制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
野嵜健秀とは誰か
特記事項:野嵜に粘着するネットストーカーについて
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。

闇黒日記


平成二十年十月三十一日
今日の買物。W.シュミットハルス著・土岐健治・江口再起・高岡清譯<聖書の研究シリーズ26>『默示文学入門』(教文館)。

歴史を終末の破局と審判の相の下に、普遍的かつ全体的なものとして捉えた黙示文学は、今日のキリスト教神学のみならずマルクス主義の主要な思想的源泉として、今なお生命力を保持している。本書は、黙示文学の起源と歴史的連関を様々な角度から検討し、さらに後代への影響を辿る。また実存理解においてグノーシス主義と共通するとのユニークな解釈を提示する。

黙示文学は、今日、神学の議論のまととなっている。それは、黙示文学の遺産が生命力を保っているからである。しかも、黙示文学はキリスト教以降の様々な世界観の中でも発言を求めている。つまり、宗教的なよそおいを取り払ってもなお残る要素が、黙示文学の中に明らかに存在するのである。

もちろん、誰もが黙示文学の遺産に支えられて生きていることを意識しているわけではない。また、この遺産のことを口にする人でも、口にするのがおこがましいほどに、黙示文学について無知であることもしばしばである。

……。

昔、マルクス主義はキリスト教の鬼子であると俺はYahoo!掲示板で指摘した事があるのだが、その時、例の元國營企業社員Fがしやしやり出て、淺はかにも「マルクス主義は宗教を否定するからキリスト教とは無關係だ」と言放ち、自分が誤つてゐる事にも氣附かないで、好い氣になつて俺を侮辱したのを、俺は今でも忘れない。無知な人間ほど自分の淺薄な解釋に固執するものだが、その「淺薄な解釋」は大抵大變簡單で明瞭な内容である。Fは今でも淺薄皮相の物の見方を持ち續けてゐる事だらうし、自分の淺薄な物の見方を反省する謙虚な態度を身に附けられないでゐる事だらう。少くとも、キリスト教やマルクス主義に關する知識を新たに身に附けようとだけはしてゐない事だらう。自分は完璧な知識を持ち、完璧な解釋を出來るやうになつてゐると、Fは當時、既に思ひ込んでゐた。斯う云ふFのやうな、皮相な物の見方と固定觀念の奴隷になつた人間が、日本では大きな顔をしてゐるから注意しなければならないが、彼等は自分が威張つてゐると自覺する事も出來ないから、全くもつて困りものだ。
ベルジャーエフでも知つてゐれば、マルクス主義とキリスト教の關係は疑ひやうもないのだが――しかし、そもそも資本主義とか民主主義とかも、キリスト教と繋がつてゐると云ふ事を、多くの日本人が氣附かないでゐるのでないか。
とある魔術の禁書目録で、宗派が岐れた理由として「宗教に政治が入り込んだから」と簡單に言つてゐたのが俺は氣に入らなかつたけれども、宗教絡みで日本人が氣附き得るのもこの程度の事でしかない。
ディルタイの『世界觀の研究』(岩波文庫1221)を讀んでゐるのだけれども、價値觀・世界觀と言ふものは、人が生きて行く間に「氣分」として形成される。價値觀・世界觀は、生活の結果として成立し、生活の場は歴史的に形成されてゐる。よつて價値觀・世界觀は歴史的に形成されたものである。キリスト教社會において、人の生活は一つの形式をとり、その中で一つの「氣分」が形成される。キリスト教社會の世界觀・價値觀である。キリスト教社會で歴史的に形成された近代社會において、マルクス主義も誕生してゐる。マルクス主義がキリスト教社會の所産であり、キリスト教社會の世界觀・價値觀を繼承してゐる事は間違ひない。ところがFにはそれが解らない。Fが典型的日本人だからである。Fは、「キリスト教」と聞いて「キリスト教の宗教的側面」しか認識出來ない――しかも、甚だ知識的・記號的な認識である。「氣分」としてのキリスト教社會的世界觀・價値觀の存在を、Fは認識すら出來ない。だからこそ、マルクス主義とキリスト教社會の關係を、Fは認識出來ないし、それを指摘されると「トンデモ」だの「電波」だのと思つてしまふ。

平成二十年十月三十日
ミサキの一発逆転! とかダンタリアンの書架1とか。前者は割とぐだぐだ。後者は讀みかけ。三雲さんのシリーズ物は久々に讀んだ。
上司小劍「蜘蛛の饗宴」を少しづゝ讀み進める。
平成二十年十月三十日
Wikipediaは2ちゃんねる。
平成二十年十月三十日
ちよつと何うかと思つた。
飽きとその理由 (kuruman.org > Kuruman Memo)

平成二十年十月二十九日
前にも書いたけれどもコピー機のインタフェイスの劣惡さは異常。
セブンイレブンのコピー機が、タッチパネル式になつてゐたけれども、「コピースタート」の「ボタン」が畫面に「ある」と氣附かないでしばらくまごまごした。ボタンの恰好をしてゐない畫像を「ボタン」と稱する時點で異常だが、畫面のデザイナは何うしてあれで「いい」と思へてしまつたのだらうか。俺はデザイナを信用しない。
平成二十年十月二十九日
これはちよつと古いゼロックスの話。ゼロックスでの「A4のコピー」がやたら難しくて、三十枚くらゐ失敗して頭に來たので書く。
ゼロックスの機械、A4に限つて用紙の入れ方が縱置きだつたり横置きだつたり出來るし、スキャン時にも縱置きだつたり横置きだつたり出來る。何でこんなにややこしいんだと俺は思ふのだが、みんな何うなのだらう。
でもつて、「ちよつと古いゼロックス」の野郎が本日起した問題の話。スキャン時の設定を豫め「A4」に指定しておいたのだ。斯うすると毎囘一々用紙サイズを機械が測らないから少しは早くなるだらうと氣をきかせたのだが――この野郎、縱に置いたA4の紙を横にスキャンした擧句、A4用紙が入つてゐるのは縱置きトレイだと言つて、わざと(?)上半分だか下半分だかを白いまゝ刷つて呉れたのだ。「自動」にすると問題を起さない。
これが「ちよつと古い」所爲なのか何うかは知らないが、なんで斯うも設定が解り難く出來てゐるのだらう。ユーザが氣をきかせると機械は言ふ事をきかないと云ふ典型的な例だ。「自動」だとちやんと動きます、と云ふのが本當に憎たらしい。
平成二十年十月二十九日
インタフェイスが惡い話。
魔法瓶で有名な某社の急須型魔法瓶。魔法瓶と云ふ奴、普通はお湯を入れるものだが、うちの場合、夏場は冷やしたお水を入れておく。御蔭で助かつたのだが――こいつは、上の蓋がねじ込み式になつてゐて、緩めて傾けると、脇に生えた口から中身が出て來ると云ふ、まあ一般的な魔法瓶だ。だが、恐るべき事に、こいつ、底の方に殘つた中身が、思つたやうに簡單には流れ出て呉れないと云ふ非道い代物なのだ。蓋を緩めて、思ひ切り傾けて、それでようやつと口からちよろちよろ流れ出て來る。ところが、最後まで出さうとすると――殆ど逆さまにして振つてゐたら、蓋が外れて、中身がびしやびしや手にかかつた。最初に述べた通り、この時點で中身は冷水。冷たいだけでそんなに被害はなかったのだが、さて諸君、この魔法瓶と云ふもの、本來、何を入れるべきものか。普通は熱湯を入れる。
と云ふ訣で、逆さまにしないと中身が出てこない、と云ふ魔法瓶。逆さまにすると蓋が外れて熱湯が手にかかる危險がある、と云ふ大變な問題設計のものだつたのだが、これ、「インタフェイスが惡い」うちに入ると言つて良いのではないか。この魔法瓶、外觀は實に可愛らしいもので、明かにデザイン優先の製品だ。當然、デザイナは、實際に使つた時の問題を全く意識せずにデザインしたのである。
平成二十年十月二十九日
俺はデザイナと言ふ人種を全く信用出來ない――正確には、怠惰なデザイナを、だ。なんでデザインを中心に、何でも語るんだらう。なんでデザインの爲に、機能を犠牲にするんだらう。機能を活かす為にデザインがあとから附いてくるのなら解る。が、案外多くのデザイナが最初から「いいデザイン」をしようとしてしまふ。彼等は、機能とか、そもそもの製品の仕組とかを理解しようともしないで、ひたすらデザインしようとする。そんなにデザインは大事なのか。「大事だ」と、マーケティング理論の信奉者(?)は必ず言ふのだが、そんなに商賣が大事か。「大事だ」と必ず言ふのだが、しかし、果してそれで良いのかと俺は執拗に嫌な疑問を呈する。機能優先で作られた商品が、にもかかはらず優れた工業デザインを實現してをり、結果としてロングセラーとなつて企業の屋臺骨を永らく支へた、と云ふ事例は結構ある。デザインだけで賣らうとして、その場は大量に賣れても、それが半世紀も長續きした、なんて事は、全くと言つて良いほど、ない。機能無視の、デザインの爲のデザインは、何のメリットもない。全て機能が最優先だ。それがわからないデザイン原理主義者が、今の日本には何と多い事か。
平成二十年十月二十九日
livedoor ニュース - Windows XPが見違える!ファイル操作術10連発【知っ得!虎の巻】
「8.拡張子を表示する」しかやつてない。と言ふかあとは「知つてゐれば良い」だけの話。
平成二十年十月二十九日
俺の場合、「デスクトップ」と「マイコンピュータ」をタスクバーの中に入れてメニュー化してゐる。
Windowsの便利な操作と設定メモ:Windows9x篇の眞ん中邊參照の事。XPでも任意のフォルダをツールバー化出來るし、それをタスクバーの中に入れる事も出來るし、それをメニューのやうにして使ふ事も出來る。案外便利。
平成二十年十月二十九日
2008年秋の神保町。神田古本祭。

平成二十年十月二十八日
消えゆくプロジェクト - 暇つぶし文@謎
死屍累々と云ふ奴。
何處ぞの誰かさんが主導する某正かなIMEプロジェクトも死にかけ。死んでると言ふかやる氣ないから最初から生きてない。
平成二十年十月二十八日
http://homepage1.nifty.com/kazuf/renewal.html#sf_1225120348

レンズマンシリーズは真鍋博のイラストレーションのカラー表紙が斬新だった。

俺がスペオペ集めてゐたのは1980年代の終りの頃。真鍋博のイラストがダセえのなんのつて――これほどダセえ表紙もねえと思つてゐたくらゐで、譯文も非道くてとても讀めたものではなかつたし、創元のレンズマンは本當に古臭えと思つてゐた。當時高校生。
まさか古橋さんのサムライレンズマンでQX!とか見て感涙に咽んだり新譯に感動したり出來るやうになるとは思つてゐなかつた。
平成二十年十月二十八日
武部畫伯のデジャー・ソリスだつて最う古臭かつた。
わざわざ小西譯で集めてゐたが、火星シリーズに限つては舊譯の方が良かつた氣がする。
平成二十年十月二十八日
80年代には最う新しい日本SFがぞろぞろ出てゐた訣で、サイバーパンクよりも岬兄悟の方が遙かに先を行つてゐたと思ふ。
いまだに黒丸尚の譯文は駄目だと思つてゐる。と言ふか當時のハヤカワSFの飜譯、既に老人の仕事ばつかりで、少しも新しく感じられなかつた。寧ろ「誤譯だらけ」と言はれたサンリオの方がずつと新鮮だつた。天のろくろとかオメガ・ポイントとか――バケツ一杯の空気とか、古本屋で拾つて、詰らないなりに面白がつてゐられたんだから、今でもサンリオはいいと思つてゐる。表紙も格好いいし。ひどいのもあるけど。
平成二十年十月二十八日
古本祭で人多過ぎ。
かと思へば東京堂書店は相變らず閑散としてゐる。特に三階。
平成二十年十月二十八日
“情報化時代”に追いつけるか? 審議が進む「新常用漢字表(仮)」: 第3部 印刷文字から符号化文字へ第2回 規格の上から『議員氏名の正確な表記』を考える

 本当の問題のありか、このような分かりづらい改定にするであろう本当の犯人は、そうした漢字政策を進める「社会の要望」の元となった、私たち自身が持つ字体意識ではないか。そしてその矛盾が最もはっきりと現れているのが、人名や地名など固有名詞における字体であると思える。普段は気にもとめないような一点一画の違い、長短の違い、はては撥ねる撥ねないの違いが、なぜか固有名詞に使われるというだけで大きな問題となってしまう。特にこれは人名において著しい。

