闇黒日記


平成十八年十月三十一日
パンプキンシザーズは作畫が惡いけれども面白いね。
平成十八年十月三十一日
未履修が發覺した學校の校長先生が自殺した件。未履修と自殺との關係が認定されたさうだ。生徒よりも先生の方が單純であるらしい。
平成十八年十月三十一日
松原正 - Wikipedia
書直したよ。できればアンチの人には、より公正で正確な記事となるやう、積極的に情報提供或は書換へをしていただきたい。もちろん「信者」の人にも。
平成十八年十月三十一日
現在、人が他人から不當な害を受けた場合、反撃の手段として、裁判を起すか、でなければ自殺して當てつけるしかない。封建時代、裁判は必ずしも唯一の手段ではなくて――と言ふより、全く機能しなくて、敵討ちと云ふものが行はれたのだけれども、同時に、不名譽については切腹と云ふ行爲による反論が屡々行はれた。
――かうして見ると、今、法治主義或は民主主義の時代においても、封建的な要素が依然として殘存してゐるのであつて、切腹と自殺とは個人の名譽を守る最後の手段である。さて、となると、封建的な要素を完全に排除する爲には、自殺が何とかして無くされなければならない訣だが、それは無理な話である。

平成十八年十月三十日
ギャラクシーエンジェる〜ん。ふたば方面では不評。
平成十八年十月三十日
例によつて嫌がらせの記事に對する反論。猫跨ぎ
:: 日出づる國の一無名人のブログ | 松原正信者木村貴論(十)「國語問題協議會會員野嵜健秀」 ::
此處まで讀者を裨益する處のない駄文も珍しい――と言ひたいが、まあ、世間には駄文が結構澤山ある。根據の無い宣言許りが目に附くが、自己申告くらゐ當てにならないものも無い。誰が何う見ても一無名人青方の中村白波海太郎の文章は罵倒。

(略)惡意あつての事ではない。私怨も當然ながらない。揶つて樂しむと云ふやうなそんなさもしい精神も持ち合せてゐない。そんな暇もない。結婚して子供もゐるから、實生活で樂しむ事は幾らでもあるのである。

これだけ諄く書いてゐるのを見れば、含むものが「ある」事は、普通判る。

野嵜氏も最初は謙虚な人であつたと思ふが、あの樣な増上慢にした責任の一端は過大評價して必要以上に持上げ過ぎた私にもあるのではないかと思ふが、もしさうならば、これまた悔まれる事になるが、それは考へ過ぎであらうか。

誰が増上慢だか。「あの樣な」とは具體的に何か。何時ものやうに惡いイメージを讀者に與へようと云ふ惡口である。大體、白波こと青方の中村こそ、上に引用した樣に、自分が全てに滿ち足りた立派な人物であるかのやうに言つてゐるではないか。これこそ中村自身が偉さうに人を見下してゐる證據だ。

さて、今囘、「論爭史」騷動の纏め頁を公開しようと思つて野嵜氏の日記での私の批判文や當ブログのコメントへの反論文を書かうと思つて讀み直してみたが、餘りにも酷過ぎる。

話が横に外れて仕舞ふから軌道修正。野嵜氏の發言が餘りにも酷いので當ブログでのコメントのみを纏め頁に掲載する事にする。

惡口ばつかりで具體的な指摘が無い。惡いイメージを讀者に持たせようと云ふのである。
しかも品がない。等と拔かしてゐるが、中村、「俺は品が良いのだ!」と本氣で信じてゐるらしい。ねちねちと嫌みを言ひつゝ「品が良い惡い」言ふのは、アレクセイもさうだし、何處ぞの「資材係」もさうだつた。

何が、或意味樂しみだ。しかもくだらない何番煎じかも分らない樣な使ひ古された知的遊技。

罵倒は結構ですがね中村先生、品が無いですよ品が。笑ひ。「アンチ」を焚附けて煽つて騷動にして何が樂しいのかね。とか言つてあんたも煽つてゐませんかね。「荒し」は「スルー」が原則で、それが掲示板の「空氣」である筈だがと書くのも馬鹿馬鹿しい限りである。とは、全くのところ、呆れて口が塞がらないとはこの事である、と言ひたい。スルーもしないで一々纏め頁に掲載するのは誰ですか。要は、何んなに惡口を重ね、人を惡人のやうに言ひながら、中村は俺を「荒し」と認定する事が出來ないのだ。

それから、野嵜氏の最近の日記の私に關する記述に就いても書かうと思つたが、馬鹿正直に付合つてもどうせ自分本意で恣意的な事しか書かないだらうから止めて措く。

馬鹿正直に附合ふ氣も無い癖に、わざとこんな事を言つて、青方の中村は自分がさも公正な人物であるかのやうに裝はうとしてゐる。
平成十八年十月三十日
青方の中村の「ブログ」のコメント欄に書いておいたが、青方の中村は「ネットウヨ」で、野嵜が同じやうに右翼だと思つたから接近して來て、ところが野嵜が右翼でないと判つたから掌を返したやうに評價を變へて罵倒し始めた。これは「一無名人のブログ」で中村が自分で書いてゐる事だ。
「違和感」「違和感」と言つて、何か野嵜が惡い事をしたかのやうに言つてゐるが、ただ單に、中村の政治的信條と異る事を言ふ――と言ふより、政治を決して最優先扱ひしない野嵜の態度に、中村は苛立つた。それで中村は逆切れして、野嵜を何とかして無き者にしてやらうと、ハンドルを變へ、別人の振りをして、木村氏に接近し、擧句「ブログ」だの「纏めぺーじ」だのを作つて嫌がらせを行ひ、野嵜を陷れようと劃策し始めた。
普通の人間なら、たかが政治的な理由で人を裏切る中村をこそ、道徳的に不潔な奴だと思ふだらう。當り前の話だ。しかし、このやうな道徳的に不潔な人間ほど、自分を立派に見せたがる。「品が良い」だの何だのと中村は綺麗な事を言ふ。しかし、お品の良い中村みたいな人間も、人を平氣で裏切るのである。或は、人を裏切るのを當り前の事と思ふ。政治とは嫌なものである。
しかしまあ、人を平氣で裏切る中村が、男系に依る皇統護持と拉致被害者の全員奪還を熱望するブログ。なんて「御立派」な事を書くのだからねえ。知つてゐる人間は平氣で裏切れる中村も、知らない人には同情出來るものらしい。隨分薄つぺらい同情だこと。政治主義者とはかう云ふ輩の事を言ふ。當人、勘違ひを勘違ひと氣附けないのだから、處置なし。
平成十八年十月三十日
青方の中村の「ブログ」のコメント欄にも書いたが、俺にして見れば、青方の中村のやうに人を平氣で裏切る人間が正假名派を稱する、と云ふ事の方が耻かしい。
松原先生が常に言つてをられる通り、新字新かなで書く清廉潔白の士もあり、正字正假名で書く卑劣漢もゐる、と云ふ事だ。慥かに、新字新かなで書いてゐるからと言つてその人を侮る事は出來ないし、正字正假名で書いてゐると云ふだけでその人を立派な人物と極附ける事は出來ない。だから俺はさう云ふ單純な二分法を使はない。
平成十八年十月三十日
と言ふか、:: 日出づる國の一無名人のブログ ::のおすすめ本(RECOMMEND)に擧げられてゐる本の非道さに吹いた。反米反韓のウヨ氣質丸出し。政治目的が全てに優先するこの手の人間がゐるからこそ、日本は良くならないのだ。
平成十八年十月三十日

でもニューミュージックが左翼のもの自國に感心のない若者の者と云ふイメーヂが打破されるのは良い。

音樂についても此の人はこの程度の見方しかしてゐないのだよ。
平成十八年十月三十日
波江究一が「文化の爲にスパム行爲を働いた」のは間違ひだが、中村が「政治的な目的の爲に人を裏切つた」のも間違ひだ。
平成十八年十月三十日
アレクセイが野嵜の文章を轉載して一文一文にいちやもんを附け、罵倒を重ね、野嵜を中傷した事があるけれども、あれと全く同じ事を青方の中村もやつてゐる。複數のハンドルを使つてゐる事、人を裏切つてゐる事も全く同じ。
平成十八年十月三十日
/猫跨ぎ
平成十八年十月三十日
中學校の女子生徒が苛められてゐて、で、自殺したと。校長曰、因果關係があるのか何うか解らないと。
人が何故他人を苛めるかと言へば、苛められる人間が「惡い奴」だからだ――もちろん、本當に惡い奴だと言へないから苛めになる訣だが、苛めつ子がそれを一々立證する訣がないのであつて、兔に角苛められる側を「惡い奴」と云ふ事にしてしまふ。そして自分逹は「良い」人間のやうな顔をして誰かをいたぶる――これが苛めだ。理不盡に惡人と極附けられて、しかし人間にはプライドがあるから、苛められる側はそれを不名譽と思ふし、それで自殺もする。
ところで、苛められる側に「プライドがある」と云ふ事が、苛める側にして見れば「生意氣だ」「傲慢だ」と非難すべき理由になる。これは言ひがかりなのだが、苛める側の人間は、「傲慢」と云ふ事を惡徳だと信じてゐる――と言ふより、さう言へば相手を惡人に仕立て上げられるから、居丈高に「傲慢」と極附けて更に苛烈に苛めを行ふ。
戰前・戰中の軍隊における苛めが典型で、新兵を苛めて彼等のプライドを根柢から突崩すのを、苛める古參兵は「善い事」と信じ、善事を爲す自分に醉つてゐた。
今の日本でも、かうした舊軍の苛めと全く同じ事が延々繰返されてゐる訣で、是は根本的な善惡の觀念の取違へが原因となつてゐる。即ち、ヒューマニティと言ふものの存在が善事の大前提となるのだが、さう云ふ物を拔きにして、極めて非人間的な或種の行爲が、システマティックに徳目の定める要件に當嵌められて「善事」と認識・判斷されてゐる。その結果、個人的なエゴ・嫉妬に基く精神的・肉體的暴力行爲が正當化されてしまふ。
苛める側は、何の躊躇ひもなく無慈悲に苛められる側を侮辱するが、その侮辱が侮辱である事をはつきり知つてゐる。そして、侮辱する事よりも、それによつて實現される「正義」を彼等は重んじてゐる。と言ふより、「正義」の名の下に、苛める側は苛められる側を苛めるし、それゆゑ苛める側は「正義」の美名に醉ふし、その甘美な醉ひを味はひたいが爲に苛めをエスカレートさせる。例の一無名人白波海太郎青方の中村にしても、或は「義」にしても、その種の「正義」を振りかざして、快を貪つてゐた。だが、これは日本中に蔓延してゐる事態である。日本中――と言ふより、世界を覆つてゐる事態である。
個人の人格を貶める行爲――それを「正義」の名の下に行ひ、その「正義」の實踐に醉ふ。苛める側の人間と云ふのは、實に道徳的におぞましい精神を持つてゐるのだが、それはこの「醉ふ」事に理由がある。彼等は、反省しないし、自分の行爲は完全な正義だと信じてゐるし――しかしそれらは全て問題の現象に過ぎない。快を貪る爲に行はれる苛めと云ふ行爲、それが餘りにも非人間的に行はれる事に問題がある。怒りは優れて人間的である。然るに、嘲笑は非道く機械的である。この機械的な嘲笑と云ふ行爲を、今の日本人の相當數が「良い事」だと勘違ひし、率先して實踐してゐる。何しろ素晴らしい陶醉を味はへるのだから、正しからうが正しくなからうが氣にしないで、多くの人が嘲笑を行なつてゐる。
平成十八年十月三十日
本屋でぎょっとした。
平成十八年十月三十日
高校の履修不足問題だが、反日教育されるよりは何も教へられない方が増しとか適當。これ、公立の學校だから問題になつたんだよ。公立の學校は御役所の親戚だから云々。
平成十八年十月三十日
全ての苛めに言へる事だが、苛める側は誰も否定出來ない眞理を持つてゐる。苛められる側についての正確な認識を持つてゐる。問題は、苛める側が、その眞理を、その正確な認識を、常に直接、苛める事の正當性を主張する論據として――と言ふより、そのたつた一つの事實を錦の御旗のやうに押し立てる事だ。部分的な眞理を申し立てる事によつて、全體的な人格を否定する――それが苛める側の常に使ふ手だ。「苛めは行けない」と叱られた時、「でも、あいつは○○だ」と、苛める側は昂然と顏を上げて、事實を指摘する。その事實と云ふ論據と、「苛めるのは正しい」と云ふ結論は、論理によつて結び附かねばならないし、常に結び附かないから苛めである訣だが、しかし、その論理を否定する事は空しい。苛める側は、その論理の破綻を指摘されても、常に「事實は事實」と言張るからである。その事實が搖らがない限り、苛める側は何時までも「俺は正しい」と言張る。

平成十八年十月二十九日
くじアン結構良く出來てゐる。特に動き。
平成十八年十月二十九日
麦芽飲料 ネスレ ミロ
平成十八年十月二十九日
会田雄次『敗者の条件』讀了。端的に「生延びる」事を基準に日本の武將の品定めをした本。「天下統一」以下の政治的な目的を持つ筈の武將にとつて唯一あり得べき價値觀は「生延びる」事であつた。
西洋史學の專門家が日本史について書いたものであり、嚴密に正確な内容である訣ではないが、割切つて人物を歴史的に描寫する上では有效な方法が取られてゐると言へる。しかし、一方で、同時に、さうした割切り方が、寧ろ政治一邊倒ならざる人間一般の正しい生き方を浮び上がらせてゐる點で興味深い。
平成十八年十月二十九日
ぜろちやんねる - livedoor Blog(ブログ)
ただのエロ親爺の愚癡だか嫌みだかをねちつこくぐだぐだ「説いて呉れる」サイトに出くはすと、日本人の道徳的レヴェルの低下を目の當りにするやうな嫌惡感を禁じ得ず、直ぐに攻撃したくなつて來る。文體が嫌らしい、典型的なおつさんサイト。「舊字舊かな」を使つて面白がつてゐるサイトには何故かかう云ふのが多くて、國語とは阿呆にも利用される哀しい代物なのだなあと痛感する。かう云ふ變に老成した――と言ふより、己が老成を誇示するやうな傲慢な制作者のサイトは、馬鹿サイトと言ふよりも、僞惡者サイトと言つた方が適切だらう。
何時も思ふのだが、かう云ふあんまりポリシーなんてものがなくて何となく「舊字舊かな」を使つて面白がつてゐる人つて、何うしてアンケエトとかテエマとかウヰブ(ウヱブの誤?)とかつて音引きを使はないで書くのでせうねえ。
アンケエトは數日後にアンケートになつてゐる。謎。
ぜろちやんねる:ファアストレディ - livedoor Blog(ブログ)

