闇黒日記


平成十八年十一月十七日
TBSあさっての方向は26:35からに變更。
平成十八年十一月十七日
留守先生が「諸君!」で『常に諸氏の先頭に在り』の事を書いてゐた云々、と前田氏。紹介かと思つたら前田氏、極めて不愉快な事を書いてゐる。
前田氏、留守先生が初出について「あるミニコミ」と書いたのを「不愉快」と言つてゐる。何なのだらう。私は、かういふ姿勢は留守先生の嫌ふ「ゴム人形」のそれであると思ふ。等と極附けてゐるが、因縁を附けるのも大概にしたら如何かと思ふ。人の言葉を適當に拾つて來て、その人に投附け返して、それで勝つた氣になる――實に不愉快な「言説」だ。
言葉の救はれ――福田恆存論: なぜ「ミニコミ」と書くのか
フーコーもこんな人物に「言説」等と稱されて不愉快だらう云々。そもそも「保守」と稱するのに何故「ポストモダンの用語」を必要とするのか云々。
平成十八年十一月十七日
對高橋氏論爭再び。
NaokiTakahashiの日記 - Taka-NXさんのブログはこの一年近くずっと読んでるけど。

いやいや、偉そうさでは貴方にはとても構いませんが(笑)それはともかく。

「アンチ野嵜」の連中が口を揃へて言ふ臺詞を高橋氏も口に。
これで「アンチ野嵜」の連中、高橋氏を大絶讃する筈だが、しかしこの論爭、明かに高橋氏の方が傲慢でないか。高橋氏は自分を「強者」と言つてゐる。誰が何う見ても傲慢だらう。「精神的に弱い人間」「自縄自縛」「馬鹿だなあと思うし」「馬鹿どもが」と言つてゐる。傲慢だ。この、傲慢な高橋氏が野嵜を「偉さう」と言ふ。
「アンチ」の連中にして見れば、それは野嵜が高橋氏以上に「途轍もなく偉さうで傲慢である決定的證據」であると云ふ事になるのだらうが、それは一面的な見方に過ぎない。寧ろ、「自分は偉い」と高橋氏、或は「アンチ」の連中は思つてゐて、だからこそその鼻をへし折らんとする野嵜が、彼等の目には傲慢と見えてしまつてゐるのではないか――何うも、自らの傲慢さを彼等は野嵜に投影してしまつて、それで野嵜を罵つてゐるやうに思はれる。さう言ふと「アンチ」の連中は怒るだらうが、實際の話、「アンチ」が野嵜の「偉さう」な點を具體的に指摘した事は皆無。「アンチ」の所謂「野嵜は傲慢」説は、印象論――心理的・感情的な「言説」――に過ぎないやうに思はれる。大體、野嵜が「反省しない」と「アンチ」は罵るが、「アンチ」が反省した事等これまで一度もなかつた事ではないか。實際に反省してゐないのが「アンチ」である以上、「アンチ」こそ傲慢であると云ふ事は、確實な事實である。
平成十八年十一月十七日
高橋氏、相變らず「自由」と云ふ事を解つてゐない。
大體、「近代的自由」つて何だ。誰がそんな事を言つてゐるんだ。俺の知る限り、この手の用語を持出す人がその典據を示した事はない。なのになぜか廣汎に此の種の變な「自由」が流布してゐる。何なのだらう。
高橋氏は、議論を拒否してゐる。議論は民主主義の大前提で、異る意見を持つ人同士が議論をするから民主主義が成立つ。だから議論は拒絶してはならないのであり、その爲に「言論の自由」がある。高橋氏の場合、議論を拒絶してゐるが、それは即座に民主主義の否定であり、同時に「言論の自由」の否定である。
「議論が存在しない社會」を高橋氏は理想的な社會と看做してゐる。これは明かに反近代の思想の流れを汲むものであるが、それを高橋氏は全く自覺してゐない。反近代の思想は、シュペングラーにしてもマルクスにしても、或はハイデッガーにしても、學ぶに價するものであるが、無自覺に實踐されると大變に困る。それはファシズムやコミュニズムと結び附く。

