イスラーム全史を読み飛ばし終えた。 おおむね流れは理解した。 そして、今までヨーロッパ側の見方で物を見すぎていたことがわかった。
筆者は、長野県の諏訪湖のほとりの旅館に泊まったところ無線LANが使えたので、iPod touchにインストールしておいた「orb」経由でテレビ埼玉を視聴する感動体験をした。
第一に気がつくことは、私たちの身のまわりには実効を直接期待しない、単なる希望的理念の表明に終わってしまっている細かな規則が余りにも多いという事実である。決めた以上は守らせる、そして守らせるための強制力(技術的可能性、取締りに充分な警察力を当てることができるか等等)の裏付けはあるのかといった点が、規範をことば化する時点で顧慮されることが少ないのである。
私たちとは我々日本人の事。日本人は、規則を作ることは作るが、それを本氣で守らせる氣がない事が屡々ある。それは、規則を形骸化させる事であり、延いては言葉そのものを形骸化させる事になる――と言ふより、日本では既にさうなつてしまつてゐる。それは問題であると鈴木氏は主張してゐる。贊成である。
このようにことばを使う方が、言ったことを本当に守らせるだけの見通しも裏付けもなく使うことの結果として、言語とその背後にある意志の間に大きなズレが生じ、ことばに対する信頼が失われ、ことばが無力化するのである。
たとえば、自衛隊というのは、絶対軍隊です。私は、何も自衛隊反対ではありません。しかし、自衛力うんぬんという憲法の条項を曲解するということは言語を踏みにじることであるので、私はむしろ憲法を改正して、軍隊を持つというようにするか、書いてあるから持てないとするか、そのどちらかでなければまずいのではないかと思います。
憲法を変えないで、解釈でうまくやっていこうとすると、解釈運営というのは無限の個人差があるから、何をいってもごちゃごちゃ無駄になります。……。
……。日本人の言語活動というのは、ほんとうに無駄な面が多い。主観的なひとりよがりの面が多すぎるのです。
キルケゴールは、『講話』と称するもの以外は著作のすべてを、数多くの偽名を含蓄深く使い分けながら発表している。偽名の著者や刊行者は、それぞれキルケゴールの分身とは言われえても、ただちにキルケゴールその人と解されるわけにはいかない。それぞれがキルケゴールによって一定の立場と役割を負わされて、それらのいわば相乗効果のなかで、キルケゴールの思想は生きた意味を発揮するといったぐあいなのである。主要著作からの抜粋を然るべく構成して思想の眼目を紹介しようとするのに、これほど扱いにくい思想家もいないだろう。どの言葉も、それ自体いかにも彼らしい指摘と見えようとも、それだけ独立しては本当は彼のものではないからである。同一の言葉が、誰によって、誰に向けて、どういう状況のもとで言われるかによって、真実でもあれば虚偽でもありうることを、彼ほどにわきまえて、自らの思想表現に注意深かった思想家も、多くはないだろう。彼の思想の核心がほかならぬ実存であることが、相互主体的な交わりにおける間接伝達の、彼のいわゆる「芸」を必要とさせるのである。
実存はもっとも危険な生き方であらざるをえない。人間の自由の冒険だからである。パスカルでもサルトルでも、この一番大事なところでの決断について、さらりと「それは賭けなのだ」といって憚らない。同じことでも、ドイツ人では、そういう言い方は決してあらわれない。ひどく厳粛に、何とか工夫して論理的表現を見いだそうと腐心する。掛けに近い言い方は、せいぜい「遊び」で、ニーチェやハイデガーなどが口にする。しかし、遊びも哲学者の口から言われると、遊びの軽やかさが消えうせて、軽い軽いといえばいうほど、いよいよ重い感じのものになる。ユーモアが大切だと強調すればするほどユーモアから遠ざかるのと同じである。キルケゴールは、まじめ人間の典型のように思われているが、「まじめにふざける」ことを考慮に入れたり、ユーモアを地でいったり、時には賭けとか前兆とかをかりそめならぬものとして意識する。
やっぱり「かなづかい入門」といふ書籍が出てから、執拗に理論武装して正仮名遣ひを否定する輩が増えてきたのは確かだ。一方、正仮名遣ひのサイトも確実に増えてきてゐる。
歴史的仮名遣いを現代語音による表記に改めるものであつたが、それが「現代仮名遣」となつたのは
音韻に基く表記が定着したため基準を改定したのに過ぎない。
過去二十年にわたって発行された原本の発行期間中に、次のような国語施策の改定が行われた。
- 「常用漢字表(昭和56年・内閣告示)」
- 「現代仮名遣い(昭和61年・内閣告示)」
- 「外来語の表記(平成3年・内閣告示)」
右の改定以前に発行されたものは、当然ながら旧施策をよりどころとして解説されている。しかし、その解説中に現れる「当用漢字表」と「東洋漢字字体表」は「常用漢字表」に、また「現代かなづかい」は「現代仮名遣い」にと、それぞれ現行の施策に読み替えていただければ、内容的には、現在でもそのまま適用できるものである。
現在、新聞・雑誌をはじめ一般の印刷物に、以下に掲げるような漢字の誤記・誤用が目立つ。
- 同音または同訓の別の漢字を誤って使ったもの。(事例省略)
- 同音異義語の使い誤り(略)
- 同訓異字の使い誤り(略)
漢字の誤記には、いろいろな要因が考えられるが、右の例に見るように、同音または同訓の漢字による誤りがその大半を占めるといってよい。本来、漢字というものは、表意文字と呼ばれているように、一字一字が決まった意味を持っている。ところが近年はその意味を無視して、ただ同じ音(または同じ訓)でありさえすればよかろうというわけで、平気で別の漢字を使うという現象――当て字、つまり表意文字としての漢字を単に表音文字として使う現象――が、現代の社会に広がっている。こういう現象に歯止めを掛けるためには、一人一人が文章を書くに当たって、用字に関心を持ち、少しでも怪しいと思ったら、国語辞典で確かめてみるといった習慣をつける必要があるだろう。
