制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。
あとKirokuroや「義」の嫌がらせへの抗議。

闇黒日記


平成二十一年七月三十日
知らぬ間に消えるAmazonカスタマーレビュー
Diary?::2009-07-29
平成二十一年七月三十日
巖松堂店頭のワゴンでアンドレ・ジイド作小林秀雄譯『パリュウド』(岩波文庫1222)、阿部次郎『ニイチエのツァラツストラ解釋並びに批評』(新潮文庫第二百八十九編)、幸田露伴『芭蕉入門』(新潮文庫)の三册を拾つた。
平成二十一年七月三十日
近所でバカがまたなんみょーほーれんげきょなんみょーほーれんげきょをやつてゐる。何で人に聞えるやうにやるんだらう。
キリスト教では、善行は匿せ、と教へる。キリスト教の方が遙かに上等だと思ふ。

平成二十一年七月二十九日
ATOK2009附けて貰つたので入れてみたが、俺の名前も變換できなければ福田恆存も出せない始末。恐ろしく使ひ難い。
平成二十一年七月二十九日
人名用辭書を有效にすると福田恆存が出る。
文語モードにしておくと一往正かなで入力出來る。
平成二十一年七月二十九日
VJE風にできる。しかしなんかATOK使ひ辛い。設定わけわからないし。
平成二十一年七月二十九日
セットアップは途中までやつた。適當にやつてゐたらいろいろ訣わからない事になつて戸惑つた。
取敢ず蒲團の中から虹裏できるやうになつた。何やつてゐるんだらう。
平成二十一年七月二十九日
IdeaPadのクイックスタートで使へるブラウザが、結構しつかりCSSに對應してゐる。やうな氣がする。今となつては當り前の話だが……。
平成二十一年七月二十九日
新宿ソフマップの中古品販賣フロア(三階)では、昨日二千圓ちよつとで出てゐた40GBの2.5インチHDDが賣れてしまつてゐる一方、七千圓ちよいの値が附けられて棚に竝べられてゐたGV-MVP/RZ-2が投賣ワゴンに20%オフで置かれてゐた。
何も買はず。
平成二十一年七月二十九日
狂乱家族日記番外そのごをじりじりと讀み進める。これも大體ネタが出盡して、作者の語り口調に乘せられて讀まされるといつたやうな状態になつてしまつてゐるが……。

平成二十一年七月二十八日
新宿西口のヨドバシカメラでLenovoのIdeaPadを買つて來た。ヨドバシの店員さんは親切だつた。みんな買つてあげよう。
平成二十一年七月二十八日
Operaをdownloadしようとhttp://www.opera.com/に行くと、とっぷぺーじで9.64(現在の最新版)を落せるやうになつてゐる)。が、10beta2(最新のベータ版)を落したいのでhttp://www.opera.com/browser/next/で「無料ダウンロード」ボタン(畫像によるボタン。最低のインタフェイスだ)を「押す」。すると「Opera ブラウザのダウンロード」のぺーじに行く。そこでOpera 10.00b2 for Windowsと表示されてゐるので、「Download Opera」ボタン(またしても畫像による僞ボタン)を押すのだが……なぜか「Opera ブラウザのダウンロード」のぺーじがロードされて、畫面にはOpera 9.64 for Windowsと表示される。何なのだらう。9.64なんか要らないので再び「Opera 10.00b2」なるアンカーをクリックするのだが、もとのOpera 10.00b2 for Windowsの「ダウンロード」ページに逆戻りするだけ。そこで「Download Opera」ボタンを押すとまたOpera 9.64 for Windowsと表示されるぺーじに。
……これだからOperaは普及しないんだよ。何で斯う云ふ誰でも判る不具合を、Operaの人は何時までも直さないでほつたらかしにしてゐられるんだらう。
諦めてftp://ftp.opera.com/pub/opera/から拾つて來たが、Opera_1000_classic_b2_Setup.exeとOpera_1000_en_b2_Setup.exeつて何が違ふんだらう。訣が解らない。
平成二十一年七月二十八日
リコー、「GR DIGITAL III」の発表会を開催 - デジカメWatch
リコー、F1.9レンズ搭載の「GR DIGITAL III」 - デジカメWatch
出遲れた。昨日發表があつた直後には、なぜか海外のニュース記事しかなかつたのだが、今日は日本中どこでも普通に話題になつてゐる。カタログ貰つて來た。比較的長期に亙つてモデルチェンジしない事で有名なGRDも三代目。初代を持つてゐるけれどもそろそろ買ひ換への時期? 機能的には初代でも結構行けるが。

平成二十一年七月二十七日
藝術と科學の類似、或は、藝術における個性の滅却、といつた事は、T.S.エリオットが「傳統と個人の才能」で書いてゐた事だつた。
平成二十一年七月二十七日
IE8 正式版の不具合?エラー? - 教えて!goo
録畫一本失敗したのがスパイウェア對策ツールの所爲だと判明。

平成二十一年七月二十六日
先日買つて來たA・J・トインビー『G・R・アーバンとの対話 歴史と現代・未来』(社会思想社)を少し讀む。「歴史は科学か芸術か」。トインビーの携つてゐる人間事象の研究は、歴史その他の人文科學の事だけれども、確かに、所謂自然科學の類と違ふ。けれども――例へば歴史學は、歴史の中に法則性を見出すものであり、程度の差はあれ、全くの非科學的學問と言ふ事など出來ない。言はば藝術と科學の中間のものである。云々。
「異端」であるトインビーを批判する「正統派」の歴史學者が、トインビーに強い敵對心を抱いてゐる――その抱き方が、非道く個人的だとトインビーはいぶかしく思ってゐると述べてゐる。

……。この男はわれわれの生活、思想、仕事のすべての様式をくつがえしてしまうかもしれない、危険な野獣だ、やっつけなければ、といったぐあいですね。私は思うのですが、これが守勢的立場と弱さの兆候なんですね。私に対するこの敵意と科学者ぶった態度は、ほんとうは両立しないものなんですが、私が申しますとおり、同じ人間がこの二つの態度をとっているわけなんです。

トインビーも「反近代の思想」に連なる人(「歴史家」「思想家」ではない)であり、反感を覺える人・その理論や研究態度に反感を抱く人は多いのだけれども、それだけにその著作を讀むのは、多くの「無害」な專門家のそれを讀むのよりも、有益な事だと思ふ。
平成二十一年七月二十六日
大正野球娘。。結構頑張つてゐるのだけれども、EDの繪で「たうきゃう」とあつた。「東京」の積りだらうがその場合字音假名遣は「とうきやう」。適當にそれつぽい書き方を調べもせず好い加減に描いたに違ひない。
何でアニメ關係者は假名遣に無頓着なんだらう。何時も不思議に思ふ。アニメの制作會社には辭書の一册もないのだらうか。
平成二十一年七月二十六日
自轉車に乘る時はケータイ弄らないでほしい。あぶないよ。
なんでケータイ持ちの人はケータイ弄りたがるんだらう。

平成二十一年七月二十五日
化物語は相變らず假名遣に誤が散見せられる。ケイタヒつて何だよバカタレ。
平成二十一年七月二十五日
Alertbox: パスワードを隠すのをやめよう(2009年06月23日)
パスワードの「****」表示、「見えない方がいい」が67.9% -INTERNET Watch
平成二十一年七月二十五日
Alertbox: ユーザビリティの専門知識に対する敬意を育てる(2009年07月06日)
平成二十一年七月二十五日
最近は「同じ世界を何度も何度も繰返す」ネタがかぶり捲つてゐる。アスラクライン。エヴァ劇場版。さうした中で涼宮ハルヒが突出する爲にエンドレスエイトをやつてゐるのだと考へれば理解は出來る。
平成二十一年七月二十五日
蚊に目の上喰はれてお岩さんみたいになつた。一囘休み。
平成二十一年七月二十五日
「人間」昭和二十四年九月號。野間宏「新しい疑問――「白く塗りたる墓」を讀んで――」(往信)と福田恆存「現代的な悲劇性」(返信)を掲載。野間、コミュニストとしての「實踐運動」に入つて行つて自分は廣いところに出ることができた。福田、それは「文學者の實踐運動」とは違ふ。云々。所謂「政治と文學」論爭の一つで、その中でも特に典型的かつ本質的なものになつてゐると思ふけれども、斯うしたやりとりがそのまゝの形で今に傳はらないでゐるのは、何とももつたいない話。
平成二十一年七月二十五日
「表現」昭和二十四年新年號。福田恆存「觀念的な、あまりに觀念的な ――現代の青年へのてがみ――」掲載。内容は全集や評論集で讀める筈だから省略。
かう云ふ文章を讀む時には、ニーチェについての知識が、ないよりはあつた方が良いだらうと思ふ。

平成二十一年七月二十四日
福田恆存評論集は、次の第一卷で豫告された十二册を取敢ず出し終へるが、引續き八册を續刊するさうだ。七月の新刊、第二卷『藝術とはなにか』の帶で發表された。第十六卷に『否定の精神』が入る模樣。
麗澤大学出版会
平成二十一年七月二十四日
政治主義者で解らないにしても政治バカと言へば今の時代は解るんだらう。
平成二十一年七月二十四日
違、違、違その2 - 實驗日記(假)

私は、政黨とは同じ理念を持つた者の集りであることを忘れてゐた。施策は理念を實現するために行ふものなのだが、私は肝腎の兩黨の理念の違を説明できない。理念のない施策に意味があるのか?

平成二十一年七月二十四日
以下は日本が民主主義の國家としてやつて行くならば……と云ふ前提での話。
政治家は理念に基いて方針を示すべきだ。その方針が現状求められてゐるものであるか否かは、選擧で明かにされる。
アメリカやイギリスは、現在のところ、二大政黨制の下で政治が行はれ、理念に基いた政治が大體實施されてゐる。
日本は、英米の二大政黨制を模倣して、自國にもそれと類似した體制を導入しようとしてゐる。そこで自民黨と民主黨とを二大政黨として機能させようとしてゐるのだが――自民にしても民主にしても、はつきりとした理念を示してをらず、同じ「現實主義」に基いて政策を立案し、國民に示してゐる。
自民と民主の「マニフェスト」には「細かい差異」がある。けれども、それが何に由來するのかは非常に曖昧だ。
國民が當座、「自分逹の代表」としての政治家を選び、彼等に國の運營をやつて貰ふ――その時、信ずる理念に基いて方針を示した人だと、大體言つた通りの事をやつて呉れるだらう――けれども、自民にしても民主にしても、言つてゐる事を守るか何うかすら怪しい。
平成二十一年七月二十四日
一方、政治家の人は「政治家でなければただの人」である訣で、それゆゑ選擧で當選を目指さねばならない、と云ふ「理窟」が出て來る。「ただの人」になつて路頭に迷ふのは、成る程、人として、確かに避けたい事ではある。けれども、「ただの人」になるリスクを政治家に負はせるシステムだとしたら、民主主義は苛酷に過ぎる。さうしたリスクを緩和するシステムとしても政黨制は機能する筈だ。理念を持つた活動家が、現實の政治の場でその主張を受容れられない間、生活を保證する爲に政黨が存在するのであつしてもいい。もつとも、生活が安定し、安心して「受容れられない活動家」でゐられるのも困るので、或程度の緊張感が維持されるやうになつてゐなければならない。もつとも、その邊のシステム作りの事は、しかし、今考へてもしやうがないし、私も興味がない。
平成二十一年七月二十四日
兔に角二大政黨制が實現出來れば良いのだ、さう云ふ主張も世の中には「ある」かも知れない――が、それでは我々日本人は英米の二大政黨制を外見だけ模倣しただけに過ぎず、内面では依然として日本的な餘りに日本的な政治を維持する事になつてしまふ――けれども、政権交替を言つてゐる人には、案外、自民から民主に全面的に權力を委讓し、自民黨を完全に消滅させる事を考へてゐる人もゐるやうに見える――。
平成二十一年七月二十四日
私もたまに下らない事を考へるのだが――今度の衆院選で民主黨が壓勝して、政界再編が起きる――自民黨から政治家が次々と離反し、民主黨になだれ込む――自民黨が解黨する――民主黨が一黨で安定多數となる――誰かが言出して、黨名の頭に「自由」を附ける事になる――。

