制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。
あとKirokuroや「義」の嫌がらせへの抗議。

闇黒日記


平成二十一年八月三十日
Amazon.co.jp: 木田元の最終講義 反哲学としての哲学 (角川ソフィア文庫): 木田 元: 本
讀了。
ハイデッガーとマッハの事を述べてゐるのだけれども、その背後にニーチェと云ふ大きな存在がある事を指摘してゐる。またこれらの人々と關聯して、キルケゴールやドストエフスキー、フッサール、ホーフマンスタール、はたまたヴァレリイの事を述べてゐる。現象學なる現象は、現代の思想界に大きな影響を及ぼしてゐるのだけれども、近代的な西歐の考へ方に對するアンチテーゼであり、反近代的・超近代的な思想であると言へる。
ケルゼンやポパーなんかにまでマッハの影響が及んでゐる事は、常識なんだらうが、改めて認識しておいて良いだらう。
一方、斯うした人々と平行して、日本でも――福田恆存が現象學的な發想から相當強い影響を受けてゐた。福田さんの物の見方にしても主張の仕方にしても、現象學的な方法が取入れられてゐる。福田さんは、ニーチェの讀者であつたが、時枝誠記を評價したり、ヴァレリイの『精神の政治學』に觸れてゐたり、西歐作家論でサルトル論を展開したり――もちろん、單純に現象學の方法を鼓吹してはゐないが、直接的・間接的に現象學に觸れてゐるし、その方法を利用してゐる。福田さんの論文の、論理性を評價する人は多いが、物の見方を評價する人は案外少い。昭和二十年代・三十年代の日本で、意識して現象學の方法を利用した文藝評論家は少かつた筈だ。それどころか、以後の評論家・思想家にも少い。そもそもの現象學的發想それ自體が「一般性」を缺き、「難解」との理由によつてレーニン等に排除された歴史を持つくらゐで、理解され難い・厄介な思想として知られてゐる。が、「近代的な西歐の發想」に對するアンチの立場であるニーチェ以來の一聯の思想に屬するがゆゑに、現象學的發想はそもそも厄介なのであつて、甚だ現代的であると言へるのではあるが、依然として現代に於ても一般化しようのないまゝに、多くの人から持て餘されてゐる。

平成二十一年八月二十九日
「ウェブデザイン」改め「特定UA特定解像度特定環境ピンポイントデザイン」 - 雑記 - AZ store
CSS Niteは、何か妙にサブカルつぽいノリが嫌だし、わざわざ行くのも面倒なので、一度も行つた事がないから、何とも言ふ積りはないけれども。
ウェブサイトのデザインを決定する責任者の人は、自分の環境を基準に考へるから、一般に何うとか云ふ理論を言つても結局のところ凄く偏つた考へ方をしてゐるんだよ。だから、環境が變ると言ふ事が變はつたりする。しつかりした考へがないんだ。

平成二十一年八月二十八日
破損したMpegファイルを修復する「VCDGear」 -[Di]
「VCDGear」MPEG修復フリーソフト | エンジョイブログ
まに〜のアトリエ MPEGファイル破損
壊れたMPEG2ファイル - プロキオンのはてな
またNB100+GV-MVP/RZで録畫したデータが破損してゐた。今度はAT-Xのナジカ電撃作戰がやられてゐた。HDDをchkdskするとエラーが出るが、そのせゐか何うか判らない。
Windows XP で CHKDSK がボリュームビットマップエラーのメッセージを表示する
チェックディスク実行時のボリューム ビットマップ エラーについて
最う隨分長い事NB100での録畫データの破損には惱まされてゐて、前の中古Let's noteは何とも安定して録畫出來てゐたのだなあと改めて思ひ知らされたが、前のは前のでGV-MVP/RZ2と相性が惡いなどいろいろ問題があつたりしたのだから、どれもこれも一長一短、決して單純に「いい」ものとも言へないのだらう。
平成二十一年八月二十八日
【やじうまWatch】 Twitterが落ちない! テレビ東京放送後の妙な安定 ほか -INTERNET Watch
  • おかしな用語「無断引用」が一部の新聞記事に使われる
「無斷引用」では隨分戰つたつけな……。

平成二十一年八月二十七日
Windows は、なんだか淋しい - カナかな団首領の自転車置き場

あは、なんか淋しい。いつもの MacOSX から比べると、微妙に淋しい。なんだろね。

私は逆。何時も使つてゐる無名戰士くん(WindowsXP)でウェブを見ると妙に落著く一方で、職場のMac OS X機で見るとなんか居心地惡く感じる。Operaを使つてゐる所爲かも知らんけど。
どつちで見るにしても、私の場合、ウェブサイトには、ひたすら早く表示される事だけを望んでしまふ。殊にMacの場合、最う古い機械なもので、畫像を使つたり、そもそもテーブルでレイアウトしたりしてゐるウェブサイトには、本當に困らされてゐるのだけれども、ならばWindows機の方では「リッチ」なコンテンツが良いかと言ふとやつぱりそんな事はなくて、寂しいも何もない、ただただ讀める文章の記事を、充實した情報のウェブサイトを、讀みたいと思ふ。
平成二十一年八月二十七日
正直言つて、ウェブデザインなんてものは目立たないものであればあるほど良いのであつて、なぜならデザインは空氣の樣なものであるべきであり、文章或は文字情報こそが閲覽者にとつて本當に重要なものであるからだ。もし本當にデザインだけで十分であるのなら、文字なんてものは要らない筈であり、文章の代りに○○○○とか××××とか、記號が竝んでゐたつて閲覽者は引きも切らない事になる筈だ。ところが現實には、そんな馬鹿なサイトはあり得ない。如何にデザインが優れてゐたとしても、閲覽者はウェブサイトに情報を得に行くものである。ウェブデザイナと呼ばれる人種の人々には、その邊の事が全く解つてゐない人がやけに澤山ゐるのだが、さう云ふ現實を知らないでデザインをやつてゐるから、現實離れしたをかしな「デザインの爲のデザイン」を平氣でやつてしまふ事になる。
……で、さう云ふデザイナの諸氏が、おしゃれな機械として、Macを好んで買つてゐたものなのだが。
平成二十一年八月二十七日
Opera ブラウザ | 高速で安全 | 新しいインターネットブラウザを無料でダウンロード
回線速度が遅い環境スピードダイアルが何んな效果を擧げると言ふのだらう。いろいろな機能を詰込んで重くなつてゐる筈なのに、レンダリングエンジンは高速化されてゐると主張してゐるし。
Operaのコンセプトは既に支離滅裂なものと化してゐるやうに思はれるのだが、誰も疑問に思はないのだらうか。
平成二十一年八月二十七日
晴れ - はてなの茶碗

圖書館で、『図書』8月号「浄土の猫は蓮に揉まるゝ」(田中貴子)、『月刊百科』3月号「歴史的仮名遣は(えらくないにしても)美しいのか?―『かなづかい入門』批判を駁す」(白石良夫)を讀む。

何う云ふ内容の文章だつたのか、それを讀んでどのやうに思つたか、そこまで突込んで書いていただけると大變助かるのだが。
私も相當淺い書き方をする事があるのだけれども、しかし、例へばはてな方面の人が「何々を読んだ」或は「何々を買つた」と言つて書名を羅列してゐるのには時々苛々する事がある。何かの本について情報を探してゐて、ぐぐつた時、はてなの記事が引掛かる――行つてみると「今日買つた本」がだーっと羅列されてゐるだけ。がつかりして引返すのだが、はてなに限つてGoogleでの順位が高くなつてゐたりするので、屡々この手のがつかりを經驗させられる。
平成二十一年八月二十七日
かなづかひにしても憲法にしても、「美しい」か否か、とか、「正しい」か否か、とか、さう云ふ價値觀を表に出して爭ふのは、私は意味がないと思つてゐる。重要なのは「どちらが先にあつたか」であり、先にあつた方に優先權がある、と私は簡單に考へる。それが歴史的な物の考へ方と云ふものだらう。それに反對する人々は、革命を起こすべきである、と云ふ價値觀の持主であり、既成のものを破壞したがつてゐる人々である。白石良夫なんかは、ただ、傳統的な假名遣を破壞した「文部官僚の功績」を誇り、守りたいだけで、その爲に「美」とか何とかの論點を作つて、もつともらしい理窟を唱へてゐるに過ぎない。けれども、問題は「どつちが先に『あつた』か」と云ふだけの事なのだ。
しかし、さうなると、今度は「先にあつた」と云ふ事を否定する爲に、「歴史的假名遣は歴史的に存在しなかつた」と云ふ珍説を言出さなければならなくなる。或は、Kirokuroらが「大日本帝國憲法は存在しなかつた」と頻りに言つてゐるけれども、そんなトンデモ説は、誰もまともに相手にしない。が、それだからこそ、じわじわと珍説・トンデモ説が世の中に滲透して行く事になる。
大日本帝國憲法が先にあつたのなら、その規則は何時まででも有效であるのであり、正當な方法でしか改められない。「日本国憲法」が「無效」である所以である。ところが、Kirokuroらは、大日本帝國憲法は有效であつたものではないのであり、「日本国憲法」が初めて日本で有效な憲法として作られたのである、と主張してゐる。こんな馬鹿な話はないが、餘りにも馬鹿げてゐて誰も批判しないので、彼等が力強く「洗腦工作」を進めてゐる爲に、馬鹿な話が「常識」と化してしまふ。白石ら「アンチ歴史的假名遣」の人間も、さうした工作の爲に、頻りに珍説を垂れ流してゐるのである。この種のKirokuro的珍説・白石的怪説が罷り通るやうになると、全うな説が却つて「珍説」だの何だのとレッテルを貼られて、封じ込められるやうになつてしまふ。
平成二十一年八月二十七日
新しいHTML5の草案が公開 | Web標準Blog | ミツエーリンクス
HTML 5は、恐ろしく「實用的」なので、理念的には全く面白みのない規格だ。だから私は全く興味を持たないが、何でも實用的に使ひたい實用的な人には受けが良い事だらう。
汎用埋込み要素であるobject要素は、大變興味深いものだ。が、video要素なんてものは實用的に「使へる」だけで、觀念的には何の面白みも無い。
文書の觀念的な構造・抽象的な構造に興味がある人間にはHTML 4.01邊でもまだまだ具體的に過ぎて不滿だつたのだが、文書を利用して「何かをする」事に興味のある人には逆にHTML 4は抽象的過ぎて不滿だつたのだらう。ブラウザをコントロールする言語として、HTML 5は便利に使へるものとなるらしい。便利である事を喜ぶ人は多いから、HTML 5は歡迎されよう。嫌な話である。

平成二十一年八月二十六日
Opera 10.0 Release Candidate - A blog? with Σαιτω
Opera 10 beta 3がちよつと非道過ぎるのでRCを入れたらこちらは大丈夫な樣子。beta 3は、altキーへの反應の仕方がへんで、IMEのトグルをしようとする度にへんな擧動になる。
正直ウェブブラウザなんて、快適にウェブをブラウジングできさへすればそれで十分なので、餘計な機能が附加されてヴァージョンアップだなんて言ふのなら最うヴァージョンアップなんかするものかくらゐ思つてゐた。ちやんと動く事がウェブブラウザを使ふ最低の條件なのであり(と言ふよりあらゆるプログラムに就いて言へる事だ)、機能が増える事なんて實は誰も望んではゐない――のだけれども、案外メーカや開發者はその邊の事が解つてゐなかつたりする。
そもそも定期的かつ計劃的にヴァージョンアップをするビジネスが定着してしまつてゐるのがをかしいのであり、今の時代、そんな事をされてもユーザにとつては何のメリットもないと云ふのは常識であるのだけれども、今さら開發者もメーカも「やめられない」ところにまで追込まれてゐる。
雜誌やwebzineの批評家連中も「××の機能がない」「機能が不足している」「機能をつけたらどうか」のやうな「批評」をして、自分はとても良い批評をしたのだ、と思ひ込んでゐたりする。だからMicrosoftなんかはWindowsのヴァージョンアップの度に機能を増やす事だけを心がけて、基本的な部分での機能のブラッシュアップを何年も怠つて平氣でゐられた。批評家はMS批判をしながら、本質的な批判を怠つて來たから、MSの怠慢を根本的に指彈する事ができないでゐた。
製品が良くならないのなら、批評は間違つてゐた訣だ。けれども、PC雜誌の批評は今も昔も全く變つてゐない。昔から同じ批評家が何年も何年も全く變らない内容の批評を書いて飯を食つてゐる。進歩がないのだ。要は「飯さへ食へれば何でもいい」と、ライター諸氏は思つてゐるのであり、製品の品質向上なんて事を本氣で考へてなどゐないと云ふ事。斯う言ふと言過ぎだと非難され、アンチ野嵜がまたぞろ出現する事になるのだらうけれども、茲二十年くらゐのPC雜誌の批評がどれもこれも二流であり、一流でなかつた事實は、そろそろ指摘されていい。
平成二十一年八月二十六日
「Opera 10」RC版公開、正式版は9月1日公開予定 -INTERNET Watch
低速のマシンでぺーじのサムネイルを表示する機能は果して意味があるのか、といつた問題を、恐らくOperaの開發者は考へた事がない。低速の囘線は「ある」と認識してゐても、低速のマシンが「ある」とは認識してゐないのだらう。高性能なPCでばしばし動作する事だけを今の開發者は豫想してゐる。だから要らない機能を次から次へと平然と組込める。
平成二十一年八月二十六日
Business Media 誠:出版&新聞ビジネスの明日を考える:日販とトーハン、2大取次が寡占する日本の出版流通事情 (1/4)
真逆なる語を、平然と使つてゐるのが氣になつた。

