闇黒日記


平成二十年八月三十一日
新字・歴史的仮名遣が何故批判されるのかよく解らない件 - 雑念雑記はてな出張所
略字を使ふのは構はないのでは - ziomの日記
俺は「正字を正しい漢字と認めるべきだ」と云ふ立場だけれども、それは原則に關する主張だ。現實の漢字の表記については、「正字を讀めない」人がゐる・「正字を使へない」状況がある場合には「妥協して不正な字體を使ふ事もあり得る」と云ふ立場をとる。實際、俺自身、時と場合によつて、不正な字體を使つてゐる。
けれども、妥協は妥協であつて、その妥協を正當化する事は許されない。「当用漢字」「常用漢字」で定められた不正な字體を「正しい字體と云ふ事にしてしまはう」と云ふ主張は認められない。妥協を妥協と認識してゐる限り問題はない。その點では俺は「現實主義」であると同時に「原理主義」だ。
ただし、漢字の問題よりも假名の問題の方がより重要であり、また即座に復古が可能である。正かなの重要性を認識した上で、漢字については妥協すると云ふ事で、「新字・正かな」の表記を用ゐるのは、何の問題もない。
平成二十年八月三十一日
盆栽の規範、巨木を知らず - ziomの日記
そもそも言語と云ふ物自體が虚構と言へば虚構なのだから、今さら正字も正かなも虚構だとか言出すのがをかしい訣で、そのをかしい事を平然と言ふのが今の變な人逹の間の流行であるに過ぎない。彼等は「虚構の虚構性を暴き立てて否定する」と云ふのが大好きなだけだ。昔だつたら暴力革命だの何だのと言つてゐたやうな連中で、要は暴れたいだけにすぎない(だから彼等は氣に入らない相手にすぐ粘着し、掲示板で暴れ始める)。
「よくよく考へれば」人間だつて動物の一種であり、他の動物と嚴密には區別できない。が、動物と人間とは違ふと云ふ事になつてゐる。それを虚構だの何だのと言つたところで、歴史的に「違ふ」ものとなつたのだから仕方がない。僕等は嚴密な事を言つても始まらないところで樣々な概念を確立させてゐる。
僕等は文明人である。文明もまた虚構だらう。けれども、僕等が文明人である限り、「文明と云ふ虚構」は守つて行かねばならない。その文明と云ふ虚構が何の上に成立つてゐるかと言へば、それは「昔からある」と云ふ歴史性の上に、だ。歴史的に成立した概念は、一往尊重しておかねばならない。
大日本帝國憲法でもさうだが、歴史的假名遣についても「そもそも根據がない」などと言出す事がをかしいのだ。明治政府が定めた――それを「虚構」と言張る方がをかしい。過去に一度、明治政府が定めた、それを歴史的事實として認める事は、なぜ行けないのか。明治政府を無意味に否定して、それで何うしようと言ふのだらう。明治政府が一度、大日本帝國憲法で行く、歴史的かなづかひで行く、と言つたのだ。その事實を認めて、その上でやつて行く――それを現代の日本人は、異常な行爲だと考へ、異常者の異常な主張と極附けて、嘲笑し、侮辱を加へる。けれども、さう云ふ彼等、過去から切離された現代の日本人は、文明人か。「當り前だ」と言張る筈だが、その「文明」とやらは何なのだ。アメリカやらヨーロッパやらの技術を日本人は巧みに眞似をしてゐる。その結果として「技術立国」とか云ふ話が出て來る。が、それなら現代の日本人が生きてゐる文明は、歐米の文明の延長だ。ところが僕等は相變らず英語でなく日本語を喋つてゐる。
明治以來、僕等は歐米に倣つて國の體制を整へ、歐米の思想を受容れ、歐米の眞似をして國を運營してきた。その過程で、大日本帝國憲法なり、歴史的かなづかひなりを採用して來た。それを、大東亞戰爭での敗戰をきつかけに、一氣に破毀して、まるでそれ以前が無かつたかのやうに言つて、日本人は「新しい国」を作つた氣でゐる。が、それは良くない。正しからうが間違つてゐようが、關係ない、一度歴史的に生じた「虚構」は、どんな事であらうと維持し、繼續して行かなければならない。もちろん、補正はあり得る。が、根本原理の倒潰と斷絶は、あつてはならない。さうしなければ、我々の文明は文明として成立たない。だからこそ、俺は大日本帝國憲法の正統性、歴史的假名遣の正統性を主張する。
俺の知る限り、「現代仮名遣」や「日本国憲法」を「受容れる」人はゐるが、彼等が積極的に「現在は過去と斷絶すべきである」と主張し、「現代仮名遣」「日本国憲法」それ自體の「正當性」を積極的に主張した事はない。彼等はただ、自分にとつて「常識」である事を何の根據もなく信じ込み、それに逆らふ人を毛嫌ひしてゐるに過ぎない。「現代」主義者は傳統主義者・復古主義者に「お前らの主張に根據はあるのか」と一方的に絡みつゝ、自分逹の主張の根據を全く言はない。彼等は、反論を一切聞かず、敵と認識した人間に對して嫌がらせするのを好み、暴力的に氣に入らない主張を押潰す事を目的に行動する。粘着と全く變らない――が、事實、彼等は復古主義者・傳統主義者に粘着するアンチである。
粘着・アンチの類の行爲を、彼等は惡事であると認識する事が出來ず、或は惡事と知りつゝ平然とやらかす。彼等は、敵である傳統主義者・復古主義者が「嫌がってくれた方が嬉しい」から嫌がらせをする。ところで、この手の嫌がらせを行ひ、暴力で問題を解決しようとする人間は、果して文明人と呼べるのであらうか。現代は、暴力を忌避する惰弱なヒューマニズムが滲透する一方で、積極的に暴力を用ゐる獸性を肯定し、暴力行爲を實踐する事で快を貪るイデオロギーが形を變へつゝ滲透してゐる時代である。
結局のところ、道徳もまた、歴史や傳統に基いた「虚構」である。その「虚構」をぶち壞す事で「現代人」としての自己のアイデンティティを確認して安心しようとしてゐる連中が、文明人として恥づべき行爲を平然とやらかすやうになつてゐる。それでは困るのであつて、だからこそ僕は歴史主義・傳統主義を唱へ、復古を唱道してゐる訣だが、自分勝手な人々には氣に入らないだけの存在にしか見えないのも當り前だ。しかしだ、過去と言ふ物、歴史と云ふ物は、僕の外にあるもので、僕自身のものではないんだよ。歴史の尊重と言ふのは、要は自己を滅却する事を言つてゐるのであつて、その點、自分とか個性とかに拘る「現代人」の人は、混同しないでいただきたい。自分のもの・個性とか云つたものを意地でも「守らう」と云ふ「現代主義」の人々の行爲、それこそ「自分を襃め讚へる事」にほかならず、ナルシシズムであり、否定すべきおぞましい事なのだ。僕はそれを出來る限り避けたい。

平成二十年八月三十日
音羽電機工業株式会社|雷写真コンテスト
サンダーLOVEな夜が續く今日この頃みなさまいかがおすごしでせうか。うちでは停電の所爲で乃木坂春香とソウルイーターレイトショーの録畫を失敗しましたよ。雷死ね。

平成二十年八月二十七日
『生徒会の一存』が早速本の山の中で行方不明に。
平成二十年八月二十七日
神田古書センターを矢鱈久々に覗いたら何軒も店が入代つてゐたとか靖國通り北側のアーケードが撤去されたとかその他諸々變化があつて保守的な俺としてはいろいろきつい。

平成二十年八月二十六日
米MS、Windows用フォルダ同期ツール「SyncToy 2.0」を無償公開 | パソコン | マイコミジャーナル
Download details: SyncToy v2.0
「ブリーフケース」の事をみんな忘れてゐる。氣がする。
.NET Framework入れてゐないから動かないんだが――なんでこんな小さなアプリ動かすのにそんな巨大なもの入れなければならないんだ。昔からMSはよくわからない事をする。
平成二十年八月二十六日
なんで「論客」とか言ふんだらう。
「言説」とか訣のわからん專門用語を嬉しがつて使ふ人もゐるし。
平成二十年八月二十六日
今と云ふ時代は「變な言葉を使つてレッテル貼りする事」=「批評」と勘違ひした人をどんどん増やす時代だ。
「言葉を使ふ」事を批評だと勘違ひしたら大間違ひだ。「言葉を使つてゐる精神」が「ある」事を僕等は屡々忘れる。
内容がある事を十分承知した上での形式主義はあり得るのだが、ドグマ化した形式主義を僕等は信奉しがちである。單純な思考は樂だからだ。
平成二十年八月二十六日
近來稀に見るラノベブーム(俺内部で)の夏を經てなんか中毒を起したらしく、ちやんとした本を讀みたくなつた。さうしたら讀みさしのまゝ本の山に埋もれてゐた荻原井泉水『芭蕉名句』がなぜか浮上して來たので取敢ず讀み始めた。社会思想研究會(當時)の現代教養文庫148。
俺なんかは最う「ゆとり」世代に半分足を突込んだやうな状態の人間だから、原文でとか、或は露伴の評釋とかを讀むのがいいとか言はれても面倒で仕方がない。江戸時代の人だからそんなに難しい文章でもないのだが、とは言へ「時代が違ふ」人間の書いたものなのだから、讀むにしても苦勞して理解しようとする必要がある。評釋にしても、露伴なんかではこれまたやつぱり「時代が違ふ」事になつてしまふのであつて、今さら讀めない。そんな訣で、俺みたいな人間には、句の作られた状況とか解釋とか、或は味はひ方とかを懇切叮嚀に説明して呉れてゐる井泉水のこの本は大變有難いものであつて、で、せつかくまた出て來て呉れたのだからと讀み始めたら、これが滅法面白い。
ただし、日本の文藝である俳句であるから、花鳥風月を愛でるものであり、もつぱら美と云ふものを扱つてゐるに過ぎない。面白いにしても結局のところ美しいものを巧く言ひ表してゐると云ふものであるから――要は結構簡單に讀めるものであつて、「ちやんとした本」にしても、或意味「ラノベほどの深みはない」とすら言へるものだ。
平成二十年八月二十六日
一方、先日BOOK OFFで『生徒会の一存』を拾つたので、讀んだ。昔の横順的で案外全うなスタイルのエンタテインメントなのだが、世間の人にはいろいろ言はれさう。
平成二十年八月二十六日
あと?を附けるのは素人だと何度言へば。

平成二十年八月二十五日
『老人と海』で讀書感想文を書かうとしてゐる子もゐるだらうけれども、何うだらう。あれの解説は、文化の深みとか、生き方とか、さう云つた事に問題意識を持つてゐる人には示唆的だけれども、高校生邊の人が感想文を書くのにはまるで役に立たない――と言ふより、邪魔になるだけのものだらう。と言ふより、『老人と海』は、若い人が讀むのには適しない本だ。面白いと云ふのならヘミングウェイのもつと前の本の方が良い。『老人と海』は、坪内祐三式に言ふなら「シブい本」で、はつきり言つて辛氣臭い内容だ。
逆に、それなりの「資格」を持つ人なら、『老人と海』は面白く讀める本である筈だし、福田さんの解説も理解出來よう。
と言ひたいのだけれども、僕には必ずしもあの本が「いい本」だとは言切れないし、あの解説も必ずしもいいものだとは言切れないのだ。と言ふより、福田さん自身も、それほど「自信がある」訣でもないだらうと思つてゐる。歴史の淺いアメリカの文學において、福田さんはあの本に可能性を見てゐるのだが、結局のところ「可能性」の段階に過ぎない。『老人と海』は、福田さん自身がやつた飜譯の中で唯一の現代文學である事に注意されたい。
平成二十年八月二十五日
メインのキャプ機で隠の王とネオアンジェリークの録畫を失敗した。先週の豫約を修正忘れ。豫備機で録畫してあつたが、ネオアンジェだけ音聲に變なノイズが乘つてゐるので實質録畫失敗。何なのだらう。オリンピックは終つてからも惡さをする。
ネオアンジェリークはAT-Xで補完できる。隠の王はAT-Xとキッズステーションで補完できる。が、兩方とも4:3の放送なので16:9で録畫できるチャンスは最うない。
平成二十年八月二十五日
Latest topics > 「身体」も言葉狩りの対象になるの? - outsider reflex
知的障害者ねらい暴行、恐喝…少年グループ逮捕とのニュース。加害者が例によつて反省してゐないと云ふ話だが。

中学3年の少年は、「自分より弱そうな相手を選んだ」と容疑を認めているが、「身体(障害者)をいじめて何が悪い」と反省の態度はないという。

少年らは「自分たちより弱そうな人を狙った」と供述、中学生の1人は「身体障害者をいじめて何が悪い」と話しているという。

中学3年の少年は、「自分より弱そうな相手を選んだ」と容疑を認めているが、「障害者をいじめて何が悪い」と反省の態度はないという。

知的障害のある高校1年の男子生徒(15)にも暴行しており、少年らは「自分たちより力の弱い相手を狙った」と供述。無職少年は「いじめて何が悪い」と話し、反省の様子を見せていないという。

加害者の9人は「遊ぶ金が欲しかったので、弱そうな人を狙った」と話し、このうちリーダー格の2人は「いじめて何が悪い」と話しているという。

Piro氏のコメント。

「身体」だそうですよ。「身体」だけで差別語ってことですよ。これはいけませんね。「障害者」を「障碍者」と言い換えるように、「身体」も言い換えないといけませんね。何せ差別語ですからね。

