制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
野嵜健秀とは誰か
特記事項:野嵜に粘着するネットストーカーについて
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。

闇黒日記


平成二十一年三月三十一日
http://esu.oresama.org/200903c.html#20090329_s1
平成二十一年三月三十一日
http://d.hatena.ne.jp/twoineko/20090329/p1
山田孝雄著『假名遣の歴史』 - 科學の剃髮
平成二十一年三月三十一日
Amazon.co.jp: 浮き世のことは笑うよりほかなし: 山本 夏彦: 本
東京堂書店で平積みになつてゐたので買つた。既に「狐が落ちた」ので山本氏の言ふ事を一々尤もとも思つたりはしないが、讀めば面白い事は面白い。
山本氏は、TVの時代劇を觀てゐて、インテリア許り見てゐると言つたが、一往昔ながらの日本人の暮しを朧げに覺えてゐる。橋本治は、火鉢の話をして、時代劇に出て來るから判るだらうと言つた。橋本氏の頃には、昔の日本人の暮しは最うTVを通して知るものになつてゐる。世代が違ふと云ふ事だ。俺は更に世代が下るから、TVの時代劇を觀ても最う間違ひも何も判らない。ただ、俺にはまだ疊の上で生活する習慣が殘つてゐる。俺の下の世代だと、多分居間は洋間・リビングとなつてゐる事だらう。俺と俺より下の世代の間では、日本人の生活に關して、矢張り諒解してゐる事柄が微妙に異る筈である。
先日死んだ伯父(親父の兄)の家に昔行つた時、通されたのが洋間で、そこで生活してゐると知つて仰天した事がある。
平成二十一年三月三十一日
inax cafe : 覺書

何うやら、人間は輕い氣持ちの時に最も残虐性を發揮する、と言ふ事が分かつてゐないらしい。輕い發想だからこそ實行に移し易いのだ。本氣で畫策してゐないからこそ残虐な所業が出來て仕舞ふ、此れこそが人間の抱へる問題點なのだ。

ところで、餓鬼が輕い氣持ちで残虐な行為をした時に大人として本氣で叱るとしたら、それもまた残虐性を發揮した事になるだらうか。昨今の日本では、「なる」と思ふ人が案外多さうなのだ。だとしたら、如何に問題を指摘したところで、既に何の效果もない、と云ふ状況が出來してしまつてゐる、と言ふ事が出來る。
批評の效能を、既に多くの日本人が認めてゐない――認めてゐないどころか、憎んですらゐるのだ。

平成二十一年三月三十日
大體、mayokaraのしてゐる事が、俺に對する個人攻撃以外に解釋出來るかね。なにしろ、mayokara自身には、積極的な主張が何一つないんだよ。何かを言ひたいがゆゑに俺を出しにしてゐるといふのなら解る。けれども、mayokaraは俺を攻撃して、それで何かを言はうとしてゐない。明かに俺個人を攻撃してゐるんだ。
喜六郎だつてさうだ。俺個人を攻撃して、それ以外に何一つ言はうとしてゐない。「ブログ」では、俺を攻撃するのでなければ、俺以外の誰かを攻撃してゐるけれども、ただただ攻撃してゐるだけで、全體を通して何かを言はうとはしてゐない。
個人攻撃では駄目なんだよ。或は、自分が個人攻撃しかしてゐないがゆゑに、連中は俺の積極的な主張を無視して平氣でゐられるんだよ。
人の意見を無視する爲に、周到に論理を展開して、それで威張つてゐるんだ。反論しない事が一番卑劣なんだよ。反論しないのが一番高級な人間だとか勘違ひしてゐるんだらう。
しかし、反論出來る可能性のある事を言ふのは當り前であり、反論可能性のある意見に對しては反論するのが議論の最低のルールだ。それ以外に議論のルールはない。反論出來ないやうな事を言ふのは「トンデモ」だ。有名な話だ。ならば、反論出來る事に反論しないのも「トンデモ」だらう。それがなんでわからないんだ。
平成二十一年三月三十日
大變多くの人が誤解してゐるから改めて書くが、信者は謙虚だ。逆に、信者でない人間は一人の例外もなく傲慢である。これは論理の問題だ。
信者と呼ばれるのは、自分の外部に權威を認める人間の事だ。外部の權威は絶對であり得るが、それに對する自分は常に相對的な存在である。即ち、信者は、常に自分より偉い存在を持つてゐるのであり、自分が一番偉いとは絶對に言はない。
逆に考へてみよう。信者でない人間は、自分の外部に權威を認めない人間である――が、これは自分の内部に權威を認める人間でなければならない。自分の内部とは即ち自分自身だ。信者でない人間は、一人の例外もなく、自分自身を權威と認めるのである。自分自身を權威と認めるのは、自分が一番偉い、と云ふ事だ。自分が一番偉い、と云ふ考へ方が傲慢でないとしたら、何が傲慢なのだらう。信者でない人間は傲慢である。
平成二十一年三月三十日
自分の外部に權威を認めない人間であるmayokara氏が、頻りに「私は」「私は」と言つて、「私」の意見を權威的な意見であるかのやうに言つてゐるのを、俺は揶揄した。さう云ふ俺が「俺」と言つて、一人稱で語つてゐるのを、mayokara氏は「同じだ同じだ」と言立てた。「一人稱を使つてゐる」と云ふ現象だけを見て、mayokara氏は「同じだ」と言つたのだ。
けれども、信者としてmayokara氏が憎惡する俺の場合、俺と云ふ存在は相對的な存在でしかない。俺の意見と云ふものを強調するのならば、その意見が相對的な意見である事を強調してゐるのである。俺が「俺は」と言ふ時、それは「思ふ」と云ふ主觀的な意見である事を明かにする爲だ。その點、俺の俺と、mayokara氏の私とは本質的に違ふ。
一方で、俺は、確かにわざと俺は俺はを連發した――が、これは私は私はを連發して「私」即ちmayokara氏が主觀的で個人的な意見を押附けようとしたのを相對化したのである。さうした相對化を、mayokara氏は「真似をして」等と言つて恰も「道徳的に許し難い行爲」であるかのやうに言ふが、正當な批評の方法だ。誰が何う考へてもレトリックであり、レトリックを使ふのは良い事だ。面白い言ひ方をして、何が惡からう。自分が揶揄の對象となつたから、mayokara氏は腹を立てただけだ。しかし此處は、公開の場だ、mayokara氏と俺だけが密室で會話してゐるのではない、對話があるとしても、それはショー的なものであるのであつて、そこではエンタテインメント的な行爲が、第三者も讀む批評文學の要素として、當り前のものとして受容れられなければならない。
公開の場であるウェブで物を言つてゐる人に、案外公開の場で物を言つてゐると云ふ意識が無く、對話でも議論でも一對一の直接對話をしてゐるかのやうに勘違ひする例が少くない。が、ウェブでの發言は、一切を公開の場の發言であると解釋すると、全てが矛盾なく説明できる。そこで餘計な事を言出すから、話がややこしくなる。
平成二十一年三月三十日
と言ふか、俺を見下して道徳的な説教を食らはす高尚な連中が、どうして俺の發言にいちいち惡意なんかを見出す低級な眞似を平氣で出來るんだらう。
――要は、連中は高尚ぶつてゐるだけで、實は低級だ、と言つてゐるのだが、はつきり言はず、「どうして」と疑問形で言つて見せると(レトリックである)、彼らは變に解釋して、マジレスを始め、こちらが困惑すると、羂だの釣りだのと大袈裟に騷ぎ立てる。
平成二十一年三月三十日
「默る」と言つた人が本當に默つた例を見た事がない。
平成二十一年三月三十日
神保町の古書モール(かんたんむ)で十五年間探してゐた『藝術とはなにか』(中公文庫)を見附けた。
『藝術とはなにか』解説(松原正)

……。

では、さういふ「作者の自我が美しいといふことを納得させようとする」作品に出會つた時、われわれは一體どうすればよいか。作者の自我の美しさを承認するのなら、われわれは作者に征服された事になる。詰り、われわれは作者に仕へる奴隷となる譯です。なるほど奴隷である事に喜びを感ずるマゾヒストも確かにこの世に存在するのであり、例へば、少しく暴論めきますが、あの讀み難いフォークナーを丹念に讀んで論文をでつちあげる學者や學生は、いづれマゾヒストであるやうに私には思へます。だが、D・H・ロレンスが考へたやうに、さういふ一方の犠牲によつて成り立つ人間關係は不健康であります。そして作者と鑑賞者との關係も人間關係に他ならない。一方的に讀者を「從順な服從者」となすやうな藝術は、從つて不健康な藝術であり、それは人々を「追ひこむ」のです。當然の事だ、「從順な服從者」に取卷かれた獨裁者は孤獨だし、獨裁者に接する服從者も孤獨なので、兩者の間に信頼がうまれる筈は無い。人間關係について、或いは男女關係について、われわれは誰でもこの事實を認めると思ふ。が、ひとたび藝術家と鑑賞者との關係といふ事になると、ひとびとは藝術家の鑑賞者に對する優越を至極安易に信じ込んでしまふのです。……。

詰りかういふ事になる。藝術家が自己を英雄に祀りあげる事なく、英雄や惡黨を描いてゐる限り、すなはち藝術家が「みづからさうありたいとおもふ自分」を、時には「さうありたくないとおもふ自分」を描いてゐる限り、すなはち藝術家が演戲をしてゐる限り、藝術家と鑑賞者との對立はなかつた。詰り藝術家と鑑賞者とは結びつく事ができたといふ譯です。思ふに、人と人とが眞實結びつくためには、互ひに見詰めあつてゐるだけでは駄目なのかも知れない、英雄でも惡黨でも神々でもいい、何かともに打仰ぐ對象が必要なのかも知れません。

ところでこの藝術家――我々は嚴密に狹義の藝術家に限る必要は無いのであつて、鑑賞者が存在するならばウェブサイトの制作者、「ブロガー」もまたこの藝術家の内に含めて良いと思ふ。と言ふより、此處では藝術論の域を超えて、現代人の生き方に就いて論じられてゐるのだから、我々は松原氏のこの發言を藝術論の前提となる道徳論であると見、全ての人間がとるべき態度について語られてゐると解釋しなければならない。
平成二十一年三月三十日
http://www.kahusi.org/nikki/log/200903.html17時23分

闇黒日記のn件目つて、直ぐに分る方法無いかしら。Greasemonkeyとか。

出來ればその項目の發言を引用して示して貰へればと。
平成二十一年三月三十日
『国語学原論 続篇』も文庫になつてゐるんだつて。
http://d.hatena.ne.jp/mhrs/20090330
東京堂書店、レグルス文庫の棚がまだあるのを發見した。池田大作關係の本の割合が多くなつてゐて微妙にアレな氛圍氣になつてゐる。

平成二十一年三月二十九日
現代に於ては價値相對主義への狂信こそが打破されねばならない。
なぜなら、價値相對主義者とは價値に就いて議論する事が出來ないからだ。
なぜ價値について議論しなければならないか。人間は全て、價値を信じてをり、その價値に基いて何でも判斷しようとするからだ。ならば、全ての判断について考へるならば、價値觀について考へる事が必須となる。
平成二十一年三月二十九日
一方、俺は何時でも、議論に参加する全ての人が同意してゐる、或は、同意してゐなければならない事柄を前提に、結論を引出してゐる。そこで價値相對主義者が「價値觀は人それぞれ」と言ふ事はナンセンスだ。狹い領域で價値觀は共有される。そして、ここ、ウェブと言ふのも、その「狹い領域」であり得るし、日本と云ふのも同じである。さうした事實を無視して價値相對主義者は一般論に拘るが、それは彼等にとつて都合のいい結論を引出せると云ふだけの理由による。
人は全て「權力への意志」を持つ。ならば價値相對主義者の發言も全て「權力の意志」に基くものと判定せねばならない。
平成二十一年三月二十九日
「眞理は存在しない」と言ふ事は出來ない。なぜなら、「眞理は存在しない」と云ふのが眞理であるなら、矛盾であるからだ。
これは論理の問題で、論理の問題なら全ての人間が反論出來ない。
相對主義者は、だから反對しない。ただひたすら、「私はそう信じる」と言ひ續ける。が、「私」だけの問題なら、公開の場で言ふ事が許されない――もし公開の場で物を言ふのなら、それは私を超えた範圍で受容れられるべき主張である事を、發言者は望んでゐなければならないし、望んでゐる筈である。それでも相對主義者らが「私は」と言ふのは、單に反論を封じて、一方的に自分の主張を垂れ流し、他人を騙して信じ込ませる事が目的である。そして、さう云ふ詐欺行為ほど、人間は好む。多くの人が相對主義を「眞理」として信じ込んでゐるのは、詐欺に引掛かつてゐるのだ。迷信である。詐欺に引掛つた人間、迷信を信じてゐる人間は、自分の誤を指摘されても氣附かない。却つて指摘した人間を恨むものだ。
相對主義者は、狂信者であるがゆゑに、非信者に對して高壓的だ。何かを信じてゐる――それだけで相對主義者の侮蔑の對象である。正義なんて存在しないのだ――ところが、侮蔑する爲に、相對主義者は屡々他人を「正しくない事を言つてゐる」と言つて嘲る。こんなをかしな話はないのだが、他人を嘲つて快を貪るのが相對主義者の相對主義者でゐる目的だから、理由は何でも良い、正しい事は「無い」筈なのに、相對主義者は常に本當の「正しい」事を言ひ、「正しくない」事を言つてゐる人間を散々馬鹿にして喜ぶ。
彼らはそれが惡い事だと思へない――寧ろ、蒙を啓いてゐる積りでゐるのだから、彼らは自分が居丈高に正義漢「氣取り」の人間を叩いても、それは良い事だと信じてゐる。それが「宗教」なのだが、「宗教は誤りである」と彼らは「信じてゐる」がゆゑに、「自分は何も信じてゐない」と思ひ込み、反省する事が無い。ところが、彼らは價値觀として「相對主義」を信じてゐるのだから、一種の「信者」であるのであり、だからこそアンチにもなる。
さうした自分の態度を自覺しないやうに、自覺しないですませられるやうに、周到に言ひ訣を作り上げたのが、相對主義者であり、言ひ訣の體系が相對主義であるのだが――實は、ウェブに跳梁跋扈する相對主義者らが安易に言つてゐる相對主義は、底の淺い相對主義に過ぎない。相對化を極めれば、自己の存在を相對化し、人間を相對化し、文明もまた相對化しなければならない。そして、相對化する事をも相對化して、再び人間の信ずる價値と云ふものの意義の自覺へと還つて來なければならない。相對主義は克服されなければ存在意義のない思想だ。
平成二十一年三月二十九日
相對主義の先には虚無主義がある筈だ。それは既に克服すべき事が指摘され――さらに、かつてそれが宗教の世界において克服された事實が存在する。
既に唐木順三が、現代史の試みで、ニヒリズムを論じて、ニヒリズムをもニヒル化しなければならないと述べた。後に唐木氏は、中世の歴史を採上げ、樣々な宗教者を採上げた。そこでは遂に捨て聖・一遍上人の存在が究極の存在として示され、「捨てる事をも捨てる」事が一つの道として示された。踊り念佛の狂喜亂舞――それはニーチェの思想を聯想させる。神なき日本國の佛教は、所詮は相對主義の佛教にならざるを得ないが、その行着く先は、アンチクリストのニーチェの行着く先と、似た物になる必然性がある。
けれども、それもまた我々は安易に受取る事が出來ないのであつて、再び我々は超克を必要とする。
多くのウェブの相對主義者は、自己否定と自己超克の過程を経てゐない。彼らは「信者」を馬鹿にするが、しかし自らが狂信に捉はれてゐる事實を自覺しない。一方、自己の否定と超克を經て、再び確信に囘歸する事を、俺は主張する。何であれ、人は何かを信じてゐなければ生きる事が出來ない。だが、現代は一切の價値が顛倒し、價値觀が崩潰した時代である。無意識の信仰が信仰の超克に向ふのは必然だ。が、信仰の超克は再び超克されねばならない。その先には、信仰への意識的な囘歸があるのみである。この時の信仰は、嘗ての信仰と同じではない。もし同じであるのなら、信仰の超克はナンセンスである、價値相對主義はナンセンスである。
平成二十一年三月二十九日
今日は疲れた・森鴎外『仮名遣意見』 - insomnia
本當、何でうちを非難してゐる連中はみんな嫌みたらしい・陰險な性格なんだらうな。當人、少しも自分が陰險だとは思つてゐないらしいのだが。

鴎外の精神を汲むとすれば,保守主義に立つのならアクチュアルなルールをヘタに変えるのはよくない,といえる。つまり彼の「私ハ正則ト云フコト正シイト云フコトヲ認メテ置キタイノデアリマス」(岩波鴎外選集第十三巻『仮名遣意見』, 1979, p. 184) との言は,「歴史的仮名遣い・旧字表記」そのものを「正シイ」と主張しているのではなく,本質的には,彼の時代に「正則ト云フコト」つまりルールであったものに対する意思をもったこだわり・積極的受容をこそ示しているのである。彼は仮名遣いというものの Orthographie としてのあり方,つまり文化的統制・ルールたることを正確に理解していた。鴎外は正しかった。いまこの時代の「正則」は現代仮名遣い・新字である。現代仮名遣い・新字でものを書く私たちにとって,鴎外流にいえば,それを「ルールに則って正しく」使うことが「保守主義」である。

これは讀んでゐないから言へる事だ。鴎外は斯う述べてゐる。

一體假名遣と云ふ詞は定家假名遣などと云ふときから始まつたのでありませうか。そこで此物を指して自分は單に假名遣と云ひたい。さうして單に假名遣と云ふのは諸君の方で言はれる歴史的の假名遣即ち古學者の假名遣を指すのであります。

誰が何う讀んでも、鴎外は所謂歴史的假名遣を支持してゐるのであつて、「同時代の規則」なんてものを支持してゐるのではない。Isao YASUDA氏が文章を讀めない人間である事は明かだ。
と言ふか、この人、俺が政治的な意味での「保守主義」を支持してゐて、だからこそ鴎外の言ふ「保守主義」と結び附けて、聯想ゲーム的に話をしようとしてゐる、と言ひたいらしいのだが。

歴史的仮名遣い・旧字を国語の「正統表記」として復活させるべきだと主張する某サイトで,森鴎外の『仮名遣意見』をめぐって,あたかも歴史的仮名遣い・旧字表記そのものの擁護に鴎外の保守主義を直線的に関連付けるかのような論に出くわした (管理者に少し失礼なのでどこのサイトかは明記したくないし,当然リンクも貼りません。

先づ第一に、現代の日本における西尾幹二氏や西部邁氏或はその他の「正論」「WiLL」邊で書いてゐる人々の信奉する政治的イデオロギーとしての「保守主義」なるものを、俺は支持してゐない。しかし、福田恆存氏や松原正氏の立場である保守的な立場を俺は支持してゐる。が、その保守的な立場こそが眞性の保守主義であると云ふ事、それは鴎外の支持する保守主義と同じである事を、俺は主張するし、その保守主義は國語の表記において要請されるべき保守主義と同一のものであると主張する。イデオロギーとしての保守主義と、歴史的な價値を尊重する立場としての保守主義とを、俺は區別するし、その區別をした上で、俺は鴎外の保守主義を支持してゐる。このIsao YASUDAと云ふ人、やつぱり俺の主張を、讀みもしないで、表面的に捉へて、勝手に解釋して、非難してゐるだけらしい。と言ふより、そもそも鴎外の主張すらも、このIsao YASUDA氏は讀んでゐないらしい。

どうも保守主義と復古主義を勘違いしているひとがいるらしい。鴎外はたしかに保守的であったと思う。しかし「昔に戻せ」式の復古主義者ではなかったように思われる。いまでいう「歴史的仮名遣い・旧字表記」は彼の時代ではアクチュアルな表記ルールであって,その当時「現在している」ことにこだわるからこその保守主義なのであって,過去のものとなってしまったものを再興すべき「復古主義」ではなかったのだから。

主もに違ふと云ふことの論據になつて居りまするのは外國のOrthographieは廣く人民の用ゐるものである、我邦の假名遣は少數者の用ゐるものであると云ふことであります。併しさう云ふやうに假名遣が廣く行はれて居らぬと行はれて居るとの別と云ふものは、或は其の國の教育の普及の程度にも關係します。又教育の方向、どういふ向きに教育が向いて居るかと云ふことにも關係しますのであります。元來物の性質から云つて見れば外國のOrthographieと我が假名遣とは同一なものである、同一に考へて差支へないやうに信じます。

鴎外の時代にも、歴史的假名遣ひは、決してアクチュアルな表記ルールではなかつた――少くとも、鴎外自身、さうではない事を指摘されて、それを事實として認めてゐる。鴎外は、その指摘に對して、さうしたルールが普及・定着してゐるか、實踐されてゐるか、で、價値が決められてはならない、と言つてゐるのであつて、だから我々は鴎外が「既に定着してゐる假名遣を保守しようとしてゐた」と讀む事は出來ない訣だ。鴎外が元來物の性質から云つて見ればと言つてゐるのに我々は注目しなければならない。アクチュアルか何うかは問題にならない、性質をこそ問題にすべきだ、と鴎外は主張してゐるのだ。
鴎外の「保守的」と云ふ用語法に就いては、何うしても鴎外自身の言葉から考へるしかない。

一國の言葉が初め口語であつたのが、文語になる時に、此の日本の假名のやうに音字を用ゐて書上げると言ふ、さう云ふ初めの場合には、無論假名遣は發音的であるには違ひない。然るに其の口語と云ふものは段々變遷して來る。一旦書いたものが其の變遷に遲れると歴史的になる。そこで歴史的と云ふことが起つて來ます。それであるから何の國の假名遣でも保守的の性質と云ふものを有つて居るのは無論である。日本のも同樣と思つて居る。

鴎外の發言は、後の橋本進吉や福田氏の考へ方と本質的に變らない。口語の變遷して行くのに對し、文語は變遷するのが遲い――。
そして重要なのは、以下の發言だ。

假に今日發音的に新しく或る假名を定められたと考へませう。さうしたならば此の新しい假名遣が又間もなく歴史的になつてしまふのであります。

鴎外は、表記の「改正」を行つて、文語を口語に一致させたとしても、その瞬間から即座に兩者のずれが始まる、と指摘してゐる。即ち、「改正」をしても、その「改正」は本質的に意味を持たない、と言ふのだ。
そして鴎外は、表記における理想主義を既にはつきり示してゐる。

自分は假名遣と云ふものははつきり存在して居るもののやうに認めてをります。契冲以來の古學者の假名遣と云ふものは、昔の發音に基いたものではあるけれども、今の發音と較べて見ても其の懸隔が餘り大きくはないと思ふ。即ち根底から之を破壞して新に假名遣を再造しなければならぬと云ふ程懸隔しては居らぬやうに見て居ります。凡そ「有物有則」でありまして口語の上に既に則と云ふ者は自然にある。此の則と云ふことは文語になつて來てから又一層精しくなるのであります。

「則」と言つてゐるけれども、これは「その時代のアクチュアルな表記ルール」等と云ふものではなく、理想と云ふ事だ。物があり則があると言ふのだから、これは現實のものに對してイデアが存在すると言つてゐる訣だ。それを、同じ字を使ふからと言つて、「原則」であると主張するのは、それこそ直線的に関連付けるかのような論だらう。

世界中で最も發音的に完全な假名は古い所ではSanskritの音字、新しい所では伊太利の音字だと申します。而も我假名遣と云ふものはSanskritに較べてもそんなに劣つて居らぬやうな立派なものであつて、自分には貴重品のやうに信ぜられまする。どうか斯う云ふ貴重品は鄭重に扱つて、縱令それに改正を加へると云ふにしても、徐々に致したいやうに思ふのであります。

時代と共に變化するものが鴎外の言ふ「假名遣」であるとしたら、何うしてそれを「鄭重に扱ふべき貴重品」と言ひ、さらにそれを改正を加へるにしても徐々にすべきである等と主張出來るのだらう。既に「改正」が加へられた「現代かなづかい」が、「貴重品」であり「徐々に改正を加へられるべきもの」であり得ようか。
鴎外の具體的な發言を見る限り、だいたい鴎外の『仮名遣意見』をきちんと読むと「歴史的仮名遣い・旧字表記」そのものを「擁護」しているようには思われない。等と言ふ事は出來ない。明かに鴎外は歴史的假名遣を貴重品と言ひ、歴史的假名遣を軽はずみに変えることはよろしくないと言つてゐる。
Isao YASUDA氏は、鴎外の發言を引用せず、鴎外の發言を解釋した結果を書いてゐる。原文を示したら、自分の解釋がいんちきである事實がばれてしまふからだ。斯う云ふ尤もらしいやり方で、嘘をばら撒き、歴史的假名遣に對する印象を惡くしようと劃策する手合が、國語問題では大變多い。騙さるる事勿れ。
假名遣意見
歴史的仮名遣いについて - insomnia

字音仮名遣いについては漢字で書けばよいので気にしなくてよい,などと愚かなことを言う「正字正假名」派がいる。和語になった漢語 (例えば和語「さようなら」の元になった漢語「左様」) の存在は,漢語と和語の表記の境界を明確化できずこれらを連続的に捉えなければならないことを示しており,よって字音仮名遣いを無視できないことは明らかなのである。

「さやうなら」が和語であると言ふのはをかしい。左樣が漢語である限り「さやうなら」も「さやう」までは漢語でそれに「なら」が附いただけだ。この邊、明らかなのである等と權威的に言つてゐるから胡麻かされ勝ちだが、何の根據もない力強い斷定に過ぎない。

字音の表記については音の原則に準じてよいと「気にしない」派が言うとすれば,「さようなら」は「正字正假名」でも「さようなら」と表記してよいということになる。漢字で書くことで字音仮名遣いを無視できると言うのなら,「さやうなら」は「左様なら」としか表記してはならぬということになる。字音仮名遣いを「気にしなくてよい」などというのは歴史的仮名遣いの考え方として一貫性がないどころか矛盾しているのである。

斯う云ふ官僚的な頑固な考へ方が一番たちが惡いと福田恆存も言つてゐる。
時枝誠記氏の私的改正案ならば「さようなら」でも構はないし、或は漢字で書きたければ書けば良い――しかし、さやうなら程度ならさやうならと覺えておいて、さう書く事は、全く困難ではない。現實的に考へれば何の困難もない事を、理窟をこねて、さも難しい事のやうに言ふのがアンチの特徴だ。
字音假名遣ひを、全て完璧に覺えるか、一切抛棄するか――そんな極端な言ひ方でIsao YASUDA氏は正かな派の人間を脅すのだが、その邊は現實的に、適當にしておけば良いだけの事だ。歴史的假名遣は飽くまで現實主義だから――しかし、さやうならをさやうならと書くのは、語を表記すると云ふ歴史的假名遣の基本方針から言つて、何の問題もない。漢字で書けるものは意地でも漢字で書かなければならないと云ふ決りはない訣で、その邊で意地になつて見せるのは嫌がらせの爲だらう。

「正字正假名」に国語表記を戻すとする。辞書はどうなるか? ここに仮に「正字正假名國語辭典」があるとする。「妾」(ショウ=めかけ,そばめ) をそれで引こうとするとまず現代人には引かれないであろう。

時枝博士の辭書は、新村出博士の辭書は、表音式假名遣で引くやうになつてゐる。正かな派の人々だからこそ、融通をきかせて臨機應變に適切な方法を採用する事が出來る。それが出來ないのは「現代仮名遣」に拘つてゐる人々だ。
しかし、そもそも、辭書を引く事・辭書を作る事と、文章を書く事とは別の話だ。實際問題としては書ければ良いだけの話であり、そこで辭書の話を持出して「難しい」「難しい」と言ふのは、話のすり替へだ。

歴史的仮名遣いは和語だけでなく漢語の表記にも準拠してこそ「歴史的」なのである。「正字正假名」に戻すならこの字音仮名遣いをも引き取らないといけない。「実は易しい」などと宣う教養ある「正字正假名」派の尻馬に乗ってよいものだろうか?

此れは、Isao YASUDA氏の勝手な極附けに過ぎない。と言ふか、何うも「歴史的」と云ふ語に拘つて、變に解釋してしまつてゐるらしい。
もつとも、歴史的に、字音假名遣は後から歴史的假名遣の中に入れられたものである。歴史的假名遣として重要なのは、明かに、てにをはの類だ。そして今、俺は「てにをはが重要」と言つてゐるのであり、「てにをはだけで十分」等とは言つてゐない。正かな派の誰一人、俺も含めて、そんな主張はしてゐない。字音假名遣であるにしても、「やう」のやうなものは日常、良く使ふのだから、目印として「は」「へ」「を」並に「やう」と書いておくのが便宜だと思ふし、かと言つて「てふてふ」の議論でもあるまいと常識的に思ふ。

しかし上記のとおり,字音仮名遣いをも習得する必要性に思い至ると,もはや歴史的仮名遣いに戻せなどという軽はずみにして大それた発言はできなくなるはずだと私は思う。

私は、私は、私は。勝手な極附けだよ。自分で勝手に定義して、シャドーボクシングに勤しんでゐるのだ。「私はこゝにゐると言はう」程度の歴史的仮名遣いでいいんだよ。なんで良くないんだ。衒學ぶつて、恰好をつけてゐるのはIsao YASUDA氏自身だ。其處まで恰好良くする必要は無いと、俺も、恐らく他の正かな派の人も、思つてゐる――と、俺は信じたいのだが、慥かに正かな派の中には、高崎一郎氏とか平頭通氏とか、字音假名遣に拘つてゐる人がゐる。福田氏も時枝博士も、或は鴎外も、そんな拘りは持つてゐなかつた筈だが――。
鳩笛雑記帳 2009-03-28
平成二十一年三月二十九日
表音霸權主義 - ziomの日記
今でも澁谷と日比谷を區別出來ない人がゐるらしい。タクシーの運轉手が「しびやまで」と言はれて困る事があるとか。
そもそも平安時代の音韻を表す文字であるかなを用ゐて表記しようとするのが正しい事なのか――「發音通り」と言つてゐる人々はさうした問題を何うして考へないのか。福田氏も言つてゐるが――何年經つても「現代仮名遣」は依然として「現代の音韻」に大體即してゐるらしい。
表記の改正の主張が明治以來の「傳統」があると言ふ人もゐるけれども、明治の發音と大正の發音、そして昭和の發音は同じだつたのか。語彙は。文法は。もし表音主義の主張に明治以來の「傳統」があるのだとしたら、傳統があるがゆゑに表音主義の主張は誤であると言ふ事が出來る。
平成二十一年三月二十九日
新混沌日記の昨日今日の邊でオフ會の話。うちでも前に集つた事があるよ。その時參加して呉れた人が今となつては行方が杳として知れないとか、いろいろあるけれども。
それにしても虹裏關係のサイトとして何處もうちを拾つて呉れないな。
平成二十一年三月二十九日
常用漢字の正字体 - 枝葉末説@ことのはぐるま
その邊のアンチの人が俺の事を馬鹿だ馬鹿だと言つてゐるのだけれども、俺みたいな馬鹿が普通に正字正かなで文章を綴つてゐられるのだから、正字正かななんて誰でも普通に使へる易しいものに決つてゐるよな。
もつとも、「正字正かなは難しい」と言ふのが困難な今、アンチの連中はもつぱら「正字正かなを使つてゐる人間は陰險である」「傲慢である」等と宣傳して、正字正かなの印象を惡くしようとしてゐる。イメージで極附ければ、反論出來ないし、すれば自分を擁護する事になるから、「傲慢」と云ふイメージをただただ強化するだけになつてしまふ。アンチは羂を張つて正かな派を陷れようと劃策してゐる。アンチこそが陰險なのだ。
一方で、「難しい」と極附けるのにも、頭が良いと以て自任してゐる恰好つけたがりの現代の衒學者連中は、矢鱈と難しい理論を振りかざして胡麻かしをやつて、人を騙さうとするから、これまた注意しなければならない。
理窟を言ふなら、アキレスは龜の子を追越せない事にだつてされてしまふのだ。斯う云ふ時は、現實に人と龜とを競走させてみればいい。詭辯が詭辯である事はすぐに解る。正かなだつて、理窟で「難しい事にされてゐる」けれども、實際に學んでみれば別に難しくも何ともない。現實に反する理窟は、間違つた理窟であり、理窟ではないのだ。或は、現實に適合する理窟が必要である、と云ふ事。理窟が全部惡いのではない、間違つた理窟が惡いだけだ。
平成二十一年三月二十九日
ただの日記 - 議論すること

ところで、鉄山氏曰く、"暴論や極論はどんどん吐いたほうが良い"とのことだけれど、僕は多分今後も意識的に暴論・極論は避けていくと思う。確かに暴論・極論を出すことでよくよく考える機会が生まれるかもしれないけれど、どうしても感情的な意見になってしまうとそこで議論が終わりがちになってしまうから。

BLOGという名の日記 : 雑記#98

 逆なんだよ。感情的な意見、傲慢な態度は無くしてゆくべきだけど、味方でさえもたじろいでしまうような極論はどんどん主張すべきなんだ。そうでなければ、頭が腐ってしまう。

ニコニコ動画の話からスピンオフして議論の話になつてゐるんだけれども――ここで「暴論・極論」の類について、異見が眞正面から對立してゐる、と言ふより、意見がすれ違つてゐる。
ただ氏は、「議論が進むやうに穏やかに意見を述べる事」が必要だと述べ、「暴論・極論」とは「感情的に激しい調子で意見を述べる事」だと考へてゐる。それに對し、鉄山氏は「論理的に徹底させた意見」と定義してゐる。同じ言葉で違ふ事を考へてゐるから、話が噛合はない。良くある事だ。
しかし、可能な限り穏やかに議論を進める爲に、ただ氏は、どんな内容の意見でも良いと考へるだらうか。「戰爭はなくならない」と云ふ意見は、それ自體として暴論でも極論でもないと、ただ氏は思ふのだらうか。これは「それを言つたら場が荒れる」と云ふ意見だらうが、「場が荒れる」ならば、ただ氏はそれを「言つてはならない暴論」として排除しようとするだらうか。ただ氏は、意見を述べる際の態度だけを問題にしてゐる。世間の多くの人がさうだ。けれども、態度だけおしとやかにしてゐれば、内容的に「過激」なものでも許されると言ふのだらうか。實際問題、俺が何んなに叮嚀な口調で言出しても、内容が「過激」となると、即座に排除される、と云ふ事態は何度も俺は經驗してゐるんだが。
俺も鉄山さんと同じやうに、「突詰めて考へた結果として意味のある内容を含んだ意見」を「暴論・極論」と考へる。さう云ふ内容的な暴論・極論の類を、多くの人が排除する傾向がある。その際に、多くの人が、内容については「過激」以上の感想を持たない。讀まないで、ただただ「過激」と言つて排除する。さうなると、こちらとしても、どう云ふ言ひ方をしても排除されるなら――と云ふ事になる。
案外、「穏やかな議論」をしようと主張する人ほど、「場の空氣を讀め」式の言ひ方で或種の意見を排除し、一つの決つた方向に話を持つて行つて、自分の好きな結論に同意する人間だけを集めるやうな眞似をする。それで「有益な議論をした」と言ふのだが、出來レースのやうなもので何の意味もない。内容的に無意味な、馴れ合ひ的な御喋りを樂しみたいだけだ。
そこから何か有益な結果を引出さうと考へてゐるか何うかが問題だ。ただ氏は、「議論」を進めて、どんな結果を引出したいのだらうか。ただ、穏やかに御喋りして、コミュニケートするのを樂しみたいだけではないか。其處には眞理への志向がない。
――まあニコ動の話から議論の話が涌いて出る、と云ふのも、少々話に飛躍がある氣がしないでもない。
平成二十一年三月二十九日
アパッチ正かな軍でもアホッチでも何でもいいが(記號的に指示してゐるだけだから名稱は何でも構はない、其處に意味を見出さうと言ふのは未だに言靈信仰でもあるんだらう)、アンチ正かなの人の意見に反論する時は、最初は見下した調子を避ける事、淡々と事實だけを指摘する事、些細な事から話を膨らませない事、を當座、戰術として守つて頂きたい。
相手が何かを解釋してゐる時は全て原典に就く事、こちらから主張する時は典據を示す事、場當り的な抽象論は避ける事。
案外多くの人が出來てゐないのだけれども、大學入試レヴェルの文章讀解の技術を最う一度おさらひした方が良い。問題になる用語について、相手の文章を讀んで、前後關係から讀取れる意味を讀取る事。相手の反論の餘地なきほどに正確に讀取る事で、適切な反論が可能となる。其處ではこちらの主觀を交へない、純粹に技術的な讀取り方をする必要がある。逆に言へば、それが出來ないやうな曖昧な書き方を相手がしてゐるならば、それも問題として指摘可能な事實である、と云ふ事だ。
三段論法程度の論理については熟知しておく事。相手が論理を述べてゐる時、こちらが論理を述べる時は、大前提→小前提→結論の形式で、言替へてみる事。それでいんちき・誤が見破れる。
特に若い人に忠告したいのだが、議論の際には高校の教科書や參考書を手許に置いておく事。國語辭典と漢和辭典は紙のものを持つておく事。そしてそれだけに頼り切らない事。日本語の辭書の記述は往々にして中途半端で投げやりである事實を知つておく事。OxfordのPocket Dictionaryくらゐは持つておくといいが、ロングマン邊でも無いよりはいい。しかし、辭書の記述は、當座、文章を書くのに使へればいい、と云ふ程度の内容でしかないので、嚴密な議論の際に持出す時は批判的に利用するのでなければ危險。逆に、相手が辭書の記述を持出した時には、一往こちらでも辭書を參照して確認する必要がある。が、同時に、相手が辭書の記述をどのやうに扱つてゐるかを見計らふ必要がある。辭書の記述を見て單純にその解釋を押附けて來てゐる場合、相手は力押しでこちらを押切るのが目的で、こちらの話を聞き入れる積りがないから、注意が必要だ。
法律や條文についてはウェブに上がつてゐるものを參考にしていい。けれども、理論や思想に就いては、ウェブで議論されてゐる事を安易に參考にする事は出來ない。ソクラテス・プラトンやアリストテレスでも、キルケゴールでもニーチェでも、原典(飜譯で良い)を持つてゐる必要がある。兔に角、古典の解説書や、それを利用した作者の主張してゐる本、二次的な派生本を頼るのは危險で、一度は直接原典に當つてみる必要がある。
一方で、ヤスパースのニーチェ論、ベルジャーエフのドストエフスキー論のやうな、書き手がきつちりと讀込んだ上で精密な解釋をしてゐる本は有益なので、讀んでおくと良い。自分もどのやうに讀まなければならないかが解る點でも有益。
ジイドのドストエフスキー論、T.S.エリオットのシェイクスピア論のやうなものもある。これらは「ジイドの」「エリオットの」と云ふ枠組がある事を承知の上で讀むならば有益だが、「一面の眞理」として讀んでおく必要がある。
福田恆存の本、松原先生の著作を讀む――さうしたら、その周邊の本も徹底して讀んでおかなければならないし、さらに一般的な古典・名著も讀んでおかなければならない。實は福田さん、松原先生だけを讀んでゐる間の方が、論理には切れがあると云ふ事になり兼ねないのだが、福田さん的な・松原先生的な物の見方をするとはどう云ふ事かを意識する爲にも、小林秀雄や唐木順三、保田與重郎と云つた人々、T.S.エリオット、D.H.ロレンスと云つた人々にも讀書の範圍を擴げた方が良い。福田さんの『西歐作家論』に出て來る作家の本には目を通しておくべきだ。
漱石の場合、主な長篇を讀んでおく。鴎外の場合、短篇、特に後期の歴史小説を讀んでおく。漱石の講演、鴎外の短文も見ておく必要がある。例へば、假名遣意見の解釋にしても、鴎外の發言を通して見て、鴎外がどのやうな人物であるかを知つてゐれば、どのやうな意見ならば鴎外の言ひさうな意見であるかは、解ると云ふものだ。鴎外は、同時代のものを「守る」等と云ふ觀念は全く持たなかつた人物で、それゆゑ明治の新時代になくなりつゝある江戸時代以前の「古きよき」日本人の生き方を晩年ずつと書き續けた。鴎外は、なくなりつゝある日本的なものを、敗北を承知でずつと書き續けた。假名遣ひにしても、江戸時代の契沖の事を持出して話をしてゐるのだし――それなのに「同時代」の「アクチュアル」なうんたらかんたらと云ふ解釋をしてしまふのは、要はその人が鴎外を理解しないで、自分に都合良く鴎外を歪曲してゐると云ふ事だ。
歴史については、クリストファ・ドーソン、林健太郎、堀米庸三、宮崎市定、或は内藤湖南邊を俺は讀んでゐるけれども、面白いから讀んでゐるに過ぎない(最近トインビーの歴史の研究をサマヴィルの簡約版で讀んだら意外と魅力が無いのに氣附いた)。一往通史として概説書を何册か讀んでおいて常識を持つてゐれば馬鹿にされない。實際には、知識に關するつつこみに對しては、そんなに氣にする必要は無い。相手に「知識がない」と極附けられる事があるけれども、それはさうやつて極附けてこちらを默らせようとしてゐるだけの事だから、議論の本質に關らない事で、無視して良いし、しつこく言ふ人間は、そのしつこさゆゑに非難されるべき人間である事實を指摘するといい。
橋本進吉、時枝誠記、山田孝雄の著作は、出來れば持つてゐた方が良い。橋本博士の本は、岩波書店から出てゐたが、大學のテキストとして大量に出まはつたので、古本屋で安く買へる。時枝博士の本は、國語學原論は最近岩波文庫に入つた(續篇がまだ)。しかし、戰後に書かれた國語問題に關する本は、絶版で、古本でも入手困難になつてゐる。それらも國語問題に興味のある人は何とかして掘出して來なければならない。山田博士の本は、地方の古本屋には先づないが、專門店に行けば容易に手に入れられる。
論語や聖書は目を通しておくといい。聖書は、文語譯がいい譯文だとされてゐるけれども、斜め讀みするには新共同訳邊を適當に讀んでおけばいい。論語は、宮崎市定の譯を谷沢永一が絶贊してゐたが、それほど突出していい・それだけ讀んでおけば良いと云ふものでもないから、他に二、三册拾つて來て、合はせて讀んでおいたらいい。桑原武夫の評釋は樂しく讀めたが、論語の解説書はどれも解説者の主觀が強く這入り込む傾向があるので、一册だけ讀んで事足れりとするのは危險。呉智英の本でも案外偏つてゐるので、のめりこむべきではない。どちらかと言ふと、論語より聖書の方に魅力がある。論語の現實主義は、日本人にとつては解り易いだけに、それほど學ぶべきところは多くない。聖書の理想主義と論理主義とは、日本人にとつて異質なもので、「自分の外部の世界の思想」として氣をつけて讀むと參考になる(讀めば身に附くと考へない方が良い)。
平成二十一年三月二十八日
http://mayokara.info/deadspace/#d20090328
思ったことは書き続けるけど、あなたに対しては黙っていることにする。と言ひ放つた次の行で、「あなた」に對して話をし始める。ああいう人を人とも見ない態度は大嫌い。と言つたのは誰だらう。人のことは、言えないなと、他人事のやうにしれつと言放つ人だから。云々。

