知的障害者ねらい暴行、恐喝…少年グループ逮捕とのニュース。加害者が例によつて反省してゐないと云ふ話だが。
中学3年の少年は、「自分より弱そうな相手を選んだ」と容疑を認めているが、「身体(障害者)をいじめて何が悪い」と反省の態度はないという。
少年らは「自分たちより弱そうな人を狙った」と供述、中学生の1人は「身体障害者をいじめて何が悪い」と話しているという。
中学3年の少年は、「自分より弱そうな相手を選んだ」と容疑を認めているが、「障害者をいじめて何が悪い」と反省の態度はないという。
知的障害のある高校1年の男子生徒(15)にも暴行しており、少年らは「自分たちより力の弱い相手を狙った」と供述。無職少年は「いじめて何が悪い」と話し、反省の様子を見せていないという。
加害者の9人は「遊ぶ金が欲しかったので、弱そうな人を狙った」と話し、このうちリーダー格の2人は「いじめて何が悪い」と話しているという。
「身体」だそうですよ。「身体」だけで差別語ってことですよ。これはいけませんね。「障害者」を「障碍者」と言い換えるように、「身体」も言い換えないといけませんね。何せ差別語ですからね。
言葉なんて文脈によっていくらでも意味が変わるのだから、一つ一つの単語だけ切り出して狩っていった所で意味はなく、狩れば狩るほど一般的な単語が差別的文脈で使われるようになっていくだけだ、と云ふのはその通りではある。
再び、「伝わらないよ」について考えてみたい。邊から結論が書かれてゐるけれどもさう云ふ事。「言論」でも「言説」でも何でも良いけれども、結局のところ、何か具體的な對象に狙ひを定めて「それ」を變へようとか、さう云ふ事を考へてゐる人が矢鱈多いけれども、不特定多數の人相手に何か言ふのは、そんな目的ではないんだと。
っていうのが元記事を読んで反射的に思ったことなんだけど、何度か読みこんだりコメントなんかを見てるとそういう答えを求めてるんじゃない気がしてきたw「店」とか「庭」とか皆さん例えとサイトへの想いが素敵過ぎる……!なんか感性豊かで感銘を受けました(憧れ。
でもやっぱり自分にとっては「場所」って感じがしないんだよなー。と云ふ文言が續くけれども、「サイト」つて言つたら「場所」の事だから。「何か興味深いものがあつたり起つたりする場所」或は「建物を立てる土地」だとロングマンの學習英英辭典に書いてある。
ブログは、言論の重さがフラットな構造になっていません。なんて言ふのはをかしい。
でも、「私わ」とか「君お」みたいに、「は→わ」とか「を→お」とか「へ→え」みたいな表記を普通だと思っている一部の人は、なんだろ、なんか、ミス?とりあえず、嫌いです。間違っているからとかそういうんじゃなくて、なんか、嫌いです。
「闇黒日記」(平成二十年八月十日)「
どんどんどんどん新しい文字を突込んで行けばいいんだよ」えー、もうこれ以上増えるのは嫌ですよ。ただでさえ数千もあって馬鹿くさいのに。だいたい漢字だけじゃないですかね、文字集合に次から次へとあれも入れろこれも入れろと迫るのは。……いや知らないですが。そもそも殆ど区別のつかないのが数千とか数万もあるなんて、漢字自体が文字としてダメなんですよ。創造性豊かなアイコンとしては上出来ですが。というか普段、数百ぐらいしか使わないから使えてるようなものですし。少しでも違うと別の字だ、いや同じ字だとか、もう馬鹿げてることにそろそろ気づきましょうよ。いや別に漢字が嫌いなわけではないけれども、単純に馬鹿みたいに文字を追加したとして、検索はどうするんですか。文字コードは、検索する為にしかたなくあるのですよ、多分。検索しないのならば画像で良いのですから。いやまあ、少しでも違うのを別の字として番号を割り振れば、区別されたのを纏めるのは簡単なので探す時に纏めればいいだけの話ですけど。いや、しかしその為には正字と略字の対応表みたいなのを作らないと。で、その対応表だって、どうせ「いや、この熟語におけるこの字とこの字は別物だ、いやこの字とこの字は同じだ」云々とネチネチして出来上がるわけが無いし。ああもう面倒くさいなあもう。なんで俺みたいな馬鹿がこんなことを考えなきゃならんのだ。もうやめたやめた。(2008-Aug-11)
少しでも違うと別の字だ、いや同じ字だとか、もう馬鹿げてることにそろそろ気づきましょうよ。つてね、さう云ふ事がわからない連中が今のJISの文字セットを作つたの。わかる? わからないんだらうな。と言ふか、さう云ふ事が解つてゐれば、略字をベースにした文字セットなんて馬鹿げた物を作りはしなかつただらうと、俺は皮肉を言つたんだよ。しかし、世の中、皮肉だけは理解出來ないと云ふ人がゐて、さう云ふ人が馬鹿丸出しの文字セットを作つて好い氣になつてゐたりする。だから困るんだが、さう云ふ連中を眞正面から批判すれば何とかなるとでも言ふのだらうか。
