教育と倫理はいかなる時代にも単なる理論の問題ではない。しかも新しい日本において、人格陶冶は各人に課せられたもっとも重要な課題である。封建制の旧い倫理はくずれ去ってしまった。唯物論的なモラルは必ず現世主義と快楽主義に終るもので、それは唯物論の最弱点といえよう。しからば新しいモラルはいかなるものであろうか。それは人間性のモラルでなければならない。しかもただ少数の特権階級の人々のための新ヒューマニズムではなく、国民全体を向上させる真に民衆的な道でなければならない。宗教によらないモラルは民衆的になることはあり得ない。宗教的基礎づけによって、はじめて生活態度は確固たる力をうるとともに、ひろい包括的なものとなるのである。しかも宗教一般なるものは存在しえない。それは花一般がありえないのと同じである。わが眼とわが心を喜悦させるものは、バラの花であり、百合の花であり、あるいは菫の花である。この書に示された人格陶冶と生活形成の道は、キリスト教の教えに基いている。しかしキリスト教に説かれる宗教的な根本真理、神、永遠、不滅、霊魂、自由、愛などの真理は全人類に対する普遍的な生活価値であって、すべての人々に把握されやすいものである。
この書物は、最も広い範囲において健全な高貴な生活態度を希求するすべての読者を対象としている。人格という価値は人生の最高価値であると信ずる。この信念こそ、縦糸、横糸となって本書のすべての頁に織りこまれているものである。「人の子らよ。人格のみ最高の幸福なり」というゲーテの言葉は常に妥当性をもつものである。
その上、人格は善を把握してこそ、その最高幸福にいたる。善こそ、プラトンやあらゆる時代の氣高い魂の持主たちにとって最高のものであるから。「善きものは一人のみ、すなわち神なり」(マテオ一九の一七)とキリストは教えられている。
そもそもwebページなんぞ同じものでありながら「PC」と「ケータイ」で微妙に世界観が分かれているようないないような風潮ってどうなのと思うんだが。
例えばその圧縮形式の規格で、全てのエンコーダ・デコーダは必ずこのようにしてエンコード・デコードしなさい、と厳密に定められていれば、どのエンコーダ・デコーダを使っても全く同じように再生されるということは理論的にありうる。
もっとも、規格が厳密であったとしても、その厳密な規格に従ってデコードを済ませた後でデコーダ独自の処理を加えるといったことはありうるので、一般的にデコーダによって画質・音質が変わる、ということはできる (が、それは不可逆圧縮に限ったことではないし、そもそもディジタルメディアに限ったことでもない)。
デジタルがいいとか悪とかという話だと思われると少し困るので追記。まあ文章なんて人それぞれに読まれるものだから構わないのだけれど。で、骨子は最後の行。
ところで、話は変わって、このデジタルとアナログの話は、実在論と似ているし、そもそもベンヤミンの「アウラ」の話と結びつけると面白いな、あれ、この議論はどっかで読んだぞ、とか、色々思い出しているんだけれど、全然思い出せない。
ただ、テクノロジーが近代的な原理と結びつき、合理にはしるとき、その反動としてアナログをもちだすのはいかにも簡単な話で、また、そのような勢力としての「音楽マニア」が存在していることは否定すべきだと思っている。その意味で思想的な話をしたかった、という訳。
DVD-Rメディアによって全く焼けない場合が一度だけあった。近所で買ってきたmaxellのデータ用。何故か同録画用は成功するし、それ以外も今のところ全て成功している。
レコードはアナログ方式によって音を記録していたが、CDはデジタル方式によって音を記録する。
当たり判定が大きい人は、そもそもネットで文章を公開しないほうが幸せです。
OSにWindows Vista Ultimate(64bit)を搭載と平然と書いてある。WXG動かねえ。
空前のGopherブームが出てくる。
時代遅れつて惡口が意味もなく好きな日本人つて矢鱈めつたら多いよね。
