制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
野嵜健秀とは誰か
特記事項:野嵜に粘着するネットストーカーについて
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。

闇黒日記


平成二十年十一月三十日
ギゾーの『ヨーロッパ文明史』の下卷を買つたと思つて上卷を買つたら下卷が見附からない――で、東京古書會館の古書展で下卷を見附けたから買つたのだが、今度は上卷が見附からない。日本評論社の世界古典文庫。
平成二十年十一月三十日
「自分とは違った視点」をはてなブックマークに求めること (agenda)
Twitterとかはてなブックマークとかの「一言」のコメントを「讀む」人が「ゐる」と云ふのが信じられない。そんなものの何が面白いのだらう。「これはひどい」とか。しかし、蓼食ふ蟲も好き好きと言ふから、俺がとても好きになれさうにないものでも好きである人はあり得るのだらう。
「自分と同じ感想」を言つてゐる「人がゐる」と云ふので安心できる、と云ふ理由もあるのだらう。朝日新聞の評判の惡い「素粒子」のやる「ばつさり斬捨てる」言ひ方が好きな人もゐるのだらう。喜六郎なんかも淺薄で皮相な簡單な割切りが大好きで、あゝ云ふのが好きな人が「ゐる」事は、理解できないが、事實として受容れざるを得ないのだらう。が、「それが良い」か何うかは話が別。俺は簡單に割切るやり方を好まないし、それを良くない事と思ふ。
平成二十年十一月三十日
陰気な成果主義 - カレーなる辛口Javaな転職日記
Business Media 誠:山崎元の時事日想:給料に不満を感じる理由――日本に根付く“陰気な成果主義”とは? (1/2)
なぜ成果主義を採入れるのか。一つは「それによつて社員の意欲を向上させる爲」最う一つは「意欲を持つた社員の積極的な活動によつて會社の收益を増やす爲」。ところでなぜ「意欲を向上させる」「會社の收益を増やす」必要があるか、と俺が問うたら――全ての人が「は?」と問返すだらう。なぜなら、社員は賃金を貰ふのが當り前であり、會社は儲けるのが當り前である、と誰もが信じてゐて、疑ふ事はそれ自體が(日本では)「惡」だからだ。
けれども、「金儲け」だけが目的であり、效率良い金儲けの爲に成果主義なり何なりを採入れてゐるだけであると言ふのなら、これは「人間機械論」以外の何物でもなく、餘りに非人間的な議論だ。それを「當り前」としてきた事に、就勞と經營の全ての問題の原因がある。
現實の企業では、個人が活動してゐて、横で繋がらない――結果として、企業全體として支離滅裂な事をやつてゐたりする。一昔前のソニーがその典型で、あつちの事業部とこつちの事業部で個別に似たやうな事をやつてゐた。出版社でも、あつちの編緝者とこつちの編緝者が似て非なる企畫を互ひに獨自に立てて、兩方の企畫が平行して進行してゐたりする。それで企業が一貫した組織として成立つのか。「さう云ふ社風」と言はれて勘辨して貰つて來た企業は多い筈だ。Microsoftだつて相當支離滅裂で出たら目にやつてゐる事は有名だ。が、それでいいのか。「いいのだ」「儲かれば良いのだ」――さうだらうか。それならなぜ「一つの組織」としての企業なのか。
根本的に「なぜ一つに纏まらうとしてゐるのか」と云ふ事が、どの企業でも問題にされてゐない。現在の世の中では、ただ「起業したい」で始まつた企業許りだから仕方がないのだが――しかし、今後はその邊の事からして問題にされる必要があるのでないか。
――と言ふか、「成果主義」とか言つたつて、漠然と「金儲け」なんて事を目標にしてゐては駄目なんだよ。企業の目的がなければそもそも企業の構成員の目標なんてものもあり得ないんだから。企業を維持する、と云ふそれだけの事ですら、經營者は解つてゐなかつたりする。當座、株主に説明するだけの爲に「幾ら儲けます」と言ふ事が「目的」と混同されてゐたりする。資金を調達するには必要な事なのかも知れないけれども、當座の運轉資金を借金する必要があるとしたら、それは自轉車操業だよ。何と言ふか、何かの理想があつてそれを實現する爲に計劃を立てて、その計劃の實現に必要だからお金を借りる、と云ふのが本來のあり方だ。それは常識的に誰もが解つてゐるのかも知れない。けれども、先づお金を借りて企業を存續させる資金を確保して、それで息をついて安心してしまふ――そんな經營者は割と多いやうな氣がする。計劃と言ふのも、銀行なり何なりの擔當者を納得させてお金を引出す――いや、金融機關の方でも大體企業の側から提出される計劃とやらの殆どが、借金する言ひ訣に過ぎないと云ふ事を百も承知で、ただ金を貸せればいいから、と云ふだけで貸してゐるのだつたりする。
經營者に理想があつて何かをやりたい、それに贊同して社員が活動してゐる――それが「理想的な會社」なのだらう、けれども、さう云ふのは理想であつて、現實にはあり得ない。が、「現實」と言ふだけで、いささかも疑問に思はないで良しとする風潮には疑問を呈したい。
平成二十年十一月三十日
自民黨も民主黨も、理想なんてものは何處かにうつちやつておいて、ただ權力爭ひをひたすらやつてゐる。が、それも結局は組織として何も理想を持たないで、ただ權力の奪取だけを目的に人が寄集まつてゐるだけだからさうなつてゐるに過ぎない。さう云ふ政黨政治がろくな政治にならないとしたら、金儲けだけを目的に人が寄集まつてゐるだけの企業の活動がろくなものにならないのも話は同じだ。金儲けだけを一生懸命やつてゐるに過ぎない日本の資本家・勞働者は、誰も政治家を嗤へない。
日本人は一般に、「金儲け」或は「權力の奪取」と云ふひたすら現世利益的な目標の達成にのみ邁進してゐるのであり、理想の實現と云ふ甚だ浮き世離れした事を輕んじてゐる。俺はそれを惡しとするが、多くの日本人は良しとする。いや、「良しとする」のでも、まあ、いいのだ。ただ、さう云ふ多くの日本人が自分の立場を忘れて、自分と同じ立場の人間をただ「巧くやれてゐない」といつた程度の表面的な理由で以て罵り、嘲つて、馬鹿にしてゐるのは、何なのだらうなあと思ふ訣だ。
平成二十年十一月三十日
本の山を崩してゐたらハインリヒ・デュモリン『全き人間――如何に生くべきか――』(現代教養文庫36)が出てきた。上の話と俺は關係があると思ふので、冒頭の「改訂版に際して」と云ふ短文から引いておく。

教育と倫理はいかなる時代にも単なる理論の問題ではない。しかも新しい日本において、人格陶冶は各人に課せられたもっとも重要な課題である。封建制の旧い倫理はくずれ去ってしまった。唯物論的なモラルは必ず現世主義と快楽主義に終るもので、それは唯物論の最弱点といえよう。しからば新しいモラルはいかなるものであろうか。それは人間性のモラルでなければならない。しかもただ少数の特権階級の人々のための新ヒューマニズムではなく、国民全体を向上させる真に民衆的な道でなければならない。宗教によらないモラルは民衆的になることはあり得ない。宗教的基礎づけによって、はじめて生活態度は確固たる力をうるとともに、ひろい包括的なものとなるのである。しかも宗教一般なるものは存在しえない。それは花一般がありえないのと同じである。わが眼とわが心を喜悦させるものは、バラの花であり、百合の花であり、あるいは菫の花である。この書に示された人格陶冶と生活形成の道は、キリスト教の教えに基いている。しかしキリスト教に説かれる宗教的な根本真理、神、永遠、不滅、霊魂、自由、愛などの真理は全人類に対する普遍的な生活価値であって、すべての人々に把握されやすいものである。

この書物は、最も広い範囲において健全な高貴な生活態度を希求するすべての読者を対象としている。人格という価値は人生の最高価値であると信ずる。この信念こそ、縦糸、横糸となって本書のすべての頁に織りこまれているものである。「人の子らよ。人格のみ最高の幸福なり」というゲーテの言葉は常に妥当性をもつものである。

その上、人格は善を把握してこそ、その最高幸福にいたる。善こそ、プラトンやあらゆる時代の氣高い魂の持主たちにとって最高のものであるから。「善きものは一人のみ、すなわち神なり」(マテオ一九の一七)とキリストは教えられている。

俺はクリスチャンではないし、日本人だからキリスト教の眞理を一般に全肯定すると云ふ事もない。が、少くとも日本人がキリスト教を傳統的に信奉して來た國民と附合はざるを得ない状況にあり、實際に民主主義や自由主義と言つたクリスチャンの連中が育んできたものを受容れてゐる状況にある事は、事實として認めねばならない。そして、さう云ふ状況下で、我々日本人が「唯物論的」に「モラル」を形成せざるを得ないのも、事實として認めねばならない。そして實際、我が日本國では、現世主義と快樂主義が支配的で、それが大變非道い状況を生じてゐる。
日本人にも昔から、キリスト教でない信仰的・宗教的な態度があつた訣で、それで嘗ては外國人からも自分逹とは違ふけれどもやはり文明國の人間だと評されたりしたのだが、それは現在の日本人ではなく、今の日本人とは断絶した過去の日本人の事だと言はねばならない。かつて日本の侍が外國人から禮讚された事實があらうとも、それを現代の日本人が誇る事は出來ない。
「成果主義」なんかの議論にしても、結局のところその邊の事は問題外とされてゐるに決つてゐて、そこでは效率とか心理とかの「唯物的」な分析があるだけだらう。俺は上の「成果主義」の議論を殆ど知らないし本も讀んでゐないが、讀まなくても大體わかる。今の日本人は一般に(斯う云ふ事をわざと書くから嫌がる人が出て來るのだが、嫌な人は俺の文章なんか讀まなければいいだらう)、信仰や宗教、或は理想の類に無頓着で、ただひたすら金儲けや權力の奪取に血道を上げる「現世主義」そして「快樂主義」に淫してゐる。「モラル」と言ふ人も、それによつて自分に都合の良いやうに世の中を動かさう・他人を動かさうと考へる利益追求型の人間許りで、それゆゑ俺が道徳の話をすると胡散臭いとか思はれる。
俺を非難する人には、俺が「政治を馬鹿にしてゐる」「經濟を馬鹿にしてゐる」と言ひ、俺の事を「傲慢だ」と罵倒するケースが目立つ。さう云ふ人間が道徳的に鈍感である事は極めて多く、だからこそ彼らは「傲慢」と云ふ用語を攻撃に便利な用語として利用してゐるに過ぎないのだが、斯うした道徳的に低レヴェルな人間が今の日本に甚だ多い事は問題にされねばならないし、現代の日本人一般の弱點として反省されねばならない。その邊の問題が問題視されない現状、不毛な議論が無くならず、詰らない爭ひばかりが増えるのも自然な事だ。そしてさう云ふ「自然」は排除されねばならない。さうしなければ人間の向上はあり得ず、社會の向上もあり得ない。さうした向上を憎む人は、それこそ本當の反動だらう。ところが日本ではさうした反動の人間が極めて強い口調で大きな事を言ふ傾向がある。だからこそ、弱い立場の人間も意地になつて聲を張上げて對抗せねばならないのだが、そこにつけ込むから沒道徳的な連中は惡質であり、さういつた連中については――或はさう云つた連中が跳梁跋扈し得る環境(即ち現代の日本)については、ますますその惡を指摘し、批判せねばならない。
日本人がキリスト教文明の成果物を制度として受容れつゝ、キリスト教の價値觀それ自體を受容れられない事の問題は、非常に多いが、それを問題視しないのが今の日本人の最大の問題だ。ただ彌縫策だけが大量に提出され、その巧拙が表面的に論じられるに過ぎない。その皮相な議論の皮相である所以を殆どの日本人が認識すら出來ない。のみならず、さうした問題を指摘する事それ自體を、嘲り、或は憎惡する。ところが、嘲笑や憎惡の文句を吐く人間が、何かを解決しようと云ふ意志を示した事は決してない。彼等はただ快を貪るだけの目的で他人を憎み、嘲る。さうした嫌な人間が今の日本には大量に跳梁跋扈してゐる。經濟の問題にしても政治の問題にしても、結局は人間の問題である。例のもと國營企業の社員のやうな惡辣な人間、粘着行爲を是とし高らかに誇る人間、氣に入らないからと言つて執拗に嫌がらせを仕掛ける人間がゐて、一方で「成果主義」を論ずる人間がゐる。何處へ行つても無機的な論理許りが横行してゐる。斯うした状況が、日本を覆つてゐる。個別の問題を論じても大した意味は無いのだ。「成果主義」にしても何にしても、實は瑣末な問題でしかない。背後に存在するより大きな問題に目を向ける必要がある。俺はそれを執拗に言つて來たのだが、それを執拗に妨碍しようとする連中がゐる。讀者は俺を支持するか、それとも俺のアンチを支持するか。
平成二十年十一月三十日
『ヨーロッパ文明史』の上卷が出てきた。そのうち讀まうと思ふ。

平成二十年十一月二十九日
G・スタイナー「マルティン・ハイデガー」 - 日々平安録

平成二十年十一月二十八日
魔女式アポカリプス二卷を讀んでゐる最中だがひひひ先生の狂乱家族日記十一卷が出たので割込みをかけてそつちを先づ讀了。オールスター出演の謎解き篇で結構派手めの内容の筈だが冷靜に考へるとえらく地味な御話だつたりする。今まで頑張つて讀んで來た人には樂しめると思ふけれどもひたすら情報が示されるだけなので結構疲れる。

平成二十年十一月二十七日
Opera 8だと何處でも文字列を撰擇するとコンテクストメニューにGo to Web Addressが出たのに、Opera 9だとアンカーのところでは出なくなつた。何でこんな非道い改惡をやらかしたんだらう。
前から思つてゐるのだが、Operaはヴァージョンナンバを上げる度に全く別のプログラムを開發してゐるやうな氣がする。何で繼續してプログラムを成長させないんだらう。
平成二十年十一月二十七日
鳩丸のばけら氏がとらどら讀んでる。そろそろ完結するんだらうか。
俺はぼくと魔女式アポカリプスを讀んでゐる。これは完結しない。三卷で打切りになつた。無茶苦茶もつたいないと思ふ。
平成二十年十一月二十七日
冬の朝おとなりが雨戸を開ける時せきせいいんこが鳴くうれしげな聲。
平成二十年十一月二十七日
ケータイのフルブラウザとかアホかと(TexTsiTe)
「ケータイ」のブラウザからしてみればlynxなんかでも「フルブラウザ」なんだらうか。

そもそもwebページなんぞ同じものでありながら「PC」と「ケータイ」で微妙に世界観が分かれているようないないような風潮ってどうなのと思うんだが。

マルチカラムで廣告があるのがPC用のウェブ「ページ」とか云ふ話。
「ケータイ」用だともつと巧く廣告が出るとか云ふ話。
云々。
平成二十年十一月二十七日
はてなの「ブックマーク」とか云ふへんなサーヴィスがいろいろ問題になつてゐるけれども、結局のところこの手のサーヴィスがどんどん「新しいサーヴィス」を追加し、既存のサーヴィスを「ヴァージョンアップ」して行く事がそれ自體として問題でないか。何でどんどん「新しいもの」を追加して行くんだらう。MSの製品を誰も笑へない。
ところで、ブックマークはブラウザにくつ附いてゐるものだと俺はずつと信じてきたのだが、なぜか「ソーシャルブックマーク」等と言つてみんな平氣でゐる。「ソーシャルネットワーク」とか。「ソーシャル」附ければいいのか。既存のIT用語、笑ひ、に「ソーシャル」附けて、「何か新しい概念」つぽい雰圍氣を出さうとして來たのがここ數年の2.0ブームの正體だが、そろそろ誰か「氣持惡い」と言つても良いのでないか。否、最う言はれてゐるのでないか。
平成二十年十一月二十七日
「時代はソーシャル」。
平成二十年十一月二十七日
ムンバイムンバイ言はれてもさつぱりわからなかつたが昔ボンベイと言つた町なのだとNHKのニュースにて知つた。ボンベイならわかる。
平成二十年十一月二十七日
頭のよい人はむしろ、ひらがなを多用する:IT&ウェブ業界の転職をサポートする「CAREERzine」(キャリアジン)
むやみやたらとひらがなをつかひませうと云ふ主張でないところは好感が持てるが「擬似科學」の親戚だと言つて良いと思ふ。
平成二十年十一月二十七日
マクセルのDVD-Rがまた燒きに失敗した。
燒き損じのはメーカに送ると良品と交換して呉れるさうだが、メールのデータのバックアップとか個人情報滿載なんで送れないよバカタレ。