いや別に漢字が嫌いなわけではないけれども、単純に馬鹿みたいに文字を追加したとして、検索はどうするんですか。つて、本當に俺の發言が皮肉だと氣附いてゐないんだらうな。眞面目に檢討してしまつてゐる。檢討するまでもない、何う考へたつて「今の文字セット」が破綻するに決つてゐると俺は言つてゐるんで、それを眞面目に檢討して「どうするんですか」なんて言はれても困る。今現實に運用されてゐるJISの文字セットが破綻するんだよ。「俺の構想する何處かにある理想の文字セット」が破綻するんぢやない。
正字派にもいろいろあるので一般化はできないが、正字派の不滿は、「正字の體系が破壞された」「略字はあるのに正字がない」であって、略字の收録自體を問題視してゐる人は少ないだらう。
WordPress (ワードプレス) は、オープンソースのブログ/CMS プラットフォームです。
その意味で彼の「がんだるふ」という名前は確かに実名ではないけれども、ネットの世界では限りなく実名に近い名前だ、と云ふ指摘は、しかし、「現實の世界における本名とは限りなく縁が薄い」と云ふ事も意味する。そして、ウェブでの評判よりも、現實における評判の方が、現實に生きる人にとつては重要なのだ。
しかし皆さんもおそらくそう受け止めると思うけれども、彼らネット君臨派のの考え方は、明らかに間違っている。と云ふ言ひ方は、一種の誘導で、俺なんかは、それでも「惡い匿名の輩は存在する」し、さう云ふ連中を助長させるだけだから「匿名の效能」を強調する記事は決して好ましいものと思はない。
1927年に刊行された岩波文庫は、現在のものよりひとまわり大きかった。これは「菊半裁(110×152)」というサイズで、その後、戦時中用紙の規格統制が行われたためにやむなく現在の「A6判(105×148)」にあらためたのである。(『岩波文庫総目録』岩波文庫について)
サイズの変更が進んでいた頃の岩波文庫を見ると、印刷の版は菊判のままで、無理矢理小さいA6判にしているものだから、一部が切れかかっているような断裁のおかしい本がけっこうあった。
以後、このA6判が、「文庫判」として定着するに至った。今でも、古書店の文庫の棚には戦前に発行されたやや大きめの岩波文庫が何冊か並んでいるはずである。
しかし、これは手放しで称賛できる状況でもありません。なぜかといえば、「宗教的な思い込み」を打破したAcidテストが、今度は「宗教的な思い込み」の絶対神に祭り上げられている状況もみられるからです。
50年代の頭に書かれたこの本は、徹頭徹尾、読者の知的水準の高さにひたすら頼っています。それは黄金期のハードSFすべてにいえたことでもあるのでしょうが、書いてあることが荒唐無稽と筋の通った科学のぎりぎりのところにある、ということを理解できなければ、この短編集を楽しむことはできないかもしれません。
一年以上經過。
自身の正當化に終始とか極附けて罵つてゐる。しかも、「リンクを張らない」のと「名指しで指摘しない」事とには重要な關係があるのに、「關係がない」と言張つてゐる。リンクを張らない事は名指ししない事だ。七鍵氏の頭の中は何うなつてゐるのだらう。俺を非難する連中は、悉く頭がをかしい。俺つて電波を受信してゐる連中には相當憎ッたらしい存在なんだらうな。
私はたゞ、無斷リンク禁止をうたふサイトに對し、冗談で意味もなくリンクを設定し、喜ぶその態度を惡だと斷じたに過ぎない。
自身のいふことに自信をもてないがために、繰り返し繰り返し同じやうな内容ばかりの文章を聯ねてゐるにすぎない。
誇示を見出してゐるのだから、讀取つてゐる筈だ。ところが、自信を持つてゐる事を非難する口が、今、自信を持つてゐない事を嘲つてゐる。何なのかね七鍵くん。人を馬鹿に出來るなら何でも良いのか。
確かに口が惡かつたね、反省してゐます。
私は件の記事で、無知を根據に他人を貶める姿勢が氣にくはない、さういつてゐるにすぎない。
無斷リンクの話を持ち出したのは、過去に野嵜氏が今囘と同樣に知識のない他人を不當に貶めて公の場で晒し者にしてゐたことを思ひ出し、その時同様なことを思つたから。
まあ本當に思ひ出したのは、そのことを指摘すると自身の過ちを認めようともせず話を摩り替へて、自身の正當性ばかりを誇示しようとしたことなのだが。