根拠。

もちろん、この程度の揚げ足取りなら喜六郎が得意なところだが、今囘も喜六郎はにやにや眺めて「アホッチ群がまた内ゲバ」とか「客觀的」な批評を書くだけだらう。三宅氏と俺とを見比べて、喜六郎は俺に不利になるだけのやうに物を言ふに決つてゐる。喜六郎の「客觀的」とはその程度のものである。

こんなの、書く必要ない。こういうことを書いて誰が喜ぶ?自分がやられているのは、こういうことなんじゃないの?それとも何か違いがあって、こういう物言いをする?それが理解できない。だから「同じ穴の狢」と言った。

強調のつけ方が間違つてゐる。あなたが注目してゐない部分が、俺の言ひたい事だ。

悪の根源にされているけど、被害妄想にしか思えない。議論しか存在してはいけないのか。それが「Webの理念」か。「コメント欄を作るのをやめた」、そう書き残すことが、悪意に基づく当て付けなのか。書いてはならないのか。「Webはオープンな場であるから、思考そのものは公開を許されない」、それでいいのか。そんな窮屈なものだと、一体誰が決めた

mayo氏自身が被害妄想に陷つて暴言を吐き散らしてゐるのだと俺は思ふ。
誰が決めるも何もないだらう。コメント欄を置かなくても反応はいくらでも出てくるから、とm氏自身、すぐに言つてゐるのに。何もかもわかつてゐて、m氏はとぼけてゐるんだ。反應がある、それにまた反應する――議論ぢやないか。誰が何う見たつて議論ぢやないか。議論しか「存在してはいけない」のではない、ウェブだと必然的に議論は「存在する」筈なんだよ。潛在的にも存在する議論を、m氏が拒否して、拒否しながら、直ぐに「反應がある」なんて言出す。出たら目だ。議論と反應とは同じ。別の言葉を使つたから別のものになると思つたら大間違ひだ。

コメント欄を置かなくても反応はいくらでも出てくるから、スクリプトを走らせてまで自サイトのコンテンツとして生成するまでもない、そうするまでには見返りがない、ただそれだけのこと。

三宅氏と同じで、動機を説明してゐるけれども、俺に對する話をした直後に「コメント欄」が何うの斯うのと言出したのだから、當てつけ以外に解釋のしやうが無い。普通はさう讀むよ。自分一人の解釋を他人に押附けて、m氏は自分に都合良く話を持つて行かうとしてゐるのだ。

説明を求められたがゆえに、きちんと「同じ穴の狢」と言った理由も示したけれど、「卑怯者が逃げて終わった」ことにするつもりかね。

説明にもなつてゐない「事實の指摘」をされても困るんだよ。アンチアンチ狂ったように繰り替すのは。の何處が「理由」だと言ふんだ。アンチが長い間アンチ行爲を續けてゐるのなら、それを何囘もこちらが指摘するのは當り前の話だ。長い間アンチ行爲を續けてゐる側に責任があるのであり、それを「指摘するのが惡い」と言ふのは、明かに加害者に加擔するものだ。

無神経に過ぎる「キ印」などと言って悪意を剥き出しにする人がいる……本当にこれらを問題だと思っていれば、やっぱり頭のおかしい人だったなんて言葉は出てこない。出てくるはずがない。それを平然とやってのけるんだから、全部偽物。

意地でも「同じ穴の狢」にしたい訣だが、その「同じ穴」に自分だけは入らないでゐる積りらしい。それが卑怯なんだよ。しかし「無神經」と云ふ批判が人格攻撃ととられるとは、思つてもみなかつた。無神經な人には變なところで神經が纖細なところがあるらしい。しかし、電波な人を言ふをかしな人と、人格を攻撃してゐるのととは、話が全然別。

真理は存在するが、人はそれを知覚できない。だから「追究」と言う。「存在しない」とは思ってない。

俺も追求と言つてゐる。同じだ。同じなんだよ。m氏は「野嵜と俺とは違ふ」と云ふ事にしなければならないから、こつちの言つてゐる事を歪曲して「教義」だの何だのと言つて罵つてゐるが、同じなんだよ。何で違ふ事にしたがるんだ。

ところで「アンチ野嵜」でも「野嵜信者」でもない、ただの野次馬諸君、諸君には良い事を教へて差上げよう。喜六郎の目に入るところで、第三者として、喜六郎を冷靜に批判して見玉へ。面白い事になる筈である。あれほど冷靜な喜六郎が、頭から湯氣を出してかんかんになつて怒る樣を、諸君は見る事が出來るだらう。

そんな諸君が、今度は「野嵜信者」として書込んで見るのだ、さうすると喜六郎は、何を言はれても蛙の面に××、全て聞き流して、偉さうに説教を垂れて來る事だらう。「第三者か、野嵜信者か」で喜六郎の態度はころつと變はる筈である。試して見るといい、こんなに面白い試みもさうさうあつたものではない。

自分には許せる事を以て他人を罵る事は、絶對に許されない……そう説く人間が、「相手を人間として見ない態度」を批判する文脈でこう口にする。私にはこれが「相手を人間として見ている」文章には思えない、だから相手と同じ、「同じ穴の狢」だと言うのだけど、そうすると「ならばお前だってそうだ、同じ穴の狢だ、許されるものではない」と言う。これは「相対化」ではないのか。

ちよつと唖然とした。こんな解釋をする人がゐるんだ。信じられない。何でこんな風に解釋出來てしまふのだらう。ここでは「人を人とも思はない」事を論じてゐないのに。事實を指摘しただけなのに。變な風に全く無關係の話を結び附けて、「あれとこれとは矛盾である」と言ふのは何うかしてゐる。さう云ふ人が、「コメント欄」が何う斯うは、俺の話と無關係だ、と一方的に主張するのだから、やりきれない。

日本語の問題については、前提を共有していないので何とも言ってない。何も読んでいないから黙っている。黙っていればいい気になりやがって、と思う。自分のやっていることがわかっていないんだ。「俺を批判するな」「俺を貶めようとしている」「俺を悪人にしようと」……俺、俺、俺。そうやって、他人を「おかしい人間」にする。

「私は」と「俺を」とを「同じ」に見てゐるが、誤だ。なぜなら「は」と「を」とは違ふからだ。m氏はなぜか斯う云ふ違ひには無頓着だ。自分にとつて不都合な違ひは、m氏には見えなくなるらしい。
それから、ソースを見てまた唖然とした。おかしい陰険な、暴力的な、頭が悪いと云ふ註釋が附いてゐるのだ。俺は、m氏の頭がをかしいと思ふけれども、陰險な・暴力的なとは區別してゐる。例によつて、この邊りの事をm氏もごつちやにしてゐるのだ。斯う云ふ曖昧な考へ方をする人とは、話が出來ない。そして、惡いのは曖昧に話をする人の方だ。

説明がないのがいけない、反論できないのがいけないと言う。説明すれば、関わるな、言うなと言ったから何も言わない。そんな程度の「論理」。「典型的」日本人の病理。「当たり前」「当然」に加え「典型的」って言葉も好きじゃないけど、あえて使う。

訣が解らない。あなたに対しては黙っていることにすると言ひ放つたのはm氏なのに、なぜか俺が何も言わないと言つた事にされてしまつてゐる。唖然とした。

何處を何う讀んでも惡い事を言つてゐない自分が氣にしない事なのに、他人を責める文句には使ふ鈍感な人間が纖細な人間を馬鹿にして威張る人が傲慢である事を非難するのは良い事だ、と云ふのは、全ての人が同意する事全ての人が同意してゐる行爲を俺はやつてゐるのだから、非難される謂れは無い非難の根據を見ないで結論だけを見る意識の低さ高所から見下ろす自分の態度の惡さ俺は惡人でなければならない偶像を作り上げてゐる誰が傲慢だのと安易に言出す事も出來ない何も考へないで、適當に人の言つた事を捩つて適當にそれつぽい事を言つてゐるだけ一方的な非難「事實を述べてゐる!」みたいな顔をしてしれつとしてゐる獨善的で、居丈高に他人を罵り、嘲笑してゐるやつてゐる「事にしたい」文章を讀んで、内容を理解して、物を言つてゐません事實を指摘しただけ間違ひだと斷定する「それを讀んだ人間が何う思ふか」まで意識しなければならない公開の場で茶番現象の表面だけを見て、物事の本質を見ない一方的に他人を道徳的に斷罪する行爲あなたから縁を切らうとしてゐる一方的に言散らし、一方的に關係を決めようとしてゐる自己を防衛する爲になぜかm氏には解つてしまふらしい説明して呉れれば反論出來る一方的に書散らしてゐれば、氣分はいいだらう如何なる人間も反論が出來ないレッテル貼りをして攻撃絶對に許されない適當に解釋すべき惡意で解釋してゐる嫌がらせ行爲を正當化後ろ向きの姿勢反社會的全部繋がつてゐる感情だけで動いてゐる最低限の儀論のルールを守らない勘違ひするただ、目につくところのものだけに著目して、それで簡單に話を濟ませようとするコメント欄の有る無しが、反論を受ける・受けないと關係があると勘違ひしてゐるアンチの連中と同じやうに、逆恨みし續ける……たったあれだけ、そして追記だけで、人にここまで言い放つ。病的であるとしか思えない。病的であるとも思えないんだろう。

この人、完全に御病氣ですね。いや、世間にはこの程度の言葉遣ひが、途轍もない惡口雜言に見えてしまふ人もゐるのか。こんなの、惡口でも何でもないだらうに。何が病的なんだらう。こんな言葉に病的と云ふ感想を抱いてしまふm氏こそが病氣だ。

どうして陰険だと言われることを非難するのと同時に、他人に陰険であると言い、自分には許せる事を以て他人を罵る事は、絶對に許されないだなんて言えるんだろうな……。そしてそんな「理屈」を少なからぬ人たちが良しとしている。本当にひどい。

陰險でもない人間である俺を陰險だと極附けて排除しようとするのを非難した。そして、俺を排除しようとする人間が陰險である事実を指摘した。何も矛盾は無い。「陰險だと言ふ事」を俺は否定してゐないのに、m氏は俺が「否定した」と勘違ひしてゐる。かう云ふ勘違ひに基いた矛盾の指摘くらゐ、迷惑なものはない。m氏の勘違ひを眞實だと思ひ込んで、俺を憎んでしまふ人が、これでまた増えるのだ。しかし、m氏は自分が「私」の意見を言つてゐるに過ぎない、と思ひ込んでゐるから、その「私」の意見を世間に公表した結果が何うなるかについて、何も考へてはゐない。その點では、結果を十分意識してパフォーマンスを行つてゐる喜六郎と違ふやうに見える。しかし、實は、m氏も十分、自分の效果の意味を知つてゐて、何もかも承知の上で、「私」の意見を言つてゐるのだ。
平成二十一年三月二十九日
と言ふか、m氏はべらべらとと書いたのだ。俺の言つた言葉に「病的」なものを見出すm氏は、じぶんのべらべらとと云ふ言葉に、病的なものを見出さなかつたのだらうか。否、いろいろな事を俺が「澤山言つた」から「病的」だと言ふのだらうが、しかしm氏ははつきりべらべらとと書く以前から、俺に對する當てつけをいろいろ言つてゐなかつただらうか。
具體的に相手を特定して言ふのが「病的」であり、誰とも無しに當てつけを毎日えんえん書連ねるのが「病的でない」と、m氏は本氣で思つてゐるのか。
俺の言つた言葉をピックアップする基準をm氏は全く示してゐない。ただ適當に澤山拾ひ上げて、「どうだ!」と見せ附けたに過ぎない。基準を示せと要求すれば「病的な言葉」とでも答へるのだらう。では「病的な言葉」とはどのやうに客觀的に判定できるのか。俺はどれも病的だとは思つてゐない。「澤山言つた」と言ふのだらうが、「何を」澤山言つたら「病的」に「なる」のか。m氏は曖昧に話を進める事で、俺を惡人に仕立て上げてゐる――と、斯う言ふとm氏は「被害妄想」と言つて逃げるのだが、無自覺な加害者は何時もさうだ。
しかし、m氏はべらべらと云々と、俺を罵つたのだ。
そして、他人事のやうに「同じ穴の狢」と言張つても、既にm氏もまたその「同じ穴の狢」となつてしまつてゐる。斯うなつてはm氏は最う「同じ穴の狢」論法は使へない。
自分だけ部外者のやうな振りをして、傍觀者として・第三者として「公正な判斷を下してゐる」かのやうな振りをして、一方的に人を斷罪する――アンチの喜六郎等がやつてゐるのと同じだ。
m氏は「自分は部外者である」と言張つてゐるが、そんなm氏に「いや、あなたは部外者ではない、同じ穴の狢だ」と指摘するのは、m氏にとつて致命的な指摘である。
平成二十一年三月二十九日
3行でまとめてゐればm氏は滿足したかね。
短ければ「苦手」、長ければ「病的」。あゝ言へばかう言ふ。他人に文句をつけたがる人は、何であれ文句を言ふ「根據」が見出せれば、それでいいのだ。
平成二十一年三月二十九日
聞き分けのいい人間
道具として価値がある
口の減らない人間
話のタネとして価値がある
m氏は斯う云ふ事をべらべらと喋る人間なんだぜ。
平成二十一年三月二十九日
割り切りと慎みと慈しみと、ある種の諦めとかはてなスターもman to manのクローズドなコミュニケーションを巧妙にカモフラージュしているようにしか見えない。そして、例によって数の暴力が働く。とか数で物事を測るのはこの社会の基本原則だから異を唱えるつもりはないけど、そのぶん数そのものには注意深くならないといけないとか行き詰まると無駄口が増える。追い詰められて死ぬキャラは大抵何かを喋りながら死ぬ。so reasonable。とか人が真面目に考えてる横で平気でちゃぶ台を引っくり返すようなことを言うのはよくありませんとかインターネット=友人の家とか人一人どうこうしたって何も変わらないとか人は群れて暮らす生き物なので、主人公グループ以外が不可視とか。私もいずれああなるのか……とか。他人の意見に便乗して、さも自分の意見であったかのように語る人とか現世で徳を積まないと幸せな来世は来ないんだっけかとか。なんでそんなに偉そうなのとか一同爆笑(笑)とか収容所とかユーザが気持ち悪いってのは、長期的に見ると損だと思う。最終的に人を不快にさせるのは他でもない人。もちろん私も含む。とか「ああはなりたくない」とか。まあ、「彼ら」にとっては自然な表現なんだろうなあ……とかハッタリばっかりとか。原則的に全部脊髄反射で動く「動物」に人間を指弾する資格があるのか?人間を「擬態」するのをやめたほうがいいんじゃないのか。リンク張って言うべき?とか下衆は際限なくつけ上がるし、自分自身が下衆であるか否か判定できないとか言葉(ことば)の刃物で血肉が溶けて流れ出るまでメッタ刺しにされればいいのにとか惚れやすく付き纏いやすいとか放任主義とか放置国家とか。感想には個人差がありますとか痛みに敏感すぎて鈍感になっているとかユーモアはいらないけどエスプリ(あるいはウィット)は欲しいとか不快感を表明するにも的確な表現力が必要とか。浅学薄識とか正しい批評とは……「正しい批評」と言わないものすべて。良い批評とは……独自の視点をもったフェアなもの。とか。
平成二十一年三月二十九日
「正しい批評」は駄目で「フェアな批評」はOKなのか……。わけわからん。
平成二十一年三月二十九日
暖簾に腕押しとか。正邪善悪優劣賢愚とか露悪的でない悪趣味には鈍い生の輝きがある(ような気がした)とか自分から「中の人」を名乗り出るのは何か間違っているような気がしてならないとか。どうしてすぐに成果を求めようとするんだろう。そんなだからやる気のある人が疲弊して、基礎の積み上げが疎かにされ、要領の悪い人間が丸暗記やコピペに走るようになる。とか周りに合わせられる人間だけが生きればいいだけのことかとかTwitterで納得のいかないものを見たら、完成度の低いbotだと思うことにしようとか「禁止されなければ何をやってもいい」ってのがデジタルネイティブかとか排他的になることなく、できるだけ寛容にとか。
平成二十一年三月二十九日
他人に「寛容になれ」と言ふ人に限つて、他人を罵り排除するのに「あなたは寛容でない」と極附けるよな。
平成二十一年三月二十九日
いい歳した大人が匿名さんの書いた初音ミクへの文句大量に食いついているのを見ると、あれらは本当に人間なのだろうかと思えてくるとか知識に寄り掛かった解説、目利きによる語り、それはただの広告塔だよねとか嫌儲が嫌いだと言う一方で「Adblock最高」、それはただの偽善だよねとか自分に都合良く線引きしてるだけだとか人間が嫌いだから社会性が身につかないとか。「美人言語」というピジン言語があるのではないかとか要するに、友達ごっこがしたいだけか?とか「二枚舌」を「チェックする」という言葉の意味が通じないのはどういうことなんだろう。「二枚舌」という言葉の解釈が違う?「二重規範チェッカー」とかのほうがよかったのかも。とか論破という言葉を口にすることは、自らの価値規範でしか物を考えていないと自白することに等しい「破った」かどうかは自らの価値規範によってしか判断できないし、そこに他者性は介在し得ないとか思っていることを当たり障りのない言葉で正確に伝えてくれるインプットデバイスが欲しいとか言いたいことは立場を隠して言い、表立っては他人の尻馬に乗るだけ、他人を介して民意を行使しているというあたりが最低だと思うとかまともに対話の機能も満たしていないような空間は言論空間としては不十分だし、構造的に独り言や野次の枠組みから逃れることはできないとか本来の想定された用途であるブックマークや備忘録として使う分には、当然対話の機能は必要とされないとか無慈悲(no mercy)とか。
平成二十一年三月二十九日
社會的・状況的に存在する共通認識があれば、それに基いた議論が可能であり、その議論では論破と云ふ事があり得る。もしそこで「論破」と云ふ事を否定するならば、社會的な共通認識それ自體を否定してゐると看做す事が出來る。
平成二十一年三月二十九日
信じる規範がないとか堕落とか執着とかするということにしておこう。とか粉々になってしまえばいいとかもう「何人が反応した」みたいなレベルでしか判断されなくなっているとかまあ、(あの人たちの中では)Web全体がそういうデータの集合であるべきなのか……とか。A対Bの二項対立でしか物事を考えられなくなると、Cにとって得という視点が存在しなくなる。で、誰得とか平然と言い放てるようになる。楽でいいな。とか箱庭感とか脳の神経を繋ぎ変えるなどしてライフハックしたいとか虚構に哲学を求めて、現実に娯楽を求めて、どうするのとか罪と律法とかきれいに騙してくれるのならそれでとかはてなスターとか、やっぱりわからない。ああいう風に巧妙に「君は正しい」「君は正しい」みたいな評価をされてうれしいのだろうか……とか侵蝕とか用意されているものを使いたいように使う、そういうのに潜む無神経さを悪用したいとか見え方というものを考慮していないとかアジテーション、扇動、あるいは、ここもとか。過去の自分は過去の自分でいいのでは。むしろ何年経っても同じこと(同じ「主張」ではない)を言い続ける人のほうが怖い。とか責任を取らせろー火あぶりの刑だーとか民衆成長してないとか人をジャガイモとか贖罪の山羊とか空虚とか好奇心の矛先とか何をする気にもなれない、無気力とか死に体、生き体、死に様、生き様、死に急ぐ、生き急ぐ、死に馬に鞭打つ、生き馬の目を抜くとか生き物狂いとか。「問題」をでっち上げて煽るようなのが後を絶たないから、何が問題で何がそうでないかをフィルタする理性が必要とか見なければいい。多くの人が不快に思っているものが、誰にも見られなくなればいい。「見られない」ことと「見れない」ことは違うし、影響力を落とすことで健全でいられる。とか積極的否定とか其の役を悪(にく)みて、其の人を悪まずとかマルチ商法の洗脳とTwitterに誘う洗脳の違いがわからないしとか金持ち男子・貧乏男子でいいと思うしとかもう何も信じられない!とか何を言っているのかわからない!とか見なければいいだけだったとか悪意に満ちているとかTwitter、任意ユーザの過去ログからbotを生成してはどうか。お友達作成キット。とかbotに片想いして出版とか未だ見ぬ恋人を探す旅に出るとか幸せの青いミクとか本気出ないとか(あのコじゃわからん!!)とか倒錯値とか。
平成二十一年三月二十九日
飽きた。
「斯う云ふ事を毎日毎日書連ねてゐる人つて、本當、何う云ふ神經してゐるんだらうね」。云々。m氏は自分が「病的」だと認めるだらうか。
――と言ふか、病的な文句を淡々と拔き書き出來るとしたら、その方が病的だろ。こんなんでも嫌な氣になつたもの。m氏は俺の發言を拔き書きするのに全く苦痛を覺えてゐないんだよ。
平成二十一年三月二十九日
俺はこれ以上読者を煙に巻くような馬鹿な真似をしたくない。members.jcom.home.ne.jp → d.hatena.ne.jp → jintrick.net → twitter.com → stream.jintrick.net。我ながら失笑もの。
別に何處でも。讀めさへすれば。
個人的には、よく新しいサーヴィスに登録して管理すべきIDとパスワードを増やせるなーと。最近は管理する事が億劫で、新しいサーヴィスに手を出す氣がしない。
あと、筋(すじ)は読むべき。 orz
平成二十一年三月二十九日
ここと2.0とで遣ひ分けをやつてゐると言はれたけれども、一時期それをやらうとして結局やつてゐない事實がどう云ふ訣かばれてゐないのに安心するやら落膽するやら。
一度、理念でもスローガンでも宣言でも、提示してしまふと、あとで具體的に・現實的に何をやつてゐても、全てその「提示された觀念」の枠組の中で捉へてしまはうとする人許りなんだよ。ありのまゝに見る事をニーチェは執拗に言ひ續けて、それで言ひ方が極端になつて、眞理は存在しない、あるのは虚僞だけだ、と云ふ用語になつた。
平成二十一年三月二十九日
http://mayokara.info/deadspace/#d20090329
しつこいな。アレクセイのやり口と同じで、しつこく責め立てる事で相手を閉口させる戰術だろ。
言いたいことがあれば何を言ってもいいとは思わない、だから「人を人として見ているようには見えない」ことを説明するために強調を入れた。
さうやつて問題の核心とは無關係の部分にだけ注目するから、議論が進まなくなるんだよ。
こういう場合に「俺」を持ち出すのは許されるという。
當り前だ。あんたが、「私は」被害妄想にしか思えない。と言つたから、こつちも「俺は」と言つたに過ぎない。
「議論」にはゴールが必要。お互いに言いたいことを言い合うだけでは議論は成立しない。そういう成立していない「議論」を「議論ごっこ」と言っている。
ゴールが必要とは恐れ入つた。そんなに簡單に解る眞理が必要なのか。
その指摘のやり方が同じだから、自分もまた加害者になっているという意味で言っている。加担なんてしていない、むしろ両方同じ悪と考えているから「同じ穴の狢」と言った。
指摘のやり方が違ふのだから、違ふと言つてゐる。なんで解らないんだ。Jintrick氏が指摘してゐる。被害者が加害者を告訴したら、今度は被害者は加害者か。被害者は泣寢入りしろ、と、さう云ふ事か。加害者だけが得をするんだな。加害者だけを得させたいんだらう。御前も加害者だ。
同じなのであれば、どうして価値相対主義で何も考えていないなどと言えるのか。
なら何で御前は俺に真理なんて人間が判断し得るものじゃないんだよ。それを平然と「真理に近い」と口にする。そんな「教義」に殉じる気はない。「自分が一番偉い」が「自分の教義が一番偉い」になっているようにしか思えない。と言つたんだよ。同じなんだろ。同じなのになんでわざと違ふやうに極附けたんだよ。同じなんだろ。
「事実を指摘しただけで得意になる」と批判していながら、そういうことを言える神経を疑う。自分に許されることをもって他人を罵ることは許されない。
揚げ足取りをするな。喜六郎が主觀的な・大變に偏向した態度を示してゐる事實を示したんだ。何の意味もない事實の指摘をして威張つてゐるmayokaraらとは違ふ。大體、お前、俺が説明にもなつてゐない「事實の指摘」をされても困るんだよ。と書いたのを、讀んでゐないだらう。自分に都合良く、俺の發言を切取つて、もつともらしく論評するな。
見た人がどう思うかまで論理的に考えなければならないはず。
「はず」とは何だ。さうなる理論的必然性を示せ。示せないだらう。
「自分が正しいから矛盾はない」と言っているようにしか聞こえない。だから「肯定するための理屈」と言っている。
「矛盾がないから正しい」と言ふのなら解るが、「正しいから矛盾はない」とは理解出來ない。俺が自分で理解のできない理窟を言ふと思つてゐるのか。
量は関係ない。思い込みの激しさを言っている。
勝手な解釋だな。根據ナシの極附け。妄想。mayokaraは、俺を罵り、嘲るのに、俺が激しく思ひ込んでゐなければ困る、と云ふだけだ。と言ふか、「思い込み」の「激しさ」は、量的なものだらう。だからこそ、あんだけ澤山、平氣な顏で書拔きしたんだらう。質なら、一つでも指摘すれば、それで十分だ。
こう、決めつける。「同じ」であるから、当然「長いから」病的と言うことにしたいんだろうけど。
極附けではない。mayokaraは自分が何を言つたのか、全部忘れたのか。
相手も納得済みであればそう言える。だけど、それが一方的なものであれば話は違う。
相手が納得するか何うかは關係ない。犯罪者の多くは、納得しないまゝ、刑を受けてゐるだらう。ローマ教會は納得しなかつたが、ガリレオその他の主張した地動説は正しかつた。人を納得させるか何うかは、全く問題にならない。
覚えている。同じだ。同じなんだよ。野嵜氏は「mと俺とは違ふ」と云ふ事にしなければならないから、こつちの言つてゐる事を歪曲して「アンチ」だの何だのと言つて罵つてゐるが、同じなんだよ。何で違ふ事にしたがるんだ。
「違ふ事にしなければならない」のではなく、事實として「違ふ」と云ふだけなんだよ。しかし――同じだと言ふのなら、同じでもいい。ならなんでmayokara氏は俺を罵るんだね。罵つて良い理由を説明し給へ。その、mayokara氏が俺を罵つて良い理由は、そのまゝ、俺がmayokara氏を罵つて良い理由になるだらう。「同じ穴の狢」なんだからな。ならば、mは俺を罵つてはならないし、俺もmを罵つてはならない。俺だけが一方的に默らされる理由はないよ。默るなら、俺もm氏も、だ。同じなんだから。そして、m氏の主張であるのだから、先づm氏が率先して默つて見せなければならない。何でしつこく默らずに俺を罵倒し續けるんだ。理窟も何にも無い。m氏は、感情的に俺を罵つてゐるだけだ。m氏の「理窟」は、m氏の感情的な罵倒を、尤もらしく見せかける爲に、使はれてゐるに過ぎない。
m氏は、俺と云ふ人間の事が問題であり、それは即ち、m氏自身の事が問題である、と云ふ事だ。m氏は、自分の爲に人を罵つてゐる。俺は違ふ。俺は、何度も繰返すが、眞理を明かにする爲に、その爲の手段として、議論をする事を言つてゐるし、具體的に人を採上げて論じてゐる。同じ「人を論ずる」にしても、目的が違ふ。
抜き出しているのは「他人を責める文句」。そのまま引用するのではなく「抜き出している」のに、文章の長さを論っているとどうして言える。
何處を何う讀んでも惡い事を言つてゐないと云ふのは、俺が俺と云ふ他人を責める文句なのか。俺と云ふのは自分の事であると思つてゐた。自分が何をしたのかもm氏は理解してゐないらしい。
あの拔き書きの基準が、俺には理解できないが、俺以外の全ての人間が理解出來まい。「アンチであるがゆゑに理解できる」人種ならゐるだらうがな。少くとも、mayokara自身が解つてゐないで適當に拔き書きしてゐた事實は判つた。
結局、何を言っても「アンチ」であるゆえに悪人なんだろうけど。「自分が正しい」から矛盾はなくなる。
m氏は凡そ公正を缺いてゐるが、その自覺がないから惡人だと言つてゐる。
こうやって書いていることが病的だかなんだか知らないが、あなたにそう非難される筋合いはない。形式の問題ではないし、文章の長短によるものでもない。そういう間違いを犯す人が非常に多いと言うが、それをやっているようにしか思えない。
ほら、一方的だ。何でmayokara氏は、自分だけは免責されると言へるんだらう。俺にしてみれば、あんたにこそ非難される筋合いはないよ。あんたが何で俺に怒つてゐるのか、さつぱり解らない。傍觀するなら傍觀するで、默つて見てゐれば良いだけなのに。
闇黒の人は今、他人が文章の長さを論うために抜き出していると思い込んで、他人の言葉をひたすら切り貼りして並べてみせる、という愚を犯している。
愚を犯してゐるも糞も無い。あのmayokara氏の發言、どれもこれも異常だと思はないのかね。と言ふか、何でmayokara氏は、自分の拔き書きの意圖を説明できないのに、威張つて人を罵倒できるんだらう。そして、罵倒するな、と言つた同じ口で、何うして俺を罵倒できるんだらう。なあ、愚を犯していると言つて良いのなら、どうして俺の切り貼り(謎)された言葉は、言つてはならない言葉であつたのかね。説明していただけるかね。無理だらう。一言言つて呉れればいいんだよ、mayokara氏が俺を一方的に罵倒するのは、如何なる資格に基いてゐるのかと。
思ったことは書き続けるけど、あなたに対しては黙っていることにすると言ひ放つた次の行で、「あなた」に對して話をし始める……結局、他人を怒らせ(狂人だなんだと言って怒らせることは何とも思わない)、食いついたら嗤っているだけだ。
釣りですか。そもそもあんた自身がべらべらと云々と、俺を挑發したんではなかつたでしたつけ。それ以前に、俺があんたを挑發しましたか。なんか變な電波を受信してゐませんか。喜六郎は受信してしまつたらしいです。
そもそも「恥」だの「後ろめたさ」だの、他人から言葉を拝借して物を言うことを何とも思わない人間なんだよな。今となっては私が真似したように見られるのかもしれないし、当人は当てつけでやっているのか知らんが、それこそ恥を知れと思う。
參りましたねえ。他人から言葉を拝借して物を言うことを何とも思わない人間つて――意地でも「俺はお前と違うんだ」と言ひたいらしい。俺は「俺もお前も同じ」と指摘して、それゆゑにm氏の言葉を「拝借」して、m氏の非難がm氏自身にも當嵌る、或は、アンチ諸氏の言葉を「拝借」して、アンチの非難がアンチ自身にも當嵌る事を、指摘しただけなのに。
一々説明したのが惡かつたらしい。「同じ穴の狢」と、一言で切つて捨ててゐれば良かつたらしい。
それにしても、この人、自分が何んなに居丈高に俺を罵つてゐるか、自覺ないんですかねえ。
しかし、良く解りましたよ、斯う云ふへんなひとは世間に多いんです。喜六郎も別に特殊ではないんです。異常な人が世間には多い、それだけの事です。彼らは、自分たちはをかしくないと思つてゐる。さう云ふ「をかしくない」人間として、彼らは自分逹がエリートだと信じてゐる。エリートの一人として、誰かを「をかしな人間」と極附けて、一方的に罵るのは當り前だと思つてゐる。そして、自分はエリートだから、「をかしな人間」の反論を聞入れないのは當り前、逆襲されたらびつくりして、驚きあきれて、「をかしな人間」を散々罵倒し出す。
かう云ふエリート氣取りは、勝手に口を挾んで來て、勝手に怒り出し、勝手に粘着化する。それで自分は、「相手に挑發されたんだ」と思ひ込んでゐる。自分は絶對に惡くない。
何處までも反省しない人だ。恥を知らないエリート氣取りが、恥を知れと道徳的に説教する。本當に自分は何も惡くないと、mayokaraも喜六郎も、思つてゐるのかね。
昔の「PTAのをばさん」と一緒だよ。きーきー言つて、勝手に怒る。呉智英が「猿の正義」と言つた奴だ。大體、なんでmayokaraも喜六郎も、俺に注目したのだらう。注目しなければならない必然的理由が、どちらにもあつたか。ない。ただ、興味本位で覗き込んで、勝手に怒つて、勝手に攻撃し始めただけだ。彼らは、眞理も正義も興味が無いんだから、ただ、人にだけ興味がある。そして、俺を玩具に丁度良いと思つて、ちよつかいを出した。俺を人だと思つてゐないんだよ。
mayokaraは、何で俺に興味を持つた。無關係の人間なのに、なんで俺に道徳的説教をかますんだ。
俺が道徳的説教をしてゐる? 俺はそんな事、してゐない。道徳的な説教をして來た人間に、人にそんな事を言ふのなら、先づ自分から道徳的に反省して見せろよと言返しただけだ。それは論理の話だ。
俺はただ、技術的に、議論の仕方を説いてゐるだけだ。そこに勝手に道徳的意義を見出したのは、喜六郎であり、mayokaraだ。俺の立場を勝手に勘違ひして、勝手に怒りだしたんだよ。だから喜六郎もmayokaraも頭がをかしいと言つてゐる。俺になんで興味を持つた。俺とmayokaraに、何か關係があつたか。氣に入らなければ無視すればいいだらう。なんでべらべらと等と人を小馬鹿にする事を言つて、俺を挑發しにかかつた。さう、mayokaraが挑發したのだ。挑發しておいて、さつと引いて、そこで俺が反撃を續けたら、説明がないのがいけないと非難し、応じて説明すれば黙ると言ったじゃないかと言って嗤ってみせる。と「理窟」を言ふ。あきれたものだ。mayokaraは、俺とは赤の他人だ。何で赤の他人なのに、いきり立つて俺に挑みかかつて來たんだ。喜六郎もさうだ。頭がをかしいんだよ。
俺。俺の場合。俺は、正字正かなの理想を説いてゐる。その背後には、理想主義がある。眞理を追究しようと云ふ姿勢がある。何れにせよ、俺には信ずる價値觀がある。ならば、その價値觀について、議論する事は、當り前の話だ。不特定多數の人間が見てゐるウェブで、不特定多數の人間と、議論になる。それは當り前の話。俺の場合には、價値觀の存在、眞理への志向があるのであり、そこで議論が生ずるのは當然。そして、さう云ふ當然の事を、俺は意識してゐる。しかし、mayokaraはその意識が全くない。だからmayokaraは一方的に攻撃する事を當然と思つてゐるし、反撃されると憤激する。俺とmayokaraとは、「同じやうに相手を罵つてゐる」から現象的に「同じ穴の狢」だとmayokaraも喜六郎も言ふだらうが、根本的な部分で同じ穴の狢ではない、全く別の立場だ。
平成二十一年三月二十九日
一言で言へば、俺は對立的な意見を戰はせる議論の存在を、現實として認めてゐる。mayokaraは、議論において意見の對立を許せず、對立的な意見を言ふ事をそれ自體として惡と看做す「理想」を主張してゐる。
しかし、議論は昔から對立的な意見を戰はせるのが當り前だつた。mayokaraの考へは、平和主義の迷妄と同じで、完全な勘違ひ、誤だ。しかし、信念として「戰はない」のは「良い事である」と信じてしまつてゐるがゆゑに、狂信者である平和主義者は、「戰爭はなくならない」と言ひ、對立的な意見の應酬を認める俺の立場を憎惡し、道徳的に非難する。
mayokara氏は、こちゃこちゃと「理窟」を言つてゐるが、感情的に「世間を引掻き囘す野嵜」が嫌ひであるだけで、その感情論を尤もらしく見せかける爲に理性的に裝つてゐるに過ぎない。だから、mayokara氏のいちいちのいちやもんに論理的に反論する事は、mayokara氏を説得するのに、何の意味もない。價値觀の相違が、彼我に衝突を生み出してゐる。ただ、mayokara氏の價値觀が「價値觀の衝突を認めない」と云ふ價値觀だから、話がややこしくなつてゐるに過ぎない。
しかし――世間を引掻き囘すにしても、俺はより正しい事を求め、より眞理に近附く事を主張して、或位置に留まつてゐる人々に刺戟を與へようとしてゐるのだから、惡い「攪亂」行爲をしてゐる積りはないし、昔から斯う云ふ事をするのが哲學者や文學者の仕事だつた。勿論、俺は素人だが、專門家と素人との間に決定的な違ひはない、と云ふのは常識だ。寧ろ、アマチュアリズムがプロフェッショナルを刺戟する事はあつて良いと信じてゐる。實際、イギリスでは今でもさう云ふ事が普通にあるさうだ。
平成二十一年三月二十九日
と言ふか、議論する人間の言葉遣ひとか態度とかをやかましく言ふ人が一々餘計な茶々を入れる所爲で、多くの有益な議論がストップするんだよな。言葉遣ひや態度を道徳的に正さうとするのは良い事だと信じてゐるから、さう云ふ人は、自分が議論の進行を止めても、少しも反省しない。惡いのは「態度の惡い」人間だと言張り續ける。
實際、今のmayokara氏でも、變なところに注目して、俺の意圖をガン無視した事例が現はれた。斯う云ふ事をやると、進むべき議論が必ず止まる。
議論を進めるのに必要だと言つて人の言葉遣ひだの何だのにケチを附けてゐるうちに、ケチを附けるのに一生懸命になつて、議論を進めると云ふ目的を忘れてしまふ。
喜六郎なんかだと、そもそも議論なんて進める積りがないんだが、あれは論外。
人の興味がある事に、一方的に「私は興味ありません」と言放つて、自分の興味のある方向に話をねぢ曲げて、それで自分は「議論を進めてゐる」積りなのだから、議論する時の言葉遣ひだのマナーだのに文句を言ふ人は自分勝手だ。

平成二十一年三月二十八日
福田恆存『私の國語教室』「第二章 歴史的かなづかひの原理」

しかし、歴史的かなづかひの原則はそんな單純なものではありません。そこにおいて最も大事なものは、既に言つたやうに、語の自律性といふことであります。それを確立するために、私たちは時代を通じての歴史的一貫性や直ちに識別しうる明確性を求めるのです。定家の傳統主義はその前者に通じるものであり、契沖の規範主義は後者に通じるものでありませう。が、二人とも、抽象的な、あるいは本質的な思考に不慣れな過去の日本人として、本質と現象との次元の差を考へ分けることが出來なかつたのは當然と言へます。そのため、無意識のうちに語の自律性といふ本質を求めながら、その本質を志向する一現象にすぎぬものを、すなはち一貫性や明確性を、それぞれに本質そのものと混同してしまつたのであります。文字は、あるいは表記といふ行爲は、表意、表語を目的とします。語の自律性を志向し、語に仕へようとします。歴史的かなづかひは、そのための手段として一貫性や明確性を欲するのです。が、逆に、一貫性や明確性の樹立を目的とし、言葉や文字をそのための手段と考へてはをりません。一貫性、明確性に都合のいい言葉や文字を探したり造つたりしようとしようといふのではなく、既に與へられてある國語國字がなるべく一貫性、明確性をもちうるやうにと考へてゐるだけのことです。そればかりではない。語に仕へる手段の一つとして、一貫性、明確性のほかに表音性といふことさへ認めてをります。歴史的かなづかひの態度はあくまで現實主義的です。頭の中には本質、すなはち表意觀念があつても、手の中にあるものは表音文字だといふことを忘れてはゐませんし、それを卻けようともしてはをりません。また、頭と手の機能を混同する愚を犯しもしません。

平成二十一年三月二十八日
福田恆存『私の國語教室』「第二章 歴史的かなづかひの原理」

文字が音にではなく語に仕へるといふ事實は、もちろん表記といふ行爲がおこなはれはじめたときからのことで、ただ定家はその觀念を最初に意識した人といふに過ぎません。が、意識させられて、あるいは意識させられるやうな事態が起つて、初めてかな文字は新しい目で見られ使はれ出したのであります。嚴密に言へば、新しい目にも何も、人の意識に照らされて「見られた」といふのが、おそらくこの時をもつて初めとするやうであります。では、なぜそれまでは「見られなかつた」のか。かな文字が表音文字であるからです。それがなまなか表音文字であるために、音を寫すといふ文字の即物的能力にのみ、人の意識が向けられてゐて、語を志向するといふ觀念的可能性が見えなかつたのであります。が、それはあくまで見えなかつたといふだけのことで、無かつたのではない、最初からあつたものです。たとへ表音文字であるかな文字といへども、文字である以上、それはあつたのです。

平成二十一年三月二十八日
福田恆存『私の國語教室』「第二章 歴史的かなづかひの原理」

さて「現代かなづかい」の表音主義不徹底は、すべて語を志向する文字の本性の然らしめるところで、人民大衆の消化能力を慮る親心から出たものでないことも、やがては完全に表音化しうるやうなものではないことも、もはや疑ふ餘地のないところです。しかし、最後に「現代かなづかい」論者から次のやうな反問が出ることと思ひます。すなはち、時に語を破壞しまいとして、表音主義、音韻準據の精神に徹底を缺く恨みがあるとしても、どうしてそれがいけないのかといふことです。歴史的かなづかひにおいても、それは同樣ではないか。文字は語に隨ふべしと稱しながら、臨機應變に音の表記も心がける、それが融通無礙と言ひうるものなら、反對に文字は音を表すべしとしながら、臨機應變に語にも隨はうと努めるのも、また同じく融通無礙と言へるではないか。が、それは言ひのがれといふものです。