国語を書き表す場合、普通に用いられるのが漢字仮名交じり文であると指摘し、
このような形で書き表すと、語の区切りが明らかであって、その点での読みにくさが感じられないと事實を述べるけれども、すぐに
しかしとあつて、
漢字の字種が多くなるだけでなく、その用い方も複雑になり、覚えにくく使いにくいものになっていく。と主張し始める。
そこで、余り使わない漢字を用いない、特別の読み方をしない、などの方針が国語施策として取り上げられるに至った。その方向でまとめられたのが、漢字使用の目安としての「常用漢字表」(昭和56年・内閣告示)である。その他、「現代かなづかい」(昭和21年・内閣告示)、「送り仮名の付け方」(昭和48年・内閣告示)などもあり、これらが一般社会で漢字仮名交じり文を用いる際の指針となっている。
したがって、文章を書き表す場合に何らかの一般的なよりどころを求めようとするときには、このようにして定められた指針に従うのが好ましいわけである。……。
好ましいは、「指針」「よりどころ」を定めるとする現代の漢字施策において重要なキーワードで、どの文書にも頻出する。「使わなければならない」と命ずるのではなく、使ふのが「好ましい」と言ふのである。國語改革の當事者は、或種の書き方に對して、主觀的に、好感を持つてゐる、と言つてゐるに過ぎない、と云ふ訣だ。が、それを文書化して、国民をして據らしめようとしてゐるのである。如何なものだらう。
漢字の字音を用いて書き表す場合に問題となるのは、同じ字音の漢字が多いということである。そこで、同音の漢字の書き分けと、同音の漢語の書き分けを取り上げなければならない。しかし、漢語については、書き分けるだけでなく、搖れている表記の統一も行われている。また、同音の他の漢字に書き換えることも行われている。以下、それらについて取り上げるとともに、どのような誤りが見られるかについても扱うことにする。
同音の漢字の中には、その意味が全く同じために、一方だけを用いても差し支えないものがある。「嘆・歎」など、いわゆる異体字とされている場合がこれである。
この種の漢字には、本来は「注」を用いていた中から後に言葉関係で「註」が分化し、本来は「弦」を用いていた中から後に楽器関係で「絃」が分化したようなものもある。このような場合にも、「註」の代わりに「注」を用い、「絃」の代わりに「弦」を用いることが、誤りとは言えないことになる。次のような書き換えは、このような事情によるものである。
- 註文→注文
- 註釈→注釈
- 註解→注解
- 管絃→管弦
- 三絃→三弦
- 絃歌→弦歌
同音の漢字による書き換えというのは、このような書き換えを広く他にも及ぼしたものである。
例えば、「欲」と「慾」、「消」と「銷」の場合がこれである。「欲」は「ほっする」という動詞で、「欲望・意欲」などと用い、「慾」は「ほっすること」という名詞で「食慾・無慾」などと用いる。「消」も「銷」も動詞であるが、「消」は「けす」という意味で「消費・消毒」などと用い、「銷」は「なくす」という意味で「銷沈・銷暑」などと用いる。このような場合、それぞれ「欲」「消」に統一して用いることも、それほど無理な用い方とならないのである。そこで、漢字の字種を減らしながらも漢字書きの語を減らさずにおくために、そのような書き換えが積極的に行われた。これが同音の漢字による書き換えである。
漢字の字種を減らしながらも漢字書きの語を減らさずにおくためにと、まるで功績であるかのやうに言つてゐる)。
この種の書き換えとしては、次のように漢字の構成から見て付随的な部分と入れ替えたものを用いることが多い。
- 誡→戒
- 稀→希
- 倖→幸
- 智→知
- 鑛→鉱
- 沮→阻
- 篇→編
- 輔→補
一般に漢字というのは、基本的な部分が主たる意味を持ち、付随的な部分が細かい意味分野を限定する。その点では、付随的な部分を外しても、他と入れ替えても、意味の上で大きな違いが見られないことになる。これが、同音の漢字による書き換えを可能にした根拠である。
漢字の選定方針にかかわらず、いわゆる憲法用の他の漢字とともに無条件に表に採用することになったのだと言ひ訣してゐる)
ところで、漢字の中には、字体の上で関連がなくても、同じような関係のものがある。「炎」は「もえる」という動詞で、「炎上・炎天」などと用い、「焔」は「ほのお」という名詞で「火焔・氣焔」などと用いる。このような場合も、、「焔」を「炎」に書き換えることが可能である。
- 馭→御
- 緝→集
- 蹟→跡
- 掠→略
- 聯→連
- 諒→了
これらの中には、「吃水→喫水」のように、語を限定して書き換えたものもある。また、「杜絶(ふさぎたえる)」を「途絶(みちがたえる)」とするように、語全体の意味を考えて書き換えたものもある。
以上が同音の漢字による書き換えであるが、この種の書き換えの中には本来は誤りと考えられていたものも少なくない。しかし、すでに慣用が熟している書き換えについては、これに従う方が好ましいわけである。
たぶん「イワシの頭にお祈りをすることがとても大切な信仰の対象」みたいな人がいると仮定した場合に、オレが「イワシの頭って苦いから好んでは食べないなぁ。理由も無く大切にする人はアホに見える。まぁそういう人は居ても良いけど」とかどこかでコメントしたら、なぜか書いても居ない意図を読み取って「バカにされた!」とか解釈するひとを想定でもしているのでしょうか?