Yahoo!の記事でのみ「障害者」が括弧の中に入つてゐる。時事と朝日では「誰を」苛めると云ふのか書いてゐない。2008-08-25T03:15:00+09:00現在。Yahoo!だけが正確なのか何うか――少年が「身体障害者」を「身体」と略して言つたのか何うかは不明。
そもそも片端を障碍者と言換へたのに、漢字制限の所爲で障碍者を障害者と書換へてゐる訣で、そこでまた障碍者に戻ると云ふのも何か變な話だが、言葉なんて文脈によっていくらでも意味が変わるのだから、一つ一つの単語だけ切り出して狩っていった所で意味はなく、狩れば狩るほど一般的な単語が差別的文脈で使われるようになっていくだけだ、と云ふのはその通りではある。
と言ふか、表面的に言葉を飾つても駄目だと云ふ事が判つて來た今、逆に言葉を飾りさへしなければいいと勘違ひした人も出て來る始末で(自分が「粘着」である事を威張つて言ふ人すらゐる)、まさに言葉、言葉、言葉だが、要は人間の精神が何とかならない限り人間は濟はれないんだよ。理窟を附けて自己を正當化しようと云ふのはこの「いぢめをして何が惡い」と言つた中學生もさうなのだし、しかし、形式的に正當化をしたからと言つてその行爲が許される訣でもない。
惡い行爲を惡い行爲だと自覺しただけでは無意味であり、それを正當化しようとしても駄目なのであり、惡い事をして何が惡いと開き直つてもそれはますます惡質なだけだ。實質的に惡質な行爲をしてゐたらそれは惡いのであつて、その惡い行爲について「してはならない」と思はなければ人は惡い行爲をしないやうにはならないし、「すべきでない」と考へられなければ人は道徳的にもなれない。
最近の日本人は――と言つたら實は嘘で、昔から我々日本人は道徳に鈍感だ。日本人が道徳的に鈍感である事――これは大變重大な問題で、我々が眞劍に考へなければならない事だと松原先生は何度も何度も言つてをられたが、我々は道徳の問題を考へない事に慣れてしまつてゐるし、考へる事を耻かしい事だとすら思つてゐる。殊に「自分は頭が良い」と思つてゐる人に限つて道徳の問題をそもそも認識出來ないでゐたりする。目の前にゐる具體的な誰かを罵つて苛める事を本氣で「正しい事」だと信じてしまつてゐる日本人は意外と多い。「責任」を問ふとか言つてゐれば最うその行爲が正當化されると心から信じられてしまふし、誰かをこの世から追放すべき大惡人だと思ひ込めればその人物に「粘着」行爲をしても良いと本氣で思へたりしてしまふ。相手が障碍者だからと言つていぢめて良い理由にはならないが(なる訣がないが)、それが「なる」と日本人は屡々本氣で思つてしまふ。理由が附きさへすれば「いぢめて何が惡い」と云ふ考へ方は、實は多くの日本人が當り前のやうに持つてゐる。こんな日本人は駄目だと思ふし、だからこそ俺はさう云ふ駄目な日本人に抵抗してゐるのだが――ところが「抵抗する」事こそが「具體的な誰かを惡人に仕立て上げて攻撃したい」日本人には殊さら氣に食はない行爲なのだ。知的障碍者を苛めてゐた少年は、知的障碍者に自分を輕くはたかせて「自分と同じやうに惡逆非道の暴力行爲を行つた」と云ふ事にしようとした。この「自分と同じやうな事をしてゐる」と云ふ「論理」で相手だけを惡者に仕立て上げ、相手だけを責め立てようとする習性は、どうやら「苛める側」「粘着する側」の習性であるらしく、ウェブでも良く見られるものであるが、これを異常と認識する事すらも出來ない人間がゐると云ふのは事實である。「事實である」けれども、それに對して抵抗すべき事を俺は主張する。
「自分の事」を反省出來るか何うか――「苛める側」「粘着」はそれを「出來ない」爲に「精神的に優位」となる。これに抵抗するには、こちらも負けじと「精神的に優位」にならうとしなければならない。「反省しない馬鹿」である事は一種の抵抗の姿勢である。もちろん、内面的に「苛める側」と同じになつてしまつては御終ひである訣で、その爲に極めて困難な事態に陷るのだが、今の日本國が何うしやうもないまゝであつて良い訣ではないと思ふならば、善意の人々は自虐的な反省のポーズに逃込まず、寧ろ抵抗の姿勢を示すべきである。岸田國士はかつて『善魔』と云ふ小説を書いた。
平成二十年八月二十五日
Opera 9.52で巡囘してゐるとあちこちの「ブログ」で「戻る」がきかなくなる事がよくある。何なのだらう。
ちなみに俺の「何なのだらう」はすげー怒つてゐるので
平成二十年八月二十五日
もやもやと霞がかかつたやうな感じのする微妙な出來で困惑させられてゐたS・A〜スペシャル・エー〜が先日來急に霧が晴上がつたやうに面白くなつてゐる。今囘も良かつた。
序盤或は中盤まで微妙な出來なのが突然化けてとんでもなく面白くなるアニメと云ふのがたまにあつて、さう云ふ愉しみを一度味はふとマイナーなアニメばつかりを追つかけて觀るやうになる。大體豫算も何も微妙なUHF局でオンエアされるものにさう云ふのが多いので、TBSとかテレビ東京でやるのは皆最初からそれなりに出來てゐる。
例へば、奥さまは女子高生とかLEMON ANGEL PROJECTとかちょこッとSisterとか。ちょこシス邊は割とはつきり化けてゐるのが判つたけれども、あとの二つは最後まで詰らないと思つて見てゐた人も多いと思ふ。變に相性が合つてしまつて途中で「わかつてしまふ」とLAPなんかは大傑作に見えて來るのだけれども。
最初からマイナーである事を宿命附けられてゐるアニメもあつて、さう云ふのも好んで觀てゐるけれども、世間的にさう云ふ物を見るのは少數派だし評價するのも少數派。金色のコルダ、少年陰陽師、スケッチブック。
狙ひに狙つて受けをとりにくるアニメはあんまり好きではない。だから大體ガンダムシリーズは敬遠。コードギアスは全面的に支持する積りだけれども、それでも「今期ベスト」とか言ふのはちよつと。一方で、桃華月憚みたいなのは、媚びに媚び捲つた典型的なヲタ向けアニメだが、駄目な部分も含めて好きだと言へる。

平成二十年八月二十四日
五時三十八分 - smallball
Windowsは基本的にDOS環境からユーザを移行させるだけの爲に作られたものだから……。
ゲイツには思想がないし、作つてゐる人間がその場その場で「いい」と思つた事を適當にぶち込んで行くから機能だけはがんがん増えるがMSは開發者の入代りが激しいし。
「場當り主義」以外の何物でもないが、或意味民主主義の申し子的なプロダクトだと思ふ。民主主義に思想はない。其處にあるのは錯亂だけだ。僕等はさう云ふ状況下に生きてゐる。
平成二十年八月二十四日
出版翻訳データベース

平成二十年八月二十三日
RINSPEED SQUBA
日本テレビで唐澤俊一が恰も個人が作つたかのやうに言つてゐたが大嘘。リンスピードが開發したコンセプトカーで、社長の趣味が入つてゐるが、自動車メーカのちやんとした一つのプロジェクトの成果。

平成二十年八月二十二日
放送ダウンロードのお知らせ
2008/08/09 徒然日記/ウェブリブログ
DTC110のBSデジタルの感度、古いファームだとアレなのらしい。
取敢ず新ファームダウンロードできるか試してみる。
平成二十年八月二十二日
ダウンロード成功。
BS2等のアンテナレベルが28に。さつきまでブロックノイズまみれだつたNHKのBSが普通に映る。
一方、BS11のアンテナレベルは35。なのになぜかノイズで畫面が崩れる。
同じアンテナ線を分けたPanasonicのTH-15LD70では大體アンテナレベルが51から52程度で、ノイズなし。
訣わからん。
平成二十年八月二十二日
ちなみにうちの子はノーマルのまゝ(未改造)で、キャプチャにはGV-MVP/RX2Wを使用。非常に古いキャプボなので、當然のやうにデジタル放送のいろいろなアレを無視して呉れる。ただしS端子經由のアナログキャプチャで、SD畫質になる。一往納得して使つてゐるのでつつこみ不要。BS11の録畫には使へないが、ちよつと前までは普通に使へてゐたのだから妙な話。
ラインブースタかまして以來だからそれが惡いのかも。電波を強めても、接點が増えれば抵抗も増えて電波が減衰するんだとか。あとで外してみる積り。
平成二十年八月二十二日
生まれてきてすいません
俺がPC Tipsと言ふかHTMLの定義のための覚書を作つた時、念頭に置いてゐたのがこのサイト。俺説のガンダムにしてもHTMLにしても、基本は一緒。まだ殘つてゐるが全然更新されてゐない。
奉祝・G20第2号発売
G20なんて誰も覺えてゐないと思ふけれども、さらにそれに載つた小さな記事なんて書いた當人も覺えてゐないんでないかと思ふ。が、それは何うでも良い。再び、「伝わらないよ」について考えてみたい。邊から結論が書かれてゐるけれどもさう云ふ事。「言論」でも「言説」でも何でも良いけれども、結局のところ、何か具體的な對象に狙ひを定めて「それ」を變へようとか、さう云ふ事を考へてゐる人が矢鱈多いけれども、不特定多數の人相手に何か言ふのは、そんな目的ではないんだと。
平成二十年八月二十二日
ブースター(CSB-C25C-SP)のATTを-10dB側に切換へたらBS11の映りがまともになつた。案外電波は十分だつたらしい。

平成二十年八月二十一日
PT1 仕様等
平成二十年八月二十一日
今瞬電(瞬斷?)したが、横のThinkCentreが落ちたのに、今使つてゐる無名戰士二號くんMk.II(自作機)は平然と動作し續けてゐる。何なのだらう。

平成二十年八月二十日
正規サイトに不正Flash広告掲載か:URLをコピペしたら悪質サイトに――乗っ取り被害が続出 - ITmedia エンタープライズ

平成二十年八月十九日
colorful | サイトなんて物置です。偉い人には(ry
LastRAINBOW Blog あなたのサイトは「家」ですか?「物置」ですか?それとも・・・
Re: あなたのサイトは「家」ですか?「物置」ですか?…-冬眠して春を覚えず
Re:あなたのサイトは「家」ですか?「物置」ですか?それとも・・・ - 俺的メモ
最近はGoogleのストリートビューなんかがあつて家の表つかはが普通に見られるやうになつてゐるから、ウェブサイトが「家」の積りでゐて良いのかも知らんが。
なんでみんな譬喩で物を考へるんだらう。

っていうのが元記事を読んで反射的に思ったことなんだけど、何度か読みこんだりコメントなんかを見てるとそういう答えを求めてるんじゃない気がしてきたw「店」とか「庭」とか皆さん例えとサイトへの想いが素敵過ぎる……!なんか感性豊かで感銘を受けました(憧れ。

でもやっぱり自分にとっては「場所」って感じがしないんだよなー。と云ふ文言が續くけれども、「サイト」つて言つたら「場所」の事だから。「何か興味深いものがあつたり起つたりする場所」或は「建物を立てる土地」だとロングマンの學習英英辭典に書いてある。
ウェブサイトと言つても、ただサーヴァに文書が置かれてゐるだけだと思ふんだが。文書を見に來る時、閲覽者がウェブブラウザを使つてゐる事があつて、整形された状態で見られる事があるだけ。
と言ふか、ウェブサイトはGoogleなんかのクロラ(笑)だつて見に來るんだぜ。
平成二十年八月十九日
ところで僕等は、インターネットを使つてゐる二十一世紀の人間である訣だが、そんな僕等が使つてゐる言葉は何時の時代のものなのだらう。「言葉は變化する」と言はれてゐるけれども、日本語に限らず、意外と大昔の語彙を僕等は平然と使ひ續けてゐる。時代が變つて概念が複雑化する中で、既成の語の意味を擴張して、新しい概念に古い語彙を適應させてゐるに過ぎない。siteなんて言葉をインターネットで使ふのも、一面で「譬喩」であるが、他面、語義の擴張である。
平成二十年八月十九日
時代が變つたからと言つて、新しい語がさうさう簡單にぽんぽん誕生したりはしないのであつて、僕等は昔から使つてゐる言葉に制約されて生きて行かねばならない。なのに僕等は「現代語」と言つて、「過去から完全に切離された、同時代の人間同士の間でだけ通用する言語」が存在してゐるかのやうに思つてゐる。それは勘違ひだ。全ての語は遠い過去に成立したもので、それを僕等はなんとかやりくりして使つてゐるに過ぎない。
平成二十年八月十九日
経由駅が指定できる乗り換え案内サービス - ARTIFACT@ハテナ系
乗り換え案内サービス比較 - lovely::memo
Googleの乗換案内だと、經由地は指定出來ないにしても、笹塚乘換の事は一往考慮に入れて檢索して呉れるみたいだけれども。
と言ふか八時過ぎ邊から十時頃にかけて(朝ラッシュ態勢から日中の態勢に移行する時間帶)の京王線の不便さは異常。

平成二十年八月十八日
LAPのDVDがノジマ相模原本店内のソフマップU-FRONTに長い間店晒しになつてゐて、餘りに哀れなので保護して來た。ばら賣り扱ひだが全6卷が揃つてゐる。
平成二十年八月十八日
アイ・オー・データの外附けHDDに附屬してゐるUSBケーブルは粗惡品。使つてゐて突然HDDの電源が切れる現象が起きた人は即刻ケーブルを交換する事をおすすめする。たまに電源斷一發で死ぬHDDもあるから要注意だ。アイ・オー・データの外附けHDDを使はうと云ふ人は、高級なケーブルを豫め用意しておくのが望ましい。
怪しいケーブルがまた一本出て來たから即刻やつあたりで眞二つにぶつた切つて處分してやつた。
ちなみにアイ・オー・データの外附けHDDは、基盤の作りは訣のわからない玄人志向邊のものよりずつと増しなので、中のHDDを交換して使ふと良い。
平成二十年八月十八日
しかし1年後に初音ミクが出て來るとはLAPの關係者誰も豫想してゐなかつたんだらうな。
オンエア時既に古いとか言はれてゐたアニメだけれども。
平成二十年八月十八日
特典映像が面白すぎる。

