制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
野嵜健秀とは誰か
特記事項:野嵜に粘着するネットストーカーについて
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。

闇黒日記


平成二十一年四月三十日
Operaのメーラは使はない方がいいと思つた。
メールサーヴァを切替へるとかで、古い設定と新しい設定を用意して兩方で受信して呉れとか訣のわからない指示が來た。それで取敢ず何も考へないで指示通りに設定して、で、完全に切替つたと言ふので、安心して古い設定を削除した――メールアカウントを削除した、積りだつた。が、なんと、驚いた事に、Operaでは、メールアカウントの設定を削除すると、そのメールアカウントで送受信したメールが全部、ごつそり、削除されるのだつた。
その日までの仕事のメールが全部削除されて、仰天した。
なんてをかしな仕樣だらう。Operaの開發者は、本當に、頭がをかしいのではないかと思つた。だつて、メールアカウントの設定を削除したんだよ。なんでメールがごつそり消えなければならないんだらう。メールのデータは全部とつておくのが當り前だらう。ところがOperaの開發者は、アカウントとともにデータを消すのは大變良い事だと心から信じてゐるのだ。頭がをかしい。こんな異常な仕樣のメーラは、潰さなければならないと思つた。が、實際、こんな使ひ辛いメーラ、誰も使つてゐやしないだらう。俺だつて、Macで使ひ物になるメーラが一つも存在しないから、Operaのメーラなんて糞みたいな代物を、仕方なく使つてゐるに過ぎない。
が、良く見てみると、mailフォルダの中のstoreフォルダの中に、アカウント別にメールのデータはそつくりそのまゝ殘つてゐる。そこでそれを急いでコピーして、それでメールをインポートしようと試みた。所がそれが出來ない。自分自身が作つたデータなのに、Operaは讀みに行かうとすらしないのだ。あきれた事に、Opera 9は、Opera 7/8/9のデータ形式でインポートしようとすると、そもそもデータを讀みにすら行かない。あきれた仕樣だ。あとで、一般的なメールボックスの形式、とか云ふのを指定してトライしてみたら、全部讀みに行つた。取敢ずそれで全データが復舊できたみたいだが、暫くの間、何が何だか解らなくて、フォルダの中身を消したり、いろいろ試行錯誤して、訣のわからない状態になつてゐた。
と言ふか、mailフォルダの中のstoreフォルダの中にごつそり殘つてゐると云ふのに、Operaのメーラは「メールなんて無い」と執拗に言張つてゐたのだ。何が何だかさつぱり解らない。なんとか.datとか云ふキャッシュのファイルを消して見たら、それまで見えてゐたデータも見えなくなるし。何で「あるのにない」事になるんだらう。
平成二十一年四月三十日
途中で頭に來てThunderbirdを入れてみたが、Operaのメールデータをインポートしようと試みて、當然のやうに出來なかつたから、即消した。
しかし、そもそも、なんでメールデータに互換性がないんだらう。同じメーラのメールボックスなのだから、互ひに讀めればいいだらうに。なぜわざわざアプリケーションごとに異るデータ形式にしなければならないのだらうか。
プログラマの何の意味もない自己主張が、ユーザに負擔をかけてゐるとしか思へない。自己主張は何時でも惡だ。
そもそも、「メールボックス」のデータなんてものがある事自體、異常だ。何で變な風にデータを固めなければならないのだらう。
電信八号は、一つ一つのメールを個別のテキストファイルに保存する。それが一番いい。テキストファイルだから、メーラなしで自由に見られるし、自由に弄れる。
ところが、多くのメーラが、複數のメールをバイナリで一つに固めて、そのメールでしか讀めないやうにしてしまふ。プログラマは、何を考へてゐるのだらう。其處までして圍ひ込みをやりたいのだらうか。
一方、電信八号ですら、保存するテキストデータの中身は、へんな約束で決めてゐる。テキストだから比較的操作し易い訣だが、他のメーラに持込む爲にヘッダを書換へる作業が發生する事は必然である。けれども、そんな事を喜んでするユーザは、まあ、あまりゐない。だから、XMLにでもしておけば、兔に角互換性は確保される筈だが、なぜか全てのメーラの開發者が、自分のメーラの使用するデータは、意地でも互換性のないデータにしておきたい、と思つてゐるらしい。
平成二十一年四月三十日
「プログラマの自己主張が強い」=「データの互換性が無い」。
私は以前から、自己主張する人間は、他人の意見を聞入れない人間だと言ひ續けて來た。だから私は、自己主張しないで、外部の「正しさ」を尊重する立場をとつてゐる訣だ。ところが、世間の人は、意地でも自分の好みだの嫌惡感だのを押出し、自己主張してゐないと、ゐられないらしい。が、誰が何う見ても、自己主張する人間は、コミュニケートできない人間だ。
プログラマが自己主張すると、自分の好きなデータ形式を採用して、威張り出す。さうすると、データの互換性は無くなる。が、それを、プログラマは「とてもいいことだ」と主張する。ユーザにしてみれば良くない事に決つてゐるのだが、傲慢なプログラマは自分が傲慢である事に氣附きもしない。
自分を滅却して、外部の一般的な「正しさ」に合せる態度は、人間同士のコミュニケーションの爲に必要な事だ。プログラマが、自己主張を放棄して、外部の標準なるものに合せる態度は、アプリケーションデータの互換性を維持し、データの可搬性を確保する爲に、必要な事だ。
平成二十一年四月三十日
メーラは異常なアプリケーションだ。それは何でもかんでも機能を盛込んだ「てんこもり」のアプリケーションとなつてしまつてゐる。
メールを送受信する機能は、それ單體で存在し得るし、實際、存在する。が、データを送受信するだけが一般的なメーラであると云ふ訣ではない。
殆どのメーラは、送受信したメールのデータを管理する。場合に據つては、メーラ内藏のエディタで、ユーザにメールを作成・編緝させる。スペルチェックだの何だのの機能を搭載してゐる事もある。殆ど、メールの送受信機能は「おまけ」扱ひで、ほぼ全てのメーラが、メール管理の機能を賣りにしてゐる。
のみならず、なぜかニュースリーダやRSSリーダの機能を持つて見たり、住所録の機能を搭載してみたり、非道いものではカレンダーだかスケジューラだかの機能まで持つてゐたりする。プログラマが、取敢ず載つけられさうな機能を全部載せてみた、と云つた印象すらある。NetNewsに「はじめてメールしています」と馬鹿な投稿をしてみるのは、昔の素人の「通過儀禮」であり、嘲笑の對象だつたが、さう云つた誤つたユーザの行動を誘發しようとプログラマはしてゐるのでないかとすら思はれた。
少くとも、メーラはメールを管理するデータベース的な機能を「持たなければならない」と云ふ「常識」が「ある」やうに思はれる。だからこそ、送受信したデータを、變な「メールボックス」とか云ふデータベースのファイル(?)に固めて、プログラマは「俺、すごいことをやっているんだぜ」とか平氣で言つてゐるのだ。私が電信八号を(私用時に)愛用するのは、プログラマがさうした傲岸不遜な態度をとつてゐないからだ。電信八号で、プログラマは、データをテキストで保存するやうにして呉れてゐる。他のメーラに比べれば、何とも立派な態度だと言ふしかない。もつとも、電信八号は、さうした個別のテキストファイルを「管理」し、アプリケーション内部に表示する都合上、キャッシュを構築して呉れる。毎度毎度、テキストを全部浚つて表示して呉れる訣ではない。その爲、時としてキャッシュがぶつ壞れて、データはあるのにアプリケーション上で表示されない、なんて馬鹿な事態が生じる。一往、キャッシュを作り直せば戻る筈なのだが、前、一度だが、戻らなかつた事がある。古い古い電極Z号なんかと組合せてゐると、ヴァージョンによつて擧動がをかしくなる事があつたらしい(現在は大體安定してゐる)。
が、電信八号は、どうしやうもない状況になつても、データがテキストだから、最惡、他のアプリケーションで讀める。他のメーラだと、メールボックスが壞れると、データが全部あの世逝きになつてしまふ。メールボックスが絶對に壞れない、と云ふ保證のあるメーラなんてものを、私は見た事がない。しかし、それなら、プログラマは、まるで自信があるかのやうに裝つて、閉鎖的なデータ形式を撰擇するのは、やめるべきでないか。
平成二十一年四月三十日
Operaのメーラなんかは、典型的なのだが、所謂メーラなるアプリケーションのインタフェイスは、どれもこれも最低と言つていい、非道い出來だ。私の知る限り、メーラのインタフェイスは全て一つの例外もなく糞である。プログラマは、ユーザが、奇怪千萬なインタフェイスを前にして、途方に暮れるのを、喜んで眺めてゐるのでないかとすら思はれる。
殊にOperaのメール機能は非道い。何で茲まで奇怪なものに仕上げられるのか、或は、何うして此處まで訣のわからない仕樣にしておいて、ユーザから文句を言はれないのか、不思議で不思議でしやうがない。普通にウェブサイトをブラウジングしてゐるウィンドウの、ここかしこにメール關係のメニューが散在し、常に存在してゐるのだ。何うしてメールならメール關係でメニューを集められないのかとすら思ふが、プログラマは得てしてユーザは隠された機能を探し出すのを樂しみと思ふものだと勘違ひしてゐるものだ。ユーザは一刻も早く、目的の機能に辿り着きたいのだが、プログラマはユーザを焦らしてメニューの「森」の中で踏み迷ふ事を期待する。
が、Operaのメール機能は、本當に非道い。そもそも、ウェブブラウザのウィンドウの中に、メールのウィンドウが開く、と云ふのが訣がわからないが、メールのアカウントはツールメニューの中にあり、メールデータのインポートやエクスポートはファイルメニューの中にあるのだ。なんでメール關係の指示を出す爲に、ウェブブラウザのブラウジングをしてゐるウィンドウのメニューの中をあちこち往つたり來たりして探さなければならないのか。メールならメールで機能を纏めればいいのに。
――しかし、プログラマは、インポートやエクスポートはファイルの入出力だからファイルメニューにあるべきで、メールアカウントの設定は設定だから設定メニューの中にあるべきなのだ、と本氣で信じてゐるのだ。そして、ユーザが何んなに困つてゐても、プログラマは言ひ訣する爲の「論理」を持つてゐるから、氣にしないし、いつまでも威張つてゐられる。しかし、その手の「論理」は、現實に困つた事が起きてゐるのなら、何の意味もない。ところがそれが「論理」主義者には解らない。そしてプログラマは、論理を扱ふ職業の人だから、屡々この手の誤つた「論理」主義に陷る。
平成二十一年四月三十日
Operaの場合、ブラウザにメーラを内藏してゐるところから來る異常な解り辛さも「ある」。けれども、メーラはどれも、本質的に判り辛いのだ。Outlookなんかでも、送受信するボタンと設定ダイアログを呼出すボタンなんかが畫面上に入亂れて存在してゐるし、それらと同機能のプルダウンメニューは、これまたあちこちに出たら目に埋つてゐる。電信八号でも、「ファイル」ならぬ「フォルダ」メニューが存在し(紛らはしい事この上ない)、その隣に「メール」メニューがある。そして、全てのアプリケーションに平然と存在するが、常にどう云ふ結果が生ずるのかさつぱり解らない「表示」メニュー。電八では「表示」とともに「ウィンドウ」なるメニューもある。何でこんなに訣がわからないのだらう。プログラマは一般に整理が苦手と云ふ話だ。
平成二十一年四月三十日
もちろん、斯うしたメニュー項目やボタンのをかしさ、インタフェイスの拙さは、メーラに限らない、一般のアプリケーションに共通して言へる事ではある。が、殊にメーラでは混亂が非道過ぎると思ふのだ。と言ふより、ネットワーク關聯のアプリケーションでは、最う何うしやうもないくらゐインタフェイスが惡い、と云ふのが殆ど當り前のやうになつてゐる。ウェブブラウザもまた非道いのだ。
これは、基本機能だけで「競爭」できない、と信じたプログラマが、ひたすら機能をてんこ盛りにして行つた結果だが――現状を見る限り、「競爭」はユーザにとつて殆ど害にしかなつてゐない。
平成二十一年四月三十日
家電製品でも自動車でも、要らない機能を附けないと賣れない、と云ふ状況があるらしい。少くとも、機能を絞つた製品なんてものは、TVでも車でも、「まともなメーカ」の製品には滅多に見ない。「おとしよりむけ」のケータイがあるくらゐだ。
結局、早い段階で機能が「必要にして十分」の域に達してしまふと、製品の本質的な進化は停止し、あとは要らない機能だけがどんどんどんどん増えて行く――無駄が増えて行く、と云ふ事なのだらう。
ソフトウェアでは、さうした進化の段階が袋小路に到達するのが極めて早かつた、と云ふだけの事に過ぎない。
平成二十一年四月三十日
が、一方で、メーラなんかだと、データベースとしての機能を持つたのは、結局のところ、メールと云ふ膨大なものになり勝ちなデータを管理するのに、從來のPCが機能不足であつた事が原因であつたりする。個別のテキストファイルでデータを持つのは良いが、「それでは検索や表示をするのに時間がかかるだろう」と、プログラマは氣を囘す事になつたのだ。
今のPCは以前のものと比べて相當速くなつた筈で、ならばソフトウェアで變な工夫をする必要はなくなつてきてゐるのでないか。
從來、必要とされて追究されて來た「高速化の爲の工夫」は、今のソフトウェアでは案外要らなくなつて來てゐる。ハードウェアが十分速くなつたからだ。さうなると、データベースとしての工夫なんてものは最早メーラには必要ない。もつとシンプルなデータ構造にして、データを使ひ易くする事こそが、今のメーラでは要求されてゐるのでないか。
――長々と文句を言つたけれども、プログラマ諸氏は、もつと簡單なプログラムの作り方をして呉れて良いのでないか、と云ふ提案。
平成二十一年四月三十日
しかし、WindowsXPのエクスプローラなんかは、依然として異常に「遲い」。
例へば、〆て23GB也のHTMLやらGIFやらJPEGやらといつたちまちまとしたファイルの群を大量のサブディレクトリにばらばらにぶちこんである――さう云ふディレクトリを消さうとすると、處理が終るまでに「15分かかる」なんて事がある。何なのだらう。
データの量は等比級數的に増えてゐる。けれども、ストレージの速度は等加級數的にしか増えない。
HDDなんかは最う遲過ぎると思ふのだが、その遲いストレージをさらに遲くしてゐるのがセキュアなファイルシステムであり多機能のファイルブラウザだ。
HDDなんかですら最う遲くて遲くてどうしやうもない、と云ふ地點に到達してゐると思ふのだが、次世代のストレージデヴァイスの開發は進んでゐるのだらうか。SSDなんかが出て來たけれども、高いし、壽命が短過ぎる。まだまだ「實用」にはならないだらう――地デジのストリームデータを保存し、編緝するなんて用途で、SSDのやうなストレージは現状「使へる」だらうか。三年後でも、あんまりさう云ふ目的では使はれない事だらうと思ふ。が、さうした巨大データを簡單に扱へるやうなストレージが、これからは必要な筈だ。と言ふより、今でも必要だ。
少くとも、壽命の長いメディアなり何なりは必要だ。デジタルデータは、劣化しないから何時までも殘るものと思はれて來たが、實際にはメディアの保存性が惡く、案外壽命が短いと言はれてゐる。
平成二十一年四月三十日
……要は、技術は發達したが、發達の仕方があつちとこつちとでちぐはぐで、整合性がなく、結果として不便さは殘つてゐる、と云ふ事。
平成二十一年四月三十日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0904.html#29p14

イスラーム全史を読み飛ばし終えた。 おおむね流れは理解した。 そして、今までヨーロッパ側の見方で物を見すぎていたことがわかった。

日本人の惡い癖。非ヨーロッパ文明圏の事を學ぶと、即座にアンチヨーロッパ文明の人になつてしまふ。
アンチになつても何のいい事もないんだよ。「アンチヨーロッパ文明」の人になつて、それでなぜ世界中が西歐化しつゝあるのかを理解できるのか。
結局のところ、世界のどの文明もヨーロッパ文明の支配下に入りつゝあると言ふのに――と言ふと、「野嵜はヨーロッパ信者」のやうな非難の聲が即座に飛んで來る事になる訣だが、別にヨーロッパの文化やら文明やらを信じてゐる訣では決してない(「信者」と非難するのはアンチにとつてそれが都合の良い事だからだ)。しかし、歴史的に世界中がどんどんヨーロッパ化してゐる事は事實として認めなければならない。何でヨーロッパの論理(論理と云ふものそれ自體がヨーロッパ的である)に基いた國聯の下に世界各國は集つてゐるのか。そこで議論してゐるのか(議論と云ふものそれ自體もヨーロッパ的である)。戰爭をやるのでも環境問題を論ずるのでも、全部西歐の科學なるものを我々は利用してゐる。そこで、しかし「ヨーロッパ以外の價値觀もある」なんて言つたところで――では日本人はヨーロッパを拒否できるのか。ヨーロッパを馬鹿にしても、何の意味もない。結局、現實的に、我々はヨーロッパの方へと「流されてゐる」。イスラム圈でも何處でも、我々は一緒になつて「流されてゐる」のであつて、ならばさう云ふ「流されてゐる」同士でなれあつてゐても仕方がない。敵がヨーロッパなら、敵を知る必要があるだけだ。憎むとか嫌ふとか感情的に言つても、話にならない。俺みたいな個人を相手にしてゐるのなら、論者は嫌惡感だの何だのと暢氣な事を言つてゐられるが、文明のレヴェルで話をする時、そんな事を言つてみても何うしやうもない。コミュニケート能力なんてものをまるで氣にせず、文明は個人の價値觀を蹂躙し、顛倒させ、個人を屈服させる。さうした外部の正義・外部の正しさ、或は外部の強力な運命の存在を、我々は、感情的にならずに冷靜に受止め、認めなければならない。が、我々は、武器としての論理・武器としての言葉を意識して用ゐる時、横暴な外部のXに立向かふ事が初めて可能になる。暴力的な運命が現實として力を持つやうに、論理もまた現實として力を持つ。
平成二十一年四月三十日
やじうまWatch 2009-04-28

筆者は、長野県の諏訪湖のほとりの旅館に泊まったところ無線LANが使えたので、iPod touchにインストールしておいた「orb」経由でテレビ埼玉を視聴する感動体験をした。

個人個人が銘々に「自分だけが利用する」と云ふ限定的な形態でネットワーク越しに地上波のTVを觀るなんて事が可能である訣だが、これが一般化したら同じやうなデータが大量かつばらばらにネットワークを行つたり來たりする事になる。ネットワークの非效率的な利用の仕方である訣だが、しかし效率的な利用の仕方をしようとは誰も言はない。技術的に明かに無駄でも、理念的に何か理由があるならばそれを優先した方が人間は氣分良くゐられるからだ。

平成二十一年四月二十九日
Operaが15周年。あなたのOpera歴は? - TERRAZINE
俺は4や5の頃から知つてゐるが、6が出て日本語が通つた時の「感動」をその後のOperaで味はつた事が無い。
平成二十一年四月二十九日
リンク集:豚インフルエンザ関連情報リンク集
平成二十一年四月二十九日
「基準はコミュニケート」と言ふ時、「誰とのコミュニケート?」と云ふ問題がある。その答が「私とのコミュニケート」なら、それは「基準は私」と云ふ事。コミュニケートは最う問題ではない。
平成二十一年四月二十九日
演戯する事を重視する人と輕視する人とでは、「相手と同じ事をして見せる」と云ふ同じ事も全く異つた意味を持つ。
何でもかんでも「同じこと」「同じこと」で押通す硬直した發想には反對だ。状況なり文脈なりをちやんと見ようよ。さう云ふ事まで「事實である」として「見る」事をニーチェでもキルケゴールでも、實存主義の人々は重視したんだし、さう云ふ相對的な態度をとる必要を主張したんだ。「相對主義」なんて主張は結局のところ「自己中心主義」に陷るだけだ。
平成二十一年四月二十九日
今、Operaは10.00 alphaを使つてゐるよ。
平成二十一年四月二十九日
江洲さんはそろそろ御酒を控へるべき年齢ではないだらうか。御體お大事に。
平成二十一年四月二十九日
最近考へたのは「小説は可能か」と云ふネタで――現在の小説は、文學としてあり得るのか、と云ふ話だが。
既に日本では、小説は最早エンタテインメントとしてしかあり得ない状況になつてゐる。勿論、一部に純文學は「ある」けれども、主流ではない(推理小説こそが書店の販賣では「主流」でないか)。漱石や太宰邊は今でも讀まれてゐるけれども、それらは「古典」だ。讀者のゐない現代小説は、既に短歌や俳句と同樣、「第二藝術」と化してゐる。云々。
案外、昨今大量に市場に投入されるライトノヴェルの中に、昔ながらの、或は現代的な、意識的・思想的内容を持つた小説が大量に出現してゐる。バカ小説も多いけれどね。

平成二十一年四月二十八日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0904.html#27p1
「次の買い物はバスターマシンかデジカメ。」に見えた。
平成二十一年四月二十八日
筆記体がいつの間にかレアな存在になっていた | エキサイトニュース
昔、筆記體でレポートを書いて提出したら、返して寄越す時にオーストラリア人講師が「のやきさん、のきさーん」と名前を呼んで呉れた事があつた。奴らも讀めないんだなと思つて次からはブロック體で書くやうにしたけれども。
平成二十一年四月二十八日
まじかんと雑記: 英語のレポート
まあ日本語でも手書きの原稿は讀み辛いし。ねえ。
平成二十一年四月二十八日
假名遣ひについてよくある誤解 - 思ひ出したこと、忘れさうなこと

平成二十一年四月二十七日
鈴木孝夫『ことばの人間学』(新潮文庫)

第一に気がつくことは、私たちの身のまわりには実効を直接期待しない、単なる希望的理念の表明に終わってしまっている細かな規則が余りにも多いという事実である。決めた以上は守らせる、そして守らせるための強制力(技術的可能性、取締りに充分な警察力を当てることができるか等等)の裏付けはあるのかといった点が、規範をことば化する時点で顧慮されることが少ないのである。

鈴木氏が言つてゐる私たちとは我々日本人の事。日本人は、規則を作ることは作るが、それを本氣で守らせる氣がない事が屡々ある。それは、規則を形骸化させる事であり、延いては言葉そのものを形骸化させる事になる――と言ふより、日本では既にさうなつてしまつてゐる。それは問題であると鈴木氏は主張してゐる。贊成である。

このようにことばを使う方が、言ったことを本当に守らせるだけの見通しも裏付けもなく使うことの結果として、言語とその背後にある意志の間に大きなズレが生じ、ことばに対する信頼が失われ、ことばが無力化するのである。

鈴木氏の言つてゐる事は筋が通つてゐると思ふが――そもそもその「筋が通つてゐる」事を價値として認めるか認めないかは、言葉そのものの存在意義を認めるか認めないかと同義である。言葉を正しく使ふとは、論理を正しく使ふと云ふ事だ。

たとえば、自衛隊というのは、絶対軍隊です。私は、何も自衛隊反対ではありません。しかし、自衛力うんぬんという憲法の条項を曲解するということは言語を踏みにじることであるので、私はむしろ憲法を改正して、軍隊を持つというようにするか、書いてあるから持てないとするか、そのどちらかでなければまずいのではないかと思います。

憲法を変えないで、解釈でうまくやっていこうとすると、解釈運営というのは無限の個人差があるから、何をいってもごちゃごちゃ無駄になります。……。

日本人が言葉を使ふ時、言葉で言つてゐる事と、そこで期待してゐる事とが、屡々一致しない。勿論、さう云ふ事は何處の國でもある事だけれども、日本ではそれが非道過ぎる。結果として、日本人は言葉と云ふものを全く信用してゐない。それでは言葉の存在意義がない。或は言葉の立つ瀬がない。それでは困ると鈴木氏は何度も何度も繰返し言つてゐる。全く同感だ。

……。日本人の言語活動というのは、ほんとうに無駄な面が多い。主観的なひとりよがりの面が多すぎるのです。

平成二十一年四月二十七日
飯島宗享編『世界の思想家15 キルケゴール』(平凡社)まえがき

キルケゴールは、『講話』と称するもの以外は著作のすべてを、数多くの偽名を含蓄深く使い分けながら発表している。偽名の著者や刊行者は、それぞれキルケゴールの分身とは言われえても、ただちにキルケゴールその人と解されるわけにはいかない。それぞれがキルケゴールによって一定の立場と役割を負わされて、それらのいわば相乗効果のなかで、キルケゴールの思想は生きた意味を発揮するといったぐあいなのである。主要著作からの抜粋を然るべく構成して思想の眼目を紹介しようとするのに、これほど扱いにくい思想家もいないだろう。どの言葉も、それ自体いかにも彼らしい指摘と見えようとも、それだけ独立しては本当は彼のものではないからである。同一の言葉が、誰によって、誰に向けて、どういう状況のもとで言われるかによって、真実でもあれば虚偽でもありうることを、彼ほどにわきまえて、自らの思想表現に注意深かった思想家も、多くはないだろう。彼の思想の核心がほかならぬ実存であることが、相互主体的な交わりにおける間接伝達の、彼のいわゆる「芸」を必要とさせるのである。

キルケゴールを讀む時に我々が注意しなければならないのは、その著作に書かれてゐる「眞實」が、全て「或文脈においては眞實である」と云ふ性質を帶びてゐる事だ。キルケゴールの或著作における或言葉が、キルケゴールの他の著作における或言葉と、一見矛盾して見える事がある。けれども、それは決して矛盾でないのである。
文脈に應じて、同じ事象も異つた意味を持つ――或は、異つて解釋される。
しかし、キルケゴールの場合、話は寧ろ簡單なのだ。なぜなら、キルケゴールは、注意深く、文脈の違ひを示唆する「架空の著者」を用意して呉れてゐるからだ。我々は「異る著者」が書いた「異る著作」であると、意識して讀む事が出來る。
厄介なのは、「同一の著者」が書いた文書に於ても、矢張り文脈が存在する、と云ふ事だ。例へば、「福田恆存」と云ふ一人の著者が文章を書いてゐる。その時、我々は、文脈を無視して――文脈があると云ふ認識を缺いたまゝ――或著作における或言葉と、他の著作における他の言葉とを、表面的な字面で判斷し、比較してしまふ事がある。そして「矛盾だ」と安易に判斷して、非難を始めてしまふ。これは誤つた態度だが、認識の缺如が原因の誤を我々は認識する事が出來ない。だから文章を「讀む」には訓練が必要なのであるが、「誰でも文章なんて讀める」とたかを括つてゐる人が餘りにも多い。
だからこそ、私は此處を見てゐる方々に、キルケゴールを讀む事をおすすめする。特にアンチ諸氏。

実存はもっとも危険な生き方であらざるをえない。人間の自由の冒険だからである。パスカルでもサルトルでも、この一番大事なところでの決断について、さらりと「それは賭けなのだ」といって憚らない。同じことでも、ドイツ人では、そういう言い方は決してあらわれない。ひどく厳粛に、何とか工夫して論理的表現を見いだそうと腐心する。掛けに近い言い方は、せいぜい「遊び」で、ニーチェやハイデガーなどが口にする。しかし、遊びも哲学者の口から言われると、遊びの軽やかさが消えうせて、軽い軽いといえばいうほど、いよいよ重い感じのものになる。ユーモアが大切だと強調すればするほどユーモアから遠ざかるのと同じである。キルケゴールは、まじめ人間の典型のように思われているが、「まじめにふざける」ことを考慮に入れたり、ユーモアを地でいったり、時には賭けとか前兆とかをかりそめならぬものとして意識する。