- 小林
- ベルグソンが晩年に沈黙を守ってしまいましたが、その点どうお思いですか。私は大変おもしろいことだと思っています。
- マルセル
- ベルグソンは晩年大変に病身でした。だがその晩年で、私はベルグソンが誤りだったと思うことがあります。それは、死後、ノートや遺稿の類を全部破棄するように言ったことです。これは完成したものだけを与えたいという一種の美学的なコケットリーだと考えます。
- 小林
- いや、そうではなくて、ベルグソンが私にはわかるように思えます。
- マルセル
- あれほどの哲学者は、模索、躊躇のあとを残して、後の研究者に指標を与えるべきであったと思います。
- 小林
- そうでしょうか。私にはベルグソンの沈黙がよくわかります。病気で黙らされたのか、それとも黙るつもりで黙ったのか。日本の宗教家、哲学者の中には、黙ろうと決心して黙った人がたくさんいる。黙ることが人類にプラスかマイナスかなど、そんなことは考えない。黙ることは正しいという思想があります。
- マルセル
- たしかに東洋の思想の一番の問題でしょう。それは歴史的感覚の欠如ではないか。
- 小林
- 欠如ではないんです。むしろ歴史の否定です。
- マルセル
- なるほど……歴史の否定……ベルグソンの場合は、そこまではいっていないと思うが……。
後、上の例えは悪い、と言うか的を外しているので(西部氏の文章はあまり読む気がしない、と言うのは本当)、別の例で。同じ新潮文庫から出ている『この人を見よ』(ニーチェ)の訳者が西尾幹二なのは、どうにかならないものなのだろうか。嘗てのニーチェ学者があの様じゃあねえ。
そういえば、『国民の道徳』やら『国民の歴史』やらが百円本コーナーに陳列されてて、思わず吹きそうになった。
……。ブーバーはナショナリズムについて多くを論じているが、そこにはきわめて重要なものが示されていると思う。ブーバーは一九一六年、著名な哲学者でユダヤ自由主義の長老ヘルマン・コーヘンとの論争で、国家のうちに「倫理の本質」を認めるコーヘンにこう反論した。シオニズムの課題は精神的現実(民族性)の高揚、生の充溢へのその発展にある。しかしこの現実の上により高い現実、人類は国家や国民よりも大いなるものであるという現実が厳存する。それ故シオニズムの目標は、新しい国家、新しい政治体にはない。
人間として私にとって国家一般が目標でないように、ユダヤ人としての私には『ユダヤ国家』は特定の目標ではない(……)。
……。ブーバーにとって「正しい」ナショナリズムは、「超ナショナルな課題」を果すことを使命とするものにほかならないのである。
……。ブーバーは、現代の思惟にしみこんでいる誤った二者択一、すなわち個人主義か社会主義かを破棄しなければならないという。いずれも人間を全体としてとらえていないからである。
個人主義は人間の一部をとらえているにすぎないし、集団主義は部分としての人間しかとらえていないからである。しかし人間実存の基本的事実は個人自体でも集団自体でもない。両者はそれだけでは抽象にすぎない。個人は、他の個人と生きた関係を結ぶ限りにおいて実存的事実である。集団は、個人と個人との生きた関係から構成される限りにおいて実存的事実である。人間世界の固有の特徴は、自然に類例のない事実、一存在者が他の存在者とどこまでも他者として相対しながら、両者に共通し、しかもそれぞれに固有の領域を越える領域において心を通じ合うという事実にある。この領域、この「間の」領域こそは人間的現実の原範疇である。ここに個人主義と集団主義とを越える道が指し示されており、その認識をとおして人類が真の人格をとり戻し、真の共同体を建設すべき、真の第三の立場が暗示されている。ブーバーの社会主義は、いうまでもなく、この第三の立場に立つものである。……。
- matsunaga 2009/04/23 13:01
話題が変わるので投稿をいったん切りました。
「絶対に」ではなく相対的にならばどっちが優れてゐるんですか。仮に評価するならば。
相対的という場合は基準が必要です。わたしにとって、言語はコミュニケーションの手段であるというのが第一のポイントです。そうすると、自分が意見を伝えたい相手が誰かということになります。現時点で、多くの場合は「戦後表記でないと読めない」人が多数と思われますので、戦後表記を使います。一方、もし台湾に行って戦前の日本語(國語)を学んだ老人と筆談するなら、戦前表記が適切と考えます。ギャル文字を使うギャルと携帯メールで話すなら、ギャル文字とケータイ絵文字を使うのが適切でしょう。コミュニケーションツールとしての言葉は生き物であり生ものですから、どの表記が正しいとか優れているとかではなく、相手に伝えるという目的が果たされればいかなる表記でもその場面において適切であったと考えます。
音声学・音韻論的に申し上げれば、伝統表記とても古来の日本語を完全に表わしているとはいえません。あるいは、伝統的に使われてきた表記ということであっても、それはヴァリアントの豊富さからいって、「戦後表記だけを排撃する」という根拠にはならないと考えます。
たとえば、明治時代の教科書等で「おとーさん」「タロー」等の長音記号の用法が見られます。これは戦後表記以上に正字正かなからかけ離れた表現のはずです。
わたしと云ふ立場を強調するんだらう。その時點で「あなたの主張は所詮相對的なものに過ぎませんね、なぜなら、あなた一人が信じてゐるだけなんですから」と云ふ反論で、松永の主張は終つてしまふ。なのに、松永は、それが解らない。
わたしが言つてゐる事だから絶對正しいのだ、と堅く信じてゐるとしか思へない。
まあ、私が違和感を覚えるのが「物事は白か黒かだ」「そして自分は白だ」「自分は白なのだからそうでない奴は黒であり、黒は容赦なく叩いてよい、なぜなら黒は黒だからだ」みたいな人たちだから、しょうがないのか。
こういうあまりに正しすぎる「一般論」というのは、しばしば逆に、自分のほうが相手の言葉に耳を貸さず、理解することを拒否するための便利な道具にもなる。なにしろ、いったん相手がその種の人間だと決め付けてしまえば、そこで話は終わりであり、それ以上、相手の言うことを理解しようと努力する必要もなくなるのだから。
シャドーボクシングが流行語化しつゝある。
大體、飛鳥・奈良或は平安の時代に囘歸してしまつたら、それ以降の先人の存在は何だつた、と云ふ事になるんだよ。それら全ての先人の存在を無にしない爲に――歴史の全てを肯定する爲に、歴史的假名遣は「ある」んだから。
- (ヤミグロ日記 平成二十一年四月十九日)
すると歴史的假名遣の時代に回帰したら、それ以前の存在は何だった、と云う事になるんでないかえ?