それだけのことなら、原則を右から左へ變へて、いたづらに混亂を惹き起す必要がどこにありませうか。原則はもとのままで、徐々に改革してゆけばよかつたはずです。だが、「現代かなづかい」の精神には、それが出來ぬ何かがあるのです。よく考へてみてください。歴史的かなづかひが、時には音に隨ひ、時には音に背くといふのと、「現代かなづかい」が、時には語に隨ひ、時には語に背くといふのと、それぞれの原則との關係において、兩者の間には根本的な相違があるのです。文字がそもそも語に仕へるものだからといふ本質論は、このさい控へることにしませう。それぞれの原則を公平に認めることにして考へてみなければなりません。

まづ第一に、かな文字は表音文字であります。それは歴史的かなづかひにおけると、「現代かなづかい」におけると、なんの違ひもありません。第二に、歴史的かなづかひはこの表音文字といふ現實をそのまま受入れて、その現實とは別次元に表意といふ觀念をたて、それをめざしてゐるものであります。つまり、最初から現實と觀念の二元論の上に立つてゐるのです。一方、「現代かなづかい」は表音文字であることを理由に表意性を認めない。すなはち、表音性といふ現實以外に別の原理を認めず、現實から歸納しえた原則をもつて現實を處理しようとしてゐる、いはば一元論に立つものなのであります。二元論が二元に相渉るのは妥協ではなく、それが初めからの約束ですが、一元論が二元に相渉るのは妥協であり、矛盾であります。のみならず、このディレムマの致命傷は一元論そのものの崩壞になり、その原則自身の無力を裏切り示すことになるのです。

平成二十一年三月二十八日
正假名遣ひを使ふ藝當 - ziomの日記
平成二十一年三月二十八日
ネット上の人権侵害、2008年は過去最多の515件
スマイリーキクチのブログに悪質な書き込み、男女6人を書類送検
スマイリーキクチさん「なにかあったら警察へ」ブロガーにエール
平成二十一年三月二十八日
「Spybot」の使用で、IE8の起動速度が低下する問題
平成二十一年三月二十八日
deadspaceの人は、高みから人を見下して、何を偉さうな事を言つてゐるのだらう。

黙らなくて結構、ただ一人が信用しないというだけ

私、私、私。なんでそんなにが大事なんだ。私なる存在がそんなに大事なのか。さうだらう。
それにしても、「私一人」の事なら、なんで公開の場で、おほつぴらに言ふのだらう。默つてゐればいいのに。
喜六郎もさうだが、このmayokaraと云ふ人も、を論評するのが面白くて面白くて仕方がないらしい。そして、自分には人を評論する資格があると本氣で信じてゐるらしい。人を人とも思はない態度でを論評してゐる。人以外の事を論評するなら人を人とも思はないやうな態度でも何でもいいんだよ。それを非難される謂れは無い。しかし、人を論評するなら、mayokara氏のやうな、人を人とも思はないやうな傲慢な態度をとるのは許されない。當り前だ。それが解らない。なぜ解らないのかと言へば、自分が一番偉いと思つてゐるからだ。
三宅氏も、mayokara氏のやうな態度を非難するのなら、「思考の垂れ流し」だからと言つて非難するのではないよ――これは、自分が一番偉いと思つて、一方的に他人を斷罪してゐるから許されないんだ。
自分が一番偉いと思ふのがこの世で一番惡い事だ。或は、自分が一番偉いと思ふのは狂人だ。ニーチェは氣が狂つてから自分がこの世で一番偉いと云ふ異常な手紙を書いた。
前からをかしいをかしいと思つてゐたが、やつぱりmayokara氏もをかしな人だつた。良く解つた。
平成二十一年三月二十八日
しかし、こんなことをべらべらと喋り出すあたり、同じ穴の狢。とか、惡意に滿ちてゐる。何なんだらう。俺が恰も惡い事を言つてゐるかのやうに言つてゐる。俺が何んな惡い事を言つたと言ふんだ。何處を何う讀んでも惡い事を言つてゐないのに、言つたと極附けてゐる。
斯う云ふ、相手が反論出來ないやうな極附けで攻撃されたら、怒るしかないだらう。mayokara氏にはそれが解らない。「事實を指摘した」と言ふのだ。事實を指摘する事は、證據を示す事ではない。mayokara氏にはそれが解らない。mayokara氏だけではない。喜六郎もさうだし、アレクセイ田中幸一もさうだ。三宅氏もさうだ。事實を指摘するだけで決定的な結論を出していいと勘違ひしてゐるのだ。「××と言つた」と言ふだけでその人間を罵倒していい決定的な根據になると、連中は信じてゐる。さう云ふ連中だからこそ、俺の言ふ事を非難する。兔に角それつぽい事を言つてゐさへすれば、最う幾らでも相手を非難していいと言ふのだ。大體この手の連中に共通して言へるのは、自分には他人を道徳的に斷罪する資格があると渠等が信じてゐる、と云ふ事だ。なぜかこの手の連中は、自分の態度の惡さを棚に上げて、他人を道徳的に斷罪するのだ。それが許されないと云ふ事が、何うしても解らない。自分はこの世で一番偉いと信じてゐる人間に、あなたに他人を何の根據も無しに斷罪する資格がありますか、と尋ねても、解らないのは當り前――自分は一番偉い人間だ、他人を斷罪するのはそれが根據だ、と彼らは當り前のやうに思つてゐる。
價値觀と云ふ事に鈍感な人間は、餘りにも簡單に自分の事を信じられる。私、私、私。「私が××と思つたと言つただけ」――その思つた事を世間に公表するのは、他人も「私」と同じやうに思ふやうに仕向けたいからだ。
平成二十一年三月二十八日
「喜六郎の小屋」「喜六郎アーカイブス」、そして今度は「喜六郎ちゃんねる」。そんなに「喜六郎」と云ふ名前を賣りたいのか。さうだらう。自己顯示欲の塊。私、私、私。
ところがそんな喜六郎が俺の事を自己顯示欲の塊だと言つて罵つてゐたのだ。
平成二十一年三月二十八日
と言ふか、他人を「同じ穴の狢」と極附けて罵る人間に限つて、自分が「同じ穴の狢」であつても、まるで氣にしない。自分が氣にしない事なのに、他人を責める文句には使ふ。なんて自己中心的で身勝手なのだらう。
或は、「同じ穴の狢」である事を氣にしない鈍感な人間に比べれば、さう言はれて頭に來る纖細な人間の方が遙かに増しだらう。
鈍感な人間が纖細な人間を馬鹿にして威張る。昔から人間と云ふのはさうだ。本當に人間とは嫌なものだと思ふ。
平成二十一年三月二十八日
自分には許せる事を以て他人を罵る事は、絶對に許されない。
ちなみに、俺は「同じ穴の狢」ではない。何でも「同じ穴の狢」と云ふ事にして、簡單に俺を貶めようとするな。
「同じ穴の狢」と云ふ事にしてしまへば一番簡單に相手をやつつけられる。「同じ穴の狢」と極附けて他人を罵るのは一番氣樂に他人を嘲る人間のやり方だ――が、要は極附けと云ふやり方が卑怯なのであつて、それを卑怯だと思はない爲に、價値の極附けではなく事實の認識であるやうに振舞ふ惡智慧を多くの人が無意識に身に附けてゐる。要は、無意識であるのが惡い訣だが、價値と云ふ事・價値觀と云ふ事に關して、餘りにも多くの人が鈍感でゐようとする――鈍感である方が有利であると判斷してゐるからだ。政治的なんだよ。
平成二十一年三月二十八日
既に存在する規範や徳目を適用して、他人を斷罪する――こんなに簡單な事はない。教育現場ではそれが許される。生徒は理不盡に一方的に先生に採點される。それは當り前だ。資格のある先生による一方的な採點だからだ。しかし、公開の場で、對等な人間同士では、それをやつては行けない。資格のない人間に據る一方的な斷罪になるからだ。
だから俺は、他人の行爲について、道徳的に非難したりしないやうにしてゐる。
ただ、資格のない人間に據る道徳的な非難に對しては、非難する事が許される。それを人格攻撃とか道徳的な説教とか言つて非難する人がゐるけれども――人が傲慢である事を非難するのは良い事だ、と云ふのは、全ての人が同意する事でないか。全ての人が同意してゐる行爲を俺はやつてゐるのだから、非難される謂れは無い。少くとも、俺の事を傲慢だと非難し、その非難を良い事だと信じてゐる人について、その人こそが實は傲慢であると俺が指摘する事は、許されない事か。「同じ事を言返してゐる」=「同じ穴の狢」だと言ふのは、非難の根據を見ないで結論だけを見る人だからだ。
この手の「同じ穴の狢」式の傍觀者的な論評をする人――日本人――の意識の低さこそが問題だ。福田恆存もこの手の人々には散々困らされたと述べてゐる。
平成二十一年三月二十八日
福田恆存『私の國語教室』「序」

……。私は昭和三十年、三十一年に、金田一京助博士との論爭の形式において、「現代かなづかい」と「当用漢字」の非なることを述べました。そのときに痛感したことですが、その私の所論は當事者、ならびに多くの國語問題研究家をこそ刺戟しましたが、一般はただ喧嘩好きの私が例によつて例のごとく新しい喧嘩相手を見つけたくらゐにしか思つてくれなかつたことです。大抵の人が喧嘩の事實は知つてゐても、私の文章を讀んでくれてはゐないのです。しかも、論爭は「水掛け論」あるいは「泥仕合」の樣相を呈してきたなどといふものまで出て來る始末でした。讀んでゐないから、さういふのであつて、問題は讀んでくれぬことにあり、讀んでくれないのは、關心が無いからであります。……。

喜六郎らは、斯う言ふと、意識の「高い」「低い」と云ふ言葉に注目して、「高みから見下ろして人を馬鹿にしている」などと極附ける(斯う言ふとまた「べらべら」だの何だのと惡口を言はれるんだらうが、何うせm氏もやつぱり讀んでゐないのだ)。福田氏は此處では國語の問題について述べてゐるけれども、國語に限らない、價値觀の問題でも、日本人は餘りに意識が低過ぎる。意識が低くても問題がなければ良いが、問題があるのだから、適當に意識を持つ必要がある。他人を簡單に傲慢だと極附けるnoz_watcher以來の傳統的なアンチの連中もまた、餘りにも價値觀の問題に對する意識が低いから、自分の持つ價値觀の餘りの傲慢さにも氣附く事が出來ないでゐる。そして、アンチと、彼らと對立する俺とを見て、「同じ穴の狢」と論評してすまし込んでゐる連中も、同じやうに意識が低いがゆゑに、高所から見下ろす自分の態度の惡さに氣附かないでゐる。
平成二十一年三月二十八日
引用の要件など - Weblogの「追記」について。

清冽な正義感なので、鉄山さんのような若い人にはアピールするけれど、それは「自殺行為」だ。 60 年代から 70 年代の学生運動を知って居るから分かる。 私は真っ当なマルクス主義者を知って居る。 故人。 以前、彼を今でも尊敬して居ると書いたけれど、極めて道徳的だった。 野嵜さんもそうだ。 思想は異なるけれど、「自殺行為」を敢えてやろうとして居る。 私が若かったなら行動を伴にするかも知れない。 が、今は違う。 そんな彼を死なせてはならない。 だから「敵」でも何でもになって「抑え付ける」。

何とも浪花節的だけれども、やつぱり「おっさん」だよな。
正直言つて、斯う云ふ「身内の敵」が一番厄介だ。或は善意に基く行爲と云ふ奴。極めて道徳的(この場合の「道徳的」は、俺が何時も言つてゐる道徳的と違つて、三宅氏の用語)であり、清冽な正義感に基づいて行動しようとしてゐるのは三宅氏自身だ。これでは反論の餘地がない。一方的に「やる」と言はれて、それが惡意の攻撃でなく善意の攻撃であると云ふだけの事だ。形容句を除けば、やつてゐる事は喜六郎も三宅氏も大して變りはない。
けれども、三宅氏の解釋には相當の誤解がある訣で、俺は自分のやつてゐる事が自殺行為だとは思はない。彼は理想を現実のものとせねばならないと考えて居る。 しかし、その正義を実現するためには、過去から連続する価値観が無ければ無理。 そんなのを待って居られない、今すぐ何らかの行動を起こすべき。 でないと、いづれ近いうちに正かなは滅ぶ──。つて、何とも清冽な正義感だが、三宅さん、あなたは私を買ひ被り過ぎです。
三宅氏は、割と物事を色眼鏡で見る癖が附いてゐて、だからこそ俺を評して言つてゐる言葉でも、妙に形容過剩である訣だけれども、御自身の行爲に就いても妙に美化してしまつてゐるやうに思へるのですが、如何ですか。
福田さんは半世紀以上に亙つて國語改革に反對してきたのだし、それが福田さんにとつて自殺行爲にも何にもならなかつた事を我々は見てゐる。福田さんが倒れたのは病氣の爲。しかし、病弱であつた福田さんがあれだけの年齢まで生きたのだから、自殺行爲があつたと言ふ事は出來ない。その福田さんに倣つて事をやらうとしてゐるのだから、そんな俺に清冽さも何もある訣がない。
粘着アンチ氏にしてみれば俺は惡人でなければならないし、三宅氏にしてみれば俺は清冽な正義漢とやらでなければならない。が、どつちも俺自身とは何の關係もない偶像を作り上げてゐる。その偶像と俺自身とを混同して呉れるから迷惑この上ない事態が生ずる訣だ。
平成二十一年三月二十八日
mayokara氏に見られる間違ひ。理性信仰。餘りにも安易に理性を信じてしまつてゐる。その人の信ずる價値觀によつて理性は變化する。理性もまた主觀的であるが、それをmayokara氏は知らない。次いで、良心について。Yahoo!の辭書から引用して事足れりとしてゐる。例の広辞苑の畫像を見てみんなが勘違ひしたのと同じ勘違ひをしてゐる。何でもウェブで檢索して出て來た情報で全部を判斷するのが正しい態度だとmayokara氏は思ひ込んでしまつてゐる。
事態に對して、理性が正しいと思はれる事を示し、良心はその正しいと思はれる事を「實行せよ」と命ずる。その命令に從ふか、從はないかを自由意志が決める。
平成二十一年三月二十八日
人の數だけある理想なんて理想でも何でもない。
價値相對主義者が常に價値否定論者にならざるを得ない所以。或は、それゆゑに、價値相對主義者は自分が一番偉いと思ひ込む。
人を超越して存在するから理想なんだから――その事を承知してゐれば、理想の數なんて事を言出す事は出來ないし、誰が傲慢だのと安易に言出す事も出來ない。
價値の顛倒とか相對化とかを言ふにしても、ニーチェの到達した高みと陷つた悲慘な事態を忘れて、氣樂に價値相對主義なんて言つてしまふ人が澤山ゐる。價値の否定を繰返す執拗な試みの困難と、否定に否定を繰返した擧句、自分だけを肯定してしまふ傲慢さへの危險とを、意識しないで、「事実を言っている」と安心して相對主義を唱へる人は、價値觀に對して鈍感に過ぎると思ふ。
平成二十一年三月二十八日
mayokaraさんは、「常用漢字」が現實を律する理想だと言ふんだからなあ。頭が惡いのもしやうがない。「常用漢字表」は表であつて理想である訣がない。
もしかして、世間には「常用漢字」の理想なんてものが「ある」と信じてゐる人は澤山ゐるのか。ゐるなら、是非とも、理想としての「常用漢字」が現實の表である「常用漢字表」にどのやうに表れてゐるか、示していただきたいものだ。
何うせmayokara氏も、何も考へないで、適當に人の言つた事を捩つて適當にそれつぽい事を言つてゐるだけだ。國語改革の理念は破綻してゐるし、現實の表記は出たら目なだけだ。そして、執拗にその出たら目な表記が維持されてゐるから、こちらもしかたなく批判し續けてゐるだけなのに、さう云ふ現實全體を見ないで「野嵜はしつこい」みたいな一方的な非難をして、それでゐて自分は傍觀者として「事實を述べてゐる!」みたいな顔をしてしれつとしてゐる。
平成二十一年三月二十八日
「正しい事など存在しない」「價値觀は人それぞれ」と言ふ人に限つて、偉さうに他人の解釋に一々「間違っている」と文句をつける。何でそこで「人それぞれ」と思ふ事が出來ないのに、一般論として價値相對主義を信じてゐるかのやうに言ふ事が出來るのだらう。
價値相對主義者を自稱する人間は、自分の身を守る爲に都合が良いからさう言つてゐるだけだ、と俺は思つてゐる。實際、ほぼ全ての價値相對主義者は、獨善的で、居丈高に他人を罵り、嘲笑してゐる。謙虚な相對主義者と云ふものを俺は一度も見た事がない。それはさうだらう、全ての相對主義者は「自分が一番偉いのである」と信じてゐる人間中心主義者だからこそ相對主義者をやつてゐるのだから。
平成二十一年三月二十八日
三宅氏は俺のやつてゐる事が「自殺行爲」だ、だから潰す、と言つてゐるのだが――では、そんな「正義漢」の俺が潰されて、それで生延びたとして、價値觀も何も失つて、それでその俺は「生きてゐる」事になるのだらうか。
俺を三宅氏の價値觀の犠牲にして呉れるな。
平成二十一年三月二十八日
http://mayokara.info/deadspace/#d20090328
自分が相手と同じことをやっているのに気づいていない?――やつてゐないのに、何でやつてゐる「事にしたい」んだい、きみは。
アンチアンチ狂ったように繰り替すのは。ブログを使い分けて「人」を非難しているのも鏡写し。この人は、やつぱり俺の文章を讀んでゐません。文章を讀んで、内容を理解して、物を言つてゐません。
人格批判は正義の押し付け合いにも劣るんじゃなかったのか。頭が惡い事實を指摘しただけです。根據も擧げてゐます。
黙らせられることには敏感なくせに、黙らせることは何とも思わない。人を惡人と極附けて默らせられるのには敏感だが、間違つた事を言つてゐる人間の間違ひを指摘して默らせる事は何とも思はない。當り前だ。
真理なんて人間が判断し得るものじゃないんだよ。ならあんたはなんで自分が眞理を知つてゐるかのやうな顔をして、俺のやつてゐる事を間違ひだと斷定するんだ。なんでmayokara氏は、解るんだ。解らないなら默れ。解るなら眞理なんて云々の發言は全部無意味だ。無意味な事を言ふな。默れ。どつちみち默らなければならない。俺が默らせるんぢやない。m氏自身の價値觀がm氏を默らせるんだ。俺の所爲にするな。
あと、「常用漢字が理想である」なんて言っちゃいない。そう考えた人がいるというだけ。良心だって、どう記述されているかを引いただけで、盲信しているわけじゃない。ただのメモ。さうやつて、傍觀者を氣取る事が一番卑怯だ。公開の場に書くのなら、「それを讀んだ人間が何う思ふか」まで意識しなければならない。當り前だ。ちなみに「何う思ふか」とは、感情の話ではない。飽くまで論理の話だ。
関わるだけ無駄だね。言うんじゃなかった。もう何も言わないから、何も言わないで。思ったことは書き続けるけど、あなたに対してだけは黙っていることにする。私とあなたの關係か。公開の場で茶番もいいところだ。
押し売りが来るんだったら、コメント欄もいらないな。作ろうと思ってたけどやめた。俺が押賣りか。押賣りしてゐるのはmayokara氏だらうに。自覺がないんだよ。mayokara氏は、自分が相手と同じことをやっているのに気づいていない?と書いた。書きつぱなしだ。根據も何も示さないで気づいていない?ときた。此れの何處が押賣りぢやないと言ふんだ。
mayokara氏も、現象の表面だけを見て、物事の本質を見ない人です。斯う云ふ人につける藥は無い。そして、こんな人がゐるからこそ、世の中から惡が無くならない。惡い人がゐる事よりも、それを見過ごして平氣な顏をしてゐる人がゐる事に、世の中が良くならない最大の原因がある。
しかし、意地でも「同じ穴の狢」と云ふ事にしたいんだね。さうしなければならない理由があるんだらうか。結局感情論なんだらう。m氏は感情的に氣に入らないからこそ、俺を道徳的に責め立てるだけで(自分が相手と同じことをやっているのに気づいていない?と云ふのは、道徳的に責め立てる行爲だ)、俺に反論しない。斯う云ふ一方的に他人を道徳的に斷罪する行爲を俺は問題にしてゐるのだし、アンチの連中がそれをやつてゐると言つて俺は非難してゐるのだが、mayokara氏にはただ「何か言つてゐる」と云ふ點で「同じ穴の狢」に見えてしまふ。
だがね、mayo氏、そんなに「同じ穴の狢」が嫌ひなら、あなた自身、私を攻撃して、私と「同じ穴の狢」になつてゐるのではないかね。それが嫌だから、関わるだけ無駄だね。言うんじゃなかった。云々と言つてゐるんでないかね。さう、あなたから縁を切らうとしてゐるんだよ。それはあなたが一方的に言散らし、一方的に關係を決めようとしてゐる事だ。それは即ち、あなたが一方的に私に攻撃を仕掛け、一方的に撤退を表明した、とさう云ふ事だ。それはあなたこそが「押し売り」をやつた、と云ふ事實を意味する。さうした事實から目を逸らし、自己を防衛する爲に、あなたは私と縁を切らうとしてゐるに過ぎない。
しかし、ブログを使い分けて「人」を非難しているのも鏡写し。つて何なんだらうな。俺の使い分けの原理が、なぜかm氏には解つてしまふらしい。何う云ふ使い分けなんだらうな。説明して呉れれば反論出來るのだが、m氏は説明しない。反論させない爲ではないんだらうが、さう云ふ所まで氣を配つて文章を書いて呉れないのは何うかと思ふ。
人から反論を受けないで一方的に書散らしてゐれば、氣分はいいだらうよ。その爲に價値相對主義の立場をとつて見せたり、如何なる人間も反論が出來ないレッテル貼りをして攻撃したり――さう云ふ態度を取る人が、餘りにも多いのだが、それは絶對に許されない。
しかし、真理なんて人間が判断し得るものじゃないんだよ。それを平然と「真理に近い」と口にする。と云ふのは、「正字・正かな」と言つてゐる人間が恰も間違つてゐるかのやうな言ひ方だが、正字正かな派はドグマを信じてゐる訣ではないから、間違ひがあつたら直ぐに訂正するし、訂正されてより正しくなつたより眞理に近いものを當座採用する。と言つた俺の發言を誤解してゐるんだらうな。俺はより眞理に近いものと言つてゐるが、「それが眞理に近いと解る」とは言つてゐない。「より眞理に近いであらうもの」と言へばより正確だつたのだらうが、それは適當に解釋すべきだらう。m氏は惡意で解釋してゐる。その惡意で解釋するアンチ方式の解釋は何なのか、と俺は聞きたい訣だが、m氏は耳を塞いでしまつたから、自分の嫌がらせ行爲を正當化する言ひ訣もしやしないだらう。俺は「當座」と言つてゐるのだし――大體、眞理が解つてゐるのなら、「眞理に近い」ものを「當座」であれ採用する意味は無い。眞理に近附いて行かうと云ふ意志が大事なんだよ。m氏のやうな、眞理なんて何うでも良い、と言つて他人を默らせる事だけが目的で物を言つてゐる自己中心的な人間には、人の意志なんてものは、解りたくもないんだらうが。
全く、人を怒らせる事だけを目的に書いてゐる人間には本當に腹が立つ。眞理を信じてゐないm氏が、他人を批判しても、それは世の中をより良くする目的である訣がなく、ただm氏自身の「頭のよさ」をアピールすると云ふだけの目的があるとしか解釋できない。批判と鍵論とかがあり得るとしたら、それは眞理への志向、正義への志向を認める事が前提條件として必要なんだよ。もちろん、自分の偉さを示したくてウェブで物を言つてゐるm氏・反論されたくなくて人との關りを持ちたくないm氏には、批判・議論は煩いだけのものである訣だが――しかしそれは、現在日本人が受容れてゐる自由主義・民主主義をも拒絶するものであり、現在の日本の體制、のみならず、世界の各國が進んで行かうとしてゐる體制そのものを否定し、ひたすら退歩する事を主張する、後ろ向きの姿勢であると言ふ事が出來る。即ち、俺なんかよりもずつとm氏の方が反社會的だ、と云ふ事。それは喜六郎も同じ――そして、喜六郎の仲間だからこそ、m氏は喜六郎を擁護したいし、アンチと云ふ俺の非難の言葉を罵りたい訣だ。全部繋がつてゐるんだよ。
感情だけで動いてゐるんだ。そして人には感情があるとm氏は俺を罵るんだ。ところがそんなm氏自身は、感情だけで罵る事を人が決して好ましいと思はない現實を無視してゐる。人は感情だけで動くものではない。理性でも動くし、價値觀に基いても動く。さうした事實を全て受容れるならば、他人が何んな言ひ方をしようが、議論のルールを守つてゐる限り、議論は成立つし、成立たせなければならない。m氏の場合、さうした最低限の儀論のルールを守らないで、瑣末な問題に許り注目してゐる。だから勘違ひするんだよ。
平成二十一年三月二十八日
「何が一番大事か」を、多くの人が考へない。ただ、目につくところのものだけに著目して、それで簡單に話を濟ませようとする。
議論に於て「ものの言ひ方」を喧しく言ふ。喧しく言ふべきは、ちやんと根據を示して、結論を言ふ事だらう。反論出來るやうな主張をする事だらう。反論の可能性がある言ひ方をするのは、議論の最低のルールだ。それをm氏は守らない。
正かな派でも、問題の周邊に屬する字音假名遣の事を頻りに問題にして、假名遣の核になる部分から目を逸らしてゐる人が非常に多い。
なんで、何が一番大事か、を考へようともしないのだらう。考へる事は必要な事だ――ウェブのやうな公開の場で議論する際には絶對に必要な事だ。ウェブと云ふ場で發言すると云ふのは、公開の場での議論に參加すると云ふ事だ。それがなぜか、ウェブを良く知つてゐる筈の人ですら、解らない。
平成二十一年三月二十八日
m氏がコメント欄もいらないな……作ろうかと思ってたけどやめた。と言つてゐる。コメント欄の有る無しが、反論を受ける・受けないと關係があると勘違ひしてゐる。コメント欄が無くたつて、自分のサイトの外の掲示板や、或は「ブログ」で、自分を批判する意見は幾らでも出て來る。コメント欄が何うの斯うの等と言つても、何の意味もない。今言つてゐるのは、m氏が俺に當てつけを言つてゐるのだ。斯う云ふ根性の人間である、とm氏は自分で言つてゐるのだが、それでも「惡いのは野嵜」と、アンチの連中と同じやうに、逆恨みし續けるのだらう。

平成二十一年三月二十七日
引用の要件など - Weblog

私が怒って居るのは、問い合はせた事実を無視して「松原さんの許可を取って居るのか」と言って来た事。

俺は松原先生ではないから。
三宅氏の意圖だの何だのは知らない。結果として三宅氏のサイトのコンテンツとなつてゐるのだし、轉載になつてゐるのだし――判り易く実物を見て貰うために公開したものだと言つてゐるが、不完全な記事 - Weblogで三宅氏が自説の傍證として持出してゐるのが何より三宅氏の今の言ひ訣が言ひ訣でしかない事實を示してゐる――ならば、轉載するなと言ふしかない。
プログラムの動作確認の爲なら松原先生の文章を選ばなければならない必然性はない。檢索エンジン除けをしたからと言つて「公開してゐない」事にはならない。問合せに對して明確に應へるならば拒否以外に選擇肢は無いが、三宅氏には恩義があるから默つてゐたに過ぎない。三宅氏は、何か自分がとても良い事をしてゐるかのやうに思ひ込んで、それに俺が應じるのは當り前だと信じ込んでゐたらしい。ところが俺は三宅氏の望んだやうに動かなかつた。然るに三宅氏は調子に乘つてはしやいでゐた。其處に俺が冷水を浴びせるやうな事を言つたものだから――或は、俺が煽るやうな事を言つたから――腹を立て、逆恨みして、俺を罵つてゐる。けれども、三宅氏の言動は、餘りにも自己中心的で御都合主義的だ。傲慢と言つていい。

それにしても、サーバに上げた時点で即無断転載決定!、という意見。 それは法律の解釈であって、私が何をしようとして居たかを全く考慮して居ない。 プレーンテキストのままでは、ほとんど読まれない。 何とかしようとプログラムを書き、判り易いように動く状態でサーバに上げ、問い合はせ中に検索エンジンに拾われないようにもして居る。 これで鉄山さんのような罵声を浴びせられるのなら、正義も糞もあるものか。 正かなアパッチ軍は狂信者の集まり。

正直、三宅氏が此處まで自分に都合良く自分の行爲を解釋して見せるとは思はなかつた。法律の解釈ならば條文でも何でも示せば良いが、そんな話を俺はしてゐないし、何うもそのやうに解釋してゐる三宅氏自身がさう云ふ解釋をしたがつてゐるだけのやうにしか思へない。また、三宅氏が何をしようとして居たか考慮しなければならないのなら、俺がどう云ふ考へでゐたかもまた考慮されなければならないが、それを三宅氏は惡意で極附けてゐる。
それに、三宅氏が極めて許し難いのは、前囘は「理想と現實」と云ふ言葉を自分に都合良く利用し、今囘は「正義」と云ふ言葉を自分に都合良く利用しようとしてゐる事だ。正義と言ひたければ、自分の行爲を律するのに先づその正義が用ゐられてゐなければならない。
平成二十一年三月二十七日
「現代仮名遣」を容認し、正假名遣を排斥する人々は、その排斥の爲に自分が信じてもゐない――自分は從つてゐもしない――正義を持出して、自分に都合良く利用する。一方的に正義を押附けてゐるのは、正かな派ではない、寧ろアンチ正かな派の側だ。アンチの許し難いのは、さうした御都合主義を御都合主義と意識せず、居丈高に正義を押附けるところにある。

野嵜さんは「如何にも自分は正かなを支持してゐますよー、といつた顔をしてのほほんとしてゐるのが、俺には許せない」と書いて居る。 これも「事実の指摘」と言って居るけれども、以前、或るブログで私が「見逃して呉れ」と書いたのを読んで居る筈。 そこに野嵜さんも書いて居たからだ。 私は道徳に就いて述べて居た。 已むを得ず現実に妥協する事は、道徳に反しない。 何故か。 詳細は省略するけれども、「神に不服従」も道徳の内であるという事。 だから宗教の話になる。

三宅氏が見逃して呉れと書いたのが何んな文脈でなのか、そもそも何處での事なのか、俺は記憶が無い。基本的に俺は正かなを排斥せず、正しいと認める立場の人が、當座何う云ふ書き方をしてゐても、因縁を附けて罵つたり嘲つたりする事はしてゐない。三宅氏の事も從來、罵つた事は無い。
ただ、今囘、三宅氏は、問題の本質は共有される価値観(宗教など歴史的経緯に基づく価値観)の断絶である、と指摘したのですが、これが分かって貰えない。と書いてゐる。問題は價値觀の問題だ。そこで三宅氏がふぬけた事をぬかしてゐるから咎めた。それだけの事だ。
轉載程度の事ならば見て見ぬふりする藝當ぐらゐ演じて見せるが、今は價値觀の問題が問題なのだから、「見逃して呉れ」なんて言はれても見逃す事は出來ない。

ということで、貴様は通称 略字旧かなが正しいと言っておきながら、実際には「不思議字不思議かな」で書いて居るではないか。 言行不一致である。 とかなんとかの突っ込みは不可。 いや、突っ込み自体は拒否しませんが、その突っ込みは論理的に破綻します。 理想と現実は区別されなければなりません。

この發言が、(←笑うところ)(誰に?)(をい)と書かれてゐる文章の中に出現してゐる。成る程、眞面目な話だからこそ笑ひは必要である――が、斯うした笑ひは、單に不眞面目なだけだ。
そして、この「感情」に何か問題ありますか。最うね、主観的な部分を分かるように説明して呉れと言われても困る。 というか、「私の知りたい事」なんて言われても知らないですよ。、と三宅氏は言つてゐる。感情である――さう云つた三宅氏が「論理的に破綻する」と言ふ。目茶苦茶だ。
法律、勧告、その他の公文書に○○と書いてあるから「正しい」。 こういうのを権威主義、または、教条主義──総じて政治主義と言います。 それに陥ると、かなづかいの本質は何か、を考えないようになる。 そういう「楽な生き方」こそ、批判されて然るべき。 と、書くと、法律、勧告などを解釈するのも大変なんだぜ、とか。 もう知らん。(をい)――俺が三宅氏の、人の好さを知りながら、何うしても三宅氏を許せないのは、「樂な生き方をするな」と云ふ眞面目な要求を、實に氣樂な調子で言ふ事だ。春場所 - Weblogと云ふ文章の中で、三宅氏は眞面目に語るべき事を非常に不眞面目に語つてゐる――さう云ふ文章の流れの中で、理想と現実は区別されなければなりません。と三宅氏は言つてゐる。三宅氏はふざけてゐると俺は思つたが、この書き方だと普通はさう受取るものだらう。
三宅氏のやうな「上機嫌な書き方」をするのは良くない。俺はさう思つてゐる。三宅氏の文章は、何う見ても、理想が實現されなくて不滿に思つてゐる人間の文章ではない。さう云ふ文章の中で三宅氏が理想と現実は区別されなければなりません。と言放つてゐる――これが遁辭以外の何であり得よう。だから俺は三宅氏の言葉は嘘だと言つた。
平成二十一年三月二十七日
BLOGという名の日記 : 馬鹿に薬は効かぬ
最近は論理論理と言ふのも疲れたので鉄山さんには感謝したい。
理窟を言ふなら、三宅氏の發言には幾らでも突込みどころがある。

HTML に限り、マーク付けなんて「おまけ」です。

プレーンテキストのままでは、ほとんど読まれない。

もちろん、この程度の揚げ足取りなら喜六郎が得意なところだが、今囘も喜六郎はにやにや眺めて「アホッチ群がまた内ゲバ」とか「客觀的」な批評を書くだけだらう。三宅氏と俺とを見比べて、喜六郎は俺に不利になるだけのやうに物を言ふに決つてゐる。喜六郎の「客觀的」とはその程度のものである。
平成二十一年三月二十七日
ちなみに松原先生の著書の電子テキストはfukuzatsunariさんから頂戴したもの。
平成二十一年三月二十七日
そもそも制服自体要らない気がしてならないが - 枝葉末説@ことのはぐるま
スカートつて意外と寒くないんだつて。ちやんとした恰好をしてゐないと寒いさうです。
個人的には昨今のブレザーだか何だかの増殖に違和感を覺える。女子高生はセーラー服に決つてゐる。
――實際、最近女子生徒に人氣の制服は、「おしゃれ」と言はれてゐるけれども、まるで美しくない。セーラー服の方が遙かに美しい。機能美があるからだ。制服にしても何にしても、最近は美的な觀點から定める、と云つた事が全くない。
女の子が「おしゃれ」と評價する制服を用ゐて生徒を集めようとする學校が最近は非常に多いけれども、教育的に何うなのだらう。教育者が生徒に媚びるのは、教育としてよろしくないやうに思はれるのだが。
平成二十一年三月二十七日
ローマ字入力という喜劇 - カナかな団首領の自転車置き場
キーボードといふ喜劇 - 大和但馬屋日記
効率信仰といふ喜劇 - 大和但馬屋日記
2009-03-27 - 大和但馬屋日記
なんかキーボードの話になつてる。
JISキーボードという喜劇 - コデラノブログ 3

なんでこうも日本仕様にこだわるのか不思議なのだが、学校の先生から興味深い話を聞いた。今小学校では、文科省の学習指導要領に基づいて、パソコンを取り入れた授業が展開されている。だいたい中学年から、早いところでは低学年から、キーボードを使っての入力を授業の一環として行なうことになる。

ところが、「ローマ字」を学習するのは小学校高学年なので、子供たちには日本語キーボードを使ったかな入力を教えざるを得ないんだそうである。そんなわけで、キーボードをJISにしないと学校案件が通らないので、日本で売られるPCはJISキーボードにしてしまうらしい。

本當か嘘かは知らんけど。
かなでも漢字でも、小學校で教へるのは遲過ぎだと云ふ話がある。今となつては明かにさうだらう。ローマ字もまた。なんで日本では何でも子供に「教へない」のを「とても良い事だ」とみんな思つてゐるんだらう。「ゆとり教育」以前から、なぜか文部省は學校で「教へていい上限」を決めるのが好きだつた。一般の國民もなぜかさう云ふをかしな教育方針ををかしいと思はないで來た。
日本人は、自分が優れてゐない教育を受けて來たから、子々孫々、ろくでもない教育を受ければいいんだとか思つてゐないだらうか。
しかし、「教へていい範圍」なんかで官僚的に「整合性」をとるのには反對しない割に、日本人はきちんとした教育の方針がない現状を何とも思つてゐないんだよな。何なんだらう。
日本人は子供に何を學ばせたいのか――日本人は何んな日本人であるべきか、と云ふ事を日本人は考へてゐない。だから、自分の子供、或は子孫に、具體的にどのやうな思想を持ち、どのやうな價値觀の下で生きてほしいかを、言ふ事が出來ない。ただ「頭の良い子ども」になつて「幸せに暮してほしい」と、抽象的かつ實利的な要求を出すに留まる。そして、教育の仕方については、子供達にどれだけ有益であるか、ではなく、どれだけ御上品か、を重視する。大人は皆、子供の事を考へてゐる振りをしながら、自分の氣に入るやうに御上品に子供を育てたがる。
平成二十一年三月二十七日
正字正かな使ひに共通する傾向 - 科學の剃髮
價値觀の多樣化が言はれる昨今、なぜか表記に關しては異樣なまでに劃一化が進んでゐるやうに思ふ。
平成二十一年三月二十七日
今日の処方 - 黎明日記
何う見ても薬多過ぎ。醫者が適當に薬を増やしてゐるとしか思へない。患者も藥マニアに成長して、増えると安心して喜ぶ。それでゐて症状がさつぱり良くならないのでは本末顛倒だ。
平成二十一年三月二十七日
IMEのせゐで正假名遣ひを使用しない - ziomの日記

ところで、「ゐ」「ゑ」を假名入力する場合、ローマ字變換はそれぞれ「WYI」「WYE」であるが、これはJISで定められた仕樣なので、共用環境に設定しても文句を言はれる筋合ひはない。

Mac OS Xのことえりでも使へた。

平成二十一年三月二十六日
「野嵜健秀」でぐぐる先生の順位が變つたつて? - 朴の木はひとり佇む
.co.jpと.comとで檢索結果が異なってゐるみたい(2009-03-25T23:10:55+09:00現在)。
平成二十一年三月二十六日
曇時々弱雨 / 二度 ― 十二度 - 月の塵
平成二十一年三月二十六日
1998年2月のアレ
平成二十一年三月二十六日
SIKIBU秘話(序)〜
PCソフト紹介 デスクトップ編
平成二十一年三月二十六日
品詞一覧:Maniac-IME
品詞一覧
a nomaly's Diary W-ZERO3 IME 品詞一覧
平成二十一年三月二十六日
Microsoft Global IME 5.02
Using Japanese English Windows
試してゐないが品詞に「は行四段」が存在する模樣。
平成二十一年三月二十六日
MS-IME97徹底研究
平成二十一年三月二十六日
MSIME.H Ver 1.4
Download details: 2007 Office Sample: MSIME.h Header File
http://download.microsoft.com/download/6/0/9/60908e9e-d2c1-47db-98f6-216af76a235f/msime.h
平成二十一年三月二十六日
響きblog - 伝統的仮名使のすすめ
傳統的假名使のすすめの無斷轉載らしい。
平成二十一年三月二十六日
XP.etc.半魚文庫
平成二十一年三月二十六日
dixchange: 日本語リソースの標準化: 概要 - SourceForge.JP
平成二十一年三月二十六日
機械可読テキストの処理(レジュメ)
平成二十一年三月二十六日
「お前の正義を押附けるな」と言つて良いのは、「自分にも正しいと信ずる正義があるので、反論も許さず一方的に御前の正義を押附けるのはやめて呉れ」と言ふ言ひ分があるから。
「正義というものを信じていないから、正義と言って押附けるのは迷惑だ」と云ふ主張はあり得ない。正義なるものをそもそも信じてゐないのなら、自分が守らなければならない正義は存在しないのだから、他人が押附けて來る正義を受容れる事は自然な事だ。
自分に守るべき正義があるからこそ、他人から一方的に正義を押附けられたくないと思ふものだ。
一方、正義を信ずると言ふのならば、その正義の正當性の根據を主張しなければならない。根據を提示しなければ、反論できないからだ。
正義の觀念そのものを信じないと言ふのは、相手の反論を封じ込め、一方的に自分の好き勝手な信念を押附けるのが目的。
平成二十一年三月二十六日
正字正かなの主張は、「政治的だ」と云ふ非難を受けてゐるにもかかはらず、實は從來、餘りにも政治的でなかつた。