平成二十年八月十七日
DTC110がをかしい。BSの感度が異常に低くなる。アンテナ線を分岐して、PanasonicのTH-15LD70でアンテナレベル54なのに、DTC110だと33〜34になる。同じアンテナ栓を分けてゐるのだから同じにならなければをかしいのに。TH-15LD70で全くノイズが出ないシーン、DTC110だとブロックノイズが出てゐる。何なのだらう。
と言ふか、BS11のバーディーとウルトラヴァイオレットでだけノイズが出てる。BS日テレ(なんでこんなひどい放送局名にしたんだらう)のストライクウィッチーズだと問題ないらしい。訣が解らない。
平成二十年八月十七日
BS11はJ-COMが頑なに再送信を拒んでゐるので自前で受信しなければならないのに、何でこんな事になるんだらう。放送だから録畫ミスは絶對に許されない。恢復の手段が何一つ用意されてゐないからだ。なのに毎週毎週録畫に失敗し續けてゐる。放送はもう死んで良いよ。
平成二十年八月十七日
Mission-Eの落ちが非道くて吹いた。
平成二十年八月十七日
なんでEPGの番組表は、過ぎ去つた時間の分はどんどん消されて行つてしまふのだらう。後から確認したい事もあるのに。その日一日分くらゐは殘しておいていいと思ふのだが。多分、自分ではTVを觀ないやうな人が適當に仕樣を決めてゐるから使ひ辛い代物が出來てしまつたのだと思ふ。今のTV關係のいろいろなものが使ひ辛いのは、TVを全然觀ない連中がそれつぽく仕樣をでつち上げてゐる空だらう。
デジタル放送では、「営業的」な發想で何でもかんでも仕樣を決めてゐて、技術側の人間が――或は技術そのものが――足を引張られてゐるやうな氣がしてならない面もあるが、一方で、TVなんかに興味のない技術者が仕事だからと云ふのでおざなりに機能を搭載して行つてTVを駄目にしてゐる面もあるのでないか。
平成二十年八月十七日
ところで未だに「歴史的仮名遣は明治から敗戦までの数十年しか使われてこなかった」とか嘘を言續けてゐる人はゐるのだらうか。
誰が何う考へても日本人は飛鳥奈良平安の御代(或はそれ以前)からずつと歴史的かなづかひで書いて來た。それをどうして「明治以來」なんて言ふ事が出來るのだらう。「歴史的假名遣の正しいとされる決り」が明治以來定まつて一般に用ゐられるやうになつたとか、そんな事を根據にしてゐるのかも知れないが、それなら昭和に入つてからも歴史的かなづかひはずつと研究が續き改訂が繰返されてゐる訣で、「一度として歴史的かなづかひは使はれた事がなかつた」とすら言ふ事が出來てしまふ。が、そんな事はさすがに「明治から昭和初期まで」説の人も眞面目に言ふ事は出來ないだらう。彼等にしても「或程度は歴史的かなづかひが使はれてゐた」事にしなければ、困るからだ。が、何れにせよ、彼等の説が好い加減で根據のない出たら目な物である事には變りがない。日本人はずつと歴史的かなづかひで物を書いて來た。ただ、間違ひをやらかした事は何度もあつた。それだけの事だ。今だつて「現代仮名遣」が「規範」として通用してゐる一方で、現實に「現代仮名遣」に完全に合致するやうに書いてゐる日本人は一人もゐない。誰だつて時として間違へるし、その「間違ひがある」と云ふ事を根據にするならば「現代仮名遣」は「定着してゐない」と言張る事が出來る。それが不可だと云ふならば、もちろん「歴史的かなづかひは明治より前には使はれてゐなかつた」等と主張する事も不可と云ふ事になる。これに強硬に反對する人もゐるだらうが、最早それは「歴史的かなづかひ」へのアンチでしかない。さう云ふ人は、何を言はれても自説に固執して、自分の誤を認めない。そして、世の中さう云ふ人は矢鱈と多い。
平成二十年八月十七日
と言ふか、「歴史的かなづかひは明治から昭和初期まで」説の人は、「固定的な規範」を基準に物を言ふ積りなら、「現代かなづかい」が廢止された時點で「一つの時代が終わった」と言はなければならない。さうなると今通用してゐる「現代仮名遣」の「歴史」は本當に短いものになつてしまふ。
もちろん俺はさう云ふ「主張」を眞面目に論じようとしてゐるのではなくて、歴史的假名遣の歴史を殊さら短いものにしてしまはうとしてゐる連中の御都合主義を批判してゐる訣だ。
平成二十年八月十七日
昨今は「マンションの隣人がうるさい」とかいつた理由で「仕返ししてやれ」と本氣になつて怒る人が増えてゐるのだとか。「御互ひ樣」としか言ひやうのない事の筈だが、自分だけが被害者だと思ひ込み、「自分には正義がある」と心から信じ込んでしまふらしい。
この手の被害者意識による「仕返し」行爲は、ウェブでは實に容易或は安易に行はれる。掲示板でも何でもアンチや粘着が屡々發生するが、全て「妙な被害者意識」に基いてゐる。彼等は、「加害者」が一方的に「惡事」を働いてゐると主張し、自分逹は「被害者」であるから「加害者」を「絶對許さない」と言つて「仕返し」をしてゐる積りでゐる。
詰らない「感情の行違ひ」程度の事が原因なのだが、怒つてゐる「被害者」=粘着にはそれが解らず、自分には何一つ非はない、「加害者」=粘着する對象の人間が一方的に惡い事をしてゐると思ひ込んでしまふ。
「御互ひ樣」と云ふ程度の事でしかないのであるが、粘着してゐる人間にはそれを理解する事が出來ない。そして、粘着されてゐる側が釋明する事は、粘着してゐる人間にとつて何の意味もない。粘着されてゐる側が釋明すればするほど、粘着する側は怒りを掻き立てられる。
「マンションの隣人」問題では、解決の爲には第三者による仲介が必要であると言はれてゐる。が、ウェブで粘着の問題を解決する爲には。「第三者」が、ウェブでは出現し得ない状況にある。粘着にとつて、粘着されてゐる側を擁護する人間は、第三者ではなく即座に「敵」である。粘着行爲に對しても、「自淨作用は働かない」と云ふインターネット一般における基本原則が當嵌る事になる。斯うなると、法律を制定するなどの方法しか粘着行爲をなくす手立てはない訣だが、今の政府にインターネット等の「假想世界」の問題に對處する能力はない。當面、ウェブでは「粘着したもの勝ち」と云ふ酷い状況が續く事になる。
ウェブの將來は暗い。

平成二十年八月十六日
http://www.metakichi.com/exdiary/200808.php#D15_01
「アルファブロガー」とか意味わかんないし。
「アルファブロガー」だから「信用される」のか、「信用される」から「アルファブロガー」と看做されるやうになるのか。何處の「ブロガー」だつて最初から「アルファブロガー」なんてものではないだらうに。ひろゆきもをかしな事を言ふんだな。
新聞サイトだらうが虹裏だらうが、或は此處みたいな寂れた1.0的ウェブ日記だらうが、俺は對等だと思つてゐるよ。當り前だらう。
無職の人間がゐるからつて「日本には職業選擇の自由は存在しません」なんて言ふ事は出來ない。「アルファブロガー」と「無名のブロガー」の「格差」があるからと言つて、ブログは、言論の重さがフラットな構造になっていません。なんて言ふのはをかしい。
一々「アルファブロガー」とか言出すから話がをかしくなるんだ。何處かの誰だかさんなんか、偉さうに「アルファでありオメガである」とか言つてゐたくらゐだし(自分でも意味不明)。
と言ふか、掲示板で匿名の人間が言つたところで、別に「信用できる」事にはならんだらう。
平成二十年八月十六日
虹裏でスクリプト毎日上げ續けても、「定時」として認知されれば結局「アルファブロガー」並の扱ひをされる事になる。
平成二十年八月十六日
ちなみに「アルファブロガー」にしても有名定時にしても、「アンチが湧き易い」「粘着が附き易い」と云ふ極めて大きなデメリットがあるんだけれども、割とその邊の事、世間では話題にならないよね。殊にひろゆきはその邊の事を絶對問題にしない(推測)。
平成二十年八月十六日
JIS對ユニコードは代理戰爭 - ziomの日記
平成二十年八月十六日
TOKYO MXのR.O.D -THE TV-でL字。タイミングが良過ぎて吹いた。

平成二十年八月十五日
TBSの中繼いつ終るのか監視するついでにTVのNetFrontでTBSのサイトを觀てゐて氣附いたんだけれども、見事にレイアウト崩れてゐるのみならず、「左」のインラインフレーム(?)に入つてゐる「今日の番組表」がスクロール出來なくて、「下」の方の番組の時刻、確認できないのな。一方で、「右」の廣告が「眞ん中」の邊を覆つてゐて、その邊の文字も見えなくなつてゐる。
なんでTV局のサイトつて、變に「畫面」にいろいろな要素を下手に詰込んで、無茶なレイアウトにして、TVのウェブブラウザでまともに閲覽できないやうにしてゐるんだらうな。どうせTV局なのだから默つてゐても人が來るんだし、變に凝らなくたつて良ささうなもの。寧ろ、ハンディキャップのある人とかも普通に見られるやうに、シンプルな作りにしておくべきだと思ふ。
お天氣情報のサイトとかもさうだけれども、澤山の人が利用するサイト、結構安全とかに關はつて來るサイト――要は公共性の非常に高いサイトで、無駄にレイアウトに凝つてゐる事が極めて多い。さう云ふところは、「デザインを良くしなければならない!」とかウェブの擔當者が確信してゐるらしき節があるが――或は、「上」の人が、なんか變に「ポータルサイトの常套手段」みたいなのを勘違ひしてゐて、それつぽく情報を詰込むスタイルにしなければならない、と信じてゐるやうな――と言ふか、強權でデザイナにさう云ふ感じに「やれ」みたいな事を強ひてゐるのでないかとか。
何でも根據のない思ひ込みでやらうとするから間違つた結果になる。「使ひ易さうなデザイン」を目指して現實には何うしやうもなく使ひ辛いサイトを作つてしまふのは、全て無知と――あと、妙に「それつぽく」やらうとするデザイナの惡癖があるんだらうな。デザイナの人は、みんなデザインすれば良くなると思ひ込んでゐるんだ。
紙媒體でも、テキストを讀ませる爲の本で、變にヴィジュアル的に凝らうとする人がゐる。さうしなければ賣れないと言ふのだけれども、何うなのだらう、文章が良くなければ本は賣れないんでないか。ラノベなんかは「ヴィジュアルで賣つてゐる」なんて噂話があるけれども、そんな事はないよ。校正が好い加減な本もたまにあるけれども(おあいにくさま二ノ宮くんも割と漢字の間違ひが多い)、デビューした作家の人はみんながんばつて文章を書いてゐる。
平成二十年八月十五日
ひだまり3時で確定。とらぶる3時30分。TBS。
平成二十年八月十五日
小宮山書店の御盆休み恒例ガレージセール。龜井勝一郎『智識人の肖像』(創元文庫)を拾つた。百圓玉と本を御勘定場の店員さんに渡したら、妙にじつくり表紙をみつめ、本をぱらぱらめくつてゐる。何だと思つたら書込みがあるのでお代は結構ですとの事。あらま、ありがたう。
表紙にまで書込みがある。
平成二十年八月十五日
敗戰の日だから靖國神社に程近い神保町邊もぴりぴりした雰圍氣。と言ふかうるせえ。
平成二十年八月十五日
五時零分 - smallball
二十一時一分 - smallball
藝術へのご意見・ご感想
英語で藝術はartと言ふくらゐで、あつちの連中はnatureとは違ふものを藝術と認識してゐるんだらう。
日本人にしてみれば「美」だとか何だとかがあれば「藝術」に括つてしまへるのだらうけれども。
キリスト教社會で藝術と云ふのは神樣に捧げるもの(祈り)だつたりするので、それがルネッサンス以降世俗化するのだけれども、さうなるともつぱら人の爲の藝術――そして藝術家自身の爲の藝術と云ふ事になつて、どんどん堕落して行つた訣だ。今の音樂なんかは完全に「我々」の爲のものになつてしまつてゐて、だからこそ何んなに精妙に作られてゐてもやつぱり世俗的で墮落したものにしかならない。大體「自分の爲」に何かやつてゐるのつて、あんまり美しいものではないよ。今の日本人は、それが全然わかつてゐないやうでゐて、實は深く理解してゐる。日本のオリンピック選手のコメントなんかが實にアレな一方で、例へば俺を頻りに攻撃する或日本人は「野嵜は一人で好い氣になつてゐる」みたいな極附けをして見せる。
と言ふかアートネイチャーなんて平氣で言へるのは日本人だけだよ。
平成二十年八月十五日
はてなアンテナ - くろみかんの「右下」に固定されてゐる「更新履歴」、NetFrontではレンダリングに失敗、左上邊に表示されて、「本文」に被つてしまふ。TVの一発ネットとか云ふ機能はあんまり使はないけれどもまれに必要になるので、くろみちんはなんとかしてくださいとか言つてみる。
平成二十年八月十五日
澁谷の東急で毎年恒例夏の古書展。大阪の古本屋さんが養徳社の本を纏めて出してゐた。と言ふかやけに状態の良い養徳叢書が矢鱈いつぱい竝んでゐた。一册八百圓から千五百圓くらゐまでと結構高い値段がついてゐたので買はなかつた。
冨山房の百科文庫(戰前版)も何册かあつた。買はなかつた。
平成二十年八月十五日
ソウルイーターレイトショーの録畫に失敗してゐたり。一番何うでも良いのに限つて。
AT-Xで觀れば――録ればいいや。と言ふか録つても觀る氣ないだろ>俺。
平成二十年八月十五日
斯う暑いと、蟻は大變だな。

平成二十年八月十四日
メールのデータつて何うするものなんだらう。何年も大事にとつておくべきものなんだらうか。今のメールユーザエージェント(笑)はさう云ふ用途に全然適してゐないやうな氣がするけれども。
何年もメールを受け續けてゐるメーラには、數萬件數億件とどんどんメールが溜まつて行く事になる。けれども、さうなる事前提で作られてゐるメーラつてどれだけあるだらう。なんか割と安易に作られて安易にフリーで出されてゐるメーラつて結構あるやうな氣がするし、さう云ふのでも當座は十分機能するものなんだけれども、メールボックスが膨れ上がつてにつちもさつちも行かなくなるなんて經驗、した事ある人多いんでないだらうか。
電八だと、一つのフォルダに千件入れるといつぱい(だつけ?)。ただし個別のメールが個別のテキストファイルに保存される。
Operaのメーラはメールボックスが無限に肥大して行く。Outlookなんかもさうだつた筈。
平成二十年八月十四日
【なんたらジャパン:2008/8/14】鷹澤遊戯場 過去日記
TVを觀てゐて氣附いたんだが――と言ふまでもなく誰でも氣附く訣だが、スポーツのニュースになると、キャスターが突然にこやかになる。何なんだらうと何時も思ふ。
平成二十年八月十四日
こんにちは! : Weblog : SimpleIsm

でも、「私わ」とか「君お」みたいに、「は→わ」とか「を→お」とか「へ→え」みたいな表記を普通だと思っている一部の人は、なんだろ、なんか、ミス?とりあえず、嫌いです。間違っているからとかそういうんじゃなくて、なんか、嫌いです。

「ひ→い」「へ→え」はOKらしい。「間違ひ」「嫌ひ」「とりあへず」。云々。
無意識の「現代仮名遣」原理主義と云ふ奴。「根據はないけれどもきまりだから」と言つて覺えてしまふと、この種の無自覺な原理主義になつてしまふ。無自覺だから原理主義なのかも知らんけれども。
平成二十年八月十四日
TBSはオリンピック中繼の所爲でNEWS23以降二十分遲れで放送。ひだまりスケッチ×365が25:45からTo LOVEる−とらぶる−が26:15から。TBSウェブサイトによる。
※闇黒日記は速報サイトではありません。情報は不正確な場合があり得ます。公式サイト、TV局のサイトを參照する、あるいは實際のテレビ放送を觀るなどして、實際のオンエア状況は必ず確認して下さい。
平成二十年八月十四日
オリンピックの野球まだ終らねえよ。ガンガン延びてる。ひだまり開始時刻いまだ確定せず。
平成二十年八月十四日
道路に蝉がひつくり返つて伸びてゐた。なんで蟲つて死ぬ時腹を上に向けてひつくり返るんだらう。

平成二十年八月十二日
録畫專用のノートPCのところに小さい蜘蛛が網を張つてゐた。疊の上で何か獲れるんだらうか。
平成二十年八月十二日
どうでもいいが俺この闇黒日記でそんなに蟲の話してゐないやうな氣がするんだけれども。
平成二十年八月十二日
フォトレポート:時代を振り返る--懐かしの検索エンジン:ニュース - CNET Japan
infoseek/Go.comがぬけてる。
日本の檢索エンジン/ディレクトリサーヴィスもいろいろあつたつけな。
検索・サーチエンジン
平成二十年八月十二日
サーチエンジン-はやぶさ-
なくなつたかと思つたがまだあつたんだな。http://www.8823.net/は死んでる。
平成二十年八月十二日
AT-Xでトライガンやつてるのを觀たよ。歴然たる駄作だけれどもなつかしい。

平成二十年八月十一日
Googleストリートビューについて - good2nd
「Webにテキストを公開する」のも「公道から見える場所に洗濯物を干す」のも同じじゃね? - import otsune from Hatena
平成二十年八月十一日
Googleストリートビュー關係の權利とか何とかの問題については、何うせそつち方面で「うるさいひと」が議論して何か結論出るだらうから俺は何も言ふ氣なし。結論出なければ出ないで知つた事ではないけど。
割とあゝ云ふのは一發ネタつぽいところがある訣だけれども、問題はあんだけのものを公開しておいて後のメンテナンス何うすんのかと云ふ事。俺のリンク集にしてもさうだが、五年も更新しないで放つておけばコンテンツとして「死に體」になる。大規模なコンテンツだとさうさうメンテナンスも出來ない訣で、必ず古びるところがある。そこで文句を言ふ人がぞろぞろ出て來た時、何うするか、と云ふのが問題なのだが――ウェブのリンク集だと古びれば價値がなくなるだけだけれども、あゝ云ふ寫眞なんかは「記録」として古びれば古びるほど價値が出て來たりする。「違ふ」と言へば「違ふ」訣だ。
平成二十年八月十一日
關東ローカルでだがデスノート再放送やつてる模樣。お晝の二時五十五分から。
平成二十年八月十一日
コシヌケの日記(2008年)
ほら斯うやつて無自覺な漢字嫌ひが訣もわからずJISを擁護する……。