平成十八年十一月十六日
奏光のストレイン相變らず主人公への苛めが續く。嫌がらせなんかに負けるな主人公。主人公の名前何だつけ。
平成十八年十一月十六日
世間的に「Operaは多機能」と云ふ評價らしいけれども、俺、別にOperaが多機能だから使つてゐるんぢやないぞ。IEやFirefoxより動作が俊敏だから使つてゐる。
平成十八年十一月十六日
テレ東、武装錬金に無駄に津波の報告テロップ入れてる。意圖が解らない。
平成十八年十一月十六日
tvkちょこシス悲慘。日本地圖。津波警報途中で解除。MXは冒頭にテロ。
平成十八年十一月十六日
マジプリが無駄に面白い。水着囘。
平成十八年十一月十六日
蒼天の拳で締め。今期の水曜深夜は豐作だな。
平成十八年十一月十六日
親切な人が某所で「言説」=フーコーの「ディスクール」の譯語、と教へて呉れてゐる。なるほど。
前田氏はポストモダンの人なんだ。俺、ポストモダンなんて嫌ひだから一册も讀んでゐないよ。
あと、俺、ソシュールなんて大學の時にarbreが何うの斯うの邊の話を聞いただけだから、何も知らないよ。醉つてマジレスして呉れた人、有難う。俺も醉つて適當に書いたのだから御あひこ。嘘だが。
平成十八年十一月十六日
なんか、俺がFutakoto_Mikoto_Yokotoのプライヴァシーを侵害して一方的に嫌がらせをしたやうなデマを流してゐる子がゐる。先に嫌がらせを仕掛けて來たのはFutakoto_Mikoto_Yokotoなんだよ。それも匿名。
匿名の陰に隠れてFMYは俺にやりたい放題やり、言ひたい放題言つてゐた訣。そこで俺は泣寢入りしろつて言ふの? 何うすれば良かつた訣よ。普通、ウェブで行はれる匿名での惡さには、「出所を暴く」對抗措置が取られるものだ。
どうもこの變な子、「野崎クン」とか言つて、口調がFMYに似てゐる。しかも、漏れの思うところでは「他人のことを思いやる力」のうちで大切なのは「自分がやられてイヤなことは他人にもしない」だと思うんだが、なんて言つて、公正を裝ひながら、自分の事を棚に上げて俺だけを惡者に見せかけようとする態度をとつてゐる。その邊も同じ。この子、自分は「自分がやられてイヤなことは他人にもしない」を實踐して、それで野嵜の惡口を言つてゐると本氣で信じてゐるのかねえ。
FMYが先に俺に嫌がらせをして來たのだから、そのFMYにこそ「『自分がやられてイヤなことは他人にもしない』が基本です」なる「忠告」は當嵌る。と言ふか、嫌がらせをしておいて、その上、プライヴァシーを守れだなんて、良くもまあそんな事、言へたものだと思ふ。嫌がらせをしない限りにおいて匿名性は守られるべきだよ。嫌がらせをした人間の匿名性なんて守られる必要はない。
なんか適當にあつちこつちの話を貼り合せて、「矛盾だ」「矛盾だ」言ふ子が多いけれども、よくもまああんなに自分に都合良く、物事をでつち上げられるものだ。
ぐぐつたら某ちゃんころ掲示板で、匿名で人の惡口を言合つて快を貪つてゐる連中がゐたので書いた。俺は匿名を良い事に他人の足を引張つて快を貪るなんて、そんな趣味はないから、普段はあんなところ見ない。
平成十八年十一月十六日
Futakoto_Mikoto_Yokotoだが、某所のTeacupの掲示板に書込んで來て、それでリモートホストがばれた。俺もFMYが嫌がらせを續けなければ默つてゐる積りだつたが、惡黨却つて居丈高になつて嫌がらせがエスカレートしたから、こちらも仕方なく對抗措置としてやつた。
平成十八年十一月十六日
あと、喜六郎が「粘着ブログ」をやつて嫌がらせをしてゐるのに、それに對抗してその「ブログ」に釋明を書込むと、何うしてこちらが「粘着をしてゐる」事になるんだ? 喜六郎が散々煽るから惡いのだらう。どうして喜六郎の煽りを咎めず、俺だけを惡者にしようとするんだ? 少くとも、「野嵜の粘着行爲は惡い」と云ふのが「事實」としても、ならばそれ以前の喜六郎の粘着行爲が先に咎められて然るべきでないか。「アンチ野嵜」の連中が公正を缺いてゐるのは火を見るよりも明かな事實だが、連中、全然自覺がない。なんであゝまで自覺が足らないのだらう。大體、「粘着するな」と言ひながら、2ちゃんねるの「野嵜に粘着するスレ」に平氣で書込んでゐる――その邊の「アンチ野嵜」の心理が、俺には理解出來ない。
「アンチ野嵜」の連中の手口は皆同じで、俺を煽つて煽つて煽り捲つて、或種の行動に出ざるを得ない状況を作つて、それを俺が「やつた」ら、それ以前の「アンチ野嵜」らの策動を全部故意に匿して、その俺の「やつた事實」だけを採上げて「犯罪の證據」みたいに言つて宣傳する。何なのだらう。連中、「野嵜は惡人」と云ふ何の根據もない結論を持つてゐて、ところがその「根據が無い」事が悔しいから、手段を選ばず「根據」をでつち上げようとする。何うしてそんなに俺の事が憎いのだらう。俺が何か惡い事を言ひましたか。
匿名の連中の素性なんて俺は全く知らない訣で、そんな連中に俺が嫌がらせを出來る訣がない。だから俺は過去に一度として連中に嫌がらせをした事がない。だから俺が連中に嫌がらせをされる謂れはないのであつて、なのに連中、俺が惡いかのやうに言ふ。何なのだらう。
平成十八年十一月十六日
「アンチ野嵜」の連中、「最近の野嵜はをかしい」と言つてゐるが、をかしくさせてゐるのは「アンチ」の連中だ。自分で原因を作つておきながら、惡いのは全部野嵜の所爲。
ところが、こんな状況にあつても、喜六郎は野嵜の方が「見せ方が拙い」と評する訣だ。「アンチ」の連中が公正を缺いてゐる事實を露呈しても、それで世間の信頼を失ふ事はあり得ないと、喜六郎は――と言ふより、「アンチ」の連中は全員例外ナシに恥知らずで、澤山言へば嘘でも「真実」に「なる」と信じてゐるから、野嵜の惡口を廣めるのに何時までも熱心である。
反省しないのはどつちだ。
平成十八年十一月十六日
大體「アンチ」の連中の「論法」は、皮相な現象だけを捉へて「矛盾だ」「根拠なし」と極附けるもので、常に事實を歪曲し、野嵜に不都合な結論に「なる」やうにでつち上げられてゐる。
「野嵜は國語問題協議會の『問題』で曖昧な事を言つた、なのに前田氏が曖昧な言ひ方をしてゐると言つて非難してゐる」と「アンチ」の連中は俺を罵つてゐる。だが、こんな風に話を繋げる事自體がをかしい。なぜ「アンチ」の連中は、全然別の話を結び附けて考へる――と言ふより、「考へる振りをする」のか。その方が野嵜には不都合な結論が出せて嬉しいからだ。
俺が「あの件」で話をしなかつたのは、それが國語問題協議會等にとつて不利にならないやうにする爲であつたのであり、「話をすべきでないところでしない」と云ふ當り前の事だつた。だから正しい。
ところが、前田氏の場合、結論として松原先生に不利になるやうに話を持つて行つてゐた。人を惡く言ふのであれば、根據はきちんとしてゐなければならない。ところが前田氏は曖昧な言ひ方をして松原氏を貶めてゐた。そんな事が許される訣がない。前田氏の場合、「話をきちんとすべきところでしない」と云ふをかしな眞似をしてゐたのだ。
かうも話が異るのに、「アンチ野嵜」の連中は、わざと「ちやんと話をしない」と單純化して事態を圖式化し、「同じ事」に「してしまふ」。連中がちやんと物を考へられるのならば、こんなをかしな單純化・圖式化はやれない筈だ。連中がこんな眞似を平氣で出來てしまふのは、結論として「野嵜は惡い」と言へれば自分逹の行爲は正當化される、と信じてゐるからだ。と言ふより、「野嵜は惡い」と云ふのは連中の大前提であり、それで自分逹は「正義である」と信じ込んでしまつてゐる訣だが、それで連中好い氣になつて「野嵜叩き」に邁進してゐる。
――のだが、實際には連中も薄々「野嵜は惡い」と云ふ自分逹の「信仰」に根據が無い事を氣附いてゐて、だから一々「理窟」をでつち上げて、改めて「野嵜は惡い」と云ふ「信仰」を強固なものにしようとし、「アンチ」と云ふ名の「信者」同士で確認し合つて、安心しようとするのである。
平成十八年十一月十六日
で、かう云ふ事を書くと「アンチ」の連中、嬉しがつて「根拠なし」とかまたぞろ言立てて騷ぎ立てるのだけれども、ところが喜六郎が同じやうな事を「信者」論として書くと大絶讃する。前田氏の「某批評家」論だつて似たやうなもの、と言ふよりもつとたちの惡い代物だが、なのに連中、野嵜や松原先生を貶めるものと見ると、最うそれだけで嬉しくて嬉しくて堪らないらしい、誰一人、咎めやしない。馬鹿ぢやねえの。
平成十八年十一月十六日
と言ふか、自分の素性は曖昧にしておきながら「野嵜の言つてゐる事は曖昧」とか、完全に矛盾だよな。さう言ふと、「だが、匿名なのはプライヴァシーを守る爲だからいいんだ」とか連中、「屁理屈」を持出すけれども、野嵜がさう云ふ「屁理屈」を言ふと問答無用で却下しないか。「アンチ」の連中の言つてゐる事、ちよつと見ただけで破綻してゐるのはばればれなのだが、連中、自分逹は「とても良い事を言つてゐる!」とか本氣で信じてゐるらしい。
平成十八年十一月十六日
ポストモダンの本なんて、讀む價値ないだらう。だつて、そんなものを讀んでゐるから「アンチ」の輩は匿名の域に閉籠つて、そこから野嵜に惡口を投掛けて快を貪るやうになつてしまつたのだから。
野嵜がソシュールを理解してゐないとか言つてゐる奴もゐるが、そいつだつて本當にソシュールを理解してゐるか何うかは怪しい――が、もし假にきちんと理解してそれで匿名で野嵜に惡口を投附けてゐるのだとしたら、ソシュールと云ふ奴も相當たちが惡いのだなと看做されても仕方がないだらう。
匿名で人を罵つてゐる時點で「アンチ」が陋劣な人格の持主である事は明か。野嵜がプライヴァシーの侵害をしたとか宣傳してゐるのは、自分逹が匿名である事を正當化する爲。しかし、匿名で他人を罵つて快を貪つてゐるやうでは、説得力なんてまるでないと言はざるを得ない。「アンチ野嵜」の連中は例外ナシに匿名を用ゐてゐる。連中が罵る「松原信者」が悉く正直に名前を名乘つてゐるのとは實に對象的だ。俺は事實を述べてゐる。

平成十八年十一月十五日
the view from nowhere : 2006-11-14 (Tue)
平成十八年十一月十五日
http://esu.oresama.org/200611b.html#20061115_s0
と言ふか、高橋氏の言つてゐる事も俺には全然理解出來ない。
取敢ず高橋氏が、喜六郎みたいに、「他人の目に何う映るか」「他人にどの程度影響力を與へられるか」を極めて重視してゐる人種に屬する事は、再確認できた。嫌な連中だよ、惡い意味で政治にばつかり興味を持つてゐる連中と言ふのは。
平成十八年十一月十五日
なんか喜六郎のところで煽られたから大量に書込んで來たよ。煽つた喜六郎が惡いのだから仕方がない。そして、かうやつて煽られた所爲で野嵜が大量に書き込みをすると、連中、「野嵜がまた荒した!」と言つて喜ぶのだ。
しかし、普通、「腹を立てさせられた」から「荒された」事になる筈なのに、俺を「掲示板荒し」呼ばはりする連中は全員、野嵜に「荒らされる」と、嬉しさを隠し切れないで、嬉々として「御仲間」に報告する。
連中が望んでゐる事をやつてゐるのだから、野嵜が「荒し」でない事は明かだと思ふのだが――そもそも「荒し」と云ふ事を嚴密に定義しないから、自分に都合良く使へる言葉になつてしまひ、「敵」(野嵜)を罵倒する文句として「使へる」事になつてしまふ。ソシュールの言ふやうに、言葉が單なる記號に過ぎないのであれば、何んな言ひ方をしても構はない訣だが、「掲示板荒し」なる語が、價値觀を含まない單純な記號でなく、人に惡印象を與へるのにも使へる事を、連中、大變良く承知してゐるのである。實際、彼等は、單純に「野嵜が澤山書いた」事を「掲示板荒し」なる單語と直結させてゐるに過ぎない。しかし、「大量に書く」事の何が惡いんだらう。
「アンチ野嵜」の喜六郎は、俺に何を望んでゐるのだらう。俺に釋明を求めてゐるのではないのか。野嵜が(喜六郎のやうに)敵を一言でばつさり斬つて(侮辱して)見せればそれで満足なのか? さうではないだらう。
平成十八年十一月十五日
言葉遣ひが似てゐる人同士つて、なんかメンタリティ(何)も似通つてゐるやうに見えますね。「言説」とか。アレな人が擧つて「言説」「言説」言つてゐる。「言説」なんて氣持の惡い語、俺は絶對使ひたくないよ――なんて書くと「義」邊が嬉しがつて俺の名前を騙る時に「言説」「言説」言ふ訣だがそれは兔も角、ウェブで「言説」言つてゐる人つて、何か――同じものだか人だかに影響受けてゐるのですかね? 出所どこだらう。何うもポストモダン(謎)つぽい雰圍氣だが。