おやおや、本氣にしないでください。

本氣にする讀者なんて一人もゐない訣だが、しかし、この手の冗談を言つては「本氣にしないで下さい」と自分で自分に突込みを入れる人つて、何なのだらう。「俺は面白い事を言つた!」と本氣で思つてゐるのではないか。それこそ馬鹿だらう。
ぜろちやんねる:北朝鮮制裁決議 - livedoor Blog(ブログ)
なんか無駄に長々と妄想を語つてゐるし。
ぜろちやんねる:Internet Site Opinion - livedoor Blog(ブログ)

西暦の表記において漢數字を徹底したり、「言論の自由」とかのテエマが凄いですね。まるで皇紀二千六百年、タイ歴二千五百四十九年みたいです。どうせなら右から左に書き記したはうが良かつたのではないでせうか。「軍海國帝本日大」みたいに。

まづ、「まるで」云々の記述はただの言ひがかりで、エロ親爺が意味もなく絡んで見せてゐるだけだから氣にする必要はないが(「テーマ」でなく「テエマ」と書くやうな人物だし)、殘りの部分で物凄く馬鹿な誤を書いてゐるので指摘しておく。
「軍海國帝本日大」の何處が右から左に書き記してゐると云ふのだらう。これは「後から前に書き記してゐる」と言ふ。
漢數字を用ゐてゐる事を揶揄つてゐるが、何もをかしな事はない。なぜなら、アラビア數字だと、縱書きで表示された時、「横倒し」になるからだ。それに、「二〇五〇」なんて書いても、それはただアラビア數字の眞似をしてゐるだけだらう。
影鷹 (kagetaka.org)
HTML文書それ自體に「縱書き」「横書き」は「無い」し、そもそも「右から左」「左から右」も「無い」のであつて、ユーザが「縱書きブラウザ」で見てゐれば「縱書き」に「なる」し、「右から左」に文字が進行するブラウザで見てゐれば「右から左」になる。「當り前の話」だが、その當り前の事を全く解つてゐない人には、さう云ふ「當り前」の事を改めて説かねばならない。
しかし、その「良く考へれば當り前の話」を受附けない人がゐる。改めて説かれても、「知るか馬鹿w」みたいに端から拒絶して、「馬鹿の壁」の「能力」(?)を發揮して、それで相手を嘲笑し續ける人もゐる。そのやうな人こそ馬鹿である。ぜろの使ひ魔の人がさう云ふ人種でない事を希望するが、駄目な氣がする。
A bc (lyric) - 十八時五十分
平成十八年十月二十九日
無断大和但馬屋禁止 - MacOSは7.6から
漢字Talk 7.1の愛稱が「おにぎり」だつたのは黒歴史。Wikipediaに據れば糸井重里が關はつたらしいが。糸井、Traingと言ひ、ろくなキャッチコピーを作らない。「Traing」でぐぐるともしかして: Trainingなんて言はれる。ぐぐる先生を見直した。
それにしても「MacOS」のはてなのキーワードの解説に優れたインターフェイスデザインによる直感的な操作性は云々とあるのは何うしたものか。
MacOSとは - はてなダイアリー
平成十八年十月二十九日
他人の主張を單純化し、カリカチュアライズして嘲笑する手合は、そのカリカチュアを眞實と勘違ひし、訂正を受容れない――のみならず、その訂正を再び嘲笑の對象とする。
しかし、自らの作り上げたカリカチュアを神と間違へて崇めるやうな手合は、寧ろ自分自身の信者であり、ナルシストであると言つて良からう。彼には説得が通じない。然るに、眞實は存在するし、眞實は決してカリカチュア的な代物ではない。
ナルシシズムが己が作り上げたカリカチュアを絶對化する時、議論は成立しない。かかる「信者」に我等は如何にして應對すべきか。彼等「信者」は、既に我等に教訓を與へた――「彼等の言ふ事を聞いては行けません」。

平成十八年十月二十八日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - 寒くなって参りました。
今晩は。毎度どうもです。

それと個々の読者以外に抽象的な「読者」というものがあって、多くの作家・批評家はこの来るべき「読者」に向って書く、という部分を持っているんじゃないかと思います。

これは賛成ですね――「抽象的」と言ふか「理想的」な讀者なら何時でも想定して書くべきだらうと思ひます。
ただ、その「理想の讀者」が「現實の讀者」と懸離れてゐる「現實」を、文章を書いて何かを訴へる人間が「當然の事」と看做して受容れる、と云ふのは、何うなのでせうね、もしそれが「受容れられる事」であるならば、人はありのまゝのもの全てに滿足して、何事も言ふ欲求を持ち得ないのではないでせうか。
さて俺は芸術一般の快楽なるものを全く理解しない者なのですが、そもそも「芸術の快楽」とは何でせうか――否、「芸術」とは? 美と同一視されたのが近代以前における日本の藝術の不幸、政治と同一視されたのが近代における日本の藝術の不幸であつた訣ですが、では何事にも縛られない文學なるもの、それは一體全體何なのか。
俺は、文學は思想に縛られ道徳に支配されるべき藝術であると信ずる者ですが、と云ふのはそれが日本に於ては理想であり、日本の現實に存在しない文學であるからです。日本の純文學と云ふ奴――これは、美的で風流な文學、或は、政治主義的な文學を指す、と言つたら、反論が必ず來ます。が、さうでない純文學として、一般に良く知られ、高く評價されてゐる文藝作品が、日本にどれだけあるでせうか。
漱石の坊つちやん、これは實に道徳的な小説です。勸善懲惡が現實にはあり得ず、正義の鐵槌であつても決して惡をこの世から消し去る事は出來ない、さう云ふ事實をはつきり指摘し、かつ、それを殘念がつてゐる、さう云ふ作者・漱石がゐるがゆゑに成立つてゐる、一見稚拙ですが、道徳を問題にした純粹な文學です。鴎外の歴史小説、出來の惡いものもありますが、矢張り優れて道徳的な小説です。全て、近代の日本から喪はれつゝある日本人の道徳と云ふものを、最早復元不可能であると承知して、にもかかはらずそれは必要なものである、と、そんな認識をはつきり持つた作者・鴎外が、ゐるがゆゑに成立つてゐる小説です。かうした、作者の思想が明確に表現され、思想によつて成立つてゐる小説、それが鴎外・漱石より後、どれだけ日本で「生産」されたでせうか。この點、福田恆存ですら、成功したとは言へません。が、批評家でない、普通の小説家の小説、それらは悉く思想を缺き――例へば、貧乏の樣子を巧く描く、そんな曲藝のやうな事許りが繰返されて來ました。或は、男と女が出會つてセックスする、それを巧く描けば「新しい」純文學です。暴力と頽廢を加へればアヴァンギャルド藝術になる。が、何れにせよ、ただ、「巧く描寫する」の域を出ない。今や讀者も藝術に、曲藝をしか期待してゐないのではないか。それを俺は實に不幸な事だと思ふし、或意味、文學と云ふものは日本で「生きた」事がないのではないかとすら考へる。
マンネリズム的な純文學に比べれば、寧ろライトノヴェルなんかの方にこそ、案外積極的に思想的な立場を明確にした小説が多數出てゐるやうな氣がします。電撃の『キノの旅』なんかは、小林よしのりの影がちらつくのですけれども、思想的なライトノヴェルとして、典型的な物でせう。電撃なんかはさう云ふ思想性を、小説の強力な「賣り」として認めてゐる節があります。御小遣ひの少い中學生・高校生に讀ませる爲、ライトノヴェルには相當強烈な魅力を持たせる必要があります。その點、極めて商業主義的な動機が「ある」のですが、一方で、作家には純粹なエンタテインメント志向が殘存してゐます。媚びのあからさまなあかほりよりも、新人賞を通つて來た、本當に好きで小説を書いてゐる新人を、案外一般の讀者は好意を持つて迎へ入れてゐるやうです。が、さう云ふ純粹なエンタテインメント志向を、既存の純文學の作家が持つてゐるのか。故意に「賣り」を作るべく、純文學の作家が寧ろライトノヴェル作家よりも不純な書き方を積極的に採用してゐると、そんな風に申しましたら、世間的には矢張り反撥されるものでせうか。ライトノヴェル作家にも變な人・變になる人は多い訣ですが、兔に角新人が多く活氣がある事、小説を書いて誰かに讀んで貰ふのが純粹に好きである作家が多い事――それは、既存の純文學よりもライトノヴェルを、ジャンルとして活性化させてゐる要因であると思ひます。もちろん、ライトノヴェルであれ、主張が紋切型の域に留まつてゐる作家は少くありません。しかし一方、リアルかつ自然に登場人物の心情を描いて巧みである作家はライトノヴェルの作家の中に案外多いやうです。一方、作爲的にキャラクタの心情を歪めて平氣である純文學の作家は、單に「存在する」と言ふより寧ろ「多數存在する」と言ふ方が正確でせう。人物を操つて作家の意見を代辯させる、それが不自然に行はれる事が純文學では屡々ある。ライトノヴェル方面でもそんな事はありますが、一方、それをやらうと思はない純粹な作家もライトノヴェルの世界には結構多くゐるやうに思ひます。
ジャンルとしてどつちが良いどつちが惡いと極附けて、一方を貶め一方を持上げると云ふ事を俺は意圖してゐません。ただ、ライトノヴェルなるジャンルの持つ「活氣がある」と云ふ美點を、純文學の世界が持たないのは如何なものか。今の日本の純文学と云ふもの、變に「老成」してしまつて見えるのは、氣のせゐでせうか。藝術に於て若さが失はれる事は、果して好ましい事でせうか。
そのうち何處かで御話したいものですね。
平成十八年十月二十八日
キーボード ユーザー インターフェイス設計のガイドライン
Windowsにも「ある」んだつて。某所の誰だかさん何うも有難う。
Macつて、メニューをキーボードで操作する方法つて、あるのですか?については、Ctrl+F2。ただしデフォルトでは無効。なのですと。今度ためしてみますね。

平成十八年十月二十七日
フジテレビの働きマンが繰上げ放送と言ふか定刻放送になつた。觀逃した・録畫し損ねた人が多數出ると豫想。取敢ず俺は十二時五十四分になつてやつと氣附いて途中から觀たけれども録畫し損ね組。明日と言ふか今日の朝から晝間そして夜にかけて呪詛の聲がウェブ中から上る事必至。
平成十八年十月二十七日
御堂彰彦『付喪堂骨董店』(電撃文庫)を讀んだ。讀み始めて最初の邊の文章を見て何うしようと思つたけれども、文體は兔も角、話は短篇として氣が利いてゐて面白く讀める。
平成十八年十月二十七日
本が出てから誤が發覺。ヴェテラン編緝者が何人もでチェックしてゐたのだけれども「何か變だが多分正しいのだらう」で通つてゐた。けれども某氏の指摘で明かに誤であると判明。出てしまつた分は仕方がないから重版がかかつた時に訂正するしかないが、何千部だか刷つてゐるので賣れなければ何うしやうもないし賣れてしまつた分も何うしやうもない。
實は、參考にした文獻の記述が間違つてゐて、それを基にしたから誤が繰返される事になつたのだけれども、かう云ふ場合、誰が惡いのだらう。
一往、差替へ用の寫眞はある。
平成十八年十月二十七日
法務だけど理系女子の綴るblog: なぜ、日本人はUIにお金を払わないの?
妄想科學日報 - UIのデザイン
無断大和但馬屋禁止 - MacのUIとキーボードショートカット
前にも「マック信者」――と言ふより「アンチWindows」の人の、Windowsを見下してMacintoshを持上げる式の「言説」の嫌らしさを書いた事があるけれども、相變らずその手の「言説」は無くならない。で、それに對して寸゛さんが、ちよつと待てよと。
芹沢氏は「Macには操作體系が明文化されてゐる」けれども「Windowsにはそんな物はない」と述べてゐる。これについては慥かにその通り。
Apple Human Interface Guidelines
Windowsは、Windows 3.0の頃はCUA(Common User Access)準據だつたのだけれども、先行するMacの所爲で「使ひ辛い」と極附けられ、Windows 3.1でキーボードショートカット等を變更せざるを得なくなつて、その後は場當り的に改良を續けて今のやうな事になつてゐる。
The evolution of the Common User Access Workplace Model - Technical IBM Systems Journal - Find Articles
で、俺の信條では、「定められた規則があるものは唯一の『正しい』が『ある』から無條件で『良い』」と云ふ發想には大反對なので、Macの方がWindowsよりも無條件で「良い」と認める訣には行かない。と言ふか、今でも俺はWindows 3.0時代のWindows(CUA89準據)、或は、OS/2 2.1(CUA91準據)の操作體系を「良いものだ」と思つてゐるし、CUAは由緒正しいものだと信じてゐるから、Windowsの基本的な部分の操作性は「素性は良い」と思つてゐる。
平成十八年十月二十七日
實際のところ、MacとWindowsの比較では、Finder/DockとProgram Manager/Explorerの比較みたいになつてゐる部分がある。個人的には、理念的にはOS/2のWorkplace Shellが最良と信じてゐるので、FinderもExplorerも糞だと思つてゐる。と言ふか、Mac OS XのDockはOS/2 WarpのLaunchPadのパクり。
平成十八年十月二十七日
Mac OSの場合、元々マルチタスクで動かす事を考慮してゐないので、タスクの切換が判り辛かつた。Mac OS XではDockの中に動いてゐるタスクを表示するので前よりは増しだが、依然としてそんなに判り易いものではない。
Windowsの方が現在動いてゐるアプリケーションの存在を示すのは巧い。
Mac OS 9以前は悲慘で、澤山アプリケーションを起動してゐると不安定で何うしやうもなくなるのに、Finderの右上のところに表示された起動してゐるタスク名をクリックしてメニューを出さないと何が起動してゐるか一覽出來ない。しかも、ウィンドウを閉ぢてアプリケーションだけ生きてゐる、なんて状態も普通に起る。だから無自覺に大量のアプリケーションを起動したまゝにしてしまつて、システムを不安定にしてゐるユーザが屡々見られる。
平成十八年十月二十七日
Windowsの[Alt]キー押下は、キーボードショートカットと言ふより、メニュー呼出と言つた方が良い。
Macつて、メニューをキーボードで操作する方法つて、あるのですか? キーボードショートカットか、マウスによるメニュー操作か、の、二擇が強要される、と云ふのがもどかしい。Windowsのアプリケーションで「名前を附けて保存」を[Alt]→[F]→[A]でやる事が多い俺。
Windowsだと、[Alt]でメニューを呼出して、カーソルキーで適當に何か使へさうな操作を探す、なんて事をのんびり出來る訣だけれども、Macだとメニューを出すのにマウス押し續けでなければならない(デフォルト)とか、少くとも最上段のメニューバーの上にカーソルをかざしてゐなければならないとか、いろいろ制約があつて煩はしい。Macには「メニュー操作をキーボードで代用する」と云ふ發想がない。
平成十八年十月二十七日
あと、Macのキーボード、キートップの表示が變。DeleteがBackSpaceだつたりするし、delキーを押しても文字が消えないで變な文字が入力される事があつたりするし。ことえりなんかが一々キートップの表記に忠實で、「・」を出すのに[option]を押さないと駄目とか無茶な事を要求して來るし。[home]が行頭でなく文頭へのジャンプつて何。[control][option][cmd]と、訣のわからないキーがいつぱい並んでゐるし。
平成十八年十月二十七日
Macを使つてゐるととても不滿に思ふ事があつて、何うもMacはテキストの扱ひが下手なやうな氣がする。Macのアプリケーション、良く文字化けしない?
エディタなんかでも、素のテキストを扱つてゐる積りが、何故かフォントの裝飾を出來てしまつたりして「これはテキストではないな」と思はされたりする。
平成十八年十月二十七日
Mac OS Xは、割と良く出來てゐるOSで、UNIXベースだから落ちない。システムが落ちないのは良い事で、その點では評價出來る。けれども、WindowsXPだつて普通の使ひ方をしてゐれば落ちない。だから、Mac OS XはWindowsXPよりも壓倒的に安定してゐる等とは言へない。
平成十八年十月二十七日
Mac OS Xは、X window systemを組込める。しかし、Xのアプリケーションを使ふのには中々苦勞する。と云ふのは、現状、Xの日本語對應が不十分だからで、ユーザが工夫して機能を組込まないと十分には使へない。
OS/2でがんばつてWIN-OS/2を動かさうとしてゐた時代を思ひ出して和んだ。

