Opera 10.00b2 for Windowsと表示されてゐるので、「Download Opera」ボタン(またしても畫像による僞ボタン)を押すのだが……なぜか「Opera ブラウザのダウンロード」のぺーじがロードされて、畫面には
Opera 9.64 for Windowsと表示される。何なのだらう。9.64なんか要らないので再び「Opera 10.00b2」なるアンカーをクリックするのだが、もとの
Opera 10.00b2 for Windowsの「ダウンロード」ページに逆戻りするだけ。そこで「Download Opera」ボタンを押すとまた
Opera 9.64 for Windowsと表示されるぺーじに。
人間事象の研究は、歴史その他の人文科學の事だけれども、確かに、所謂自然科學の類と違ふ。けれども――例へば歴史學は、歴史の中に法則性を見出すものであり、程度の差はあれ、全くの非科學的學問と言ふ事など出來ない。言はば藝術と科學の中間のものである。云々。
個人的だとトインビーは
いぶかしく思ってゐると述べてゐる。
……。この男はわれわれの生活、思想、仕事のすべての様式をくつがえしてしまうかもしれない、危険な野獣だ、やっつけなければ、といったぐあいですね。私は思うのですが、これが守勢的立場と弱さの兆候なんですね。私に対するこの敵意と科学者ぶった態度は、ほんとうは両立しないものなんですが、私が申しますとおり、同じ人間がこの二つの態度をとっているわけなんです。
廣いところに出ることができた。福田、それは「文學者の實踐運動」とは違ふ。云々。所謂「政治と文學」論爭の一つで、その中でも特に典型的かつ本質的なものになつてゐると思ふけれども、斯うしたやりとりがそのまゝの形で今に傳はらないでゐるのは、何とももつたいない話。
私は、政黨とは同じ理念を持つた者の集りであることを忘れてゐた。施策は理念を實現するために行ふものなのだが、私は肝腎の兩黨の理念の違を説明できない。理念のない施策に意味があるのか?
労働に関係する重要な足の言葉として、足洗いをあげておきたい。昔、労働といえば、足を泥まみれにして、つまり裸足で働くことであった。裸足は、履物が普及していない当時において、あたりまえの習慣ではあったが、足ゆびを踏ん張って力を入れやすいので、労働の効率をたかめる方法でもあった。今では、足を洗うという言葉は、もっぱら、悪行をやめて堅気になるという意味で使われるようだが、本来はそうではなかった。
昔、とはいっても田舎では最近まで、たとえば農家の人が田畑で裸足で働き、家長から足を洗って家へ上って来いといわれたら、その日の労働が終って屋内で夕食になることを意味していた。また「足洗い」という言葉は、古い大学の事務系統の人びとの間には、今でも残っている。忙しい勤務の日々がつづいて、それが一段落したとき、「足洗い」にしようと上司がいえば、お互いの労をねぎらい合う酒宴の開始を意味している。なお、「足洗い酒」という言葉は、嫁方が婿の家に着くとすぐ出す酒というような場合に使われた。長道を歩いてよごれた足を洗ってもらって、酒を出してその労をねぎらうという意味であろう。
就中當宮參詣のふかき習は、念珠をもとらず、幣帛をもさゝげずして、心にいのる所なきを内清淨といふ。潮をかき水をあびて、身にけがれたる所なきを外清淨といへる。内外清淨になりぬれば、神の心と我心と隔なし。既に神明に同じなば、何を望みてか祈請の心あるべきや。これ眞實の參宮なりとうけ給はりし程に、渇仰の涙とゞめがたし。
山風時々しぐれて、夕浪立ちさわぐ河の邊に、宮のともがら、垢離をかきて、寒げなる氣色もなし。麻の衣のいやしき賤の女も、身を清めぬればと喜ぶ色あり。花やかなる袂の匂ひ深き人も、膚をあらはにしてはづかしめたる顏も見せず。和光の水は善惡の塵を擇ぶことなく、利物の淵は高低の影を分つことなし。御裳濯河の流、終に伊勢の海に流れ入りぬれば、細流巨海隔もなく、一味平等の法水となる。此ことわりを思ひしりながら、身は彌陀の心水をもあびず、好て濁惡の泥に沈み、心は神明の願海にも入らず、かりに清潔の流を結ぶばかりなり。……。
まともな文章を書く暇がないので豫言だけしておく。このまま文學小説に代つてラノベが氾濫すれば、小説そのものが週刊少年ジャンプの樣な末路を辿る事になるだらう。