平成二十年十一月二十六日
2008-11-26 - 大和但馬屋日記
最初「不可逆壓縮」と書いたのに、讀み返してゐる間に「不」の字をとつてしまつたんだ。眠かつたんだらうと思ふ。御指摘どうも有難うございます。
……ところで「不可逆圧縮」なのだらうか、「非可逆圧縮」なのだらうか。ぐぐつてみると「非可逆」が優勢なのだけれども――。
不可逆圧縮とは - インテル用語集
インテル入つてるは「不可逆」派らしい。
一方Wikipediaは「非可逆」派らしいが。
で。
CDが不可逆圧縮音源だという事実を知らない人が多すぎる。
CD の音質はデジタルマスターより悪い - 天翔ける馬のしっぽ
オーディオ圧縮技術の音質について
デジタルの音の場合、サンプリングレートと云ふのがまた別の話であつて、とか云ふ話らしい。何うせ專門家になる積りもないから斜め讀みしかしてない。
平成二十年十一月二十六日
まじかんと雑記: 動画・音声の圧縮

例えばその圧縮形式の規格で、全てのエンコーダ・デコーダは必ずこのようにしてエンコード・デコードしなさい、と厳密に定められていれば、どのエンコーダ・デコーダを使っても全く同じように再生されるということは理論的にありうる。

何時でも同じに再生される規格なら、それは「可逆」でないのか知らん。
――と言ふか、何でかう云ふ事になるとみんな妙に嚴密主義に走るんだらう。

もっとも、規格が厳密であったとしても、その厳密な規格に従ってデコードを済ませた後でデコーダ独自の処理を加えるといったことはありうるので、一般的にデコーダによって画質・音質が変わる、ということはできる (が、それは不可逆圧縮に限ったことではないし、そもそもディジタルメディアに限ったことでもない)。

だから「アナログ」「デジタル」と言つてもしやうがないんだよと。
平成二十年十一月二十六日
追記 - 解釈と思考

デジタルがいいとか悪とかという話だと思われると少し困るので追記。まあ文章なんて人それぞれに読まれるものだから構わないのだけれど。で、骨子は最後の行。

との事。當方、常連さんは御存じの通り、言及した先の文章の書き手さんの意圖と無關係に勝手に話を進める事が非常に多いので、今囘もそれ。俺が何を言つても、氣になつた人はnombreさんの振つた話に乘るだらうと思ふし。

ところで、話は変わって、このデジタルとアナログの話は、実在論と似ているし、そもそもベンヤミンの「アウラ」の話と結びつけると面白いな、あれ、この議論はどっかで読んだぞ、とか、色々思い出しているんだけれど、全然思い出せない。

ここが「骨子」であるさうです。俺はベンヤミン知らないしあんまり興味ないんで、にんともかんとも。好きな人は反應してあげてください。

ただ、テクノロジーが近代的な原理と結びつき、合理にはしるとき、その反動としてアナログをもちだすのはいかにも簡単な話で、また、そのような勢力としての「音楽マニア」が存在していることは否定すべきだと思っている。その意味で思想的な話をしたかった、という訳。

最うベンヤミンだかベンジャミンだか知らないんで適當に想像するけれども、反動的な態度が反射的な現象であるなら意味がないと云ふ事かな。思想とか言ふ以前に常識的な考へ方だと思ふけれども、それを一々思想と言ふのは俺は好かない。と言ふか、「アナログに走る」のも「デジタルに走る」のも同じ事だと。「デジタル派」の「音樂マニア」もゐる。が、嚴密主義だつて結局のところ惡い意味での「近代」的な態度である訣で――さう云ふ「近代の思想」に對して俺は反感を抱いてゐるけれども、そこで「反近代の思想」では駄目で「超近代の思想」が必要であると述べたのは福田恆存。
どつちみち、俺にしてみれば福田さん一人で十分と云ふ事。
平成二十年十一月二十六日
「WikipediaをWikiと略すな」と云ふ主張を晝頃何處かで目撃したのだが見失つた。インターネットは流れが速い(違)。
「携帶電話をケータイと略すな」と主張しても最う手遲れのやうな氣がする。それでも俺は意地でも携帶電話と言ふけれども。
一方、ソーイングマシーンは既にミシンとして定着してゐたりする。
ランドセルとか何處から出てきたんだかさつぱりわからない言葉すら定着してゐるし。
と言ふか、この手の話題はいろんなところで何度となく蒸返されてゐる事であり今さら。
平成二十年十一月二十六日
Re: PSX で 相変わらず DVD-R がうまく焼けないのだが(ブログ:Dual Jintrick)

DVD-Rメディアによって全く焼けない場合が一度だけあった。近所で買ってきたmaxellのデータ用。何故か同録画用は成功するし、それ以外も今のところ全て成功している。

マクセルの「日本製」と云ふ奴、これが誘電OEMで、しかしマクセルのID使つてゐるからろくな燒け方しないとかいろいろ嫌な話が森さんのところで云々。いまや台湾マクセルが一番増しらしいんだが状況は流動的で訣わからん状況になつてゐるみたい。ジョーシンで見かけたがTDKがイメーションでインド製とか。
信用できるDVD-Rは最う賣られてゐないらしい。と言ふか生産されてゐないらしい。
あと、古いドライヴは新しいメディアの事を知らないから燒き方がよくわからなくて巧く燒けない、と云ふ事があるさうな。
ええとこの邊の事は嚴密で正確かつ詳細な情報を提供しようとすると本が一册書けるくらゐややこしい事になる(推定)ので、亂暴で好い加減な記述と表現でも氣にしないでね。
平成二十年十一月二十六日
はてなの「アンテナ」、これが大層不便なのは、先づそれ自體として「重い」事だが、リンクをつついても「重い」事。なぜかhttp://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlではなくhttp://a.hatena.ne.jp/go?http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html20081126034511にリンクが張られてゐるので、良く存在意義のわからないhttp://a.hatena.ne.jp/goなるものを「經由」? してぺーじを移動する事になる。http://a.hatena.ne.jp/goつて何なんだらう。要らなくね?
ぐぐつたら何かこんなのがあつた。
はてなアイデア - アンテナに登録したページへのリンク先がhttp://a.hatena.ne.jp/go?をつけたURLになっている理由をヘルプに記載して欲しい.
はてな住人は氣にしてもゐないらしい。なんで誰も不思議に思はないんだらう。と言ふか、「アンテナ」のユーザつて、斯う云ふ事も不思議に思へないやうな人種が「なる」ものなのだらうか。
あとURLの尻尾につく謎の數字。こんな存在意義も無い、ただURLを汚くするだけの爲に存在する數字、こんなものが「ある」サーヴィスを、どうしてはてなのユーザは平氣で使へるのだらう。
と言ふか、こんな數字なくたつていいだらうに、昔から「アンテナ」と呼ばれるものには「つきもの」で、たしかさとみかんの時にも文句を言つた記憶があるけれども、「あつて何が惡いの?」みたいにとぼけられたやうな。この種の數字なんて、ない方がいいに決つてゐるのに、「ある方がいい」となぜか「アンテナ」を使ふ人は思ふらしい。なんでシンプルに出來ないんだらう。
平成二十年十一月二十六日
「そんな嫌ならアンテナなんか使ふな」と云ふ意見もあつて、ならば、と云ふ事で、同じリンク先を含むスタティックな文書を作らうとすると――「アンテナ」のソースを再利用しようとすると、http://a.hatena.ne.jp/go?だの訣のわからない數字だのがくつ附いてゐて、URLの邊を置換して綺麗にしてやらねばならない。もちろん、「大した手間ではない」訣だが、どうせ「アンテナ」のソースは小汚いのだから、直すのには手間がかかるのであり、そこで餘計な手間が増えると云ふのは腹立たしいものだ。
平成二十年十一月二十六日
このhttp://a.hatena.ne.jp/go?と云ふ奴。goつて何なんだらう。goするだけの爲のCGIでも「ある」んだらうか。何なんだらう。
2ちゃんねるでhttp://からはじまるURLを書くと、訣のわからないところにリンクが張られて、そこから「正しいリンク先」に改めてリンクが張られる。これも何なんだらうと不思議で不思議で仕方がない。普通にリンクを張ればいいだらうに。
斯う云ふ「直接リンクを張らない」と云ふ事が「常識」と化してゐる今のウェブは異常だ。なのに誰も異常だと思はない。2ちゃんねらーは全員當り前の事だと思つてゐる。何なんだらう。
平成二十年十一月二十六日
と言ふか、そんなにhttp://a.hatena.ne.jp/go?が好きなら、Proxomitronでアンカーつつく度にhttp://a.hatena.ne.jp/go?を經由させるやうにしたら云々。
平成二十年十一月二十六日
http://a.hatena.ne.jp/go?とか訣のわからない數字とかが「あつてもいい」、取敢ず必要なサイトにリンクが張られてゐればいい、と言ふのなら、要は「内容さへ良ければ良い」と言ふのなら、最う「正しいHTML」なんて言ふのはやめた方が良い。ソースが何うであれ「有用な情報がありさへすればそれでいい」と云ふ事になる筈だからだ。なぜHTMLのソースだけが綺麗でなければならないのだらう。
はてなのhttp://a.hatena.ne.jp/go?、或は變な數字は、HTML文書の再利用性を著しく低下させてゐる。それだけで「存在意義はない」「寧ろ有害!」と言つて良い。
平成二十年十一月二十六日
ところで、文書の編緝なんかで「置換」とか「插入」とか言つてゐるのもそろそろ「規制」される頃合ではなからうか。
中學の時、化學の教師が「上方置換」を自己規制して「上方捕集」と言つてゐた。ぐぐつても2件しかひつかからないねえ(と言ふか事實上一箇所)。さすがに。

平成二十年十一月二十五日
2008-11-23 - 解釈と思考

レコードはアナログ方式によって音を記録していたが、CDはデジタル方式によって音を記録する。

基本的にCDはデジタル信號を記録するのだけれども、記録時にはアナログな形で記録してゐるんだ――と言ふか、結局のところデジタル機器と言つても全てデータの記録と傳送はアナログな方式に頼つてゐる。デジタル機器は、それを讀取つてデジタル信號に戻す。アナログで記録され、アナログで傳送されるから、エラーが乘るので、復號時に必ずエラーの訂正處理が行はれる事になる。
CDの場合、デジタルデータとして記録されてゐる、と云ふ事になつてゐるけれども、CDの円盤上には、「デジタルデータ」は記録されてゐない。音樂なんかをエンコードしてデジタルデータにしたあと、CD上には「アバウト」にアナログデータとして記録してゐる。溝だの穴だのでデジタルつぽく記録してゐるけれども、全て「讀取れる範圍」を決めて大體の大きさで記録してゐるに過ぎないから、まあ「アナログ」だ。讀取り時には、さう云ふアナログ記録のデータを、デジタル信號として讀取る。「アバウト」に記録されてゐるものだから、きつちり讀取れるとは限らなくて、エラーが屡々ある。CDを讀取るドライヴは、エラーがあればエラー訂正をする。さうしてデジタルデータを取出すのだけれども――それをアンプやスピーカでは再びアナログな音聲に戻してゐる。
CDを讀取るドライヴでのエラー訂正處理で、結構手間を喰ふ場合があつて、それはCD上の記録の仕方が非道くて讀取り辛い時――さう云ふ時には取出せるデータが最うぼろぼろになつてゐる事がある。データCDの場合には正確に讀取れなければ困るけれども、音樂CDの場合は、兔に角聽けなければ困るから、非道くても「それなり」に讀取つて「それなり」に再生してゐる機器が結構あつて、その場合には相當音質が惡くなる。
アンプやスピーカも重要で、これらが安物だと、全部アナログのレコードと同じで、當然のやうに音質は惡化する。
逆に、エラー訂正が必要ない高品質のCDの円盤と、ちやんとしたアンプやスピーカ(實はよく知らない)とを使つてゐれば、結構いい音が鳴るのだ。「鳴るのだ」なんて偉さうに書いてゐるけれども自分ではそんないい機材持つてゐないので傳聞。
CDかレコードか、と云ふのは、最う隨分長い間、論爭のネタにされてきたけれども、實際のところ、音質は機材と円盤それ自體の状態とに依存する。
平成二十年十一月二十五日
「同じデジタルデータ」でも、常に同じ音で再生されるとは限らない。それはPCで容易に體感できるから、何も知らない素人さんは試してみるといい。良く知つてゐるマニアだかヲタだかの人は笑つて通り過ぎて呉れれば良い。
mp3を用意しよう。CDからリッピングすれば簡單に出來る。それを、異るデコーダを搭載した幾つかのプレーヤソフトで再生してみよう。いい音を出すプレーヤとしょぼい音を出すプレーヤがあるのが、まあ、耳のいい人ならわかる筈だ。否、ソフトウェアでなくても良い、その邊にころがつてゐるイヤホンと、一萬圓札何枚かをはたいて買込んで來たとてもいいヘッドフォントで聽き比べてみよう。明かに音が違ふ。
平成二十年十一月二十五日
實は(と言ふ程の事でもないが……)、mp3は、可逆壓縮をしてゐるので、デコーダによつて音が變はるのは當り前だつたりする。
平成二十年十一月二十五日
同じやうに、可逆壓縮であるjpegも、デコーダによつて畫質が變はる。ただ「繰返し保存すると劣化する」とだけ覺えてゐる人もゐるだらうけれども、ソフトウェア的に缺損部分を補完するjpegは、ソフトウェアによつて見え方が違つてゐる。
平成二十年十一月二十五日
當然の事ながら、mpegも、デコーダによつて畫質が變はる。これはPowerDVDやWinDVDのやうなソフトウェアと、MediaPlayerClassicとで比較すれば、目に見えて(それはさうだ)はつきり判る。
平成二十年十一月二十五日
もつとも、この種のマルチメディアデータは、ソフトウェアなり何なりで再生オプションを指定しておけば、はつきり異るやうに再生されるもので、そんなに不思議に思ふ程の事もない。
mp3とか持出さなくても、CDだつていろいろな條件で結構音は變はる。
平成二十年十一月二十五日
が、結局のところ、デジタルデータの鑑賞に際してもアナログな要素が相當多くある、と云ふ事は覺えておいていい。
さうすると――まあ、俺みたいに素人の人間は、一々細かい事を氣にしなくてもいいだらう、と、そんな簡單で氣樂な結論が引出せる事になる。安スピーカを使つてゐて音質が何う斯う言つても始まらない。
平成二十年十一月二十五日
その邊で賣られてゐるCDにしても、プレス枚數が多いと、次第に品質が低下してゐる事がある。場合に據つては、いいCD-Rにいいソフトウェアといい機材を使つて燒き直すと、それだけでぐんと良い音になる。と云ふ話だ。PCでリッピングしてmp3にしても、いいプレーヤで再生するとCDを再生して聽くよりよつぽどいい音に聞える事だつてあり得る。
平成二十年十一月二十五日
眞空管のステレオセットでレコードを聽きませうとかいつた話になつたら、今となつては最う「味」と云ふ事で適當に話を片附けて、難しい事は考へないで樂しく鑑賞した方がいいです。うちにも一臺、古い古いビクターのステレオがあるけれども、隨分長いこと火を入れてゐないから鳴るか何うかわからない。昔の眞空管は急に劣化するさうです。うちでは場所を塞いでゐるだけで何の役にも立つてゐないから博物館にでも寄贈したいところなのだけれども。