平成十八年十一月十四日
お笑いパソコン日誌:今日の駄反応・Explorer は落ちたか固まったか
お笑いパソコン日誌:今日の補足・Explorer 問題
うちのマシンだとどれでも「なる」のですけれども? と言ふか、マイコンピュータ。
20061114_MyComputer_01.gif
マイ コンピュータを開く→例へばブランクのDVD-Rをドライヴに插入→讀みに行く→暫し讀みに行く→開いてゐるマイ コンピュータの反應がなくなる→タスクバーからマイ コンピュータのコンテキストメニューを呼出して「閉じる」を撰擇→「このプログラムは応答していません」→「すぐに終了」を撰擇→シェルが全部終了→シェルが再起動。
WindowsXPです。
メディアを認識するとマイ コンピュータの動作が復歸するので、それまでに「やる」とシェル全體が強制終了に。
平成十八年十一月十四日
と言ふか、Windowsつてどうして「腐る」んでせうね。それ自體が異常な事だと思ひます。
平成十八年十一月十四日
なんかunix方面でも突然システムの擧動がをかしくなるなんて事は屡々「ある」らしいですが、何なのでせう。そんな時の爲に「何處そこのファイルに○○と記述する事」みたいに恐ろしく場當り的な解決法が「FAQ」と稱して存在するみたいですが、「突然システムがをかしくなる」事自體、をかしいですよね。俺は「をかしくなつた」のを解決するアドホックな手段より、「をかしくなつた」事の原因を知りたいです。なんか世間の多くのユーザが問題を場當り的に解決して安心してゐるやうですが、俺にはさう云ふ多くのユーザの神經が理解出來ません。
プログラムなら、プログラムされた通りに實行されるのが當り前であり、突然をかしくなつたやうに見える事象も、實は「事前にプログラムされた事だ」と言はなければなりません。そして、事前のプログラムの結果として異常が生ずるのなら、プログラム自體が異常であると考へねばなりません。ところが、「場當り的な解決法」が存在し、それで以て問題が解決されて、ユーザは安心する。一體何なのでせう。
平成十八年十一月十四日
■為替 FX システムトレード MetaTrader チャート................ ハーモニックパターントレーディング: 核保有議論自体が政治的議論
喜六郎の小屋 - 見せ方が下手な松原信者
敢て並べてリンクを張つて見る。
平成十八年十一月十四日
ここで「結果として正しい事を選べれば民主主義なのであるが、印象の良し惡しで選ぶのでは衆愚政治に陷るだけである」とか言ふから「アンチ」の人から反感を買ふのだらうと思ふ。
平成十八年十一月十四日
個別記事へのリンクを考える - 徒書
リンクテキスト - Weblog

巷間言われるような、リンクテキストのために「ここ」という言葉を使わないように原稿を書き換えるのは どうかと思います。

link textを選択する(2) - 徒書
カナかな団首領の自転車置き場 - リンクテキストのマークアップ思いつきメモ
既存の文字列を活かす事に異存はないけれども、文章だけで表現し切れないならば圖を使ふのは自然な事だと思ふ。わざわざ既存の文章の中の文字列をアンカーにする必要はないのでないか。
書籍だと、文章の情報に加へてグラフィックの情報を提供する時、圖なりイラストなりを文章とは別に追加する。
ここで言へば地圖にリンクを張つて、そのアンカーを既存の文字列とは別に追加すると云ふので全然構はない筈だ。

四条河原町から八坂神社へ。ここから10分ほどで東大谷に至る。

と言ふか、この場合、「或地點」を示すと云ふよりは「移動の際の一聯の流れ全體を示す」方が適切ではないか。その場合、「特定の地點を示す爲の地圖」よりは「移動する領域全體を示す地圖」へのリンクを張つた方が適切と云ふ事になる。
ところで、この「八坂神社」をアンカーにするやうなリンクの張り方、はてなのキーワードみたいな「文中リンク」と云ふ奴、これ、個人的には餘り好かない。

平成十八年十一月十三日
金色のコルダ。腐女子向けの筈なのに日野ちゃん可愛い。
平成十八年十一月十三日
Operaは、「ぺーじ」の遷移が極めて早いので、行つたり戻つたりが多發するとある特殊な用途ではとても有用だが、うつかりアレしてゐる最中にアレすると落ちるので氣が拔けない。
取敢ず俺の個人的な使用目的ではInternet ExplorerやFirefoxで代用出來ない。がまあふつうのひとはわからなくていい。
平成十八年十一月十三日
と言ふか、Operaは虹裏見る時にはとても便利。スクロールやリロードを片手マウスで全部できる。noteに常套句を登録しておくと樂しい。
平成十八年十一月十三日
もちろんOperaで困る事も「ある」のであつて、例へばキッズステーションの番組表みたいな無茶なテーブルの使ひ方をされた文書なんかを讀込むと重いとか、正字正假名遣ひの爲のアンテナ邊のJavaScriptで何かやつてゐる文書をJavaScriptオンで讀込むと重いとか。
平成十八年十一月十三日
GAる〜ん。僞Edで本當に終つてゐたらまだ良かつた氣がする。
平成十八年十一月十三日
Windowsの嫌なのは、CD/DVDドライヴにメディアを入れるとExplorerが固まる(暫く待つと復歸する)事。如何でも良ささうだが、この間に頑張つてメディアを讀みに行つてゐるExplorerのウィンドウを閉ぢようとするとExplorerが落ちたと看做されてタスクバーも含めてWindowsのシェル全體が再起動されるのが嫌。と言ふかこれ、結構問題でないか?
平成十八年十一月十三日
「言説」w

平成十八年十一月十二日
少年陰陽師でも若本。
平成十八年十一月十二日
なんか世間では文章の頭三行しか讀まないで非難するのがトレンドらしい。
一往最後まで讀んでから批判するならしようよ。
平成十八年十一月十二日
IE7、ベータ版で畫像だか何だかがリンク切れしてゐると*.mhtで保存出來ないバグがあつたけれども、正式版では直つてゐるね。
平成十八年十一月十二日
くじアンが超展開になつて吹いた。

平成十八年十一月十一日
GV-M2TV/USB2かGV-MVP/RZの中古品どこかで安く賣つてないかな。カノープスでもCSのコピワンスルーして呉れる奴なら可。PanasonicのLet's noteにぶら下がるやつ希望。
平成十八年十一月十一日
コードギアスがどんどん馬鹿アニメに。若本。
平成十八年十一月十一日
参議院会議録情報 第015回国会 文部委員会 第4号
参議院会議録情報 第015回国会 文部委員会 第5号
平成十八年十一月十一日
妖奇士でも若本がなんかアレな事やつてる。
平成十八年十一月十一日
前田さんも松原先生批判をやりたければ、何と云ふ文章の何と云ふ記述が何う云ふ理由で××であると具體的に書けば良いのに。何うしてリサーチなしで適當な事を書いて「アンチ」に受けようとするのだらう。

平成十八年十一月九日
世間の人がマナーマナー言つて變な事を押附けるのを屡々批判した野嵜だが、此處に來てマナー推奬論を唱へなければならないやうに思はれて來た。
掲示板に書込むマナーなんてものを俺は時として議論の爲に敢て踏越える事はあるが、俺はマナーを知らない訣ではないからマナーに從つてゐて良い時は從ふ。が、「福田恒存をやっつける会会長」のやうな人間は、根本的にマナーを知らないのであり、自分の言ひたい事を言ひたい放題言つて掲示板を荒し、議論なんてものには最う最初から洟も引つ掛けないやうな態度をとる。
競技の爲のディベート(勝負を目的とする)ですらもルールがあるのであり、さうではない、眞實を追究する爲の議論には當然のやうに守るべきマナーがある。單なる馴れ合ひの爲だけの「ウェブマナー」なんぞは無くなつても構はないが、その種のマナー――眞實を追究する手段としてのマナー――は全ての投稿者が守るべきものだ。少くとも、その種のマナーを全然守れないやうな人間が肩身の狹い思ひをする程度には常識化すべきだ。日本のウェブで自淨作用が働かないのは、自淨作用が働くほど常識のある人間が發言者の中に少い、と云ふ事にも理由がある。
平成十八年十一月九日
奏光のストレインは面白いよ。
平成十八年十一月九日
ちょこシス。ねこにゃんダンスのプロモ囘。なんか物凄くおなかいつぱいになつた氣がする話だつた。
平成十八年十一月九日
現存する全てのブラウザで、印刷機能に何らかの問題がある、と云ふのは如何なものか。
もつとも、現存する全てのウェブサイトで、印刷を考慮して作られてゐない文書が大量に公開されてゐる、と云ふのも問題なのだが。

平成十八年十一月八日
Wordでできる段組編集/機関誌づくりブログ/第一資料印刷株式会社
[書式]→[段組み]が普通のやり方ぢやないのか?
[書式]→[段組]を選ぶ。
段組みの設定ダイアログが出る。
橋本進吉のテキストで作つた段組の作例。
印刷プレビュー。
平成十八年十一月八日
「正しくない事を力づくで押附ける事」と、「正しい事が當然の權利として持つ無言の強制力」とは、區別されるべきである事。
平成十八年十一月八日
お笑いパソコン日誌:今日のツッコマレ・WFWG
それにしてもソフマップ新宿シカゴなくなつてしまひましたね。
平成十八年十一月八日
Amazon.co.jp: 大学で学ぶ議論の技法: 本: ティモシー・W. クルーシアス,キャロリン・E. チャンネル,Timothy W. Crusius,Carolyn E. Channell,杉野 俊子,河野 哲也,中西 千春
掲示板で書いたけれども今日買つた本。「や」会長みたいに議論を出來ない人が矢鱈多いけれども、さう云ふ人にはこの手の本を讀んで勉強して、ちやんと話を出來る人間になつて貰ひたいと切に願ふ。
平成十八年十一月八日
■為替 FX システムトレード MetaTrader チャート................ ハーモニックパターントレーディング: ウィキペディアって大丈夫なの??01
極めて常識的な意見だと思ふので無斷轉載。「まず」を繰返してゐるが怒つてゐるのだらう。