ヤミグロ日記と云ふ記述は原文のまゝ。
歴史的假名遣の時代に回帰する事で初めて
飛鳥・奈良或は平安の時代以降の全ての先人の努力を活かす事が出來ると言つてゐるのに。
歴史的假名遣の時代に回帰したら、それ以降の先人の存在が
無になると考へてしまつたのだらう。訣が解らない。
無にした事になんかなる訣がない。誰が何う考へたつてさうだらう。なのに喜六郎は
無になると考へる事が出來てしまつた。喜六郎の「論理」を理解できる人がゐたら、説明してほしい。
- matsunaga 2009/04/21 22:10
誤解があるといけないので申し添えますが、「國語國字正常化に就いて考へる掲示板」は私が開設していた掲示板ではありません。
それから、私は「疑似科学批判批判」だと認識されているようですが、決して「疑似科学擁護」ではありませんので、念のため。
「10年も前とは考えが変わる」のは無理はないとしても、それなら旧字旧かな派だったといふ「恥かしい過去」?を隠さなくても良かったのではないですか。
- matsunaga 2009/04/22 14:41
考えが変わった部分
- 自己に外在する「正しさ」を錦の御旗として絶対視することへの嫌悪感が極めて高まった(これは某悪徳商法情報サイト運営者などのめちゃくちゃな言動によるところが大きい)。
- もともと古典好きなので「古典文法による表記」に関心があったところ、漢字の字体や仮名遣いについてのサイトは多いが、古典文法で書かれたサイトが少ないことに対する不満が以前より高まっていた。
- 何より、「正字正かなを「振りかざす」ことへの批判」という視点は当時はなかった。
- 10年も前に書かれたことをそのまま持ってこられてもさすがに困ります。しかし、大筋ではそれほど違っていないはず。当時からわたしは趣味的、あるいはヴァリアントの一つとしての旧字旧かなレベルにとどまっていたのであり、戦後表記の「否定」まで主張していない点では一貫していると思います(だからといって戦後表記が絶対に優れていて戦前表記が絶対に悪い、などというのは私の考えではありません)。
私が言ってもいないこと、考えてもいないことを忖度し憶測し決めつけて、のみならずその誤った推測に基づいて批判する人々が多々ある。なんて言へたものだ。松永こそ、正かな派の言つてもゐないこと、考へてもゐない事を忖度し、臆測して極附けて、その誤つた推測に基いて正かな派を非難したくせに。盜人猛々しいとはこの事だ。
私がある「考え方」を嫌いだというと、それが「人格批判」をしているということにされてしまっている。
「絶対的正義・錦の御旗を振りかざすこと」に拒絶感があると表明したら、正しいことを正しいと言ってはいけないとプロパガンダして我々の思想を封じ込めようとしているのだ!と言う人がいる。
絶対的正義・錦の御旗を振りかざしてゐる!」と絶對的に極附ける權利が自分にはある、と松永は思ひ込んでゐる。抽象的に
拒絶感に關する話をするのは勝手だが、松永は具體的に
正かな派を攻撃したのだ。
Aを批判する人たちの「方法」について批判したら、Aを擁護するものだとプロパガンダされる。
絶対的正義・錦の御旗を振りかざすことだと絶對的に極附けて、否定し、罵倒したぢやないか。何を考へてゐるんだ。
まあ、私が違和感を覚えるのが「物事は白か黒かだ」「そして自分は白だ」「自分は白なのだからそうでない奴は黒であり、黒は容赦なく叩いてよい、なぜなら黒は黒だからだ」みたいな人たちだから、しょうがないのか。
違和感、
拒絶感と言つてゐれば免責されると本氣で思つてゐるのか。阿呆だらう。
嫌悪感、
拒絶感、
違和感と言つてゐる。それを松永氏はそのまゝ提示して來てゐる。なんで反省しないのだらう――私には不思議でならない。反省がない、理性による檢討と裏づけがない――だから松永氏の言つてゐる事は松永氏の獨斷であり、自己中心的な主張であると、私は判斷せざるを得ない。
ニセ科学批判がダメな理由のひとつとして、菊池氏と天羽氏が「と学会」の会員であることの影響が挙げられます。「と学会」とは、自分たちが気に入らない相手を笑い飛ばすという妙な特権意識を持った集団です。「と学会」のモットーの1つが、「トンデモ本をバード・ウォッチングのように楽しむ」ことです。観察相手と接触することなく、上から目線で見下すという態度。この歪んだ精神がニセ科学批判の世界に持ち込まれ、いまなお幅を利かしている不健全な状況は十分に非難されるべきだと思われます。
自己に外在するつて何語だよ。理解出來ない。松永當人も解つてゐないんだらう。自分でも解る言葉を使つて喋れよ。
自己に外在するとは言はない。
さうではなくて、正字正かな派は
「フォトンベルトを信奉しているこいつはバカだ!」と叩くやうな連中と同じだといふことでせう。
- hokuto-hei 2009/04/18 22:57
- 今日のエントリは、ある種のニセ科学批判批判にもなってるね。
ニセ科学批判批判なんてやる奴は明かに馬鹿だろ。俺、松永氏にまだ期待してゐたらしくて……だから良い方に誤讀したんだらうけれども、松永氏、本當に駄目なんだ。これで安心して叩ける。がつかり。
ついでに今更だが(闇黒日記の二月二十二日の記事だが読み流してゐた)、いったい「河上イチロー」の正字正かな掲示板って何だったのだらうな(闇黒日記の二月二十二日の記事参照)。その掲示板を管理してゐたころ、書き込む人の中には正かな派もゐただらうが、松永氏に彼らへの違和感はなかったのかとか。違和感があるのに「忠告」だか「批判」だか全くしなかったのかとか。書き込む人っていちおう「仲間」ぢゃないのかなとか。彼らの「間違った考へ方」を指摘してやる義理はなかったのかなとか。謎ばかり。