 また、4大出版社の規模や書店トップの紀伊國屋書店の規模は、大阪屋とほぼ拮抗(きっこう)しており、日販、トーハンに比べれば本当に小さな会社である。出版社と書店はいわば中小企業の集合体であって、寡占とは真逆の群雄割拠になっているのだ。

岩波国語辞典第三版に「まぎゃく」なる項目はない。「流行語だから存在する語である」と思ひ込みたい人がこの世には非常に多いが――少くともジャーナリストなら、言葉の使ひ方には愼重かつ保守的になつて貰ひたいものだ。
事實については大體あつてるが、「出版社が全部惡い」式の結論に話を持つて行つてゐるのが非常にをかしい。言葉の使ひ方に粗雜さが見られるだけに、この文章全體の信頼性は非常に低くなつてしまつてゐる。少くとも私はこの文章のライターは信用しない。
――と言ふか、この「Business Media 誠」なるサイトの文章、私はどれもこれも今一つだと思ふ。
Business Media 誠/ニュースを考える、ビジネスモデルを知る
平成二十一年八月二十六日
Business Media 誠:近距離交通特集:廃線の危機を脱するアイデアとは?――ある第三セクターの再生物語 (1/5)
これもろくに校正やつてない。

 しかも鉄道は地球環境に優しくて時代のニーズに合致しているし、地図にも時刻表にも乗ります。

地圖や時刻表には「載る」ものだ。
平成二十一年八月二十六日
DVDメディア品質変動グラフ2009Q1
平成二十一年八月二十六日
http://www.w3.org/TR/2009/WD-html5-20090825/
HTML 5のWorking Draftが出た模樣。
HTML5でたよ (Aug. 2009) - vantguarde - web:g

平成二十一年八月二十五日
  1. 或一貫した、本當の事・眞實の事が、見えないけれども何處か上の方にある。
  2. 個別の歴史の事實・事象を通して、それが垣間見える。
  3. 野嵜は、過去にあれこれ言ひ、今もあれこれ言つてゐる。
――私としては、過去に言つた事と、今言つてゐる事との間に、聯關を附けたいばかりでなく、一貫性を持たせたい。それは、言つた事に責任をとる、と云ふ事の一部であるからだ。が、それはただ、「野嵜の發言」のレヴェルで完結してゐる事ではない――一番の根源にある眞實と云ふもの、この次元で、理窟も何もかも、全ては一貫してゐる筈で、私はそれを確信し、殆ど信仰してゐる。
例の徳保氏。氏はいい人だが、私は氏の主義・主張を全く認められない。なぜなら、氏は、全ての個別の事象に對して個別の理窟があると信じてゐるからだ。事象の次元彼方に眞實の次元が存在すると、徳保氏は信じてゐない。この點で、私と氏とは意見を異にする。
趣味のWebデザイン
徳保氏は、巧みに個別の問題を論ずる。私は時々、個別の問題について、論じ損ねる事がある。けれども、巧く話をする徳保氏の考へ方を、私は決して認められない。それどころか、個別の議論に就いても、徳保氏の論じ方を、私はいいとは全く思はない。結局は、徳保氏自身が前面に押出されてゐるやうに思はれるからだ。
これに對して、Kirokuroのやうな人々は、また違つた考へ方をしてゐる。彼等は、成る程、眞實なり正しい事なりは「ある」と、認めてゐる。けれども、それに何の價値も見出さない。
  1. 自分逹の生き方・考へ方が「ある」。
  2. それによつて、歴史的事象を裁斷する。
  3. 眞實や論理は、自分の好みを表現する爲に、場當り的に・便利に使へるものである。
斯うしたKirokuro的・政治主義者的發想だと、自分の主義・主張が最優先にされ、それがひたすら一貫してゐればいい――と言ふより、好みなのだから、一貫してゐる筈である。そして、「一貫性」が、自己の發言における責任を擔保するものであると言はれるのならば、彼等は自分の立場に自信を持つ事になるだけである。自分、自分、自分。
この時、歴史的事象・事實は、自分の主義を主張する爲の材料として、利用されるだけのものになる。Kirokuroらは、自分の意見を押附ける爲の、權威附けの爲に、歴史を利用する。
歴史を利用するのに、もつともらしい事を言ふ爲に、Kirokuroのやうな人々は、その場その場で、理窟を言ふ――のだが、その時、理窟は場當り的に、論者の言つてゐる事を尤もらしく見せかける爲に利用される。だから、彼等にとつて、眞實は存在せず、理窟が一貫した客觀的なXは存在しない。ただ、その場その場で自己の主張に權威を與へる理窟が存在するだけである。Kirokuroが尤もらしい事を言ふのに、故事つける論理は、成る程巧みにセレクトされてはゐる。けれども、その根柢に一貫した理論はない。その論理の上に、Kirokuroの主觀――好みと云ふものが存在して、一貫性を見せてゐるだけである。が、その時、結果として現はれるのは、主觀であり、客觀ではない。
そして、主觀を見せびらかすとは、自己を見せびらかす事であり――Kirokuroらは、自分自身を誇示してゐるのである。が、それが議論であり、批評である、と、Kirokuroは心から信じてゐる。だからこそ、自己を埋沒させ、自己を超えたものの存在を「認めよ」と主張する野嵜の立場をKirokuroは憎惡し、さう云ふ立場の野嵜を侮辱して、怨念をはらさうとする譯である――が、客觀的な「立場」と主觀的な「個人」とが目の前にある時、客觀的な物を認められないKirokuroは、何うしても個人に對する攻撃に走らざるを得ない。「義」も同じである。
客觀的なもの・自己を超えたもの・眞實――といつたものを、私は信仰してゐるし、さう云つたものの存在を示す爲に、一貫した内容の理論なり何なりを構築しようとしてゐる訣だが、そもそも「自己を超えたもの」を示唆するのが、「自己禮讚主義者」であるKirokuro、と言ふより、現代の日本人には、受容れ難いものなのだ。そして、眞實と云ふものを原理とせず、自己を原理とするがゆゑに、現代の日本人は、自己を超えたものを主張する個人を憎惡し、恨む事になる。それが即座に敵身方思考に逢着し、身内に甘く敵に辛く、のKirokuroや「義」のやうな政治主義者の態度になる。が、さう言はれるとますます彼等は恨むのであつて、また彼等は大抵小利口なので、相手(私・野嵜の事だ)が言つた言葉をそつくりそのまゝ利用して、相手(私・野嵜個人)をやり込めようとする。Kirokuroらが私・野嵜を「政治主義者」と罵るのは、彼等が政治主義に陷つてゐる事實を私が指摘した爲だ。私は問題を指摘しただけだが、彼等はそれを「個人攻撃」だと受取つた。自分中心にものを考へてゐるから、勘違ひするのだが、勘違ひする人間だからこそ、變に執着し、何年も何年も執着する事になる――粘着と化す訣である。
心理的には、慥かに何の不思議もないが――粘着は一種の病氣であらう。粘着行爲をするやうな人は、粘着行爲の病理を全く悟らないものである。自分がをかしな人間である事を認めたがらない。が、世間は粘着が犯罪傾向がある、とすら思ふものである。虹裏でも、粘着が自己の正義を主張してゐたが、頭がをかしいとか、犯罪者紛ひの人間だとか、散々に言はれてゐたものだ。そして、さう云ふ人間を支持するやうな意見は、たまに斷續的に書込まれるのだが、大抵自作自演だつた。赤字が出る度に、粘着の異常行動が暴かれて、皆が戰いたものだ。しかし、それでも、粘着は異常行動を止めない。何度でも同じ事を繰返し、自己の偏つた正義觀を、他人に押附け――他人をコントロールしようとする。をかしな人間だからこそ、他人を支配しようとする訣である。自分が一番と信じ切つてゐる人々をこそ、警戒しなければならない。
虹裏なんかだと、自分を主張する人間は嫌はれるのであつて、兔に角自己を滅却して良いネタを投下しないと面白がられない。慥かに病んでゐる人間の集りではある(性的な意味で)けれども、虹裏は案外、自己滅却の訓練の場として有益である。アノニマス性を活かして――それがエンタテインメントの方向にしか活きないのは、日本的な現象ではあるのだけれども。
2ちゃんねるや喜六郎ちゃんねる(笑)は、ひたすら一方的に主義主張を繰返す事を容認する場である。Yahoo!掲示板も含めていい。そこは、人の傲慢さを増幅するだけの場であり、自己主張の強い人間の巣窟と化す。匿名だからこそ、言へる主張は「ある」と言ふのだが、さうした主張を一方的に出來るやうにする爲の匿名制度は、惡い方向にしか働かない。自己主張を「良い事」と勘違ひさせる方向に働くのである。さうした場で育つたKirokuroや「義」は、現代の日本人の一番惡い面が現はれたネットワーカとなつてしまつた。
平成二十一年八月二十五日
securecat's exblog : バナーの表示されどころ
クリックさせようとする悪い癖 - the OYAKONEWS@Hatena::Diary
「何でも良いから賣れれば良い」「何でも良いから票を入れて呉れれば良い」……「如何にも日本人らしい發想」だよな。
「何でも良いから福田恆存に惡い印象を持つて呉れれば良い」とか「野嵜に惡い印象を持つて呉れれば良い」とか、そんな事を本氣で思つて工作を續けてゐる人もゐる。この種の考へ方をするのが「日本人らしい日本人」なのかと思ふと、輕く絶望する。
平成二十一年八月二十五日
http://www.hiemalis.org/~acy/diary/2108.html#H21-8-24-rubbish

國憲としての正當性が疑はしい昭和憲法の條規に縛られて、國益を損ねるくらゐなら、昭和憲法を破毀して明治憲法に立ち戻るべきであり、或は昭和憲法の條規に手を入れるべきである。吾人は前者が法治の觀點から、より好ましいと思ふが、法は所詮道具であるから、政治がより圓滑に、かつまともに行はれるのであれば、後者でも構はない。兔も角、昭和憲法の前文及び第九條、第十四條第二項、同條第三項、第二十條は、速やかに改廢されるべきであると信ずる。

私と大體同じ考へを述べてゐるのだが、Kirokuroはこの發言に絶對に言及しない。なぜか。ウェブで目立つてゐないからだ。
私をKirokuroが攻撃するのは、私が目立つてゐるからで、目立つ人間=影響力のある人間を潰す事で、Kirokuroは自分の主義・主張だけが世の中で通るやうになると考へてゐる。これは横着なやり方であるとともに、政治的なやり方であり、大變卑怯なやり方だが、さう云ふやり方をKirokuroは大變良いものだと心から信じてゐる。だからKirokuroは政治主義者であるのだが、斯う云ふ人間が日本には非常に多い。樂をしつゝ、自分の思ひ通りに世の中を動かせる――それを「たいへんいいこと」だと信ずる横着な人が多いのだが、それは良くない事だ。ところがKirokuroやその取卷き達は、横着を「良い事」だと思つてゐる。しかし、Kirokuro的・「義」的な「横着主義」が罷り通るならば、日本人は何時までもまともに國防の問題を論ずる事が出來ないだらう。

昨今の報道は、平壤の動向について、センセーショナルに取り上げるが、其の他については、ほぼ沈默してゐる。これは、問題があると言はざるを得ない。平壤の脅威を口實に、軍備を整へるといふのも、一つの遣り方であるとは思ふが、それは矢張歪みをもたらす。假想敵について、正しく認知し、講ずべき對策を模索することこそ、正道ではあるまいか。

「北朝鮮問題」にしても、多くの人がただ興味だけから手を出して、いろいろな事を樂しく喋つてゐるけれども、それが良い事だと私は思はない。マスコミのセンセーショナリズムにも問題はあるが、さうしたセンセーショナリズムに進んで乘つかり、樂しく・他人事のやうに問題を論ずる、Kirokuro的な態度は、まじめな問題を不まじめに扱ふものであり、それは議論の展開にも、或はそもそもの事實の認識にも、歪みをもたらすだけだらう。しかし、今の日本には、Kirokuro的おちゃらけ主義が蔓延してをり、また陰濕極まる「義」のやうな裏工作主義が罷り通つてゐて、眞面目に議論する事も、そもそも問題を正しく認識する事も、妨碍されて、不可能に近い状態になつてゐる。Kirokuroや「義」は、自分逹は「正解」を知つてゐる積りで、その「正解」を「出さない奴はバカ」式の「論法」を用ゐて、言論封殺に邁進してゐるが、彼等の考へる「正解」は、彼等が「正しいと信じてゐる事」に過ぎず、一方的に押附けられるべきものではないし、寧ろ皆が疑問に思はなければならない偏つた價値觀である。だからこそ、「自分の言つてゐる事は絶對の正義である!」と暗示して、反對者を暴力的に排除しようとするKirokuroや「義」のやり方には、對抗する言論が必要である訣だが、暴力に言論で對抗する事は大變に困難であり――しかし、ならば、他國の暴力には自國も暴力で對抗せねばならない場合がある事は自明であらう。別にKirokuroや「義」一匹ならば、大した力は持たないのであり、こちらの生命は脅かされる事もないが(若し脅かされる事になれば、その時は警察の出番となる)、國家ならば(國家を取締る警察が無い以上)こちらの生命が脅かされる事は大いにあり得るからだ。

