何うやら、人間は輕い氣持ちの時に最も残虐性を發揮する、と言ふ事が分かつてゐないらしい。輕い發想だからこそ實行に移し易いのだ。本氣で畫策してゐないからこそ残虐な所業が出來て仕舞ふ、此れこそが人間の抱へる問題點なのだ。
餓鬼が輕い氣持ちで残虐な行為をした時に
大人として本氣で叱るとしたら、それもまた
残虐性を發揮した事になるだらうか。昨今の日本では、「なる」と思ふ人が案外多さうなのだ。だとしたら、如何に問題を指摘したところで、既に何の效果もない、と云ふ状況が出來してしまつてゐる、と言ふ事が出來る。
……。
では、さういふ「作者の自我が美しいといふことを納得させようとする」作品に出會つた時、われわれは一體どうすればよいか。作者の自我の美しさを承認するのなら、われわれは作者に征服された事になる。詰り、われわれは作者に仕へる奴隷となる譯です。なるほど奴隷である事に喜びを感ずるマゾヒストも確かにこの世に存在するのであり、例へば、少しく暴論めきますが、あの讀み難いフォークナーを丹念に讀んで論文をでつちあげる學者や學生は、いづれマゾヒストであるやうに私には思へます。だが、D・H・ロレンスが考へたやうに、さういふ一方の犠牲によつて成り立つ人間關係は不健康であります。そして作者と鑑賞者との關係も人間關係に他ならない。一方的に讀者を「從順な服從者」となすやうな藝術は、從つて不健康な藝術であり、それは人々を「追ひこむ」のです。當然の事だ、「從順な服從者」に取卷かれた獨裁者は孤獨だし、獨裁者に接する服從者も孤獨なので、兩者の間に信頼がうまれる筈は無い。人間關係について、或いは男女關係について、われわれは誰でもこの事實を認めると思ふ。が、ひとたび藝術家と鑑賞者との關係といふ事になると、ひとびとは藝術家の鑑賞者に對する優越を至極安易に信じ込んでしまふのです。……。
詰りかういふ事になる。藝術家が自己を英雄に祀りあげる事なく、英雄や惡黨を描いてゐる限り、すなはち藝術家が「みづからさうありたいとおもふ自分」を、時には「さうありたくないとおもふ自分」を描いてゐる限り、すなはち藝術家が演戲をしてゐる限り、藝術家と鑑賞者との對立はなかつた。詰り藝術家と鑑賞者とは結びつく事ができたといふ譯です。思ふに、人と人とが眞實結びつくためには、互ひに見詰めあつてゐるだけでは駄目なのかも知れない、英雄でも惡黨でも神々でもいい、何かともに打仰ぐ對象が必要なのかも知れません。
藝術家――我々は嚴密に狹義の藝術家に限る必要は無いのであつて、
鑑賞者が存在するならばウェブサイトの制作者、「ブロガー」もまたこの
藝術家の内に含めて良いと思ふ。と言ふより、此處では藝術論の域を超えて、現代人の生き方に就いて論じられてゐるのだから、我々は松原氏のこの發言を藝術論の前提となる道徳論であると見、全ての人間がとるべき態度について語られてゐると解釋しなければならない。
17時23分。
闇黒日記のn件目つて、直ぐに分る方法無いかしら。Greasemonkeyとか。
鴎外の精神を汲むとすれば,保守主義に立つのならアクチュアルなルールをヘタに変えるのはよくない,といえる。つまり彼の「私ハ正則ト云フコト正シイト云フコトヲ認メテ置キタイノデアリマス」(岩波鴎外選集第十三巻『仮名遣意見』, 1979, p. 184) との言は,「歴史的仮名遣い・旧字表記」そのものを「正シイ」と主張しているのではなく,本質的には,彼の時代に「正則ト云フコト」つまりルールであったものに対する意思をもったこだわり・積極的受容をこそ示しているのである。彼は仮名遣いというものの Orthographie としてのあり方,つまり文化的統制・ルールたることを正確に理解していた。鴎外は正しかった。いまこの時代の「正則」は現代仮名遣い・新字である。現代仮名遣い・新字でものを書く私たちにとって,鴎外流にいえば,それを「ルールに則って正しく」使うことが「保守主義」である。
一體假名遣と云ふ詞は定家假名遣などと云ふときから始まつたのでありませうか。そこで此物を指して自分は單に假名遣と云ひたい。さうして單に假名遣と云ふのは諸君の方で言はれる歴史的の假名遣即ち古學者の假名遣を指すのであります。
歴史的仮名遣い・旧字を国語の「正統表記」として復活させるべきだと主張する某サイトで,森鴎外の『仮名遣意見』をめぐって,あたかも歴史的仮名遣い・旧字表記そのものの擁護に鴎外の保守主義を直線的に関連付けるかのような論に出くわした (管理者に少し失礼なのでどこのサイトかは明記したくないし,当然リンクも貼りません。
どうも保守主義と復古主義を勘違いしているひとがいるらしい。鴎外はたしかに保守的であったと思う。しかし「昔に戻せ」式の復古主義者ではなかったように思われる。いまでいう「歴史的仮名遣い・旧字表記」は彼の時代ではアクチュアルな表記ルールであって,その当時「現在している」ことにこだわるからこその保守主義なのであって,過去のものとなってしまったものを再興すべき「復古主義」ではなかったのだから。
主もに違ふと云ふことの論據になつて居りまするのは外國のOrthographieは廣く人民の用ゐるものである、我邦の假名遣は少數者の用ゐるものであると云ふことであります。併しさう云ふやうに假名遣が廣く行はれて居らぬと行はれて居るとの別と云ふものは、或は其の國の教育の普及の程度にも關係します。又教育の方向、どういふ向きに教育が向いて居るかと云ふことにも關係しますのであります。元來物の性質から云つて見れば外國のOrthographieと我が假名遣とは同一なものである、同一に考へて差支へないやうに信じます。
アクチュアルな表記ルールではなかつた――少くとも、鴎外自身、さうではない事を指摘されて、それを事實として認めてゐる。鴎外は、その指摘に對して、さうしたルールが普及・定着してゐるか、實踐されてゐるか、で、價値が決められてはならない、と言つてゐるのであつて、だから我々は鴎外が「既に定着してゐる假名遣を保守しようとしてゐた」と讀む事は出來ない訣だ。鴎外が
元來物の性質から云つて見ればと言つてゐるのに我々は注目しなければならない。
アクチュアルか何うかは問題にならない、
性質をこそ問題にすべきだ、と鴎外は主張してゐるのだ。
一國の言葉が初め口語であつたのが、文語になる時に、此の日本の假名のやうに音字を用ゐて書上げると言ふ、さう云ふ初めの場合には、無論假名遣は發音的であるには違ひない。然るに其の口語と云ふものは段々變遷して來る。一旦書いたものが其の變遷に遲れると歴史的になる。そこで歴史的と云ふことが起つて來ます。それであるから何の國の假名遣でも保守的の性質と云ふものを有つて居るのは無論である。日本のも同樣と思つて居る。
假に今日發音的に新しく或る假名を定められたと考へませう。さうしたならば此の新しい假名遣が又間もなく歴史的になつてしまふのであります。
自分は假名遣と云ふものははつきり存在して居るもののやうに認めてをります。契冲以來の古學者の假名遣と云ふものは、昔の發音に基いたものではあるけれども、今の發音と較べて見ても其の懸隔が餘り大きくはないと思ふ。即ち根底から之を破壞して新に假名遣を再造しなければならぬと云ふ程懸隔しては居らぬやうに見て居ります。凡そ「有物有則」でありまして口語の上に既に則と云ふ者は自然にある。此の則と云ふことは文語になつて來てから又一層精しくなるのであります。
直線的に関連付けるかのような論だらう。
世界中で最も發音的に完全な假名は古い所ではSanskritの音字、新しい所では伊太利の音字だと申します。而も我假名遣と云ふものはSanskritに較べてもそんなに劣つて居らぬやうな立派なものであつて、自分には貴重品のやうに信ぜられまする。どうか斯う云ふ貴重品は鄭重に扱つて、縱令それに改正を加へると云ふにしても、徐々に致したいやうに思ふのであります。
だいたい鴎外の『仮名遣意見』をきちんと読むと「歴史的仮名遣い・旧字表記」そのものを「擁護」しているようには思われない。等と言ふ事は出來ない。明かに鴎外は歴史的假名遣を
貴重品と言ひ、歴史的假名遣を
軽はずみに
変えることはよろしくないと言つてゐる。
字音仮名遣いについては漢字で書けばよいので気にしなくてよい,などと愚かなことを言う「正字正假名」派がいる。和語になった漢語 (例えば和語「さようなら」の元になった漢語「左様」) の存在は,漢語と和語の表記の境界を明確化できずこれらを連続的に捉えなければならないことを示しており,よって字音仮名遣いを無視できないことは明らかなのである。
明らかなのである等と權威的に言つてゐるから胡麻かされ勝ちだが、何の根據もない力強い斷定に過ぎない。
字音の表記については音の原則に準じてよいと「気にしない」派が言うとすれば,「さようなら」は「正字正假名」でも「さようなら」と表記してよいということになる。漢字で書くことで字音仮名遣いを無視できると言うのなら,「さやうなら」は「左様なら」としか表記してはならぬということになる。字音仮名遣いを「気にしなくてよい」などというのは歴史的仮名遣いの考え方として一貫性がないどころか矛盾しているのである。
「正字正假名」に国語表記を戻すとする。辞書はどうなるか? ここに仮に「正字正假名國語辭典」があるとする。「妾」(ショウ=めかけ,そばめ) をそれで引こうとするとまず現代人には引かれないであろう。
歴史的仮名遣いは和語だけでなく漢語の表記にも準拠してこそ「歴史的」なのである。「正字正假名」に戻すならこの字音仮名遣いをも引き取らないといけない。「実は易しい」などと宣う教養ある「正字正假名」派の尻馬に乗ってよいものだろうか?