キルケゴールに限らない。ニーチェでもサルトルでも、實存主義に屬する人々は、或は「反近代の思想」に屬する人々は、特に意識的に、相對的な思考――場面場面に應じた適切な判斷――を行つてゐる。彼らは「相對主義」のやうな絶對的な價値判斷を信奉するものではなく、寧ろさうした固定的な價値への懐疑の提出を意圖して思考を試みた。その試みそれ自體に私は價値を見出す。
彼らの特徴は、思考が極めて柔軟である事だ。兔に角、何かを言つて見てゐる――それは口から出任せのやうにも見えるし、時として矛盾してゐるやうにも見える。が、それらの背後に我々は或種の態度を看て取る事が要求されてゐる。安易に讀めば「單なる無責任な言葉」でしかないやうに思はれるかも知れない。が、私は、さう云ふ讀取り方をしてしまふのは誤だ、と思ふ。と言ふより――表面的な物の見方に基づいて、他人の文章を「矛盾」であり「無責任」であると極附ける、それよつて我々は自分自身の「他人の文章を正しく讀取る」責任を囘避してしまつてゐる事がある。
しかし、書き手に責任があるのなら、讀み手にも責任はあるのだ。讀み手が一方的に責任を放棄して、書き手の文章を恣意的に解釋しようとするならば、寧ろ讀手こそが責任を問はれねばなるまい。
だからこそ、讀手もまた讀む訓練をしなければならない。キルケゴールを讀む事は、さうした基礎的な「文章を讀む訓練」として、良い方法だ。
平成二十一年四月二十七日
http://d.hatena.ne.jp/twoineko/20090425/p6
http://d.hatena.ne.jp/ziom/20090427/p1
訂正したよ。何うも有難う。

やっぱり「かなづかい入門」といふ書籍が出てから、執拗に理論武装して正仮名遣ひを否定する輩が増えてきたのは確かだ。一方、正仮名遣ひのサイトも確実に増えてきてゐる。

これ――昔、Yahoo!掲示板で野次られた時に俺もさう云ふ事を言返した事があるけれども、正かなの人が「増えてゐる」事を言つても始まらないんだよ。と言ふより、正直、一桁が二桁に、二桁が三桁に増えた、と云つた程度では、全く意味がないんだ。萬單位でも大して意味がない。「敵」は一億人だからだ。
實際、俺は何んなに努力しても、正かな復興の運動は無理だ・ダメだと思つてゐる。數萬人まで「改宗」させられても――否、それも無理だから。千人行く事は絶對に無い。數百人が精々。
それでも「やる」けれども、無理なものは無理と言はなければならない。そして・しかし、俺が「無理」だと「解つてゐる」と言ふのも、「彼ら」には氣に入らない事なのだ。
田母神さんが、北朝鮮がやると言ふのなら日本も核武裝するしかないと威勢の良い事を言つてゐるさうだけれども、或は兵藤二十八さんが・清水幾太郎が核武裝すべき事を唱へてゐるけれども――それだつて無理。今の日本では絶對無理だもの。田母神さんその他の人々が、無理だと解つて言つてゐるのなら――しかし、無理なら無理と事實を指摘するのも、批評家にとつては義務だ。解つてゐて默つてゐるのなら、私は「いい」とは思はない。「よくない」と思ふ。
正かなだつて「無理」だよ。無理でも言はなければならないから言つてゐるけれども、今の日本の状勢では、正かなが復興する事は先づあり得ない。さう云ふ事實を指摘する事は――事實なのだからそれを指摘する事は義務である。「理想の爲に事實を歪曲して言ふ」と云ふのも、我々には絶對に許されない。
平成二十一年四月二十七日
しかし一方で、「無理なものを理想と言つて主張し続けるのは理解できない」と非難する「保守派」の立場を、我々は非難しなければならない。「實現できる事を主張して、それを理想であるかのやうに歪曲して宣傳する」事を、我々は許せない筈だからだ。そして、理想が無いならば、それは思想ではない。「保守派」=「彼ら」は、理想なき「現實主義」=思想なき「現實主義」の主張を繰返してゐる。我々はその醜惡を執拗に指摘し續けなければならない。
平成二十一年四月二十七日
追記。J-CASTニュース : 「日本も核武装をすべきだ」 ネットでは自民・坂本発言を「評価」。ふーん。

平成二十一年四月二十六日
平成七年に文化庁が出した『言葉に関する問答集 総集編』は、昭和四十八年以來續いて來た二十册の「ことば」シリーズを纏めたもので、興味深い事實が滿載だ。正かな關係者は買つて來て隅から隅まで舐め囘すやうに讀むと、とても面白く讀めよう。突込みどころが滿載であると同時に、恐ろしい事實がさらりと書かれてゐて非常に參考になる。
見開き。「戦後国語施策の流れ」が纏められてゐる。「現代かなづかい」は歴史的仮名遣いを現代語音による表記に改めるものであつたが、それが「現代仮名遣」となつたのは音韻に基く表記が定着したため基準を改定したのに過ぎない。
「凡例」には斯う書かれてゐる。

過去二十年にわたって発行された原本の発行期間中に、次のような国語施策の改定が行われた。

  • 「常用漢字表(昭和56年・内閣告示)」
  • 「現代仮名遣い(昭和61年・内閣告示)」
  • 「外来語の表記(平成3年・内閣告示)」

右の改定以前に発行されたものは、当然ながら旧施策をよりどころとして解説されている。しかし、その解説中に現れる「当用漢字表」と「東洋漢字字体表」は「常用漢字表」に、また「現代かなづかい」は「現代仮名遣い」にと、それぞれ現行の施策に読み替えていただければ、内容的には、現在でもそのまま適用できるものである。

四章は「よい文章を書くために」であるが、その第一編「文章の整え方」の最初の項目が「いい文章とは――正しくて分かりやすい文章」である。それはまあ良い。
問題は「よい文章を書くために」の第二編「用語の選び方」だ。茲は目茶苦茶もいいところの内容なのだが、疑ふ積りもなく受身の姿勢で讀んでゐると「成る程!」と言つてしまふだらう内容になつてゐる。けれども、國語改革を實施した當事者がそんな事を言ふのかとつつこみたくなるやうな非道い主張が大量に含まれてゐるので、眉に唾を附けながら讀む必要がある。
「いい文章を書くための用語の選び方」であるのだが、「正確な用語」が必要だと主張する。讀者はこの時點で變だと思はなければならない。文化庁は、なんと、「漢字表記を正しく」使へと指示し、斯う指摘するのである。

現在、新聞・雑誌をはじめ一般の印刷物に、以下に掲げるような漢字の誤記・誤用が目立つ。

  1. 同音または同訓の別の漢字を誤って使ったもの。(事例省略)
  2. 同音異義語の使い誤り(略)
  3. 同訓異字の使い誤り(略)

漢字の誤記には、いろいろな要因が考えられるが、右の例に見るように、同音または同訓の漢字による誤りがその大半を占めるといってよい。本来、漢字というものは、表意文字と呼ばれているように、一字一字が決まった意味を持っている。ところが近年はその意味を無視して、ただ同じ音(または同じ訓)でありさえすればよかろうというわけで、平気で別の漢字を使うという現象――当て字、つまり表意文字としての漢字を単に表音文字として使う現象――が、現代の社会に広がっている。こういう現象に歯止めを掛けるためには、一人一人が文章を書くに当たって、用字に関心を持ち、少しでも怪しいと思ったら、国語辞典で確かめてみるといった習慣をつける必要があるだろう。

一見、大變尤もらしい事を言つてゐるやうだが、これを國語改革を實施した當事者が言ふのは非常にをかしい。なぜなら、國語改革で、彼らは漢字を同音または同訓の別の漢字を使つて書換へる事を命令してゐたからだ。
同じ「よい文章を書くために」の第三編は「適切な表記の仕方」だ。ここではまづ「適切な表記とは」とあつて、国語を書き表す場合、普通に用いられるのが漢字仮名交じり文であると指摘し、このような形で書き表すと、語の区切りが明らかであって、その点での読みにくさが感じられないと事實を述べるけれども、すぐにしかしとあつて、漢字の字種が多くなるだけでなく、その用い方も複雑になり、覚えにくく使いにくいものになっていく。と主張し始める。

そこで、余り使わない漢字を用いない、特別の読み方をしない、などの方針が国語施策として取り上げられるに至った。その方向でまとめられたのが、漢字使用の目安としての「常用漢字表」(昭和56年・内閣告示)である。その他、「現代かなづかい」(昭和21年・内閣告示)、「送り仮名の付け方」(昭和48年・内閣告示)などもあり、これらが一般社会で漢字仮名交じり文を用いる際の指針となっている。

したがって、文章を書き表す場合に何らかの一般的なよりどころを求めようとするときには、このようにして定められた指針に従うのが好ましいわけである。……。

好ましいは、「指針」「よりどころ」を定めるとする現代の漢字施策において重要なキーワードで、どの文書にも頻出する。「使わなければならない」と命ずるのではなく、使ふのが「好ましい」と言ふのである。國語改革の當事者は、或種の書き方に對して、主觀的に、好感を持つてゐる、と言つてゐるに過ぎない、と云ふ訣だ。が、それを文書化して、国民をして據らしめようとしてゐるのである。如何なものだらう。
さて、この「よい文章を書くために」では、續いて「漢語の書き表し方」が檢討されてゐる。そこには斯う云ふ文章がある。

漢字の字音を用いて書き表す場合に問題となるのは、同じ字音の漢字が多いということである。そこで、同音の漢字の書き分けと、同音の漢語の書き分けを取り上げなければならない。しかし、漢語については、書き分けるだけでなく、搖れている表記の統一も行われている。また、同音の他の漢字に書き換えることも行われている。以下、それらについて取り上げるとともに、どのような誤りが見られるかについても扱うことにする。

先ほど、「一般社会で当て字の使用が広がっている」事を非難してゐたが、しかし、國語改革の當事者は改革で既に、或種の漢字を当て字で統一してゐるのである。彼らは、「同音である」字の場合、「細かい意味の違い」や「字形の違い」があつても、それを無視して、「同じ意味である」と極附け、書換へる事を主張し、改革として實施した。「官許の当て字」を國語改革は大量に生み出した。ところが、「官」の連中は、「民」の「当て字」を許さない――許さないが、既に制限は不可能である状況だから、非難するに留めてゐる。けれども、あつちで堂々とやらかした当て字をこちらで非難するのだから、及び腰にならうと云ふものだ。
國語改革においては、許されない民間の「当て字」と、官許の「言い換え」とを「嚴密」に區別する。そして、「当て字」には相當激しい非難を浴びせながら、自分が言出した「言い換え」については「止むを得ない」ものとして言ひ訣に終止するのである。

同音の漢字の中には、その意味が全く同じために、一方だけを用いても差し支えないものがある。「嘆・歎」など、いわゆる異体字とされている場合がこれである。

この種の漢字には、本来は「注」を用いていた中から後に言葉関係で「註」が分化し、本来は「弦」を用いていた中から後に楽器関係で「絃」が分化したようなものもある。このような場合にも、「註」の代わりに「注」を用い、「絃」の代わりに「弦」を用いることが、誤りとは言えないことになる。次のような書き換えは、このような事情によるものである。

  • 註文→注文
  • 註釈→注釈
  • 註解→注解
  • 管絃→管弦
  • 三絃→三弦
  • 絃歌→弦歌

同音の漢字による書き換えというのは、このような書き換えを広く他にも及ぼしたものである。

例えば、「欲」と「慾」、「消」と「銷」の場合がこれである。「欲」は「ほっする」という動詞で、「欲望・意欲」などと用い、「慾」は「ほっすること」という名詞で「食慾・無慾」などと用いる。「消」も「銷」も動詞であるが、「消」は「けす」という意味で「消費・消毒」などと用い、「銷」は「なくす」という意味で「銷沈・銷暑」などと用いる。このような場合、それぞれ「欲」「消」に統一して用いることも、それほど無理な用い方とならないのである。そこで、漢字の字種を減らしながらも漢字書きの語を減らさずにおくために、そのような書き換えが積極的に行われた。これが同音の漢字による書き換えである。

國語改革においては、「字種を減らす」事が最優先され、その爲に「意味が違ふが似てゐる」字を「意味が全く同じ」であると言張り、「書き換え」と稱して宛て字に置換へた。が、斯うした置換へは、官許のものであるから「当て字」ではなく「書き換え」とされ、非難されてはならない――寧ろ積極的に評價されるべき事だと主張してゐる(ここでも漢字の字種を減らしながらも漢字書きの語を減らさずにおくためにと、まるで功績であるかのやうに言つてゐる)。

この種の書き換えとしては、次のように漢字の構成から見て付随的な部分と入れ替えたものを用いることが多い。

  • 誡→戒
  • 稀→希
  • 倖→幸
  • 智→知
  • 鑛→鉱
  • 沮→阻
  • 篇→編
  • 輔→補

一般に漢字というのは、基本的な部分が主たる意味を持ち、付随的な部分が細かい意味分野を限定する。その点では、付随的な部分を外しても、他と入れ替えても、意味の上で大きな違いが見られないことになる。これが、同音の漢字による書き換えを可能にした根拠である。

まるで本當に根據があるかのやうな、力強い宣言だが、全く根據はない。「ある」と思つてゐるのは、「改革」を強行した當事者だけだ。ところが、日本では、役所が許した事なら――と、お上のする事を何でも受容れる事が一般的であるから、誰もこの何の根據もない力強いだけの宣言を疑はない。しかし、實際の國語改革でも、斯うした「書き換え」を「する」と云ふ事ですらも、一貫はしてゐなかつたのだ。「附」と「付」とは「当用漢字表」で共に採用されてゐる。(これは、「日本国憲法」に「附」の字が使はれてゐるから、漢字の選定方針にかかわらず、いわゆる憲法用の他の漢字とともに無条件に表に採用することになったのだと言ひ訣してゐる)

ところで、漢字の中には、字体の上で関連がなくても、同じような関係のものがある。「炎」は「もえる」という動詞で、「炎上・炎天」などと用い、「焔」は「ほのお」という名詞で「火焔・氣焔」などと用いる。このような場合も、、「焔」を「炎」に書き換えることが可能である。

  • 馭→御
  • 緝→集
  • 蹟→跡
  • 掠→略
  • 聯→連
  • 諒→了

これらの中には、「吃水→喫水」のように、語を限定して書き換えたものもある。また、「杜絶(ふさぎたえる)」を「途絶(みちがたえる)」とするように、語全体の意味を考えて書き換えたものもある。

以上が同音の漢字による書き換えであるが、この種の書き換えの中には本来は誤りと考えられていたものも少なくない。しかし、すでに慣用が熟している書き換えについては、これに従う方が好ましいわけである。

……何うだらう、「書き換え」をやつた當人が言つていい臺詞ではないと思ふのだが。にもかかはらず、日本人の殆どはこのやうな詭辯を詭辯と思はず、「正しい論理」だと思つて「成る程!」と納得してしまふのである。
このやうな「意味に基いて説明する」やり方は、「表音主義の國語改革」に反對する立場を「表意主義」だと極附けた事に原因がある。改革の當事者逹は、ならば自分逹のやり方を「意味」に基づいて説明すれば、表意主義者どもの反對を封じられる、と判斷した訣だ。だが、福田氏は『私の國語教室』で、自分逹は表意主義ではない――表語主義だ、とはつきり言つてゐる。即ち、語の書き方の正しさを決めるのは、發音でも意味でもなく、誤それ自體の形である、と云ふ主張である。「さう書くものだからさう書くのである」と云ふ立場である。此の立場からすれば、意味に基くと言ふのも、語を「書き換え」る根據として認められないものとなる。
一方、例へば「絃」を「絃」と書くのは千年以上の慣用があり、熟してゐる、と言ふ事が可能である。それを「改革」の名の下に一擧に否定し、たかだか半世紀程度の間に「定着した」(實は力によつて「定着せしめた」)からと言つて「熟した」等と主張する事は許されたものではない――私はさう考へるのだが、如何だらうか。歴史感覺が消失してゐるからこそ、我々日本人は「定着した」「熟した」と簡單に思ひ込めてしまふのだ。これは大變「情けない」事だが、多くの人が「當り前」だと思つてゐる。「當り前」とされてゐる事こそ疑へ、と、我々は教へられて來なかつたか。
平成二十一年四月二十六日
Latest topics > アクセスのしやすさ、利用のしやすさ、に対する鈍感さ - outsider reflexのコメント欄。Commented by otsune at 2009/04/24 (Fri) 01:28:49
とても氣になる發言がコメント欄にあつたので引いておく。

 たぶん「イワシの頭にお祈りをすることがとても大切な信仰の対象」みたいな人がいると仮定した場合に、オレが「イワシの頭って苦いから好んでは食べないなぁ。理由も無く大切にする人はアホに見える。まぁそういう人は居ても良いけど」とかどこかでコメントしたら、なぜか書いても居ない意図を読み取って「バカにされた!」とか解釈するひとを想定でもしているのでしょうか?

なんで「そういう人がいてもいいけど」とか書けば、どんな罵倒を書いても「罵倒ではないよ」と言逃れが出來ると云ふ事になるんだらう。松永氏にしてもさうだが、おつね氏にしても、私とは感覺が根本的に異るらしい。まあそういう人がいてもいいけどー。
本文とかその他の記述・コメントは知らない。

平成二十一年四月二十五日
対談 G・マルセル 小林秀雄(『マルセル著作集 別巻』所收)
小林
ベルグソンが晩年に沈黙を守ってしまいましたが、その点どうお思いですか。私は大変おもしろいことだと思っています。
マルセル
ベルグソンは晩年大変に病身でした。だがその晩年で、私はベルグソンが誤りだったと思うことがあります。それは、死後、ノートや遺稿の類を全部破棄するように言ったことです。これは完成したものだけを与えたいという一種の美学的なコケットリーだと考えます。
小林
いや、そうではなくて、ベルグソンが私にはわかるように思えます。
マルセル
あれほどの哲学者は、模索、躊躇のあとを残して、後の研究者に指標を与えるべきであったと思います。
小林
そうでしょうか。私にはベルグソンの沈黙がよくわかります。病気で黙らされたのか、それとも黙るつもりで黙ったのか。日本の宗教家、哲学者の中には、黙ろうと決心して黙った人がたくさんいる。黙ることが人類にプラスかマイナスかなど、そんなことは考えない。黙ることは正しいという思想があります。
マルセル
たしかに東洋の思想の一番の問題でしょう。それは歴史的感覚の欠如ではないか。
小林
欠如ではないんです。むしろ歴史の否定です。
マルセル
なるほど……歴史の否定……ベルグソンの場合は、そこまではいっていないと思うが……。
平成二十一年四月二十四日
一言日記 - お化け小屋敷の2009/4/22の項。

後、上の例えは悪い、と言うか的を外しているので(西部氏の文章はあまり読む気がしない、と言うのは本当)、別の例で。同じ新潮文庫から出ている『この人を見よ』(ニーチェ)の訳者が西尾幹二なのは、どうにかならないものなのだろうか。嘗てのニーチェ学者があの様じゃあねえ。

西尾が昔やつたニーチェの飜譯はそんなに惡くなかつた筈――と言ふか、結構良い方に入ると思ふ。この人を見よは改造文庫版で讀んだから新潮は見てゐないけれども。
中公の世界の名著だかに悲劇の誕生の飜譯が入つてゐるし、解説も書いてゐた。中公新書にはニーチェに關して西尾が御喋りした御話が入つてゐる。讀み易い事は讀み易い。
塩野七生の讀み易いマキャベリ語録だつて讀んでいい本だ。別に毛嫌ひする必要はないよ。飜譯が何であれ、讀んでいい本は讀んでいい。
ちくま文庫に入つてゐるスタイナーの悲劇の死は飜譯が非道いから原書で讀んだ方が良いとは松原先生の御言葉だが、私は最う飜譯の方で讀んでしまつた。創元とかサンリオとか元々社とかの何うしやうもなく非道いSFの飜譯に比べれば。いづれにしても、讀まないよりは讀んだ方が良いと云ふ本は「ある」。

そういえば、『国民の道徳』やら『国民の歴史』やらが百円本コーナーに陳列されてて、思わず吹きそうになった。

古本屋は讀んでもゐない本を實に正當に評價する辛辣な批評家だ。
と言ふか、ベストセラーだからそのくらゐには下がるよ。そろそろ買ひ時だと思ふ。價値評價の部分は色々アレだけれども、値段が下がつて、知識を仕入れる爲には安くて便利な本になつてゐる。
あと、新潮文庫のシェイクスピアはもともと福田さん以外の人の飜譯が入つてゐて、後から福田譯に入換へが行はれた。中野好夫だけ殘つてゐるのは大家の飜譯だから(推測)。河出や新潮の福田譯シェイクスピア全集がばらで結構古本屋に出まはつてゐる。探せば福田譯のロミジュリも出てくる筈。福田さんの飜譯全集にも入つてゐる。
と言ふか、古本屋さんをもつと利用しようよ。町の小さな古本屋さんでも結構いろいろ置いてゐるよ。
平成二十一年四月二十五日
遊んでゐる餘裕ないんで頼んでもゐないのに絡んで呉れるアンチの人ごめんね。
平成二十一年四月二十五日
米Yahoo!が「Yahoo! GeoCities」年内閉鎖へ、日本は引き続き提供
平成二十一年四月二十五日
誤字を指摘して - 朴の木はひとり佇む
修正したよ。何うも有難う。氣附いたら直してゐるよ。
私は思ふのだけれども――他人の誤を指摘した時、相手がその指摘に氣附かないで誤を放置してしまふ事よりも、氣附いてゐてなほ誤を意地になつて直さないでゐる事の方が、ずつと空しい。
しかも、逆切れして「正しさを振りかざして」とか言出して指摘したのを惡事にみせかけようとしたり、「お前なんかもっと間違いいっぱい言ってるだろ」とか言つて何年も何年も粘着し、擧句「アーカイブス」なんてものに發言を大量に轉載して逆に恥をかかせて仕返ししてやらうとしたりする人が出て來るし。
平成二十一年四月二十五日
松永氏の説明を聞いて驚いたのだが、「共感」するとは「よい」と思ふ事ではあるが決して高く評價する事ではないのださうだ。一方、松永氏は「正かな派」に「嫌悪感」をおぼえると繰返し繰返し言つてゐる。これも松永氏は「低く評價する」事では無いと言ひたいのだらう。
だが――「あいつは嫌な奴だ」と言觸らす事は何を意味するだらうか。
松永氏は「正かな派は嫌な奴だ」(=「あいつらは惡い奴だ」=「奴らを嫌へ」=「奴らを潰せ」)と言つてゐる。それは行動の示唆であり、政治工作ではないか。しかし「嫌惡感を表明しただけだ」と松永氏は言張る。それは政治家の答辯ではないか。
あゝ松永さん、私は「ではないか」と疑問を呈しただけですからね。あなたが「嫌悪感」と云ふ感想を言つただけなら、私は疑問を呈しただけだ。私が何かを捏造したとか、さう云ふ事を言つて極附けるのは止して下さいね。曖昧な言ひ方をすれば何でも許されると松永氏は言つてゐるんでせう。だから私も松永氏の眞似をしただけです。喜六郎によれば、このやうな眞似をされるのは、された方が惡いらしいです。ちなみに――喜六郎はあなたの御仲間でせう。喜六郎も現にあなたにすりよつてゐる。あなたたちは徒黨を組んで私を潰しにかかつてゐるんでせう。喜六郎によれば、徒党を組む事は政治主義的な行爲です。あなたは喜六郎とともに政治主義者です。さう云ふ事實があるんだから、私は事實を指摘したに過ぎません。喜六郎にしても、喜六郎自身が定義した事を喜六郎自身に當嵌めただけです。喜六郎も松永氏も矛盾してゐます。そして二人とも、自分が矛盾してゐる事實に氣附いてゐません。彼らが愚かである所以です。悔しかつたら反論して見なさい(喜六郎の口癖です、眞似して見ました)。嗤。
平成二十一年四月二十五日
TVアニメーション夏のあらし! 第3話の次囘豫告、背景に出てゐるテキストのかなづかひが出たら目。
あ〜るでもさうだつたが、なぜか出たら目な假名遣を平氣で使ふ創作者が矢鱈と多い。何なんだらう。
正しく假名遣を使はうとしてゐる人間が、何も知らない無知な人から「出たら目な假名遣を眞似している」と極附けられて嘲笑される原因になつてゐる。大變迷惑だ。シャフトは嫌な會社ではないし新房も嫌な監督ではないが、斯う云ふ出たら目を平氣でやるところは大變氣に入らない。
追記。2009-04-26 - 大和但馬屋日記。だつて。毎度どうもです。

平成二十一年四月二十四日
ブーバー『ユートピアの途』(長谷川進譯)「解説」

……。ブーバーはナショナリズムについて多くを論じているが、そこにはきわめて重要なものが示されていると思う。ブーバーは一九一六年、著名な哲学者でユダヤ自由主義の長老ヘルマン・コーヘンとの論争で、国家のうちに「倫理の本質」を認めるコーヘンにこう反論した。シオニズムの課題は精神的現実(民族性)の高揚、生の充溢へのその発展にある。しかしこの現実の上により高い現実、人類は国家や国民よりも大いなるものであるという現実が厳存する。それ故シオニズムの目標は、新しい国家、新しい政治体にはない。人間として私にとって国家一般が目標でないように、ユダヤ人としての私には『ユダヤ国家』は特定の目標ではない(……)。

……。ブーバーにとって「正しい」ナショナリズムは、「超ナショナルな課題」を果すことを使命とするものにほかならないのである。

……。ブーバーは、現代の思惟にしみこんでいる誤った二者択一、すなわち個人主義か社会主義かを破棄しなければならないという。いずれも人間を全体としてとらえていないからである。個人主義は人間の一部をとらえているにすぎないし、集団主義は部分としての人間しかとらえていないからである。しかし人間実存の基本的事実は個人自体でも集団自体でもない。両者はそれだけでは抽象にすぎない。個人は、他の個人と生きた関係を結ぶ限りにおいて実存的事実である。集団は、個人と個人との生きた関係から構成される限りにおいて実存的事実である。人間世界の固有の特徴は、自然に類例のない事実、一存在者が他の存在者とどこまでも他者として相対しながら、両者に共通し、しかもそれぞれに固有の領域を越える領域において心を通じ合うという事実にある。この領域、この「間の」領域こそは人間的現実の原範疇である。ここに個人主義と集団主義とを越える道が指し示されており、その認識をとおして人類が真の人格をとり戻し、真の共同体を建設すべき、真の第三の立場が暗示されている。

