歴史を終末の破局と審判の相の下に、普遍的かつ全体的なものとして捉えた黙示文学は、今日のキリスト教神学のみならずマルクス主義の主要な思想的源泉として、今なお生命力を保持している。本書は、黙示文学の起源と歴史的連関を様々な角度から検討し、さらに後代への影響を辿る。また実存理解においてグノーシス主義と共通するとのユニークな解釈を提示する。
黙示文学は、今日、神学の議論のまととなっている。それは、黙示文学の遺産が生命力を保っているからである。しかも、黙示文学はキリスト教以降の様々な世界観の中でも発言を求めている。つまり、宗教的なよそおいを取り払ってもなお残る要素が、黙示文学の中に明らかに存在するのである。
もちろん、誰もが黙示文学の遺産に支えられて生きていることを意識しているわけではない。また、この遺産のことを口にする人でも、口にするのがおこがましいほどに、黙示文学について無知であることもしばしばである。
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レンズマンシリーズは真鍋博のイラストレーションのカラー表紙が斬新だった。
本当の問題のありか、このような分かりづらい改定にするであろう本当の犯人は、そうした漢字政策を進める「社会の要望」の元となった、私たち自身が持つ字体意識ではないか。そしてその矛盾が最もはっきりと現れているのが、人名や地名など固有名詞における字体であると思える。普段は気にもとめないような一点一画の違い、長短の違い、はては撥ねる撥ねないの違いが、なぜか固有名詞に使われるというだけで大きな問題となってしまう。特にこれは人名において著しい。
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爾來五十年神社界は多くの問題と取組み乍ら今日に至つてゐる。寔に感無量であるが、未來に向けて我々は今何を考へ何を爲すべきであらうか。
先づ第一に日本神話に少しでも接する機會を多くしたい。氏子の人々に向けてである。特に若年幼年層に向けてである。現在の學校教育では日本の古代史について述べる時、外國史書の日本についての記述や考古學的記述が中心となつて居り、記紀に示された内容は史實の混淆を恐れて避けてゐる。古文の授業も昔に較べて一段と減らされて文學として接する事も稀である。かくの如くして日本の神話を知らない日本人の増加には淋しさを感じる。神社の根幹をなすのは日本神話である。我々神職は努めて記紀を中心とする神典に親しむと共に世の人に向つても少しでも馴染むやう働きかけたい。本廳當局も教化に心を砕き各種刊行物やビデオの類を數多く提供してゐるので、これらの活用もさる事乍ら又別個の極めて簡略なチラシ程度の印刷物も考へてみては如何かと思ふ。數こま程の劇畫形式の一枚刷でよい。文字を必要最小限に抑へて子供にもわかるし、大人も一瞥ですむ程度がよい。日本神話は題材に富む。個々の題材毎に簡略化し幾種類もの作品が生み出されると思ふ。兔に角、折りに觸れて入れ替り立ち替り長年にわたり人々の手にしてもらふ事である。さうする事によつて、人々の中からもつと深く神話の世界に立ち入らうとする人が出てくるかも知れぬ。……。
教化委員会で『都市の神社問題』として、都市の開発拡大による人口活動とそれに伴う氏子変化の対策が講じられているが、氏子の増減にかかわらず、信仰継承(……)をもたない、今迄の神社のもつ氏子という概念から離れた、顔のみえない相手を教化する必要は衆目の一致する所だろう。その様な氏子を相手にする方法論の一例としてパソコンによるホームページ開設があげられるが、この利点は神社を広く知らせる事にある。……、ホームページ開設は神社にとって有意義であり、開設すべきと最近まで思っていた。しかしホームページの受け手にとって情報は知識であって、信仰の形成には何の寄与もしないのではないか、と私は思うようになった。内容を深めても、いや深めれば深める程パソコンの特色ある疑似体験により、『まつり』の心の本義をも歪められていくのではないか。……。ただ、病気や遠方の為、参拝に行きたくても来れない人には有意義だと思う。
以上のことから、こういうことが言えないだろうか。つまり、これから漢字を学ぶ子供たち、日本語学習者たちにとって分かりづらい常用漢字表にしてしまう本当の犯人は、他ならぬ私たち自身、私たちの社会そのものなのではないか。次回はこのことを、もう少し掘り下げて考えてみよう。
とりあえず今だからこそW3C子のエロ絵をキボン、と言ってみれば良いですか、いまさら。生えてるの。
情報商材にはマルチ商法的な側面もあって、買った人が今度は売り手になるような構造もあったように思う。そういう勧誘をする時に「電子出版」だと抵抗が少ないのかも。
このほか、「犯罪や違法行為に結びつく、またはそのおそれの高い情報や、他者を不当に誹謗中傷・侮辱したり、プライバシーを侵害したりする情報を、不特定の者をして掲載等させることを助長する行為」という項目も新たに立てた。
もちろん、一種の見せ物である。といつて、ジェスチュアー紅白試合と異なり、素面、素籠手の眞劍勝負でもある。
『かなづかい入門』に對して、反論はなかなか難しいだらうと私は感じてゐる。
反論はなかなか難しい等と書いてしまふ。
どうやら私は「表音への怨恨」を核にした擬似宗教を相手にしてゐるらしい。