しかし上記のとおり,字音仮名遣いをも習得する必要性に思い至ると,もはや歴史的仮名遣いに戻せなどという軽はずみにして大それた発言はできなくなるはずだと私は思う。
「私はこゝにゐると言はう」程度の歴史的仮名遣いでいいんだよ。なんで良くないんだ。衒學ぶつて、恰好をつけてゐるのはIsao YASUDA氏自身だ。其處まで恰好良くする必要は無いと、俺も、恐らく他の正かな派の人も、思つてゐる――と、俺は信じたいのだが、慥かに正かな派の中には、高崎一郎氏とか平頭通氏とか、字音假名遣に拘つてゐる人がゐる。福田氏も時枝博士も、或は鴎外も、そんな拘りは持つてゐなかつた筈だが――。
ところで、鉄山氏曰く、"暴論や極論はどんどん吐いたほうが良い"とのことだけれど、僕は多分今後も意識的に暴論・極論は避けていくと思う。確かに暴論・極論を出すことでよくよく考える機会が生まれるかもしれないけれど、どうしても感情的な意見になってしまうとそこで議論が終わりがちになってしまうから。
逆なんだよ。感情的な意見、傲慢な態度は無くしてゆくべきだけど、味方でさえもたじろいでしまうような極論はどんどん主張すべきなんだ。そうでなければ、頭が腐ってしまう。
思ったことは書き続けるけど、あなたに対しては黙っていることにする。と言ひ放つた次の行で、「あなた」に對して話をし始める。
ああいう人を人とも見ない態度は大嫌い。と言つたのは誰だらう。
人のことは、言えないなと、他人事のやうにしれつと言放つ人だから。云々。
根拠。
もちろん、この程度の揚げ足取りなら喜六郎が得意なところだが、今囘も喜六郎はにやにや眺めて「アホッチ群がまた内ゲバ」とか「客觀的」な批評を書くだけだらう。三宅氏と俺とを見比べて、喜六郎は俺に不利になるだけのやうに物を言ふに決つてゐる。喜六郎の「客觀的」とはその程度のものである。
こんなの、書く必要ない。こういうことを書いて誰が喜ぶ?自分がやられているのは、こういうことなんじゃないの?それとも何か違いがあって、こういう物言いをする?それが理解できない。だから「同じ穴の狢」と言った。
悪の根源にされているけど、被害妄想にしか思えない。議論しか存在してはいけないのか。それが「Webの理念」か。「コメント欄を作るのをやめた」、そう書き残すことが、悪意に基づく当て付けなのか。書いてはならないのか。「Webはオープンな場であるから、思考そのものは公開を許されない」、それでいいのか。そんな窮屈なものだと、一体誰が決めた。
コメント欄を置かなくても反応はいくらでも出てくるから、とm氏自身、すぐに言つてゐるのに。何もかもわかつてゐて、m氏はとぼけてゐるんだ。反應がある、それにまた反應する――議論ぢやないか。誰が何う見たつて議論ぢやないか。議論しか「存在してはいけない」のではない、ウェブだと必然的に議論は「存在する」筈なんだよ。潛在的にも存在する議論を、m氏が拒否して、拒否しながら、直ぐに「反應がある」なんて言出す。出たら目だ。議論と反應とは同じ。別の言葉を使つたから別のものになると思つたら大間違ひだ。
コメント欄を置かなくても反応はいくらでも出てくるから、スクリプトを走らせてまで自サイトのコンテンツとして生成するまでもない、そうするまでには見返りがない、ただそれだけのこと。
説明を求められたがゆえに、きちんと「同じ穴の狢」と言った理由も示したけれど、「卑怯者が逃げて終わった」ことにするつもりかね。
アンチアンチ狂ったように繰り替すのは。の何處が「理由」だと言ふんだ。アンチが長い間アンチ行爲を續けてゐるのなら、それを何囘もこちらが指摘するのは當り前の話だ。長い間アンチ行爲を續けてゐる側に責任があるのであり、それを「指摘するのが惡い」と言ふのは、明かに加害者に加擔するものだ。
無神経に過ぎる、「キ印」などと言って悪意を剥き出しにする人がいる……本当にこれらを問題だと思っていれば、やっぱり頭のおかしい人だったなんて言葉は出てこない。出てくるはずがない。それを平然とやってのけるんだから、全部偽物。
真理は存在するが、人はそれを知覚できない。だから「追究」と言う。「存在しない」とは思ってない。
ところで「アンチ野嵜」でも「野嵜信者」でもない、ただの野次馬諸君、諸君には良い事を教へて差上げよう。喜六郎の目に入るところで、第三者として、喜六郎を冷靜に批判して見玉へ。面白い事になる筈である。あれほど冷靜な喜六郎が、頭から湯氣を出してかんかんになつて怒る樣を、諸君は見る事が出來るだらう。
そんな諸君が、今度は「野嵜信者」として書込んで見るのだ、さうすると喜六郎は、何を言はれても蛙の面に××、全て聞き流して、偉さうに説教を垂れて來る事だらう。「第三者か、野嵜信者か」で喜六郎の態度はころつと變はる筈である。試して見るといい、こんなに面白い試みもさうさうあつたものではない。
自分には許せる事を以て他人を罵る事は、絶對に許されない……そう説く人間が、「相手を人間として見ない態度」を批判する文脈でこう口にする。私にはこれが「相手を人間として見ている」文章には思えない、だから相手と同じ、「同じ穴の狢」だと言うのだけど、そうすると「ならばお前だってそうだ、同じ穴の狢だ、許されるものではない」と言う。これは「相対化」ではないのか。
日本語の問題については、前提を共有していないので何とも言ってない。何も読んでいないから黙っている。黙っていればいい気になりやがって、と思う。自分のやっていることがわかっていないんだ。「俺を批判するな」「俺を貶めようとしている」「俺を悪人にしようと」……俺、俺、俺。そうやって、他人を「おかしい人間」にする。
おかしいに
陰険な、暴力的な、頭が悪いと云ふ註釋が附いてゐるのだ。俺は、m氏の頭がをかしいと思ふけれども、陰險な・暴力的なとは區別してゐる。例によつて、この邊りの事をm氏もごつちやにしてゐるのだ。斯う云ふ曖昧な考へ方をする人とは、話が出來ない。そして、惡いのは曖昧に話をする人の方だ。
説明がないのがいけない、反論できないのがいけないと言う。説明すれば、関わるな、言うなと言ったから何も言わない。そんな程度の「論理」。「典型的」日本人の病理。「当たり前」「当然」に加え「典型的」って言葉も好きじゃないけど、あえて使う。
あなたに対しては黙っていることにすると言ひ放つたのはm氏なのに、なぜか俺が
何も言わないと言つた事にされてしまつてゐる。唖然とした。
何處を何う讀んでも惡い事を言つてゐない、自分が氣にしない事なのに、他人を責める文句には使ふ、鈍感な人間が纖細な人間を馬鹿にして威張る、人が傲慢である事を非難するのは良い事だ、と云ふのは、全ての人が同意する事、全ての人が同意してゐる行爲を俺はやつてゐるのだから、非難される謂れは無い、非難の根據を見ないで結論だけを見る、意識の低さ、高所から見下ろす自分の態度の惡さ、俺は惡人でなければならない、偶像を作り上げてゐる、誰が傲慢だのと安易に言出す事も出來ない、何も考へないで、適當に人の言つた事を捩つて適當にそれつぽい事を言つてゐるだけ、一方的な非難、「事實を述べてゐる!」みたいな顔をしてしれつとしてゐる、獨善的で、居丈高に他人を罵り、嘲笑してゐる、やつてゐる「事にしたい」、文章を讀んで、内容を理解して、物を言つてゐません、事實を指摘しただけ、間違ひだと斷定する、「それを讀んだ人間が何う思ふか」まで意識しなければならない、公開の場で茶番、現象の表面だけを見て、物事の本質を見ない、一方的に他人を道徳的に斷罪する行爲、あなたから縁を切らうとしてゐる、一方的に言散らし、一方的に關係を決めようとしてゐる、自己を防衛する爲に、なぜかm氏には解つてしまふらしい、説明して呉れれば反論出來る、一方的に書散らしてゐれば、氣分はいいだらう、如何なる人間も反論が出來ないレッテル貼りをして攻撃、絶對に許されない、適當に解釋すべき、惡意で解釋してゐる、嫌がらせ行爲を正當化、後ろ向きの姿勢、反社會的、全部繋がつてゐる、感情だけで動いてゐる、最低限の儀論のルールを守らない、勘違ひする、ただ、目につくところのものだけに著目して、それで簡單に話を濟ませようとする、コメント欄の有る無しが、反論を受ける・受けないと關係があると勘違ひしてゐる、アンチの連中と同じやうに、逆恨みし續ける……たったあれだけ、そして追記だけで、人にここまで言い放つ。病的であるとしか思えない。病的であるとも思えないんだろう。
病的と云ふ感想を抱いてしまふm氏こそが病氣だ。
どうして陰険だと言われることを非難するのと同時に、他人に陰険であると言い、
自分には許せる事を以て他人を罵る事は、絶對に許されないだなんて言えるんだろうな……。そしてそんな「理屈」を少なからぬ人たちが良しとしている。本当にひどい。
べらべらとと書いたのだ。俺の言つた言葉に「病的」なものを見出すm氏は、じぶんの
べらべらとと云ふ言葉に、病的なものを見出さなかつたのだらうか。否、いろいろな事を俺が「澤山言つた」から「病的」だと言ふのだらうが、しかしm氏ははつきり
べらべらとと書く以前から、俺に對する當てつけをいろいろ言つてゐなかつただらうか。
べらべらと云々と、俺を罵つたのだ。
3行でまとめてゐればm氏は滿足したかね。
- 聞き分けのいい人間
- 道具として価値がある
- 口の減らない人間
- 話のタネとして価値がある
割り切りと慎みと慈しみと、ある種の諦めとか
はてなスターもman to manのクローズドなコミュニケーションを巧妙にカモフラージュしているようにしか見えない。そして、例によって数の暴力が働く。とか
数で物事を測るのはこの社会の基本原則だから異を唱えるつもりはないけど、そのぶん数そのものには注意深くならないといけないとか
行き詰まると無駄口が増える。追い詰められて死ぬキャラは大抵何かを喋りながら死ぬ。so reasonable。とか
人が真面目に考えてる横で平気でちゃぶ台を引っくり返すようなことを言うのはよくありませんとか
インターネット=友人の家とか
人一人どうこうしたって何も変わらないとか
人は群れて暮らす生き物なので、主人公グループ以外が不可視とか。
私もいずれああなるのか……とか。
他人の意見に便乗して、さも自分の意見であったかのように語る人とか
現世で徳を積まないと幸せな来世は来ないんだっけかとか。
なんでそんなに偉そうなのとか
一同爆笑(笑)とか
収容所とか
ユーザが気持ち悪いってのは、長期的に見ると損だと思う。最終的に人を不快にさせるのは他でもない人。もちろん私も含む。とか
「ああはなりたくない」とか。
まあ、「彼ら」にとっては自然な表現なんだろうなあ……とか
ハッタリばっかりとか。
とか原則的に全部脊髄反射で動く「動物」に人間を指弾する資格があるのか?人間を「擬態」するのをやめたほうがいいんじゃないのか。リンク張って言うべき?