ウィキペディアコミュニティ内部において、「合意」というのが、かなりうまく機能している場所はある。しかし、このような「誰かを排除するか否か」というような投票場所には、まずまともな利用者はまず普通寄り付かない。誰かを排除するのに自分の意見を積極的に反映したいという人間がどういうタイプなのであるのか、ちょっと考えてみるとわかるだろう。また「おかしな絡み方をする人」ほど、自分の意見を否定した人物が「水溜りにはまった犬」であることを察知するや否や、以前は丁寧に発言を撤回しますとか言っていた癖に、その個人的復讐を履行して恥を感じない。こういう場の多数コメントそしてその「合意」の正当性など推して知るべしである。


平成十八年十一月七日
http://logos.blogzine.jp/1/2006/11/__a137.html#comments
本文の方は何うでも良いが、コメント欄で氣になる事が書かれてゐたので註釋。

福田氏のこうした考えの背景には共産主義の洗礼があると思います。福田氏は一時期、社会の名の下に個人を徹底的に押しつぶす共産主義思想の影響を強く受け、そこから離脱したのだと思います。

ただ福田にロレンスが必要となったのは、彼が一時的にマルクス主義に魅惑され、その恐ろしさも知った人間だからだと思っております。

福田氏の戰後直後の論文に、その手の臭ひがするのは、當時の共産主義かぶれのインテリ青年に向けて書かれたからであつて、別に福田氏が共産主義にはまつてゐたからだと考へる必要はない。小林秀雄も同じ頃、津田左右吉の著作と共に、資本論をみつちり讀込んでゐたと言ふが、別に共産主義に「嵌まつた」訣ではあるまい。
後に筑摩書房の『反近代の思想』で、福田氏は「反近代の思想」の參考書として、ロレンスの他に、ニーチェやキルケゴール、ドストエフスキー、そしてマルクスの著作を擧げてゐる。マルクスの魅力に「嵌まつた」と言ふのなら、福田氏はキルケゴールやニーチェにも「嵌まつた」事になる。今の學生と違ひ、當時の學生は皆、本を良く讀んでゐて、福田氏もブラッドリーのシェイクスピア論なんかを讀んでゐた。英文學を專攻した當時の學生なら、コールリッジやアーノルド、ペイター、或はT.S.エリオットを普通に讀んでゐて、その一方でシェストフなんかだつて讀んでゐただらう。それでも結構多くの學生が左傾化した訣だが、皆が皆左傾化しなければならなかつたと考へるべき理由はない。福田氏は寧ろ英國流のバランス感覺を學んだと言つて良いのではないか。福田氏が特にマルクスだけに傾倒したと考へる必要はないと思ふ(一往勉強してはゐただらうと思ふ)。大體、芥川を讀んでゐたのだから、福田氏が共産主義に傾倒してゐたとは考へ難い。
平成十八年十一月七日
「日本共産黨禮讚」なんて文章を福田恆存は昭和四十年に書いてゐる。勿論、この文章を題名だけ見て、例へば「や」会長みたいに安直に捉へてはならない訣で、「福田氏は日本共産党のシンパだ」なんて言ふ事は出來ない。その「眞意」は、「日本共産黨は、言ふ事に筋が通つてゐる」と、さう云ふ事であり、福田氏はその點を評價してゐるに過ぎない。福田氏は、自分自身は反共であり親米である、と明言してゐる。
自己の據る原則を明示した上で現實の問題を論ずる、それなら「あり」だ。しかし、實際にはマルキシズムなり平和主義なりの原則に基いてゐるにもかかはらず、故意にその邊をぼかし、「自分は現實主義だ」と宣言して、逆に立場の曖昧さを利用して、自分に都合の良い方向に世の中が結果として動いて行くやうにしようとする議論が横行してゐる。今でもそんな議論は日常茶飯事だが、それは「子役論法」「置引き論法」だ、と福田氏は強く非難してゐる。さう云ふ卑怯な論法を使ふ世間の平和論者と違ひ、日本共産黨はすつきりしてゐる。だから、立場は違ふが、あり得る立場として認められる、と云ふのが福田氏の共産黨評價だつた。
戰後直後、「政治と文學」論爭の中で、「所謂文化人」が何人も共産黨から除名された時、自分は共産黨の身方だつた、と福田氏は述べる。それはなぜかと言ふと、共産革命を目ざす以上政治優位は解り切つた事だつたからに過ぎない。はつきり言へば、二十年前に私が何度も口を酸くして言つた樣に、第二次大戰後、殊に中共が出來て後は、革命に文士や文學を必要とする時代は永遠に去つたのです。その位の事が見拔けなくて、政治は勿論、文學に携る事すら既にをかしいと言へませう。福田氏にして見れば、政治にしろ文學にしろ、その立場にただただ拘るだけの「ロマンティシズム」は、愚かしい事であつた。何れの立場であつても、自己の立場を辨へ、その目的を明瞭に意識しつゝ、それに據つて逆に物事を正しく客觀的に判斷し、行動してゐれば、それはあり得る正しい態度である――と、さう考へてゐた訣だ。
福田氏は述べてゐる。日共禮讚はこの位で止めて置きませう。私の眞に言ひたい事は、吾々日本人は道徳と政治とを混同するやうな曖昧と僞善と思ひ上りとを一日も早く拂拭し、國家としての去就、進退をはつきりさせなければいけないといふ事です。既に述べた樣に、そこをはつきりさせてゐるのは共産黨だけで、社會黨も民社黨も自民黨もごまかしてをります。福田氏が神を信じてゐたかゐなかつたか――そんな事は全く何うでも良い事であつて、しかし、何れにせよ、政治と道徳、政治と文學とを峻別すべき事ははつきり述べてゐた。否、福田氏は神など信じてはゐなかつただらうと思ふ。ロレンスの影響下にあつたと云ふ事は、即ち福田氏は人間の「肉體」を信じてゐたと云ふ事だ。それを「唯物主義」と呼ぶ事は寧ろ正當である。福田氏が心理的であつた等と考へる方がをかしい。人間の心理は、人間の肉體と直結してゐる。それが單純な物理法則であると考へなかつた點だけが、凡庸な唯物論者の群から福田氏を引離す。

勿論、道徳の問題は大事です。いや、私としては寧ろ話をそこへ持つて行きたいのです。私が日本共産黨を禮讚しながら、同時に反共であるのは、共産主義には政治といふ軸だけで道徳といふ軸が全く缺けてゐるからに外なりません。また私が中間派的知識人を非難するのは、さういふ共産主義の嚴しさを知つてか知らずか、それに道徳といふ甘い味附けをして自他をごまかしてゐるからに外なりません。エゴイズムといふものは、國家のそれにせよ、階級のそれにせよ、自他の目に一度はつきり剥き出しにした方が良いのです。それをやらないうちに道徳的大義名分を持出すと、個人の場合と同樣、どうしても修身的僞善になりやすい。

福田氏の評論のキーワードとして、「ごまかし」と云ふ語を擧げるのは何うか。福田氏は、何んな立場であれ「ごまかし」が「ある」事を強く非難する。日本共産黨を「禮讚」するのは、そのごまかしがないからだ。が、そもそも共産主義にはごまかしを否定すべき價値觀が存在しない。だから、結果としてごまかしがないからと言つて、福田氏は共産主義を支持出來ない。(福田氏は、この論文の結論部で、共産主義陣營と自由陣營とに世界は大きく二つに分れてゐる、と指摘してゐる。福田氏自身は「自由陣營を支持する」と宣言してゐる。共産主義が據つてゐるのは一元論だが、自由陣營が據つてゐるのは二元論だからである。一元論か、二元論か、と云ふ對立もまた、二元論的であると福田氏は述べてゐる。そして、さう云ふ二元論の立場を取るからこそ、どちらか一方を取る、と云ふ撰擇が可能である)

吾々はこの邊で政治と道徳との二元的對立といふ近代感覺を身に著ける事を學ばなければならぬのではないでせうか。先に言つた現實論と原則論との別といふのもそれです。それが俗權と宗權との對立抗爭に揉まれて發生して來た近代國家の宿命であります。しかし、同時に、さういふ近代主義に疲れ、愛想を盡かし易いのが、後進的近代國家の宿命でもあります。そこから當然全體主義への郷愁が生れる。政治の中に道徳、その他、何も彼も取り込み、政治の優位を確保しようとする。それもまた必然ではありませんか。私が中間派的知識人の言動に苛立たしさを感じるのは、彼等がさういふ歴史の必然を見通し得ずに、政治の中に安直に道徳を持ち込み、その酢を以て政治の優位を骨拔きに出來ると考へてゐる點であります。それは彼等自身の生き方や考へ方において、政治と道徳とが未分状態にあるからに外ならない。別の言葉で言へば、集團的自我と個人的自我との對立と處理が出來てゐないといふ事です。