平成二十一年七月二十三日
現自民か、元自民か、と云ふ「選擇」。實に意味がない。

平成二十一年七月二十二日
「既存のものをぶつこはせ」と言つてゐる政治家を今の日本の國民は支持してゐるだけだ。小泉さんの時もさうだつたし。今囘も、民主黨は自民黨政權をぶつ壞せと言つてゐる。
壞したから何うなると言ふものでもないだらうに、取敢ず壞したら何か良い事があるのではないかと皆根據のない期待を抱いてゐる。
自民黨政權が崩潰しても、もと自民黨の人が作つた、自民黨と何も變らない民主黨が政權を取るだけなのだ。自民が敗北すると政界再編が生ずるとする人もゐるが、自民黨が解黨して「もと自民黨」の議員が民主黨になだれ込んだりしたら、その時は何うなるのだらう。
マニフェスト選擧と言つても、何等かのイデオロギーや理論に基づいてマニフェストを作つてゐるのでなく、ただ場當り的にその場の人氣取りの爲に作つてゐるのだから、御話にならない。自民黨も民主黨もどちらが「より現實的」かを競つてゐるが、要するに立場としてはどちらも同じである。しかも、それぞれの黨の中でも考へ方の異る人がゐる。自民と民主、思想的・理論的には區別する事が出來ない。
「うちの黨は何う云ふ主義に基いて政治をやります。具體的には……」と言ふのが本當なんだと思ふが、そもそも自民にも民主にも一貫した理論・原理・イデオロギーは存在しない。
「過去の實績を基準に政權を擇ぶ」と云ふのは即ち「信用して全部お任せ」と云ふ事だ。マニフェストも糞もあつたものではない。
平成二十一年七月二十二日
自民黨から離黨するのに「考へ方が違ふ」と言つても何の意味も持たない。なぜなら自民黨は考へ方が違ふ政治家が寄集まつて作つてゐる政黨だからだ。
日本人は、考へ方が違つても寄集まつて一つの政黨を作る一方で、考へ方が違つてゐるからと言つて別の政黨を作る。結局のところ、政黨を作る基準が日本には存在しないのだ。これでは國民も政黨を選べない。
しかも「違ふ考へ方」と言ふその「考へ方」とやらが、場當り的なもので、根據を缺いてゐるものだつたりする。
政治家同士が良くわからないで言爭つてゐるのに、國民も同じやうに良くわからないで言爭ひをやつて暇潰しをやつてゐる。ウェブでの政治に關する「議論」を見てゐれば、もつともらしい事を言合つてゐても、その根柢には何も「哲學」ない事は、すぐにわかる。ただ「より現實的」であらうと思はれる理由を、故事つけて、強い口調で互ひに相手に言ひ聞かせ合つてゐるだけでしかない。しかし、さう云ふ人々に限つて、自分はとても偉い事を言つてゐるのだと勘違ひし、偉さうに他人に説教をかましたりする。
政治の議論としては大變幼稚なものであるのだが、「政治の議論だから偉い」と勘違ひしてゐる人は、日本には大變に多い。理論に基いて政治の方針を立てる事こそが必要であるのに、理論に基いてゐる事を極端に馬鹿にして、子供扱ひし、「現實主義」の立場をとつて、大人ぶつて見せる人が、日本には極めて多い。本當に必死で大人であらうとしてゐるかのやうにすら見える。
平成二十一年七月二十二日
glacéau | vitaminwater | smartwater | vitaminwater10
「おためし」したが微妙。と言ふかアレ。胸燒けするドリンクは初めて。
平成二十一年七月二十二日
新潮社の「日本文化研究」シリーズ第七卷、鈴木成高『日本に於ける伝統と現代』が、この手の問題について扱つて、巧く纏めてゐる。興味のある人は古本で探して讀むといいと思ふ。日本人論では、ライシャワー、ベネディクト、サンソム、そしてレーヴィットに、近代或は文化の問題については、T.S.エリオットとドーソン、そしてトインビーに觸れてゐる。

平成二十一年七月二十一日
謎太郎
謎だからと言つて何でもありだと思つたら大間違ひだバカタレ。
……すみません。
謎子
何キレてんだよ兄貴……。

平成二十一年七月二十日
こんばんは、今夜も始つてしまひました謎の對談。司會は私「の」。お相手はおなじみ謎の美少女・謎子さん。
謎子
なんでおなじみなのに謎なんだよ。
一年ぶりの登場ですが、おぼえてゐる人ゐるんでせうか。
謎子
……いやいいよ忘れてて。忘れて呉れた方が助かる。
今夜は謎の對談と云ふ事で、テーマは謎です。
謎子
謎なのかよ。いや、謎について語るのか、語る内容が謎なのか。
もちろんその邊、全て謎です。
謎子
バカヤロ。
美少女にバカヤロ呼ばはりされるのはいいですね。Kirokuroだの名無しさんだの通りすがりだのに罵倒されるのとはひと味違ひますね。あいつらも空氣讀んでネカマすればいいのに。
謎子
Kirokuroなんかの名前出すなよ。キモいし。あつちが粘着なのにこつちが粘着に見えるだらうが。と言ふかなんだネカマするつて動詞。正しい日本語は何處へ行つたんですか。え? ど こ へ 行 つ た ん で す か ?
どこへですか。決つてゐるでせう。全ては謎です。謎。便利ですね。何でも謎と言つておけば謎對談になる。
謎子
謎でもなんでもないだろ。誰がどう見てもネタがないのに無理やり對談でつち上げて適當に話進めてるだけだし。そもそも謎對談でも何でもないだろ。梅酒呑んで醉つ拂つて勢ひで書いてるだけだし。
ひとの動機を探つて何うするんですか。あなたは何をしたいんですか。そんな事をして何が愉しいんですか。
謎子
……さう云ふ事ばつかり言つてゐると、お前憎まれても仕方がないと思ふよ。
いやもうそんなにここ讀者ゐないだらうし。
謎子
一往公共の場なんだし、それなりに配慮は必要だと思ふ。
それはさうなんだが、何で思ひ附きの謎キャラに説教されねばならんのだ。
謎子
知るか馬鹿。と言ふか全ては謎なんだろ謎。それでええやん。
謎太郎
ところで謎子の兄です。こんばんは。
……謎太郎ゐたのか……。
平成二十一年七月二十日
2009年7月22日皆既日食の情報:国立天文台
JAXA 宇宙教育センター : 日食の観察 - みんなで木もれ日を撮ろう
AstroArts: 【特集】2009年7月22日 皆既日食
せんだい宇宙館−2009年7月22日 皆既日食 目次−
鹿児島県:皆既日食
2009皆既日食in奄美 - 奄美市皆既日食 Special Site
西之表市役所|皆既日食情報サイト
皆既日食 - 鹿児島県十島村
世界天文年2009 日食観察ガイド
2009皆既日食鹿児島実行委員会
2009皆既日食in奄美 - 奄美皆既日食ブログ
日食・月食情報データベース
皆既日食観測プロジェクト | 東海大学
トカラ皆既日食 7島 中継プロジェクト
日食、月食 - Yahoo!ニュース
皆既日食 - 日本気象協会 tenki.jp
2009年夏 全国で日食が起こる!<Vixen>
2009年薩南諸島における皆既日食観測の学習
プレ天文 - 2009年日本皆既日食
日本で見られる日食
SYNAPSE 2009トカラ皆既日食ライブ中継プロジェクト Project "2009 Solar Eclipse Live from Tokara."
LIVE! ECLIPSE 2009
2009年皆既日食ライブ中継 by メディア・アイ・コーポレーション
NHK 生中継 46年ぶりの皆既日食 7月22日[水曜]
TVアニメ『うみものがたり』、7月22日に「皆既日食」が天神子島にも…… | ホビー | マイコミジャーナル
平成二十一年七月二十日
株式会社 日食
今囘の日蝕とはぜんぜん關係ない。
平成二十一年七月二十日
WEBアニメスタイル_COLUMN
ポケモンと言へば……とは全然關係ないのだけれども、何處やらを見てゐるうちにまた見始めて途中なので栞がはりにリンク張つて置く。
平成二十一年七月二十日
BOOK OFFで漫畫本纏め買ひ。ぱにぽに。ひだまりスケッチ。トリコロ。破天荒遊戲。猫十字社とわかつきめぐみ。HARD OFFのジャンクコーナを見たが、PC-98用のキーボードが拂底してゐるのに氣附いて愕然とした。

平成二十一年七月十九日
近藤四郎『足の話』(岩波新書黄版101)

労働に関係する重要な足の言葉として、足洗いをあげておきたい。昔、労働といえば、足を泥まみれにして、つまり裸足で働くことであった。裸足は、履物が普及していない当時において、あたりまえの習慣ではあったが、足ゆびを踏ん張って力を入れやすいので、労働の効率をたかめる方法でもあった。今では、足を洗うという言葉は、もっぱら、悪行をやめて堅気になるという意味で使われるようだが、本来はそうではなかった。

昔、とはいっても田舎では最近まで、たとえば農家の人が田畑で裸足で働き、家長から足を洗って家へ上って来いといわれたら、その日の労働が終って屋内で夕食になることを意味していた。また「足洗い」という言葉は、古い大学の事務系統の人びとの間には、今でも残っている。忙しい勤務の日々がつづいて、それが一段落したとき、「足洗い」にしようと上司がいえば、お互いの労をねぎらい合う酒宴の開始を意味している。なお、「足洗い酒」という言葉は、嫁方が婿の家に着くとすぐ出す酒というような場合に使われた。長道を歩いてよごれた足を洗ってもらって、酒を出してその労をねぎらうという意味であろう。

平成二十一年七月十九日
血のやうな色の凄い夕燒けだつた。そんなにいい天氣でもなかつたのに。
平成二十一年七月十九日
http://d.hatena.ne.jp/tetotan/20090719/1248000718
リア充にブログは向かない - 遥か彼方の彼方から
リア充でないとブログはできない - タケルンバ卿日記
私の場合、或時期以降、ウェブサイトにしても「ここ」にしても、更新頻度が極端に下がつたが、それは、あにめを録畫したり、録畫したデータをオーサリングしてDVD-Rに焼いたりするのに忙しくなつたから。PCにその手の作業をさせてゐるもので、ウェブサイトを見てまはつたり、小説なり何なりの文章を書いたりする餘裕が(PCに)ない。
あと虹裏で暇潰すやうになつたのも大きな理由だと思ふ。一日に一度か二度更新されるのが關の山のウェブ日記なんかより、リアルタイムでどんどん變化して行く虹裏の方が、閲覽者にとつてはよつぽど面白いものだらうと思ふやうになつた。あゝ云ふ所を見てゐると、ウェブ日記なんかでちまちまネタを公開してもしやうがないやうな氣になつて來る。
平成二十一年七月十九日
加藤玄智『太神宮參詣記と敬神尊皇』(文部省教學局編纂 日本精神叢書四十一)を買つて來たのだが、先日來うちにある『研究評釋坂翁太神宮參詣記』が未讀のまゝである事もあり、甚だ氣がひける状況なので、坂翁太神宮參詣記の原文だけだが取敢ず讀んだ。
――ところで、思想的な發想の人にとつて神道と言ふと即座に尊皇とか「天皇崇拜」とかそんな事を想起する事になる訣だが、それは神道の一面でしかない事實をこそ認識すべきだ。宣長はさかしらごとを排斥したが、神道の精神にはさうした「ありのまゝに物事を見る」態度があるのであつて、それはイデオロギーの類を排除するのであり――フッサールの所謂現象學的な物の見方にも案外近いやうに思はれる。

就中當宮參詣のふかき習は、念珠をもとらず、幣帛をもさゝげずして、心にいのる所なきを内清淨といふ。潮をかき水をあびて、身にけがれたる所なきを外清淨といへる。内外清淨になりぬれば、神の心と我心と隔なし。既に神明に同じなば、何を望みてか祈請の心あるべきや。これ眞實の參宮なりとうけ給はりし程に、渇仰の涙とゞめがたし。

山風時々しぐれて、夕浪立ちさわぐ河の邊に、宮のともがら、垢離をかきて、寒げなる氣色もなし。麻の衣のいやしき賤の女も、身を清めぬればと喜ぶ色あり。花やかなる袂の匂ひ深き人も、膚をあらはにしてはづかしめたる顏も見せず。和光の水は善惡の塵を擇ぶことなく、利物の淵は高低の影を分つことなし。御裳濯河の流、終に伊勢の海に流れ入りぬれば、細流巨海隔もなく、一味平等の法水となる。此ことわりを思ひしりながら、身は彌陀の心水をもあびず、好て濁惡の泥に沈み、心は神明の願海にも入らず、かりに清潔の流を結ぶばかりなり。……。