下衆は際限なくつけ上がるし、自分自身が下衆であるか否か判定できないとか
言葉(ことば)の刃物で血肉が溶けて流れ出るまでメッタ刺しにされればいいのにとか
惚れやすく付き纏いやすいとか
放任主義とか
放置国家とか。
感想には個人差がありますとか
痛みに敏感すぎて鈍感になっているとか
ユーモアはいらないけどエスプリ(あるいはウィット)は欲しいとか
不快感を表明するにも的確な表現力が必要とか。
浅学薄識とか
正しい批評とは……「正しい批評」と言わないものすべて。良い批評とは……独自の視点をもったフェアなもの。とか。
暖簾に腕押しとか。
正邪善悪優劣賢愚とか
露悪的でない悪趣味には鈍い生の輝きがある(ような気がした)とか
自分から「中の人」を名乗り出るのは何か間違っているような気がしてならないとか。
どうしてすぐに成果を求めようとするんだろう。そんなだからやる気のある人が疲弊して、基礎の積み上げが疎かにされ、要領の悪い人間が丸暗記やコピペに走るようになる。とか
周りに合わせられる人間だけが生きればいいだけのことかとか
Twitterで納得のいかないものを見たら、完成度の低いbotだと思うことにしようとか
「禁止されなければ何をやってもいい」ってのがデジタルネイティブかとか
排他的になることなく、できるだけ寛容にとか。
いい歳した大人が匿名さんの書いた初音ミクへの文句に大量に食いついているのを見ると、あれらは本当に人間なのだろうかと思えてくるとか
知識に寄り掛かった解説、目利きによる語り、それはただの広告塔だよねとか
とか嫌儲が嫌いだと言う一方で「Adblock最高」、それはただの偽善だよね
自分に都合良く線引きしてるだけだとか
人間が嫌いだから社会性が身につかないとか。
「美人言語」というピジン言語があるのではないかとか
要するに、友達ごっこがしたいだけか?とか
「二枚舌」を「チェックする」という言葉の意味が通じないのはどういうことなんだろう。「二枚舌」という言葉の解釈が違う?「二重規範チェッカー」とかのほうがよかったのかも。とか
、論破という言葉を口にすることは、自らの価値規範でしか物を考えていないと自白することに等しい
「破った」かどうかは自らの価値規範によってしか判断できないし、そこに他者性は介在し得ないとか
思っていることを当たり障りのない言葉で正確に伝えてくれるインプットデバイスが欲しいとか
言いたいことは立場を隠して言い、表立っては他人の尻馬に乗るだけ、他人を介して民意を行使しているというあたりが最低だと思うとか
まともに対話の機能も満たしていないような空間はとか言論空間としては不十分だし、構造的に独り言や野次の枠組みから逃れることはできない
本来の想定された用途であるブックマークや備忘録として使う分には、当然対話の機能は必要とされないとか
無慈悲(no mercy)とか。
信じる規範がないとか
堕落とか
執着とか
するということにしておこう。とか
粉々になってしまえばいいとか
もう「何人が反応した」みたいなレベルでしか判断されなくなっているとか
まあ、(あの人たちの中では)Web全体がそういうデータの集合であるべきなのか……とか。
A対Bの二項対立でしか物事を考えられなくなると、Cにとって得という視点が存在しなくなる。で、とか誰得とか平然と言い放てるようになる。楽でいいな。
箱庭感とか
脳の神経を繋ぎ変えるなどしてライフハックしたいとか
虚構に哲学を求めて、現実に娯楽を求めて、どうするのとか
罪と律法とか
きれいに騙してくれるのならそれでとか
はてなスターとか、やっぱりわからない。ああいう風に巧妙に「君は正しい」「君は正しい」みたいな評価をされてうれしいのだろうか……とか
侵蝕とか
用意されているものを使いたいように使う、そういうのに潜む無神経さを悪用したいとか
見え方というものを考慮していないとか
アジテーション、扇動、あるいは、ここもとか。
過去の自分は過去の自分でいいのでは。むしろ何年経っても同じこと(同じ「主張」ではない)を言い続ける人のほうが怖い。とか
責任を取らせろー火あぶりの刑だーとか
民衆成長してないとか
人をジャガイモとか
贖罪の山羊とか
空虚とか
好奇心の矛先とか
何をする気にもなれない、無気力とか
死に体、生き体、死に様、生き様、死に急ぐ、生き急ぐ、死に馬に鞭打つ、生き馬の目を抜くとか
生き物狂いとか。
「問題」をでっち上げて煽るようなのが後を絶たないから、何が問題で何がそうでないかをフィルタする理性が必要とか
見なければいい。多くの人が不快に思っているものが、誰にも見られなくなればいい。「見られない」ことと「見れない」ことは違うし、影響力を落とすことで健全でいられる。とか
積極的否定とか
其の役を悪(にく)みて、其の人を悪まずとか
マルチ商法の洗脳とTwitterに誘う洗脳の違いがわからないしとか
金持ち男子・貧乏男子でいいと思うしとか
もう何も信じられない!とか
何を言っているのかわからない!とか
見なければいいだけだったとか
悪意に満ちているとか
Twitter、任意ユーザの過去ログからbotを生成してはどうか。お友達作成キット。とか
botに片想いして出版とか
未だ見ぬ恋人を探す旅に出るとか
幸せの青いミクとか
本気出ないとか
(あのコじゃわからん!!)とか
倒錯値とか。
俺はこれ以上読者を煙に巻くような馬鹿な真似をしたくない。members.jcom.home.ne.jp → d.hatena.ne.jp → jintrick.net → twitter.com → stream.jintrick.net。我ながら失笑もの。
筋(すじ)は読むべき。orz
言いたいことがあれば何を言ってもいいとは思わない、だから「人を人として見ているようには見えない」ことを説明するために強調を入れた。
こういう場合に「俺」を持ち出すのは許されるという。
被害妄想にしか思えない。と言つたから、こつちも「俺は」と言つたに過ぎない。
「議論」にはゴールが必要。お互いに言いたいことを言い合うだけでは議論は成立しない。そういう成立していない「議論」を「議論ごっこ」と言っている。
その指摘のやり方が同じだから、自分もまた加害者になっているという意味で言っている。加担なんてしていない、むしろ両方同じ悪と考えているから「同じ穴の狢」と言った。
同じなのであれば、どうして価値相対主義で何も考えていないなどと言えるのか。
真理なんて人間が判断し得るものじゃないんだよ。それを平然と「真理に近い」と口にする。そんな「教義」に殉じる気はない。「自分が一番偉い」が「自分の教義が一番偉い」になっているようにしか思えない。と言つたんだよ。同じなんだろ。同じなのになんでわざと違ふやうに極附けたんだよ。同じなんだろ。
「事実を指摘しただけで得意になる」と批判していながら、そういうことを言える神経を疑う。自分に許されることをもって他人を罵ることは許されない。
説明にもなつてゐない「事實の指摘」をされても困るんだよ。と書いたのを、讀んでゐないだらう。自分に都合良く、俺の發言を切取つて、もつともらしく論評するな。
見た人がどう思うかまで論理的に考えなければならないはず。
「自分が正しいから矛盾はない」と言っているようにしか聞こえない。だから「肯定するための理屈」と言っている。
量は関係ない。思い込みの激しさを言っている。
こう、決めつける。「同じ」であるから、当然「長いから」病的と言うことにしたいんだろうけど。
相手も納得済みであればそう言える。だけど、それが一方的なものであれば話は違う。
覚えている。同じだ。同じなんだよ。野嵜氏は「mと俺とは違ふ」と云ふ事にしなければならないから、こつちの言つてゐる事を歪曲して「アンチ」だの何だのと言つて罵つてゐるが、同じなんだよ。何で違ふ事にしたがるんだ。
抜き出しているのは「他人を責める文句」。そのまま引用するのではなく「抜き出している」のに、文章の長さを論っているとどうして言える。
何處を何う讀んでも惡い事を言つてゐないと云ふのは、俺が俺と云ふ
他人を責める文句なのか。俺と云ふのは自分の事であると思つてゐた。自分が何をしたのかもm氏は理解してゐないらしい。
結局、何を言っても「アンチ」であるゆえに悪人なんだろうけど。「自分が正しい」から矛盾はなくなる。
こうやって書いていることが病的だかなんだか知らないが、あなたにそう非難される筋合いはない。形式の問題ではないし、文章の長短によるものでもない。そういう間違いを犯す人が非常に多いと言うが、それをやっているようにしか思えない。
非難される筋合いはないよ。あんたが何で俺に怒つてゐるのか、さつぱり解らない。傍觀するなら傍觀するで、默つて見てゐれば良いだけなのに。
闇黒の人は今、他人が文章の長さを論うために抜き出していると思い込んで、他人の言葉をひたすら切り貼りして並べてみせる、という愚を犯している。
愚を犯していると言つて良いのなら、どうして俺の
切り貼り(謎)された言葉は、言つてはならない言葉であつたのかね。説明していただけるかね。無理だらう。一言言つて呉れればいいんだよ、mayokara氏が俺を一方的に罵倒するのは、如何なる資格に基いてゐるのかと。
……結局、他人を怒らせ(狂人だなんだと言って怒らせることは何とも思わない)、食いついたら嗤っているだけだ。思ったことは書き続けるけど、あなたに対しては黙っていることにすると言ひ放つた次の行で、「あなた」に對して話をし始める
べらべらと云々と、俺を挑發したんではなかつたでしたつけ。それ以前に、俺があんたを挑發しましたか。なんか變な電波を受信してゐませんか。喜六郎は受信してしまつたらしいです。
そもそも「恥」だの「後ろめたさ」だの、他人から言葉を拝借して物を言うことを何とも思わない人間なんだよな。今となっては私が真似したように見られるのかもしれないし、当人は当てつけでやっているのか知らんが、それこそ恥を知れと思う。
他人から言葉を拝借して物を言うことを何とも思わない人間つて――意地でも「俺はお前と違うんだ」と言ひたいらしい。俺は「俺もお前も同じ」と指摘して、それゆゑにm氏の言葉を「拝借」して、m氏の非難がm氏自身にも當嵌る、或は、アンチ諸氏の言葉を「拝借」して、アンチの非難がアンチ自身にも當嵌る事を、指摘しただけなのに。
べらべらと等と人を小馬鹿にする事を言つて、俺を挑發しにかかつた。さう、mayokaraが挑發したのだ。挑發しておいて、さつと引いて、そこで俺が反撃を續けたら、
説明がないのがいけないと非難し、応じて説明すれば黙ると言ったじゃないかと言って嗤ってみせる。と「理窟」を言ふ。あきれたものだ。mayokaraは、俺とは赤の他人だ。何で赤の他人なのに、いきり立つて俺に挑みかかつて來たんだ。喜六郎もさうだ。頭がをかしいんだよ。
しかし、歴史的かなづかひの原則はそんな單純なものではありません。そこにおいて最も大事なものは、既に言つたやうに、語の自律性といふことであります。それを確立するために、私たちは時代を通じての歴史的一貫性や直ちに識別しうる明確性を求めるのです。定家の傳統主義はその前者に通じるものであり、契沖の規範主義は後者に通じるものでありませう。が、二人とも、抽象的な、あるいは本質的な思考に不慣れな過去の日本人として、本質と現象との次元の差を考へ分けることが出來なかつたのは當然と言へます。そのため、無意識のうちに語の自律性といふ本質を求めながら、その本質を志向する一現象にすぎぬものを、すなはち一貫性や明確性を、それぞれに本質そのものと混同してしまつたのであります。文字は、あるいは表記といふ行爲は、表意、表語を目的とします。語の自律性を志向し、語に仕へようとします。歴史的かなづかひは、そのための手段として一貫性や明確性を欲するのです。が、逆に、一貫性や明確性の樹立を目的とし、言葉や文字をそのための手段と考へてはをりません。一貫性、明確性に都合のいい言葉や文字を探したり造つたりしようとしようといふのではなく、既に與へられてある國語國字がなるべく一貫性、明確性をもちうるやうにと考へてゐるだけのことです。そればかりではない。語に仕へる手段の一つとして、一貫性、明確性のほかに表音性といふことさへ認めてをります。歴史的かなづかひの態度はあくまで現實主義的です。頭の中には本質、すなはち表意觀念があつても、手の中にあるものは表音文字だといふことを忘れてはゐませんし、それを卻けようともしてはをりません。また、頭と手の機能を混同する愚を犯しもしません。