平成十八年十月二十六日
ちょこシス @ tvk/MX→マジプリ @ MX→蒼天の拳 @ テレビ朝日。ちょこシスは話の内容について深く考へないやうにして觀ればエロアニメとして使へる(何に)。マジプリは地味に變で面白い。蒼天の拳も變で面白い。
平成十八年十月二十六日
喜六郎の小屋
言葉 言葉 言葉
松原正信者、野嵜健秀氏ご自慢のHP。
「アンチ」は何うして斯うやつて一々人を不快にさせるやうな侮辱的な文言を書連ねるんだ?
喜六郎の小屋記事カテゴリ、「ノンジャンル」と「松原信者」が設定されてゐるが、「ノンジャンル」なる「ジャンル」は「ない」から、事實上「松原信者」の「ウオッチ」が目的と見て良い。即ち、粘着行爲、ストーカー行爲である。何處ぞの青方の中村が「一無名人」等と名乘つてやつてゐるのと全く同じ「ブログ」の「立上げ方」である。
平成十八年十月二十六日
カナかな団首領の自転車置き場 - 広く公開することのリスク
「ブログ」制作者が、匿名でのコメントで被害を受ける、と云ふ事態が存在する事は、既に一般に認識されつゝある。
しかし、ウェブの深刻な問題は、匿名のサイト制作者・「ブログ」執筆者が存在し、他のウェブサイトの制作者を狙ひ撃ちし、嫌がらせを働く事がある、と云ふ事實が、一般に認識されてゐない事だ。
アレクセイや竹下義朗、或は「日出づる國の一無名人」こと白波海太郎こと青方の中村の嫌がらせに俺は大変な迷惑を蒙つてゐるのだが、かう云ふ事實がある事はウェブで殆ど知られてゐない。
勿論、匿名でコメントを書いて廻つて風説を流し個人の名譽を毀損しようとする行爲の被害も俺は受けてゐる訣で、それは言ふまでもなく「義」の事だが、しかしそこで俺は「匿名の問題」が「ある」とは言はない――問題は、「嫌がらせ」を目的にウェブで物を言つてゐる連中がゐる、と云ふ事だ。
「氣に入らない人物」がゐる――すると、或種の人間は、馬鹿にする・煽る・揶揄ふ・揚げ足を取る、と云つたやり方で嫌がらせを始める。さう云ふ嫌がらせを、彼等は「良い事だ!」と心から信じてゐる。何うしやうもなく根性が曲つてゐると言はざるを得ないが、「2ちゃんねる」なんかが繁盛する現代であるから、かう云ふ腐つた人間が横行するのであらう。2ちゃんねるでも愉快な事ばかり言つてゐる「解つてゐる」人間もゐるが、2ちゃんねるを「好き勝手、物を言へる場」と看做して適當な事を言つて喜んでゐる手合も少くない。さう云ふ手合が「一般」の社會に出て來ると、これが最う何うしやうもない迷惑な存在と化す。
「アンチ野嵜」は悉く2ちゃんねらーである。「義」然り「ノズラー観察同好会資材係」然り、「喜六郎」然り。青方の中村は違ふが、これも何時の間にか2ちゃんねるに染まつてゐる。「デマを流す」と云ふ方向に行けば「義」であり、「まとめサイト」と稱して人の文章を轉載して「晒す」と云ふ方向に行けば「白波海太郎こと青方の中村」であり、人を揶揄つたり侮辱したりする爲に「ブログ」を立上げれば「ノズラー観察同好会資材係」であり矢張り「青方の中村」であり今囘の「喜六郎」である。
此の種の輩が入代り立代り現はれて、それで俺は神經を擦り減らしてゐる訣だが、だからと言つてこちらが默れば、聲の大きい彼等の言ふ出たら目がウェブで「眞實」となつてしまふ。それゆゑ俺はこの「言葉 言葉 言葉」と云ふサイトを潰せない。彼等「アンチ」の嫌がらせと風聞の流布が續く限り、俺は自衞の爲にサイトを維持し續けなければならない。俺は別にこの「言葉 言葉 言葉」と云ふサイトを「ご自慢」に思つて續けてゐるのではなく、續けなければこちらの名譽が毀損されるから續けてゐるに過ぎない。實際のところ、自分の文章を「ご自慢」に思つてゐるのは彼等「アンチ」の側である。野嵜をやつつける「アンチ」の、嬉しさうな表情は、彼等の文章を讀んだ全ての人間が即座に思ひ浮べよう。喜六郎こそ、野嵜を叩いて、喜色滿面でゐるのだ。こんな人間に何度も何度も侮辱されて、それで俺が何うして「ご自慢」になんて思つてゐられるのか。喜六郎なんかは何時でも御機嫌だが、さう云ふ手合には「人間は苛立つものである」と云ふ單純な事實すら理解出來ないらしい。
平成十八年十月二十六日
首領氏、「ブログ」のサーヴィス提供者は匿名のコメント投稿者から「ブログ」の利用者を守らないと書いてゐるけれども、一方で、匿名の「ブログ」利用者が他人を中傷・侮辱し、氣に入らない人間に嫌がらせをしてゐても、被害者を守る事はしないで、寧ろ加害者である「ブログ」利用者を守らうとする。
「ブログ」サーヴィス提供者の言ひ分では、「コメント欄で直接やりとりが出來るから、サーヴィス提供者は問題に介入しない」と、さう云ふ事になるらしい。
かうなると、「ウェブでは加害者の側にまはる方が有利」と云ふ事になり兼ねない――と言ふより、既にさうなつてゐる。加害者の側にまはつても「匿名ならば安心」と云ふ心理は、まあ、慥かに「ある」だらう。で、「松原信者」は大抵實名で、「アンチ松原信者」(「アンチ松原」ではない)は大抵匿名である。しかし、實名・匿名は問題でなく、單に問題の中における一現象に過ぎない。飽くまで「嫌がらせを目的とする行動がある」と云ふ事が問題の核心である。「嫌がらせをして快を貪る」事を許してはならない。これは、まともな人間なら全員、首肯する事だと思ふ。ではなぜ「義」や「喜六郎」らは嫌がらせをして喜んでゐるか――實に、彼等には自分逹が嫌がらせをしてゐると云ふ自覺が無いのである。

平成十八年十月二十五日
今夜も日本シリーズの所爲でRED GARDENが三十四分遲れだが、明日もテレビ東京の深夜で遲れが發生しさう。プロ野球マジ迷惑。
平成十八年十月二十五日
喜六郎の小屋
普通に松原氏の文章に直接當つて批判をすると言ふのなら有益だけれども、喜六郎なる人物のやつてゐる事、これでは「松原信者」を侮辱して快を貪つてゐるただの「アンチ」の粘着行爲にしか見えない。
喜六郎の小屋 - 他人に厳しく自分に優しく

自分がよく出入りする2ちゃんねるの某スレッドにて、以下のような書き込みを行いました。

  • 926 名前:吾輩は名無しである 投稿日:2006/10/24(火) 17:32

松原の「人間通になる読書術」にこういう記述がある。

が孔子は時に激しく怒つた男なのだ。「樂しんで以て憂を忘れ」るのみならず、時に「憤を發しては食を忘れ」た男たのだ。

論語の「発憤亡食」つうのは、松原が言うような「怒りのあまり食を忘れる」じゃなくて正しくは「(学問に)発憤して食を忘れ」というのが正しい解釈。

このことは呉智英が指摘しているし、岩波文庫から出てる「論語」にも普通に記載されている。

「一部分が駄目なら全体が駄目である」という松原の持論に照らし合わせれば、「人間通になる読書術」は駄本ということになる。

そして、この書き込みを前田嘉則さんのブログに紹介したところ案の定、野嵜健秀氏と木村貴氏の両大将から素敵な批判をいただきました。

野嵜は「人間通になる読書術」における松原氏の「誤」について何も反論してゐない。
野嵜が何も反論してゐないのに、喜六郎は予想通り、木村・野嵜の両御所からありがたい批判?を頂きました。そして、この書き込みを前田嘉則さんのブログに紹介したところ案の定、野嵜健秀氏と木村貴氏の両大将から素敵な批判をいただきました。、と書いてゐる。事實として、喜六郎は自分の「ブログ」に野嵜の反論を引用してゐない。野嵜が反論してゐないのだから引用のしやうがないし、ならば「野嵜の反論は存在しない」のは喜六郎自身、承知してゐるのだが、にもかかはらず、喜六郎は二囘も「野嵜から批判された」と言つてゐる。これは何なのだらう。要するに、喜六郎はデマを流して野嵜の評判を落さうと劃策してゐるのである。
平成十八年十月二十五日
と言ふか、この喜六郎、前にゐた「資材係」みたいな言ひ方をしてゐる。