「表記法」そのものについて何か考へてゐるとは思へないのである。
擬似宗教等と「信者」批判をやり、
著者の論點を纏めた擧句、
ただ、これは「歴史的假名遣の信奉者」の實態をあまりよく捉へてゐないと、私は思ふ。等と言つた人間の言葉として「あり得る」のだらうか。
「表記法」そのものよりも「信者の分析」とやらを問題にしてゐるぢやないか。……自分で自分の事ををかしいと思へないのか。さうだらう。あんたはトンデモの人だ。反省する能力を決定的に缺いてゐるのだ。「喜」の字と同類だ。
なんとか實用の域に留ってゐられるのは、
漢字のおかげだけではない、「は」「へ」「を」が歴史的かなづかひのまゝだからだ。現代の日本語で頻出するこれらの助詞を歴史的かなづかひのまゝにしておいたから、それ以外のところが表音的でも「現代仮名遣」はかなづかひらしく見える。もしこれらの助詞も「發音通り」と最初に定めてゐたら、「現代表記」は強い反撥を受けた事だらう。
例えば次のようなHTML文書があったとします。なんて言つてゐるが、この時點でこの解答がをかしい事は明か。最初にその「例」を示しておかなければそもそも問題として成立しないのだから、この解答の示し方は「後出しじゃんけん」の類に當る。最初に「このHTML文書では」と、條件をきちんと示してゐるならば、問題として成立つ。しかし、今の場合、さうではない。
<title>title</title>
Webページに表示される文字は何もない事になる。これでも「答はbodyだ」と言張る積りだらうか。もちろん、暗示的にbodyは「ある」訣で、空白と云ふ内容をブラウザは表示すると言張る事は考へられなくもないが、ちよつとそれは形而上學的に過ぎる解答だらう。IT的にはもつと常識的な解答であるべきだ。
Errors found while checking this document as HTML 4.01 Transitional!になるんで、
このページのHTML文書がそもそも間違ひ、
このように,WebページはHTML文書で書かれていますが,なんて書かれてゐるが、ブラウザは「HTML文書ではない」ものを表示してゐるんだよ――とか昔は嫌みを言つたものだが、HTTPヘッダでtext/htmlと稱してゐるのだから云々。
ブラウザに実際に表示されるのは,HTML文書のどの部分?と
実際にページとして表示されているのは,どのタグで指定した部分でしょうか。とは意味が違ふ質問だ。
以上のような疑問は、ある仮説を立てるとうまく説明できる。つまり、HTMLの文法にうるさい人を「HTML原理主義者」と揶揄して笑っている人たちは、ウェブページをHTMLで書いていないのだ。仮にそれらの一見HTMLな非HTMLを総称してFMLと名づけよう。FはFusigiのF、FantasyのF、FreeのF、なんでもいい。FMLインスタンスを書いていたのに、それは「HTMLで書くべきだ」「HTMLの文法に違反している」と言われたとしたら? それは確かにHTML原理主義者と揶揄する理由として、もっともなものだ。
無断リンク等に関するトラブルは、私の見る限り最近はかなり減ったようには思えますが、 それでも結構な頻度で起きています。その大半はリンクをしたことでリンクをした側が謂れのない罵倒を受けるというもので、 最悪の場合それでリンクしたサイトが閉鎖することもあります(リンクされた側ではなく、リンクした側が閉鎖する、です)。
しかし、大半の場合そういったトラブルは多くの人の目には触れません。そして往々にしてそういったトラブルは罵倒した者勝ち、 サイトを閉鎖させた者勝ち、といった結果に終わります。
普通名詞の「事」は漢字書きされて良い。事は重大だ、急いては事をし損じる、事の始まりは等々、普通名詞の「事」には事態、事件、仕事等の意味がある。漢字「事」は会意形声文字である。原義はつかへる、役人が公につかへるのである。仕事の意味もそんなところから出てくる。それに対して、形式名詞は連体修飾語が来ることによつてその存在を許される。試みにこの文章を見よ。「良しと思つたこと」「連体修飾語が来ること」、この「こと」のみを独立させよと言つても無理である。本来的に意味を持たない名詞であるから、「こと」の単独使用はできない。この意味用法と漢字の乖離は大きい。だから、形式名詞「こと」は仮名書きすべきであると私は考へる。
ワープロ普及が原因だと極附け、非難してゐるが、何なのだらう。
ワープロ普及を憎惡してゐるとすれば、表音主義者と同じであり、tetu氏は歴史的かなづかひで書きながら「敵と内通してゐる」事になる。
事は重大だ、急いては事をし損じる、事の始まりは等々、普通名詞の「事」には事態、事件、仕事等の意味がある。
その存在を許されるのであるから、tetu氏の立場なら、「等」ではなく「など」とかなで書くべきだ、と云ふ事になる。「など」
のみを独立させよと言つても無理である。本来的に意味を持たない名詞であるから、(名詞ですらない)「など」
の単独使用はできない。tetu氏は今、なぜ漢字で「等」と書いたのか――
要するにIMが変換するからである。
なンでもいいけど , 馬鹿が出たからってその馬鹿と共通項のある人間を問題視するのはやめないか?馬鹿な事やった人が日本人だからって日本人は全員馬鹿だみたいなことを書いてる人を見るとちょっとどうかと思うよ .