誇示とか言ふのは、そもそも學問全體を、學者の行爲を全否定する言ひ方だ。
更にちなみに。後の部分は放置。いはれたことにかつとなつて、極め附けだの滑稽だの何だのと、ばかっていったほうがばかとの理論を元に書かれた言及するにも及ばぬ文章だから。その「後の部分」、野嵜氏にそのまゝあてはまる事實を考へれば、言つてゐることに何ら思想も何もないたゞ自身を正當化しようとしてゐるだけとのことが判る。例へば、「
私は最う何も言ひませんと宣言しつゝ何か言つてゐるのつて、本當、滑稽極まるんだが」のやうな調子が延々と續いてゐるだけ。
ばかっていったほうがばか。誰がそんな事を言つたよ。話のすり替へどころか、七鍵氏は根本的に理窟が解らない人間だ。
そのまゝあてはまる事實つて何だよ。それこそ
ばかっていったほうがばか理論だろ。ふざけるな。
まあつまるところは何か。野嵜氏は私に傲慢な態度をとられたことが氣にくはない、もつと謙虚に、せめて失禮のない態度をもつて野嵜氏に接せよ、とさういひたいがために長文を書いたのか。
野嵜氏に接せよとか言出すんだ? どうして話を矮小化してごまかさうとするんだらう。
意圖が違ふのであれば、今囘の長文で何が言ひたいのかはつきりとしてくれ。何だか長々と書いてあるのだけれども、私の何にかつとなつてゐるのかいまいちよくわからない。言ひたいことははつきりと言つてくれ。
阿呆と言つたんだよ。あんたが
阿呆と言つたのは「正しい」んだらう。ならあんたに
無知を根據に他人を貶める姿勢が氣にくはないなんて言ふ資格はないんだ。あんただつて俺を貶めてゐるんだから。貶める事が許されないのに、どうして七鍵さんよ、あんた自身は許されるんだ? 自分勝手も好い加減にしろよ。
だうもと言つてゐる。
何事かと思ひよくよく見てみると、だうも日本對アルゼンチンのサッカーの試合が本日、しかもリアルタイムに、東京の國立競技場で行はれてゐるらしい。
阿呆の考へと七鍵は言つてゐる。當人、これを「俺今いいこと言つた!」とか思つてゐたのだらうか。しかもまあ、「だうも」の誤を指摘されたと云ふ話の根本的なところは出來るだけ目立たないやうに、ただあとで言ひ訣できるやうにちよつとだけ言つて、「正かな派」と云ふ用語に先づ因縁をつけ、
その輩は何とかして私を貶めたいがために日々、現在も躍起になつてゐるのだけれども、等と批判した人間(俺・野嵜の事)を貶めた上、結論部で、
一般的に言つて(笑)、そのやうな輩つて、無斷リンクに對しても同じやうなスタンスをとるよね。等と言つて、完全に話を逸らしてしまつてゐる。しかも、ここで「誰に批判されたか」は具體的に一言も言はない。ただひたすら曖昧に、「一方的に、全く出たら目なやり方で、嫌がらせを受けた」みたいな言ひ方をして、自己を辯護してゐる。何て陰濕なやり方だらう。一般的に言つて、「無斷リンク禁止」なんて言ふ輩は、何時でもかうやつて自分をいい子に見せかけようとするよね、なんて言ひたくなる。
野嵜氏への言及と書いて、はつきり俺をターゲットと言つてゐるし、ここぞとばかりに俺の文章を引用し始める。しかも、そこでまたとんちんかんな事を七鍵は言出すのだ。が、當人、前のエントリで「誰」も何も曖昧にしてゐたものだから、話の本筋も何も勝手に自分に都合の良いやうに歪曲して、宣傳し始める。
「どうも」を「だうも」と間違へたこと、更にいふなれば、「をかしい」を「おかしい」と間違へたことは認めてゐるし、指摘下さる方も最近は少いのでそれは新たな知識を身に附けるとの面でとてもありがたい。御禮の言葉がなかつたことに腹を立ててゐるのだらうか。
「何う」は「どう」であつて「だう」ではないのだけれども、正かな派にすら「だうも」なんて書いてゐる人がゐたりする。何なのだらう。
相変わらず七鍵様が神がかってる件 . やはりこの人は凄いね . このサイトの文章全部読み通したいなあ……
自信が身に附けたいと思ふ技術、もしくは知識を習得したいがためにこゝで正字正かなを用ゐてゐるだけなのだつたら、指摘されたら默つて直して、あとは知らんぷりするよな。俺ならさうするけどな。
私には、根據も理由もないけれど無條件に野嵜氏を崇めて七鍵攻撃に便乗しただけ、としか感じられないのだけれども、その認識に間違ひはありませんか。なんて言つてゐるけれども、これ「認識」ぢやないよ。根據も理由もなく何か思ひ込むのは、病氣だよ。
誇大妄想の被害妄想と言はれても當然だよ。
お医者さんに行った方がいいんぢゃないのかなと言はれて
不愉快かも知らんけど、人は圖星をさされると不愉快になるらしいぜ。