CSS Niteは、何か妙にサブカルつぽいノリが嫌だし、わざわざ行くのも面倒なので、一度も行つた事がないから、何とも言ふ積りはないけれども。
- おかしな用語「無断引用」が一部の新聞記事に使われる
あは、なんか淋しい。いつもの MacOSX から比べると、微妙に淋しい。なんだろね。
回線速度が遅い環境で
スピードダイアルが何んな效果を擧げると言ふのだらう。いろいろな機能を詰込んで重くなつてゐる筈なのに、レンダリングエンジンは
高速化されてゐると主張してゐるし。
圖書館で、『図書』8月号「浄土の猫は蓮に揉まるゝ」(田中貴子)、『月刊百科』3月号「歴史的仮名遣は(えらくないにしても)美しいのか?―『かなづかい入門』批判を駁す」(白石良夫)を讀む。
真逆なる語を、平然と使つてゐるのが氣になつた。
また、4大出版社の規模や書店トップの紀伊國屋書店の規模は、大阪屋とほぼ拮抗(きっこう)しており、日販、トーハンに比べれば本当に小さな会社である。出版社と書店はいわば中小企業の集合体であって、寡占とは真逆の群雄割拠になっているのだ。
しかも鉄道は地球環境に優しくて時代のニーズに合致しているし、地図にも時刻表にも乗ります。
國憲としての正當性が疑はしい昭和憲法の條規に縛られて、國益を損ねるくらゐなら、昭和憲法を破毀して明治憲法に立ち戻るべきであり、或は昭和憲法の條規に手を入れるべきである。吾人は前者が法治の觀點から、より好ましいと思ふが、法は所詮道具であるから、政治がより圓滑に、かつまともに行はれるのであれば、後者でも構はない。兔も角、昭和憲法の前文及び第九條、第十四條第二項、同條第三項、第二十條は、速やかに改廢されるべきであると信ずる。
昨今の報道は、平壤の動向について、センセーショナルに取り上げるが、其の他については、ほぼ沈默してゐる。これは、問題があると言はざるを得ない。平壤の脅威を口實に、軍備を整へるといふのも、一つの遣り方であるとは思ふが、それは矢張歪みをもたらす。假想敵について、正しく認知し、講ずべき對策を模索することこそ、正道ではあるまいか。
歪みをもたらすだけだらう。しかし、今の日本には、Kirokuro的おちゃらけ主義が蔓延してをり、また陰濕極まる「義」のやうな裏工作主義が罷り通つてゐて、眞面目に議論する事も、そもそも問題を正しく認識する事も、妨碍されて、不可能に近い状態になつてゐる。Kirokuroや「義」は、自分逹は「正解」を知つてゐる積りで、その「正解」を「出さない奴はバカ」式の「論法」を用ゐて、言論封殺に邁進してゐるが、彼等の考へる「正解」は、彼等が「正しいと信じてゐる事」に過ぎず、一方的に押附けられるべきものではないし、寧ろ皆が疑問に思はなければならない偏つた價値觀である。だからこそ、「自分の言つてゐる事は絶對の正義である!」と暗示して、反對者を暴力的に排除しようとするKirokuroや「義」のやり方には、對抗する言論が必要である訣だが、暴力に言論で對抗する事は大變に困難であり――しかし、ならば、他國の暴力には自國も暴力で對抗せねばならない場合がある事は自明であらう。別にKirokuroや「義」一匹ならば、大した力は持たないのであり、こちらの生命は脅かされる事もないが(若し脅かされる事になれば、その時は警察の出番となる)、國家ならば(國家を取締る警察が無い以上)こちらの生命が脅かされる事は大いにあり得るからだ。
コギャル言葉や
アスキーアートが「現代仮名遣い」の中に入ると主張する多くの人々は、何時も歴史的假名遣は「明治政府が定めたもの」の中だけだと激しく主張するのだ。それも何うかしてゐるよな。今さら
コギャルなんて死語を持出すのも何うかと思ふけれども。
近代日本語にとっては、歴史的仮名遣いを現代かなづかいに変えて、良かったと思う。もう、歴史的仮名遣いの世界は、汚染されることなく残り続けるわけだから。
日々の業務であつかう報告書なり企画書なりを、奈良や平安の伝統をふまえた規則を覚えた上で書かなければいけないなんて理屈には、いまさら誰も説得されはしないだろう。
なにより、現代かなづかいによってしか伝えられない情感を、私たちは、ほとんどその中に呼吸するように、生きてしまっているという伝統をすでに長く持っているのであり、英語の文法や表記が不合理の塊であるのを受け入れることも英語の伝統につながることであるように、現代かなづかいを使うこともまた、戦後の断絶によってしか明らかにならない日本語の伝統につながるということなのだ。
日本語の伝統につながるなんて事には絶對にならない。傳統とは生き方に外ならない。「生き方につながる」なんて事は所詮「他人のもの」として切捨てる事をさももつともらしく表現したに過ぎないのであり、實際にその「生き方をする」事しか「生き方」を肯定する方法はない。
現代かなづかいによってしか伝えられない情感が「ある」と、理窟では言ふ事が出來よう。けれども、誰が何う考へても、
コギャル言葉や