神道的な態度は案外近代的なものだと私は感ずるのだが、さうした面を見ないやうにする事が「正しい」物の見方なのだらうか。
この「參詣記」は吉野朝の頃に書かれたもので、佛教的な内容も含むけれども、神道の精神をよく表はした文章として加藤氏は非常に高く評價してゐる。
平成二十一年七月十九日
ところで私が神道の信者かと言ふとそれはない。「敬神尊皇」の部分が私にはまるで拔けてゐるので、ならば信仰ではあり得ない。

平成二十一年七月十八日

まともな文章を書く暇がないので豫言だけしておく。このまま文學小説に代つてラノベが氾濫すれば、小説そのものが週刊少年ジャンプの樣な末路を辿る事になるだらう。

既に純文學と呼ばれるジャンルの小説はほぼマニア向けのマイナーなジャンルと化し、本屋の店頭にはミステリの類が溢れ返つてゐる。一方、ライトノヴェルは、先づ殆どの讀者が知つてゐる通り、ジャンプシステムと同樣に、人氣作のみが生殘り、不人氣作が切捨てられるやうになつてゐる。
――が、全體として言へるのは、小説それ自體が既にジャンルとしてマイナー化してゐると云ふ事。そもそも本自體が讀まれなくなつてゐる。『1Q84』が賣れたと騷がれてゐるのは、他の本がさつぱり賣れてゐないから。ハリポタでも何でも、賣れた本が目立つ一方で、多くの賣れない本は御話にならないくらゐ賣れないでゐる。
新刊書店のみならず古書店が軒並賣上を落としてゐる。さう云ふ状況下で「商品性」の話をしても――「賣手」の側が危機感を持つて喋るのでない限り、他人事として、好い加減な事が言はれるだけでしかない。そこで書き手が讀み手にどれだけ媚びてゐるか、と言ふと、案外危機感を意識した商品化はなされてゐないやうに思はれる。どちらかと言ふと、好き勝手に書き手は書いてゐるのであり、それが賣れたり賣れなかつたりしてゐる。
けれども、日本に於て、インテリゲンチャ相手の「商賣」をしてゐた嘗ての學術出版が「賣れない良書」と言つて賣つてゐた本に、必ずしも名著なく、大衆向けに亂賣されてゐたベストセラーに名著がなかつたのみならず、一般の文藝書にもエンタテインメントにも、差して立派な本がなかつた事は、言へるのである。漱石、鴎外が立派な本を出してから現在まで、我々はどれほどの良書を手にし得ただらうか。
鐵山氏は、有難い事に、私の文章を讀んで、影響を受けて呉れてゐる。けれども、例によつて、私の態度よりも急進的な方向に行つてしまつて、それで可なりいびつな發想になつてしまつてゐるやうに思はれる。福田さん、松原先生、そして私とは、世代の差があるのだが、鐵山さんはさらにまたその下の世代に當る。ポケモン世代である訣だが、私は多分その前の世代になる筈だし、さうなると何故にポケモンと云ふ疑問を抑へられないのだが、その邊は普通なら言はない。が、鐵山さんの今の態度は、それ以前のポケモン趣味と、既に整合性・一貫性が失はれてゐるのであり、さうなるとその「絶對に折り合はない二つのもの」を同居させておく事の矛盾を衝かなければならなくなる。
エンタテインメントの領域にしても、現代的なそれを私はそれなりに受容れてゐる。さう云つたものに拒絶反應のない世代である事を否定しないし、否定出來ないでゐるけれども、それならば立場上、矛盾しない。もちろん、私の立場をより急進的なものとして極附けるならば――實際、私に對する攻撃材料として、相當ヲタ要素が利用されて來たけれども、2ちゃんねらー邊りの連中がが自分のヲタ的性向を無視して他人のそれを攻撃しても大して説得力を持つ事は出來ず、致命的な攻撃は仕掛けられないものだから氣にする事はない。けれども、鐵山さんのやうな内部矛盾状態にまで至つてゐる場合には、「過去の自分」と「現在の自分」の間の矛盾を何とかする努力をするか、でなければ一思ひに「過去」を切捨てるかしなければならない。ポケモン趣味が今の立場の鐵山さんには言ひ訣できないのでないかと云ふ事。
平成二十一年七月十八日
何度も書いたのだけれども。福田恆存は「僕の讀者は皆僕よりも右に行つてしまふ」と言つてゐたのださうだ。
平成二十一年七月十八日
ホームページとCSSの学習ならWebWord
div class="Wrapper"でぐぐつて見附けた。いろいろ書き方が微妙。レガシーな説明の上に「正しいHTML」風の説明をかぶせてゐるんだらうと思ふが、なんかうち(PC Tips)を參考にしたらしき構成になつてゐるのが氣になる。
div class="Wrapper" - カナかな団首領の自転車置き場
平成二十一年七月十八日
ラノベの作者に意地の惡い人がゐないのは大變好ましい事だと思ふ。

平成二十一年七月十七日
私はライトノヴェルが所謂純文學に取つて代はればいいとすら思つてゐる。
日本における「文學」の觀念が非常に偏頗なものである事は論ずるまでもないと思ふけれども、同時に「エンタテインメント」の觀念もまた偏つてゐる事は案外認識されてゐない。シェイクスピアの御芝居は、庶民も樂しめる良質の娯樂であつたが、同時に王侯貴族をも満足せしめ、さらには詩人や學者の關心を引くものである事は、日本に於て非常に輕んじられてゐる英文學ですらも多くの人の想像以上に深みと凄みとを兼備へてゐる事を暗示する。
グレアム・グリーンがノヴェルとエンタテインメントとを區別しようとしてゐた事は有名だけれども、裏を返せば、グリーンの本格小説も娯樂小説も本質は變らないのであつて、同じ一人の作家から生まれたものだ。
G.K.チェスタトンは有名なブラウン神父の作者だが、ブラウン神父ものはミステリの初期の典型であり、明かにエンタテインメントに含まれる。
然るに、日本では、大衆小説と純文學とを「截然と區別」する。が、その區別はナンセンスであると私には思はれる――と言ふより、何れにしても、本來の意味での文學作品が、大衆小説からも純文學からも、殆ど出てゐない事實がある。
寧ろ、ラノベと言はれて蔑まれてゐるやうなジャンルの小説に、私は諸外國の文學作品が示してゐるやうな觀念を屡々見出す。それは、正義と云ふ事であり眞實と云ふ事であるが、さう云ふ事を扱ふラノベの讀者を、日本の人は屡々「中二病」と言つて嘲笑ふ。が、「中二病」的な發想を、歐米の人々がさうさう安易に笑ふ事はあり得ないし、歐米の作家は屡々採上げて作品を書く。と言ふより、日本人が「中二病」と言つて嘲笑ふ事を扱ふのが文學の使命であり、それを從來の純文學は徹底的に排除して、日本人的な「大人」の態度を志向し續けた。それが日本の文學を極端に衰退させた最大の原因であるのだが、日本人は「大人」でありさへすれば良いと心から信じてゐるから、「大人」志向の純文學なるものを崇め奉つて――實質的に殺してしまひつゝある。今の日本の「文学通」が、「文学マニア」であり、現實から極端に遊離してゐる事は事實である。今、本を讀む日本人は、必ず「経済書」を讀む。でなければ政治の本だ。其處には「大人の世界」がある。「経済書」「政治の本」を書く作者は、實際、その邊の純文學雜誌に書いてゐる書き手の人々よりも、餘つ程まともに現實の社會を把握してゐる。が、彼等は、現實をより正確に把握して、巧く世の中を渡つて行く術を良く知つてゐるが――要は「大人」であるが――それだけに現實社會における價値觀それ自體を問題にする事はなく、社會に向き合ふ個人の價値觀を論ずる事はない。社會に適合する「大人」に「なる」技術を教へるのみである。「大人の世界への憧れ」を表明するだけの日本の純文學が、現實の「大人の世界」に適合する技術を教へるビジネス書の氾濫の前に、魅力を失つたのも當然である。今、純文學を好んで讀む「文学マニア」は、なるほど、「大人の世界」からの落伍者であり、彼等にとつて純文學が一種の救ひである事は、純文學が文學的な機能を確かに果してゐる理由ではあるが、さう云ふ形でのみ殘るとしたら、「文學」とは何とも情けないものだ。私はさう云ふ「文學」の價値を認めない。少くとも普遍的な價値を認めない。

文學小説の價値を決めるのは書き方そのものではなく、言葉の使ひ方だとか登場人物の踊り方なのだが、ラノベは飽く迄も「エンタテインメント」だから、如何に讀者に架空の(見せ掛けの)世界や人物を魅せるかが重要で、書き方と言ふものが非常に重要となつて來る。文學小説は讀者に考へさせなければ一流とは言へないが、ラノベは逆で、讀者に考へさせてはならぬ(だから上手く架空の世界を表現しなければならない)、さう云ふ作品が非常に世間では好まれるのではないかと思ふ。その邊りの事を理解出來てゐない人が大變多いから困る。ある二次創作小説に酷い作品があつたが、何故酷いかと云へば、ラノベ的に書かれてあるにもかかはらず、中途半端なメッセージだけを讀者に與へてをり、その登場人物も作者の埴輪と化してゐるからだ。中途半端なメッセージを與へる位なら、無い方が増しである。そんな事にも氣附かず、讀者にこれこれを考へて欲しい爲に書いた、と作者は書いてゐた、恐らく自分では好い仕事をしたと思つたのだらう。全く訣が解らない。

作者の埴輪は「作者の傀儡」でなければ話が解らない。「傀儡」は「くぐつ」「かいらい」であり「あやつり人形」の事。「作者の傀儡」のキャラクタとは、作者から獨立して作中で生きてゐないキャラクタの事であり、作者が自分に都合良く動かしてゐるキャラクタの事だ。さう云ふキャラクタを描くのは、ライトノヴェルの書き手に限らない。案外純文學の領域に澤山ゐる。大江健三郎等。
エンタテインメントの領域では、寧ろ純文學よりも讀手の鑑賞の仕方はシビアで、いんちきなキャラクタはすぐに見拔かれる。下手な書き手は「属性」を持たせればそれだけで讀者がキャラクタに「萌える」と思ふものだし、「萌え」的な要素を持つた小説その他の作品を虚假にする人々は、多くのラノベがさう云ふ安易な考へに基いて書かれてゐると簡單に言ふ。けれども、實際の作品では、それらの記號的魅力をもつともらしく人物に持たせる爲に、書き手は非常な苦勞を重ねるものだ。賣り物になつてゐるライトノヴェルでは、大體さうした努力がちやんと行はれてゐると考へていい(實際に讀まないで批評してゐる人は多いものだ)。結構好い加減な小説は出版されてきたし、今でも出るのだが、さう云ふもの許りだとは思はないでいただきたい。
メッセージ性の強さは否定出來ないけれども、さうしたお約束的な「お子さま向け要素」が中高生向けの商品にあつたところで然程氣にする必要はない。「大人向けの純文學」にも我々は非常に多くのメッセージを見出すのだし、さうしたメッセージを案外多くの大人の讀者が有難がつて崇め奉るものだ。大江にしても村上春樹にしても、結局はさうした作品の「メッセージ性」によつて「作家性」をアピールし、自作をブランド化=商品化してゐるに過ぎない。が、彼等「大人の作家」の提示するメッセージの嫌らしさに比べれば、ライトノヴェルに現れるメッセージは遙かに健全だ。
――水瀬葉月氏の「C3」第三卷を讀んだのだが、死者が大量に出現する理由が、一見異常極まるもののやうで、實は非常に正しいものであるのには、驚かされた。殺人を描くとしたら、純文學がただ氣持の惡いだけのもの・後味の惡いだけのものにしかならない事は、考へられる。が、その邊をラノベが案外容易に乘越え、讀み手を納得させる理由を提示する事は、注目していい。そして、C3で表現された狂信が、オーウェルの『1984年』で表現された狂信と、然程隔たつたものでない事を、私は主張したいと思ふ。少くとも、『1Q84』と『1984年』の間の距離よりは、『C3』第三卷と『1984年』の間のそれの方がずつと近い。
平成二十一年七月十七日
もちろん、ラノベの皆が皆、良く出來てゐるとは思はないが、ジャンル全體を全否定すべきほど、個別の作品が何れも出來が惡いものであるとは、私は思はない。
逆に、可能性の點で、日本の純文學よりは、ライトノヴェルの方が、よつぽど文學に近いと言へる。私は、T.S.エリオットに學んだのだから當然古典主義者であるのだが、ライトノヴェルが悉くロマンティックなものである事は百も承知で、それでも可能性を認めたい。
――が、それは、所謂純文學に、或は日本の文學と云ふものに、全く期待を持てない事を言つてゐるに過ぎない。
平成二十一年七月十七日
私は裁判員制度に反對しないが、それは裁判員制度に贊成だからではなくて、反對しても意味がない――少くとも、日本では、反對したところで現實的に何の效果も無い――からに過ぎない。
裁判員制度が、國民全體の要求が世間で高まり、それで政治の場に上げられて、それで成立したものでない事は、誰でも知つてゐる。けれども、上から下に與へられた、と言ふより、先進國から持つて來た制度であつても、我々國民は消極的な反對しかしないし、制度を定めた政治家・爲政者は反對意見に耳を傾けない。Kirokuroの意見を見れば解るやうに、我々は精々「面倒臭い」「嫌である」と言ふ事しかしない。積極的に裁判員制度の害を主張する人は稀だ。「國民が參加する裁判」――より民主的な制度――と云ふ大義名分がある事は言ふまでもないが、それより我々は「一度決つてしまつた制度」に反對しない。裁判員制度に「反對」なKirokuroも、あと何十年か、生れるのが遲かつたら、生まれた時には既に存在した制度に賛成する――も何もない、あつて當り前のものなのだから、理由があつて反對する人がゐたら、例によつて見下すやうな態度をとつて、嘲り、笑ひものにするだけだらう。そして日本人は多かれ少かれ「Kirokuro的」なのであり、ただ目の前に「ある」物を「ある」と云ふだけの理由で崇め奉り、「ある」物に反對する人を「ある」物に「反對してゐる」と云ふだけの理由で侮蔑する。
――だつてさうだらう。國民の意見が一致して、政治の場に上げられたのではない、ただ一部の勢力が自分逹の狂信を押附ける形で強引に政治の力で國民に押附けた制度が、現在では既成事實として受容れられ、狂的に信じられてゐるのだ。「當用/常用漢字」「現代仮名遣/かなづかい」――多くの日本人は、既成事實として、新字新かなが「ある」のを「當然の事」と思ひ、反對者を「ある」物に反對してゐると云ふだけの理由で侮蔑してゐる。もちろん、私は國字改革には何時まででも反對し續けるけれども、反對したところで大勢がひつくり返る筈もない事はよく判つてゐる。だからこそ、裁判員制度なんてものに反對して見せる事も無駄だと言ふ訣だ。當てつけである。この種の嫌みは、言つたところで、解らない人には絶對に解らない。が、嫌みでない言ひ方で意見を言つたところで、日本では「通じない事は絶對に通じない」。だから私は嫌みを言つて憂さでも晴らさうとする訣だ。
平成二十一年七月十七日
漱石の『坊つちやん』――多くの文藝評論家が高く評價しないけれども、私は高く評價する、と松原正氏が言つてゐる。『坊つちやん』とライトノヴェルとの間に、どれほどの懸隔があるだらう。と言ふより、『坊つちやん』は一種のラノベと言つていい。
平成二十一年七月十七日
私が何度でも讀み返すのは旺文社文庫版の『クオーレ』だが、1990年代の末に新潮文庫で完譯版が出て、それが絶版になつた後、2006年に平凡社ライブラリで再刊された。
平成二十一年七月十七日
箋注倭名類聚抄/MANA抄訳