それを思えば、「今の」日本語がどういう形であれ変容するのは当然であり、むしろ「近代国家」という枠組みが溶解しかかっている(EUを見ればそれは明らかだろう)現在、無理に「国語」を防衛しようとする思想はまさに時代遅れのナショナリズム、保守反動でしかないとさえ言えるのだ。
私が最も嫌うのは、金持ちの癖に喧嘩する連中である。文章の好みにおいても同様で、知識の量が圧倒的であることや技巧的に優れていることを鼻にかけ、むやみに読者を挑発し、衝突したがる書き手を見ると、思わず「幼いなあ」と憫笑してしまう。ただ目立ちたいという文章を読まされると、げんなりもする。
初心者のうちは「放胆文」、すなわち細かい文法や規則にとらわれず、思い切って大胆に書くのがよいと説く。他方、玄人の域に達する者には「小心文」を薦めている。熟練者は、細かい字句やルールにも十分な注意を払って文章を練るのがよいというわけだ。この教えを「放胆小心」という。
私の貧しい経験で言えば、冒頭の書き出し方にも「放胆文」と「小心文」がある。私の場合、インパクトが重要な芸術的な文章では「放胆文」を、相手に信頼されることを第一義に考える学術的な文章、実用的な文章のときは「小心文」を採用するようにしている。
初句は字余りである。そこからして既に体制に抗う放胆さが見えるが、しかし、自らを「その子」と客観的に眺めるところは小心である。また、内容は自らの若い美を誇らかに「うつくしきかな」と謳いあげることは、どこまでも放胆きわまりない青春の謳歌という印象をもたらし、思わず目を眩まされそうになるが、「の」の多用によって生み出される流麗な調べに着目すれば、豊かな黒髪という内容とも響きあうように計算されていて、その肌理細かさ、行き届いた配慮に感心させられる。
私が最も嫌うのは、金持ちの癖に喧嘩する連中である。と言ふ邊、「金持ち喧嘩せず」の「解釋」も相當をかしい。
ん? その人が知らない場合は全て陰口になるの?
吉田健一の評論に「文学が文学でなくなる時」というものがある。
いや、「日本語が亡びるとき」をはじめて目にしたとき、なんだか見覚えのある題名だなと思ったのだ。それがしばらくたってからよくよく考えてみたら、うーむこれじゃないかなと思えてきた。たぶんこれであろう、とあたりをつけてみたのだ。邪推と言われそうだけれど。
要は、「携帯動画変換君」みたいな感じで「IME辞書変換君」みたいなのができればいいなあ、といふ話。
IMEを直接創るのではなくて、それぞれのIMEに合せた正字正かなIME辞書を作成できればいいぢゃん、と思った。
無根拠な印象レベルの話であると云ふのは同意。ただ、印象レヴェルの話で何が惡いと俺は思つてゐる。だつてさうだらう、「印象」でしか人間は人間の事を語れないものだ。山口氏だつて俺の事を印象で語つてゐる。
そういう場合は自分が今までに見た日本人というべきじゃないか . 日本人つったって千差万別で一概にどうこういえるもんじゃねえだろ .
あとその手のって大抵俺は一般ピープルとは違うんだぜみたいな言い方になるのも胡散臭い理由かな .
あとこういうの民族論って最近の若者はどうこうあたりの与太話と大して変わらないような . いや別にそういうレベルのジョークならいいンだけどね .
野崎さんは、松原正先生と同じ過ちを犯してゐますね。私は福田恆存戯曲集の内容をどこから引用したか、出典を明らかにしてゐます。にもかかはらずそれを記してゐないと書く。これはまつたくの言ひがかりです。私がどういふ気持ちであれを載せたのかは、いろいろな人がいろいろと書くのはどうしやうもありませんが、「くさす」なら事実をちやんと押さへてからにしてほしいものです。まさに「先入観でものを見る」です。まあ、かういふ傾向は松原正先生譲りといふことでせうから、野崎さんには誉れかもしれませんが。
以上で、この件は終はります。
- 投稿 前田嘉則 | 2008.11.06 09:21 午後
野崎さんはと言出し、
不愉快に思つたのが俺の事だつたと初めて明かにした。この男はかう云ふ人物だから、何を言つても信用できない。
出典を明らかにしてゐますから「問題ない」と言つてこちらを責めるのは卑怯だ。
先入観でものを見る事が出來てゐると前田は言つて威張つてゐるが、