- 008 名無しさん (2008/10/29(水) 03:30:57 ID:/C.Q4q9w)
廃れてるだけのことで、間違いだなんて誰も思ってない。
ただ歴史的仮名遣いマニアの中には、それが正統だと主張したり「旧仮名」の呼称に反発して「正仮名」と言ってみたり(気持ちは分かる)現代仮名遣いは文法的に間違っているからダメだと切り捨てたり、単なる「好き」を通り越した発言をする人がいるから敬遠される。
複数の空白文字が連続している場合、特別な場合(pre要素の範囲内など)を除いてひとつにまとめられる。また、開始タグの直後の空白文字、終了タグの直前の空白文字は無視されることになっている点はHTMLと同じである。
2ちゃんねるなど、「正義」を振りかざす人々の「自分は正しいことを奉じているのだから、自分は正しい。自分たちに逆らう者は、正義を否定するものだ。だから攻撃しなければならない」というトチ狂った発想は、この構図とまったく同じだといえる(わたしは主張の内容が正しかろうと何だろうと、「“正しさ”を奉じる」という暴力には納得できない)。そして、わたしが「正しさを振りかざす」ことを生理的に毛嫌いしているのに、あたかもわたしがその「正しさ」を否定しているかのごとくプロパガンダする連中もいる。
昨今、メディアにおける犯罪報道では、遺族が語る場面が必ずといっていいほど挿入される。そして、それは「善」と「悪」という、単純な二項対立のフレームのもとでスペクタクル化されている。その効果として、人びとのあいだに「道徳的な公憤」を強力に喚起してしまうのだ。つまり、「悪」なる加害者に対する、厳罰感情のインフレーション(膨張)というべき事態が起こる。……(中略)……
かくして、感情的できわめて短絡的な反応ばかりが突出して進行する。(p.141)
あたかもわたしがその「正しさ」を否定しているかのごとくプロパガンダする連中もいる。と云ふ松永氏の非難は、正しい事を言つてゐる人間を「正しくない」と嘘を言つて非難してゐる事になる。
現代かなづかいというのは、本来、表音式を目ざしたものである。そのことは、国語審議会がこれを取り上げた経緯からもいえるのである。
それは、終戦後まず標準漢字表の再検討から始めた際のことであるが総会(昭21・4・27)で次のようなことが問題になっている。すなわち、漢字の字種を制限すると、漢字に隠れていたかなづかいが表面に出てくる。たとえば、動植物の名称をかなで書くとなると、<こひ(鯉)・たひ(鯛)・あふひ(葵)・うぐひす(鶯)>などは、いちいち辞書を調べなければ正しく書けない。これでは、せっかく漢字を制限しても効果がないという。これに対して行われたのが<だいたい表音式にするように進んでいきたい>という趣旨の発言である。要するに、漢字制限の効果をあげるには、かなづかいを表音式にしたほうがよいと考えられたのである。そうして、こういう方針がその後の「かなづかいに関する主査委員会」に引き継がれて審議され、議決・答申を経て内閣告示となったのである。
しかし、このようにして制定された現代かなづかいではあるが、それが必ずしも表音式でないこと、周知のとおりである。すなわち、同じ発音は必ず同じかなで書き表すというのではなく、その点では、<大体、現代語音にもとづいて>いるにすぎないのである。そうして、そのことが現代かなづかいを論じるにあたって、いつも問題になるわけである。そこで、この際、それら問題点の実体を明らかにしようとするのが、この小論である。
<p>次に、文学作品を引用する。</p>
<blockquote>
<p>吾輩は猫である。名前はまだない。…</p>
<p><cite>夏目漱石『吾輩は猫である』</cite></p>
</blockquote>
<p>この引用文を読んで、次の設問に答えなさい etc...</p>
<p>次に、文学作品を引用する。</p>
<blockquote>
<p>吾輩は猫である。名前はまだない。…</p>
</blockquote>
<ul>
<li><cite>夏目漱石『吾輩は猫である』</cite></li>
</ul>
<p>この引用文を読んで、次の設問に答えなさい etc...</p>
<dl>
<dt>A<dt>
<dt>B<dt>
<dd>C<dd>
<dd>D<dd>
</dl>
Definition Itemのやうなもので範圍指定するやうになると、それはそれで繁雜で、面倒である事も事實。
<blockquote cite="http://martin.p2b.jp/200812-stream-of-life.html" title="いのちの流れ"> <p>日夜 私の血管を流れる 同じ命の流れが この世界を流れ 旋律に合わせて踊る</p> <p><cite> <a href="http://martin.p2b.jp/200812-stream-of-life.html"> 「生命潮流」 </a> </cite>より抜粋</p> </blockquote>
<p><cite>の後に改行を入れて
<a href="http://martin.p2b.jp/200812-stream-of-life.html">と書き、さらにその後最う一囘改行を入れて
「生命潮流」、さらに改行を入れて
</a>、も一つおまけに改行を入れて
</cite>云々と書いてゐる。