それはまあさうなんだが。俺も別に「野嵜」の「嵜」の字に「拘り」なんてないし。
けれども前囘の大袈裟な豫告からすれば今囘、肩透かしな觀があるのは否めない。
何うも、漢字でもかなづかひでも、斯う云ふ細かい事・具體的な事を執拗かつ念入りに調べ上げ、報告する人は、さう云ふ調べ事をするのが樂しいので、基本的にマニアであつて、問題意識は案外低い事が多いやうに感じられる。
平成二十年十月二十八日
ANIMAXのかんなぎと被つてゐるAT-Xのらきすた。第六話まで進行。全く何も起こらないので安心して何度でも觀られるのはいい。巧みな構成とか優れた語り口とか、さう云ふものがない物語に、俺は何も期待しないから、らきすた程度に腹を立てたりはしない。
頭文字Dのパロディは何でやつても大體失敗がない便利なもの。
大體俺は話の結末を知つてから御話を鑑賞する「惡癖」があつて、「それでも樂しめる」事が評價基準の一つだつたりするから、「意表を突く」だけの話はさつぱり評價する氣にならない。
平成二十年十月二十八日
不幸のダイアリー - カナかな団首領の自転車置き場
図書カード:駒のいななき
平成二十年十月二十八日
古本祭で買つた本。東京都神社庁「東京都神社庁設立五十周年記念 神道未来フォーラム」。平成十年の本。正かなで香取神社宮司の加藤敦久氏が「未来を目指して」と云ふ文章を書いてゐる。

……

爾來五十年神社界は多くの問題と取組み乍ら今日に至つてゐる。寔に感無量であるが、未來に向けて我々は今何を考へ何を爲すべきであらうか。

先づ第一に日本神話に少しでも接する機會を多くしたい。氏子の人々に向けてである。特に若年幼年層に向けてである。現在の學校教育では日本の古代史について述べる時、外國史書の日本についての記述や考古學的記述が中心となつて居り、記紀に示された内容は史實の混淆を恐れて避けてゐる。古文の授業も昔に較べて一段と減らされて文學として接する事も稀である。かくの如くして日本の神話を知らない日本人の増加には淋しさを感じる。神社の根幹をなすのは日本神話である。我々神職は努めて記紀を中心とする神典に親しむと共に世の人に向つても少しでも馴染むやう働きかけたい。本廳當局も教化に心を砕き各種刊行物やビデオの類を數多く提供してゐるので、これらの活用もさる事乍ら又別個の極めて簡略なチラシ程度の印刷物も考へてみては如何かと思ふ。數こま程の劇畫形式の一枚刷でよい。文字を必要最小限に抑へて子供にもわかるし、大人も一瞥ですむ程度がよい。日本神話は題材に富む。個々の題材毎に簡略化し幾種類もの作品が生み出されると思ふ。兔に角、折りに觸れて入れ替り立ち替り長年にわたり人々の手にしてもらふ事である。さうする事によつて、人々の中からもつと深く神話の世界に立ち入らうとする人が出てくるかも知れぬ。……。

例へば「かのこん」は日本神話の基礎知識がないと理解できない御話だ。ラノベでは日本神話ネタが「定番」として結構良く使はれる。だからラノベの讀者には割と神話の事を良く知つてゐる人がゐる。けれども、さう云ふ人が「深入り」して、神道の信者になるか――少くとも、神社に御參りに行くやうになるか、と云ふと、それは餘りないのでないか。
寧ろ、ラノベの讀者なんかだと、マニア化する傾向があつて、記紀の御話でも、知識として「知つてゐる」どころでなく、矢鱈詳しい人がゐたりする。ところがさう云ふマニアが神道を「信じてゐる」かと言ふと、それは大變怪しい。
日本人の大問題として、マニア化する傾向があるのは指摘しておきたい。さう云ふマニアになるだけならば、教化もさつぱり意味がない、と云ふ事になる。「いや、ある」と力強く言ふのが、知識の傳播に樣々な「即效性のありさうな手段」を提案する人の常なのだけれども、俺は何うかと思ふ。
HTML/CSSでもさうだらう。この界隈で、マニアは澤山生まれたが、さう云ふ人は「HTML/CSSの話」ばつかりするやうになつて、結果としてウェブサイトも「HTML專門サイト」になつてしまつたりする。HTMLでもCSSでも、「それを使つて表現する」事が目的だらう。ところが、その目的が忘れ去られてしまふ。日本神話でも、知識として持つてゐる事で、ラノベを樂しむ――事を續けてゐられるのならまだいいのだが、最うもつぱら知識を集積する事だけに樂しみを見出すやうになつてしまつて、マニア化してしまふ、さう云ふ人が割と多いやうな氣がするのだ。
正字正かなの世界でも、或は「字数歌」にはまつてみたり、或は字音假名遣に「はまれ」と他人に要求するやうになつてみたり――變な「ことばマニア」ばつかりが増えてしまつてゐる。
平成二十年十月二十八日
同書所收、稲荷鬼王神社禰宜大久保直倫氏「情報化社会へ異論あり」には以下のやうな記述がある。

教化委員会で『都市の神社問題』として、都市の開発拡大による人口活動とそれに伴う氏子変化の対策が講じられているが、氏子の増減にかかわらず、信仰継承(……)をもたない、今迄の神社のもつ氏子という概念から離れた、顔のみえない相手を教化する必要は衆目の一致する所だろう。その様な氏子を相手にする方法論の一例としてパソコンによるホームページ開設があげられるが、この利点は神社を広く知らせる事にある。……、ホームページ開設は神社にとって有意義であり、開設すべきと最近まで思っていた。しかしホームページの受け手にとって情報は知識であって、信仰の形成には何の寄与もしないのではないか、と私は思うようになった。内容を深めても、いや深めれば深める程パソコンの特色ある疑似体験により、『まつり』の心の本義をも歪められていくのではないか。……。ただ、病気や遠方の為、参拝に行きたくても来れない人には有意義だと思う。


平成二十年十月二十七日
また「義」が俺のメールアドレスをアダルトサイトに登録し捲つた模樣。俺なんかの爲にわざわざ休みを潰してゐる「義」。馬鹿だね。
少しは冷靜になつたら何うなんだらう。粘着諸氏もまた。
平成二十年十月二十七日
加藤うらら。相變らず身も蓋も無い話。墨こぼしてフォローのためにロケ地のホテルの宣傳してる。
平成二十年十月二十七日
スキップ・ビート。結局のところ、これも日本人好みの「精神主義」の御話だ。藝能活動もまた精神的な「修行」と化してしまふ。あちこち面白い話ではあるんだけれども、構成の巧みさ・語りの上手さに感心出來る類の物語ではない。
平成二十年十月二十七日
“情報化時代”に追いつけるか? 審議が進む「新常用漢字表(仮)」: 第3部 印刷文字から符号化文字へ第1回 現代日本の「ゴルディアスの結び目」をほどくのは?

 以上のことから、こういうことが言えないだろうか。つまり、これから漢字を学ぶ子供たち、日本語学習者たちにとって分かりづらい常用漢字表にしてしまう本当の犯人は、他ならぬ私たち自身、私たちの社会そのものなのではないか。次回はこのことを、もう少し掘り下げて考えてみよう。

小形氏の文字觀は信用がおけないから全く期待出來ないが一往「次回」を待つて見よう。
平成二十年十月二十七日
WindowsXPを再インストールしてからシステムが遲え遲えと思つてゐたけれども、ふとディスプレイドライヴァを新しいのに入換へてみたら(多分)前と同じやうな速さになつた。Windows標準のドライヴァで安定してゐたからそれでいいやと思つてゐたけれどもやつぱりメーカ製のドライヴァを使つた方が良い事もあるみたい。
GeForce4 Ti 4600なんて、今となつては「骨董品」もいいところだけれども、これでも結構それなりに動いて呉れる。
あと、映りが隨分綺麗になつた。標準ドライヴァは映りが汚い。
平成二十年十月二十七日
神保町で古本祭開始。晝間は良い天氣だつたのが夕立で臺無し。毎年雨に祟られる。週末は何うだらうか。
平成二十年十月二十七日
滿身創痍の録畫專用機Let's noteキメラくんから外附HDDに*.mpgのデータをコピーしてゐたら突然電源が落ちて再起動がかかつた。
この外附HDDは、前にケーブルの接觸不良で(推定)電源飛んだ時に中身のサムスンが死んで、中古の日立のに(自分で)交換した奴だが、斯う云ふ事があるとまた死ぬんでないかと冷や冷やする。と言ふか、何が惡いんだかさつぱりわからない。ケーブルが惡いんだかPC本體の電源が足らないんだか。
Let's noteも二個一で組上げた上いろいろあつて非道い外觀になつてゐる奴で、毎日六時間は録畫に使つてゐるから何時まで保つかわからない。
平成二十年十月二十七日
アニマックスでルルーシュR2最終囘。また觀た。ルルーシュ實は死んでない説が虹裏方面で流れてゐたけれどもそれはない。ナナリーがルル山死んだの確認してゐる。
平成二十年十月二十七日
外附HDDの中のストパンの*.mpgが一箇壞れてるのが發覺した。今夜はなんかいろいろある。

平成二十年十月二十六日
ペット通販
平成二十年十月二十六日
アメリカの大統領選では民主黨が優勢のやうだけれどもオバマ候補が當選したら當然のやうに日本の政權も交替する事だらう。

平成二十年十月二十五日
パソコン不全 - 幸せの鐘が鳴(r
テキストやら畫像やら――精々MB單位のデータなら、バックアップは簡單だ。けれども、では録畫データなんかは何うしたらいいんだらう。日々數十GBのデータが溜まつていく状況で、どうやつてバックアップをして行けばいいと云ふのだらう。ノートPCで録畫してゐるからRAIDは無理。
と言ふか、RAIDも結構危險と云ふ話も。二臺のHDDでデータを持つにしても、同じ時に買つたHDDだと、同じ時期に壞れるから意味がないんだと。一方が駄目になつた時、それを交換しても、最う一方から書戻す時にそのデータが入つた奴がやつぱり壽命で逝く可能性が高いんだとか。本當か嘘かは知らんけど。
DVD-Rに一生懸命焼き捲つても、入るのはたかだか4GBだし。大體DVD-R自體、そんなに保たないとか云ふ話もあるし。
平成二十年十月二十五日
(´д`;) - うへぇ -

とりあえず今だからこそW3C子のエロ絵をキボン、と言ってみれば良いですか、いまさら。生えてるの

「何が?」とか思つた俺は相當虹裏に毒されてゐると思ふ。特にimg。

平成二十年十月二十四日
オリノコ河水源の探検:情報商材を「出版」と呼ぶ - livedoor Blog(ブログ)

情報商材にはマルチ商法的な側面もあって、買った人が今度は売り手になるような構造もあったように思う。そういう勧誘をする時に「電子出版」だと抵抗が少ないのかも。

HTMLとかCSSとかにもマルチ商法的な側面があつて云々。

平成二十年十月二十三日
動物虐待画像や硫化水素自殺情報、プロバイダーの約款で禁止へ

 このほか、「犯罪や違法行為に結びつく、またはそのおそれの高い情報や、他者を不当に誹謗中傷・侮辱したり、プライバシーを侵害したりする情報を、不特定の者をして掲載等させることを助長する行為」という項目も新たに立てた。

粘着が掲示板作つていろいろ書かせるのも對應されるやうになる訣だ。良い事だ。
平成二十年十月二十三日
「常用漢字の音訓を追加」と云ふ奴、意味が解らない。「使つて良い音訓を追加」と云ふ事ではない筈――「常用漢字」は「目安」であつて「制限」ではないから。では「音訓を追加」とは何なのか。「目安」に「追加」と云ふのは意味がない。そもそも「目安」と云ふ言ひ方自體が曖昧で訣が解らない。「此處までは使つて良いと云ふ目安」なのか。「この程度は知つてゐなければならないと云ふ目安」なのか。
要はその邊をわざと曖昧にして、ただ「常用漢字は制限漢字なのではない」と云ふ「アリバイ作り」をしてゐただけの事だ。看板を「目安」に掛け替へる事で「漢字制限だ」と云ふ非難をかはさうとしたものだ。日本的な餘りに日本的な――即ち、餘りに官僚的な――對處だが、日本人はこの手の「對應」をされると納得する――と言ふより、納得した積りになつて好い氣になる――惡癖を持つから、殆どの人が「へー」と言つて默つてしまふ。
漢字には音や訓が「ある」ものであつて、官僚が「追加する!」とか言つて勝手に追加できるものではない。今のやり方はまるで「追加してやる」みたいな傲岸不遜なものだが、そもそも今まで制限してゐたのが間違ひなのだから、「制限を撤廢する」と言つて、はつきり自分逹の誤を認めるべきだ。ところが官僚は絶對謝らない。
――が、殘念な事に、日本人は今、「官僚が誤つた事をした」と認識すらできてゐない。だから、官僚に謝罪を要求する事が出來ない。
「喜」の字なんかを見れば判る通り、今の日本人は他人に責任を取らせる事が大好きな人種に成下がつてゐる。しかし、その人物が本當に「責任をとるべき事」をしたか何うか――そもそも、「本當に責任をとるべき事」とは如何なる事であるか、に、今の日本人は全く興味が無い。ただ、場當り的に、取敢ず「責任を取れと要求すると反應が面白さう」な人間に「責任をとれ」と要求して遊ぶ事にだけ、今の日本人は熱中できる。政治でも何でも、「責任をとれ」と要求し合つて、言爭ひをする事が、今の日本人にとつて一番樂しい事となつてゐる。人を揶揄つて遊ぶ事に今の日本人は至上の愉しみを覺えてゐる、と云ふ事だ。なるほど、目の前の人間と「コミュニケート」するだけにしか言葉を使はないから、歴史的觀點なんてものは眼中に無いと云ふ事になる訣だ。歴史的かなづかひなんかを邪魔もの扱ひする風潮と、さう云ふ刹那的な愉しみに沒頭する事とは、無關係ではなからう。