謝れ!夏目漱石に(ry

2ちゃんねらーはみんな似たやうなメンタリティを持つてゐるのか? 同一人物なら文體が同じでも仕方がないが。
平成十八年十月二十五日
と言ふか、何で2ちゃんねるなんかに書込むのかねえ。俺は2ちゃんねるなんか見ないよ。リンク張られても絶對に見ない。
そもそも、まともな人間は2ちゃんねるで議論しようとする氣にならない。當り前だ。2ちゃんねるに書込んだと言つて喜んで報告する喜六郎の行爲自體に俺は嫌惡感――と言ふより吐き氣を催す。
しかし、愛國心だ何だと「道徳的」な事を言ふ右翼やら何やらが、全く「氣持惡い」と思はずに2ちゃんねるを利用する、と云ふのは何なのだらう。俺は今、例の「一無名人」こと青方の中村の事を言つてゐるのだが、美的感覺が根本的にをかしいのではないか。まあ、右翼に美的感覺がをかしな人間が結構ゐる事は、例の小汚い街宣車を見れば判る。
平成十八年十月二十五日
プロ野球日本シリーズ、何時までやるんだ。
誰だかがデッドボールで出壘。早く終れよ。武装錬金とスーパーロボット大戦OGは何時に始まるんだ?
平成十八年十月二十五日
と言ふか、何うして「アンチ」の連中は一々「信者」の發言を追跡して、引用して、ねちねちねちねち一文一文に突込みを入れて、嫌がらせをするのかね。喜六郎の動機が知れない。奴は何を擁護したいんだ? 「信者」を叩いて、それで何んな良い事があると言ふのだらう。
喜六郎は、論語を讀んでゐて、ちやんと文章を解釋出來るらしいが、「論語讀みの論語知らず」で、論語に書かれた仁とかを實踐しようと云ふ氣は無いらしい――否、松原氏の「誤」で食を忘れる程に喜六郎は怒つてゐる、と云ふのだらうか。ならば松原氏の言つてゐる事は、文章の解釋と云ふ見方をすれば「誤」となるに過ぎず、氏の言ひたい事は正しいと言へるのではないか。ならば「論語の漢文の解釋」ではなく、さう云ふ「論語の讀み方」と云ふ點で(兩者は區別すべきである)、松原氏は山本七平なんかよりもより正しい讀み方をしてゐると言つて良いのではないか。そして、その點で評價する事はあり得るのでないか。
平成十八年十月二十五日
と言ふか、山本七平の『論語の読み方』にまで遡つて調べようとしたが本の山の中に埋つてしまつて出て來ない。
平成十八年十月二十五日
と言ふか、「憤を發しては食を忘れ」の解釋について爭ふ積りはないし、その點で松原氏の解釋に「誤」が「ある」事は「信者」の俺も反論する氣はないし、「(学問に)発憤して食を忘れ」の解釋が一般的である事實を否定して「神」を無謬に仕立て上げるやうな事をする積りもない。松原先生もGodでなく人であるから、普通に誤くらゐ冒すだらうし、松原先生も此のやうな喜六郎の突込みがあれば、確かにさうだ、と御認めになるだらうから、俺がわざわざしやしやり出て反論して見せる積りもない。ただ、一々「信者」批判を「アンチ」が「やる」事について、俺は大變不快に思つてゐるから、それを書いたに過ぎない。俺は、松原先生を神として崇めてゐるのでなく、正しい事を受容れる立場から正しくあるべき點について正しくあらうとすべきだと主張してゐる松原先生を先生として尊敬するに價すると思つてゐる。
平成十八年十月二十五日
あと、「一部分が駄目なら全体が駄目である」という松原の持論に照らし合わせれば、と喜六郎は言つてゐるが、何うして「照し合せなければならない」のか、「照し合せて決定的に駄目出ししなければならない」のかを俺は全く納得してゐない。
松原先生が、西部や西尾を論じて、彼等の長い長い文章の中に一箇所駄目な部分があるから「全體として駄目である」と言つてゐるならば、松原先生の長い長い著作の中にあるたつた一箇所の誤解釋を取上げて全體の價値を極附ける事も許されるが、松原先生はそんな事をしてゐない。松原先生は、西部等の文章を採上げて、その中に幾つも幾つも瑕疵があるから、彼等が部分について全く注意を拂はないでゐると指摘して、批判してゐる。さう云ふ松原先生の批判の方法を正確に把握したならば、先生の持論を當嵌めるに當つて、たつた一つの誤を殊さら強調してそれだけを理由に全體を否定する、と云ふ論法を喜六郎はとれる筈がない。と言ふより、喜六郎は、松原先生がたつた一箇所の誤を根據に西部や西尾らを全否定してゐると理解してゐるらしいが、その根據は何か。喜六郎は、根據ナシに、自分勝手な判斷で、松原氏の持論をでつち上げ、松原氏が主張してゐない事を松原氏の主張と云ふ事にし、それを松原氏の文章に適用して、矛盾だ、と言つて騷ぎ立ててゐる。
木村氏の反論は完全に正しいのであり、それを喜六郎は自分の判断こそ完全に正しいと全く根據ナシに――或は、ただ相手にとつて都合が惡く自分には都合が良い爲に――信じ込んで、それで木村氏を嘲笑つて、快を貪つてゐる。
平成十八年十月二十五日
わざと相手の主張を單純に圖式化し、戲畫的に「要約」した上で、それをその相手の別の文言と適當に組合せて、「矛盾だ!」と極附け、大騷ぎする、と云ふのは、例の「や」会長が執拗に半年も繰返した事だが、それと全く同じ事を喜六郎もやつてゐる。
福田氏の話に戻るが、『私の國語教室』が執筆された時點と、その後の時點とで、状況は大きく變つてゐる。正字正假名での出版は、昭和三十年前後には新字新かなでの出版に比べて大して不利でもなかつたのだが、それが十年後には既に不利になつてゐる。これは龜井勝一郎が山本健吉との對談で證言してゐる事實である。「や」会長は、さう云ふ状況の變化を一切認めず――と言ふより、「文脈」を考慮すべき時には如何なる場合にも考慮すべき時間の經過と云ふ事をわざと考慮しない事によつて――さう云ふ極めて特殊な大前提を設定する事に依つてのみ成立し得るに過ぎない事を言つてゐるのであつて、實際にはそんな特殊な大前提は成立たないから「や」会長の福田氏「批判」は批判にならない。勿論、「時間の經過」を福田氏が考慮せず、昭和三十年前後の状況を永遠にあり續ける状況と思ひ込んでゐたのが誤である、と「や」会長が批判してゐたのなら、それは慥かにさうとしか言へない訣で、それならば俺も納得したのだが、しかしさう云ふ批判ならば、「や」会長は決して福田氏に對して「卑劣漢」だの何だのと極めて公正を缺いた冷酷な非難を浴びせる事は出來なかつた筈であり、にもかかはらず非道い罵倒を續けた「や」会長は不公正なのであり、さう云ふ「や」を俺は許す事が出來ない。

平成十八年十月二十四日
N・H・Kにようこそ @ tvk。或意味凄く面白い。一般の人に汎くすすめられるかと問はれれば全然すすめられないと答へるしかないが面白い事は面白い。
平成十八年十月二十四日
パンプキン・シザーズ @ tvk。今囘は作畫が良かつた。微妙に鬱展開に?
平成十八年十月二十四日
「潔癖症」は結構だ。主張は一貫してゐるべきだ。だが、それを言ふ爲に、非難の對象を設定して、兔に角矛盾を言つてゐる事にしようとする輩がゐる。それは如何なものか。
他人を惡人にでつち上げ、それで自分は善人づら、そんな事をして快を貪つてゐる輩が、世間には――と言ふと語弊があるかも知れないが、少くともウェブには相當數存在する事が判つてゐる。
「モヒカン族」だの何だのと、現象面だけ捉へて、面白をかしく言立てる。他人を批判する人間を、ただ「批判する」と云ふ現象だけを捉へて、問題視する――實に輕薄な態度だが、そんな輕薄な手合がウェブには大量に存在する。問題は、さう云ふ「輕薄」な態度が、日本人全體を支配してゐると云ふ事である。
平成十八年十月二十四日
惡意に基いて相手の言つてゐる事を惡く解釋し、「矛盾だ!」と極附け、道徳的な説教を噛まし、侮辱し、罵倒する――そんな事を「すべきである」と信じてゐる某「や」会長氏とか某「日出づる國の一無名人」氏とかがゐる、彼等は何處でそんな「道徳」を學んできたのか。「言つてゐる事の一貫性」は大變重要だ――が、一貫性が「ない」と非難するのに、餘りにも安易なやり方が行はれる。惡人だから一貫性が無いのか、一貫性が無いから惡人なのか? 「や」が「卑劣漢」だの何だのとスローガンを叫びつゝ、「矛盾」を指摘するのは、その邊の「や」のいんちきをはつきりと示してゐる。
そもそも――他人を道徳的な惡人と非難しつゝ、自分は惡意で以て他人を極附けてゐる、と云ふのはをかしくないか? 「義」なんかが典型的だが、他人を道徳的に非難する手合が、何うしやうもない道徳心の缺如を露呈してゐる。愛國心を持てだの親孝行をしろだの言ひながら、他人を徹底して侮蔑して見せ、名譽を毀損せんとし、デマを流し、世間の評判を落さうと劃策する。他人を侮蔑する爲の「道徳」なら――或は、「道徳」が他人を陷れる手段だけの爲の手段であるならば、そんなものは知らない方が良い。
一貫した主張をする動機、「それは自己顯示欲である」――もしさうならば、言論は全く無意味なものだ。我々は互ひに意見を述べ合つて、何をしたいのか。結果として眞理に到達したいのではないのか。連中にして見れば、「眞理に到達したい」なる俺の言ひ方は、それこそ言ひ訣にしか見えないだらう。しかし、一個人の人格を云々する事が「眞理に到達する道」だと俺には全く思はれないのだが?
議論。議論はただ、當座の妥協點を見出すだけの爲に存在するものか。現實には、ただ、相手を罵つて快を得んが爲に行はれてゐる議論ならぬXも多い。けれども、そんなXに、何の意味があると言ふのか。議論の目的が敵の論者の人格攻撃である? 他人を陷れて、それで何うしようと言ふのか。「や」会長よ、一無名人よ、あんたらに尋ねたい、あんたらが物を言つてゐる動機は何なのか。抹香臭い「道徳的な臺詞」をよく吐く人々よ、あんたらの目的は、何なのか。答は返つてこない。或は、判り切つてゐる。しかしだ、あんたらのやつてゐる事、はつきりいつて政治的ではないかね。政治的な目的を達成する爲の手段として――「武器」として、あんたらは道徳を利用してゐる。しかし、政治に奉仕する爲に道徳は存在するのでない。
有名人は有名人であるがゆゑに責任を問はれる――「や」や「無名人」が自分の行爲を正當化して言ふ科白である。ふざけるな。「や」は完全な嫉妬から復讐をやつてゐる。だが、保守派を稱する「無名人」もまた、「や」と同じ事をするのである。
「權威」に對する嫉妬から、惡意で以て解釋し、事實を捏造し、嘘を吐いて、ありとあらゆる手段を用ゐて「權威の失墜」を狙ふ――それは「たちの惡い革新」の遣り口だ。が、それと同じ事を「保守派」を自稱する「日出づる國の一無名人」もまたやらかすのである。俺はその種の不當で公正を缺くやり方を憎むから、常に「權威」を擁護する側に廻る。
「無名人」こそ「革新」であり、俺こそ「保守派」である。
「愛國心を持たない」と「無名人」は俺を罵つた。全くもつて「愛國心は惡黨の隠れ蓑」である。いやいや、愛國心など本當に何うでも良い事なのだ。「革新」のメンタリティを持ちつゝ保守派を自稱する――それが「日出づる國の一無名人」の本質だが、實は單に「政治主義的」と云ふ事に過ぎない。日本人の多くは單純に政治主義的である。それを全く疑はうとしない。疑ふ人間を彼等は人間として缺陷があると信じてゐる。
さて、俺は、愛國心を幾ら聲高に叫んでゐようが、知人を平氣で裏切るやうな手合なんて、所詮は人間として屑だ、と思ふ訣だ。人間として屑なら「日出づる國の一無名人」は何うしやうもないただのネットウヨである。「無名人」は、輕薄であるがゆゑに輕薄な日本人を輕薄に禮讚し、「敵」を輕薄に侮辱する――阿呆としか言ひやうがない。そんな阿呆が俺を「おつちよこちよい」と嘲笑ふのである。「おつちよこちよい」は道徳的に惡でないが、輕薄な態度は道徳的な惡である。道徳的な惡人が道徳的に惡人でない人間に道徳的な説教をかます。何なのだらう。日本と云ふ國は實に素晴らしい國である。
平成十八年十月二十四日
無爲徒食日記 二千六年十月
平成十八年十月二十四日
子供を虐待するのは冷酷な事だが、さう云ふ事を「しつけ」と言つて、さう言へば安心して、平然と「する」親もゐるのである。
平成十八年十月二十四日
日本人は、實に屡々、美名の陰に隠れて、非常に汚い眞似をする――と、さう言ふと、愛國心愛國心と言ふネットウヨの人が野嵜は愛國心を持たないと極附けて人格まで否定して罵るのだが、それはその人が、その陰に隠れてゐる「美名」――と言ふより大義名分にすぎないものを、本氣になつて自分逹が實踐してゐると勘違ひしてゐる爲である。實際の彼等の言動を見てみるが良い。「一無名人」、「資材係」、「やっつける会会長」――言葉が實に説教臭い割に、彼等の態度の冷淡で冷酷である事。彼等が怒り狂ふのは、自分では自分のやつてゐる事は良い目的だから善い事であると勘違ひして信じてゐるからだ。そこで、自分逹の行爲が良くないものであり、目的と稱してゐるものは隠れ蓑としての「美名」に過ぎない、とはつきり指摘されたから、彼等は怒る。そこで彼等はいろいろと劃策して、野嵜こそ惡人である「と云ふ事」にしようとする訣だが、それを「美名の陰に隠れて汚い眞似をする」と言ふのである。
しかし、だ。日本人の一人として日本人の缺點を指摘し、改善すべき事を主張するのは、果して「愛國心がない」證據になるのか。「一無名人」こと青方の中村は答へ玉へ――と要求されても、勿論、中村は答へない。中村は却つて居丈高になつて、野嵜を嘲笑するだけである。中村は、自分には他人が愛國心を持つてゐるかゐないかを判斷し裁定する權利と才能が「ある」と心から信じてゐる――勘違ひしてゐるからである。
平成十八年十月二十四日
三歳児、餓死についてびい氏が述べて曰――

人か?

子供がぐったりしている、として通報したとのこと。だが、ちょっと待ってほしい。食事を与えていなければぐったりするのも当然。

殘念ながら、人だからこそさう云ふ眞似をする。人だから、「しつけ」なる言葉で自分の冷酷な行爲を美化し正當化してしまつて、その結果を全く考へない。子供が死ねば勝手に死んだものとしか思はない。
同情心のある人ならば、自分が何かしたらそれが相手に何んな結果を齎すかを想像し、非道い事になるのだつたら、やらないか、やつてしまつても早めに止める。けれども、自己正當化・自己の美化を行ひ、「美名」で飾つて冷酷な事をする人がゐるのであつて、さう云ふ人は人として持つべき同情心を持たない。最近はさう云ふ人が増えてゐる。正當化しさへすれば何んなに冷酷な事をしても「許される」から問題ない、と信じてゐる人が、昨今、日本に増えてゐる。やうに見える。
平成十八年十月二十四日
けれども、實は「増えてゐる」のではなく、日本には昔から冷酷な人が多いのであつて、さう云ふ人が何かやらかす時、大義名分を持出す。立派な「理想」を「掲げて見せる」訣である。例の「大東亞共榮圈」なんぞは、戰爭中の有名な「大義名分」で、いんちきだから戰爭に敗ければすぐに吹飛んだが、戰爭中はこの大義名分で一部の人間は同胞であるにも關はらず「國賊」に隨分非道い事をしたものである。が、「大東亞共榮圈」を吹飛ばされた日本人は、今度は「平和」を大義名分に、またぞろ反對者に非道い事をして、それが半世紀經つて、再度の反動を生んでゐるのだが、何うせ出て來る右翼は相變らずの冷酷な野郎許りで、人間とは進歩しないものである。
平成十八年十月二十四日
今日「もの」が出來て來た。昨日ならば見せられたのに見せ損なつた。謎。
平成十八年十月二十四日
東京古書会館の新宿展。購入したもの。マルセル著作集。中河與一『小説集 愛の約束』(人文書院)。『作家の対話』(文藝春秋)。『遺稿集』(靖國神社社務所)。雜誌「別冊法律時報 憲法改正」(日本評論新社)。
平成十八年十月二十四日
「アンチ」は屡々ターゲットを非難して「誤」を指摘して見せるが、その「誤」が「誤」と言つて良いものであるとは限らない。屡々「アンチ」は、ターゲットを侮り、「愚かである」と云ふ先入見から、そのターゲットとされてゐる人物の言つてゐる事を惡意で歪め、その人物の意圖しないやうな解釋をでつち上げ、それを根據に「誤」と極附け、再歸的にその人物を「愚かである」と極附ける論法を用ゐる。
「アンチ」は、屡々ターゲットの支持者を「信者」と極附け、「信者」が「神」をでつち上げようと劃策してゐると言觸らす。ところが、その「アンチ」は常に「信者」の目の屆かない處で「信者」を陷れる爲に劃策を續けてゐる。
例へば「アンチ松原」の喜六郎が2ちゃんねるなんかで「松原氏を批判した」と言つて威張るのである。常識のある人間なら、2ちゃんねるは見ないし、少くとも2ちゃんねるで議論しようとなどしない。大體、2ちゃんねるを見ないのは變な事ではないから、2ちゃんねるで反論がないのも當り前だし――そもそも俺は2ちゃんねるなんか見ないから、2ちゃんねるに書かれた喜六郎の「批判」なるものを知らない。知らなくても俺には何の問題もない。ところが喜六郎は「『信者』から反論がなかつた」と嬉しげに言ひ、「だから『信者』は駄目だ」と言つて威張る。「アンチ」の視野の狹さには何時もあきれる。
言葉の救はれ――福田恆存論: 松原正論――政治と文學主義
昔話だが、大學生の時、千九百九十年代初頭で瞬間風速的にであつたが左翼學生が勢ひを取戻して、試驗の時にストライキを實施した事があつた。松原先生の授業でも試驗をやつたのだが、その時、ストをやる左翼學生が教室にやつて來て「試驗を受けるな」と一般學生相手にアジ演説をぶつた。で、その左翼學生、松原先生の事を「保守反動の」云々と罵倒したのだけれども、背後で松原先生が聞いてゐた訣だ。左翼學生、松原先生に氣附いてゐない、そもそも松原先生の顏も知らない、それでゐて好い氣になつて話をし續けようとしたのだけれども、一般學生が笑ひ出す。そして、そろそろ試驗の開始時刻になつたので、松原先生が割つて入られて、で、左翼學生氏、實にばつの惡さうな顏をしながら教室から退散して行つた。その場にゐた一般學生、誰も出て行かない。試驗が始まつた。
「アンチ」の人、案外松原氏の事を知らないで「批判」して見せてゐる處が多いのでないか。「アンチ福田」の「やっつける会会長」を名乘る某氏なんかは、文春文庫版『私の國語教室』しか讀んでゐない事がばればれになつてゐる。