文字が音にではなく語に仕へるといふ事實は、もちろん表記といふ行爲がおこなはれはじめたときからのことで、ただ定家はその觀念を最初に意識した人といふに過ぎません。が、意識させられて、あるいは意識させられるやうな事態が起つて、初めてかな文字は新しい目で見られ使はれ出したのであります。嚴密に言へば、新しい目にも何も、人の意識に照らされて「見られた」といふのが、おそらくこの時をもつて初めとするやうであります。では、なぜそれまでは「見られなかつた」のか。かな文字が表音文字であるからです。それがなまなか表音文字であるために、音を寫すといふ文字の即物的能力にのみ、人の意識が向けられてゐて、語を志向するといふ觀念的可能性が見えなかつたのであります。が、それはあくまで見えなかつたといふだけのことで、無かつたのではない、最初からあつたものです。たとへ表音文字であるかな文字といへども、文字である以上、それはあつたのです。
さて「現代かなづかい」の表音主義不徹底は、すべて語を志向する文字の本性の然らしめるところで、人民大衆の消化能力を慮る親心から出たものでないことも、やがては完全に表音化しうるやうなものではないことも、もはや疑ふ餘地のないところです。しかし、最後に「現代かなづかい」論者から次のやうな反問が出ることと思ひます。すなはち、時に語を破壞しまいとして、表音主義、音韻準據の精神に徹底を缺く恨みがあるとしても、どうしてそれがいけないのかといふことです。歴史的かなづかひにおいても、それは同樣ではないか。文字は語に隨ふべしと稱しながら、臨機應變に音の表記も心がける、それが融通無礙と言ひうるものなら、反對に文字は音を表すべしとしながら、臨機應變に語にも隨はうと努めるのも、また同じく融通無礙と言へるではないか。が、それは言ひのがれといふものです。
それだけのことなら、原則を右から左へ變へて、いたづらに混亂を惹き起す必要がどこにありませうか。原則はもとのままで、徐々に改革してゆけばよかつたはずです。だが、「現代かなづかい」の精神には、それが出來ぬ何かがあるのです。よく考へてみてください。歴史的かなづかひが、時には音に隨ひ、時には音に背くといふのと、「現代かなづかい」が、時には語に隨ひ、時には語に背くといふのと、それぞれの原則との關係において、兩者の間には根本的な相違があるのです。文字がそもそも語に仕へるものだからといふ本質論は、このさい控へることにしませう。それぞれの原則を公平に認めることにして考へてみなければなりません。
まづ第一に、かな文字は表音文字であります。それは歴史的かなづかひにおけると、「現代かなづかい」におけると、なんの違ひもありません。第二に、歴史的かなづかひはこの表音文字といふ現實をそのまま受入れて、その現實とは別次元に表意といふ觀念をたて、それをめざしてゐるものであります。つまり、最初から現實と觀念の二元論の上に立つてゐるのです。一方、「現代かなづかい」は表音文字であることを理由に表意性を認めない。すなはち、表音性といふ現實以外に別の原理を認めず、現實から歸納しえた原則をもつて現實を處理しようとしてゐる、いはば一元論に立つものなのであります。二元論が二元に相渉るのは妥協ではなく、それが初めからの約束ですが、一元論が二元に相渉るのは妥協であり、矛盾であります。のみならず、このディレムマの致命傷は一元論そのものの崩壞になり、その原則自身の無力を裏切り示すことになるのです。
黙らなくて結構、ただ私一人が信用しないというだけ
こんなことをべらべらと喋り出すあたり、同じ穴の狢。とか、惡意に滿ちてゐる。何なんだらう。俺が恰も惡い事を言つてゐるかのやうに言つてゐる。俺が何んな惡い事を言つたと言ふんだ。何處を何う讀んでも惡い事を言つてゐないのに、言つたと極附けてゐる。
……。私は昭和三十年、三十一年に、金田一京助博士との論爭の形式において、「現代かなづかい」と「当用漢字」の非なることを述べました。そのときに痛感したことですが、その私の所論は當事者、ならびに多くの國語問題研究家をこそ刺戟しましたが、一般はただ喧嘩好きの私が例によつて例のごとく新しい喧嘩相手を見つけたくらゐにしか思つてくれなかつたことです。大抵の人が喧嘩の事實は知つてゐても、私の文章を讀んでくれてはゐないのです。しかも、論爭は「水掛け論」あるいは「泥仕合」の樣相を呈してきたなどといふものまで出て來る始末でした。讀んでゐないから、さういふのであつて、問題は讀んでくれぬことにあり、讀んでくれないのは、關心が無いからであります。……。
清冽な正義感なので、鉄山さんのような若い人にはアピールするけれど、それは「自殺行為」だ。 60 年代から 70 年代の学生運動を知って居るから分かる。 私は真っ当なマルクス主義者を知って居る。 故人。 以前、彼を今でも尊敬して居ると書いたけれど、極めて道徳的だった。 野嵜さんもそうだ。 思想は異なるけれど、「自殺行為」を敢えてやろうとして居る。 私が若かったなら行動を伴にするかも知れない。 が、今は違う。 そんな彼を死なせてはならない。 だから「敵」でも何でもになって「抑え付ける」。
極めて道徳的(この場合の「道徳的」は、俺が何時も言つてゐる道徳的と違つて、三宅氏の用語)であり、
清冽な正義感に基づいて行動しようとしてゐるのは三宅氏自身だ。これでは反論の餘地がない。一方的に「やる」と言はれて、それが惡意の攻撃でなく善意の攻撃であると云ふだけの事だ。形容句を除けば、やつてゐる事は喜六郎も三宅氏も大して變りはない。
自殺行為だとは思はない。
彼は理想を現実のものとせねばならないと考えて居る。 しかし、その正義を実現するためには、過去から連続する価値観が無ければ無理。 そんなのを待って居られない、今すぐ何らかの行動を起こすべき。 でないと、いづれ近いうちに正かなは滅ぶ──。つて、何とも
清冽な正義感だが、三宅さん、あなたは私を買ひ被り過ぎです。
自分が相手と同じことをやっているのに気づいていない?――やつてゐないのに、何でやつてゐる「事にしたい」んだい、きみは。
アンチアンチ狂ったように繰り替すのは。ブログを使い分けて「人」を非難しているのも鏡写し。この人は、やつぱり俺の文章を讀んでゐません。文章を讀んで、内容を理解して、物を言つてゐません。
人格批判は正義の押し付け合いにも劣るんじゃなかったのか。頭が惡い事實を指摘しただけです。根據も擧げてゐます。
黙らせられることには敏感なくせに、黙らせることは何とも思わない。人を惡人と極附けて默らせられるのには敏感だが、間違つた事を言つてゐる人間の間違ひを指摘して默らせる事は何とも思はない。當り前だ。
真理なんて人間が判断し得るものじゃないんだよ。ならあんたはなんで自分が眞理を知つてゐるかのやうな顔をして、俺のやつてゐる事を間違ひだと斷定するんだ。なんでmayokara氏は、解るんだ。解らないなら默れ。解るなら眞理なんて云々の發言は全部無意味だ。無意味な事を言ふな。默れ。どつちみち默らなければならない。俺が默らせるんぢやない。m氏自身の價値觀がm氏を默らせるんだ。俺の所爲にするな。
あと、「常用漢字が理想である」なんて言っちゃいない。そう考えた人がいるというだけ。良心だって、どう記述されているかを引いただけで、盲信しているわけじゃない。ただのメモ。さうやつて、傍觀者を氣取る事が一番卑怯だ。公開の場に書くのなら、「それを讀んだ人間が何う思ふか」まで意識しなければならない。當り前だ。ちなみに「何う思ふか」とは、感情の話ではない。飽くまで論理の話だ。
関わるだけ無駄だね。言うんじゃなかった。もう何も言わないから、何も言わないで。思ったことは書き続けるけど、あなたに対してだけは黙っていることにする。私とあなたの關係か。公開の場で茶番もいいところだ。
押し売りが来るんだったら、コメント欄もいらないな。作ろうと思ってたけどやめた。俺が押賣りか。押賣りしてゐるのはmayokara氏だらうに。自覺がないんだよ。mayokara氏は、
自分が相手と同じことをやっているのに気づいていない?と書いた。書きつぱなしだ。根據も何も示さないで
気づいていない?ときた。此れの何處が押賣りぢやないと言ふんだ。
自分が相手と同じことをやっているのに気づいていない?と云ふのは、道徳的に責め立てる行爲だ)、俺に反論しない。斯う云ふ一方的に他人を道徳的に斷罪する行爲を俺は問題にしてゐるのだし、アンチの連中がそれをやつてゐると言つて俺は非難してゐるのだが、mayokara氏にはただ「何か言つてゐる」と云ふ點で「同じ穴の狢」に見えてしまふ。
関わるだけ無駄だね。言うんじゃなかった。云々と言つてゐるんでないかね。さう、あなたから縁を切らうとしてゐるんだよ。それはあなたが一方的に言散らし、一方的に關係を決めようとしてゐる事だ。それは即ち、あなたが一方的に私に攻撃を仕掛け、一方的に撤退を表明した、とさう云ふ事だ。それはあなたこそが「押し売り」をやつた、と云ふ事實を意味する。さうした事實から目を逸らし、自己を防衛する爲に、あなたは私と縁を切らうとしてゐるに過ぎない。
ブログを使い分けて「人」を非難しているのも鏡写し。つて何なんだらうな。俺の
使い分けの原理が、なぜかm氏には解つてしまふらしい。何う云ふ
使い分けなんだらうな。説明して呉れれば反論出來るのだが、m氏は説明しない。反論させない爲ではないんだらうが、さう云ふ所まで氣を配つて文章を書いて呉れないのは何うかと思ふ。
真理なんて人間が判断し得るものじゃないんだよ。それを平然と「真理に近い」と口にする。と云ふのは、
「正字・正かな」と言つてゐる人間が恰も間違つてゐるかのやうな言ひ方だが、正字正かな派はドグマを信じてゐる訣ではないから、間違ひがあつたら直ぐに訂正するし、訂正されてより正しくなつたより眞理に近いものを當座採用する。と言つた俺の發言を誤解してゐるんだらうな。俺は
より眞理に近いものと言つてゐるが、「それが眞理に近いと解る」とは言つてゐない。「より眞理に近いであらうもの」と言へばより正確だつたのだらうが、それは適當に解釋すべきだらう。m氏は惡意で解釋してゐる。その惡意で解釋するアンチ方式の解釋は何なのか、と俺は聞きたい訣だが、m氏は耳を塞いでしまつたから、自分の嫌がらせ行爲を正當化する言ひ訣もしやしないだらう。俺は「當座」と言つてゐるのだし――大體、眞理が解つてゐるのなら、「眞理に近い」ものを「當座」であれ採用する意味は無い。眞理に近附いて行かうと云ふ意志が大事なんだよ。m氏のやうな、眞理なんて何うでも良い、と言つて他人を默らせる事だけが目的で物を言つてゐる自己中心的な人間には、人の意志なんてものは、解りたくもないんだらうが。
コメント欄もいらないな……作ろうかと思ってたけどやめた。と言つてゐる。コメント欄の有る無しが、反論を受ける・受けないと關係があると勘違ひしてゐる。コメント欄が無くたつて、自分のサイトの外の掲示板や、或は「ブログ」で、自分を批判する意見は幾らでも出て來る。コメント欄が何うの斯うの等と言つても、何の意味もない。今言つてゐるのは、m氏が俺に當てつけを言つてゐるのだ。斯う云ふ根性の人間である、とm氏は自分で言つてゐるのだが、それでも「惡いのは野嵜」と、アンチの連中と同じやうに、逆恨みし續けるのだらう。
私が怒って居るのは、問い合はせた事実を無視して「松原さんの許可を取って居るのか」と言って来た事。
判り易く実物を見て貰うために公開したものだと言つてゐるが、不完全な記事 - Weblogで三宅氏が自説の傍證として持出してゐるのが何より三宅氏の今の言ひ訣が言ひ訣でしかない事實を示してゐる――ならば、轉載するなと言ふしかない。
それにしても、サーバに上げた時点で即無断転載決定!、という意見。 それは法律の解釈であって、私が何をしようとして居たかを全く考慮して居ない。 プレーンテキストのままでは、ほとんど読まれない。 何とかしようとプログラムを書き、判り易いように動く状態でサーバに上げ、問い合はせ中に検索エンジンに拾われないようにもして居る。 これで鉄山さんのような罵声を浴びせられるのなら、正義も糞もあるものか。 正かなアパッチ軍は狂信者の集まり。
法律の解釈ならば條文でも何でも示せば良いが、そんな話を俺はしてゐないし、何うもそのやうに解釋してゐる三宅氏自身がさう云ふ解釋をしたがつてゐるだけのやうにしか思へない。また、三宅氏が
何をしようとして居たかを
考慮しなければならないのなら、俺がどう云ふ考へでゐたかもまた