平成二十年十月二十二日
言葉遣いに大切なこと:Wind Report - AOLダイアリー
平野氏も「ウェブと云ふ公開の場での發言」の意味が分かつてゐないんだよね。
「一對一」の個人面談ではないんだから。TV番組と一緒。

もちろん、一種の見せ物である。といつて、ジェスチュアー紅白試合と異なり、素面、素籠手の眞劍勝負でもある。

「陪審員に訴ふ」より
この邊の機微が解らないで、批判をしてゐる人間に向きになつて怒つたり、批判をしてゐる人間の人格を貶める爲の「ブログ」を立上げたりする人がゐる訣だ。雜誌に載る文章も「一種の見せ物」である訣だが、やつぱりそれも解らない人がゐて、本氣になつて怒つて、抗議なんて事をしてしまつたりする。
いろいろ解らない人が多過ぎるよ……と、斯う言ふと、俺が「解つたやうな事を言つてゐる」と、連中、また怒り出して、本氣になつて嘲笑・侮蔑をして見せたりし始めるんだけどさ。猿ぢやないんだから。
平成二十年十月二十二日
俺なんかは、「誰かに言ふ」場合でも、「傍で見てゐる第三者の人がゐる」事を十分承知して、一つの文章に二重時には三重の意味を乘せる藝當を演じて見せる――んだが、これがやつぱり「解らない人」には「不眞面目だ」とか思はれるらしい。俺にしてみれば、ストレートに一義の意味の言葉を、特定の相手だけにぶつける、と云ふ行爲こそが不眞面目で解つてゐない事に見えるのだが。
「見解の相違」で濟ませようとする人もゐるけれども、それでは濟まない問題だと思ふ。要は、「今の場合、俺が正しい」と俺は言ひたい訣だ。
ウェブのやうな公開の場での發言であるにもかかはらず、そこで「如何にして特定の相手に直接的な影響を與へるか」と云ふ事を平野氏は考へる。けれども、そんな態度は「間違ひだ」と俺は思ふ。それはさうだらう。公開の場では、特定少數の「相手」のみならず、それ以外の不特定多數の人々に影響を與へるべく、我々は發言するのだから。それが「見せ物」の「見せ物」たるゆゑんだ。手品で、マジシャンが觀客の一人を壇上に呼ぶ。この時、マジシャンはその一人の觀客だけの爲にマジックを披露するのではない――飽くまでその他大勢の觀客を樂しませる、それが目的だ。
不特定多數への發言と言ふのは、要は自己の信條を語るものであり、そこで批判の對象が存在するとしても、それは單に引合ひに出すと云ふだけの事に過ぎない。「語る事がある」から語るんだよ。人の名前を出して批判するにしても、その人を攻撃する事が窮極の目的だなんて事はあり得ない。もちろん、さう云ふ個人攻撃をする人もゐるけれども、俺はそんなのとは違ふ。
平成二十年十月二十二日
言及相手を説得しようとしてるわけではない - カナかな団首領の自転車置き場
二時四十一分 - smallball
平成二十年十月二十二日
J:COMからのメールが件名に「★」が含まれてゐたのでごみフォルダに直行してゐた。さう云ふ條件でスパムふるひわけようとする俺も何うかしてゐるか知らんけど。
平成二十年十月二十二日
と言ふか、電八でふるひわけ用に「gomi」フォルダを掘つた積りがミススペルして「gimi」フォルダになつたまゝ最う十年近く經つ。スパムメールでふるひわけられても普通のフォルダだから溜まるだけで消える事はない。
平成二十年十月二十二日
どうでもいいけど夏のソラの方の魔法遣いに大切なこと、相變らず非道かつたみたいだね。

平成二十年十月二十一日
劇団四季 作品紹介(ステージガイド) 解ってたまるか!
よく考へればこれもえらく中二病的な内容の御芝居だよな。
ハムレットだつてさうだし――基本的に名作と言はれる御芝居はみんなさうだ。
大體世間の人は老人くさいのが大好きなんだが、それでは駄目なんだよ。人は生き生きとした生を求める。若々しさは決して惡いものではない――惡い意味で「何時までも子供」では駄目だけれども、下手に老け込んで爺むさい表情をして見せてもこれまた駄目だ。福田さんは、(當時の)年寄連中なんかより寧ろ若い人に受けたし、また福田さん自身、自分は「若い世代」の身方だと思つてゐた。それは既に四十代に入つてからの事だつたと思ふけれども、けれども福田さんは飽くまで「若い世代の評論家」だつた。晩年の「老いの繰り言」にしても、最う意識して年寄を演じて見せてゐるけれども、誰が何う見ても「ただの老人」の言葉ではなく、はつきり好き嫌ひを前面に押出した言ひ方で――將にその「言ひ方」でもつて價値を持つ文章になつてゐる。
精神的な成熟と、老成とは違ふ。それを日本人は案外解つてゐない。福田さんの場合、保守的な態度をとつたけれども、それが年寄の反動的な精神の發顯だつたのではなく、死を經て再生する事を志向した生き生きとした精神の顯れであつた事に注意が必要だ。現代の保守主義者と呼ばれる連中と、保守派の福田恆存とは、根本的な精神が違ふ。
村木は、本質的に正義漢で、だからこそいんちき極まる訣なのだが、一方で強烈な魅力を發揮する事になる。でもつて××××に刃物、ダイナマイトとライフルを抱へてゐるのだから、力を持つてゐる訣だ。力のない正義は何うしやうもない存在で、世間はひたすら嘲笑ふ。けれども、村木は力を持つた正義だ――こんなキャラを福田さんはでつち上げて、日本の社會に對決せしめた。全くもつて「困つた存在」である村木と云ふ輩だが、こんなのをまともに相手にせざるを得なくなつた現代の日本の社會が、しかし却つて自らの脆さを露呈する事になる。
解つてたまるか! - カナかな団首領の自転車置き場
平成二十年十月二十一日
GR DIGITAL コンプリートガイドを買つて來た。三册合本になつた奴。掲載された作例、森山大道のスナップが面白い。特にGRD II本のねこじゃらし。
平成二十年十月二十一日
インデックス二卷。微妙にこなれてきてゐて新鮮さが薄れてゐるのは如何なものか。
あと重版隨分かかつてゐるのに誤字が直されてゐない。わざとだらうか。

平成二十年十月二十日
5の2→スキップ・ビート→加藤うらら。
久々に今期は日曜深夜のTXが當りな氣がする。特に不思議少女。
平成二十年十月二十日
日本では悟りすまして「大人の對應」の類が出來るやうになる事が「達人」の技として珍重されるけれども、だからこそ「中二病」等と言はれて正義だの何だのと言ふ人間を「ガキ」呼ばはりして嘲笑する傾向が生まれる訣だ。が、果してそれが良い事なのか、と云ふ疑問に、「大人」の方々は答へて呉れない。さう云ふ疑問を持つ事自體が「子供」のする事だとして嘲笑すべき理由とされるからだ。が、果してそれで良いのか。
と云ふ事を改めて言つてみるのは、ただ單に『とある魔術の禁書目録』に手を着けたから。
正義だの何だのの議論に可なりひつかかる箇所があつて、例へば宗教に對する評價一つとつて見ても俺の信條には反する訣で、smallballの山口さん邊なら受容れさうな解釋をしてゐるのだけれども、ならこの本を詰らないと簡單に切つて捨てられるかと言ふとさうでもなくて結構面白く讀める。同意出來ない點、贊成出來ない點が「ある」事を承知の上で、さう云ふ事も「ある」と認めた上で、それでも面白い部分が「ある」と評價する事は可能。その程度の「藝當」が出來なければ大體本なんて――他人の文章なんて讀めたものではないだらう。そこから先で好き嫌ひに基いて「本を買はない」等の對處の仕方は自由。インデックスは二卷と三卷を買つて來た。しばらく暇を潰せさう。

平成二十年十月十九日
Operaは何時からこんなに重くなつたんだ。8から9になつてからだと思ふんだが、無駄にがりがりがりがりHDDにアクセスするし。重厚長大化は「世界最速のブラウザ」の「進化」としてはあり得ない筈だが。
と言ふか、9になつてOpera不安定過ぎるだろ。なんで安定化に力を入れないんだらう。
平成二十年十月十九日
Latest topics > JPOP王道進行とウンコ曲と「違いが分かる人」 - outsider reflex
演劇の場合も、「王道」(この言ひ方がいいのか何うか)として一つのパターンがある事が知られてゐる。それは「悲劇」と云ふ型で――また「喜劇」として知られてゐる御芝居でも、實は「ハッピーエンドになつた悲劇」と云ふ事が結構ある。と言ふより、喜劇として通用する内容であつても、最後にヒーローの死が出現する時、それは悲劇になる。
シェイクスピアの御芝居はこの「喜劇/悲劇」のパターンに則つて作られてゐる。ソフォクレスのオイディプス王やアンティゴネ、といつたギリシア悲劇。オスカー・ワイルドやバーナード・ショー、J.M.バリ、……。まあ御馴染み福田恆存が譯した御芝居は大體パターンが決つてゐて、一つの型の中で話が展開してゐる。
が、さう云ふパターンの御芝居は、日本で作られた演劇には存在しない。能・狂言の類、近松の淨瑠璃や歌舞伎、これらの日本の演劇には、ヨーロッパで多くの人に支持されたパターンが存在しない。
――が、悲劇と云ふ一つの偉大なパターン自體、ヨーロッパでも近代に至つて危機に瀕し、現代には存在し得なくなつてゐる、と云ふ事が指摘されてゐる。大袈裟に言つたけれども、J.スタイナー『悲劇の死』を參照の事、それだけの話。
ただ、現代に於て、悲劇のパターンに則つた作品がヒットするか何うかとなると、甚だ疑問であつたりする。
コードギアスが割と頑張つて悲劇な話を作つてゐたのだけれども、何うも大ヒットにならなさうな氣がする。もつとも、ちやんとした悲劇として「なつてゐる」かと問はれれば、結構疑問な作りになつてゐるのも事實で、福田恆存「解つてたまるか!」と同樣、古典的な悲劇的死と見るよりは、近代的な自殺であつたと看做した方が正確であらうと思はれる。

平成二十年十月十七日
PCを使ふやうになつて十五年經つけれども、PCが少しも進化してゐない事には驚かざるを得ない。CPUが速くなり、メモリやHDDの容量が増えた――量的な増大があつただけで、質的な變化は全くない。
と言ふか、未だにHDDがメインのストレージとして使はれてゐるんだぜ。誰もをかしいと思はなかつたのだらうか。だつて、HDDなんて全く信頼出來ない記録裝置なんだから。HDDは、何時故障してもをかしくない、纖細な機械だ。こんな物の上に今のPCは依存してゐる。をかしいと思はないか。明かにをかしい。
いつも使つてゐる、今朝までは何のトラブルもなく動いてゐたPC・無名戰士二號君改(推定)を夕方起動したら、突然HDDがをかしな音を發して起動しなくなつた。再起動をかけたら、今度はブート中にWindowsがchkdskを走らせようとする、が、其處で止まつてしまふ。仕方がないから最う一度再起動をかけて、chkdskをキャンセルすると、今度は普通に立上がる。訣が解らない。しかも、ここでをかしくなつた筈のHDDにアクセスして見ると、普通に中が讀める。改めてchkdskをかけると、何の問題も報告されず終了する。何なのだらう。
平成二十年十月十七日
CSのヒストリーチャンネルで「決断」をやつてゐた事を今日になつて發見。既に二十三話まで進行してゐて、それも途中。「決断」は、黎明期のタツノコプロが制作したTVアニメーションで、二クール、内容は大東亞戰爭における樣々な「決断」を描く事にある。二十三話は硫黄島の話で、栗林中將の「決断」を扱つてゐた。
「子供が見るもの」と未だに言はれ續けてゐるTVアニメに屬するが、「決断」は、のちにお子さま向けアニメで知られる事になるタツノコがガチで戰爭のドキュメンタリーをアニメーションで制作した番組で、児島襄原作・監修。とてもではないが「お子さま向け」等と簡單に言へる内容ではなく、昭和四十年代當時の状況もあつてそれなりに抑制はしたさうだが、飽くまでドキュメンタリーと云ふ事で未だに通用するやうな内容になつてゐる。
Wikipediaでは單純に高く評價してゐるが、何かの雜誌で讀んだ記憶に據れば、この番組、實際にはさすがに視聽率が伸びず、制作側も困つたらしい。斬新な演出、效果が使はれてゐるが、時代が時代であり、それほど繪が動いてゐるものでもなく、どちらかと言ふと「紙芝居」状態に近い。
しかし、内容面では今でも結構鑑賞に堪へるもののやうだ。前に知つてゐれば全部録畫したのに。
君は「アニメンタリー決断」を知っているか

