されねばならない」ものとなる。民主黨が「政治主導」なるスローガンを掲げても、それはポーズに過ぎず、實際には何の意味も持たない。官僚は、民主政權に代つて困惑してゐると聞くが、それは矢張り外面的なポーズに過ぎず、實際には「何うせ政治家は何も出來やしないから」と、安心して、高笑ひしてゐるのでないか。少くとも、文部官僚の国語政策に關はる連中は、自分逹の地位に胡坐をかいて、安心し切つてゐる事であらう。
平成二十一年九月一日
一夏かけて櫂末高彰『学校の階段』(ファミ通文庫)を讀んでゐて、今十卷を讀了。
何う考へても駄洒落がベースなのだけれども、其處から「階段レース」なんてものをきつちり設定して、リアルな描寫をやつてのけてゐるのは立派。常識的には青春小説に分類されるのだが、或意味良く出來たSFとして讀む事もできる――と言ふか、この小説は案外センス・オブ・ワンダーの小説なのであり、その點が解らないとただの痛いだけの中二病・高二病小説に見えてしまふ。もつとも、ラノベとして、さう云ふ意味でも大變良く出來てゐるのだが、その邊の良さ・巧さが解らない人・解りたがらない「大人」は非常に多い筈。
出版される毎に新刊で讀んだ人も澤山ゐるだらうけれども、これから讀む人は纏め買ひして來て一氣に讀むといい。きつちり最終卷でストーリーを總括してゐるから、前の方の話の内容は覺えておいた方が樂しめよう。
Amazon.co.jp: 学校の階段 (ファミ通文庫): 櫂末 高彰: 本
と言ふか、俺は斯う云ふ話が好きなのだが、うちの讀者の、多分可なり多くの人(アンチ)が氣に入らないだらうと豫想する。俺の事を氣に入つて呉れてゐる人なら樂しめると思ふ。
平成二十一年九月一日
「Opera 10」正式版が公開、高速化技術「Opera Turbo」を搭載 -INTERNET Watch
RCと何も變つてゐない。再インストールする必要はなかつたみたい。
平成二十一年九月一日
「serial experiments lain」のBlu-ray BOX製作が始動 -AV Watch
serial experiments lain Blu-ray LABO プロデューサーの制作日記
そろそろBlu-ray買はうかな。

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