闇黒日記」(平成二十年八月十日)「どんどんどんどん新しい文字を突込んで行けばいいんだよ」えー、もうこれ以上増えるのは嫌ですよ。ただでさえ数千もあって馬鹿くさいのに。だいたい漢字だけじゃないですかね、文字集合に次から次へとあれも入れろこれも入れろと迫るのは。……いや知らないですが。そもそも殆ど区別のつかないのが数千とか数万もあるなんて、漢字自体が文字としてダメなんですよ。創造性豊かなアイコンとしては上出来ですが。というか普段、数百ぐらいしか使わないから使えてるようなものですし。少しでも違うと別の字だ、いや同じ字だとか、もう馬鹿げてることにそろそろ気づきましょうよ。いや別に漢字が嫌いなわけではないけれども、単純に馬鹿みたいに文字を追加したとして、検索はどうするんですか。文字コードは、検索する為にしかたなくあるのですよ、多分。検索しないのならば画像で良いのですから。いやまあ、少しでも違うのを別の字として番号を割り振れば、区別されたのを纏めるのは簡単なので探す時に纏めればいいだけの話ですけど。いや、しかしその為には正字と略字の対応表みたいなのを作らないと。で、その対応表だって、どうせ「いや、この熟語におけるこの字とこの字は別物だ、いやこの字とこの字は同じだ」云々とネチネチして出来上がるわけが無いし。ああもう面倒くさいなあもう。なんで俺みたいな馬鹿がこんなことを考えなきゃならんのだ。もうやめたやめた。(2008-Aug-11)

あのですね、少しでも違うと別の字だ、いや同じ字だとか、もう馬鹿げてることにそろそろ気づきましょうよ。つてね、さう云ふ事がわからない連中が今のJISの文字セットを作つたの。わかる? わからないんだらうな。と言ふか、さう云ふ事が解つてゐれば、略字をベースにした文字セットなんて馬鹿げた物を作りはしなかつただらうと、俺は皮肉を言つたんだよ。しかし、世の中、皮肉だけは理解出來ないと云ふ人がゐて、さう云ふ人が馬鹿丸出しの文字セットを作つて好い氣になつてゐたりする。だから困るんだが、さう云ふ連中を眞正面から批判すれば何とかなるとでも言ふのだらうか。
いや別に漢字が嫌いなわけではないけれども、単純に馬鹿みたいに文字を追加したとして、検索はどうするんですか。つて、本當に俺の發言が皮肉だと氣附いてゐないんだらうな。眞面目に檢討してしまつてゐる。檢討するまでもない、何う考へたつて「今の文字セット」が破綻するに決つてゐると俺は言つてゐるんで、それを眞面目に檢討して「どうするんですか」なんて言はれても困る。今現實に運用されてゐるJISの文字セットが破綻するんだよ。「俺の構想する何處かにある理想の文字セット」が破綻するんぢやない。
馬鹿みたいにネタを割つて説明すると、要は「当用漢字」なんてものを何處かの小賢しい連中がでつち上げて、漢字の體系を破壞してしまつた事が間違ひと云ふ事。それで半世紀やつてきて、手書きだから問題が發覺しなかつたのであつて、今みたいに機械化がより進化し、電腦化だか情報化だかが實現して、それで初めて「手書きを基準にした發想」の愚かしさが明かになつたと。今となつてはかな漢字變換と云ふ立派なシステムがあり、「書く手間」を云々するのはナンセンスになつた。ところがそんな今でも相變らず「書く手間」を基準に漢字の「難しさ」だの何だのを考へたり、或はそもそも時代遲れの「書く手間を省く」なんて發想の下に作られた文字セットを有難がつて使つてみたりしてゐる。なんて馬鹿な日本人、と言ひたい訣だが、それをまともに言つたつてわからない人が殆どだらうと俺は皮肉を言つて呪つてみたりした訣だが、それが眞面目に受取られてしまつて何うしようと。
しかし何年かしたら今の文字セット、破綻するよ。JISの連中はのんきに構へてゐるし、日本人は全員、安穩としてゐるけれども、その背後で文字は目茶苦茶になつてゐるから。取敢ず今のシステムは何とか維持されて行くだらうけれども、進歩とか進化とかはあり得ない。JISの文字セットは、文字のシステムとしては硬直化して何うにもならなくなる。そして、硬直化したシステムは死ぬ。俺は戰後の國字改革の失敗が今になつて露見し、悲慘な事態を招くのを、愉しみに待つてゐる。
平成二十年八月十一日
が、日本人くらゐ彌縫策を考へるのが巧い人種も珍しいので、何うしやうもない事になつても何とかしてしまふ奇策を考へる人が出て來るだらう。さうなると餘計事態は惡化するもので、本當に地獄のやうな社會が到來するのでないかと俺はまた別の意味で期待せざるを得ない。
平成二十年八月十一日
と言ふか、「字を増やしさへしなければ萬事OK」と言つて安心してしまふのは何うか(してゐる)と思ふよ。
漢字を減らすと云ふのは單語を減らすのと同義だ。
難しい漢字を減らしても、概念がある限り、表現は必要になる。さうなると、簡單な表現を組合せて複雜な概念を表現しなければならなくなるのは目に見えてゐる。けれども、英語のイディオムが、覺えなければ全然使へない許りでなく、似たやうな表現だらけで門外漢には區別がつけ辛いやうになつてゐるやうに、「簡單な表現の組合せ」は、覺え辛く、區別し辛いものとならざるを得ない。さうなると、「どつちが簡單か」と云ふ問題は容易に解決できない訣で、それならわざわざ新語を作つて既成の概念を表現するより、既成の表現で既成の概念を表現する方が良い。或漢字で既に表現されてゐる事を、わざわざ別の言ひ方を作つて表現するのは、車輪の再發明どころではない馬鹿げた行爲だ。さう云ふ事を一生懸命やつたのが戰後の國字改革だが、それが今、それなりに受容れられたのは、ただ、中途半端で不徹底だつたからに過ぎない。
或程度の漢字なり何なりの整理が必要だつた事は事實で、それを理論的かつ體系的にやれば俺も賛成するのだが、それを出たら目にやつたのが戰後の國字改革。後づけでいろいろ説明が附けられてゐるけれども、研究が進んでゐない段階で性急に行はれた「整理」でしかなかつた事實は否めない。が、兔も角或程度整理された部分があつたから、何も知らない人には「ありがたい」ものになつた訣で、ところがさう云ふ部分的なメリットでは話にならない事態が今になつて生じてゐる。それがコンピュータの文字セットの問題だが、しかし、コンピュータ上での文字の扱ひの話なのに、なぜか未だに半世紀どころか一世紀も前の「手書き」の時代の考へ方が一般に通用してしまつてゐる。漢字そのものに關する研究も今では進んでゐて、一世紀の研究と言へば大昔の研究でしかなくなつてゐるのだが、しかもそんな大昔の研究をつまみ食ひしたやうな状態でしか利用してゐない場當り的な文字セットである「当用漢字」及びその後繼である「常用漢字」が未だに使はれ、それらをベースにしたJISの文字セットがコンピュータ上で稼働してゐる。
非論理的な、當座の「手間」を省く事だけを考へて作られた略字の「大系」なんてものは、眞面目に運用すれば破綻は必然で、それを解つてゐない連中が未だに大きな顔をしてゐるのが俺にしてみれば噴飯ものだと、さう言ふと俺が無意味に人を馬鹿にして喜んでゐるかのやうに言ふ人がゐるのだが、まあ、日本人くらゐ、既成事實を受容れる事を立派な處世術と看做す人種もゐないし、たかだか處世術如きに從ふ人をこの上なく尊敬する人種もゐない訣だから。云々。
平成二十年八月十一日
俺が建設的でない事を言つてゐるのは認めるけれども、別に建設的か何うかなんて何うでもいい事だらう。
平成二十年八月十一日
「当用漢字」で漢字制限をやつた時の重大な誤の一つは、漢字制限の範圍内で漢字を書換へる、と云ふ事をやつた事。煖爐を暖炉に書換へたり撒水を散水に書換へたりしたけれども、「藝」と「芸」を一緒くたにしたのなんかは最う何うしやうもない。この種の變な文字の統合は國字改革に或程度妥協する人(高島俊男とか)ですら氣に入らなくて、その邊の書換へだけは拒否して、それ以外の略字には妥協すると云ふやり方をとつてゐる。なるほど納得できる部分はあるのだけれども、俺がそれに從はないのは、それが理論的なやうでゐて結構書き手の氣分による部分が多いから。俺は當座、過去に通用してゐたやり方を批判しないで頭から受容れて踏襲する事にしてゐる。俺個人の私意を押出さうと云ふ考へはないから。語彙については今の語彙を使ふけれども表記は大體敗戰直前から戰後直後邊のやり方に從ふ。その時期のは從來の方式がそれなりに洗練されて究極の状態になつてゐた訣だから、そこから出發するしかない。
平成二十年八月十一日
俺がウェブサイトをやつて、文章を載せてゐるのは、基本的に正字正かな普及の爲で、正字正かなで書く事で自分を賣り出したいとかさう云ふさもしい事は考へてゐない。大體、多くの人に抵抗なく讀まれたければ、正字正かななんて使はうと考へないのが「常識人」の考へ方だらう。自分を賣りたいのならば、多くの人に當り前のやうに受容れられるスタイルをとるのが「正しい戰術」だ。「闇黒日記」にしても「言葉 言葉 言葉」にしても、正かな表記を使つた生きたサイトである事を目指してゐる。「PC Tips」の、「正しいHTML」の記事もまた、結局のところ「正しい表現」を啓蒙する爲のもので、最終的には正しい表記――正字正かなへの誘導を目的としてゐる。
平成二十年八月十一日
皆さんの記事の書き方を知りたいな - 最終防衛ライン2
Re: 皆さんの記事の書き方を知りたいな : Weblog : SimpleIsm
記事の書き方ではない : 雑記帳 : der Gegenwart
平成二十年八月十一日
「闇黒日記」の書き方は――秀丸で書いて即FFFTPでサーヴァにぶち込む。大體思ひ附きによる。一氣に書いてざつと見返してそのまゝ。たまに全然見返さない。特に長文、嫌な人への反論。リンクは適當。過去ログは置いてあるだけ。ぐぐつて引つ掛けて遊ぶ。コメント欄はないけれども、餘所のブログから反應があるし、壺方面でスレが立つてゐるから何か言ひたい人はそつちで憂さを晴らしてゐる模樣。反論したい時はその時の思ひ附きでいろいろな方法で。
平成二十年八月十一日
備忘録2008年6月/趣味のWebデザイン
平成20年6月13日の邊。
平成二十年八月十一日
俺の場合、氣合を入れて書けば書くほどぐだぐだになるので、ここでは出來る限り毆り書きで濟ませるやうにしてゐるよ。
平成二十年八月十一日
JIS C 6226の「擴張新字體」 - ziomの日記

正字派にもいろいろあるので一般化はできないが、正字派の不滿は、「正字の體系が破壞された」「略字はあるのに正字がない」であって、略字の收録自體を問題視してゐる人は少ないだらう。

包攝の概念は、最初から使つてゐれば問題ない許りか大變有益だつたのだが、後附けの理論では何の意味もない。國字改革を實行した連中は、包攝の概念なんて知らなかつた。それが致命的な結果に繋がつてゐる。JISの連中も、出たら目な國字改革には迷惑したのだらうから、俺も責め過ぎたかも知れない。
平成二十年八月十一日
が、今のJISの連中、「漢字はいらない子」と思つてゐて、本氣で文字セットの問題・文字コードの問題に當らうとは思つてゐないから、幾らでも責めていい。
と言ふか、文部科学省と経済産業省とで國語の表記は管轄が分れてゐる訣で(さらに、人名漢字は法務省だ)、この事實は日本国の住人が如何に國語なんて何うでも良いと思つてゐるかを如實に示してゐると言つて良い。しかし、最初に文部省の役人が決めた事だから、「國字改革を否定する」と云ふ發想はどの役人も出來ず、省廳はひたすら慣例の踏襲に走り、現状の維持をはかつてゐる。JISなんかも、さうした役人の思惑の中で動いてゐると言つて良い。漢字を廢止したいとか考へてゐる人間が日本語學だのJISの委員會だののトップに居座つてゐられるのは、役人がさう云ふ人間を便利だと思つてその地位に据ゑてゐるからで、斯うなると一般の國民には何うしやうもない。官僚の壁は無意味に厚い。国会議員が強く言つても澁々動く程度なので、官僚の間で定着した方針は動かし難い。
或意味、JISの連中が足掻きに足掻いて文字コードを目茶苦茶にして使ひ物にならないやうにしてしまへば、事態の重大さが一般に知られて、何か起るやうになるかも知れない。が、現實にはそんなの無理だ。
平成二十年八月十一日
安岡氏にしても他の人にしても、せいぜい「今の混亂」を何うにかしたいだけに過ぎず、場當り的なのには變りがない。が、さう云ふ態度をとる人を日本人は「現實的」と言つて非常に高く評價する。「本質的に今の文字セットは駄目、國字改革から見直さなければ駄目」と言ふと、最う妄想家か電波を受信してゐる人と見られる事になる。
しかし、「所詮妄想家の妄言」と笑つて見過ごして呉れるならまだしも、なぜか本氣になつて怒り始めて「こんな××××は徹底的に潰してやらねばいかん」とか言つて行動に移す人が出て來るのだから、日本人と云ふのは本當以下略。