平成二十一年八月二十四日
近所でオカメインコが逃げたらしく、電柱に「探しています」の貼り紙が貼られてゐた。

平成二十一年八月二十二日
化物語。駿河の話。また假名遣ひが「現代仮名遣い」だつたところがある。
平成二十一年八月二十二日
『1984年』が高く評價されてゐるのは、作者の主義・主張が評價されてゐるのではなく、その主義・主張にもかかはらず、理性的に推論を進めて極めて説得力のある架空の政體を作り上げ、それが大變興味深いものに仕上がつてゐる事による。文學と言つても、單に主觀的であると言ふだけではないのだ。價値觀のやうな主觀的な面だけがあれば良いのではなく、客觀的・論理的・理性的な面がある事は、或文學作品が優れたものとして評價される爲には必要である。
優れた設定を作り、それを巧みに物語るのは、優れたSFとして必須の要件だが、その設定が、「うまく作られてゐる」のみならず、文明論的な意義を持つてゐる事は、『1984年』が、SFとしてのみならず、一般的な文學として評價される理由である。
平成二十一年八月二十二日
【西川和久の不定期コラム】 1万円を切るカラーインクジェットプリンタ「HP Officejet 6000」
平成二十一年八月二十二日
ネイティブアプリ級のHTML5にグーグルが期待すること - @IT
HTMLの仕樣と言つてゐるけれども、寧ろウェブブラウザの機能強化を要求してゐるんぢやん。OS並の基本機能をウェブブラウザに持たせて、スクリプトで簡單に呼出せるやうにしようと言ふんだ。
HTMLが、文書のマーク附け言語から、ウェブアプリケーションの記述言語に改變されようとしてゐる。と言ふか、スクリプトの形のプログラムを呼出す爲に必要だから、仕方なくHTMLが殘されたに過ぎない。HTML文書はもともとデータをやりとりする爲に構想されたものだが、HTML 5の文書はそれ自體としては「價値のないデータ」でしかあり得ない。呼出されたスクリプトで、作業をして、データを作る爲に必要な「裏方」としての――設定を記述したファイルでしかなくなつてしまふ。
プログラマがアプリケーションを開發するのに都合の良いプラットフォームを實現するだけの爲に、HTML 5なるものは構想されてゐる。HTMLは殺されたのだ。何うして斯うもプログラマは我がまゝなんだらう。

平成二十一年八月二十一日
讀賣新聞が、民主壓勝の豫想を一面で大々的に報ずるその横で、民主のマニフェストの内容が甚だ曖昧である事を批判し、自民の方が方針がはつきりしてゐる事を指摘してゐる。特に「票にならない」外交政策の面で、民主黨は實に怪しく、自民黨はしつかりしてゐると評價してゐる。
平成二十一年八月二十一日
ミーシャ、青Gくんと再會

平成二十一年八月二十日
舊かなづかひロリコンイラストサイト:時代の斜めうしろ
あと、コギャル言葉アスキーアートが「現代仮名遣い」の中に入ると主張する多くの人々は、何時も歴史的假名遣は「明治政府が定めたもの」の中だけだと激しく主張するのだ。それも何うかしてゐるよな。今さらコギャルなんて死語を持出すのも何うかと思ふけれども。
それに、規範として制定されてゐる「歴史的假名遣」なんてものは、實は明治の御代にも存在してゐないし、大正・昭和の御代にも存在してゐない。明治政府が採用した假名遣ひが「あつた」と言ふ人は、具體的に「明治政府發表の假名遣表」を示して貰ひたい。そんなものは存在しない。
「現代仮名遣」が五十年續いてゐると官僚的に主張する人は、「現代かなづかい」が終つて、四半世紀くらゐ前に新しく「現代仮名遣」が制定された事を忘れてゐる。「現代かなづかい」と「現代仮名遣」は、似てゐるが、違ふものだ。兩者を「同じ」だと看做せるならば、江戸時代以前に行はれてゐた表記と明治以降の表記とを「同じ歴史的かなづかひ」と看做すのが自然だ。
日本人は、殊さら「歴史的假名遣」の「歴史」を短く見せかけ、「現代仮名遣」の「歴史」を長く見せかけて、それで兩者の「優劣」を言はうとし勝ちだ。けれども――良く考へてみれば、歴史の長さで「優劣」が決まらない事は、日本人が、敗戰をきつかけに日本の長い歴史を平氣で切り捨て、「新しい日本」を出發させたのであり、重々承知してゐる筈の事なのだ。
近代日本語に弔いを(8)−国家と仮名遣い− - 白鳥のめがね

近代日本語にとっては、歴史的仮名遣いを現代かなづかいに変えて、良かったと思う。もう、歴史的仮名遣いの世界は、汚染されることなく残り続けるわけだから。

斯う云ふ發想が一番嫌らしい。なぜなら、この人は、「博物館の標本は素晴らしい」と言つて、動物が絶滅する事を禮讚してゐるやうなものだからだ。私にしてみれば、生きてゐる事・使はれる事こそが、動物にとつても、言葉にとつても、一番有難い事だらうと思はざるを得ないのだが。或は――自分の子供が「汚染」されるのを嫌つてホルマリン漬けにして保存し、自分の思ふがまゝに動かせる人形を自分の「子供」と呼んで可愛がつてゐる――そんな××××な親の姿が目に浮かんだ。
さて、實用的に言へば、奈良時代や平安時代から續いてゐる書き言葉の傳統に根據を持つやうな文字表記を、今でも用ゐ續ける事は、實は、實用的なだけの世界を日常の世界と結び附け、兩者の間に風穴を空け、風通しを良くする效能を持つてゐる。私は今、「實用的なだけの世界」に對して「日常の世界」と言つてゐるのであつて、「非日常の世界」と言つてゐない、ここに注意して貰ひたい。私は言ひたいのだが、日常の世界は過去の世界と連續してゐるのであり、現代人の意識は過去の人間の意識と連續してゐる。だから、多くの人にとつて、一般的な口頭語を用ゐて祈念する事はあり得ず、例へばカトリックの世界でも主の祈りは文語のものを用ゐるのだし、それ以外の、例へばラノベですら、案外普通に喋つてゐるのとは違ふ、獨特の文體でもつて語られる。私は、表面的な形だけを見るのでなく、その背後に存在する人間の意識をも見てゐる。人間の意識の次元で、現代人ですら、日常は、口頭語と、文章語とを、異るものと見、文章語を味はふ時には文章語特有のXを樂しむものと心得てゐる。「實用的な世界」と言ふと、法律・條文、役所に提出する書類、或は學校の宿題なんかも含めて良いだらう、さう云つたものにも、私はさうしたXがあつて良いと思ふ訣だ。

日々の業務であつかう報告書なり企画書なりを、奈良や平安の伝統をふまえた規則を覚えた上で書かなければいけないなんて理屈には、いまさら誰も説得されはしないだろう。

洗腦された人間・頑な人間は、説得されないものだ。だが、ならば、現實に「説得されない・されない」と云ふ事は、物事の眞僞を判定するのには、何の役にも立たない、と云ふ事は、我々は承知しておかなければならない。このやうな態度の決定の方法は、甚だ危險だ、と云ふ事だ。ヒットラーはユダヤ人抹殺を唱へたけれども、それが、例へば國際聯盟で受容れられ、全世界的に實施され、常識化してゐたならば、現代の日本人は、ヒットラーの「論理」に支配され、人間は全て平等であり、存在する事が許される、と云ふ當り前の主張にすら説得されない事だらう。説得される・されない、等と云ふ事を安易に議論の結論を附けるのに持出すのは、危險なのだ。その危險を解らない人が、安易に「説得」と言ふ。

なにより、現代かなづかいによってしか伝えられない情感を、私たちは、ほとんどその中に呼吸するように、生きてしまっているという伝統をすでに長く持っているのであり、英語の文法や表記が不合理の塊であるのを受け入れることも英語の伝統につながることであるように、現代かなづかいを使うこともまた、戦後の断絶によってしか明らかにならない日本語の伝統につながるということなのだ。

これなんかは西部邁邊が言ひさうな「現代を保守する」考へ方の典型だが、過去との斷絶は、過去の生き方を恢復する以外に、乘越える手段はない。過去の生き方を振り捨てて、現代の生き方に固執する事は、單に過去のものを「過去のもの」と強烈に意識して、切捨てる事を意味する。日本語の伝統につながるなんて事には絶對にならない。傳統とは生き方に外ならない。「生き方につながる」なんて事は所詮「他人のもの」として切捨てる事をさももつともらしく表現したに過ぎないのであり、實際にその「生き方をする」事しか「生き方」を肯定する方法はない。
成る程、現代人にとつて現代かなづかいによってしか伝えられない情感が「ある」と、理窟では言ふ事が出來よう。けれども、誰が何う考へても、コギャル言葉アスキーアートは「現代かなづかい」ではない。この筆者は「現代仮名遣い」の時代に、五十年以上前に制定された「現代かなづかい」を持出してゐるのだ。いやいや、「現代かなづかい」と「現代仮名遣」を「同じ」ものと看做したければ看做しても良い――が、それでは表現し得ない「情感」が「ある」からこそ、コギャル言葉アスキーアートが流行つてゐる訣だ。携帶の繪文字でも何でも良い。「情感」を直接表すならば、そもそも言葉なんてものは不利であるのだ。歴史的假名遣も「現代仮名遣」も、所詮はかなづかひの規範に過ぎないし、かなづかひの状態を言ふものに過ぎない。情感を言ひ表すには、かなづかひとは全く次元の異るものを用ゐなければならない。それが巧い人の文章が巧い文章と呼ばれる。かなづかひそれ自體と情感とを結び附けて言ふのは、飛躍があり過ぎる。
平成二十一年八月二十日
白鳥のめがね
やのずらー氏の「ブログ」は劇評「ブログ」なのださうだが――

それで深見さん以外の女性陣は、もてない女キャラを演じていく。今村つぐみ、垣内友香里のコンビが、一昔前の女子高生風にだべりながら、ふと思い立ったみたいに踊るとかって場面は抱腹絶倒だった。

私が先づ疑問に思ふのは、「だべる」女子高生を演ずる役者を見るのは何なのだらう、と云ふ事だ。「巧みに自然な女子高生を演じてゐるのを樂しむ」のだと答が返つて來るなら、「なら何うして、自然な女子高生が突然踊り出すんだ、不自然だろ」と言返したくなる。「自然」であるのがいいのか、「不自然」であるのがいいのか――何うせ「その巧みなミックス具合がいい」と、出たら目を禮讚する主張しか返つて來ないだらうが。だが、何れにしても、自然な女子高生を巧みに演ずる役者を觀るくらゐなら、本物の女子高生と仲良しになつた方が増しであり、突然躍り出す役者を觀るくらゐなら、踊りの專門家の踊りを眺めた方が遙かに増しだと言ふ事は、簡單に出來よう。
前に渡邊利道さんと言爭つた事があるのだけれども――何で今の文芸作品は、「ただの日常を巧みに描く」事に血道を上げてゐるのか。私にはさつぱり解らない。
なんて退屈。
例へば。
2009-07-22 - なんて退屈。

いかにも「戦後」的な「問題」をキリキリと追いつめるような作品なのだが、物語に物語で答え、さらに物語によって人を支配、操作しようとさえする人間の思考と空想の欲望絵図は、ひたすら気持ち悪いのだがいまもってまったくアクチュアルに感じられる

2009-07-30 - なんて退屈。

毎回モダニズムの運命を背負うかのように技法的冒険を己に課すフォークナーにしては、複数の登場人物の過去をシャッフルして時間軸を交錯させながら事件を推移させる構成は、ほとんどストーリーテリングの枠におさまっているもので、その意味で実験性は他の長篇にくらべ希薄ではあるものの、むしろそのことによって登場人物たちの人生が有機的に物語の重層性を象っていて、ごく普通に読んでとても面白い作品となっている。

渡邊さんはとてもいい人なんだが、その「書評」はパターンが決つてゐて、なんか大學の授業か何かでやるやうな分析を書連ねた後、唐突に「しかし面白い」「そこが面白い」と結論を附ける。
水深五センチメートル - なんて退屈。

竹内誠の『寛政改革の研究』(吉川弘文館)を読んでいる。ひさしぶりにまっとうな学術書を読んでいるのだが、これが非常に面白い。田沼時代を評価する人は楽翁を批判的に見ることが多いが、その経済政策は基本的に継承されていて、前代の責任者に対する苛酷な処置を当時の世相から必要な措置を看做す視点はきわめて説得的で、やっぱりこの時代は面白いなあと思う。