ブーバーの社会主義は、いうまでもなく、この第三の立場に立つものである。……。

平成二十一年四月二十四日
「擬似科学批判」としての正かな派の立場 - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
えんえんよくわからない議論を續けて來てやつと氣附いたのだが、福田恆存の『私の國語教室』には重大な「缺陷」がある。それは「議論が可能となる場」が「そこにはなかつた」と云ふ事だ。即ち、福田氏の立場と、國語改革を行ひ・支持する立場との間に、議論が可能となる共通した價値觀がそもそも「ない」のだ。それを指摘しないまゝ福田氏は議論を進めざるを得なかつたが、それゆゑに『私の國語教室』を「聖典」とする正かな派と、そのアンチとの間には「宗教戰爭」が戰はれる許りとなる結果に陷つた。
福田氏は歴史的かなづかひの理論と實踐について語つてゐるが、「なぜ語つてゐるか」を、國語改革の推進派も支持者も理解出來ない筈なのだ。理解できるのは福田氏と價値觀を共有する人間だけだ。だから、『私の國語教室』を「聖典」として評價出來る「信者」を、別の價値觀を保有してゐて『私の國語教室』を理解出來ないまゝでゐる人々は奇異の目で見ざるを得ない。が、彼らは國語改革の推進派・當事者と價値觀を共有する。
國語改革を推進した土岐善麿國語審議會會長は「現代かなづかい」を「正しいと定義したがゆゑに正しい=絶對に正しい」ものである「正書法」と定義する事によつて正當化し、反論封じを圖つた。さうした態度は、絶對的な正しさを振りかざす事で自己の行爲を正當化する態度である。が、さう云ふ理窟に非ざる「理窟」=詭辯を用ゐる事で、自己を正當化するのを、多くの人が當り前の事だと無意識のうちに認めてしまつてゐる。さう云つた人々が「現代かなづかい〜現代仮名遣い」を「わたし」のものとして受容れ、その「わたし」を肯定する爲に「正しいものは正しい」と言張つて、「わたしは正しいという主張」をふりかざす。彼らは、「わたし」のものではない外部の正義を「信奉」し、正かなづかひなるものを主張する立場の人間を忌嫌ひ、正かな派からの干渉それ自體を拒絶する事によつて「わたし」を絶對的に守らうとする。
彼我の間に、價値觀は共有されてゐない。正かな派は議論を可能とする科學的な價値觀を主張するが、「わたし」を守る事を至上命令のやうに感じてゐる人々は「わたし」の外に存在する正義を認める價値觀を受容れられないし、結果として正かな派の價値觀を受容れられない。が、それは結局、「アンチ」の側が、自己中心的な發想から物事の價値を判斷してゐる事實を意味する。一方、「アンチ」は、科學的な判斷を拒絶し――それは議論それ自體を拒絶するものである。
福田氏は、しかしさうした「彼我の間に議論が成立たない」理由に就いて、『私の國語教室』を書き始めた當初は認識してゐなかつた筈である。書出しの部分で福田氏が迷ひに迷つてゐるのは、「なぜ理解して貰へないのだらう」と云ふ疑問を福田氏がその時點では解つてゐなかつた事を示す。見切り發車で福田氏は、何時ものやうに、科學的に・學問的に・論理的に話を展開するのだが、科学・學問・論理を價値として認めない立場の人間には到底受容れられない本にならざるを得ないのは當然だつた。その福田氏も、連載誌であつた「聲」に載つた對談で、土岐善麿が「現代かなづかい」を「正書法」として押附けて行く考へを當り前のやうに言つた時、やつと敵の正體を知る事になつたのだつた。が、連載はその時點で終了となり、それをそのまゝ本にした『私の國語教室』は福田氏の「よくわからない」心理に基いた、結果として論爭的ならざる内容の本となつてしまつた。
だから、科學性・論理性を認める立場の人間からすれば、『私の國語教室』で展開される歴史的假名遣の理論と實踐に關する話は、大變よくまとまつたもので――よつて良書だと價値を判斷する事になる。けれども、科學や論理を重視せず、ひたすら便宜を(それは「わたし」の便宜、と云ふ事だが)重視する價値觀の持主には全く理解出來ない訣で、「正しさを振りかざしている」と非難して拒絶するだけの結果になつてしまふ。
が、斯うした價値觀の相違は、解つてゐたからと言つて何とかできるものではなく――しかも、殊に科學性・學問性を認める・認めないと云ふ點では、科學や學問を認めない立場の人間は極端に頑迷になる傾向があり、それを科学や學問の立場から何う斯うすると云ふのは容易でない。が、昨今の教育の普及は、さうした頑迷な筈の非科學的な人間に、知識を豐富に與へてをり――彼等に強力な「根據」を持たせる事となつてゐる。さうなると、有利なのは、「わたし」に「絶對の正義」が「ある」と考へる「彼ら」であり、「彼ら」は「わたし」に都合の良いやうに物事の解釋を歪め、學問・科學を「わたし」に奉仕させる。ますます「彼ら」の態度は頑固になるのだが、それを「彼ら」は自覺しない。知識はあるが、依然として「彼ら」の精神は非科學的なまゝだからである。さう云ふ「彼ら」が「敵」である事を、福田氏は『私の國語教室』を書き始めた時點では、悟つてゐなかつた。「そこまで敵も馬鹿ではないだらう」と、敵を高く評價してゐたからだが、それが間違ひだつた訣だ。

平成二十一年四月二十三日
2009-04-22 - 鳩笛雑記帳のコメント欄。
matsunaga 2009/04/23 13:01

話題が変わるので投稿をいったん切りました。

「絶対に」ではなく相対的にならばどっちが優れてゐるんですか。仮に評価するならば。

相対的という場合は基準が必要です。わたしにとって、言語はコミュニケーションの手段であるというのが第一のポイントです。そうすると、自分が意見を伝えたい相手が誰かということになります。現時点で、多くの場合は「戦後表記でないと読めない」人が多数と思われますので、戦後表記を使います。一方、もし台湾に行って戦前の日本語(國語)を学んだ老人と筆談するなら、戦前表記が適切と考えます。ギャル文字を使うギャルと携帯メールで話すなら、ギャル文字とケータイ絵文字を使うのが適切でしょう。コミュニケーションツールとしての言葉は生き物であり生ものですから、どの表記が正しいとか優れているとかではなく、相手に伝えるという目的が果たされればいかなる表記でもその場面において適切であったと考えます。

音声学・音韻論的に申し上げれば、伝統表記とても古来の日本語を完全に表わしているとはいえません。あるいは、伝統的に使われてきた表記ということであっても、それはヴァリアントの豊富さからいって、「戦後表記だけを排撃する」という根拠にはならないと考えます。

たとえば、明治時代の教科書等で「おとーさん」「タロー」等の長音記号の用法が見られます。これは戦後表記以上に正字正かなからかけ離れた表現のはずです。

なんでこんなにわたしと云ふ立場を強調するんだらう。その時點で「あなたの主張は所詮相對的なものに過ぎませんね、なぜなら、あなた一人が信じてゐるだけなんですから」と云ふ反論で、松永の主張は終つてしまふ。なのに、松永は、それが解らない。わたしが言つてゐる事だから絶對正しいのだ、と堅く信じてゐるとしか思へない。
以下は瑣末な事實だ。
コミュニケーションの相手は、書き言葉である限り、「現在・目の前の相手」だけでなく「未來」の人間もあり得る――が、さうなると、我々は現在と未來の間にコミュニケーションが困難になるくらゐの言葉の變化を生ぜしめる訣には行かなくなる。我々は當然の事ながら、書き言葉には保守性を求めなければならない事になる。
音聲學・音韻論的に言ふならば、正かなづかひは古來の日本語をそれなりに表はし、現代の日本語もそれなりに表はしてゐる。書き言葉が發音を表す時は、それなりであれば十分なのであつて、完全である必要は全くない(それを「完全でなければならない」と言つた完全主義者が表音主義者であつたし、さう云ふ連中が國語改革を強行した)。大體、それを言ふなら、ありとあらゆる書き言葉は表音主義的に不徹底であるのみならず――そもそも表音主義を徹底させると書き言葉は不可能になる(よつて表音主義は誤であり、書き言葉と話し言葉を完全に一致させる完全主義的表音主義は誤である)。――が、發音云々は表記の「ヴァリアント」を正當化する理由にはならない。なぜなら、假名遣ひの正しさは、發音を正しく表はしてゐるか何うかではなく、語そのものを正しく表はしてゐるか何うか、によつて決まるからだ。發音と表記とを「結び附けなければならない」と執拗に主張すべき事を言ふのは、表音主義者の戰術に乘せられたのであつて、それは事實をイデオロギーによつて歪曲する誤である。
明治時代の教科書に表音的な表現がある事實と、歴史的假名遣との間には、關係がない。松永は「明治時代の事實」を持出してゐるが、意味が解らない。ただそれつぽい事を言つて「ほらほら」と不良が曖昧な言ひ方で脅すやうに「我々」を脅してゐるに過ぎない。松永は常に曖昧な言ひ方をして、自分を騙し、周圍を騙して、結果として自分に都合の良くなるやうに話を持つて行かうとする。或は、オトーサマだのタローだのの表音的な表記があつたからと言つて、それは假名遣と關係のない發音の記載である事實があるだけだ。が、發音記號の存在を歴史的假名遣は否定しない――のみならず、日本語の發音記號は必要である――と、橋本進吉は言つてゐた。ただ、發音記號と假名遣とをごつちやにしてはならないと、橋本博士は指摘してゐる。松永はその邊をごつちやにしてゐる。
平成二十一年四月二十三日
一般論の正しさと個別の認識の正しさは別の話 - 遠方からの手紙(別館)

まあ、私が違和感を覚えるのが「物事は白か黒かだ」「そして自分は白だ」「自分は白なのだからそうでない奴は黒であり、黒は容赦なく叩いてよい、なぜなら黒は黒だからだ」みたいな人たちだから、しょうがないのか。

こういうあまりに正しすぎる「一般論」というのは、しばしば逆に、自分のほうが相手の言葉に耳を貸さず、理解することを拒否するための便利な道具にもなる。なにしろ、いったん相手がその種の人間だと決め付けてしまえば、そこで話は終わりであり、それ以上、相手の言うことを理解しようと努力する必要もなくなるのだから。

圖式が本當に當嵌るか何うかを客觀的に檢討しないで、「敵だからこの圖式に當嵌めてしまへ」みたいな話になりがち――さうなると、この種の「一般論」は、ただのレッテル貼りになつてしまふ。
圖式化して説明する事にも、それなりの配慮は必要だ。圖式を用意して、それに事實を當嵌めようとし――事實を歪曲するのは誤である。事實を見て、そこから圖式を抽出する作業が必要になる。その作業が適切なものであるならば、圖式も適切なものと客觀的に言ふ事が出來よう。
作業が行はれる以前に圖式を用意する事も、實は「あり」なのだけれども(と言ふより、大體の學問では最初にそれをやる。だから多くの人が勘違ひする)、その時、その圖式は假説として檢證の對象となつてゐるに過ぎない。檢證の作業を經て、結論として「假説は眞實であつた」と言ふ事は可能――だが、その檢證の作業には一定の決りがあつて、それを守らないならば、檢證は「成功した」ものと客觀的に看做されなくなる。注意が必要だ。
ニーチェが指摘したけれども、その檢證には科學的精神が必要となる。ところでそれを私は「正しさへの志向」と呼んでゐるのだ。
「個別性」への配慮とともに、客觀性への配慮も必要、と云ふ話。要するに、「本當にその圖式に當嵌るの?」と云ふ疑問に答へる努力が必要と云ふ事。圖式化しただけで説明は濟んだ、みたいな大雜把な人は多いから……「ノズラー」だの「松原信者」だの。
平成二十一年四月二十三日
Latest topics > アクセスのしやすさ、利用のしやすさ、に対する鈍感さ - outsider reflex
シャドーボクシングが流行語化しつゝある。
ちなみに記事の内容もコメント欄の應酬も俺さつぱり理解してない。はてななんて知らないし。
平成二十一年四月二十三日
數値文字參照メモ
物凄く久しぶりに更新した。
平成二十一年四月二十三日
趣味のインターネット地図ウォッチ
黒部ダムオフィシャルサイト
黒部上部軌道乗車記 Kurobe upside track
レイルエンヂニアリング 関電トロリーバス - 黒部ダム

平成二十一年四月二十二日
Kirokuroの毒吐き空間 - やっぱりノザキはバカだった
俺は松永の「論理」を理解できなくて誤讀した訣だけれども、今度の喜六郎の「論理」も理解出來ないで困つてゐる。

大體、飛鳥・奈良或は平安の時代に囘歸してしまつたら、それ以降の先人の存在は何だつた、と云ふ事になるんだよ。それら全ての先人の存在を無にしない爲に――歴史の全てを肯定する爲に、歴史的假名遣は「ある」んだから。

  • (ヤミグロ日記 平成二十一年四月十九日)

すると歴史的假名遣の時代に回帰したら、それ以前の存在は何だった、と云う事になるんでないかえ?

ヤミグロ日記と云ふ記述は原文のまゝ。
喜六郎が何を言つてゐるか全然理解出來ない。俺は歴史的假名遣の時代に回帰する事で初めて飛鳥・奈良或は平安の時代以降の全ての先人の努力を活かす事が出來ると言つてゐるのに。
喜六郎は、何う云ふ理窟で歴史的假名遣の時代に回帰したら、それ以降の先人の存在無になると考へてしまつたのだらう。訣が解らない。
歴史的假名遣はそれ以前の全ての先人の努力の結晶なんだから、誰が何う考へてもその先人の努力をにした事になんかなる訣がない。誰が何う考へたつてさうだらう。なのに喜六郎はになると考へる事が出來てしまつた。喜六郎の「論理」を理解できる人がゐたら、説明してほしい。
俺、喜六郎の事が本氣で心配になつて來た。この人をかしいよ。
と言ふか、理窟を説明しないから、喜六郎の言つてゐる事を「尤もだ」と言ふ人がゐたんだらうけれども、これだと喜六郎に贊同出來る人、ゐないよ。本當にをかしいもの。そして喜六郎自身は自分がをかしい事を言つてゐると認識出來てゐないんだ。かう云ふ人がウェブで野放しになつてゐるのはやばいよ。
(cache) Kirokuroの毒吐き空間 - やっぱりノザキはバカだった
一往魚拓とつた。喜六郎の事だから改竄する事はないと思ふけど。
平成二十一年四月二十二日
20090422Seikana.gif
簡單な圖に描いてみた。大體わかるだらうけれども、これでも私の事が嫌ひな人はしつこく難癖附けて來ると思ふ。
ちなみに正かなづかひの觀念はこの圖に描かれた破線・實線そして「現代仮名遣」派から叩かれに叩かれ捲つて×が附いてゐる右の線(その時點での研究の成果として想定される正しい假名遣ひ)と近接しながら並行して存在し――しかし決して交はらない、次元の異る場所を通る線で表現されるものと見てもらひたい。
定家假名遣と「明治政府の定めた規範としての歴史的假名遣」なるものは、この線とは別に、個別的なものとして存在する。破線・實線と對應するものではない。
平成二十一年四月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/twoineko/20090420/p2のコメント欄。
matsunaga 2009/04/21 22:10

誤解があるといけないので申し添えますが、「國語國字正常化に就いて考へる掲示板」は私が開設していた掲示板ではありません。

それから、私は「疑似科学批判批判」だと認識されているようですが、決して「疑似科学擁護」ではありませんので、念のため。

しかし松永、ぢやああんたの立場は何なの。
價値相對主義者は、自分の立場が明かに偏向してゐる事實があるのに、立場を聞かれると何でも「私の立場ではない」と言張る傾向がある。松永は「擬似科學」に對して「擁護」の立場をとつてはゐないと言ふ。が、では「擬似科學批判」の立場でもあり得ない。「擬似科學批判」を批判する立場であるのだから……改めて問ひたいが、松永の立場は何。「ではありません」「ではありません」では何も解らない。遁辭と云ふ奴だ。逃げ廻るのはよせと言ひたいが――「逃げ廻るのを追ひかけて來るのは失禮です」とか言はんが爲に松永は羂を張つてゐるのでないだらうかと云ふ疑念が。
と言ふかあれ、河上イチローの掲示板ではなかつたのか……では誰のだつたんだらう。松永はやつぱり教へて呉れない。最う皆忘れてしまつてゐるのか知らんが。
http://d.hatena.ne.jp/twoineko/20090421/p1

「10年も前とは考えが変わる」のは無理はないとしても、それなら旧字旧かな派だったといふ「恥かしい過去」?を隠さなくても良かったのではないですか。

青方の中村なんて人がゐて、正字正かなには依然として忠誠を誓つてゐるやうだけれども、「再ネットデビュー」の時には名前を變へてゐたりする。それだけならいいのに、わざわざ「元知人」の木村さんのところにまるで他人のやうな顔をして現はれて……。
なんか青方の中村も松永も、「野嵜と附合つてゐた過去」を匿したくて名前を變へてゐるんでないかとすら思ひ上つて考へたくなる。
平成二十一年四月二十二日
正直言つて、「考へが變る」のは普通にある事だけれども、「言つてゐる事は認めるが、論者の態度が氣に入らない」ので「考へを變へる」のと、「論者の態度は氣に入らなかつたが、言つてゐる事は正しい」ので「考へを變へる」のとでは、何かが根本的に違ふと思ふんだ。「論者の態度が氣に入らない」事を重視するのは、結局「正しさ」を輕視してゐるのだらう。一方、「正しさ」を重視するのなら、それは本當にその人の思想になつたのだ。
平成二十一年四月二十二日
あーなんかわかつてきた。喜六郎は、「正しい規範」としての歴史的假名遣は「正しくない書き方を蹂躙して來た=それ以前の書き方を全否定して來た」と思つてゐるらしい。例によつて「勝手讀み」だ。俺の言つてゐる事を誤讀してゐるからさう思ひ込めるんだよ。俺ルールで野嵜を切るのはやめませうと言つたぢやないですか喜六郎さん。何を見てゐるんですかあなたは。
批判・修正と云ふ形で、從來の研究者は假名遣の補正に寄與・貢献して來た。それを正かな派は認める、と言つてゐるんだ。或は、正しさへの信仰の存在を認める、と。現實の書き方なんてものは關係ない、理念の話をしてゐるんだよ。一方、「旧かなに回帰するのなら万葉仮名に回帰しなければ不徹底だ」「奈良・平安の文法に回帰しなければ不徹底だ」と主張して正かな派を罵倒する人々は、それら假名遣の補正と云ふ事を全否定する。或は、正しい假名遣への信仰を全否定する。
喜六郎にしても他のアンチの連中にしても、「正しさへの信仰」と云ふ事は「目に見えないもの」だから絶對に認められない。けれども、正かな派はそれを認める。見えないものだからと言つて「ない」訣ではない。決してない。寧ろ、見えないからこそ大事なのだと正かな派は主張する。そこで根本的に立場が喰違ふのだが、ただ喰違つてゐるだけならまだいいけれども、喜六郎ら「目に見えるもの」しか認められない連中は意地になつて「敵」を潰しにかかる。その時、嘲笑と云ふ形式をとつてゐるけれども、自分が必死になつてゐる事實を隱蔽する爲に、餘裕があるかのやうに裝つてゐるに過ぎない。しかし、彼らは飽くまで自分に餘裕がある事をアピールしなければならない。自分は「大人」だと彼らは言ひたいからだ。そして、彼らは自分が「大人」であるとアピールする事だけが生き甲斐である。自分を偉く見せかける爲に、正しさを否定するのを何とも思つてゐないのだ。
彼らは、明かに威張つてゐる。文章を見ればそれがありありと判る。だが、彼らは、自分が傲慢であると認める事が出來ない。その爲に、敵である「正しい」と云ふ事を言ふ「子供」を「惡人」に仕立て上げる。さうして、「惡人」を罵つて、自分が「善人」である事を證明した氣になつてゐる。喜六郎はさう云ふ「善人」で、だから彼の「小屋」と稱する「ブログ」のコメント欄には、喜六郎の「善人」ぶりを禮讚するコメント許りが附く。喜六郎自身は何も言はない――ただ、コメントを附ける御仲間を操つて、自分を禮讚させる事で、「客觀的に自分は善人である」と云ふ事にしようとしてゐる。さう云ふ喜六郎の意圖を解つてゐるから、御仲間は喜六郎に附合つてゐるのだ。そして、喜六郎が「善人」であると「客觀的」に證明されれば、「喜六郎の側」にゐる御仲間連中「善人」であると云ふ事になる、と云ふ寸法だ。彼らは利益を共有してゐるし、互ひに氣心も知れてゐる。喜六郎が何も言はなくても、御仲間は喜六郎を禮讚すべき事をちやんと理解してゐる。惡代官と越後屋が水戸黄門の前で繰広げる言ひ訣の猿芝居を、息ぴつたりに演じて見せるやうなものだ。しかし、そこでの演技が迫眞のもので合つても、彼らの主張が眞實である事の保證にはならない。
平成二十一年四月二十二日
昨夜、虹裏imgで靖國神社を罵倒するスレを立てた馬鹿がゐて、「お前ら本当にあそこに英霊がいると信じてんの?」みたいな事を言つて威張つてゐたが、早々にスレ潰しのレスが附いてぐだぐだになつてゐた。
「目に見えないもの」を「信じない」し「理解してもやらない」と云ふ人々は結構ウェブには多いのだが、さう云つた人々の不寛容な事と言つたら最う話にならない。何でそんなに狹量なんだと言ひたいが、さう云つた人々は自分が狹量だと自覺する事が出來ない。彼らには「正しさを振りかざす」とか、そんな言ひ方で他人を罵るのが狹量な事だとは理解出來ないのだ。
彼らは、「正しい」とは「正しくない」事なのである、と云ふ逆説を眞に受けて、嬉しくなつて盛にその逆説を振囘してゐる子供である。言葉遣ひの幼稚さを見れば、彼らが子供である――少くとも精神年齡が子供竝である事は、すぐに判る。喜六郎の惡口なんか、まるで子供だ。當人が自分は幼稚だと解つてゐない邊、喜六郎が「子供」である事は明かである。悔しかつたら反論してみなさい――ああ、反論しない事は「悔しくない」事の證明なのか。豫防線を張るのだけは本當に上手い連中だ。
平成二十一年四月二十二日
しかし喜六郎も、俺の事を「バカ」呼ばはりして、それで世の中良くなるとでも思つてゐるのかねえ。喜六郎は今までに、一度として建設的な意見を述べた事がないぢやないか。喜六郎は破壊的なだけで、ウェブには何一つ貢献してゐない。何うして何も貢献しないのは良い事なのかな。それこそ「言論の自由」を惡用してゐるんぢやないかな。「言論の自由」を惡用してゐる喜六郎は胡散臭い奴である。
平成二十一年四月二十二日
正直言つて、喜六郎なんて人間の屑に附き纏はれて以來、私は喜六郎の餘りにも非建設的な攻撃に對處する爲に、無駄な時間を過ごさざるを得ない事になつた。或は「義」の嫌がらせに對處する爲に。何故彼等は私に時間を割かせようとするのだらうか。なぜ私が物を考へたりその他いろいろの事をしたりするのを妨碍しようとするのだらうか。
――さうする事によつて世の中が良くなると本氣で思つてゐるのだらうか。
しかし彼らは私が今までに公開した文章・記事の殆どを讀んでゐないし、それらに反論して誤を指摘し、それによつて彼らの信ずるところのものの正しさを示さうとしてはゐない。そもそも喜六郎らは、彼らに信ずるものがあると言はないし、それを示した事もない。即ち、彼らは何一つ言ひたい事はないのであつて、ただ、私が困るのを見て・私が迷惑するのを見て、樂しみたいのだ。
喜六郎らは、野嵜が嫌がるのを見て喜んでゐる。なんで人が嫌がるのを樂しむのが良い事なのか。私は他人を屡々批判するが、それは全て自分の主義主張を通さんが爲だ。人を苛めて樂しんだ事は一度もない(これについては青方の中村が嘘を言つて私を惡人と極附けた事がある。だから私は中村を許せない)。喜六郎は私を苛めて喜んでゐる。人間の屑だ。人間の屑が幾ら理窟を言つたところで、それは人を貶めるのが目的であるに決つてゐる。その理窟から先に、そいつの理想も正義も見えて來ないからだ。喜六郎には理想も正義もない。然るに喜六郎は俺を罵倒して喜んでゐる。だから喜六郎は人間の屑だ。悔しかつたら反論して見たら良い。喜六郎には何一つ理想も正義もないから。
平成二十一年四月二十二日
と言ふか、喜六郎も、自分が人生を無駄にしてゐる事實に、何で氣附かないんだらう。俺の發言を集めては惡意のコメントを附して喜んでゐる。喜六郎は、子供が出來たら、見せてやると良いんだ。お前の父親はこんな事をやつてゐたんだよと。子供が何んな顔をするか。或は親。もちろん、喜六郎にはそんな事等絶對に出來ない。だから喜六郎は自分の素性を匿す。知合にだつて喜六郎は自分のやつてゐる事を見せられない。人間として餘りにも恥かしい事だからだ。職場にばれたら喜六郎は何うなる事だらう。喜六老のやつてゐる事は餘りにも空しい。ところが喜六郎にはそれがわからない。今、他人を罵倒してゐる事が、喜六郎には樂しくて樂しくて堪らない事だからだ。喜六郎は猿と同じで、目の前のものをしか認識する事が出來ない。過去のものも、未來のものも、喜六郎は認識する事が出來ない。かう云ふ刹那主義の人間が、現代には餘りにも増え過ぎてゐる。これでは困るのだ。
平成二十一年四月二十二日
日本語入力Wiki
平成二十一年四月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/twoineko/20090422/p1のコメント欄。
matsunaga 2009/04/22 14:41

考えが変わった部分

  • 自己に外在する「正しさ」を錦の御旗として絶対視することへの嫌悪感が極めて高まった(これは某悪徳商法情報サイト運営者などのめちゃくちゃな言動によるところが大きい)。
  • もともと古典好きなので「古典文法による表記」に関心があったところ、漢字の字体や仮名遣いについてのサイトは多いが、古典文法で書かれたサイトが少ないことに対する不満が以前より高まっていた。
  • 何より、「正字正かなを「振りかざす」ことへの批判」という視点は当時はなかった。
  • 10年も前に書かれたことをそのまま持ってこられてもさすがに困ります。しかし、大筋ではそれほど違っていないはず。当時からわたしは趣味的、あるいはヴァリアントの一つとしての旧字旧かなレベルにとどまっていたのであり、戦後表記の「否定」まで主張していない点では一貫していると思います(だからといって戦後表記が絶対に優れていて戦前表記が絶対に悪い、などというのは私の考えではありません)。
http://www.kahusi.org/nikki/log/200904.html:平成21年4月22日17時36分
はてなブックマーク - 2009-04-21 - 備忘録ことのはインフォーマル
2009-04-21 - 備忘録ことのはインフォーマル
松永の野郎、よくもまあぬけぬけと、私が言ってもいないこと、考えてもいないことを忖度し憶測し決めつけて、のみならずその誤った推測に基づいて批判する人々が多々ある。なんて言へたものだ。松永こそ、正かな派の言つてもゐないこと、考へてもゐない事を忖度し、臆測して極附けて、その誤つた推測に基いて正かな派を非難したくせに。盜人猛々しいとはこの事だ。
平成二十一年四月二十二日
2009-04-21 - 備忘録ことのはインフォーマル

私がある「考え方」を嫌いだというと、それが「人格批判」をしているということにされてしまっている。

嫌ひだ嫌ひだ言つて罵倒してゐれば、それは人格攻撃だらう。

「絶対的正義・錦の御旗を振りかざすこと」に拒絶感があると表明したら、正しいことを正しいと言ってはいけないとプロパガンダして我々の思想を封じ込めようとしているのだ!と言う人がいる。

「誰某は絶対的正義・錦の御旗を振りかざしてゐる!」と絶對的に極附ける權利が自分にはある、と松永は思ひ込んでゐる。抽象的に拒絶感に關する話をするのは勝手だが、松永は具體的に正かな派を攻撃したのだ。

Aを批判する人たちの「方法」について批判したら、Aを擁護するものだとプロパガンダされる。

方法とは何だ方法とは。批判と云ふ行爲それ自體を松永は絶対的正義・錦の御旗を振りかざすことだと絶對的に極附けて、否定し、罵倒したぢやないか。何を考へてゐるんだ。

まあ、私が違和感を覚えるのが「物事は白か黒かだ」「そして自分は白だ」「自分は白なのだからそうでない奴は黒であり、黒は容赦なく叩いてよい、なぜなら黒は黒だからだ」みたいな人たちだから、しょうがないのか。