平成二十年十一月二十四日
あなたの自意識の当たり判定はどのぐらいですか? - ARTIFACT@ハテナ系

当たり判定が大きい人は、そもそもネットで文章を公開しないほうが幸せです。

日本人は「良い」「惡い」或は「正しい」「正しくない」の價値判斷ではなく、「幸」「不幸」の判定を好む傾向がある――と言つたら、またぞろ「日本人論」が何う斯うと非難されるのだらうか。
××すると幸せになれるとか云ふ話を面白がつてするのは好い加減やめようよ。
漬物倉庫(嘘)
「水伝」とか云ふものも結局のところ「幸せになれる」と云ふ結論に持つて行くだけのものなんだから、道徳でも何でもなくて、本當に馬鹿馬鹿しい日本人好みのXなんだよ。
「幸せになれる」と云ふのは、道徳ではないんだよ、ただの信仰だよ。そして「幸せになる」と云ふ目的だけが強調されると、宗教としては非道く下等な代物に成下がつてしまふ。新興宗教がどれもこれも下等なのは、ただ「幸せになれる」と云ふ目的を直截的に「實現」してしまふから。
キリスト教が良くできてゐるのは、現世利益を必ずしも認めてゐないところにある。あれは地上ではなく天に寶を積めと云ふ教へだから、平然と金持ちが天國に入るのは駱駝が針の穴を通るのよりも難しいとか言ふし、殉教者續出で、聖人は屡々悲慘な死に方をしてゐる。神道はキリスト教に比べればいろいろ未熟な宗教だけれども、それでも宗教として、新興宗教の類とは一線を劃してゐる。現世利益の御願ひ事を神社でみんなするけれども、それが必ずかなふとは誰も言つてゐないし、大體、誰も「神頼み」が「當てになる事」だと思つてゐない。
日本人は直感で、さとりすました人を「うさんくさい」と思ふ。その一方で、さとりすました態度をとれるやうになる事を「人間として成熟する」事だと信じてゐる。この邊が日本人の精神的に未熟なところであるのだが、日本人は依然として「さとりすました」野郎を罵倒しつゝ、「さとれてゐない」野郎を罵倒して、罵倒する快を貪る。
好い加減、「幸せ」とか「悟る」とか、その手の「日本人好み」のキーワードに拘るのはやめようよ。
平成二十年十一月二十四日
キリスト教の信仰と云ふものが何う云ふものか――現代のキリスト教は過去のそれと比べて隨分變質してゐるけれども、それでも矢張り日本人の常識的な價値觀と全然異る價値觀を持つてゐて、クリスチャンらしい生き方とされるものは日本人らしい生き方とされるものと大きく異る。
それはT.S.エリオットの「カクテル・パーティ」を見るとはつきり解る事で、一面で「神の不在」と云ふ事が西歐=キリスト教社會でも言はれてゐる。それはエリオットにおいては「不在」=「實は隱れて存在してゐる」と云ふ「アリバイ證明」になるのであつて、「今はゐないだけ」と云ふ事で「ゐるかのやうに生活する」と云ふ形での「信仰の復活」を、エリオットは言つてゐる。その信仰の形態は、信徒に落著いた生活を與へるもので、日本的な信仰のあり方と、必ずしも違はない。けれども、同時にエリオットは、さうした信仰のあり方に我慢できない信徒がゐる事を知つてゐて、さう云ふ人の爲に何うしても悲慘な最後を遂げるに違ひないやうな生き方を與へねばならない事も言つてゐる。それは正義と云ふ事を熱烈に信ずるタイプの人の事で、さう云ふ人に落著いた生なんて事を言つてみてもはじまらない――だからこそ強烈な信仰生活もまた必要であるとエリオットは言つてゐて、結果、その人が死んでも構はないと云ふ態度をとつてゐる。これを日本人的な日本人は全く理解し得ない事と思ふ。さう云ふ人は、必ずさう云ふ生き方を非難するし、さう云ふ生き方を薦めるやり方をも非難する。悟りすました生き方とはまるで反對の生き方だからだ。所謂「馬鹿」のする事だと云ふ訣だ。が、さう云ふ生き方をもキリスト教は認める、と云ふ事實は大變重要だ。アメリカ人にしてもさう云ふ生き方を肯定する價値觀があるからこそ、無茶な行動に出る事が屡々ある。そしてその事を我々日本人は屡々理解出來ないで、感情的に反撥し、それを「論理的」に指彈して、反米の態度を正當化しようとしてしまふ。

平成二十年十一月二十三日
Google 検索: 元厚生次官宅連続襲撃事件
容疑者は「昔、ペットを保健所に殺されたから、今、元厚生事務次官と家族を殺傷した」と云ふ「理窟」を言つてゐるさうだが……全くもつて人間、何んな理由で恨まれるか、わかつたものではない。
ところで、俺に訣のわからない理由で恨みを抱いてゐるらしい人物がゐて、「義」と呼ばれてゐるが、最う十年近く嫌がらせが續いてゐる。「義」は、その人物が俺の掲示板を荒らす際などに使つてゐたハンドル。俺の掲示板を荒らして潰したのは「義」だし、俺の名前を騙つて各地の掲示板や「ブログ」のコメント欄を荒らしてゐたのも「義」。それが活動を封じ込められて、最近は、インターネットカフェを利用して俺のメールアドレスを出會ひ系サイトやアダルトサイトやらのメールマガジンやらに登録し捲る「嫌がらせ」を行なつてゐる。
茲數箇月、「義」が活動するのは連休となるとほぼ決つてゐて、休みとなると「義」はインターネットカフェのゲラゲラに行つて嫌がらせを行ふのが恒例となつてゐる。何が樂しいのか知らないが、インターネットカフェで俺のメールアドレスをあちこちのサイトに勝手に登録して歸つて來るのが「義」の休日の過ごし方であるらしい。變な人は、變な理窟で人を恨むのみならず、妙に行動的であるのが特徴だ。
さて連休中日の今日だが、「義」による俺のメールアドレスの無斷登録は今のところまだない。明日は雨らしいけれども、「義」はわざわざ外出して、俺に嫌がらせをするだけの爲にインターネットカフェに行くだらうか。
今と云ふ時代は平和な時代だから、ただ殺人犯をとつ捕まへるだけでなく、殺人に繋がりさうな――と言ふより、犯罪に走りさうな人を事前に「豫防」として何とかしようと、皆が考へ始めてゐる。時間的・物質的に餘裕が出來て、今まで問題視すらされてゐなかつた事を問題視するやうな時代になつたと云ふ事だ。そろそろ「訣のわからない事を言ふ人」にも「規制」がかかりさうな氣がする。「正常人」と「異常者」の間の境界線は曖昧だから、從來は可なりの「異常者」でも正常の側に分類されてゐた。けれども、何でも「嚴密」に計測される今となつては、兩者のボーダーラインは少しく變動を來してもをかしくはない。所詮は社會的なルールであり、システム作りの話になるから俺は本氣で考へる氣にはならないが、パズルのやうに・頭の體操のやうにシステム作りの事を今の日本人は面白がつて考へるから、問題が提起されれば一氣に「議論」は進むだらう。
平成二十年十一月二十三日
iPhoneのリアルなインターネットよりもケータイウェブの方が使いやすいよね - Liner Note
要するに、PCとかを小さくした「インターネット端末」みたいなものは不便だから駄目、と云ふ事?
平成二十年十一月二十三日
ソースなんて誰も見ないよ。|CSS HappyLife
今、目の前で動いてゐるプロジェクトの打合せで「デザインを何うする」と云ふ話がえんえん續いてゐる。プロジェクトを立上げたデザイナーさんが外注先の會社から上つて來る提案を見て「なんでこつちの要求を理解して呉れないんだよ」と怒つてゐるけれども、傍から見てゐてHTMLのソースが何んなものになるのか俺は不安で不安で仕方がない。部外者だから傍觀してゐるけれども何うなるんだらう。
と言ふか俺が口を出すとまとまるものが必ずまとまらなくなるので默つてゐる。
平成二十年十一月二十三日
アバターつて何でどれもこれもキモいんだらう。

平成二十年十一月二十二日
NHK7時のニュースで訂正。「ひと段落」と言つたけれども「いち段落」が正しかつた、すみません。との事。
みんなひとだんらくひとだんらくと平氣で言つてゐるよな。
平成二十年十一月二十二日
連絡帳:当サイトの小説が盗用された件
及び連絡帳:最新5記事の2008年11月の記事。
ウェブで「公開してゐる」からと言つて好き放題にデータを利用する、と云ふ事例。俺の場合は「義」に俺のメールアドレスを出會ひ系だの何だのに勝手に登録されると云ふ嫌がらせを受けてゐるが、「スパムブログ」の場合、「嫌がらせ」の意圖がない。その分、さらに惡質とも言へる。
いづれにしても、かう云ふ行爲が横行し、問題となつてゐる現状、「道徳的」な對處は無意味であるのだから、法的に對處できるやう、法律等の制度を整備するしかない。
平成二十年十一月二十二日
近所の鐵塔が雀のお宿になつてゐた件。

平成二十年十一月二十一日
BS2で沢田研二特集やつてるがなつかしい。あまり好きでなかつた筈だがこの人には變に影響を受けた氣がする。鳥取出身だつたんだな。と言ふかまだ現役だつたんだな。80年代で消えたのかと思つてゐた。
沢田研二とは - はてなキーワード
Googleの廣告が五件出て、三件が鳥取の情報だつた。
20081121julie.gif
平成二十年十一月二十一日
趣味のインターネット地図ウォッチ
Yahoo!「ワイワイマップ」で考える、Google「マイマップ」問題
杉並区が「ストリートビュー」に対応申し入れ、区民から苦情も
平成二十年十一月二十一日
Google、イメージ検索で「LIFE」誌の写真アーカイブを公開
平成二十年十一月二十一日
野田昌宏『レモン月夜の宇宙船』。ほかに渚フォルテッシモ4とか丸鍋ねこ2とか。

平成二十年十一月二十日
のあ
AHLで滿點とらないと金拂はないクライアントつてどうかな?
あやの
どうかなつて言はれても……その、困る。
平成二十年十一月二十日
ビタミンB1 - the OYAKONEWS@Hatena
昔Yahoo!掲示板で鴎外の話をしてゐた時「脚氣の患者を大量に出した原因を作つたのは森鴎外。鴎外は極惡人だ。鴎外を非難しない野嵜はまともな人間ではない」みたいな罵倒を散々浴びせて呉れた人がゐたつけな。
平成二十年十一月二十日
サクシンとサクシゾンの間違え - REVの日記 @はてな
病院薬剤師による看護学生のための薬理学講座2008:コラム:名前を変えさせられた薬 - livedoor Blog(ブログ)
http://www.yakuzai.med.saga-u.ac.jp/kusuri-no-mametisiki/20031022-matigaeyasui-kusurinonamae.html
事例 No.76 類似薬品のトラブル - 東京都医療安全管理体制支援事業 警鐘事例アーカイブ
紛らはしい名前の藥の問題。なんでわざわざ意味のない(本當は「ある」のだらうけれども日本人にはわからない)カタカナの名前を附けるんだらうと不思議に思ふのだが……。
平成二十年十一月二十日
英治:Wind Report - AOLダイアリー
どうでもいいが何うして「ブログ」に「問題」を書き捨てる「ブロガー」つて「ゐる」んだらうな。

平成二十年十一月十九日
ビレッジセンターが11月末で会社解散
Vzは隨分使つたなー。
平成二十年十一月十九日
HTML表示だけではない、近未来のWebブラウザとは
未だにHTML 4の後繼ヴァージョンみたいな「HTML 5」と云ふネーミングが受容れられない。「HTML for BLOG」のやうなものならまあ良いと思ふんだけれども。HTML 4と「HTML 5」つて、何の關係もないだろ。なんで「正統の後繼者」みたいな名前を名乘るんだよ。
平成二十年十一月十九日
Core i7搭載デスクトップPCが各社から発売
OSにWindows Vista Ultimate(64bit)を搭載と平然と書いてある。WXG動かねえ。
平成二十年十一月十九日
庭の金木犀の木が切倒されて聊か鬱。
平成二十年十一月十九日
家族が庭で植木の手入れをしてゐたら突然首筋にびしつと痛みが走つたのだと。何が何だか訣がわからなかつたが、今日になつたら腫れてきて痛痒い。よくよく思ひ返してみればさう言へば近くに蜂がゐた。寒かつたのであたたかさうな人間の首筋にとまつたら動いたので怒つて刺したものらしい。そんな話。
こちらが惡い事をした積りがなくても、人間、何處で恨みを買ふか、わかつたものではない。
平成二十年十一月十九日
Latest topics > Ubiquityの事を少し見直した - outsider reflex
Latest topics > Ubiquityが「コマンドラインツール」と書かれているのを見て悲しくなる - outsider reflex
Latest topics > Ubiquityは天才じゃないと使えないのかもしれない。あと、Forth、Mind、日本語プログラミング。 - outsider reflex
Latest topics > Ubiquityの先にある未来についてAza氏と直接話せた - outsider reflex
平成二十年十一月十九日
ジェトロ、「GR DIGITAL」をパリのデザイン展で公開

平成二十年十一月十八日
のあ
gopherつてどうかな?
あやの
……またえらくなつかしいものを……。
平成二十年十一月十八日
槻ノ木隆の「BBっとWORDS」
平成二十年十一月十八日
TAKESAKO @ Yet another Cybozu Labs: ついカッとなってGopherサーバを立ててみた
平成二十年十一月十八日
何の氣なしにぐぐつてみると一年くらゐ前になぜかプチgopherブームみたいなのがあつたみたいだ。何なんだらう。
gopherでぐぐると「他のキーワード」として空前のGopherブームが出てくる。
平成二十年十一月十八日
南大東島ホームページ

平成二十年十一月十七日
“オプトイン規制”での推奨事項など提示、総務省が指針を策定
最早なりすましに對しては刑事罰を與へるしかないと思ふ。何でそこまで蹈み込んできちんと立法化しないんだらう。
平成二十年十一月十七日
新宿ジュンク堂は、眞面目な本は相當充實してゐるけれども、ラノベに限つては必ずしも網羅的ではなく、いろいろ足らなかつたりする。
平成二十年十一月十七日
加藤うららauで配信。
俺はDVD待ち。早く出ないかな。
平成二十年十一月十七日
青山ブックセンター再び
平成二十年十一月十七日
炭焼ステーキくに「市ヶ谷店」
ぐぐるとすぐにひつかかるから今は便利だ。
平成二十年十一月十七日
FrontPage/ - Atom Wiki
インテル® Centrino® Atom™ プロセッサー・テクノロジー
全然別物で紛れる事はあり得ないだらうけれども、なんでわざわざ同じ名前にするかな。

平成二十年十一月十六日
積上げてゐる本やDVD-Rの山が崩れさうなので積直してゐる間に出てきた山本健吉『芭蕉三百句』(河出文庫)。栞が挾んであつて讀みかけの筈だが記憶が無いので最初から讀直し。