二元論と言ふと實に單純に前田氏は拒絶するが、福田氏はその二元論を以て世の中を「割切つて考へる」事の科學性を主張してゐるのである――さう言つたら何うだらうか。實際、さう簡單に現實は割切れたものでないと、それは福田氏も解つてゐるが、だが、さうやつて事を曖昧にしてしまふのは、寧ろ現實の正確な認識・理解を阻害する事ではないか。事實、多くの「中間派的文化人」が、誤つた認識の下に、好い加減な議論をしてゐるではないか。それでは困る、と福田氏は言つてゐる――と、さう野嵜は理解した。二元論は目的でなく、現實を認識する手段であつて、それを理解した上で上手に用ゐる事が必要である。
平成十八年十一月七日
お笑いパソコン日誌:今日のフラッシュバック・マイクロソフトとノベル
Windows 3.11 for Workgroupの日本語版は遂に出なかつた訣だが、英語版のWfWを何とか日本語環境にして使ひたいと云ふ事で出たのがWin/Vだつた――自宅の本棚の整理をしつゝ『Inside Win/V』なんて本を見附けてなつかしく思つて「立讀み」。スタンドアローン版のWindows 3.11なんてものもあつたよ。と言ふか、英語版Windows 3.1を3.11にアップデートするオフィシャルのパッチがCICAのCD-ROMに入つてゐたりした。
それにしてもCFCの西川さん、何だかへんな方向に行つてしまつたね。
平成十八年十一月七日
某さんのMacのHDDがまたもや御亡くなりに。それも夏に入換へたばかりの奴。バルクのを買ふやう進言した俺の責任もあるかも知れないが、ちよつとウェブで調べたらG3ではマスターとスレーブにHDDをぶら下げるとスレーブのHDDが逝き易いらしい。G4なので違ふかも知らんが、さうだと俺には都合が良いのでさうである事にしたい。一方俺のG4には外附け300GBのHDDがやつてきた。USB 1.1でしか繋がらないのでファイルのコピーに半日かかるとか笑へる事になつてゐる。

平成十八年十一月六日
金色のコルダが安定して面白い。
平成十八年十一月六日
一部の掲示板で野嵜の名前を騙つてゐたのが「福田恒存をやっつける会会長」であつた事實が判明。と言ふか、今更氣附いた。
平成十八年十一月六日
前田さんの「ブログ」にfankee_jrの名前で書込んだら、「♪所得税、どのくらい払ってるの?♪」と名乘つて「義」がおためごかしの投稿をして來た。書き方を見ると何うもYahoo!掲示板でFutakoto_Mikoto_Yokotoと名乘つて野嵜の發言を妨害し續けた日本たばこ産業の社員の仕業らしい。
平成十八年十一月六日
以下、全く讀者を裨益しない文章で、全く無價値の文章であるのだが、人間、一方的に煽られ捲つて反論しないでゐると「腹が膨れる」ので、たまには腹の中のものを吐出して、人格が破綻しないやうにしておきたい。茲數日、數週間、數箇月に亙つて行はれてゐる「アンチ野嵜」の連中による、殆ど「組織的」な嫌がらせ行爲――煽りに、野嵜はほとほと參つてゐる。今まで自重して來たが、そろそろぶち切れても良い頃だらう。と云ふ訣で、以下は、野嵜が一方的に「アンチ」を詰らうと言ふのではない、寧ろ「アンチ」が野嵜を一方的に侮辱してゐるからそれに對して反論と抗議を行ふものである。飽くまで「アンチ野嵜」の連中の煽りが野嵜をして無價値の文章を書かしめた原因である。
以下の文章について御願ひである。良識ある讀者の方々には、讀まないか、輕く流して貰ひたい。「アンチ野嵜」の連中には、熟讀して、かんかんに怒つて貰ひたい。
「アンチ野嵜」の連中の手口は共通してゐる(と言ふか、どうも本當に數人の人間らしい)。彼等のパターンはかうだ――。野嵜が餘所の掲示板に書込んで話をしてゐると、突然亂入して議論を破壞し、場を目茶苦茶にして、「野嵜が現れると場が荒れる」と云ふ「實績」を作る。野嵜の「過去の行状」をでつち上げて吹聽する。fankee_jrのハンドルを使ふと「これは掲示板荒し」と宣傳する。いづれも野嵜を(事實に反して)掲示板荒しと云ふ事にする爲のでつち上げ工作である。
大體、連中は野嵜を人格異常者に仕立て上げたいらしい――。野嵜を「傲慢」「増上慢」と極附ける。「無職」「穀潰し」と罵る。今、野嵜は被害者として辯明してゐるのだが、それを見て連中は「野嵜は自分の事を被害者と言つた、傲慢だ!」と怒る。訣がわからない。俺にして見れば、煽られに煽られて、それで怒つてゐるのだが、連中に據れば、怒つた野嵜が惡くて、煽つた連中は絶對の正義であるらしい。無職で穀潰しも、別に物を言ふ權利が無い訣がないのだが(當り前)、連中、「そんな權利はない」と居丈高に言ふ。そんな事を言ふのなら、野嵜が連中の職を暴いて、勤務先に「月給泥棒がゐる」と「報告」しても連中、全く文句は言へない筈だが、Futakoto_Mikoto_Yokotoのやうに彼等は自己の保身を至上命令と看做し、理屈拔きで野嵜の反撃を否定する。身勝手も良いところだが、さう云ふ身勝手で他人に冷酷である人間が、野嵜の事を異常人格者と極附けるのである。異常人格者は「アンチ野嵜」の連中の方だらう(かう言ふと、彼等は益々増長して、野嵜が「傲慢」である決定的な證據を見附けたかのやうに言つて喜ぶ)。
彼らは決つてfankee_jrのハンドルに反應する。野嵜がfankee_jrの名前で書込むと、驚くほど居丈高に、書込まれた内容を徹底的に無視して、問答無用で野嵜の發言を封殺しようとする。

「fankee_jr」なる人物による書き込みはすべて削除なさるべきです。アクセス禁止の措置を講ずるべきです。こいつの正体は、かつてヤフーの掲示板を荒らしまくったかどでヤフーIDを削除された某ニートだと思われます。こいつの書き込みで、前田さんの御説の展開は妨害される上、その愚劣さで、前田さんのブログの品位が下がるのは必定です。くれぐれもご注意を。

  • 投稿 ♪所得税、どのくらい払ってるの?♪ | 2006.11.06 03:07 午前
野嵜がfankee_jrの名前でYahoo!掲示板を荒した事實はなく、No_Zの名前でも荒らした事實はない。もし「ある」と言ひたければ、證據を出して貰ひたいが、「アンチ野嵜」が證據を出す事は絶對に無い。無いからこそ、印象操作を頻りに繰返してゐる訣だが、さう言ふとまた連中は「傲慢だ」とレッテル貼りをして好い氣になる。傲慢も何も、事實は事實。事實に反して威張り返るからこそ傲慢なのであつて、それは「アンチ野嵜」の連中の態度である。
實際のところ、野嵜の物の言ひ方が鋭くなるのは、「アンチ野嵜」の連中が野嵜の言ふ事をわざと曲解したり、故意に無視して發言そのものを封じようとしたり、或は人格攻撃をしたりして煽つた爲だ。煽りがあつて、それで野嵜が怒る――その時、常に「アンチ野嵜」は「野嵜が威張つてゐる」と評して見せるのだが、「煽つてゐる側」の發言がどれ程傲慢で人を見下したものであるか。上の發言者、所得税、どのくらい払ってるの?と、實に嫌らしい言ひ方で、野嵜を侮辱してゐるが、かう云ふ侮辱的な物の言ひ方をするのが「アンチ野嵜」の常である。そして、さう云ふ態度を取りながら、「アンチ野嵜」の連中は、「野嵜は傲慢だ!」と宣傳して廻る。
――宣傳、宣傳なのである。「アンチ野嵜」の連中は、常に、宣傳によつてデマを流し、風説を流布して、事實に反した虚僞の「罪」を野嵜になすりつけて、野嵜をウェブから抹殺しようとする。さて、さう云ふ連中に罪はないのか。ある。事實として「福田恒存をやっつける会会長」が野嵜の名を騙つて餘所の掲示板を荒らし、野嵜の名譽を傷附けようと劃策してゐた。「アンチ野嵜」の手口の一端が見えたと言つて良い。♪所得税、どのくらい払ってるの?♪にしてもさうだが、「義」のやうに、人を「無職」と言つて侮辱してゐるのは、誰が何う見ても犯罪行爲である。かう云ふ犯罪行爲で野嵜を潰さうとするのが「アンチ野嵜」の手口である。
喜六郎は、まだまともな方だが、然るに彼の場合、やつぱりをかしなところがあつて、それが「相手の論理を戲畫化して笑ひものにする」と云ふ事を「當り前」だと思つてゐる事だ。「福田恒存をやっつける会会長」と全く同じで、「会長」は福田氏が言つてゐない事をさも言つてゐるかのやうに言ひ做し、其の實、その「福田氏の論理」は、「会長」が笑ひものにする爲に矮小化・戲畫化した氣狂ひ染みた論理でしかなかつた。喜六郎も、松原氏の言つてゐる事を、ありのまゝにではなく、「信者の論理」と稱して事實に反して歪曲し、それで以つて「信者」と極附けた人間に當てつけて、笑ひものにしてやらうとしてゐた。もちろん、連中のやつてゐる事には全て穴があるから、冷靜に判斷出來る人間は欺されない。だからこそ連中は煽るのだが、煽られて怒るのが野嵜だけだと云ふ事に連中は氣附かない。野嵜は煽られて怒つて、それで連中は面白がつたが、傍から見てゐる「赤の他人」は怒らない。さう云ふ人々の中には、連中と同じメンタリティの野次馬もゐるから、何人もが「欺される」が、一方、冷靜に事態を眺めてゐる人もゐて、さう云ふ人は欺されない。さう云ふ人が「ゐる」からこそ、野嵜は決して「惡い事は出來ない」と思つてゐるのだが、「アンチ野嵜」の連中、全ての人間を騙せると信じてゐる。實に人間を侮辱したものだと思ふが、「アンチ野嵜」の連中は、其處まで考へないで、ただ、「目先の野嵜」を侮辱出來ればそれで良いと思つてゐる。「アンチ野嵜」の連中が、野嵜を侮辱して個人的に憂晴しをし、快を貪つてゐるに過ぎない事は、火を見るよりも明かである。
平成十八年十一月六日
で、全く無價値の文章から引續きで惡いのだが前田さんに。前田さんの「言論の空しさ」論、松原先生を皮肉つてゐる積りなのでせうけれども、全て松原先生自身の所爲にしてゐて、實に空しい「言説」だよ。「言説」なんて言葉は野嵜は大嫌ひだが、前田さんは大好きらしいから鉤括弧附きで使ふ。實際、松原先生は、私の振り廻す剣は虚しく宙を斬るのみであつた、と書いてをられて、「斬る」からには相手の存在を前提とする。その「相手」からの反應が「無い」、だから「暖簾に腕押し」だとおつしやつてをられるのだが、さう云ふ「相手」の存在を重々承知してゐる人が何うして自己欺瞞に陷るのだらう。