「どのやうな理由で面白いのか」――と言ふより、私は「その本を面白がるにはどのやうな視點を持てば良いのか」「その視點を持つ事の意義は何か」を知りたいのだが、渡邊さんは「私にとつて面白いものは面白いのだ」と言ふ許りであつた。何かを見て「おもしろいねー」「ねー」と言合つてゐる女子高生の會話と、渡邊さんの書評と、私は本質的に同じだと思つてゐる。が、渡邊さんに限らない、yanoz氏もその程度の面白がり方をし、面白さの傳へ方をしてゐるに過ぎない。が、身内の間に埋沒し、心地よいひきこもりの快樂を味はひたいと言ふのなら、リアルタイムに更新される虹裏を眺めてゐた方が遙かにヴィヴィッドだ。
虹裏は、特にimg邊を眺めてゐる事が多いのだが、ぺーじをロードして、何秒かしたらまたリロードする、その作業をする度に、新しいスレが出て來るし、新しいレスが附いたスレが上がつて來る。リアルタイムで新しい情報なり感想なり訣のわからない作品なりが現はれる。斯うしたところで暇を潰した方が、書評サイトで暇を潰すより、劇評ブログで暇を潰すより、よつぽど樂しい。となると、今の書評や今の劇評は、存在價値がない、と云ふ事になるが――しかし、野嵜個人の好みの問題と切捨てて良いと思ふのなら、「説得」が何うの斯うのとyanoz氏が言つたのは何だつたのだらう。私を説得する必要がないと言ふ一方で、説得できる事が價値であると言ふ。矛盾極まる主張だが、「世間一般」と「野嵜」とをわけて考へる事で、野嵜を説得させる理窟を言はないで濟ませながら、野嵜と對立し續けてゐる人は、成る程、存在するし、さう云ふ人にはさう云ふ「問題の切り分け」で十分自分が「説得的」になつてゐると思ふものだ。要するにKirokuroの事だが、あれなんかは「野嵜に對してだけ侮蔑的」であつても「世間様に對しては謙讓」であるから自分は謙虚な人間であると本氣で信じてゐる。しかし、誰に對しても差別なく同じ態度をとるのでなければ、その人の態度と云ふものは判斷出來たものではないだらう。少くとも、一般に書評サイトは價値がある・劇評サイトは價値がある、と言ふには、野嵜の反論と云ふ具體的な「反證」が上がつてゐる訣で、それに對處しない事には、「野嵜一派」式の言ひ方で言論封殺を試みない限りは、野嵜と同じやうな疑問を持つ人間が幾らでも出てくる結果になるだけだらう。
平成二十一年八月二十日
制定の經緯は何うであれ結果として「現代仮名遣」が出來たのは良かつたのだから良かつたのだと主張する人は、結果として戰爭が終つたのだからアメリカが日本に原爆を落としたのは良かつたのだとか、結局負けて民主化する事になるのだから日本が侵掠戰爭を始めたのは良かつたのだとか、言へば良いのだが、人死にの問題が絡むと途端に口を噤む事にするらしい。
しかし――最近、眞顏で日本の核武裝論を唱へる人が出て來たのも、理由がない訣ではないやうだ。私は日本が核を持てばそれでいい等とは全然思はないが。
平成二十一年八月二十日
Netscape Founder Backs New Browser - NYTimes.com
せかにゅ:Netscapeの父、新しいブラウザを開発 - ITmedia News

平成二十一年八月十九日
マニフェスト選擧なんて言つてゐるけれども、實際の政治はマニフェストに書かれてゐる事だけが扱はれる訣ではない。その邊、みんな忘れてゐる氣がする。
理念に基いて政治家が黨を結成してゐるならば、その理念に基いて政治家は黨の方針を決める筈だ。それがマニフェストにも表れなければならない。状況に應じて、國民がそのマニフェストから有用さうなのを撰擇し、黨を支持する。その際、マニフェストによつて暗示されてゐる黨の理念に基いて、黨は全ての政策を決定し、當座の政治を行ふものと、國民は判斷するし、さうした判斷も含めて政黨を選ぶ事になる筈だ。それがあるべきマニフェスト選擧と云ふものだらう。
けれども、今の日本の「マニフェスト選擧」だと、マニフェストは「よささうなこと」が書かれてゐるだけで、有權者に對する受け狙ひ以上の意味を持たない事を、誰もが知つてしまつてゐる。それでも「當座、そこに書かれた事が守られさへすれば良い」と日本人は、當り前のやうに思つてゐる訣だが、しかしよく考へると、爭點として指摘されてゐる具體的な問題について、我々は抽象的には正解を知つてゐるのである。各黨のマニフェストには、その正解が書かれてゐる。けれども、その正解に至る筋道は、有權者は全く解らないでゐるのでないか。即ち、自民黨にしても民主黨にしても、黨の理念と、今囘のマニフェストとの間に、何等かの聯關を持たせてはゐないのでないか、と云ふ事だ。否、そんな事は、有權者も政治家も、百も承知で――今の日本では、ただ「政権交替」と云ふスローガンだけが、生きて働いてゐる。自民黨政權を倒す事を、誰もが愉しみに待つてゐるだけ、と云ふ事だ。ただただ、世の中がひつくり返れば面白いと云ふのだ。そこでは本氣でマニフェストの向かうに理念を見出さうなんて姿勢は見られない。けれども、ひつくり返るも何も、現自民の政治家と元自民の政治家がそれぞれ結黨して、權力を爭つてゐるだけではないか。今の自民政権をひつくり返すと言つても、ひつくり返すのは、以前、自民黨に所屬してゐて、其處を飛びだして民主黨を立上げた、元自民の政治家なのだ。或は、元社会党の政治家も、一度は自民と一緒になつて政權を作つた仲だ。理念的な對立構造は全く無い。マニフェストでも、大して違ひがない許りか、民主黨は出來る限り理念を隱蔽しようとすらしてゐる。例へば、憲法第九條の事を言出したら、民主黨はまとまつてゐられない――理念的には對立する政治家同士が、手を結んで、黨を立上げた、それが民主黨である。民主黨の政治家達は、己が信ずる理念を實現する事を求めず、ただただ政権を手に入れようとしてゐる。要は、今囘の選擧、所詮は政權爭ひであり、權力爭ひなのである。政治家の欲望を充足する事だけが目的だから、耳あたりのいい事だけがマニフェストに書かれてゐても、をかしくはない。成る程、日本では「をかしくはない」。けれども、それでいいのか。
平成二十一年八月十九日
ところで今囘も私は投票に行かない積りでゐるのだけれども(引籠りに外出は至難の業である)、しかし「默つて投票する」だけが國民が「役割を果す」事を意味するのだらうか。獨裁を企むヒトラーみたいな人物であれ、或は何うしやうもない無能な人物であれ、「選んだ」ならばその國民は立派に國の爲に役立つたのだらうか。
――「選擧にも行かないやうな人間」であつても、御立派な事は言ふ事が出來る。それを「僭越だ」と非難する人は「ゐる」けれども、さうした人々が必ず私よりも有益な人間であるとは、私は思つてゐない。もちろん、さうした人々が「野嵜よりはマシ」と必ず言ふのだけれども、それは「一般的に言へば自分は少しも有益でない」事實を隠蔽する爲に、私を出しに使つてゐるだけの事に過ぎない。要は役に立つてゐないのである――私も「彼等」も五十歩百歩である訣で、その「歩」の差を「彼等」は強調したがるけれども、まあ、「バカにしたい野嵜」と差を附けて見たところで、やりたいのは「野嵜をバカにしたい」と云ふだけの事でせうと世間に見破られるのが落ちである。
が、「ただ誰かを貶めて喜ぶだけ」の域から脱け出して、國民の意識や政治家の意識を向上させようと努力する事は、ちつぽけな「一票」の選擧權を行使するのと比べても、小さな意義しか持たないものでは決してない筈だ。さうした方法で、世の爲人の爲に貢献する、と言ふのにも、多少は存在意義があつて良い筈だし、その程度の事は認めていただきたいものである。そのくらゐの寛容さが社會的に存在しないやうでは、世の中、息苦しくて仕方がない。
平成二十一年八月十九日
例へば、理念と云ふものが日本では異常なまでに輕視されてゐて、そのせゐでいんちきな理念の主張が平然と行はれてゐる。「護憲」とか云ふ奴が典型で、「護憲」勢力の社民党や共産党の連中が憲法第一條を守る積りなんか毛頭ない事は言ふまでもないが、「護憲とは憲法第九條を守れの意味だ」と、より一般的な意味で認識される筈の語を、そのまゝで特殊な意味に解せよと言つて、それが通つてしまふ。しかし、この事は、理念そのものよりも、理念を表現する言葉の使ひ方が好い加減である事を示すのであつて、さうしたいんちきな言葉の使ひ方を、政治目的で以つて正當化してゐる訣である。が、この種の戰術によつて目的を達成する――と言ふより、いんちきをして目的を果す事を良しとする日本の社會が、健全なものと言ひ難いのであるが、さう云ふ状況下で政界の淨化とか官僚腐敗の淨化とかを叫んでも、何の意味もないのでないか。社會が全體として腐つてゐる中で、自分だけが有利になるやうに、敵を殊さら腐つてゐると非難する事で、自分を綺麗に見せかける――それで有利に事が運んでも、社會は依然として腐つたまゝで、それでは住んでゐる人間は堪つたものではない。
ところで、「共産党 護憲」でぐぐれば、幾らでも批判は出て來る――共産黨のいんちきを暴くのが目的の文書が幾らでも出て來る訣だが、そこでは樣々な物の見方が開陳されてゐる。けれども、それらを見て、覺えて、口眞似してみても、それだけでは大して意味はないのだ。共産党だけがいんちきをしてゐるのではないからだ。寧ろ、共産党が戰術的にいんちきをして政權奪取を企んでゐるとしたら、もし依然として從來の方針が共産党内部で生きてゐるとしたら、それはそれで實にすつきりしたもので、天晴なものだ。いんちきをいんちきと承知でやつてゐる――共産党は政治で世界を救ふ事を本氣で考へてゐる政黨であり、さう云ふ理念を保持してゐる政黨である。理念と行動とが一致してゐる唯一の政黨であり、或意味、もつとも政黨らしい政黨である。その點は評價していい。

平成二十一年八月十八日
鐵山さんのサイトが消えてる。
茲數年で「附合ひ」のあつたサイトの人がまたこの頃どんどんどんどん消えて行つてゐる。置いて行かれた氣分だ。

平成二十一年八月十七日
ミーシャ、青Gくんと對面す
普段家の机の上で人の顏を見詰めてゐる青Gくんと、勤務先の机の上で仕事を監視してゐるミーシャとは、會つた事がなかつた。今囘、撮影の爲に青Gくんを持つて行つたが、撮影の間、纔か數分間だけ、二人(?)は對面した。それだけ。
平成二十一年八月十七日
ミーシャとかもめの玉子
ミーシャかもめの玉子を剥く
平成二十一年八月十七日
青GくんはGみたいな觸角を生やしてゐるだけでGでも何でもないただのクリーチャー。油つぽくも何ともないので、さはつても大丈夫。
平成二十一年八月十七日
ちなみに臺所に本物のGが出て今まで大騷ぎしてゐた。

平成二十一年八月十六日
化物語、結構頑張つて正字正かなを使はうとしてゐるのだけれども、本當に最初の最初の所で頑張つてゐないから印象が惡い。
化物語 第一話
くらゐはくらゐだと解つてゐる筈なのになぜか二番め以降のくらゐをくらいと書いてゐる。
その後の囘では間違ひあんまりないみたいなので、なぜ第一話の最初のこれで非道い間違ひをやらかしたのか、訣が解らない。
あと、正かなで通す積りなら「まよマイマイ」のサブタイトルも何とかすべきだつたのではないか。
それから、總集篇の囘だけなぜか新字新かなだつたが、急拵へで總集篇を作るのに、假名遣ひの事が解る人がゐなかつたのだらうか。