違和感拒絶感と言つてゐれば免責されると本氣で思つてゐるのか。阿呆だらう。
しかも、「如何なる物事も白か黒かだ」ではなく「白か黒かを決めるべき物事がある」と言つてゐるに過ぎない。假名遣に關しては白か黒かを決められるし、立場を表明する事が出來るし――表明しなければならない。また、「自分は根據があつて白の立場をとるし、その根據の正しいと考へられる理由を提示してゐるが、黒の立場をとるならば根據を提示しなければならないし、その根據の正しさを示さなければならない」と言つてゐるだけだ。
松永こそ、自分の傍觀者としての立場を絶對の立場だと言張り、自分が傍觀者である事に反對してゐる人間を愚かで陰險な敵だと極附け、しかし直接非難するのでなく、嫌みを言つたり、仲間に愚癡つたりして見せて、遠囘しにじはじはと敵を人々が嫌ふやうに空氣を作り出さうとしてゐる。松永の工作の陰險で政治的な事と言つたら――餘りに嫌らしくて、反吐が出さうだ。
平成二十一年四月二十二日
私は、松永のやうに「個人的な感情です」と言張り、言ひ訣しながら、特定個人を攻撃する態度は、大變嫌らしいもので、男らしくない、と思ふ。
他人を攻撃するにも、ルールがあるんだよ。戰爭にもルールがあるやうに。松永のはルール違反だ――ところがそれが松永には解らないと來てゐる。名指しで批判しないのが失禮なのに、名指しで批判するのは失禮だとぬかしてゐるし。常識がないんだよ常識が。
もちろん、名指しで罵倒しさへすれば良いと言ふものではないから、喜六郎が免責される筈もない。喜六郎の場合には、名指しで批判をせず、名指しで罵倒してゐるから許されない。
罵倒は許されないんだよ。批判は許される。喜六郎や松永は、罵倒してゐるだけであつて、批判をしてはゐない。私は何時だつて正當な批判をするやうに努力してゐる。それを喜六郎や松永は、罵倒だと極附けてゐるから、人の發言を封殺しようとしてゐる事になるんだよ。ところがそれが渠等には解らない。價値觀が私と連中とでは、根本的に正反對であるらしい。が、私は自分の價値觀こそが正しいと思ふし、連中の價値觀はをかしいと思ふ。それはただ「思つてゐる」だけではなく、根據があつて思つてゐる事だ。彼らは自分の感情に基いて物を言つてゐるし、その感情を理性によつて正當化すると云ふ必要な手續きをとつてゐない。何しろ感情だけで戰つてゐるから、彼らとは議論が成立たない。私は、感情的に物を言ふが、感情による判斷に就いては一々理性による檢討を行つて、正當化を行つてゐる。だからその正當化に對しては反論可能である筈で、議論出來る筈だ。
そもそも、私が感情を理性で檢討するのを「感情を正當化する事だから惡い事だ」と言つて詰る人がゐるのだ。これが私には理解出來ない。「正しさを振りかざす」行爲だと言ふのだ。私が反省しない傲慢な人間だと言ふのだ。をかしな話だ。感情の判斷を理性で檢討するのは、反省と云ふ行爲そのものだ。私にしてみれば、自己の感情を生で押出して表現する人々の方こそ、無反省で傲慢であるやうに思はれる。例へば松永氏だ。松永氏は嫌悪感拒絶感違和感と言つてゐる。それを松永氏はそのまゝ提示して來てゐる。なんで反省しないのだらう――私には不思議でならない。反省がない、理性による檢討と裏づけがない――だから松永氏の言つてゐる事は松永氏の獨斷であり、自己中心的な主張であると、私は判斷せざるを得ない。
或は、松永氏の結論は、感情剥き出しである。私は感情を見せるけれども、結論は常に理性の裏づけのもとに下してゐる(或は、下さうと努力してゐる)。そこには根本的な違ひがある。ところが、私を非難する人々は、そこに違ひを見出す事が出來ない。
平成二十一年四月二十二日
「彼ら」には最早説明しても無駄だと思ふ。「條件が異れば同じ事象でも異る解釋をしなければならない」と云ふ常識すらも、「彼ら」は持合せてゐないからだ。喜六郎のやうに。
「彼ら」は、官僚的に、或事象を見れば即座に或結論に結び附ける。頭が硬直してゐるのだ。斯う云ふ連中に理解出來るやうに私は話をする事が出來ない。固定的な正義を説き續ける事に、私は我慢ならないからだ。私は理想を目指してより正しいものを追求する柔軟な態度を求める。だから私は、頭がまだやはらかい若い人に期待せざるを得ない。
平成二十一年四月二十二日
私は「これが絶對的に正しいのだ」とは言つた事がない。「正しいものを志向する態度が必要だ」と言ひ續けてゐるのである。それが松永には解らない。喜六郎にも解らない。
彼らは「正しいもの」を私が既に「知つてゐなければならない」と極附けてゐる。そして、松永は私が「知つてゐる正義を振りかざしてゐる」から「嫌ひ」だと言ふのであり、喜六郎は私が「知つてゐる積りで何も知つてゐない」から「馬鹿」だと言ふ――さうした解釋の違ひが彼らの態度の違ひに表れてゐるに過ぎない。けれども、「彼ら」はいづれも私の主張を根本的に誤解してゐる。彼らは私の主張の本質を絶對見ようとしないのだ。
そして、私がいくら誤解だと言つても、「彼ら」は私の釋明を認めようとしない。認めたら、自分の誤を認める事になり、それこそ嫌な事だからだ。が、そもそも彼らには、私の主張の本質が解らない。彼らは目に見える成果物だけが認識できる。成果物の先にある理念・理想と云ふものを強調する私の態度を、彼らが正しく認識する事は土臺出來やしないのである。
さう云ふ理想主義に對する無理解は、日本人には良く見られる事で、實は私にも「ある」のだが、日本人の弱點だから反省しなければならない。もちろん、反省しようにも日本人にはさうした觀念論を弄する習慣がそもそもなく、私自身も反省は不徹底だが――しかし、だからと言つて、日本人は何時までも無反省でゐていいと云ふ訣ではない筈だし、だから「反省せよ」と言ひ續ける事には意義がある。さう云ふ資格も權利も「野嵜にはない」と「彼ら」は非難するだらうが、しかし、それを言つたらそれらは誰にも「ない」のであつて、ならば誰にでも「ある」事になる。とは言へ、そこで只管私を責立てても、何も良い事はない訣で、「彼ら」もその點は反省した方がいいと思ふ。
平成二十一年四月二十二日
疑似科学批判批判批判批判:王様は裸だ!Annex:So-net blog
長い割に内容が薄くて途中で嫌になつて飛ばし讀みしたら訣がわからなかつた。よつて本文の批判ナシ。自分語りされても面白くないもの。
コメント欄にこんな事を書いてゐる人がゐた。

ニセ科学批判がダメな理由のひとつとして、菊池氏と天羽氏が「と学会」の会員であることの影響が挙げられます。「と学会」とは、自分たちが気に入らない相手を笑い飛ばすという妙な特権意識を持った集団です。「と学会」のモットーの1つが、「トンデモ本をバード・ウォッチングのように楽しむ」ことです。観察相手と接触することなく、上から目線で見下すという態度。この歪んだ精神がニセ科学批判の世界に持ち込まれ、いまなお幅を利かしている不健全な状況は十分に非難されるべきだと思われます。

納得した――「似非科學批判批判」のパターンが「ある」のだ。例によつてパターンだ。
パターンに乘つかつて批判するとは即ち自分では何も考へてゐない事だ。そして、そのパターンへの信仰を自覺しないから、自分は正義を振りかざしてゐるのでも何でもないと思ひ込める。パターンが指示する一種の「論理」を「正しい」と信じ込んでしまつて、パターンそれ自體が「正義」である事實をわからなくなつてゐるんだ。けれども結局は解釋の仕方を官僚的にパターン化してしまふだけで、事實に即して一々判斷するのを怠る結果にしかならない。
松永氏にしても喜六郎にしても、パターンに乘つかつてゐるだけに過ぎない。だから言ふ事が硬直化してゐるんだ。
平成二十一年四月二十二日
松永は「正しさを振りかざす」事に嫌惡感を覺えると言つた。
しかし私は、嫌惡感を振りかざす松永に嫌惡感を覺える。
――そもそもの方法論に、彼我の間には違ひがあるんだよ。ところが、その方法論、松永は飽くまで感情・感覺を丸出しにする、と云ふものだ、何うしたつて認められるものではない。當り前だ。松永のやり方は主觀を押附けるものだからだ。ところが、松永は主觀を表明してゐるだけだと思ひ込んでゐる。主觀を表明する時に、ターゲットを特定してゐるのだから、主觀を押附けてゐる事は明かだが、ところがさう言はれない爲に、松永は卑怯にも「名指ししてゐない」と言逃れをする。けれども、具體的に名指ししてゐなくても、それとなくでも「敵」の存在を示唆してゐれば、最うそれは明かに攻撃なんだよ。
平成二十一年四月二十二日
と言ふか、自己に外在するつて何語だよ。理解出來ない。松永當人も解つてゐないんだらう。自分でも解る言葉を使つて喋れよ。
「自己に内在する」とは言ふが、自己に外在するとは言はない。

平成二十一年四月二十一日
http://d.hatena.ne.jp/twoineko/20090420/p1

さうではなくて、正字正かな派は「フォトンベルトを信奉しているこいつはバカだ!」と叩くやうな連中と同じだといふことでせう。

えー。
hokuto-hei 2009/04/18 22:57
今日のエントリは、ある種のニセ科学批判批判にもなってるね。
あー。その。なんだ。……。えーと。なるほど。やつと理解した。
松永氏、「あつちの世界」の人間だつたんだ。
ニセ科学批判批判なんてやる奴は明かに馬鹿だろ。俺、松永氏にまだ期待してゐたらしくて……だから良い方に誤讀したんだらうけれども、松永氏、本當に駄目なんだ。これで安心して叩ける。がつかり。
平成二十一年四月二十一日
http://www.geocities.jp/janggijp/2009-04.html#D20-2
平成二十一年四月二十一日
β-reverse掲示板
ごめん。
本當にごめん。
平成二十一年四月二十一日
自分が自分を偉く見せようとしてゐるからと言つて、野嵜も同じ事をしようとしてゐるに違ひないと極附けるのは、やめてほしい。冗談ぢやねえよ。
――まあ、本當に「俺は偉い」と思つてゐる人は、俗世の事になんか口を出したりはしないものだ。

平成二十一年四月二十日
落伍者たち - 解釈と思考
平成二十一年四月二十日
http://d.hatena.ne.jp/twoineko/20090419/p1
松永氏は「正字正かなはフォトンベルトのやうなもので、擬似科学だ」と言つてゐるやうに見える。「現代仮名遣」こそがでつち上げなのに。
やつぱり元オウムの人だから、松永氏は自分が擬似科学にはまつてゐるのでも、自分は絶對に正しくて、他人は絶對間違つてゐるやうにしか見えないんだらう。
平成二十一年四月二十日
「擬似科学批判」としての正かな派の立場 - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
一言で言つて、松永氏にはただの俺ルールで野嵜をぶつた切らないやうにして貰ひたい、と云ふ事だ。
平成二十一年四月二十日

ついでに今更だが(闇黒日記の二月二十二日の記事だが読み流してゐた)、いったい「河上イチロー」の正字正かな掲示板って何だったのだらうな(闇黒日記の二月二十二日の記事参照)。その掲示板を管理してゐたころ、書き込む人の中には正かな派もゐただらうが、松永氏に彼らへの違和感はなかったのかとか。違和感があるのに「忠告」だか「批判」だか全くしなかったのかとか。書き込む人っていちおう「仲間」ぢゃないのかなとか。彼らの「間違った考へ方」を指摘してやる義理はなかったのかなとか。謎ばかり。

國語國字正常化に就いて考へる掲示板(のログ)
angelfireだからへんなウィンドウ出るかも知れない。Opera邊で見るといいと思ふ。
しかし、「空しい種蒔き」を當時からえんえんやつてゐるのは私一人になつてしまつたんだなあと感慨頻り。しかも、その「種蒔き」に對して、當時勢ひよくやらうやらう言つてゐた連中から非難されてゐる始末なんだから……。皆變り身の早い事よ。
平成二十一年四月二十日
正仮名遣ひに注力 - ziomの日記
正仮名遣ひ実践7つのコツ(優先度順) - ziomの日記
平成二十一年四月二十日
やまねこ日記

平成二十一年四月十九日
Yahoo!ブログ - 久左衞門の居館 ・ 相州浪士の意地を見よ
平成二十一年四月十九日
アカショウビン通信: 歴史的仮名遣い
「正かな派は正かなと言って自分だけの正義を振りかざし、他人に押附けようとしている」と松永氏なんかが盛にPRしてゐるのだけれども、斯うしたやりとりを見ると、案外「アンチ正かな」「アンチ歴史的假名遣」の人の「正義を振りかざす」態度の方が目立つんですよね。
何うしてこんなに居丈高になれるんだらうと言ひたくなるくらゐ、居丈高に、歴史的假名遣に好意を寄せる發言を頭から否定し、罵倒する。
さうしたアンチからの意地の惡い罵聲を繰返し浴びせられてゐるうちに、正かな派の側でも、アンチの人々に對抗して強い言葉を用ゐるやうになつたのですが、さうすると、アンチの人々は「正かな派は傲慢だ」と宣傳を始めてしまふ。剩へ、松永氏のやうに、「正しさを振りかざす行為には嫌悪感をおぼえる」云々とすら言出す始末。
平成二十一年四月十九日
MadKod's Home Page
平成二十一年四月十九日
なぜ歴史的仮名遣いは廃れたのか
008 名無しさん (2008/10/29(水) 03:30:57 ID:/C.Q4q9w)

廃れてるだけのことで、間違いだなんて誰も思ってない。

ただ歴史的仮名遣いマニアの中には、それが正統だと主張したり「旧仮名」の呼称に反発して「正仮名」と言ってみたり(気持ちは分かる)現代仮名遣いは文法的に間違っているからダメだと切り捨てたり、単なる「好き」を通り越した発言をする人がいるから敬遠される。

驚くべき事に、「正しさ」を主張するのは良くない事で、「好き嫌ひ」を主張するのは良い事なのださうだ。
誰が何う考へても、自分の主張の正しさを立證し、より正しい=より良い方式を廣めようとするのは、當り前の事だらう。それを「絶對に許さないよ」と言ふのだ。訣が解らない。
「私にとって、歴史的仮名遣いは正しくないのだ」と言ひたいのかも知れないが、そんな事はない、歴史的假名遣は日本人一般にとつて正しいものであり、良いものであるのだ。
――然るに、「現代仮名遣」を「好きで好きでたまらない」と本氣で思つてゐる人なんて、この世に存在するのだらうか。少くとも、「歴史的仮名遣は趣味でやっているのならば存在しても良い」と居丈高に言放つ松永氏のやうな人々は、別に「現代仮名遣」の事が好きでも何でもない事だらう。ただ「現在、自分が使っている」と云ふだけの事で「現代仮名遣」にしがみ附いてゐるだけの事だ。そして、さう云ふ自分の立場を「保守」せんが爲に、正かなづかひが廣がるのを阻止しようとして、「正かな」と云ふ言ひ方にいちやもんをつけ、「正かな派」と云ふ人間の態度を頻りに問題にしてゐる。それは、物事の本質に關する議論を囘避し、側面から工作を行つてゐるのであり、よつて甚だ政治的なやり方だと思ふのだが、彼らは自分逹が政治活動をしてゐるものと自覺してゐない。ただ、「正しさを広めようとしている」積極性を捉へて(と言ふより、そこに「積極性」が「ある」事にして)、正かな派の運動を「政治活動」に見せかけ――しかも、その「政治活動」と云ふそれ自體の觀念に「惡い印象」を賦與する事で(そこには何の根據もない)、正かな派の活動を事實上封じ込めようとしてゐる。大變陰濕なやり口だと思ふが、松永氏もその他の「アンチ正かな」の人も、自分達の主張は公明正大なもので、正かな派或は野嵜のやり方は「人間として許しがたいものである」と本氣で思つてゐる。しかし、「俺達の非難にノザキは口答えしている、何を思い上がっているんだ」と彼らは言つてゐるのに等しい――彼らは自分逹の正義を「正かな派」或は野嵜個人に、頭から押附けてゐる。さう云ふ連中が他人に「正義を振りかざすな」と要求するのは、要は、自分逹が振りかざす正義を他人が受容れるのに都合が良いからではないか。
松永氏は答へないだらう。再び「プロパガンダ」が何うの斯うのと「愚癡」をたれて、それで自分が勝つた積りになる事だらう。實際、正かなの「復活」はあり得ない話であり、さう云ふものを罵倒してゐれば、理論は何うであれ、論者は「勝つた」氣で居續ける事が出來るのである。正かな派から何んな反論が來ようが、「現に正かなは普及してゐない」と「アンチ」の側は安心してゐられる。「勝利」を味はひ、快を貪るのに、「正かな批判」は大變都合が良いのだ。だからみんな「やる」のである。
平成二十一年四月十九日
と言ふか、「本當の保守なら萬葉假名」と云ふスローガン、餘りにも解り易くて、みんな安心して信じ込んでゐるんだよな。
「保守」と云ふ言葉を曖昧に使へば何だつて言へる、と云ふだけの事なんだが。
大體、飛鳥・奈良或は平安の時代に囘歸してしまつたら、それ以降の先人の存在は何だつた、と云ふ事になるんだよ。それら全ての先人の存在を無にしない爲に――歴史の全てを肯定する爲に、歴史的假名遣は「ある」んだから。
明治以來の言文一致の運動をも歴史の流れの中でその存在を認める、だからこそ歴史的假名遣は口語文を書くのに用ゐるんだよ。
ところがさうした歴史を否定する事が「歴史的假名遣派の本當の立場」だと極附ける人がゐる。大變な誤だが、「ただただ昔に帰りたいと思っているんだろ」と彼らは信じ込んでゐるから――と言ふより、さう云ふ事にしておいた方が正かな派を否定し易いから、彼らは「單純明快」な物事の割切り方をする。マスメディアが簡單に現實を割切つて、善と惡とに裁斷して、ショー的に一方を責立てて「視聽者」に快を與へようとするのと、何も變らない。
しかし、ウェブと云ふメディアを利用してゐる人に「俺達はマスメディアと違うんだ」と云ふ變な誇りだか何だかが蔓延してゐる現實がある。「違う」と思ひ込んでゐるから、マスメディアの單純な二分法を嗤ひながら、自分は平氣で單純な二分法を採用してゐる。アンチの立場をとる事で安心してしまつて、反省できなくなる、と云ふ事が人間には「ある」。安心してしまつてはならないのだが、アンチの人々は、「信者」こそ「安心し切つてゐる」んだと非難する事で、自分は安心し切つていいと思ひ込んでしまつてゐる。信者だらうがアンチだらうが反省しなければならない事は同じだらう。それがアンチには絶對に解らない。さう云ふ點では「信者」の方が遙かに増しだ。
平成二十一年四月十九日
「現代仮名遣」と云ふ既成事實を「正義」と言張つて押附ける人々がゐる。さう云ふ正義の押附けを非難する「アンチ正かな派」の人は一人もゐない。そもそも、例へば松永氏なんかがさうだが、彼らはそれが正義の押附けだと思つてゐない。何しろ自分の行爲であるのだから――多數の人間が當り前のやうにやつてゐるのだから、當り前なのである。
ところが、さうした正義の押附けである「現代仮名遣」に反對する事は、「正しさを振りかざす」行爲だと松永氏は非難する。少數派が多數派に對してアピールを繰返してゐる――多數派の側からしてみれば、少數派のアピールは鬱陶しいものにしか思はれない。さう云ふ訣で少數派のアピールに多數派は嫌惡感を覺える。その嫌惡感を露骨に表明して、多數派は恥ぢない。そして、少數派が「好きでやっている」事ならば「認める」と言つて、自分は一貫した事を言つてゐる積りになる。要は少數派が多數派になる事を恐れてゐるのだ。それで少數派の活動を妨碍する爲に、因縁をつけて潰しにかかつてゐる。それを多數派は、多數派であるがゆゑに「公正な態度である」と誤つて信じてしまふ。
――公正の觀念を身に着けてゐない人々だからこそ、自分逹の態度を反省する事がない。それでは困るのだが、「いいや、今、俺は困っていないね」と「俺は」「俺は」を強調するのが多數派である。これを衆愚政と極附けたら、多數派は怒るの怒らないの。しかし、實際、好き嫌ひで物を言ふのが當り前といふのは、衆愚政だらう。
平成二十一年四月十九日
歴史一口話 : 歴史的仮名遣ひ - livedoor Blog(ブログ)
「現代仮名遣」こそイデオロギーの産物である、と云ふ締めの言葉は重要。さう云ふイデオロギー的なものに反對してゐるのが正かな派の立場だ。
ところが、「現代仮名遣」にどつぷり浸かつた今の人々は、自分達がイデオロギーに從つてゐる事の自覺がなく、「自然」であるかのやうに思ひ込んでゐる。ところが、「現代仮名遣」は「人工のものですよ」と、正かな派の人間は事實をしれつと指摘する。それが、「現代仮名遣」のイデオロギーにどつぷり浸かつた人々には堪へられない。イデオロギーに基いて行動してゐるのだから、何の根據もない訣で、それで「現代仮名遣」派の人は理論的に反論する事ができない。にもかかはらず、イデオロギーに「從はねばならない」と云ふ強烈な意識だけがあるものだから、激昂して、「アンチ正かな派」になつて、激しく正かな派と云ふ人間を罵り始めてしまふ。
論理で反論出來ないから人間を罵り、その人の發言を封じ込めてしまはうとする――イデオロギーつて、本當に恐ろしいですね。そして、イデオロギーに基いて、眞實を歪曲するのは、明かに政治的な行爲です。松永さん、あなたは政治的な活動をしてゐるのです。さうした政治的な態度に、私逹正かな派は反對してゐるのです。
平成二十一年四月十九日
「現代仮名遣」は、政治的に定められ、國民に強要されて來たものです。それを、結果として「國民が受容れた」にしても、決して自然に普及したものではありません。依然、「現代仮名遣」には、人工的な・人爲による不自然さが殘つてをり、しかも、半世紀以上の長きに亙つて、事實上、一度も言語の實態に即して改正されてゐません。
「現代仮名遣」が現代の日本人にとつて不自然なものである事は、論ずるまでもない、事實です。事實が事實としての重みを發揮するのを、「正義を振りかざす」事と言做して、否定するのは、現實から目を背ける事に他なりません。眞正面から事實を見据ゑる事、それは政治的な歪曲を許さない事です。
平成二十一年四月十九日
本居宣長「在京日記」における仮名遣い : 歴史的仮名遣いとの相違を中心に : Kyushu University Institutional Repository (QIR)
「歴史的仮名遣い」と云ふ「一つの固定的な規範」が「ある」とする學術上の立場がある――上記の論文は、さう云ふ立場から言ふ「歴史的仮名遣い」と宣長の個人的な用字法とを比較してゐるものだが、この立場は一つの立場であるに過ぎない。
實は、「歴史的仮名遣い」と云ふ用語もまた、大變曖昧に用ゐられてゐる。
上記の論文では、規範としての「歴史的仮名遣い」と區別されて個人の「宣長の仮名遣い」と言つてゐる。ところが、常識的に見れば、宣長の書き方は歴史的假名遣だ。――既に、この時點で、歴史的假名遣と云ふ語の用ゐられ方が違つて來てゐる。その違ひを意識しないで、「同じ言葉だから同じである」と安易に判斷する人が大變に多い。
「歴史的仮名遣いは明治政府の創作・でつち上げ」と言ふ時、それは正かな派の言ふ「歴史的に、觀念として存在し續けてきた理想の假名遣ひ」としての歴史的假名遣とは違ふ、上記の論文で用ゐられてゐるやうな「一つの固定的な規範」としての歴史的假名遣の事を言つてゐる。ところが、同じ「歴史的假名遣」と云ふ用語だから、「同じものである」と多くの人が思つてしまふ。
意味の違ひを無視した、表面的な用語の同一性に基づく判斷は、「聯想ゲーム」にほかならず、誤である。
實際、學術的に「一つの固定的な規範」として「歴史的仮名遣い」と言はれてゐる現状がある。さうした状況があるからこそ、「歴史的に存在した理想的な・觀念的な正しい假名遣」を「歴史的假名遣」と安易に言つてしまふ事は、實は誤解を擴大させる事になり兼ねない。そこで「正統假名遣」「正かなづかひ」と云ふ用語を別に立てる事は誤解を避ける爲に方法として「あり」だと思ふのだが、「正しいと言うな」と感情的に反撥する人が非常に多い。しかし、「歴史的にずつと存在した觀念」「正しいと云ふ觀念」の事を指して言ふ言葉なのだから、内容に即して「正統假名遣」「正かなづかひ」と言はざるを得ないと思ふのだが。
別に誰も「正しさを振りかざす」なんて事をしようとしてはゐないんだよ。單に内容に即して用語を定めただけだ。そこに勝手に意味を見出してゐるのはアンチの人々の物の見方が反映されてゐるに過ぎない。大體、言葉なんて觀念を指し示す記號なんだから、正かなだらうが歴史的假名遣だらうが同じものだらう。なんでそんなに「正」と云ふ字にいきり立たねばならないんだらう。誰もがみな「正しい」事は信じてゐるものだらう。
「正かな」と云ふ言ひ方に反感を持つ人々の反論を聞きたい。
平成二十一年四月十九日
零局掲示板を正假名遣ひ表示せしむる試み
平成二十一年四月十九日
変換辞書をめぐるFAQ:!Q.「おもふ→思ふ」のように、歴史的仮名遣いで読みを入れても変換できないのですが…。
平成二十一年四月十九日
MSN相談箱 歴史的仮名遣いの名前とパスポートのローマ字
明かに役所が間違つてゐるが――佛蘭西語だとHは發音しない、と云ふ割切り方で役所の強要を受容れる事も出來なくはない。
が、さうした歴史的假名遣の融通性の高さが、役所の人や一般の人の融通のきかなさを容認して、助長してしまつた事實は否めない。
「現代仮名遣」の側は歴史的假名遣に甘えてゐられるんだよ。
平成二十一年四月十九日
と言ふか、何で「好き」とか「嫌悪感」とか言ふんだらう。感情は何うにもならないから反論出來ないんだよ。と云ふ事は、それは對話を否定してゐる事になる。何うして對話を否定するのが良い事なのだらう。
松永氏は、飽くまで自分は一方的に自分の言ひたい事を言ひ、他人をやつつけようとしてゐる。ところが相手には一切反論させたくない。さう云ふ態度は許されないが、それを「許されるもの」に見せかけようとして、松永氏は「感情」「好き嫌い」を強調する。しかし、それは依然として、自己中心的で、ずるいやり方だ。
「嫌悪感を覺える」と言つたり「好きな奴だけすみつこでやつてろ」と罵倒したりする感情論に、何んな良い事があるんだ。「事實を述べただけだ」――そんな事實を述べる事は許されないに決つてゐるぢやないか。事實だつて言つて良い事と惡い事がある、そんな事も解らないのか。松永氏は答へる義務がある。或は、その他の感情的なアンチ。

平成二十一年四月十八日
リストの横並びで不思議な空白ができるアレ、をスマートに解決する - vantguarde - web:g
HTML文書中の改行文字について
http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/rec-html401j/appendix/notes.html#notes-line-breaks
HTML//空白
SGML//空白
XML//空白
SGMLであるHTMLだとタグの前後の空白文字は大體全部無視される筈だけれども、XMLであるXHTMLだと無視されない、と云ふ事?
平成二十一年四月十八日
hxxk.jp - 「リストの横並びで不思議な空白ができるアレ、をスマートに解決する」を読んでの自分用の再確認
平成二十一年四月十八日
第5回 HTMLからXHTMLへの移行方法(2):ITpro

複数の空白文字が連続している場合、特別な場合(pre要素の範囲内など)を除いてひとつにまとめられる。また、開始タグの直後の空白文字、終了タグの直前の空白文字は無視されることになっている点はHTMLと同じである。

平成二十一年四月十八日
XHTML 1.0
タグの前後の空白文字ではなくて、ブロック要素を囲む空白文字は除去、つて事なんだつて。勿論「ユーザエージェントが」。それを除去しないユーザエージェントが糞と云ふ事。
平成二十一年四月十八日
空白一箇くらゐいいぢやねえかよ。デザイナつて何で斯う云ふ何うでもいいところに拘るんだらう。

平成二十一年四月十七日
オーウェルの『動物農場』を却下したT・S・エリオットの書簡、公開される 国際ニュース : AFPBB News
平成二十一年四月十七日
2009-03-14 - 備忘録ことのはインフォーマル
白石良夫の『かなづかい入門――歴史的仮名遣VS現代仮名遣』を讀んで大喜びしてゐる。この本、バカを檢出するリトマス試驗紙として使へるね。
あと、『暴走するセキュリティ』の話をしながら、こんな事を言つてゐる。