平成二十年十月十六日
泥沼日記 平成二十年十月――「平成二十年十月十六日木曜日」
高崎はトンデモの人だから……電波を受信してゐるとも言ふ。
と言ふかさ。

『かなづかい入門』に對して、反論はなかなか難しいだらうと私は感じてゐる。

こいつは何を言つてゐるんだ。
白石は歴史的かなづかひの本質を無視してゐる。それゆゑ、白石の歴史的かなづかひ批判は底が淺い批判にしかならない。ところが、字音假名遣にしか目が行かない高崎もまた歴史的かなづかひの本質を輕視してをり、その爲、白石の缺點が認識出來ない。
既に「書肆」の方で書いたが、白石の『かなづかい入門』は、嘗ての江湖山の歴史的かなづかひ批判と全く同じ缺陷を持つ。即ち、てにをはのかなづかひと用言の活用語尾のかなづかひに關する議論を缺いてゐる。この事は、江湖山に反論して福田恆存が早くに指摘してゐるが、福田氏の文章を白石が無視した爲に、白石は江湖山の誤をそつくりそのまゝ繰返してしまつた。
で、字音假名遣が大好きで、非字音の歴史的かなづかひに注目する一般的な正かな派の人間を憎惡してゐる高崎には、一般的な正かな派にとつては常識である福田氏の指摘が知識としてない。だから白石の「原則論」にあつさり欺されて、反論はなかなか難しい等と書いてしまふ。
表音主義者の主張は「古代は發音通りだつた」から「現代も發音通りなのが正しい」と云ふものだ。高崎は字音假名遣に注目してゐるが、字音假名遣とは古代における支那語音を日本語の音韻に基づいて書表す際の決りだ。實際には字音假名遣は「假名遣」ではなく、或意味發音記號だと言へる。字音假名遣主義(?)とは、一種の表音主義であり、決して正かな主義ではないのだが、高崎にはそれを認識する事すら出來ない。
と言ふより、實は高崎は表音主義にシンパシーすら感じてゐるのだ。

どうやら私は「表音への怨恨」を核にした擬似宗教を相手にしてゐるらしい。

ところでこの高崎が、こんな事を言つてゐる。

「表記法」そのものについて何か考へてゐるとは思へないのである。

なあ、これ、擬似宗教等と「信者」批判をやり、著者の論點を纏めた擧句、ただ、これは「歴史的假名遣の信奉者」の實態をあまりよく捉へてゐないと、私は思ふ。等と言つた人間の言葉として「あり得る」のだらうか。
高崎よ、あんたは「信者」論をやつてゐるぢやないか。「表記法」そのものよりも「信者の分析」とやらを問題にしてゐるぢやないか。……自分で自分の事ををかしいと思へないのか。さうだらう。あんたはトンデモの人だ。反省する能力を決定的に缺いてゐるのだ。「喜」の字と同類だ。
――呆れて物も言へないが、斯う云ふ人物に國語問題協議會は平然と文章を書かせ、機關誌にそれを載せてゐる。ちよつと何うかしてゐると思ふ。
平成二十年十月十六日
「現代仮名遣」がなんとか實用の域に留ってゐられるのは、漢字のおかげだけではない、「は」「へ」「を」が歴史的かなづかひのまゝだからだ。現代の日本語で頻出するこれらの助詞を歴史的かなづかひのまゝにしておいたから、それ以外のところが表音的でも「現代仮名遣」はかなづかひらしく見える。もしこれらの助詞も「發音通り」と最初に定めてゐたら、「現代表記」は強い反撥を受けた事だらう。
この、今でも生きてゐる歴史的かなづかひの「は」「へ」「を」のみならず、一般に「辭」と呼ばれる語――てにをは、及び用言・助動詞の活用語尾に擴大して、歴史的かなづかひが必要だ、と云ふのが、俺の主張である訣だが、高崎は、このやうな目に見える部分での假名遣は全く重要でない、寧ろ目に見えない部分に存在する「字音假名遣」こそが重要である、とひねくれた事を言つて・變つた事を言つて、自分がさも頭の良い人間であるかのやうに見せかけようとしてゐる。誰が信じるか馬鹿。
「詞」と「辭」を區別して、「辭」における假名遣は必要である、と俺は言つてゐるが、これは福田恆存の説でもある。ところが高崎は文法を馬鹿にし、文法に「拘る信者」を嘲つてゐる。しかし、高崎の「字音假名遣こそが重要」説は、學問的・學術的な根據のある説か。
相對性理論を否定する連中と、文法を否定する高崎とは、良く似てゐる。理論を馬鹿にし、自分が如何にも「常識」的に判斷を下してゐるかのやうに見せかける邊、そつくりだ。彼等は自分逹が「常識的」だと心から信じてゐるから、合理的な説明をしようとする「こちら側」の人間を嘲つて、合理的な考へ方を根本的に否定する。斯う云ふトンデモの輩とは、話が通じない。惡いのは全面的に彼等だが、彼等は他人を惡人にする術だけは優れてゐるから、言爭へばこちらが馬鹿を見る。「喜」の字なんかと言爭つて――と言ふより、連中から一方的に罵聲を浴びせられて、つくづくさう感じたものだ。
大體、他人の事を「信者」呼ばはりして侮辱するやうな連中は、自分逹こそ電波を受信した狂信者だと言つて良い。連中、理論より人の方が氣になるのだ。
平成二十年十月十六日
漫録「平成20年10月17日」
bodyのスタイルをdisplay:noneと指定するとブラウザには何も表示されない訣だ。
平成二十年十月十六日
2008-10-15 - 科學の剃髮
めも。讀む氣力がある時に讀む。

平成二十年十月十五日
ブラウザに実際に表示されるのは,HTML文書のどの部分?:ITpro
「bodyが正解」と大嘘を言つてゐる。
ITpro
解答で例えば次のようなHTML文書があったとします。なんて言つてゐるが、この時點でこの解答がをかしい事は明か。最初にその「例」を示しておかなければそもそも問題として成立しないのだから、この解答の示し方は「後出しじゃんけん」の類に當る。最初に「このHTML文書では」と、條件をきちんと示してゐるならば、問題として成立つ。しかし、今の場合、さうではない。
だから、解答に示されてゐる以外のHTML文書を前提に答を考へても、何の問題もない。
<title>title</title>
こんなHTML文書だつたら何うだらう。bodyの中身がないんだから、Webページに表示される文字は何もない事になる。これでも「答はbodyだ」と言張る積りだらうか。もちろん、暗示的にbodyは「ある」訣で、空白と云ふ内容をブラウザは表示すると言張る事は考へられなくもないが、ちよつとそれは形而上學的に過ぎる解答だらう。IT的にはもつと常識的な解答であるべきだ。
HTML4.01 Framesetでは、そもそもbody要素がオプションで、bodyがないHTML文書があり得るのだから、出題自體が誤。もちろん、noframes要素の中にbodyを書けるけれども、、フレーム對應のブラウザでは表示されない。
平成二十年十月十五日
「IT Pro がまたやっちゃった」@水無月ばけらのえび日記
どうでもいい雑記その235 : 雑記帳 : der Gegenwart
平成二十年十月十五日
と言ふかさ、http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20081003/316108/をW3CのValidatorに投げるとErrors found while checking this document as HTML 4.01 Transitional!になるんで、このページのHTML文書がそもそも間違ひ、このように,WebページはHTML文書で書かれていますが,なんて書かれてゐるが、ブラウザは「HTML文書ではない」ものを表示してゐるんだよ――とか昔は嫌みを言つたものだが、HTTPヘッダでtext/htmlと稱してゐるのだから云々。
平成二十年十月十五日
と言ふか、ブラウザに実際に表示されるのは,HTML文書のどの部分?実際にページとして表示されているのは,どのタグで指定した部分でしょうか。とは意味が違ふ質問だ。
何時如何なる場合でも「ブラウザに表示される」要素と言へばtitleだが、しかし、「ページ」なるものに「表示される」か何うかと言へば、話は全然變つてしまふ。この「ページ」なる概念、以前から言つてゐるけれども無茶苦茶曖昧で、具體的に何を指すのかさつぱりわからない。もちろん、ITProや出題者の連中も、一人だつてわかつてはゐないし、説明も出來ない。「いや、だから、表示されてるだろ」とか言返されるかも知れないが、ダイナミックな「表示されてゐる」と云ふ事とスタティックな「ぺーじ」なる概念とは全然別物だ。さあ、ぺーじつて何ですか。説明して下さい。
また、ブラウザブラウザと簡單に言つてゐるが、どのブラウザかをはつきり言はないのは何なのだらう。Internet Explorerとlynxが同じウェブブラウザと云ふジャンルに屬するプログラムである事は、論ずるまでもなく事實で、lynxでは「ぺーじ」の中にtitleが表示される、と言張る事だつてできる表示になつてゐたりする。
平成二十年十月十五日
ptj スタッフブログ
ITProの愚問を出題してゐた連中の「ブログ」。いろいろひどいな。ひどいと言ふかイタいと言ふか。
何處かの世界ではミスは「學者生命」の危機なんだよ。ITの世界は甘いぜ。笑。