知的怠惰を論ふその批評家は、相手を論ふことによつて知的誠實さを示さうとした結果、自分自身の知的誠實を磨く機會を奪つてゐることに氣附かなくなつてしまつた。

前田さん、あなた(人を見下した言ひ方である事を承知で言ふ)、何でこんな根據の無い極附けをするのですか。全ての「アンチ野嵜」の連中が冒した過ちだが、頭の惡い人間が常に用ゐる「論法」――全く根據の無い一つの大前提をでつち上げ、それが決定的な事實であるかのやうな顔をしつゝ、それを基に演繹的に話を進める、と云ふ「論法」、これを前田さんも用ゐてしまつてゐる。「帝国電網省」の竹下義朗が、「明治天皇は暗殺されていた」と云ふ何の根據も無い大前提をでつち上げて、それを基に歴史を解釋して見せて、「巧く解釋出來た! だから事實!」と好い氣になつてゐたけれども、あれと同じ「トンデモ論法」を、前田さんも展開しようとしてゐる。上に引用した段落に續けて、前田さんは、なぜだらうか。知的營爲を道徳的實踐と同一視し、文學を道徳と同一視してしまつたからである。と書いてゐる。「なぜだらうか」! ――上に引用した文章の内容は、全く根據ナシに、ただ前田さんによつて創作されたものでしかないのだが、その「創作」を前田さんは「事實」と看做し、この嘘の「事實」を大前提に、松原先生の態度を全て解釋して見せようとしてゐる。前田さん、あなたの論法は「トンデモ論法」ですよ。だから野嵜はあきれて、fankee_jrの名前でゆたかな想像にみちた面白い物語ですね。続きを期待します。と皮肉つた。此の皮肉が前田さんは理解できなかつたやうだ――と言ふより、理解しない事こそが「文藝批評家」の眞髓である! とでも信じてゐるのではないか。「自己欺瞞」と前田さんは書いてをられるが、その文章は、傍から見れば、自己陶醉に陷つた人間の文章である。
言葉の救はれ――福田恆存論: 悲劇『知的怠惰を論ふことの自己欺瞞』
平成十八年十一月六日
言葉の救はれ――福田恆存論: 知的誠實と庶民の心理

知識人を斬る知識人もまた、日本的知識人なのである。福田恆存はそれを自覺してゐた。さうして、知的誠實といふ自己欺瞞を警戒してゐたのである。

この文章が何を意味してゐるのかと言ふと――「だから福田さんは『知識人が知識人を斬る』なんて事はしなかつた」である筈だが、それを前田さんははつきり言はない。當り前の話で、事實として福田さんは清水幾太郎を斬つたからだ。となると、この文章はナンセンスも良いところなのだが、前田さんはナンセンスだと思はない。
なぜだらうか。松原先生の行爲を無自覺の行爲と看做し、福田さんの行爲を自覺的な行爲と極附けてしまつたからである。自分は神を信じてゐると云ふ立場だから、前田さんは、自分が神の御言葉を代辯しなければならないと考へたからである。いや、さうあるべきだと願つたからである。神のゐない國の悲劇である。無い物ねだりと云ふ事である。しかし、福田論は、それが正しい、と信じてゐる人によつても書かれるのである。
野嵜は前田さんが實に無造作に人の行爲を判定してしまふのに呆れて、言葉の救はれ――福田恆存論: 言葉の救はれ・宿命の國語115でfankee_jrの名前で皮肉を書込んだが、fankee_jrのハンドルに釣られて場を荒しに來た♪所得税、どのくらい払ってるの?♪の所爲でうやむやになりさうだ。しかし、何うして前田さんは、こんなに無造作に「評論」をやれてしまふのだらうと、俺は疑問に思つてゐる。前田さんが「評論」をやる動機は一體何なのだらうと。世間には澤山「評論家」がゐて、俺は屡々「あなたの動機は何ですか」と尋ねたくなるのだけれども、さう云ふ「なぜ物を書いてゐるのかさつぱりわからない評論家」の一人に前田さんも入る。
福田さんの場合、松原先生もさうだが、一種の「正義感」に基いてゐる事はありありと判る。が、前田さんの場合、何うも他人樣を判定して、快を貪つてゐるらしき氣配がある。福田さんにしても松原先生にしても、前田さんの言葉を借りて言へば「神」を信じてゐる――松原先生について前田さんは異論が「ある」だらうが、茲で野嵜は前田さんの用語としての「神」と異る意味で「神」と言つてゐる。絶對者と云ふ意味ではなく、福田さんの場合は「自然」であり、松原先生の場合は「眞實」である。が、福田さんにしても松原先生にしても、結局のところ、「普遍的なもの」への興味と或程度の諦念があつたものと思はれる。これに對して、野嵜は、前田さんが、さう云ふ意味での「神」――「普遍的なもの」への興味が「ある」のか何うか、疑問に思つてゐる。前田さんは、絶對的に福田さんと松原先生とを區別してゐるが、野嵜は其處に前田さんの前田さん自身への強烈な信頼が「ある」事を看て取る。だが、自己に對する絶對の信頼とは、他者としての絶對者――「神」への信頼が「ない」事の證據ではないか。にもかかはらず、前田さんは「神」の「存在」を「信ずる」と云ふ立場を取る。そこに、前田さんの宣言にもかかはらず、前田さんの自己欺瞞を野嵜は嗅ぎつけたやうに思ふ。

平成十八年十一月五日
くじアン、話はふつーだけれども繪が良く動いてゐてアニメとして面白い。
平成十八年十一月五日
白川靜氏の訃報。讀賣新聞では一面及び社會面で報じられたけれども、何處にも「字體改革に反對であつた」事實が書かれてゐなかつた。
平成十八年十一月五日
讀賣新聞五日附け朝刊の編集手帳。吉田拓郎その他の「かぐや姫」のコンサートを見たとの話。昔を懐かしむというより、コンサートには何があっても生きていこうというメッセージが感じられた。子供のいじめ自殺や大人の自殺が社会問題になっているが、勇気を与えられた人も多かったのではないだろうか――とある。生きるのが辛い人間に「生きろ」なんて言つて勵ますのが一番當人にとつて辛い事であるのは常識だと思つてゐたが、生きるのが樂な連中には解らないらしい。大體、この手の「生きろ」なる「メッセージ」が安易に流布される所爲で、「生きる氣力もない人間」を見下す風潮が生れるのだ。「生きる氣力のない人間には生きる資格がない」と極附け「苛める」と云ふのが、現代の「苛め」の「論理」である(「義」を見よ)。氣樂に生きてゐる連中が、何も解らないでそれつぽいメッセージを襃め讚へてゐる爲に、却つて事態は惡化する。と言ふより、人間、やる事は變らないのであり、ただ、自己正當化の言葉が「進化」するに過ぎない。今は、より綺麗な言葉で、より冷酷かつ惡辣なやり方が行はれるやうになつてゐる時代である。これを「良い!」と考へる人は極めて多いのだが(だから、叮嚀語を使ふアレクセイや白波海太郎みたいな連中が威張り返つてゐる訣だ)、「より陰濕になつてゐる」事の何處が良いのかと俺は思ふ。
平成十八年十一月五日
ありとあらゆる人が、「苛め」を「惡い事だ」と宣傳する事で「なくせる」と信じてゐる。が、これ程幼稚で愚かしい發想はない。共産主義者の先生が「仲良く」「仲良く」と繰返し無駄に言つてゐた事實を覺えてゐる。「苛め」をなくさうと言つてゐる連中の中には、自分だけ良い子にならうとして、綺麗な言葉を口にして、自己を正當化してゐるだけの輩が多い。もちろん、本氣でなくさうと考へてゐる人もゐるが、ほぼ全ての場合、感傷的な發想で「苛めをなくす努力して行かねばならない」と精神主義を唱道してゐるに過ぎない。無駄である。無駄を無駄と知らずにやつてゐるのならば愚かであるし、知つてゐてやつてゐるのならば欺瞞である。
現實の「苛め」においては、全て苛める側が自己を正當化してゐる。この事實を無視して、「惡い事だ」と極附けても、何の意味も效果もない。弱者を惡人に即座に轉化する事によつて、「これは苛めではない、正當な行爲である」と「苛める側」は主張してゐるし、「正當な行爲である」との認識があるからこそ、驚くほど冷酷で惡辣な行爲でも平然と行へる。そこで「根據ナシ」に「惡い事だ」とレッテルを貼つても、苛めてゐる連中、何とも思はない。
「正當化」そのものを非難しても全く意味はない。正當化の概念が無ければ、そもそも「苛め」なる行爲を「不當な行爲だ」と非難する根據が無くなつてしまふ。「正當化しさへすれば『間違つた行爲』であつても正しい事にしてしまへる」と云ふ「苛める人間」の發想を何とかすべきである。
ここに我々は、餘りにも一般化・日常化・卑俗化してゐる價値相對主義を見出せる――「正しい事」は「相對的」であり、言葉に據つてでつち上げる事が出來る、しかもそのでつち上げた「正しい事」でもつて他人を叩く事は非難を免れるものである、のみならず、それによつて共同體の中で立派な人間として認められるものである。かうした發想が苛めの中には「ある」。多くの人が、「立派な人間」云々の「道徳的」に見える「結論」の部分に飛び附いて、「そんな事はない」と否定し去つて、それで問題は解決する、と考へる。だが、それは誤だ。當り前の話で、「苛め」を非難する事で「良い人間」の側に立たうとしてゐるのならば、さう云ふ「良い人間にならうとする」事自體を否定し去るのは、ただ自分の立場を自分で突崩す事にしかならない。苛め問題の眞の原因は「正しい事」の「でつち上げ」にある。或は、正しいと云ふ事を輕んじ、自らの都合ででつち上げられると信ずる風潮が世間に存在してゐる事にある。