2ちゃんねるなど、「正義」を振りかざす人々の「自分は正しいことを奉じているのだから、自分は正しい。自分たちに逆らう者は、正義を否定するものだ。だから攻撃しなければならない」というトチ狂った発想は、この構図とまったく同じだといえる(わたしは主張の内容が正しかろうと何だろうと、「“正しさ”を奉じる」という暴力には納得できない)。そして、わたしが「正しさを振りかざす」ことを生理的に毛嫌いしているのに、あたかもわたしがその「正しさ」を否定しているかのごとくプロパガンダする連中もいる。

この人なんで個人的な感情論を偉さうに語つてゐるの?
「自分が他人に感情論を押附けるのは許せるけれども、他人が自分に論理的に正しい事を言ふのは絶對に許せない」と云ふ人は、客觀的な正しさを否定してゐるのだ。逆に言ふと、客觀的な正しさ・眞實を認める人ならば、その正しさや眞實を言ふ人に對して、「わたしにあなただけの正義を押附けないで下さい」等と不平を言ふ事はあり得ない。「わたしは、あなたの主張が正しいとは思へません、それはなぜかと言ふと、……」と、自分も根據を擧げて客觀的な・論理的な反論をするに決つてゐる。

 昨今、メディアにおける犯罪報道では、遺族が語る場面が必ずといっていいほど挿入される。そして、それは「善」と「悪」という、単純な二項対立のフレームのもとでスペクタクル化されている。その効果として、人びとのあいだに「道徳的な公憤」を強力に喚起してしまうのだ。つまり、「悪」なる加害者に対する、厳罰感情のインフレーション(膨張)というべき事態が起こる。……(中略)……

 かくして、感情的できわめて短絡的な反応ばかりが突出して進行する。(p.141)

喜六郎もさうだけれども、「メディアの愚かさ」を言ふ人は、自分の敵もその「メディアの愚かさ」と同じ愚かさに陷つてゐるものと頭から極附けてかかる傾向がある。しかし、さう云ふ「メディアに對する反感」は「あなただけの正義」ではないのか――そして、その「あなただけの正義」をふりかざして、あなたはあなたの敵に暴力を揮つてゐないか。
私はYahoo!掲示板で、自稱平和主義者の人々と言爭ひを繰返したけれども、そこで氣附かされた事がある。平和主義にめざめた人々は、未だにめざめない人に對して、實に居丈高な態度をとり、自らにまつろはぬ相手に對しては甚だしく暴力的な言辭を弄す、と云ふ事である。松永氏も、暴力的な「正義漢」に對して、激しい暴力的な言葉を用ゐてゐる。問題は、平和主義者も、松永氏も、「自分は平和的な考へ方をしてゐる」からと言つて、どれほど非道い暴力的な言葉を吐いても、飽くまで「自分は平和的である」と言張つて、反省する事が無い、と云ふ事だ。本當に平和を愛する人であるのなら、他人に對して少しでも批判的な事は言出せない筈であるが、多くの平和主義者も松永氏も「平和主義」の假面を被る事で却つて攻撃的になつてしまつてゐる。
實は、意見を述べる事それ自體が自己の信ずる正義を表明する事であり、それは暴力的だと言つてもいい(だからニーチェは「權力への意志」と言つた)。だが、さうなると、「平和主義」にしても「正義を振りかざす事への生理的な嫌悪」にしても、所詮は他者を攻撃して自己の「權力への意志」を満足させる爲の手段としての言葉でしかない。要は、人間は本質的に攻撃的であり、暴力的である、と云ふ事だ。ならば平和主義も「正義を振りかざす人々への生理的な嫌悪」も、全て勘違ひに過ぎない。さう云ふ勘違ひを非難して、松原先生は人間が人間である限り『戰爭はなくならない』事を指摘した。戰爭だらうが論戰だらうが、正義の押附け合ひに外ならない。そして、人間はさうした正義の押附け合ひをするのが當り前なのだ。言葉の暴力も、物理的な暴力も、大して變らない。兩者も現實に存在するものだ。觀念的に否定しても意味はないし、そもそもその「觀念的に否定する」事は「正義の押附け」以外の何ものでもないのだから、自己矛盾なのだ。
平成二十一年四月十七日
――と言ふか、「無斷リンク禁止」とか「マナー」とか言つてゐる連中と松永氏、何も變らんな。或は「無斷引用禁止」。客觀的に「惡い」と證明出來ない事を「生理的に嫌」と言つて罵倒するの。
平成二十一年四月十七日
松永氏は所詮、「正字正かな」と言ふ人間に對して「生理的な嫌悪」と云ふ「あなただけの正義」を振りかざしてゐるのに過ぎず、自分の嫌ひなタイプの人間に對して人格攻撃をしかけてゐるに過ぎない。しかし、そんな松永氏の理論を主張する態度は、松永氏の理論と矛盾してゐるのだから、説得力はゼロだ。ただ、松永氏と同じやうな嫌惡感・主觀を持つてゐる人がゐれば、同調する事になる、と云ふだけの話に過ぎない。松永氏は、ただただ、自分と同じ感性の人間を求めてゐるに過ぎない――が、感性が問題であるのならば、主觀が問題であるのであり、客觀的な正しさを否定してゐる事になる。ならば、あたかもわたしがその「正しさ」を否定しているかのごとくプロパガンダする連中もいる。と云ふ松永氏の非難は、正しい事を言つてゐる人間を「正しくない」と嘘を言つて非難してゐる事になる。
平成二十一年四月十七日
實際のところ、「正しさを振りかざす人間が嫌ひである」と言ふ人は、ひたすら「人」に興味があるだけなのであつて、「正しさ」それ自體には「人」ほど興味などないものである。が、ならば、その人は、「正しさ」の價値を否定してゐるのである。
それが解らないのは、自分が主觀的にものを言つてゐる事實を、他人に對しても・自分に對しても、隱蔽したいだけなのである。
と言ふより、「人」に興味があるのではない、はつきり言はう、喜六郎や松永氏は、他人を貶めて遊ぶ事に興味があるだけなのだ。「正しさ」を「認める」と言ふのも、自分の嫌つてゐる特定の人間(もつとはつきり言はう、野嵜)が嫌がるやうに、彼らは當てつけを言つて見せてゐるに過ぎない。松永氏は、私が嫌な氣分になるやうに、惡口を言つてゐるのだ。さう云ふ自分の本心を匿す爲に、松永氏は――喜六郎にしても――尤もらしい理窟を言つて見せてゐるに過ぎない。
平成二十一年四月十七日
http://d.hatena.ne.jp/twoineko/20090417#p1
平成二十一年四月十七日
東京古書會館のフリーダム展で明治書院の『講座 正しい日本語』の二卷と三卷を買つて來た。武部良明氏が「現代かなづかいの問題点」を書いてゐる。

現代かなづかいというのは、本来、表音式を目ざしたものである。そのことは、国語審議会がこれを取り上げた経緯からもいえるのである。

それは、終戦後まず標準漢字表の再検討から始めた際のことであるが総会(昭21・4・27)で次のようなことが問題になっている。すなわち、漢字の字種を制限すると、漢字に隠れていたかなづかいが表面に出てくる。たとえば、動植物の名称をかなで書くとなると、<こひ(鯉)・たひ(鯛)・あふひ(葵)・うぐひす(鶯)>などは、いちいち辞書を調べなければ正しく書けない。これでは、せっかく漢字を制限しても効果がないという。これに対して行われたのが<だいたい表音式にするように進んでいきたい>という趣旨の発言である。要するに、漢字制限の効果をあげるには、かなづかいを表音式にしたほうがよいと考えられたのである。そうして、こういう方針がその後の「かなづかいに関する主査委員会」に引き継がれて審議され、議決・答申を経て内閣告示となったのである。

しかし、このようにして制定された現代かなづかいではあるが、それが必ずしも表音式でないこと、周知のとおりである。すなわち、同じ発音は必ず同じかなで書き表すというのではなく、その点では、<大体、現代語音にもとづいて>いるにすぎないのである。そうして、そのことが現代かなづかいを論じるにあたって、いつも問題になるわけである。そこで、この際、それら問題点の実体を明らかにしようとするのが、この小論である。

平成二十一年四月十七日
科學でも數學でも、互ひに理論と理論を持寄つて、激しい論爭を行ふ。そこでは、相手からの攻撃に反論する爲、論理の辻褄合せを論者は當り前のやうに行ふ。そこで論者の口の利き方を問題にする人はゐない――アインシュタインの皮肉を憎惡して、人格攻撃で以てアインシュタインを陷れ、發言を封じ込めようとした學者は存在しない。アインシュタインが人間的に嫌ひでも、その理論自體に反論しなければ、科學の世界では何うしやうもないからだ。
ところが、文學や思想の世界では、人格攻撃で論者を默らせる事が當り前の手段として用ゐられてゐる。ウェブの素人評論家諸氏も、さうした誤つた手段を平然と用ゐる。そして、さうした卑劣な手段を用ゐる人でも、松永氏なんかはなぜか多くの支持者を持つし、喜六郎ですら仲間を持つ。これは、文學や思想のやうな文系の領域では、理論的な正しさ・正しい理論は「存在しない」と多くの人がたかを括つてゐる事が原因であり、同時に、アインシュタインの樣な誰からも認められてゐる天才が文系の世界に存在しない事が原因である。だからこそ、松永氏のやうな贋物がウェブでは人氣を集めるし、喜六郎のやうな贋物も袋叩きに遭はないで濟んでゐるのである。要は、文系は贋物が横行しても無事でゐられるほどレヴェルが低い、と云ふ事だ。
が、文系の人間も理系の人間も、同じ人間であり、さうさう程度なんてものは變らない筈である。とすると、同じやうな人間が、理系では立派で通用するのであり、文系ではまるでやくざも同然の存在になつてしまふ、と云ふ事だ。これは詰り、理系の方が要求されるレヴェルが低い、と云ふ事を意味する。文系の領域で、まともな事を言ふのは、寧ろ難しいのだ。でなければ、斯うも低レヴェルの論者が文系の議論に於て跳梁跋扈し得る訣がない。
平成二十一年四月十七日
ところで、「現代の言葉」を書くのだから「現代仮名遣」に「しなければならない」のだらうか。さう云ふ發想は、「理想と現實を完全に一致せしめたい」と云ふ變な潔癖主義でしかないのだが。だからこそ、松永氏は「古文の假名遣」を用ゐるには「擬古文」で「なければならない」と言つてしまふ。「理想と現實とは違ふ」と云ふ常識がないのだ。常識がない奴はバカだらう。
平成二十一年四月十七日
生きた言葉を對象にするのが正假名遣ひでは? - ziomの日記
正かなづかひが何う斯うと云ふ事を言つても、松永氏には解らないんだよ。松永氏は、さう云ふ事を言ふ「人間」を問題にしてゐるのだから。寧ろ、さう云ふ理窟を言ふ事がそれ自體として松永氏には飛んでもない惡行に見えてしまふ。
正義を尊重すると言ひながら、正義を言ふ行爲を惡行と言ふのは、實は正義を否定する事なのだが、松永氏にはそれが解らない。自分が正義の主張をしてゐるといふ自覺すらもないのだから、松永氏には何もわからない事だらう。
平成二十一年四月十七日
ところで、江戸時代には既に現代語と同じやうな口語が存在してゐて、ただ、言文一致の習慣がなかつただけである、と云ふ事實は、松永氏は御存じなのだらうか。
と言ふか、松永氏に限らず、歴史的假名遣を用ゐるならば「擬古文」で書け、と勘違ひした主張をする人々は、實は言文一致の書き方を否定してゐるだけであるのだが、さう云ふ自覺は「ある」のだらうか。
歴史的假名遣の立場をとるのならば、「言」と「文」との徹底した不一致を主張するものでなければならないし、その實踐でなければならない、と彼らは主張する。が、そんな馬鹿な主張はあり得ない。ただ、一見「わかりやすい」單純な理論を言つて、彼らは納得してしまつてゐるだけなのである。しかし、そんな松永氏が、メディアの單純な「善惡二元論」を嗤つてゐるのである。その邊の事に自覺がないと云ふ事は――松永氏のメディア批判も所詮は他人の口眞似に過ぎない・淺薄皮相のものである、と云ふ事實を示してゐるのである。自分の頭で考へないから、あつちで良い事がこつちで惡い事になつたり、理窟が支離滅裂になるのだ。
そして、自分の發言に責任をとる、とは、自分の用ゐた理窟に責任をとる事であり、徹底して辻褄合せをする事で果されるものである。辻褄の合つた・論理の一貫した・體系的な主張は、一つの學説である。さうした自己の學説を確立する事こそ、論者の論者としての唯一の使命である。その學説こそが、學問の世界では結局のところ問題になる。
ただ場當り的に尤もらしい事を言つても、學問の世界では相手にされない。尤もらしいだけで何の意味もない「正論」を言つても、學問の世界では馬鹿にされるだけである。ところが、科學的な精神を持つてゐない多くの人には、それがわからない。
言つた事を實踐する――等と云ふ單純な「言行一致」を論者が「責任を取る事」だと勘違ひしてゐる人が餘りにも多過ぎる。さうした人々は、何も知らないがゆゑに、卑近なレヴェルに話を引下げて、それで理解しようとしてしまつてゐるのである。善と惡との二分法で片附けるメディアの淺薄と、どれほどの違ひがあると言ふのであらう。

平成二十一年四月十六日
BLOCKQUOTE要素とCITE要素をめぐる考察
dl要素の仕様についての疑問 - Webtech Walker
Re: dl要素の仕様についての疑問 : Weblog : SimpleIsm
di要素 : Weblog : SimpleIsm
「定義リスト」の「定義」と云ふ用語にみんな引きずられてゐる。W3Cの定義によれば、dtはインライン要素しか含められないリスト項目、ddはブロックレヴェルでもインラインでもOKなリスト項目、と云ふ事になつてゐる。
――一方、多くの人がリスト項目と云ふ事に變な拘りを持つてゐるにもかかはらず、何う考へてもリスト項目にすべきものをなぜかリスト項目にしない傾向が見られる。

<p>次に、文学作品を引用する。</p>
<blockquote>
<p>吾輩は猫である。名前はまだない。…</p>
<p><cite>夏目漱石『吾輩は猫である』</cite></p>
</blockquote>
<p>この引用文を読んで、次の設問に答えなさい etc...</p>

これについて、cite要素の配置に就いて問題にする人はゐるけれども――私には、同時に、pの中にcite要素を入れて事足れりとする態度に、疑問を感ずる。

<p>次に、文学作品を引用する。</p>
<blockquote>
<p>吾輩は猫である。名前はまだない。…</p>
</blockquote>
<ul>
<li><cite>夏目漱石『吾輩は猫である』</cite></li>
</ul>
<p>この引用文を読んで、次の設問に答えなさい etc...</p>

――何うだらう。
「一つの項目しかないリストはリストでないからリスト項目としてマーク附けするのはをかしい」と云ふ意見を聞いた事があるけれども、一つのリスト項目しかないマーク附けでも正當なマーク附けだから正しいと云ふ反論が可能でないか。
平成二十一年四月十六日
<dl>
<dt>A<dt>
<dt>B<dt>
<dd>C<dd>
<dd>D<dd>
</dl>
現状の定義リストの定義でも、上記の記述の場合、何處から何處までが「定義される語」で何處から何處までが「定義する説明文」であるかがわからない。
「A及びB」に對して「C及びD」の説明文がくつ附いてゐるのか、Aが説明文なしの語で、BにCとDがくつ附いてゐるのか。
しかも、dlの中身がddのみであるのみならずdtのみであつても、validであるが、それはul-liと何が違ふのか。
Love Cream Puffの各ぺーじを作つてゐるうちに訣が解らなくなつて、俺の場合は考へるのも面倒なので適當にする事にしたのだけれども、世間の人は斯う云ふ時には「徹底的に考へる」ものらしい。
しかし、Definition Itemのやうなもので範圍指定するやうになると、それはそれで繁雜で、面倒である事も事實。
平成二十一年四月十六日
あと。
<blockquote
 cite="http://martin.p2b.jp/200812-stream-of-life.html"
 title="いのちの流れ">
<p>日夜 私の血管を流れる 同じ命の流れが
 この世界を流れ 旋律に合わせて踊る</p>
<p><cite>
 <a href="http://martin.p2b.jp/200812-stream-of-life.html">
 「生命潮流」
 </a>
</cite>より抜粋</p>
</blockquote>
<p><cite>の後に改行を入れて<a href="http://martin.p2b.jp/200812-stream-of-life.html">と書き、さらにその後最う一囘改行を入れて「生命潮流」、さらに改行を入れて</a>、も一つおまけに改行を入れて</cite>云々と書いてゐる。
この書き方が氣持ち惡いと思ふのだけれど、何うだらう。ブロックレヴェル要素の前後に改行を入れるのは解るけれども、何うしてインラインの要素或はただのテキストの前後に改行を入れるのだらう。
或は、blockquoteのタグの中で改行してゐる。
間違つてはゐないけれども――ブロックレヴェル要素が前後に改行の入る要素であり、インライン要素が前後に改行の入らない要素であるのだから、さう云ふ風にソースも書いた方が自然であるやうに思はれるのだ。如何だらう。
http://p2b.jp/200901-blockquote-citeのソースを見ると、h1の中やh2の中でも改行を入れてゐる。一方で、<span>Powerful Perspnal-publishing Tool</span>がh1の直後に出現して、h1とともにdivの中に含まれる事でbody直下にspanが現れるのを防いでゐる。改行は兔も角、このspanの使ひ方はちよつと氣持ち惡い。
まあ、こんな重箱の隅をつつくやうな事を一々指摘する私と云ふ人間こそ「氣持ち惡い」と云ふ事になるのかも知らんけど……。
私なら、Powerful Perspnal-publishing Toolはul-liの中身にするけれども――せめてpにするとか。

平成二十一年四月十五日
春の重版で井筒譯コーランの改版が出たので立讀みしようとページを開いたら、こんな言葉が出て來た。これはアラーが私に「買へ」と言つてゐるものだと解釋して、最初は買ふ氣が全然無かつたのに買つて來た。

それから、嫌がらせのため、無信仰の故に、また正しい信徒の間に仲間割れを惹き起そうがため、かつはまた以前、アッラーと使徒に戦いを挑んだ人々のかっこうな待伏の場所としようがため、(新しく)礼拝所を立てた者どもがある。彼らは(口先では)きっと「わしらの願うところはひとえに(来世の)よき報いのみ」などと誓言までして見せるに違いないが、しかしアッラー(御自ら)彼らは嘘つきだと証言し給う。お前(マホメット)あのような場所を決して踏んではならぬぞ。よいか、そもそもの最初から懼神の心を基礎として立てられた礼拝所の方が、どれほどお前が足を踏み入れるにふさわしいことか。あそこには、常に、好んで心身を浄らかに保とうとする人たちがある。まことに、アッラーは心身の浄らかな人々を好み給う。

私はアラーへの信仰を持つてゐないし、イスラムの聖典の言葉を讀んで、アラーへの信仰を要求されても、應へる事はないが、しかし、この言葉は、成る程、大變身近なものとして、親しみを持つて讀む事が出來る。
即ち、ここで言はれる「新しい禮拜堂」を、喜六郎の「小屋」と比較して見る時、私はこのイスラムの聖典の言葉が、他人事とは思はれないのである。
『コーラン』は、偶然の結果だと言ふのだが、實際に言はれたのと逆の順番にマホメットによつて告げられた言葉を收めてゐると云ふ。開卷、すぐに現はれるのは、マホメットの最後の頃の言葉であるさうだ。そこにいきなり、こんな言葉が現れる。

信仰ある人々に出遭えば(殊勝らしく)「わしらは信仰する」と言い、仲間の悪魔どもだけになると「いやなにわしらは君たちの味方。一寸(信者どもを)からかってやっただけさ」などと言う。……

コーランは、信仰を勸める聖典であり、さう云ふ意義を多くの人が認める。アラーは、コーランの意義を語り、信仰に生きる人について述べる。それは文庫本で八行である。續いて、アラーは、信仰を持たない人間を脅してゐる。ところが、こちらは、文庫本で僅か四行に過ぎない。今、上に私が引いた言葉は、その後に續くものだが、これは「信仰に生きる人」でも「信仰を持たない人」でもない、「口先で信仰してゐると言ひながら、本心では全く信仰を持つてゐない人の事を言つてゐるものである。これは、文庫本で三十行に亙つてゐる。

また人によっては、「我らアッラーを信じ、最後の(審きの)日を信じ奉る」など口先で言う者がある。実は全然信じてもいないのに。そのようなやからはアッラーと、まことの信者たちとを騙そうとかかっておる。しかし実はわれとわが心を騙しているにすぎないのだが、それに気付きはせぬ。彼らの心の中には病患が宿っておる。……

喜六郎らは、イスラムの教へ等、自分とは無關係だ、と言つて、反省しないだらう。しかし、さすがに世界宗教の聖典ともなると、單純に信者だけにしか通用しない言葉だけで書かれてゐる訣もなく、この邊の「似非信者」の分析は、近代的な評論や思想・哲學ですら想起させる――即ち、自己欺瞞の存在をコーランのこの文章は指摘してゐるのである。と言ふより、土臺、人間の心理など、數世紀を經たからと言つて變はるものでもなく、現在に於いても、過去に於ても、正しく分析されてゐれば、同じ結論は出るのである。そして、だからこそ、今に至るまでコーランの言葉は説得力を持ち、イスラムを世界宗教として存續せしめてゐる。そして、正しい分析である限り、コーランの言葉は、異教徒である我々日本人に對しても、適用可能である。
案外、價値相對主義者の人には、この種の信仰の書の意義を「信仰」の面にだけ求めて、それだけで價値を決定してしまふ――即ち「價値はない」と結論してしまふ傾向がある。コーランに、人間心理の分析や人間の事實の指摘があると言つても、その種の人には屡々通じない。さう云ふ人に限つて、私のやうな人間のする事について、最初に結論を下して(もちろん「愚かである」と極附けるのだ)、その結論に基づいて人間の全ての言動を解釋して見せる傾向がある。さう云ふ結論を最初に下す事が價値相對主義と云ふ事なのかと私は揶揄した事があるが、それを價値相對主義者は「愚かだから誤解するのだ」と云ふ風に思ひ込んで、納得するらしい。寧ろさう云ふ人は、一人の人全體と云ふ存在を絶對視する絶對主義者でないかとすら私には思はれる。
喜六郎が正にさうだが、人の言動の價値を、その人の存在する意義から逆に推定して、決定しようとするのが、多くの日本的な餘りに日本的な「價値相對主義者」である。しかし、結論を出さないで、個別の發言を單獨で見て、それぞれで判斷するのが價値相對主義の態度であらう。何事も絶對の立場を設定しないのが價値相對主義だからである――最初に結論を設定するのは、絶對の立場を設定する事だから、相對主義ではあり得ない態度だ。
コーランにしても、「アラーへの信仰を要求する聖典」とのみ看做して、個別の言葉の意義や價値を見ようとしないのは――單なるアンチ・イスラムとしての態度でしかない。宗教的な價値相對主義の立場をとるならば、イスラムの教へを述べたコーランの中の言葉でも、それ自體として價値を評價する事が出來なければならない。外見だけ取繕ふ「似非信者」の態度を非難したコーランの言葉を、イスラムの信仰者以外の人間も、讀んで理解する事は可能であるし、また、客觀的に理解しなければならない。實は、さうした異教徒による客觀的な評價を、コーランのやうな聖典も、豫想してゐると言ふ事が出來る。既に信仰してゐる人間にしか理解できない言葉(論理)でのみ聖典が書かれてゐるとしたら、信仰してゐない人間が宗教の内容を知つて信仰に入る事はあり得ないからだ。
況してや現代は最早信仰の時代でない。そこで依然として聖典を「信仰の書」とのみ看做して内容を讀み取らないのは、寧ろ信仰と云ふ事に捉はれ過ぎてゐる。
平成二十一年四月十五日
例へば、その人の主張や發言全てを見て、その中に、正しい發言がある事と、誤つた發言がある事を、それぞれ指摘するのならば、その人を論じた事になるし、その論じ方は公正だと言へる。
けれども、人の發言の一部にだけ注目し、しかも誤にだけ興味・關心を集中させ、さらに「こんなに澤山誤だけを言つてゐる」と宣傳するならば、それはとても公正な議論と呼べない。
喜六郎が「小屋」で私について書いてゐる事は、私の發言の一部に過ぎないし、しかも極端に私の「誤」に視點が偏つてゐる(しかも「誤」とする價値判斷の部分にも偏向がある)。喜六郎が私に就いて述べて「正しい」と言つたのは一度だけであり、しかもそれは餘りにも當てつけがましい・嫌みたらしいものであつたのだから、一種の嫌がらせであり、惡口の一種であつたと言ふ事が出來る。となると、喜六郎はひたすら私の惡い部分にだけ關心を集中させたのであり、公正さを缺いてゐると言ふ事が出來る。そして、喜六郎が私の發言の一部しか見てゐない事は、喜六郎がHTML/CSSに關する私の發言を採上げて、よくわからない、と告白してゐる事で判る。
この事について――喜六郎は公正でない、と云ふ指摘に就いて、喜六郎が反論する事はない。ただ、「公正でない事をするのも人間である」と、喜六郎は「事實」を指摘するだけである。しかし、自分の行動に就いては「事實」で辯護しつゝ、他人に對しては理想を要求する、と云ふのは、蟲が良過ぎる。「自分に甘く、他人に嚴しく」と喜六郎は言つてゐるが、將にそれは喜六郎自身の態度に當嵌る。

平成二十一年四月十四日
それは本旨ではありませんは、ほぼ言い訳 - 木俣 ロバート久の覚書 (はてな版)
平成二十一年四月十四日
週刊:Web担当者フォーラム通信
平成二十一年四月十四日
晝頃食事に出ようとしたら雨が激しく降り出したので、恐れをなしてコンビニで食料品を調達して來た。セブンイレブンのわらび餠がおいしい。あと山崎パン。
平成二十一年四月十四日
ニーチェの「權力への意志」と云ふ奴。今の多くの人は、ニーチェの影響下にあるけれども、ニーチェが乘越えるべき存在である事には案外氣附いてゐない。
平成二十一年四月十四日
21世紀の魔女狩り裁判 - ziomの日記
民間人だつて、取敢ず目の前の人間を叩いて喜んでゐる。日本では、警察の質が惡いとしても、警察でない一般人が既に質が惡い。
「野嵜のやつてゐる事は喜六郎と同じだ」と言つたら、惡いのは喜六郎も同じである筈だ、そして、先に惡い事をし始めたのは喜六郎だから喜六郎が先づ非難されるべきだ――が、そんな状況が判つてゐるにもかかはらず、喜六郎の惡口は絶對に言はず、ひたすら野嵜の惡口だけを言ひ續け、野嵜だけを惡者に仕立て上げようとした人が先日ゐた。公正の觀念が日本では全く定着してゐない。
平成二十一年四月十四日
圍碁には「これが絶對に正しい」と云ふ手がある訣ではないけれども、明かに惡い手と云ふものはある。
平成二十一年四月十四日
無題 - 雑念雑記はてな出張所
昔、Yahoo!掲示板で、譬喩を用ゐて私を罵倒した元國營企業社員の某氏が、「譬喩は、餘りにも適切である場合、證明になるんですよ」と述べた事がある。私は唖然としたが、さう述べた某氏は心からさう信じ切つてゐたやうだつた。
某氏が自分の譬喩は「餘りにも適切」だと思つてゐたとしても、「適切な譬喩」による罵倒が正しいと即断することには危険が伴い,そこに事実誤認の余地が生じることになる――そもそもその譬喩が「適切」か何うかを、その某氏ではない第三者もまた、某氏と同じやうに適切と判斷するか何うか。結局のところ、もつと大事な證據が必要と云ふ解り切つた筈の事が、某氏には理解されてゐなかつたと云ふ事である。
案外、冤罪をなすりつけて、日常的に他人を安易に罵倒してゐる人がゐるのである。さう云ふ人は、自分ルールと、一般的なルールとを、完全に取違へてゐるものだ。