平成二十年十月十四日
ウェブ上での「義」の活動は、多くの正義派の方々の御協力の御蔭で、封じ込められて來てゐます。皆樣には感謝してゐます。
平成二十年十月十四日
今囘の「義」の、俺個人を狙ひ撃ちしようとして規模が著しく小さくなつた攻撃を見て感じたのは、十年前或は五年前と比べて、今のウェブが相當に變質したと云ふ事だ。即ち今、ウェブで人の評判が、或はウェブサイトの評判が如何にして決定するか、と云ふ點で、ほんのちよつと前と今とで、大きく違ひが生じて來てゐる。
少し前までは「ほーむぺーじ」を作る事が當り前で、作つた「ほーむぺーじ」はリンク集なり何なりに登録する事で世間に知られるやうになつた。ところが今や、リンク集は既に存在意義を失ひつゝある。現在も、例へば「小説家になる」とかいつたテーマに基づいてリンク集を作つてゐるサーヴィスもあるが、それはコミュニティのおまけみたいなものでしかない。現在はSEO――サーチエンジン最適化と言はれるやうに、基本的にGoogleとYahoo!の檢索でひつかかるやうになる事が重視されてをり、檢索エンジンでの特定キーワードでの評價を如何にして高めるかが問題になつてゐる。また「個人サイト」自體がジャンルとして消滅しつゝあり、個人が運營する「サイト」は「ブログ」に集約しようとしてゐる。リンク集にしても「ブログ」の「サイドバー」邊に「注目してゐるサイト」として表示されるやうになつた。
「個人サイト」が消滅して「個人のブログ」が主流になる。「リンク集に登録する」のが意味を持たなくなつて「サーチエンジンで檢索にひつかかる」事をめざすやうになる。――「Web 2.0」と云ふ奴だが、キャッチコピーとして如何かと云ふ問題は兔も角、ウェブのトレンドが大きく變つた事は否定出來ない。
斯うした状況下、「評判」の決定には、「ブログ」における「口コミ」が重大な要素となつて來てゐる。既にこんな事は何度も指摘されてをり、今さら俺が言つても遲いのだが、しかし、この「ブログにおける口コミ」が「ウェブサイトやブログ・或意はサイト主宰者の評價」に繋がる状況で、「義」のやうな惡意の人間の活動し得る領域は狹められてゐると言つて良い。檢索エンジンの評價は、Googleを見ても判る通り、精度が上つてゐるやうで、しかし例へば「野嵜健秀」で檢索するとアレクセイの惡意の怪文書が一番にひつかかるやうに、相當變なものであつたりする。が、「ブログ」での評判の場合、既に「どこ」「誰」或は「どんな問題・テーマ」と云ふ事が判つてゐる必要はあるが、多樣な意見が「ある」事がすぐに判明する状況になつてゐる。
「ブログ」サーヴィスを利用して、無害な日記を書くケースも多いが、「はてな」の「ブログ」サーヴィスの利用者は「問題意識」が高く、また、さうした「問題意識」の顯れた記事に就いて、「はてな」は樣々な方法でフォローを行つてゐる。この點、「はてな」の「ブログ」サーヴィスは他のサーヴィスと異るが、割と社會的な問題・ウェブに於ける問題について、「輿論」を形成する傾向がある。
「ブログ」や「ブックマーク」等で「輿論」が形成され易い事もあつて、何らかの「問題意識」に基づいて作成される「ブログ」は「ブログ」その他の「はてな」のサーヴィス上で割と話題になり易い。ところで、さうした場での評判が、「ブログ」なり何なりの評價を決める事は最近、多いのでないか。
「自動登録」型のリンク集に「義」が出たら目な内容でうちを登録してうちの評判を落さうとしてゐるらしいのだが、既にその種のリンク集は一般に閲覽すらされなくなつてをり、結果としてさう云ふところのコメントだの何だのは、一般の評價を左右し得ないやうになつてゐる。現在は「ブログ」界での評判がサイトやサイト制作者の評價を決めるやうになつて來てゐる訣で、ところが斯うなると、「義」のやうな一人の人間の劃策が效を奏しなくなりつゝある。既に正義派の方々によるフォローの文書がウェブで何件も存在するやうになつてゐるが、あゝ云ふのは個人の判斷によつて作成され、機械的に生成されはしない。人の判斷を通して作成されたコンテンツは、割と信頼出來るものと見做される。が、さう云ふ判斷を、粘着一人が何う斯うしようとするのは、無理だ。
もちろん、人の判斷は神のそれと違つて絶對ではないし、常に正しいと言へるものでもない。だから輿論は必ずしも信用はできない。だが、機械的に生成されるコンテンツを一人の人間が操作して、「輿論」を形成しようとする事が出來た時代と、今のやうな多くの人が實際に判斷を示して、輿論を形成する時代とでは、今の方がまだしも結果として生成される一般的な價値判斷は、まともなものとなつてゐるだらう。
「はてな」のやうな、一往それなりに信用できる人々の意見が集約され、まとめて見られるサーヴィスが提供され、ウェブでの輿論形成の過程でそれなりに重きを置かれる今の状況は、そんなに惡くないものだと思ふ。掲示板で言ひつ放しの罵倒が書込まれる、自動登録のリンク集に惡罵・嘲弄のコメント附きで登録される――さう云ふ事態は今でも「ある」訣だが、さう云つた事が相對的に無視され、默殺されて、多くの人の判斷に影響を及ぼさない状況が生成されつゝある。それは良い事だ。
2ちゃんねるなんかでも未だに活發にスレが立てられ、「議論」が行はれてゐる訣だが、自演だの何だのが疑はれる状況で、案外、政治や思想の板の意見は信頼されなくなりつゝある。誰もが匿名で書き込める掲示板での發言が、輿論を形成する事は、今後、どれだけ「ある」だらうか。よつぽど結論がはつきりしてゐる非道い問題でない限り、匿名掲示板での輿論形成が重大な結果を齎す事はあり得ないのでないか。と言ふより、今までも實際、さうだつた。アンチ・粘着の類が立てるスレも現在は「隔離スレ」扱ひであり、まともに相手にされない、と云ふのは、或意味、壺の住人も「解つてゐる」のだらう。VIPが大人氣なのも、結局、匿名掲示板の「正しい使ひ方」が精々さう云ふ「馬鹿をやる」事であると一般に認識されつゝあるからだらう。
今や、調べものをするのに入口としてサーチエンジンを使ひ、物事の評價を知るのには檢索してひつかかつた「ブログ」からリンクを辿る、と云ふのが便利になつてゐる。サーチエンジン自體での評價は、必ずしも當てにならない、と云ふのも常識になつて良い。一方で、「リンクを張りやすいシステム」としての「ブログ」が「輿論」形成に重要な役割を果しつゝある。何れにしても、意圖的に「輿論」を操作できない状況が今のウェブには作られてゐる。この點は今のウェブは以前よりも増しになつたと言つて良い。
匿名掲示板も「ブログ」の隆盛で、以前ほど顧みられなくなつた。2ちゃんねるは依然、ユーザが多いけれども、殊に政治・思想方面で信頼性の低い事も常識となりつゝある。一方、ネタを披露するには匿名の掲示板は樂しいシステムであると知られるやうになつた。その爲、人が増えて、ネタのレヴェルが全體として低下してゐるのは否めない。勘違ひしたネタを、純然たるネタ掲示板に持込んで、場の空氣を惡くする人も増えた。結局のところ、システムの問題もさる事ながら、人の問題が大きい、とは言ふ事が出來さうだ。當り前の結論で長々と書いてみたが大して面白くない。まあ、寢る前に適當に書流したものだから、眞面目に讀まないでいいです。要は「粘着やアンチもやり辛くなつただらうな」と云ふだけの話。
平成二十年十月十四日
再びウェブ・マルチカラムに対する疑問等に応える (agenda)
LCPを表示させておいてブラウザの幅を變へてみてね。あんまり深く考へないで作つてゐるんだけれども。
平成二十年十月十四日
たまにコミュニケーションをとらないで一方的に誹謗中傷を加へる事を當然と思つてゐるzak_kや「義」みたいな人間がこの世には存在するから人間は嫌なものだ。
だが、このやうな人間が存在を許されてゐる事實を思ふ時、別に俺だつてそんなにコミュニケートする努力なんてしなくたつていいやと安心したりもする。普通にやつてゐれば何うあつても少くとも連中よりは増しだと思へばさうさう無理な努力なんてしなくても。
平成二十年十月十四日
と言ふかさ、世間の人に迷惑が及ばないやうに、俺一人だけが嫌な思ひをするやうに、「義」が嫌がらせをしてゐるのなら、世間的には「何もない」訣で、何も問題にはならない。俺一人が犠牲になればいいだけの事だ。
平成二十年十月十四日
「HTML原理主義者」を笑い飛ばせ (agenda)

以上のような疑問は、ある仮説を立てるとうまく説明できる。つまり、HTMLの文法にうるさい人を「HTML原理主義者」と揶揄して笑っている人たちは、ウェブページをHTMLで書いていないのだ。仮にそれらの一見HTMLな非HTMLを総称してFMLと名づけよう。FはFusigiのF、FantasyのF、FreeのF、なんでもいい。FMLインスタンスを書いていたのに、それは「HTMLで書くべきだ」「HTMLの文法に違反している」と言われたとしたら? それは確かにHTML原理主義者と揶揄する理由として、もっともなものだ。

HTTPヘッダでContent-typeがtext/htmlな文書はHTML文書なのでは。
http://www.ietf.org/rfc/rfc2616.txt
ハイパーテキスト転送プロトコル -- HTTP/1.1
HTMLとして表示したい場合は必ずtext/htmlで出力してください - Web標準普及プロジェクト
hxxk.jp - text/html と XHTML 1.1

平成二十年十月十三日
気に入ったインターフェイスを使ひ回せれば一番なのに - 雑念雑記はてな出張所
HTML5だとユーザスタイルシートでサイドバー消せるんだよな。
平成二十年十月十三日
日記という名の文書 -EXTRA- 2008年10月分 - お化け小屋敷
平成二十年十月十三日
言葉の救はれ――福田恆存論: 福田恆存戯曲全集 全5巻・別巻1
現代演劇協会
下(現代演劇協会の告知)がオリジナルのテキスト。上(前田氏の「ブログ」の記事)は轉載。轉載なら轉載と書けばいいのに。と言ふか著作権侵害だろこれ。協會が文句言ふ事もないだらうけど。なんで出典すらも明記しないんだらう。前田氏が出版したのかと勘違ひした。
と言ふかリンク張ればいいだけの話なのに何でテキストパクるんだよ。
福田 逸の備忘録―独断と偏見 : ご案内二つ
平成二十年十月十三日
休まない馬鹿くらゐたちの惡いものはないんだよ。
平成二十年十月十三日
連休なので「義」が大暴れ。俺のメールアドレスを使つてあちこちのサーヴィスに登録をしたり、出たら目な内容のメールを送り附けたりして、嫌がらせを働いてゐる。

平成二十年十月十二日
横書きのマルチカラムと横スクロール (agenda)
平成二十年十月十二日
俺なんかはウェブの文章は流し讀みするものと心得てゐて、だから長文でも何でも文とか段落とかの頭の部分しか見ない癖が附いてゐる。
さうなるとマルチカラムになつてゐなくても餘り問題ないと言ふか寧ろ一カラムでずるずる上下にぺーじをスクロールした方が都合が良かつたりする。
平成二十年十月十二日
と言ふかさ、例へば俺の文章なんか、舐めるやうにして隅から隅まで讀むのつて最う粘着くらゐしか考へられないし。
そんなに叮嚀に讀まなければならないほどちやんとした文章がウェブに幾つある?
平成二十年十月十二日
リンクについての雑多な記事2
實は「リンクを張るのは自由だが、貼られたリンクを辿ってくる人のアクセスを技術的に拒否するのも自由」と云ふ「第四の主張」をする京王ファンサイト方面のめぐみるくなんて人もゐて、さう云ふ人の方が問題だつたりする。

無断リンク等に関するトラブルは、私の見る限り最近はかなり減ったようには思えますが、 それでも結構な頻度で起きています。その大半はリンクをしたことでリンクをした側が謂れのない罵倒を受けるというもので、 最悪の場合それでリンクしたサイトが閉鎖することもあります(リンクされた側ではなく、リンクした側が閉鎖する、です)。

 しかし、大半の場合そういったトラブルは多くの人の目には触れません。そして往々にしてそういったトラブルは罵倒した者勝ち、 サイトを閉鎖させた者勝ち、といった結果に終わります。

なぜかうちが京王9000系とかのファンサイトをやつてゐるめぐみるくなる人物から嫌はれてゐて、こつちから張つたリンクを辿つてアクセスした人が變なところに飛ばされるやうになつた(事情を知りたい人はぐぐるなり何なりして、「あつち」のソースを見るなり何なりする事。)。要はLCPの「鉄道ファンサイト」カテゴリからリンクを張つたのが「技術的」に無意味にされたのであり、これでは最早リンク集として意味をなさない。以來、LCPの「鉄道ファン」カテゴリは廢止。LCPでは「鐵道ファンのサイトには二度とリンクをはらない」と明記せざるを得ない状況になつた事がある。「リンクを張つたら張つた側が閉鎖に追込まれた」訣だ。
めぐみるくなる人物が何を意圖してこつちからリンクを辿つて行く人のアクセスを彈いたのかわからんから(俺の事が嫌ひらしいが、それと「俺のサイトの讀者のアクセスを彈く」事と何んな因果關係があるのか全く理解出來ない)、「無斷リンク」と關係あるか何うかもわからんけど、「技術的にリンクを無效にする」と云ふ「事實」がある訣で、これが「無斷リンク拒否」の人に大々的に採用されれば問題は更に拗れる。JavaScriptでリファラを見てうちからのアクセスだつたらYahoo!とかに飛ばしてゐたんだが、この種のアクセス彈きをやるのに、めぐみるくと云ふ人は何の「良心の呵責」も覺えず、寧ろ「良い事をしてゐた」と滿足してゐたらしい。相當俺に恨みを持つてゐたらしいが、俺には全然身の覺えがないから、只の逆恨みの類にしか思へない。大體俺の粘着なんかも俺を逆恨みしてゐるだけだし、本当に困つた事だと思ふが、斯う云ふ事をするのが人間と云ふものらしいから仕方がない。
取敢ず、鐵道ファンの人はうちに登録依頼しないやうに。俺は鐵道ファン一般に嫌な印象しか持つやうになつたから何度依頼されても「鉄道ファンサイト」である時點で「リンクを張る」事を拒否する。「リンクしてやらない」と云ふ「報復」も「あり」だらう。うちからリンクされたければ「鉄道ファンサイト」の看板を降ろす事。出來れば鉄道關係の記事は削除するのが望ましい。
平成二十年十月十二日
khipu :: かなづかい入門 - <その3> (tetu@"aqua"internet版rj別館)

普通名詞の「事」は漢字書きされて良い。事は重大だ、急いては事をし損じる、事の始まりは等々、普通名詞の「事」には事態、事件、仕事等の意味がある。漢字「事」は会意形声文字である。原義はつかへる、役人が公につかへるのである。仕事の意味もそんなところから出てくる。それに対して、形式名詞は連体修飾語が来ることによつてその存在を許される。試みにこの文章を見よ。「良しと思つたこと」「連体修飾語が来ること」、この「こと」のみを独立させよと言つても無理である。本来的に意味を持たない名詞であるから、「こと」の単独使用はできない。この意味用法と漢字の乖離は大きい。だから、形式名詞「こと」は仮名書きすべきであると私は考へる。