平成二十年十一月十五日
ぐぐれば曖昧な記憶でも直ぐに出てくるウェブに慣れてゐると、リアルで固有名詞がさつぱり思ひ出せなくなつて困る。
Googleは人間の腦との直接接續を眞劍に檢討すべきだと思ふんだ。
平成二十年十一月十五日
アメリカの民主制において、いい政治は餘り行はれなかつたが、極端に非道い政治は何度も行はれた事實が目立つ。
日本の民主制では、極端に惡い政治は行はれた事がない。ただ「愚かな政治」が繰返し行はれただけだ。それは「やつてもやらなくても良いが、どちらかと言へばやらない方が良かつた」程度のもので、實際に「やつた」としても生じた損害は大したものではない。よつて失政の反省が眞摯に行はれた事もない。
アメリカの場合、惡い政治が行はれると、本當にひどい内容で、一般大衆の目から見ても、明かにをかしい、と云ふものが多い。そんな訣で、人間が生きる上で大切な權利が平然と抑壓されても、餘りに非道いやり方によるのであれば、世間のチェック機構がそれなりに機能して、じきに撤囘され、却つて事態が改善される。
アメリカの政治家が、決して理想にだけ基づいて政治を行なつてゐる訣もなく、露骨に野心を見せたり、自身の所屬する黨に有利となるやう政策を定めたりしてゐるのは事實だ。けれども、それがチェックされて、惡いものは惡いとされて撤囘される事は結構多い。その結果、田舎者の作つた國・アメリカは現在、民主主義國の代表として實力を蓄へるやうになつた。
平成二十年十一月十五日
眠くて仕方がないので一旦ねるけれども、だから上のめもみたいな文章の誤を指摘するのは禁止。
平成二十年十一月十五日
日本語は既にかなり滅びてますがなにか?
時代遅れつて惡口が意味もなく好きな日本人つて矢鱈めつたら多いよね。
日本では、先進諸國が近代國家と云ふ枠組を作らうとしてゐた時代に自らも近代國家たらんと一生懸命先進國の眞似をして、ところがそれに失敗して軍國主義に突進み、大敗北を喫した歴史がある。以來、先進國のやり方を實際には眞似しつゝ、同時に「先進國のやつてゐる事は最う駄目なんだよ」と言つて先進國を眞似するのに失敗しても全然氣にしないやうになつた。逆に、先進國の行詰りを見て「やつぱり日本のやり方こそが正しかつたんだぜ」と言つて嘲笑ふやうになつた。これを後ろ向きのナショナリズムと言はずして何と言ふべきか――俺は知らないが、しかしこの手の嫌な自尊心だけを抱へ込んでひねくれた考へ方を當り前にするやうになつたのが現代の日本人だ。
先進國――西歐諸國が「近代國家の枠組」をとつ拂はうとしてゐる最新のトレンドを、今の日本人も世界の流行だからと言つて、積極的に採入れようとしてゐる。ところが、西歐の諸國がさう云ふ事を出來るのは、既に西歐には強力な傳統が存在するから。ヨーロッパはローマ帝國が「あつた」地域であり、またキリスト教文化が滲透してゐた地域だ。だから「近代國家の枠組」を見直し、國境線で細分化されてゐた地域を再統合しようとしても、それは寧ろ自然な事だと言ふ事が出來る。しかし、さう云ふ歴史的事實を無視して、「近代國家の枠組」が何うの斯うのと言つてしまふのが、流行に流され易い日本人の日本人たる所以。日本で國境線を見直さうとか本氣で言ふとしたら、具體的にどこを見直さうと言ふのだらうか。さう云ふ事を考へもしないで「近代國家の枠組」が何う斯うと觀念的な事を平然と言へるのが日本人。
日本は今でも近代化の途上にあり、先進國である西歐の諸國には永遠に追附けない。同時に、西歐に生じた反近代の思想もまた日本には到來し、さらに超近代の思想も到來してゐる。斯うしてガンガン新しい思想が西歐から日本にやつて來るのは、日本が西歐より遲れてゐるからだ。

それを思えば、「今の」日本語がどういう形であれ変容するのは当然であり、むしろ「近代国家」という枠組みが溶解しかかっている(EUを見ればそれは明らかだろう)現在、無理に「国語」を防衛しようとする思想はまさに時代遅れのナショナリズム、保守反動でしかないとさえ言えるのだ。

現在も近代化の過程が進行中である日本において、國語の防衛は時代遲れである筈もなく、當然必要な近代化の過程だと言ふ事が出來る。同時に、國語がグローバリズムの流れの中でより大きな言語の中に埋沒し、溶込んで行く現象も日本では同時に發生する事になる。日本は西歐に比べて遲れてゐるから、西歐が世界を蓋ひつゝある現在、近代化の推進と、近代化以降の世界の潮流に飮込まれる事が、同時に平行して生じる。そこでは「時代遲れ」のやうな物の見方をしても意味がない。寧ろ、「新しい現象」にだけ目を向ける日本人の新し物好きの姿勢は、反省されるべきであらう。
日本には未だに、近代的な保守反動もナショナリズムも定着した事はなく、よつて近代化が完了した事實も無い。が、近代を乘越える爲には、近代化の完了が必須條件だ。近代化が完了してゐない以上、近代的な保守反動・ナショナリズムと云ふ態度が「時代遲れ」として一概に排斥されねばならない論理的に必然的な理由は全く存在しない。逆に、さうした態度こそが必要であり、現代の日本では「最先端」の要求事項だと看做す事こそ正當な物の見方だ。
「守るべき國語」は、現代の日本においてはリアルな觀念であり、大いなる理想だ――もちろん、それは「一面の眞理」に過ぎない。けれども、近代化以前の社會に住む日本人は、「一面の眞理」もまた眞理である、と云ふ事を全く理解できない。それでは困る。

平成二十年十一月十四日
やつぱり適當に(いいかげんに)ほーむぺーじを「デザイン」してゐる人々つて、「ウェブなんて子供騙しでいいんだよ」とか思つてゐるんだらうな。もうちよつとHTMLやCSSに拘りを持つてもいいと思ふんだよ。
「ビジネス」として「割切つてゐる」のよりは、「拘らなくても良い」拘りを持つてゐた方がまだしも増しだと云ふ事。

平成二十年十一月十三日
【第6回】マクロモードを生かす内蔵ストロボ用ディフューザー
蝶はツマグロヒョウモンだつた模樣。割と結構ゐるものらしい。朝から良く晴れて、出かける時には最う昨日までの「定位置」にゐなかつた。
平成二十年十一月十三日
ブログは燃えてゐるか - カナかな団首領の自転車置き場
「ブログ」の炎上と云ふ奴、あれは結局のところ「いい意味でならば目立ちたい」と思つてゐる人が「惡い意味で目立つてしまつた」と感じるから、現象を惡く言つてゐるに過ぎない。
惡い事を言つて叩かれてゐる炎上もあるけれども、意見が割れる筈の問題で一方を支持する意見を言つて反論が來た時に「炎上した」と言つてゐる人もゐる。この邊、きつちり區別できない人が世間には大變多いから、當然の事ながら「炎上」なる現象の解析も曖昧模糊としてしまひ――結果としてみんなが樂しめる「議論」=いい暇潰しが行はれる事になる。
平成二十年十一月十三日
誰かが焚き附けて簡單に炎上するなら――或は、誰も焚き附けないのに自然に炎上するなら、その記事は問題なのだらう。
しかし――誰かが執拗に焚き附けようと努力してゐて、しかし何年經つても全然炎上しないとしたら、其處は本當に問題が「ある」と言へるだらうか。
平成二十年十一月十三日
嫌がらせするだけの爲にインターネットに接續するなんて、よく考へれば贅澤な話だ。日本人は贅澤だから何うでも良いやうな事を一生懸命やれる――と言ふより、一生懸命やつてゐると思ひ込める。實は一生懸命でも何でもない。暇人の暇潰しに過ぎない。粘着は贅澤病だよ。
平成二十年十一月十三日
オンライン書店 本やタウン: 本: 私の畸人録/大池文雄
この界隈(松原先生關係)の人なら少し樂しめると思ふ。
平成二十年十一月十三日
ホウタンショウシン - 四字熟語の研究

私が最も嫌うのは、金持ちの癖に喧嘩する連中である。文章の好みにおいても同様で、知識の量が圧倒的であることや技巧的に優れていることを鼻にかけ、むやみに読者を挑発し、衝突したがる書き手を見ると、思わず「幼いなあ」と憫笑してしまう。ただ目立ちたいという文章を読まされると、げんなりもする。

「自分の知識の量を誇る/自分が技巧的に優れてゐる事を鼻にかける」と「讀者を挑發する」とは、何の因果關係もない。ところが――「和を以て尊しとなす」日本人は、この全く無關係の事を「常に密接な關係がある」と屡々看做す。看做すだけなら良いのだが、何故かそこで突然妙な攻撃性を發揮し出す。この書き手も「憫笑」してやると言つてゐるのだけれども、しかし何うしてかう云ふ人を見下したやうな買き方をする自分が「挑發的だ」と認識出來ないのだらう。
この種の勘違ひをする人に、「攻撃的だ」と云ふ理由で個人攻撃を仕掛ける事があるのは解せないが、勘違ひしてゐるのだから仕方がないのだらうか。しかも、その個人攻撃の際には、「自分の知識の量を誇る」事が・「自分が技巧的に優れてゐる事を鼻にかける」事が、珍しくない。はつきり言ふと喜六郎がさうだ。人は屡々自らを否定すべき文句で以て他人を罵る。
ところでこの「ブログ」のこの記事、何うもいろいろ勘違ひしてゐるやうに思はれるのだが如何。

初心者のうちは「放胆文」、すなわち細かい文法や規則にとらわれず、思い切って大胆に書くのがよいと説く。他方、玄人の域に達する者には「小心文」を薦めている。熟練者は、細かい字句やルールにも十分な注意を払って文章を練るのがよいというわけだ。この教えを「放胆小心」という。

最初に斯う書かれてゐるが、これを見れば、「小心」「放胆」とは、字句や文法の規則等に「必ずしも從はない」か「きつちり從はうとする」かの違ひを言つてゐる事だと判る。ところがこの「ブログ」の書き手は、以下のやうに書いてゐる。

私の貧しい経験で言えば、冒頭の書き出し方にも「放胆文」と「小心文」がある。私の場合、インパクトが重要な芸術的な文章では「放胆文」を、相手に信頼されることを第一義に考える学術的な文章、実用的な文章のときは「小心文」を採用するようにしている。

そしてみだれ髮のあのおごりの春の歌を採上げてゐるのだが、そこで斯う述べてゐる。

初句は字余りである。そこからして既に体制に抗う放胆さが見えるが、しかし、自らを「その子」と客観的に眺めるところは小心である。また、内容は自らの若い美を誇らかに「うつくしきかな」と謳いあげることは、どこまでも放胆きわまりない青春の謳歌という印象をもたらし、思わず目を眩まされそうになるが、「の」の多用によって生み出される流麗な調べに着目すれば、豊かな黒髪という内容とも響きあうように計算されていて、その肌理細かさ、行き届いた配慮に感心させられる。

もとの四字熟語、「放胆小心」における「放胆」と「小心」の定義からは、明かに外れてゐる。字面だけを見て解釋してしまつてゐるのだ。なるほど、隨分「放胆」な書きぶりだが、聊か亂暴に過ぎる話の展開になつてしまつてゐるやうに思ふ。
と言ふか、私が最も嫌うのは、金持ちの癖に喧嘩する連中である。と言ふ邊、「金持ち喧嘩せず」の「解釋」も相當をかしい。
平成二十年十一月十三日
彼氏が軽自動車に乗ってた。別れたい…
スマートKに乘つてても文句言ひさうだな。
親友が虎になってた。別れたい…

平成二十年十一月十二日
夏場に退治し損ねた幼蟲が今頃になつて蝶に。
20081112BF01.JPG
20081112BF02.JPG
最う何日も茲で凝としてゐる。寒くて動けないらしい。刺戟すると羽を開くが飛立たない。撮影したのは朝。夕方、暗くなつて歸宅した時にも、同じ場所にとまつてゐた。
平成二十年十一月十二日
中屋健一責任編集『世界の歴史11 新大陸と太平洋』(中公文庫)を淡々と讀みすすめつゝNHKのその時歴史が動いたを觀た。今囘はキング牧師のアメリカ市民革命。
民主主義の國でも結局のところ歴史を動かすのは個人であつて「大衆」のやうな漠然とした存在である訣ではないと云ふ事。もちろん何らかの状況が生じてゐるにしても其處に中心となる個人が存在して初めて運動は形を成すし、概念は形成されると。良かれ惡しかれ。
ところで、我が大日本帝國憲法が密室で作られたのと同樣、アメリカの憲法も密室で作られたものだ。けれども、大いなる妥協として各州に認められつゝ、修正が加へられて、民主主義の實驗國家の憲法として次第に成熟して行く訣である。憲法と云ふものは、そもそもの出自をそんなに重視する必要はないのであり、寧ろ繼續した運用の過程をこそ重視すべきであると言ふ事が出來よう。翻つて我が「日本国憲法」を見れば――「日本国憲法」には大日本帝國憲法との連續性に重大な問題があり、大日本帝國憲法の正統の後繼者と看做す事は出來ない。當然「日本国憲法」は無效とすべきであり、大日本帝國憲法を暫定的にであれ日本の正統の憲法と看做して現在の有效を確認して、しかる後に當然の事ながら現代の日本の状況を考慮した上で民主的な内容に修正すべきだ。俺は正統性こそが憲法においては重要であると考へる。
――が、さう云ふ常識的な議論が認められないで、只管「現状の是認」だけを主張する意見が罷り通る日本では、そもそも理念とか理想とかの觀念が存在せず、民主主義とか自由とかの觀念的な價値が一般に理解されてゐないと言つて良いのでないか。だからこそ條文を解釋で民主的に運用し、どうしても存在する不備のみを修正して、より民主的に憲法を育て上げようと、日本人の誰一人、考へないのだ。當座、人權だの何だのの條文が書かれてゐるから、「日本国憲法」に縋つて生きて行かうと安易に思つてしまふ。これは民主主義の傳統以前に、觀念や概念を扱ふ習慣が存在しない、ただ「現世利益」のみを追求する傾向が存在する日本人の、哀しい習性であると言ふ事が出來よう。日本人は、「憲法に書かれた條文」だけが大事なのであり、それを弄ぶ事には大變な興味を覺える。けれども、まだ條文に明記されてゐない觀念を理想として育てる事には何の興味も持たないし、そもそも觀念と云ふものは餘所の國から貰つて來るものだと思つてゐるから自分逹の間で理念を醸成させる習慣もないし、それを憲法の條文に盛込んで子々孫々にまで傳へて行かうと希望する氣持すらもない。さう云ふ國民だからこそ、人權條項がある憲法を持ちながら人權意識を持たないで氣に入らない人間に嫌がらせをして言論封殺を實行する輩が出現する訣だ。憲法は日本人にとつて紙切れ同然で、憲法の精神なんてものはまるで身についてゐない。「日本国憲法」を「守れ」なんて言つてゐる連中も、日本人に憲法の精神なんてものが普及してゐない事實を知つてゐるし、自分自身にもそんなものは身についてゐない事を知つてゐる。ただ政治運動として面白いから護憲運動をやつてゐるに過ぎない。現行憲法無效論を叩いてゐる連中も、政治問題として言爭ひをするのが面白く、そこで敵の論者を叩くのがやり易いから叩いてゐるに過ぎない。本氣で憲法の事を考へて議論してゐる日本人は一人もゐない。
平成二十年十一月十二日
日本人とヨーロッパ人を比較して――と言ふと、俺はヨーロッパ人に知合がゐるが、と言つて、經驗上「人間として彼我には一切違ひはない」と斷定する日本人が、特にヨーロッパ人に知合がゐる場合、非常に多い。もちろん、アメリカ人でもイギリス人でも、野心を持つてゐる人は普通にゐるし、欲望に忠實に生きてゐる人も當り前のやうにゐる。が、さう云ふ人々が集つて暮してゐて、全體として彼等は現實追隨主義の國家を作つてゐるかと言ふと、そんな事はない。日本の自民黨も民主黨も、露骨な人氣取りの「現實的」な政策をとつて、結局のところどちらも全く理念を持つてゐない事は、日本人の誰もが知つてゐる。が、のみならず、日本國が一切の理念を持たない國民によつて作られてゐる事も、日本人の誰もが知つてゐる。この點、アメリカにしてもイギリスにしても、自由主義或は民主主義の國として、誰もが認めざるを得ない體制を確立してゐるのと對照的だ。
欲望を持ち、惡い心も持つてゐる同じ人間であるが、日本人は馬鹿正直であり、歐米の連中は實に巧妙に猫を被つてゐる。彼等の方が遙かに狡智であり、演戲に巧みである。この點、彼我には大きな差異があると言つて良い。日本人は演戲が大變下手だ。惡意を持つてゐても、理性による武裝と論理の假面の下に巧みに匿す事が出來ず、それを正直に晒け出してしまふ。