平成二十一年四月十三日
今期の日曜深夜はタユタマと咲。
平成二十一年四月十三日
憲法へのご意見・ご感想
自重の類はしなくていいと思ふ。思考實驗ならどんどんやつた方がいいんでないか知らん。
と言ふか、この種の自己規制やタブーの存在が、世の中の風通しを惡くしてゐる。何でも言つてみるのがいいと思ふ。
平成二十一年四月十三日
私の知る限り、ウェブ上で人の事を「言行不一致だ」と言つて嘲笑・罵倒する人間が、自分自身、言行一致の完璧超人である事を示した例は一つもありません。寧ろ、人の足を引張る爲に、陰濕な工作活動を行ひ、また私に反撃されて逆恨みするなど、とても人間が出來てゐるとは思はれない事例が多過ぎるほどあります。
これは要するに、「言行一致」なんてものがいんちきで、他人を罵倒する爲のスローガンに過ぎない、と云ふ事實を示してゐます。

平成二十一年四月十二日
「まとめサイト」の類を默々と作れる人は相當有能な官吏になれると思ふ。
平成二十一年四月十二日
ただの日記 - 主眼は文章
何處までも「自分は公平だ」と言ひたいらしいけれども、公平と公正は違ふんだからね。公平である事は時として公正を缺くんだ。俺は公平である事を要求してゐない。公正である事を要求してゐる。そしてただ氏は公平である事に拘り、公正さを缺いても全く氣にしないでゐる。
しかし實際、「現代仮名遣」の文章と、歴史的假名遣の文章とでは、確かに文體が變はるんだよ。原理・原則でただ氏が文章というのは文字ではなくて言葉で成り立っているのだから、現代仮名遣いだろうと正かなだろうと関係ないと述べても、やつぱり違ふ。

文章というのは文字ではなくて言葉で成り立っているのだから、現代仮名遣いだろうと正かなだろうと関係ないと僕は思う。言葉が仮名使いによって規定されるとは到底思えないし、現代の文章が味気ないと感じるのは、おそらく、単に味のある文章を書ける人物がめっきりいなくなってしまったのか、あるいは、単に趣味・嗜好の問題。 文字の問題と言葉の問題をごちゃ混ぜにしてはいけないね。

書き言葉は、話し言葉と違つて、文字で表記されるものだから、假名遣ひが變はると、文體も變はる。假名遣ひが「正しさ」を志向する歴史的假名遣であるならば、文體もだらけたものではあり得なくなるけれども、同時に其處には歴史に裏打ちされた柔らかさ・美しさが出現し得る。現代の文章は、「現代仮名遣」で書くものだけれども、その時點で「假名遣の正しさ」は官僚的な目線から決定される事になるのだし、一方で、「現代仮名遣」は便宜を目的にしてゐると云ふ意識から非常にだらけた文體に流れる事もある。人の問題と言ふ事も出來るけれども、「味のある人」が「いなくなった」事の背後に便宜主義的な國語教育の存在を見る事は絶對的に不可能と云ふ訣ではない。趣味や嗜好の問題として片附けるのは、例の松永氏流の發想で、私は受容れられない。
そして、重要な事だが、文字の問題と言葉の問題は、原理的には區別されるけれども――國語改革の行はれた日本に於ては、決して嚴密には區別され得ない。日本の場合、將來の漢字廢止を目的として改革が行はれ、その過程として漢字制限が實施された。漢字を廢止すると云ふ事は、全てかなで表記する・ローマ字で表記する事を終着點として改革の當事者は考へてゐた。が、その爲には漢語の廃止が必須であつた。漢字制限と云ふ過程においても、漢語の「統廃合」が實施されてをり、結果として「いいかえ」語が大量に出現してゐる。それが「戰前の日本語」と「戰後の日本語」との間に、語彙の面でも斷絶を生じてゐる。だからこそ福田恆存は、國字改革は國語改革だ、と指摘した。
――しかし、斯うした僕は、文章それ自体の問題に文字の問題を持ち込んだことに対して異論を述べていると云ふ部分が、ただ氏の記事の主眼であつたと、私には思へなかつた(だから上の「反論」も、形式的な「反論」にすぎない。斯うした「反論」をただ氏は期待してゐるのだし、私自身、この「反論」に論理的な「説得力を缺く」事は知つてゐる。けれども、一方で、この程度の反論が十分反論として務まらなければならないとも思つてゐる)。なぜなら、ただ氏は、以下のやうに話を續けたからだ。

仮名遣いなんてものはやはり結局単なる手段に過ぎないのだから、自分がこちらのほうがいいと思った仮名遣いを使えばいいと思うし、無理にどちらかを他人に薦めるというのはあまりよい態度とは思えない。もちろん自分が信じる方のよさを主張するのは一向に構わないけれども。

議論や研究発表などをする場合は意見が正しく伝わるように、また今の時代ならば後々にも参照できるように文章を書くべきだし(そのためにどういう仮名遣いがよいのかは議論の余地がある)、あるいは小説などの表現としての文章ならば書き手が選んだ表現方法ならばどんなものでもかまわないとは思う。

日本語の文章なのだから、結論は最後に現れる筈だ。私の「ここ」の文章は、めもだからどれが序論でどれが本論か、解り辛い事この上ない(申し訣ない)けれども、ただ氏の記事は「ブログ」の記事で、「ブログ」の記事なら一貫した記事だから、日本語の常識的な文章の形式を守つてゐると判斷出來る。となると、ただ氏が言ひたかつたのは、この「歴史的仮名遣でも現代仮名遣でも、どちらを使ってもいい」と云ふ事だと私が判斷するのは自然な事だ。だからこそ、私はそのただ氏の「公平性」に反論した。ただ氏の主張の核心に反論した積りでゐたのだ。
そもそも、今の「闇黒日記」の流れを見てもらへば解るだらうけれども、私は執拗に「正しさ」「價値觀」の問題を論じてゐるし、その流れの中でただ氏の發言を採上げたのも結局はただ氏の價値觀の問題を採上げたのに他ならない。

「正論」とか、ほかの人にはそういう意見を言わなかった、とかただの文句を述べてもらうために僕は書いたのではないから。

私が「正論」を非難し、「公平性」を非難したのを、ただ氏はただの文句だと極附けてゐる。しかし私は、文句を言つてゐるのでも、口を言つてゐるのでもない。人の價値觀と云ふ根本的な問題に就いて、私はただ氏の發言を題材にして、自分の考へを述べたのだ。

しかし、たとえ公平性を欠いていたとしても、「文章の問題と文字の問題を一緒にしてはいけない」という意見を無視することはそれも公平性を欠いているように思える。

ただ氏が「思った」からと言つて、それが眞實であると私が認める義務はない。と言ふより、「公平性」なんて事をこの場所でただ氏が持出したのは、訣が解らない。公平と言ふのなら、何と何が公平なのか。

僕は先日の文章で野崎氏に関してしか言及していなかったけれど、結局は同じような態度をとる人全てに対し言っているのだから。

これは遁辭だと思ふ。他の人に對しても當嵌る事ではあるけれども、正かなの正しさを言つてゐる野嵜と云ふ特定の個人に對して敢て言ふ、と云ふのは、公正さを缺くものだ。「個人に對して言ふ」形式をとる時に、しかしその「個人」だけが問題なのではないとしたら、その事を強調しなければ、公正ではない。ただ氏は、ただ私の言つてゐる事だけを否定するやうな形で、記事を書いた。だから公正を缺いてゐる。

しかし、言葉を表す手段という意味で、自分の言葉をあらわすのに適した方法をとろうとするのは至極当然で、また言葉を伝えるという意味を考えるとそちらのほうが正しいと僕は考える。

「僕は」「僕は」「僕は」。「正論」+「僕は」。

こんな風に書くとまた「正論」とか言われてしまいそうで、そうなってしまうと僕も何もいえないのだけれど、じゃあ間違った論を述べることが正しいのかって言えばそうじゃない。いったい僕はどう意見すればいいのかな。うまく意見を述べられるようにならないとな。

喜六郎が言ふやうな「誰も反論出來ないが、何の意味もない一般論」の事を私は「正論」と言つて非難してゐる。さう云ふ「正論」で叩くのは卑怯だ、と云ふ事。「正」と云ふ字を使つてゐるから「正論」とは「とてもよい意見」の事なのだらうと思つてゐるのかも知れないが、しかし、本來の意味での正論と、本來の意味ではない、喜六郎流の「正論」とが――全く同じ形の語が、この世で併存し、平行して使はれてゐる。私が非難してゐるのは、喜六郎流の「正論」の事で、今のただ氏の一般論も、その種の惡しき「正論」だ。反論出來ない事・如何にも尤もらしい事を言つて(それは反證可能性とは別の話だ)、恰もそれに相手が反論しさうな印象を讀み手に與へる事で、讀み手にその相手がをかしな人物であるかのやうに見せかける――「正論」を用ゐる人の狙ひはそれだが、ただ氏の「正論」の用ゐ方もさう云ふ喜六郎的なやり方と同じに見える。
「どう意見すればいい」かは既に述べたけれども――「公平性」なんて事を言つてゐるやうでは駄目なんだよ。公平に、公平に、では、例へば體重五十キロの人と、百キロの人とでも「同じ食事を出すべきだ」とか云ふ考へ方になつてしまふ。公正である事が重要なんだ。
平成二十一年四月十二日
ただの日記 - 主眼は文章

あとなんか、野崎氏は勘違いしているようだけど、先日の「過は往々にして罪」という記事で言いたかったのはあんまり欲張ると痛い目をみるよってことなんだけれども。

飽くまで俺が勘違いしている事にしたいらしいけれども、俺は勘違ひしてゐないよ。その程度のありきたりな「教訓」なら、無視して構はないと思つた、それだけの事だ――と言ふより、さうした「教訓」のありきたりで下らないものである事を言ふ爲に、俺がただ氏の發言を相對化して見せた事には、氣附いてもらひたかつた。

あくまで現実的な観点から見て、一度にたくさんに手を出しちゃだめだなということ。現実問題としてね。

俺の事を非現實的だと極附けて、馬鹿にしたいらしい。「ね」と言つてゐるし。「ね」だよ「ね」。何でこんなに人を小馬鹿にした言ひ方を平氣で出來るんだらう。「公平」と言ふ人に限つて、自分は他人より偉いと思ひ込んでゐるものらしい。
しかし、斯う云ふ「現實的」な態度がどれほど現實離れした態度か、どれほど偏向した考へ方に基いてゐるかを、俺は剔抉したいんだ。人間は、現實的なだけで生きて行ける存在ではない。理想を持たなければ生きて行けない。理想を持つてゐる事・正義の觀念を信じてゐる事も、人間の現實だ。それを現代の「現實主義」の人は全員忘れてゐる。ひたすら理想や正義を排除する事こそが「現實的」な事だ、と信じてゐる。ただ氏が今、あくまで現実的な観点と言つてゐるけれども、ただ氏はさうした「現實主義」だけが眞實であるかのやうに、ただ氏の「ブログ」全體を通して主張してゐる。現實的な面を尊重する事も必要だ、とただ氏は「正論」を言ふのだらうけれども、現實の重要性だけを強調し、理想や正義と云つた面の重要性が存在する事を徹底して無視するならば、「正論」は遁辭にしかならない。しかし、遁辭である「正論」を「正論」だと言張つて、言ひ訣として十分機能してゐると主張するならば、それこそ公正を缺く態度と言つて良い。
平成二十一年四月十二日
BLOGという名の日記 : 雑記#107

なぜなら、少し捻ると「あんたらは『正仮名遣ひ』で文章書いても結構ですよ、しかし私は使いませんけどね」と言っているようなものだからだ。

さらに捻らせてもらふと、「そして私のような態度をとる人の方が普通なんですよ」となる。鉄山さんの言葉に補足させて貰ふよ。
「正論」で他人を叩きのめさうとする人が、即座に「私は」と言つて個人的な主張をしてゐるに過ぎないかのやうに裝ふ。これは、「私は傲慢ではないんですよ」「謙虚にも、個人的な感想を述べてゐるんですよ」と云ふ言ひ訣の爲に「私は」と言ふものだ。然るに、その時、「私」は、他から孤立した、「たつた一人の私」ではない。「他人が何と言はうとも、私は斯う言ふ」と言ふのなら、「私は」と言ふ意味がある。けれども、自分と同じ事を言ふ人間が澤山ゐると解つてゐて、それで「私は」と言ふ時は、「私」と云ふ語を使つてゐるにもかかはらず、個人の意見ではなく、一般論を言つてゐる事になる。他人と同じ事を言ふ時、「私は」と言ふ意味はないんだよ。案外斯う云ふ事が解つてゐない人が多いやうに、私には思はれる。
平成二十一年四月十二日
「現代仮名遣」か、歴史的假名遣か――と云ふ議論が「ある」?
實は、そんな議論は存在しない。現在、『現代仮名遣い』を使つてゐる日本人が多數派である。それに對して少數派の正かな派が存在する。それだけの事だ。議論になつてゐない。ただ一方的に、「現代仮名遣」の勢力が、その「勢力」でもつて、正かな派を押してゐる。さう云ふ状況にある。
そこで、ただ氏のやうに、「自由にかなづかいは選べば良い」と言ふのは、そして、その言葉を、正かな派にだけ投附けるのは、「現代仮名遣」勢力の一方的な攻勢に棹差して、正かな派を押潰さうとする態度でしかない。
一見、公平のやうな言葉遣ひと論理の發言であつても、現實の状況が既に一方に傾いてゐる状況で發せられるのであるが、それは多數派に加擔するだけの公正を缺いた發言になる。それが「現代の日本人」には解らない。
平成二十一年四月十二日
ところで、假名遣と論者の性質とは、全く因果關係がない。正かなだからいい人間で、略かなだから惡い人間だ、等と言ふ事は出來ない。これは、現在の俺の周邊の人々を見れば、閲覽者の方々には納得して貰へる事だらう。
前田氏や青方の中村、或は鐵扇會の會長は正かな派だし、喜六郎も正かなに轉向しつゝある。一方、ただ氏も鉄山氏も略かなで書いてゐる。三宅氏も略かなで書いてゐる。敵身方に分類すると、從つてゐる假名遣による分類と一致しない。假名遣ひだけで立場やら何やらを極附ける事は出來ない。
平成二十一年四月十二日
ところで『私の國語教室』の讀者の中に……と言ふと、その中には喜六郎が含まれる訣だ。なるほど、變な讀者が紛れ込んでゐる。
平成二十一年四月十二日
粘着データベースつて誰か作らないかな。ウェブ上で誰かに粘着してゐる人間の情報を集めるの。夏休みの自由研究とか大學生のレポートとかでやつてもいい。割と簡單に傾向とか分析出來ると思ふ。
平成二十一年四月十二日
と言ふか、俺の事を掲示板荒し・ブログのコメント欄荒し呼ばはりしなければゐられない人逹つて、さう云ふ自分こそ粘着氣質で陰濕な性格をしてゐるんだよな。喜六郎が、俺に荒しと呼ばれたのに逆切れして、「野嵜は掲示板荒し」の宣傳を始めてゐる。
俺の事を荒し呼ばはりして追出しにかかつたら俺の勝利だと何度言つたら解るんだ。笑。
平成二十一年四月十二日
何年も俺にまとはりついて執拗に嫌がらせを仕掛けてくる人間や、俺の名前を騙つて各地の掲示板を荒してゐる人間が、俺の事を「掲示板荒し」と言つて宣傳してゐるんだぜ。
喜六郎みたいな粘着が許されるのに、何うして、俺がたまに何處ぞの「ブログ」に書きこむと「荒し」呼ばはりされなければならないんだか。
喜六郎は悔しかつたら反論して見なさい。反論出來ないから「アーカイブス」なんて作つたんだらうが。
俺の發言それ自體を無視しつゝ、俺の事を「掲示板荒し」だと宣傳して、俺を發言させまいとしてゐる連中のリスト――竹下義朗(明治天皇は暗殺されていた!)、アレクセイ(「園主」、田中幸一、沖泰光、ホランド、ナイルズ等多數のハンドルで自作自演)、「義」(野嵜に對して暴言を吐いたり侮辱したり。うちの掲示板を荒したり、野嵜の名前を騙つて各地の掲示板を荒したり)、喜六郎(何年も粘着)。みんな頭のをかしい連中許りだ。
俺は、まともな人間になら批判されたいが、頭のをかしな輩に取り憑かれてばかりゐるので、大變迷惑してゐる。オバケに取り憑かれ易い體質があるさうだが、俺もさう云ふ體質らしい。
平成二十一年四月十二日
「文藝」1962年4月號 特集 座談会 性は有罪か チャタレイ裁判とサド裁判の意味
福田恆存の發言。

しかし、公益に資するということは検察官でも反対しないだろうと思うのだ。公益ということをどう解釈するかが問題になるので、公益という概念まで専門家、あるいは文学者の判定にまかせるとなると、検察官のほうでも不満が出てくると思うのだ。

戦争が起きたら死ぬよりほかしようがないという人がサドを愛読するかもしれないしね。わからないよ、そういうことは。全然無関係だね。

ぼくの考えでは、渋沢さんがさつきちよつと言いかけたけれど、渋沢さん自身が言うのは当人だから問題だが、効用ということでいくと、どうも駄目だ。それはチャタレイの場合とはちよつと違う。もちろん、さつき中島さんが実害という問題を出したように、実害があるかどうか、これに絞らなければならない。しかしその向うには覚悟が要るんだ、実害があつてもかまわないという覚悟がね。それが言論の自由という立場でしよう。つまり、多少の実害があるかもしれない、しかも、こういう公益があるのだという立証ができない場合がある。立証できないけれど、その前に、何が公益であるかも実証できないので、だからこそ言論の自由ということを認めなければならないわけだ。ただその場合に害があるかもしれないが、一方、広い意味での公益というものにつながつていそうだというところで、ぼくたちは思想や文学というものを、普通の殺人行為なんかとはつきりわけなければいけない。もつとも殺人行為でも、あるいは公益につながるかもしれないけれども…

安楽死もあるし、誰かを殺したために世の中がよくなるということがないとは言えない。しかし、それは認めるわけにはいかないのだよ。片方、文学や思想の場合は実害があるかもしれないが認めなければならない。やはり文学や思想は、実際行動とは別次元のものであるということが最後にあるのではないか。逆に言えば、別の次元に消化していると認められるものを文学・思想と呼ぶと言つてもいい。

だから法廷で争うという場合、さつきのように法廷で勝つこと、あるいは勝つ自信というものを確かにもたなければならないけれども、負けても役に立つような争い方も必要なんだ。

奥野健男のそうすると残虐の性描写は、そういう破壊思想を文学的に表現するのにどうしても必要になつてくる。と云ふ發言を受けて。

それを強調すると、公益とか公共の福祉にかなわないのだ。

渋沢竜彦曰人間の可能性としては、なんでもできるということを、文学は書くものだから。それを受けて。

その思想を言論の自由という言葉から説かれなければ行けない。。

渋沢だから民主主義ということには、自繩自縛があるわけですよ。

民主主義をぶちこわすかもしれないものを民主主義は認めなければならないところがあるわけです。

……。問題はやはり言論の自由ということが戦後盛んに言われてきながら、その場合に言論が何に仕えるべきか自明のこととされていたということにあるんだ。けれど有益な言論と有害な言論とがわかつているなら、言論の自由は要らないばかりでなく、それではすでに言論の自由はないのと同じだ。というのは結局自分の言論が有益であると考える言論の自由になつちやうわけだ。そういうふうに目的や公益をはつきり決めてしまわないで、何がいいことかわからないという立場に立たなければならないのだ。何がいいかわかっておれば、それに反する言論は皆悪いということになるのだもの。保守的な立場にしろ、革命的な立場にしろ、どつちがいいかということがわからないからこそ、言論の自由が望ましいんではないか。

言論の自由に徹底すればよい。戦後の言論の自由は、法律的には確保されているけれど、その覚悟の点で危いところがあるんだ。

言論の自由は、それ自体にアイロニーがあつて、たとえばプライバシーの問題でも名誉毀損の問題でも、アメリカなどでは名誉を傷つけられた側を擁護するためというより新聞の言論の自由を擁護するために考えだされた法律的措置らしいね、少くとも起源は。というのは、際限もなく名誉毀損ということでもつてどんどんやられたのじや、新聞はなにも言えなくなるからね。

だからそれを押さえるために、名誉毀損の線を法律的に明らかにする必要があつた。つまり、言論の自由を守るためには、その限界を決めておく必要があるんじやないかな。さもないと同じ憲法の公共の福祉という曖昧なものを悪用して、際限もなく言論を押さえることができる。だから裁判になつたら闘わなければならないが、元来、チャタレイもサドも裁判所で扱うべき問題ではないのだ。扱うべき問題ではないということを、裁判所が終つちやうと忘れて、文芸家協会でも放り出してしまうのは問題だと思う。なんとかしなければならない。サド裁判が勝つても負けても、終つたら根本的に文芸家協会でその問題を考え、新しい立法にまでもつて行くべきだと思う。その点、チャタレイ裁判以上に今度のサド裁判は、文芸家協会でも思想、文芸一般の問題にしやすいと思うのだ、本質的に。


平成二十一年四月十一日
ただの日記 - 言葉とか文字とか
例によつて「正論」で返されてしまつたけれども――ただの人、「旧かなで書きたければ古文で書け」と云ふ「現代仮名遣」派の阿呆な要求は嗤はなかつたよな。なんで俺の事だけ責めるんだ? 文字の問題と言葉の問題をごちゃ混ぜにしてはいけないね。と言ふのなら、俺を責める前に、俺に意地惡を言つた連中に先づ文句を言つたら良いだらう。俺は、「旧かなで書いているのに現代語で書いているのは気持ち悪い」と非難した連中に言返してゐるのだから。
「正論」で俺を責立てる連中は、實は、俺に對して一方的に「正論」を言放つのであり、俺が非難してゐる先の連中の誤には決して噛み附かない。いくら「正論」でぶつた切つても、一方の側だけを責立てるのであれば、それは公正を缺いた行動であり、事實上偏向した態度だと言ふ事が出來る。

議論や研究発表などをする場合は意見が正しく伝わるように、また今の時代ならば後々にも参照できるように文章を書くべきだし(そのためにどういう仮名遣いがよいのかは議論の余地がある)、あるいは小説などの表現としての文章ならば書き手が選んだ表現方法ならばどんなものでもかまわないとは思う。

現代語を書く「目安」としての「現代仮名遣」も、同じやうな「正論」を言ふんだよ。「歴史的仮名遣いを尊重する事」を言つてゐるんだよ。ところが、事實上、「現代仮名遣」は「強制」として機能してゐる。「現代仮名遣」を使つてゐる人は、歴史的假名遣を尊重しないんだよ。ただの人も、「議論の餘地はある」と言ふけれども、自分では議論する積りなど毛頭ない。ただ、「餘地はある」と尤もらしい「正論」を言つて見せてゐるに過ぎない。他人事なんだよ。
BLOGという名の日記 : 雑記#104
平成二十一年四月十一日
ただの日記 - 過は往々にして罪
まあ、斯う云ふ立場から、場當り的に「正論」を吐く事に疑問をいだかなくなつてゐるだけなんだらうけれども――さうだとするなら、斯うしたただ氏の信ずるやうな常識的な態度こそ打破されるべきだな。
人は綜合的な知を得る事が不可能だと知るや否や、斷片的な知で滿足する智慧を働かせて、依然として持ち續けてゐる完全主義を守らうとした。が、否定すべきはさうした無意味な完全主義だ。土臺完全を求めるならば、物理學だらうが數學だらうが、領域として廣過ぎる――廣過ぎない領域なんて無いんだよ。となれば、「おろそかになりかねない一つ一つの領域」なんて事を強調し過ぎるのも良くないんだ。
現代の、物事を相對化しようとする人々は、案外、適當なところで――と言ふより、自分に都合の良いところで、相對化を打切つて、斷定的な結論を出す。價値相對主義者と自稱する人々にしてもさうだが――何うせ好い加減なところで相對化をやめるぐらゐなら、相對化なんてしない方が良い。自分に都合の良いところで相對化を止めるのなら、價値の相對化なんて、ただ自分に都合の良い結論を出すだけの爲の戰術に過ぎない事になり、價値的に無意味になるんだから。
平成二十一年四月十一日
都の制服ワッペン2万枚無駄に 3400万円出し作り直す - 47NEWS(よんななニュース)
都のワッペン お役所世界の滑稽な非常識 : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
東京都がワッペンを作つたけれども、内規に從つてゐなかつたとして全部作り直した、と云ふ話。内規に強制力はなく、これは金の無駄使ひでしかない、杓子定規で硬直した「お役所仕事」の馬鹿らしさが浮彫りになつた――と言ふのだが、我々は他人事として都を笑へるだらうか。
強制力のない役所の内規と言ふと、内閣告示であつて役所内部の文書の表記を定めたものに過ぎない「現代仮名遣」もさうだ。ところが「現代仮名遣」の場合、役所内部どころか、社會一般に廣く「事實上の強制」として認識され、杓子定規に運用されてゐる。我々日本人の殆どは、この「現代仮名遣」の運用を、異常だと思はず、寧ろ大變意味のある有益なものと看做して、受容れてゐる。
都のデザインマニュアルも「現代仮名遣」も、大して違ひが無いのだが、我々の認識は大きく違つてゐる。をかしな話だと俺は思ふのだが、多くの日本人は思はない。
Google ニュース
石原が「くだらねえ完全主義だ」と今囘の件を評したが、「現代仮名遣」なんかだつて「くだらねえ完全主義」志向の代物でしかない。「歴史的假名遣なんて誰も完全には書けないんだから、みんなが書けるようにしよう」と云ふ事で目標値を引下げたのが「現代仮名遣」だ――しかもそれすらも達成できてゐないのが笑へるところで、「ゆとり教育」の失敗を先取りしてゐるのだが、「ゆとり」は見直されたけれども「現代仮名遣」は見直されない、驚くべき事に、ますますレヴェルを下げようと主張する人が存在するくらゐだ。國語の問題は、問題として認識されてすらゐないから、見直しが絶對に行はれない。日本人は、目に見える問題があると、やつつけで問題解決に走る。そして、日本人が問題を解決しようと思ふのは、さう云ふ時だけなのだ。山本夏彦は、その時が來るまで日本人は高枕で寢てゐる、と言つた。
平成二十一年四月十一日
日本人は屡々理窟を言ふけれども、理窟をその場限りで用ゐて場當り的に批判する、と云ふ事をして平氣でゐる。「その理窟が自分に返つて來ない」のだ。斯う言ふと、またぞろ「野嵜にだけ返してやる」と云ふ汚らしいやり方で仕返しして來る馬鹿が現れるだけ――日本人は自分だけ免罪する態度を改めない。しかし、俺にしてみれば(本當ならば、俺だけではない、全ての人間がさうでなければならない)、正論を言ふのならば何處までも正論を推進めなければならないのであつて、俺が「現代仮名遣」の缺陷に目を瞑らないでゐるのも結局は國語問題で正論を押通さうとしてゐるからだ。多くの人が、國語問題では理窟よりも「現實」「便宜」を優先する――これは二重基準だが、「國語問題だけは別」と多くの人が何の根據もなしに思ひ込んでゐる。そして、根據のない思ひ込みだからこそ、俺が「國語問題だけ別にするな」と頻りに言つても、誰も聞かうとしない。そこで俺がしつこく言ふと、「しつこく言ふ」事それ自體を理由に、俺を惡者にして、ますます自分の「しつこく國語問題だけ棚上げにして、他の事では偉さうに正論をぶちかます」態度を正當化して見せる。俺が「しつこい」のは、俺が反對してゐる態度をとつてゐる人がしつこいからだが、「正論」を言ふ人は、俺だけを惡者にする偏向した態度を當り前だと信じ切つてゐるから聞く耳持たない。
平成二十一年四月十一日
たまぼん - 著名人おすすめ本サーチ
福田恆存を推薦してゐる著名人は現時點で0人。
小林秀雄を推薦してゐる著名人は早川義夫ただ1人。
平成二十一年四月十一日
そうだよね、「見なければいい」んだよね。 - 海ノ藻屑
「嫌なら見るな」の裏にあるもの - 雑念雑記はてな出張所