平成十八年十月二十三日
日曜深夜のあにめで金色のコルダが一番まともつて一體何なのだらう。
平成十八年十月二十三日
拾つて來た荒井良『胎児の環境としての母体』(岩波新書青版976)が良い本。子供の健全な成長についての解説だが、腦・神經の健全な發達を強調した内容になつてゐる。

略。

このような脳神経系の未熟さと、出生後の急速な脳の発達ということや、それを阻害するもとが胎児期から出生後しばらくの間にあり、特に未熟児のような場合、この期間が要注意だということは、あまり知られていないようです。

それを証明するように「うちの子は一歳のときに脳性マヒにかかりまして……」とか、前にあげた例のように「もっと治療できないのですか」というような声ばかりが、社会には多いのです。そういう人々に、この基本を説明すると、百人が百人、そういう話ははじめて聞く、本当にそうなのかと、なかなか信用してもらえないほどなのです。

それは、健康という問題が、身体の健康な働きに基本があることに気づかず、病気を治すという面からだけ考えられているからではないかと思います。そして、病気の対症療法(発熱しているなら、熱をどうしたら下げられるか、ということ)という点だけが強調されすぎていることも原因になっているのでしょう。

權衡を保つということは、対症療法を一つ一つの病気にあてはめることで解決がつく問題ではありません。生命活動の大きな流れとしての健康の問題と、それに逆う一つの問題としての病気をとらえて行かない限り、真の健康を得ることはできないのです。

「健康に良い」と思はれる事をハウツー本で讀んで、それを實行すれば健康になれるかと言ふとそんな事はない訣だが、世間の人は割と安易にそれをやり勝ちだ。子育てでもそのやうなやり方をして、場當り的に「良ささうな事」をやつて、却つて事態を惡化させる事がある。
素人の家庭療法が、それなりに多くの場合、巧く行く事がある。けれども、結果としての或病状が、常に特定の原因と結び附いてゐるとは限らない訣で、それで素人が「こんな病状だからこれが原因に違ひない」と考へて、それで「本に載つてゐる」對策をとつてみても、實はその病状が別の原因に據るもので、その對策が却つて病氣を惡化させると言つた事も大いにあり得る。
だから、「なぜ」と云ふ事をきちんと考へて、安易に本に頼つたり、素人考へで判斷したりしないやうにしようと、さう筆者は訴へて、それで委しく人間の發生から成長まで説明してゐるのだが、一方で、その種の説明を醫師がしない事も患者に不安を與へてゐる事を既に指摘してゐる。この本、出たのは千九百七十六年である。
本書は最う「古い」本である訣で、理系の本は古くなると一般に省みられない事になる。だが、古いからと言つて本書は決して何の意義も持たなくなつた訣ではなく、根本的な態度の部分で參考にすべき物を依然として持つと思ふ。大體、この手の醫學に關する本は、「古くなつたら終り」みたいな判斷をされ勝ちで、それでどんどん「新しい本」が出る訣だが、さう云ふ本に、即物的で、この本の筆者から見たら危險極まりない素人判斷を助長するやうなものである事はないだらうか。隨分「ある」事と思ふが、さう云ふ本も「新しい」と云ふだけで信頼されて、安易に讀まれてしまふ。しかし、それは如何なものか。
「○○をしたければ××して下さい」式の「解説」を、「とても良い物だ!」と言つて禮讚する人は、現在の日本にはとても澤山ゐる。HTML關係の發言を見てゐても解る事だ。が、仕組を知らないで、ハウツー式の解決法を與へられて、それを使つて喜ぶと云ふのは、危險極まる事だ。ウェブサイト如きならば或意味何うでも良い事かも知れないが、生命に關る事だつたら事は重大だ。今、醫學は三十年前に比べて隨分進んだらう。しかし、一般の人の意識はどれだけ進んだだらうか。慥かに生命に關る事では、それなりに意識改革もあつただらう。けれども、ハウツー式の安直な解決法を好んでゐるのは相變らずなのであつて、現代の日本人は三十年前の日本人とメンタリティの面では全く同じである。これは大變に良くない事だ。
平成十八年十月二十三日
ぐぐってみたら荒井さんの本は今でもそれなりに有名つぽい。
平成十八年十月二十三日
鳩笛雑記帳 - 「明治欽定かなづかい」?
平成十八年十月二十三日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - 批判と擁護
毎度どうもです。具体的な作品分析を伴ってなされている批判は「ある」との御話。
平成十八年十月二十三日
で、漱石の『こゝろ』、これが「駄目」である所以について松原先生はやつぱり具體的に作品に即して不自然な部分を指摘された上で、讀者はこれらの指摘を承知した上で改めて『こゝろ』を讀んだら途中で投出してしまふだらうと述べてをられる訣だけれども、其處まで『こゝろ』を否定した論文があるのか何うか。論者の指摘を知つた讀者は改めて實際に批評對象の作品を讀み返さうとしてみても最早途中で讀み續ける事が出來なくなる、と、そのくらゐ強烈に作品の缺陷を指摘し、同時に讀者の本を讀む態度を變革してしまふ、そんな強い影響力を持つた批評が、過去にあつたのか何うか。
「文藝作品を讀む上での特殊な心構へ」を讀者に植附ける――常識的でない事を書いて讀み手の氣を引かうとする小説家の態度を當り前の物と思はせ、さう云ふ小説を「面白い」と思はせる――それで「特殊な文藝と云ふジャンル」を維持しようとする態度が、日本に現在存在する「文藝と云ふジャンル」の「文藝批評」には「ある」やうに思はれるのだが、それは果して本當に文藝の爲になつてゐるのだらうか。
例へば、現在の日本の文藝作品を分析し、緻密に檢討した上で、論理的に全否定する批評を讀んで、讀者が「日本の文藝作品なんて二度と讀むものか」と決意したとする。この時、文藝と云ふジャンルは現實に讀者を一人失ふのだが、しかしその批評は讀者に決定的な影響を與へた文章である點で極めて成功した文藝作品となつてゐる。このやうな文藝作品の出現を、文藝の觀點から慶賀すべき事と判斷するのは妥當か不當か。
政治的な日本社會で、メンバーを維持する事は最優先事項とされる。けれども、その爲に非政治的であるべき文藝の「ヴァイタリティ」喪失が進行する。これは問題ではないか。「死に體の文藝ジャンル」が維持される事を俺は望まない。そもそも、はつきり「殺す」事で却つて「それまで生きてゐた」事を逆説的に立證する、と云ふのが眞の文藝的態度と言ふべきものではなかつたか。

平成十八年十月二十二日
今期のあにめも續々と作畫が崩潰してゐるけれども、らぶドルに至つては何かいろいろと氣の毒としか言ひやうがない。何うしてこんな番組が放映される事になつたのだらう。
平成十八年十月二十二日
くじアンは良く繪が動いてゐて樂しく觀られる。
平成十八年十月二十二日
Giftも例に據つて主人公がいろいろ忘れてゐるらしい。そろそろ視聽者もこの手のぎゃるげアニメのパターンに氣附いて怒り出してゐる。
平成十八年十月二十二日
梅雨空文庫

注意:当文庫中、一部PDF文書は「旧式明朝印刷体」「明治欽定かなづかい*1」である。

当文庫では「正字」「正かな」とは、けっしていわない*2。

また、TEXT文書はEUCである。これには書体・字形もへったくれもない。好みのFontをつかえ*3。

この点、誤解なきよう。

*1亀井孝氏による。

*2秘密結社『じめじめ団』では「正字」(ただしい字)とは楷書のみである。

*3JIS例示字形にしたがって明朝印刷体向きに符号化してあるので、使用Fontにあわせるのに必要な符号変換は各自されたし。

「秘密結社」だから誤つた言ひ方を隱語としてわざと用ゐてゐるのかも知れないが、本氣で言つてゐるとしたら甚だしい事實誤認があるので指摘しておく。
明治欽定かなづかいなんてものは存在しない。明治天皇が假名遣を發布したなんて事實は無い。龜井孝の言ひ方は事實に反する言ひ方で、こんな事を本氣で言つてゐたとしたら龜井の言語學者としての資質は問はれねばならないが、縱令揶揄だとしても揶揄する事自體がをかしいし、そんな揶揄を喜んで使ふ奴は「や」会長並の低能と言つて良い。
鳩笛雑記帳
平成十八年十月二十二日
「外灯都市: 〈正字体〉って?」が削除されてゐる。

平成十八年十月二十一日
Alertbox: 参加の仕方は一様ではない:もっと大勢のユーザに書き込んでもらうには(2006年10月9日)

ユーザ参加型のウェブサイトがあったとしよう。聞こえてくるのは、いつも同じ1%のユーザの声であって、自分から声を発することのない90%のユーザの意見とは当然異なっている。これがトラブルの元となる。

「義」とか「福田恒存をやっつける会会長」とかのやうな目立つユーザは少數であり、しかも多くの閲覽者はさう云つた連中と異る意見を持つてゐると恣意的な讀み方をしてみる。
或は、うち邊の掲示板では正字正かなの投稿が可なりの割合を占めるが、これがウェブ全體の傾向だと判斷すると大間違ひ。
平成十八年十月二十一日
西村悠『二四〇九階の彼女』(電撃文庫)を讀了。と言ふか既に木曜日に。『キノの旅』以來電撃では御馴染みの主人公が世界を旅する御話。
二四〇九階の彼女 | まいじゃー推進委員会!
まいじゃーは好意的。
http://kuwane.tomangan.org/cgi-bin/hns-lite/?200610b&to=200610132#200610132
平成十八年十月二十一日
肱の侮辱
新たに入力。チェックよろしく御願ひします。
平成十八年十月二十一日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - 思考というものはその限界においてつねに/しばしば神秘主義に近づく
漱石を否定してゐる人はゐるよとの指摘。或は、「駄作認定」なら「ある」よとの指摘。
でも、どうだらう、『こゝろ』なら「先生の自殺」より前の――或は、そこまで話を引つ張る、正にその使命だけを持つて登場する語り手・「私」の存在、これは「八百長」だ、と、そんな風に指摘して、それで「駄作認定」してゐる批評家は「ゐる」だらうか。
例へば、多くのミステリがさうだけれども、「謎」の存在で讀者を引張つて行く作家がある。もちろん、その「謎」が、自然に登場人物にとつても「謎」であり、讀み手にとつても「謎」であるのならば、まだしも増しであつて、人物には自然な感情の發露を讀む側は期待出來る。けれども、「謎」を「謎」たらしめる爲に――と言ふより「讀者にとつて謎」をでつち上げる爲に、作者が「讀者がわからなくなるやうに作られた語り手」を用意する、と、そんな方法を採用してゐる作家はゐないだらうか。隨分ゐると思ふのだが、それを具體的に指摘して、小説の方法として明確に否定して見せてゐる文藝批評家が一體どれだけゐると云ふのだらうか。
先生にしてもその奧さんにしても、人間として「あり得ない」事許り言つてゐる――そしてその「あり得ない」事をキャラクタが言ふ事で、讀者に奇妙な感じを起させ、その奇妙な感覺を利用して讀者をして小説を讀ましめる。漱石はさうして『こゝろ』を書いた訣だが、しかし、そのやうな「テクニック」を用ゐて讀者を引張るのが、果して小説として全うなものであるかどうか。松原先生は「邪道である」と斷定してをられる訣ですが、そのやうな斷定が過去になされたのか何うか。
『こゝろ』の場合、結構此の「謎」で話を引張るスタイルが「高尚な物」との「誤解」を生じ、多くの讀者を欺いてゐる、と、そんな風に言へる、と、其處まで松原先生の講演を通じて理解した訣ですが、松原先生にして見ればさう云ふ風に讀者が欺かれるのは、寧ろ欺かれる讀者の方が惡いと。(渡邊さんがリンクを張つてせつかく應答して呉れたのに申し訣ないですが此處から野嵜の「矛先」が變ります)前田さんが「松原先生は知識人に對して論ずべき事を庶民に話してゐるが、それではミスマッチであり、話が傳はらなくても當然だ。『言論は空しい』と言ふのはをかしい」(要旨)と非難してゐたけれども、松原先生の批判は實は「知識人の誤解をあつさり受容れる庶民」に對して向けられてゐるのであり、松原先生は「常識で判斷すべき庶民」が常識で判斷しないと云ふ日本の大問題を論じてゐる。松原先生は、『こゝろ』がロングセラーであり賣れてゐる事を指摘してをられたけれども、ロングセラーとして汎く受容れられてゐるとしたら當然それは一般の「庶民」(前田さんの用語なので鉤括弧附きで使ふ)が受容れてゐるのに決つてゐるのであつて、さうした「庶民」が「知識人」のしてゐるのと同じ誤解に基いて『こゝろ』を高尚な文學と思ひ込み、それで擧つて讀んでゐるとなると――前田さんがしてゐる「庶民」擁護論は根本的に突崩される事になる。と言ふより、日本人は一億總「知識人」志向であり、それで一見高級さうな『こゝろ』を受容れてしまふ。
一方で、「一億總××」なんて括り方をするのは何時如何なる場合にも不當であり、漱石の『坊つちやん』が賣れ續けてゐる事は日本の「庶民」が全うな感覺も持合せてゐる――と言ふより、全うな感覺を持つてゐる「庶民」もゐる事を示してゐる。が、『坊つちやん』と『こゝろ』とが同じやうに「賣れてゐる」と云ふのは何う云ふ事なのか、同じ一人の讀者が全く異る性質を持つ『坊つちやん』と『こゝろ』を「同じやうに傑作と感じる」のは何う云ふ事なのか。
平成十八年十月二十一日
で、慥かに「謎」で引張るスタイルと言へば、例のエヴァなんかが典型で、それで大騷ぎしてゐる連中と言つたら、アニメファンの中でも「インテリ」に屬する。で、俺にして見れば「萌え」だの何だの言つてゐる連中の方が、さう云ふ「インテリ」連中よりも寧ろ健全だと。
輕薄に「萌えー萌えー」逝つてゐる連中は勿論相當數ゐるけれども、一方、いんちきな心情をストーリーの都合上、平然と示すやうな「繪に描いたやうなキャラ」なんかに、すれにすれ捲つたヲタは全く「萌え」る事が出來ない。出來ないのみならず、さう云ふキャラをあにめに登場させる制作者を罵倒する。これは健全な事ではないか。