考慮されなければならないが、それを三宅氏は惡意で極附けてゐる。
野嵜さんは「如何にも自分は正かなを支持してゐますよー、といつた顔をしてのほほんとしてゐるのが、俺には許せない」と書いて居る。 これも「事実の指摘」と言って居るけれども、以前、或るブログで私が「見逃して呉れ」と書いたのを読んで居る筈。 そこに野嵜さんも書いて居たからだ。 私は道徳に就いて述べて居た。 已むを得ず現実に妥協する事は、道徳に反しない。 何故か。 詳細は省略するけれども、「神に不服従」も道徳の内であるという事。 だから宗教の話になる。
見逃して呉れと書いたのが何んな文脈でなのか、そもそも何處での事なのか、俺は記憶が無い。基本的に俺は正かなを排斥せず、正しいと認める立場の人が、當座何う云ふ書き方をしてゐても、因縁を附けて罵つたり嘲つたりする事はしてゐない。三宅氏の事も從來、罵つた事は無い。
問題の本質は共有される価値観(宗教など歴史的経緯に基づく価値観)の断絶である、と指摘したのですが、これが分かって貰えない。と書いてゐる。問題は價値觀の問題だ。そこで三宅氏がふぬけた事をぬかしてゐるから咎めた。それだけの事だ。
ということで、貴様は通称 略字旧かなが正しいと言っておきながら、実際には「不思議字不思議かな」で書いて居るではないか。 言行不一致である。 とかなんとかの突っ込みは不可。 いや、突っ込み自体は拒否しませんが、その突っ込みは論理的に破綻します。 理想と現実は区別されなければなりません。
(←笑うところ)、
(誰に?)、
(をい)と書かれてゐる文章の中に出現してゐる。成る程、眞面目な話だからこそ笑ひは必要である――が、斯うした笑ひは、單に不眞面目なだけだ。
この「感情」に何か問題ありますか。最うね、主観的な部分を分かるように説明して呉れと言われても困る。 というか、「私の知りたい事」なんて言われても知らないですよ。、と三宅氏は言つてゐる。感情である――さう云つた三宅氏が「論理的に破綻する」と言ふ。目茶苦茶だ。
法律、勧告、その他の公文書に○○と書いてあるから「正しい」。 こういうのを権威主義、または、教条主義──総じて政治主義と言います。 それに陥ると、かなづかいの本質は何か、を考えないようになる。 そういう「楽な生き方」こそ、批判されて然るべき。 と、書くと、法律、勧告などを解釈するのも大変なんだぜ、とか。 もう知らん。(をい)――俺が三宅氏の、人の好さを知りながら、何うしても三宅氏を許せないのは、「樂な生き方をするな」と云ふ眞面目な要求を、實に氣樂な調子で言ふ事だ。春場所 - Weblogと云ふ文章の中で、三宅氏は眞面目に語るべき事を非常に不眞面目に語つてゐる――さう云ふ文章の流れの中で、
理想と現実は区別されなければなりません。と三宅氏は言つてゐる。三宅氏はふざけてゐると俺は思つたが、この書き方だと普通はさう受取るものだらう。
理想と現実は区別されなければなりません。と言放つてゐる――これが遁辭以外の何であり得よう。だから俺は三宅氏の言葉は嘘だと言つた。
HTML に限り、マーク付けなんて「おまけ」です。
プレーンテキストのままでは、ほとんど読まれない。
なんでこうも日本仕様にこだわるのか不思議なのだが、学校の先生から興味深い話を聞いた。今小学校では、文科省の学習指導要領に基づいて、パソコンを取り入れた授業が展開されている。だいたい中学年から、早いところでは低学年から、キーボードを使っての入力を授業の一環として行なうことになる。
ところが、「ローマ字」を学習するのは小学校高学年なので、子供たちには日本語キーボードを使ったかな入力を教えざるを得ないんだそうである。そんなわけで、キーボードをJISにしないと学校案件が通らないので、日本で売られるPCはJISキーボードにしてしまうらしい。
ところで、「ゐ」「ゑ」を假名入力する場合、ローマ字變換はそれぞれ「WYI」「WYE」であるが、これはJISで定められた仕樣なので、共用環境に設定しても文句を言はれる筋合ひはない。
.co.jpと.comとで檢索結果が異なってゐるみたい(2009-03-25T23:10:55+09:00現在)。
福田恆存・正かなアホッチ群批判・構造改革批判などについて論じるブログ等と言つてゐるから、アパッチ正かな軍の諸氏には積極的に喜六郎に反論していただきたい。實際、みんな大人し過ぎるよ。どうせ三年もすればみんなゐなくなるんだらうから、大暴れでもしておけばいい。
例へば、現代語に於いて指示代名詞は「こそあど」で構造をなしてゐるので、「かう」「さう」ではなく「こう」「そう」とするのならば特に問題は無いのではないか、といふ話。
佛教者であり神道者でもあるとか言ふのは知らない。誰を批判してゐるとか云ふのも知らない。俺は
最初から言ひ訣に「理想と現實とは違ふ」なんてほざいてゐるのは贋物だ。と言つた。「理想とはある特定の宗教における理想である」と云ふのは三宅氏の解釋だが、そんな事を俺は言つてゐない。ただ單に、一般論として・常識として――或は、プラトンのイデア論的に――俺は、理想と現實とは違ふ、と指摘しただけでしかない。
何でも転載と言って法律問題化したがって居るのは誰だ。と言はれても困る。「轉載と言ふ事は即法律問題化したがつてゐる事である」と云ふのは三宅氏の勝手な解釋だ。俺は一度も法律の話をしてゐない。ただ松原先生から、君が電子テキストを公開するのは許可する、と言はれた事實を言つてゐるだけだ。
「そこ」にあるプレーンテキストを HTML 文書に変換するのが目的なら、變換された文書を公開しないのが常識だ。公開してしまへば轉載の状態になつてしまつてゐる。三宅氏は、轉載する目的ではないから轉載しても轉載にならない、と言つてゐるが、解釋は問題にならない。事實として現在轉載の状態になつてゐる。それだけが問題だ。
ただし、ある程度の「纏まり」は必要だ。 Web では目に見える規制は事実上無い。 故に、自身を抑え付けるもの──信仰を持たなければならない。と云ふ主張は、はつきり言つて訣が解らない。信仰の事を言ひたければ、信仰の話だけをする事だ。今、信仰と、ウェブの記事の話とを、三宅氏は當り前のやうに結び附けてゐるが、兩者の間には論理的に飛躍があつて理解し難い。俺には三宅氏が電波を受信してゐるやうに見える。と言ふより、三宅氏は三宅氏の價値觀に基いて、好きな事を言つてゐるだけで、俺の言はんとしてゐる事をねぢまげて捉へてゐる。
人間は不完全な記事しか書けない、と書いた。――
人間は不完全な記事しか書けない、という真理に基づいて世間のブロガーを批判して居るのだと私は読んだと三宅氏は言つてゐるけれども、それが三宅氏、あなたの解釋に過ぎない事を、俺は指摘しておく。そんな高尚な話はしてゐないよ。俺はただ、技術の話をしてゐるに過ぎない。
いはゆる思考の垂れ流し方式は、と三宅氏は書いてゐたけれども、これも誤讀――と言ふか、
前後直近の文章から。と書いてゐるが、なぜ
直近のところだけを見て、三宅氏は俺の發言を解釋しようとしたのだらう。
agendaを元に体系化した文書は、Jintrick Archivesに纏める予定とする。と書いてゐるのは、俺が「ここ」でやらうとした事を同じやうにやらうとしたのだつた筈。
MS-IMEははっきり言って正仮名遣いで文章を書くのには使えないから、仕方なく現代仮名遣いを使っているに過ぎない。
次の診察で倍にしてもらわないと<メジャー
「正しい」を振りかざすとかなんとか、大笑い。俺は正字正かななんて興味ないが、正字正かなサイトに正しさを振りかざされたことなんてただの一度もないぞ。
文章を書く事に於いては出版も Web も同じであって、一概に出版の書き方を否定出来ません。――三宅氏は、「書き方」と「思想」とを混同してゐるやうに思はれる。しかし「一概に否定出來ない」とは、「一概に肯定も出來ない」のだが――さう云ふ決定的でない事を根據に、何うして三宅氏は偉さうな口をきけるのだらう。結局のところ、三宅氏も論理的ではなかつたと云ふ事だ。
法令等と言出した――法令とは、三宅氏が勝手に言出した事だ。俺は法令と一言も言つてゐない。要は、三宅氏自身が法令に興味を持つてゐる人間だと云ふ事だ。だからこそ俺の發言を法令に關する發言だと解釋してしまつたのだ。三宅氏は法令好きなのだ。俺は法令になど全く興味が無い。ただ、松原先生から、俺にだけ公開を許可すると言はれてゐると、事實に基いて言つてゐるだけだ。解釋の餘地もないのだが、それを三宅氏は
法令等と言出した。三宅氏が自分の勝手な解釋に基いて居丈高に他人を罵る惡質な人間の一人である事實が今囘、明かになつた訣だ。
……。私(福田恆存)は昭和三十年、三十一年に、金田一京助博士との論爭の形式において、「現代かなづかい」と「当用漢字」の非なることを述べました。そのときに痛感したことですが、その私の所論は當事者、ならびに多くの國語問題研究家をこそ刺戟しましたが、一般はただ喧嘩好きの私が例によつて例のごとく新しい喧嘩相手を見つけたくらゐにしか思つてくれなかつたことです。大抵の人が喧嘩の事實は知つてゐても、私の文章を讀んでくれてはゐないのです。しかも、論爭は「水掛け論」あるいは「泥仕合」の樣相を呈してきたなどといふものまで出て來る始末でした。讀んでゐないから、さういふのであつて、問題は讀んでくれぬことにあり、讀んでくれないのは、關心が無いからであります。……。
「現代かなづかい」では、二語の連續によつて生じる濁音、たとへば「三日月」のごときはミカズキと書かず、ミカヅキとして、もとの月との聯關を保つとなつてをります。「鼻血」のばあひも同樣です。さうなると、私たちはこのかな表記をまちがはぬためには、「新かなづかい」の大原則たる「音と表記法との一致」といふことだけではどうにもならない。すなはち、私たちは意味を知つてゐなければならないのです。ヅキはツキ=月であり、ヂはチ=血であることを知つてゐなければならない。それはいいとしても、この表記ははたしてやさしいでせうか。「現代かなづかい」を主張する小説家や評論家が、ハナジ、ミカズキと書いてゐるのを見ないでせうか。「近ずく」「もとずく」などとやってゐないでせうか。
それでゐて、「意地」はイジ、「生地」はキジ、「路地」はロジ、「蹴爪」はケズメと書けといふ。これでは二語連續の原則はどこへいつたのでせうか。そのほか「膝まづく」「つまづく」「なかんづく」「こぢんまり」「七つづつ」「世界ぢゆう」など、どうしてもこのとほりでなければならぬのに、それが「膝まずく」「つまずく」「なかんずく「こじんまり」「七つずつ」「世界じゅう」と書けといふ。しかもそれにはかういふ辯解があるらしい。「つまづく」の語源は「爪づく」で、爪がつくだが、爪が訛つてツマとなり、そのツマなるものは單獨で用ゐられない。したがつて、「つまづく」は二語連續だと認めないといふのです。ずいぶん苦しい解釋だ。さうなると、私たちはこの程度の語源的知識をもたなくては、「現代かなづかい」を納得して使へないといふことになります。のみならず、さうなると、「手綱」をタヅナと書かせてゐるのはをかしい。手が訛つてタになつたのだからタズナと書いたらよささうです。それから「きづな」は「生綱」だからキヅナと書きさうなものですが、キズナでなければいけないらしい。また「世界中」「一年中」の中をジュウと書かせるのは、接尾語としての中がつねに濁るから語源を尋ねないといふ考へかもしれぬが、それなら「四六時中」のチュウはどう説明するのか。「現代かなづかい」たるや、まことにむづかしいものです。「大阪」は、「歴史的かなづかひ」ではオホサカであり、「逢坂山」はアフサカヤマですが、それが「現代かなづかい」では、兩方ともおなじになるならまだしも、前者はオオサカで、後者はオウサカヤマだといふ。ますます奇怪です。けつして「現代かなづかい」はやさしくない。
ある論者は、そんな文句をいふものにかぎつて、「歴史的かなづかひ」が満足にできぬではないかといふ。そして、そのひとの書いた文章のうちに、まちがひを指摘して得々としてゐます。まつたくけちな根性です。妻以外の女とあやまちを犯す男が多いから、結婚制度は不便だ、やめちまへといふのにひとしい。原則はつねに守りにくい。が、守りにくいといふことは原則無用論の理由にはなりません。