平成二十年十一月十一日
AT-X録畫專用(ANIMAXやキッズステーション、及び地上デジタル・アナログ、BSもカヴァするが主にAT-Xの番組をがしがし録り捲る)のLet's note二個一くんがANIMAXのテイルズオブアビスの録畫にかかつた途端落ちて再起動がかからない状態に。電源オフ→再投入で取敢ず復歸したけれども何うもあやしい。多分HDDの壽命。HDDの命は儚い。毎日六時間くらゐ録畫してゐるから過勞だと思ふが、大體一年この用途で使ふとHDDは死ぬらしい事が判つた。前囘も一年で死んでる。
取敢ずNB100を購入する積りだけれども何うだらう。何うだらうつてここで聞いても仕方がないかも知れないけれども。GV-MVP/RZがぶら下がれば問題ないんだが、今さらぐぐつてもその邊の情報がある訣もなく。明日夕方には購入の豫定。
平成二十年十一月十一日
それにしても寒い。寒くて昨夜は「義」の嫌がらせメールへの對處をしてゐたら惡寒と頭痛が堪らなくなつて5の2もスキビもうららも見ないで寢込んだ。家にゐると體調が惡くなるつて何んなひきこもりだよ。冬場は日曜日になる毎に體調がをかしくなる俺。
加藤うららは二臺のPCでばつちり録畫して朝つぱらから鑑賞。毎度食ひ物を無駄にする番組だ。なんで日本人つて斯う云ふ頭のをかしい脚本書くのに才能發揮するんだらう。と言ふか日本人でなくても人間つてこの手のへんなものを作るのには妙に全力投球するものだけれども、何なんだらう。
平成二十年十一月十一日
ノートPC完全に死亡。と言ふかHDD。アキバの何とか神社で供養して呉れるらしい――んな事はない。
平成二十年十一月十一日
どうでもいい雑記その267 : 雑記帳 : der Gegenwart

ん? その人が知らない場合は全て陰口になるの?

俺なんか隨分陰口叩かれてゐるの知つてるよ。
惡意があるか何うかが問題だな。「ブログ」作つて揚げ足とつたり、無斷で人の發言轉載して「まとめサイト」作つたり、掲示板作つて一々アンチ呼び集めて惡口書かせたり――わざと見せつけるやうにやつてゐるけれども、それでも陰口。當人眞正面から批判してゐる積りだけれども、こつちに見る氣ないから。見ても意味がない事が判り切つた、罵倒だけの爲の罵倒なんて、わざわざ見に行く馬鹿はゐない。それを知つてゐてわざと執拗に嫌がらせの惡口を言ひ捲つてゐるから、それは陰口。喜の字の事なんだけどね。
平成二十年十一月十一日
と言ふか、如何にも陰濕な言ひ方・やり口をしてゐる事が問題なのであつて、知られる知られないは關係ない。人間性が問題。「こいつ潰してやる」とか反射的に思ふ事は人間誰しも「ある」けれども、その思ひを何年も持續して、執拗に嫌がらせを續けるなら、それは惡質な粘着であつて、人間として根本的に陰險なのであり、最う××××だと言はれてもしやうがない。
「アンチ專用掲示板」なんてものを作つてわざわざ人を集めるなんてのは、餘程アレな人間でないと實行出來ない事だと思ふ。キの字もさうだが、何處かの惡性氏とかもさ。さう云ふところに群がる連中も群がる連中で、或日突然自分のしてゐる事が耻かしくなつて死にたくなるんでないだらうかと思ふのだけれども、生れ附き良心が缺落してゐる人間と云ふのもこの世にはゐるらしいから。
平成二十年十一月十一日
NB100買つて來た。いろいろ「儀式」みたいな設定をして今夜から稼働開始。
取敢ず前任者のLet's note二個一くんは、月曜日のANIMAXかんなぎ録畫を完了し、そのデータを外部HDDにコピーした直後に死亡すると云ふ、無茶苦茶「理想的」な御亡くなりの仕方をして呉れたので、被害が最小限に喰止められた。なんともあつぱれな死に樣であり、何かしてやりたいのだが、隨分苛めた機體なので再利用のしやうがない。
平成二十年十一月十一日
暖房を入れると對流の所爲で手許がひんやり冷える件について。
或は空調の狹間で冷氣の溜り場になる件について。
平成二十年十一月十一日
セブンイレブンで照燒ソーセージのおにぎりだけ暖めてもらはうとしたら、なぜかついでにしゃけのおにぎりまで暖めて呉れた件に就いて。
平成二十年十一月十一日
Amazon.co.jp: こんな漢字を名前に使ってはいけない: なかやま うんすい: 本
人名用漢字とかよりはよつぽどまともな漢字制限の主張。讀んだからつて偉くなれる訣もないし意味ないんだけど。暇な人はどうぞ。
クロスサイトスクラムマーケティング - カナかな団首領の自転車置き場
「日本語が亡びるとき」を読んで(8) - 合同会社翻訳オフィス駒田

吉田健一の評論に「文学が文学でなくなる時」というものがある。

いや、「日本語が亡びるとき」をはじめて目にしたとき、なんだか見覚えのある題名だなと思ったのだ。それがしばらくたってからよくよく考えてみたら、うーむこれじゃないかなと思えてきた。たぶんこれであろう、とあたりをつけてみたのだ。邪推と言われそうだけれど。

『重力が衰えるとき』が元ネタぢやねえのとか適當。

平成二十年十一月十日
正字正かなIME辞書プロジェクト構想(妄想) - 科學の剃髮

要は、「携帯動画変換君」みたいな感じで「IME辞書変換君」みたいなのができればいいなあ、といふ話。

IMEを直接創るのではなくて、それぞれのIMEに合せた正字正かなIME辞書を作成できればいいぢゃん、と思った。

平成二十年十一月十日
なんかでかいらしい。
ほめられてかなしきものけなされてうれしきもの。

平成二十年十一月九日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20081109/p1
ところで山口氏は何册くらゐ日本人論を讀んだのだらう。
何うもあんまり出來の良くない俗流日本人論の事を語つてゐるらしいのだが、それでは例によつて俺の見てゐるものと全然違ふものを見てゐるのだとしか言ひやうがない。
平成二十年十一月九日
俺が日本人の事を考へる時には、日本人の事を考へた昔の日本人の文章を參考にしてゐるけれども、それが無根拠な印象レベルの話であると云ふのは同意。ただ、印象レヴェルの話で何が惡いと俺は思つてゐる。だつてさうだらう、「印象」でしか人間は人間の事を語れないものだ。山口氏だつて俺の事を印象で語つてゐる。
俺なんか、本は讀んでゐない方だから大した事はないけれども。一往俺が「日本人觀」を形成するのに使つたものを擧げておくと。――夏目漱石の講演。森鴎外の歴史小説。齋藤緑雨のアフォリズム。國木田獨歩の短篇いくつか。太宰治の手紙。柳田國男の民俗學の本。森銑三の人物傳。中谷宇吉郎のエッセイ。龜井勝一郎、唐木順三、保田與重郎、小林秀雄、深瀬基寛、福田恆存、そして松原正氏、と言つた人々の評論。その他、佛教關係、神道關係の本。もちろん、これだけではなくて、『菊と刀』とかライシャワーとか、或は会田雄次、山本七平邊は押へてあるが、その邊は重視してゐない。
確かに俺は、大して人を知らないし、大して本も讀んでゐないから、その邊の誹りを受ける事は仕方がない。とは言へ、寺田透が「唐木順三はあまりにブッキッシュである」と非難した――唐木氏は、本の記録に頼つてゐるが、記録された人物と實際に生きてゐた人間とは違ふ筈で、それを唐木氏は意識してゐない、と非難した位で、知識を持つてゐても、今度は解釋の部分で批判を受ける場合だつてある訣だ、知識が何う斯うと言つた非難はあんまり意味がない。ちなみに寺田氏もそんなに非道く唐木氏を責めてゐるのではなく、寧ろ好意的。
平成二十年十一月九日
と言ふか、今の山口氏の「日本人論」批判、これ、理系の人が文系の學問を安易に侮辱する時の典型的なやり口なんだよ。「印象論」と云ふ言ひ方――理論的・論理的でない、でなければせいぜい「統計的でない」と云ふ非難なんだが、「印象」を含めた人間の感性と認識力を信頼した學問が文系の學問であるのだから、それに對して非人間的な論理と知性への信頼に據つてゐる理系の學問とは根本的に方法論が違ふ事を無視した暴論でしかない。
今は理系的な學問全盛の時代だから、俺みたいな典型的文系の人間のやり方は流行らないし、攻撃の對象にすらなつてゐるんだが、理系的な方法論を突詰めて行くと「人間は要らない」と云ふ價値觀に行き附くんだよ。ところが人間は人間であり、人間であらねばならない。人間が人間の價値・人間としての價値を認めるならば、「人間無視の自然科學」の方法論は寧ろ排除せねばならないものになる。
福田恆存が、批評家の何でも「裁斷」する現代的な方法に苛立つて「獨斷的な、餘りに獨斷的な」で、獨斷を提出する自分の方法論を高らかに宣言してゐたけれども、實際、文系の學問が「やれる」事、そして「やらねばならない」事はこの「獨斷を獨斷として提出する」事だけだ。歴史學にしても、全て歴史學者が「獨斷」を提出する事によつて歴史觀を構築してゐる。考古學や考證やらは事實に基いた學問として存在するが、その先に歴史觀の構築が歴史學の使命としてある。それをやると事實から離れた學者の價値觀が入り込んで來ると云ふ事で、今の潔癖症の研究者は毛嫌ひしてゐるし、例へば宮崎市定の概論を排除しようとしてゐるのも結局は「事實に基かない」と云ふ部分を難じてゐるのだが、價値觀を離れた單なる細かい事實の檢證にだけ關はつてゐたのでは、數千年に亙る人類の歴史を全體として眺める事は出來なくなつてしまふ。
T.S.エリオットが詩について述べて、新しい詩が現はれた時、從來の詩の傳統の中でその詩が新たな位置を占める一方、從來の詩もまた傳統の中で其の位置を移動し、全體として新たな傳統が作られる、と指摘してゐる。歴史學でも、新たな歴史觀が提唱されると、既存の歴史の見方もまた變動を強ひられ、結果として全體として新しい歴史學が作られる。さう云ふ意味では、全て文系の學問に於ては不斷の創作が行はれてゐるのであり、それによつて不斷に生きてゐる人間の價値觀の變動が行はれてゐると言へる。文系の學問で重要なのは、人間の價値觀を變動させ續ける事であり、物の見方をリフレッシュし續ける事にある。もちろん、物の見方を常に新たにし續ける點で、新たな事實の發見と理論の構築を必要とする理系の學問だつて、本質的には變らない。ただ、文系の學問では人間の主觀――と言ふより價値觀による判斷を通して人間の物の見方それ自體を革新して行く方法をとつてゐるのに對し、理系では理性と知性を用ゐながら價値觀を排除して飽くまで客觀的に事實の認識を改めて行く方法をとつてゐるのが違ふ。

平成二十年十一月八日
昔書いたCSS、まだ持っていますか(TexTsiTe)
またえらくなつかしいといふかえろくなつかしいといふか。
平成二十年十一月八日
出版ニュース-ShuppanNEWS-
ShuppanNEWS
神保町のブックフェアと新宿のブックファーストをどつちもBFと略してゐるが紛らはしい事この上ない。神保町BFの賣上が何う斯うと書かれてゐて、神保町にブックファーストが出來たのかと勘違ひした。あゝ其處、俺の讀解力がないからとか揚げ足とるの禁止。
平成二十年十一月八日
と言ふか、日本人論を非難する日本人はどんだけ日本人を見てゐないんだよ。自分の身の周りは全部日本人だらう。ニュースだつて新聞だつて――今ではウェブだつてあるんだから、大概日本人の事なんてわかるだらう。それでもわからないやうなら、御前には何が解ると言ふんだ。
物理學者なんか、自分の眼で素粒子を見た人なんてゐないんだぜ。宇宙物理學者になると最う「見た」か何うかなんて問題でなくなる。そもそも直接の觀察が出來ない事を平氣で議論してゐるんだから。
平成二十年十一月八日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20081108/p1

そういう場合は自分が今までに見た日本人というべきじゃないか . 日本人つったって千差万別で一概にどうこういえるもんじゃねえだろ .

日本人が生きてゐる社會の空氣は一つだろ。それが解らない奴は何も解らない。一つの空氣の中に暮してゐてそこで個別の人間に個性があつたつて、それが何だと言ふんだ。
人間には、個性と共に、個性を超えたものがある。日本人に於ても、個性を超えた共通したXがある――それを論じるのが日本人論と云ふ奴だ。大體、さう云ふ共通のものが無いのなら、俺たちは何で日本人を「日本人」と認識できるんだ。「日本人」なるものの概念が認識出來ないのなら、「日本の文化」なんてものだつて、俺たちは認識する事が出來ない筈だ。然るに俺たちは「日本の文化」と言ひ「日本人」と言つてゐる。そこで「日本人論は不可能である」なんて言つたつて無意味だ。
國民性の話をしてゐる人に、「しかし人には個性がある」なんて「反論」したつて、「個性を超えたものの話をしてゐる」んだから、次元が違ふ事を比較してゐるに過ぎない。「個性を超えた國民性」と「個別の國民の個性」の區別も出來ない奴は默つてゐろ。
平成二十年十一月八日

あとその手のって大抵俺は一般ピープルとは違うんだぜみたいな言い方になるのも胡散臭い理由かな .

斯う云ふのも、喜六郎なんかが俺の事を嫌ふ理由らしいが、「くさされて不愉快だつた」みたいな感情論に過ぎないだろ。
と言ふか、何うして斯うも一々「見下す」だの「威張つてゐる」だのと言へるんだらう。自分が常日頃、意識的に、人を見下したり、威張つたりしてゐるから、他人もさうしてゐると思つてしまふのでないか。それなら、自分の問題をただ他人に投影して、他人に映つた自分の姿を罵つてゐるだけの事だらう。喜六郎なんかはしよつちゆうそれをしてゐる。俺の思つてもみない事を喜六郎は「野嵜は斯う思つてゐるんだ」と極附けて罵つて呉れるが、全部喜六郎自身の事だつたりする。
俺なんかは「虚心坦懷」に日本人の事を語つてゐる積りなんだが、それを「俺たちこそ虚心坦懷に物を見てゐるんだ」と言ふ人は「傲慢だ」とか非難する。「虚心坦懷」なるスローガンを發しても、結局のところ、個人個人で勝手に「虚心坦懷」と云ふ事の定義が違つてゐるんだらう。少くとも俺は見たところの事實をありのまゝに述べてゐる積りでゐる。それを「他人を見下してゐる」とか言ふ人は――寧ろさう云ふ非難を當り前のやうにする人こそ、さう云ふ觀點で自分が他人との關係を常に計測してゐるのでないか、と反省する必要があるだらう。詰り、自分こそが「他人を見下したやうな言ひ方を屡々してゐるのでないか」と反省する必要がある、と云ふ事だ。
平成二十年十一月八日
山口氏に限らず、日本人には「個性」と云ふ事への「信仰」或は「憧れ」みたいなものが強く「ある」やうに思はれる。「俺は他人とは違ふんだ」と言ひたがる願望だ。それが満たされないが故に、強烈に個性を發揮してゐる人物に、強く惹かれたり――場合に據つては強く反撥したりする。
けれども、さう云ふ個性は、夫れ自體としては少しも魅力ではないんだよ。如何に「他人と違つてゐる」やうに見えたとしても、少くとも「さう云ふ個性がある」と認識出來なければ、そもそも話にならないんだから。人間が認識できる事は、全て既知の事だ。誰も知らない事を認識できたら偉いのはさう云ふ訣だ。「人と違つた個性」に見えるにしても、さう云ふ個性が「ある」と認識できるのであれば、結局その個性も人間一般を汎く見渡せばそれなりに「ある」個性でしかない。が、人間の個性なんてその程度のものだ。となると、個性を論じるのも、個性を超えた一般的な人間の性質を論じるのも、相對的な違ひでしかないと云ふ事になる。
平成二十年十一月八日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20081108/p3

あとこういうの民族論って最近の若者はどうこうあたりの与太話と大して変わらないような . いや別にそういうレベルのジョークならいいンだけどね .