平成十八年十月二十日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - 成合と啓蒙
「いまのアニメつまらなかったね」分が足りない。
柄谷行人もまたむろんこれをたんに構成的破綻とよんでしまうならば、不毛な批評に終わるほかはないとしか批評出來ない。漱石の作品なかんづく『こゝろ』を含めた中期の長編小説に「構成的破綻」があるという指摘は当時の文芸批評において常識的見解であったと考えられるが、にもかかはらず例へば『こゝろ』は依然「傑作」であると云ふ結論が一般に突崩される事が無かつた――「それが問題だ」と松原先生が先日の講演會で御話しされてゐたよと。
「作畫が惡い」「話が御都合主義」「登場人物の反應いちいちをかしい」――となると実況では「糞アニメ」と即座に斷じられる訣だけれども、『こゝろ』を「糞小説」=駄作と斷じて來る批評家は全然ゐなかつたと。
『こゝろ』の場合、「先生の自殺」の「謎」で話を引張つてゐるけれども、さう云ふ「謎」を讀者に對して「謎」と「しておく」爲に、わざわざ「何も知らない語り手」を設定して作者漱石が讀者を欺いてゐたのは讀者に對する作者の裏切りであり、さう云ふ風にしなければ話を引張れなかつたのは失敗であると。
平成十八年十月二十日
『明暗』について松原先生、話がをかしくなる前に漱石が死んだからまだ「讀める」と評してをられた。
平成十八年十月二十日
松原先生に據れば、漱石の小説で一番出來が良いのは『坊つちやん』で、次が(多少の難はあるが)『行人』であると。
平成十八年十月二十日
で、野嵜は思つたのだが(講演會の質疑應答で質問すれば良かつたのかも知れないが)――漱石は失敗作が多い、ならば漱石は小説家としてそれほど偉大でないのではないですか。松原先生の漱石論の結論、早く讀みたい。
平成十八年十月二十日
のあ
顏文字つてそれだけ別にマーク附けした方が良いのかな。
fankee_jr
俺にきくなよ……。
あやの
何でfankee_jrが此處に出て來るんだ?
平成十八年十月二十日
「SEOを捨てよmixiへ出よう」と云ふキャッチフレーズを思ひ附いた。だから何だと言はれても困るが。

平成十八年十月十九日
http://logos.blogzine.jp/1/2006/10/post_4641.html#comment-4340126

前田さんは雑音に惑わされることなく、どんどん自分の書きたいことを書いた方がいいと思いますよ。これならノートか日記帳に松原正論を書いていった方が、はるかに実りの多いものができるでしょう。衆人環視の中でいい作品が出来上がっていく訳がない。やっぱりブログやサイトは、手段としてあまり良くないのかもしれません。

「♪あなたのお仕事、な〜に?♪」なる人物。「義」さんなんて言つてゐるのだから「義」に好感を抱く惡質な野嵜粘着である模樣。餘程俺の事が憎いらしく、俺の事を雑音と極附けてゐる。眼前を飛び交う蝿と言つた「喜六郎」なる輩と同一人物であるやうだ。しかし、そんな事を言へば、ますます前田さんが困る事になると氣附いてゐない邊、何うしやうもないとしか評しやうがない。俺の印象を惡く出來さへすれば良いと思つてゐるらしい「♪」だが、困つてしまつたのか前田さん、完全に沈默してしまつてゐる。
平成十八年十月十九日
福田センセーの文章はショーとかエンターテインメントでしたか  投稿者: 福田恒存をやっつける会会長  投稿日:10月11日(水)09時35分28秒 KHP222000058190.ppp-bb.dion.ne.jp
もちろん、一種の見せ物である。といつて、ジェスチュアー紅白試合と異なり、素面、素籠手の眞劍勝負でもある。  投稿者: fankee_jr  投稿日:10月11日(水)19時05分57秒 60-62-214-135.rev.home.ne.jp
「や」会長も、掲示板で俺に撃墜されて、默つてしまつた。
惜別 と書きたいところだが  投稿者: 福田恒存をやっつける会会長  投稿日:10月18日(水)12時38分52秒 KHP222000058190.ppp-bb.dion.ne.jp
何囘こんな事を書けば「や」会長も滿足するのだらう。俺の異常なまでに的中率の高い豫言――「や」はまた現れる。
平成十八年十月十九日
読書エッセイ|本の水脈012
平成十八年十月十九日
外灯都市: 〈正字体〉って? の続き 3

そして、けっきょく説明されなければわからないなら、〈新字〉だって〈旧字〉だってそう大きな違いはない、多くの人が〈新字〉を使い慣れている現状があるなら、ことさら〈旧字〉を使用し普及させるような運動をする時間があったら、むしろ漢字に対する理解を深めたほうが有意義だという考えが出てくるのも自然だと思います。(ぼくはこの考えです)

口では何とでも言へますが、現實に「新字」だけではそんな事は不可能です。しかし、ここで〈旧字〉の限界がきます。〈旧字〉では器をあらわす象形文字の「口」と、人間の口をあらわす「口」が同じ形になってしまっているため、〈旧字〉を見ても「人間の口が四つあるなかに犬」という、字面だけではなんだかわからないものになっています。とaruka氏は述べますが、しかし、では「新字」を見たら「解る」のかと言へば、ますます解らない。「新字」だけで説明が出來ないのなら、「旧字」で説明しなければならない。「旧字では不十分である」とaruka氏は述べるのだが、「新字ではもつと不十分である」。
「旧字」では「不十分」ながら、「新字」よりは巧く説明出來る。そして、漢字に対する理解を深めるのが有意義ならば、そのきつかけとなる「旧字」を一般に用ゐる方が有意義である。

つまり、漢字のなりたちや古代中国の文化や習俗に理解がなければ〈旧字〉を見たってそれが何を意味するかわからない一方、理解さえあれば〈新字〉を見たってそれが何を意味するか理解できる知識が身につくからです。

その「知識」は死んだ知識にしかなりません。死んだ知識には何の價値もありません。「旧字」を普段から使ふ事で、我々は初めて生きた漢字を使ふ感覺を持てます――文字は文化であり、文化は生活の中で生きてゐるから意味があります。だから「旧字」を普段から使ふべきです。

むしろ、白川静に代表されるようなきちんと漢字を研究してくれる学者がいなくなってしまうことのほうが、漢字文化にとって危機的な状況だとおもいます。上にあげたような「器」という字の意味なんて、一般的な現代人が字面をみただけではわかるはずなく、研究者が説明してくれて初めて理解できるものだとおもうからです。

その説明を「してほしい」と思ふ人がゐなければ、學者のなり手がありません。
さて、aruka氏は、「器」なる文字について述べて、「口」の部分だけに注目して、それを根據に「新字も旧字も大して差がない」と斷じてゐます。

となると、文字の象形性にこだわるなら、器の「口」と人間の口の「口」は見分けがつくように字体を変えるべきではないかという意見が出てきそうです。

これがをかしい。なぜなら、「口」に圍まれた残りの部分――此處こそが「旧字」と「新字」を決定的に分つものだからです。
「新字」では此處が「大」になつてゐるのですが、「旧字」では「犬」になつてゐます。そして、「犬」であるからこの漢字を理解し得る。「犬」は捧げられる犠牲を示す。もちろん、既に引用した通り、aruka氏は解つてゐる、解つてゐてとぼけてゐる。
白川靜氏は『常用字解』で以下のやうに述べてゐます。

……。常用漢字の字形は犬を大(手足を広げて立つ人を正面から見た形)に変えているが、これでは器の字の意味を理解することができない。

白川氏を引合ひに出してaruka氏は論じてゐるのですが、その白川氏は「常用漢字の字形」を非難し、はつきり字體改革に反對の立場を表明してゐます。aruka氏はこの白川氏の立場について如何御考へですか。白川氏の立場を無視して、その説を自分に都合良くつまみ食ひして、それでaruka氏は「自分は良い事を言つている!」と本氣で思つてゐるのですか。