意味がない區別だ。少くとも、「形式名詞は全て例外なしにかな書きすべきである」と云ふ主張が成立たない以上、「こと」に限つて「かな書きしなければならない」と云ふ主張も論理的に成立たない。
昭和三十五年二月二十九日訂正五版發行の国語学会編『国語学辞典』の「形式名詞」の項(執筆は阪倉篤義氏)を見ると、「こと」が例文の中で現はれ(実質名詞の「事」が漢字書きであるのに對して形式名詞の「こと」がかなで書かれてゐる)、その他「ひと」「かた」「やつ」「よし」「ふし」「ところ」「とき」「あいだ」「ゆえ」「はず」「件」「儀」「体」「方」「節」「点」「段」「分」が單獨で擧げられてゐる。また松下大三郎が「良いのがない」の「の」もまた形式名詞とすべきであると主張した事、佐久間鼎が「ほど」「くらい」「だけ」「ばかり」「まで」等の語も形式名詞的用法があると指摘した事を示してゐる。ところが、これら例示された語の表記、かなであつたり漢字であつたりするのだが、その遣ひ分けの基準は示されてゐない。辭書でありスペースの都合もあつたのだらうが、ただ結論だけを提示されても、理由は解らない。何らかの基準が阪倉氏には「あつた」と考へても良いが、よくわからない。
が、「形式名詞は假名書き」と云ふ「一般的法則」は、單純には成立しない。
殊に實質名詞であつても假名書きする事例はあり(時枝誠記『日本文法口語篇』七十ページ「ゆとり」「あはれ」)、「實質名詞」=「漢字表記」、「形式名詞」=「かな書き」と嚴密に分ける事も出來ない。
そもそも實質名詞と形式名詞を嚴密に區別しなければならない理由は全くなく、時枝氏の言語過程説の文法では「形式名詞」もはつきり詞の中に含められてゐる。抽象的であつても語として概念を持つのであり、詞に分類される訣であるが、ならば漢字で表記する事に問題はない。寧ろ「事」に關してはもともと實質名詞の「事」出自であるのであり形式名詞でも「事」と漢字で書くのが本則、「こと」とかなで書く事こそ例外だ。
tetu氏は、「漢字で書く傾向」の出現をワープロ普及が原因だと極附け、非難してゐるが、何なのだらう。ワープロ普及を憎惡してゐるとすれば、表音主義者と同じであり、tetu氏は歴史的かなづかひで書きながら「敵と内通してゐる」事になる。
tetu氏にしても、それほどちやんと考へてはゐない。

事は重大だ、急いては事をし損じる、事の始まりは等々、普通名詞の「事」には事態、事件、仕事の意味がある。

山田孝雄が「など」を副助詞として分類してゐる(前掲『国語学辞典』)。副詞、連體詞は時枝文法でも詞に屬する。が、時枝氏『日本文法口語篇』で「など」は「限定を表はす助詞」に分類されてゐる(223ページに例示)。何れにせよ、「等」は必ず名詞に附く事でその存在を許されるのであるから、tetu氏の立場なら、「等」ではなく「など」とかなで書くべきだ、と云ふ事になる。「など」のみを独立させよと言つても無理である。本来的に意味を持たない名詞であるから、(名詞ですらない)「など」の単独使用はできない。tetu氏は今、なぜ漢字で「等」と書いたのか――要するにIMが変換するからである
個人的には、形式名詞と言はれても「事」や「筈」については或種の意味・概念があると見て、詞として漢字で表記したい。「など」についてもさうだが、しかし、この邊のはつきり詞と辭との間の區別が出來ない語と言ふものの存在を俺は認めるので、「どちらが本則」等と言つた極附けはしない。と言ふより、形式名詞に限らず、どの語でも、その場その場で臨機應變に書分ける態度も「あり」だと思ふ。が、一概に「形式名詞の『こと』は仮名で書かなければ間違ひ!」みたいな主張は認められない。形式名詞は名詞であるから漢字で書くのが本則だとすら俺は思つてゐる。同じく、「できるだけかなで書くべきだ」と言つて、白石氏みたいに變に假名だらけの文章を綴るのも認められない。福田氏なら「原稿料の荒稼ぎ」と言ふところだ。もつとも、斯うした皮肉を皮肉として認識出來ない頭の惡い日本人もゐて、それで日本語にすら官僚主義が横行する事になる。
平成二十年十月十二日
チキンの度合い - カナかな団首領の自転車置き場
二十三時十七分 - smallball
「チキン」か何うかを氣にするのつて――と言ふか、他人を「チキン」だと言つて罵るのつて、要は「俺はチキンではないぞ」と威張るのが目的なんだけれども、それを匿名でやつてゐるのつて「誰からも認められない」事を承知でやつてゐるんだから「自分で自分が立派であると確認する」だけの事になる。ナルシシズム。
平成二十年十月十二日
いただきものの赤ワイン(イタリア産)呑んで醉つ拂つてゐるので今夜はろくな更新できないよ。期待してゐる人ゐないと思ふけど。
フランス邊でのんだくれる人が出てくる理由がわかつたやうな氣がする。本場のはおいしいもの。曰ふぁんきー。

平成二十年十月十一日
民主黨の鳩山が「總理は解散総選擧から逃げてゐる」と言つて非難したとNHKのニュースで言つてゐた。「逃げてゐる」なんて言葉は粘着の言ふもので、民主黨が自民黨に粘着して權力を奪はうとしてゐる連中の集りである事を端的に示してゐる。
民主黨の連中は、所詮は權力を持つてゐる自民黨の連中を妬んでゐるだけで、理想等何も持つてゐない。一方の自民黨も同じで、理想も何もないが、現在政權にあるから「現實的」であらうとしてゐる。民主黨が政權を取れば自民黨と全く同じやうに「現實的」な政策を取る事は火を見るよりも明かで、ならば民主黨政権になつても現在の自民黨政権と何も變らない。自民が政権を擔當できるなら民主もできる。ただ「できる」だけで何の期待も持てない――一部の利權を求める連中以外。
平成二十年十月十一日
リキッドマルチカラム - the OYAKONEWS@Hatena
某さんがまた「何とか論爭」とか言つて纏めて呉れるのかな。
横スクロールより縱スクロールの方がユーザにとつては増しとか云ふ調査結果があつたよな。今の論爭ではリキッドデザインだからマルチカラムと言つても横スクロール強要なんてのではないんだけれども。
平成二十年十月十一日
Love Cream Puffで俺もちやんとマルチカラムのリキッドデザインをしてゐる訣だけれども。「ここ」の印象しかないんだなみんな。
平成二十年十月十一日
私のマルチカラム - the OYAKONEWS@Hatena

平成二十年十月十日
紋切型。
「古い事」=「因習」
平成二十年十月十日
何でも個別の人間がその場その場で勝手に馬鹿やつてゐると思つたら大間違ひなんだよ。
と言ふより、「個人的な馬鹿」なんてものは、採上げたつて何の面白みもない。そんなのを論つて好い氣になつてゐるのは、ただ人を小馬鹿にして、自分の頭の良さをひけらかして、快を貪つてゐるだけの事だ。
一見「ちよつとしたこと」であつてもそれが大きな問題の顯れ――「氷山の一角」である事を指摘するから、批評になる。
何處かの誰かのちよつとした事なんてのはただの「他人ごと」に過ぎない。そんなものを一々採上げて論ずる奴こそ馬鹿だ。
「我々の問題」として採上げるからこそ、自分自身の問題として、自分自身の態度を省みる契機になるんだ。さう云ふ指摘でなければ發言として俺は何ら價値を認めない。
平成二十年十月十日
どうでもいい雑記その232の続き、っていうか追記 : 雑記帳 : der Gegenwart
商業系のニュースサイト(インプレスとか)のマルチカラムデザインは素晴らしい。廣告がウィンドウの外に勝手に出て行つて呉れる。
平成二十年十月十日
俺の場合、長文(普通の文章)を讀む時は、讀み終つた部分のテキストをマウスで選擇して反轉させてマークする癖があるんだけれども、Wikipediaに限つて巧く撰擇出來なくて苛々する。何なんだらうあれ。使用ブラウザはOpera。
平成二十年十月十日
五時五十五分 - smallball

なンでもいいけど , 馬鹿が出たからってその馬鹿と共通項のある人間を問題視するのはやめないか?馬鹿な事やった人が日本人だからって日本人は全員馬鹿だみたいなことを書いてる人を見るとちょっとどうかと思うよ .

「馬鹿をやつた人間と同じ馬鹿を問題視するな」との意見だが「1ミリも理解できない」と云ふ奴だ、問題があるのに問題にしない、とは何う云ふ事だらう。
それから、日本人に何らかの問題がある、と俺が言ふと、「野嵜は日本人を馬鹿にして喜んでゐる!」と言つて怒り出すナショナリストがやたらゐる。何なのだらう。俺がいつ「喜んだ」んだ。その手の馬鹿に俺は迷惑を蒙つたから文句を言つてゐるのに。迷惑かけられた擧句「野嵜は喜んでゐる」とまで言はれる。俺はMか。
なんで日本人である俺が日本人の良くないところを曝露し、非難しては行けないんだ? アメリカ人や中国人、或は韓国人なら「やつていい」のか? 「惡口を言ふんぢやねえよ」と云ふ事か。「俺は自分の恥部は見たくないんだ」みたいな? それでは反省のしやうがないだらう。反省したくないのか。さうなんだらう。なるほど。それは理解できる。が、反省しない奴は駄目だらう。なぜそんなに反省したくないんだ。
やつぱり「自分に自信を持つ」だの何だのと云ふ今時流行の考へ方しか持てない人は駄目だと思ふ。反省できなくなるんだもの。自己と云ふものを滅却できる事、反省出來る事は、やつぱり人として重要だ。自分が自分がと言ふ奴はろくでもない奴許りだ。
平成二十年十月十日
Re: はてなブックマーク - マルチカラムとウェブ・ユーザビリティ (agenda)、他 (agenda)
平成二十年十月十日
八時四十二分 - smallball
なら俺を當てこすつてゐたんぢやなかったんだ。それはすまない。
平成二十年十月十日
10年前のインターネット、自分の鯖移動暦を振り返る(TexTsiTe)
なつかしいなおい。
ちなみに俺の場合、「昔」の時點で既に粘着につかれてゐたりするので「昔は良かつた」なんて思つたりしない。今だつて大して良くは無いが、粘着される覺悟とか以前に諦めの境地に至つてしまつて、精神的には昔に比べてまだ増しだつたりする。何と言ふか「何うせ物理的に危害加へられる訣ではないからいいや」みたいな。なぜか俺は昔から不眠症にだけはなつた事がない。
平成二十年十月十日
MSジョークス/いろいろなPCジョーク(その1)
これまたえらくなつかしいな。
平成二十年十月十日
今から十五年くらゐ前だと、Windowsユーザなんてそもそも「殆どゐなかつた」し、ゐてもPC-98ユーザとDOS/Vユーザに分裂してゐたから一緒くたに出來なかつた。あの頃はまだしもMacの方がめじゃーだつたんだよ。
平成二十年十月十日
俺の蒟蒻ゼリー理論の方が論理的に正しい。 - 脳髄にアイスピック
  • *1:計算ミスその1だよ!
  • *2:計算ミスその2だよ!
粘着がついてゐなくて良かつたね。
非道い奴になると「こんな計算も出來ないで蒟蒻ゼリーを語るのは傲慢である」とか「エセ」なんたらかんたらとか「ブロガー生命」が何うとか言出すから。
平成二十年十月十日
蒟蒻ゼリーは「飮込めるやうに見える形状である」時點でデザイン的に間違つてゐる。「これは飮込んでは行けない」と消費者を教育しなければならないと云ふのが間違ひ。云々。
――とか云ふ説を↓の記事を讀んでゐて思ひ附いた。
平成二十年十月十日
ユーザーにとってはUIがすべて:UIデザイン原則をソシオメディアが語る - builder by ZDNet Japan
どうでもいいけどユーザー体験(ユーザーエクスペリエンス)みたいな訣のわからない言葉は何うにかしてほしい。少くとも譯語で何とかする努力くらゐはすべきだ。何か上手い言ひ方ないかねえ。
平成二十年十月十日
アップル、「Mac OS X」の「Dock」に関する特許が認められる:ニュース - CNET Japan
OS/2のランチャもやばい存在だつたんだな。最うOS/2死んでるけど。
平成二十年十月十日
最新Webブラウザ、Web標準への対応度は? - SourceForge.JP Magazine
めも。例によつて讀んでゐない。
平成二十年十月十日
XHTML™ Modularization 1.1
めも。もちろん讀んでゐない。
XHTML M12n 1.1―REC’d - vantguarde - web:g
平成二十年十月十日
消えた「オタッキー」――オタクを指し示す言葉の栄枯盛衰(汎適所属)
たまに普通に使ふけれども。
平成二十年十月十日
何うでも良いが「言葉は時代によつて變化する」は或意味ウソ。「おたく」にしても千年以上前から存在する「宅」と云ふ語を、本來の意味とは異る意味で使つてゐるだけだ。前にも言つたけれども、全く新しい語と言ふものはあり得ないのであつて、我々は新しい概念を表現する時、常に既存の語を用ゐる。

平成二十年十月九日
マルチカラムとウェブ・ユーザビリティ (agenda)
どうでもいい雑記その232 : 雑記帳 : der Gegenwart
闇黒日記とマルチカラム (agenda)