平成二十一年三月二十五日
何もないところに波風を立てようとすれば氣持惡がられるのが當り前だ。さう云ふ事は百も承知の筈だつたのに――ここ數年、俺も牙を拔かれて、變に「良い子」にならうとしてしまつたのだ。それが間違だ。
喜六郎の小屋 - 正かなアホッチ群の悲劇
醜態だの何だのと惡口を言つてゐるけれども、要は喜六郎は意識が低いから・關心がないから、「變な事をしてゐる」人間を「變だ」「變だ」と言つてゐるだけに過ぎない。
實際、物事には關心を持たないのが健康で、福田恆存もさう言つてゐるけれども、さう云ふ「健康さ」ゆゑに病毒に對する免疫も出來ず、日本人は非道い事態に陷つてゐる訣で、だからこそ敢て我々は病氣にかかつて見る事が必要なのだ。
福田恆存・正かなアホッチ批判・構造改革批判などについて論じるブログ等と言つてゐるから、アパッチ正かなの諸氏には積極的に喜六郎に反論していただきたい。實際、みんな大人し過ぎるよ。どうせ三年もすればみんなゐなくなるんだらうから、大暴れでもしておけばいい。
ついでに希望を述べれば、「野嵜健秀」でぐぐるとトップにでてくるアレクセイの怪文書、あれにも批判を浴びせて貰ひたい。反論に大した論理は要らない。「野嵜を怒らせるやうな事を散々言つておいて」と責め立てればいい。實際、さうなんだから。俺を攻撃する連中は皆、俺を怒らせるやうな事を言ふ――その期待に應へて俺は怒つてゐるだけだ。それを良いやうに利用して、「アンチ野嵜」の連中は「野嵜が怒つた」と嘲る材料にしてゐる。その事實をこそ、指摘すべきだ。
「アンチ」を相手にするには、「アンチ」の言葉の表面的な論理を追ひかけて、その爲に惑はされるやうな事になつてはならない。寧ろ、「アンチ」がするやうに、「アンチ」の心理を分析すべきだ。「アンチ」がこちらの「人となり」を問題にするのだから、彼ら「アンチ」の人となりが如何に胡散臭いか、如何に氣持ち惡いかを、執拗に述べ立てて、一方的にやり込めるのが、反論の仕方として正しい。
――それは何も生み出さない、無益な言爭ひだ。が、それを「アンチ」は大袈裟にやる事で騒ぎに仕立て上げようとする。ならばこちらこそ話を大事にしてやり返すべきなのだ。アパッチと言ひながら、正かな關係者は、いい子にならうとし、大人しくしてゐようとする傾向が強い。俺が一人で敵を引受けて、なんて評をして呉れたけれども、實際、徒黨を組んだところで、正かな陣營は壓倒的に人數が少い。どうせやつても多勢に無勢で、ろくな事にはなり得ない。正かな派はその存在自體が悲劇的だ。喜六郎の言ふ通りだ。だからこそ、派手に暴れて注目を引くのが正しい戰術となる。そもそも、國字問題が生じ、「現代仮名遣」が「定着」した最大の原因は、人々の無關心にある。福田恆存が『私の國語教室』で指摘した事だ。人々は、無關心であらうとするがゆゑに、「現代仮名遣」を默つて受容れ、正かなから目を逸らさうとする。嫌はれるやうな事でも何でも、關心を引き、世人の注目を集める事こそが、問題解決への第一歩となるのだ。
「敵を作ろうとするな」「なぜ嫌われようとするのですか」――そのやうな「忠告」こそ、正かな派の牙を拔き、無關心派を増やす爲の、「アンチ」の甘言だ。聞入れてはならない。批判を行ふ事。論爭を挑む事。議論を沸騰させる事。これこそが正かな派の採らざるを得ない道だ。良かれ惡しかれ目立たなければ正かな派の存在は認知すらもされない。俺は、ろくでもない事を言つてゐる連中の掲示板で論爭を挑んでは「掲示板荒し」扱ひされて追出される、と云ふパフォーマンスを、慥か三、四年はやつた筈だ。その結果として惡名だけが殘る事になつたが、そこで「惡名を蒙るのは嫌なもの」と「アンチ」に思ひ込まされた事が、後の俺の沒落に繋がる。
人々から嫌がられるくらゐ執拗に正論をぶち續ける事。間違ひを言ふ人間をこてんぱんにやつつける事。無關心の人間を煽り立てて嫌でも興味を持たせる事。そして重要なのは、「アンチ」の惡口にめげない事――「アンチ」に媚びて、いい子にならうとしない事。大人しくなつてしまつたらそれだけでこちらの負けだ。そして「アンチ」は、こちらが大人しくなる事を目的に活動してゐる。
平成二十一年三月二十五日
正かな派のサイトは、所詮アンテナ一つに收まるほどの數しかない。喜六郎らが嘲つて見ても、その對象は實に小さな領分の中に納まつてゐるのだ。
逆に言へば、此れほど小さな集團が、現時點で――喜六郎ら異常性癖の人間に、ではあれ――注目を浴びてゐると言ふのは、その集團が、規模の小ささにもかかはらず、巨大な影響力を發揮し得る危險性を孕んでゐる事實を示す。
平成二十一年三月二十五日
ところで「アンチ野嵜」でも「野嵜信者」でもない、ただの野次馬諸君、諸君には良い事を教へて差上げよう。喜六郎の目に入るところで、第三者として、喜六郎を冷靜に批判して見玉へ。面白い事になる筈である。あれほど冷靜な喜六郎が、頭から湯氣を出してかんかんになつて怒る樣を、諸君は見る事が出來るだらう。
そんな諸君が、今度は「野嵜信者」として書込んで見るのだ、さうすると喜六郎は、何を言はれても蛙の面に××、全て聞き流して、偉さうに説教を垂れて來る事だらう。「第三者か、野嵜信者か」で喜六郎の態度はころつと變はる筈である。試して見るといい、こんなに面白い試みもさうさうあつたものではない。
平成二十一年三月二十五日
逆に言ふと、喜六郎は、俺を人間と見てゐない。或は「野嵜信者」を人間と見てゐない。これは、アンチ正かなの人間にも屡々見られる事だ。例のウェブでたばこを吹かしてゐる變人氏も、俺の事を人とも思はぬ風情で、見下して語つてゐた。
が、さう云ふ行動こそ、人格否定と言つていい。彼らは俺を怒らせ、俺に失言させようと仕組む。その結果、俺が怒つて、すぐ人格攻撃をする、と連中は言立てるが、實は連中は俺の人格を認めてをらず、最初に俺の人格を攻撃してゐるのだ。
「何とかと云ふ語を使つた」と云ふ魔女裁判みたいなやり方で、他人を攻撃する人が非常に多いが、さう云ふ語を「言はせた」人物の責任をこそ、追求すべきだ。アレクセイにしても、喜六郎にしても、俺を怒らせて、失言させ、その「言はされた失言」を種に人を強請る事に快感を覺えてゐる。しかし「失言を言はされる」事よりも「失言を言はせる」事の方が、はるかに罪は深い。
――そこに注意して、人は彼らの惡行の眞相を見極め、批判しなければならない。言葉尻を捉へて批判するのは簡單な事だ。言葉の背後に匿された眞意、と言ふより惡意を暴き立て、光を當てなければならない。しかし、實は、人は案外、さうした評價を、無意識のうちに行なつてゐるものだ。喜六郎らが威張つたところで、案外喜六郎の陰濕さ・陰險さを人は憎んでゐるものだ。人はそんなに鈍感ではない。喜六郎の掲示板や「ブログ」には、相當頭のをかしい人間しか近寄らない。この事が喜六郎自身を客觀的に・正しく評價してゐると言ふ事が出來よう。
喜六郎の發言が話題になる事は滅多にない。引用される事は先づ無い。喜六郎は皆から嫌がられてゐるのではない、誰からも注目されてゐないのだ。喜六郎は、注目されるやうな事を言つてゐない。そもそもろくな事を言つてゐないのだ。喜六郎は、頭がいいやうだが、實はその邊に幾らでも代りのゐる、凡庸な人物である。實際、noz_watcherの代りとして喜六郎は出現したのだ。そのうちまた誰かが替るだらう。三年後に喜六郎がまだウェブに「ゐる」だらうか。もつとも「ゐた」としても、今までのやうに野嵜粘着として居續けるのなら、喜六郎は自分がただただ氣持ち惡いだけの存在である事實を自ら實證してしまふだけの事である。
平成二十一年三月二十五日
表記について - 枝葉末説@ことのはぐるま

例へば、現代語に於いて指示代名詞は「こそあど」で構造をなしてゐるので、「かう」「さう」ではなく「こう」「そう」とするのならば特に問題は無いのではないか、といふ話。

俺は飽くまで「斯く→斯う」等の聯關を維持すべきだと考へるから「かう」「さう」と書くべきだと思ふが、斯う云ふ形での問題提起ならば議論の對象たり得ると思ふ。
平成二十一年三月二十五日
元氣だつた・熱心だつた「ブロガー」も簡單に消える。最近はsmallballの山口氏が消えた。まだ消えてゐないのかも知れないが、一箇月更新がないのだから「活動してゐない」のは事實。
ほかにもいろいろ澤山の人が消えてゐる。
名前を變へて戻つて來て、人の足を引張る某青方の中村みたいにならないならいい。
平成二十一年三月二十五日
社会人の6割が「匿名なら会社の出来事をブログで書いてもいい」
平成二十一年三月二十五日
犯罪集団が偽セキュリティソフト販売のためSEOを駆使
惡人の存在を何とかする事こそがウェブを良くする一番の近道だ。が、惡人を潰す爲の制度・仕組すらも、惡人は自分に都合良く利用する。
平成二十一年三月二十五日
Trident+Gecko+WebKit トリプルエンジン搭載・全包囲ブラウザ Lunascape5 - Impress Watch
平成二十一年三月二十五日
人間を論つて人格攻撃をし合ふより、正義の押附け合ひをやつてゐた方が、ずつと増しだよ。
それに、自己主張をする限り、全ての人間が正義の押附けをしてゐる。「正義を押附けるな」と主張しようと思つたら、その人は自分から先づ身を隠さなければならない。
そもそも「正かなの正義」を主張する人に、「正義を押附けるな」と言ふのは、話のすり替へを行なふものだ。正かなの問題を、正義の問題に、すり替へてゐるのだ。それをさらに「論者の問題」にすり替へようとする人までゐるが、論外だ。恥を知れと言ひたくなる。
平成二十一年三月二十五日
転載の許可 - Weblogの「追記」について。
三宅氏が佛教者であり神道者でもあるとか言ふのは知らない。誰を批判してゐるとか云ふのも知らない。俺は最初から言ひ訣に「理想と現實とは違ふ」なんてほざいてゐるのは贋物だ。と言つた。「理想とはある特定の宗教における理想である」と云ふのは三宅氏の解釋だが、そんな事を俺は言つてゐない。ただ單に、一般論として・常識として――或は、プラトンのイデア論的に――俺は、理想と現實とは違ふ、と指摘しただけでしかない。
何でも転載と言って法律問題化したがって居るのは誰だ。と言はれても困る。「轉載と言ふ事は即法律問題化したがつてゐる事である」と云ふのは三宅氏の勝手な解釋だ。俺は一度も法律の話をしてゐない。ただ松原先生から、君が電子テキストを公開するのは許可する、と言はれた事實を言つてゐるだけだ。
常識と言ふなら――「そこ」にあるプレーンテキストを HTML 文書に変換するのが目的なら、變換された文書を公開しないのが常識だ。公開してしまへば轉載の状態になつてしまつてゐる。三宅氏は、轉載する目的ではないから轉載しても轉載にならない、と言つてゐるが、解釋は問題にならない。事實として現在轉載の状態になつてゐる。それだけが問題だ。
ただし、ある程度の「纏まり」は必要だ。 Web では目に見える規制は事実上無い。 故に、自身を抑え付けるもの──信仰を持たなければならない。と云ふ主張は、はつきり言つて訣が解らない。信仰の事を言ひたければ、信仰の話だけをする事だ。今、信仰と、ウェブの記事の話とを、三宅氏は當り前のやうに結び附けてゐるが、兩者の間には論理的に飛躍があつて理解し難い。俺には三宅氏が電波を受信してゐるやうに見える。と言ふより、三宅氏は三宅氏の價値觀に基いて、好きな事を言つてゐるだけで、俺の言はんとしてゐる事をねぢまげて捉へてゐる。人間は不完全な記事しか書けない、と書いた。――人間は不完全な記事しか書けない、という真理に基づいて世間のブロガーを批判して居るのだと私は読んだと三宅氏は言つてゐるけれども、それが三宅氏、あなたの解釋に過ぎない事を、俺は指摘しておく。そんな高尚な話はしてゐないよ。俺はただ、技術の話をしてゐるに過ぎない。
それに、いはゆる思考の垂れ流し方式は、と三宅氏は書いてゐたけれども、これも誤讀――と言ふか、前後直近の文章から。と書いてゐるが、なぜ直近のところだけを見て、三宅氏は俺の發言を解釋しようとしたのだらう。
三宅氏は何時もうちを見てゐる筈の人で、ならば俺の普段言つてゐる事は知つてゐる筈だと思つてゐた。ところが何うやら、三宅氏は三宅氏の好きなやうに俺の言つてゐる事を誤解してゐるのだと知つた。
常連さんでも粘着さんでも、俺が普段、どんな事を言つてゐるかを覺えてゐなくて、その場その場での發言を見て、場當り的に解釋する傾向がある。垂れ流しにしろと俺は言つてゐない。ただ、纏まらないうちにメモを書いておいてもいい、と言つてゐるだけだ。
平成二十一年三月二十五日
――いろいろ前にはうるさく注意書やら何やらを書いてゐたもので、松原先生の文章は松原先生から特に許可を得てゐるので轉載禁止とか、闇黒日記の文章は纏められるものは纏めてサイトの記事にするとか、さう云ふ事は確かに言つてゐた筈なのだけれども、ここ數年の間にうるさ過ぎると思つて全部消してしまつた。それでも何處かに記述が殘つてゐるだらうと思つてゐたのだけれども、俺が探すと見附からない。
Jintrick氏がagenda (Jintrickのメモ帳)agendaを元に体系化した文書は、Jintrick Archivesに纏める予定とする。と書いてゐるのは、俺が「ここ」でやらうとした事を同じやうにやらうとしたのだつた筈。
平成二十一年三月二十五日
BLOGという名の日記 : 雑記#91

MS-IMEははっきり言って正仮名遣いで文章を書くのには使えないから、仕方なく現代仮名遣いを使っているに過ぎない。

「現實に妥協してゐる」のならば、鉄山さんのやうな書き方にならざるを得ない。三宅氏のやうな言ひ方は、無い。その他の、多くの「現状容認論者」の人々の言ひ方も、無い。
平成二十一年三月二十五日
例の「福田恒存をやっつける会会長」なんかが典型だけれども、コンテクストを無視して、人の發言を切取り、惡く解釋して罵る、と云ふ「論法」が、よく用ゐられる。これは許されない事だ。それを「許される」と思ひ込んでゐるのは、まあ、學がないからだし、常識がないからだが――さう指摘すると、「學がない」だの「常識がない」だのと「人を馬鹿にしてゐる=傲慢だ」と、逆恨みするのがその手の人の通弊である。喜六郎が俺を罵倒するのも、結局のところ、さう云ふ逆恨みに基いてゐるに過ぎない。
平成二十一年三月二十五日
何時の間にかアレ氏のアレな文書がトップの座から滑り落ちてゐる。と云ふのを、もりやまさんに教へて貰つた。あんまりぐぐる先生の惡口は言はないでおかう。
http://d.hatena.ne.jp/mhrs/20090325
で、見てゐて思ひ出したのだけれども、「義」事件の時に徳保氏にも隨分いろいろ良くしてもらつてゐて、恩を仇で返すやうな事をその後俺は言つてゐる訣だけれども、すまない事をしてゐると思ふ。俺の意見も態度も變へる積りは無いけれども、徳保氏の事を本氣で嫌つてゐる訣ではないんだ。徳保氏は、思想的な姿勢に贊同も同意も出來ないけれども、性格的にはいい人だと思つてゐる。
平成二十一年三月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/scinfaxi/20090325/1237952764

次の診察で倍にしてもらわないと<メジャー

精神的な症状を見て適切な處置を出來ない醫者が、薬の所爲で症状が惡化したのを「薬が效いてない」のだと勘違ひして、對症療法的にどんどん薬を追加して行く事があるんだとか。
薬が效かないなら、別の醫者に診斷して貰つた方が良いよ。精神科關係の場合、醫者によつて診斷が異るのはよくある事で、正しい薬を出して呉れない場合も結構あるんださうな。適切に薬が處方された場合、少い量で症状が劇的に改善する事もあるんだと。

平成二十一年三月二十四日
福田氏が指摘してゐるけれども、正かなにとつての一番の敵は無關心なんだよ。

「正しい」を振りかざすとかなんとか、大笑い。俺は正字正かななんて興味ないが、正字正かなサイトに正しさを振りかざされたことなんてただの一度もないぞ。

平成二十一年三月二十四日
転載の許可 - Weblog
嘘だね。妥協だなんて、信じられないね。理想を實現しようとしてゐて、しかし現實の壁にぶち當つて、それでするのが妥協と言ふものだ。最初から言ひ訣に「理想と現實とは違ふ」なんてほざいてゐるのは贋物だ。「芸当」とか「急進的」とか、ナンセンスだね。あれか、これか、の問題なのに、依然として「中庸の美徳」を説いてゐる。あつちからこつちに飛び移る、意氣地がないんだ。
松原先生の文章は無斷轉載禁止だとサイトに書いてある。日本語の文章が讀めないのか。さもありなん。偉さうに何を言つてゐやがるんだ。メールを寄越されても、返信する義務などない。返信したい相手にだけ返信する。當り前だ。返信されなかつた自分の態度を恥ぢるがいい。大人しくしてゐれば默つてゐるけれども、あんなところで堂々と持出して來るのだから、默つてゐる訣にもいかない。默つてゐればつけ上がりやがつて。
所構はず何でもかんでも嚴格嚴格言つてゐる方が精神的にのんべんだらりとしてゐるんだよ。政治でも文學でも一緒くたにする奴がのんべんだらりとしただらしのない奴なのと一緒だ。區別すべきところで區別するのが正しい。三宅氏はその邊のけぢめがない。何も解つてゐないんだ。三宅氏は、ウェブサイトが常に更新可能である事實、その點で紙のメディアと違ふ事實――紙のメディアと區別すべき事實を完全に忘れてゐる。何でもかんでも「纏まつた記事」にすれば良いと云ふ訣ではない。そんなに纏まつた固定的な記事がいいなら、オフラインで同人誌でも何でも作つて、プリンタで刷り出してゐればいいんだ。三宅氏は、纏まつた記事が欲しいんぢやない、固定的な記事が欲しいんだ。と言ふか、俺を貶める爲に、殊さらメディアの違ひを「ない」事にしようとしてゐるんだ。俺を貶めるのが目的なんだらう。
平成二十一年三月二十四日
しかし、一行づつの「垂れ流し」だらうと、俺の思想は一貫してゐないかね。そして、思想の一貫してゐる事だけが重要ではないのかね。
どうも、三宅氏の考へる「思想」とは、俺の考へてゐる思想と、まるで違ふものらしい。三宅氏にしてみれば「具体的な事を書く」と云ふ態度が「思想」であるやうだ。俺にしてみれば、それは形式であつて、思想ではない。文章を書く事に於いては出版も Web も同じであって、一概に出版の書き方を否定出来ません。――三宅氏は、「書き方」と「思想」とを混同してゐるやうに思はれる。しかし「一概に否定出來ない」とは、「一概に肯定も出來ない」のだが――さう云ふ決定的でない事を根據に、何うして三宅氏は偉さうな口をきけるのだらう。結局のところ、三宅氏も論理的ではなかつたと云ふ事だ。
俺は、纏まつた記事ばかり書かうとする必要は無い、と言つたのであつて、「纏まつた記事は絶對に駄目」なんて言つてゐない。別にきちんと纏まつた記事を書いても良いんだよ。書けるなら書けば良いと云ふだけの事だ。しかし、さうさう書けたものではないだらう。ならば妥協して、不完全でもアイデアを示したら良いと。ところが三宅氏は、何が氣に入らなかつたのか、纏めても良いんだ、纏めても良いんだ、と力説し始めた。御苦勞な事だ。三宅氏はシャドーボクシングに勤しんでゐた、と云ふ訣だ。
平成二十一年三月二十四日
正直言つて、俺は正かな派の中でも――或は、正かな派に限らず――おつさんのセンスが一番の困りものだと思つてゐる。アレクセイだの竹下だのの老害には惱まされたが、それだけではない。徳保氏にしても三宅氏にしても、惡い人ではないのだが(と言ふより、俺より嫌な奴である訣は無いが)、しかしセンスがおつさんであり、變に世故に長けてゐるから、屁理屈を言つて現實に安易に妥協するし、それを正當化して愧ぢないし――意地でも自分を變へないで、自分の立場を堅く守つたまゝ、外部の社會と適當に折合をつけつゝ、ちよろちよろとジャブを打つてゐる振りをして、抵抗者のやうな顔をして見せる。かう云ふ人はまるで信用できない。平頭通さんは、信用できる人ではあるのだが、おつさんの部類に入るし、殘念ながらまるでセンスと云ふものがない。
若い人にしか期待出來ないんだよ。
それゆゑ俺は若い人を若いと云ふだけの理由で馬鹿にしたりは絶對にしない。
平成二十一年三月二十四日
社會が少しづつ改善するのと、自分が書き方を改めるのとは、何の關係もない――少くとも、そこに關係を見出さうとするのは、「現代仮名遣」と云ふ既成事實を認める立場の人間だけで、即ち國字改革を容認する立場である。俺はさう云ふ人間を正かな派の人間として認めない。
平成二十一年三月二十四日
俺が松原先生の文章の轉載に文句を言つたのは、三宅氏がその松原先生の文章を根據に俺の「區別せよ」と云ふ主張を否定しにかかつたからだ。松原先生は、區別すべき事を區別する大事を説いた人だから、その松原先生の文章を利用して區別しない事を主張するのは許せない。だから、さう云ふ理解のない三宅氏が、威張つて松原先生の文章を轉載し、それを好い氣になつて周圍に見せつけてゐるのも許せない。三宅氏は、自分の誤つた解釋に氣附きもせず、松原先生を自分に都合良く利用してゐる――だから俺は三宅氏を咎めた。だが、さうしたら三宅氏は法令等と言出した――法令とは、三宅氏が勝手に言出した事だ。俺は法令と一言も言つてゐない。要は、三宅氏自身が法令に興味を持つてゐる人間だと云ふ事だ。だからこそ俺の發言を法令に關する發言だと解釋してしまつたのだ。三宅氏は法令好きなのだ。俺は法令になど全く興味が無い。ただ、松原先生から、俺にだけ公開を許可すると言はれてゐると、事實に基いて言つてゐるだけだ。解釋の餘地もないのだが、それを三宅氏は法令等と言出した。三宅氏が自分の勝手な解釋に基いて居丈高に他人を罵る惡質な人間の一人である事實が今囘、明かになつた訣だ。
平成二十一年三月二十四日
『私の國語教室』序

……。私(福田恆存)は昭和三十年、三十一年に、金田一京助博士との論爭の形式において、「現代かなづかい」と「当用漢字」の非なることを述べました。そのときに痛感したことですが、その私の所論は當事者、ならびに多くの國語問題研究家をこそ刺戟しましたが、一般はただ喧嘩好きの私が例によつて例のごとく新しい喧嘩相手を見つけたくらゐにしか思つてくれなかつたことです。大抵の人が喧嘩の事實は知つてゐても、私の文章を讀んでくれてはゐないのです。しかも、論爭は「水掛け論」あるいは「泥仕合」の樣相を呈してきたなどといふものまで出て來る始末でした。讀んでゐないから、さういふのであつて、問題は讀んでくれぬことにあり、讀んでくれないのは、關心が無いからであります。……。

平成二十一年三月二十四日
「國語問題と國民の熱意」昭和三十年補筆分

「現代かなづかい」では、二語の連續によつて生じる濁音、たとへば「三日月」のごときはミカズキと書かず、ミカヅキとして、もとの月との聯關を保つとなつてをります。「鼻血」のばあひも同樣です。さうなると、私たちはこのかな表記をまちがはぬためには、「新かなづかい」の大原則たる「音と表記法との一致」といふことだけではどうにもならない。すなはち、私たちは意味を知つてゐなければならないのです。ヅキはツキ=月であり、ヂはチ=血であることを知つてゐなければならない。それはいいとしても、この表記ははたしてやさしいでせうか。「現代かなづかい」を主張する小説家や評論家が、ハナジ、ミカズキと書いてゐるのを見ないでせうか。「近ずく」「もとずく」などとやってゐないでせうか。

それでゐて、「意地」はイジ、「生地」はキジ、「路地」はロジ、「蹴爪」はケズメと書けといふ。これでは二語連續の原則はどこへいつたのでせうか。そのほか「膝まづく」「つまづく」「なかんづく」「こぢんまり」「七つづつ」「世界ぢゆう」など、どうしてもこのとほりでなければならぬのに、それが「膝まずく」「つまずく」「なかんずく「こじんまり」「七つずつ」「世界じゅう」と書けといふ。しかもそれにはかういふ辯解があるらしい。「つまづく」の語源は「爪づく」で、爪がつくだが、爪が訛つてツマとなり、そのツマなるものは單獨で用ゐられない。したがつて、「つまづく」は二語連續だと認めないといふのです。ずいぶん苦しい解釋だ。さうなると、私たちはこの程度の語源的知識をもたなくては、「現代かなづかい」を納得して使へないといふことになります。のみならず、さうなると、「手綱」をタヅナと書かせてゐるのはをかしい。手が訛つてタになつたのだからタズナと書いたらよささうです。それから「きづな」は「生綱」だからキヅナと書きさうなものですが、キズナでなければいけないらしい。また「世界中」「一年中」の中をジュウと書かせるのは、接尾語としての中がつねに濁るから語源を尋ねないといふ考へかもしれぬが、それなら「四六時中」のチュウはどう説明するのか。「現代かなづかい」たるや、まことにむづかしいものです。「大阪」は、「歴史的かなづかひ」ではオホサカであり、「逢坂山」はアフサカヤマですが、それが「現代かなづかい」では、兩方ともおなじになるならまだしも、前者はオオサカで、後者はオウサカヤマだといふ。ますます奇怪です。けつして「現代かなづかい」はやさしくない。

平成二十一年三月二十四日
「國語問題と國民の熱意」昭和三十年補筆分

ある論者は、そんな文句をいふものにかぎつて、「歴史的かなづかひ」が満足にできぬではないかといふ。そして、そのひとの書いた文章のうちに、まちがひを指摘して得々としてゐます。まつたくけちな根性です。妻以外の女とあやまちを犯す男が多いから、結婚制度は不便だ、やめちまへといふのにひとしい。原則はつねに守りにくい。が、守りにくいといふことは原則無用論の理由にはなりません。

平成二十一年三月二十四日
「陪審員に訴ふ」

……。また、あなた方は自分の方が貴族主義だといふことも解つてゐないらしい。なぜなら、あなた方は大衆や子供の能力を甚だ劣弱なものと決めてかかり、奈良朝、平安朝の古典はもとより、鴎外、漱石、芥川さへ、大衆は讀みたいとも思はず、また讀む必要もないと斷定し、あまつさへ、その暇があつたら自然科學を勉強しろの、經濟學を勉強しろのと指圖する。あなた方にはどうすればよいかが何も彼も解つてゐるらしい。言葉や文字が簡單になれば、それを習得する勞力を他に振向けられると言ふが、人間の頭腦がさういふ風に出來てをり、國語國字がさういふ風に出來てゐるといふことまでお解りらしい。

表音主義者はすべてさうである。……。

僞善は止めてもらひたい。……。

平成二十一年三月二十四日
「世俗化に抗す」

……。私逹は古典を古典と自覺した瞬間、その中に基準を探し求め始めるのです。慣用と、それを支へ、それに支へられる美意識を自分のものにしようとし始めるのです。さういふと、人々は私を頑固な守舊派だと言ふかも知れません。が、私は語法でも文字遣でも、昔の通りにせよなどと言つてもゐないし、實行してもゐない。私の言ふ事は實に簡單な事です。私は過去を基準とせよ、鑑とせよと言つてゐるのであつて、過去の通りにせよと言つてゐるのではありません。

平成二十一年三月二十四日
「世俗化に抗す」

……。革命主義と漸進主義との違ひは、一方が急激に、他方が漸進的にといふ程度の差にあるのではない。後者は飽くまで基準を過去に置くといふのに對して、前者はさうしないのみか、自分の基準によつて過去を否定するのであつて、それは基準そのものの否定になります。隨つて、兩者はAなる基準とBなる基準との對立ではなく、基準は必要だといふ考へ方と基準は廃棄すべしといふ考へ方との對立に基くものなのです。

平成二十一年三月二十四日
これは、言替へれば、自分の外部に自己を律するものの存在を認めるか、自分勝手な・自己中心的な・御都合主義的な態度をとるか、の對立に基く、と云ふ事だ。
言ふまでもなく、歴史的假名遣は漸進主義であり、「現代仮名遣」は革命主義だ。
また、三宅氏の態度は、急激か・漸進的か、の程度の差に注目する態度でしかない。
平成二十一年三月二十四日
「日本語は病んでゐないか」

しかし、他人の言葉遣ひの誤や下手な文章を指摘するのは、甚だ氣の引けるものである。とかく、煩い奴だと思はれはしないかと虞れたり、野暮だ、大人氣無いと遠慮したりするのが常であるが、それよりもつと大きな原因は、他人の事は言へない、自分はどうだといふ反省が伴ふからである。が、考へてみれば、それは卑怯な根性で、自分がやられないやうに、人をやつつけまいといふ「先制防禦」の警戒心に過ぎず、言はば一種の闇取引である。

平成二十一年三月二十四日
幾らでも引用すべき言葉が見附けられる。
平成二十一年三月二十四日
俺は出先から「2.0」に書込む事があるけれども、その際にはことえりを使ふ。ことえりは仕事用だから正かな辭書を入れてゐない。必然的に「現代仮名遣」で入力する事になる。
よく「正かな派と称しているくせに、現代仮名遣いで入力するのかよ」と嗤ふ人がゐる。けれども、入力の方法は何でも構はないのであつて、そんなところにまで拘る必要は全くない。さう言ふ人は、ただ難癖をつけてゐるだけであつて――しかしそれで正かな派をやり込めたやうな氣になつて、嬉しさうに正かな派を嘲る人間は、本當に陰險な性格をしてゐると思ふ。
入力の際には、「現代仮名遣」で構はないし、かな入力でなくローマ字入力でも勿論いい。ケータイの方式でも全然問題ない――但し、妥協できるのは何處までか、を意識してゐる必要がある。漢字は妥協する事が出來る。けれども、目に見える假名のかなづかひだけは妥協できない。
俺の場合、ことえりを使ひ、「現代仮名遣」で打込む事があるけれども、「言う」と打込んで變換したら「う」を消して「ふ」を入れ直す。「ゐ」「ゑ」はコピー&ペーストする。漢字は略字體をそのまゝ使ふけれども、かなは妥協しない。妥協できない。
ウェブで公開する文書を、「現代仮名遣」で取敢ず作成し、最後に「丸谷くん」で正かなに直してゐるのでも、全く問題ないと俺は思つてゐる。作る過程は何だつて良い。そこでは幾らでも妥協できる。出來て來る文書でも、文字セットの制約で、漢字は何うしても完全に正字體には出來ない(ウェブの場合)。その點では妥協せざるを得ないが、この妥協は已むを得ない。場合に據つては全文で略字體を採用する事もある。已むを得ない妥協として意識してゐる限り、その妥協もあり得る。しかし、漢字に隠されないかなの部分で、妥協する事はあり得ない。許されない。
「現代仮名遣を使うのも妥協」と云ふ言ひ方は絶對にあり得ない。「理想と現実は違う」と云ふ言ひ訣も許されない。
平成二十一年三月二十四日
正かな派に「お前の正義を押附けるな」と要求する人がゐる。その人は、自分が正かな派に自分の正義を押附けてゐる事實をなぜ認識しないのだらうか。
「正しいなんて事は存在しない」と言放つ人は、なぜ自分が自分の信ずる「正しい事」を言放つてゐる事實を認識しないのだらうか。
「現代人が皆使つてゐるから現代仮名遣いは正義である」と信じてゐる人がゐるとしたら大間違ひだ。現代人は一人として「現代仮名遣」に從つてゐないからだ。「現代仮名遣」を理想と考へる事は出來ない。理想ならば理論である筈だからだ。「現代仮名遣」は、形ある表であつて、形ある表であるからこそ「現代仮名遣」には「強制力がある」と信じられてゐる。が、現實に「ある」ものは理想でないに決つてゐる。そもそも、言葉が時代によつて變化するのならば、「現代仮名遣」と云ふ表は、あつてはならない存在だ。或は、「過去の人が皆使つて來たのだから歴史的かなづかひは正義である」と云ふ正かな派の正義の押附けを、「現代仮名遣は正義」と言つて押附けようとする人は拒否できない。
平成二十一年三月二十四日
「歴史的かなづかひは千年前の音韻を表わしたもの」と云ふのは嘘で、なぜなら――例へば俺の文章を全ての日本人が現代の音韻で發音できよう。歴史的かなづかひの文章を、我々は普通に現代の日本語の音韻で發音する事が出來る。もし千年前の音韻を表してゐるのなら、我々は千年前の音韻で發音しなければならない筈だ。多くの歴史的かなづかひを非難する人が、嘘を言つてゐるのである。そして、嘘を嘘と見拔けない人が、歴史的かなづかひを非難するのは當り前だと思ひ込んでしまつてゐるに過ぎない。
歴史的かなづかひは、語の形を表現してゐるとともに、發音も表現し得てゐる。英語の綴りが、語の形を表現し得ても、發音を表現し得ないのに比べれば、歴史的かなづかひははるかに優れてゐるとすら言へよう。
平成二十一年三月二十四日
IMEを作るにしても、「實驗」「言ひ訣」として作るのでなく、實用の爲に作るのだと云ふ事。
平成二十一年三月二十四日
Yahoo!グループからのお知らせ 2009年3月24日 Yahoo!グループ サービスリニューアルのお知らせ
某メーリングリストは一往生きてゐるので、使ひたい人は入るといいと思ふ。此處でしか見られない情報もあるし。
平成二十一年三月二十四日
例へば「くさ」/「くさる」「くさす」「くさい」「くそ」といつた感じに關聯のある言葉が派生する訣だけれども、これらの派生の仕方をIMEに實裝しても、實用面では何の意味もない訣で、當座、考へなくていいと思ふ。

平成二十一年三月二十三日
リンクを自由にするのは當り前。それを禁止する法は存在しないし、理論も存在しない。
リンクされたのを非難するのは勝手。ただし非難しなければならない根據は何一つ存在しない。技術的に特定のリンク元から飛んできたユーザをはじくのは可能。但し、それをすべき思想的根據は何一つない。
「禁止すべき根據がない」事をするのは自由。當り前だ。それを非難するのは自分勝手。當り前だ。ところが、現代人は、自分勝手である事こそが眞に良い事だと信じてゐるから、自分勝手な非難を堂々とやるし、アクセスはじきを偉さうな顔をしてやる。
迷惑するのは、第三者だ。
平成二十一年三月二十三日
クローズドなSNSで特定のユーザをはじいたりするのはいいんだよ。でも、此處はウェブだ。オープンなウェブだ。特定少數の爲のSNSと、公開の場であるウェブとを混同してはならない。
掲示板荒し對策で場當り的に荒しをはじくのは必要な事だが――荒しでも何でもない人間を「氣に入らない」みたいに非難して、その非難を尤もらしく見せかけるだけの爲に「なんと、この人は默つてうちにリンクしたのです!」みたいな事を言ふのは感心しない。
平成二十一年三月二十三日
俺は昔から関口宏の「司会」が嫌ひで、なんでみんな関口氏を「いいひと」であるかのやうに思つてゐるのか、不思議でならない。昔やつてゐたクイズ100人にききましたでも、今やつてゐるフレンドパークでも、関口氏は「司会」である。「司会」として、解答者や挑戰者をリードする。が、解答が間違つたり、挑戰が失敗した時、関口氏は「殘念」と言ふのだ。これが俺は腹立たしくて腹立たしくてならない。関口氏は、出題者側であり挑戰させる側の人間だ。なのに、解答者や挑戰者の身方のやうな顔をして、間違へると同情して見せる。
俺はビートたけし=北野武を、世間が評價するほど評價してゐない。最近やつてゐるヴァラエティ番組でビートたけしが披露する「諷刺替え歌」の、底の淺さは、全く氣に入らない。が、たけしには美點があつて、それは、彼がちやんと憎まれるべき時に憎まれるやうな行動を取る事だ。嘗ての風雲たけし城でたけしは「城主」として、敵である視聽者を馬鹿にし、視聽者側の代表・谷隼人を毎囘悔しがらせてゐたが、あれは全く正しい。嫌な「城主」だからこそ、視聽者側はたけしを倒しに行くのだが、これは人間の心理に適つてゐる。
関口宏の善良さうな「司会」より、ビートたけしの憎たらしい敵役の方が、はるかに清潔で、好ましい。
平成二十一年三月二十三日
Latest topics > オープンソースなライセンスやコピーレフトなライセンス、クリエイティブコモンズについて、他のライセンスとどう組み合わせられるのかを図にしてみた - outsider reflex
一年前の記事。この手のパズルは面白いからみんな興味を持つ。
平成二十一年三月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/iwaman/20090323
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20090323
平成二十一年三月二十三日
ところで待望の新福田恆存評論集第六卷『私の國語教室』が配本になつてゐる。持つてゐない人もゐる人も買ふやうに。後書が別の卷に行つてしまつてゐる今囘の評論集の編緝は、ちよつと何うかと思ふけれども。
麗澤大学出版会
平成二十一年三月二十三日
Amazon.co.jp: 福田恆存評論集〈第6巻〉私の國語教室: 福田 恆存: 本
Amazonの価格が間違つてゐて、なぜかコレクター商品1点¥ 5,576よりと出てゐるが、正しくは税別2800圓(税込だと2940圓)。賣れないやうにとの妨害工作だらうか。
福田恒存評論集 第6巻 - 福田恒存/著 - Yahoo!ブックス
【楽天市場】福田恆存評論集(第6卷):楽天ブックス
平成二十一年三月二十三日
いろいろ考へて書いて見てゐるけれども、福田さんの本を讀み返す度に、より正確で、より有效な説得の論理が既に示されてゐる事に何度も氣附かされる。もちろん、福田さんの「意地の惡さ」を讀取らうとする人も多いし、福田さんの本を讀みさへすれば、全ての人が「改宗」するとは言へない訣だけれども、それこそ虚心坦懷に讀めば、福田さんの發言には未だに「見るべき所」は多いと思ふ。信者とか自分に都合が良いとか、さう云ふ事とは關係なしに、客觀的に見てさうだと思ふ。俺の事が嫌ひな人こそ、福田さんの本を讀むべきだと思ふ。特に今囘の『私の國語教室』。最近の「旧字旧かな」論爭でうちを知つた人もゐるかも知れないし、改めて「正しい日本語」に疑ひを抱いた人、或は例の白石氏の本を買つて納得しかけてゐる人――さう言つた人は、御金がかかるけれども、けちらないで、評論集の第六卷を買つて讀んで見ると良いと思ふ。
白石氏を信用してゐる人も、白石氏の意見だけを見て判斷したのでなく、兩方の意見を見て判斷した事になるのだから。
一方で、正かな派の人間でも、『私の國語教室』を讀んでゐる筈なのに、結構内容を忘れてゐる。これは、讀み手の問題でも、況してや書き手の福田氏の問題でもなく、ただ、文章の密度が異常な迄に濃密である事が原因になつてゐる。白石氏の「かなづかい」の本等、日本語關係の類書に比べると、文中に含まれる皮肉・レトリック・韜晦の類を含めても、内容の濃さでは『私の國語教室』は群を拔いてゐる。
文春文庫版はまだ手に入る筈だから、そつちでもいいとは思ふ。けれども、今度の麗澤大學版は、以前の「増補版」に入つてゐた増補篇の文章が收められてゐて、それが面白いから、出來れば多くの人に讀んで貰ひたい。
平成二十一年三月二十三日
『私の國語教室』における福田氏の議論を正かな派が讀取り損ねてゐる以上に、アンチ正かなの人は屡々讀取り損ねてゐる。福田氏がなぜ「追記」までして、國字改革の當事者を批判してゐるのか、と云ふのに氣附かないで、細かい部分での「間違ひ」の類を取り上げて非難してゐる例を見た事がある。國字改革を實行した人々の二枚舌に、福田氏自身も「踊らされた」と云ふ事だ。實は、國字改革批判では、一貫した議論が容易に成り立たない。國字改革を實施した側が、時と場合によつて、正反對の理論・論理を言つてゐるからだ。さう云ふ態度に對して、それぞれに反論する事は、反論に矛盾を生ずる原因となる。それを福田氏は意識して、それゆゑに相當ややこしいスタイルを『私の國語教室』では採用してゐる。
平成二十一年三月二十三日
俺は自由に限界がある事を承知してゐるが、同時に自由が追及されねばならない事も知つてゐる。
氣樂に自由自由と言つてゐる人や、自由には限界があると簡單に言つて澄ましてゐる人を、俺は信用しない。
平成二十一年三月二十三日
「現代仮名遣」を使ひ續ける限り、我々は「現代仮名遣」と歴史的假名遣の兩方を學習しなければならない。ならば歴史的假名遣だけを學んだ方が效率が良い。
「現代仮名遣」の文章を讀むのと歴史的假名遣の文章を讀むのとで、どちらが面倒か。漢字を除外して考へるならば、大して違ひはない――「ならば、現代仮名遣でいい、歴史的假名遣は要らない」と結論を下した人がゐたけれども、それは間違つた結論だ。なぜなら、「現代仮名遣」を排除して、歴史的假名遣を選んでも良いからだ。即ち、その觀點からだけでは、「どちらを決定的に選ばねばならない」と云ふ結論は出せない、と云ふだけの話でしかない。が、少くとも、歴史的假名遣を一方的に「讀み辛い」と極附ける事だけは出來ない、と云ふ結論は引出せる。
「現代仮名遣」と歴史的假名遣とでは、どちらの方が發音と近いか。實は大して變りがない。歴史的假名遣の場合、規則によつて讀み方が決まるから、實は發音と乖離してゐると單純に言ふ事は出來ない。フランス語だつて、綴りに對して發音が決つてゐる。それと同じで、歴史的假名遣の場合も、表記に對して發音が決つてゐる。さうした規則が「ない」と云ふ誤解を、多くの人がしてゐるし、その誤解の上に立つて、歴史的假名遣を非難してゐる。

平成二十一年三月二十二日
何處まで「プロジェクト」の中に含めるか、と云ふ事。嚴密にプロジェクトの核の部分に關るとして、ライセンスに適合するとか、條件を決めておくのはあり得る。一方で、周邊の部分には相當の余裕を持たせておいた方が良いと思ふ。ライセンスに適合しないとか、餘り重要でないので取替がきくとか――さう云ふプロダクトを周邊のプロダクトとして取敢ず包容する事は、考へておく必要がある。線を引いて、此處からこつちに來い、嫌なら出て行け、のやうな形にする必要はなく、或程度の曖昧さを設定しておいて、或程度融通がきくやうにしておく。それで取敢ず人を集める。
一人の羽織さんが結構良い感じで正字正かなIMEを作れたのだから、「作れない筈はない」のであつて――けれども今の状況だと、多分代替のIMEは出來さうになく、俺は期待してゐないが、まあ、やると言ふのなら、いくらかでもより實現できさうな形にしておく方がいいだらう。
平成二十一年三月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/mhrs/20090321
まじかんと雑記: IME の文法体系はできるだけ単純に
俺個人は正直、實驗的要素は最う要らない、既存のIMEがよく採用してゐる品詞の模倣でいいと思つてゐて、兔に角實用になる事だけを希望してゐる。
重要なのは、名詞、動詞、形容詞、或は形容動詞の語幹ではなく、辭だ。てにをは、用言の活用語尾を何う認識して何う處理するか、だ。その部分で歴史的かなづかひの優位性を利用できなければ、何の意味もない。
平成二十一年三月二十二日
http://ryus.s21.xrea.com/w/item/1173