平成二十一年八月十五日
福田恆存をやっつける会会長がまた書込んで來た。なぜ自分に對する非難についてはあれほどまでにポジティヴに考へられる人間が、福田氏についてはネガティヴにネガティヴにと解釋して考へてしまふのか。不思議でならない。
Kirokuroにしてもさうだが、人を騙して自分に都合のいい方向に世間を誘導しようと平氣で出來る人間が、何うして「自分は正義である」と本氣で信じ込めるのか不思議でならない。
正義の人間なら、陰濕で惡質なやり方は、出來ないものだらう。Kirokuroにしても「義」にしても、福田恆存をやっつける会会長にしても、どうしてそんなに人間性のかけらもない陰險なやり方を好んでやれるんだ。やり方が卑怯なら、やつてゐる事が間違ひなのは、火を見るよりも明かな事だらうに。なんで平氣で陰險な事、惡辣な眞似を、出來るんだらう。
平成二十一年八月十五日
神社神道の本としては、神社本庁が出してゐる本が基本圖書であるべきで、だから集めて讀んでゐるのだけれども――神道を非難してゐる人は、神道關係者が言つてゐる事は當然のやうに讀んでゐないだらうけれども、神社本庁の規定とか宣言とか、さう云つたものは全部無視して、臆測と惡意の解釋だけで極附けてゐるんだらうと思ふ。
臆測と惡意の解釋を「するのが當然」と思つてゐる人ならば、他人の言つてゐる言葉の斷片を捉へて、自分に都合の良いやうに=相手に不都合になるやうに、意圖を歪曲して傳へるけれども、さう云ふ普通に考へて「やつてはならない事」も、彼等にとつては「當り前の事」に感じられる。今の神社神道の事も「歪曲して傳へる」のが「當然」と考へてゐる人々は、「神道を潰せさへすればそれで良い」し、「どんなに惡質なやり方をしても、結果として神道を潰せるならば自分は正義である」と、心から信じてゐる。
「價値觀を理由に自分の行爲を正當化する」態度は、狂信的なものだが、客觀的事實として「相手が信仰を持つてゐる=相手が信者である」ならば、主觀的に自分が狂信者であつても自分は惡くなく相手だけが惡い事に出來ると、彼等は心から信じてゐる。この種の「言ひ訣さへ出來れば、自分の態度は、どんなに惡くても、惡くはないと言張れるし、惡くないと言張れるなら惡くないのは事實である」と云ふ思ひ込みを「出來る」やうに日本の社會が出來てゐる事は、日本の社會の――或は、日本の文明の深刻な缺陷だと思ふ。
戰前の國家神道は、國家の「利用する側」と、神道關係者の「利用された側」とがあつて、「利用する側」は案外信仰なんて持つてゐなかつたのだが、敗戰で兔に角「利用する側」は、最う「利用」が出來なくなつた――と言ふより、利用すべき理由を失つて、神道を放り出した。一方で「利用された側」である神道關係者は、しかし、敢て近代以來の神道の體制を引繼いで、「利用する・されるの關係を排除した場合」の、あるべき神道の姿を摸索し、當座・間に合はせの形態ではあるが(急拵へである事は神道關係者が一番自覺してゐる事だ)、今ある神社神道の體制を再構築した。その際、極めて興味深い事に、現代の神道の原理を「まこと」に求めてゐる。これは小野祖教氏の發想に基いてゐる「概念」だが、他の宗教で云ふ「眞理」の類だと言ふものの、「それを知りさへすれば濟はれる」とか云ふものではない。神道神學ではさうした眞實を「求める」と言ふよりは、ありのまゝのものを認める事を重視するし、それに「奉仕」すべき事を言つてゐる。斯うした態度は、學問的な態度に近い。と言ふより、現代の神社神道は、神職でないインテリが體制を作つた關係もあり、相當に洗練された思想を持つてゐる。小野氏や葦津珍彦は、神道の信仰を持つた人であるが、神職ではない――神職との接觸は多く、祭祀の内容を詳しく知つてはゐるが、祭祀に直接關つた人ではない。が、戰中は國と、占領期間中はG.H.Qとやりとりを行ひ、そこで強力な理論的立場を獲得した人である。さうした人々が、民主主義體制の下で神道を生延びさせる爲に戰略的に採用したとは云へ、信仰の原理として「まこと」なる概念を用意した事は、大變に興味深い。小野氏は戰後に「急造」された神道ではあるが、十分體系的に説明できてゐるものと自信を持つて述べてゐる。
小野氏や葦津氏の發言を通して判るのは、明かに現代の神道が、現代的なセンスを持合せてゐる事で、同時にそれが古代以來の態度と關聯を持つてゐる事だ。宣長は漢意のやうな「さかしら」を排除したと言ふけれども、それが學問的態度であるのか、神道の信仰的態度であるのか、區別はつけ難い。それと同じで、現代の神社神道の基く態度も、物事をありのまゝに認める態度であるが、學問的であると同時に、信仰的でも或と言はざるを得ない。「アンチ神道」の人ならばその「信仰的」側面だけを極端に誇張して惡意で極附けるところであるが、神道の立場からはさうした惡意の解釋もまた「さかしら」であつて拒絶すべきものであらう。私には、現代の神道が示す態度は、好ましいものにしか見えない。或は、神道の態度を私は好意的にしか解釋しようと思はない。惡意による解釋は、歪曲であるし、歪曲である時點で、學問的にも信仰的にも認められないものとなる。もちろん、政治的に「有效」か否かと云ふ發想をしかしない人もゐる訣だけれども、私はさう云ふ發想そのものを拒絶すべき事を學んでゐる。ところが、世間にはさう云ふ發想をありがたがり、さう云ふ發想をしない人間を憎惡する政治主義者=政治の狂信者が大量に存在する。その中には極端な「活動家」がゐて、Kirokuroや「義」、或は「福田恆存をやっつける会会長」のやうな人々だが、彼等には宗教的な信仰がない事は論ずるまでもなく――そもそも學がない。學と言つても、學歴のやうな目に見えるものは全く意味がなく、本質的な意味でのである。歐米において、文化は、即、教養であるが(culture)、生き方としての文化と、生き方としての教養とが、イコールである事は、先進國よりも寧ろ後進的な社會における方が、維持されてゐよう。そのcultureとしての「學」を、持つてゐない人が、日本には多いし、さうした人が「活動的」になると、これほど困つた事もない。ところが、さうした人々には自分逹が如何に迷惑な存在であるかが理解できないし――誰かに自分の存在を迷惑に感じさせる事に意義がある、「自分の存在を迷惑と感ずるのは、その人が惡人だからである」とすら思ひ込んでゐるから、たちが惡過ぎる。斯うした「學のない」人間、一切の倫理的な觀念を持たない人間が、「増加してゐる」と云ふのが現代の日本の問題である訣だが、實際は、もともとさうした人間が日本には多いのであつて、それゆゑに日本では問題が問題として自覺されて來なかつた。
平成二十一年八月十五日
勘違ひしてゐる人が本當に多いのだけれども、意味もなく「不快になっていただく」事が「批判」であるのではない。學がないからそれが解らない。
「バカ」と嘲つて相手が怒れば、怒つたから相手が「バカ」である事は「證明された」とか本氣で思つてゐる人がゐるのだけれども、そんなバカな話はあり得ない。Kirokuroがよくやる「バカであるがゆゑにこんな事を言ふ、こんな事を言つたからバカである」式の循環論法は、證明にならない。餘りにも當り前の話だが、學がないから解らない。「こんな風に説明すれば納得出來るから、眞實である」式の「論證」も、竹下義朗や「福田恆存をやっつける会会長」が得意とするものだが、それこそトンデモ論法で、氣狂ひにしか本氣で主張する事が出來ないものだ。少くとも、決定的な證據にはならないから、傍證であると言へばまだいいのだが、トンデモの人には常に謙虚さが足りない、必ず「決定的な證據である」と言張る。學がないのである。人間として、駄目なのだ。さう云ふ輕薄な人間だからこそ、安易なやり方で他人を貶して、好い氣になる事が出來る。Kirokuroも「会長」も、本氣で怒つた事は一度もない。餘裕ぶつこいてゐるのは、好い氣になつてゐる證據である。
しかも、彼等は皆、例外なしに樂天的で、自分の周りにゐる人間がちよろつと贊同の意を表して呉れれば、世間の人はみな自分の身方のやうに思ひ込めるし――或は誰も贊同などしてゐなくても、誰もが自分の身方であると思ひ込める。妄想も甚だしいが、さう云ふ誇大妄想を持てるのも彼等トンデモの人々の特徴である。或は、自分の意見が大勢の人に支持されてゐると平氣で言ふのは傲岸不遜の極みであるのだが、「周りの人が皆贊同してゐるから自分も言ふのである」式の言ひ方は謙虚な言ひ方なのだと彼等は勘違ひして本氣で思ひ込んでゐる(Kirokuroなんかは、自分は「アンチ野嵜」の代辯をしてゐるだけなのだから、謙虚な人間であるのは明かである、と本氣で信じてゐるらしい)。もつともこの邊、循環論法やら何やらの出たら目がごちやごちやに入交じつてゐて論證も何も眞面目に出來たものではないのだが――しかし、「論證できないならお前は間違つてゐるんだよ。俺達こそが正しいんだ」と言つてせせら笑ふのが彼等である。しかし、彼等が反省しないとしたら、それこそ彼等が誤つてゐる決定的證據と言へよう。トンデモの人は絶對に反省しない。謙虚な振りをするのが巧いだけだ。騙される人が出て來れば、彼等は「自分の正しさ」が「證明された」ものと思ひ込む。本當に氣狂ひは幸せだと思ふ。正氣であるのは不幸な事だ。斯うなると、幸不幸は價値觀の根柢に置くには全く信用ならないものだと言はざるを得ない。
平成二十一年八月十五日
Kirokuroは、私が怒ると「發狂した」と言つて嘲笑ふのだが、なぜ嘲笑へるのだらうか。不當な非難を浴びせて、不當なるがゆゑに相手が怒つた時、非難を浴びせた當人が相手を「發狂した」と言つて嘲笑ふ。變ではないか。
もちろんKirokuroは、自分の非難が不當なものだと思つてゐない。しかし、Kirokuroは私の事を侮蔑して、端から偏見で見てゐる。偏見で曇つた目で見て、正當な批判が出來るものだらうか。白人が、黒人を偏見で見ながら、黒人を奴隷として扱ふのを「正當」だと主張したのは、誤であつたと今は誰もが知つてゐる。ところが、その種の偏見を、未だにKirokuroなんかは當り前のやうに持つてゐるし、さうした偏見に基いて人を判斷するのは大變に良い事だと心から信じてゐる。Kirokuroは現代の人間ではないのだが――しかし日本にはさう云ふ人間が剩りにも多い。
神道にしてもキリスト教にしても、或は佛教にしても、現代の信者は案外、さうした偏見を免れてゐる。現代の信者は皆、自分が信者である事を自覺してゐるからだ。自分が或種の價値觀を抱いてゐる事を自覺してゐる。人間が現代の人間である資格は、自分に就いて自覺があるか否かで判定できる。自分に何らかの偏りがある事を自覺してゐる事は、現代人である資格の一つであらう。しかし、何れにしても、さうした偏りの自覺がある事は、公正な態度をとる爲には必要な事だとは断定出來る。偏りがある事を自覺し、それを補正しようと努力する事が、公正な態度につながる。
――この點で、案外無自覺な人が多いのであつて、さう云ふ意味で日本の「無信仰」の立場の人々は危險であるし、迷惑であるとすら言ふ事が出來る。しかし、宗教を信ずるのでなくとも、學問的な立場をとると決意する事もまた公正な立場を維持する事に繋がるのであつて、さう云ふ立場もあり得る。
が、政治的な立場に固執する事は、一切の公正性を失ふ事に繋がる。勿論、公正な政治家と云ふものは、立場を自覺する事によつて、あり得るのだが、公正を缺いた政治主義者と云ふものが日本には餘りにも多い。それが問題であるのだが、社會的に政治主義的な事を惡しとしない日本人には――そもそも自覺なり反省なりをする習慣を持たない日本人には、自らの問題を自覺する事は困難であらう。が、自覺しないのが一般的であるからと言つて、偏見に基いた態度を平氣でとつたりするのは、依然として間違ひである。
平成二十一年八月十五日
Opera 10 beta3。beta2を使つてゐると執拗にアップデートしろアップデートしろと言つて來るので仕方なく入れたら、フォーム周りでIMEの擧動がをかしい。仕方がないのでアンインストールしてbeta2に戻したら設定が全部消えてゐる上、またぞろアップデートの強要が始まる。何なんだらう。betaだから仕方がないと言へば仕方がないのだらうけれども、何か釋然としない。Opera以外に一つも選擇肢がないから仕方がなくOperaを使つてゐるけれども、どこかもつといいウェブブラウザを開發するところが出てこないものか。
FirefoxもGoogle Chromeも、何うにもまるでさつぱり面白くない。非道い代物と言はれてゐたけれども、NetscapeNavigator/Communicatorの頃は、何だかんだ言つてそれなりに面白くウェブブラウザと附合へてゐた。Seamonkeyの初期の頃も、まだ希望とか期待とかを持つて、毎日樂しく使へてゐた。それが詰らなくなつたのはPhoenixが出て來てからなのだが、その當時の印象が現在のFirefoxまで全然變らない。一ユーザが何か言ふ事の意義がまるで感じられなくなつた。今に至つては本當に何一つ、不滿も何も、言ふ氣が起きない。擴張とかの開發をしてゐる人はゐるけれども、何うなんだらう、樂しく作つてゐると言へるだらうか。そろそろ飽きが來てゐるのではないか。
ウェブのサーヴィスにしても、最うアイデアが出盡した觀すらある。MixiはかつてのGaiaXそのものだし(ただクローズドな環境であると言ふだけで、何一つ變らない)、Twitterもただの自動ウェブサイト更新ツールでしかない。はてなも別に新しくはないし、2ちゃんねるもふたばちゃんねるも全然進化はしてゐない。改善と小さなネタが積重なつてゐるだけで、大きなパラダイムシフトだか何だかの類は茲四、五年の間、全く起きてゐない。ウェブが單なる生活の道具と化した事は、定着した事を意味してもゐるのだらうが、そこで皆、依然として、何か新しい事が出來るかのやうに錯覺して、仕事をしてゐる人はしてゐるし、遊んでゐる人は遊んでゐる。けれども――最うウェブが何うにも面白くない事は、はつきり言つてしまつて良いのでないか。そろそろ「バラ色のウェブ」のやうな古臭い發想は棄ててしまつた方が良いと思ふ。實際、嫌な事がどんどん起きて、ウェブの闇黒面がはつきり誰の目にも映り始めてゐる――どころか、明かにウェブは非道い所だと皆が觀念して、それで惰性で過ごしてゐるやうな、そんな觀すらある。そこで惡い事をして愉しむ人の方が、最近は増えてゐるのでないか。嫌な人間ほどウェブを愉しんでゐる。
斯う云ふ状況下で、まじめな企業が相變らず昔ながらのやり方を續け、昔ながらの客の煽り方をして商賣をしてゐる。さうした中で、微妙な「改善」が繰返され、さうした中で出現した幾つかの「工夫」は、ユーザにベタベタ干渉する、ただただ鬱陶しいだけの、結局のところ嫌なものに成下がつてしまつてゐる。昔のOperaが、今のOperaに比べて、どれほど劣つてゐたか。なるほど、良くなつた點は非常に多い。けれども、それで優劣が附けられると勘違ひしたところに、Operaの――と言ふより、世間の多くのプロダクトの魅力が消え失せた原因がある。
平成二十一年八月十五日
ウェブも、人が増えて、それだけ出て來るアイディアが増えればいいのだが、性質の惡い人間が増えただけで、ノイズが増えただけだつた。他人の足を引張るのが上手なだけの人が増えたやうな氣がする。昔、それなりにアイディアを出せてゐた人が、今では萎縮して何も言はなくなつてゐる事は「ある」やうに思はれる。そして、それまで話をしてゐた人間を默らせたと言つて喜んで威張つてゐる人が非常に増えた。アイディアを出す事を功績だと思はず、他人を潰した事を功績だと言つて誇る人。ウェブがブレーンストーミングの場として全く機能しないでゐる現状は、何かがをかしいと、思つた方が良いのだが、誰も思はない。
知識と技術のある人が、淡々と非人間的な仕事を續けて、それで面白みのないプロダクトが淡々とリリースされ續けてゐる。「生活レヴェル」は上がつたのだらう。製品のクオリティは上がつたのだらう。面白くないと云ふだけの事である。
平成二十一年八月十五日
Operaに限らず、ウェブブラウザにしても、或はWindowsそれ自體にしても、擧動がとろくなつてゐるやうな氣がする。速度の低下がプログラムの進化であると云ふ考へ方は、なぜ改まらないのだらう。
Firefoxにしても、レンダリングの速度が速くなつたと言つても、プログラム自體は遲いだらう。プログラム自體が高速化されれば――と言ふより、ユーザの指示に對するプログラムのレスポンスがきびきびしてゐれば、レンダリングの速度が多少遲くても、ユーザの感覺としては寧ろ好感觸になる筈だ。基本的な部分を忘れて目に見えるところでだけ一生懸命「改善」をやつてゐる。
平成二十一年八月十五日
「福田恆存をやっつける会会長」は、福田氏の文章が立派である事に反論出來ないにもかかはらず、何處やらから電波を受信して「福田氏は惡人である」と思ひ込み、何の根據もなく誹謗中傷すると信用されないからと言つて、疑惑をでつち上げたり、つまらない揚げ足取りをしたりして――細かい、何うでもいいやうな事をまるで深刻な大問題であるかのやうに言立てて、嘘を吐いて、福田氏を貶めて快を貪らうとしてゐる。なぜ此のやうな人格的に缺陷のある人間が、福田氏を貶める事が出來るのだらう。
一方、Kirokuroは、松原正氏の事が氣に入らなくて氣に入らなくてしやうがないのだけれども、それを言ふのにわざと「松原信者」を非難する、と云ふ嫌らしい戰術を使つてゐる。福田恆存の『藝術とは何か』の文庫本が復刊された時、「解説が心配」と言つてゐて、アンチ松原なのである事は明かだが、Kirokuroは、自分は「松原信者」が氣に入らないのである、と言ひ訣して、ウェブに松原氏の影響力が及ばなくなるやうに劃策してゐる。
なぜ素直に福田氏の文章を讀めないのか。なぜ素直に松原氏の主張を評價出來ないのか。全て讀み手の側が惡いと言へるが、讀み手には我儘な人間がゐるのだし、さう云ふ人間がいいやうに力を發揮できるのがウェブである。これは大變困つた事だし、ウェブなる存在の缺點であるが、惡人は自分逹が便利に使へるものは喜んで使ふのである。惡人がこの世から消えてなくなれば良いのだが、さうも行かないから、規制は必要であると言はざるを得ない。規制の撤廢を頻りに主張する多くの人々が、私には樂天的な極樂蜻蛉にしか見えない。Kirokuroや「福田恆存をやっつける会会長」なる犯罪者紛ひの惡人が跳梁跋扈してゐるのだから、ウェブはもつときちんと規制されなければならない。規制するのは國家の仕事であるから、國家がインターネットに干渉するやうになるのは良い事だ。今のウェブは完全な無法地帶であり、「住人」が自分逹で秩序を構築できない以上、國家によつて秩序を齎す必要があるのは火を見るよりも明かな事だ。
平成二十一年八月十五日
Opera 10 beta3は、フォーム周りのIMEのコントロールがをかしい。前から日本語入力なんてプログラマがまるで考慮してゐないだらうなと思はせる非道い作りだつたが、それがbeta3では何うしやうもないくらゐ惡化してゐる。これでは最う日本人にOperaを薦める事は出來ない。前はまだ増しだつたのに、何を何う弄ればこれだけ非道い作りにしてしまふ事が出來るのだらう。
前から思つてゐるのだが、Operaの開發者はOperaを何うして平氣でこんなに非道いものにしてしまへたのだらう。ウェブブラウザとしては茲數年まるで進化してゐないし、それ以外の機能も前のものを適當に弄り囘して仕樣を變更し續けてゐるだけ。何一つ良くなつてゐない。ヴァージョンアップの度に見た目がちよつとづつ變つてゐるだけだ。附いてくる機能は要らないものだけ。MSと同じで、何うでも良い機能をつけるのには熱心だが、基本的な機能をチューンする氣はさらさらない。見た目が派手になれば話題になるから、下らない機能を澤山附けたり、外觀を變更したり、と、無意味な「改良」をやつて、ヴァージョンアップしたと言つて宣傳する。本當に駄目だと思ふ。