「ジョークと云ふ事にしてしまひたい」と言ふのだけれども、實際、日本人とヨーロッパ人を見比べれば、はつきり違ひがあるんだから仕方がない。その違ひから生ずる様々な問題をこそ、俺は問題視してゐるんだよ。そこで「同じ處がある」と「反論」してくるのは、樣々な現實に存在する問題を糊塗しようと云ふ意圖があるとしか思はれない。問題が「ある」と指摘されると困る事があるかのやうに、人によつては向きになつて「問題はない」と執拗に食下がる。何なのだらう。
大體「日本人とヨーロッパ人に違ひなんてない」と「反論」してくる人は、俺が見てゐるのとわざと違ふレヴェルで見て「ほら、まるで同じぢやないか」と非難して呉れる。けれども、違ふレヴェルの事を言ふのなら、それは話を摩り替へて論破した積りになつてゐるだけだ。さう云ふ人はただ「他人を論破する事」に興味があるに過ぎない。實際、俺を「論破した」と言ふ人は必ず「野嵜は頭が惡い」と云ふ事を結論にする。問題は俺か。日本人論でも日本人とヨーロッパ人との比較の話でも、大抵どこかへすつ飛んで行つてしまふ。これは議論の結論として明かにをかしいのだが、他人を論破する事だけに興味がある人には解らないらしい。さう云ふ人だからこそ、俺がいろいろ問題を提起すると、「議論に勝ちたいだけなのだらう」等と變な勘繰りをする訣だ。俺はさう云ふ下衆の勘繰りに何年も惱まされて來た。
平成二十年十一月八日
ところで、斯う云ふ「被害」に遭はない人は、大變多い筈だが、さう云ふ人は俺の「被害」を理解できないし、そもそもさう云ふ被害者に何人も出くはす事はあり得ない――が、だからと言つて、その手の被害については社會的に何の對策もとらなくて良い、と云ふ事になるだらうか。山口氏が喜六郎や「義」の問題について、同情して呉れてゐるのには感謝してゐるが――しかしさう云ふ個人の同情の域を超えて、問題が社會的に問題視されるやうになる事を、山口氏は望んでゐないのだらうか。
平成二十年十一月八日
車だつて、一臺一臺状態は違ふし、セッティングによつてまるきり違ふ個性に仕立てる事が出來る。けれども我々はメルセデスは何うのシトロエンは斯うの、或はトヨタは何うの――ドイツのメーカーは何うで日本のメーカーはどうであると、一般論を語る事が出來る。
ところが國民性とか民族とか言ひ出すと途端に腰が引ける人が續出する。外國車と日本車の違ひは論じられて、ヨーロッパの文化と日本の文化は論じられない――そんなバカな事があるだらうか。
平成二十年十一月八日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20081108/p4
「日本人論」でも、「日本人は偉い」のパターンと「日本人にはこんな問題がある」のパターンがあるから。前者の場合「日本人らしくない」と云ふ評價が罵倒だつたりする事はある。
「日本人はこんなに駄目なのだ、外國人はこんな偉いのだ」」のシンプルなパターンの「日本人論」は、先づないと思ふ。と言ふか、さう云ふ主張の場合、「だからみんな外國人にならうぜ」にならないとをかしいし。俺も別に「日本人は日本人をやめるべきだ」とは言つてゐない――自分の惡いところは他人の良いところを見習つて直せばいいと言つてゐるだけだ。そこで「いや、他人だつて惡いぢやん」と言出す人がゐるから、さう云ふのは何うかしてゐると言つてゐる。

平成二十年十一月七日
日本人なら日本人を論じる資格あるだろ。日本人なんだから。自分の内部の「日本人」を觀察すれば良いだけだ。
「内部の私」を外部の人間は絶對觀察出來ない。
平成二十年十一月七日
2ちゃんねるなんか何が面白いんだかわからない。リロードしても更新ないんだぜ。
虹裏だとリロードすれば必ず變つてゐる。しかも大體ネタスレだから面白い。ええと健全なうちの讀者諸氏は見なくていいです。健全でない惡意の讀者はもつと見なくていいです。壺でも見てろ。
平成二十年十一月七日
言葉の救はれ――福田恆存論: 『解つてたまるか!』を見ていただくために
Internet Archiveを見ても前田のブログはこの一年間記録されてゐないから事實が判らない。「狐につままれたやう」とはまさにこの事。

 野崎さんは、松原正先生と同じ過ちを犯してゐますね。私は福田恆存戯曲集の内容をどこから引用したか、出典を明らかにしてゐます。にもかかはらずそれを記してゐないと書く。これはまつたくの言ひがかりです。私がどういふ気持ちであれを載せたのかは、いろいろな人がいろいろと書くのはどうしやうもありませんが、「くさす」なら事実をちやんと押さへてからにしてほしいものです。まさに「先入観でものを見る」です。まあ、かういふ傾向は松原正先生譲りといふことでせうから、野崎さんには誉れかもしれませんが。

 以上で、この件は終はります。

  • 投稿 前田嘉則 | 2008.11.06 09:21 午後
今囘の記事だつて、「野嵜の事」と前田は明記しないで當てこすりを言つてゐる。後のコメントで、野崎さんはと言出し、不愉快に思つたのが俺の事だつたと初めて明かにした。この男はかう云ふ人物だから、何を言つても信用できない。
確かに俺が前に見た時には、前田の記事は無斷轉載だつた。少くとも、ぱつと見、「轉載だ」と判らない記事だつた。それを後から「訂正した」のなら「訂正した」と書けば良いのであつて、こつそり訂正しておいて今は出典を明らかにしてゐますから「問題ない」と言つてこちらを責めるのは卑怯だ。
大體、俺の言ふ事を全部惡意で解釋する喜六郎と前田はつるんでゐる。自分が先入観でものを見る事が出來てゐると前田は言つて威張つてゐるが、先入観でものを見る粘着アンチの喜六郎とつるんでゐる時點で、前田が批評家失格なのは明かだ。
まあ、かういふ傾向は松原正先生譲りといふことでせうから云々のくだりは、前田が西尾と同じ手合である事を示す。
平成二十年十一月七日
以上は朝の忙しい時に書いたからぐだぐだになつてゐる部分あり。
以下は夕方。
平成二十年十一月七日
最う一箇月近く經つてゐるし、俺は粘着氣質でないから何うでもいいやうな事なんてそんなに覺えてゐられない。
改竄とか言つたけれども別にそんなのはなかつたんだらう。その點、ケアレスミスだから前田には詫びる。が、俺は前田が言及の基礎がなつてゐない事を指摘したのであり、その點を虚心坦懷に文章を讀める評論家の前田先生が誤讀したのは許し難い。「くさされた」のが不愉快だと前田大先生は曰ふのだが、ぢやあ「くさされた」前田大先生は何をしたか。相變らずリンクを張らず、「野嵜が」とも言はないで、當てこすりを言つたのだ。これが評論家のする事か。
前田と云ふ人は前から技術的な事に關しては全く駄目な人で、福田さんの出席した對談の情報をまとめて提出した時、書誌情報が實に好い加減だつた。
福田恆存の對談
こちらで纏め直したのだが、同じ情報を二度書いてゐるものがあつた。何でこんなに好い加減なんだらうとあきれたのだが、要はExcelか何かで――否、エディタでソートをかけてさらつと眺めれば、重複は一發で判る。それを前田はやらなかつたのだ。なぜやらなかつたかと言へば、ソートだの何だのと言つた事すらも前田が知らないからに外ならない。
さう云ふ前田だからこそ、ウェブで文章を公開する時、「リンクを張る」と云ふ基本的な出典の示し方も出來ないし、「引用」の部分を明示する、と云ふ當り前の事も出來ない。が、それは問題だから、俺は文句を言つたのだが、初心者(さう云ふハンドルの人が昔ゐたねえ。今でも元氣だらうか)だから前田は理解出來なかつた。で、リンクも張らず、「くさした」人物の名前も擧げないで、當てこすりを言ふ擧に出た。
――が、どうだらう、「俺の名前を擧げなかつた」時點で、何うも前田は「解つてゐてわざとやつた」氣配がぷんぷんするんだが。
福田 逸の備忘録―独断と偏見 : ご案内二つ
令息の福田氏が、こちらもそんなに素人の域を出てはゐないと思はれるにもかかはらず、無斷轉載禁止の文面を轉載するなんて事をしないで、ちやんと現代演劇協会リンクを張つてゐるのだから、前田だつてやらうと思へばちやんと出來た筈だ。それが出來てゐないのだとしたら怠慢であり、わざとやつてゐるのだつたら隨分非道いと思ふが、當人の申告によれば「あれで十分」だと本氣で信じてゐるらしい。「リンクを張る」くらゐの事はすべきだし、リンクを張れば轉載は不要である事は論ずるまでもない。
だが、斯う云ふ前田は「素人の素人であるがゆゑの獨善」に陷つてゐるとしか言ひやうがない。

 福田恆存の戯曲集の案内をしたところ、「前田が編集したと勘違ひした」と、そんな「勘違ひ」など絶対するはずないのに、くさされたのが不愉快でしたので、今回はその事情を説明したうへで告知します。

これに應じて喜六郎が斯うコメントを附けてゐる。

意外と本当に勘違いしたのかも知れませんよ。
アイツは本当に読解力ないから。

喜六郎は、アンチの粘着だから、いい踏み臺だと思つて、前田を利用したに決つてゐるが、前田は喜六郎のあからさまな惡意を故意に看過して、斯う返した。

さうかもしれませんね。虚心坦懐といふことを知らずに、先入観でものを見る、それが批評だと思つてゐるやうです。

惡意の存在を看過した前田が、自分は「先入観なしにものを見てゐるぞ」と言つてゐるのだが、前の發言も合はせて考へれば、明かな獨善だ。
喜六郎が俺の事を誹謗して「傲慢だ」と極附けたが、誰が何う見ても前田は獨善的であり、傲岸不遜だ。
かの青方の中村にしてもさうだし、字音假名遣原理主義者の高崎にしてもさうだが、ウェブで活動してゐるおつさん連中は、どんどんをかしくなつてゐる。俺なんかも前に比べれば相當駄目になつてゐるが、この俺から見てもをかしいのだからよつぽどの事だらう。少くとも俺は自分が「變」な事を言つてゐる自覺はあるが、連中は自分が正しいと心から信じてゐるし、さう云ふ獨善を自覺できない。
前田にしても、喜六郎のやうな「アンチ松原信者」が取卷きみたいになつて持上げて呉れるやうになつて、本當に駄目になつた。前田は「アンチ松原」の「論文」を書いて、「アンチ松原信者」の喜六郎を喜ばせようとした。喜六郎が、自分は「アンチ松原信者」だと宣言してゐるが、「アンチ松原」の前田とつるんでゐるのを見れば――いやいや、松原先生が先日の「正論」でケアレスミスをすれば大喜びをするのだから、喜六郎は「アンチ松原」なのである。前田は喜六郎のやうな取卷きが出來、「アンチ松原」的な事を言へば取卷きに褒められるから、駄目になつた。喜六郎なんかは、「アンチ松原信者」を集めて「ブログ」や掲示板で盛に惡口を言はせ、批判する人間は頭からキ印・愚者と極附けて追出す事で、自分の周りにイエスマンだけ集めてしまつたが、あれは最初からさうしやうとしてさうしてゐるので、端から人間が腐つてゐる。さう云ふ腐つた人間を手許に引寄せて、前田自身も腐つてしまつたとしか言ひやうがない。
DIVEの10/12づけの記事(http://pu-lab.sakura.ne.jp/sealilies4.htm#sealilies20081012の筈だけれども、リンク先がへんだ)に、喜六郎のブログを見たら1番目の記事がちようど2年前の日付になつてゐて、やつぱり野嵜さんや木村さんを愚弄する内容なのだ。で、2年後のいまも野嵜さんや木村さんを愚弄し續けてゐるわけである。と書かれてゐる。「野嵜や木村の言うことは論ずる価値も無い」と喜六郎はいひ續けてゐるわけだが、2年もの月日をかけて「論ずる価値」があることを自ら證明してゐる。と云ふ理窟に喜六郎は反論できないが、何れにせよ、喜六郎がこれ程まで俺に執着し、俺に嫌がらせをしてゐる事實をみれば、誰だつて喜六郎の惡意は看て取る事が出來る。ところが、「虚心坦懐といふこと」を知つてゐる筈の前田は、喜六郎の小屋なる「ブログ」にリンクを張つて、キャプションに保守の思想に御關心があるやうです。等と書いてゐる。前田の言ふ虚心坦懐といふこととやらは、見え見えの惡意を見過ごして身方にはおべつかを使ひ、逆に氣に入らない人物にはひたすら惡意を見出して意圖を歪曲する、と云ふ態度なのだらうか。前に前田が書いた松原先生を侮辱する文章は、虚心坦懐に松原先生の發言を受容れ、それで批判する、と云ふものではなく、前田の持つ松原先生に對する惡意を露骨に表明する、と云ふだけの代物だつた。あんな非道い侮辱の文章は、見た事がないと言ひたいが、俺は壺方面で俺に對して向けて書かれた攻撃の文章に似たやうなのをよく見る。虚心坦懐に前田の文章を眺めれば、前田の惡意がにじみ出た文章を屡々見出せる。
さう云ふ前田には、惡意に對する感覺の鈍さのやうなものがあるのではないか。喜六郎のやうな惡意の塊にも、前田は惡意を見出せず、保守の思想に御關心があるやうです。なんて暢氣な事を書いてしまふ。かう云ふ鈍感さは、文藝評論をやる場合には致命的な缺陷となる。
福田恆存の「獨斷的な餘りに獨斷的な」を讀んでゐるが、そこで藤村の道徳的鈍感を福田氏は指摘してゐる。斯うした鈍感は、日本人には――特にインテリに――屡々見られるやうだ。前田の「福田論」(『文學の救ひ』)を買つたけれども、未だに讀む氣になれない。福田氏を論じてゐるやうで、實は前田が自分の知識をひけらかす爲に福田氏を出しに使つてゐるだけだからだ。「テキストを讀み解く」といつた類の文章には、ただ自分の知性をアピールするだけの知的なだけで道徳と何の關係もない詰らないものが可なり澤山ある。現代の評論が「死んだ」のも、背景に、斯う云ふ死んだ文章を書くのが當り前となつた現實がある。前田のも、その種の文章に屬する。
――だが、前田嘉則と云ふ男について眞顏で論ずるのは、所詮、愚か者の所業なのかも知れない。大體ね、前田は、「アウトサイダーが正統であるのが日本である」とうそぶく文學徒です。なんてこつ恥かしい事を平然と書ける人間なんだよ。この手のナルシシズムは、古典主義者ではなく割とよくロマン主義者に見られるんだが、しかし、どつちにしても前田は別に正統なんてものに興味なんて持つてはゐない。ナルシストにとつて大事なのは外部の存在ではなく――過去でも他人でもなく、自分である。歴史的な立場をとらうとする限り、人は自己を滅却せざるを得ない。けれども、前田は寧ろ、自己をアピールすることに汲々としてゐるやうに見える。日頃の前田の言動を見てゐると、前田は政治的な保守主義者に過ぎないやうに見える。
言葉の救はれ――福田恆存論: 言葉の救はれ――宿命の國語299