冒頭の文章は余談で、或る事情に基づいて書いた物です。 その事情を知って居る人には分かる。 ということで、貴様は通称 略字旧かなが正しいと言っておきながら、実際には「不思議字不思議かな」で書いて居るではないか。 言行不一致である。 とかなんとかの突っ込みは不可。 いや、突っ込み自体は拒否しませんが、その突っ込みは論理的に破綻します。 理想と現実は区別されなければなりません。

だが、理想を信ずるならば、人は理想を現實にしようと思ふものだ。三宅氏は、正かなで書かうとしてゐないが、これは、依然として、三宅氏が本當に心から「正かなは正しい」とは信じてゐない事を示す。三宅氏の理性は、三宅氏に依然として「略かなで書くのが正しい」と言つてゐる。それに三宅氏の自由意志はのんべんだらりと從つてゐる。
人間の理性は固定的でなく、その人間の價値觀・動機によつて變化する。理性主義=論理主義=客觀主義だと信じてゐる人は、自分の誤を悟つた方が良い。自分の發想を理性的だ、と言つて誇つてゐる人は、それが感情的である可能性が極めて高い事を反省してみる必要がある。
理性の原理となつてゐる思想を、人は感情で撰擇してゐるものだ。人が豫め何らかの價値觀を撰擇しておく事で、初めて理性は「すべき事」を人に示唆し得るのだし、その「すべき事」を理性によつて示唆された人間は良心の絶對的な命令「理性に從へ」によつて強制力を内部に感ずる。そこで、自由意志が内部の強制に、從ふか、從はないか、を最終的に決定する。
今、三宅氏の場合、「現代仮名遣いで書く」最終決定を、自由意志は氣樂に下してゐる。これは、三宅氏の内部で、理性が「現代仮名遣いで書くべきだ」と三宅氏に命じてゐる事實を示す。この時、三宅氏には既に「現代仮名遣いで書く」事を正しいとする價値觀があり、「現代仮名遣」を撰擇する動機が存在する。「言行一致ではない」と云ふ批判――寧ろ三宅氏は、實は正かなを本當には正しいものと看做してゐないのであり、言行一致してゐると言つて良い。だからこそ、それでも三宅氏が、如何にも自分は正かなを支持してゐますよー、といつた顔をしてのほほんとしてゐるのが、俺には許せない。
平成二十一年三月二十二日
http://ryus.s21.xrea.com/w/item/1174
松原先生から轉載の許可はとつてゐるのだらうか。俺の場合は特に轉載の許可を戴いてゐるのだけれども、そこから再轉載する事は許可を戴いてゐない。
三宅氏の「ブログ」は、徳保氏のそれと同じで、「一見、取敢ず他人の意見を相對化してゐるだけのやうで、結論としては確かに曖昧にぼかしてはゐるのだが、實は當人、斷定的に否定したいらしい樣子である事が讀み手にありありと判つてしまふ」と云ふ、非常に良くない書き方をしてゐる。
俺にしてみれば、形式的に「纏まつた文章」なんてものは何うでも良い、内容的に纏まつた文章である事が重要だ。三宅氏の文章は、形式的には理路整然としてゐるやうだが結論が曖昧で、内容的に散漫なものに見える。
平成二十一年三月二十二日
字音假名遣の事がいづれは突当る問題であるのなら、固有名詞の問題だつていづれは突当る問題であるんだよ。時期尚早だと人を馬鹿にしたやうな言ひ方で極附けて、嘲るのは止した方が良い。
字音假名遣でも固有名詞でも、正かなのプロジェクトの核心部分ではなく、何うせいづれは突当る問題程度のものでしかない。ならば、周邊の「分科委員會」邊で自由にやつてゐればいいだらう。
問題は、正かなプロジェクトの場合、核になる部分で人材がない事だ。話の解るプログラマを一人呼んで來るのが最優先事項だらう。素人が文法だ何だと言合つてゐるのは時間の無駄だ。
平成二十一年三月二十二日
何うも今囘、「若い人」が集結してしまつてゐておつさんがゐないみたいなのだけれども、斯うなると、昔、現實に存在したIMEが「ある」事實すら、「若い人」たちにはスルーされてゐるんだらうと思ふ。過去のIMEがどのやうな思想を持つて、どのやうな文法に基づいて、プログラミングされてゐたか――さう云ふ事を誰も考へようともしない。ただ、ウェブ上に、Anthyがある、何處だかの何がある、と、それだけを頻りに言つてゐる。
例の麻生氏の「心ずかい」問題でも、広辞苑の畫像がウェブに出て來れば、それだけを根據に話を進めてしまつて、オフラインの=現實の調査を一切やらない。
今の「ウェブ世代」(?)の人には、全てをウェブ上で完結させなければならない、と云つた信念だか強迫觀念だかが「ある」やうに思へてならない。
WXとかVJEとかのマニュアルを參照する、と云つた事を、なぜか誰も思ひ附かない。何なのだらう。現實に「持つてゐない」んだらうけれども、觀念的に「思ふ」くらゐの事は出來ても良いと思ふ。
平成二十一年三月二十二日
Googleの機能低下が著しい。俺の名前でぐぐるとアレクセイの中傷文書を執拗に一番に擧げて來るのも馬鹿だけれども(何處からもリンクされてゐないのだから、Google自身があの中傷文書を「とてもよい内容だ」と判斷してゐるのだと言つて良い。無能極まるが)、それはまだいい。W3Cでぐぐると、なんとWikipediaの記事を一番に擧げて來るのだ。何を考へてゐるんだらう。
平成二十一年三月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/scinfaxi/20090322/1237702248
目くそ鼻くそ。日本のクリスチャンは自稱(自傷)クリスチャンに過ぎないと云ふ事だ。
http://d.hatena.ne.jp/scinfaxi/20090322/1237690605
暇潰しに一發適當にIMEでもでつち上げて呉れると助かるが、興味が無いだらうし、やつて呉れないだらう。
平成二十一年三月二十二日
キリスト教では、自分で自分を裁くなんて傲慢な事は、しては行けないんだよ。人間を裁いて良いのは神樣だけだから。自傷行爲がキリスト教で許されないのはさう云ふわけ。
もちろん、こんな行爲に「理想と現實は違ふ」式の言ひ訣をするのは許されない。してはならない事はしないのが當り前だし、してしまつたら後ろめたさを感じてゐなければならない
平成二十一年三月二十二日
正字正かなで書いてゐる人には「電腦」と云ふ言葉を愛用してゐる人が結構多いやうに思ふ。何で電子計算機と云ふ日本語があるのに、わざわざ「電腦」なんて變な言葉を使はなければならないのだらう。SF、サイバーパンクの方面でならば、特殊な雰圍氣を出す爲に必要である場合もあるのだけれども、一般的な用語として「電腦」を當り前のやうに使ふのは感心しない。「電腦」と云ふ語の合理性を説く人がゐるかも知れないが、先に電子計算機と云ふ言葉があつた事實は動かせないし――PCなんかは「電腦」よりも寧ろ電子計算機と言つた方が正しいだらう。

平成二十一年三月二十一日
http://www.geocities.jp/janggijp/2009-03.html#D20-2
字音假名遣の正確性を求める人でも、その邊の事には無頓着な人でも、「周邊」の事だと割切つて、鷹揚にしておくのがいいと俺は思つてゐる。
IMEを作るのなら、字音假名遣なんてものはただの語彙に關する事だから、後囘しにして、變換の爲に必要な文法に注目して議論する必要がある。好きな人は勝手に字音假名遣の辭書を作つてゐればいい。が、全員そつちに注目して、あゝだ斯うだ議論するのは時間の無駄だ。
若し歴史的かなづかひのIMEを、字音假名遣で入力して單漢字變換できるだけの低機能なものにしかしない積りなら、俺はプロジェクトから離れる。
と言ふか、何うして「あんたの反論は想定内だよw」のやうな人を馬鹿にした言ひ方を平氣で出來る人が多いのだらう。實際に何度も同じやうな事を言はれてゐて、その事實を指摘してゐるならいいけれども、さうではないのになぜか「俺は全部御見通し」のやうな傲慢な言ひ方を、正かな派の人ですら平氣でする。無神經に過ぎやしないか。
あと、一般論として、俺は字音假名遣に「アパッチ正かな軍」の人間が關はるのを好まない。ただの趣味の話をしたいのなら、趣味の「旧字旧かな」の人になればいい。「アパッチ正かな軍」等と言ふ事は――何しろ俺は「アパッチ正かな軍」の言ひ出しつ屁であり、それゆゑ定義者たる資格がある――許さない。

平成二十一年三月二十日
小學校・中學校・高校でやかましく服裝や髪の色・形について言はれるのは、理由がない事ではなかつた。それは理不盡で強壓的な要求に人が從ふ習性をつける爲のものであつた。さうした習性を身につける事は、人にとつて大變重要な事だ。
が、一方で、多くの教師が――教師すらも――改革に對する強い要求を持つてゐる事も事實だ。彼らは國家に抵抗し、國風に抵抗するが、それを當然の事と思つてゐる。國旗掲揚や國家の齊唱に彼らは反對する。
何れにせよ、反對には常に理論が伴ひ、何れも合理的な理由がある。教師は、自分逹の抵抗が、合理的であると主張する。その彼らが、みだしなみについて一種のスタイルを生徒に強壓的に押附けるとしたら――やる事がちぐはぐである。この時、理不盡で強壓的なスタイルの教育は不可能となる。生徒からの合理的な・理由のある反抗を教師は受ける事となるし、彼らは反抗を受けても仕方がないと觀念する。
しかし、生徒からの理由のある反抗を認めたら、教育は崩潰してゐるのである。教育は、一律に、理不盡な押附けでなければ、效果を持たない。教師は生徒を説得して、知識を「知つて頂く」のでは駄目だ。理不盡な・強壓的な知識の押附けがなされ、理不盡な・強壓的な押附けを受容れる人としての態度を養成しなければならない。
平成二十一年三月二十日
商品カタログ 花粉対策 メガネくもらないマスク
と、言ふものが、あるのだと、教へて貰つた。どうもありがたう。
平成二十一年三月二十日
本名バレてもへっちゃら? - ぼくはまちちゃん!(Hatena)
俺なんか、名前でぐぐられるとアレクセイの怪文書が最初に出てくるからな。Googleはアレクセイのやうなキ印を高く評價するものらしい。をかしな人間と云へば「義」だが、そのうち俺の職場やら家やらにやつて來るのだらうか。可能性はある。ネットストーカーじみた人間は澤山附き纏つて呉れてゐるし。
「今は匿名」と云ふのは「何時かは實名がばれる」かも知れない、と云ふ事で、匿名と實名は紙一重――兩者の間に大した違ひはない。世間で通用してゐる「實名を明かさないやうにしよう」と云ふアドヴァイスはあんまり意味のないアドヴァイスでしかない。匿名だらうが實名だらうが、そこにゐるのは人間なんだから。實名でやつては行けない事なら、匿名でもやつては行けない――と云ふ事は、匿名でやつていい事は實名でもやつていい。兩者の間に違ひを考へるのは、案外匿名で行動し續ける事を大前提にして考へる事で――しかも匿名で惡い事をするのを大前提にしてゐる場合すらある。匿名でも惡い事はしてはならないし、さう考へるなら匿名でも實名でも關係なく、「やつて良い」事は同じだ――人としてやつて良い事と惡い事がある――と言ふしかない。
その一方で、ウェブでは何であれ公開であり、情報は何處までも廣まる。人の情報と云ふものもまた、廣く知れ渡る。その時、をかしな人が他人に變な感情を抱く事はあり得る。が、さう云ふをかしな人の存在を前提に、「ネットでは實名を明かさない」と云ふ事を「ネットの常識」にしようとしても、限界がある訣だし、意味は無い。が、それ以上に、「ネットでは發言しない」事を「ネットの常識」にするのは、それこそをかしい。オフラインでも人が物を言ふのに危險が存在する、とは言はれるけれども、暴力が奮はれたりすれば刑事的に法で處理される。現状、ウェブでは法による處理の方法が定まつてゐない。勿論、法で全部が解決するものではないが、法の網で覆はれる領域すらもなくて構はない、と云ふ話にはならない。俺は、法にしても何にしても、具體的な「システムの構築」については考へる氣にならないけれども、ウェブでの「生存權」を侵害されつゝある現状、或程度の權利の主張をする必要はあると考へるし、權利の保護は法でのみ實現されると云ふのが政治のシステムだ。そして政治のシステムだからこそ、完全なものではあり得ない――それは百も承知。
はてなブックマーク - 本名バレてもへっちゃら? - ぼくはまちちゃん!(Hatena)
ふざけた連中が遊びでやつてゐる嫌がらせ行爲は看過され、嫌がらせの對象とされて困つてゐる人間はふざけた連中によつて「潰されて當然」と言はれる状況が存在してゐる。此れは誰が何う考へても不健全な状況だ。今のウェブでは斯う云ふ不健全な状況が「當り前」のやうに存在してゐる。ウェブは1990年代に一般に開放されてから、ふざけた目的に利用される事が多く、さうした目的で「なければならない」かのやうにすら一般人に思はれて來た。一般人が眞面目な話をしようとすると、なぜか「空気読め」のやうな言はれ方をして、多くの場合、「こんな間違ひを言つてゐる」と、ふざけた人間・遊びでウェブをやつてゐる人間に揚げ足を取られ、潰されてきた。學術サイトで研究者が眞面目な話をするのは許せるが、一般人が學者の「眞似事」をするのは「人間として許せない」と本氣で思ひ込んでゐる「をかしな人」が、ウェブに大量に出現してゐる。しかし、「空気読め」程度の「論理」で話を潰すのは、常識であつてはならないだらう。
「犯罪予告」の類は規制されて當然だけれども、眞面目な話は保護されて當然だ。
――匿名でも實名でも、人は人だと考へるならば、ウェブでの發言者は保護される必要がある。ネットでは規制の事許りが話題になるけれども、保護の事も考へられるべきだ。今のウェブでは、一方的に他人を攻撃し、潰して樂しまうとしてゐる人間にとつてのみ有利な「論理」ばかりが横行してゐる。發言にはリスクが伴ふと言ふけれども、今、ウェブでの發言は、リスクのみが存在してゐる。それでは困る。「甘えるな」と云ふ罵聲が、他人を潰して樂しんでゐる人間から屡々發せられるのを見る時、やつぱり「潰されない」爲にはレッテル貼りを氣にしてはならないと思ふ。今のウェブは、遊びで他人を潰さうとする人間にとつて一方的に有利な状況となつてゐる。斯うした状況は是正される必要がある。もつと發言者にとつても有利になるやうな環境を整へ、バランスの取れた社會にしなければならない。今のウェブはバランスが狂つてゐる。
平成二十一年三月二十日
コンパクトデジカメ、満足度トップのメーカーは - ITmedia News
俺のGR、修理に大阪まで行つてゐるみたいだけれども、良いカメラだと思つてる。
平成二十一年三月二十日
リンクのアンカー上にマウスカーソルが乘つかると突然リンク先のサイトのサムネイル畫像が表示される「ブログ」がある。文章を讀めなくしてゐるし、必要がないのにトラフィックを發生させてゐるし、迷惑この上ないのだが、「ブロガー」の人は何がいいと思つてそんな事をするやうにしてゐるのだらう。
平成二十一年三月二十日
「Internet Explorer 8」正式版のダウンロード提供が開始
平成二十一年三月二十日
詞の玉垣の「平成廿一年三月廿日(春分)」の項。

字音仮名遣を改変するとしたら、何処まで許せるか。以下の項目から順位を示して理由附けして欲しい。

興味ない。今そんな事を考へる必要は無い。アパッチ正かな軍の人は字音假名遣の事など考へなくていい。そんな事を考へてゐる暇があるなら、もつと大事な事を先に考へなければならない。
なんでみんな漢字や字音にばかり興味を持つのだらう。俺は全く興味を持てないのだが。
平成二十一年三月二十日
歴史的仮名遣い - Cask Strength
「現代仮名遣」は「定着してゐない」――しかし、それは「現代仮名遣」が「支持されてゐない」事を意味する。「現代仮名遣」は、このやうな大變ややこしい状況にある。だからこそ「アンチ正かな派」の人には大變都合良く利用されるのだ。ところが、「アンチ正かな派」の人も、「正かな派」の人も、その邊の事が良く認識出來てゐない事がある。だからこそ、話が噛合はない事になる。

 id:iwamanさんからトラバをいただきました。ありがとうございます。ただ、「「現代仮名遣い」支持者」というのは不思議な言い回しで、これは「歴史的仮名遣支持者」から私はdisられているのでしょうか?それとも釣りでしょうか?w

 現に私たちは「現代仮名遣い」が定着したなかに生きている、という当たり前のことを申し上げただけなのですが。

「アンチ正かな派」の人が必ず言ふ、パターン化された聲明だ。最う散々聞き飽きた「反論」だ。

 書き方としての「歴史的仮名遣い」は「現代仮名遣い」と同じく、近現代の産物です。「歴史的仮名遣い」が成立する以前に「歴史的仮名遣い」で文章を書いた人はいませんでした(当たり前ですが)。

固定された規範はそもそも傳統的に日本には存在しなかつた。「現代仮名遣」はその傳統を破壞し、固定的な規範を設定した。それが許せない。「アンチ正かな派」或は「現代仮名遣支持者」の人は、それが解らない。固定的な規範が「あつた」し「ある」、さう言ひ、「過去の固定的な規範である歴史的仮名遣いには使用者が存在しないが、現代の固定的な規範である現代仮名遣いは皆使っている」と主張する。しかし、「現代仮名遣」の支持者は一人も存在しない。日本人は全員、「現代仮名遣」の命令に從はない書き方をした事がある。だから「現代仮名遣」は定着してゐない。
歴史的假名遣は、現實に固定的な規範が存在せず、常に改訂が繰返されて來たが、觀念として・理想として存在し、それに從はうとする傳統は千年以上に及ぶ。そして、歴史的假名遣ひを、固定的な規範に限定して、「存在した」「しない」と言ふ事は許されない。歴史的假名遣は存在したのだし、してゐるのだ。それを「存在してゐない事にしようとする」人は、全員、一人の例外もなく、「アンチ歴史的假名遣」の人間だと言つて良い。

 また、平安時代から江戸時代までの作品を読んでいると、「歴史的仮名遣い」に合致しない表記が非常に多く使われていることにすぐに気付きます。何でもいいです。『奥の細道』でもいいです。「馬の口とらえて」(歴史的仮名遣いでは「とらへて」)、「笠の緒付かえて」(「かへて」)、「行道なをすゝまず」(「なほ」)などなど、いっぱいでてきます。「いや、私の『奥の細道』ではそうなっていない」という場合は、それは校注者がわざわざ「歴史的仮名遣い」に直しているのです。草葉の陰の芭蕉にとってみれば、迷惑な話かもしれません。

迷惑に思ふ筈がない。何うして誤を訂正する事が迷惑なのか。迷惑と「思うだろう」と推測するのは、推測する人間が、自分の誤を訂正されると「迷惑」だと思ふ傲慢な「現代人」だからだ。
それに、平安時代から江戸時代までの作品を眺めて見ると、表音的に書かうとした事例が、一つもと言つて良いくらゐ、ない事實にすぐに氣附く。これこそが重要な事實だ。歴史上、日本人も、表音的に書かない事は當り前だと信じてきた。だからこそ、定家の假名遣は出現したのだ。それが、表音的に書くのは當り前と信じてゐる――自分は表音的に書いてゐると思ひ込んでゐる=洗腦されてゐる――「現代人」には、理解する事が出來ない。

 なんでもいいのですが、「怠る」、これは「おこたる」でしょうか、「をこたる」でしょうか。平安中期からすでに両方の形が出てきます。『疑問仮名遣』でもこれを持て余して、確定できないけどア行の「お」だろうと推測される、という「曖昧」な結論を出したために、現代の古語辞典には「おこたる」で載っている。その程度のものです。

しかし「現代仮名遣」では、表音的に「おこたる」と書けば良いと言ひ、書き手に正しさの意識を持たないでゐる事を推奬してゐる。此れは惡い事だ。
しかも、現時點で「おこたる」か「をこたる」か決定できないからと言つて、正しい書き方が存在しないとは言へない。今、假に「曖昧な結論」を出してゐるからと言つて――と言ふより、結論を出したのではなく、「おこたる」としてゐるのは、結論を出すのを留保してゐるのに過ぎない。此れは良い事だ。
なぜか、「現代仮名遣」を「自分は使っている」と誤つて信じてゐる人は、物事を正反對に解釋する惡癖を身に着けてしまつてゐる。

 「歴史的仮名遣い」は日本人なら学ぶべきものです。「歴史的仮名遣い」を学ぶというのは、つまり古語を学び、古典を読むということで、古語・古典を学ぶというのは、わたしたちの祖先の歩んできた輝かしい歴史をたどることです。しかし、その伝統の重みが、現代社会においても何かの権威や正しさを背負っているというのは別問題ではないかと思うのです。

我々は、古語を學び、古典を讀むが、それは常に現代の日本語の使用にフィードバックされねばならない。さうでなければ全く意味がない。「現代仮名遣」を「我々現代人は使わなければならない」と云ふ觀念は、古典から現代の日本語へのフィードバックを決定的に斷切つてしまふ。だから「現代仮名遣」は絶對に間違つてゐる。
我々日本人は、正しい日本語があると信じなければならない。多くの人が「正しい日本語」と言ふと鼻で嗤ふが、その態度こそ改められなければならない。
傳統の重み等と言つて排除するのでなく、正しさへの信仰から正しい假名遣を希求する態度を持たなければならない。その上で、「現實に存在した歴史的かなづかひの書き方」等に拘泥する事なく、より正しい書き方を求めて、正しい假名遣の存在を信じなければならない。
「現代仮名遣」いい、「現代仮名遣」十分だ、と云ふ考へを「現代人」は持つてゐるが、そのやうな胡麻菓子をやつてゐる事は許されない。當り前の話だ。それがなぜ解らないのか。解りたくないからだ。なぜ解りたくないか。面倒だからだ。
consigliere氏は、大變叮嚀で、謙虚さうな口調で語つてゐる――ところが、内容は大變傲慢で、自己中心的だ。しかし、口調が謙虚さうであるが故に、讀者のみならず、書き手本人まで、自分は謙虚であると思ひ込んでゐる。俺にしてみれば、自分で自分の事を謙虚だと思ひ込んでゐる事くらゐ傲慢な態度はないのだが、しかし、自分は謙虚だ、と心から信じてゐる人間ぐらゐ傲慢な人間はゐないので、自分の事を傲慢だと非難する人間を憎惡し、居丈高に惡口を言ふ。consigliere氏が、と書いてゐるのは、人を見下してゐるからだ。それでもconsigliere氏は自分が傲慢だとは氣附かない。「現代仮名遣」を「私たちが生きている環境」だとconsigliere氏は指摘してゐるが、「環境」が「ある」とconsigliere氏は指摘したいのか。さうではない。「環境を守りたい」のだ。誰が何う見てもさう讀めるし、さう理解しなければconsigliere氏の言つてゐる事はナンセンスだ。或は、ただただ「自分の環境を守りたい」と言つてゐるのなら、それは自己中心的な發想でしかない。ところが「環境がある」とconsigliere氏は「言っている」し「言っている」積りでゐる。consigliere氏は自己中心的で、傲慢である事は、客觀的に判定出來る――ところが、それがconsigliere氏には解らないだらうし、他の「現代仮名遣支持者」の人も解らない。俺がconsigliere氏に人格攻撃を仕掛けてゐる、と彼らは解釋する。客觀的に判定できる事ならば、攻撃ではない、正當な批判だ。一方のconsigliere氏こそ、客觀的に判定できない主觀を根據に、「現代仮名遣」の「環境」を「擁護」しようとしてゐる。それ以外のすべての「現代仮名遣い支持者」の人も、主觀的に「現代仮名遣という自分たちの環境」を「正しい」と言張り、防衛しようとしてゐる。
consigliere氏は、客觀的に「正しい表記」を決定する事等できない、と言ひ、實際に「正しい表記」がわからない事例も多數ある、と指摘する。けれども、實際に「正しい表記」を決定し、施行しなければならない、とconsigliere氏が考へてゐる事がそもそもをかしい。正しい假名遣は、觀念であり、理想だ。歴史的假名遣として歴史に現はれて來た幾つかの規範的な假名遣ひは、理想の假名遣の影でしかない。しかしその影を透して、我々は理想の存在を認識し、それを信じなければならない。意地になつて「現代」の=「自分たち」の「仮名遣い」を守らうとする意固地な態度こそ、打破されねばならない。なぜ「現代仮名遣」に固執するのか。「現代仮名遣」こそ、「現代人」がでつち上げた幻想ではないか。と言ふより、「現代仮名遣」のやうな理論的に一貫しないものを受動的に受容し、「正しい」と云ふ概念を拒絶しながら、歴史的かなづかひが「正しくない」所以を説き、歴史的かなづかひの「信者」の言つてゐる「正しくない事」を指摘し、笑ひものにしようとする態度は何だ。正しい・正しくない、と云ふ事が「ない」と言ふのなら、歴史的假名遣でもいいだらう。なぜ「絶對に歴史的假名遣は駄目」なのか。「趣味ならば良い」「宇宙の果てかどこかで誰にも迷惑かけずにやっていれば良い」と言ふのは、「今の日本の社会では良くない」と言つてゐるのと同じで、排除してゐるのと同じだ。それは自由を認めた事にはならない。「現代仮名遣い支持者」が「歴史的仮名遣いにも自由を認めている」と言ふのは常に嘘だ。「奴隷にも、主人の命令がない時、主人が監視をしないでゐる場合には、目立たぬやうに、無害な事をする自由を認めてやる」と言つたからと言つて、その人は奴隷の自由を認めてゐる事にはならない。
然るに、例へばキリスト教のやうな宗教を信じ、魂の救濟を信じて、自ら進んで隷屬を受容れた奴隷は、依然として政治的には不自由であつても、精神的には既に解放されてゐるとすら言へる。現實の話と、理念の話とは、區別される。歴史的かなづかひを、ただただ現實のレヴェルで・政治のレヴェルで語らうとする「現代仮名遣い支持者」或は「旧字旧かな趣味の人(例の松永氏のやうな人だ)」が餘りにも多い。しかし、歴史的假名遣は理念として・理想として認めなければならないものであり、さうした理想を地上においても實現せねばならないと云ふ理想主義に基いて歴史的かなづかひの主張はなされねばならない。
私が歴史的假名遣を使ふ理由 - 科學の剃髮

平成二十一年三月十九日
Microsoft Announces Availability of Internet Explorer 8: New browser focuses on top customer needs, including security, ease of use and performance.
「Internet Explorer 8」正式版が3月20日に公開
平成二十一年三月十九日
http://www.geocities.jp/janggijp/2009-03.html#D19-1
俺もYahoo!掲示板とか「自分のところ」以外で良く書いてゐたけれども、「旧字旧かなで書いているのは目立ちたいからだ」と思はれて(世間の人は、變つた事をする人は一人の例外もなく目立ちやがりだと極附ける)、散々嫌がらせを言はれるので、嫌になつて「自分の場所」だけで書くやうになつた。が、それを「何年も」見てゐて「嫌い」になつて「キ印」だと惡口を言ふやうな人が出て來る訣で(しかもその人は、その人の「自分の場所」で顔文字を使ふのを「勝手だ」と言張つて威張つてゐる)、大人しく「自分の場所」に引籠つてゐても何の意味もないと悟らざるを得ない。
アパッチ正かな軍の人も、何を言はれても最う開き直つてバンバン書き捲つた方が良い。人の好いやうな顔をしてゐても、何の良い事もないから。
世間には、大人の傍觀者を氣取り、落著いた表情を見せながら、實は感情的かつ獨斷的に物事を斬つて捨てる子供が結構澤山ゐる。さう云ふ連中にも納得して貰はうと努力する人は多いけれども、馬鹿を見るだけで、大抵何もかも嫌になる事になるだけだから、無益な努力をする必要はない。と言ふより、連中はそれを狙つて――相手を感情的に傷附けようとして、自分は大人のやうな顔をして、相手を見下してゐる。ならば、こちらも相手を見下していい――好きなやうにやり返した方が、精神的にもいい。感情論で動く人は何んなに理を盡して説得しても説得に應じない。しかし、こちらが感情的になつてゐても、冷靜に發言の意圖を讀取らうとして呉れるちやんとした人もゐる。さう云ふ人を目指して、正直に話をすれば良い――敵がこちらの感情を害するだけの爲に嫌な事を言つてゐるのなら、こちらは正直に、感情的にでも何でもなつた方が良い。さう云ふ正直を笑ふ連中もゐるが、さう云ふ連中の精神は腐つてゐると云ふだけの事だ。惡い意味で大人の人間が、日本には多過ぎる――「大人」を演ずる事で、他人をガキと極附け、嘲笑しようとしてゐるのだ。さう云ふ連中は、常に正義を馬鹿にし、正しいと云ふ概念を破壞して、自分が一番偉いと云ふ事にしようとしてゐる。何が重要なのかと言へば――自分を超えた・自分の外部にある理想・眞實を守る事だ。さう云ふ理想や眞實の存在を認める事は、傲慢な事ではなく、謙虚になる事だ。人は自分を超える存在を認めなければ謙虚になれない。
平成二十一年三月十九日
本當に理解出來ないのは、「お前だけの正義を押附けるな」と、偉さうに言放つ人がウェブにゐると云ふ事だ。否、さう言ふ人に限つて、普段は自分の「ブログ」で堂々と自分の正義をひけらかして威張つてゐると云ふ事だ。
普段は自分の正義をひけらかしながら、他人から批判されると「お前だけの正義を」云々と言出し、相手をガキ呼ばはりして、自衛を試みるとともに、自己を偉大に見せかけようとする(それこそガキだと思ふのだが)。
そんなに他人に正義を押附けられたくなければ、ウェブなんて場所に出て來てはならないのだが、「自分は好き勝手を言ひたい、他人からは批判されたくない」と云ふ自己中心的な考へを當り前のやうに持つてゐて――そして、さう云ふ人が、他人から批判されて不機嫌になるのは、自分が一番偉いと思つてゐるからだ。
他人を批判してゐる俺のやうな人間を見て不愉快に思ふ。俺が傲慢だと言ふのだ。しかし、さう云ふ人は、他人を批判する時、自分が威張つてゐるから、他人も威張つてゐるものと思ひ込んでしまふだけだ。そこで他人の批判を非難し、自分の批判を非難しないのは、自分は本當に偉いのであり、他人は偉くもないのに偉さうにしてゐるのだ、と思つてゐる事を意味する。ならば、誰が何う考へてもその人こそが傲慢なのに決つてゐる。
他人を批判する事それ自體を、傲慢だの威張つてゐるだのと言つて、人格攻撃するのは、やめた方が良い。俺なんかは、他人を高所から見下して、馬鹿にしてゐるのではない。人格攻撃なんて事は全くしてゐない。寧ろ、アンチが俺の人格を否定して好い氣になつてゐる事の方が多いくらゐだ。と言ふより、俺の人格を否定して樂しんでゐる連中の事をアンチと呼んでゐる。俺は、間違ひを言つてゐる人間に抗議してゐるのであつて、馬鹿にして喜んでゐるのではない。喜んでゐるなら、何うして俺が怒るのか。俺は間違ひを正さうとしてゐる。一方のアンチは、俺を馬鹿にして喜んでゐるのだから、間違ひを正さうとしてゐるのではない。この違ひが、何うしても解らない人がゐる。怒るのは傲慢で、喜ぶのは誠實なのか。
然るに、アンチは、自分の感情を「論理」の蔭に匿して、自己を正當化しようとする。俺にはさう云ふ行爲こそが不誠實に見える。ところがアンチは、人を馬鹿にする爲に、相手を不誠實「と云ふ事」にしてしまはなければ困るから、意地になつて人を惡人に仕立て上げようとする。さう云ふ工作をする事自體が不誠實で、陰濕な印象を周圍に與へる事にも氣附かずに。俺はアンチのやうな工作をした事がない。しようと思つた事は何度もあるが、それをやると本當にアンチと同レヴェルに墮ちてしまふし、大體ばれたら餘計不利になるから、やりたくてもやれない。俺はアンチの連中ほど頭が良くないから、下手な事をしても駄目だと判つてゐる。しかし、さう云ふ所で頭が良くて、人の足を引張るだけの無意味な工作をして陰險さをアピールする事は、果して本當に良い事か。
平成二十一年三月十九日
俺がいつも自分に有利な事を言ふと罵る人がゐる。訣が解らない。自分の主張の正しさを支へる證據を示す事の、何が惡いのか。自分は間違ひを言つてゐるのだよと偉さうに言つて笑つてゐる人間がゐるけれども、さう云ふ人間の神經こそ俺には理解出來ない。普通の人間なら、自分に有利になる事を言ふものだし、それは當り前だからそれ自體として非難されるべき事ではない。ところが、さう云ふ當り前の事だからこそ、わざと「惡い事」にして、相手を簡單に惡人に仕立て上げようとする極惡人がゐる。
なぜか、他人に正義を押附けるのを「惡い事」だと言ふ人がゐる。俺には全く理解出來ない。良い事を押附けて何で惡いのか。良い事をするやうになつたら、相手は良い人になるのだ。良い人になりたくない、と言つてゐるのは、惡い人でないか。「正義の押附け」を非難する人は、決つて「押附けが良くないのだ」と言ふのだが、正義と云ふ目的こそが重要で、手段でしかない押附けを異常なまでに憎む理由は存在しない。もし手段が重要だと言ふのなら――しかしさう云ふ人に限つて、自分は飛んでもなく惡辣なやり方で他人を操縱しようとしてゐるものである。
相手が押附けて來るものが正義ではない、と言ふのなら、反抗の理由として成立つ。ところが、それを言ふのなら、相手が正義と稱するものが正義でない事を立證する必要がある。それを、横着がつてしようともしないで、「押附けるな」の一言で相手を排除しようとしてしまふ人が、餘りにも多い。多過ぎる。そんな事を立證してゐる暇は無い、と「反論」するかも知れないが、さう云ふ人が「ブログ」で隨分のんびりとしてゐる樣子を、俺は何度も見てゐる。大體、忙しければ「ブログ」なんかをやつてゐる餘裕は無いだらう。
人は正義の押附けをすべきだ。互ひに自分の信ずるところを押附け合ふべきだ。正義を押附ける爲には説得と云ふ手段を取る必要がある――と言ふより、説得をするならば、それは最早押附けではない。説得を押附けだと言つて排除する行爲を、マナー違反・ルール違反として、寧ろ排除すべきだ。相手を説得しようと互ひに試みる――そこで初めて議論が成立する。その議論を囘避しようと横着して、説得を否定し、正義を否定し、相手の人格を否定する。それでは駄目だ。
批判が嫌ならウェブには出てこない。ウェブに出てくるならば、自分が一方的に批判をぶちかますだけでなく、他人からの批判も受ける事を覺悟する。誰かが他人を「批判してゐる」と云ふだけの理由で憎惡し、嘲るなんて事は許されない。さう云ふ事を當り前のやうに思つてゐる人を、俺は嫌ふし、或は、何處かをかしいのでないかと思ふ。
平成二十一年三月十九日
他人を見下す傲慢な大人より、正義を主張する誠實なガキの方が遙かにマシだ。
なんで正義を主張してはならないんだよ。昔から人は正しい事を主張して、それで世の中は良くなつて來たんぢやないか。
平成二十一年三月十九日
「正しくもない事を主張してゐるから野嵜を非難してゐるんだ」と言ふ人がゐるなら、何でその人は「なぜ正しくないか」と俺を説得しようとしないで、俺の人格を否定したり、俺の名前を騙つて掲示板や「ブログ」のコメント欄を荒したり、「他人を批判するのは傲慢な事である」等と言つたり、「ガキ」呼ばはりしたりしたんだ。
「正しいなんて事は存在しないんだよ」と言ふのなら、「野嵜の言つてゐる事は正しくない」と言ふ事は出來ない。當り前だ。「正しい・正しくないなんて何うでもいい」と言ふのなら、「正しくない事を言つてゐる野嵜を絶對に許せない」と言ふ事は出來ない。當り前だ。正しいと云ふ觀念の存在を認めなければ、他人の行爲の正しさを云々する資格は無い。當り前だ。――その當り前の解らない人が、ウェブには澤山ゐる。
平成二十一年三月十九日
電車の中でヘッドフォンで音楽を聽いてゐるのは別に構はないと思ふ。
道を歩きながら音樂を聽いてゐるのは何なのだらう。車に轢かれても文句を言へないと思ふ。危ないよ。
平成二十一年三月十九日
最近のマスクは隨分良くなつたけれども、相變らず良くならない點がある。メーカの人は、息を吸ふ時の事を考へてマスクを作つてゐるけれども、吐く時の事は全然考へてゐないと思ふ。未だにマスクを掛けると眼鏡が曇るのだ。眼鏡が曇ると危ない――當り前の話だが、さう云ふ觀點からマスクを改良しようと考へるメーカの人はゐないらしい。何で頤の方でなく目の方に呼氣が拔けるやう、マスクを作るのだらう。

平成二十一年三月十八日
「旧字旧かな」と言つてゐる人は、「旧」と云ふに拘つてゐるからこそ、「古い」ものでなければダメ――古典文法で書かなければダメ、と云ふ「理窟」に行つてしまつてゐるやうな氣がする。
正字正かな派にしてみれば、古いとか新しいとかは關係ないんだから、別に古典文法に行く必要は無い。
平成二十一年三月十八日
と言ふか、古いとか新しいとかを氣にしないから、正字正かな派の人間は、現代文だらうが擬古文だらうが問題にしない。
「趣味の旧字旧かなでなければダメ!」「古典文法に從つて書かない正字正かな派は不徹底!」とか言つてゐる人の方が、よつぽど偏狹だと思ふ。
平成二十一年三月十八日
正字・正假名使ひの爲のアンテナ(i-know)は、ちやんと正漢字正假名遣の使ひ手を選んで載せてゐるので、正かな派にとつて「使へる」アンテナになつてゐる。爲念。
平成二十一年三月十八日
「Opera Turbo」テスト版公開、圧縮によりブラウジングを高速化
Lunascape5.0正式版公開、3種類のレンダリングエンジンを搭載
Lunascape5.0で広く一般の人が、普通に最新技術を使えるように
「Google Chrome」次期バージョンのベータ版を公開
平成二十一年三月十八日
「サウンドストリート」は80年代の記録、早く合法配信したかった

平成二十一年三月十七日
コトバの科学1『コトバと人間』(中山書店)なる本を、例によつて田村書店の無料箱から拾つて來た。それには「ヒューマン」9なる小册子が挾まつてゐた。卷頭に小林英夫(小林秀雄に非ず)の「ニッポン語とは?」なる詩のやうなものが掲げられてゐる。英夫小林氏の思想が端的に示されてゐて大變興味深い。短いものなので全文轉載する。
わたしがわたしを
「わたし」と呼ぶことの なんとおも恥ずかしい
なんと勇気のいることだろう
とはなんとなさけない
ニッポン語だろう
わたしはわたしをなんと名づけたものかと
あなたを前にしながら考える
あなた―― いや そのあなたを
「あなた」と呼ぶにも勇気のいる
ふしぎなニッポン語
そのニッポン語を何百年もなおそうとしない
惰性のニッポン人
なんとおも恥ずかしいは誤植なのか何なのかわからない。
英夫小林氏は有名な言語學者で、同時に、有名な表音主義者だ。しかし、氏は、日本語の表記を表音化しようと考へてゐただけではなかつた。氏は、日本語を根本的に「なおそう」と考へてゐたのだつた。よつぽど日本語が嫌ひだつたらしい。
平成二十一年三月十七日
「御心ずかい」の件: 昔の『広辞苑』の見出しの表記方針はいまと違う - 安眠アダージェット
そしてみんな間違えた (こころずかいの件) | 朱雀式
續・「心ずかい」の件 - 科學の剃髮
平成二十一年三月十七日
2009-03-15 - kyoumoe dovrebbero funzionare per vedere CLANNAD.
kyoumoeのコメントが俺への惡口だと云ふので(http://www.geocities.jp/janggijp/2009-03.html#D17-1)身構へて行つたが、よくあるパターンの惡口だつたので拍子拔け。俺は、漢字の話なんかしてゐないし、人格批判も全然してゐないんだから――こいつ病氣なんだらうとしか思へない。と言ふか、kyoumoe氏は何うやら漢字と假名遣の切り分けが出來ないアレな子の一人であるらしい。本人は自分が悧巧だと堅く信じて他人を見下してゐる「アンチ」の人種なので話にならない。
寧ろ問題はHii氏なる人物のコメントで、例の白石の本が深刻な問題を世間に惹起してゐる事實を明かにしてゐる。

昔の人々がなんなく歴史的仮名遣いを学んでいたというのは違うみたいです。

『明治20年前後、表音式仮名遣を要求する“世論”がおこります。普通の人には歴史的仮名遣いは難しかったか問題があったのでしょう。そして実際に、明治30・40年代に、仮名遣いの見直しが試みられました。

その試みを阻んだのは戦前も『歴史的仮名遣の学問的権威に漠然とあこがれる作家や文化人の情緒的な声』だったそうです。

以上は「かなづかい入門 歴史的仮名遣vs現代仮名遣 平凡社新書 白石吉男著」を読んでの部分的まとめです。

白石氏曰く──

日本人にとって漢字は無数にある。その無数にある漢字一字につき固有の漢字音があって、固有の漢字音はさらに呉音・漢音・唐宋音・慣用音と数種類。これらの歴史的仮名遣のかなのつかい分けをそらで覚えることなど、普通の日本人には不可能である。パターンがあって、パターンさえわかれば簡単というかもしれないが、パターンがわかるまで勉強すれば、とっくに漢字学者になっている。普通の人はそんなに暇人ではない。

(以上引用)

しかも歴史的仮名遣いは、江戸から万葉に至るより古いものを原典とする方針らしいですが、古文の研究・考古学的出土品の発見などにより、より昔の言葉が見つかれば改訂を検討されなければならないわけです。こうなると正式・公的に採用されたものが次々変更される、と。

>旧字を使うから馬鹿なのではなく、馬鹿が旧字を使っているのです(´ー`)

さて、最後になりましたが私も歴史的仮名遣いを現代でも使っているかたで名文を書かれているかたに出会ったことがありません。仮名遣いに縛られ、文章そのものを点検することに意識が希薄なのかもしれません。

──普通の人はそんなに暇人ではない!