<span>Powerful Perspnal-publishing Tool</span>がh1の直後に出現して、h1とともにdivの中に含まれる事でbody直下にspanが現れるのを防いでゐる。改行は兔も角、このspanの使ひ方はちよつと氣持ち惡い。
Powerful Perspnal-publishing Toolはul-liの中身にするけれども――せめてpにするとか。
それから、嫌がらせのため、無信仰の故に、また正しい信徒の間に仲間割れを惹き起そうがため、かつはまた以前、アッラーと使徒に戦いを挑んだ人々のかっこうな待伏の場所としようがため、(新しく)礼拝所を立てた者どもがある。彼らは(口先では)きっと「わしらの願うところはひとえに(来世の)よき報いのみ」などと誓言までして見せるに違いないが、しかしアッラー(御自ら)彼らは嘘つきだと証言し給う。お前(マホメット)あのような場所を決して踏んではならぬぞ。よいか、そもそもの最初から懼神の心を基礎として立てられた礼拝所の方が、どれほどお前が足を踏み入れるにふさわしいことか。あそこには、常に、好んで心身を浄らかに保とうとする人たちがある。まことに、アッラーは心身の浄らかな人々を好み給う。
信仰ある人々に出遭えば(殊勝らしく)「わしらは信仰する」と言い、仲間の悪魔どもだけになると「いやなにわしらは君たちの味方。一寸(信者どもを)からかってやっただけさ」などと言う。……
また人によっては、「我らアッラーを信じ、最後の(審きの)日を信じ奉る」など口先で言う者がある。実は全然信じてもいないのに。そのようなやからはアッラーと、まことの信者たちとを騙そうとかかっておる。しかし実はわれとわが心を騙しているにすぎないのだが、それに気付きはせぬ。彼らの心の中には病患が宿っておる。……
正しいと即断することには危険が伴い,そこに事実誤認の余地が生じることになる――そもそもその譬喩が「適切」か何うかを、その某氏ではない第三者もまた、某氏と同じやうに適切と判斷するか何うか。結局のところ、もつと大事な證據が必要と云ふ解り切つた筈の事が、某氏には理解されてゐなかつたと云ふ事である。
文章というのは文字ではなくて言葉で成り立っているのだから、現代仮名遣いだろうと正かなだろうと関係ないと述べても、やつぱり違ふ。
文章というのは文字ではなくて言葉で成り立っているのだから、現代仮名遣いだろうと正かなだろうと関係ないと僕は思う。言葉が仮名使いによって規定されるとは到底思えないし、現代の文章が味気ないと感じるのは、おそらく、単に味のある文章を書ける人物がめっきりいなくなってしまったのか、あるいは、単に趣味・嗜好の問題。 文字の問題と言葉の問題をごちゃ混ぜにしてはいけないね。
僕は、文章それ自体の問題に文字の問題を持ち込んだことに対して異論を述べていると云ふ部分が、ただ氏の記事の主眼であつたと、私には思へなかつた(だから上の「反論」も、形式的な「反論」にすぎない。斯うした「反論」をただ氏は期待してゐるのだし、私自身、この「反論」に論理的な「説得力を缺く」事は知つてゐる。けれども、一方で、この程度の反論が十分反論として務まらなければならないとも思つてゐる)。なぜなら、ただ氏は、以下のやうに話を續けたからだ。
仮名遣いなんてものはやはり結局単なる手段に過ぎないのだから、自分がこちらのほうがいいと思った仮名遣いを使えばいいと思うし、無理にどちらかを他人に薦めるというのはあまりよい態度とは思えない。もちろん自分が信じる方のよさを主張するのは一向に構わないけれども。
議論や研究発表などをする場合は意見が正しく伝わるように、また今の時代ならば後々にも参照できるように文章を書くべきだし(そのためにどういう仮名遣いがよいのかは議論の余地がある)、あるいは小説などの表現としての文章ならば書き手が選んだ表現方法ならばどんなものでもかまわないとは思う。
「正論」とか、ほかの人にはそういう意見を言わなかった、とかただの文句を述べてもらうために僕は書いたのではないから。
ただの文句だと極附けてゐる。しかし私は、文句を言つてゐるのでも、口を言つてゐるのでもない。人の價値觀と云ふ根本的な問題に就いて、私はただ氏の發言を題材にして、自分の考へを述べたのだ。
しかし、たとえ公平性を欠いていたとしても、「文章の問題と文字の問題を一緒にしてはいけない」という意見を無視することはそれも公平性を欠いているように思える。
僕は先日の文章で野崎氏に関してしか言及していなかったけれど、結局は同じような態度をとる人全てに対し言っているのだから。
しかし、言葉を表す手段という意味で、自分の言葉をあらわすのに適した方法をとろうとするのは至極当然で、また言葉を伝えるという意味を考えるとそちらのほうが正しいと僕は考える。
こんな風に書くとまた「正論」とか言われてしまいそうで、そうなってしまうと僕も何もいえないのだけれど、じゃあ間違った論を述べることが正しいのかって言えばそうじゃない。いったい僕はどう意見すればいいのかな。うまく意見を述べられるようにならないとな。
あとなんか、野崎氏は勘違いしているようだけど、先日の「過は往々にして罪」という記事で言いたかったのはあんまり欲張ると痛い目をみるよってことなんだけれども。
勘違いしている事にしたいらしいけれども、俺は勘違ひしてゐないよ。その程度のありきたりな「教訓」なら、無視して構はないと思つた、それだけの事だ――と言ふより、さうした「教訓」のありきたりで下らないものである事を言ふ爲に、俺がただ氏の發言を相對化して見せた事には、氣附いてもらひたかつた。