平成二十年八月十日
鳩笛雑記帳 2008-08-09 ■[正字正かな][言葉] 23:42
the view from nowhere : 2008-07-30 (Wed)
どうもです。氣附いてゐなかつたよ。
平成二十年八月十日
コピー機の操作つて難しいよね。
A4よりちよつと大きい紙をコピーする時、用紙をA4に指定しても巧くコピー出來ない事がある。と言ふか、なんでA3/B4とかとA4とでは用紙の向きが違ふんだ。メーカは「これはいい!」と思つてやつてゐるんだらうけれども、却つて判り辛い。
平成二十年八月十日
TVのリモコン、各社が使ひ易さを研究して「いいもの」を作らうとしてゐるのだらうけれども、仕樣が全部違ふので一々操作方法を覺え直さなければならない。ボタンの配置とかを標準化して呉れたら俺個人としては大變ありがたいのだが……。
世間には標準化を「惡事」と看做す人が結構ゐるみたいだし、無理だらうねえ。JISでなんとかすべきだと思ふんだ。文字コードなんて弄つてゐないで、やる事いくらでもあるだらう。
平成二十年八月十日
メモリの容量が増えて、どうせ最う文字なんか幾らでもぶちこめるやうな状況になつてゐるんだから、一度作つちやつた文字セットはそつとしておいて、どんどんどんどん新しい文字を突込んで行けばいいんだよ。なんでいちいち「これはこの書體に變へよう!」とか考へるんだよ。馬鹿ほど小細工を好む。
平成二十年八月十日
WindowsXPではキーボードの處理落ちが激しいやうな氣がするんだが氣のせゐだらうかと今さら聞いてみる。Windows 3.1なんかの方がまだ入力のレスポンスが良かつたやうな氣がするんだけれども。
平成二十年八月十日
(´д`;) - うへぇ -
なんか久々に更新されたのでリンクはつてみる。
平成二十年八月十日
メリットとか (agenda)
と言ふか、HTMLだと「仕樣的に正しくないエラー」の部分はユーザエージェントが適當に訂正するので、最終的に處理されるのは「正しい状態の文書」である筈。
XHTMLだと「見る側で訂正は一切しない」と云ふのが建前で、さうなると「作る側」も「見る側」も嚴格主義にならねば行けない。
が、その氣なら、エラーを含むHTML文書をサーヴァが訂正して發送する事だつて可能な訣で、さうなると作り手が豫め仕樣的なエラーを正しておくと云つた行爲は意味がなくなる。モバイルの機器向けサーヴィスの場合、豫めデータを弄つて送るやうな事が一般化してゐる――傳送徑路のサーヴィス提供者の介入もあり得ると云ふ話だ。
結局、最初に作られる文書自體が「仕樣に照らして妥當かどうか」を問題にする事が、或程度ナンセンスと言へる。或文書に仕樣上エラーがある・ないを言つても始まらない――仕樣がある以上、機械的な訂正は簡單に出來るからだ。
平成二十年八月十日
そこで僕等は文書の見出しレヴェルとかを意識したマーク附けをやつたりしてゐる訣だけれども、これが何處まで有意義であるか、或は有意であるか、が問題。見た目で判斷するデザイナが作つたサイトであつても、そこが或テーマに關して唯一のものである・最良のものである場合、リンクがたくさん張られる事がある――そもそも何んなに見た目をデザインしても、情報は文字ベースである訣で、要素を或程度無視して檢索エンジンも情報の價値を判斷する事がある。「SEO的に有利」と言はれるマーク附けの仕方も、現實にはそれほど有效とはなつてゐないし、それで大體世の中巧くまはつてゐる。となると、セマンティック・ウェブつて何なのだらう。
平成二十年八月十日
何うでもいいと言へば何うでもいいけれども斯う云ふところにひつかかるから人間と云ふのは屡々無意味な粘着と化すんだらうな。
WordPress | 日本語
WordPress (ワードプレス) は、オープンソースのブログ/CMS プラットフォームです。
名前だけ見たらMicrosoft Wordで出版をやつてゐる會社のやうな感じがする。或はWord新聞みたいな。その邊、中の人は考へなかつたのだらうか。
MovableTypeにしても微妙だし、「ソーシャルネットワーキング」と云ふ「概念」にしても「ネットワーク」と云ふ言葉を「變」に使つてゐるやうな違和感を覺える。いろいろネーミングは難しい――のだが、ここで「難しい」なんて書くやうになつたのは俺が歳くつた所爲で、昔ならもつと酷い事を言つてゐた筈。しかし昨今、藝のない名前が増えたよね。
平成二十年八月十日
『だう』學説について - ziomの日記
平成二十年八月十日
JISの文字コード關係の人が「包摂」とか言つてゐるのは、あれはただ「漢字を増やしたくない」から、何とかして文字を入れないやうにと、もつともらしく理由をでつち上げただけでしかない。剣劒劍が當り前のやうに入つてゐるのを見れば、初期の文字セットで包攝の概念なんてなかつた事は火を見るよりも明かだ。「包摂」の原理とか「漢字を入れない」理由は全て後づけの理窟に過ぎない。「包摂」と言つておけば、略字を先に入れる事で正字體を排除する事が出來る訣で、正字が難くて難くて堪らない漢字廢止論者には大變都合が良い。字體の入換へをやつて混亂を生じたのも、要は「漢字を増やしたくない」殊に「正しい漢字だけは絶對に入れたくない」と云ふ「思想」がJISの關係者の頭を支配してゐたからだ。今の時代、PCにしても何にしてもメモリの容量はどんどんどんどん増えてゐるのだから、幾らでも文字は増やせる。そこで「いや、文字は増やしてはならないのだ」と言つてゐるのは、單に「漢字が憎い」と云ふ粘着的な發想に過ぎない。
出たら目な略字をベースにした、體系性のかけらもない文字セット、「文字を追加する」やうにしなければ擴張出來ないやうな文字セットを最初に作つてしまつたのだから、JISは馬鹿のやうに默つて文字を追加してゐれば良いのだ。「包摂」の所爲で「正しい漢字が使へない」事例は實に多い。それをJIS支持派=「正字を馬鹿にするのは當然」派は「正字は現實に使へないのだから排除すべきだ」と云ふ「主張」の「根據」としてしまつてゐる。自分で使へないやうにしておいて「どうだ、使へないだらう、だから使はない方が良いんだ!」と言つてゐる訣で、自作自演も良いところだが、自作自演をやつて他人を陷れようとする人間は馬鹿だから、自分のしてゐる馬鹿な事が絶對に自覺できない。斯う云ふ連中が今のJISだの何だのの仕樣を決定する立場にあり、世の中を支配してゐるから、日本は絶對に良くならない。
少くとも、今のやうな、メモリを潤澤に使へ、機械で日本語を自由に扱へる時代が來ると、豫想出來なかつた人間には、「漢字の未来」を語る資格なんてないと思ふんだ。何でそんな奴が未だにJISの文字コードの方ででかい面して威張つてゐるんだらう。

平成二十年八月九日
XHTMLのメリット (agenda)
と言ふか、そもそも「正しいHTML」で書くメリット自體がよくわからないんだよな。
俺がISO-HTMLで書いてゐる理由だつて、メリットが何うの斯うのと云ふ事ではなくて、ただ「ISO-HTMLではサイトを作れない」と言つたえらい人がゐたから「作れる」と證明する爲にさうしただけなのだから。前に「XHTML v.s. ISO-HTML」みたいな對決をセッティングされて、えらい迷惑を蒙つた事がある。
平成二十年八月九日
記述ミスのチェックなんかは「正しいHTML」を書いてゐればそれなりにツールで出來るから樂は樂だが、そもそも適當に見た目重視で「コーディング」してゐる人にしてみれば「それつぽく見えてゐれば良い」んでエラーチェックなんかはしないものだしする必要すら感じないものだ。
平成二十年八月九日
「HTML XHTML 違い」でぐぐるのも面白い。
平成二十年八月九日
「正しいHTML」だけでサイトを作つてゐると、見た目重視でGoLIVEなんかで企業のほーむぺーじを作つてゐる人に「手傳へ」と言はれても出來なくて「なんだ偉さうな事を言つてゐる癖に何も出來ないのかよ」とか馬鹿にされる危險がある。
嗤はれるだけならいいが、世間では斯う云ふ場合、憎まれる事が多い。
平成二十年八月九日
九龍城砦探検記
平成二十年八月九日
香港・中国 唯我独尊
http://colorfulland.hp.infoseek.co.jp/chungking_mansion.html
平成二十年八月九日
亞細亞とキネマと旅鴉/Asie, cinema et flaneuse
重慶大厦でつかまえて
平成二十年八月九日
記憶屋「廃墟」/廃墟写真サムネイルページ
平成二十年八月九日
Opera 9.51はダブルクリック・クリック連打でうまくURLを撰擇して呉れなくなつた。
平成二十年八月九日
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&om=1&layer=c&t=h&cbll=35.607185,139.356264&panoid=3xhglyZYcZfHkPnMPodkow&cbp=1,117.941602855159,,2,11.817513069355984&ll=35.609615,139.35683&spn=0.004763,0.008154&z=17
平成二十年八月九日
九段下邊、北の丸公園附近は春の一番良い時期に撮つてゐる。
平成二十年八月九日
XHTMLの利点 - 木俣 ロバート久の覚書 (はてな版)
XHTML 1.0: The Extensible HyperText Markup Language (Second Edition)なんかは完全に「HTML 4をXML 1.0で書換へた」もの。要素の意味附けとその屬性に就いてはHTML 4で定義されてゐるとか書かれてゐるぐらゐで、XHTML 1.0それ自體では仕樣として完結してゐない。結果として、「先にHTML 4を勉強しておけ」と云ふ話になつて「XHTMLから勉強」と云ふ事が出來なかつた。その後はXHTML 1.1 - Module-based XHTML - Second Editionが出たけれども、DTDを書直しただけで要素の定義とかは相變らず「HTML 4を見ろ」と云ふ事になつてゐるから状況は何も變らない。
いづれにせよ、先行して「HTML 4がある」訣で、さうなるとHTML 4を、無理やりにでも押しのけなければXHTMLが主流になる事はあり得ない。HTML 4を「廢止」しなければ、或は根絶しなければ、XHTMLはマーク附け言語の領域で――と言ふよりウェブパブリッシング言語として、主流たり得ない。が、それは無茶な話だ。餘りにも無茶だ。戰爭でもあつて世の中に混亂が生じ、ウェブサーヴァが全滅し、ローカルのマシンも消滅して、全てが再構築されなければならないなんて状況が出來しなければ、さう云ふ無茶は通らない。もつとも、現實の言語で、さう云ふ無茶が通つて、完全に表記が變更された事もあつたから、絶對XHTMLが主流にならない、とは言切れないが、それだと現在のウェブの蓄積は全て無に歸す訣だから、一部の人には好評ではあるが、一般人にとつては甚だ迷惑な、「覺悟が要る」と云ふ事になる。

平成二十年八月八日
ポニョ超えだ!ヤマト25年ぶり復活へ(芸能) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース
恋姫無双はこの伏線だつたんだな……。
平成二十年八月八日
燒けるやうに熱いアスファルトの上を、弱つた蝉がそろそろと這つて行くのを見た。