全て福田恆存が『私の國語教室』で論破してゐるのだが、國字改革の推進派・當事者は、無知ゆゑにか故意にかは知らないが、福田氏の本を無視して、論破された筈の出たら目を垂れ流し、自分逹が傳統派を論破したかのやうに言つて、誇らしげな顔をする。
広辞苑の「こころずかい」のやうに、「事實」を證據に持出してゐると、多くの人が騙される。今の人は「事實」があると、何んなものであれ「解釋」を受容れてしまふ。ここに白石氏はつけこんでゐる。
白石氏の場合、「明治時代、仮名遣いの見直しは潰されたのである」と云ふ書き方で、事實を述べるやうな顔をしてゐるのだが、これは價値判斷の混入した極めて偏向した物の見方であり、自身の偏見を讀者に押附けてゐる。
その上、「見直し」を「潰した」のは「權威主義者の情緒的な」一部の人間だと白石氏は極附けるのだ。斯うした「わかりやすい説明」をすれば、多くの讀者が騙されると白石氏は知つてゐて、わざと言つてゐるとしか思はれない。
讀者は書き手の嘘に注意しなければならない。だが、白石氏は今、「歴史的かなづかひの嘘を暴く」のやうな言ひ方をしてゐる。讀者は、書き手である白石氏ではなく、歴史的かなづかひの側を疑ふやうに誘導されてしまふ――「騙してゐたのは歴史的かなづかひの側だつたのだ!」と白石氏は誘導してゐる。その誘導に讀者はうかうかと乘せられる。
福田恆存は『國語問題論爭史』の卷末で「今後の問題」と題して「將來」の鬪爭の方針を示してゐる。先日引用した通り、そこで福田氏は幾つかの重要な指摘をしてゐるのだが、その指摘は依然として大變有效である一方、一般に知られてゐない上、理解されてゐない爲、白石氏のやうなデマゴーグの宣傳によつて多くの人が容易に騙される結果となつてゐる。
歴史的假名遣とは理想であり觀念であつて、改革前に行はれてゐた現實のそれを固定的に考へるべきではない。と福田氏は指摘してゐるのだが、白石氏の讀者は古文の研究・考古学的出土品の発見などにより、より昔の言葉が見つかれば改訂を検討されなければならないわけです。こうなると正式・公的に採用されたものが次々変更される、等と言つて歴史的かなづかひを非難してしまふ。
平成二十一年三月十七日
また、福田氏は、情緒的な人々の意見もまた、言葉と云ふ情緒を表現するものに關しては、重要なものである事を指摘してゐる。白石氏もさうだが――表音主義者・國字改革の推進派・當事者らは、言葉を單なる情報傳達の道具としか看做してゐない。國字改革の當事者らは、言葉を一面的に見てゐるのであつて、さう云ふ偏つた物の見方に基いて「表記の見直し」をやつたのである。それを受容れてゐる多くの日本人も、偏つた物の見方をしてゐると言はざるを得ない。(ちなみに、斯う云ふ指摘を「人格批判」のやうに言つて非難するのは、感心しない)
平成二十一年三月十七日
歴史的かなづかひを非難する人々は、歴史的かなづかひが常に改訂を要する、と言つて非難してゐる。固定した規範が無ければ、書き方の指針として役に立たない、と言ふのだ。
けれども、「現代仮名遣」が固定的で變化を拒絶する性質を持つのは問題だ、と歴史的かなづかひを支持する人間は指摘し、だからこそ「現代仮名遣」を非難してゐる。
――歴史的かなづかひは變化を受容れ、「現代仮名遣」は變化を拒む。
一方で、「言葉は生き物のやうなものであり、時代の變化に應じて變化すべきものである」――これこそ、歴史的かなづかひを否定する人が必ず主張する事なのだ。彼らは、歴史的かなづかひは、「現代仮名遣」に變化すべきだつた、だから變化したのは良い事なのだと言ふ。ところが、その同じ口で、その人は「歴史的かなづかひは變化すると云ふ問題がある」と言ふ。變化するのは、良い事なのか、惡い事なのか。
平成二十一年三月十七日
多くの人が、自分の主張の根本的な部分に矛盾がある事實に氣附いてゐない。ただ、場當り的に、相手の言つてゐる事を論理的に否定出來ればそれで相手を論破した事になるのだ、と信じてゐる。けれども、論破する論理が時と場合によつて正反對のものであるならば、その人は御都合主義的なのであり、非論理的であるのである。多くの人がそれに氣附いてゐない。ただ、場當り的に相手を論破して――論破した積りになつて、それで自分は頭がいいと思ひ込んで、快を貪つてゐる。
「ただ論破するだけでは意味がない」と云ふのは、「論破する側の論理が一貫してゐないならば駄目だ」と云ふ事だ。
然るに、或原理に基いて一貫した主張を展開し、論理的に相手の主張を打破るのならば、それは既に積極的な主張である。
「現代仮名遣」を受容れ、歴史的かなづかひを否定する人々には、根本的な原理が無い――あるとすれば「現状肯定」或は「便宜主義」だが、それらは思想的な原理ではなく、無思想の肯定であり、渾沌による思想の暴力的な破壞を目指す態度である。
一方、歴史的かなづかひを肯定し、支持する爲には、それ以前に、理想への信念と云ふ思想的態度が要求されねばならない。即ち、自分自身の外部に、自分自身を超えた場所に、正しいもの・眞實があると信ずる態度であるが――これは、實は全ての人間が持つてゐる筈の態度だ。
正しい事があると信じてゐるからこそ、人は他人を「正しくない」と言つて批判しうる。「正しい事も正しくない事もない、何うでも良い」と信じてゐるのなら、そもそも他人の言つてゐる事を「正しくない」等と咎め立てする氣にはなれない筈だ。他人の言つてゐる事が何であれ何うでも良いと思ふ筈なのである。ところが、「正しい事等存在しない」と言つて、他の正論を言つてゐる人間に「正論を言ふな」と要求する人間は――しかし「正しい事等存在しない」と云ふのは「正しい」と信じてゐるのであり、その時點で自分は既に正論を唱へてゐるのである。他人を批判し、他人に要求する、或は、他人の人物を評價する、とは、自分自身が何か正しいものを信じてゐて、その正義に照らして他人の價値を判斷してゐる、と云ふ事實を示すものにほかならない。意識しようがすまいが、價値判斷してゐる時點で、その人は正義を信じ、自分の信ずる「正しい事」を持つてゐるのである。それは一つの例外もない。
――全ての人間は、正しさの觀念を持つ。ならば、「正しい日本語」は「幻想だ」等と言ふ事は不可能だ――「正しい日本語も正しくない日本語も存在しないと言ふ俺の主張は正しい」、しかしその主張はもつと要約出來る。「何んな日本語であれ正しい」。
それに對して、「或種の書き方は正しくなく、それを訂正する事が可能である」と信ずる立場があり得る。これは、多くの日本人が信じてゐる立場の筈だ。だが、此處からは、よく考へる事で、論理的な正しさを追究できるか、考へないで既成事實を受容れる處世術に留まるか、が分れる。論理的な正しさを追求するならば必然的に歴史的かなづかひと云ふ正しい假名遣の觀念を受容れねばならない。一方、既成事實を受容れるだけならば「現代仮名遣」でいいや、と云ふ事になる――それを偉さうに・權威主義的に主張する時、歴史的かなづかひを否定する立場になるだけだ。心理的に、歴史的かなづかひを論理的に否定する事が不可能である事實を、歴史的かなづかひを非難する人々は全員無意識に知つてゐる。だからこそ、居丈高に歴史的かなづかひを否定して見せるのだ。
論理的に考へれば、「現代仮名遣」を肯定する理窟は全くない。歴史的かなづかひを否定する爲には、「現状」を以て攻撃すれば攻撃し易いが、多くの人の支持を集め易いだけで(政治的に有利であるだけで)、論理的には確實に破綻する。歴史的かなづかひの觀念に論理的に對抗するには、徹底した表記の表音化しか手はない。が、逆に言ふならば、もし、徹底した表音化を拒否するならば、歴史的かなづかひを支持するしかないのだ。
これは、「俺の正義」「俺だけの正義」を言つてゐるのではない。「正しい」と云ふ概念を人間は、人間である限り全員持つてゐる。「現代仮名遣」は誤である――と云ふのは、其處から必然的に引出される結論だ。「現代仮名遣」が駄目なら、歴史的かなづかひを採用するしかない。と言ふより、歴史的かなづかひと言ふのは、「昭和何年に用ゐられてゐた或種の書き方」のやうなものではなく、理想の書き方なのだ。我々人間は、理想を求めて生きて行かなければならない。俺はさう云ふ當り前の價値觀を示してゐるに過ぎない。
平成二十一年三月十七日
鳩笛雑記帳
松永氏は「旧字旧かな」派の人だから、正しい假名遣ひで書く氣がないんだらう。立場が違ふんだから「正字正かな」派の人間としては咎め立てする積りはないよ。
「現代仮名遣」で書いてゐる人のところに行つて一々「あんたの書き方は間違ひだ」と指摘してまはつたりはしないし。
「旧字旧かなこそ正しい」みたいな、價値觀の話になれば、論爭する事は可能。價値觀とは別の、單なる「書き方」のところで、さうさう叩いたりする必要は無いんだよ。
もちろん、人の注目を集める爲には、戰略的に「間違ひを叩いて見せる」パフォーマンスも時として必要。ウェブサイトをやつてゐて、アクセス數を稼ぐ爲には、時としてパフォーマンスが必要になる。これはしかし、正字正かなの主張と何の關係もない。
平成二十一年三月十七日
BLOGという名の日記 : 雑記#78

某「かなづかい入門」は一生買いません。

まあ買つても讀者は何も裨益されるところのものは無いから買はなくていいと思ふけれども――買つて信じ込んでゐる讀者が正字正かなを非難するやうになつてゐる現状、正かなアパッチ軍の人逹は反論用に持つてゐるといいよ。
平成二十一年三月十七日
ヒンチリフ(松原正訳)『不条理』訳者あとがき

六年前、私はある雑誌に次のように書いた。

エスリンはピンター劇を「不条理演劇」と見做すわけである。現代人にとって人生は不条理であり、従ってそれはピンターの劇にも正確に反映されざるをえまい、人生に意味があるかの如きイリュージョンを与える劇は、ピンターのような劇作家にとって欺瞞としか思えないのだ、そうエスリンは言う。

一見不真面目で、身も蓋も無い事を言うようだが、人生が真実不条理ならば、不条理劇を書く事自体も、いや、それを演ずる事もそれを観る事も、すべて馬鹿げた意味のない事となるわけである。人生が不条理としか思えぬのなら、不条理劇など書くに及ばぬ、即刻自殺してしまえばよい。すでに断った通り全くもって身も蓋も無い言い方だが、人生の不条理を説く不条理を身に沁みて承知していない「不条理劇」の作者など、私は信じられない。

ここに訳出した「不条理」の著者アーノルド・ヒンチリフは、第十一章「結論」において、一九六二年には不条理演劇の流行がすっかり下火になってしまったとするジョン・ラッセル・テイラーの意見に同意しているが、六年前の日本では、不条理演劇の太鼓持ちはなかなか多かったのであって、私の意見はどうやら愚かしき保守的演劇観として黙殺されたようであった。つまり、かなり親しい友人でさえ私の反論を当惑顔で聞いたのである。「表現すべきものは何もない」というベケットの言葉を引用する友人には、「それではなぜベケットは書くのか」と私は反論したし、『ゴドーを待ちながら』では「何もせずにただ待つしかない現代人の宿命が表現されている」とする意見には、「待つという行為をしている限り何もせずにいるとは言えまい」などと反論した。まあ、ずいぶんと向になったものだけれども、ベケットの苦悩に心底から同情しているかのような顔を見せられるたびにやりきれない気持になり、その偽善もしくは人のよさを揶揄したくなったのである。そこで、面構えからすればイオネスコのほうがペテン師だろうが、人は見掛けによらぬもの、あんがいベケットのほうが食わせ物なのかもしれない、などと放言したりもした。

ところで、その後程無く欧米における不条理演劇の「短命な流行」は終わったのだが、わが国における不条理演劇の流行はいまだに下火とは言えぬ状態である。ヒンチリフも指摘しているように、欧米の不条理には五十年の歴史がある。キリーロフやモリー・ブルームを知っている者が、ウラジミールやエストラゴンやタラーヌ教授ごときに、いつまでも新鮮な驚きを感じているはずがないのだ。とまれ、欧米における流行は終わったのである。そしてそうなれば、早晩わが国における流行も終るであろう。が、そのときこそは不条理文学の限界のみならず、その重要性をも強調しなければならないときなのである。

……。

平成二十一年三月十七日
Download details: XML Notepad 2007
窓の杜 - 【NEWS】Microsoft、フリーのXMLエディター「XML Notepad 2007」を公開
Microsoft謹製、フリーのXMLエディタ「XML Notepad 2007」リリース:CodeZine
平成二十一年三月十七日
無題 - 黎明日記
人は人を救えるだけの力を持ち得ない | 某氏のたわごと
某氏の方がクリスチャン的だ。

平成二十一年三月十六日
一寸先は餡の雲、先は文乃さんストーリー
はてなのサーヴィス、2ちゃんねると同じやうな利用のされ方をされてゐるやうな氣がする。本質的に「ブログ」と「掲示板」とは同じものだから仕方がないんだらうけど。
平成二十一年三月十六日
つにてんてん - the OYAKONEWS@Hatena::Diary

鼻血が「はなぢ」ということは理解できるが、ローマ字変換は音でやっている(私の場合)ので、「ず」と「づ」の違いについて困惑することが多い。ATOKが警告を出してくれるようになって、私は初めてその違いについて認識するようになった。つまり、頭痛を「づつう」と綴るのは間違いで、正しくは「ずつう」なのだと、再三ATOKが警告してくれる。

「二本ずつ配りましょう」のような、「ずつ」を私はATOKが間違いを指摘してくれるようになるまで、ずっと「づつ」と思っていた。

歴史的假名遣だと「はなぢ」「づつ」が正しい。「現代仮名遣」は「はなぢ」「ずつ」と書けと命令する。「づつう」と書くのは字音假名遣。それを「現代仮名遣」は「ずつう」と書けと命令する。
ATOKが出した警告は、「現代仮名遣」の「命令」を「正しい」と言換へてゐるもので、實際に正しいものではない。
「現代仮名遣」に「正しい」の概念は存在しない。ただ、「これはこう書け」と命令してゐるだけだ。それぞれの書き方に根據があるやうに思つてゐる人もゐるが、「現代仮名遣」全體を通して一貫した規則は全くなく、場當り的に「これはこう」と言つてゐるだけなので、實は根據など存在しない。
平成二十一年三月十六日
BLOGという名の日記 : 雑記#76
活字中毒R。
「正論」って言うな!!
「正論である」事と「自分の主張に正論と云ふレッテルを貼る」事とを區別出來ない人が多過ぎる。
暴力が指彈される時、「暴力を指彈する行爲」もまた暴力となり得る、と云ふ事實が忘れ去られる。今の「ネット」は、「原理主義」の怖ろしさを言立てる事によつて自らの兇暴性をカムフラージュする「アンチ」の暴力が否定されず、肯定される事によつて、大變な事にならうとしてゐる。論據を示して正しさを主張してゐる人間に對しても、「正論を主張している!」と極附けて排除しようとする「アンチ正論信者」が、今の「ネット」には餘りにも多いのだ。「正論原理主義」の横行が怖いなら、「アンチ正論信者」の跳梁跋扈も怖い。何も考へず、ひたすら排除を狙ふ、と云ふ點で、「原理主義」も「アンチ」も、全く同じだ。ところが、現在大量發生しつつある「アンチ」は、「自分は原理主義とは違ふ」と言張る事によつて、自己の暴力性を反省する事がない。
最近は「正字正かな」と云ふ文字を見て、頭に血を上せた人がゐた。「正しい」と「言ふな」と、當り前のやうに言ふのだ。自分の正しさを「信じてゐる」のは誰だらう。「正しい」と云ふ言葉を使つた事が問題なのか、「正しい」と云ふ言葉を使ひさへしなければ自分の正しさを確信してゐていいのか。結局、排除してゐるか何うかをきちんと見極める事が重要なのだ。ところが、それをやりたがらない、感情的な人がウェブには大變に多い。傍觀者を氣取りながら、ちよつとでも氣に入らない事があると、相手を「嫌い」と言つたり「キ印」と極附けたり、感情を剥き出しにする人がゐる。
平成二十一年三月十六日
倫理的な主張には利己的な動機が隠れている
これは完全な間違ひ。非倫理的な主張でも何でも人間の主張全てに利己的な動機を見出す事は可能だ――實際のところ、さうしたものを見出して面白がつても何の意味もない。徳保氏の場合、意味もなく、ただ面白がるだけの爲に、物事の相對化をやつてゐるだけだから、パズルが好きな人には堪らなく樂しい文章なのだらうが、俺には興味を惹かれる文言が一つも見出せない。
正直言つて、大學側がすべき事は何もない。徳保氏は、よく言はれてゐる事を相對化して見せてゐるだけだから、それもまた相對化する事は可能であり――相對的な事ならば我々は氣にかける必要が全く無い。努力も成果も時と場合によつて評價されたりされなかつたりする、それだけの話だ。制度を何う斯うすれば確實に良くなる、等と言つた事は無い。
平成二十一年三月十六日
「御心ずかい」の件のまとめ - 科學の剃髮
麻生氏の書き方を「正しくない」と批判し得る判定基準は存在しない。「現代仮名遣」も『広辞苑』も「正しさ」の基準ではない。そもそも現代の日本に「正しい日本語」の基準は存在しない。全てナンセンスだ。そのナンセンスに氣附かず、多くの人が生眞面目に「正しさ」の議論をしてゐる。こんなに滑稽な話はない。
歴史的假名遣の觀念を支持するならば、この時は「正しさ」の基準を認めるのだから、麻生氏の書き方は誤であると斷定出來る。が、その時には「現代仮名遣」の命ずる多くの書き方も間違ひだと判定しなければならない。さうなると、「現代仮名遣」の「支持者」が麻生氏の書き方を「正しくない」と言つて非難するのは、自分自身間違つた書き方をしてゐながらそれに氣附かず人の書き方を間違つてゐると嘲笑ふ、まるで猿の尻笑ひのやうな恥かしい行爲をしてゐるのである、と指摘しなければならない。
みんな中途半端なところで適當に議論してゐる。だからこそ、感情論になり、罵倒やら嘲笑やら「見下し目線」やらが前に出て來るやうになる。傍觀者を氣取つてゐる人こそ意外と必死である事實を最近知つた。
平成二十一年三月十六日
うちのTH-15LD70は、夕方の豫約を時々失敗するのだが、15:00〜に豫約の時刻を設定しておいたところ、また失敗してゐた。19:00に電源を入れたので問題にならなかつたが、氣持ち惡い事この上ない。不思議なのは、夕方の豫約は信用できないのだが、それ以外の全ての時間帶で確實に豫約を實行する事だ。何なのだらう。電波は、J:COMが調査したが、問題ないと言つてゐる。

平成二十一年三月十五日
先日拾つて來た清水幾太郎『オーギュスト・コント ――社會學とは何か――』(岩波新書黄版五十九)を讀んでゐるけれども、かの大轉向をやり遂げた清水氏の「巧く行かなかつた言ひ訣」として大變興味深い。實際のところ、清水氏の言動は場當り的かつその場その場では大變激越で、或る何かを信じてゐるかのやうに振舞ひながら時期が來ると別の何かを信じてゐるかのやうに振舞ふ――その間には轉向があるかのやうに思はれる。それを清水氏は、さうではなく、時期に應じて・時代の變化に即して態度を變へたのだ、と説明しようとする。其處では、科學的な立場に基く社會學者の立場が強調され、觀察者と相對主義者としての社會學者として清水氏は自身を定義しようとしてゐるかのやうに見える。オーギュスト・コントがさうであつた、と言ふのだ――そして清水氏が大學の卒業論文で扱つたのがコントであつた。
平成二十一年三月十五日
『國語問題論爭史』(新潮社)p.342

國語問題においても、他のあらゆる問題と同樣に、二つの立場が存在する。一つは本質と歴史とを重視する立場であり、他の一つは便宜を目やすとする立場である。前者においては、難易は第二義的な考慮しか拂はれず、基準は現代と我々とを超えたところに、言ひ換へれば、過去、現代、未來を包含しうる國語の本質を想定するところに現れる。それに反して後者においては、難易こそ唯一絶對の基準である。が、難易を基準とするといふのは基準なしにするといふのと同義であつて、それは基準なきをもつて基準とするといふ全く無意味な文語に歸著する。

なぜなら、難易は好惡と同じく主觀的なものである。客觀的には同一の對象が時代によつて、また地域によつて難易を異にする。それどころか、個人個人の能力、素質、性格、環境などによつて、甚だしい相違がある。なるほど、それでも大よその平均値は考へられようし、それを基準として教育を行ひ得るであらう。が、それを基準として一般化される頃には、かつての平均値を今や難しと考へる者が壓倒的多數者となり、更に易き所に平均値を求め直さねばならなくなることは必至である。つまり、難易を基準とする時には、人は限りなく易きにつくことを求め、基準は絶えず下方に向つて變動し續けるのである。變動し續ける基準とはそれ自體矛盾を含む。

表記法において難易を主とするとは、書き易く、かつ解ればよいといふことに歸著し、客觀的な正誤の觀念が曖昧になり、隨つて誤りを誤りとなす根據を失ふ。例へば「現代かなづかい」においても助詞「は」「へ」「を」は歴史的假名遣を踏襲してゐるが、難易の觀點からすれば、「私わ學校え本お持つて行く」と書く方がよりよく、事實「現代かなづかい」前文においては「は」「へ」「を」を本則とするとあつて、「わ」「え」「お」を否定してゐない。それを誤りとなす根據がないのである。それなら、次の時代に「わ」「え」「お」を本則とするやうになつても、「は」「へ」「を」を誤りとなす根據もない筈である。既に今日においても「現代かなづかい」を本則としてゐるだけのことで、歴史的假名遣を誤りとなす根據はどこにもない。……。

平成二十一年三月十五日
『國語問題論爭史』(新潮社)pp.350-51

表記はあくまで耳にではなく目に訴へるものであり、音にではなく意味、即ち語義・語法に從ふことを原則とすべきである。歴史的假名遣はその原則に基づき、時と所とを超えた一貫性を保ちながら、同時に音便その他の採入れによつて、現代語も方言も自由に表記しうる。勿論部分的改訂は可能であらう。と言ふより、「言ひて」「積みて」「高く」がそれぞれ「言つて」「積んで」「高う」のごとく音便表記を行つてきたこと自體が既に部分的改訂を認めてゐる何よりの證據である。隨つて、歴史的假名遣の主張は必ずしも現在のそれの完全な復活を意味しない。例へば、これは時枝誠記氏の試案であるが、「うぐひす」におけるごとき語中語尾の「は」行文字は、語義語法に無關係であるが故に「うぐいす」と改め、「かたは(片端)」「かけひ(懸樋)」「うすらひ(薄氷)」のごとく語義を示すものや「思ふ」「笑ふ」のごとく語法に關するものは、そのまま「は行」文字を保存することも考慮しうる。音便ばかりではない。例へば戰前の歴史的假名遣においても「用ゐる」は「用ひる」と教へてゐた。少くとも大正期にはさうなつてゐた。が、その語義が「もち(持)・ゐる(率)」であることが定説となつて後は「用ゐる」と訂正した教科書が多くなつた。また「あるいは」はすべて「あるひは」であつたが、今日では「家なる妹い」の「い」と同じく「ある」に主格を示す「い」を附したものと見做されるに至つたので、これを「あるいは」と書くやうに訂正すべきであらう。歴史的假名遣とは理想であり觀念であつて、改革前に行はれてゐた現實のそれを固定的に考へるべきではない。

隨つて、今後の問題としては、一應の暫定措置として、「現代かなづかい」を廢し歴史的假名遣に復した後、その部分的改訂を試みるのが至當である。……。

平成二十一年三月十五日
『國語問題論爭史』(新潮社)p.352

「現代かなづかい」が十數年の既成事實であることを言ふ人がゐるが、歴史的假名遣は明治以來その廢案に至るまで數十年の既成事實であり、たとひ嚴密に守られ教育されてゐなかつたとしても過去千年の歴史をもつものであつた。より合理的、より價値あるものであつても長年の既成事實が認められなかつたのに、矛盾と混亂に滿ちたものに戰後の混迷期十數年を楯に既成事實を言ふのは何としても理窟に合はない。

平成二十一年三月十五日
『國語問題論爭史』(新潮社)pp.356-357

「送りがなのつけ方」(新送假名)は幾多の矛盾を含んでゐるが、その點では過去の慣習的な送假名においても同樣である。惡いのは「送りがなのつけ方」それ自體ではなく、送假名を固定せしめ、それを強制しうると考へたことである。……。

平成二十一年三月十五日
橋本驛南口の日金工跡の空地では今年も雲雀が鳴いてゐるが、既に周圍は幕で圍はれ、工事が始まらうとしてゐる。
平成二十一年三月十五日
「御心ずかい」 - 科學の剃髮
心遣いは、「こころずかい」か「こころづかい」か? 鼻血は「はなじ」、「はなぢ」、地震は「じしん」、「ぢしん」?:トクダス:So-net blog
現代仮名遣いの「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の使い方 - BIGLOBEなんでも相談室
こづかい?こずかい? - Yahoo!知恵袋
うーん、なかなか難しいですね。「現代仮名遣」は専門家様にしか解りませんね。何でみんなこんな難しい「現代仮名遣」を支持してゐるんだらう。
日本語イイタイホウダイ 子供は天使
本當に非道いな。
 歴史的仮名遣いを知っていれば問題はないのですが、歴史的仮名遣いがトオクなった現在、この使い分けはむずかしいことになりました。
今でもみんな「現代仮名遣」が訣わからなくて困つてゐるんだよ。なのになぜか「困つてゐない!」とみんな言張る。訣が解らない。
歴史的假名遣なら書き方を説明できる。ならば歴史的假名遣をみんな使へば良い。それだけの事なのに、なぜか意地になつて訣のわからない「現代仮名遣」を使はうとして、「正しいものは正しい!」式の目茶苦茶を押通さうとし始める。勿論そんな目茶をやつても無理なものは無理だから、「現代仮名遣」を論理的に正當化する事は出來ない。説明には必ず歴史的假名遣の規則が出て來るんだから。仕方がないから「キモい」のやうな言ひ方で或種の書き方を排除する事になる。斯うなると最う「正しい」と云ふ概念それ自體が否定され、「空氣讀め」式の押附けになる。ところが今度は、自分が感情的にやつてゐる押附けを押附けと認識できなくなつて、「理性による押附け」を罵倒し始める。斯うなると知性の否定にならざるを得ない。ところがそこで惡い智慧だけを働かせて、理性的な意見を言ふ人間の頭の惡さを指摘する事で、感情的な態度をとる自分の頭の良さをアピールし、自己正當化しようとする、恐ろしい處世術が登場する。自分を正當化する爲に、物の道理を犠牲にしようと言ふのだ。此れほどの思ひ上りはないと思ふのだが、自分を否定する人間を否定する爲に彼らは豫め「傲慢」と云ふ罵聲を投附けておく智慧を身に附けてゐる。自分自身の傲慢を隠匿する爲には、他人を「傲慢」と極附けて非難し續ける事ほど有效な方法はない。理性に續いて道徳觀念まで破壞して、自分を守らうと云ふ訣だ。そこまでして「自分」を守らなければならない理由は本來人間には無いのだが――「自分のものは守つて當り前」と云ふ大前提がなければ「自分の仮名遣い=現代仮名遣」を守る爲の理窟が附かない。斯くして「自己正當化」と云ふ本能は常識へと轉化し、常識へと轉化する事で價値觀は根柢から覆る。自己正當化の本能は抑へつけるのが當り前だし、抑へつけなければ惡徳であつたが、それが常識化した今では一種の「美徳」となり、やらねば頭がをかしい事にされるのだ。「現代仮名遣」は、日本人の價値觀を根柢からひつくり返し、をかしくしてゐる。正しいものを正しいと認識させないのみならず、そもそも「正しい物など存在しない」と云ふ觀念を常識化させた罪は重い。然るに正しいものは必要だから、人々は「現代仮名遣」を「正しいもの」と信じ込み、既成事實として押附けるのを當り前の事と思つてゐる。然るに、歴史的假名遣の存在した既成事實を受容れる事は出來ない。そこで歴史的假名遣は「存在しなかつた」と云ふ歴史的事實の歪曲までもが行はれるやうになつてゐる。此れでは歴史の歪曲が行はれるのも當り前の話だ。
平成二十一年三月十五日
にほんご表現のページ
平成二十一年三月十五日
ニュース速報++ 麻生総理、馬鹿なアナウンサーを一本釣り
広辞苑は見出しで發音を使つてゐたんだよ。
それが編者が死んで、殘つた人に方針が傳はらなかつた、と言ふより、殘つた人は編者の考へを理解出來なかつたから、どんどん訣のわからない出たら目なやり方で改訂をするやうになつて、それで今の広辞苑はまるで信用できないものになつた。
the view from nowhere
時枝誠記の作つた辭書も見出しは發音を使つてゐた。
しかし、小学生もこんな難しい規則を丸諳記させられて大變だな。「現代仮名遣」なんて理解しやうのない代物を、今の日本人は丸諳記しておかないと、馬鹿呼ばはりされるんだぜ。「現代仮名遣」は、「例外」だの何だの、XHTMLの仕樣みたいにあつちこつちで變な參照があつて、それを「理解」しておかないと間違へると云ふ羂が大量に仕込まれてゐる。本氣で理由を理解しようと思へば、言語學の知識が必要だし、歴史的假名遣も知つてゐなければならないが、さうした知識があると「現代仮名遣」が如何に出たら目かははつきりわかる事になる――そこで、それでも「商賣の種」だから「日本語の專門家」は「理解した事」にしなければならなくなつて、知つたかぶりで講釋するしかなくて、さうして判つた振りをして話をしてゐるうちに自分自身、頭ををかしくしてしまふ。「日本語の專門家」どもの「現代仮名遣」の講釋が、如何に權威的で押附け的である事か。ところが多くの日本人が、さうした「專門家」の言ふ事だけは何故か疑ひもせず、頭から信じ込んでしまふ。
他の事だと「疑へ」「疑へ」と言つてゐる相對主義者が、なぜか「現代仮名遣」だけは何も考へないで頭から信じ込んでしまふ。俺は相對主義者と自稱する人間が「現代仮名遣」を相對化し、疑つたところを一度も見た事がない。だから俺は日本の自稱相對主義者の連中を一人も認めないし、信じない――もつとも、そこまでして相對主義者は自分を信じられない存在にして、他人から相對化されてゐたいのかも知れないが。
平成二十一年三月十五日
はてなブックマーク - 麻生首相の無知が久々に炸裂!「ずかい」 - 政治ニュース : nikkansports.com
はてなでも大混亂。何を基準に「正しい」と言へばいいのかみんな解つてゐないから――斯うなると最う日本語なんて滅んでゐると言つていいと思ふよ。何うしてはずいのか、解つて言つてゐる人が何人ゐるだらうね。はずいだつて。
「現代仮名遣」を支持してゐる人はみんな「言葉は變化するものである」と言ふんだよ。ところがさう云ふ人が喜んで「麻生がまた字を間違へた」と言出す。言葉が變化するものなら、「正しい言葉」なんてあり得ない――さう云ふ理窟で「正しい假名遣」としての歴史的假名遣を否定しておきながら、「麻生總理は字を知らない」と言ふし「日刊スポーツは正しい字を使へよ」と言ふ。目茶苦茶。ところが斯うした混亂を、今の日本人は「混亂だ」と認識する事すら出來ない。
kana-kana_ceo 言葉 現代假名ずかいは難しいね。「いなずま」だしな。 2009/03/15
mandel59 せかいじゅう いなずま かたず きずな さかずき ほおずき みみずく うなずく おとずれる かしずく つまずく ぬかずく ひざまずく さしずめ でずっぱり うでずく くろずくめ ひとりずつ ゆうずう …… 2009/03/15
平成二十一年三月十五日
麻生氏は広辞苑に從はなければならない義務がある? ある訣がない。一出版社の辭書に從ふ義務など國民には無い。「現代仮名遣」に從はなければならない義務がある? 「現代仮名遣」はよりどころであり個々人の表記にまで及ぼそうとするものではないから從ふ義務など國民には無い。
そもそも國民が個人として文章を書く際、據らなければならない規範は存在しない。「現代仮名遣」は規範ではない。多くの人は「規範だ」と信じてゐるのだが――それこそ問題で、規範でも何でもないものが規範だと一般に信じられてゐるのだから内閣は詐欺をやつてゐる事になる。然るに、正かな派が「現代仮名遣」の「強制性」を指摘すると、多くの人が「現代仮名遣は規範ではなく、強制性は無いから、正かな派はシャドーボクシングをしている」と言つて笑ふ。内閣・文部省と、國民は、結託してゐるのだ。その同じ口で、麻生氏を「正しい日本語を知らない」と言つて笑ふ。「現代仮名遣」を麻生氏には「強制」してゐるのだ。「現代仮名遣」に、「強制性」は、「ある」のか、「ない」のか。「現代仮名遣」を支持し、理窟を言ふ人は、時と場合によつて自分に都合良く性質を見出してゐるに過ぎない。
麻生氏の書き方を「正しくない」と言つてゐる人には「正しい日本語」の絶對的な基準とは何かを提示していただきたい。繰返すが、「現代仮名遣」は基準ではないし、基準たり得ない。広辞苑を持出すのは論外。では何をもつて「正しい日本語」と言つてゐるのか。
傳統的な表記を支持してゐなければ、それに從つてゐなければ、「正しい日本語」等と言ふ資格はない。「現代仮名遣」を基準に――基準だと思ひ込み――偉さうな口をきいてゐる連中こそ、頭が惡い。
平成二十一年三月十五日
http://d.hatena.ne.jp/iwaman/20090315#c1237095049
何とも滑稽なコメントが附いてゐて、今の人は自分が無知なのも知らないで他人を無知呼ばはりするのだなあと感心した。

気取って旧字体で書いているくせに、「心ずかい」を知らないとはなんとも滑稽ですね。

こちらでも読んでみてはいかがですか?

汝を「なんぢ」と書いたりしましたよねぇ、昔は。

ましてこの文章は草書体で書かれた文章ですから、文章を書く流れに応じて使用する文字は変化する物…。

づとずの変換は普通なのですよ。漢字をかなに直す事もね。

国語議連の活動は活発になって欲しいですね。

あなたのように上辺だけ知ったかぶった輩を増長させないためにも、ね。

今の人にとつて昭和三十年はなのだ。或意味とても參考になるコメントだ。
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と言ふか、このコメントをした人は、痛いテレビ : 麻生の手紙が間違ってるとマスコミ嘲笑 - livedoor Blog(ブログ)しかし昔の辞書には「心ずかい」とあり、昔風の送り仮名はこれでよかったようだ。と云ふ記述を疑ひもせず信じてしまつたらしいのだ。これは痛いテレビ - livedoor Blog(ブログ)の中の人が痛い事を言つてゐるだけなのだが、それを見拔けないk_azami氏も痛い。
広辞苑は、正かな派の新村出が編者となつて作られた辭書だが、見出しは當初、發音通りの書き方を採用してゐる。これは假名遣を知らなくても(或は、言語學的な見地から)發音で引けるやうにと云ふ配慮で、だから歴史的假名遣でも「現代かなづかい」でもない發音通りのかなを見出しにしてゐるもの。見出しの「ずかい」の下に小さく「づかひ」と出てゐるのは、づとずの変換が「可能」であると云ふ表示では無く、歴史的假名遣を示したものだ。辭書を知つてゐる人ならこの位の事は常識として知つてゐる。
平成二十一年三月十五日
個人的言語観 - 枝葉末説@ことのはぐるま
平成二十一年三月十五日
毎滅記・・・滅び行く毎日新聞の記録 恩知らずの上に馬鹿、フジテレビや日刊スポーツの低俗麻生バッシングに非難轟々

広辞苑、昭和三十一年 第一版 第四刷発行 には、

「−・ずかい【心遣】 心を用いること。心くばり。注意。心配。」

しか載ってない。

広辞苑

  • 昭和30年 第1版 こころずかい
  • 昭和44年 第2版 こころずかい
  • 昭和51年 第2版 補訂版 こころず(づ)かい

やっちまったよ。。。

何でみんな広辞苑の見出しが發音なのだと氣附かないんだ――。
しなぷす: 【マスゴミ】麻生首相の無知が久々に炸裂!「ずかい」

また言葉の粗捜しか・・・正直どうでもいいわ!