……。また、あなた方は自分の方が貴族主義だといふことも解つてゐないらしい。なぜなら、あなた方は大衆や子供の能力を甚だ劣弱なものと決めてかかり、奈良朝、平安朝の古典はもとより、鴎外、漱石、芥川さへ、大衆は讀みたいとも思はず、また讀む必要もないと斷定し、あまつさへ、その暇があつたら自然科學を勉強しろの、經濟學を勉強しろのと指圖する。あなた方にはどうすればよいかが何も彼も解つてゐるらしい。言葉や文字が簡單になれば、それを習得する勞力を他に振向けられると言ふが、人間の頭腦がさういふ風に出來てをり、國語國字がさういふ風に出來てゐるといふことまでお解りらしい。
表音主義者はすべてさうである。……。
僞善は止めてもらひたい。……。
……。私逹は古典を古典と自覺した瞬間、その中に基準を探し求め始めるのです。慣用と、それを支へ、それに支へられる美意識を自分のものにしようとし始めるのです。さういふと、人々は私を頑固な守舊派だと言ふかも知れません。が、私は語法でも文字遣でも、昔の通りにせよなどと言つてもゐないし、實行してもゐない。私の言ふ事は實に簡單な事です。私は過去を基準とせよ、鑑とせよと言つてゐるのであつて、過去の通りにせよと言つてゐるのではありません。
……。革命主義と漸進主義との違ひは、一方が急激に、他方が漸進的にといふ程度の差にあるのではない。後者は飽くまで基準を過去に置くといふのに對して、前者はさうしないのみか、自分の基準によつて過去を否定するのであつて、それは基準そのものの否定になります。隨つて、兩者はAなる基準とBなる基準との對立ではなく、基準は必要だといふ考へ方と基準は廃棄すべしといふ考へ方との對立に基くものなのです。
しかし、他人の言葉遣ひの誤や下手な文章を指摘するのは、甚だ氣の引けるものである。とかく、煩い奴だと思はれはしないかと虞れたり、野暮だ、大人氣無いと遠慮したりするのが常であるが、それよりもつと大きな原因は、他人の事は言へない、自分はどうだといふ反省が伴ふからである。が、考へてみれば、それは卑怯な根性で、自分がやられないやうに、人をやつつけまいといふ「先制防禦」の警戒心に過ぎず、言はば一種の闇取引である。
コレクター商品1点¥ 5,576よりと出てゐるが、正しくは税別2800圓(税込だと2940圓)。賣れないやうにとの妨害工作だらうか。
冒頭の文章は余談で、或る事情に基づいて書いた物です。 その事情を知って居る人には分かる。 ということで、貴様は通称 略字旧かなが正しいと言っておきながら、実際には「不思議字不思議かな」で書いて居るではないか。 言行不一致である。 とかなんとかの突っ込みは不可。 いや、突っ込み自体は拒否しませんが、その突っ込みは論理的に破綻します。 理想と現実は区別されなければなりません。
いづれは突当る問題であるのなら、固有名詞の問題だつて
いづれは突当る問題であるんだよ。
時期尚早だと人を馬鹿にしたやうな言ひ方で極附けて、嘲るのは止した方が良い。
いづれは突当る問題程度のものでしかない。ならば、周邊の「分科委員會」邊で自由にやつてゐればいいだらう。
字音仮名遣を改変するとしたら、何処まで許せるか。以下の項目から順位を示して理由附けして欲しい。
id:iwamanさんからトラバをいただきました。ありがとうございます。ただ、「「現代仮名遣い」支持者」というのは不思議な言い回しで、これは「歴史的仮名遣支持者」から私はdisられているのでしょうか?それとも釣りでしょうか?w
現に私たちは「現代仮名遣い」が定着したなかに生きている、という当たり前のことを申し上げただけなのですが。
書き方としての「歴史的仮名遣い」は「現代仮名遣い」と同じく、近現代の産物です。「歴史的仮名遣い」が成立する以前に「歴史的仮名遣い」で文章を書いた人はいませんでした(当たり前ですが)。
また、平安時代から江戸時代までの作品を読んでいると、「歴史的仮名遣い」に合致しない表記が非常に多く使われていることにすぐに気付きます。何でもいいです。『奥の細道』でもいいです。「馬の口とらえて」(歴史的仮名遣いでは「とらへて」)、「笠の緒付かえて」(「かへて」)、「行道なをすゝまず」(「なほ」)などなど、いっぱいでてきます。「いや、私の『奥の細道』ではそうなっていない」という場合は、それは校注者がわざわざ「歴史的仮名遣い」に直しているのです。草葉の陰の芭蕉にとってみれば、迷惑な話かもしれません。
なんでもいいのですが、「怠る」、これは「おこたる」でしょうか、「をこたる」でしょうか。平安中期からすでに両方の形が出てきます。『疑問仮名遣』でもこれを持て余して、確定できないけどア行の「お」だろうと推測される、という「曖昧」な結論を出したために、現代の古語辞典には「おこたる」で載っている。その程度のものです。
「歴史的仮名遣い」は日本人なら学ぶべきものです。「歴史的仮名遣い」を学ぶというのは、つまり古語を学び、古典を読むということで、古語・古典を学ぶというのは、わたしたちの祖先の歩んできた輝かしい歴史をたどることです。しかし、その伝統の重みが、現代社会においても何かの権威や正しさを背負っているというのは別問題ではないかと思うのです。
wと書いてゐるのは、人を見下してゐるからだ。それでもconsigliere氏は自分が傲慢だとは氣附かない。「現代仮名遣」を「私たちが生きている環境」だとconsigliere氏は指摘してゐるが、「環境」が「ある」とconsigliere氏は指摘したいのか。さうではない。「環境を守りたい」のだ。誰が何う見てもさう讀めるし、さう理解しなければconsigliere氏の言つてゐる事はナンセンスだ。或は、ただただ「自分の環境を守りたい」と言つてゐるのなら、それは自己中心的な發想でしかない。ところが「環境がある」とconsigliere氏は「言っている」し「言っている」積りでゐる。consigliere氏は自己中心的で、傲慢である事は、客觀的に判定出來る――ところが、それがconsigliere氏には解らないだらうし、他の「現代仮名遣支持者」の人も解らない。俺がconsigliere氏に人格攻撃を仕掛けてゐる、と彼らは解釋する。客觀的に判定できる事ならば、攻撃ではない、正當な批判だ。一方のconsigliere氏こそ、客觀的に判定できない主觀を根據に、「現代仮名遣」の「環境」を「擁護」しようとしてゐる。それ以外のすべての「現代仮名遣い支持者」の人も、主觀的に「現代仮名遣という自分たちの環境」を「正しい」と言張り、防衛しようとしてゐる。
わたしがわたしを 「わたし」と呼ぶことの なんとおも恥ずかしい なんと勇気のいることだろう とはなんとなさけない ニッポン語だろう わたしはわたしをなんと名づけたものかと あなたを前にしながら考える あなた―― いや そのあなたを 「あなた」と呼ぶにも勇気のいる ふしぎなニッポン語 そのニッポン語を何百年もなおそうとしない 惰性のニッポン人
なんとおも恥ずかしいは誤植なのか何なのかわからない。
昔の人々がなんなく歴史的仮名遣いを学んでいたというのは違うみたいです。
『明治20年前後、表音式仮名遣を要求する“世論”がおこります。普通の人には歴史的仮名遣いは難しかったか問題があったのでしょう。そして実際に、明治30・40年代に、仮名遣いの見直しが試みられました。
その試みを阻んだのは戦前も『歴史的仮名遣の学問的権威に漠然とあこがれる作家や文化人の情緒的な声』だったそうです。
以上は「かなづかい入門 歴史的仮名遣vs現代仮名遣 平凡社新書 白石吉男著」を読んでの部分的まとめです。
白石氏曰く──
日本人にとって漢字は無数にある。その無数にある漢字一字につき固有の漢字音があって、固有の漢字音はさらに呉音・漢音・唐宋音・慣用音と数種類。これらの歴史的仮名遣のかなのつかい分けをそらで覚えることなど、普通の日本人には不可能である。パターンがあって、パターンさえわかれば簡単というかもしれないが、パターンがわかるまで勉強すれば、とっくに漢字学者になっている。普通の人はそんなに暇人ではない。
(以上引用)
しかも歴史的仮名遣いは、江戸から万葉に至るより古いものを原典とする方針らしいですが、古文の研究・考古学的出土品の発見などにより、より昔の言葉が見つかれば改訂を検討されなければならないわけです。こうなると正式・公的に採用されたものが次々変更される、と。
>旧字を使うから馬鹿なのではなく、馬鹿が旧字を使っているのです(´ー`)
さて、最後になりましたが私も歴史的仮名遣いを現代でも使っているかたで名文を書かれているかたに出会ったことがありません。仮名遣いに縛られ、文章そのものを点検することに意識が希薄なのかもしれません。
──普通の人はそんなに暇人ではない!
歴史的假名遣とは理想であり觀念であつて、改革前に行はれてゐた現實のそれを固定的に考へるべきではない。と福田氏は指摘してゐるのだが、白石氏の讀者は
古文の研究・考古学的出土品の発見などにより、より昔の言葉が見つかれば改訂を検討されなければならないわけです。こうなると正式・公的に採用されたものが次々変更される、等と言つて歴史的かなづかひを非難してしまふ。
某「かなづかい入門」は一生買いません。
六年前、私はある雑誌に次のように書いた。
エスリンはピンター劇を「不条理演劇」と見做すわけである。現代人にとって人生は不条理であり、従ってそれはピンターの劇にも正確に反映されざるをえまい、人生に意味があるかの如きイリュージョンを与える劇は、ピンターのような劇作家にとって欺瞞としか思えないのだ、そうエスリンは言う。
一見不真面目で、身も蓋も無い事を言うようだが、人生が真実不条理ならば、不条理劇を書く事自体も、いや、それを演ずる事もそれを観る事も、すべて馬鹿げた意味のない事となるわけである。人生が不条理としか思えぬのなら、不条理劇など書くに及ばぬ、即刻自殺してしまえばよい。すでに断った通り全くもって身も蓋も無い言い方だが、人生の不条理を説く不条理を身に沁みて承知していない「不条理劇」の作者など、私は信じられない。
ここに訳出した「不条理」の著者アーノルド・ヒンチリフは、第十一章「結論」において、一九六二年には不条理演劇の流行がすっかり下火になってしまったとするジョン・ラッセル・テイラーの意見に同意しているが、六年前の日本では、不条理演劇の太鼓持ちはなかなか多かったのであって、私の意見はどうやら愚かしき保守的演劇観として黙殺されたようであった。つまり、かなり親しい友人でさえ私の反論を当惑顔で聞いたのである。「表現すべきものは何もない」というベケットの言葉を引用する友人には、「それではなぜベケットは書くのか」と私は反論したし、『ゴドーを待ちながら』では「何もせずにただ待つしかない現代人の宿命が表現されている」とする意見には、「待つという行為をしている限り何もせずにいるとは言えまい」などと反論した。まあ、ずいぶんと向になったものだけれども、ベケットの苦悩に心底から同情しているかのような顔を見せられるたびにやりきれない気持になり、その偽善もしくは人のよさを揶揄したくなったのである。そこで、面構えからすればイオネスコのほうがペテン師だろうが、人は見掛けによらぬもの、あんがいベケットのほうが食わせ物なのかもしれない、などと放言したりもした。
ところで、その後程無く欧米における不条理演劇の「短命な流行」は終わったのだが、わが国における不条理演劇の流行はいまだに下火とは言えぬ状態である。ヒンチリフも指摘しているように、欧米の不条理には五十年の歴史がある。キリーロフやモリー・ブルームを知っている者が、ウラジミールやエストラゴンやタラーヌ教授ごときに、いつまでも新鮮な驚きを感じているはずがないのだ。とまれ、欧米における流行は終わったのである。そしてそうなれば、早晩わが国における流行も終るであろう。が、そのときこそは不条理文学の限界のみならず、その重要性をも強調しなければならないときなのである。
……。
鼻血が「はなぢ」ということは理解できるが、ローマ字変換は音でやっている(私の場合)ので、「ず」と「づ」の違いについて困惑することが多い。ATOKが警告を出してくれるようになって、私は初めてその違いについて認識するようになった。つまり、頭痛を「づつう」と綴るのは間違いで、正しくは「ずつう」なのだと、再三ATOKが警告してくれる。
「二本ずつ配りましょう」のような、「ずつ」を私はATOKが間違いを指摘してくれるようになるまで、ずっと「づつ」と思っていた。