平成二十年八月七日
(糞)議論について (agenda)
俺を叩くだけの爲に結集していらつしやる某所の方々は「建設的な議論」をやつてをられるやうだ。

平成二十年八月六日
福田さんの文章ろくに讀んでゐないだらう人から「福田恆存の眞似ばかりしてゐる」とか言はれたのだけれども反應に困る。
平成二十年八月六日
俺も人の神經逆撫でする事だけは得意だな。
平成二十年八月六日
俺はネタとシリアスを取混ぜて話すのが趣味なのだけれども、これが嫌で嫌で堪らない人がゐるらしい。全ッ然笑へない話をするのが大好きだからな。俺のジョークで苦笑して呉れる人は大變ありがたい存在。
しかし、そのやうな或意味微妙な事も、平然と受容れられる精神――一種の寛容の精神――を、日本人は持つ必要があると、福田恆存は言つてゐるのだ。日本人にはその種の精神が缺落してゐるし、それが日本人の一番の弱點である。
日本人の笑ひは、吉本とかのネタに反應する「神經の反射」でしかない。でなければ、「他人を侮蔑するデモンストレーション」としての嗤ひ――自分を相手より一段高いところにおいて滿足する爲に實踐する「笑ひ」だ。知的な笑ひ・精神的な笑ひと云ふものが日本人にはあんまりない。
日本人に理解されるのはせいぜい「とんち」までだ。そこから先の或種の仕掛け、「ひつかけ」は、日本人にとつては寧ろ「不快なもの」になつてしまふ。それが日本人の精神の重大な缺陷だと俺は思ふのだが、さうやつて缺陷を指摘されても笑へないのが日本人である。
日本人にとつての「笑ひ」は、相手を理解し切つたか、見下したか、拒絶するか――いづれにしても「他者を受容れない」時の信號である。「笑つて受容れる」と云ふのを、日本人は大變苦手にしてゐる。特に「氣に入らない相手」に對して。最初から「氣に入つてゐる相手」に對して、「あなたを氣に入つてゐます」と合圖する爲に「笑つて見せる」と云ふのは、割と一般的なのだが、氣に入らなくなれば途端に笑ひは引込む――人を見下した「嗤ひ」に轉ずる。が、「最初から氣に入つてゐる」ならば自分は態度を變へる必要はない。
平成二十年八月六日
恋姫無双初めて觀たが結構面白い。と言ふか樂しい。
平成二十年八月六日
毎日新聞連載「ネット君臨」で考える取材の可視化問題:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan
毎日新聞社内で何が起きているのか(上):佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan
匿名にも效能はあるが、全ての匿名が例外ナシに「效能がある」と云ふ訣ではない。俺なんかは、匿名による嫌がらせ被害を現實に受けてゐるのだから、「匿名の效能」許りを強調する氣にはなれない。
その意味で彼の「がんだるふ」という名前は確かに実名ではないけれども、ネットの世界では限りなく実名に近い名前だ、と云ふ指摘は、しかし、「現實の世界における本名とは限りなく縁が薄い」と云ふ事も意味する。そして、ウェブでの評判よりも、現實における評判の方が、現實に生きる人にとつては重要なのだ。
複雜な事實を二項對立の圖式に押込む單純化が、「匿名 v.s. 實名」の議論では常に行はれる。今、毎日新聞社の内部で、「匿名=惡」への單純化が行はれてゐるとの指摘がなされてゐる。けれども、「○○新聞社」の記者と云ふのも匿名の一種でしかない。其處で行はれる匿名の問題の鬪爭は、結局のところ、「俺以外の匿名は許せない」式の、單純な排除の論理に基く他者への攻撃に陷る結果となる。
しかし皆さんもおそらくそう受け止めると思うけれども、彼らネット君臨派のの考え方は、明らかに間違っている。と云ふ言ひ方は、一種の誘導で、俺なんかは、それでも「惡い匿名の輩は存在する」し、さう云ふ連中を助長させるだけだから「匿名の效能」を強調する記事は決して好ましいものと思はない。
檢閲について述べて、D.H.ロレンスが本當に猥褻なものを檢閲する事を「あり」だと言つた一方で、T.S.エリオットが「檢閲に通つたものは『良い』と認められたと看做されてしまふから檢閲好ましからず」と皮肉を言つてゐる。物事には二面性があるのであつて、それを認識してゐた福田恆存の言論は實に「微妙」であり、それゆゑ精緻極まるものとなつた。ところが、今でもさうした「ややこしい言説」は忌避され、單純化を好む人が大變に多い。「匿名」にしても、我々は割と單純に「善」「惡」と極附けて爭ふ。が、人間のする事だから、一つの「匿名」なる言葉で呼ばれてゐても、良い匿名と惡い匿名とがあり得る。當り前の話だ。俺はその當り前の話をややこしく言つてゐるに過ぎないが、しかし、そのややこしい言ひ方をしないと正確に表現できないのだから仕方がない。匿名は、「社會的な抑壓を受けてゐる状態では必要である」一方、「抑壓を受けてもゐない連中が自分のとるべき責任を囘避しながら他人の責任を追求して遊ぶのに使ふ」と云ふ困つた面もある。毎日新聞社の内部では、單純に匿名を後者の匿名に結び附けて、全てを解決しようとしてゐると云ふのだが、現實はややこしいので、前者の匿名の立場から批判が出る。もちろん、どつちか一方の立場で全ての匿名を覆ふ事は不可能だから、議論は永遠になくならないし、或種の人々は「わからない人」であるので、單純化・圖式化に基いた誤つた認識に固執して、議論を泥沼化させてしまふ。
「旧字旧かなを使っているから」何うの斯うのと云ふ恐ろしい圖式化・單純化で人々を説得しようとしてゐる某氏も、「匿名は、必要である場合もあれば有害である場合もある」と云ふ指摘は「當り前」と認めるだらう。野嵜がさう云ふ「當り前の事」「詰らない事」を「小難しく言っている」と惡口を言ふだらうが、本質的でない惡口は言はぬが良い。しかし、さうやつて頑に誰かの言ふ事を頭から「駄目」と極附けて、何であれ揚げ足を取れさうなところを見附けて惡口を言ふ、と云ふのでは、結局のところ、「毎日新聞社の記者」がやつた「はじめにストーリーを作つておいて、それにそつてインタビューする」やり方と何ら變らない。
「ネット君臨」だか何だか知らないが、毎日新聞社の人が冒した誤と云ふのは、匿名を否定した事ではなく、『死ぬ死ぬ詐欺』なる問題それ自體について直接判斷しなかつた」事にあり、ただ自分の立場を正當化する爲に自分と異る立場の人がとつてゐる全く次元の違ふ立場――「匿名」である事――を引合ひに出した事にある。
當り前も當り前の話で、眞實を追求するならば、問題それ自體をありのまゝに見て論ずれば良い。そこで一々問題とは本質的に關係ない事を言つて、それを結論に結び附けるのでは、話のすり替へと言はれても仕方がない。敵の人間の或種の屬性を採上げて問題にするのは、話のすり替へなのであつて、議論の本質と關係がないのならば、絶對にやつてはならない。ところが、それがわからないのが日本人の重大な弱點で、「道徳的な責任」を論ずるのだからとか言つてひたすら敵の人間を無責任であるかのやうに見せかけたりする戰術が横行してゐる。
「人の話を聞けない」人が、ただ、自分の言ひたい結論を言ふだけの爲に「敵の意見」を聞くポーズを取る――實は、我々がさう云ふ態度を當り前のやうにとつてしまふのには、それを正當化する極めて強力なスローガンがあるからだ。それは「公正」と云ふ言葉だ。我々は公正であらねばならぬが、公正の名の下に行へば何でも許されてしまふと屡々勘違ひしてゐる。それと同時に、本當に公正であらうとしてゐる人に對して「その公正はポーズ」と非難を浴びせるやり方も一般化してゐる。斯うなると將に「言葉 言葉 言葉」で、我々は言葉に引きずり囘されてゐるのであるが、しかしそれでも矢張り人は公正であるべきである。要は「公正な立場」なる絶對的な立場が「ある」と信じられてゐるから話がややこしくなるのであつて、人は皆、自分の立場を持つてゐる事を互ひに認識し合ふべきなのだ。自らの立場を闡明にする事は、その意見を他者が相對化するのに有益である。さうした意味で、或論點に對する自己の立場を明かにする事は、その論點に對して「中立の立場」を表明するよりは、よつぽど公正であると云ふ事になる。それは福田恆存が何年も前に述べた事であり、俺はその意見に賛成する(案外、多くの人が「誰かの意見に賛成する」と云ふ立場の表明を、必要とは感じない――のみならず、極めて強烈に反撥するのだが、それは良くない)。
平成二十年八月六日
ところで僕は、必要なだけ長く論ずる事は必要だし、その方がより誠實だと信ずるのだが、世間の人は、言葉は短ければ短い程良い、長く言ふのは「くどい」から「良くない」と信じてゐるやうだ。適當に短く出來る才能のある人ならばやればよろしいが、僕みたいにあんまり文才のない、そもそも頭の出來が良くない人間には、必要な長さの文章をありのまゝに提出した方がまだしも増しだと思ふ。もちろん、長く書いてもそこで事實の歪曲だの何だのをやらかしてゐる惡性の人は困つたものだし、さう云ふ人は責められても良いけれども、僕としてはさう云ふ事は出來るだけしないやうにしてゐる積りだ。少くとも、單純に何からでも僕の「惡意」なるものを讀取つては貰ひたくないと云ふ事だ。
平成二十年八月六日
と言ふか、眠くて良く解らないまゝ適當書いてる。
一言で言ふと、某氏は我慢が足らないね、と、それだけの事を言つてゐるに過ぎない。
平成二十年八月六日
“炎上”を恐れる人は“炎上”を正しく理解しているか?:NBonline(日経ビジネス オンライン)
普段からまじめにやつてゐれば、アンチが「炎上」を起さうとしても、擁護して呉れる人が必ず出て來るから、さうさう變に燃上つたりはしないもの。
平成二十年八月六日
ウィズダム英和・和英辞典の販売を停止します | 物書堂
コメント欄が興味深い。「匿名」と云ふハンドルの人の言葉遣ひに注意。
一般に匿名擁護の立場の人は、斯う云ふ憎々しげな物の言ひ方をする匿名の人の存在を、餘り問題視しない傾向がある。この手の人は、言葉遣ひを注意すると、逆に居丈高に罵り返して來る。本氣で自分の正義を信じてゐる證據だが、言葉遣ひが惡いと云ふ事はいろいろ人間的に問題がある訣で、さう云ふ人に他人を罵つたり他人の責任を追求したりする權利を認めて良いものか何うかは、個人的には疑問。
平成二十年八月六日
と言ふか、自分の態度が惡い人ほど、他人の態度を詰つて責任取らせようとするよね。スーパーで店員に食つて掛かつてゐるをばさんとか。マンガでしか見た事ないけど。
平成二十年八月六日
漬物倉庫(嘘): ネットでの暴言を減らすには
現時點でまだ話が途中。
何と言ふか――「自分の認識は絶對である」「俺の認識から出發しなければならない」と云ふのは科學的な態度か、と云ふのが先づ大問題。科學を共通の價値觀と認めてゐるならば、さう云ふ見方が成立つ。
平成二十年八月六日
議論で話が噛合はないのは、價値觀を共有してゐないから。何らかの共通の價値觀があるならば、其處から全て理窟が一貫するので、互ひに相手の主張を檢討出來る。價値觀が異る場合、相手の價値觀を罵倒するだけの結果になる。
「喜」や「義」は「俺等と野嵜の價値觀は違ふ」と感じてゐるが、そこで「野嵜の價値觀はをかしいからぶつ潰す」と云ふ方向に即座に行つてしまつてゐるのが問題――だが、それを「問題」だと俺が認識するのは、俺の價値觀。彼らには「さう云ふ事をするのが當然」と云ふ價値觀があつて、自分逹の言動に何ら問題性を感じない。
俺の場合、自由主義と云ふ價値觀が基になつてゐるので、それを共有する人ならば、話が出來る。それが出來ないのだから、「義」にしても「喜」にしても、その價値觀を持つてゐないのは確實で――だが、それだと、彼等は現在の日本の體制を否定してゐる事になる。
平成二十年八月六日
とらドラ八卷。全盛期の頃の真柴ひろみを思ひ出した。伏線だらけ。
平成二十年八月六日
昨日は何とか乘り切つたと思つてゐたが調べてみると何うも瞬間的な停電があつた模樣で、USB接續のキャプチャユニットが軒並電源落ちてゐた。御蔭でウルトラヴァイオレット(ANIMAX)を録畫し損ねた。RDの開始時に二臺死んでゐるのに氣附いたが、最う一臺、内藏のキャプチャボードで録畫してゐたので助かつた。PC再起動で秘密以降全機復歸。

平成二十年八月五日
何處だかの誰だかさんがMac OS X用のテキストエディタを紹介して呉れたのを見た記憶はあるんだが「ここ」からリンク張るの忘れてゐたら行着けなくなつた。大變申し訣ない。
平成二十年八月五日
Googleマップの「ストリートビュー」機能、日本でも開始
「ストリートビュー」のプライバシー問題、グーグルが方針説明
Google マップ - 地図検索
うちばつちり映つてるよ。牡丹の花が映つてゐる。Operaで動かなくてしよんぼり。
マウスでクリックすると動く。昔の(詰らないと評判だつた)某マルチメディアCD-ROMゲームみたいな操作性。
カーソルで動きまはれるぢやん。キーボードで操作出來ると操作性は格段に良くなる。
神保町ヴァーチャルツアーとかやれていろいろおもしろいが、なぜか東京堂の前だけ撮影されてゐないとか訣のわからないぬけがある。何なのだらう。
平成二十年八月五日
Opera 9.51のメーラで「見れない」と云ふ不適切な日本語譯を發見した。何なのだらう。
平成二十年八月五日
ネット上の人権侵害が急増、政府が撲滅呼びかけ
インターネットを悪用した人権侵害をなくすために:政府広報オンライン
「削除要請」だけで問題が解決できるとか、當事者以外の第三者・役人の認識の甘さは目に餘る。

平成二十年八月四日
新宿京王の古書展には木曜日の夜行つた。結構いろいろ出てゐて、例へば神道關係の本がまとまつて出てゐたけれども、何しろ値段が高いので買はなかつた。
金曜日には東京古書會館の古書展に行つた。フランス文學關係特にランボオやボードレール關係の本に目ぼしいものが。何册か買つて來た。
平成二十年八月四日
『pronto pronto?』Vol.7のガセネタ - yasuoka の日記
菊半截がA6に變つた理由が書かれてゐない。
慥か戰時中の用紙の規格統制で紙のサイズが強制的にA/B判系列に統一させられて、その煽りを喰つて出版物の版型も變更されたのだつたと思ふ。
岩波文庫はもともと今のサイズよりちよつと大きめだつた。(岩波新書も)
冨山房の百科文庫は三六版で出てゐたのが戰中にA6に切替つた筈。文庫版で出るやうになつてすぐ廢刊になつたと思ふ。手許には文庫版の萬葉代匠記がある。
文庫ではないけれども、創元選書も戰爭中に版型が變つてゐる。
平成二十年八月四日
●GALLAP HOMEPAGE●

1927年に刊行された岩波文庫は、現在のものよりひとまわり大きかった。これは「菊半裁(110×152)」というサイズで、その後、戦時中用紙の規格統制が行われたためにやむなく現在の「A6判(105×148)」にあらためたのである。(『岩波文庫総目録』岩波文庫について)

サイズの変更が進んでいた頃の岩波文庫を見ると、印刷の版は菊判のままで、無理矢理小さいA6判にしているものだから、一部が切れかかっているような断裁のおかしい本がけっこうあった。

以後、このA6判が、「文庫判」として定着するに至った。今でも、古書店の文庫の棚には戦前に発行されたやや大きめの岩波文庫が何冊か並んでいるはずである。

平成二十年八月四日
ちなみに洋服のポケットに入れ易いやうに(だつけ?)サイズを調整したのは幻冬舎文庫。
うだうだWeblog: 群ようこ「音の細道」幻冬舎文庫
本の雑誌でも幻冬舎の文庫の大きさに文句を言つてゐる人がゐたやうな記憶が。ズボンだかジーンズだかのポケット(スーツのポケットではなく)に入るやうにとか云ふへんなこだはりと云ふ事だつたと思ふ。うろおぼえだから自信なし。ぐぐつてもこの邊の情報、全然出て來ないんだよな。
平成二十年八月四日
三教書院も袖珍文庫と稱するシリーズを出した事がある。
袖珍文庫
20080804Shuchin.jpg
所謂文庫版や菊半截よりもずつと小さな四六半截の可愛らしい本だ。江戸時代に出た本を多數採録してゐるが、平家物語や萬葉集、古今集、或は古事記もラインナップに入つてゐる。最近岩波文庫で出た聯珠詩格も既にこの袖珍文庫に收められてゐる。
平成二十年八月四日
今週の本棚:三浦雅士・評 『訳注聯珠詩格』=柏木如亭・著、揖斐高・校注 - 毎日jp(毎日新聞)
平成二十年八月四日
放映開始當初は何うなる事かと心配してゐたS・A〜スペシャル・エー〜が最近普通に面白くなつて來た。花田だから最後何うなるか不安は殘るが。

平成二十年八月三日
Operaの9、8よりも表示が速い事は確かなのだが、なんか妙に「もつさり」した感じがする。何なのだらう。
ちなみに、以前Opera 9.52の動作がへんだつたのは、システムのHDDが死にかけだつたかららしい。今は何ともなく動いてる。よくわからないけれども。
平成二十年八月三日
Opera 9は、*.mhtの讀み書きが異樣に速いので、ふたばなんかのログとりとかログ閲覽にはIEよりも便利に使へる。
平成二十年八月三日
Webブラウザ標準適合性のわなとAcidテストの正体(1/3) − @IT

しかし、これは手放しで称賛できる状況でもありません。なぜかといえば、「宗教的な思い込み」を打破したAcidテストが、今度は「宗教的な思い込み」の絶対神に祭り上げられている状況もみられるからです。

なんか俺、この種の批判には、そろそろ飽き飽きし始めてゐるんだよな。
平成二十年八月三日
SFが衰退した理由がここにある - 脇見運転

50年代の頭に書かれたこの本は、徹頭徹尾、読者の知的水準の高さにひたすら頼っています。それは黄金期のハードSFすべてにいえたことでもあるのでしょうが、書いてあることが荒唐無稽と筋の通った科学のぎりぎりのところにある、ということを理解できなければ、この短編集を楽しむことはできないかもしれません。

最近の人は――と言ふよりも、その手の「わからない人」は、どんどんどんどん増えてゐるやうな氣がする。殊に、ウェブで氣樂に物を言へるやうになつて以來、「わからない人」が大聲で「わからない事を言つてゐる人間」を激しく罵る事が目立つやうになつてゐるやうな氣がする。
しかも「わからない人」は、「わからない」のは自分が惡いのでなく相手が惡いのだと思ひ込む傾向がある。この種の人は、思ひ込みが猛烈だから、「わからない事を言ふ奴は成敗せねばならない!」とか本氣になり易く、手段を選ばない。自分の正義を心から信ずる爲に、どれ程惡辣なやり方でも許されると心から信じてしまふ。彼らは「わからない事を言ふ人間」の活動を執拗に妨碍して粘着と化す傾向がある。
こんな時代に、だからこそ「ぎりぎりのこと」を言ふのは必要だと俺は信ずるし、それにさう云ふ事を言ふのが俺は好きだから(もともと俺は割とSFを好んで讀んだ人間)普通の文章で普通に微妙な事を言ふのだけれども、さうすると「わからない」と言つて憎惡して呉れる人間が續出するやうになる訣だ。が、粘着の出現は、俺の責任ではないだらう。そこで「野嵜に責任がある」と言出す人が現れるからこそ、今と云ふ時代はダメなのだけれども、そこで「ダメ」と言ふとまたどこかがぶち切れて俺の事を憎み始める人が出て來る。でも、だからと言つて、今さら默つても、それこそ、最うダメなんだよね。一度言ひ始めて斯う云ふ事をやり始めた俺は、最う止める事は出來ない。
皆が信じて世界が動き始めたら、嘘であつても最後まで吐き通すしかない。動機が何でも、事態が動き始めたら最う正義になりきるしかない。それが責任を取ると云ふ事だ。さつきコードギアスで言つてゐた。
平成二十年八月三日
世界があまり変わらないのでブログやめようかと思う - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記
まだやめてないかららぶらぶDOG氏は大嘘吐きだな。わらひ。
平成二十年八月三日
今日のニュース - 黎明日記經由。
「強制ブログ」というライフハック - U.gEn.FujitsU++
ブログを更新したければ、趣味と睡眠、そして仕事に割く時間を減らせばいい。

平成二十年八月二日
http://www.7key.jp/diary/list/2008_08a_01_01
うわあ……。

一年以上經過。

この状況をこの上なく的確に表現する文句がある。江戸の敵を長崎で討つ
被害妄想と言ふか――「無斷リンク」の事、なんでこんなに拘つてゐるんだこの人。俺のする事が全部「無斷リンク」の話に繋がつてゐるらしい。俺が指摘したのは飽くまで「だうも」と云ふ假名遣の事。ところが、其處から七鍵氏、遡つて「一年以上前」の事の話が繼續してゐる積りでゐる。關係ねえだろ。關係ない事を勝手に關聯附けるのは頭の病氣。病氣だよ病氣。殆ど病氣。
と言ふか、そもそも「無斷リンク」の邊、七鍵氏の變な思ひ込みと價値觀に基いた誹謗中傷で、俺、何一つ悪い事してゐないんだよね。それを七鍵氏、自身の正當化に終始とか極附けて罵つてゐる。しかも、「リンクを張らない」のと「名指しで指摘しない」事とには重要な關係があるのに、「關係がない」と言張つてゐる。リンクを張らない事は名指ししない事だ。七鍵氏の頭の中は何うなつてゐるのだらう。俺を非難する連中は、悉く頭がをかしい。俺つて電波を受信してゐる連中には相當憎ッたらしい存在なんだらうな。