かうした「國語」の「思想」を讀み解くことから學ぶものは多い。「正統假名遣ひを保守せよ」といふことを連呼するだけでは、今日の國語問題はきつと解決しまい。なぜならば、そこに「思想」問題があるからである。明治期の言語政策立案者(俗に言ふ「改革派」)が、進んで取り組んだ課題にたいして、私たちもまた何らかの具體案を提出する必要がある。が、保守派においての檢討は正直に言へばこれまで不十分であつたと言へる。

前田は未だに「勝つ」積りでゐるのだ。斯う云ふところに前田の政治性が顯れる。今さら正字正かなの復活なんて、現實的に無理だらう。それでもやらねばならない事だから正字正かなの大事である事を説く、と云ふのが俺のスタンスだが、前田の態度は違ふ。「現實にやれる」と信じてゐるのだ。此は勘違ひだが、勘違ひだからこそ、俺みたいな態度を前田は憎惡する。と言ふか、「勝ちに行く」積りの「政治性かな派」(誤變換だがこの場合實にしつくり來る)の連中に、俺は「ふざけた野郎だ」と思はれてゐるらしく、相當憎まれてゐる(なぜか部外者の喜六郎も、斯う云ふ俺の態度を「傲慢」だと思つてゐるらしいが、何處が傲慢なのだらう)。が、無理なものは無理。虚心坦懐に世間をながめれば、その程度の事は事實として認められる筈だ。日本人が變らなければ、日本人は正しい表記を取り戻さう等と思はない。が、さうさう國民性が變はるものではないのだから、まあ無理と言はざるを得ないだらう。それが解らないのなら、前田の政治主義は病膏肓に入つてゐる。喜六郎のは、最う「他人を攻撃する爲の言掛りの種探し」に陷つてゐるから論外。あゝ云ふろくでもない「愉しむ爲のアンチ」は、人間の屑で、それこそ論ずるに値しない。
平成二十年十一月七日
石破茂(いしばしげる)ブログ: 田母神・前空幕長の論文から思うこと
http://www.page.sannet.ne.jp/m-shina/talk/2008/11.html#d6-1(Cross Talk - 2008年 11月 - SiR「11月 6日 田母神論文」)
平成二十年十一月七日
俺なんか、アンチが大量にゐる訣で、何か言ふ度に非難の聲が上がる。これで俺が依然として傲慢でゐられるとしたら、俺も相當の人物になれると思ふんだが。
例の「義」の問題で、俺の事をフォローして呉れた人が隨分澤山ゐて呉れて、感謝してゐるけれども、さう云ふ人が俺のイエスマンであるなんて事は全くない。俺の周りに單なるイエスマンは一人もゐない。何を言つても持上げて呉れる取卷きに圍まれた喜六郎のやうな「ハーレム状態」にだけはなつてゐない。この點、俺は惠まれてゐると思ふ。
喜六郎のやうになると――あれは最初から人間が腐つてゐるけれども、あゝ云ふ周りがイエスマンだらけなんて状態になると、最う人間として何うしやうもなくなる。喜六郎の天狗ぶりは、イエスマンでなければ、氣持ち惡くて見てゐられない事だらう。「義」の嫌がらせにはフォローして呉れた人々も、「喜」の嫌がらせには、そもそも手を出さうともしない。殆ど「穢れ」も同然に「喜」の字は扱はれてゐるのであつて、それを自覺しないのは「喜」の字獨りと云ふ状況。2ちゃんねるですらも、「アンチスレ」は實は「隔離スレ」であつて、「アンチ」以外の一般人は近寄らないのが暗默の諒解だか何だかになつてゐると云ふ話。近寄れば、仲間同士で馴れ合つて、陶醉してゐる「アンチ」の連中に、何をされるかわからない、と云ふのだ。それでも喜六郎やその取卷き連に反論して呉れてゐる、本當に少數の人々には、何とも感謝のしやうがない。
平成二十年十一月七日
今出てゐる雜誌「新潮」二千八年十二月號に、小林秀雄の講演を收めたCDが附いてゐる。
平成二十年十一月七日
Arc Mouse - 大和但馬屋日記
みんなマウス選びは苦勞してゐるんだな。
俺は以前、MSのOptical Mouse 3000をヨドバシで買つたが、俺の用途では使ひ辛かつたので、數日後にT-ZONEで投賣りされてゐた訣のわからない謎のLaser Mouse(MADE IN CHINA)なるものを買つて來て、今に至るまで愛用してゐる。

平成二十年十一月六日
冗談も皮肉も認識出來ない人間が、演劇を「虚心坦懷」に鑑賞したら、何んな非道い解釋をするか。
平成二十年十一月六日
Opera 9.62 for Windows(TexTsiTe)
和んだ。
試譯。Operaはアップグレードできません――実行中です。Operaを終了し、ちゃんと終了するために、ちょっと待ってから、新しいバージョンをインストールして下さい。
Spybotとかならアップデータ入れるのに自分で終了して呉れるけれども、Operaは自分で終了しないから、ユーザが終はらせてやつて下さい。
平成二十年十一月六日
グーグルストリートビューの話とはてなブックマークの話って結局一緒か (追記あり - よそ行きの妄想
  • GSVにおいては、撮られた写真が執拗に観察されるかもしれないという気持ち悪さ
  • HBMにおいては、設置された掲示板に押し寄せた(時に一体感を持った)群集によって観察されるかもしれないという気持ち悪さ
正直、氣持ち良い惡いのレヴェルで話をしてもしやうがないと思ふ。例へば、個人Xが特定の個人Aに粘着するのは、「氣持惡さ」なんかで議論してゐて良い話ではない。リアルでは「危害が及ぶ」(可能性がある)からストーカーとして處罰されたりする。危害が及ぶか及ばないか――此處が肝腎で、單に「氣持」が何うとか言ふのでは、警察なんかには相手にされない。具體的に、肉體的に危害が及ぶ可能性があるなら、刑事の問題になる。名譽毀損やら侮辱やらも、刑事の問題。さう云ふのならば、議論――と言ふより、さう云ふ時點で「やつてはならない」とは初めて言へる。
大勢の人が押寄せるのを、「氣持惡い」と言つてみても、「押寄せられ、抗議されるやうな事を言つた」のならば、「押寄せる行爲」が批評として機能してゐる可能性がある。社會的に重大な惡影響を與へる事を言つてゐたならば、それに抗議する行動は、批評として「あり」だ。もちろん、社會に對して何の迷惑もかけてをらず、惡影響も與へてゐない時、「だれかのさしがね」で何らかの事態が生じたら、それは問題だ。が、それは「氣持惡い」と言つた話でない事は言ふまでもない。
カナかな団首領の自転車置き場:2008-11-06 もくようびしーふーどぬーどる■World Wide Web と、はてブと、ストビュー 14:51

ていうより、問題は、罵倒はともかく、暴力的な行為(或いは罵倒も含めたネガティブコメント、はたまたコメ欄凸とか)に及ぶかどうかあたりであって、いや、そんなん言い出したら、ブックマーカに限らず世界人類のそういう性質こそが問題なのであって、だったら、そういうのを助長するようなシステムってどうよって話なんであって云々。

最う「人の性質」とか言つてしまはなければしやうがない問題になると、議論とか説得とかを試みても始まらないんで、「それでも駄目」な事は「法律で禁じる」とかしか對處のしやうがない。人は殺人を犯すものだし、『罪と罰』なんかで扱はれるやうに倫理的に論じられるべき問題だが、だからと言つて社會的に野放しには出來ないから世間では手取り早く「法律で禁じる」やうになつてゐる。死刑制度なり何なりの罰則が無ければ、「如何に人を殺すのが惡い事か」を説いたところで話にならない。

昔さぁ、オグリンが、ブログサービスの注意書きに「公開すると罵倒されたり、誹謗中傷されることがあります」とか大書しとけよ、っていう話を書いてたけど、マッチョな感覚で言えば、その通りだと思う。バラ色なコトばかり書いて、敷居を低くして、ユーザ集めるコトばかり考えてるのもどうかとは思う。

いや、誹謗中傷や、粘着行為や、あからさまな嫌がらせ行為とか、そういうのを容認してるわけぢゃないし、そういうのは「公開するリスク」に含まれないよ。

大體、「公開するリスク」なんて文句は嫌がらせを仕掛ける人にとつて「都合のいい言葉」でしかない訣で、嫌がらせや惡意を社會的に「認める」と云ふ事があり得ない以上、「法律的」には「やつては行けない」と云ふ事にならねばならないだけだが、ただ現状は「なつてゐない」だけでしかない。一方で、「道徳的」な事を言つたら、惡意だの嫌がらせだのは許されない・推奬されない事なのは論ずるまでもない。この邊、惡意の人物・嫌がらせをする人間は、故意にかうつかりにか常に混濁した思考をしてゐるものだが、だからこそ彼等は「自分逹に都合の良い言葉」を手に入れられてしまふ。
粘着みたいな、誰かを何故か憎惡してしまひ、虚心坦懷に人の言ふ事を聞く事が出來なくなつて、惡意で以て何でもかんでもその人の言ふ事を歪めて解釋してしまふやうな人間――さう云ふ連中は法律で何うにかするしか手がないし、さう云ふ事なら俺は斷然「言論規制派」だ。が、一方で、その場その場で事態を眺めて、物事の善し惡しを判斷し、物を言ふ――結果として他人と一緒に「押寄せる」事になつても、それは批評のうちに入れていいだらう。さう云ふ處で規制するのは「言論の自由」を侵害する事になるのだから駄目だ。と言ふより、「規制出來ない」事が判つてゐる人だからこそ、「氣持惡い」と感情的な惡口を言つて自分の内部で「合理化」をはかる訣だ。感情論だから、議論になる筈がなくて、話が廣がつて「議論」が卷起つたやうに見えても、議論にはならない――となると皆、ただひたすら言爭ひするしかない。
はてなブックマークだの無斷リンクだのの「問題」では、論者の人が皆、一齋に「同じ話題に群がる」事で樂しんでゐるやうにしか見えない。「氣持惡い」とか感情を露呈するのも、結局はそれで自分を慰めてゐるのであつて、不平を言つて樂にならうとしてゐるのだから、一種の樂しみである。
平成二十年十一月六日
栗府二郎『繭の少女と街の防人』。えらくなつかしい人の新刊。作風は或意味相變らずだが今囘は長篇でなく連作短篇。割とまんねりな話だと思つてゐたら最後にちやんと變化を附けて來てゐる。次の卷は一月に出るらしい。その後も續くんだらうか。巧いけれども地味だから賣れなさう。
平成二十年十一月六日
オバマ壓勝との事だが、アメリカの場合、政權が共和と民主の間で替ると、今までの政策が必ず全部ひつくり返る。今度も、今までバンバン餘所の國に干渉し捲つてゐた共和黨の政策は全部見直される筈。アラブに兵隊送つてゐたのを引上げるとかドラスティックな變化が豫想される。さうなると、反米保守とかの人は大喜びするだらうけれども、要は今までやつた事の尻拭ひをしないでただ全部「やめる」と云ふ變化だから、逆に迷惑な結果になる可能性がある。
アメリカと云ふ民主主義の國は、選擧の結果で從來の政策をあつさりやめて態度を變へる事がある。その、變へる前、アメリカは散々好き勝手な事をやつてゐて、散々貶されてゐたりするのだけれども、變化が生じて、いざ政策が轉換すると、貶してゐた側にとつては却つて困つた事になる場合が多い。
共和黨のブッシュ政權の時代、アメリカはどんどん外國に進出して、煙たがられてゐた――訣だけれども、イラク出兵は「失敗」の烙印を押されたし、今、金融危機なんかもあつて、これからは「うち向き」の姿勢をとるやうになるのでないか。ヴィエトナム戰爭でも、失敗と判るとあつさり撤退したけれども、それと同じ事を今囘もやつてゐる。が、アメリカが「外向き」の時には散々「迷惑」だと言はれながら、その後「内向き」に政策が變はると「前の方がまだ増しだつた」と評價が逆轉するのが常。今囘もさうなりさうな氣がする。
平成二十年十一月六日
信仰 - 黎明日記

キリスト教徒となることは、心の問題がいくらか整理され、ある程度の精神安定を得るという利益があるが、一方で教義と現実の生活の折衷やキリスト教であれ他宗教であれ儀式への参加の問題が出てくる。

「儀式への參加」も「精神安定」の爲なんだよ……とか言つてみる。殊にキリスト教の儀式は、季節と連動してゐて、生活のリズムを律する事が出來るやうになつてゐる。
――が、まあ、「精神の安定」なんかが「信仰に入る動機」なのは日本人だからだらう。日本で宗教と云ふと必ず「悟りを開く」事だから。日本人のクリスチャンの「ブログ」を見ると、大體悟りすました調子の文章で書かれてゐる。佛教でも神道でも、心の據り所であり、精神を靜めるのが目的みたいに言はれる。例外は日蓮の宗教ぐらゐだらう。あゝ云ふカルトだつて宗教なんだが。
もちろん、キリスト教だつて本質的には戰鬪的な宗教であり、信仰の爲に戰ふなんてのは當り前の事。イスラームなんかもさう。生の中に落著きを齎すのと同樣、活發な活動を生ぜしめるのも宗教。それが、なぜか「おちつく」方向にばつかり行くのが日本人の「常識」であり、日本人的な價値觀だと言つたら、多分いろんな人から非難の聲が上がるんだらうけれども。
平成二十年十一月六日
言葉の変化 - 大和但馬屋日記
「言葉は變化する」なんて言ふけれども、例へば「人喰ひ人種」にしても、「人」「喰ふ」「種」なんて、千年以上前からある語で――「新しい言葉」とか言つても、結局昔からある語を組合せて「新しい概念」を表現してゐるに過ぎない。日本語でも、完全に無から生じた「新語」なんて、此處數世紀の間に幾つあつて、幾つ日常語として定着しただらう。實は全くの新語なんてものは先づないのであつて、新しい概念が出現すると、それを表現する為には、全て既成の語を轉用したり、幾つか組合せたりしてゐるに過ぎない。新概念を全く新規の語で表現する、なんて事は、先づあり得ない。千年以上昔に成立してゐた語で以て、俺たちは生活してゐるんだよ。さう云ふ意味では言葉なんて「變化しない」と言つていいかも知れない。
平成二十年十一月六日
いろいろ問題起させたくなかつたら、國會議員と公務員、そして自衞官から人權剥奪しろよ。口聞けないやうにするとか文章書けないやうに手を切りとるとかすればいいだろ。素晴らしい文明國だ。
民主主義の國の問題は、爲政者=國民なんだよな。憲法が爲政者を縛れない。なのに我が日本國では爲政者は國民と對立して存在し、勝手な事を出來ないやうに何らかの方法で制限が加へられてゐると思はれてゐる。
結局全部「氣持惡い」の類なんだよ。
平成二十年十一月六日
ロゲンドルフ『キリスト教と近代文化』(アテネ文庫30・昭和二十三年九月十五日發行)三十四ページ。