平成十八年十月十八日
早速つつこみが。何でも言つてみるもの。何うも有難うございます。

平成十八年十月十七日
なあ諸君、こんな時だからこそ言ふべき文句があつたのではないかね。「肩が赤い」。
ウェブ日記にしても何にしても、時としてクオリティが落ちるのは「ある」事だし「あつて良い」事だと俺は思ふのだよ。
平成十八年十月十七日
パンプキンシザーズ @ tvk。作畫第三話にして崩潰。俺はこの手の話、割と嫌ひでない。
平成十八年十月十七日
取敢ずてにをはだの何だのの誤は氣にしないで文章は「書上げる」のが基本。ウェブにしても何にしても、「コンテンツ」を作る時は、文章なり何なりの素材を――クオリティは兔も角、用意出來るものを用意して、先づは形を作る事だ。もちろん、誤字や内容の誤は訂正する必要があるけれども、それはあとで編緝や校正で何とかすれば良い。あんまり一發で完璧にする事を目指してもしやうがないよ。勢ひは大事。
と云ふ訣でうちのサイトには間違ひが殘つたまゝ公開されてゐる記事が澤山ある訣だけれども、それらのチェックを閲覽者の方々には是非とも御願ひしたいと。
平成十八年十月十七日
日曜日の夜に書忘れたけれども、AT-XでLEMON ANGEL PROJECTを再放送してゐて毎囘觀てゐる。第五話まで進行。LAP、根本的な部分で設定がをかしいのだけれども、にもかかはらず伏線張り捲りでしかも後できちんとそれが囘收されてゐるストーリーは秀逸。作畫のレヴェルと反比例して面白くなつたと言はれる後半の囘は良く觀返してゐるけれども、前半の糞詰らん話も觀返すと「發見」が「ある」。と言ふか、こんなに可能性だけは感じられるあにめと云ふのも珍しい。
決して手放しでおすすめはできないけれども、心に餘裕のある人は觀てみると良いと思ふ。あと或程度の忍耐力。しほの涼の聲を聽いて怒り出す人は觀ない方が良い。笑ひ出す人はきつと最後まで樂しめる。聲優として成長した説もあるが微妙。
平成十八年十月十七日
今期のらぶドルも詰らん詰らん言はれてゐる割に一部に面白がつてゐる層があるのだけれども、LAP並の出來になる可能性は「ない」やうな氣がする。化けても最終的にめろどらまとして「良いお話」になる程度だらうと推測。と言ふか、話の構成だけが命のLAPみたいなあにめは本當に珍しい。下らない小ネタの出し方もキャラの立て方も思ひのほかストレートなもので案外好ましかつたのだけれども、本質的にLAPは形式主義的な御話で、ドラマティックと云ふ事を良く理解してゐる視聽者ほど樂しめたもの。
平成十八年十月十七日
ネギま!?が微妙に「前作」を觀てゐないと解り辛い状態になつてゐるのは如何なものか。
平成十八年十月十七日
金色のコルダが思つたよりも面白い。凄く面白い訣ではない。
平成十八年十月十七日
ギャラクシーエンジェル〜んがパロディ滿載でくだらなかつた。俺は割と樂しく觀たけれども、世間には「パロディだけ」なのに不滿な人も多かつた模樣。パロディとして抛り込まれたねたが最終的に全て伏線として囘收されるならば慥かに俺は歡迎するが、しよせんGAと言ふかブロッコリーにそこまで期待するのは大間違ひだと思ふ。
平成十八年十月十七日
と言ふか俺、世間のあにめ評は文藝批評よりも餘程全うだと思つてゐるのだが、變ですか。オリンシス邊の一々御都合主義で馬鹿な展開にばんばんつつこみが入る實況なんて、好ましいと思ふのだけれども。GA2でも、キャラがさつぱり立つてゐないとか。
――その種のつつこみが、例へば漱石の『こゝろ』なんかには全く入らない。
平成十八年十月十七日
最う何日も經つけれども書忘れてゐたので書く。麻井宇介『比較ワイン文化考』(中公新書612)讀了。割と有名な本だから今更採上げる事もないかも知れないけれども一往。風土の觀點から述べたワインの御話だが、「ワインを作つて飮む習慣がある文化」と「ワインを作つて飮む習慣が存在しない文化」とをきちんと區別して兩者の根本的な違ひを説明してをり、興味深い。人の生き方考へ方は文化が違つてゐてもそんなに違ふものではない、と、さう言ふ人は多いけれども、やつぱり違ふものである訣で、その違ひを説得力を持つて説明してゐる。文章は、文體があつて「讀める」ものになつてゐる。
平成十八年十月十七日
最う何日も云々。『諸氏の先頭に在り 陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』讀了。アメリカ通の日本人・栗林中將の生き方・死に方を通して、彼我の考へ方の違ひを説明しつゝ、近代日本に於て近代化し得なかつた多くの日本人の問題を指摘してゐる。
日本人としては珍しく近代人であつた栗林中將は、近代的な發想に基いて最期まで戰つた訣だが、にもかかはらずその死は日本人として立派な死であつた。戰爭に於ては何うしても合理的な戰ひ方が必要である訣だが、同時に、その合理的な戰ひをきつちり遂行するのもまた人間的に立派な事であり、しかもその立派と云ふ事は飽くまでその人間が生きてゐた社會の倫理によつてのみ保證される。これは普遍的な事實と言つて良い。
平成十八年十月十七日
最近氣附いたのだが、日本の多くの人が「議論」と云ふ言葉を、「既に結論が決つてゐる事について感情的に贊成か反對か言合ふ」事だと思つてゐるやうだ。
與黨の政治家が「○○については議論が必要」と言ふ場合、その「○○」はその政治家が實行したい政策に決つてゐる。ところが野黨の政治家が「愼重な議論が必要」と言へば、要は「反對」と云ふ事だ。
本當の議論が日本には存在しない。だから、それをしようとすると「あいつは何か目的があつてやつてゐるのだ」と勘違ひされ極附けられる。ところが、本當の議論は本當の民主主義社會では必要な事だ。だから日本に本當の民主主義を定着させる爲には、誰かが本當の議論をしようとし續けなければならない。議論をしてゐるところで「あいつの言つてゐる事を聞いては行けません」等と人々に「忠告」をする輩は、民主主義が實現するのを妨碍するファシストだ。
平成十八年十月十七日
日本には民主主義の形式は存在するが、民主主義の精神が存在しない。戰前、政黨政治の形式は存在したが、政治家はその政黨政治を權力鬪爭に利用したに過ぎない。政黨政治を巧く成長させれば民主主義的な政治は可能であり、ところが日本に民主主義が實現しなかつたのは、結局のところ日本人が政治における民主主義の實現を目指さなかつたせゐである。戰後、民主主義の形式はアメリカによつて「上」から齎された。そして現在まで、例へば高坂さんが指摘するやうに、日本はアメリカの屬國だから、アメリカの政治體制を形式的に模倣して、民主主義的な形式を實現してゐる。けれども、實際の政治の現場では、一切議論が行はれず、戰前と同じやうに、「敵」の政黨の政治家を權力から追落さうとする行爲だけが看られる。民主主義的に議論を行ひ、その成果を政策に反映して、結果としてより良い社會を築かうとする、なんて事は、政治家の誰一人、考へてゐない。政治家は、自分が下した結論は絶對に正しい、と信じ、それを主張し、徒黨を組んで數で「敵」を壓倒して、國策に反映させようとだけしてゐる。國會での政治家同士の「討論」は、相手の主張を罵倒するだけのウェブで屡々行はれてゐるものよりは増しだが、何の意味もないものである。野黨の政治家が與黨の政治家の痛いところを突いた――だから何うだと言ふのであらう。それで與黨は政策を變へはしない。政治家は國會でパフォーマンスを繰返してゐるのみである。目的は、相手を馬鹿に見せかけて、次の選擧で自分逹が與黨の側にまはる事。權力が欲しい政治家は、民主主義のルールに則り、民衆の支持を得る爲に、パフォーマンスをしてゐるに過ぎない。そして、さうしないと日本では政治家としてやつて行けない。日本の國會では、政治家同士が眞面目に話し合ひ、意見を出し合つて、結果として良い政策を作つて行く、なんて事は行はれない。全て出來レースである。そして、その出來レースをやるのに一々パフォーマンスとしての「討論」が附帶するのである。今の國會の「討論」なんて、税金の無駄使ひだとしか思はれないのだが、ただ民主主義の形式だけが錦の御旗として必要な人々が、兔に角今の日本の政治を民主主義つぽく見えるやうにする爲、この「討論」を維持してゐる。數で政策が決るなら、「討論」なんてしないで、最初から決議をすれば良いのだ。時間の節約にもなる。――斷わつておくが、俺は「一般に政治に於て討論は不要である」と言ひたいのではない、「今の日本の政治で、全く意味のない『討論』と稱するその實政治家連のパフォーマンス大會をやつてゐるのは良くない」と指摘してゐる。
辰野隆だか岸田國士だかが著書でフランスの國會で行はれた風流な議論を報告してゐるのを思ひ出した。
平成十八年十月十七日
CMのCMキャンペーン
PCのOperaでJavaScriptの實行をオフにしてアクセスしたら、このページを閲覧するにはJavaScriptがONにして下さい。と言はれた。
平成十八年十月十七日
[D-pa] 社団法人 地上デジタル放送推進協会
PCのOperaでJavaScriptの實行をオフにしてアクセスしたらJavaScriptをONにしてご利用ください、構はず「探す」とJavaScript対応ブラウザ、もしくはJavaScriptをONにしてご利用ください。と言はれた。

平成十八年十月十六日
TBS
何時の間にかXHTML 1.0 Transitionalになつてゐて吹いた。こみゅんの人はソースを見てみよう。
割とがんばつてゐるが微妙。特に一番上の邊。<a href="#idxaccesstarget" class="alt">番組メニューへジャンプ</a>がbodyの直下にある。
TBS「銀河鉄道物語〜永遠への分岐点〜」
TBS「コードギアス反逆のルルーシュ」
見るからにがんばつてゐないが、基本のテンプレートに基本の情報を機械的に貼りつけてゐる暫定版サイトだからだらう。
TBSアニメーション「ああっ女神さまっ」公式HP
以前のコンテンツを引きずつてゐると(?)へろへろ。テーブルレイアウト。
TBSアニメーション「ひだまりスケッチ」公式HP
最近作られたもの。段々手慣れて來てゐるらしい。idやclassの屬性値がアレなのはアレ。フューチャー云々の邊、ソースを見るととても面白い。
TBSアニメーション「ヴィーナス ヴァーサス ヴァイアラス」公式HP
最近作られたもの。取敢ずValid。
TVアニメ「夜明け前より瑠璃色な」公式HP
物凄く惜しいミスが一箇所ある。
TVアニメ「Kanon」公式HP
TBSアニメーション「あさっての方向。」公式HP
TBSアニメーション「xxxHOLiC」公式HP
どうもソースが幾つかのサイトで流用されてゐるらしい。或は作り手が同じ。? どれもリストの各項目の頭に一々「・」を入れてゐる。

平成十八年十月十五日
昨日・十四日は鐵道の日だつたさうだ。
だから更新しなかつたのではない。
平成十八年十月十五日
富士見の第十八囘ファンタジア大賞の努力賞・河屋一『輝石の花』讀了。
この囘のファンタジアの受賞作二作で「かまいたち」の記述を發見。「かまいたち」はライトノヴェル作家志望者が大好きなギミック。
平成十八年十月十五日
講演會→BIG BOXの古書展。購入したもの。国語学会編『国語学辞典』(東京堂書店)。「シェストフ選集」一卷・二卷。ヒンチリフ『不条理』。
ヒンチリフの本はダブりを承知で買つたもの。欲しい人に上げます。掲示板邊で手を擧げて下さい。出來れば神保町邊で受渡しが出來る人。めしでもおごつてください。

平成十八年十月十三日

以前は当サイトは所謂無断リンクをお断りさせていただいておりましたが、リンクに関して検証した結果、現在は原則としてリンクを開放しております。但し全てのリンクに対して、受け入れを示すものではありません。相手方のリンク設定の拒否は出来ませんが、それを受け入れる必要はなく、何らかの手段を用いてこちらで拒否をすることは問題ないと考えています。リンク行為が表現の範囲内であるならば、リンク拒否もまた同様との考えです。よって、リンク元如何によって、リンク受け入れを制限したい場合には、技術的な手段を用いてリンクを拒否することをご承知おきください。この場合あくまでその経路からの入場を拒否しているに過ぎないので、別の経路または直接入場からであれば普通にサイト閲覧は可能です。

ここ、うちからのリンクを經由したアクセスを全部はじいてゐるのだけれども――と言ふより、「うちから」と云ふリファラが行つた場合、そのアクセスをした人と言ふかユーザエージェントをはじいてゐるのだけれども、何なのだらう。
と言ふか、このめぐみるくなる人の理窟、合つてゐるのだらうか。何にも言はずにただうちを毛嫌ひして見せる、と云ふ行爲は、非常に問題でないか。めぐみるく氏、各地の京王線關係の掲示板では良識家として根據を提示して物を言つてゐる事が多いのだが、その人が何一つうちを嫌ふ理由を擧げず、ただ「默つてアクセスをはじく」と云ふ事をしてゐる。「默つてアクセスをはじく」と云ふ行爲は、根據を提示する事で初めて成立つ批評なる行爲のうちに入るのですか。
取敢ず、うちは最う「鉄道ファン」關係のサイトにリンクを張らない事にしました。鉄道ジャーナル誌の編緝長の發言で俺は鉄道關係者に落膽しましたが、めぐみるく氏の態度で決定的に鉄道方面と訣別する事にしました。さう云ふ訣で、うちにリンクを張つて貰ひたい鉄道ファンの人は全員諦めて下さい。

当サイトではアクセス解析を行っております。リンク元、ご利用のブラウザ、リモートホストなどの確認をしております。この情報は、当サイトの利用状況を把握するために用いております。なおこれらの情報は、非公開としておりますのでご了承ください。

うちはアクセス解析を全く行なつてゐません。當サイトの利用状況を把握しない爲です。「言葉 言葉 言葉」は「開かれたサイト」にしたいと考へてゐます。
と言ふか、自分のサイトへのアクセスをコントロールしたいなら、mixiか何處かのクローズドな環境でやれよ。
平成十八年十月十三日
と言ふか、かう云ふアクセスはじきが「あり得る」から「出典をリンクで示す必要はない」=「闇黒式引用は正當」と云ふ理窟は何うか。と、今更いずし氏に話を振つて見る。
胡桃の中の航海日誌
FrontPage - 胡桃の中の世界
平成十八年十月十三日
いずし氏は「リンクを張られる事で、アクセス解析に引掛かつて、それで批評されてゐるのを知る事が出來る」と言ひ、それが出來ないからと言つて「闇黒式引用」は「アンフェアだ」と非難した。ところが、アクセス解析で批評の存在を知つて――或は、ただの言及を知つて、その「リンクをはじく」と云ふ「表現」をとるサイトも「ある」。
「リンクを張つて言及する」批評に對して、「そのサイトからのアクセスを遮斷する」事によつてその種の批評を封じ、さらにはその批評をしたサイトの閲覽者に「そのサイトはアクセスを拒否される惡いサイトなんだよ」と云ふ印象を與へようとする。――さう云ふアンフェアなサイトについて我々は如何にして批評を行ふかと言へば、リンクを張つて見て貰ふ事が出來ないのだから仕方がない、必要な箇所を引用して見て貰ふしかない。となると、「闇黒式引用」の方式は批評の權利を守り言論の自由を守る爲の「最後の砦」となる。
「闇黒式引用」の方式を規定してゐるW3CのHTMLの仕樣は實に妥當なものだと言へる。
所謂「闇黒式引用」について/HTMLの定義のための覺書
平成十八年十月十三日
東京古書會館の古書展。古い本が多い一方、中公文庫や講談社學術文庫が豐富に。購入したもの。ホイジンガ『レンブラントの世紀』(創文社歴史学叢書)、『朝の影のなかに』(中公文庫)。清水幾太郎『昨日の旅』(中公文庫)。会田雄次『敗者の条件』(中公文庫)。中山昌樹全譯『ダンテ神曲 天國篇』。教養文庫二册。雜誌「総合」昭和三十二年五月創刊号(東洋經済新報社)(企画福田恆存・撮影東松照明「日本の青春」=寫眞十三枚組を掲載。)。

平成十八年十月十二日
ちょこシス。ねこにゃんダンスが本當に流行したら日本はいろいろな意味で終りだと思ふ。
平成十八年十月十二日
蒼天の拳が結構面白い。低豫算今川。
平成十八年十月十二日
録畫データでブロックノイズが見られるのは、GV-M2TV/USB2の不具合ではなく、J:COMのセットトップボックスの不具合のせゐらしい。調べたら、HDR撤去後に設置されたセットトップボックス、以前のTZ-DCH500ではなく、TZ-DCH1000なる別のものだつた。
取扱説明書の仕樣を突合はせて良く見比べてみたら、新しいセットトップボックスの方が性能が惡い。現在のTZ-DCH1000ではD4への對應が省略されてゐる(D4の720pの放送は現状存在しないから事實上問題ないとは言へ、機能の省略である事には違ひない)。J:COM、どんどんサーヴィスレヴェルが低下してゐる。
CATVの場合、一社が一地域でサーヴィスを獨占するやう國が命じてゐる。地上波が縣域放送なる形態をとつてゐるのと同じ。ユーザにはサーヴィスを撰擇する餘地がない。結果として、サーヴィスの地域格差が生じてゐて、不公平な事になつてゐるのだが、なぜか國はそのやうな不公平を「良い事」としてゐる。らしい。何うして放送に限つてこんなをかしな形にされてゐるのか理由が解らない。兔に角、異常な放送の制度によつて、CATVの乘換へが完全に不可能になつてゐるのが現状。俺は、J:COMからもつと増しなCATVに乘換へたいのだが、國によつて阻止されてゐる。日本は自由主義の國だと聞いたが、何處に自由があると言ふのだらう。
平成十八年十月十二日
縣域放送の所爲で放送の内容の地域格差が非道い事になつてゐるのは、あにめなんかに典型的に表れてゐて、ヲタの間で問題にされてゐるが、一向に見直される氣配が無い。地上デジタルも、縣域放送の制度を強化するのが目的でないか、とすら思はれる。
平成十八年十月十二日
デジタル放送になつて、色々な事がアナログ放送よりも不明朗になつてゐる。調べれば調べるほど、デジタル放送で行はれてゐるいんちきが明かになつて來る。「アナログの方が良かつた」と云ふ事は既に一部で囁かれるやうになつてゐる。
けれども、「ゴーストがない」と云ふ「メリット」を強調して、國は放送のデジタル化を強行しようとしてゐる。既成事實化によつて強引に目的を達成しようと云ふ、日本政府得意のやり方だ。
同時に、「ワンセグ」の存在を國は頻りに強調してゐる。デジタル放送は「便利」と云ふ宣傳だ。デジタル放送に反對する人間を、「便利」と云ふ事に反對してゐる反動と極附け、反論を封殺してしまはうと云ふ、惡質な戰術である。實際には、コピー制限の存在が極めて重大な問題であり、コピーワンスのフラグを設定されたデジタル放送の信號はデジタルの便利さを完全に喪失してゐるのだが、國はデジタル放送の宣傳でコピー制限の事を全く言はない。これは國家が「詐欺行爲をやつてゐる」のだと言つて良い。
そんな訣で、俺はデジタル放送が轉ける事を希望してゐるのだが、しかし俺は既に諦めてゐる。我が日本國民は、嘗て國字問題で全くの無能を露呈した。今度も過ちを平氣で見過ごすだらう。