私はたゞ、無斷リンク禁止をうたふサイトに對し、冗談で意味もなくリンクを設定し、喜ぶその態度を惡だと斷じたに過ぎない。

冗談とか何を言つてゐるんだこの人。阿呆か。人の事を阿呆と罵つたのだから、阿呆に決つてゐるな。無斷リンク禁止は許せないが、無斷リンク禁止を嘲笑するのも許せないんだと、目茶苦茶。七鍵氏はひたすら「絶對にゆるさないよ」と言ふだけの人なんぢやないだらうか(あれはnovくんちで大人氣だが、そもそも荒しだから)。馬鹿を馬鹿と言ふのは批評だ。「意味もなく」ではなく、意味がある事だ。「無斷リンク禁止」が有害だからこそ、俺は反對してゐるのだし、反對するのなら嘲笑でも何でもするがいいさ。だからこそ今、アンチ野嵜の七鍵は俺を嘲笑して喜んでゐるんだらうが。七鍵は、自分がやつて良い事を、他人がやつて惡い事と言つてゐる。二枚舌と云ふ奴。惡性氏もさうだが、この手の自分勝手な人間の得意技だ。
あとさ。

自身のいふことに自信をもてないがために、繰り返し繰り返し同じやうな内容ばかりの文章を聯ねてゐるにすぎない。

七鍵氏は、自分の言ふ事に絶對の自信を持つてゐるんださうだ。やつぱり自慢がしたいらしい。自分が一番えらいと言ひたいんだよこの人。自分を「神」だと思つてゐるらしい。
しかし、どうして斯う云ふ解釋をしてしまふんだらうなこの手の人つて。自己啓發セミナーにでも通つてゐるんぢやないのか? あゝ云ふ處の「信者」は、みんな自分の言ふ事には絶對の自信を持つてゐるし。俺はあゝ云ふのが一番嫌ひなんだよ。自分に自信を持つてゐるのが自慢でならない幸せな奴。
現代に於てニヒリズムと云ふ事を知らない、氣にもしない幸福な奴を、俺は信用しないし、好みもしない。
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080801/p5
平成二十年八月二日
最う七鍵氏にすり替へられた話が本筋みたいになつてしまつてゐるけれども。患者が根本的に勘違ひしてゐるなら、醫者はそれに附き合ふしかない。もつとも、俺にやつこさんを治療する意圖はない。ウェブみたいな公開の場で、出來るのは一對一の對話ではなく、飽くまで不特定多數を相手にしたパフォーマンスだ。「無斷リンク禁止」とか言つてゐる連中にしても、その邊の事を認識出來ないでゐるだけの事でしかない。
「無斷リンク禁止」のところにリンクを張る行爲、それを七鍵氏は許せない冗談だと言ふ訣だけれども、皮肉を言ひ諷刺するのは批評の常套手段で、その當り前の方法を俺は好んで採用してゐるに過ぎない。その「好み方」が「人間として許しがたい」ものだと七鍵氏は言ひたいのだらうが――嫌つて呉れて結構だ。あゝ結構。御上品にとりすました連中には、皮肉のやうな下賤な輩のする下品な行爲は御氣に召さないものだから。だが、俺みたいな生れも育ちも惡い人間には、こんなやり方が御似合ひなのさ。
世界の文學者で偉いと言はれてゐる人々は、皆、皮肉なやり方を好んで採用し、諷刺文學の名作をものして來た。そして、名作と言はれる文學作品は、全て諷刺文學の系譜に屬する(今日、東京古書會館の古書展で、フィールディングのトム・ジョウンズを買つて來た。原書。讀む氣もないのにな。これも典型的な英國流諷刺文學の一作品だ)。俺は一介の文學の徒だから(即ち無頼の徒である)、偉大な文學者のやつて來た事を模倣しようとしてゐる。俺は過去の人々のやり方を模倣する。己獨自の個性なんてものを發揮しようなんて思はない。さう云ふ事だ。
――理解出來ないなら俺の文章なんて讀む事ないよ、アンチ野嵜の七鍵氏。嫌ならスルーするのが一番だ。スルーこそ最大の侮辱なんだとさ。俺の文章は誰にでも樂しく讀めるものではないから。俺の文章は、自分で言ふのも何だが、毒だよ。一つの文章に二つ以上の意味を籠めて書いてゐる事はしよつちゆうある。
平成二十年八月二日
「無斷リンク禁止」のサイトを「晒した」と七鍵氏は罵るんだがね、晒して嘲笑すると云ふ行爲に、七鍵氏は俺の絶對の自信を讀取らないのかね。或は讀取るのかね。否、七鍵氏は俺の誇示を見出してゐるのだから、讀取つてゐる筈だ。ところが、自信を持つてゐる事を非難する口が、今、自信を持つてゐない事を嘲つてゐる。何なのかね七鍵くん。人を馬鹿に出來るなら何でも良いのか。
「無斷リンク禁止」のサイトを「晒した」と七鍵氏は罵るんだがね、晒されて可哀想だとでも言ひたいのかね。何を思ひ上つてゐるのかね。七鍵くんは、「無斷リンク禁止」に反對してゐると。ところが、その「無斷リンク禁止サイト」が「晒されてゐる」と、憐れんで、擁護に廻ると。七鍵くん、あんたは自分が如何に御立派で、高尚な人間であるか、本氣で自惚れてゐるのではないだらうね。敵に憐れみを施す、か。一番酷い侮辱の仕方だよ。無神經にも程があると言ひたいね。七鍵氏よ、あんたの無神經さはちよつと度が外れてゐるよ。もちろん、あんたに「擁護」された「無斷リンク禁止」の人は、喜ぶか知らんがね。「マナー」が何うの斯うの言ふ人間同士、他人の行爲を道徳的に即座に裁く権利を持つてゐると勘違ひしてゐる人間同士、表面的な言動で簡單に納得し、欺し、欺され合ふ事が出來るだらうよ。だが、ちよつとでも人間の心理の機微を知つてゐる人間が見たら、七鍵氏のやり方・言ひ方には蟲酸の走る思ひをする事だらう。
平成二十年八月二日
一々先方の更新をチェックしないで書いてゐるから。
http://www.7key.jp/diary/list/2008_08a_02_01
平成二十年八月二日
http://www.7key.jp/diary/list/2008_08a_01_02

確かに口が惡かつたね、反省してゐます。

口が良い惡いではないんだよ。挨拶だの言葉遣ひだのに拘る「道徳的」な人は、言葉に對する感性がとことんにぶい。
平成二十年八月二日
話は別だけど、うちと言ふか「闇黒日記」への言及については、世間では大體http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlにリンクを張つた上で、何年何月何日の何番目邊の記事、と書くのが通例になつてゐる模樣。
平成二十年八月二日
何それ?「駅ですかしっ屁ばらまきます」が「すかしっ屁という通称の毒ガスをばら撒く可能性」という解釈で警察に通報
靖國で何うの斯うのと書いて廻つてゐた人がゐたけれども、あれも今だと通報の對象になるんだらうな。
平成二十年八月二日
http://d.hatena.ne.jp/twoineko/20080801
あー俺、誤讀してゐるね。人が誤讀するやうな文章を書く奴が惡いとか開き直つて見る。
白眼視と云ふ言葉があつて、何處だかの誰だかさんが人と會ふ時、嫌な奴が相手だと白眼で應對したとか云ふ話。俺も嫌な文章を讀む時は白眼視ではないけれども半分見ないで讀んでゐると言ふかよく讀んでゐないので、誤讀し易い文章だと普通に誤讀する。
で、かうやつて聯想で適當な事を書くと、「話を逸らして自己正當化」とか言はれるんだが、何うしたものだらう。
平成二十年八月二日
静けさの空き地
無斷リンク。笑。
平成二十年八月二日
無題 - 黎明日記
ふたばの虹裏(img)でもスレ立つてたよ。おつさんが多かつたみたい。
平成二十年八月二日
http://www.7key.jp/diary/list/2008_08a_02_02
(´д`)
平成二十年八月二日
何うでも良いけど先日HDDが死んでバックアップからデータ書戻した時に、以前ウェブ上から消したデータが出て來たので、改めて公開してゐる。
特記事項:リンク關係の免責事項
半分位パロディなのだけれども、元ネタのサイトがなくなつてゐたり、無茶苦茶時代を感じさせるイタい代物になつてしまつてゐる。公開當時の意圖とは異る、「今だからこそ面白い」と云ふバカ記事になつてゐて、いろいろアレ。
それにしてもまたどれかのHDDから異音が發生してゐて(複數内藏してゐるので音だけではわからない)、あやしい事になつてゐるんだが。なんでHDDつて、未だに壞れるんだらうな。或は――好い加減、HDDの次のストレージデヴァイスが出て來て普及し始めてもいい頃だよな。十五年前から、本質的にPCの作りは變つてゐないんだよ。何なのだらう。俺が習ひ覺えたPCの知識が未だに役に立つてゐるんだから。なんかをかしいと思ふ。
平成二十年八月二日
高校野球が延長になつたせゐでメジャーとテレパシー少女蘭が55分ずれ込んでゐる。が、EPGをNHKが更新してゐない。豫約を自動追從にしてゐて録畫失敗する人、續出しさう。
しかも、土曜日だからBS11のプリキュア[再]と衝突する。ひどいなこれ。
あと、來週九日のTOKYO MX、R.O.D -THE TV-が18:30からに變更になつてゐる。高校野球次第だが蘭との兼合ひでトラブる事必至。

平成二十年八月一日
RFC 7key 2008年07月下旬 -- Ray:雑学事典

私は件の記事で、無知を根據に他人を貶める姿勢が氣にくはない、さういつてゐるにすぎない。

無知は貶められるものに決つてゐるだらう。俺だつて良く無知を貶められてゐる。
何で俺だけが「氣に入らない」とか言はれなければならないんだらう。わけがわからん。

無斷リンクの話を持ち出したのは、過去に野嵜氏が今囘と同樣に知識のない他人を不當に貶めて公の場で晒し者にしてゐたことを思ひ出し、その時同様なことを思つたから。

「晒し者」と云ふ言ひ方が氣に入らない。俺は批判をしただけだ。何でレッテル貼りをする人は、自分がレッテル貼りと云ふこの上なく惡い事をしてゐると云ふ自覺がないのだらう。

まあ本當に思ひ出したのは、そのことを指摘すると自身の過ちを認めようともせず話を摩り替へて、自身の正當性ばかりを誇示しようとしたことなのだが。

何を言つてゐるのかさつぱりわからない。自分の正しさを證明しようとするのは當り前の事ぢやないか。それを誇示とか言ふのは、そもそも學問全體を、學者の行爲を全否定する言ひ方だ。
それに、俺が何時何處で「話のすり替へ」をしたと言ふのだらう。「無斷リンク排屋」とか言ふ人間は、必ず抽象的で曖昧な言ひ方をして、證明抜きで氣に入らない人間を惡人に仕立て上げようとする。これだからたちが惡いのだ。「自分は絶對の正義」とか勘違ひし、他人を只管「氣に入らない」と言つて侮辱を加へて好い氣になつてゐる七鍵氏に、さう云ふ自覺はないのだらうけれども。
平成二十年八月一日

更にちなみに。後の部分は放置。いはれたことにかつとなつて、極め附けだの滑稽だの何だのと、ばかっていったほうがばかとの理論を元に書かれた言及するにも及ばぬ文章だから。その「後の部分」、野嵜氏にそのまゝあてはまる事實を考へれば、言つてゐることに何ら思想も何もないたゞ自身を正當化しようとしてゐるだけとのことが判る。例へば、「私は最う何も言ひませんと宣言しつゝ何か言つてゐるのつて、本當、滑稽極まるんだが」のやうな調子が延々と續いてゐるだけ。

これだよ。ばかっていったほうがばか。誰がそんな事を言つたよ。話のすり替へどころか、七鍵氏は根本的に理窟が解らない人間だ。
それに、俺にそのまゝあてはまる事實つて何だよ。それこそばかっていったほうがばか理論だろ。ふざけるな。

まあつまるところは何か。野嵜氏は私に傲慢な態度をとられたことが氣にくはない、もつと謙虚に、せめて失禮のない態度をもつて野嵜氏に接せよ、とさういひたいがために長文を書いたのか。

なんで野嵜氏に接せよとか言出すんだ? どうして話を矮小化してごまかさうとするんだらう。

意圖が違ふのであれば、今囘の長文で何が言ひたいのかはつきりとしてくれ。何だか長々と書いてあるのだけれども、私の何にかつとなつてゐるのかいまいちよくわからない。言ひたいことははつきりと言つてくれ。