平成十八年十一月四日
毎囘何處かをかしい銀河鉄道物語。今囘もつつこみどころ滿載。アスペクト比ミスつて縱長になつたコマがあつたりするし。
平成十八年十一月四日
WindowsのUpdateをやつたりIE7日本語版を入れたり。
動いてゐる機械だから餘り弄らないやうにしてゐたけれどもさすがに何うかと思つて數年ぶりにサウンド機能のドライヴァを入換へてみたり。NVIDIAのドライヴァ。
平成十八年十一月四日
ITmedia News:ハッカーがWikipediaをマルウェア配布に悪用
平成十八年十一月四日
下地島空港〜by HANEDA WATCH

平成十八年十一月三日
中島敦 弟子
平成十八年十一月三日
森鴎外 安井夫人
平成十八年十一月三日
Amazon.co.jp: リストマニア! - リストを見る "論語の訳注・解説書"
平成十八年十一月三日
site:www.amazon.co.jp 論語 - Google 検索
平成十八年十一月三日
鳩笛雑記帳 - 呉智英の一「信者」としては狂ったやうに(?)氏の論語解釈を擁護したい(1)
鳩笛雑記帳 - 呉智英の一「信者」としては狂ったやうに(?)氏の論語解釈を擁護したい(1)
平成十八年十一月三日
詞の玉垣平成十八年十一月二日
平成十八年十一月三日
はてなの茶碗 - 發憤忘食
平成十八年十一月三日
キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
山本七平『論語の読み方』
やつと見附けた。
「葉公」云々の解釋は六十五ページにある。

葉公が子路に、孔子とはどういう人なのかたずねた。子路は答えられなかった。そこで、孔子は言った。『なんで言わないのか、こう言えばいい。あの人のあり方は、情熱的になると食事を忘れ、学を楽しむと心配事はすべて忘れ、老いが迫っているのも気づかずにいる』と

で、山本七平はコメントして、この絶えざる情熱は、静かなる孔子の一面であったろう。と書いてゐる。六十六ページ
山本は、学を楽しむと心配事はすべて忘れだけにかかるやうに言つてゐる。だから、情熱的になると食事を忘れ情熱的になるとについて情熱的になるとの意味ではないと山本は解釋してゐる事になる。
喜六郎は、岩波なんかで出てゐる『論語』を「原典」と言つてゐる。しかし、今の話では、松原氏が批評對象としてゐる山本七平の『論語の読み方』が原典となる。その原典たる『論語の読み方』に情熱的なる解釋が「ある」訣だ。にもかかはらず山本はそれ以外の面ばかりを強調してゐる。それを松原氏は批判してゐる。この時、松原氏が山本の解釋を利用して山本の書き方を一面的と批判して、何か問題が「ある」だらうか。
「松原氏が誤つた」と喜六郎は詰つてゐるが、「誤」が「ある」としたらそれは山本七平に「ある」。
平成十八年十一月三日
折々の妄言 Sittlichkeit der Sitte (2006/11/03)
平成十八年十一月三日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - 過密、過重
平成十八年十一月三日
花鳥風月を愛でる事は、日本では極めて常識的な文藝のテーマだ。
福田恆存も文章を讀む楽しみは文體を樂しむ事だと書いてゐる。慥かに巧い文章は「ある」し、それを樂しむのは文章を樂しむ事だ。
だが、それだけが「文藝である」と言切るのは何うか。それはをかしい――と、誰もが言ふのではないか。然るに、「それ以外」の文藝のあり方を主張すると、強い反撥を受ける。だが、それは「惡しきナショナリズム」ではないか。
殊さら日本的な文藝觀を強調し、日本的な文藝を肯定しようとする意見が、日本には多過ぎるやうに思はれる。
「日本にはない」ものを指摘する事は許されないのか。道徳的な側面を、日本人は殊さら排斥する。それを批判すると、批判した人間が人格異常者であるかのやうにすら言はれる。一方、徳目について論じて、その徳目に合致しない人間を道徳的な惡人と極附ける論法は、日本では「常識」と化してゐる。だが、「徳目の命令に適ふ」事と、「道徳的である」事とは違ふ――その違ひをなかなか認識出來ないのが日本人だが、それは日本人の缺陷でないのか。
フローベールにしても、ボヴァリー夫人に見られる技術の巧みさに、日本人は感心する。が、それが、例へば輕業を見て感心するのと、違ひが「ある」のか。もし「ない」とするのならば、文藝は言葉の輕業の域を出ない事になる。が、そんなものにフローベールが必死になつたと考へるのは如何なものか。ボヴァリー夫人が傑作となつてゐるのは、作者が登場人物(の趣味・生き方)を徹底して輕蔑しながら、さう云ふ人物を生き生きと描いてゐる處にある(その點でフローベールは道徳的に正しい)。
フローベールに限らず、歐米の優れた作家が、登場人物に對して批評的な態度をとつてゐる事は重要で、それは即ち、作家が登場人物と距離を置いて接してゐる事を示す。日本に於ては作家と登場人物とは屡々「一心同體」で、言換へれば、人物が作家の操り人形と化してゐる――が、これ程安易な表現も無いのであつて、と言ふのは、作家が自分の主張を人物に代辯させるのは極めて容易であるからだ。作家が、自分のものではない「他人の主張」を、人物をして強力な説得力を以て語らしめるのは、大變な難事である。さう云ふ他者としての人物を創造しつゝ、その人物に對して作家自身の態度を確固として持つ。フローベールはさう云ふ態度をとつてゐる。日本の作家にはこのやうな態度をとれない人が少くない。夏目漱石ですら『こゝろ』でそれに失敗してゐると松原氏は指摘してゐる。
大江健三郎等を松原氏が批判するのは、他者としてではない自らの分身たる登場人物を、作家が禮讚してゐる點にある。一方、鴎外が安井夫人を禮讚してゐるのは、自らの代辯者ではなく、飽くまで他者である安井夫人を禮讚してゐる。鴎外の樣な「他者への禮讚」は、道徳的な惡事ではない。が、「自分自身への禮讚」は、惡事である。
他者としての人物――それは人間として一人立ちしてゐる人間である。別に、自分で稼いでメシを食つてゐるとかさう云ふ意味ではなくて、飽くまで、體系的な人間を確立してゐる人間と云ふ意味だが、さうした人間は精神を持つ。精神を持つならば、精神の外部の存在と常に衝突する。その點で葛藤が生ずる訣だが、その葛藤が顯はれてゐる事は、その小説の優秀である事の傍證となる。

平成十八年十一月二日
奏光のストレイン @ WOWOW。第一話第二話連續放送。スタジオ・ファンタジアのSFアニメーション。可成面白い。
平成十八年十一月二日
喜六郎の小屋 - 麗しき(?)師弟愛
喜六郎が周章狼狽して、虚勢を張つて見せてゐる。
野嵜氏は、数ある論語解釈の中から一番松原氏の誤解釈に近い(?)、吉川幸次郎さんの解釈を援用してるが、と言つて、喜六郎は吉川幸次郎の解釋について野嵜が觸れた部分に著目する。しかし、野嵜は其處等で、實はただ、「いろいろな解釋がある」事を示したに過ぎない。子は温にして獅オ。威あって猛からず。恭しくして安し。について野嵜が觸れた意圖に、喜六郎は氣附いてゐない。
平成十八年十一月二日
で、あつちに書込んだ事をこちらにも轉載。