先入観でものを見る粘着アンチの喜六郎とつるんでゐる時點で、前田が批評家失格なのは明かだ。
まあ、かういふ傾向は松原正先生譲りといふことでせうから云々のくだりは、前田が西尾と同じ手合である事を示す。
虚心坦懷に文章を讀める評論家の前田先生が誤讀したのは許し難い。「くさされた」のが不愉快だと前田大先生は曰ふのだが、ぢやあ「くさされた」前田大先生は何をしたか。相變らずリンクを張らず、「野嵜が」とも言はないで、當てこすりを言つたのだ。これが評論家のする事か。
福田恆存の戯曲集の案内をしたところ、「前田が編集したと勘違ひした」と、そんな「勘違ひ」など絶対するはずないのに、くさされたのが不愉快でしたので、今回はその事情を説明したうへで告知します。
意外と本当に勘違いしたのかも知れませんよ。
アイツは本当に読解力ないから。
さうかもしれませんね。虚心坦懐といふことを知らずに、先入観でものを見る、それが批評だと思つてゐるやうです。
喜六郎のブログを見たら1番目の記事がちようど2年前の日付になつてゐて、やつぱり野嵜さんや木村さんを愚弄する内容なのだ。で、2年後のいまも野嵜さんや木村さんを愚弄し續けてゐるわけである。と書かれてゐる。
「野嵜や木村の言うことは論ずる価値も無い」と喜六郎はいひ續けてゐるわけだが、2年もの月日をかけて「論ずる価値」があることを自ら證明してゐる。と云ふ理窟に喜六郎は反論できないが、何れにせよ、喜六郎がこれ程まで俺に執着し、俺に嫌がらせをしてゐる事實をみれば、誰だつて喜六郎の惡意は看て取る事が出來る。ところが、「虚心坦懐といふこと」を知つてゐる筈の前田は、喜六郎の小屋なる「ブログ」にリンクを張つて、キャプションに
保守の思想に御關心があるやうです。等と書いてゐる。前田の言ふ
虚心坦懐といふこととやらは、見え見えの惡意を見過ごして身方にはおべつかを使ひ、逆に氣に入らない人物にはひたすら惡意を見出して意圖を歪曲する、と云ふ態度なのだらうか。前に前田が書いた松原先生を侮辱する文章は、
虚心坦懐に松原先生の發言を受容れ、それで批判する、と云ふものではなく、前田の持つ松原先生に對する惡意を露骨に表明する、と云ふだけの代物だつた。あんな非道い侮辱の文章は、見た事がないと言ひたいが、俺は壺方面で俺に對して向けて書かれた攻撃の文章に似たやうなのをよく見る。
虚心坦懐に前田の文章を眺めれば、前田の惡意がにじみ出た文章を屡々見出せる。
保守の思想に御關心があるやうです。なんて暢氣な事を書いてしまふ。かう云ふ鈍感さは、文藝評論をやる場合には致命的な缺陷となる。
「アウトサイダーが正統であるのが日本である」とうそぶく文學徒です。なんてこつ恥かしい事を平然と書ける人間なんだよ。この手のナルシシズムは、古典主義者ではなく割とよくロマン主義者に見られるんだが、しかし、どつちにしても前田は別に正統なんてものに興味なんて持つてはゐない。ナルシストにとつて大事なのは外部の存在ではなく――過去でも他人でもなく、自分である。歴史的な立場をとらうとする限り、人は自己を滅却せざるを得ない。けれども、前田は寧ろ、自己をアピールすることに汲々としてゐるやうに見える。日頃の前田の言動を見てゐると、前田は政治的な保守主義者に過ぎないやうに見える。
かうした「國語」の「思想」を讀み解くことから學ぶものは多い。「正統假名遣ひを保守せよ」といふことを連呼するだけでは、今日の國語問題はきつと解決しまい。なぜならば、そこに「思想」問題があるからである。明治期の言語政策立案者(俗に言ふ「改革派」)が、進んで取り組んだ課題にたいして、私たちもまた何らかの具體案を提出する必要がある。が、保守派においての檢討は正直に言へばこれまで不十分であつたと言へる。
虚心坦懐に世間をながめれば、その程度の事は事實として認められる筈だ。日本人が變らなければ、日本人は正しい表記を取り戻さう等と思はない。が、さうさう國民性が變はるものではないのだから、まあ無理と言はざるを得ないだらう。それが解らないのなら、前田の政治主義は病膏肓に入つてゐる。喜六郎のは、最う「他人を攻撃する爲の言掛りの種探し」に陷つてゐるから論外。あゝ云ふろくでもない「愉しむ爲のアンチ」は、人間の屑で、それこそ論ずるに値しない。