とぼけるな。好い加減にしろよ。俺の言つてゐる事が何も解らないとしたら、七鍵はとんでもない鈍感野郎だ。さうなのだらう。「義」もさうだし。
そもそも七鍵は「氣に食はない」とか言ふが、俺の何がそんなに氣に食はないのか、それをはつきりさせろ。
と言ふより、俺ははつきり言つてゐる。繰返し言ふが、俺の言葉がわからないのは、あんたが鈍感だからだ。自分が一番偉いと勘違ひしてゐるから、他人の事が何もわからないのだ。
平成二十年八月一日
あと、無斷でマーク附けを改變した。なんでこんなところでdfnなんて使つてゐるのだらうと云ふ處で七鍵はdfnを濫用してゐる。訣がわからないから當座emにした。
平成二十年八月一日
理屈のわからない人 - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
出先でちまちま書いたけれども、「馬鹿と言つた奴が馬鹿」でいいや。二ノ宮くんにだつてさう書いてあつたし。
七鍵あんた馬鹿だらう。七鍵は自分が馬鹿だから、訣も解らないで俺の事を馬鹿呼ばはりしてゐるんだ。
平成二十年八月一日
http://www.7key.jp/diary/list/2008_07c_30_02
追記だの何だの一生懸命書いてゐるが、あんた引用してゐるだろ。引用していいのだから言及していい、當然、リンクしてもいい。無斷リンク上等。何が惡い。大體引用だの言及だのリンクだのは、無斷でするものだ。「した」からこそ、見る人間は、その意味を考へるんだ。そこで端から「意味はない」などと極附けるのは、七鍵が俺の事を意味もなく憎んで俺を惡人に仕立て上げたいからに相違ない。
何れにせよ、七鍵の「理論」は、破綻してゐるんだよ。それも七鍵はわからないんだ。
と言ふかさ、七鍵、自分が人を小馬鹿にした態度をとつてゐるの、自覺ないのか。本當にないのか。七鍵さんよ、はつきり言ふけど、あんた、凄じく態度惡いよ。そんなあんたが、何うして他人の態度に文句を附けられるんだ? 説明してみろよ。説明出來ないだろ。出來ないからこそ、あんたは人をひたすら小馬鹿にしてごまかさうとするんだ。御利巧なやり方だよ。全く御利巧だ。これなら俺みたいなバカの方がよつぽど増しだ。俺は大體、御利巧な連中から憎まれてゐるから判る、あんたも御利巧だから俺みたいなバカを馬鹿にして好い氣になりたいんだ。
いいか、あんた、あんたは俺の事を阿呆と言つたんだよ。あんたが阿呆と言つたのは「正しい」んだらう。ならあんたに無知を根據に他人を貶める姿勢が氣にくはないなんて言ふ資格はないんだ。あんただつて俺を貶めてゐるんだから。貶める事が許されないのに、どうして七鍵さんよ、あんた自身は許されるんだ? 自分勝手も好い加減にしろよ。
見れば見るほど七鍵の文章はむかついてくる。こいつ本當、何樣の積りなんだらう。七鍵の野郎、自分には道徳的な御説教をする資格が「ある」と本氣で思ひ込んでゐるとしか思へない。それが傲慢なんだよ。七鍵は傲慢だ。反論もしない傲慢な野郎だ。
平成二十年八月一日
短い文章で切つて捨てるのは、不誠實以外の何物でもない。當り前の話だ。誠實に事に當らうとするからこそ、何だつて長くなるんだ。
平成二十年八月一日
しつこいとか言ふか知らんが、こんなのはちつともしつこくない。しつこいと云ふ非難は當らない。しつこいと云ふのは年單位で何時までも何時までもえんえんやるやうな事だ。「義」なんかの嫌がらせがさうだ。俺が年單位で絶え間なく嫌がらせだの何だのをし續けた事は一度もない。
平成二十年八月一日
http://www.7key.jp/diary/list/2008_07c_29_01
七鍵はここでだうもと言つてゐる。何事かと思ひよくよく見てみると、だうも日本對アルゼンチンのサッカーの試合が本日、しかもリアルタイムに、東京の國立競技場で行はれてゐるらしい。
で、俺が「それとなく誰かさんの誤を示唆した」訣だ。さうすると、七鍵さんは、やつぱり「それとなく非難された事を避難し返した」と。その言ひ種が斯うだ。
http://www.7key.jp/diary/list/2008_07c_30_01
まああきれた事に、阿呆の考へと七鍵は言つてゐる。當人、これを「俺今いいこと言つた!」とか思つてゐたのだらうか。しかもまあ、「だうも」の誤を指摘されたと云ふ話の根本的なところは出來るだけ目立たないやうに、ただあとで言ひ訣できるやうにちよつとだけ言つて、「正かな派」と云ふ用語に先づ因縁をつけ、その輩は何とかして私を貶めたいがために日々、現在も躍起になつてゐるのだけれども、等と批判した人間(俺・野嵜の事)を貶めた上、結論部で、一般的に言つて(笑)、そのやうな輩つて、無斷リンクに對しても同じやうなスタンスをとるよね。等と言つて、完全に話を逸らしてしまつてゐる。しかも、ここで「誰に批判されたか」は具體的に一言も言はない。ただひたすら曖昧に、「一方的に、全く出たら目なやり方で、嫌がらせを受けた」みたいな言ひ方をして、自己を辯護してゐる。何て陰濕なやり方だらう。一般的に言つて、「無斷リンク禁止」なんて言ふ輩は、何時でもかうやつて自分をいい子に見せかけようとするよね、なんて言ひたくなる。
平成二十年八月一日
然るに、好い加減默つてゐられなくなつたのか、次のエントリでは野嵜氏への言及と書いて、はつきり俺をターゲットと言つてゐるし、ここぞとばかりに俺の文章を引用し始める。しかも、そこでまたとんちんかんな事を七鍵は言出すのだ。が、當人、前のエントリで「誰」も何も曖昧にしてゐたものだから、話の本筋も何も勝手に自分に都合の良いやうに歪曲して、宣傳し始める。

「どうも」を「だうも」と間違へたこと、更にいふなれば、「をかしい」を「おかしい」と間違へたことは認めてゐるし、指摘下さる方も最近は少いのでそれは新たな知識を身に附けるとの面でとてもありがたい。御禮の言葉がなかつたことに腹を立ててゐるのだらうか。

俺の文章は何だつたか。

「何う」は「どう」であつて「だう」ではないのだけれども、正かな派にすら「だうも」なんて書いてゐる人がゐたりする。何なのだらう。

これが俺のした批判だ。これに對して、七鍵は「反應したよ。だから良いぢやないか!」と威張つてゐるのだ。剩へ、七鍵は「反應したから良い訣ではないのか、なら禮の言葉が必要か」と言つて、人を小馬鹿にする。ふざけるな。さう云ふ話ではないだらう。七鍵は、「反應した」が「話をすり替へた」、その「すり替へた話」で、「正かな派と言つた、何て惡い奴だ」、「奴は知識をこれ見よがしにひけらかしてゐる」、「奴は自分を貶めて好い氣になつてゐる」、「奴は我が儘だ」「無斷リンクをして他人を晒し者にする犯罪者だ」と、居丈高に批判した人間を詰り、侮辱し、罵り、嘲つて、快を貪つてゐる。こつちが最う完全に七鍵の本論に成り代はつてゐて、「だうも」の誤の件は極端に矮小化されてゐる。なのに七鍵は「はあ? わたしがいつ話のすりかへなんてやらかしましたか?」等ととぼけてゐる。その根性の汚さには反吐が出さうだ。これは完全に「天然」なのだらう。だが、天然だらうが何だらうが、嫌なものは嫌だと言ふのが俺の流儀だ。
平成二十年八月一日
俺の事を態度が惡いの何のと罵つて呉れるなら、俺は惡にでも何にでもなるよ。
褒められて哀しきもの、貶されて嬉しきもの。七鍵なんかに貶されて俺は或意味とても嬉しいのだけれども、そんな七鍵を褒めてゐたのが山口氏。
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080720/p6

相変わらず七鍵様が神がかってる件 . やはりこの人は凄いね . このサイトの文章全部読み通したいなあ……

ところがその山口氏に俺もまた褒められてゐるらしいのだが――斯う云ふ時にこそ何か一言。
平成二十年八月一日
id属性をランダムな文字列に (agenda)
正直idの値なんて記號でしかないのだから別に何だつていい。スタイルで緑色に表示されるやう指定される部分のidがredとかblueでも、實は問題でも何でもない。二千八年八月一日の記事だか何だかのidがdate19990731とかであつても、何の問題もない。なんかいろいろわかりにくいだけだ。
ちなみに俺は面倒だからその手の本質的に書かなくていい記述は手拔きして書かないでゐる。
ええと、かう云ふ書き方をすると「態度が惡い」とか言はれるんでせうか。上の發言には「……と思ふのですが皆樣いかがでせうか」とか云ふ文章が續いたり何かしたりしなければ行けないんでせうか。逆に言へば、そんなもんで俺の態度が「良い」ものになつてしまつたりするんでせうか。世間には態度しか見ない人とかゐるらしいですけど、さう云ふ人の事を考へて「いいこになる」べきなんでせうか。それに意味があるんでせうか。と言ふか、そもそも、いいこなだけの文章つて、何か意味があるんでせうか。「やあみなさんこんばんは、いらっしゃいませ。どうぞごゆるりとこのブログに滯在していってくださいませ。ええ、どうもどうも。あははははは」とか、そんな事が毎日毎日書いてある「ブログ」、そんなものが「いいブログ」であり、そんな「ブログ」を作つてゐる「ブロガー」が尊敬されて敬愛されるものなのでせうか。それで本當に良いのでせうか。
平成二十年八月一日
本當に自信が身に附けたいと思ふ技術、もしくは知識を習得したいがためにこゝで正字正かなを用ゐてゐるだけなのだつたら、指摘されたら默つて直して、あとは知らんぷりするよな。俺ならさうするけどな。
「はたから見れば誰が何う見ても餘計な事」をいちいち(或はねちねち)言つて、自分から問題を大きくした結果から見れば、七鍵氏が前々から俺に含むものがあつて、これを良い機會と見て、言ひたい事を散々好き放題に喚き散らした事は明かだな。
――となると、なるほど、七鍵氏にとつての話の本筋は、最初から「野嵜を攻撃する事」であつて、「だうも」の誤なんかは「何うでも良い話」でしかなかつた訣だ。すると、技術だの知識だのと言つたのは何なのかと云ふ事になるが、それこそ「話のすり替へ」だか何だかなのだらう。何れにせよ、言質を取られない爲に七鍵氏はいろいろ言つて、俺の事を惡人に見せかけようと必死な訣だ。うん、こんな輩が正かな派であつてほしくはない。當人から「正かな派ではない」と言つて貰へて幸だ。
平成二十年八月一日
あと。
http://www.7key.jp/diary/list/2008_07c_31_02
この返し。いろいろな意味で典型だよな。
私には、根據も理由もないけれど無條件に野嵜氏を崇めて七鍵攻撃に便乗しただけ、としか感じられないのだけれども、その認識に間違ひはありませんか。なんて言つてゐるけれども、これ「認識」ぢやないよ。根據も理由もなく何か思ひ込むのは、病氣だよ。誇大妄想の被害妄想と言はれても當然だよ。お医者さんに行った方がいいんぢゃないのかなと言はれて不愉快かも知らんけど、人は圖星をさされると不愉快になるらしいぜ。
平成二十年八月一日
と言ふかさ、氣に入らないとか不愉快だとか思つても口に出さないのが「大人」らしいぜ。何でウェブでは子供に歸る人が多いのだらう。しかも、それなのになぜか自分は如何にも大人であるぞ、みたいに言つて威張る人がやたら多い。
俺はバカだしガキだからさ。未だに正義なんてものを信じてゐるんだぜ。笑。
平成二十年八月一日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080801
うい。さんくす。と言ふか意地惡言つてごめん>山口さん。
平成二十年八月一日
ここぞとばかりに惡口を言ふけれども、七鍵氏の資料集、實はそれ程凄くもない。内容的には三省堂か学研か、そこら邊の版元から出てゐる小學生か中學生向けの学習図鑑に載つてゐるやうなもの――と言ふか、その手の本の引寫しだから。これから紙に起す必要はないよ。
平成二十年八月一日
Ray:雑学事典
ホームページ作成の第一歩
お引越し情報局
なんかHPとか言つてゐる。昔だつたら某方面で袋叩きだつたよな。
内容的にはそれなりだが、まさに「それなり」としか言ひやうがない出來で、特に讀まなければならないやうな劃期的な内容・獨創的な内容は含まない。暇潰しに讀むには良いと思ふ。作り手の性格が性格だから間違ひはない筈。少くともうちよりはいちいち正確だらう。
福田さんを言ひ訣にしてゐるけれども、福田さんだつてただの凡庸を良しとはしなかつたよ。
思ふんだが昨今、福田さんの讀者でありながらただの意地惡と云ふ人がやたら増えてゐるんだよな。極端に精神が硬直した人。全くもつて「違ふ」と思ふんだけど。
平成二十年八月一日
まじかんと雑記: 漢字の部首について
康煕字典の分類に從つてゐる字書の場合には凡例で康煕字典に從ふとか書かれてゐるものだけれども、まあ、いきなり「部首は何」とか聞くのは適當過ぎるよな。もつともその適當さが絶對に必要だとTV方面の關係者は堅く信じてゐて、正確さなんてものは藥にもしたくないのだらうけれども。
とは言へ最近、康煕字典つて言ふと何だかんだと文句を附けるべき字書になりつゝあるなあとか思ふ。字體にしても議論すると一々康煕字典のは何うの斯うの言はれるし。正確さを決定的に缺いてゐるのも問題だが、やけに正確なのに拘るのも何うかと思ふのだ。原理主義になるまで拘るのは常識的とは言はないんぢやないか。ええとこの項、まじかんと氏を責めてゐるに非ず。餘計な方向に勝手に話を進めてゐるのみ。某氏の所謂晒しものとか無斷リンク、苦笑、とかではないから。
平成二十年八月一日
常識とか良識とか――その邊の用語について嚴密主義を發揮する氣は全くないから、不正確極まる曖昧模糊の考へでいいと思つて言ふけれども――僕等はそれらを何か社會的な契約みたいな考へ方をしてゐる。しかし、僕等の常識は、物事を判斷するのに、社會性の觀點のみならず、物事の條理と云ふものにも頼つてゐるやうに思ふ。それ許りではない、僕等は僕等が生きて來た個人的な經驗の上に立つて判斷するし、誰かが言つた事にも依つて判斷する。もちろん、それだけが判斷の基準・判斷の根據である訣ではない、もつといろいろある。で、それらの中から取捨選擇して、何か一つだけをもとに、或は特定の少數のジャンルを殊さら重視して、判斷を下すやうにするとした……しかし、さう云ふのは常識的な判斷とは呼べまい。寧ろ、出來る限り澤山の判斷基準と根據を集めて、それらの綜合の上で、判斷を下すのが、常識的な判斷と言へるだらう。實に、個人の偏見や誤解もまた、客觀的に眺めるならば、判斷の根據となるのであり、さうした誤に自分が陷つた理由を考へる時、それもまた重要な判斷の材料となるが、それもまた常識的な判斷を下す爲の條件となる。人が誤るべくして誤るやうな事柄なら、その誤るべき理由が人間性として認識すべき眞實であり、その信實をも受容れた上で人は常識的な判斷を下せよう。案外忘れ去られ勝ちなのが、イデオロギーとか信念とか、正義とか云つた相對的なもので、それらの條件が「ある」事は、世間では一種の自然であるのだから、排除して考へるべきものではなく、あつて當然の條件として考慮して判斷するのが、矢張り常識的判斷と言へるだらう。嫌なもの――人間固有の惡・原罪の類も、見て見ぬ振りをして判斷をすれば、當然の事ながら結論は誤る。結論に至るまでの誤・誤謬は、あつて良いのであり、あるのが當然で、それをもまた一つの眞實として受容れた上で、判斷を下し、妥當と言へる結論を引出す事こそ、常識的な判斷と言ふべきものだ。
意外と多くの人が他人を罵る時、「自分にとつて都合の良い事を言はうとしてゐる」とか平氣で言ふのだけれども、自分にとつて都合の惡い事を言はうとする奴はこの世に存在しない。全ての人が、自分の正しさを主張するのであり、意識して歴然たる誤を言ふ時にすら「誤を言ふ事の正義」が發言に表れる過程に介在してゐる。「正しい事を言ふな」と云ふ非難を言つてしまつてゐる人は割と世間に多いのだが、しかし、人間ならば正しい事を言はうとするものだ。それを根本的に否定する非難の仕方は、寧ろ非常識な、現實の人間の姿を見ないものだと言ふ事が出來よう。
平成二十年八月一日
福田さんは個性を否定したと云ふ風に理解される事があるけれども、それは半分正解であるに過ぎない。福田さんしか讀まない人は割と單純にあるひとつの言葉に拘る事になるけれども、福田さんの發言は常に多面的で、それが福田さんの「個性」となつてゐる。
教育論なんかを見ると明かに「個性を抑壓する教育」を福田さんは言つてゐる。しかし、その結果として子供が一人殘らず個性を無くす事を福田さんは望んではゐない。それでも個性のある子は個性を殘すし、却つて個性を強化すると福田さんは常識的に見てゐるし、さう云ふ結果となる事を見越して教育における個性の否定を述べてゐる。
福田さんが讀んでゐた人の文章も合はせて讀んでおく必要がある。T.S.エリオットは福田さんがロレンスやワイルドとともにちやんと讀んでゐた人だ。傳統と個人の才能なんかはとつかかりにいいかも知れない。エリオットは個性の存在を認めてゐるし、新しい詩は(エリオットは詩人だから氏の觀點から物を言つてゐる)傳統に新しいものを附加へ、それによつて傳統は形を少し變へて安定する。ところで、その新しい詩の最も魅力的で最も個性的に見えるものは、實は常に傳統的なものであるのだ――エリオットはさう言つてゐる。さう云ふ指摘を前提に考へるならば、福田さんが個性を肯定してゐるとか否定してゐるとかいつた議論は成立たないと云ふ事になる。

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