と言ふか、呉智英が「誤解釋」と言つたから松原氏のは誤解釋、と極附けるのには問題がある。

一往呉智英の本に當つておいて良かつた。慥かに「原典」に當るのは必要な事だ。

  • 呉智英は、「孔子は温和だ」から「怒らない」に決つてゐて、そこで「怒る」と云ふ解釋をするのは誤、と言つてゐる。
  • けれども、松原氏は「温和である人が時に怒る人であつても矛盾はない」と言つてゐるのだから、そこで「矛盾だ」と極附けて否定しようとしても無理。

となると、そもそも「論語」の解釋とは何なのか、と云ふ處から改めて檢討しなければならない。「論語」は、どの文章も前後關係が良く解らない斷片である。注釋者は、それらを自分の立場に基いて一貫した内容で解釋して見せた。性善説とか性惡説とかは注釋者の立場だし、それ以外の立場もあり得る。

で、さうした立場の一つとして、孔子を全面的に温和な人物と看做して解釋する方法があり得る。それで「發憤亡食」を學問的な發憤と解釋するのだが、この場合、他の項目も矛盾の無いやうに解釋しなければならない。「子温而氏vを「おだやかではあるが、その中にもおのずからひきしまったところがある。」(諸橋)のやうに解釋するのはその爲。

宮崎市定は、その邊の事に無頓着だつたらしくて、「氏vを「激しい気性」と解釋してゐる。

しかし、かうなると、孔子を、温和であり、同時に、激しい氣性の人物である、と解釋する方法は「あり得る」事になる。さうなると、呉智英が井上靖をばつさり斬つたやうな論法は必ずしも決定的に有效と云ふ事にはならなくなる。松原氏の立場もこの「温和にして激しい氣性」と云ふものに屬する、と看做すならば、呉智英の説に基いた否定は不可能になる。のみならず、松原氏の山本七平批判が、呉智英に向ふ事も「あり得る」と云ふ事になる。

平成十八年十一月二日

と言ふか、喜六郎の狼狽ぶりに苦笑した。

吉川氏の解釋だけを野嵜が根據にしてゐる、と必死になつて喜六郎は言張つてゐる。しかし、野嵜は宮崎市定の解釋をも引用してゐる。其處まできちんと讀んで、意圖を汲みとつていただきたいものだ。

野嵜は、呉智英が井上靖の解釋を誤とした根據が不確實だ、と指摘してゐる。然るに、喜六郎は、確實だ、と主張してゐる。

で、改めて、喜六郎が呉智英の解釋を「決定的なものである」と極附ける根據について、御尋ねしたい訣だ。

喜六郎は、松原氏を「有罪」と主張して、その證據として呉智英の發言を持出してゐる。その證據が不確實なものであるのならば、松原氏は無罪である。野嵜は、呉智英の解釋が確實とは言切れない事を言へば良い。「可能性」の論で十分である。

それに對して、松原氏を「有罪」にしようとしてゐるのだから、決定的な證據を喜六郎は提出する必要がある。そこでは「可能性」レヴェルでなく、決定的で必然的な證據が要請される。現時點までに、喜六郎は、松原氏が「有罪」である決定的な證據を提出してゐない。

どうも喜六郎、例の「や」会長と同じ轍を蹈みさうな豫感がする。

平成十八年十一月二日
ぎゃはぎゃは馬鹿笑ひしてゐる人間には、何を言つても通じないだらうが、こちらも馬鹿だから、懇切叮嚀に繰返し説明しようとして、何度も投稿してゐる。

よろしいですか。

  • 呉智英は、「温和」と「激しい気性」は兩立しない・矛盾である、と考へて、それで井上靖の解釋を「誤」とした。
  • 松原氏は、「温和」と「激しい気性」は兩立すると述べてゐる。

ここで、單純に、呉智英が「誤」と言つたからと言つて、決定的に松原氏は誤、と決める事は出來ない。

「温和」と「激しい気性」は兩立する、と考へる人が、兩立しないから、なる理由で主張を否定されても、納得出來る訣がないでせう。茲で「でせう」と言ふのは、推論ではなくて、喜六郎に尋ねてゐる事を示してゐます。

となると、松原氏のが誤解釋である事を言ふには、呉智英が述べた以外の論據を必要とする訣です。それが決定的に松原氏の解釋を粉碎しない限り、松原氏の解釋を誤と決める訣には行きません。

だから、呉智英氏の述べた以外の理由で、松原氏の解釋を決定的に否定する論據を喜六郎に提出して呉れとこちらは求める訣です。岩波文庫に書いてあるとか、そんな事は決定的な論據になりません。喜六郎は、論語を良く研究してゐるのでせうから、けちけちしないでその成果を見せて呉れと、例へば徂徠の解釋は何うだつたのか教へて呉れと、さうこちらは御願ひしてゐる訣。別に惡戰苦鬪なんて、してはゐませんよ。俺は頭が惡いから、頭の良い喜六郎みたいに簡單に納得してしまふ事が出來ないのです。

平成十八年十一月二日
喜六郎は、呉智英が「誤」と言つた、と云ふ事で、喜んでしまつて、「なぜ誤と言つたのか」を考へず、結論としての「誤」と云ふ事を錦の御旗のやうに押し立てて、それで「松原信者」を默らせようと考へた。
ところが、その「なぜ」を考へると、呉智英の提示した「誤の理由」が松原氏が否定する價値觀に基いたものである事に氣附かざるを得ない。
良く考へて貰ひたい。今、「山本七平の價値觀(と一致する呉智英の價値觀)」で以て「山本七平の價値觀を否定する松原氏の解釋」を單純に否定する、と、さう云ふをかしな状況が生じてゐる。これは、常識的に考へれば、可笑しな状況でせう。ところが喜六郎はこれが「可笑しな状況」だと氣附いてゐない。
俺は、煽りを入れずに論語の解釋に關する檢討を行つたのだが、喜六郎は煽り返すばかりで眞面目に返答しない。「言論は空しい」訣だが、かうやつて喜六郎は「勝ち」を得ようとする。が、そんな「勝利」は空しいと思はないか。
取敢ず、氣狂ひみたいな馬鹿笑ひは止めて、喜六郎は松原氏の解釋を全否定する客觀的な決定的證據を早々に提示するやうに。それが出來ないなら、喜六郎は負けてゐるのに高笑ひをして見せた大馬鹿者として末代まで耻を晒す事になり兼ねない――が、まあ、恥さらしになる可能性を見越して、最初から此の人は匿名を使つてゐるものなのだらう。さもありなん。
平成十八年十一月二日
と言ふか、NON BOOK版『論語の読み方』讀んだ人も持つてゐる人もゐないの? 喜六郎は、論語もろくに讀んでゐないらしいが。
平成十八年十一月二日
今頃鋼鉄天使くるみpureなんぞをAT-Xで觀たのだけれども、下手などらまよりは御芝居としてまとも。

平成十八年十一月一日
喜六郎の小屋 - 他人に厳しく自分に優しく

漢文の解釋について反論する積りはなかったけれども、一往調べて見た。

諸橋轍次
孔子という人物は、道を求めて未だ得ない場合には、心を奮い起こし、それに熱中して食事をも忘れるほどである。
宮崎市定
学問の情熱に燃えた時には食事をも忘れ、
吉川幸次郎
憤りを発する、すなわち人間の将来を憂えての心情の興奮がおこると、そのために食事さえも忘れる。
呉智英
学問への意欲が湧き上がってくると食事も忘れ、

呉智英曰、井上靖「孔子」では、人間の道に外れたことに対する怒りがこみ上げてくると食事も忘れる、となっている。初歩的な誤訳である。これでは、孔子は単なる癇癪持ちになってしまう。楽しみて以て憂いを忘ると続くことに思いを致さなければならない。

呉智英はばつさりやつてゐるけれども、決定的な結論とも言へない。

井上靖の「誤譯」は恐らく吉川譯を踏襲したもの。吉川説がどの注を參照したのかは調べてゐないが、少くとも吉川説が「ある」のは事實。松原先生の解釋は、この吉川説に據つたやうだが、意圖的に「怒つた」を採用したもののやうに思はれる。

子は温にして獅オ。威あって猛からず。恭しくして安し。について宮崎譯孔子は柔和であると同時に激しい気性を持ち云々。全體として「柔和」と云つたニュアンスを持つ文章だが、宮崎氏はこの「獅オ」を「激しい気性」と解釋してゐる。

平成十八年十一月一日
吉川氏、譯文に敢てそうした理想家的な人柄で、云々と附加へてゐる。この条は、「論語」のうちでも、最もいきいきしたものとして、私のはなはだしく愛する条である。と吉川氏。
平成十八年十一月一日
山本七平『論語の読み方』は、家の中を探して見たけれども見附からない。以前、田村書店の無料箱から拾つて來た記憶が微かにあるのだけれども思ひ違ひかも知れない。が、NON BOOKSが纏めて全部行方不明なので、埋つてゐる可能性が高い。今日までの神保町の古本祭で、通りに出てゐるセールのワゴンを端から端まで探したけれども、遂に一册も見附からない。目ぼしい古本屋の棚も見たけれども、見附からない。案外、山本七平、讀まれてゐないのではないか。町田の高原書店邊にありさうな氣がするけれども、行くのが面倒なので何うしたものかと。三日の「文化の日」に町田高原書店オフを「やる」と言つたら、參加する人ゐる? 四、五人集るやうだつたら、行く氣になるかも知れない。
平成十八年十一月一日
荻生徂徠の解釋も知りたいが、最う必要な本に限つて埋もれてゐるので直ぐに出て來ない。

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