「づかい」でも「ずかい」でもどっちでもいい。

(旧辞書では「心ずかい」とあって、昔風の送り仮名であればは正解なのにね。)

勘違ひ、間違ひがどんどん擴散して行く。何なんだらう。
心づかいでも、心ずかいでも良かったのです(笑)みこねこぶろぐ
まあ、規範が存在しないし、そもそも「正しい假名遣」が存在しない今の日本國で、心づかいでも、心ずかいでも良かったのですと云ふのは結論としては「正しい」訣だが……。
マジで皆「心ずかい」でも「正しい」とか思つてゐるんだらうか。本當は「正しい日本語」が現在は存在しない、よつて「心ずかい」を「正しくない」と言ふ事が出來ないだけなんだが。
しかし広辞苑広辞苑つて日本は広辞苑村か。
誰一人、他の辭書を引いてみようと思ひ附かない邊、日本人は何うかしてゐる。
ちなみに岩波国語辞典第三版(1963年4月10日第1版第1刷発行・1971年2月5日第2版第1刷発行・1979年12月4日第3版第1刷発行1985年11月1日第3版第9刷発行)には「こころづかい(・・づかひ)とある。凡例によれば、見出しは現代仮名づかいなるものに據つてゐるとの事。今氣附いたんだが何だこれ。括弧の中は歴史的仮名づかい
平成二十一年三月十五日
新村出の著作
平成二十一年三月十五日
續・辭書ヲタクへの道

人名まで載せて、百科項目は圧倒的としながらも、疑問を投げている。表音表記である(「たづな」を「たずな」、「つづく」を「つずく」と表記しているという)ことや、漢字も思い切った俗字を使う場合がある、と。

平成二十一年三月十五日
辞書活用Wiki - 裏読み深読み国語辞書
平成二十一年三月十五日
XHTMLはセマンティックWebから一番遠い - vantguarde - web:g
平成二十一年三月十五日
インターネット紋切型辭典に追加。ちよつと迷つたが、「くっく」で登録。

平成二十一年三月十四日
詞の玉垣「平成廿一年三月十三日」

「はづかしい」は元々漢字かな交じりで「恥しい」と書いた。扨、「送り仮名の付け方」(昭和三十四年内閣告示第一号制定、昭和四十八年内閣告示第二号改定、昭和五六年内閣告示第三号改正) によると、「はづかしい」は、「単独の語」の「1 活用のある語」の「通則1 (活用語尾を送る語に関するもの)」の「例外 (1) 語幹が「し」で終わる形容詞は,「し」から送る」を適用すれば、「恥しい」になる。だが併し、此の場合は「通則2 (派生・対応の関係を考慮して、活用語尾の前の部分から送る語に関するもの)」のはうの「(1) 動詞の活用形又はそれに準ずるものを含むもの」の項目を適用して、「恥じる」との関聨から「恥ずかしい」とするのが此の内閣告示の上では正しいとされる。あんた方が嫌ふ正字正かな派は送り仮名は何処から送らうが構はないが出来る丈、短く送る事を念頭に置くので「はづかしい」は通常「恥しい」と送る丈である。「常用漢字現代仮名遣原理主義者」の方々にあつては、必ず規定通りの「恥ずかしい」と云ふ表記を使用せねばならない。又、内閣告示の規定に記述されてゐない「顔文字」を多用した文章は、規定に反する行為として厳に謹むと同時に、使用した者に就いては自己批判を要求すべきである。

と言ふか、顔文字使つてる時點で「現代仮名遣」を逸脱してゐるんだよな。
平成二十一年三月十四日
2009-03-03 - monotone

漢字もわざわざ古いのを使うような人ってオタクが一人称を「拙者」とか「某」とか「麿」とか「朕」っていうのと一緒でしょ?(´Д`)y-~

元ネタはたぶんあ〜るだよ

matsunagaの人は小難しく考えるのが好きだなあ

何で「一緒である」と言はないんだらう。まあ喜六郎みたいに根據ナシに力強く斷定する人もゐるから、斷定したからいいつて訣でもないんだけど。
元ネタは福田恆存『私の國語教室』だよ。
あ〜るだつて讀んでゐるけれども、あれには歴史的かなづかひとして不正なかなづかひがやたらと出てくる――あれが元ネタなら正しくないかなづかひを使つてゐる筈で、俺達があ〜るに出て來た假名遣を使つてゐない事實を見ればこの顔文字の臆測が誤である事實はすぐに解る。もちろん顔文字は、ただ「もつともらしい」事を言つて、何も知らない人を騙して信じ込ませる事だけが目的だから、論證する積りも何もなく、臆測を投出して上から目線で見下してゐるだけ。
と言ふか、プロフィールにアル中(´Д`)y-~なんて書いてある。この日記について - monotone。「y-~なら飮酒ぢやねえよ。大麻でも吸つてんぢやねえの」。by fankee_jr。
平成二十一年三月十四日
今はみんな元氣だけれどもそのうちみんな默り込むやうになるよ。
三年經つたら正かなアパッチ軍潰滅だよ。みんな俺を置いて何處かに行つてしまふんだよ。
平成二十一年三月十四日
アンチの人は「信者を惡人にする」と云ふ目的の爲には何んな論理矛盾を冒しても構はないと信じてゐる狂信者だ。
2009-02-22 - 備忘録ことのはインフォーマル
tanzenと云ふ人は、「正字正かな派は偏狹だ」と主張したが、同時に「福田恆存は正字正かなと言はなかつた」と指摘した。俺が「福田氏はここで「正字」ここで「正かなづかひ」と言つた」と反論したら「正字正かなと纏めて言つてゐなければ駄目だ」とtanzenは言返して來た。その後、tanzenは執拗に(執拗に、だ)「正字正かなと福田氏が言つた證據を擧げろ」と言ひ續けてゐる。擧句、俺がまた書き込んだらtanzenは「よくもまあ恥ずかしげもなく」等と拔かした。これはtanzenが、正字正かな派を、何と言つてでも罵倒できればそれでいい、と心から信じてゐる事を意味する。tanzenは、最初に他人を「偏狹」と罵倒したが、今は「馬鹿」と罵倒し、その今の罵倒をする爲に自分は偏狹な態度をとつてゐる。手段を問はず、tanzenは他人――ここでは正字正かな派、そして俺・野嵜――を罵倒出來ればそれでいいと信じてゐるのであつて、だからtanzenの論理は論理でも何でもなくただ「自分の言つてゐる事を尤もらしく見せかける」だけのためのカムフラージュに過ぎない。このやうな論理の使ひ方は許されない。論理は眞實を明かにする爲に用ゐられるべきだからだ。tanzenは、俺の發言を皮肉つてゐるが、アンチの連中は必ずあゝ云ふおふざけをやる。彼らが本氣でない證據だ。彼らは遊びで人をおちよくつて樂しんでゐる。
平成二十一年三月十四日
『國語問題論爭史』(新潮社)p.340

……。なるほど、内閣訓令告示は唯官廳に對して效力を發しうるものであつて、既成の表記法改革案も官廳の文書表記に對する改革命令であり、民間の一般表記や學校教育まで左右しうるものではない。が、事實上はさうはいかない。世間は官廳に「右へならへ」をし、學校教育も文部省に「右へならへ」をしたのである。義務教育が文部省に從ふのは當然と考へる人がゐるかもしれぬが、訓令告示は官廳相互間の、文部省内の通達、記録等の表記法を定めたものであつて、國家の、國語の表記法を定めたものではない。學校教育は國語の表記法に從ふべきであつて、官廳や文部省のそれに從ふべきではない。そして國語の表記法に關する限り、假名遣改訂も漢字制限もいまだ一度も行はれてゐないといふ事實を私逹は確認しておく必要がある。

平成二十一年三月十四日
『國語問題論爭史』(新潮社)p.342

要するに、戰後の表記法改革は原理的にも現實的にも、また手續きの上から言つても、全く受容れがたいことが誰の目にも明かになつてきたのであるが、大事なことはその事實によつて刺戟された國語問題に對する一般國民の關心を逸らさぬことである。言ひ換へれば、現在の混亂と矛盾とを正すために、彼等に納得のいく成案を示すことである。が、それは過去の國語審議會に代つて直ちに名案を提示することを意味しない。或いは國民はそれを要求するかもしれぬ。しかしそのやうな名案が二年や三年で得られる筈はない。むしろ、名案が直ちに提示しえぬところに、我々の國語の本質と歴史とがあるのであつて、戰後の改革がそれを無視して明確な成案を示し、それに踏切つたために混亂と矛盾とが生じたことを明かにしなければならない。と言つて、無爲無策であつてよい筈はない。我々のなしうることは、國語の本質と歴史とを明かにし、それを破壊せぬ限りにおいて何等かの解決に到達するやう、その方向を示すことである。解決を急いではならない。また幾つか考へ得る解決案のうち、その一つを絶對のものとする立場に立つてはならない。大事なのは問題の解決ではなく、問題の所在である。


平成二十一年三月十三日
2009-03-08 - kyoumoe dovrebbero funzionare per vedere CLANNAD.
福田恆存の『私の國語教室』一册も讀まないでアンチの人は正字正かな批判をしてゐる。
まがある編集ファイル 「恥しい」ではなく「恥ずかしい」なのはなぜ?
これなんかは、基本的に「送り仮名の付け方」の規則を解釋しただけのもので、理論のやうで別に理論でも何でもないんだから、根據にも何にもならないのに。
送り仮名の付け方
アルクに限らず、今日本語で商賣をしてゐる人逹は、戰後の國字改革を解釋して商賣してゐるだけだから、そんなのを根據に國字改革を認めない立場の人間の言葉遣ひを否定しようとしても無意味なんだよ。それがアンチ正かなの人には解らない。そもそも、解らない人だから正かな批判をして「俺奴らを論破した!」なんて安易に思ひ込めるんだが。
私も仲間に入れてください!いや嘘! - 世界は寒い
松永氏は自分の立場に拘り過ぎ。だから新興宗教なんかにはまるんだよ。
平成二十一年三月十三日
キャンペーン - うどん

…ってこれ、狂信者が勘違いして「株式会社はてなの良さ」とか書き始めるんだろうなぁ。

お詫びしたい

では俺が何を問題にしているかと言うと、音楽そのもの以外の部分で初音ミクのCDを売ろうとしている(と俺が感じた)こと、そして実際に売れてしまっていることだ。ここを詳しく説明したい。

信者が何うとか考へる必要があるのか。音樂以外の部分を以てして賣つてゐるか何うかを氣にする必要があるのか。世間には妙なところにひつかかる人がゐるものだとしか言ひやうがない。
「正字正かな」の「正」の字に一々ひつかかつてみたり――何でそんな詰らないところに拘らなければならないんだとしか言ひやうがないんだが、さう云ふ詰らないところに拘るからこそ「拘る」と言ふのだらう。
けれども、さう云ふ事を考へたり氣にしたりする事によつて、その人は何か自分が社會に貢献してゐるんだと信じ込めるらしい。喜六郎にしてもtanzenにしても、或は松永にしても、自分が考へたり氣にしたり感じたりしてゐる事を、何うでも良い詰らない事だとは思つてゐない。しかし、誰が何う見ても「正」の字を使つてゐるか何うかとかは何うでも良い話だし「信者」が何をしてゐるかは物事自體の價値と無關係だし――要は、みんな、人を批判したいだけなんだよ。
喜六郎の「ブログ」の記事を見れば良く判る、喜六郎は「他人を批判をする」行爲に陶醉してゐる。喜六郎は、人の品定めをする事だけに關心がある。
人の外部にある價値觀或は眞實と云つたものに、喜六郎にしてもそれ以外の多くの人にしても――多くの日本人は興味を持たない。日本人は、自分と他人との間に存在する上下關係にだけ興味を懷く。日本人は、人效論しか知らない。事效論を知つてゐる西歐の連中は、人の品定めもするが、人から獨立した價値觀や眞實・眞理の類を追求する事にも興味を持つ。
日本人の場合、他人を批判するのでなければ、自然やら何やらを眺めてうつとりしたり、パズルを説いたりして、のんびりする事しかしない。
Graviness Blog | 白いカラスはいない?
長男に教わったパズル - 檜山正幸のキマイラ飼育記
斯う言つた頭の體操は、罪がないから批判にも何にもならないが――だからこそ批判を嫌ふ人で消極的な人は斯うした話題をもつぱら「ブログ」やら何やらでは扱ふ。が、これは、眞理を求めるとか正義を求めるとか、さう云つた價値觀の問題とはまるで關係がない。
良い音樂とはどう云ふものか、良い政治とはどう云ふものか――それを論じてゐる積りで、「音樂を音樂以外の部分を賣りにして賣る人間」批判をしたり、「政治主義を批判してゐる人間」批判をしたり、日本人は何うしても抽象的かつ觀念的に話を進める事が出來ない。具體的な個人を執拗に罵つてみたり、或は「信者」のやうな「惡の集團」を設定して嘲つて見たり。個人攻撃や中傷の類になつてしまふのだが、それが日本人には屡々解らない。
斯うした解つてゐない人々は、好い氣になつて他人を叩いてゐるうちはいいが、或時、自分自身に大勢の人からの非難が集中するのに氣附くと、途端に腰碎けになる。その時、その人は、常に自分の言葉遣ひが惡かつたと謝罪する。さうではなく、個人や集團と云ふ具體的な人をひたすら攻撃する態度が惡いのであり、人を攻撃する事で頭がいつぱいになつて、眞理とか正義とか――觀念的な志向を喪失してゐるのが惡いのであるが、日本人はそれが全く解らない。喜六郎なんかにしても、野嵜が「論理」と言つてゐると云ふ事でそれだけを理由に「俺も論理を使つて野嵜を叩いてやる」みたいな行動に出、論理の重要性を俺が強調してゐるにも拘らず、執拗に「論理」と言つてゐる野嵜個人をターゲットに粘着行爲に走つてしまふ。日本人は、何が一番肝腎かを認識する事が出來ない――と言ふより、人がを言つてゐるかより、何かを言つてゐるの方が「重要だ」と勘違ひしてしまふのだ。
日本人は、目に見える人しか認識できない。人が何を言つてゐるか――何を言はんとしてゐるか、は、認識出來ないし、そもそも「知らうとしなければならない」とすら思つてゐない。喜六郎が俺を叩く時は、俺が何を言はんとしてゐるかでなく、俺が具體的に何と言つたかを問題にしてゐる。tanzenもさうだ。彼らは、觀念ではなく、觀念を口にする個人を見て、觀念とは獨立に、その個人の人間としての魅力とか性質とか、或は人間としての價値とかを論じてしまつて、それで自分は大變素晴らしい批評をしてゐるものを信じ込んでゐる。これは、勘違ひ以外の何ものでもないし、だからこそ反論されると彼らは自説に固執して相手の言葉を聞入れない偏狹な態度をとる訣だが、斯うした誤つた態度を平然と取る日本人は大變多いし、さう云ふ誤つた態度をとつてゐる人間を「誤つてゐる」と指摘できる日本人は非常に少い。此は深刻な問題で、日本人はだから駄目なのであるが――さう言ふと「野嵜は保守主義者の筈なのに自虐的で日本を侮辱してゐる」等と言葉尻を捉へて勝つた氣になるのがアンチである。が、日本人には氣質的にアンチ的なところがあるのでないか。他人を嘲つて自分は偉い人間だと思ひ込む――さう云ふ事を平氣でやる日本人は多いと思ふ。しかも、自分こそさう云ふ傲岸不遜な態度をとつておきながら、價値觀を口にしたり、正しいとか眞實とか言つた觀念的な事を支持したりする人間を「傲慢だ」と非難するのだ。
「自分に價値を認めない現實を認めてゐるならば、大變謙虚であるから、他人を嘲つても構はない」「理想を主張する人間は、自分には價値があると言つてゐるのであり、傲慢である。しかし、實際には價値のない人間であるのだから、他人を嘲る權利はない」――日本人は當り前のやうに斯う信じてゐる。喜六郎も顔文字のあれもさう信じてゐる。松永氏もさう信じてゐる。けれども、自分で自分を謙虚であると認めるのは、それこそ傲慢だ。俺にしてみれば、自分は謙虚な傍觀者だ、と偉さうな態度をとつてゐる喜六郎や松永氏らこそ、傲慢に見える。さう云つた連中が、他人を「傲慢か否か」と判定してゐる。これも傲慢だ。他人が傲慢か何うかを考へる事がそれ自體として傲慢だ――日本人にはさう云ふ事が全然解らない。日本人は道徳的に鈍感だ。だからこそ安易に他人の人格を云々する。喜六郎が俺の人格を端から否定してかかつてゐるのは、喜六郎が「自分には道徳的に他人を裁く權利がある」と信じてゐる證據であるが、それこそ道徳的に不潔で許し難い傲慢である。松永氏が「正字正かな」と云ふ用語に傲慢さを見出し、使用者を道徳的に裁いてゐるのも、俺には大變な傲慢に見え、許し難い行爲に思はれる。日本人は大變安易に他人を道徳的に裁き、それを傲慢だと思はない。
一方、俺がしてゐるのは、論理的な矛盾を衝く事だし、主張の原理と實際の主張との齟齬の指摘であつて、人格攻撃ではない――のだが、多くの人が「人格攻撃だ」と勘違ひして呉れる。意圖が眞理の追究であり眞實の闡明であるならば、批判は有益であり社會的に意義がある。さう云ふ意圖があるか否かを、「批判してゐる」と云ふ事實を根據に決定しようとする事は、不可能である。ところが、日本人にはそれが解らない。喜六郎なんかは「野嵜は他人を批判してゐる、だから俺が野嵜を批判してもいいに決つてゐる」と言つて、批判ではない人格否定を平然とやらかしてゐる。喜六郎に、眞實を明かにしたいとか、理想を追究したいとか、そんな觀念は全くない。だから個人攻撃で快を貪つてゐる事は明かなのだが――この俺の喜六郎批判は、人格攻撃ではない。しかし、それが喜六郎には理解出來ない。もちろん喜六郎は鬱陶しいし、嫌な人間だが、喜六郎個人を攻撃してやつつけても仕方がない。そもそも、喜六郎の先に、日本人と云ふものがあつて、その日本人の弱點を俺は問題にしてゐるのだ。嫌な日本人の性質と云ふものがあつて、それを喜六郎が見事に示して呉れてゐるから、喜六郎を出しにして日本人の惡しき側面を語つてゐるに過ぎない。俺にしてみれば、日本人の本質を明かにし、その惡しき面を指摘して、日本人が向上する事を期待してゐるのだが――それが案外多くの人に理解されない。日本人は、具體的な他人を攻撃する時は、その人を攻撃する事が目的だから、それ以外の目的で他人を云々する事が「あり得る」とすら想像出來ない。俺が喜六郎を問題にすれば、喜六郎だけを攻撃してゐるものとしか多くの人が認識出來ない。けれども、さう云ふ人をも含め、或は俺自身をも含めて、日本人の問題を俺は問題にしてゐる。この時、俺はより良い日本人のあり方を追究してゐるのだから、俺のしてゐるのは「單なる個人攻撃」等と言つたものではなく、批判である。實際、喜六郎攻撃が目的なら、日本人批判なんて迂遠な方法をとるのは戰術的に下手、と言ふより無意味であり、その時點で俺が喜六郎への個人攻撃等してゐない事は明かなのだが――しかし、喜六郎はさう云ふ俺の説明が解らないだらうし、多くの日本人が解らないだらうし、そもそも解らうとしない。こんだけ長々と書いてゐれば、「長い」と云ふだけで殆どの讀者は俺を氣狂ひ扱ひして、考へる事をしない。が、それでいいのか。
平成二十一年三月十三日
松永氏は、「旧字旧かな」の文章を現代的に書いてゐる、と俺なんかを非難するんだが、「現代仮名遣」の規則を見れば判る通り、「現代仮名遣」で書いてゐる積りでも、今の人間は全員正字正かなの文章を「現代的」に「書きかえ」てゐるだけなんだよな。話が逆。
俺は正字正かなで書く筈の文章を正字正かなで書いてゐるだけ。多くの日本人が、正字正かなで書かれてゐる筈の文章をわざわざ「現代的」に改めて書いてゐるんだ。

平成二十一年三月十二日
と言ふか、データを作るにしても、何んなフォーマットにするかが決つてゐないと何も提案できない。
XMLでデータ作つてぶち込めるやうにするとか。
平成二十一年三月十二日
あと、ウェブでメールアドレスが出るやうな形でログが公開される現状、メーリングリストには投稿しない。出來ない。「義」に惡用されるから。全部「義」が惡い。轉載よろ。すまぬ。
平成二十一年三月十二日
最近は毎晩のやうに三時から虹裏(img)で祭。アルパカとか。ここ數日ぜんぜん寢てない。
平成二十一年三月十二日
http://esu.oresama.org/200903a.html#20090308_s1
平成二十一年三月十二日
俺がWindowsXPを使つてゐる理由は二つ。「WXGと俺專用ユーザ辭書で正字正かな入力が出來る」「アイ・オー・データのキャプチャ機器でTV番組を録畫してTMPGEnc DVD Authorでオーサリングし、Zulu-2でDVD-Rに焼く事が出來る」。
これらはいづれもLinux等で現状、代替出來ない。
平成二十一年三月十二日
新常用漢字表試案の情報機器についての認識 - Mac OS Xの文字コード問題に関するメモ
平成二十一年三月十二日
Elektra - A blog? with Σαιτω
――と、云ふ事らしい。
ところでOperaは、amazonのアフィリエイトが貼つてある「ぺーじ」で、貼られたアフィリエイトの數だけ進むも戻るも押さなければならないバグを直す氣ないのだらうか。

平成二十一年三月十一日
2009-03-11 - HM stream
ておりんは何故聖書を讀まなかつたのだらうか。電話するにしても教會にでも相談するのが良かつただらうに。
平成二十一年三月十一日
ブログ等のアカウントを削除すると、そのアカウントを悪用される恐れを考慮すべき - TERRAZINE
fankee_jrは俺に「ばか」と一言言つて書逃げしたYahoo!のidが由來。十年くらゐ前のYahoo!は使ひ捨てられたidが乘取れた。
平成二十一年三月十一日
俺は正字正かなで書いてはゐないし考へてもゐない。俺は現代の日本語で喋るし現代の日本語で考へる。その考へを書記す時、正字正かなの規則に照らして見た目を整へてゐるだけだ。が、昔から「正しく書く」とはさう云ふものだらう。
平成二十一年三月十一日
我々は全ての過去の歴史を知る事は出來ないし、記述する事も出來ない。が、歴史學は存在するし、歴史も存在する。この事を疑ふ人はゐない。ところが、歴史的かなづかひとなると、疑ふのが當り前だと多くの人が思つてゐる。日本語の專門家ですら勘違ひしてゐるぐらゐだから、素人が勘違ひするのも仕方がない――と言ひたいが、素人だからこそ常識的に考へて、專門家の幼稚な誤に氣附く義務がある。
歴史的かなづかひのわからない語(「泥鰌」など)がある事を指摘し、「だから歴史的かなづかひは駄目なのである」等と大袈裟に曰ふ人がゐるけれども、それは勘違ひであり――しかも「專門家」(日本語の專門家を稱するのは大抵表音主義者であり、國字改革の推進派、或は當事者だ)がわざとやる惡質なパフォーマンスとしての「勘違ひ」を何も考へずに鵜呑みにして、鸚鵡返しに繰返して言つてゐるだけの機械的な發言に過ぎない。しかし歴史的かなづかひは存在すると言つて良い。
日本語の文章を書く人は各々獨自の書き方をしてゐて、夫々に獨自の語彙があり、獨自の文體がある。ならば日本語は「ない」のかと言ふと「ある」事は間違ひない。歴史的かなづかひだつて「ある」と言つていい。何も問題はない。そこで「問題はある」と執拗に主張するのは、その人がただ「歴史的かなづかひは絶對に許さないよ」とか「歴史的かなづかひは潰したい」とか思つてゐると云ふだけの事だ。
平成二十一年三月十一日
さっきamazonのCDランキングを見たが、本当に唖然とした
さっきamazonのCDランキングを見たが、本当に唖然としたを読んだ - Hatena::Diary::int
俺は斷言するが、はてなの匿名ダイアリーの記事を讀んで感動する奴は一人もゐない。なんで匿名の發言が良いと思ふの。なんで匿名の人間の發言を讀むの。本當に解らない。あれ機械ぢやん。機械の文章だよ。誰だつてあいつらの文章を讀んで機械だって言ふのは一瞬で解る。それで感動するつて馬鹿なんぢやない。
匿名がいいつて言ふのは、頭がをかしいとしか言ひやうがない。と言ふか、腦が退化してゐるんだよ。それしか説明が附かない。詰り人間の文章と機械の文章とが區別つかなくなつてゐるんだよ。
云々。
俺ははつきり言ふが、もつと人間が本氣で書いてゐる文章を讀むべきなんだよ。ぢやないとをかしい。
本當にお前ら頭冷やして考へ直せよ。お前らは馬鹿か、またはブームに乘せられてゐるだけだ。まあそれを馬鹿と言ふんだがな。
――ところで俺はエレキギター大好きで、幼時の刷込みは恐ろしいものだとつくづく思ふ。寺内タケシもベンチャーズもいい。寺内タケシは大きな音を出したくて、ギターが手もとに無かつたから最初は三味線をアンプにつないだんだつて。津軽じょんがら節とか佐渡おけさとかも寺内氏は演奏してゐる。
平成二十一年三月十一日
【東京特電】聖典(カノン)|帝國ニュウス電信
平成二十一年三月十一日
http://d.hatena.ne.jp/psycho78/20090310/p1

今の世だって「まだ逝ってよしとか言ってんのか」みたいなのっているわけじゃん?

一言で斬つて捨てるならば――「逝ってよし」はかなづかひと全然關係ない。語彙とかなづかひとは次元の異る話。

それ考えるとさ?「なんとかでせう」という表記も「悪口ゆぁれた」とかも変わんねーじゃん。あれ「ゆった」とか書いてる(おれも使うけど)人っつーのは後の世の歴史や古典の教科書なんてまーったく考えてませんので、えぇ。

その「考えてません」と云ふのを堂々と言放つのが間違ひであり、「言つてはならない」事だと言つたら何うか。「偏狹」とか言はれさうだけれども、ぢやあ、界隈まだなんか「正字正かな」とか「歴史的仮名遣い」とかなんとか喚いてたりするみたいなんですけどもと言つてゐるのがそもそも偏狹な態度なんだから、俺が文句を言はれる筋合ではないと。
例の顏文字だか文字顏だかも、妙に偏狹なんだよ。さう云ふ連中が俺たちみたいな寛容な人間を、わらひ、「偏狹」だと非難してゐる。出たら目だよ。
俺は、歴史的かなづかひの發見は偶然ではないと思つてゐるし、假名遣の意識は必然的なものだと斷定出來る。だつて、話し言葉と書き言葉の間にずれがあるのは事實だし、その事實を發見するのつて偶然ではなく必然だから。少しでも科學的な精神のある人なら、話し言葉と書き言葉とには樣々な差異がある事實を發見出來る。それは偶然ではない。ただ意識の持ちやうであつて、ちやんと意識的に言葉に對してゐる人ならば必然であるに過ぎない。逆に言へば――歴史的かなづかひを否定する人は、言葉について鈍感で無頓着なんだよ。その鈍感と無頓着が、その人を傲慢にし、纖細な人間を見下し嘲る偏狹な態度を生じさせてゐるんだ。
平成二十一年三月十一日
旧字旧かな入門 (シリーズ日本人の手習い) 読了 - fuzzy Weblog@hatena

「第一章 旧字体」は、府川氏と小池氏の一連の研究の成果が反映されているようで、康煕字典・(諸橋)大漢和辞典・明治以降の文献を比較・参照に基づく解説を併記しています。「正字・正かな」派の間違いを正す内容です。

何か勘違ひしてゐる人が物凄く多いらしいのだけれども、世間では「旧字旧かな」と「正字正かな」とを嚴密に區別する必要があるやうな言はれやうが屡々されてゐる。何なんだらう。
記號的に指示するものは「旧字旧かな」でも「正字正かな」でも同じだよ。何で區別しなければならないんだらう。しかも、區別する人は、松永氏もさうだが、大抵正字正かなを馬鹿にして、殊さら旧字旧かなと言ふ態度を賞揚して見せる。さう云ふ人は、他人を挑發する事だけが目的で、何が正しいかとか何が事實かとかにはまるで興味が無いんだらう。
「正字・正かな」派の間違いを正す内容です。なんて、「正字・正かな」と言つてゐる人間が恰も間違つてゐるかのやうな言ひ方だが、正字正かな派はドグマを信じてゐる訣ではないから、間違ひがあつたら直ぐに訂正するし、訂正されてより正しくなつたより眞理に近いものを當座採用する。だから、「正字・正かな」派の間違いを正す内容です。なんて言ふのは根本的にをかしい。ところが、斯う云ふ言ひ方をして「正字正かな派」を笑ひものにするのが嬉しくて嬉しくて堪らない人間が世間にはうようよしてゐる。昨今の國字改革推進派・國語改革の當事者の連中の工作の所爲だらうか。
平成二十一年三月十一日
Logic Board ―どう考えるのが正しいか: 現代言語学批判:目次
轉載。

※1 この論文のみ旧かな(正かな)で収録されている。宮下氏の「表記についてのあとがき」によると、原稿では漢字も旧字(正字)だったという。また、内田・宮下・鈴木氏の論文も、原稿では略字(新字)混じりの旧かなで書かれていたと述べられている。

轉載の轉載。

※3 このあとがきでは、原稿で使用されていた旧字旧かな(正字正かな)を印刷の段階で新字新かなに変更されたいきさつと、日本語の表記に関する彼らの考え方が述べられている。以下はその抜粋。

私達は戰後の學校教育を受けたものですが、所謂國語國字改革に對して、それが「書き言葉の簡易化、國語教育上の負擔の輕減、一般民衆の智能の向上」と云ふ目的に反して、日本人の言語生活を妨げ破壊するに終つてゐることを經驗上痛感せざるを得ません。その上に私達は分野は異なれ、言語を研究して來ましたから、所謂國語改革の理論的支柱となつた歴史的比較言語學及び構造言語學の言語觀は、音聲言語を偏重し文字言語を輕視する一面的な言語觀であり、かつ言語を言語と云ふ表現自體ではなくて言語を媒介する言語規範と誤解したために、現實の言語の表現理解の活動を研究の對象とすることが出來ず、それ故に言語生活上の問題である國語問題を解決できる筈がないこと、それどころか國語問題の一因ともなつたことに厭でも氣附かざるを得ませんでした。

言語は言語規範に媒介された表現でもあります。音聲言語も文字言語も等しく言語でありどちらか一方が他方の從属物である譯ではありません。音聲言語も文字言語も、それぞれ人間の生活に必要に應じて人間の多様な思想を精確に表現すべく發展させなければなりません。その上で兩者の對應關係を發展させねばなりません。

轉載もとの「ブログ」のから御聯絡をいただきました。入力に誤があり、「ブログ」のでは訂正したのだけれども、こちらも修正してほしいとの事。大變叮嚀な内容のメールで恐縮してをります。何うも有難うございます。
平成二十一年三月十一日
日本語のエントリが流行ってるみたいですね

そんなこんなで、今の新字・現代仮名に不合理な点があることは認めざるを得ない。

しかしながら、「正字・正かなの復権を!」というのには問題がある。

昔の文化を保存し、知り、受け継ぐのは大切なことだけれど、これを日常的に使うというわけにはいかない。

成立の経緯がいかに横暴であれ、新字・現代仮名は既に広く定着し、使われているからである。

まぁ、今からラディカルな国語改革が行われることはたぶん無いだろうから、とりあえず現状維持でいいんじゃないかとは思うが。

また、では、正字・正かなは非の打ちどころがないかと言うと、そういうわけでもない。

探せば非合理なところはいくらでも挙げられるだろう。

ことは日常的に使う言葉の問題である以上、「合理・非合理」だけで判断できる問題でもないし、「合理的な方に変えていけばいい」という問題でもない。それがまかり通るなら、正字正かなでも新字現代仮名でもない「新しい第三書法」を提案してしまいたいところなのだが、そんなことをすれば、混乱がより大きくなるのは必至である。

「現代仮名遣いは定着している」「正かなにも非合理な所がある」――よくある正かな否定の「論理」だが、實は斯うした論理は「正かな否定」の本質ではない。

あ、俺は、正字正かなには別に興味はない。ま、好きな人はやってればいいんじゃない? ということで。

言葉に對する意識の低さが「正字正かな否定=現代表記の肯定」の最大の原因――要は、正字正かななんて馴染みがないし、今さらおぼえるのも面倒だし、と云ふだけの事。單なる知的怠惰を、恥かしげに告白するのでなく、開き直つて正當化してゐる訣だ。本來なら恥づべき事を、偉さうに理窟を附けて語つて見せて、尤もらしく見せかけてゐるだけ。しかし、樂をしたい、手拔きをしたい、だらしなく生きてゐたい、と思つてゐるから、この種の「合理化」を受容れておくのが得だと云ふ事で、煩い事を言ふ正字正かな派を取敢ず排除して、みんなで氣樂にならうとしてゐる。
しかしそれでいいのか。
その人の「論理」がただの怠惰の言ひ訣に過ぎないのなら、それを論破しても何の甲斐もない。根本的に價値觀の顛倒を企てなければならない。今は、氣樂に・怠惰に生きるのがトレンドだが、斯うした流行を「過去ったもの」にしてしまふ必要がある。實際、嘗ては道徳的に立派に生きる事が當り前の生き方であつた時代があり、ならば今でもより正しい生き方をしようとする事が一般化する事も(理窟の上では)あり得る訣だが――しかし、歴史的に日本人は沒落の一途を辿つてゐるのだし、現在も沒落の途上にあるのだから、だらしのない生き方をする現在の多くの日本人の有り樣は變へられないと見なければならない。が、絶望的な状況なのが解つてゐて、それでも抵抗せずにゐられないのが人間と云ふものだ。
平成二十一年三月十一日
なぜか腹立つ日曜日 - 玄倉川の岸辺
はてなブックマーク - 「正しい和食」認証制度に米メディア猛反発|食|生活・健康|Sankei WEB
trouble 伝統, 文化論 あほらしい……。反発は当然。
aozora21 Sankei Web, 食 また「正しい」なんていうから…
tamakky 「正しい」という言葉を使うから反発が強いのでは。「伝統的な」ぐらいがちょうど良いかと。
日本人つて、言葉を馬鹿にする割に言葉に振囘される傾向が強いよね。何でも「正しい」と云ふキーワードを入れておけばばんばん人が釣れる事になつてしまふ。何と言ふか――だからこそ普段から正しいと云ふ概念に慣れておいた方が良いのでないか。みんな「正しい」と言ふと毛嫌ひして、樂な方へ樂な方へ流れようとするから……。
平成二十一年三月十一日
2006-09-08 - 両世界日誌

正字正かなサイトをいくつか見て思つたこと。どのサイトも基本的な姿勢は共通してゐて、要するに正字正かなで書けるやうな環境をととのへよ、といふことらしい。それやさうだらう。いまのところ、正字正かなで文を発表できる場としては、ウェブくらいしか思ひ当たらない。せつかく苦労して身につけた知識が、ほかのところでは使ふことができないのだから、彼らが躍起になるのも無理はない。

斯う云ふ事を當り前のやうに書ける精神つて何なんだらう。

……正字論者の理想は、JISコードを拡張して、ふつうの漢字なみの手軽さで正字を扱へるやうにすることだらう。これには私も異存はないが、このやうな不備が10年以上もほつたらかしにされてゐるところをみると、どうやらまじめな検討の対象にはなつてゐないやうだ。

かういふところから、正字正かな連のキャンペーンにも似た説伏活動がはじまる。ところが、なにぶん少数派の主張なものだから、ほとんどのひとからは相手にされない。相手にされないだけならまだしも、ときには揶揄や反撥の対象になる。これがまた彼らのルサンチマンを刺激する。いきほひ態度が攻撃的になる。不毛な論争に火がつく。それがえんえんと繰り返される。……

本當に何なんだらう。しかも、正字正かな派が非難された被害者であるにもかかはらず冷たく突放される。何なんだらう。

といふわけで、私のやうにどちらかといふと正字正かなに同情的なものでも、かういつた状況をみてゐると、もうどうでもいいや、と思つてしまふ。ありていにいつて、いまの日本では正字正かなは趣味の領域に属する。趣味といふのは、酔狂なことが許される唯一の領域だ。正字正かな論者も、大義名分をふりかざすのはやめて、あくまで自分の趣味としてかういふことをやつてゐるんだ、といふのなら、わりあひ他人にもすんなりと受け入れられるのではないか。

松永氏と同じで、「趣味なら許してやる」と云ふ居丈高で偏狹極まる態度。何なのだらう。

ちなみに、「正字正かなに同情的」といふのは、歴史的事象としての正字正かなに対して同情的なのであつて、いまの日本で正字正かなを使ふことに同情的なのではない。蛇足ながら、念のため。

斯う云ふ嫌みたらしい對比をして、を貶める。人を貶める事が趣味なんだらう。さう云ふ趣味を隱蔽する爲に、最もらしい論理をでつち上げる。が、人を貶めて快を貪る事が目的だから、論理は單にもつともらしく見せかけるだけの爲の道具でしか無くなつてしまつてゐる。

ふと思いついて、表記を正かなにしてみた。読んだひとは、ほとんど新かなで書いたのと変らない印象をもつのではないか。これを要するに、いまの実用文では正かなを使って書いてもあまり意味はないのである。

「正かなで書くのは、新假名で書いたのと違ふ、違和感のある印象を持たれる事に意味がある」とこの人は考へてゐるのだが、勿論、そんな馬鹿な事を考へてゐる正かな派はゐない。ゐるとしたら、この書き手が「存在して良い」と考へてゐる「趣味的な人」くらゐだらう。が、さう云ふ人は正字正かな派ではない(實際、趣味の旧かな派の人は、正字正かな派と言はれるのを嫌つてゐる、わらひ)。結局のところ、この人はゐもしない正字正かな派を相手にシャドーボクシングしてゐるのであつて、それでノックダウンした積りになつて好い氣になつてゐる訣だ。しかも、斯うやつて正かな派に反撥を食らふ事を豫想してゐて、だからこそ、豫防線を張つて、相手にされないだけならまだしも、ときには揶揄や反撥の対象になる。これがまた彼らのルサンチマンを刺激する。いきほひ態度が攻撃的になる。不毛な論争に火がつく。それがえんえんと繰り返される。と書いてゐる訣だ。やり方が非常に汚い。正字正かな派を攻撃する人は、大抵保身が極めて巧みで、自分自身の立場と發言を守れれば、眞實がどうであれ、自分の勝ちである――自分の勝ちを宣言できると信じ、そして、正かな派の反論に聞く耳を持つてゐない。
正かなアンチの人は、正かな派に對する惡口を一方的に言放つ傾向が極めて強い。戰術は、正かな派の人間を歪め、見下した上で、輕く「興味がない」と抛り出す消極的なものか、相手に無意味かつ無理な要求を突きつけて困らせる積極的なものか、に分れるが――何れにしても自分自身は何もしない横着なやり方を好む。そして、さう云ふ横着をしたのを大變誇りに思ひ、眞面目に應對する正かな派は馬鹿を見る。
アンチ正かなの人は、怠惰の勸めを説き、「平和主義」「なあなあイズム」を主張する事で、多くの人を身方につける。そもそも自分自身が實踐してゐる事であり、多くの人も實踐してゐる事だから、皆信用する。一方の正字正かな派は、理想の主張であるから、實踐が屡々伴はない。理想と現實が乖離してゐるのは當り前の話で、理想通りにならないからこそ現實を理想に近附けようと云ふ主張をしてゐるのだが、人間は面倒くさがり屋だから大抵面倒臭くてやつてらんない興味が無いと云ふ反應が返つて來る。さうすると、アンチは大喜びして「正かな派は慘敗した」と極附け、宣傳し――怠惰な人を更に説得的に欺し果せる事が出來る。理想と現實が乖離してゐる事實をアンチの連中は全員よく知つてゐる。實は事實の認定は何の意味もない。そこから先の價値觀に基く判斷が重要で、アンチの連中は、理想を捨てて現實の域に留まる、或は理想を現實の位置にまで引きずり下ろす事を考へる。我々正字正かな派は、現實と理想の乖離を認めながら、飽くまで現實を理想の高みに近附けようと主張してゐる。價値觀、そして生き方についての哲學が根本的に異る訣だが、斯う言ふとアンチの連中は「正字正かな派は傲慢だ」「お高くとまっていやがる」と反感を剥き出しにし、感情的な誹謗中傷を執拗にし續けるやうになる。
平成二十一年三月十一日
アンチで一番たちのわるいのが、自分は理想をかけらほども信じてゐないのに、正字正かな派が理想と現實の乖離を言ひ、現實に理想を實踐出來てゐない事を言ふと、「絶望した」とか「がっかりした」とか言つて見せる嫌みたらしい輩。
平成二十一年三月十一日
「中二病」とか言はれてゐるけれども、結局のところ、「理想なんて立派な事を言っている奴を見下して見せる俺かっこいい!」と云ふだけの事なんだよ。ひたすら他人の積極的な主張を扱下ろし、嘲つて見せる相對主義者の連中が、一人の例外もなく、「他人を見下せる俺かっこいい!」と思つてゐる事は火を見るよりも明かで――ただ當人だけが氣附いてゐない。當人は一生懸命他人の傲慢を扱き下ろして立派な事をしてゐる積りでゐる。
相對主義は近代の思想で、ニーチェが最大の親玉なのだが、ニーチェは何でもかんでも相對化しながら、一方で生の哲學を信じ、ギリシアに對する情熱を抱いてゐた。斯うした積極性を現代の相對主義者は持たない。一方、ニーチェは「この人を見よ」を書いて、自身の偉大さを宣傳し、發狂したが、さうした傲慢さ・獨り善がりと云ふ相對主義の弱點だけ現代の相對主義者はしつかり引繼いでゐる。

平成二十一年三月十日
2009年春期放送開始の新作アニメ一覧 - GIGAZINE
NHKアニメワールド
平成二十一年三月十日
2009-03-10 - HM stream
[Seijiseikana-list] プロジェクトの理念
今の俺はVJE-β/γ風のキーバインドでげしげし正かな入力できればそれでいいよ。もともとVJEユーザだつたから。
VJEは辭書が脆弱でしよつちゆうぶつ壞れたからWX-IIに乘換へて、その後niftyに上がつてゐた北極三號をぶち込んで正かな入力するやうになつた。WX-IIIは隨分長い事Windows95で使つて、それからWXGに移行した。WXGはWX-IIIと隨分作りが違ふんで隨分ユーザ辭書をいぢつたけれども、よく考へればあんまり意味のない附屬語許り登録してゐる。と言ふかWXGは「現代仮名遣」の文法しか知らないから正かなの變換をさせるにはいんちきをしなければならない部分が多々あつた。デフォルトできちんと正かなの變換が出來るIMEを作るなら手持ちの「資産」を移行出來なくても構はない。
平成二十一年三月十日
契沖も松茸が64bit版Windowsに對應するとはとても思へないからそろそろ何うするか考へた方が良い訣で――今囘の件に協力して貰へれば非常に助かるけれども、誰か交渉する?
平成二十一年三月十日
支那で繁體字復活の件の續報 - 科學の剃髮

それから、「政治的に動く」といふことを考へれば、正字正かな派として「字音假名遣は本質ではないから不要である」といふ統一見解を打ち出して良いのではないか、と思つた。

個人的には「後囘し」でいいと思ふ。機能をモジュール方式で組合せられるやうにしておいて、後附けでいろいろ出來るやうにしておくとか。
[Seijiseikana-list] 『正字正かなプロジェクト』の當面の豫定など
ええとIME作るんだよね。
プログラマがゐないから、核になるIMEの開發が出來ず、結局周邊のちまちまとしたデータ集が出來上がつて終り、みたいな事になりさう。
この手のプロジェクトでは、取敢ず「思想」よりも「動くもの」を出すのが先だよ。
あと此處「闇黒日記」とその他のテキストは全部資料に使つて呉れていい。と言ふかこの位のテキストは普通に打てるやうにして欲しい。さうすれば俺が一番助かる。:P

平成二十一年三月九日
はてなアンテナ - 正字正かな派の爲のアンテナ
なぜのあとあやのを入れる。
平成二十一年三月九日
2009-03-09 - HM stream