- GSVにおいては、撮られた写真が執拗に観察されるかもしれないという気持ち悪さ
- HBMにおいては、設置された掲示板に押し寄せた(時に一体感を持った)群集によって観察されるかもしれないという気持ち悪さ
ていうより、問題は、罵倒はともかく、暴力的な行為(或いは罵倒も含めたネガティブコメント、はたまたコメ欄凸とか)に及ぶかどうかあたりであって、いや、そんなん言い出したら、ブックマーカに限らず世界人類のそういう性質こそが問題なのであって、だったら、そういうのを助長するようなシステムってどうよって話なんであって云々。
昔さぁ、オグリンが、ブログサービスの注意書きに「公開すると罵倒されたり、誹謗中傷されることがあります」とか大書しとけよ、っていう話を書いてたけど、マッチョな感覚で言えば、その通りだと思う。バラ色なコトばかり書いて、敷居を低くして、ユーザ集めるコトばかり考えてるのもどうかとは思う。
いや、誹謗中傷や、粘着行為や、あからさまな嫌がらせ行為とか、そういうのを容認してるわけぢゃないし、そういうのは「公開するリスク」に含まれないよ。
キリスト教徒となることは、心の問題がいくらか整理され、ある程度の精神安定を得るという利益があるが、一方で教義と現実の生活の折衷やキリスト教であれ他宗教であれ儀式への参加の問題が出てくる。
今日の大衆的革命運動を、何時の時代にもあるやうな、支配者の壓迫と失政の反動として生じた一種の暴力と無秩序と考へることは誤であらう。全體主義的革命家逹は、常に宗教的特色をなしてきた絶對的完全さに對するあの敬虔な熱意を以て、社會の極端な轉覆と改革とを企ててゐる。宗教的メシヤニズム――ただそれにほんの申譯的な生物學と經濟學的公式と愛國的スローガンとの薄鍍金をかけたものが、世界制覇を目ざした嘗ての國家社會主義の根本的動力をなしてゐたのだ。更にまた、マルクスの辨證法的唯物論も、その見せかけの嚴密な論理性の背後には、經濟史の恐ろしい展開につれて一歩一歩近づいてくる最後の審判の默示的な幻影の火が燃えてゐる。實際、今世紀に於ける全體主義哲學はすべて、キリスト教會を追放した結果近代社會に出來た大穴を埋めるべく、反教會の旗印も鮮かに乘りこんできた異教なのである。宗教のみがそそり立てることのできる忠誠と献身と雄々しさの感情は、悉く彼等の手中に歸した。彼等もまた、キリスト教と同じやうに殉教者も豫言者も、祭式も行列も、そしてドストイエフスキーがすでに豫言してゐたやうに、大審問官の宗教裁判まで、取りそろへてゐるのである。
しかしかかる新勢力がキリスト教と根本的に相違する一點は、彼等の祭壇には神がない、といふことである。それだから、たとへ彼等の祭式が如何に華麗であらうとも、所詮それは惡魔による神の冒涜でしかないのだ。……。
公開以来問題のあった Opera 9.62 のダウンロードですが、昨晩から復旧し現在では正常に戻っています。
ドラヰヴなのだらう。
このような形での問題提起は、「手書きの字体」と「明朝体」の間にだけ存在するわけではなく、世の中のどこにでもあります。
ところが、それにも関わらず「無色透明な存在」があり得る、という誤解は未 だに蔓延しています。
それを、議員の名前という誰でも分かりやすい公的なシンボルを通して明確に示していく文章は読んでいてワクワクしますね。
福田恆存の戯曲集の案内をしたところ、「前田が編集したと勘違ひした」と、そんな「勘違ひ」など絶対するはずないのに、くさされたのが不愉快でしたので、今回はその事情を説明したうへで告知します。
轉載なら轉載と書けばいいのに。と指摘したのだし、それが俺の指摘の核心部分だ。
福田恆存戯曲全集を 2008年11月より、 順次刊行予定するとのことです。
(現代演劇協会のホームページより転載)
このサイトもそうだけど、いわゆる「個人サイト」って、コンテンツが主と言うよりは、「人」の方が主になってるなあと思う。あるいは「場」。コンテンツは、人や場に属している。