平成二十一年八月十四日
おみやげを貰つた。
紅葉饅頭
紅葉饅頭
平成二十一年八月十四日
なつかしいものを發掘。
ペンギンさん in 團扇
平成二十一年八月十四日
学校の階段、三卷は先日讀み終つたが四卷になかなかとりかかれない。
先日東京古書會館の古書展で澤山買つて來た神道關係の本と言ふかパンフレットを少しづゝ讀み進めてゐる。
平成二十一年八月十四日
大福餠をもらつた。
おいしさう……
平成二十一年八月十四日
はてなブックマーク - NHK知る楽で9月から「戦後日本 漢字事件簿」 - 生活日報
NHK知る楽で9月から「戦後日本 漢字事件簿」 - 生活日報
NHK知る楽 NHK教育テレビ 月〜木曜日 午後10:25〜10:50
火曜日 歴史は眠らない|NHK知る楽
過去の放送内容|NHK知る楽
ウェブサイトにはまだ載つてゐないが九月の火曜日。テキストは買つて來たが放送は多分觀ないと思ふ。
NHK出版 知る楽

平成二十一年八月十三日
えらく人相の惡いクリーチャー出現。
謎の鉛筆削りくん

平成二十一年八月十日
TwitterやFacebookなどに大規模DoS攻撃、ユーザーに多大な影響も -INTERNET Watch
TwitterやFacebookへの一斉攻撃は1人のブロガー狙い - ITmedia エンタープライズ
『Facebook』『Twitter』への DDoS 攻撃、標的はたった1人 - japan.internet.com Webテクノロジー
これ「義」の仕業だろ。
複数のアプリに防御策の影響:Twitter、DoS攻撃対策を継続中 - ITmedia News
「Twitter」などへのDoS攻撃の標的となった活動家、ロシアを非難:ニュース - CNET Japan
「攻撃を回避した」とGoogle:TwitterとFacebookへのDoS攻撃、Googleにも影響 - ITmedia エンタープライズ
平成二十一年八月十日
「OAuth」とは 日本のユーザー襲った“Twitterスパム”の正体 (1/2) - ITmedia News
平成二十一年八月十日
インターネットの多くの問題は、もともとインターネットが善意のユーザの利用を前提としたサーヴィスであつた事に原因がある。性善説に基いて設計され、運用されてゐたインターネットは、それゆゑ惡意のユーザからシステムや善意のユーザを守る仕組が全く無く、商業目的の利用に開放されて以來、惡人にいいやうに利用されるシステムと化してしまつてゐる。
平成二十一年八月十日
今日のミーシャ。
ひとりじめ
ミーシャ困惑
スコっち
スティック糊のスコっちは、先日使命を果して空つぽになつたのだけれども、今日體を換裝して最前線(何の?)に復歸する事になつた。しかし、依然としてミーシャはこいつと意志の疎通がとれないらしい。

平成二十一年八月九日
卑俗である事と凡庸である事とは別の概念だが、案外これが解つてゐない人は多いやうに思ふ。優雅だが凡庸、と云ふ作品でも、優雅さゆゑに高く評價される、と云つた事は結構多い。
けれども、低俗・卑俗である作品の中から、凡庸ならざるものであるものを發見し、驚嘆するのは、藝術を鑑賞する樂しみの一つだ。
平成二十一年八月九日
今頃になつてもやしもんのアニメの録畫を消化してゐたりする。學祭の話になつて急に詰らなくなつた。
平成二十一年八月九日
らくがき。
青のG