今決めた。『正字正かなプロジェクト』の本格始動(レポジトリの公開とか)は2009-04-01。といふことで一つよろしく。

よりによつてエイプリルフールで吹いた。がんばれ。
平成二十一年三月九日
あんまり怒らない方が良いよ。俺もたまに怒り狂ふけれども。
平成二十一年三月九日
最近の俺はヤスパースのニーチェ論讀んでゐるから文章が長くなつてゐるだけだし。
http://www.7key.jp/diary/list/2009_03a_01_01
何うもこの七鍵氏のニーチェ理解、間違つてゐる氣がしてならないんだ。
平成二十一年三月九日
ニーチェの哲學は人間の生を前提とした哲學(實存哲學)で、ダイナミックに變化する。だから、その場その場の發言を捉へて一面的な理解をしてしまふとニーチェその人を捉へ損なふ。
「眞理は存在しない、存在するのは誤謬だけである」とニーチェは言ふのだけれども、現實に存在する個別的なものを「誤謬」と呼び、それをありのまゝに認識する事をニーチェは自己の哲學の第一段階として主張した。その「誤謬」から抽象して「眞理」と云ふものを認識するのは、認識の停止であり、生の哲學からは認められない。けれども、斯うした否定の先に、ニーチェは肯定を要求するのであつて、眞理を否定しながら「より深い眞理」の認識をニーチェは主張してゐる。
ニーチェにしてみれば、論理だつて固定的な論理となれば認識の停止にしかならず生の哲學としては障害物にしかならないから否定する事になる。が、生全體を前提とした論理と云ふものをニーチェは要求してゐる。論理的であることなどそもそも論外だ、と七鍵氏は言切つてゐるけれども、斯う云ふ斷定的な結論を出す事それ自體をニーチェは哲學の態度として否定してゐる。
ちなみに、「生成の理」のやうなニーチェつぽい用語を保田與重郎が愛用してゐた事があつて、保田さんにはニーチェの影響を考へなければならないのだけれども、案外保田與重郎とドイツ實存哲學の關係は重視されてゐないやうな氣がする。と言ふより、戰前の一時期に活動した啓蒙的思想家の一群の人々にはニーチェの影響をもつと見出して良いと思ふ。例へば福田恆存もニーチェの影響を強く受けてゐる。福田さんの場合、ニーチェを乘越えてロレンスに至つた經緯がある。
さらにその先、福田さんはエリオットにも接近してゐるのだが、何うしてもエリオットは我々日本人には手の出せない領域があつて、福田さんも全面的にはエリオットの支配下に入る事が出來ない。それは俺もさうだし、俺以外の全ての日本人がさうであらざるを得ない。エリオットの主張の核心は、キリスト教と云ふ傳統への囘歸と云ふ事で、日本人は何うやつたつてキリスト教に囘歸する事等出來ない。日本にキリスト教の傳統はないのだから。日本人は、一方通行で「行く」事が出來るだけだ。福田さんは、キリスト教に入信する事等出來なかつたし、キリスト教の傳統が無い日本人にもキリスト教に入る事は先づ無理だから(エリオットの主張は小林秀雄の所謂「贅澤」な主張でしかない)、精々アンチキリストの思想をしか參考にする事は出來ない。もちろん、それも本當に參考にし得るものか否かは疑問で――ただ、それを言ふなら日本人が西歐の近代を受容れてゐる事自體に問題がある。何れにしても、「淺薄皮相」の受容しか出來ないと蹈んで、福田氏はロレンスを選んでゐるし、エリオットにも觸れてゐる。が、ニーチェに關しては「超克した」事を強調しておかねばならない。
ニーチェの思想は、辨證法的發想と科學の重視そしてアンチキリストの思想である點で、その後の一部の思想に多大な影響を與へた。ここで重要なのは、直接的な影響と、對立的な立場の思想の存在とは、辨證法的には止揚できる事を意識しておくべきである事。先づ、直接的にはヤスパースがニーチェの影響下にあるし、ニーチェと關聯がある・ニーチェの思想と平行現象的に存在すると言つて良いのはシェストフやマルクス、或はキルケゴール。對立的には、ドストエフスキーからベルジャーエフへの流れ(但しニーチェはドストエフスキーを讀んで、結構影響されてゐる)がある。要はアンチキリストの思想と、キリスト教の思想だが、これらは全てキリスト教文化の中に出現する近代の思想として一纏めに括る事が出來る――そして何れも反近代の思想だ。これらが近代を超克する超近代の思想に如何にして轉化するかは、實は現代の社會においても重要な問題となつてゐる。現代思想の殆ど全てのものを俺が全く無視してゐるのは、それらの思想が近代の超克と云ふ問題を全く無視してゐるからだ。
平成二十一年三月九日
1980年代に「今の若者」の「思想」を一言で表現して橋本治は「フーン」と言つた。橋本治は東大の學祭で「止めてくれるなおっかさん」と云ふ看板を立てて松原先生の顰蹙を買つたのだけれども、そんな橋本氏は今、小林秀雄を讀んで、何か賞を貰つてゐる。
80年代の「フーン」は今の「(´Д`)y-~」に轉化して、で、何うなつたかと言ふと――まあ、問題意識も何もない傍觀から、物事を見下す傍觀に變つた、と言つて良い。自分に對する疑問も何もない状態から、自分に對する盲目的な信頼――信仰に變化が生じた訣だ。が、これを今の人は「問題だ」と自覺すらしてゐない。「フーン」の延長上だから、意識が無い状態は續いてゐる訣だ。當り前だと思つてゐる。病膏肓に入ると云ふ奴だ――と言ふと批評になるけれども、さう云つた積極的な批評は好まれない。傍觀してゐる態度が「ある」だけだし「あり得る」だけだ。思想でも何でもなくて、ただの無意識があるだけに過ぎない。
これぐらゐ危險な状態はない。
平成二十一年三月九日
Latest topics > 叩きや煽りを気にしない、その代わり感謝にも心動かされない、というライフハック - outsider reflex
實用主義だと本當に言ひ訣きかないんだよな。かう云ふ事を言ふのが一番非道いんだけれど言ふ。
平成二十一年三月九日
地図から探す電話帳〜地図羅(チズラ)〜
古本屋情報すげえ。神保町邊は出たら目だが。

平成二十一年三月八日
正字正かなを使つてゐるのなら役所に出す書類も正字正かなで書くのかよと笑はれたが、さう云ふところで自由に正字正かなを使へる世の中ならば――そもそも正字正かなを笑はれない世の中ならば、正字正かななんてわざわざ言つたりしないんだよ。
平成二十一年三月八日
エグゼモード、実売1万円の35mmフィルムスキャナー
平成二十一年三月八日
東京古書組合 コラム「ルビ」
平成二十一年三月八日
支那で簡體字廢止の氣運? - 科學の剃髮
簡体字の場合、ローマ字化は目的でなかつたのでは。字を簡略化するにしても、當座の識字率向上が目的だつたと思ふ。日本人のやつたやうな出たら目な「改革」ではなく、理論的な簡略化をしてゐて、漢字の體系を崩さない配慮をしてゐた筈。日本の「當用漢字」以降の「略字」とは可なり違ふ。
平成二十一年三月八日
HM stream
俺、權利だの何だのの話するの大嫌ひなんだよな。何でさう云ふ詰らない話を一生懸命できるのか、理解出來ない。GPLなんて、あつちの國でMSとかと戰つてゐる人には意味があるんだらうけれども、ナンセンスだよ。「そんなプログラム作るな」「使ふな」とか頭ごなしに言はれなければ、その邊の事は適當にしておいていいと思ふ。
辭書の場合、事實を基にしたデータベースであるのだから、そもそも著作權關係ないと云ふ話もあるし。
ちなみに、正字正かなで變換できるプログラムに關しては、契沖の市川さんが特許申請して大問題になつた事がある。
日本語變換ソフト「契沖」
「契冲」の特許内容
何處かの企業が無茶な申請して正字正かながコンピュータで使へなくなつたら困るから、と云ふ理由で先行してとつたさうなんだけど――俺のWX用正字正かな辭書の話した時スルーして呉れたし、未だに何も言はれないから、多分正字正かな關係者なら大丈夫な筈だけれども、權利關係が氣になるやうならその邊もクリアにしておいたら? 下手な事をして藪蛇になつても知らんけど。默つて地味にやつてゐれば何も言はれないと思ふし。
ただ――MSが自社のIMEには行の活用を載せないのは、この申申閣の特許の所爲なのではないかと俺は疑つてゐる。もしさうだとしたら、申申閣の特許は結局多くのユーザを不幸にした事になる。さうでないならMSの怠慢だが、WXを基にしたと思はれるMS-IMEが技術的には行の活用を載せられなかつた訣がないから、何うもこの邊の權利關係で何かあるやうな氣がしてならない。
平成二十一年三月八日
日本人の、制度や規則を作る事にかける情熱は異常。そんな事に情熱を注いで何になるのかと思ふのだが、自分が手掛けた「制度」「規則」が「ある」と云ふ事は大變な名譽であるらしいのだ。「自分だけの制度」「自分が手掛けた規則」――「自分」「自分」「自分」。何でそんなに自分に拘るんだらう。
「自分のもの」に拘る以上、日本人は過去のものを破壞しようとする。過去から持ち來つたものを破壞して、「自分」のものをでつち上げ、「現代」のものと稱して正當化する。しかも、全く新しいもの等作れはしないから、適當に過去のもので「利用出來さうな部分」は拾つて來て繼接ぎする。それで「自分のもの」=「現代のもの」の出來上りだ。自分中心だから何うしやうもないのだが、自分中心だから「いい」と云ふ「価値観」をでつち上げて今の人は威張る。そして、他人を責める時には必ず「自己中心的」だと非難する。訣が解らない。
平成二十一年三月八日
たまたま、弱さのゆゑに馬鹿なことを言ふのは、よくある至らなさであるが、もくろんで馬鹿なことを言ふのは我慢がならない。パスカル
平成二十一年三月八日
と言ふか、松永氏の「正字正かな」批判こそ、「シャドーボクシング」ぢやね?
平成二十一年三月八日
俺の役目はいろいろなところで冷水を浴びせる事だと心得てゐるから言ふけれども、今度の「正字正かなプロジェクト」、今のまゝだと先細りぢやね?
意地になつて「一人でやる」「基礎部分だけでもやる」と言つてゐると、多分何も出來ないまゝ、何の成果も殘せないまゝ――それ以前に、誰からも注目されないまゝ、死んだプロジェクトの仲間入りになると思ふ。斯う云ふのは「人を集める」のが先で、其處から何でも掬ひ上げて兔に角「プロジェクト」の形を作るべきだ。一人でやつてゐるなら一人の仕事として地味にやつてゐれば良いけれども、「プロジェクト」としてぶち上げるのなら最う個人を超えたプロジェクトとして認知させなければならないし――そしてそのプロジェクトは永續的でなければならないし、永續的たり得る體制を作り上げる事が重要だ。一人でやつてゐるならば自滅する事は判り切つてゐるんで、何としてでも「今ゐる人」は掻き集め、まだ「ゐない人」も引込むやうに、話を持つて行かなければならない。
何か知らないんだけれど、「正字正かな派」の人には――松永氏が批判するにもかかはらず――政治的なセンスが全然ない。俺はだからこそ「正字正かな」と言つてアジつてゐる訣だが――。「正字正かな派」の人は、ひたすら地味に地味に――目立たないやうに、有名にならないやうに、失敗して恥をかかないやうに、皆が大人しくやつてゐる。寧ろ、それこそ自己満足だらう。松永氏は、正反對の批判をした。「正字正かな派」の人は、もつと政治的に動いていい。今は政治性がなさ過ぎる。
平成二十一年三月八日
十年前、1998年秋、俺が「インターネットデビュー」笑ひした頃の話だ。俺がウェブサイトを作り始める一月前、會津士魂氏が「國語問題研究會」と云ふウェブで最初の正字正かな專門サイトを作つてゐる(「協議會」ではなく「研究會」)。そこがYahoo!のディレクトリに登録されて、「一番有名」だつた。其處には掲示板があつて、關係者が暫く「結集の地」にしてゐた。他にも何箇所か正かなの人が集る所があつたけれども、「國語問題研究會」が「正字正かな派」の中心となる筈だつた。關係者を取仕切つて纏めてゐたのが青方の中村で、あゝ云ふ人物は人が集つて活動するには必要な人物だから、今囘もゐて呉れると實に助かるのだが――中村は「電腦正統記」と云ふサイトを作つてはゐたけれども、もつぱら掲示板その他で人集めやら何やらするのが得意だつた。で、この二人がゐたから、俺は更に別の役割を演ずる積りで、それで「戰鬪隊長」だか「斬込隊長」だかみたいな事をやり始めた一方、この「言葉 言葉 言葉」と云ふサイトで資料集を作り始めた。俺は役割分擔を意識して、それぞれのメンバーがやるべき事をやらうとしたんだよ。ところが中村は、そんな俺が演じようとした役割が氣に食はなかつたらしい。中村は、「正字正かな派」が、仲良しクラブとなり、關係者が全員、一人の例外も無しに、外部の人間に對して何を言はれても何時もニコニコしてゐる事を要求したかつたらしい。俺が、外部からの批判に猛然と反論すると、中村は俺がその人物に「ひどいことをした」かのやうに思つたらしいのだ。俺にしてみれば、俺一人が憎まれつ子になつて、中村らがフォローでも何でもして好かれてゐれば良いだらうと思つたのだが、中村は俺が好かれる人間にならなければならないと、なぜか思つたらしいのだ。その望みがかなはないとなると、中村は手を引き――その後、名前を變へて木村さんを瞞着しようとしたり、俺に對して粘着を始めて「ブログ」で攻撃を仕掛けて來たりした。まあそれはいい。さう云ふ粘着氣質は兔も角、中村みたいな、人間關係の調停に優れた、交渉ごとの得意な人物は、人が集つて何かをする時には必要で、今囘の「プロジェクト」でもさう云ふ人物がリーダとして人を引張つて呉れるなら、そして、繼續して引張つて行つて呉れるなら、そこそこ成功すると思ふ。が、今のやうな状況では、とても長くは持たないだらうと思ふ。
會津士魂氏の「國語問題研究會」にしても、問題はあつて、氏自身の性格その他は良かつたのだが、サイトを維持・繼續して行く事が出來なかつた點では非難されても仕方がない。「研究會」のサイトは、Yahoo!に登録されてから、一度だけ更新されたが、以後、更新が止つた。その後、氏自身がウェブを見なくなつて、それで掲示板が放置状態になり、「義」の跳梁跋扈する状況となつて、現在に至るまでの非道い事態を生ずるきつかけとなつた。
中村にしても、しよつちゆう「インターネットから離れます」とやつてゐて、俺に粘着し始めてから暫らくしてまたそれをやつた時にはあきれたが――やつぱり繼續力のない事は否めない。
「正字正かな派」として、俺みたいな人間が一番長く活動し、一番目立つ立場に立たねばならなかつた事は、成る程、確かに不幸な事だつたと思ふ――松永氏が、俺を目して「正字正かな派批判」をやつたのも、まあ、仕方がない。が、さう云ふ批判をするやうな状況を作つたのは、俺だけの責任か。俺みたいな人間を殘して皆ゐなくなつてしまつた。これが一番の問題だ。さう云つた歴史的事實を無視して、今、目立つてゐる人間――俺の事だ――を、目立つてゐるがゆゑに攻撃する。さう云ふ「批判」が罷り通つてゐる。
さう云つた状況で「正字正かなプロジェクト」を「やる」と言つて呉れたのは嬉しいけれども、何うも永續きしさうにない氣がしてならないのだ。喜六郎なんかのアンチは、實に執拗で、續かなくても良いのに何時までも何時までも粘着して呉れてゐるが、「正字正かな派」にあゝ云ふ粘着氣質の人間がゐない問題が案外認識されてゐない。俺なんかが一番の粘着扱ひだ。喜六郎に粘着されて嫌になつてウェブ日記をやめた人間が、一番しつつこいんだよ。馬鹿か。正直、「プロジェクト」を支へる氣のある人が、關係者に何人ゐるか――そもそも、「正字正かな派」の關係者とは誰か。はてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナを見ても、殆どがDTPかデザイン關係のサイトで、これは正字正かな關係者のサイトへのリンク集としてとても使へない――「正字正かな遣ひの爲」のアンテナであつて「正字正かな派」のアンテナではないのだ。役に立つか何うかは知らないが、少くとも關係者を集める爲には全く役に立たない。他にも幾つかアンテナがあるけれども、趣味のサイトと正かな關係のサイトとが入交じつた、個人的な趣味の爲のアンテナになつてゐて、「正字正かな派」の活動の爲にはまるで使へない。
「人が集る」と云ふ時點で先づ現在の「正字正かな派」――そもそもそんな「派閥」自體が「ない」だらう。松永氏こそシャドーボクシングをしてゐると言つたのはその爲だ。松永氏は、「派」と言ひながら、實は俺個人を目して、攻撃を仕掛けた。tanzenもさうだらう。しかし、あるんだかないんだかわからない「派」を「ある」ものとしない限り、批判されるやうな「政治活動」すらも出來ないし、「プロジェクト」も巧く行かないだらう。
HM stream
正字正かなプロジェクト: 概要 - SourceForge.JP
メンバーすらも集めてゐない状況では、プロジェクトとして活發になりやうもない。一人でやるなら、こんな公開の場を使ふ必要がそもそもない。

平成二十一年三月七日
http://d.hatena.ne.jp/mhrs/20090307

それは慥かにさうだしとても納得させられるのだけれど、でもそれは讀まれる結果だけを見た場合の話。「書く過程」を無視してゐる。もしさうやって「ローマ字」といふ、日本語を書く上で本來不要の筈の餘計な要素の介入を批判しないのならば、

  • 「假名」と「漢字」で區切って入力しても、結果として漢字假名交じりの一つの文章になつてゐればいい

とかいはれても反論できないのではないか。僕には今の處、どちらも「思考の流れを阻碍する」といふ意味で大差なく見えてゐる。

讀む側としてはさうだらう。俺は「讀む」人間の事を想定して入力時にはローマ字入力でも、結果として漢字假名交じりの文章になつてゐればいい――と云ふのが俺の立場。と言つた。
入力する人間の立場から言へば、連文節變換とskkの變換とは「一括して入力」と「細切れで入力」の比較以外の比較は全部無意味だから、ローマ字が何う斯うと云ふ比較は無意味。
大體、連文節變換の場合、かな入力だつてあり得るんだぜ。
本質的な言ひ方をするならば、ローマ字入力でもかな入力でも「かな漢字變換」をする事それ自體が日本語を書く上で本來不要の筈の餘計な要素の介入ではないかね。
平成二十一年三月七日
詞の玉垣の平成廿一年三月七日。

SKK では、文章の中の漢字で表記する部分と、動詞や形容詞等の用言の活用語尾とを、明示的に指定する変換方式であると規定できます。ですので、頭の中に此の語は漢字で表記する、又此の語は仮名で表記すると豫め豫想して文章を組立てる場合、大変利用価値のある、かな漢字変換の方式であると考へます。

頭の中でこの文字列は漢字! この文字列はかな! と明示的に指定して考へますか。そんな事は絶對にあり得ません。一聯の思想が頭の中に浮ぶのであつて、それを兔に角書附ける・打込む――それが最優先であつて、形のない思想を形のある文章として定着させる事、それが出來なければ入力プログラムとして何の價値もない。思想は全體であり、その全體の思想を漠然と打込んで、部品としての語は後から弄れば良い――それが連文節變換プログラムの發想だと言へます。が、skkだと、部品としての語を打込んで、それを組立てて、思想を作り上げる。これは不自然極まりない。言語とは、思想を定着させたものか、それとも、部品を組立てたものか――根本的な言語觀の違ひです。
が、語にしても音韻にしても、さう云つた部品を組合せ、組立てて、文章を作り、思想を作る、と云ふ言語構成説的な發想は、正字正かな派の人間には本來、許し難いものである筈。
平成二十一年三月七日
nobilog2: マスコミもブログも、兜の緒を締める頃合い!?

これを『有名税』という言葉で片付けてしまうのは簡単だけれど、火消しだ、事情の説明だと、そのことによって個人が受けるダメージは、ただごとではない。

私はいろいろな場所で公言しているが、日本の匿名書き込みの文化が嫌いだ。

この議論になると「そうはいっても、匿名掲示板にも有効な情報があがっていることがある」と反論する人がいるが、それは有害物質にも意外な効能とか、ヒットラーにも人間らしいやさしい側面、といったものと同じ議論。

「有名税」だから「有名になつた奴は叩かれて當然」とか、「匿名掲示板にも理はある」とか、一部の人々が言ふとされるこの種の「論理」は「自己中心的」或は「御都合主義的」と言はれていいと思ふ。實際、喜六郎とか、言つてゐる人は本當に少數なんだけどね。
匿名掲示板でも、ふたばの虹裏、その中の例へばimg鯖邊では、中傷・粘着行爲が嫌はれてゐて、それをやらうとする子は毎晩叩かれてdelされてゐるけれども、虹裏でないカメラ板とか三次元板とか軍事板とかでは最う何うしやうもない状態が屡々發生してゐる。匿名掲示板だから、或は、ネタ掲示板だから、「いい」とか「惡い」とか、一概に・單純に言へない事は、多分最近の人は皆はつきり解つてゐる――と言ふか、未だに解つてゐない子が暴れて周りから變な子と呼ばれてゐるんだと思ふ。
しかも最う「空気読め」とかさう云ふレヴェルの非難のされ方はしてゐないのでないか。變な思ひ込みとか、惡意とか、さう云ふのを割と皆、普通に見て取つてゐるやうな氣がする。心ない書込みも多いけどさ。
平成二十一年三月七日
Google ニュース
文芸春秋:「諸君!」休刊へ - 毎日jp(毎日新聞)

福田恒存、山本七平ら保守系論壇人が寄稿した。

福田恆存は諸君!では干された事で有名ぢやねえか。

平成二十一年三月六日
服部英次郎『アウグスティヌス』(勁草書房)p.22

それでは、アウグスティヌスのいう告白とはなんであろうか。告白といえば、ふつう、罪の告白のことであり、アウグスティヌスの書は、かって「懺悔録」と訳されていた。この書が罪の告白を多分に含むことは事実であるが、それはまた、同時に神に対する感謝と賛美である。くりかえしていうと、罪の告白と賛美とは一つであって、これが「わたしの悪と善に関して、義で善である神を賛美する」といわれていることの意味である。すなわち、アウグスティヌスは、自分の罪深い生活のうちに、神の恩寵がもっとも明らかにあらわれているのを認めて、感謝と賛美をささげたのである。したがって、かれの書は、近代人の「告白」の諸書とは厳密に区別されねばならない。それらが高慢と自己誇示の筆になるものであるのに対して、アウグスティヌスの書は、まったく謙虚の産むところである。

平成二十一年三月六日
GRDがをかしくなつたので修理を依頼してみようと思ふ。販賣店の補償サーヴィスに入つてゐるので聞いてみるつもり。以下はURLのメモ。此處は日記だから自分用のメモを書いておいても問題ない。
マップカメラ-日本最大級のカメラ総合サイト|デジカメ(デジタルカメラ),交換レンズ,中古レンズ,新品・中古カメラ,の販売・買取・下取・委託
MAP安心サービスに関するご案内
ブックマークはリンク集として公開。覺えておくべき事・必要な事はウェブ日記にメモ。なんでみんなやらないんだらう。便利なのに。
平成二十一年三月六日
修理に出して來た。親切に對應して貰へて有難かつた。次に買ふ時もマップカメラにしようと思ふ。
平成二十一年三月六日
近所の文教堂が潰れたつぽい。少しショック。開店した頃、何うもサンリオSF文庫を立讀みしてゐるらしいんだよな……。
平成二十一年三月六日
とらドラ! 完結。贅澤な青春送つてゐやがるな。本篇は一氣に讀むと面白いと思ふ。先日短篇集買つて來たが未だに讀めてない。

平成二十一年三月五日
と言ふか、日本語なんてとつくに滅んでゐるんだよ。
平成二十一年三月五日
大體みんな日本語なんて嫌ひぢやん。
平成二十一年三月五日
フジヤマ、ゲイシャ、ニホンゴ。
平成二十一年三月五日
自宅のOperaのメニューは英語。Windowsのアプリケーションのメニュー、日本語だと判り難いんだよな。元が英語圈で作られた環境だし。
平成二十一年三月五日
WindowsアプリケーションでもMacのアプリケーションでも、英語版のアプリケーションを日本語化する場合、もともと英語でメニューが記述されてゐて(當り前)、それを機械的に日本語化してゐる。「File」メニューは「ファイル」メニューになる訣だ。が、この時、ただアルファベットをカタカナや漢字に改めてゐるだけで、「日本語」にしてゐると言つて良いか何うか。確かに「日本語化」ではある訣だが、記號的なメニューの日本語化は、飜譯であつても程度の低い日本語化でしかないだらう。だが、「馴染みのある文字」でメニューが表示されてゐる事で、我々は「安心する」と言ふのだらうか。
個人的には、そのアプリケーションが所謂日本語の文字を扱へるやうになつてゐるのならば、メニューが英語のまゝでも氣にならない。

平成二十一年三月四日
こずゑ for Java
「こずゑ for Java」殘つてゐた。TripodがInfoseekに統合されたので、サーヴィス側がURLを變更したものらしい。某さん何うも有難う。

平成二十一年三月三日
人がした手に出ると、アンチはつけ上がる。
正字正かな派の宣言を、譲歩的な内容で書いてみたら、「福田恆存をやっつける会会長」が、何時もの「教義」を書込んで、宣傳して來やがつた。
だからと言つて、弱みを見せまいと強い調子で書くと、松永氏のやうな手合が「傲慢だ」と極附け、tanzen氏のやうな輩が「偏狹だ」と非難して來る。
何うしたらいいんだ。正しい事を主張しないで、貝のやうに默つてしまつたらいいとでも言ふのか。アンチの連中は、こちらが何を言つても自分逹に都合の良いやうに解釋して、攻撃して來る。俺を「やつつけなければならない」とは、アンチの狂信には本當に嫌になる。アンチこそ狂信者で、偏狹なんだよ。なんでアンチにはその自覺がないんだらう。
正字正かな派は偏狹ではないと宣言したのだから、アンチは默つて信じろよ。バカタレ。
平成二十一年三月三日
主要ブラウザすべてに影響する「クリックジャッキング」攻撃とは
Operaでiframe無效にしてあるんだがダメかな。
平成二十一年三月三日
慥かこずゑのJAVA版もソースコード非公開だつたと思ふ。
平成二十一年三月三日
はてなアンテナが此處の更新を拾ふタイミングがよくわからない。
平成二十一年三月三日
Opera 10PRを常用してゐるが、うつかり8.54立上げたらえらく速くて驚いた。

平成二十一年三月二日
ウェブでの言爭ひと云ふ「現實」に迫られて、何度も福田氏の『私の國語教室』を讀み返すのだけれども、その度に、歴史的かなづかひに對する現在も通用してゐる誤解の多くが既に論破されてゐる事實に氣附かされ、驚かされる。

永野(賢)氏もやはり本質と現象、目的と手段、價値論と發生論、その他の二元論が理解できぬ素朴な唯物論者です。その弱點が歴史的かなづかひ論によく現はれてをります。江湖山(恒明)氏、永野氏に限らず、少し理論的な表音主義者は、必ずと言つていいくらゐ偏狹な歴史的かなづかひ觀をもつてゐる。すなはち、歴史的かなづかひが、語、あるいは文字の本質、目的、價値として目ざしてゐるもの、しかも現實に用ゐてゐるかな文字が表音文字であるために決して到達しえぬもの、それを、彼らは專ら現象、手段、發生の次元に引きずり降し、それがかな文字といふ表音文字の現實に適合しないと言つて非難するのです。といふことは、その非難の前提に、觀念と現實とは一致せねばならぬといふ現實密著の觀念があるからですが、さういふ自分の尺度で歴史的かなづかひを規定してはなりません。

しかし、それが表音主義者の通弊です。渠等が好んで歴史的かなづかひを契沖に結びつけたがる理由はそこにあります。契沖の規範的絶對主義から出た「語義の標識としての假名遣觀」は一見歴史的かなづかひ觀の典型、ないしは據りどころと見えませうが、實はその反對で、契沖もまた表音主義者と同樣に、觀念と現實とは一致せねばならぬといふ現實密著の觀念に捉はれてゐたのであり、それゆゑにこそ、彼等にとつて契沖が最も理解しやすく、論じやすく、かつ處理しやすかつたのであります。いはば兩者は一つ穴の貉といふべく、いづれも、文字は語に仕ふといふ本質論的、價値論的な觀念を、現象論、發生論と混同し、それが「語義の標識」としてかなづかひの現實のうちに見出されねばならぬはずだと考へてをります。ただ違ふところは、契沖はそれが見出されると獨斷し、「いる」と「ゐる」との書きわけは意味の相違を傳へるためと解釋したのにたいして、表音主義者はそれを否定して、當時すでに消滅してしまつた古代音韻の差によるものと解釋しただけのことに過ぎません。念のために附け加へておきますが、契沖の仕事の意義はそれだけで計りえぬ大きなものがあります。また彼は後世歴史的かなづかひ論者が考へ、期待するほどには、「語義の標識」といふ側面を強調してゐるわけでもありません。

とにかく、歴史的かなづかひの原則も内容も、決して契沖につながるものではなく、やはり橋本博士が指摘したやうに、定家において始めて豫感されたものであり、そこにおいては決して絶對主義的な規範の強制が無かつたことに注目せねばなりません。定家はただ發音と文字との差といふ事實を始めて意識的に取上げたといふだけのことです。いや、意識的のみならず肯定的に取上げたといふこと、それが大事なことであります。この積極的な肯定によつて「假名の性格に變化が生じた」といふ橋本博士の觀察は正しい。しかし、くどいやうですが、發音と文字との間にずれを認めるといふことは、つねにその兩者間にずれがなければならぬといふことにはなりません。現象面から見れば、ある場合には、それはあり、ある場合にはそれはない。それだけのことです。しかも、それは本質的には決定的な「變化」であります。たとへかな文字は依然として表音文字であつても、またその大部分の用法が昔のままであつても、やはりそれは「變化」なのであります。

音便の存在をもとに歴史的かなづかひの「表意主義」を攻撃した江湖山恒明や、歴史的かなづかひを徐々に改めて行くと云ふ考へ方を變節として非難した永野賢に對して、福田氏が反論して述べた文章を拔粹した。
反論と云ふ文脈を取拂つて見ても、ここには福田氏の歴史的かなづかひ觀がはつきり表はれてゐるのであつて、それは、飽くまで歴史的かなづかひの原理的本質的な部分に注目したものであつた。即ち、「語を表現する」と云ふ原則こそが歴史的かなづかひの原則である、と云ふものだ。「語の音を表はす」と言ふのでもなく「語の意味を表はす」と言ふのでもない、語を表現する、それがかなづかひだ、と云ふものだ。
發音通りでなくても、その形が語を表現してゐる――それがかなづかひである。この事實を事實としてありのまゝに認めた最初の人が定家であり、その點で定家こそが歴史的かなづかひの觀念の創始者である、それに對してかなづかひが語義を表はすものと解釋した契沖は、かなづかひが發音を表はすものであると解釋した表音主義者と同じで、實は誤を冒してゐたのである、福田氏はさう指摘し、歴史的かなづかひの歴史を定家にまで遡らせてゐる。が、實は、文字の形が語を表現するものである、と云ふのは、文字が發生した瞬間からさうなのであると福田氏は文字言語の本質を述べてゐる。その文字言語の本質が、かな文字の用法と云ふ面で現れたのがかなづかひである。
歴史的かなづかひの歴史と言ふけれども――制度としての・現象としてのかなづかひの歴史を云々してゐるのは、唯物論的表音主義者が冒した誤を再び冒してゐるものと言つてよい。歴史的假名遣と言ふより文字言語そのものの原理こそが問題にされなければならないのであり、さう云ふ意味では、白石良夫の『かなづかい入門 歴史的仮名遣 vs 現代仮名遣』にしても、松永氏の「正字正かな派」批判にしても、表面的な現象だけしか見てゐない、甚だ唯物的な歴史的かなづかひ批判であると言つて良いし、或は福田氏の『私の國語教室』を讀まないでした批判であると言つても良い。
――といふか、白石氏には、福田恆存の『私の國語教室』を讀んだ形跡がない。讀むと恐ろしい事になりさうだからと素通りしたか、下手に言及するとまづい事になると思つてスルーしたか。白石氏の本を讀んで納得しさうになつた人々には、福田氏の『私の國語教室』を一讀される事を――既讀の人は改めて最う一度、理解しようと思つて再讀される事を、俺は希望する。次の「評論集」は『私の國語教室』の筈。二月には出ると思つたのだが、出てゐないのは何なのだらう。
平成二十一年三月二日
正字正かなプロジェクト: 概要 - SourceForge.JP
俺以外の人間がやつてゐるから安心だよ。有能な人が入つて呉れるといい。しかし、永續きするかな。
こずゑの部屋
「我々」の世界では、續かないで消滅したかな漢字變換プログラムの前例があるからな。
正字正かな關係者の繼續力のなさは異常。
平成二十一年三月二日
俺以外に一人としてウェブの有名人になつた正字正かなの人がゐないんだよ。俺なんかが、派手な言葉遣ひと、何時までもえんえんしつこくサイトをやつてゐるのとで、或程度の「知名度」を獲得してゐるのだけれども――それを非難する「旧字旧かな派」の人がゐるだけで、正字正かなを使つてゐる人が、より良く、より理想的な態度を示して、より有名になつた、なんて例は一つもない。
平成二十一年三月二日
Internet Archive
こずゑは、一時期からWindows版の配布が停止。Java版のみが提供されてゐたが、Tripodに置かれてゐた所爲で今では消滅してしまつてゐる。皮肉な事に、早々に配布が打切られたWin版のみ、Internet Archiveで今でも落とせる。一往正字正かなで入力出來るから立派。但し、辭書のメンテナンスもいろいろなカスタマイズも出來ない、入力以外何も出來ない未完成の状態で放置されてゐるから、何うしやうもない。ソースが公開されてゐたら發展したのに、惜しいプログラムだ。羽織ゴロ助さんは今頃何うしてゐるだらう。
平成二十一年三月二日
正字正かなの立場について - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
平成二十一年三月二日
常用漢字の置換テーブル - なんでやねんDTP
ところで俺は「漢字に興味がない」のではなく「敢て漢字については沈默を守つてゐる」のだから。漢字の方は好きな人が澤山ゐて、いろいろやつてゐる。さう云ふ人々に任せておけばいいと思つてゐるから俺はさう云つた人々がやつてゐない別の事として歴史的假名遣の事をやつてゐる。字音假名遣についてはやつぱり好きな人がゐていろいろやつてゐるから俺はやらない。
漢字や字音假名遣は松永氏の所謂「旧字旧かな」と一緒で好きな人が澤山ゐるし、ならば俺は別な事をやる。興味が無いからではない、と云ふ事は強調しておく。だから斯う云ふ漢字の話にも一往氣をつけてはゐるし、リンクも張る。けれども、それだけだ。
俺みたいな無知な人間に、そんなに手を擴げていろいろな領域に口出しできるだけの能力があると本氣で思つてゐるのか。

平成二十一年三月一日
ゲンダイっぽい記事の書き方 - kyoumoe dovrebbero funzionare per vedere CLANNAD.
喜六郎の小屋なんかもこの種の文體で書かれてゐる氣がする。讀んでないけど。
結構多くの時事問題だか社會思想だかの關係の事を扱つてゐる(と以て自任してゐる)「ブロガー」がこの手の書き方を當り前のやうにしてゐるんだが、何なんだらう。
平成二十一年三月一日
俺が何をやりたいのか解らないと言ふ人が多いのだけれど、さう云ふ人は大抵福田恆存の『私の國語教室』を讀んでゐないと思ふ。
時枝誠記にしても福田恆存にしても、最う日本語の表記は元には戻らないと知つてゐた。俺も知つてゐる。でも、だからこそ、今の國語政策を實施してゐる當事者が、後ろめたさを感じずにはゐられないやうにしておかなければならない、その爲に國語の正常化を訴へて行かなければならないんだと福田氏は言つてゐた。
平成二十一年三月一日
政治的な判斷なら俺だつて出來るよ。松永氏の「ブログ」のコメント欄で幾ら言つたところで、何うにもならない。が、松永氏にメールを送つて、氏を「改宗」させて、それで「訂正」の記事だか何だかを書いて貰つて――それで正字正かなで書くやうになる人が何人出て來る? 出て來やすまい。ならば徳保氏がした提案は政治的には何の意味もない。政治的に、やる價値はない。
今の時代、工作する事には何の價値も認められてゐないんだよ。裏工作は、ばれたら逆效果になるだけなんだよ。自作自演でも何でも、ばれたら逆效果になるだけだし、今の時代、何でもばらして喜ぶ手合がゐるから、ばれるやうな事をしないのが一番の「政治的戰術」だと言へる。メールで話を妥結させる――さうすれば、裏工作の類を疑ふ人が出て來る。さうなつた時、また俺は納得して貰ふ爲に工作しなければならないのか。當座納得して貰ふと云ふだけでは駄目なんだよ。説得だの納得だのと云ふ事は、無理だ。人は自分で悟らなければ、何事も自分の事として考へる事が出來ない。だから俺は徳保氏の提案を蹴らざるを得ない。
平成二十一年三月一日
それから、最う松永氏の「ブログ」には(何か動きがあるのでない限り)行かないと思ふ。リンク張つたうちの記事が過去帖送りになつたので、行くのが面倒になつたからだ。
今ここでリンクを改めて張れば多分またバンバン行くやうになると思ふけれども、そこまで意味のないリンクの張り方してもしやうがないし。
月に代つてぢやなかつた月が變つて記事が過去ログに行くと興味がなくなつて言及すらしなくなる――月なんてものは(今となつては)何の根據もない、ただの時間の移り變りを示すだけの記號的なものに過ぎないんだけれども、さうは言つても斯うやつて切れ目とかけぢめとかをつけられるやうにしておくのは、昔の人の智慧なのだ。やつぱり昔の人は偉いんだなあと思つた。
平成二十一年三月一日
ちょっとしたメモ - HTML5はモジュール化しないの?

適切に設計すれば、「HTML5の○○が気に入らない」という相反する意見も、モジュールの組み合わせでうまく行くかもしれないのに。

少くとも俺に關して言へば、それはない。根本的なHTML 5の理念に俺は疑問を抱いてゐるからだ。
「HTML 5は全體として良いと思つてゐる、だが、部分的に氣に入らない所がある」と言ふのだつたら、神崎氏の提案は受容れられるだらう。けれども、俺はHTML 5の便宜主義が氣に入らないのであり、その結果として部分部分の仕樣もまた氣に入らない事になつてゐる。
「HTML 5は、HTML 4.01 Transitionalの擴張であり、『ブログ』に必要な要素を追加する」と言ふのなら、或程度許容出來る發想だ。が、檢討中のHTML 5は、さう云ふものではない。根本的にHTMLの理想を覆して――從來のHTMLが想定してゐた文書構造を否定して、ただ、ブラウザで「ブログ」を「ブログ」らしくレンダリングさせる爲に、便利なやうに作られてゐる仕樣だ。「さうではない」と反論する人もゐるけれども、それは詭辯で、誰が何う見てもその邊のマルチカラムの「ブログ」や新聞なんかのニュースサイトの「構造」を基準に考へられてゐる。
理想が現實を律するのでなく、現實を基準に大雜把なコンセンサスを纏める、みたいな形でHTML 5は策定されようとしてゐる。なるほど、「現代仮名遣」が採用され易いやうに、HTML 5も採用され易いだらう。けれども、それは「現代仮名遣」が優れてゐる證據でなく、HTML 5が優れてゐる證據でもない。ただユーザに媚びた結果であるだけだ。
平成二十一年三月一日
「1億人のネット宣言 もっとグッドネット」業界超えて国民運動
これからの活動の手がかりとして、キャッチフレーズを共有したい、さう云ふ訣で「正字正かな」と云ふキャッチフレーズを用意した。これは、一人一人が國語について考へ、前よりももつと良い國語の表記を實現して行かうと云ふ意味が籠められてゐるのである。と言つても、「正」と云ふが入つてゐると、「政治的だ」とか「偏狭だ」とかの罵倒が投げつけられる事になる。しかし、グッドとか外來語を使つて意味をぼかしておくと、世間的には全然大丈夫らしい。
侮られるんでないかと思ふが。
平成二十一年三月一日
漬物倉庫(嘘):あってほしい形と、ある形 (2009-02-23)
鳥飼氏は、「水傳」を「信じてゐる」にもかかはらず、科學的な判斷については「留保」すると言ひ、讀み手に判斷を委ねてゐる。
Narr氏は、辯護士のやうな立場の人なら、結論を曖昧にせず、自分の判斷をちやんと述べるべきだ、と批判してゐる。
シトロエンDS氏は、「水傳」を信じてしまふ人が澤山ゐる事實がある、「信ずる」人が多いのには理由があるに違ひない、と發言。
――シトロエンDS氏が、Narr氏の今囘の記事に對して批判とか意見とか反論とかをしようとしてゐるのでなく、ただ「Narr氏の記事に觸發されて自分自身の勝手な意見を開陳してゐる」だけであるらしき雰圍氣が傳はつて來るのですが如何。Narr氏は御自身の記事の文脈上で話をしようとしてゐる。互に話が噛合はないのも當然。
ちなみに、コメント欄への書込みが彈かれたのでこつちに書いた。
DS氏(或は女史)の立場は、徳保氏的な立場で、傍觀者的であるが、微妙に(この場合は)「水傳」よりで、決して公正ではない。ただ、「相手の立場を慮つて」何う斯うと「忠告」する、と云ふ態度をとつてゐる。當人は「親切」の積りである可能性があるが、かう云ふ態度はよくわからない。徳保氏にしても、俺が「正字正かな派」に對する「誤解」を解きたいのならば、と言つて、おせっかいをして呉れた訣だが――俺が何うしても徳保氏に對して疑念を抱かずにゐられないのは、徳保氏が正字正かなそれ自體に對してどのやうな考へを持つてゐるか全く解らないからだ。現に、徳保氏は正字正かなで文章を書いてゐない。で、DS氏に對して、Narr氏は疑念を抱いてゐて――Narr氏は俺より氣が長いから、DS氏の言ふ事を讀取る努力を隨分してゐるが(俺なら先づぶち切れる)――だからこそNarr氏は釋明をし、説明をしながら、非常に嫌な氣分である事を示してゐるのだけれども、さう云ふNarr氏の心理がDS氏には解らない。
平成二十一年三月一日
アウトプット=書くことを習慣にしようよ - かみんぐあうとっ
最近氣附いたのだが、文章を書くのは、「書かずにゐられない性質の人間だから」。文章を書くのが「習慣である」人間はゐるけれども、意圖してそれを「習慣にする」のは無理なんでないか。
俺なんかは何度恥をかいても/かかされても默らない、一方で、恥をかく/かかされるのを厭うて書かない人がゐる。斯うなると――書くのに耻とか何とかは關係ないと言はざるを得ない。
結局のところ、「書くタイプ」と「書かないタイプ」がゐて、「書かないタイプ」の人が「恥」を持出して書かないのを「正當化」してゐる――正當化と言ふのはをかしいのであつて、別に「書かなければならない」義務のある人が書かないのではなく、書いても書かなくてもいい人が書かないのを説明してゐるのだから、ただ理由を述べて自分を説明してゐるだけだ。
が、ならば、「書かない」人に「書く習慣をつけよう」と言つても意味はないのでないか。習慣で何うにかなるものなら、人間に氣質と云ふ言葉はない筈だ。
平成二十一年三月一日
まさか「個人サイトはマスコミじゃない」とは言うまいね? - FANTA-G - 楽天ブログ(Blog)
例によつて名無しの人が「マスコミじゃない」と威張つて言つてゐる。匿名の人が皆、斯う云ふ意識を持つてゐて、俺の言つてゐる事を全部寛大に赦して呉れるんだと非常に助かるんだがな。
喜六郎によれば「ネット言論」と「マスコミ」とが別の物として「ある」らしいんだけれども――しかし喜六郎の分類では、それらの質的な違ひは全然指摘されてゐないんだよな。ただ、「場所」が違ふとだけ言はれてゐるに過ぎない。喜六郎は、ただ、さう云ふ分類をして、どつちが今隆盛であるとか、そんな事を傍観者的に高所から言ふのを得意としてゐるが、しかしそれで何か言つた事にはならんだらう。マスコミがをかしな事を言ふからネット言論が榮える――しかしネット言論がマスコミの縮小再生産に過ぎないのなら。喜六郎には、俺への粘着をやめるなら、さうしたもうちよつとつつこんだ議論をして貰ひたいと要望を出しておく。と言ふか、喜六郎は出しで、世間の多くの「ブロガー」だか何だかに對して俺は要望を出してゐる。喜六郎はただ、身近で目立つた事を言つてゐる人だから、適當に名前を引合ひに出したに過ぎない。喜六郎なんかは「ブロガー」としてはまだまだ小物。
しかし、世間では長文レスが當り前のやうに認められてゐる場所があるんだな。「長い」「三行で」とか云ふレスが附くやうなところは程度が低いと思ふんだ。

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