div class="Wrapper"でぐぐつて見附けた。いろいろ書き方が微妙。レガシーな説明の上に「正しいHTML」風の説明をかぶせてゐるんだらうと思ふが、なんかうち(PC Tips)を參考にしたらしき構成になつてゐるのが氣になる。
文學小説の價値を決めるのは書き方そのものではなく、言葉の使ひ方だとか登場人物の踊り方なのだが、ラノベは飽く迄も「エンタテインメント」だから、如何に讀者に架空の(見せ掛けの)世界や人物を魅せるかが重要で、書き方と言ふものが非常に重要となつて來る。文學小説は讀者に考へさせなければ一流とは言へないが、ラノベは逆で、讀者に考へさせてはならぬ(だから上手く架空の世界を表現しなければならない)、さう云ふ作品が非常に世間では好まれるのではないかと思ふ。その邊りの事を理解出來てゐない人が大變多いから困る。ある二次創作小説に酷い作品があつたが、何故酷いかと云へば、ラノベ的に書かれてあるにもかかはらず、中途半端なメッセージだけを讀者に與へてをり、その登場人物も作者の埴輪と化してゐるからだ。中途半端なメッセージを與へる位なら、無い方が増しである。そんな事にも氣附かず、讀者にこれこれを考へて欲しい爲に書いた、と作者は書いてゐた、恐らく自分では好い仕事をしたと思つたのだらう。全く訣が解らない。
作者の埴輪は「作者の傀儡」でなければ話が解らない。「傀儡」は「くぐつ」「かいらい」であり「あやつり人形」の事。「作者の傀儡」のキャラクタとは、作者から獨立して作中で生きてゐないキャラクタの事であり、作者が自分に都合良く動かしてゐるキャラクタの事だ。さう云ふキャラクタを描くのは、ライトノヴェルの書き手に限らない。案外純文學の領域に澤山ゐる。大江健三郎等。
僕はラノベには全く興味を持てないのだけれども、何故興味を持てないかと言へば、話がやたら長つたらしくなりがちで、どうでも好い記述で字數が水増しされてゐる感があるからだ。僕は作者の作り出した「世界」に附合ふ氣は無い訣で、それよりもどんな風に物語が進んで行くか、そこに關心があるのだ。いや、僕は小説に變な拘りがあるらしく、人物の濃さや話の展開にしか關心を持てない。然しラノベがさういふものなら、わざわざ「シリーズ作品」を十卷や二十卷も出す必要は無い。逆に十卷も二十巻も出す事が僕にとつては凄く無駄に思へるのだが、どうだらう。ラノベの一シリーズを全部輯めるくらゐなら、新潮文庫のドストエフスキーとかシェイクスピアを全部輯める方が増し、だとさへ思へて來る。
イギリスの法律というものは、必ずしも制定された明文の法規からだけ成るものではありません。すなわち議会の同意を得て制定された法律は、裁判所でも適用すべき法律であるこというまでもないのですけれども、この外に社会を規律する何らかの規則があって、この規則はある訴訟事件が起ってくるごとに、裁判官によって理性と論理の力によって発見されるものであるという前提がとられているのです。われわれはこの種の、つまり裁判官によって発見された法規の體系を、コンモン・ローと呼んでいます。そのわけはこの種の法律こそ何人にも共通する規則であり、あらかじめ判決の以前からあるものが、見出されるにすぎないとの立場を取っているからです。コンモン・ローはそのために最上級裁判所の判決のなかに現れる法規であり、しかも一旦判決が出されると、新しい立法によらねば變えることができないものと解釋されています。なぜならば、コンモン・ローは裁判官が自分の力で作ったものでなく、前からあるものを發見しただけなので、それを變更する唯一の方法は、立法以外にないことは明かだというのが、われわれの論理になっているからです。
今まで全く興味のなかつた「ベタベタのラノベ」を読みたいといふ人に何を勧めたらよいかで脳内会議。
……、実をいふと「とらドラ! スピンオフII」すらも途中で読む手が止つてゐるのだ。
日本のインテリゲンチァにとって、自らの意見をもつことは、出世には縁遠いことである。しかしそれにもかかわらず、他人の意見を受賣して歩くのではなく、自己の學びとった意見をもち、それを正直に告白することは、何といっても樂しいことである。意見をもつためにはどうしても事實を知らねばならない。しかし事實から引出した意見が、その場その場の空氣で變るのは、意見として通用することでなく、やはり一種の日和見にすぎない。日和見主義は意見をもたないか、他人の意見を鵜呑みにするのと同じであって、彼自身の獨自的なものということができないであろう。インテリゲンチァにとって、これは大きなわなであり、そのわなに落ちこんでしまったら、やはり出世の道は歩けるかも知れないが、生活の喜びは失わねばならない。