平成二十一年八月八日
【山田祥平のRe:config.sys】 パソコンがコモディティだなんて誰がいった
http://homepage1.nifty.com/kazuf/renewal.html#pc_1249647350
なんかユーザの實感から離れたところで抽象的な話が展開してゐるやうな氣がする。
地デジ化でテレビはPCに繋がらなくなつた。やりやうはあつて「繋がらなくはない」けれども、一般的には「繋がらない」と言つていい。フリーオやら何やらを使つてゐる人はさうさうゐないだろ。
PCをテレビに繋いで映す、と云ふ發想は――場所がないヲタの狭い部屋でなら「ある」けれども、おとうさんおかあさんと一緒にリヴィングで見ると云ふのはよくわからない。
ケータイは、いろいろな機能が載つて、便利に使へる。けれども、なぜ使はれてゐるかと言ふと、結局のところ「電話出來る」と云ふのが大きい。色々進化したと言つても、進化しない部分があるからこそ、ケータイは「使へるツール」である訣だ。
PCの場合、昔は機能自體が未熟であつたけれども、今は良くなつた。が、それでPCの何が「必要である」かと言へば、要はストレージデヴァイス内藏である點が大きいと思ふ。ケータイは、メールをやりとりできる、寫眞を撮れる、いろいろなサーヴィスにアクセスして情報をとれる。けれども、それをとつておけない。メールにしてもアプリケーションのデータにしても、とつておくとしたらPCを使ふのが今のところ一番便利だらう。インターネットを見るのもPCは樂だが、見るだけでなく、そこにある情報をとつてきて保存するのに一番便利である。もちろん、PCのデータは、PC自體が壞れ易いからバックアップしなければならないが、そのバックアップメディアを作るのにもPCが一番便利ではある。
ネットワーク上にストレージを提供するサーヴィスはあるけれども、しかしそのストレージに置くデータを作るのには、PCが使はれるだらう。そして、PC上にデータを保存して、そのバックアップにネットワーク上のストレージサーヴィスを利用する。やつぱりデータを置く「母艦」としてのPCが、それなりに「必要」と云ふ事。
純然たるコミュニケーションツールとしてケータイが極めて有用である事は周知の事實であつて、PCを使はずケータイだけで何でもやつてゐる子はいつぱいゐる。提供されてゐるサーヴィスを利用し、刹那的なコミュニケーションの爲にメールをやりとりする。おまけでちよつとウェブを見る。その程度ならケータイで十分だ。が、普及してゐる多くのケータイでは基本的にワープロもスプレッドシートも使へない。或は、コミュニケーションの成果を保存するのにも使へない――
PCは、ローカルの環境でそこそこ自前の創造的行爲が可能である。受身でサーヴィスを利用するのにも使へる一方、サーヴィスから得た情報を取込んで保存し、再利用する事もできる。持運びがし辛い事が問題であり、また、データを保管する爲にも使ふのだからさうさう持運びが出來てしまつても困る、と云ふのも實は看過されがちながら事實である。ネットブックは、流行つてゐるけれども、二臺目以降のPCであるべきである、と云ふのは、機能が不十分であると云ふのも理由だが、落して壞したりした時に困る、と云ふのも大きな理由の筈だ。自宅に存在する「母艦」としてのPCがあつて、そこで行ふ作業を、ネットブックで持出して、出先でやれるやうにする――全部ネットブックでやつても、慥かに誰も文句は言はないけれども、決して合理的ではない。となると、「PCでやるべき作業がある」事は重要である。……。
ネットワークで全てが繋がり、情報がやりとり出來るやうになる。ところが、我々は、ただ情報をやりとりしてゐさへすれば良いとは思つてゐない。サーヴィスを利用出來さへすれば良いとは思つてゐない。データをとつておきたいと云ふ欲求があり、そのデータを自分で管理したいと云ふ欲求もある。そもそもさうしたサーヴィスなり何なりを提供する側にまはりたいとも思ふ事があるし、一般的なサーヴィスでは滿足できず自分だけの環境を作りたいとも思ふ事がある。ネットワーク社會が禮讚されればされるほど、我々はネットワーク社會を望んでゐない面がある事を強調する必要がある。案外PCは保守的なツールであり、同時に尖鋭的なツールでもある。その「同時」性を忘れて、「PCは最う要らない」とか「PCは必要」とか、一概に論じてしまつてゐるケースは、多いやうに思はれる。理念先行で、現實の使はれ方を、多くの論者が忘れて、面白がつて話をしてしまつてゐる。
大體、現代的な「思想家」と云ふ人々は、へんにオプティミスティックで、氣樂にものを言ふ=生活臭が極端に稀薄である。でなければ、生活、生活と言つて、極端に御金を稼ぐ事に執着したりする。その邊の平衡感覺の缺如が、私には堪らなく受容れ難い。「現代なんだから現代の思想家を知つてゐさへすれば良い」=「現代の思想家を讀め」と云ふ「論理」が罷り通つてゐるのだけれども、私にしてみれば、「現代のありのまゝの樣子を見てもゐない現代の思想家」は、てんで面白く感じられないし、それ以上に役に立たないとしか思はれない。その邊の技術者の人達がこぼしてゐる愚痴やら何やらを聞いた方が、遙かに現代的な感覺を養ふのに役に立つし、現代の現實を知るのに便利である。「現代の思想家」が「實學」許りに興味を持つてゐる事は論ずるまでもなく事實だが、ならば實際の作業に從事してゐる人に直接接した方が、「思想家」なるフィルタを通して抽象的な理解をする=「知る」より、遙かに増しだ。
平成二十一年八月八日
簡単のため - PDAのひとりごと
なんで理系の人つて「今は話を簡單にするために」云々と言へないんだらうと前から不思議に思つてゐる。或は「話が簡單になるので」。
指向性メモ::2009-08-08::世界中でどれだけのメモリがFirefoxに使われているかを計算したら110億円分だった
平成二十一年八月八日
白いたいやき たいやき工房『白家』 冷めても美味しい新しい鯛焼き

平成二十一年八月七日
ミーシャ、クッキーにちよつと心惹かれる
ミーシャ、スコっちと邂逅す
平成二十一年八月七日
ミーシャのともだち。
伸坊さん
働く伸坊さん
伸坊さんは、謎のクリーチャーと違つて、ちやんと働く。マウスを動かし辛いと評判。

平成二十一年八月六日
箱入ミーシャ

平成二十一年八月五日
職場にゐるへんなものたち。
ミーシャ通常形態
ミーシャ大地に立つ
一族
青い奴は、一往設定が決つてゐて、名前はミーシャ。ソ聯から來たスパイらしい。他は不明。
ほかにも、もぐらともあき氏とかばななばな蔵課長とか、わけのわからないクリーチャーが澤山ゐて、えらくカオスな空間と化してゐる。
平成二十一年八月五日
えさやり。
ミーシャ、見詰める。
ミーシャ、ひたすら見詰める
……。

平成二十一年八月四日
http://d.hatena.ne.jp/scinfaxi/20090804/1249383240
さう言へばPCつて修理に出せるんだよなー。と言ふか故障したら普通修理に出すんだよな。
パーツ買つて來て入換へればとか、ヤマダとかノジマとかでGatewayとかの激安PC適當に買つて來ればとか、普通の人は思はないんだよなー。
一年經つてるならその邊の安いPCでも、同等かそれ以上の性能持つてるんでないだらうかと思つたりするんだが、普通の人は――
……何時の間にか、稼働してゐるだけで四臺、してゐないのも合せれば十臺のPCが家中に轉がつてゐたりする。
平成二十一年八月四日
新宿京王の古書展に行きそびれた。
仕方がないので代りにBOOK OFFに寄つて來たが、何も買ふものがなかつた。
平成二十一年八月四日
日本のWEBは残念かと言つたら――實際のところ、ウェブに私はまるで期待などしてゐなかつたのだけれども、豫想をはるかに越えて非道い事が起きてゐて、殘念と言ふよりもただただ嫌だなあとしか思はない。即ち、Kirokuroと「義」の出現だけれども、あゝ云ふ暴力団みたいな人間が横行闊歩するやうになつてしまつて、本當にウェブは嫌だなあと思ふ。それ以前は、馬鹿であるにしろ、竹下義朗にしてもアレクセイ田中幸一にしても、一往知性を賣りにしてゐて、兔に角話をして、それでバトルを展開しようとはしてゐた。それがKirokuroや「義」は、最う話をする氣が最初から無い。「義」は、陰濕な裏工作で人の足を引張り、氣に入らない人間(私の事だ)の名譽と氣力を喪失せしめようとしたし、今でもし續けてゐる。Kirokuroは、私の發言を採上げては「バカだからこんな事をいうのですガハハ」みたいな嘲笑を一方的に浴びせるだけ。私が反論しても全部無視する。渠等は「野嵜はバカ」と云ふのを「最初から知つてゐる」のであつて、「バカ」を「紹介」して揶揄つて「遊ぶ」、「バカ」の名前を騙つて評判を落して「遊ぶ」――それで連中、自分が良い事をしてゐる積りでゐる。竹下にしてもアレクセイにしても、最初は話をしてゐるし、話をした結果としてこちらの事を氣に入らなくなつた。ところが「義」もKirokuroも、まるで赤の他人、何の接點もなかつたのに、突然現はれて、恰も公正な「第三者」か「レフェリー」のやうな顔をして、嬉しさうに「解説」してみたり、或は、他人だから絶對に不可能なのに、本氣になつて私を憎んでしまつたり――何れにしても異常だが、竹下やアレクセイが馬鹿なだけなのと違つて、Kirokuroも「義」も頭がをかしい。「義」は、Yahoo!掲示板でzak_kと名乘つて他人を愚弄し、罵倒しては喜んでゐた氣狂ひと同一人物だらうが、あゝ云ふ人間が私に固執して來るとは豫想も出來なかつた。全くの赤の他人に、「馬鹿だから」と云ふ理由で附き纏ふ。そんな理由はあり得ないから、頭がをかしいとしか言ひやうがないが、當人は自分がとてもまともな理由を擧げてゐると本氣で信じてゐる――剩へ、自分が正常で、野嵜は愚人だと本氣で信じてゐる。「馬鹿だから馬鹿に附き纏ふ」と云ふのは、ストーカーにしても本當に異常で、精神病院に行けば良いのだが、こんな人間が、自分は正常であると確信して、ウェブに棲息し、しかもその氣狂ひの周りに陰濕で惡辣な人間が寄集つてゐるのだ。
こんなに氣狂ひが世の中に多いとは、私は思つてゐなかつた。世間知らずにも程があると言はれるかも知れないが――しかし、「頭が良い人間」と「バカ・暇人」との對立項だけで語られて、「日本のウェブは」何う斯うと言つても、寧ろさう云ふ事を言つてゐられる人々の方こそ、世間知らずで、暢氣であるのでないか。氣狂ひの問題は、2ちゃんねる邊では案外語られてゐるが、面白をかしく語られるだけで、誰も問題だと思つてゐない。皆ふざけるだけ。2ちゃんねるに限らず、今の日本のウェブは、眞面目な話が不可能で、皆匿名の假面を被つてふざけるのに熱中してゐる。假面を脱ぐのは、商賣をする時か、「バカで暇人(いい意味で!)」であると周圍の人々に認識されてゐる時だけ。眞面目な話をする事が、今のウェブでは全く不可能となつてゐる。
はてな方面の人々は、或は2ちゃんねらーでも、いや、我々は、お前の知らないところで、眞面目な話をしてゐるぞ、と、親切に言つて呉れるか、或は馬鹿にしながらたしなめるやうに言つて呉れるだらう。けれども、その「眞面目な話」が、數學の話――パズルの話――や政治の話――システム作りの話――だとしたら、結局皆で樂しんでゐるだけに過ぎない。ウェブの哲學論爭なんて言つても、精々、何處ぞの哲學者の主張を紹介し合つて、成る程成る程と互ひに頷き合つてゐる程度だらう。そこから先、價値觀の議論となると、Kirokuroみたいなのが土足で上がり込んできて、お前は馬鹿だの何だのと嘲笑を浴びせるだけだ。でなければ、氣に入らない人間を見出しては憎惡して、執念深くその人間の社會的地位を失墜させる工作に走るだけ。眞面目な議論は、ウェブでは今や、あり得ない事になつてしまつてゐる。
昔はウェブの規模が小さかつたからKirokuroや「義」のやうな氣狂ひが活動する餘地は限られてゐた。或は、昔はウェブの知識が少かつたから――。今は、ウェブの規模が擴大して社會的な影響力が大きくなつたし、ウェブを惡用する方法が良く知られるやうになつた。アングラと云ふものがウェブには存在し得ない。全てのリソースがウェブでは對當である。これが大變困つた事で、MSのサイトやYahoo!と、Kirokuroの「ブログ」とは對當である。Kirokuroの「ブログ」はアングラではない。「義」が私の名を騙つて書込んで廻る掲示板はアングラではない。2ちゃんねるはアングラではない。アングラならまともな社會とは別のところに存在し、やくざは堅氣に迷惑をかけない。けれどもウェブのサイトは全て一つの「社會」の中に存在し、ウェブのユーザは全て同等の「ユーザ」である。そこで陰濕な性質をもち、かつ惡辣なやり方を覺えたユーザが動けば、全てのウェブに影響を與へる。これを氣狂ひが知つてしまつた。もちろん、知つて當然の話だが、さう云つた連中に對抗するだけの、常人の側の準備は、全く出來てゐない。制度もさうだが、そもそもの精神のレヴェルで、ウェブ時代に我々は對應出來てゐない。
日本人がそもそも、近代的な思考を身につけられてをらず、近代社會に適合できてゐないと云ふのが問題であるのだが、本當に未熟な状態で日本人はウェブ社會の到來を迎へ、そこで、一面で大變うまく適應しながら、他面で非道いウェブ・「残念なウェブ」と呼ばれる状況を出來せしめてしまつてゐる。多くの人が、その一面を強調して、他面を強調してゐる人を罵倒・嘲笑して喜んでゐるのだが、この種のアンバランスが生じてしまつてゐる事がそれ自體として日本の社會の問題である事には、出來れば多くの人に氣附いて貰ひたいが、しかし、それに氣附かないか、氣附いても自分に都合の良い話だとだけ思ふのが氣狂ひである。
平成二十一年八月三日
全くの赤の他人がその邊で何か言つてゐるのを見て、「こいつは絶對に潰さなければならん!」と思ひ込んで、一生懸命活動を始めるなんて、頭がをかしくなければできない事だ。
――はてな方面にも、さう云ふ人が案外ゐるので、病んでゐる人は多いんだなあと思ふ。
もちろん、間違ひを言つてゐる人を批判しようと思ふのはあり得る事だが、しかし、何年も何年も「バカ」に執着して、附き纏ひ、粘着して、潰れるまで嫌がらせを續けようとする人がゐたら、やつぱりその人は氣狂ひだらう。そのやり方が、口汚なく罵るとか、嘲るとか、さう云ふのであるのは、先づは嫌な事である訣だが、それを人前で當り前のやうに出來る――或は、自分が言ひ、人にも言はせ、「特定の一人の人間を對象に、えんえん惡口を浴びせかけるだけの集團」を作り上げる、と云ふのは、矢張り人格の何處かに缺損でもあるに違ひない。
Kirokuroなんかがをかしいのは、野嵜だけを愚弄して、仲間に對しては大變慇懃に接する、と云ふ事。これは典型的な苛めのやり方だが、それをKirokuroは當り前の事だと思つて、誰もが見てゐるウェブで平然と――と言ふより、これ見よがしにやつてゐる。自分は常識を持つた、大變社交的な好人物だと、Kirokuroは以て自任し、そのやうに振舞つてゐる積りでゐる。けれども、取卷き・身内に取卷かれた時に上機嫌で、氣に入らない特定の少數の人間に好い氣になつて罵倒の文句を浴びせかける、なんて事をするのは、まともな人間が公開の場で出來た事ではない。明かに頭がをかしい。
……これが、匿名の假面をかぶる事による安心感から來てゐる行動だとしたら、矢張り匿名と云ふものは道徳を破壞するものと、言はざるを得ないのでないか……。さう言ふとKirokuroは「野嵜ごときが道徳を語る」としたり顏で言つて見せる訣だが、「道徳缺損症患者」のKirokuroだからこそ、反省する能力も缺損してゐる訣である。野嵜が言はうが誰が言はうが、公正に判斷出來る精神――それがないなら、Kirokuroは、氣狂ひ扱ひされないまでも、少くとも偏見に滿ちた惡意の人間と見られて當然だ。それがわからないのは、頭がをかしいか、頭が惡いかの、どちらかであらう。
平成二十一年八月三日
異常な人間にはユーモアの感覺が缺損してゐるものだ。Kirokuroもまた。彼は、身内相手には微笑を見せるパフォーマンスが出來、野嵜相手には素で嘲笑を浴びせる事が出來る。けれども、前田嘉則の「ブログ」のコメント欄で、赤の他人・第三者の人から批判された時、Kirokuroは餘裕を失つて、恐ろしく冷淡かつ傲岸不遜な居丈高な態度で應じた事がある。私はそれを忘れない。
平成二十一年八月三日
斯うした異常人が平然とウェブに現はれる。そして、異常であると自覺しないまゝ、勢力を擴大する。少くとも、常人の側で彼を批判する人がゐない。ウェブが異常である事は、論ずるまでもない事だ。
成る程、「義」に對しては、はてな方面も含めて、隨分支援をしていただいたし、それには感謝してゐる。けれども、さうなると「義」はますます惡辣で陰濕なやり方で嫌がらせを仕掛けて來る。現在、「義」は、「野嵜健秀」の名を騙り、私のメールアドレスを出會ひ系サイトに手當り次第に登録し捲つてゐる。斯うした嫌がらせに、ウェブは無力であるが、今のウェブの状況があるからこそ「義」はそれを利用して、嫌がらせを働くのである。斯う云ふ状況が出來したのは、「殘念」と言ふより、ただただ「嫌」なだけである。
出會ひ系サイト・アダルトサイトの類の出現は、「ブログ」の世界とは最早何の關係もない。しかし、多分梅田望夫氏に限らず、他のほぼ全ての「ブロガー」の人が、アダルト方面のサイトがある事實を全く氣にしないで、「ウェブと云ふ世界」の事を考へてゐると思ふ。「こつちの世界」の人間に嫌がらせを仕掛ける爲にアダルトサイトを利用する「義」のやうなユーザが出現してゐる――この事態を、論じられる知識人も「論客」も、一人もゐないと思ふ。皆、自分の好きな領域しか見る事が出來ないのだ。
平成二十一年八月三日
……斯う云ふ事を書くと、「附け狙はれるやうな事になるきつかけを與へたのが惡いのだ」式の説教が返つて來る。だが、ならば、「今のウェブを樂しめないのが惡い」「バカを樂しめないのが惡い」「粘着が惡い」云々、と云ふ事は、何でも言へるのでないか。しかも、この手の責任論は、結論が出ない、と云ふ點で最惡の非難である。日本人は斯うした責任論を言合つて快を貪る惡癖がある。客觀的に分析する事が出來ないのだ。前近代的と言つても良いだらう。
平成二十一年八月三日
近くで突然ひぐらしが鳴き始めた。