今日の大衆的革命運動を、何時の時代にもあるやうな、支配者の壓迫と失政の反動として生じた一種の暴力と無秩序と考へることは誤であらう。全體主義的革命家逹は、常に宗教的特色をなしてきた絶對的完全さに對するあの敬虔な熱意を以て、社會の極端な轉覆と改革とを企ててゐる。宗教的メシヤニズム――ただそれにほんの申譯的な生物學と經濟學的公式と愛國的スローガンとの薄鍍金をかけたものが、世界制覇を目ざした嘗ての國家社會主義の根本的動力をなしてゐたのだ。更にまた、マルクスの辨證法的唯物論も、その見せかけの嚴密な論理性の背後には、經濟史の恐ろしい展開につれて一歩一歩近づいてくる最後の審判の默示的な幻影の火が燃えてゐる。實際、今世紀に於ける全體主義哲學はすべて、キリスト教會を追放した結果近代社會に出來た大穴を埋めるべく、反教會の旗印も鮮かに乘りこんできた異教なのである。宗教のみがそそり立てることのできる忠誠と献身と雄々しさの感情は、悉く彼等の手中に歸した。彼等もまた、キリスト教と同じやうに殉教者も豫言者も、祭式も行列も、そしてドストイエフスキーがすでに豫言してゐたやうに、大審問官の宗教裁判まで、取りそろへてゐるのである。

しかしかかる新勢力がキリスト教と根本的に相違する一點は、彼等の祭壇には神がない、といふことである。それだから、たとへ彼等の祭式が如何に華麗であらうとも、所詮それは惡魔による神の冒涜でしかないのだ。……。


平成二十年十一月五日
覚え書き@kazuhi.to: 小室哲哉容疑者逮捕
この界隈でTMNと言つたらTokiMeki Networkの事だが沢渡さんは元氣だらうか。
と言ふか前にTMNを誤記した時、引用されて困つた事があるのだけれども何とかならないでせうか。
平成二十年十一月五日
2008-11-05 - A blog? with Σαιτω

公開以来問題のあった Opera 9.62 のダウンロードですが、昨晩から復旧し現在では正常に戻っています。


平成二十年十一月四日
天夢航海。R.O.D。文学少女。南青山少女ブックセンター。ダンタリアンの書架。どろぼうの名人。
平成二十年十一月四日
アメリカ大統領選擧。アメリカは二大政黨制の國で、日本が最近眞似したけれども、輿論が二分され、國内が二分される、と云ふ缺點を持つ。民主にしても共和にしても、それ程極端に對立してゐる訣ではなく、日本人の間で左と右がするやうな對立の仕方はしてゐない。どちらもずつと穩健――どちらかと言ふと保守的な側に寄つてゐて、そこで比較的進歩的なのが民主、より保守的なのが共和、と云ふ事になつてゐる。共和党が「タカ派」だと言ふのは誤解を生み易い。オバマとマケインは、それぞれが國民の半分位の支持を受けてゐる。大統領候補は大體、二大政黨から出て、世間の支持を二分する。結果として、絶大な支持をされる事はあり得ない。だからこそ、大統領と云ふ職には強力な權限が法的に與へられる事になる。議會も二大政黨制だから勢力は二分されてゐて、一方が他方を壓倒する事よりも、勢力が伯仲する事が多い。さうした議會と大統領とが連帶責任をとる事になると、權力の行使に甚だ拙い事態が生じ兼ねないので、大統領は強力な權力を持つ事になつてゐる。
何れにせよ、二大政黨制の國・アメリカでは、輿論が二分され易く、政府は権力を行使し辛くなる傾向がある。強力な指導者である大統領の調停があつて初めてアメリカと云ふ國家は當面の方針を定める事が出來るし、その方針に從つて動く事が出來る。けれども、輿論はすぐに變化し、勢力は簡單に覆る。大統領は、民主出身者になつたり共和出身者になつたりする。アメリカと云ふ國家の方針は、簡單に變化し、常にふらついてゐる。さう云ふアメリカが現在、世界をリードする立場にある。
世界の指導者的な國家が、システムとして一貫した方針を長期に亙つてとり續けられないやうになつてゐる。これは、「屬國」のみならず世界中の國家にとつては甚だ迷惑な事で、アメリカの意嚮に從つて動いても、暫くするとアメリカの意嚮が變つてしまふ。
二大政黨制にも良いところばかりでなく惡いところがある。日本人はさう云ふ事を氣にしないで、何となく氣分で「いい」やうに思つて二大政黨制を日本にも實現しようとして、實際實現してしまつた。が、アメリカが強力な權限を持つ大統領と云ふ指導者の職を作つたのに對し、日本は相變らず從來のシステムを維持し、總理大臣を指導者としたまゝ、やつて行かうとしてゐる。衆議院では自民、參議院では民主が與黨となつて「捩ぢれ現象」が生じてゐるが、當然のやうに總理大臣が指導力を發揮できない状況となつてゐる。
平成二十年十一月四日
夏頃に買つて來た中古HDDが死んで、死にかけのHDDから救出したデータが悉く死んだ。失はれたデータは失はれる運命だつたのだらうと思ふ。HDD供養やつて呉れる神社はないだらうか。
今囘死んだのはHITACHI製250GBのHDD。何となく信頼出來さうな感じがして最近は全部同じHITACHIので揃へてゐたのだけれども、斯うなるとそろそろどれも壽命臭い氣がして來る。
平成二十年十一月四日
ヨドバシドットコムのリニューアル失敗から学ぶべきたったひとつのこと
と言ふか、何でリニューアルなんかしたんだらうヨドバシ。動いてゐるシステムならそつとしておけばいいのに。
平成二十年十一月四日
今のHDD遲過ぎ。250GBのHDDの中身を全部コピーするとしたら、うちの場合だけれども、多分250分くらゐかかる。最新の機械でもその半分位はかかると思ふ。
時間がないのは普通の事であり、バックアップなんてさうさうとつてゐられないものだ。運を天に任して「HDDが壞れないのを祈る」なんて事を日常的にやらざるを得なくなる――が、結果として消えて行つたデータは世間にどのくらゐあるのだらう。巨大データを作るにはそれなりに手間がかかつてゐる訣で、それが無爲に消えて行つてゐる現實がある。消えたデータを作るのにも電氣が使はれてゐるのだ。
エコとか良く言つてゐるけれども、壞れないデータストレージを開發した方が、よつぽど無駄をなくすのに良いのではないだらうか。四半世紀前から問題になつてゐるのに未だにデータストレージは「壞れる物」なんだよな。問題が判つてゐて誰も解決しようと思はない――技術者つてバカなのか。
平成二十年十一月四日
■島流し投資日記■
なぜドラなのだらう。
平成二十年十一月四日
XMLと文字メーリングリスト メッセージ閲覧

 このような形での問題提起は、「手書きの字体」と「明朝体」の間にだけ存在するわけではなく、世の中のどこにでもあります。

 ところが、それにも関わらず「無色透明な存在」があり得る、という誤解は未 だに蔓延しています。

 それを、議員の名前という誰でも分かりやすい公的なシンボルを通して明確に示していく文章は読んでいてワクワクしますね。

世間の人は「ワクワクする」らしいが、俺は全然しない。俺はキャッチーなものは大嫌ひだ。
平成二十年十一月四日
言葉の救はれ――福田恆存論: 『解つてたまるか!』を見ていただくために

 福田恆存の戯曲集の案内をしたところ、「前田が編集したと勘違ひした」と、そんな「勘違ひ」など絶対するはずないのに、くさされたのが不愉快でしたので、今回はその事情を説明したうへで告知します。

出典を示さなかつた前田自身が惡いのに、何を逆切れしてゐるんだらうか。俺は轉載なら轉載と書けばいいのに。と指摘したのだし、それが俺の指摘の核心部分だ。
なのに前田はその核心部分を見誤り、その誤に基いて論を展開したのだ。これは單なるケアレスミスとは言へない。「前田が編集したと勘違ひした」がうんたらかんたらと話を摩り替へ、責任を人に轉嫁しようとしたのは、前田のブロガー生命にも關はる重大な問題である。云々。
言葉の救はれ――福田恆存論: 福田恆存戯曲全集 全5巻・別巻1

福田恆存戯曲全集を 2008年11月より、 順次刊行予定するとのことです

(現代演劇協会のホームページより転載)

何時の間にか「傳聞」の形に書換へられてゐる。
福田恆存も、横光利一の小説を論じてとある文章をくさしたら、その後に出た全集で問題の文章が何時の間にか消されてゐて、狐につままれた樣な氣分になつたと云ふ話だ。
しかし相變らずリンクを張らないとか。未だにウェブの事が全然解つてゐない模樣。
平成二十年十一月四日
Latest topics > Webのオールドタイプ - outsider reflex

このサイトもそうだけど、いわゆる「個人サイト」って、コンテンツが主と言うよりは、「人」の方が主になってるなあと思う。あるいは「場」。コンテンツは、人や場に属している。

何と言ふか、うちなんかも別に「俺の歌を聽け」みたいな意識なんかなくて、ただ「個人が作つてゐるだけ」でしかない積りなのだけれども「野嵜さんのサイト」としてしか認識されてゐなかつたりする。だから喜の字のやうな粘着が附いたりする訣だ。「個人サイトなんかやつて傲慢だ」みたいな。
でも、pixivなんかで活動してゐる繪師の人だつてその點は同じで、虹裏なんかを見ても人によつてはやつぱり粘着がついてゐる。
一般論として、「個人」が出てくると、それだけで反射的に反撥する人が出て來るんだとしか言ひやうがない。
平成二十年十一月四日
粘着の活動なんかを見てゐると、「ブログ」のコメント欄を認證制にするかしないか、なんて議論はナンセンスだとしか思はれない。だつて、コメント欄で書けなくても、2ちゃんねるにスレを立てたり外部に「ブログ」を作つたりして粘着する人つて出てくるもの。その方がたちが惡い場合も往々にしてある。要は粘着行爲を平氣でしてしまふ人間がゐると云ふのが問題なのであつて、コメント欄のシステムみたいな事を議論しても始まらないと云ふ事だ。實名か匿名かもあんまり意味がない。嫌がらせをする事を「正しい」と思つてゐる人がゐる限り、嫌がらせはなくならないし、大體人間ならどんな事でも「正しい」と思ひ込めてしまふし、さう思へなくなつたら人間は御終ひだから人間と云ふ存在がある限り嫌がらせと云ふ事はあるし、それを「正義」だと言張る人も存在する事になる。
となると、人間とは何とも嫌な存在だなあとしか思はれない。
平成二十年十一月四日
松原先生の「正論」での「直言」、前囘よりも今囘の方が正直言つて文章として出來が良いから、「前囘は買つたけれども今囘は立讀みで濟ます」と云ふのは勿體ないと思ふ。
平成二十年十一月四日
覚え書き@kazuhi.to: ブックファースト新宿店、開店間近
西新宿で非道い職業に就いてゐた時はほんと非道い環境だつたからな……あの邊、本屋がないんだ。あんまり非道いんで吉野台のBOOK OFFに行く夢を夜中に見てさめざめと涙を流したりと本氣で非道い精神状態になつて云々。
平成二十年十一月四日
【ネコとか唄とかそんなもの。】
平成二十年十一月四日
「知識の誤」と「解釋や認識の誤」では後者の方が問題が大きいと思ふんだ。その邊わざとごつちやにしてゐる人がゐるけれども。西尾みたいに。
大體俺なんかが「間違つてゐる」と非難するのは、價値觀――物事の價値の認識についてで、だからこそ言爭ひになる訣だ。「爭ふ餘地がある」のだから。知識に關しては事實か何うかが問題になるだけで言爭ひにはならない。ただ、自分が或る時採用した價値觀が、自分の言動全體で支持を表明してゐる價値と齟齬を來してゐる時、矛盾を突込まれたら、爭ふ餘地なんて無い。喜の字なんかはそこで突込まれても「無視する」と云ふ高等戰術を使ふが、さう云ふ手合に限つて「無知」だの何だのと詰らない揚げ足取りをする傾向がある。西尾なんかもその手の人種に屬する。

平成二十年十一月三日
“情報化時代”に追いつけるか? 審議が進む「新常用漢字表(仮)」: 第3部 印刷文字から符号化文字へ第5回 『議員氏名の正確な表記』はどうやって作られたか
何で斯う云ふ何うでも良い事を一生懸命調べて長々と「調査結果」を書けるんだらう。小形なんかに「文字の話」なんかさせるなよ。こんなものを面白がつて讀む讀者も讀者。書き手が「衆議院議員」の話と云ふ事で「興味を持たせよう」として、讀み手が「面白さう!」と思ふ構圖。
しかもこれ、所詮「ホームページでの表示」なんて云ふ、「この界隈」でなら「問題多過ぎ」と言はれても仕方のない調査でしかない。「ホームページの表示」は全てユーザの閲覽環境に依存するから、フォントも自由に切替へ可能で、字體の話に持出してはならない。以前の「この界隈」での論爭で明かになつてゐる。
平成二十年十一月三日
自分の意見には責任を持てとはよく言はれるけれども――「自分が言つた意見に責任を持たない、あいつは惡い奴だ」と非難する人は根本的に勘違ひしてゐる。「何も意見を言はないのが一番無責任」なんだよ。

平成二十年十一月一日
Opera 9.61から9.62にアップグレードしようとしてOperaのサイトから落さうとしたが、[Downroad Opera]ボタンを押しても落ちて來ない。Opera社は、なんでファイルを「ダウンロード」させるのに「ボタンを押させる」なんて異常な方式を採用したのだらう。普通にファイルにリンクを張ればいいのに。誰が何う考へてもリンクを張るのが正しく、「ボタンを押す」やうにさせるのは間違つてゐる。プルダウンメニューで「ダウンロード先」を選擇させるとか、何を考へてゐるんだらう。デザイナはウェブのインタフェイスとして「プルダウンメニューは使つてはいけない」と習はなかつたのか。Opera社のウェブデザイナのレヴェルが知れる。
あと、「ダウンロード先」は「ダウンロード元」が正しいのではないか。ダウンロードした先はユーザのPCに決つてゐる。ダウンロードする元の鯖を撰擇するのではないか。目茶苦茶だが、未だに誰も突込まないところを見ると、ユーザがよほど少なくてフィードバックがないか、フィードバックを受ける先がないか、フィードバックを受けてもわからなくて放置してゐるか、或は間違つてゐると百も承知でフィードバックを無視してゐるか、その何れかだらう。
何れにしても、[Downroad Opera]ボタンを押してもファイルが落ちて來ない、と云ふ状況になつたのは事實で、明かにOperaの不具合。ブラウザのOperaがをかしかつたのか、Opera社のサイトがをかしかつたのかは知らない。ユーザにしてみればそんなのは關係なくて、ただ「不具合があつた」と云ふ印象が殘るだけだ。Operaは猛省せよ。
Web ブラウザ Opera のダウンロード
平成二十年十一月一日
「正論」で松原先生が西尾幹二にふたたび「直言」。恐らく今度も西尾は反論しない。松原先生の豫言は良く當る。
平成二十年十一月一日
原文不正字不正かなの文獻を引用する時に正字正かな化する事は、「著作權法的に問題」だとしても「著作權侵害は親告罪」なので「文句を言はれなければ問題ない」。
正論の編緝長が述べてゐる通り、表記を變更しても意味は變らない。ならば一々そんな事でつつかかるのは餘程尻の穴の狹い野郎に決つてゐる。狹量か何うかの「踏繪」としてわざと正字正かなに「改竄」して引用する事――相手の度量を曝露するのに引用文を正字正かな化する事は、戰術として極めて有效だ。文句を言はれても、その後直せば問題にならないんだからがんがんやつていい。
もつとも、狹量な人間だからこそ、ろくでもない事を言つて突込まれる事になる訣だ。しかも、さう云ふ連中に限つて、反論の仕方がせこい。大體、理窟ではなく、自分の政治的影響力を行使して世の中を動かさうとするから、さう云ふ連中はたちが惡い。更に問題なのは、彼等自身に「政治的影響力」なんてものは微塵もない、と云ふ事だ。彼等は自分の事に關しては全く自覺がないから、自分には「強い影響力がある」と思ひ上つてゐて、自分に反對する人間に對しては常に居丈高な對應をする。ところが彼等は大抵他人を「傲慢だ」と言つて罵るのである。自覺のない人間のたちの惡さは底が知れない。
平成二十年十一月一日
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