アスキーアートは「現代かなづかい」ではない。この筆者は「現代仮名遣い」の時代に、五十年以上前に制定された「現代かなづかい」を持出してゐるのだ。いやいや、「現代かなづかい」と「現代仮名遣」を「同じ」ものと看做したければ看做しても良い――が、それでは表現し得ない「情感」が「ある」からこそ、
コギャル言葉や
アスキーアートが流行つてゐる訣だ。携帶の繪文字でも何でも良い。「情感」を直接表すならば、そもそも言葉なんてものは不利であるのだ。歴史的假名遣も「現代仮名遣」も、所詮はかなづかひの規範に過ぎないし、かなづかひの状態を言ふものに過ぎない。情感を言ひ表すには、かなづかひとは全く次元の異るものを用ゐなければならない。それが巧い人の文章が巧い文章と呼ばれる。かなづかひそれ自體と情感とを結び附けて言ふのは、飛躍があり過ぎる。
それで深見さん以外の女性陣は、もてない女キャラを演じていく。今村つぐみ、垣内友香里のコンビが、一昔前の女子高生風にだべりながら、ふと思い立ったみたいに踊るとかって場面は抱腹絶倒だった。
いかにも「戦後」的な「問題」をキリキリと追いつめるような作品なのだが、物語に物語で答え、さらに物語によって人を支配、操作しようとさえする人間の思考と空想の欲望絵図は、ひたすら気持ち悪いのだがいまもってまったくアクチュアルに感じられる。
毎回モダニズムの運命を背負うかのように技法的冒険を己に課すフォークナーにしては、複数の登場人物の過去をシャッフルして時間軸を交錯させながら事件を推移させる構成は、ほとんどストーリーテリングの枠におさまっているもので、その意味で実験性は他の長篇にくらべ希薄ではあるものの、むしろそのことによって登場人物たちの人生が有機的に物語の重層性を象っていて、ごく普通に読んでとても面白い作品となっている。
竹内誠の『寛政改革の研究』(吉川弘文館)を読んでいる。ひさしぶりにまっとうな学術書を読んでいるのだが、これが非常に面白い。田沼時代を評価する人は楽翁を批判的に見ることが多いが、その経済政策は基本的に継承されていて、前代の責任者に対する苛酷な処置を当時の世相から必要な措置を看做す視点はきわめて説得的で、やっぱりこの時代は面白いなあと思う。
日本のWEBは残念かと言つたら――實際のところ、ウェブに私はまるで期待などしてゐなかつたのだけれども、豫想をはるかに越えて非道い事が起きてゐて、殘念と言ふよりもただただ嫌だなあとしか思はない。即ち、Kirokuroと「義」の出現だけれども、あゝ云ふ暴力団みたいな人間が横行闊歩するやうになつてしまつて、本當にウェブは嫌だなあと思ふ。それ以前は、馬鹿であるにしろ、竹下義朗にしてもアレクセイ田中幸一にしても、一往知性を賣りにしてゐて、兔に角話をして、それでバトルを展開しようとはしてゐた。それがKirokuroや「義」は、最う話をする氣が最初から無い。「義」は、陰濕な裏工作で人の足を引張り、氣に入らない人間(私の事だ)の名譽と氣力を喪失せしめようとしたし、今でもし續けてゐる。Kirokuroは、私の發言を採上げては「バカだからこんな事をいうのですガハハ」みたいな嘲笑を一方的に浴びせるだけ。私が反論しても全部無視する。渠等は「野嵜はバカ」と云ふのを「最初から知つてゐる」のであつて、「バカ」を「紹介」して揶揄つて「遊ぶ」、「バカ」の名前を騙つて評判を落して「遊ぶ」――それで連中、自分が良い事をしてゐる積りでゐる。竹下にしてもアレクセイにしても、最初は話をしてゐるし、話をした結果としてこちらの事を氣に入らなくなつた。ところが「義」もKirokuroも、まるで赤の他人、何の接點もなかつたのに、突然現はれて、恰も公正な「第三者」か「レフェリー」のやうな顔をして、嬉しさうに「解説」してみたり、或は、他人だから絶對に不可能なのに、本氣になつて私を憎んでしまつたり――何れにしても異常だが、竹下やアレクセイが馬鹿なだけなのと違つて、Kirokuroも「義」も頭がをかしい。「義」は、Yahoo!掲示板でzak_kと名乘つて他人を愚弄し、罵倒しては喜んでゐた氣狂ひと同一人物だらうが、あゝ云ふ人間が私に固執して來るとは豫想も出來なかつた。全くの赤の他人に、「馬鹿だから」と云ふ理由で附き纏ふ。そんな理由はあり得ないから、頭がをかしいとしか言ひやうがないが、當人は自分がとてもまともな理由を擧げてゐると本氣で信じてゐる――剩へ、自分が正常で、野嵜は愚人だと本氣で信じてゐる。「馬鹿だから馬鹿に附き纏ふ」と云ふのは、ストーカーにしても本當に異常で、精神病院に行けば良いのだが、こんな人間が、自分は正常であると確信して、ウェブに棲息し、しかもその氣狂ひの周りに陰濕で惡辣な人間が寄集つてゐるのだ。
男子がすなるという、あれと「現代仮名遣」になつてゐるのに、第二話のそれが
春の長日を恋ひ暮らしと歴史的假名遣になつてゐる。何で斯う云ふ不統一な事を平氣でやれるのだらう。アニメの制作者には能なしが揃つてゐるに違ひない。
編集後記 〜スタッフの小言〜
ぶつぶつ文句を言うこと。その言葉。不平・苦情・訓誡(の言葉)。の謂だが、日本語を知らないスタッフだから、また何か勘違ひしてゐるのだらう。