平成二十一年七月十六日
螢光燈のスイッチの紐に黒い天道蟲がとまつてゐた。しばらくしてみたら三十センチメートルくらゐ歩いて登つてゐた。紐を引張つて明りを消したら、反動で床に落ちて行つた。
その後そいつが何うしたかは知らない。
平成二十一年七月十六日
"ベタ"なラノベとベタベタなラノベ - gobbledygook
SF/ファンタジイ系=ベタ、戀愛小説/文學より=ベタベタみたいな分類。
分類を始めると、「ラノベとは何ぞや」と云ふ、よくある「ジャンルの定義」の話に陷りがち。暇潰しをするには樂しい「議論」だが、「なにがおすすめ」の「なに」に焦點が移つてしまつて「おすすめ」の部分から話がどんどん逸れて行つてしまふ。
もつとも、話の出どころからして、「おもしろい」「よくできた」と云ふ小説の價値からの欲求ではなく、ジャンルそれ自體の「らしさ」を要求する文章であつたのだから、みんなジャンルの定義を一生懸命やつてゐれば良いのだらう。
平成二十一年七月十六日
實際のところ、所謂「ライトノベル」は、出版社としては「購買層が大體中學生から高校生」の文藝ジャンルであるに過ぎない。出版社も商賣だから、豫想する購買者が買つて呉れさうな商品を賣出す。中學生から高校生の子が喜んで、御小遣ひから御金を出して買つて呉れさうな本を出す、と云ふ事だ。その時、彼等の好みさうな内容の小説が多くなる事は自然な事だ。
が、讀者の好みは時によつて變化するのだし、實際、ラノベにも流行がある。1990年代初頭くらゐまではファンタジイが割と多めで、その頃の「典型」がスレイヤーズでありロードス島であつたが、今となつてはそれらは「なつかしい」の部類に入る。1990年代は可なり後まで富士見ファンタジアの時代であり、意外とファンタジイ系の小説が多かつた。勿論、エヴァ以降、或はOVA全盛期、はたまたギャルゲ勃興期に當つて薄ぼんやりとした雰圍氣が釀成されて、現實離れしたファンタジイから、寧ろ現實味のある・リアルな話(但し非日常要素あり)がそれなりに現れるやうになる。さうした状況下で電撃が出て來るのは、大體ブギーポップ邊からと云ふ事になつてゐるが、初期の電撃は、「ゲーム大賞」と云ふ言ひ方をしてゐたやうに、結構同時代的な・最先端の流行を採入れる意識が強かつた――筈なのだが、出て來る受賞作が悉く「所謂流行」とは微妙にずれたものとなつてゐて、結構マイナーだつた。實は、最初から電撃は巧い小説を選ぶ傾向が強く、時流に乘つた「だけ」の内容の小説をさうさう受賞させる事が無かつた。誰が何う考へてもブラックロッドが流行の最先端な訣がない訣で――しかしその直接の影響下に都市シリーズの川上稔氏が出て來る等、影響力の強さだけは他のブランドを壓倒し、それが結果として21世紀になつてからの電撃が「躍進」する要因となつてゐる。さうした電撃の「いま」となると、とらドラにしても禁書目録にしても「何か共通した雰圍氣」があるかのやうに見られてゐるけれども、それは何うだらう。
一言日記 - お化け小屋敷の2009/7/15の項。

僕はラノベには全く興味を持てないのだけれども、何故興味を持てないかと言へば、話がやたら長つたらしくなりがちで、どうでも好い記述で字數が水増しされてゐる感があるからだ。僕は作者の作り出した「世界」に附合ふ氣は無い訣で、それよりもどんな風に物語が進んで行くか、そこに關心があるのだ。いや、僕は小説に變な拘りがあるらしく、人物の濃さや話の展開にしか關心を持てない。然しラノベがさういふものなら、わざわざ「シリーズ作品」を十卷や二十卷も出す必要は無い。逆に十卷も二十巻も出す事が僕にとつては凄く無駄に思へるのだが、どうだらう。ラノベの一シリーズを全部輯めるくらゐなら、新潮文庫のドストエフスキーとかシェイクスピアを全部輯める方が増し、だとさへ思へて來る。

文章の讀み易さ、内容の質的な淺さ――さう云つた要素が「ライトノベル」の「ライト」たるゆゑんだけれども、字數の水増しだけは絶對に無い。話は逆で、一般の小説・文學的な小説の方が寧ろ無駄な表現は多い。所謂文學の方が商品性は薄い。買ふのは「よつぽどのマニア」であり、割と高年齡の人だから、大した内容でなくても「ジャンルを支へる」意識から「御布施」を出して呉れる(もつとも、それでも賣れないし、出版社としても商賣にはならない)。ラノベは明かに商品であり、出版物が賣れない今の時代、しかも乏しい御小遣ひから御金を出して買つて呉れる中高生をターゲットにしてゐるのだから、さうさう安易な本は作れない。無論、企畫的に安直なものも見受けられなくもないが、小説として賣つてゐるラノベはどれもそれなりに高いレヴェルのエンタテインメントとなつてゐる。司馬遼太郎邊の小説とは互角に戰へる筈だ。
キャラクタの造型にしても、世界の見せ方にしても、案外ラノベは工夫を凝らしてゐる。過去の文學作品における人物の見せ方と違つてコミック的だが、その邊の約束ごとを承知してゐるならば、割と個性的なキャラクタを樂しめるだらう。もつとも、最近のラノベのキャラクタは、ステレオタイプ化が進んで、極端に突出した個性のあるものは少い。主人公の男の子が、女の子に取卷かれるのは良くあるパターンだが、どの小説でも(アニメでも同じだ)、なぜかいろいろと鈍感であつたり、變に奧手だつたりで、無個性である事は、確かに言へる。
一方で、ラノベの場合、無個性な文體の書き手とともに、極めて特徴的な文體を持つた書き手が存在し、文章の面白さを味はふ讀み方をする讀者も、それなりに滿足出來る。下手糞な文章を書く人もゐるけれども、大體は水準以上で、時として實に巧い人がゐる。そして私は思ふのだが、ストーリーテリングの巧みである事は、小説を書く人の最低限の資格であるのだ。その點では文學的な小説の書き手に案外下手糞が多いやうに思はれる。
平成二十一年七月十六日
例へば私は村上春樹なんかですらも下手だと思ふのであつて――なぜなら、人物の臺詞が、そのまゝでは舞臺に乘らないだらうから。ラノベの類だと、阿智太郎氏なんかでも、アニメ化してちやんと臺詞が聽けるものになる。聲優の演戲を「わざとらしい」と言つて排斥する人もゐるが、しかしドラマにおける俳優の演戲にも案外聽けたものでないものがあるのであつて、私にしてみれば、實寫ドラマの俳優の下手糞な喋りの方が、餘つ程わざとらしいものに感じられる。
平成二十一年七月十六日
あと、みんな忘れてゐるんだか無視してゐるんだか知らないけれども、依然としてキノの旅の影響力は大きい。既に「ラノベの典型」ではないにしても、現在も「ラノベの入門書」としての役割を果たしつゝ、「学園キノ」が今時の讀み手の要求に應へてゐて、ラノベ界では「現役」だ。

平成二十一年七月十五日
戒能通孝『裁判』は、昔の裁判にかかはつた人々――裁判官、辯護士、或は被告――を紹介した本だが、各章、その人物が讀者に語りかける形式をとつてゐる。現代の裁判制度が確立される過程を解説した本だが、基本的にイギリス及びアメリカにおける法の考へ方に基いて、司法の獨立と法の支配について扱つてゐる。
先日の川島氏の本について、補足的な説明になるので、一部拔き書き。二十三〜二十四ページ。

イギリスの法律というものは、必ずしも制定された明文の法規からだけ成るものではありません。すなわち議会の同意を得て制定された法律は、裁判所でも適用すべき法律であるこというまでもないのですけれども、この外に社会を規律する何らかの規則があって、この規則はある訴訟事件が起ってくるごとに、裁判官によって理性と論理の力によって発見されるものであるという前提がとられているのです。われわれはこの種の、つまり裁判官によって発見された法規の體系を、コンモン・ローと呼んでいます。そのわけはこの種の法律こそ何人にも共通する規則であり、あらかじめ判決の以前からあるものが、見出されるにすぎないとの立場を取っているからです。コンモン・ローはそのために最上級裁判所の判決のなかに現れる法規であり、しかも一旦判決が出されると、新しい立法によらねば變えることができないものと解釋されています。なぜならば、コンモン・ローは裁判官が自分の力で作ったものでなく、前からあるものを發見しただけなので、それを變更する唯一の方法は、立法以外にないことは明かだというのが、われわれの論理になっているからです。

平成二十一年七月十五日
2009-07-15 - 大和但馬屋日記

今まで全く興味のなかつた「ベタベタのラノベ」を読みたいといふ人に何を勧めたらよいかで脳内会議。

「良く書けた小説」「出來のいい小説」を讀みたいと思ふのが本當のところだと思ふのだけれども、なぜか「ジャンル小説の典型」を世間の人は讀みたがるものらしい。何處に行つても「ベタベタのラノベ」「コテコテのSF」「ガチガチのミステリ」の類を紹介する話許りに出くはす。出版物だと下手に評價をやらかしていろいろ問題になつたりするのでみんな穩當な事を言はうとしてゐるのだらうけれども――。