簡単かと思ったら、HTML文書としてinvalidなことがしばしばあることに作ってから気づいたり、

直したよ。取敢ず今のところvalidだよ。こんなところで責められるとは思つてゐなかつた。
平成二十年十月九日
Operaの日本語版を使つてゐるけれどもメニューが日本語なので慣れなくて使ひ辛い。英語のメニューにするには英語版を入れないと駄目なんだらうか。
調べるのがめどいのでここで質問を投げてみる。
平成二十年十月九日
と思ひつゝPreferenceでLanguageをいぢつたらメニューまで英語になつた。
平成二十年十月九日
今オンエア中のtvk伯爵と妖精録畫ミスつた。tvkが額縁放送すると豫想してCATVのセットトップボックスと八木のチューナの二臺で豫約を入れておいたのだが八木の方でズーム入に設定するのを忘れて兩方額縁で録畫する状態に。即座に録畫中止でとらドラに豫約を振替へ。tvk死ね。
既にAT-Xの先行放送で伯爵と妖精第一話は録畫濟み。今後は全部AT-Xの録畫で濟ませる積り。AT-Xは4:3で上下に無駄な黒帶が入るから嫌なんだが仕方がない。
平成二十年十月九日
零時二十四分 - smallball
そうしか言わないのはいいが、 - ネットでのつまらない話
十七時四十八分 - smallball
「覚悟」とか言はない方がいいと思ふんだよな。
言つたら言返される「覚悟」をしておけとか。斯う云ふ事を考へる人は何でも勘違ひする傾向があつて、批判する事と喧嘩を賣る事との區別が出來ない頭の作りをしてゐる事が屡々ある。だからすぐ暴力的になるんだ。批判をされたら「御前が喧嘩を賣つて來たんだから俺も撲り返す」とか言返して、當人、自分が論理的に正常な事を言つてゐる積りでゐたりする。「喜」とか。「義」とか。
意見には批判する事が許されるし、其處では論證なり證明なりの妥當な手續きを經て結論を引出す事が認められる。それが言論の自由と云ふものだ。結論として相手の言つてゐる事が根本的にをかしいとなれば、そこでは相手の事を「馬鹿だ」と結論づけて構はない。事實なんだから。
ところが、批判と「喧嘩を賣つた」との區別が出來ない頭の作りをしてゐる人には、それがわからない。結果としてこんな「流れ」が生ずる。「喧嘩を賣つてゐる」→「惡い奴だ」→「頭の惡い奴だ」→「頭の惡い奴の言ふ事は何時でも間違ひに決つてゐる」→「喧嘩を賣つたんだから、俺だつてぶつ叩いて文句言はないだろ」→「あいつの言つてゐる事は全部間違ひと極附けてぶつ叩いてやれ」→粘着行爲。
正直、「覚悟」とか言ふのは最う精神主義で、戰爭中に竹槍しか武器がなくても鬼畜米英には大和魂で勝てるとか思ひ込まうとしたのと同じなんだよ。ところがこの大和魂の類、日本人は大好きで、だから未だに精神主義の押附けで何でもやつつけようとする。經營者に未だにゐて勞働者が困る事があるけれども、ウェブでもこの手の精神主義者が「喧嘩を賣つてゐる極惡人」に説教をして好い氣になつてゐる事がある。
精神主義者の特徴は、大體自分が一番偉いと信ずるナルシシズムを免れない事で、だからこそ居丈高に他人に説教する割に當人は粘着行爲なんかをして愧ぢなかつたりするのだが、まあ大體粘着は自分の事を棚に上げるもので、口だけは達者。「喜」なんかが典型的だが、論語讀みの論語知らずと云ふ奴だ。實際、「喜」は論語を讀んで論語の精神は全く身についてゐなかつたりする。
「覚悟」――「覚悟はあるんだろうな」とか言ふ奴。はつきり言つてこれ、やくざの言葉で、何で物を言ふ時一々やくざにならなければならないんだらうと思ふ。もちろん、やくざな人にはやくざである事は當り前だから、俺みたいに疑問に思ふ人間を××××扱ひする訣だが、××××なのはやくざの方だらう。それがわからないからDQNはDQNなのだが、何れにしてもやくざが世間の鼻摘み者である事は言ふまでもない。それが「無頼漢」だか何だか、僞惡的である事が、なんか「魅力的」に見えてしまふのが現代の俗人の常で、「粘着で何が惡い」と開き直つたりするのだけれども――斯うなると、やつぱり常識は必要だ、と言はざるを得ない。
當り前の話だが、何でも意見を言ふのは自由だし、意見によつては反論が出るのも當り前なら反感を覺えるのも當り前。ところが、ここから先が重要だが、反論を述べるのは自由だが、反感を露骨に示して攻撃を仕掛けるのは自由でない。これが常識だが、常識を失つた××××にはわからない。今の時代、××××が常識人のやうな顔をして横行するやうになつたから、この「自由ではない」事が當り前のやうに行はれてゐるけれども、良くない事だと思ふのだ。

平成二十年十月八日
一茶の父終焉の記を讀んだ。父親の死に接しての記録だが、單に哀しみを歌つただけの感傷的なものではなく、身近な人間の死にもかかはらず正しからざる態度をとる周圍の人々に對する怒りをも表現した、日本の文學史上でも非常に珍しい、道徳的な作品となつてゐる。

身後黄金北斗にささゆとも、如じ生前一杯酒と、唐も大和も人の情等しく、亡き迹にて佛事供養美美しく盡したらんより、存命の和ぐ言葉にはまさらじ。今は世下りて、他の一寸のゆがみはとがめて、おのが一尺のひがみは見えず、よろづうしろめたきがちにて、我不幸なりと思へる人だにもなかりき。

  • うけがたき人と生れてなよ竹の直なる道に入るよしもがな
芭蕉の奧の細道が日本的美或は侘び・寂びの類の觀念を表現した大人の隨筆であるのに對して、一茶のは子供じみた理想論的文章で、田舎者らしい素朴さを示し、洗練を缺きながら、寧ろ近代的な印象すらある。眞面目な性格から一茶は冷たく無分別な人々に怒りを覺えてゐるのであり、その爲正當な批判を行なつてゐるが、さうした態度は道徳的なのであり、芭蕉の「眞劍な遊び」の態度とは根本的に異る。日本では芭蕉が一度「眞劍」なものとしながら結局「眞劍」が拔け落ちた「遊び」だけが「文學」と看做されてをり、現代に至るまで「美しい」或は「遊び」として「優れてゐる」文學が正統の文學と看做されて來た。一茶のはさうした「正統」からは離れてをり、或意味、日本的ならざる文學とすら言ふ事が出來る。あるものは、ただ感情であつた。從つてその表現には眞創みがあふれ、俳文的臭みがなく、ただひたすらに自己を表現しようとするその逞しい創作的意欲の現れは、近代小説の味を多分に藏してゐる。と云ふ解題は、稍や的外れになつてゐる。ただ「俳文的臭み」がないと言ふのは、この一茶の文章が一茶の理想を背景にしてゐる爲にさうなつてゐるのであつて、その點この文章に永遠の價値がある事を示唆するのだが、同時に日本に於ては芭蕉ほどに一茶が人氣を持たない所以となつてゐる。要は「子供じみ」てゐるのが、多くの讀者の御氣に召さないのだ。
研究社學生文庫335。芭蕉の奧の細道と一緒に收められてゐる。

平成二十年十月七日
被害通知
この先に「クライアントが本當に求めてゐたもの」がまた別にあつたりする。
平成二十年十月七日
雨戸が開けられて陽が差込むと、せきせいいんこはこの上なく嬉しさうに囀る。
平成二十年十月七日
「第5権力」としてのウェブ

放送局も反対していないので、B-CASの廃止が事実上決まった。

虹裏imgの「」は誰一人信じなかつたんだけど。
平成二十年十月七日
デジタル一眼レフのボケ方が味だと言ふのならそもそもデジタルカメラのノイズがそれ自體として味であるとは田中長徳氏の意見。
35mmのフィルムで撮つた寫眞を思ひ切り引伸ばすと粒子が見えるけれども何うなのと聞かれて、だからこそ迫力があるんだよと答へる。
ズーム機能は要らないと言ふと普通の人には變な顔をされるのだけれども、一般に「いい寫眞」と感じられるやうな思ひ切りズームしてターゲットを絞つた寫眞、あれ本當に面白いか。「これを見せたい」と云ふ撮り手の意圖はよーくわかるけれども、そのおしつけがましさに辟易しない事はない。――そもそも削落とされたものの多さを撮り手は何處まで意識してゐるのか。不必要と判斷した情報を削落とし、將に「見せたい」ものだけを表現しようと思ふ。それは結構だ。だが、ならば、繪畫と云ふ手段だつてあるではないか。なぜ寫眞なのか。
慥かに、思ひ切りズームして撮つてみたいと思ふ景色も「ある」。けれども、さう云ふ場合に「あきらめる」と云ふ選擇肢はないか。偶然性もまた寫眞の存在理由の一つであるのならば、ズーム機能によつて「當り前の偶然」以上に巡り合ふ機會を増やす行爲は何うなのか。
例へば、池を泳ぐ水鳥を擴大して撮影した寫眞と、水鳥が泳いでゐる池を廣角で撮影した寫眞と、どちらが意外性を持つか。鳥の表情が寫つたズーム寫眞は、實は案外凡庸で、誰もが撮り勝ちでないか。餘り期待しないで撮つた寫眞で、池に廣がる波紋が寫つてゐるのを見て、俺は「近づかなければ小さく寫る」廣角レンズにも意義がある事を知つた。
と言ふか、寫眞に於て「作品を作る」行爲は成立つのか。寫眞の撮影では偶然が極めて重大な要素となる。ならばスナップ撮影こそが寫眞の正道であり、ズーミングは邪道でないか。
逆に、近附いて撮るならば、ズームレンズは全く不要だ。廣角レンズの場合、「近附ける」事自體が一種の僥倖であり、撮影に於て意義を持つ。
トリミングも俺は嫌ひだ。寫眞に於て情報を削落とす行爲を俺は好まない。
GRDユーザの俺は單焦點の廣角レンズ一本で十分だと思つてゐる。
平成二十年十月七日
昭和三十年代に出た現代教養文庫の寫眞入門にも、プロカメラマンは望遠よりも廣角で寫眞を撮る事が多いと出てゐるんだよ。
そもそも、もつともらしい寫眞を撮れる「テクニック」の類が廣まつて、みんな同じやうな寫眞を撮つてゐるのが何うかと思はれる。

平成二十年十月六日
喜六郎は思考囘路がショートした短絡的人間だから、人が「言論の自由」と云ふ言葉を發すれば「言葉を濫用した!」と狂喜して嘲り出すが、このやうな愚かな人間を相手に何を言つても始まらない。以下は、頭が多少なりとも柔らかくて、他人の言ふ事の意圖を理解しようと努力できる人にだけ言ふ。
俺は言論の自由と云ふものを無際限に認めた人間ではない。この事は、解つてゐる人は解つてゐるだらう。粘着行爲やら何やらの嫌がらせを認めないのがその證據だ。少くとも、議論の仕方や批判の仕方が「ある」と俺は言つてゐるのだし、その範圍内での正當な言論には自由があるし、さう云ふ正當な言論は守られねばならないと言つてゐるだけだ。それが喜六郎らには解らない。
そもそも喜六郎らが自由の概念を濫用してゐる事は、彼等が歴史的な制約を全く認めないのを見れば判る。
憲法が一度定められたら、それ以後、憲法を含む一切の法規はその最初の憲法の制約下になければならない。だから「日本国憲法」は認められず、大日本帝國憲法が生きてゐなければならない。俺の現行憲法無效論は、自由萬能の説を認めない立場から言出されたものだ。
喜六郎らは、人は時代によつて自由に憲法を定めて良い、過去の憲法の制約は存在しない、と主張してゐる。これは自由の濫用だ。
國語の表記も、歴史的に成立してゐるものを守るべきで、現代人の嗜好に合せて自由に變更してはならない。俺は表記が歴史に制約を受けるべきだと云ふ立場の人間だ。
これに對しても、喜六郎らは、我々現代人は自由に表記を定めるべきで、歴史の制約を無視しない人間は人格破綻者であり異常人であるから如何なる發言も封殺すべきである、と主張してゐる。此等、連中の主張は、自由と制約を主張すべき場面を取違へてゐるとしか言ひやうがない。
俺は、自由にも制約があり、ただ或制約下においては自由でなければならない事がある、と言つてゐる。連中にはそれが解らない。
喜六郎らの主張は、無原則であり、場當り的に他人の言つてゐる事に反駁してゐるに過ぎない。當座、勝負に勝つ、と云ふ事を連中は目的としてゐて、連中の一貫した主張と云ふものは全くない。それでは駄目なのだが、彼等はただ人の言つてゐる事をその場その場で場當り的にやつつけて快を貪る事が目的だから、自分逹の言つてゐる事に一貫性が無くても氣にしないし、批判されても反省しない。
平成二十年十月六日
デジ一嫌ひな俺つて少數派なのかな。
俺の場合コンパクトでもズーム機能要らないとか無茶苦茶偏つてるからアレだが。
平成二十年十月六日
Latest topics > 絵を描くことへのスタンスの変化 - outsider reflex
正直W3C子はもともとネタがとんがり過ぎで一般化する訣なかつたと思ふ。
どうでもいいけど未だにmeta name="description"のcontentsが自作絵、Netscape 7/Mozilla用XULアプリケーションの配布、W3C子など。になつてる。
平成二十年十月六日
デジタル放送をDRMフリーで録画
なんかえらく手間かけてるけど……。