國語問題においても、他のあらゆる問題と同樣に、二つの立場が存在する。一つは本質と歴史とを重視する立場であり、他の一つは便宜を目やすとする立場である。前者においては、難易は第二義的な考慮しか拂はれず、基準は現代と我々とを超えたところに、言ひ換へれば、過去、現代、未來を包含しうる國語の本質を想定するところに現れる。それに反して後者においては、難易こそ唯一絶對の基準である。が、難易を基準とするといふのは基準なしにするといふのと同義であつて、それは基準なきをもつて基準とするといふ全く無意味な文語に歸著する。
なぜなら、難易は好惡と同じく主觀的なものである。客觀的には同一の對象が時代によつて、また地域によつて難易を異にする。それどころか、個人個人の能力、素質、性格、環境などによつて、甚だしい相違がある。なるほど、それでも大よその平均値は考へられようし、それを基準として教育を行ひ得るであらう。が、それを基準として一般化される頃には、かつての平均値を今や難しと考へる者が壓倒的多數者となり、更に易き所に平均値を求め直さねばならなくなることは必至である。つまり、難易を基準とする時には、人は限りなく易きにつくことを求め、基準は絶えず下方に向つて變動し續けるのである。變動し續ける基準とはそれ自體矛盾を含む。
表記法において難易を主とするとは、書き易く、かつ解ればよいといふことに歸著し、客觀的な正誤の觀念が曖昧になり、隨つて誤りを誤りとなす根據を失ふ。例へば「現代かなづかい」においても助詞「は」「へ」「を」は歴史的假名遣を踏襲してゐるが、難易の觀點からすれば、「私わ學校え本お持つて行く」と書く方がよりよく、事實「現代かなづかい」前文においては「は」「へ」「を」を本則とするとあつて、「わ」「え」「お」を否定してゐない。それを誤りとなす根據がないのである。それなら、次の時代に「わ」「え」「お」を本則とするやうになつても、「は」「へ」「を」を誤りとなす根據もない筈である。既に今日においても「現代かなづかい」を本則としてゐるだけのことで、歴史的假名遣を誤りとなす根據はどこにもない。……。
表記はあくまで耳にではなく目に訴へるものであり、音にではなく意味、即ち語義・語法に從ふことを原則とすべきである。歴史的假名遣はその原則に基づき、時と所とを超えた一貫性を保ちながら、同時に音便その他の採入れによつて、現代語も方言も自由に表記しうる。勿論部分的改訂は可能であらう。と言ふより、「言ひて」「積みて」「高く」がそれぞれ「言つて」「積んで」「高う」のごとく音便表記を行つてきたこと自體が既に部分的改訂を認めてゐる何よりの證據である。隨つて、歴史的假名遣の主張は必ずしも現在のそれの完全な復活を意味しない。例へば、これは時枝誠記氏の試案であるが、「うぐひす」におけるごとき語中語尾の「は」行文字は、語義語法に無關係であるが故に「うぐいす」と改め、「かたは(片端)」「かけひ(懸樋)」「うすらひ(薄氷)」のごとく語義を示すものや「思ふ」「笑ふ」のごとく語法に關するものは、そのまま「は行」文字を保存することも考慮しうる。音便ばかりではない。例へば戰前の歴史的假名遣においても「用ゐる」は「用ひる」と教へてゐた。少くとも大正期にはさうなつてゐた。が、その語義が「もち(持)・ゐる(率)」であることが定説となつて後は「用ゐる」と訂正した教科書が多くなつた。また「あるいは」はすべて「あるひは」であつたが、今日では「家なる妹い」の「い」と同じく「ある」に主格を示す「い」を附したものと見做されるに至つたので、これを「あるいは」と書くやうに訂正すべきであらう。歴史的假名遣とは理想であり觀念であつて、改革前に行はれてゐた現實のそれを固定的に考へるべきではない。
隨つて、今後の問題としては、一應の暫定措置として、「現代かなづかい」を廢し歴史的假名遣に復した後、その部分的改訂を試みるのが至當である。……。
「現代かなづかい」が十數年の既成事實であることを言ふ人がゐるが、歴史的假名遣は明治以來その廢案に至るまで數十年の既成事實であり、たとひ嚴密に守られ教育されてゐなかつたとしても過去千年の歴史をもつものであつた。より合理的、より價値あるものであつても長年の既成事實が認められなかつたのに、矛盾と混亂に滿ちたものに戰後の混迷期十數年を楯に既成事實を言ふのは何としても理窟に合はない。
「送りがなのつけ方」(新送假名)は幾多の矛盾を含んでゐるが、その點では過去の慣習的な送假名においても同樣である。惡いのは「送りがなのつけ方」それ自體ではなく、送假名を固定せしめ、それを強制しうると考へたことである。……。
うーん、なかなか難しいですね。「現代仮名遣」は
専門家様にしか解りませんね。何でみんなこんな難しい「現代仮名遣」を支持してゐるんだらう。
歴史的仮名遣いを知っていれば問題はないのですが、歴史的仮名遣いがトオクなった現在、この使い分けはむずかしいことになりました。
小学生もこんな難しい規則を丸諳記させられて大變だな。「現代仮名遣」なんて理解しやうのない代物を、今の日本人は丸諳記しておかないと、馬鹿呼ばはりされるんだぜ。「現代仮名遣」は、「例外」だの何だの、XHTMLの仕樣みたいにあつちこつちで變な參照があつて、それを「理解」しておかないと間違へると云ふ羂が大量に仕込まれてゐる。本氣で理由を理解しようと思へば、言語學の知識が必要だし、歴史的假名遣も知つてゐなければならないが、さうした知識があると「現代仮名遣」が如何に出たら目かははつきりわかる事になる――そこで、それでも「商賣の種」だから「日本語の專門家」は「理解した事」にしなければならなくなつて、知つたかぶりで講釋するしかなくて、さうして判つた振りをして話をしてゐるうちに自分自身、頭ををかしくしてしまふ。「日本語の專門家」どもの「現代仮名遣」の講釋が、如何に權威的で押附け的である事か。ところが多くの日本人が、さうした「專門家」の言ふ事だけは何故か疑ひもせず、頭から信じ込んでしまふ。
はずいのか、解つて言つてゐる人が何人ゐるだらうね。
はずいだつて。
kana-kana_ceo 言葉 現代假名ずかいは難しいね。「いなずま」だしな。 2009/03/15
mandel59 せかいじゅう いなずま かたず きずな さかずき ほおずき みみずく うなずく おとずれる かしずく つまずく ぬかずく ひざまずく さしずめ でずっぱり うでずく くろずくめ ひとりずつ ゆうずう …… 2009/03/15
よりどころであり
個々人の表記にまで及ぼそうとするものではないから從ふ義務など國民には無い。
気取って旧字体で書いているくせに、「心ずかい」を知らないとはなんとも滑稽ですね。
こちらでも読んでみてはいかがですか?
汝を「なんぢ」と書いたりしましたよねぇ、昔は。
ましてこの文章は草書体で書かれた文章ですから、文章を書く流れに応じて使用する文字は変化する物…。
づとずの変換は普通なのですよ。漢字をかなに直す事もね。
国語議連の活動は活発になって欲しいですね。
あなたのように上辺だけ知ったかぶった輩を増長させないためにも、ね。
昔なのだ。或意味とても參考になるコメントだ。
しかし昔の辞書には「心ずかい」とあり、昔風の送り仮名はこれでよかったようだ。と云ふ記述を疑ひもせず信じてしまつたらしいのだ。これは痛いテレビ - livedoor Blog(ブログ)の中の人が痛い事を言つてゐるだけなのだが、それを見拔けないk_azami氏も痛い。
づとずの変換が「可能」であると云ふ表示では無く、歴史的假名遣を示したものだ。辭書を知つてゐる人ならこの位の事は常識として知つてゐる。
広辞苑、昭和三十一年 第一版 第四刷発行 には、
「−・ずかい【心遣】 心を用いること。心くばり。注意。心配。」
しか載ってない。
広辞苑
- 昭和30年 第1版 こころずかい
- 昭和44年 第2版 こころずかい
- 昭和51年 第2版 補訂版 こころず(づ)かい
やっちまったよ。。。
また言葉の粗捜しか・・・正直どうでもいいわ!
「づかい」でも「ずかい」でもどっちでもいい。
(旧辞書では「心ずかい」とあって、昔風の送り仮名であればは正解なのにね。)
心づかいでも、心ずかいでも良かったのですと云ふのは結論としては「正しい」訣だが……。
現代仮名づかいなるものに據つてゐるとの事。今氣附いたんだが何だこれ。括弧の中は
歴史的仮名づかい。
人名まで載せて、百科項目は圧倒的としながらも、疑問を投げている。表音表記である(「たづな」を「たずな」、「つづく」を「つずく」と表記しているという)ことや、漢字も思い切った俗字を使う場合がある、と。
「はづかしい」は元々漢字かな交じりで「恥しい」と書いた。扨、「送り仮名の付け方」(昭和三十四年内閣告示第一号制定、昭和四十八年内閣告示第二号改定、昭和五六年内閣告示第三号改正) によると、「はづかしい」は、「単独の語」の「1 活用のある語」の「通則1 (活用語尾を送る語に関するもの)」の「例外 (1) 語幹が「し」で終わる形容詞は,「し」から送る」を適用すれば、「恥しい」になる。だが併し、此の場合は「通則2 (派生・対応の関係を考慮して、活用語尾の前の部分から送る語に関するもの)」のはうの「(1) 動詞の活用形又はそれに準ずるものを含むもの」の項目を適用して、「恥じる」との関聨から「恥ずかしい」とするのが此の内閣告示の上では正しいとされる。あんた方が嫌ふ正字正かな派は送り仮名は何処から送らうが構はないが出来る丈、短く送る事を念頭に置くので「はづかしい」は通常「恥しい」と送る丈である。「常用漢字現代仮名遣原理主義者」の方々にあつては、必ず規定通りの「恥ずかしい」と云ふ表記を使用せねばならない。又、内閣告示の規定に記述されてゐない「顔文字」を多用した文章は、規定に反する行為として厳に謹むと同時に、使用した者に就いては自己批判を要求すべきである。
漢字もわざわざ古いのを使うような人ってオタクが一人称を「拙者」とか「某」とか「麿」とか「朕」っていうのと一緒でしょ?(´Д`)y-~
元ネタはたぶんあ〜るだよ
matsunagaの人は小難しく考えるのが好きだなあ
アル中(´Д`)y-~なんて書いてある。この日記について - monotone。「y-~なら飮酒ぢやねえよ。大麻でも吸つてんぢやねえの」。by fankee_jr。
……。なるほど、内閣訓令告示は唯官廳に對して效力を發しうるものであつて、既成の表記法改革案も官廳の文書表記に對する改革命令であり、民間の一般表記や學校教育まで左右しうるものではない。が、事實上はさうはいかない。世間は官廳に「右へならへ」をし、學校教育も文部省に「右へならへ」をしたのである。義務教育が文部省に從ふのは當然と考へる人がゐるかもしれぬが、訓令告示は官廳相互間の、文部省内の通達、記録等の表記法を定めたものであつて、國家の、國語の表記法を定めたものではない。學校教育は國語の表記法に從ふべきであつて、官廳や文部省のそれに從ふべきではない。そして國語の表記法に關する限り、假名遣改訂も漢字制限もいまだ一度も行はれてゐないといふ事實を私逹は確認しておく必要がある。
要するに、戰後の表記法改革は原理的にも現實的にも、また手續きの上から言つても、全く受容れがたいことが誰の目にも明かになつてきたのであるが、大事なことはその事實によつて刺戟された國語問題に對する一般國民の關心を逸らさぬことである。言ひ換へれば、現在の混亂と矛盾とを正すために、彼等に納得のいく成案を示すことである。が、それは過去の國語審議會に代つて直ちに名案を提示することを意味しない。或いは國民はそれを要求するかもしれぬ。しかしそのやうな名案が二年や三年で得られる筈はない。むしろ、名案が直ちに提示しえぬところに、我々の國語の本質と歴史とがあるのであつて、戰後の改革がそれを無視して明確な成案を示し、それに踏切つたために混亂と矛盾とが生じたことを明かにしなければならない。と言つて、無爲無策であつてよい筈はない。我々のなしうることは、國語の本質と歴史とを明かにし、それを破壊せぬ限りにおいて何等かの解決に到達するやう、その方向を示すことである。解決を急いではならない。また幾つか考へ得る解決案のうち、その一つを絶對のものとする立場に立つてはならない。大事なのは問題の解決ではなく、問題の所在である。
…ってこれ、狂信者が勘違いして「株式会社はてなの良さ」とか書き始めるんだろうなぁ。
では俺が何を問題にしているかと言うと、音楽そのもの以外の部分で初音ミクのCDを売ろうとしている(と俺が感じた)こと、そして実際に売れてしまっていることだ。ここを詳しく説明したい。
今の世だって「まだ逝ってよしとか言ってんのか」みたいなのっているわけじゃん?