……、実をいふと「とらドラ! スピンオフII」すらも途中で読む手が止つてゐるのだ。

實を言ふと私もさうなのだ。本篇が完結した後、外傳・番外篇の類を頑張つて讀まうと思はなくなるのは、本篇の完結性が高過ぎる時に屡々ある。他に幾らでも讀むものがある今の時代、一々外傳に手を出してゐられない、と云ふのは、作品に惚れこむタイプより、只管「本を讀む」事にのめり込むマニアに多いやうな氣がするが。
茲數日、C3を讀んでゐる。魔女式アポカリプスは二卷でしんどくなつたが、こちらは氣樂に讀める。無意味にエロいし。
平成二十一年七月十五日
ライトノベルが衰退するかはわからないが変化はしている、エロい方向に - ウィンドバード::Recreation

平成二十一年七月十四日
世の中にはスーツがぼろになつたくらゐで悲しい氣持ちになる人がゐるらしい。心は錦。
私が服裝に頓着しないだけなのかも知らんが。

平成二十一年七月十三日
坂の上の雲へのご意見・ご感想
アマゾンへのご意見・ご感想
司馬遼太郎なんか、その邊のBOOK OFF邊でも揃ふ云々。ウェブは探し物に使ふものだろ。暇潰しになんか使ひたくないんだよ。
平成二十一年七月十三日
日本人なんかが何時でも公正な判斷を下せる訣がなく、例へば「義」とKirokuroが私が當事者の裁判(假に)の裁判員になつたりしたら、彼等は間違ひなく公正を缺いた一方的で偏つた判決を下さうとするに決つてゐる。だから現實の裁判員制度に私は信頼を置かない――と言ふより日本人には無理だと思つてゐるのだが、しかし、日本人が全員、理想的な裁判官のやうになるべき事を私は望んでゐる。それが何うせ無理だから、裁判員制度なんてものはあつてもなくても何うでも良いと私は思ふ訣だし、そんなものに必死になつて反對して見せる意味もないと思ふ訣だ。
戒能通孝『裁判』(岩波新書青版63)

日本のインテリゲンチァにとって、自らの意見をもつことは、出世には縁遠いことである。しかしそれにもかかわらず、他人の意見を受賣して歩くのではなく、自己の學びとった意見をもち、それを正直に告白することは、何といっても樂しいことである。意見をもつためにはどうしても事實を知らねばならない。しかし事實から引出した意見が、その場その場の空氣で變るのは、意見として通用することでなく、やはり一種の日和見にすぎない。日和見主義は意見をもたないか、他人の意見を鵜呑みにするのと同じであって、彼自身の獨自的なものということができないであろう。インテリゲンチァにとって、これは大きなわなであり、そのわなに落ちこんでしまったら、やはり出世の道は歩けるかも知れないが、生活の喜びは失わねばならない。

意見は法則的でなければならない。だが現在ほど激烈な社會変動を前にして、法則的なものを意見としてもつことは、むろん決して生易しいことではない。それには懸命な事實の蒐集を要するし、またどんな事實が現れても、事實そのものに卷きこまれ、感情によって動くことを排除しなければならない。インテリゲンチァは要するに中立者であり、たとえ階級鬪爭のさ中にあろうとも、鬪爭ができるだけ被害の僅少な、秩序あるルールに從った鬪技として實現することにつき、いかに少くとも功献するところがなければならないと思われる。

人はこの種の中立的立場を指して、逃避主義というかも知れない。だが中立は逃避どころか、この上ない鬪爭の一つである。それは酬いられない鬪爭であるという意味において、どのような階級鬪爭の鬪士より、もっと慘めな苦痛の多いものである。だがこのような苦痛を甘受する人の比重が輕くなるならば、鬪爭はやはり亂鬪となり、人間性を失い盡すところまでいかなければ、終りを告げることはないであろう。自ら「地の鹽」と豪語することは尊大である。けれども「地の鹽」たる心をもつ人がなくなることは、社會自體の沒落、階級的共倒れにまで發展しないであろうとは、誰が保障してくれるであろうか。

理論的に考えられる裁判官の職能は、まさにこのインテリゲンチァの職能を代表するものである。だからして「裁判」の問題を取扱うことは、一面においていかにしたら出世しないかを取扱うとともに、いかにしたらルールをまもり得るかを取扱うことができるようになるであろう。この書は、この點についての取扱いを含みつつ、全インテリゲンチァの問題として、社會的判斷の問題を取扱う試みをしたものの一つである。……。

この本は昭和二十六年に出た本で、著者は共産主義の立場の人だが、共産主義者の言ふ事は屡々實に尤もなもので、私は共産主義を信じないが、共産黨の言ふ事なんかは結構當つてゐると思つてゐる。殊に原則論で共産黨の言つてゐる事は屡々妥當だ。
今囘の都議會議員選擧でも、自民から民主への政權交替と言つてゐるけれども民主も所詮は與黨だと共産黨は指摘してゐて、その通りだと思ふ。
本書pp.199-201。

ギトロー事件もまた社會主義宣傳の問題にかかった事件である。この事件は・ニュー・ヨーク州の法律により暴力による政治組織の變革およびその煽動を處罰する規定があるにもかかわらず、一九一九年六月ニュー・ヨーク市で組織された社會黨左派の役員ベンジァミン・ギトローなるものが、「左翼宣言」と呼ぶ文書を起草し、その末尾に「コンミュニスト・インターナショナルは、全世界のプロレタリアートに對し、最後の鬪爭を呼びかける」と書いたことそのことが、果して犯罪行爲になるか否かという事件であった。裁判所の多數意見を代表するサンフォード判事の見解は、右の文書が「共産革命」・階級鬪爭・大衆動員・政治的ストライキその他を煽動した具體的行爲であって、「これは單なる哲學的抽象論でも、將來の豫言でもなく、直接的煽動文書であって」、處罰に價する行爲であるとした。彼はさらにこの種の文書を頒布したため刑罰を受けることは、連邦憲法修正第十四條に違反するものではないかとの論點に答え、「ほんの一寸した革命の火華でも」、そのなかには常に現實的な危險があるとして、ニュー・ヨーク州法の適用を維持しようと試みた。ホームスのこれに對する反論は、短いがしかし力のこもったものである。

ブランダイス判事と私とは、この判決がくつがえさるべきものだという意見である。……このいわゆる宣言は、單なる理論でなく、煽動であると稱された。しかしすべての思想は煽動である。思想は必らず煽動をともなう。ある思想の正しさを信ずるものは、他の思想によって考え直させられるか、氣力が十分でないために行動をその誕生前におし殺すかしないかぎり、必らず煽動に移るものである。意見の表現と狹義の煽動との差異は、發言者が結果に對してもっている熱意の差異だけである。雄辯は理性に火をつけるかも知れない。しかし法廷に提出されたおびただしい文書をどうみても、それは現在大火事を起す機會をもつものではない。長い目でみた場合、プロレタリア獨裁という觀念のなかで示された信仰が、社會の有力な部分に受入れられる運命をもっているにせよ、言論の自由を信ずるものは、それにその機會を與え、その道の開かれることを認めねばならない。」

ホームスのこの意見に從えば、少くともごく切迫した期間において、秩序の破壞とか武裝蜂起による革命運動の勃發を促進するものであることを、明瞭にかつ客觀的に一點の疑いなく證明できるような文書・演説を除くほか、單なる宣傳、漠然たる煽動を處罰する意味に解釋されたニュー・ヨーク州の法律は、違憲立法に該當するほかないのである。すべての宣傳が煽動の名において禁止されるなら、その思想は一切の機會を奪われる。これは自由の否定であり、獨裁の合法化に外ならない。ホームスはかく信じ、またかく判決しているのである。

福田恆存も「言論の自由を否定する言論にすら、言論として自由を認めなければならない」としてゐる。
この意見に對して自稱「自由民主主義者」の某氏が激怒して、Yahoo!掲示板で激しく攻撃を加へ、「自由を否定する言論は危險だから彈壓しなければならない」と叫んだ事がある。「自由民主主義者」なるものが――開高健の自稱した立場であるけれども――自由主義も民主主義も認めない、要は極めて過激な左翼の一波である事を、私は後に知つた。
ディレンマの存在しない、物事を簡單に割切る態度を、私は信用しない。
平成二十一年七月十三日
咲-Saki-。嶺上開花に對抗して槍槓に吹いた。咲はSFだと思ふ。この手の馬鹿なネタには怒る人と笑ふ人とがゐるのだけれども、私は笑ふ方。
かなめもは變態アニメ。ぽてまよもひどかつたがこれも相當ひどい。
平成二十一年七月十三日
1990年代以前のなつかしい雰圍氣を殘してゐた書泉グランデの一階がリニューアルオープンし、今風の機能的で合理的なレイアウトになつてしまつて愕然とした。
茲數年、知つてゐる書店が變つて行くのを見る。先づ東京堂書店が改裝をやつて吹き拔けを埋めてエスカレータを廢止、四階より上の賣場を閉鎖した。それから數年、三省堂本店が各階の改裝を實施。古本屋だが北沢書店が縮小。小宮山書店が各階の配置替へ。
神保町も大きく變つたがうちの近所も變化してゐる。博蝶堂書店が西門の店を閉めた。BOOK OFFの津久井街道店が二階をHARD OFFに轉換。そして近所の文教堂が閉店してミニストップになる。
町田は、最う何年も前になるが、高原書店がPOPビルから撤退。日本最大級のBOOK OFFのお店が縮小・移轉。相原は二軒あつた古本屋が全滅。相模原驛前は丸善ブックメイツが閉店。橋本の、もとの啓文堂は閉店したし、驛の啓文堂もリニューアルした。
實は、私が良く知つてゐた1980年代の新刊書店の棚は、1990年代になつてがらりと變つてしまつてゐる。理由は消費税の導入と、それに伴ひ大量に發生した絶版、そして結果として生じた出版業界のビジネスモデルの變化にある。嘗ての出版社が在庫を細く長く賣つて行く事でやつて行けた。それに對して、現在の出版社は、新刊を出しては賣切り、當座の運轉資金を確保してはまた新しい本を作つてそれを賣切る、と云ふ自轉車操業的なやり方をせざるを得ない状況に陷つてゐる。
橋本治が最近何處かの新書で書いてゐたけれども、出版業界そして本の環境は、昔と今とで大きく變化してゐる。しかし、出版業界の變化は、TVやら何やらの業界の變化に先行して發生してゐたものであり、要は娯樂の選擇肢が増えた爲に既存の娯樂のマーケットが縮小した、と云ふ事になる訣だが、出版業界がその變化を乘切れないでゐるとしたら、他の業界もまた現在生じつゝある變化を乘切れない可能性がある。
――まあ、今さら改めて大袈裟に言ふ必要もないのだらうけれども。
少くとも、斯うした變化を我々日本人が、消費者としては案外期待してゐるのであり、新しく出て來る娯樂を次々と消費して使ひ捨ててゐるのは事實である。その結果として非常に刹那的なリニューアルが次々と行はれ、消費が效率的に行はれるやうになりつゝあるのだが、これでは「娯樂を提供するメディアの側」はたまつたものではない。
平成二十一年七月十三日
歴史的仮名遣い変換辞書(MS-IME用)
平成二十一年七月十三日
ひとひら第七卷。途中からぐだぐだで最終卷も結構微妙だが、完結となると感慨深い。こんなものでも結構いいと思へてしまふのは私が齡をとつたせゐだらうか。
平成二十一年七月十三日
先日BOOK OFFで拾つたGAに引續き、先日東京古書會館の古書展で拾つた棺担ぎのクロも樂しく讀んだ。結構良く出來てゐる。

平成二十一年七月十一日
齋藤榮三郎著『キリスト教の社會思想』(同人館)は、兔に角平和・中立・非戰に關係した事を何でもかんでも採上げた本だが、そこに以下のやうな記述がある。(轉載に當り章末にある注を文中に展開した)

カトリックは平和を祈る。戦争は国の大事、国家興亡のわかれるところ、決して軽々しく始め得べきものではない。しかもなお、昔からカトリック教徒の国々の間にも、幾度か激しい戦争がくり返された。そして兵士達は戦場に臨むに当たって、また生死を賭した激戦を前にして、ひたすらに神意――それは敵味方とも同じ神であるはずの――にかない得まするようにと真剣な祈りを捧げて矛盾を感じない。何故であろうか。この答は佐藤隆氏によれば「国々には戦いを賭しても貫こうとする正義感とそしてその意志があるからである。蓋しその正義感と意志とを失った国家は、もはや存立の意義がなかろう。神は人に『意志』を与え、しかしそれを人に委された。意志の動きはその人のものであって、いかなる教義の力もそれを『善』に導こうとするものではあっても、意志そのものを司ることはできない。人の作る国家の意思も同様である。教会はひたすら平和を祈りこれをすすめる。しかし国家の意志そのものの働きを司ることはできないし、また国家間の正義の判決者ではあり得ない。それは神ご自身の摂理によって示されるものであり、歴史がそれを解明するであろう。人はただ国家の意志に忠順であれば以って足りる」としている。(佐藤隆著 花の孤島 一四三頁)