まあ詰まるところ、嫌だと思ったらアンチスレ行けと。東方なら棘*2に行けと。あそこは良いぞ。負の感情が蜷局を巻いて、一日見るだけで何もかもが嫌ひになるんぢゃないかって程。きっと全てを吐き出せて賢者の境地に達せられるでせうよ。ただ、快楽のあまり自家中毒になっても責任は持てないけどね。

平成二十一年四月十一日
正字正かな派を非難する人々、或は、そもそも正義や眞實それ自體を否定する人々が、圖々しくも自分の態度には正義があると思ひ込んでゐる事に、俺は文句を言ふ積りはない。
寧ろ、正しい事を言はうとしてゐる人々・正字正かな派に、淡泊な人が多い事に俺は苛立つ。良い事をしようとする人は先づ自分自身に規制を掛け、結果として良い事を廣めようとしない。惡い事をして構はないと思つてゐる人は、自分自身に甘い代りに、良い事をしようとしてゐる人をいたぶる爲にひたすら正論をぶつけて來る。さうすると、良い事をしようとしてゐる多くの人が、素直に自虐を始めてしまふのだ。惡い事をして構はない・進んで惡い事をして快を貪る人々は、それが面白くて面白くて堪らない。さうなると、惡い事をして、良い事をしてゐる人間をからかつて遊んだ方が「得である」と云ふ意識が蔓延する事になる。今の時代は、さう云ふ「得する」事を皆が氣樂にやる時代だ。だからこそ、さうした事を氣樂にできないやう、良い事をしようとする人間も、圖々しくならねばならない。と言ふより、さうした「圖々しさ」が當然のやうに「あつた」からこそ、過去から現在まで、良い事をしようと思ひ、正しい事をしようとする人間が、絶えず出現して來た訣だ。それがウェブでは、氣樂に他人をいたぶる惡事を、遊びとして「やる」事が「當り前」と化さうとしてゐる。善人たらんとする人間をいたぶる惡事を、大變氣樂に出來るやうになつたからだ。そして、善人たらんとする人間の側が、良い事・正義・眞實と云つたものを相對化され、信念をぐらつかされてしまつて、弱氣になつてゐる事が致命的な事態を惹起さうとしてゐる。良い事をしようとして自虐に走るのは、要は逃げてゐるだけで、少しも善や正義や眞實を信じてゐないんだよ。自分だけが可愛いから、自分だけで完結しようと逃げてゐる。
――もつとも、斯うした時代になりつゝある事は、既に昭和の初期の時代から、一部の人に認識されてゐた。そして、さうした時代になりつゝあるのには抵抗する必要がある事も、一部の人には認識されてゐた。岸田國士が『善魔』と云ふ題で小説を書いてゐる。さうした抵抗の試みは、全面的な成功を達成し得ない事も、解つてゐた。『善魔』の主人公は決して成功に終つてゐない。が、近代を乘越える試みは全て、單純な成功に終らない試みだ。ニーチェは發狂した。エリオットの傳統囘歸は、一部にしか影響を殘さなかつた。ファシズムもナチズムも、マルクシズムも、近代を克服せんとする試みだつたが、政治的には過去のものであり、古びてしまつた。自由主義・民主主義は、人間の沒落する運命において、定着したのは必然と言つて良い――もつとも、それは西歐の價値觀を受容れた人間の運命だ。ところが、自由主義も民主主義も、西歐の價値觀それ自體が相對化されるに至つて、信用を失ひつゝある。ありとあらゆる價値觀は動搖してゐる。さうしたなかで「價値は動搖する」と云ふ相對主義だけが「安定」を保つてゐる。が、これは價値觀ではなく、價値觀の否定である――價値觀を否定する限り、人間を規制するものは存在しない。道徳は崩潰する。人を人とも見ない態度をとる事すらも、相對主義においては當り前のものとなる。さうした状況下で、しかし依然として或領域に踏み止まるのならば、意地を張るしかない。そこで圖々しくなる事は、寧ろ必要な事だ。もし、圖々しさを咎め立てする相對主義者が現れるとしたら、さうした人々が本心では圖々しい事を惡事と看做してゐない事實を突きつけるくらゐ平然としなければならない。圖々しさを咎め立てしたい惡人は、咎め立てする自分の圖々しさを正義だと看做してゐる。惡人の圖々しさが許されるのならば、惡人が他人の圖々しさを咎め立てする事は無意味である――この程度の「反論」は、圖々しく言出せなければならない。
それでももし、本氣で誠實たらんとするならば、神なき現代と云ふ時代、自殺でも何でもすればいい。キリスト教の神は自殺を許さないが、ニーチェによつて神は死を宣告されてゐるのだ。それでも神の不在を信ずる現代人ならば、道徳は、道徳の缺如と云ふ形で、逆説的に存在を示す以外に手はない。
平成二十一年四月十一日
主張の内容によつて、賛成したり反對したりする敵身方が現れる事は當り前。一方、内容ではなく、論者の立場に同調して、論者の主張に贊成すれば、それは黨派根性と云ふ奴だし、黨派根性に基いて内容の正邪を斷定するならば、それこそが政治主義だ。
その邊の事を、頭がいいと以て自任してゐる人ですらも、理解する事が出來ない。どんな意味であれ、ただ「敵身方」に分けられさへすればそれは「政治主義」と「レッテルを貼つて」罵る事ができるんだらう等と安直な事を言ふ。自分の理解の淺さを棚に上げて、物事を自分に都合良く歪曲して、それで自分は頭がいいと本氣で信じてゐられるのだから、頭の惡い人は或意味幸福である。
平成二十一年四月十一日
BLOGという名の日記 : 雑記#105
修正したよ。
Kirokuroの毒吐き空間 - またも懲りずに自爆か?
喜六郎に教へてあげるけれども、HTMLにも規格がある――W3CやISOが「勸告」を出してゐるのだけれども、その「勸告」によつて正しい仕樣が定められてゐる。
World Wide Web Consortium - Web Standards
ISO - International Organization for Standardization
「HTML 4.0」はW3Cの勸告。俺が從つてゐるのは、HTML 4より「嚴格」な内容のISO/IEC 15445:2000(ISOの定めた仕樣なのでISO-HTMLなんて呼ばれてゐる)。
サイトの制作者は、自分のサイトで公開するHTML文書について、それがどの仕樣に從つてゐるかを書く事が出來る。「何の仕樣に從つて書かれた文章であるか」を決りに從つてHTML文書の冒頭に書くが、これがDOCTYPE宣言(文書型宣言)と呼ばれるもの。
南堂氏はとりあえず文書型宣言を書けと言つてゐて、人に勸めてゐる。けれども、内容を知らないでとりあえず宣言を書いてゐる南堂氏の文書は、宣言してゐるHTMLの仕樣に照らして判定すると、invalidであり、誤だらけと云ふ事になつてゐる。それを「HTML的に詐欺」と俺は揶揄した訣だ。
ところがさう言つてゐる俺が、その文書の文書型宣言でISO/IEC 15445:2000に「從つてゐる」と書いたけれども、「從つてゐないぢやん」と2ちゃんねらーの誰だかさんが指摘して、「魚拓」までとつてくれた訣だ。これは、目的が揚げ足取りだし、明かに惡意に基いた行爲だが――しかし、誤を誤と判定する客觀的な基準がある以上、俺としては「その通りですね」と言はざるを得ない。が、少くとも、俺は「誤つても氣にしない」人間ではないのであつて、これだつて「わざと嘘を言つた」のではなく、うつかり間違へたに過ぎないのだから、詐欺でも何でもない。「HTML的に詐欺」であるに過ぎない。が、「HTML的に詐欺」と云ふ事と、南堂氏の教へ方の詐欺的な事とは、全然別の話だ。だからこそ、俺は鉤括弧附きで「詐欺」と書いた。それが2ちゃんねらー氏には解らなかつた訣だ。多分、俺の良い讀者ではないのだらう。俺が鉤括弧を附けて書いてゐる事に氣附きもしなかつたのだから。
と云ふ事で、喜六郎さんには報告ありがたうと言つておくが――しかし2ちゃんねらー氏も、わざわざこんな古い記事をほぢくり返してこなくても、この「闇黒日記」の過去ログが悉く「HTML的に詐欺」の状態になつてゐる事實を指摘した方が手つ取り早かつたのでないかと思ふ。惡意くらゐ人を熱心にさせるものもないとしか言ひやうがないが、しかしこんな詰らない個人攻撃をして、何になるんでせうね喜六郎さん――まあ「アーカイブス」とか言つて、ひたすら俺の發言を集め捲つてゐる喜六郎さんには解らないでせうが。
あと、俺の方で氣附いてdel要素で「削除」扱ひにしてゐる誤があつたりする訣だが、さう云ふのを見ながら慌てて改ざん出来ないように、魚拓も取っておいたからありがたく思えwとか言つてゐる2ちゃんねらー氏は何うかと思ふ。俺を非難する人逹は、現象だけ見て、本質を見ない。「詐欺」とか「改竄」とか、どぎつい表現に目を取られて、その背後で言はれてゐる事を決して見ない。斯うなると、ますます過激な表現で發言の本質を覆ひ隱したくなると云ふものだ。俺は、名前を隱すより、言つてゐる事の本質を匿して、あとでばらされたいと思つてゐる。内容の點では、ばらされても困らない事しか言つてゐないのだから。
そして、もし俺の發言を本氣で否定したいのなら、俺の發言の内容を根本的に否定する、俺なんかよりずつと正確で眞實な主張をするといいよ。もしそつちの方が本當に良いのなら、俺は自分の主張なんて直ぐに引込めて、より正しく・より眞實に近いものに移る積りでゐる。さう云ふ事なら「轉向」でも何でもない。俺は眞實が知りたいだけだし、世の中に正義が行はれるのを望んでゐるだけだ。それは俺とは獨立に存在する眞實だし正義の筈だ。
俺とは獨立した基準がある「正しさ」は必要だ。HTMLの仕樣は、俺とは獨立した「正しさ」だ。だからこそ、今囘のやうに、惡意の2ちゃんねらー氏がした指摘であつても、俺の誤は誤として判定される。これで俺は凹むけれども、斯うやつて凹む事になるやうな客觀的な正しさがある事のメリットは、喜六郎も、惡意の2ちゃんねらー氏も、理解した筈だ。そして、俺は、正字正かなもまた、斯うした客觀的な正しさであると主張してゐる訣だ。喜六郎も、さう云ふメリットがあるから――正字正かなに「轉向」したんだらう。
Kirokuroの毒吐き空間 - 俺ルールと政治主義
ならば好い加減、個人攻撃は止めるべきだ。福田恆存は、喜六郎のやうな惡意だけに基いた個人攻撃を肯定しなかつた筈だ。嫉妬でも惡意でも、福田氏は最大の敵として、自分の中から追出さうとした人物だ。福田氏自身、惡意も嫉妬も持つてゐた筈で、それを匿して匿しおほせたから福田氏は偉い。福田氏の評論で、他人を批判した文章は多數あるが、さう云つた文章を書きながら福田氏は惡意や妬み・嫉みを免れてゐる。福田氏には一種の道徳的觀念があつて、氏は「天」と表現したが、さう云ふ自分の外部にある權威によつて、自分の言動が「監視」され、判定されてゐる事を、福田氏は意識してゐた。だからこそ、「自分逹」を中心に考へ、「自分逹」の間の便宜だけを理由に國語を弄る事を福田氏は否定した――福田氏は、日本人が個人主義を一度は徹底すべき事を言ひつつも、最終的には個人主義を克服しなければならないと考へてゐた。そして、個人を克服した擧句には、個人を超えた權威の存在が認められねばならない事を考へてゐた。それは歴史的存在でなければならない。
小林秀雄は西歐の文化と日本の文化について大變よく考へてゐたし、日本の文化の弱點を案外よく知つてゐた。宣長について書いた小林は、日本の文化の弱點を氣にしない小林だつたが、ドストエフスキーについて書いた小林は、日本の文化の弱點をはつきり認識した小林だつた。但し、ドストエフスキー論それ自體いおいてではなく、それを書き終へた後の感想として、小林は自分が西歐の思想を遂に理解し得なかつたと告白したに過ぎない。松原正氏が指摘するやうに、小林秀雄には天皇論が無い――これは結局、日本の文化の價値觀の核心について小林が遂に最後まで語らなかつた、と云ふ事を意味する。松原氏は、『天皇を戴く商人國家』その他の論攷で、天皇を「人の上の人」と表現し、そんな天皇が日本人の價値觀の根本に「ある」事を示した。日本人が價値判斷を行ふ時、基準が結局「人」である事實を言つたのだ。人は誤を犯すから、そんな人が何を言つても、「しかし人だから誤る筈」であり、實際誤を指摘できるが、その指摘で日本人は相手を論破した積りになる事が出來る。日本人は相對的な價値しか持たないのであり、だからこそ「人の主張」は「主張」それ自體でなく、飽くまで「人」の觀點から判定される。西歐の――キリスト教文明の價値觀では、人が何を言はうが、結局は「絶對者」が最終的な價値判斷を下す、と云ふ信仰がある。それを徹底して打破らうとしたのがニーチェだが、ニーチェより前の思想家は、キリスト教の信仰は持たなくとも(スピノザ等)、人間を超えた價値判斷の基準が存在する事への信仰を持つてゐた。それは結局、西歐的な・キリスト教文明的な價値判斷の樣式を、西歐では多くの人が持つてゐると云ふ事だ。ニーチェや、或はマルクスもまた、メシア志向の點でキリストを引繼ぎながら、思考の方法としての論理なるものへの絶對の信仰を懷いてゐる。目的が手段を聖化すると説いたマルクスも、しかしあの某大な論攷を書いてゐるのだ。ニーチェもまた。あそこまで理窟を貶めながら、しかし徹底して方法論は理論に頼つてゐるのが、ニーチェでありマルクスだ。結局二人とも、アンチキリストでありながら、キリスト教文明の特徴的な思考方法を當り前のやうに使ひこなしてゐるのであり、その點でキリスト教的思想家も、アンチキリストのニーチェやマルクスも、同じキリスト教文明圏の思想家であるとして止揚できる。
さうした西歐の・キリスト教文明の産物である樣々な思想・主義を採入れた日本人が、しかし、確立された價値觀を維持して、Godを取込む事は出來ず、人を超えた價値の存在への信仰を持つ事は出來なかつた。だからこそ、喜六郎にしても惡意の2ちゃんねらー氏にしても、「野嵜の主張」を見て「主張」の面ではなく「野嵜」と云ふ人を見てしまふのは、從來からの日本人的な物の見方を無反省に引繼いでゐるだけの事に過ぎない。俺もまた日本人であるから日本人的な物の見方から決して離れ得ないが、だからこそ、日本人とは異る西歐的・キリスト教文明的な思考の方法を學んでゐるのだし、それゆゑに中途半端なところに宙ぶらりんになつて態度が覺束ない事もある。それを糊塗する目的で俺は物を言つてゐるのではなくて――2ちゃんねるや喜六郎の「ブログ」なんて、俺が「ここ」で何を言つても何うする事も出來ないのだ――ただただ事實を分析し、價値判斷をして、解釋をして見せてゐるに過ぎない。そこに誤があるとしたら、それは俺の不徳のいたすところだと云ふ訣だが、しかしそれで俺の間拔けさが明かになつたところで、俺は俺を超えた價値の事を話してゐるのだから、その價値が搖らぐ事はあり得ない。それを「野嵜をぐらつかせれば、野嵜の信じてゐる事もぐらつく」と思つてゐる人がゐるとすれば(そして喜六郎も2ちゃんねらー氏も思つてゐるのだ)、それは大きな誤だ。俺はさう云ふ大きな誤りだけは犯さないやうにしたいと思つてゐる。そして、人はさう云ふ所でしやんとしてゐればいいのだ。俺は、他人の些細なミスを大袈裟に咎め、嘲つた事は、一度もない。
南堂氏を非難したのだつて、南堂氏の些細なミスを罵つたのではなく、南堂氏の價値觀・南堂氏の思想的態度それ自體に反對したものだ。その點で、喜六郎や2ちゃんねらー氏の非難は、俺の考へに對して全く無效な非難であると、自信を持つて言ふ事が出來る。
平成二十一年四月十一日
更新履歴――憲法十七條他へのご意見・ご感想

きつとさうすると、避けられない現實の壁にあたる條項も出てくるのではなからうか、そのときは改憲案を出せば良い。曖昧なまゝの憲法を使ひ續けるよりはよほど良い。

その點は贊成だな。
しかし、俺にしてみれば、いきなり根なし草の改憲案を出す事は、何うかと思ふのだ。茲で擧げられてゐる三つの日本の憲法、これらの間には、繼續が無い、進歩の過程がないのだ。多くの護憲の立場の人が、憲法の改定において、反動的な改定は「許されない」と言ひ、それを當り前の事と思ひ込んでゐるが、既成事實として、過去の日本では、全ての憲法が、全く獨自にそれぞれの時代に場當り的に作られたのであつて、その進化の方向性等は存在しない。だから、「どつち向きが反動なのか」も、客觀的に判定する事が出來ない。ただ、印象で多くの人が、どの思想は進歩的、どの思想は反動的、と語つてゐるだけだ。
イギリスにおいては、マグナ・カルタ以來、或種の方向に世の中が動き、王權や支配の原理が變動して來た。その方向性が「ある」と認められてゐるからこそ、不文の憲法で十分やつて行ける。歴史的に民主制が確立されてゐると言はれる所以だ。
日本でも、大日本帝國憲法から、正しく改定を行つたより民主的な内容の憲法を定める事で・正統の大日本帝國憲法の嗣子を持つ事で、憲法の改正の方向性を定める事が必要だつた。未だに俺が現行憲法無效論を唱へるのも、現行憲法が根なし草の・ぽつと出の憲法に過ぎず、大日本帝國憲法とは獨立に・歴史的に全く別個のものとして現れたのであつて、結果として憲法改正の方向性が歴史的に確立されなかつた事實を批判しての事だ。「民主的な方向で改定されるべき」事が歴史的に確立されてゐないのでは、結局、日本に於て民主主義は歴史的に確立されたものと言へなくなる。ただただ場當り的に・當座便利だから「民主主義を支持する」國民によつて、民主主義が採用されてゐる。ならば「不便」と言はれるやうになつたら、民主主義は日本からなくなつてしまふ訣だ。「そんな事はあり得ない」と言ふ人は多い筈だが、「あり得ない」理由は何か。喜六郎さまでもおわかりにはなるまい。何の根據もなく安心してゐるのが日本人だ。そして、何の根據も無い思ひ込みをしてゐるからこそ、「何の根據もない」と指摘されれば激昂して、「なら野嵜の言ふ根據にだつて、こんなに脆弱なところがあるぢやないか」と逆切れして非難し出す。しかし、「根據なんていらない」と云ふ發想それ自體と、「脆弱」「誤がある」と指摘されても「根據がある」事を求める發想とでは、本質的な部分で違ひがあるのだし、さう云ふ本質的な部分での批判がない限り、「根據の必要性」を訴へる主張は崩れない。けれども、日本人はいつまで無駄なことを續けるのだらうか。――日本人は、根據ナシの盲信を愛するのであり、それゆゑに議論なんて事は出來ないし、だからこそ何時までも何時までも無駄なことを繰返し續ける事が出來る。
文明の衝突とか云ふ話があつたけれども、文明が與へる影響は物質的な面や表面的な理窟の域に留まり、根本的な價値觀や發想方法それ自體は遂に搖らがないものらしい。西歐の文明が入つて來ても、日本人の發想は根本的な部分で遂に變つてゐない。
平成二十一年四月十一日
ところで「魚拓」つて、とつた人にも消せないのかな。ならば南堂氏の馬鹿は永遠に殘る事になつてしまつた訣だ。斯う云ふ形で俺の發言は矢鱈と後世に殘るんだらうな。
と言ふか、文脈がわからない人には、2ちゃんねらー氏の意圖に反して、南堂氏の誤を指摘した文書があつた、と云ふ事しか認識出來ないと思ふよ。
平成二十一年四月十一日
下手糞なファンタジイを讀んでゐると、急所を衝けば一發で倒せる相手を、肌に澤山淺い傷をつけるだけで長い間いたぶり續けるサディストの小惡黨なんてのが屡々登場する。
平成二十一年四月十一日
と言ふか、俺の事を罵倒する爲に必死になつてネタを集めてゐる連中に、俺は既に仕返しを濟ませてゐるんだよ。連中は、俺の爲だけに、自分の人生と云ふ限られた時間の幾分かを、無駄にしてゐるんだから。例へば喜六郎が俺の爲に浪費した時間――それをもつと喜六郎は有意義に使へば人生、もつと豐かなものになつただらう。或は、俺を罵倒する事によつて喜六郎の人生が豐かなものになつたとしたら、それは俺が喜六郎に齎した恩惠と言へるのでないか。

平成二十一年四月十日
襖に蜘蛛がとまつてゐる。
晝間、庭にはとかげが三匹出たさうだ。
平成二十一年四月十日
櫻が散つてしまつたよ - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
平成二十一年四月十日
本日の名言――幸福へのご意見・ご感想
ヤスパースのニーチェ論を讀んでゐるのだけれども、ニーチェの所謂「權力への意志」、ニーチェはこの「權力への意志」を滿足させる事で人間は幸福を覺えると言つてゐる。そして、時として不幸な状態に陷る事によつて人間は「權力への意志」を滿足させ、結果として幸福を感ずる事もあると言ふ。
ニーチェの心理學は、言葉の上では「矛盾だらけ」に見えるから、解らない人は永遠に解らないだらうと思ふ。けれども、福田恆存は一度、ニーチェを通過してゐる訣で、福田氏の本を讀む人はニーチェをも知つておく必要がある。原典に當るのも必要だが、ヤスパースのニーチェ論も讀んでおくといい。そこではニーチェを盲信する事の危險が語られてゐる。ニーチェは、樣々な事を認識し、解釋して、尚且つそれらを乘越える事を考へてゐた。決定的でドグマ的な結論は、ニーチェにはあり得ない。ニーチェの場合、哲學する態度・哲學する過程が重要だ、と云ふ事になつてゐる。が、それもまた乘越えなければならない訣で、福田さんはD.H.ロレンスに行つてゐるけれども――けれども、本當にニーチェを超克し得たか何うか。
松原正氏が、強者たれ、と言ふのと同時に、自分を絶對的な強者と思ひ込む事の危險を言ふ背後にも、ニーチェの存在がある。
一方で、價値相對主義者とか、兔に角人のやつてゐる事を罵倒する許りで自分は何も積極的な主張をしない人々とか――さう云つた「現代人」にとつても、ニーチェの、繰返し執拗に事物を相對化し、止揚して行く「哲學的な態度」は、安易な自己の絶對化に對する強力なアンチテーゼとして反省の契機になり得る。
ただ、ヤスパースは、ニーチェの繼承者として神を信じない立場にあり、ニーチェを超克したと言切れない部分がある訣で、矢張り單純にヤスパースの主張・解説を受容れる事も危險がある。かと言つて、T.S.エリオットのやうにカトリックに復歸する事は、日本人には出來ない事であり、さう云ふ意味では・神なき日本に生きる日本人にとつては、ニーチェ〜ヤスパースの系統の哲學は眞面目に考へるべきものではある。
平成二十一年四月十日
何でも相對化する哲學徒の親玉・ニーチェですら、明白な誤がある事は認めてゐるんだぜ。
正しさを言ふのに幾らでも可能性があると云ふ事は、何を言つても正しいと云ふ事に出來る、と云ふ意味ではないんだよ。その邊を勘違ひしてゐる人が矢鱈と多いけれども。
平成二十一年四月十日
2009-04-10 - 朴の木はひとり佇む
修正しました。さんくすです。明白な誤と云ふ奴。
平成二十一年四月十日
最近正かな關係者がまた大人しくなつてゐる。何時までもずつと暴れてゐるのは相變らず俺だけ。
平成二十一年四月十日
HTAファイル悪用するワンクリ詐欺、巧妙な仕組み明らかに
平成二十一年四月十日
「Google ニュース」がデザイン変更、動画のニュースも表示
なんで大手のサイトの制作者すらもウェブサイトのデザインを變へるんだらう。慣れてゐたデザインが無くなると、それだけでサイトの使ひ勝手が惡くなるんだが。
サイトのデザインは、少しづゝなら變化していいけれども、いきなり大膽に變へるのは良くないと思ふ。が、それはサイトだけに限らない。

平成二十一年四月九日
Re: Web Font で上代特殊仮名遣い - 月の塵

http://d.hatena.ne.jp/leque/20090406/p2 について 闇黒日記 H.21 4/8 の記事より。個別の記事を參照したい場合どうしたらよいのでせう。

引用して言及していただければと。と言ふか、その書き方で大體何處かは判る筈で、十分でないかと思ひます。

ただ、上代特殊假名遣ひの書き分けにまったく意味がないかと言へばどうなんでせう。そこから得られた知見で「神」と「上」は別語だといふことがわかりました。他にも、「語を書き分ける」といふ意味では得られることはあるでせう。それを全體に波及させるには情報が足らないといふのが問題は承知の上で。

實際のところ、「神」と「上」の語源について、現代の日本人が何か文章を書く時、常に意識してゐなければならない、と云ふ事はない訣で、さう云ふ意味では書分けに意味はないと言つて良いと思ひます。勿論、研究者の人が上代假名遣ひに關心を持ち、國語の眞實の姿を明かにする事は必要です。が、それと現代人が現代の日本語を書く時の規則としてのかなづかひとは、或面では別の物と看做した方がいいのでないでせうか。書分ける事によつて何かが解るのでなく、研究によつて判明した事實を書分けに反映する、と云ふ事になる訣ですから。

個人的には、撥音便の「ん」「む」の書き分けとアヤ行の「え」の書き分けくらゐは歴史的かなづかひの改良としてありうるものとは思ひますが、ほかのものは今のところ知的遊戯の範圍に過ぎないと思ってゐます。