それ考えるとさ?「なんとかでせう」という表記も「悪口ゆぁれた」とかも変わんねーじゃん。あれ「ゆった」とか書いてる(おれも使うけど)人っつーのは後の世の歴史や古典の教科書なんてまーったく考えてませんので、えぇ。
界隈まだなんか「正字正かな」とか「歴史的仮名遣い」とかなんとか喚いてたりするみたいなんですけども。と言つてゐるのがそもそも偏狹な態度なんだから、俺が文句を言はれる筋合ではないと。
「第一章 旧字体」は、府川氏と小池氏の一連の研究の成果が反映されているようで、康煕字典・(諸橋)大漢和辞典・明治以降の文献を比較・参照に基づく解説を併記しています。「正字・正かな」派の間違いを正す内容です。
「正字・正かな」派の間違いを正す内容です。なんて、「正字・正かな」と言つてゐる人間が恰も間違つてゐるかのやうな言ひ方だが、正字正かな派はドグマを信じてゐる訣ではないから、間違ひがあつたら直ぐに訂正するし、訂正されてより正しくなつたより眞理に近いものを當座採用する。だから、
「正字・正かな」派の間違いを正す内容です。なんて言ふのは根本的にをかしい。ところが、斯う云ふ言ひ方をして「正字正かな派」を笑ひものにするのが嬉しくて嬉しくて堪らない人間が世間にはうようよしてゐる。昨今の國字改革推進派・國語改革の當事者の連中の工作の所爲だらうか。
※1 この論文のみ旧かな(正かな)で収録されている。宮下氏の「表記についてのあとがき」によると、原稿では漢字も旧字(正字)だったという。また、内田・宮下・鈴木氏の論文も、原稿では略字(新字)混じりの旧かなで書かれていたと述べられている。
※3 このあとがきでは、原稿で使用されていた旧字旧かな(正字正かな)を印刷の段階で新字新かなに変更されたいきさつと、日本語の表記に関する彼らの考え方が述べられている。以下はその抜粋。
私達は戰後の學校教育を受けたものですが、所謂國語國字改革に對して、それが「書き言葉の簡易化、國語教育上の負擔の輕減、一般民衆の智能の向上」と云ふ目的に反して、日本人の言語生活を妨げ破壊するに終つてゐることを經驗上痛感せざるを得ません。その上に私達は分野は異なれ、言語を研究して來ましたから、所謂國語改革の理論的支柱となつた歴史的比較言語學及び構造言語學の言語觀は、音聲言語を偏重し文字言語を輕視する一面的な言語觀であり、かつ言語を言語と云ふ表現自體ではなくて言語を媒介する言語規範と誤解したために、現實の言語の表現理解の活動を研究の對象とすることが出來ず、それ故に言語生活上の問題である國語問題を解決できる筈がないこと、それどころか國語問題の一因ともなつたことに厭でも氣附かざるを得ませんでした。
言語は言語規範に媒介された表現でもあります。音聲言語も文字言語も等しく言語でありどちらか一方が他方の從属物である譯ではありません。音聲言語も文字言語も、それぞれ人間の生活に必要に應じて人間の多様な思想を精確に表現すべく發展させなければなりません。その上で兩者の對應關係を發展させねばなりません。
そんなこんなで、今の新字・現代仮名に不合理な点があることは認めざるを得ない。
しかしながら、「正字・正かなの復権を!」というのには問題がある。
昔の文化を保存し、知り、受け継ぐのは大切なことだけれど、これを日常的に使うというわけにはいかない。
成立の経緯がいかに横暴であれ、新字・現代仮名は既に広く定着し、使われているからである。
まぁ、今からラディカルな国語改革が行われることはたぶん無いだろうから、とりあえず現状維持でいいんじゃないかとは思うが。
また、では、正字・正かなは非の打ちどころがないかと言うと、そういうわけでもない。
探せば非合理なところはいくらでも挙げられるだろう。
ことは日常的に使う言葉の問題である以上、「合理・非合理」だけで判断できる問題でもないし、「合理的な方に変えていけばいい」という問題でもない。それがまかり通るなら、正字正かなでも新字現代仮名でもない「新しい第三書法」を提案してしまいたいところなのだが、そんなことをすれば、混乱がより大きくなるのは必至である。
あ、俺は、正字正かなには別に興味はない。ま、好きな人はやってればいいんじゃない? ということで。
trouble 伝統, 文化論 あほらしい……。反発は当然。
aozora21 Sankei Web, 食 また「正しい」なんていうから…
tamakky 「正しい」という言葉を使うから反発が強いのでは。「伝統的な」ぐらいがちょうど良いかと。
正字正かなサイトをいくつか見て思つたこと。どのサイトも基本的な姿勢は共通してゐて、要するに正字正かなで書けるやうな環境をととのへよ、といふことらしい。それやさうだらう。いまのところ、正字正かなで文を発表できる場としては、ウェブくらいしか思ひ当たらない。せつかく苦労して身につけた知識が、ほかのところでは使ふことができないのだから、彼らが躍起になるのも無理はない。
……正字論者の理想は、JISコードを拡張して、ふつうの漢字なみの手軽さで正字を扱へるやうにすることだらう。これには私も異存はないが、このやうな不備が10年以上もほつたらかしにされてゐるところをみると、どうやらまじめな検討の対象にはなつてゐないやうだ。
かういふところから、正字正かな連のキャンペーンにも似た説伏活動がはじまる。ところが、なにぶん少数派の主張なものだから、ほとんどのひとからは相手にされない。相手にされないだけならまだしも、ときには揶揄や反撥の対象になる。これがまた彼らのルサンチマンを刺激する。いきほひ態度が攻撃的になる。不毛な論争に火がつく。それがえんえんと繰り返される。……
といふわけで、私のやうにどちらかといふと正字正かなに同情的なものでも、かういつた状況をみてゐると、もうどうでもいいや、と思つてしまふ。ありていにいつて、いまの日本では正字正かなは趣味の領域に属する。趣味といふのは、酔狂なことが許される唯一の領域だ。正字正かな論者も、大義名分をふりかざすのはやめて、あくまで自分の趣味としてかういふことをやつてゐるんだ、といふのなら、わりあひ他人にもすんなりと受け入れられるのではないか。
ちなみに、「正字正かなに同情的」といふのは、歴史的事象としての正字正かなに対して同情的なのであつて、いまの日本で正字正かなを使ふことに同情的なのではない。蛇足ながら、念のため。
ふと思いついて、表記を正かなにしてみた。読んだひとは、ほとんど新かなで書いたのと変らない印象をもつのではないか。これを要するに、いまの実用文では正かなを使って書いてもあまり意味はないのである。
相手にされないだけならまだしも、ときには揶揄や反撥の対象になる。これがまた彼らのルサンチマンを刺激する。いきほひ態度が攻撃的になる。不毛な論争に火がつく。それがえんえんと繰り返される。と書いてゐる訣だ。やり方が非常に汚い。正字正かな派を攻撃する人は、大抵保身が極めて巧みで、自分自身の立場と發言を守れれば、眞實がどうであれ、自分の勝ちである――自分の勝ちを宣言できると信じ、そして、正かな派の反論に聞く耳を持つてゐない。
それから、「政治的に動く」といふことを考へれば、正字正かな派として「字音假名遣は本質ではないから不要である」といふ統一見解を打ち出して良いのではないか、と思つた。
今決めた。『正字正かなプロジェクト』の本格始動(レポジトリの公開とか)は2009-04-01。といふことで一つよろしく。
論理的であることなどそもそも論外だ、と七鍵氏は言切つてゐるけれども、斯う云ふ斷定的な結論を出す事それ自體をニーチェは哲學の態度として否定してゐる。
たまたま、弱さのゆゑに馬鹿なことを言ふのは、よくある至らなさであるが、もくろんで馬鹿なことを言ふのは我慢がならない。パスカル
それは慥かにさうだしとても納得させられるのだけれど、でもそれは讀まれる結果だけを見た場合の話。「書く過程」を無視してゐる。もしさうやって「ローマ字」といふ、日本語を書く上で本來不要の筈の餘計な要素の介入を批判しないのならば、
- 「假名」と「漢字」で區切って入力しても、結果として漢字假名交じりの一つの文章になつてゐればいい
とかいはれても反論できないのではないか。僕には今の處、どちらも「思考の流れを阻碍する」といふ意味で大差なく見えてゐる。
入力時にはローマ字入力でも、結果として漢字假名交じりの文章になつてゐればいい――と云ふのが俺の立場。と言つた。
本來不要の筈の餘計な要素の介入ではないかね。
SKK では、文章の中の漢字で表記する部分と、動詞や形容詞等の用言の活用語尾とを、明示的に指定する変換方式であると規定できます。ですので、頭の中に此の語は漢字で表記する、又此の語は仮名で表記すると豫め豫想して文章を組立てる場合、大変利用価値のある、かな漢字変換の方式であると考へます。
これを『有名税』という言葉で片付けてしまうのは簡単だけれど、火消しだ、事情の説明だと、そのことによって個人が受けるダメージは、ただごとではない。
私はいろいろな場所で公言しているが、日本の匿名書き込みの文化が嫌いだ。
この議論になると「そうはいっても、匿名掲示板にも有効な情報があがっていることがある」と反論する人がいるが、それは有害物質にも意外な効能とか、ヒットラーにも人間らしいやさしい側面、といったものと同じ議論。
福田恒存、山本七平ら保守系論壇人が寄稿した。
それでは、アウグスティヌスのいう告白とはなんであろうか。告白といえば、ふつう、罪の告白のことであり、アウグスティヌスの書は、かって「懺悔録」と訳されていた。この書が罪の告白を多分に含むことは事実であるが、それはまた、同時に神に対する感謝と賛美である。くりかえしていうと、罪の告白と賛美とは一つであって、これが「わたしの悪と善に関して、義で善である神を賛美する」といわれていることの意味である。すなわち、アウグスティヌスは、自分の罪深い生活のうちに、神の恩寵がもっとも明らかにあらわれているのを認めて、感謝と賛美をささげたのである。したがって、かれの書は、近代人の「告白」の諸書とは厳密に区別されねばならない。それらが高慢と自己誇示の筆になるものであるのに対して、アウグスティヌスの書は、まったく謙虚の産むところである。
永野(賢)氏もやはり本質と現象、目的と手段、價値論と發生論、その他の二元論が理解できぬ素朴な唯物論者です。その弱點が歴史的かなづかひ論によく現はれてをります。江湖山(恒明)氏、永野氏に限らず、少し理論的な表音主義者は、必ずと言つていいくらゐ偏狹な歴史的かなづかひ觀をもつてゐる。すなはち、歴史的かなづかひが、語、あるいは文字の本質、目的、價値として目ざしてゐるもの、しかも現實に用ゐてゐるかな文字が表音文字であるために決して到達しえぬもの、それを、彼らは專ら現象、手段、發生の次元に引きずり降し、それがかな文字といふ表音文字の現實に適合しないと言つて非難するのです。といふことは、その非難の前提に、觀念と現實とは一致せねばならぬといふ現實密著の觀念があるからですが、さういふ自分の尺度で歴史的かなづかひを規定してはなりません。
しかし、それが表音主義者の通弊です。渠等が好んで歴史的かなづかひを契沖に結びつけたがる理由はそこにあります。契沖の規範的絶對主義から出た「語義の標識としての假名遣觀」は一見歴史的かなづかひ觀の典型、ないしは據りどころと見えませうが、實はその反對で、契沖もまた表音主義者と同樣に、觀念と現實とは一致せねばならぬといふ現實密著の觀念に捉はれてゐたのであり、それゆゑにこそ、彼等にとつて契沖が最も理解しやすく、論じやすく、かつ處理しやすかつたのであります。いはば兩者は一つ穴の貉といふべく、いづれも、文字は語に仕ふといふ本質論的、價値論的な觀念を、現象論、發生論と混同し、それが「語義の標識」としてかなづかひの現實のうちに見出されねばならぬはずだと考へてをります。ただ違ふところは、契沖はそれが見出されると獨斷し、「いる」と「ゐる」との書きわけは意味の相違を傳へるためと解釋したのにたいして、表音主義者はそれを否定して、當時すでに消滅してしまつた古代音韻の差によるものと解釋しただけのことに過ぎません。念のために附け加へておきますが、契沖の仕事の意義はそれだけで計りえぬ大きなものがあります。また彼は後世歴史的かなづかひ論者が考へ、期待するほどには、「語義の標識」といふ側面を強調してゐるわけでもありません。
とにかく、歴史的かなづかひの原則も内容も、決して契沖につながるものではなく、やはり橋本博士が指摘したやうに、定家において始めて豫感されたものであり、そこにおいては決して絶對主義的な規範の強制が無かつたことに注目せねばなりません。定家はただ發音と文字との差といふ事實を始めて意識的に取上げたといふだけのことです。いや、意識的のみならず肯定的に取上げたといふこと、それが大事なことであります。この積極的な肯定によつて「假名の性格に變化が生じた」といふ橋本博士の觀察は正しい。しかし、くどいやうですが、發音と文字との間にずれを認めるといふことは、つねにその兩者間にずれがなければならぬといふことにはなりません。現象面から見れば、ある場合には、それはあり、ある場合にはそれはない。それだけのことです。しかも、それは本質的には決定的な「變化」であります。たとへかな文字は依然として表音文字であつても、またその大部分の用法が昔のままであつても、やはりそれは「變化」なのであります。
適切に設計すれば、「HTML5の○○が気に入らない」という相反する意見も、モジュールの組み合わせでうまく行くかもしれないのに。
おせっかいをして呉れた訣だが――俺が何うしても徳保氏に對して疑念を抱かずにゐられないのは、徳保氏が正字正かなそれ自體に對してどのやうな考へを持つてゐるか全く解らないからだ。現に、徳保氏は正字正かなで文章を書いてゐない。で、DS氏に對して、Narr氏は疑念を抱いてゐて――Narr氏は俺より氣が長いから、DS氏の言ふ事を讀取る努力を隨分してゐるが(俺なら先づぶち切れる)――だからこそNarr氏は釋明をし、説明をしながら、非常に嫌な氣分である事を示してゐるのだけれども、さう云ふNarr氏の心理がDS氏には解らない。