意見は法則的でなければならない。だが現在ほど激烈な社會変動を前にして、法則的なものを意見としてもつことは、むろん決して生易しいことではない。それには懸命な事實の蒐集を要するし、またどんな事實が現れても、事實そのものに卷きこまれ、感情によって動くことを排除しなければならない。インテリゲンチァは要するに中立者であり、たとえ階級鬪爭のさ中にあろうとも、鬪爭ができるだけ被害の僅少な、秩序あるルールに從った鬪技として實現することにつき、いかに少くとも功献するところがなければならないと思われる。
人はこの種の中立的立場を指して、逃避主義というかも知れない。だが中立は逃避どころか、この上ない鬪爭の一つである。それは酬いられない鬪爭であるという意味において、どのような階級鬪爭の鬪士より、もっと慘めな苦痛の多いものである。だがこのような苦痛を甘受する人の比重が輕くなるならば、鬪爭はやはり亂鬪となり、人間性を失い盡すところまでいかなければ、終りを告げることはないであろう。自ら「地の鹽」と豪語することは尊大である。けれども「地の鹽」たる心をもつ人がなくなることは、社會自體の沒落、階級的共倒れにまで發展しないであろうとは、誰が保障してくれるであろうか。
理論的に考えられる裁判官の職能は、まさにこのインテリゲンチァの職能を代表するものである。だからして「裁判」の問題を取扱うことは、一面においていかにしたら出世しないかを取扱うとともに、いかにしたらルールをまもり得るかを取扱うことができるようになるであろう。この書は、この點についての取扱いを含みつつ、全インテリゲンチァの問題として、社會的判斷の問題を取扱う試みをしたものの一つである。……。
ギトロー事件もまた社會主義宣傳の問題にかかった事件である。この事件は・ニュー・ヨーク州の法律により暴力による政治組織の變革およびその煽動を處罰する規定があるにもかかわらず、一九一九年六月ニュー・ヨーク市で組織された社會黨左派の役員ベンジァミン・ギトローなるものが、「左翼宣言」と呼ぶ文書を起草し、その末尾に「コンミュニスト・インターナショナルは、全世界のプロレタリアートに對し、最後の鬪爭を呼びかける」と書いたことそのことが、果して犯罪行爲になるか否かという事件であった。裁判所の多數意見を代表するサンフォード判事の見解は、右の文書が「共産革命」・階級鬪爭・大衆動員・政治的ストライキその他を煽動した具體的行爲であって、「これは單なる哲學的抽象論でも、將來の豫言でもなく、直接的煽動文書であって」、處罰に價する行爲であるとした。彼はさらにこの種の文書を頒布したため刑罰を受けることは、連邦憲法修正第十四條に違反するものではないかとの論點に答え、「ほんの一寸した革命の火華でも」、そのなかには常に現實的な危險があるとして、ニュー・ヨーク州法の適用を維持しようと試みた。ホームスのこれに對する反論は、短いがしかし力のこもったものである。
ブランダイス判事と私とは、この判決がくつがえさるべきものだという意見である。……このいわゆる宣言は、單なる理論でなく、煽動であると稱された。しかしすべての思想は煽動である。思想は必らず煽動をともなう。ある思想の正しさを信ずるものは、他の思想によって考え直させられるか、氣力が十分でないために行動をその誕生前におし殺すかしないかぎり、必らず煽動に移るものである。意見の表現と狹義の煽動との差異は、發言者が結果に對してもっている熱意の差異だけである。雄辯は理性に火をつけるかも知れない。しかし法廷に提出されたおびただしい文書をどうみても、それは現在大火事を起す機會をもつものではない。長い目でみた場合、プロレタリア獨裁という觀念のなかで示された信仰が、社會の有力な部分に受入れられる運命をもっているにせよ、言論の自由を信ずるものは、それにその機會を與え、その道の開かれることを認めねばならない。」