- *1:計算ミスその1だよ!
- *2:計算ミスその2だよ!
ユーザー体験(ユーザーエクスペリエンス)みたいな訣のわからない言葉は何うにかしてほしい。少くとも譯語で何とかする努力くらゐはすべきだ。何か上手い言ひ方ないかねえ。
簡単かと思ったら、HTML文書としてinvalidなことがしばしばあることに作ってから気づいたり、
身後黄金北斗にささゆとも、如じ生前一杯酒と、唐も大和も人の情等しく、亡き迹にて佛事供養美美しく盡したらんより、存命の和ぐ言葉にはまさらじ。今は世下りて、他の一寸のゆがみはとがめて、おのが一尺のひがみは見えず、よろづうしろめたきがちにて、我不幸なりと思へる人だにもなかりき。
- うけがたき人と生れてなよ竹の直なる道に入るよしもがな
子供じみた理想論的文章で、田舎者らしい素朴さを示し、洗練を缺きながら、寧ろ近代的な印象すらある。眞面目な性格から一茶は冷たく無分別な人々に怒りを覺えてゐるのであり、その爲正當な批判を行なつてゐるが、さうした態度は道徳的なのであり、芭蕉の「眞劍な遊び」の態度とは根本的に異る。日本では芭蕉が一度「眞劍」なものとしながら結局「眞劍」が拔け落ちた「遊び」だけが「文學」と看做されてをり、現代に至るまで「美しい」或は「遊び」として「優れてゐる」文學が正統の文學と看做されて來た。一茶のはさうした「正統」からは離れてをり、或意味、日本的ならざる文學とすら言ふ事が出來る。
あるものは、ただ感情であつた。從つてその表現には眞創みがあふれ、俳文的臭みがなく、ただひたすらに自己を表現しようとするその逞しい創作的意欲の現れは、近代小説の味を多分に藏してゐる。と云ふ解題は、稍や的外れになつてゐる。ただ「俳文的臭み」がないと言ふのは、この一茶の文章が一茶の理想を背景にしてゐる爲にさうなつてゐるのであつて、その點この文章に永遠の價値がある事を示唆するのだが、同時に日本に於ては芭蕉ほどに一茶が人氣を持たない所以となつてゐる。要は「子供じみ」てゐるのが、多くの讀者の御氣に召さないのだ。
放送局も反対していないので、B-CASの廃止が事実上決まった。
自作絵、Netscape 7/Mozilla用XULアプリケーションの配布、W3C子など。になつてる。
RZ2で録画したファイルは、16:9の映像がスクイーズされた画面比4:3のMPEG2ファイルになる。 この後パソコンでCMカットと16:9への再エンコードをするので、キャプチャはできるだけ高レートで行うとよい。
以上の手順をまとめると
- RD-S301でデジタル放送をTS録画。
- RDでTSタイトルをVRに画質指定ダビング(9.2Mbps)。放送を直接VRで録画してもよい。
- RDの映像出力を480iにして、GV-MVP/RZ2で外部入力から録画。
- 得られた720x480のMPEG2ファイルをTMPGEncで「ピクセル比40:33(NTSC16:9)」で読み込み、カット編集。画面アスペクト比16:9でエンコード。
最後にTMPGEnc DVD Authorでオーサリング。
使い手がどうこうではなく存在そのものが問題な道具ってのは存在するかもしれん*1が , “間違った使い方をした人間”を問題視せず道具を問題視する人ってのは馬鹿だね .
この夏、福田首相が内閣改造を発表した。たしかに新鮮味のない顔ぶれだったが、気になったのは、記者団からの最初の質問が「衆院解散」だったことだ。
ちょっと待ってほしい。いくら何でも、まずは、改造の狙いや新布陣の意味、新内閣で目指す政策についての質疑ではないだろうか。内閣改造と解散総選挙。マスコミは「政局」に関心を持つ一方、「政策」を軽視しがちである。日々の首相会見でも、改造や解散について質問が出され、新聞やテレビは、首相の一言一句を聞き逃すまいとする。
解散について、微に入り細を穿った報道が必要なのか。国民の本当の関心は、医療、年金、食料、エネルギー、地球温暖化など、山積の課題を日本がどう解決していくのか、という点にある。ジャーナリズムにも、そうした前向きの役割を期待している。
微に入り細を穿った報道がなされてゐる。現在のマスコミ、現在のジャーナリストが、この種の「報道」を好むのは、實はマスコミ外の、ジャーナリストではない一般の人々に、その種の低レヴェルな關心があるからで、その點、現在の「ブログ」や掲示板での「議論」に同じやうな低レヴェルな關心に基く「報道」が屡々見られるのは當り前の話だとも言へる。が、さうした關心に基いた「報道」は、良いものなのか。
URL の一部を直接バーに打ち込むと、自動補完される機能はそろそろ広まってきたろうか。