その點でも私はlequeさんと意見を異にするのでして、それらの「改良」は餘り意味がないと思ひます――と言ふのは、撥音便は音に從つてゐて構はないのでさほど氣にする必要が感じられないからであり、またあ行や行の「え」の書分けは語彙の問題に屬するからです。
と言ふより、そもそも「かなづかひの改良」と云ふ事に私は興味を持ちませんし、また興味を持つべきでないと思つてゐるからです。別に昭和二十年の時點のかなづかひが「眞實のかなづかひ」であり墨守すべき「眞正のかなづかひ」であるなどと主張する積りもなく(私がさう云ふドグマティックな思考をしてゐると極附ける人もゐますが、そんな事は考へてもゐません)――ただ當座、その時點のかなづかひに一旦立返り、默つて從つて見るべき事を私は主張したい訣です。既に存在したかなづかひ(「歴史的仮名遣いは存在しなかった」「まぼろしである」と主張する人がゐるのですが、幻でも何でもなく存在したのです)の、その「存在した」事實を改めて身を以て體驗してみる事、それが重要だと思ふ訣です。
近代にしても思想にしても、即座に超克する事・改良する事を多くの人が言ふのですが、それは性急に過ぎる。私が超近代の思想と言ひながら、近代的な論理的思考に拘つてゐるのも、結局のところ、一旦は近代と云ふものを經驗してみない限り――そして、近代の思考と云ふものにどつぷり漬つてみない限り、それを乘越える事も出來ないし、或はそれが「出來た」と思ふ事自體、虚僞でありまやかしであると言つて良いからです。
歴史的假名遣を乘越えて行くにしても、それ以前に我々は、歴史的假名遣を、自らの物として改めて受容れ、經驗しておかねばなりません。その時には、「改良されたかなづかひ」ではなく、既に存在するかなづかひそれ自體に觸れねばなりません。實は「改良が必要だ」と云ふ發想それ自體が、歴史的假名遣を經驗してゐない事による誤つた發想である可能性があります。
さうらふかさふらふか、のやうな問題ならば、決定的な證據一發で簡單に方が附きます。が、それは單に語彙の問題であるからに過ぎない。さうではない、或種の語を通して守られるべき文法的な規則におけるかなの書分け――さう云つたものを問題にする時、何うも改良と言ふのは一つや二つの世代の間で性急に行つてしまつて良いものではないやうに思はれます。
それに最う一つ、これは單なる理窟を超えた――寧ろ理窟などより遙かに重要な――發想の轉換に關する主張なのですが、「默つて從ふ」と云ふ事それ自體に、私は價値を見るのです。そもそも日本人に「默つて從ふ」と云ふ習慣・生き方が絶えて久しくなります。自己を滅却して外部の權威に徹底して從ふ――それが出來なくなつた今だからこそ、既成の規則に抵抗し、自分の判斷をぶつけて反抗する――のみならず、自分自身を絶對の權威として認めてしまふ――現代の日本人の惡い性質が出現するやうになつた。そして、自己を權威と見る傲慢を傲慢とも思はなくなつた今だからこそ、自分を中心に言葉の價値を判斷し、「現代」の國語を「自分だけの国語」と看做してひたすら崇め奉る盲信が生じてゐると私は思ふ訣です。それを打破する爲には、根本的に「自己に對する信仰」或は「自己に對する信頼」を破壞しなければならない。規制の歴史的假名遣をそれ自體、ありのまゝに受容れる訓練を日本人はすべきである、と、さう考へるのです。そこで「改良が必要である」と主張するのは、規制の歴史的假名遣の價値を搖るがす事であり、價値が搖らげば日本人は再び「自分のかなづかい」に固執する頑迷な態度に立返つてしまひます。「自分に固執する」――それこそが一番の問題です。自分の外部の權威としての歴史的假名遣を、ありのまゝに認めておく事、それが必要であるとして、私は歴史的假名遣のすすめを説いてゐる訣です。
平成二十一年四月九日
以下、前項と別の話。
平成二十一年四月九日
例へば。
自分にとつて不都合な事であつても、眞實ならば認めなければならない――さう云ふ意識から眞實を追求するか何うか。そして、さう云ふ眞實をこそ闡明せよ、と云ふ主張。
力づくでも何でも自分を目の前の特定の誰かに認めさせたい。さう云ふのを「積極的な主張」だと看做す事は出來ない。少くとも、さう云ふ「主張の仕方」をしても、何年後か、何十年後か、或は何世紀後かに誤だと判定される、さう云ふ事をしたその人は卑劣であつたと指摘される日が來る――逆に、その時は暴力で潰されても、眞實であつたならば長持ちする、何年か經つて再評價される。或は、埋もれて、後年、別人によつて改めて主張されて眞實と判る。さうした時、再評價される――或は、されないかも知れない――。さうした眞實をこそ、主張する必要がある。
なぜ誰かが主張した、と云ふ事を一生懸命論ずるのか。その誰かの態度を――言葉遣ひのやうな皮相なレヴェルで――論ずる。下らない。そんな「論」は、當人、如何に「いい」と思つてゐても、或は周圍の人間に禮讚されても、結局高く評價される事はない。される訣がない。百年經つて、千年經つて、讀まれた時に、高く評價されるか否か。下らない揚げ足取りや、輕薄な揶揄――そんなものが、それだけの後に、相變らず高く評價されるか。少くとも、今現在の「同志」の連中――アンチの御仲間でもいい――に贊同されてゐても、それだけではその「論」に「價値がある」と看做して良い理由にはならない。ならば、そんな主張は、そんな「論」は、消極的で、後ろ向きなものだ。
パスカルの言葉にしても、或はイエス・キリストの言葉にしても、世紀を越えて後人に影響を與へ、感銘を與へてゐる。さう云ふ言葉を、我々凡人が容易に吐く事は出來ない。が、だからこそ、そんな立派な事を言つて、後世に殘るやうに、努めるべきでないか。歴史的な發想を我々は持つ必要がある。そして、さう云ふ歴史的な觀點から意義を見出す態度をこそ、俺は積極的な態度だと思ふ。
平成二十一年四月九日
別の話と言つたけれども、根本的なところで繋がつてゐると言へば繋がつてゐる。
平成二十一年四月九日
田村書店の無料箱は、四、五年前から存在するが(或はもつと前)、以前は小汚い段ボールだつた箱がこのところプラスチックの箱に代り、既に常設状態となつて、新たな神保町の名物と化しつゝある。八日も大量に文庫本やら新書やらが投下され、いい歳をしたをつさん數人に爭奪戰を演じさせる事となつた。最近は陽氣がいいので、をつさんが大量に神保町をうろついてゐる。
俺は主に岩波新書を拾つたのだが、その中の一册に谷一郎『飛行の原理』と云ふ本があつた。ぱらぱら捲つてゐて氣附いたのだが、何うやらこれ、学研まんがひみつシリーズの『飛行機・ロケットのひみつ』の種本らしい。岩波新書青版570。
ひみつシリーズを見てみよう
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/6130/himituseries/watanabeshozo.html
平成二十一年四月九日
2009-04-09 - 大和但馬屋日記

荒唐無稽とは普通かふいふことを言ふ。

「斯く」の音便だから「かう」ではないですか。

平成二十一年四月八日
GR DIGITALが修理から歸つて來た - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
と云ふ事で早速撮影テストしてみた。設定を弄らなくてもデフォルトのまゝで結構行ける。
平成二十一年四月八日
ちなみに去年の今頃はこんなのを撮つてゐる。
櫻を見た日 - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
慥か四月一日撮影。とか書いてる。今年は去年よりも一週間くらゐ櫻の時期が遲くなつてゐるみたい。
平成二十一年四月八日
言葉の救はれ――文學と時代: 御禮――アクセス9萬件突破

知識人といふ人達には、われわれにはなかなか分からない、言葉のやりとり、心情のやりとりがあるのだらう。

他人事のやうに・客觀的に・冷靜に語つて見せてゐる。自分だつて知識人だらうに。
喜六郎もさうだけれども、なぜか「自分だけは關係ない」と思ひ込んで、他人事のやうな顔をしつゝ、ひたすら他人の行動を(さう、を、だ)論評して、それで批評活動をしてゐるやうな積りになつてゐる「批評家」氣取りの人が多い。
誰かの行動を云々して、それで何うしたいと言ふのだらう。自分は何か良い事を言つてゐる積りなのだらうけれども――この手の人は、自分の行動が論評されると決つて嫌な顔をするんだよ。
かう云ふ人々は、「自分がされて嫌な事は他人にもしないものだ」とか道徳的な説教を垂れながら、「野嵜は他人が嫌がる事をして喜んでゐる」とか言つて人を非難する。そんな「批評家」達が、自分だけは道徳の埒外にゐると思つてゐるのだ。本當に異常だと思ふ。
平成二十一年四月八日
「他人を非難して何が樂しいのですか」とか言つて俺を非難してくる人がゐるけれども、何を考へてゐるのだらうと思ふ。野嵜を非難して樂しむ自分は許せるのに、野嵜が「他人を非難してゐる」のを許せないと言ふ。自分だつて他人を非難してゐるんだよ。なのに「他人を非難するな」と言ふ。本當に「他人を非難してはならない」と思つてゐるのなら、俺を非難する事だつて出來ない筈だ。それが出來てしまふんだからいんちきだ。
實は「他人を非難してはならない」なんて誰も本氣で信じてゐないんだよ。ただ他人に言ひがかりをつける時、便利に使へる理由だから皆何も考へないで適當に言つてゐるに過ぎない。さうでなければこんなにも出たら目な惡口が無反省に氣樂に言はれてゐる理由が解らない。
他人を非難し去つて快感を覺えるのは御互ひ樣の事なんだよ。この事は、ウェブであれ何處であれ、何か物を言はうとする人は全員、よくよく肝に銘じておく必要がある。そして、御互ひ樣だから、その程度の事で一々他人を咎める事はないんだよ。當り前だ。咎める理由もないのに咎めるから、向きになつてしまひ、變な事になつてしまふ。
「人を非難するな」なんて言はなければ一番話がすつきりする。「人を非難するな」と言ふから、話が全く進まなくなる。議論をするなら、「人を非難するな」なんて言つてはならない。そして、議論をする氣がないなら――最初から口を噤んでおく事だ。口を出した時點で議論に參加する意志を表明してゐるのであり、議論に參加してゐるのなら他人の意見の價値を判斷するのは必然だ。價値の判斷をすると云ふ事と、人に意見すると云ふ事とは全く同義だ。「非難するな」と言ふのは「價値判斷するな」と要求するのと同義であり、價値判斷しないのなら、議論は存在しない。要は議論を認めるか否か、と云ふ事だが、物を言つた時點で既に議論に參加してゐるのであり、議論を認める認めないでうだうだ言ふ事は許されない。それを許されると勘違ひしてゐる人がウェブには多過ぎる。
「議論の仕方」で、「人の惡口を言ふ」とか「人を非難する」とか、態度を咎め立てする事はナンセンスなんだよ。ただ反證可能の事を言つて、反論を受附けられるやうにしておく――その事に氣を附ける必要があるだけだ。議論は、意見を言ふ事、その意見それ自體に反論する事だけが重要だ。その意見の言ひ方にいちやもんを附けるのは、議論を妨碍するのと同義だ。名譽毀損なり侮辱なりになつてゐる・それが目的で言はれてゐる惡口であるのが明かである場合にのみ――惡口を言つてゐる人間が議論をする氣など毛頭ない場合にのみ、その論者の態度の惡さを指彈して良い。それは議論の場において議論しない事の問題であるのだから。
――實際、態度なんか何うでもいいんだよ。態度から先のところが重要なんだよ。議論では、論者に積極的な主張があるかどうかだけを問題にしなければならない。何も主張がないのに、他人のしてゐる「主張の仕方」を云々する――これは明白に議論を妨碍するのが目的だ。或は、相手を默らせるだけの目的で、言掛かりをつけてゐる。
實際――喜六郎を見てゐれば判るだらう。喜六郎には何も主張がない。ただ他人の足を引張つて喜んでゐるだけだ。喜六郎は、議論に參加する意志も何もない。だから喜六郎は一種の荒しであると言つて良い。自分は意見を言はない、他人の意見をきく氣もない。ただただひたすら他人の態度だけを問題にしてゐる。議論を邪魔して樂しんでゐるのだ。
前田氏も喜六郎と同じ事をやつてゐる。或は――俺には前田氏が樂しんで文章を書いてゐるだけのやうにしか見えない。前田氏の「知識人批判」――しかしそれは、「知識人と云ふ他人」の惡口を言つて、自分が如何に悧巧であるかをアピールしようとしてゐるだけの事だ。喜六郎が樂しんで俺を侮辱してゐるやうに、前田氏も樂しんで「知識人」を罵倒してゐる。が、それで前田氏は何か言ひたいのか。「知識人の態度は惡い」、さう言つてゐるだけだ。何の意味もない行爲だ。そして、彼らと彼らの非難の對象との間に、人間的な關係は存在しない、赤の他人である。ただの他人事である。他人事に本氣になつて怒るのは勘違ひだが、他人事に本氣になつて怒る勘違ひには陷らないと言ひつゝ何時までもその赤の他人に執着してゐたら――それはやつぱり頭のをかしい人間の行爲だ。喜六郎なんか、俺に執着すべき必然的な理由は存在しない。喜六郎と俺とは赤の他人だ。赤の他人なのに、なんで喜六郎は俺に執着してゐるのだらう。前田氏も、福田恆存やその他の人々と、何か關係があるのだらうか。
前田氏も喜六郎も、怒つてゐないのに、他人の惡口を言つてゐる。氣樂に言つてゐるやうにしか思へない。
平成二十一年四月八日
Web Font で上代特殊仮名遣い - 月の塵
甲類・乙類を書分けたければそこだけ萬葉假名で(漢字で、と云ふ事)書分けておけばいいだらうにと思ふ。
俺にしてみればそんな書分けは個人的な趣味だから、別に何うでも良いと思つてゐる訣で、だから簡單な話として方附けられるし簡單に結論を出す事も出來る。趣味でやつてゐる人には俺の態度が大層腹立たしいものに感じられる事だらう。
しかし實際、今の時代、そんなものを書分けたからと言つて、何か良い事があるかと言へば、別に何もないし――ならば機能的に無意味な事でしかない。古語の發音を正確に表示しようとしてゐるだけの事だ。字音假名遣の正確な表記の試みとともに、上代特殊假名遣の再現の試みは、かなづかひとは何の關係もない表音主義的趣味の行爲だとすら言へる。

平成二十一年四月七日
http://d.hatena.ne.jp/mhrs/20090407
修正したよ。さんくす。
平成二十一年四月七日
山本弘のSF秘密基地BLOG:「月をなめるな」
ロジカルシンキングのセミナーでとてもやるせなかった話 : akiyan.com

僕は、無視されたんだな、と思った。

科學や經濟の話だから多くの人が成る程とか思ひながら讀むのだらうけれども、これが國語の話になると多くの人が當り前のやうにをかしくなる。
「現代仮名遣」のをかしなところを俺が指摘しても、「闇黒日記」の讀者ですらもほぼ全ての人が無視する筈だ。山本氏も秋田氏もまた。
平成二十一年四月七日
過去のものをただ眞似して――それが巧い眞似なら結構だが、下手な眞似だと甚だ見苦しい事になる。俺が單なるレトロ調を醜惡だとして排する所以だ。
松永氏の所謂「旧字旧かな」の類も、さうした醜惡なレトロ調の禮讚と云ふ甚だ輕薄なものでしかない。
正かなだから美しい――さう云ふドグマティックな主張をする積りは全くない。さう云ふ意味では、「現代仮名遣」だから美しいとか機能的であるとか云つた主張も不可だ。
現代人の要求に十分應へ得る、機能的な書き方が必要である。「現代仮名遣」がそれに決して應へ得るものでない事實は、多くの「ブロガー」諸氏が平然と「現代仮名遣」の規定から外れた書き方をしてゐるのを見れば判る。寧ろ、現代において機能的な書き方を追究すれば、正かなづかひによる整つた書き方が適切であると云つた結論に至る事は、あり得ない事ではない。と言ふより、俺にしてみればそれが殆ど眞實に思はれる。
整つた「現代仮名遣」の文章が、屡々滑稽な印象を與へる事は、これもまた事實だ。「ブロガー」諸氏が眞面目に書いた「現代仮名遣」の文章も、時として大變不自然に思はれる。
或は、例へば加藤周一が眞面目に書いた評論を俺は結構尊重してゐるのだが、しかし、同時に、あゝいつた落著いた、冷靜な書き振りが、「現代仮名遣」の時代の文體であるならば、實に味氣無いものであると言ふ事も出來よう。否、新刊書店に並んでゐる新刊書の「現代仮名遣」による文章、それらの殆どが全く「味」のしない文章である・無味乾燥の文體で書かれてゐる事實は、改めて指摘する必要があるか。
文章が、人間の書くものであるのなら、現代的な文體と云ふものが、果して良い文體であると言へるのか。「現代仮名遣」的な文體――と言ふより、そもそも「現代仮名遣」は、御役所での文書で用ゐられる爲の規則であつた。それを一般人が普通に書く文章で用ゐるのは、果して良い事なのか。案外多くの人が、自分の文章の非人間的な事を反省的に見ないで濟ませてゐるやうに思はれる。

平成二十一年四月六日
小宮山書店の表のワゴンセールで文庫クセジュのキリスト教關係の歴史の本が六册集つたので讀み始めてゐる。『プロテスタントの歴史』(114)、『カトリックの歴史』(149)、『自由思想の歴史』(283)、『原始キリスト教』(368)、『東方正教会』(607)。
ドストエフスキーもベルジャーエフも正教のキリスト教に基いてゐる。
平成二十一年四月六日
冬言響 / 2009-04-05(Sun) : 夏目漱石『こゝろ』読了
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平成二十一年四月六日
2009-04-06 - 大和但馬屋日記

騒ぎすぎたことで国民にネガティブな耐性をつけてしまつた愚。

それはない。
何かイヴェントがある度に日本國民が何う斯うすると云ふ事はないよ。殘念ながら。そこまで纖細な國民ならもつといろいろ學んでゐる筈。
ただ單に「何のために騷ぐのか」を誰も考へてゐないのが問題と云ふだけの事だ。北朝鮮の技術が何うなのかとか言ふのは何うでも良い。結局のところ、何の爲に北朝鮮の事を我々は問題にしてゐるのか。「平和主義者の國家である日本」として「戰爭主義者の國家である北朝鮮」に怒つてゐるのか。
自民党内部からも出てゐる「強硬な意見」が精々經濟制裁でしかないと云ふ事を、我々はもつとよく考へる必要がある。國際問題に關して強硬な意見と言つたら武力制裁以外には考へられないが、なぜか日本人はそれだけは思ひ附く事が出來ないらしいのだ。兵器だの防衛だのの話をしながら、自分が武力を行使する事だけは考へない――變な話だ。それを變だとも思はず當り前のやうに思つてゐる事の異常さを、日本人は自覺する必要がある。
北朝鮮にしてみれば、經濟制裁をされるからこそ、ミサイルの技術を世界に示して商賣にしてやらうと思つてゐる。日本が攻撃してこないと承知してゐるから、北朝鮮も日本を舐めた行動を平氣でとる。それでいいのかと云ふ事。日本人の誇りだの何だのと言つてゐる保守派も、北朝鮮を攻撃しろとは叫ばない。今囘の騷動でも、「嚴密」に「防衛」の爲の行動だけをとらうとして、それではつきり迎撃體制を整へたが、戰爭をやつてゐる意識はまるでない。然るに國民はなぜか自衛隊と政府の迎撃體制がうまく働かなかつたと言つてあきれて見せる。日本人は自分逹が何をやらうとしてゐたのか、さつぱり解つてゐない。一方で、北朝鮮がやらうとしてゐる事だけは解つてゐるのだ。
そもそも戰爭を認めない憲法を温存しておいて、それで防衛でも何でも「常識的」な事をやらうと企んでゐるのだから、日本人のやらうとしてゐる事が支離滅裂にならざるを得ないのは當り前。そこで支離滅裂を氣にしないか、支離滅裂を解消しようとするか――支離滅裂な事を喚いてゐる人間でも行動だけはとれる。さう云ふをかしな人間が日本國民であるのだが、しかしそんな日本國民が北朝鮮ををかしな國家だと言つてゐる。成る程をかしな話だ。「おどろおどろしい国」とか言つて相手を勝手に妖怪化する愚を犯してゐるのだらう。しかし、報道の仕方だの防衛體制だのと云つた「目に見えるもの」だけを問題にしてゐるのでは、問題の根幹には觸れずじまひで話が終つてしまふ。結局のところ、價値觀の問題をこそ問題にしなければならないのだが、妙な「嚴密主義」に基づいて戰爭と自衛行動とを區別し、ミサイル發射と衛星打上げとを區別してゐる――それは平和な状況下での暇潰しであり遊びに過ぎないが、日本人は一生懸命考へてゐるのだと勘違ひしてゐる。日本は平和だ。

平成二十一年四月五日
tvk土曜日深夜のアニメマラソンめも。アスラクライン、額縁。レギオス、額縁。ポリフォニカ、額縁。ヴァルキュリア、HV制作。
來週からはBS11ストレインとBS-TBSよいちがかぶる。
ちなみにBS2蟲師が枠移動で今夜。BSJではハヤテ二期。その他いろいろ。

平成二十一年四月四日
糊製造業者は、肌の上でべたべたとして始末の惡いものを開發するのには熱中する癖に、紙と紙とを貼り合せる糊を開發する事だけには意地でも關はりたくないらしい。
平成二十一年四月四日
今囘の北朝鮮のテポドン發射問題も、日本が「平和利用」と「軍事目的」とを嚴密に區別しなければならない變な立場にあるから起きてゐる問題に過ぎない。
「區別出來ない」筈の事を無理に區別して解釋してぼろが出さうなのを取繕つてゐるから、北朝鮮も「お前ら區別するんだろw」のやうな態度を當り前のやうにとつて言逃れして見せるし、それに一々日本人も糞眞面目に反應してますます馬鹿にされるやうな事になる。
結局、「平和」と「軍事」との境界線なんてものは引けたものではない――兩者の違ひは相對的である――と云ふ事實を認めるしかないのだが、それをやると「平和憲法」の規定と現實の日本の状況との間に矛盾が生じるから、皆下手な事を言へないと思つて默り込んでゐる。なぜか「平和憲法」の「理念」を、日本人は意地になつて守らなければならないと信じ込んでゐるから、現實にどれだけその「理念」が通用しないものであるかを散々見せ附けられても、何時までも「理念」にしがみつく。しかし、その「平和憲法の理念」なんてものはそもそもまやかしで、理念でも理想でも何でもない。
日本人は、自分逹が戰爭をやれる事を知つてゐるし、餘所の國だつて自分の國に戰爭を挑んで來る可能性がある事を知つてゐるが、それをはつきり言ふと非難して來る同じ日本人がゐるから、その同じ日本人に言ひ訣するだけの爲に「平和憲法」を未だに持ち續けてゐる。けれども、結果として日本國内では、輿論が形成されず、メジャーな意見が恰もうしろめたい考へ方のやうに言はれ、マイナーな意見が何時までも罷り通つてゐる。戰爭をやつても良いと云ふ考へ方は既に一般化してゐる筈だが、戰爭絶對反對の主張は依然として多くの日本人の精神に強い壓力を加へてゐる。
テポドンが、衛星打上げか、ミサイルか、を嚴密に區別する意味は無い――が、それを區別しておかないと、日本の宇宙産業を軍事産業と區別出來なくなるし、JAXAの活動が平和目的であつて軍事目的でないと云ふ言ひ訣をする事が出來なくなる。「日本は平和憲法を戴いた平和國家である」と言ふ事が出來なくなる――當然の事ながら、「平和憲法」の存在自體が話をややこしくして不自然にしてゐるだけだが、ここで「平和憲法」こと現行憲法を否定し、或は改定する事を言出せば、「危險思想」と言つて皆が非難の大合唱を始める。その同じ口で「北朝鮮は危險」と叫ぶ。俺にしてみれば、どんなに日本人から非難されても平氣な顏でゐられる餘所の國の人間――金正日が羨ましい。金將軍には今後も、日本人の矛盾を衝き捲り、日本人を煽り立てる、傲慢な態度を繼續していただきたい。
平成二十一年四月三日
と言ふか、自衞隊と軍隊。兩者に違ひはない筈だが、「憲法の理念」その他で縛つて自衞隊に「規制」をかけ、それでゐてその「規制」の所爲で却つて困る事になりながら、「理念」には何の疑ひも持たない。
平成二十一年四月三日
「飛翔體發射」の誤報について、東北の民間人も、軍事の專門家も、ニュースキャスターも、「あつてはならない」と同じやうに言つてゐる。
ネットの人は、斯う云ふ状況に疑問を覺えるだらうか。喜六郎は疑問を呈する記事でも上げる事だらう。

平成二十一年四月三日
2009-04-03 - 大和但馬屋日記

「転ぶ」の関西弁である「コケる」は東京でも普通に耳にする様になつたし、アニメやゲームの台詞でもよく出てくる様になつたけど、その「コ」を強調する抑揚のつけ方は関西人としては大変耳当りが悪く聞えるので何とかならんかと思ふ。かといつて関西風のイントネーションそのままでは東京訛りの中に収め様がないし、どうしたものか。といふか、これほどベタベタな関西弁の動詞がどんな経緯で全国進出することになつたのだらう。TVの所為といつたら身も蓋もないけれども、「転ぶ」に取つて換るだけの何か強い働きがあつたのだらうか。

ああ、でも「ズッコケる」は昔からあつたから、その派生か。だとしたら、そこから「ズッ」を消すだけで自然な抑揚になるのだがなあ。

「轉ける」が關西辯と云ふのは初めて聞いた。松原先生の授業を聞いてゐた人は「人の上の神は決して轉ける事が無いが、人の上の人は轉ける事がある」と云ふ話を聞いた事があると思ふ。
岩波国語辞典第三版には「こける」の見出しで、肉が落ちる。やせほそる。の意味と共に、足をとられて、よろめく、または倒れる。の意味が出てゐる。その用例としてこけつまろびつが擧がつてゐるけれども、これなんか割と一般的な筈。
ける」と云ふ言ひ方は聞いた事がない。「こる」が當り前だと思つてゐた。
平成二十一年四月三日
萌えるゴミ袋 - Google ニュース
靖国神社で買う萌えキャラ!「萌えるゴミぶくろ」って何?(東京ウォーカー) - Yahoo!ニュース
某さんに一枚貰つたのだが、正直どうしたらいいのか困つてゐる。
平成二十一年四月三日
書籍一册、同人誌二册 - 月の塵
祝詞は今でも作られてゐるけれども……。
祝詞1 土肥 誠
https://secure.jinja.co.jp/books/ycBBS/Board.cgi/002/db/ycDB_book2-pc-list.html(書籍販売 / 神社・神道 専門書店 BOOKS鎮守の杜)
神道關係は神社本庁/神社新報社の本が一番「正確」の筈。

平成二十一年四月二日
正字・正假名使ひの爲のアンテナ(i-know)
大變申し訣ないんだけれども、itizen.cssよりも前のスタイルシートの方が見易い氣がするんだ。戻して呉れた。こんな事を言はれて氣分のいいものでない筈だけれども、こちらとしても慣れてしまつたものだから。本當に申し訣ないです。
平成二十一年四月二日
個人ニュースサイトから身を守る方法 - じゃあ、死んで@d.hatena
サーチエンジンと云ふものは簡單に言ふと病の一種である。云々。
人工呼吸されてるニュースサイトがあることについて
2009-04-02 - 一軒家@めもちょう
Tsukurimono Addict: ブログに間違いを書くのは大丈夫。危険なのは正しいことを書くことだ。
間違ひを書いても正しい事を書いても危險だよ。

平成二十一年四月一日
アンカーの代りにJavaScriptでpを畫像に置換へてボタンに見せかけるテクニックを使はれたので直接修正してやらうとFTPで鯖の中を直接見てみたのだが、ダイナミックにぺーじを出力させてゐるらしく弄りやうが解らない、と云ふ訣のわからない方法でメンテナンス出來ないやうにされてゐるのを發見。
平成二十一年四月一日
論点を夜空のお星さまみたいに拡散されて、一々反論しなかったら、そうしたら、今度は「反論しないのは悪いことだ」みたいなことを弾丸のように言われ続けたことを思い出した。あれは一体何だったんだろう。
反論させるとかさせないとか――意味があつて論點が増えるのなら問題ないけれども、ただ相手を困らせるだけの爲に論點を増やしてゐるのなら問題、と云ふだけの話だと思ふ。全ての論點を問題にして、全てに反論して――それで何かが解るか否か。
平成二十一年四月一日
http://diary.metakichi.com/article.php?id=124の「追記」
大前提理想として「正仮名遣い」を使うのが正しい。しかし大事となるのは、それについての価値観や正統性である。と書いてゐるけれども、命題の形に飜譯する必要がある。小前提も同樣。
平成二十一年四月一日
中学生からの論理的な議論の仕方
論理学講座
平成二十一年四月一日
中世の言語哲学
伝統的論理学入門
三段論法
平成二十一年四月一日
字音假名遣ひの誤解 - ziomの日記
ルビ假名遣ひ - ziomの日記
「正かな主義者なら徹底的に正かなで書かねばならない。字音かなづかひも正かなだ。字音かなづかひも徹底しなければならない」と云ふよくある世間からの「批判」に對する反論。
――大前提も小前提も誤謬であるので結論も誤謬と云ふ非道い「批判」なのだが、「批判」をする側が氣樂だと「批判」それ自體の誤にも氣附かないと云ふ非道い事態が生ずる。さう云ふのには反論がやりにくくてしやうがないんだよな。反論が揶揄的な文體になり勝ちなのはその所爲。するとその「揶揄的」なのが「批判」した側にはまたもやただただ腹立たしいだけのものに見えてしまふと云ふ惡循環。

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