RZ2で録画したファイルは、16:9の映像がスクイーズされた画面比4:3のMPEG2ファイルになる。 この後パソコンでCMカットと16:9への再エンコードをするので、キャプチャはできるだけ高レートで行うとよい。

以上の手順をまとめると

  1. RD-S301でデジタル放送をTS録画。
  2. RDでTSタイトルをVRに画質指定ダビング(9.2Mbps)。放送を直接VRで録画してもよい。
  3. RDの映像出力を480iにして、GV-MVP/RZ2で外部入力から録画。
  4. 得られた720x480のMPEG2ファイルをTMPGEncで「ピクセル比40:33(NTSC16:9)」で読み込み、カット編集。画面アスペクト比16:9でエンコード。

最後にTMPGEnc DVD Authorでオーサリング。

うちの場合、「TVやチューナから入力して直接RZ2で録畫(D1full/CBR3Mbps)→TDA2でオーサリング(CMカット/「映像出力設定」でアスペクト比を16:9に指定)」。手間も映像の劣化も最小限で濟む。
三十分のあにめの場合、ビットレート3Mbpsで録つておくと、CMカットしてDVD一枚に七話收まる(まれに八話入る)。低ビットレートなので微妙にぼやけたり割と頻繁にブロックノイズまみれになつたりするけれども「見られれば良い」と割切るならこの程度で十分。RD神によれば3.2Mbpsがアニメの録畫には最適だが、RZ2では設定出來ない。
TMPGEncで叮嚀に壓縮して高畫質な映像を小さいデータサイズで保存しようと云ふ意圖なのかも知れないから必ずしも惡いとは言へないけれども、所詮DVD畫質はDVD畫質なんだよな。高畫質で保存するならPV4とかを使つた方がいい事は論ずるまでもなく、それでもRZ2を使ふのは畫質的に割切りがあるからの筈。
まあ樂しく録畫ライフを送れてゐるならばそれでいいのであつて、餘計な事を言ふ必要はないんだけど。
平成二十年十月六日
昔から西尾幹二がどうして右翼から不敬だと非難されないのか不思議に思つてゐる。
「傲慢」等と言つて人格攻撃をしかけるやうな輩は、ろくな「論客」でないに決つてゐる。
西尾は松原氏に「抗議」するにも即座に「學者生命」云々と言出す。此は歴然たる人格攻撃だ。他人の人格を否定したがる人間が暴れて大きな顔をしてゐるから論壇は良くならないのだし、その惡影響を受けてウェブでも人格攻撃をしかけて好い氣になる輩が續出する訣だ。西尾の精神と噂の真相の連中の精神は同じである。
西尾の雅子妃攻撃は、西尾が皇室に何ら愛着を持つてゐない事を意味する。
西尾は餘所の家に來た嫁をいびつて喜んでゐるが、餘計な御世話と言ふものだ。
西尾は、皇室を自分の好きなやうに弄りたがつてゐる。しかし皇室は西尾の所有物ではない。三島は「憂國」で昭和天皇が自分の希望したやうに動かなかつたと言つて攻撃したが、あれと同じ事を西尾はやつてゐる。
昔「正論」に連載した自分史だか何だかで、西尾は昔天皇を「天ちゃん」と呼んだと言つてゐた。正直な事を言つた積りなのだらうが、あれを見て俺はこいつ駄目だと思つた。右翼もなんであんな皇室の權威を認めない人間を保守派の代表みたいに看做して持上げてゐられるんだらう。西尾は明かに不敬の人物で、現實の皇室を好まず、政治的に利用できる皇室が出現する事を期待してゐるだけだ。皇室を政治的に利用する事を考へ、皇室の人々の氣持を全く考へない點で、西尾は戰前の國家主義者と同じである。
平成二十年十月六日
端的に言ふと、西尾は評論家ではなくて政治運動家だ、と云ふ事。その邊でがなつてゐる街宣車の右翼と一緒。評論家なら考へるヒントを讀者に與へるが、運動家は答を與へてしまふ。

平成二十年十月五日
はてなブックマークでブクマしたら、自動でトラックバックするようにしたらイイんぢゃね? - カナかな団首領の自転車置き場
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トラックバックとスパム (agenda)
十八時四十六分 - smallball
十八時四十九分 - smallball
十八時五十一分 - smallball

使い手がどうこうではなく存在そのものが問題な道具ってのは存在するかもしれん*1が , “間違った使い方をした人間”を問題視せず道具を問題視する人ってのは馬鹿だね .

平成二十年十月五日
tvk。
屍姫 赫。額縁。0:30〜
純情ロマンチカ2。不明。1:00〜
ケメコデラックス。額縁。2:00〜
とある魔術の禁書目録。HV。2:30〜
平成二十年十月五日
何んなに正しい結論を言つてゐても、瑣末なところで少しでもミスを犯してゐるならば、アンチはそこだけをつついて殊さら論者が能なしであるかのやうに見せかけようとするものだ。
平成二十年十月五日
チェック用。
2008年秋期放送開始の新作アニメ一覧 - GIGAZINE
平成二十年十月五日
陰口 - the OYAKONEWS@Hatena
個人的な意見だが、陰口は陰口としての分際を守つて、存在すらも當事者には知られないやうになされるべきだと思ふ。見せつけるやうにわざと「ブログ」を立上げて粘着する惡質な人だつてゐる訣だが、それよりは、例へばMixiの中にクローズドなコミュニティを作つてそこで陰濕な惡口でも何でも言つてゐればまだ増しだと思ふ。
ウェブサイトで「陰口」なんて事はあり得ないんで、公開の場での發言は一つの例外もなしに全て第三者に向けてのアピールとなる。
平成二十年十月五日
早稻田大學交友廣報誌「西北の風」が先日屆いたのを今日になつて發見。
政治学研究科ジャーナリズムコース「Jスクール」が始まつたので、プログラムマネージャーの瀬川至朗氏が「ジャーナリスト養成の使命」と題して書いてゐる。

この夏、福田首相が内閣改造を発表した。たしかに新鮮味のない顔ぶれだったが、気になったのは、記者団からの最初の質問が「衆院解散」だったことだ。

ちょっと待ってほしい。いくら何でも、まずは、改造の狙いや新布陣の意味、新内閣で目指す政策についての質疑ではないだろうか。内閣改造と解散総選挙。マスコミは「政局」に関心を持つ一方、「政策」を軽視しがちである。日々の首相会見でも、改造や解散について質問が出され、新聞やテレビは、首相の一言一句を聞き逃すまいとする。

解散について、微に入り細を穿った報道が必要なのか。国民の本当の関心は、医療、年金、食料、エネルギー、地球温暖化など、山積の課題を日本がどう解決していくのか、という点にある。ジャーナリズムにも、そうした前向きの役割を期待している。

既に福田内閣は退陣し、また解散は先延ばしとなつてゐる。だからこの瀬川氏の文章は「古い」のだが、では、「古い」からと言つて、全く無意味な文章となつてしまつたと言つて良いだらうか。依然、意義はあると思ふ。
特に「ジャーナリスト」についての發言と云ふ事になつてゐるが、例へばウェブの「ブログ」を書く人も、廣義の「ジャーナリスト」として含めて良い。なぜなら、不特定多數の人々に發言するのだから、マスコミでも個人の「ブログ」でも對象は變らないのだし、ならば方法論は同じだからだ。
今の「ブログ」では――掲示板などでも――屡々批判されるマスコミと同じやうな何うでも良い事に關する微に入り細を穿った報道がなされてゐる。現在のマスコミ、現在のジャーナリストが、この種の「報道」を好むのは、實はマスコミ外の、ジャーナリストではない一般の人々に、その種の低レヴェルな關心があるからで、その點、現在の「ブログ」や掲示板での「議論」に同じやうな低レヴェルな關心に基く「報道」が屡々見られるのは當り前の話だとも言へる。が、さうした關心に基いた「報道」は、良いものなのか。
「政局」と言つてゐるが、「人物」の一擧手一投足に許り氣を取られるのは、今の多くの人の深刻な問題だ。「粘着アンチ」にしても、さうした情けない現代人の一般的な傾向が端的に表れたものと言へる。彼等は人間の駄目な側面の顯れである。單に粘着アンチなる「人物」の問題に留まらない。結局のところ、我々がただ目の前の「人物」にだけ氣を取られてゐる間に、本當の問題が看過され、世の中が少しも改善されない事が問題なのだ。ジャーナリズムと云ふものがあり得るならば、それはただ「人物」を云々する事ではなく、それによつて世の中が何うなるべきであるかを考へる事だ。
「近視眼的」な物の見方が世を覆ひ、ひたすら「人物」の進退やら責任やらが關心を集める――それは衆愚政治の「症状」の顯れにほかならない。粘着アンチどもが自分の行爲をまるで疑ひもしないで、ひたすら「鬪爭」に明け暮れて、それで愉しんでゐるのは、要は問題意識が低い事を意味するが、斯うした問題意識のなさがウェブを覆つてゐる現状は改善されねばならない。「わからない」人には「わからない」訣で、だから粘着アンチは俺の事を小馬鹿にして嬉しがつてゐられる訣だが、俺はそれでも默る訣には行かないと思ふ。
何も大上段に振りかぶつて物を言つてゐる積りはなく、個人サイトの人々相手に俺は個人サイトの人間として言つてゐるに過ぎない。「雜誌なりマスコミなりにデビューしてから言へ」等と粘着連中には言はれるが、それは俺を扱き下ろす爲に言はれる惡口だ。論理的でも何でもない、誹謗中傷の類に過ぎない(それがわからないから粘着と云ふ人種は困つたものだと思ふ。彼等は「偉い人物になつてから説教しろ」と嘲つてゐるのだが、俺に説教する彼等自身は偉い人物なのだらうか。何れにしても「人物」を氣にし過ぎである)。俺はただ、出來る範圍で出來る事をしてゐるだけだ。分際を越えた事をしろと無茶な要求をされても困る。

平成二十年十月四日
めも。
激走!!都人放論 - WILLは西尾幹二さんの広報誌と化してますね。東宮家批判問題。
平成二十年十月四日
めも。
パスカルにおける神と人間:ジャンセニスムとプロヴァンシャル (壺 齋 閑 話)

平成二十年十月三日
20081003_OPERA952.gif
Opera 9.52のバグ。「戻る」が效かないのだが、こんな事になつてゐる。何これ。
平成二十年十月三日
とらドラアニメ第一話そんなに惡くなかつたよ。無難な出來と言ふか割と良く出來てゐたと思ふ。あとインコちゃんの中の人に吹いた。これはひどい。
平成二十年十月三日
URL 補完 - A blog? with Σαιτω

URL の一部を直接バーに打ち込むと、自動補完される機能はそろそろ広まってきたろうか。

そもそもURLを入力しない。最近はぐぐつた方が早いし。自分の名前除く。
また補完機能は動作を遲くするので使ふ氣がしない。
と言ふか、この手の「よけいなおせわ」機能を増やし始めると最うそのプログラムの發展は終つたと言つて良い。

平成二十年十月一日
修正したよ。御指摘何うも有難うございます。
平成二十年十月一日
でもつて過去帖送りにしてゐたら先月分がめにゅーぺーじからリンクされてゐない状態だつたのに氣附いた。何でみんな教へて呉れないんだらう。ひどいよ。
平成二十年十月一日
能動ドットコム 番組制作プロ集団 能動ビデオ教室、デジカメ教室、レンズベビー 作例
平成二十年十月一日
【米金融危機】米下院、金融安定化法案を否決 世界市場に衝撃 - MSN産経ニュース
あちゃあ、帝國の論理が來たね - ziomの日記
未だに一々反米的な「言説」を吐く人がゐるのだけれども、何なのだらう。アメリカの經濟がをかしくなれば日本の經濟もをかしくなる現實がある。如何にアメリカの事を嫌つて見せたところで、日本がアメリカの影響下にあつてそこから脱し得ない事は事實で、それは何うにもならない。「反米」の人が殊さら「日本はアメリカの屬國」と繰返すのだけれども、屬國なら屬國で一々反抗しなければいいのに、ねえ。屬國である現實を認めようよ。「そんなの認められん」と言ひ、却つて居丈高に「アメリカは」何うの斯うのと嘲り始めるのなら、それは「負け犬の遠吠え」と云ふ奴だ。「反米」の人がアメリカを貶め、罵つても、それで日本がアメリカの「屬國」の地位から脱し得るものではない。「反米」の人ほど、その邊を勘違ひしてゐるやうに思はれる。
古今東西、日本人ほど、傲慢で無知な存在はゐない。日本人の「反米」こそ、將に夜郎自大の態度と言ふべきものだ。

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