平成二十一年八月三日
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炎上騒ぎでの「批判」はただの言い訳 - 今日の雑談
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みんなはてなユーザである事が、匿名である事と何ら變らないのを忘れてゐる。2ちゃんねらーが匿名で、はてながID制なのとを、嚴密に區別してしまつてゐる。しかしはてななんて、所詮匿名サーヴィスの親戚だよ。
と言ふより、「ブログ」のレンタルサーヴィスは、どれもこれも、匿名サーヴィスに近い。「ブログ」で「信頼」できるものと言つたら、せいぜい有名人がやつてゐるとされるものくらゐだらう。しよこたんブログと言つたらしよこたんがやつてゐると見て間違ひはない(第三者が芸能人の名を騙つたら問題になる)。だが、その邊の一般人が適當にIDをとつて適當に「ブログ」を作れるのだ。ならばそんな適當な「ブログ」をやつてゐる「ブロガー」の信頼性なんて、あつたものではない。
例へば、野嵜健秀氏がISPのJ:COMのサーヴィスを利用してウェブサイトをやつてゐる――世間的に、ISPの提供するメールアドレスは、それなりに「信頼出來る」ものとされてゐるならば、ISPの提供するウェブスペースを利用してゐるのも、それなりに(飽くまで、それなりに)信頼出來るものと看做されよう。けれども、Yahoo!ブログでnozakitakehide氏がやつてゐる「ブログ」が、本當に野嵜健秀氏のやつてゐる「ブログ」だと言ふ事は、案外簡單に出來る事ではない。事實、同じく野嵜健秀制作と稱する「ブログ」が、Yahoo!ブログのサーヴィス内には、最う一つある。
況してや、その野嵜健秀を名乘る人物が、各地の掲示板で「申しわしたぞ」とか書いてゐても、それは果して野嵜健秀氏本人か何うか。東京都在住40歳の野嵜健秀氏が出會ひ系サイトに出沒しても、それが本當に野嵜健秀氏本人か何うか。――。
一方。Kirokuroなる人物が、何處だかのサーヴィスを利用して「ブログ」をやつてゐる。そのKirokuro氏は野嵜健秀氏に粘着して、何年も執拗に中傷を續けてゐるが――「ブログ」を持つてゐるからKirokuro氏は信頼できる人物だ、と言へるか何うか。
もちろん、ISPのウェブスペースにサイトを置いてゐても、同じリモートホストから書込んでゐるのに、アレクセイとホランドとナイルズと、別の名前を名乘つてゐればそれは別人格です、等と眞顏で言ふ人物がゐたりする。常識的に考へて、さう云ふ人物は、何かを勘違ひしてゐるのだが――しかし彼がウェブの匿名性なるものを本氣で信じてゐるとしたら――彼の「言論」は「匿名の言論」である。
――信頼出來ない匿名の人物が、批判をする。これが今のウェブの問題の、一つの原因である……としたら。
本当に恐ろしい「炎上」の話 - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
はてなですら、IDをとれるから、そのユーザは信頼出來るものとは、言切る事が出來ない。適當なIDを取つて、暴言を吐き、罵倒を加へ、中傷を行つた後、「くっく」とか言つて書き逃げしたら――やつぱりそのIDによる發言は「匿名の言論」と云ふ事になるだらう。
さうした「匿名の言論」でなければならないし、さうであつていいと皆で思ひ込んで安心してゐる――ところが、それが結果としてウェブの不健全さを助長してゐる。
もちろん、匿名である・ないは、所詮はシステムの話であり、システムを利用する人間の性質が全ての問題の原因である事は言ふまでもない。人間が惡意を持つ限り――それは・野嵜健秀もまた持つのである――匿名だらうが何だらうが、人間は問題を起す可能性はある。さうした人間の、人間それ自體の、本質的な問題を看過して、ただシステムで何うにかしようと云ふだけの「議論」で終るなら、それは「政治的」な議論の域に留まる。
http://d.hatena.ne.jp/adramine/20090803/1249308517
掲示板で他人を罵倒してゐる惡辣なユーザが、例へば煙草のやうな「合法麻薬」を賣つてゐる社員であつたとしても、その販賣が合法である限り、某元國營企業の社員である事を以て非難を行ふ事は出來ない。然るに、「無職に發言する權利は無い」等と、匿名で言ふ人がゐた時に、その匿名氏を信頼してしまふとしたら、それは黨派根性による身贔屓であらう。中傷を繰返し、名前を騙つて名譽毀損してゐる匿名氏の、その行爲を勤務先に通知したら、馘首になる事もあり得る。匿名の外觀は、行爲の實質を全く無にするものではない。匿名だからと言つて、社會的な制裁を免れる權利を得る物ではない。
一方で、トンデモ歴史學を主張し、反對者を「自分に反對してゐる」がゆゑに「掲示板荒し」とレッテルを貼つて大々的に宣傳してゐる人物が、某鐵道で運轉士をやつてゐるとしたら、そんな電車に私は乘りたくないと思ふ。本に名前が出てゐる人物で、一部で有名と云ふ人物でも、多重人格サイコな事をやつてゐるとしたら、やつぱり信用できたものではないだらう。匿名だらうが何だらうが、結局人が問題であるのは間違ひない。
が、さうした人間性を無視して、ウェブは「安全」とかを大義名分として匿名社會化し――その結果として、人間の惡い面が顯れるやうになつて來てゐる。としたら、我々は、人間性それ自體を憎みつゝ――或は嘆きつゝ――匿名なるシステムに規制をかける政治的な解決をも、導入する事を場當り的に檢討せざるを得なくなるのでないか。實際問題として、ウェブに於ける「言論の自由」の問題は、相當に程度の低い問題として扱はれねばならない。ところが、その低級な次元でごたごたが存在する爲に、それ以上の次元での議論は事實上、ウェブに於ては不可能と化してゐるのである(可能性の問題として見る限り――理想的な環境下では、ウェブ上での議論は可能である)。日本人の民度の低さは、ウェブで議論が成立たない状況が出來してゐる事實を見る事で、はつきり認識する事が出來る。そして、その民度の低さが、「現實」である限り、「現實的」な日本人は改善する事が、自らの手では出來ないのである。少數の人が如何に高い意識を持たうとも、民度が低いなら、駄目である。

平成二十一年八月二日
大正野球娘。は、第一話のサブタイトルが男子がすなるとい、あれと「現代仮名遣」になつてゐるのに、第二話のそれが春の長日を恋暮らしと歴史的假名遣になつてゐる。何で斯う云ふ不統一な事を平氣でやれるのだらう。アニメの制作者には能なしが揃つてゐるに違ひない。
平成二十一年八月二日
http://www.tbs.co.jp/anime/taisho/text/text.html
編集後記 〜スタッフの小言〜
「小言」とは、岩波国語辞典第三版に據れば、ぶつぶつ文句を言うこと。その言葉。不平・苦情・訓誡(の言葉)。の謂だが、日本語を知らないスタッフだから、また何か勘違ひしてゐるのだらう。

平成二十一年八月一日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0907.html#31p1
平成二十一年八月一日
多くの人が「正字正かな批判」をして好い氣になつてゐるけれども、結局「俺達日本語を破壞したんだぜ」と粹がつて喜んでゐる連中が、秩序を主張する人間を憎んで言つてゐるだけだ。
實際、「今の表記」について、「便利」「これで十分」以上の價値觀を、彼等が提示した事はない。
某ブロガー氏も、「正」と云ふ字を憎んだだけだし、無秩序な事になればいいと無責任な事を言つただけだつた。
要するに、彼等は「無秩序」「出たら目」が好きなだけであつて、そこで「秩序」を言出されたら、反論出來ないのだ。だから「本當にその秩序は秩序と言つてよいのか」のやうな疑問を呈する事は出來るけれども、「俺達の使っている現代日本語は秩序として整然とした立派なものであり、舊日本語は無秩序でぐちゃぐちゃなひどいものである」と眞面目に主張する事の出來る人は一人もゐない。無秩序で出たら目なものを「正しい」と言張つて固執する爲に、殆どの人が正字正かなを憎惡する。感情論でしか物を言へないのだ。もちろん、理屈も言ふが、正字正かなに對する惡感情を彼等は匿し切れない。常に嘲笑・憫笑が、彼等の主張には附き纏ふ。しかし、感情論であるならばそれだけで渠等の主張が間違ひである事は明かだ。そして、感情に訴へかけるならば、渠等の主張は、正しい主張ではなく、デマゴーグである訣だ。
そして、デマを流す連中だからこそ、渠等は「正しさ」と云ふものを「自分に都合の良いもの」としか解釋せず、「渠等にとつて都合の良い結果」につながる全ての行爲が彼等にとつては「正しい」ものになる。「正しい日本語」と私が言ふのを渠等が憎惡するのは、彼等にとつて都合の惡い物を「正しい」と言つてゐるからに外ならない。正字正かなが正しいものであるのが、渠等は許せないのだ。渠等は價値觀を自分の思ひのまゝにしたいのであり、客觀的な眞實や正しさなるものがあつて自分の好き勝手を出來ない事を大變嫌がるのだ。
「保守派」と使用する人々でも、正字正かなを嫌つてゐる人がゐるけれども――西部邁等――結局は渠等も「現代の日本人」に過ぎない。渠等が「保守」したいのは「現在の體制」に過ぎない。渠等は、正統なるものを信じないし、確立したいとも思はない。ただ傳統なるものが無秩序である限り、無秩序を良しとする現代の價値觀に基いて容認するだけである。
「自分自身」を守りたい、と云ふ思ひ込みは、現代人の病弊であり、克服せねばならない事だが――現代人が現代の病を自覺せず、超克しようともしないのは、かのキルケゴールが早く看破してゐた事である。

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2009年7月
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