永久平和を確保するためには、各国の軍備を全廃し、キリスト教の生活に全人類を導くことである。(H.A. Leete; Demand Peace, p.12)

この二つの段落の間にどのやうな聯關があるのか、私にはさつぱり理解できない。
佐藤隆『花の孤島』に興味を持つたので調べてみようとしたのだが、さつぱり解らない。
Amazon.co.jp: 花の孤島 (1961年) (センチュリイ・ブックス): 佐藤 隆: 本
Amazonの商品ぺーじには何うやつてリンクを張れば良いのか――Amazonのヘルプを見ても全く解らない。Amazonの連中は只管賣る事しか考へてゐないらしい。URLは一往「つながる」ものだが、Googleでぐぐるとhttp://www.amazon.co.jp/%E8%8A%B1%E3%81%AE%E5%AD%A4%E5%B3%B6-1961%E5%B9%B4-%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E9%9A%86/dp/B000JAMRXYがひつかかる。訣が解らない。Amazonの商品ぺーじから著者名「佐藤 隆」をつついてリンクを辿つて見るが關係ない人の本許りが出てくるし、古い本から並べてみれば判るだらうと並べ替へを試してみるが「新しい順」でしか竝べられないし、嫌がらせのやうにページが分割されてゐて、しかも後ろの方は省略されてゐるから順に辿つて何囘も何囘もクリックしなければ古い本が出てこないやうになつてゐる。何でこんな駄目なインタフェイスにしたんだらう。Amazonのサイト制作者は無能極まるが、商賣の爲には古い本が出てこない方がいいと思つてゐるのだらう。

平成二十一年七月十日
私は最う何年も前にウェブと云ふものには飽きてゐて、「ここ」の更新が以前に比べて少い上、書かれる事もさつぱり面白くないものになつてしまつてゐるのはその所爲だ。が、何事にも「飽きない」でゐさへすれば結構なんて事は無い訣で、大して面白くもない筈の事に何時までも固執して――何時までも面白がつて一生懸命やり續けてゐられる、と云ふのも、何うかしてゐるとすら思ふ。Kirokuroなんかの事だよ。低級なもので滿足してゐられる、と云ふのは精神的に低級な證據。私なんかは、個人に粘着するだの固執するだのと云つた下らない事には全く興味を持てないし、例の「人文科學は科學か」問題に就いても飽きてしまつて「2.0」で書くべき材料を用意しながらほつたらかしにしてしまつてゐる。言語學でも歴史學でも、近代以降、科學に接近しなかつた學問はないし、科學に背を向けた學問は結局學問でなくなつてゐる。美學にしても文學にしても、學問ではなく藝術の範疇に入る。哲學は價値觀を論ずるやうになつて、一面で論理學に接近し、他面で文學に接近してゐる。それはさておき。
リンクについての雑多な記事2
えろげの高橋氏の名前を見附けてなつかしい思ひをした。が、高橋氏に私は固執なんてしてゐないし――そもそも高橋氏の「ブログ」なんて一年どころではないくらゐ長い間見てもゐない。ただ、高橋氏の態度についての講評が興味深かつただけだ。

 興味深いことに、高橋さんもpcha00さんもいずれも「“リンクの自由を否定する主張”への批判」に批判的(主張C)な方なのです。 リンクの自由を否定する人をバカ扱いしながら、同時に「“リンクの自由を否定する主張”への批判」を批判(主張C)する…… 大変興味深い状況であると感じます。

昨今の流行りは「批判批判」ださうだが、高橋氏の態度が將にそれで――高橋氏は流行の尖端を行つてゐたんだなあ――「正しくない事を言つてゐる人」には幾らでも自由にものを言はせる(間接的に擁護してゐる)が、「正しくない事を批判する人」は、より惡質であり、「人間ではない」から幾らでも罵倒してやつていい、と云ふのだ。高橋氏も、Kirokuroなんかと同じで、「正しくない事」に實質的に與しながら、即ち、甚だ公正さを缺く態度を取りながら、「私は公平な人間です」と宣言して涼しい顔をする。彼等は、客觀的な風を裝ひ、いつぱしの「言論人」を氣取つて快を貪る――卑怯極まる「アンチ」である。
「アンチ」が、自分の行爲を「惡い」と反省しないのは……。
http://park5.wakwak.com/~tanaka02b/column/short2.htm#limit(リンクについての雑多な記事2 : 「自由と制約は表裏一体」)邊が參考になる。
もつとも、私の經驗から言つて、「批判批判」派の人々は、案外この邊の價値觀の問題には無頓着――である許りでなく、積極的に無視を決めこみ、ひたすら他人を罵倒して好い氣になる傾向が強い。Kirokuro一派の態度が將にそれだが、エロゲの高橋氏もそれに近い。
http://park5.wakwak.com/~tanaka02b/column/blank.htm#second(誤解の理解-何故リンクが自由なのか : 「「無断リンク/直リンクは不道徳である」という誤解」)
大體最初の「間違ひに對する批判」は、私利私欲拔き、純粹に「間違ひは正さねばならない」と云ふ發想に基づいて行はれるが、間違ひに就いてはきちんと論理的に説明する。これに對して、「アンチ」のする「批判批判」は、常に「批判をするのは道徳的な惡事である」と云ふ極附けであり、そこに論理性はかけらもない。これが深刻な問題で、論理性を無視して道徳を言ふから、「アンチ」「批判批判派」の人々は常に主張に自家撞着を抱へるが、それを全く反省しない。彼等は「他人がする批判」は許さないが、「自分がする批判」は許される、と云ふ態度を常にとる。Kirokuroにしても高橋氏にしても、自分に都合の良い事許りを言ひつゝ、私が言ふ事を全て惡意で解釋してゐる/ゐた。「アンチ」「批判批判派」の人々は、自分には他人を批判する權利があるが、他人には自分を批判する權利が無い、と心から信じてゐる。そして、今まで自分は他人を批判する權利があつたけれども、寛大にも批判をしないで來てやつた、ところが今、傲慢にも他人を批判する輩が現はれた、だから、敢て自分も批判する輩を批判する事にする――と云ふ發想で物を言ふ。何と傲慢だらうと思ふのだが、彼等は自分は偉いにもかかはらず謙虚に振舞つて來たのだと心から信じてゐるから、反論に聞く耳持たない。Kirokuroにしても高橋氏にしても、自分の「偉大さ」に確信を持つてをり、自分の判斷は常に絶對的に「正しい」と心から信じてゐる一方、他人を批判してゐる人間には惡意があり、傲慢であるに決つてをり、また間拔けである事も疑ひやうがないと心から信じてゐる。「無斷リンク禁止」を言ふ人々は、高飛車な態度を取りながら、同時に無邪氣であるが、「無斷リンク禁止批判批判」の人々は、無邪氣等とはとても言へない。連中は、實に立派な「大人」であり、狡猾・卑劣でありながら、自分は謙虚かつ凡庸な一般人である、と傲慢にも言張つてゐる。
平成二十一年七月十日
Kirokuroやその取卷き連は、一樣に、私が「言論の自由」と言ふと、「野嵜は自分の言つてゐる事を本氣で言論と思つてゐるのか」と嘲笑して見せる。が、これは彼等が「言論」なるものが「立派なものである」と信じてゐる事を意味する。だが、そのやうな價値判斷を彼等が無自覺のうちにやらかしてゐる事は、大變危險である。そもそも公共の場での發言だから何であれ言論である訣で、言論の自由もその前提で言はれる事に過ぎない。その優劣を言ふのは批評であり批判である訣だが、その批判を無自覺にやらかしてゐる時點で彼は差別的である事が明かである。
「人が人である資格」を我々は必要としない。「お前は自分が人だと思つてゐるのか」と言つて嘲笑するならば、その時點で彼は差別をしてゐる。
Kirokuroや其の取卷き連は、差別を平氣でしてゐる。成る程、さうした差別的な發言も「する權利」が「ある」と「認める」のが「言論の自由」なのだらう。が、さうした態度が主流たり得ないやうに努めるのが、言論の自由の側の人間の義務となる。
が、自由に行つて良い言論と言ふのは、所詮は理念・觀念の領域に屬する事でしかない。民主主義を破壞するテロリズムも、理念として語る事は自由である。が、それを實踐する爲の具體的な檢討が、公開の場で行はれたら、問題になる。もちろん、人權を制限する政策を觀念的に論ずる――時として主張する事も、自由である。が、さうした思想を抱いた人物が、他人の人權を侵す行動を實踐した場合には、取締りが行はれなければならない。
案外、この邊のけぢめが附いてゐない人が、ウェブには多いやうに思はれる。もつとも、Kirokuroらは、ウェブで爪彈きにされてをり、まともな人間からは全く相手にされてゐないから、案外ウェブもまともであると言へなくもない。が、喜六郎ちゃんねるとか稱する掲示板に集ふ人々は、一人の例外もなしに匿名であり、匿名でなければやれない行爲であると自覺せざるを得ない程、惡質なのであるが――しかしエロゲの高橋氏等は、依然としてそれなりに「もつともな事を言ふ人物」と看做され、まともに扱はれてしまつてゐる。何うかと思ふが……。
平成二十一年七月十日
「自由にものを言ふ事」――「議論」――「批判」――これらの事は全部繋がつてゐるのであり、それらを認めるがゆゑに「公共の場」と云ふものが必要になる訣であるが、今のウェブには、と言ふより、今の日本國には、それを解つてゐない人が非常に澤山ゐる。
ところが、何も解つてゐない癖に、或は、何も解つてゐないがゆゑに、他人を罵倒して好い氣になる事を正當化できると蹈んで、Kirokuroのやうに「批判批判」を便利に利用して快を貪る輩が出現する。斯う云つた、より惡質な人種をこそ叩き潰さなければならないのだが、日本には言論と云ふものが「ない」のであつて、だからKirokuroらの駄目な言論が世にのさばる訣である。「無視こそが最大の罵倒」と云ふのは剩りに横着だが――さうした横着をしたがる人間が多いからこそ、今のウェブには「批判批判」なる横着な態度が横行する。
平成二十一年七月十日
「言つてゐる事は正しいが、お前の態度が氣に入らない」と言つて他人を激しく攻撃する「アンチ」「批判批判派」の態度は常に惡い。それを「アンチ」「批判批判派」の人間は絶對に反省しない。
Kirokuroの態度の惡さは明かだが、彼の取卷き等は一人の例外もなく全員匿名であり、自分の事を棚に上げて他人を馬鹿にして快を貪ると云ふ現代のウェブに於ける匿名人種の持つ嫌らしさをしつかり持ちあはせてゐる。それを彼等は全く反省しない。そして、他人を侮辱して樂しむ事に飽きない。
平成二十一年七月十日
児童ポルノ禁止法改正にMIAUが声明、真に児童を守るための施策を -INTERNET Watch
實際のところ、世間のエロに對する考へ方からも、マニアのそれからも、懸離れたところで、議論が進められてゐるやうに思はれる。檢察・警察の方の意識もさうだし、裁判官の意識もさうだが、そもそも「取締られる側の國民」の意識も、エロなるものに對して腰が引けてゐるし、取締りなるものにもさう。所詮大騷ぎしてゐる人々も皆、パズルを解くやうな感覺で法を解釋して、いろいろと惡い解釋を考へたり、嫌な法の運用を想像したりしつゝ、遊んでゐるに過ぎない。だから真に児童を守るためなんて御定りの言ひ方をして話が通用すると簡單に思つてしまふし、實際にそれで大袈裟に考へ出す人が出て來たりしてしまふ。「馬鹿馬鹿しい」の一言で今囘の騷動は話を濟ませてしまつていい。何うせ規制が始まれば、言逃れする爲の工夫を皆面白がつて始めるだけだし、さうした工夫を面白がり始めるだけだ。深刻な事態には絶對に繋がらない。馬鹿馬鹿しい事態が生ずるだけだ。サヨク連中が「狼が來るぞ」の類の事を何囘言つただらうか。この手の脅しに未だに騙される人がゐる一方で、言ひ續ける人もゐるのだから、日本と云ふ國も進歩しないなあと思ふ。
と言ふかこれも「批判批判」の類なんだよ。誰一人「兒童ポルノは良い物である」等とは言はない。「兒童ポルノは惡い」と云ふのは誰もが認めてゐるのだ。それに對して「兒童ポルノ規制」が言はれるのだけれども――「兒童ポルノ批判」だからこそ「兒童ポルノ批判批判」と云ふ「理窟」を言出す契機があるのであり、皆が一生懸命やりはじめるのだ。もつともらしい事を言ふには「批判批判」が一番――だから皆、いつぱしの「言論人」になつたやうな氣で、偉さうな事を言ふ。彼等の「規制派」批判の冷酷な事は無比である。「兒童ポルノ批判批判」をしてゐる人々は「規制派」を人間だと思つてゐない。或は、「批判批判」だから、「批判批判批判」をする人間を「人間ではない」と本氣で思ひ込み、罵倒・嘲笑を浴びせ、揶揄ひ、或は冷酷な攻撃を仕掛け、快を貪つて、平氣である。
人を人とも思はない態度を平氣でとる「批判批判」の人が、しかし、常に「人の事を考へろ」と言ふのである。自分は人を人扱ひしないのに、「他人を批判する人間」は「人の事を考へない」から「許せない」と平然と言ふのだ。私は「批判批判」的な態度を理解出來ないし、肯定もできない。
ところが「批判批判」的な態度をとる人々は、「批判」をする人が非人間的だからこそ自分も非人間的な態度をとるのだ、と言つて自己正當化をはかる。しかし、非人間的な事が許せないのなら、自分が非人間的になるのを許すのは矛盾だらう。自分にだけ甘く、他人には嚴しい、と非難されても仕方がない。が、「批判批判」をする人はその邊の事は良く解つてゐて、だからこそ「批判」をする人間が如何にも「自分には甘く、他人には嚴しい」態度をとつてゐるかのやうに見せかけて・嫌な印象をでつち上げて、「言論の場」に居たたまれないやうにし、社會的に潰しにかかる。「批判批判」=「アンチ」の人間はさう云ふ鄙劣な事をやる。だからこそ、私は「批判批判」の「アンチ」を許せない。
平成二十一年七月十日
――ところが、斯う云ふ事を言つてゐると、「兒童ポルノ規制反對」=「兒童ポルノ批判批判」の人は「野嵜さんの言つてゐる事はちよつと違ふと思ふ」と、親切にも説得を始めて呉れる。けれども、それこそ彼等が「何を言はれても反省しない」決定的な證據なのだ。
平成二十一年七月十日
「批判をするのは善い事である」と言つてゐる人間が批判をするのは構はない。當り前。
「批判をするのは惡い事である」と言つてゐる人間が批判を批判するのは惡い事である。當り前――だが、なぜか「批判批判」の人は、自分の矛盾に氣附かない。ただの論理の話なのだが、論理的に考へる事が出來ず、ただ「自分に不都合な事を言はれてゐる」とだけ感じる。何でも「感じ」で言ふから、話にならないのだが、それが解らない。
しかし、「良い感じ」の事を言合つてゐれば「雰圍氣が良くなる」だらうと、この種の人々は言ふのである。和やかに、コミュニケーションをとる事だけが世の中には必要だと「理窟」を言ふのだ。が、それは「ただ樂しければそれでいい」と云ふだけの發想でしかない。さう言ふと「ではお前を不快にさせてやる。お前がさう願つたのだからな」と彼等は言ふのである。恐ろしいと思ふ。
平成二十一年七月十日
「批判批判」の人は「批判」が惡意に基くものだと決めてかかつてゐる。そして常に根據は「言方が惡い」である。が、その根據が薄弱である事は、「批判批判」の人を觀察してゐればすぐに判る。Kirokuroは、野嵜の惡口を言ふ人を、常に「野嵜の惡口を言つてゐる」と云ふ理由で「良い人間だ」と判定する。その人が何んなに嫌な言ひ方をしてゐても「惡い野嵜を嘲つてゐるのだから良い事である」とKirokuroは言ふし、窘めるにしても常に野嵜に對する當てつけ・當てこすりが目的である。
が、間違ひを間違ひと指摘し、理路整然と説明する「批判」と云ふ行爲を、「論者の態度」を理由に非難するのは、要は「論者」を論じたい、と云ふ嫌な趣味の發露に過ぎない。
「批判」を批判する「批判批判」、その「批判批判」を批判する「批判批判批判」なるものが昨今は大流行してゐるらしいが、此處まで來ると最早元の論點は何處かへ行つてしまつて、ひたすら論者の心理を分析するだけになつてしまふ。此れほど不毛な議論はないのであつて、だから最初の論點について賛否を言ふ基本的な議論に留めておくべきなのだが、殊に日本人は觀念的な議論を好まず、具體的な人間=「論者」を「批評」する事に樂しみを見出す。
自民黨と民主黨が爭つてゐるのも、政治の理念を問題にしてゐるのでなく、常に具體的な「敵の政治家」を問題にしてゐる。それは結局樂しいからしてゐる言爭ひであり、日本の政治家は樂しみの爲に敵の政治家を嘲笑してゐるのである。それで「國民の爲の政治」なんてものが實現する訣がないが、國民も政治家と云ふ具體的な人間を小馬鹿にする樂しみを味はへるから下らない政爭を喜んで見てゐる。
平成二十一年七月十日
化物語第二話 @ TOKYO MX。相變らず漢字の字體とかなづかひに誤がある。チェック出來る人間がゐないのだらうか。適當でいいやとか思つてゐるのか。だとしたら新房も所詮はその程度の映像作家だと言はざるを得ない。