あくまで現実的な観点から見て、一度にたくさんに手を出しちゃだめだなということ。現実問題としてね。
あくまで現実的な観点と言つてゐるけれども、ただ氏はさうした「現實主義」だけが眞實であるかのやうに、ただ氏の「ブログ」全體を通して主張してゐる。現實的な面を尊重する事も必要だ、とただ氏は「正論」を言ふのだらうけれども、現實の重要性だけを強調し、理想や正義と云つた面の重要性が存在する事を徹底して無視するならば、「正論」は遁辭にしかならない。しかし、遁辭である「正論」を「正論」だと言張つて、言ひ訣として十分機能してゐると主張するならば、それこそ公正を缺く態度と言つて良い。
なぜなら、少し捻ると「あんたらは『正仮名遣ひ』で文章書いても結構ですよ、しかし私は使いませんけどね」と言っているようなものだからだ。
しかし、公益に資するということは検察官でも反対しないだろうと思うのだ。公益ということをどう解釈するかが問題になるので、公益という概念まで専門家、あるいは文学者の判定にまかせるとなると、検察官のほうでも不満が出てくると思うのだ。
戦争が起きたら死ぬよりほかしようがないという人がサドを愛読するかもしれないしね。わからないよ、そういうことは。全然無関係だね。
ぼくの考えでは、渋沢さんがさつきちよつと言いかけたけれど、渋沢さん自身が言うのは当人だから問題だが、効用ということでいくと、どうも駄目だ。それはチャタレイの場合とはちよつと違う。もちろん、さつき中島さんが実害という問題を出したように、実害があるかどうか、これに絞らなければならない。しかしその向うには覚悟が要るんだ、実害があつてもかまわないという覚悟がね。それが言論の自由という立場でしよう。つまり、多少の実害があるかもしれない、しかも、こういう公益があるのだという立証ができない場合がある。立証できないけれど、その前に、何が公益であるかも実証できないので、だからこそ言論の自由ということを認めなければならないわけだ。ただその場合に害があるかもしれないが、一方、広い意味での公益というものにつながつていそうだというところで、ぼくたちは思想や文学というものを、普通の殺人行為なんかとはつきりわけなければいけない。もつとも殺人行為でも、あるいは公益につながるかもしれないけれども…
安楽死もあるし、誰かを殺したために世の中がよくなるということがないとは言えない。しかし、それは認めるわけにはいかないのだよ。片方、文学や思想の場合は実害があるかもしれないが認めなければならない。やはり文学や思想は、実際行動とは別次元のものであるということが最後にあるのではないか。逆に言えば、別の次元に消化していると認められるものを文学・思想と呼ぶと言つてもいい。
だから法廷で争うという場合、さつきのように法廷で勝つこと、あるいは勝つ自信というものを確かにもたなければならないけれども、負けても役に立つような争い方も必要なんだ。
奥野健男のそうすると残虐の性描写は、そういう破壊思想を文学的に表現するのにどうしても必要になつてくる。
と云ふ發言を受けて。
それを強調すると、公益とか公共の福祉にかなわないのだ。
渋沢竜彦曰人間の可能性としては、なんでもできるということを、文学は書くものだから。
それを受けて。
その思想を言論の自由という言葉から説かれなければ行けない。。
渋沢だから民主主義ということには、自繩自縛があるわけですよ。
民主主義をぶちこわすかもしれないものを民主主義は認めなければならないところがあるわけです。
……。問題はやはり言論の自由ということが戦後盛んに言われてきながら、その場合に言論が何に仕えるべきか自明のこととされていたということにあるんだ。けれど有益な言論と有害な言論とがわかつているなら、言論の自由は要らないばかりでなく、それではすでに言論の自由はないのと同じだ。というのは結局自分の言論が有益であると考える言論の自由になつちやうわけだ。そういうふうに目的や公益をはつきり決めてしまわないで、何がいいことかわからないという立場に立たなければならないのだ。何がいいかわかっておれば、それに反する言論は皆悪いということになるのだもの。保守的な立場にしろ、革命的な立場にしろ、どつちがいいかということがわからないからこそ、言論の自由が望ましいんではないか。
言論の自由に徹底すればよい。戦後の言論の自由は、法律的には確保されているけれど、その覚悟の点で危いところがあるんだ。
言論の自由は、それ自体にアイロニーがあつて、たとえばプライバシーの問題でも名誉毀損の問題でも、アメリカなどでは名誉を傷つけられた側を擁護するためというより新聞の言論の自由を擁護するために考えだされた法律的措置らしいね、少くとも起源は。というのは、際限もなく名誉毀損ということでもつてどんどんやられたのじや、新聞はなにも言えなくなるからね。
だからそれを押さえるために、名誉毀損の線を法律的に明らかにする必要があつた。つまり、言論の自由を守るためには、その限界を決めておく必要があるんじやないかな。さもないと同じ憲法の公共の福祉という曖昧なものを悪用して、際限もなく言論を押さえることができる。だから裁判になつたら闘わなければならないが、元来、チャタレイもサドも裁判所で扱うべき問題ではないのだ。扱うべき問題ではないということを、裁判所が終つちやうと忘れて、文芸家協会でも放り出してしまうのは問題だと思う。なんとかしなければならない。サド裁判が勝つても負けても、終つたら根本的に文芸家協会でその問題を考え、新しい立法にまでもつて行くべきだと思う。その点、チャタレイ裁判以上に今度のサド裁判は、文芸家協会でも思想、文芸一般の問題にしやすいと思うのだ、本質的に。