ホームスのこの意見に從えば、少くともごく切迫した期間において、秩序の破壞とか武裝蜂起による革命運動の勃發を促進するものであることを、明瞭にかつ客觀的に一點の疑いなく證明できるような文書・演説を除くほか、單なる宣傳、漠然たる煽動を處罰する意味に解釋されたニュー・ヨーク州の法律は、違憲立法に該當するほかないのである。すべての宣傳が煽動の名において禁止されるなら、その思想は一切の機會を奪われる。これは自由の否定であり、獨裁の合法化に外ならない。ホームスはかく信じ、またかく判決しているのである。
カトリックは平和を祈る。戦争は国の大事、国家興亡のわかれるところ、決して軽々しく始め得べきものではない。しかもなお、昔からカトリック教徒の国々の間にも、幾度か激しい戦争がくり返された。そして兵士達は戦場に臨むに当たって、また生死を賭した激戦を前にして、ひたすらに神意――それは敵味方とも同じ神であるはずの――にかない得まするようにと真剣な祈りを捧げて矛盾を感じない。何故であろうか。この答は佐藤隆氏によれば「国々には戦いを賭しても貫こうとする正義感とそしてその意志があるからである。蓋しその正義感と意志とを失った国家は、もはや存立の意義がなかろう。神は人に『意志』を与え、しかしそれを人に委された。意志の動きはその人のものであって、いかなる教義の力もそれを『善』に導こうとするものではあっても、意志そのものを司ることはできない。人の作る国家の意思も同様である。教会はひたすら平和を祈りこれをすすめる。しかし国家の意志そのものの働きを司ることはできないし、また国家間の正義の判決者ではあり得ない。それは神ご自身の摂理によって示されるものであり、歴史がそれを解明するであろう。人はただ国家の意志に忠順であれば以って足りる」としている。(佐藤隆著 花の孤島 一四三頁)
永久平和を確保するためには、各国の軍備を全廃し、キリスト教の生活に全人類を導くことである。(H.A. Leete; Demand Peace, p.12)
興味深いことに、高橋さんもpcha00さんもいずれも「“リンクの自由を否定する主張”への批判」に批判的(主張C)な方なのです。 リンクの自由を否定する人をバカ扱いしながら、同時に「“リンクの自由を否定する主張”への批判」を批判(主張C)する…… 大変興味深い状況であると感じます。
真に児童を守るためなんて御定りの言ひ方をして話が通用すると簡單に思つてしまふし、實際にそれで大袈裟に考へ出す人が出て來たりしてしまふ。「馬鹿馬鹿しい」の一言で今囘の騷動は話を濟ませてしまつていい。何うせ規制が始まれば、言逃れする爲の工夫を皆面白がつて始めるだけだし、さうした工夫を面白がり始めるだけだ。深刻な事態には絶對に繋がらない。馬鹿馬鹿しい事態が生ずるだけだ。サヨク連中が「狼が來るぞ」の類の事を何囘言つただらうか。この手の脅しに未だに騙される人がゐる一方で、言ひ續ける人もゐるのだから、日本と云ふ國も進歩しないなあと思ふ。
『文化とは何か』(T.S. エリオット、弘文堂書店)
- http://ameblo.jp/carolineself/entry-10296228632.html
水伝で口説こうっていう男がいるのか…消すみたいだし、はてなブックマークはやめとこう。
ちゅーか、口説く以前に、水伝をいい話だと感じてる人だってだけで気持ち悪いってば。
萬年七曜早見とか
「昭和十七年略暦とか刷られた裏打ちの紙が見えてしまつてゐる。紙不足だつた時代には、何うでも良い本・古本をばらして新本の下地に使ふ事がよくあつた。「素人下宿」の項に英國のHampstead邊(
ロンドンの山の手といつてよい一區域)の家の作りを説明した文章があるが、「エマ」の家の間取りがそつくりそのまゝなので吹いた。
XHTML 2 Working Group Expected to Stop Work End of 2009, W3C to Increase Resources on HTML 5
動画で答弁が残ってるのに良くこんなことを書けるもんだ*1。恥ずかしくないのかね。百歩譲ってそういう意図がなかったとしても、誤解を招くような発言は避けるべきだったろうに。ホント政治家ってしょうもないのしかいないのな。
しょうもないのしかいないのなら我々國民がそもそも
しょうもないのしかいないのだ。ならば、
しょうもないのが
しょうもないのを嗤ふのは猿の尻笑ひの類であり、自分の缺點も顧みず他人の缺點を嗤ふ事であつて、餘り頭の良くない事だと云ふ事になる。