平成二十一年七月九日
狼と香辛料2、NEEDLESS、ともにHV。@ tvk。
平成二十一年七月九日
『文化とは何か』(T.S. エリオット、弘文堂書店)
中公のエリオット全集で讀める。彌生書房の選集と合せるとエリオットの主な文章は大體網羅出來る筈。
平成二十一年七月九日
死滅病棟: 「気持ち悪い」のはその対象か、それともただの自分か
「旧仮名遣い気持ち悪い」とか「旧仮名遣いには違和感があります」とか。
平成二十一年七月九日
β-reverse掲示板
  • http://ameblo.jp/carolineself/entry-10296228632.html

 水伝で口説こうっていう男がいるのか…消すみたいだし、はてなブックマークはやめとこう。

 ちゅーか、口説く以前に、水伝をいい話だと感じてる人だってだけで気持ち悪いってば。

平成二十一年七月九日
結局のところ、「気持ち悪い」式の言ひ方をする原因が何に由來するかが問題で、もちろんそれは感情に決つてゐる。のだけれども、「自分と異る價値觀」に對する惡感情と云ふ點で同じであつても、だからといつて單純に價値の相對化で話を終はらせる事が出來ない。なぜなら、「論理的な立場」と「非論理的な立場」との對立について、「価値観の相違」のやうな單純な價値の相對化で話を濟ませる訣には行かないからだ――價値相對主義を絶對的に信奉してゐる人はさう云ふ態度をとるだらうけれども、さう云ふ態度を肯定する立場の人は一部だらうと信じたい。
「非論理的な立場」の人が「論理的な立場」の人に惡感情を抱いて「違和感がある」「気持ちが悪い」と言ふ――この時、しかし、「非論理的な立場」の人は、依然として自分の立場が「正しい」と云ふ前提で物を言つてゐる。
「論理的な立場」の人が「非論理的な立場」の人に惡感情を抱いて云々――。
「正しさ」は「論理性」からしか出現し得ない價値判斷ではないか。だが、非論理的な立場の人も、論理的な立場の人を罵る時、常に相手の主張を論理で以て否定し、自分の非論理的な主張を恰も論理的な主張であるかのやうに見せかける。
平成二十一年七月九日
價値相對主義に就いて。なぜ私は價値相對主義なるものを非難するか。價値相對主義を振りかざす人が大抵、思考の停止を目的としてゐるからだ。何も考へないで獨斷で結論を出す爲に――と言ふより、價値相對主義者は、「論理的」の側の「正しさ」を、相對化する事で間接的に否定する爲に、價値相對主義の假面を被る。他人の足を引張つて快を貪り、問答無用で否定して相手を不愉快にさせるだけの爲に、價値相對主義と云ふ論戰の爲の武器を用ゐる。即ち、彼等は「非論理」の側に立つて「論理的」の側を攻撃するのを目的に、價値相對主義の立場を取る。價値相對主義は、反論が不可能な、非論理的な攻撃方法であり、しかし如何にも尤もらしく――マルクス主義が破綻したやうには破綻が判然としてゐないから依然として有效だと思はれてゐるから、一般人に説得的な主張と見せかける事が出來る議論の方法である。ほぼ全ての價値相對主義者は、一見尤もらしい「論理性」を見せるが、「全ての價値は相對的である」と云ふドグマは反論不可能であり――その「反論不可」なる事を利用して他人の價値觀を蹂躙するのに便利に用ゐられてゐる。が、さうしたやり方は議論の不毛を生じさせるのみで、建設的な議論を生まない。價値相對主義ほど不毛な思想はない。ところが、積極的な價値と云ふものの持つ危險性を示唆する事で價値相對主義者は何かの價値を信ずる一般人を恫喝し、相手の自信を喪失せしめる。ところが、價値相對主義者自身の信念は絶對に變る事がなく、彼等の自信は搖るがない。そして、相對的である筈の或價値を、彼等相對主義者は例外ナシに信じてゐる。彼等が信ずる或價値を守るだけの爲に、彼等は價値相對主義の立場をとつて見せるだけである。價値相對主義は、理論としてはあり得るが、人間の實踐行爲としては現實に成立たない。
私の知つてゐる價値相對主義者は一人の例外もなく公正を缺いた人物であつた。經驗上、私は價値相對主義者を信用する事等できないし、渠等が論戰において利用する價値相對主義なる「武器としての論法」を信ずる事も出來ない。
平成二十一年七月九日
Google、独自OS「Google Chrome OS」の開発を表明 -INTERNET Watch
「Google Chrome OS」は無料、共同開発企業名も公表 -INTERNET Watch
何うせ正かな入力出來ないんだろ。
平成二十一年七月九日
携帯所持を禁止してもいじめ減らない、女子中学生の6割回答 -INTERNET Watch
人間と云ふものは本質的に陰濕だから、或苛めの手段が奪はれれば他の方法で繼續するだけである――と尤もらしく論じて見せても、それが現在の苛めの手段を便利に使つてゐる輩の發言であるならば、「面倒だから今の手段で苛めを續けさせて呉れ」と云ふ意味に過ぎない。

平成二十一年七月八日
国内ブラウザシェアはIEが合計7割以上、Google Chromeは1% -INTERNET Watch
Opera意外とシェア多い。Sleipnirが勘定に入つてゐるが、何うしても違和感が。
平成二十一年七月八日
さよならのかわりに、昔話を 〜XHTML2 を追悼してみるテスト〜 - 若葉もすなる日記というもの
平成二十一年七月八日
Yahoo!ブログ - 若田光一 宇宙ブログ

平成二十一年七月六日
fladdict » HTML 5の仕様からオーディオ・ビデオコーデックに関する要件白紙に
FLASH v.s. HTML 5つて何……。HTMLが何時の間にかテキストをマーク附けする言語から、マルチメディアソフトのオーサリング用言語の類に變貌してゐる。「それがいいんだよ」とか言つてゐる人が多いんだらうけれども、何かをかしいと思はないのだらうか。
「意味に基く」とか「オブジェクトを操作する」とか、何でもかんでも仕樣にとり込んで、HTMLをメタボ化させるのは、好い加減、間違つてゐると氣附くべきだ。HTML 3.0の過ちを繰返してゐる。「いや、HTML 3.0は良かつたんだ」とか言つてゐた人がゐたけれども、間違つてゐたとしか思はれない。
「えいちてぃーえむえる! ご!」はダメだよ。便宜主義に流されたのだから、駄目に決つてゐる。根本的な部分でHTML 4の理念を解つてゐない連中が、「便利」「便利」と言つて適當にでつち上げようとしたのが「HTML 5」なんだから。從來のHTMLとは完全に別物としてなら「HTML 5」も「あり」だとは思ふけれども、それを意地でも「HTMLの後繼」と言張り續けるのなら、はつきり言つてそいつはいんちきだ。
「HTML 4.01 Transitionalを發展させる」とか言ふのならまだ理解できるけれども、しかしTransitionalは「すたれていくべき」ものだつたんだし――「HTML 5」なんてそもそも矛盾だらけであり得ない存在なのだと、ここいらで「保守的」な「HTML原理主義者」は聲を擧げなければ行けない。
平成二十一年七月六日
プリンセスラバー @ tvk。HV。
平成二十一年七月六日
かなめも @ TX。ニコライ堂。神田明神。神保町。
平成二十一年七月六日
化物語 @ tvk。HV。
正字正かなが相變らず中途半端。シャフト關係者は壷は見てゐてもこの界隈(何處)は見てゐないんだらう。
平成二十一年七月六日
先日の讀賣新聞と早稻田大學による輿論調査に據れば、國民は政權の實績を基に支持政黨を決めるのだと言ふ。
G8について讀賣新聞の人が述べて曰、首相が毎年替るのでは指導力は發揮し難い。
――要するに政治には強力な指導者が必要だと云ふ考へ方が日本人にはあると云ふ事だが、さうなるとロシアのプーチンのやうな人物こそが日本人にとつては大變立派な指導者である筈だ。なのに日本人は餘り今のロシアの政治體制に好感を持つてゐないやうに思はれる。何なのだらう。