文字の問題と言葉の問題をごちゃ混ぜにしてはいけないね。と言ふのなら、俺を責める前に、俺に意地惡を言つた連中に先づ文句を言つたら良いだらう。俺は、「旧かなで書いているのに現代語で書いているのは気持ち悪い」と非難した連中に言返してゐるのだから。
議論や研究発表などをする場合は意見が正しく伝わるように、また今の時代ならば後々にも参照できるように文章を書くべきだし(そのためにどういう仮名遣いがよいのかは議論の余地がある)、あるいは小説などの表現としての文章ならば書き手が選んだ表現方法ならばどんなものでもかまわないとは思う。
まあ詰まるところ、嫌だと思ったらアンチスレ行けと。東方なら棘*2に行けと。あそこは良いぞ。負の感情が蜷局を巻いて、一日見るだけで何もかもが嫌ひになるんぢゃないかって程。きっと全てを吐き出せて賢者の境地に達せられるでせうよ。ただ、快楽のあまり自家中毒になっても責任は持てないけどね。
とりあえず文書型宣言を書けと言つてゐて、人に勸めてゐる。けれども、内容を知らないで
とりあえず宣言を書いてゐる南堂氏の文書は、宣言してゐるHTMLの仕樣に照らして判定すると、invalidであり、誤だらけと云ふ事になつてゐる。それを「HTML的に詐欺」と俺は揶揄した訣だ。
慌てて改ざん出来ないように、魚拓も取っておいたからありがたく思えwとか言つてゐる2ちゃんねらー氏は何うかと思ふ。俺を非難する人逹は、現象だけ見て、本質を見ない。「詐欺」とか「改竄」とか、どぎつい表現に目を取られて、その背後で言はれてゐる事を決して見ない。斯うなると、ますます過激な表現で發言の本質を覆ひ隱したくなると云ふものだ。俺は、名前を隱すより、言つてゐる事の本質を匿して、あとでばらされたいと思つてゐる。内容の點では、ばらされても困らない事しか言つてゐないのだから。
きつとさうすると、避けられない現實の壁にあたる條項も出てくるのではなからうか、そのときは改憲案を出せば良い。曖昧なまゝの憲法を使ひ續けるよりはよほど良い。
日本人はいつまで無駄なことを續けるのだらうか。――日本人は、根據ナシの盲信を愛するのであり、それゆゑに議論なんて事は出來ないし、だからこそ何時までも何時までも
無駄なことを繰返し續ける事が出來る。
http://d.hatena.ne.jp/leque/20090406/p2 について 闇黒日記 H.21 4/8 の記事より。個別の記事を參照したい場合どうしたらよいのでせう。
ただ、上代特殊假名遣ひの書き分けにまったく意味がないかと言へばどうなんでせう。そこから得られた知見で「神」と「上」は別語だといふことがわかりました。他にも、「語を書き分ける」といふ意味では得られることはあるでせう。それを全體に波及させるには情報が足らないといふのが問題は承知の上で。
個人的には、撥音便の「ん」「む」の書き分けとアヤ行の「え」の書き分けくらゐは歴史的かなづかひの改良としてありうるものとは思ひますが、ほかのものは今のところ知的遊戯の範圍に過ぎないと思ってゐます。
荒唐無稽とは普通かふいふことを言ふ。
慥か四月一日撮影。とか書いてる。今年は去年よりも一週間くらゐ櫻の時期が遲くなつてゐるみたい。
知識人といふ人達には、われわれにはなかなか分からない、言葉のやりとり、心情のやりとりがあるのだらう。
僕は、無視されたんだな、と思った。
騒ぎすぎたことで国民にネガティブな耐性をつけてしまつた愚。
「おどろおどろしい国」とか言つて相手を勝手に妖怪化する愚を犯してゐるのだらう。しかし、報道の仕方だの防衛體制だのと云つた「目に見えるもの」だけを問題にしてゐるのでは、問題の根幹には觸れずじまひで話が終つてしまふ。結局のところ、價値觀の問題をこそ問題にしなければならないのだが、妙な「嚴密主義」に基づいて戰爭と自衛行動とを區別し、ミサイル發射と衛星打上げとを區別してゐる――それは平和な状況下での暇潰しであり遊びに過ぎないが、日本人は一生懸命考へてゐるのだと勘違ひしてゐる。日本は平和だ。
「転ぶ」の関西弁である「コケる」は東京でも普通に耳にする様になつたし、アニメやゲームの台詞でもよく出てくる様になつたけど、その「コ」を強調する抑揚のつけ方は関西人としては大変耳当りが悪く聞えるので何とかならんかと思ふ。かといつて関西風のイントネーションそのままでは東京訛りの中に収め様がないし、どうしたものか。といふか、これほどベタベタな関西弁の動詞がどんな経緯で全国進出することになつたのだらう。TVの所為といつたら身も蓋もないけれども、「転ぶ」に取つて換るだけの何か強い働きがあつたのだらうか。
ああ、でも「ズッコケる」は昔からあつたから、その派生か。だとしたら、そこから「ズッ」を消すだけで自然な抑揚になるのだがなあ。
肉が落ちる。やせほそる。の意味と共に、
足をとられて、よろめく、または倒れる。の意味が出てゐる。その用例として
こけつまろびつが擧がつてゐるけれども、これなんか割と一般的な筈。
論点を夜空のお星さまみたいに拡散されて、一々反論しなかったら、そうしたら、今度は「反論しないのは悪いことだ」みたいなことを弾丸のように言われ続けたことを思い出した。あれは一体何だったんだろう。
大前提で
理想として「正仮名遣い」を使うのが正しい。しかし大事となるのは、それについての価値観や正統性である。と書いてゐるけれども、命題の形に飜譯する必要がある。
小前提も同樣。