平成二十一年七月五日
tvk土曜日深夜のアニメマラソン。絶望先生、HV。GA、不明。うみねこ、額縁。07-GHOST、HV。ヴァルキュリア、HV。

平成二十一年七月四日
「破」觀て來た。ねたばれしていい?
マリ=モヨ子だと云ふ指摘にすげえ納得した。

平成二十一年七月三日
例によつて田村書店の無料箱から拾つて來た篠田錦策『英國の風物』(昭和十五年十月五日發行・昭和十六年一月二十日第三版發行・研究社)を讀み始めた。背が完全に缺けてしまつて、萬年七曜早見とか「昭和十七年略暦とか刷られた裏打ちの紙が見えてしまつてゐる。紙不足だつた時代には、何うでも良い本・古本をばらして新本の下地に使ふ事がよくあつた。「素人下宿」の項に英國のHampstead邊(ロンドンの山の手といつてよい一區域)の家の作りを説明した文章があるが、「エマ」の家の間取りがそつくりそのまゝなので吹いた。
平成二十一年七月三日
http://www.w3.org/News/2009#item119 : XHTML 2 Working Group Expected to Stop Work End of 2009, W3C to Increase Resources on HTML 5
XHTML 2.0 策定終了 - Another 朝顔日記
要は、意味論的ウェブの觀點から意味づけの方法を決めるのに、あつちとこつちでばらばらに議論してゐるのは效率が惡い――それでHTML 5の側に一本化しようと、さう云ふ話になつた訣だ。W3CもWHATWGも、やりたいのは結局「意味に基いた要素」を作る事で、そのベースとなる言語がSGMLかXMLかは大した問題ではない。
HTMLが勝つてXHTMLが負けたとか、さう云ふ事ではない。HTML 5の議論が決着したら、XMLベースで規格化して、「次のXHTML」にするのだと。と言ふか、HTML 5の仕樣の中で定義される、と云ふ事らしい。

平成二十一年七月二日
晴後雨 / 二十三度 ― 三十度 - 月の塵
「〜してをる」なんて言つてゐる人は年寄臭い。と言ふか爺。
平成二十一年七月二日
兒童ポルノ規制。結局一方的な規制である訣だ。爭ふ餘地がない。役人・警官・檢察が、良いか惡いかを決める事になる。規制をかける側もかけられる側も「これはOKですか」「これはダメですか」と、具體的なものを持出して、御役所的な對應が何うなるかだけを一生懸命論じてゐる。一億總役人根性と云ふ奴だ。「言論の自由」が大事なのではなく、それをネタに皆で騷ぎたいだけ――何時もの事だが、システムを作る話に皆で興じてゐるのだ。
論じてゐる方は眞劍の積りで、傍から見れば茶番でしかない。自民黨や公明黨の政治家だけがコントを演じてゐるのではないよ。規制に反對してゐる側だつて、ただのエロ漫畫を「言論」だと言つてゐるんだ。私のウェブでの發言をKirokuroやG師は「言論w」と言つて笑つてゐる。「兒童ポルノ規制反對!」といつて「言論の自由」を主張してゐる人々は、KirokuroやG氏から當然「言論wwww」と嗤はれよう。苦情はKirokuroへ。
――ついでに言つておくと、規制をかける側も役人根性丸出しだから、サンタフェが何うの斯うのと言合つても、何とも思はない。規制反對派が「茶番だ」「コントだ」と言つて嗤つても、嗤はれた側がそもそも「笑ひ」に何の感覺も持つてゐないのだから何にもならない。一方、嗤ふ側も、笑ひ飛ばしてそれで世の中話が濟むと思つてゐない。當座、嘲笑して相手を馬鹿にし、侮辱を加へる事で憂晴しをしてゐるに過ぎない。それで世の中が自分逹の望む方向に變つて行くとは誰も思つてゐない。嗤ふのが批判ではなくただの樂しみになつてゐる。それも刹那的な。規制がかかつたらかかつたで、今「規制反對」と叫んでゐる人のほぼ九割九分までが何もなかつたかのやうに他の事に樂しみを見出すか――インターネットのアングラな部分で適當に「ガス拔き」でも何でもやつて、少しも苦しみなんて覺えないだらう。ただ或種の樂しみが奪はれるに過ぎない。そして今の時代、樂しみなんて幾らでも代りはあるのだ。ただ、今の「保守派」或は「權力」に楯突く口實が出來たから、「サヨク」「反權力的な現代の日本人」が飛附いたに過ぎない。要は今囘も政治の話であり――日本人は政治の話となると、とても樂しい娯樂として飛附くのだ。郵便局の民營化の話にしても、この兒童ポルノの話にしても、全く同じで、政治の話でしかない――それも甚だしく低級な。そんなものに本氣になつても仕方がないだらうと思ふのだが、さう言はれると腹を立てるのが「政治趣味」の人々で、しかし所詮は趣味でしかないから、皆樂しみを邪魔されて腹を立てるに過ぎない。Kirokuroが郵政だのネオリベだのと言つても、所詮は暇潰しをしてゐるだけだ――「政治論爭ゲーム」なのであり、ゲームだから「本氣になつた積り」でやるのであり、そこで「本氣になつてゐるのは勘違ひだ」と指摘されるから、かんかんになつて怒る訣である。が、勘違ひにしても、解つてやつてゐるにしても、不毛な話で、そんなのに向きになるのは愚かしい事だと言はざるを得ない。三年經てば、今の兒童ポルノ規制の話にしても、郵政の話にしても、皆覺えてゐないだらう。それなら今、そんなものに必死になつても仕方がない。しかし、さう云ふ刹那的なものだからこそ、日本人は面白がつて「本氣」で遊ぶのだらう。怒つたり嘲つたりして見せるのも、ただ個人の樂しみの爲に過ぎない。これで「政治がよくならない」とか本氣で言つてゐるとしたら――もちろん、誰も本氣ではない。政治を良くしようだなんて、日本人は誰一人、思つてはゐない。麻生總理の「政治生命」なんてものを言つてゐる人も、そもそも政治とは何ぞや、なんて事には、興味すら持つてゐないのだ。
どうでもいい雑記その596 : 雑記帳 : der Gegenwart

動画で答弁が残ってるのに良くこんなことを書けるもんだ*1。恥ずかしくないのかね。百歩譲ってそういう意図がなかったとしても、誤解を招くような発言は避けるべきだったろうに。ホント政治家ってしょうもないのしかいないのな。

「よくもまあぬけぬけと」式の紋切型が、相變らずウェブ中に横行してゐる。政治家を侮辱し、侮辱されるやうな政治家が惡いと言つて快を貪る。……では、我が國には民主主義と言ふものは存在せず、政治家は何處からか突然涌いて出て、勝手に政治なるものを行なつてゐるのだらうか。無論、國民の選擧に據つて、政治家なるものが政治の場に出て來るやうに、我が國のシステムはなつてゐる。
政治家がしょうもないのしかいないのなら我々國民がそもそもしょうもないのしかいないのだ。ならば、しょうもないのがしょうもないのを嗤ふのは猿の尻笑ひの類であり、自分の缺點も顧みず他人の缺點を嗤ふ事であつて、餘り頭の良くない事だと云ふ事になる。
平成二十一年七月二日
〈蒼橋〉義勇軍、出撃!:ハヤカワ・オンライン
さつき讀み終つた。面白い……。
私は『SF英雄群像』から「SF」に入つた――と言ふより、海外のスペースオペラの本を讀み始めたので、野田さんの銀乞も一往讀んでゐた。實際に讀むと解るけれども、銀乞はもともと案外面白くなくて、話の展開がたるいは、場面の轉換が唐突だは、仕掛けが露骨過ぎるは……割と缺點の多い小説だつた(少くとも高校生が讀むには辛いところが多かつた)。それでも全卷讀み通したし、外傳も讀んだし、CDドラマも豫約して買つたのだから、それなりにファンだつたと言つていいと思ふ。で、全百卷とかぶち上げながら十七卷で終つたこのシリーズ、完結以來隨分經つのだけれども――鷹見さんによるこの「黎明篇」、結構面白い。話の筋は野田さんより今風だし、巧みだとすら言つてしまつていいと思ふのだけれども、細かい所で野田さんへのリスペクトが見え隠れしてゐて、それが昔からの銀乞讀者にはたまらなくなつかしい。話の展開がたるいのも、伏線の張り方が露骨過ぎるまでに露骨なのも――御爺ちやん御婆ちやんにお子さま連中が大活躍なのも、明かに野田さんのスタイルに倣つたもの。表紙が表紙だし、書泉グランデでラノベコーナの平臺にも置かれてゐて變にプッシュされてゐたのには苦笑したけれども(高校生邊のラノベを讀み慣れてゐる子にはきついかも)、個人的には樂しく讀めたし、結構良かつたと思ふ。
Amazon.co.jp: 〈蒼橋〉義勇軍、出撃! (銀河乞食軍団 黎明篇1) (ハヤカワ文庫JA): 鷹見 一幸, 野田 昌宏・原案, 鷲尾直広: 本
何うでも良いがAmazonは個別の書籍の「賣場」にどうやつてリンクを張ればいいのかさつぱりわからない。
銀河乞食軍団 黎明篇1<蒼橋>義勇軍、出撃! ―ライトノベル感想リンク集
平成二十一年七月二日
輕佻浮薄は、日本特有の事情に非ず――なるほど、アメリカと云ふ國の國民は、日本人に輪をかけて、熱狂し易く冷め易い。ヴィエトナム戰爭でもイラク戰爭でも、やる時には全國民が熱狂して一齋に一方向に突つ走る。が、巧く行かないとなれば即座に冷めて――それで政權が、共和黨から民主黨に移つてしまふ。政權が移れば、國の態度もまるで違つたものになつてしまふ。
が、さう云ふアメリカを日本人は笑ふ事が出來ない。なぜなら、アメリカ式の二大政黨制を日本でも實現しようと皆ががんばつてゐるのであつて、それで自民黨と民主黨と云ふ二つの政黨が政權爭ひをえんえんやつてゐる。それを「反米保守」の連中ですら誰一人疑はない。一方、「サヨク」の連中は連中で、自民を倒せ、と叫んで、場當り的に「元自民」だらけの民主黨を應援して、反權力の鬪爭でもやつてゐるかのやうな氣分に浸つて樂しんでゐる。
自民黨も民主黨も、日本の「二大政黨」は、ただの政治家の寄合所帶で、ただ權力を手に入れるだけの爲に黨派を作つてゐるに過ぎない。アメリカの二大政黨は、曲りなりにも理念に基いて政治家が結集してゐるのであつて、その點、日本の「二大政黨」と根本的に異る。日本人はアメリカのシステムの外觀だけを眞似したのであつて、本質は全くコピー出來てゐない。ならば、アメリカ人の態度に輕佻なところを見出せたとしても、日本人の方がずつと浮薄であると言はざるを得ない。

平成二十一年七月一日
なめくぢとやすでが大發生中。
平成二十一年七月一日
闇黒日記はマイクロWeb日記ではないぞ。
平成二十一年七月一日
どうぶつの森 最悪のインシデント | 水無月ばけらのえび日記
要するにインタフェイスが惡いだけなんだけれども、ゲームについてはなぜか誰もが「ユーザの失敗」と云ふ風に考へる。プログラマやデザイナがバカなんだとは誰も言はない。ウェブの話だとすぐ「制作者が惡い」と云ふ事になるのに。「閲覽者は我儘なのが當り前」とか。
「既に買つてしまつたゲーマー」と「見込み客としてのウェブ閲覽者」の違ひ、と云ふ事なのかな。

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