平成十八年十月十一日
ウェブも成立してから最う十年が經つのに、未だにブラウザで印刷すると思つた通りのプリントアウトが出て來ない、と云ふ事態が生ずる。何なのだらう。俺は誰に文句を言つたら良いのだらうか。
SEOとかアクセスアップとかは結構だが、インターネット專門誌は「企業サイトを印刷してみる」特集なんて組んでみたら如何だらうか。InternetExplorerのみならず、FirefoxやOpera、それもWindowsとMacintosh、或はLinuxで印刷してみる。
企業のプレスリリースなんかを資料としてプリントアウトしてとつておかうとする、ところがブラウザによつて・ユーザの設定によつて變な風に印刷されてしまふ――「この時、企業の信用は、そのユーザにおいて決定的に崩れてしまふ事だつてあり得る」。
「印刷用のぺーじ」なんてものを作つてゐる企業サイトがあつたとする。その「ぺーじ」を、A4のみならずB5とかA3とかで印刷してみる。それで變な風に印刷されてしまつた時――云々。
「AHLにかけてみる」なんて評價の仕方もある訣だけれども、印刷の結果なんて云ふのは誰の目にもはつきり判るものだし、やつてみると面白いのでないか。まあ、「紙がもつたいない」企劃ではあるのだが――しかし、實際、各地でウェブ文書の印刷に失敗して紙を無駄にしてゐる事例なんて結構ありさう。
「ブラウザでの見た目」に拘るデザイナーの價値觀を粉碎する爲にも、かう云ふ企劃は何處かでやると良いと思ふ。
平成十八年十月十一日
言葉の救はれ――福田恆存論: 松原正論――政治と文學主義
「アンチ松原」だか「アンチ野嵜」だかの人間が、前田さんが松原先生批判をやつてゐるのを喜んで、前田さんの身方をしようと下手な事を言つて、それで却つて前田さんの立場が惡くなつてゐる。

今回、「理想」や「文章添削」をめぐる前田さんの主張に同意する部分が少なくなかったです。文章が論理的であることは大事ですが、事実に反することを書くのは、それ以前の問題ですね。他人の片言隻句をとらえて、ほとんどデマすれすれの、自分の都合のいい方向に議論を持っていく人間もいますしね。「政治と文学主義」の今後の展開に期待します。それと、信奉者の書き込みの一部は、「説得」というよりは「威嚇」や「折伏」みたいで、改めて霊異なものを感じてしまいました。

投稿は、例によつて「匿名希望」の人物。この文章のおぞましさ――うちの讀者の方々ならば即座に感じられるだらうが、もし「これは素晴らしい文章だ!」と思ふ人がゐたら、最う二度とうちを見ないでいただきたい。
誰が事実に反することを書いたつて? 他人の片言隻句をとらえて、ほとんどデマすれすれの、自分の都合のいい方向に議論を持っていく人間とは誰だ? 俺の事を言つてゐるらしいが、具體的に俺のどの發言がさうだと言ふんだ? 「匿名」氏は絶對に答へない。答へない事によつて「議論」に勝つ。何時ものやり方だ。この手のやり方で「勝つ」連中に松原先生が絶望して「空しい」と仰つてゐる――それが前田さんには解らない。
前田さんの主張を木つ端微塵に打ち碎く決定的な證據をこの「匿名希望」氏は提供してくれた訣で、或意味、感謝する。
平成十八年十月十一日
まじかんと雑記: より良き画質を求めて
なぜ今時平行フィーダ?
地域の電波の強さに合つたそれなりのアンテナを選ぶ。アンテナはきちんと電波塔に向つて向ける。場合に據つては中繼局の電波を利用する。アンテナ線は最低5C-2Vの同軸ケーブルを使用する。接續はF型接栓にする。電波の損失が大きくなるから、ケーブルを繼ぎ足さない、接續個所を最低限にする、分配し過ぎない。電波が弱ければブースターを附けるが、插入損失で却つて電波が弱くなつたりする事もあるので良く考へる。良い受信をするには配慮が必要。
最近はPC用のキャプチャボードも性能が良くなつてゐて、弱い電波だつたりゴーストまみれだつたりしても補正して尤もらしく映像を見せて呉れるけれども、やつて來る電波の質を上げる事が基本。
テレビアンテナ学習の宿 (No Frame)
平成十八年十月十一日
外灯都市: 〈正字体〉って? の続き 2

……そうなると、研究者が十人いれば十とおりの違った〈正字〉ができてしまってもおかしくないでしょう。

 そうなると〈正字〉とはどれが〈正字〉と呼ぶにふさわしいか学者が研究し論議すべき対象であって、実用とはかけはなれた文字ということになりますが、それでいいんでしょうか。

誰かが「この字體が唯一の正しい字體である、これは上意なるぞ」とか言つて決めなければならない、と云ふ説。「だつてさうしないと、複數の字體が亂立するでせう。それは混亂ではないですか」。混亂ではありません。複數の字體が平行して使はれても、良いんです。何か問題?
と言ふより、うちは「これが唯一の正しい字體であるぞ」と言つて押附けられた「当用漢字」に反對である訣で、或種の字體を唯一の「正しい字體」と稱して他人に押附けるのを目的としてをりません。
うちはですね、性急に「正しい字體を一つに決めてしまはう」と云ふ主張に反對してゐます。うちは「より良い國語を作つて行く爲にみんなで少しづゝ努力して行きませう」と呼びかけてゐるサイトです。實用實用と言つても、それがただのスローガンでしかないのではないか、と疑ふ事も必要です。實用主義を稱した「当用漢字」が、解決不可能なコンピュータネットワーク上の文字コード・文字セットの混亂の原因となつてゐる事は明かです。適當な略字の採用と字體の統合をしないで、良く考へて國語の改良を行なつてゐたら、現在のネットワーク環境での不便は「なかつた」のではないですか。少くとも、今よりは増しな状況になつてゐたと思はれます。
時の権力者がこれが〈正字〉と定めたんだから〈正字〉だと言い切ってしまえるかというと、否定的にならざるをえません。と言つてゐるけれども、「当用漢字」の字體はそのやうにして「定められた」ものなので、それでうちは反對してゐる訣です。時の権力者がこれが〈正字〉と定めたものである「当用漢字→常用漢字」に拘つてゐる人々つて、一體何なのでせうね。今の字體が權力者によつて「正しい」と定められて押附けられる直前、昭和二十年頃には、研究が進んで、漢字は學問的に隨分良いところまで整理が行はれてゐました。それを全部ぶち壞しにしたのが國字改革であり「当用漢字」。
平成十八年十月十一日
:: 日出づる國の一無名人のブログ | 松原正信者木村貴論(八)「國語問題協議會評議員木村貴」 ::
匿名希望氏ならぬ一無名人氏が、なんか適當な事を言つてゐる。
平成十八年十月十一日
一無名人・青方の中村氏の情報に據れば俺は國語問題協議會を罷めてゐるさうだが、今日、協議會會員全員に發送されたと思はれる「正かなづかひの會」入會の御誘ひの封書が屆いた。あと秋の講演會の案内。
平成十八年十月十一日
國語問題研究會−掲示板−1998年12月
青方の中村氏の「事情を明すことの出來ない問題」でも今更つついてみようかな。

平成十八年十月十日
パンプキンシザーズ第二話 @ tvk。第一話前半までは微妙だつたが後半から良くなつた。第二話も結構面白い。
平成十八年十月十日
言葉の救はれ――sc恆存論: にもかかはらず3――話を振り出しに
すまんちよつとぶち切れさうになつた。
平成十八年十月十日
さがさないでください。: 結局はシンシナチの鳩みたいなものか...

態々來源を明示して讀者を宣言されるといふことは、私の感覺からすれば直截その相手に向つてはなしをすることをもとめられてゐるのに等しい。

その理窟はをかしい。なぜなら、ウェブに公開されてゐるのだから、ありとあらゆる場所からアクセスされる可能性がある訣で、さうなると「特定の讀者に向つて話をする」と云ふ事はウェブで公開されてゐる文書ではあり得ないからだ。
ところで、うちもはてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナからリンクを張られてゐる訣だが、うちもその領域についての話題を提供しなければならないと、さう云ふ事だらうか。
何うもさう云ふ事ではないらしい。
さがさないでください。: 捕捉されることについて、一應の結論。
と云ふ事は、一體全體この人は何の不滿を表明してゐるのだらう。得體の知れない不滿を漠然と表明する人と云ふのは、とても困つたものだと思ふ。前田さんもさうだ。

私は要望を陳べてゐるだけです。もしも「ケチ」を付けてゐるやうに受取つてしまつてをられるならばそれは誤解です。

この人みたいに「要望」と言ひつゝ何か相手に要求を呑ませようとしてみたり、前田さんみたいに人の言つてゐる事を「理解出來ません」と突放して見せたり――さう云ふ「腹藝」、だか何だか知りませんが、そんな良く解らない事を言ふ人、私は嫌ひです。要望を述べるのは結構だけれども、で、その要望を相手にどのやうな形で受容れさせたいのか――と言ふより、ただ獨り言として誰にも聞かれないオフラインで呟いてゐるのならば兔も角、公開の場で相手に屆くやうに「言ふ」のならば、それは明かに要求を通さうとしてゐるのであり、その要求が通らないのならば「ウェブから消える」と豫告するのは、誰が何う考へても相手に對する嫌がらせであり「自殺テロ」以外の何物でもない。

 『この度のアンテナ登録に關しては「解除」を要望しますが、それが叶はなくとも今後はこの件には觸れません。更新については、再開の努力はしますがメンタルな影響から實現は稍々難しいかもしれません。今のところ閉鎖の預定はありません。』

何う見ても神經過敏。大體、何處かからリンクされ、何らかの批評を受けるのが怖いなら、誰もが自由に閲覽出來るウェブなんかで物を言ふのなんて、最初からしなければ良い。
ところで私は正字正かなに反應する「捕捉ロボ」なので、正字正かな(正統表記)では機械的に(正字)正假名で書かれてゐると思はれるサイトにリンクを張つてゐる。或種の話題に機械的に反應してリンクを張る事は、何の問題もない事だ。GoogleだつてYahoo!檢索だつて、檢索キーワードの入力に機械的に應答する。それの何が惡いか。何も惡くない。檢索エンジンが惡くないなら、リンク集だつて惡くないだらう。http://d.hatena.ne.jp/funaki_naoto/comment?date=20061008#cでeulear氏が「捕捉ロボ」等と言つてゐるが、「正字正かなで書いてゐる」と云ふ事に反應して「捕捉」する事は何も惡い事ではない。若し惡い事であるならば、「ブログ」なんて云ふ「括り」すらも「あり得ない」事になるだらう。なぜ「正字正假名で書いてゐる」と云ふ事で括つてはならないのか。一般論として、我々は何かのテーマで以て「括る」事を許されてゐる。それが「正字正かな」と云ふ「括り」である事の何が惡いのだらうか。何も惡くない。ならば、eulearさんは何を以て「惡い」かのやうに言つてゐるのか。
それはべつとして...山原悠里亞。さん、誰もが納得出來る必然的な理由を提示していただきたい。eulearさん、あなたは、私・野嵜が「(正字)正かなで書いてゐる」と云ふ理由でリンクを張つてゐるリンク集・LCP・正字正かな(正統表記)の惡口を言つてゐるのだ。人のやつてゐる事の惡口を言つてゐるのだから、あなたにはそれなりの「責任」を取つて頂く必要がある――即ち、「説明する」と云ふ責任だ。默つて消えるとか逃げるとか、そんな無責任な事は許しません。人のやつてゐる事を根本的に否定しておいて、逃げようだなんてそんな卑怯な眞似はしないでいただきたい。そんな眞似をしたならば、私はあなたを許さない。あなたは私のやつてゐる事を根本的に否定したのだ。「正字正かな」と云ふ「括り」でリンクを張る、或はアンテナを作成する、それをeulearさんは絶對的な惡と極附け、否定した。ちやんと納得の行くやうに説明して下さい。あなた一人の都合だか好みだかを説明して貰つても俺は納得しない。俺はeulearさんに、全ての人が納得せざるを得ない必然的で論理的な説明をして貰ひたいと思つてゐる。それが出來ないのならば、あなたは個人的な餘りに個人的な好みを他人に無理やり押附けてゐる事になる。そんな事が許されると思つてゐるのか。俺の言つてゐる事に何か間違ひがあるか、俺の作つてゐるリンク集は、そんなに惡いものなのか。俺は自分のやつてゐる事が何も惡くない、と、理由を擧げて説明した。あなたは「惡い」と言つてゐる、が、根據の提示が何一つない。根據の提示拔きに「惡い」と極附けるのは、「や」会長がやつた事だが、そんな事は許されない。
平成十八年十月十日
北朝鮮の核實驗に對して日本は「厳しい対応」をとるとか「断固とした対応」をするとか言つてゐる。衆議院の決議では「厳重に抗議する」「断固たる抗議の意志」とか言つてゐる。ウェブでちよつとぐぐつた範圍ではそれ程「過激」な形容詞は用ゐられてゐないが、讀賣新聞の(紙の)號外では隨分勇ましい形容詞が用ゐられてゐた。
けれどもですね、北朝鮮にして見れば、抗議だの經濟制裁だのは全然「嚴しい」ものではありません。連中にして見れば、軍隊に攻撃されて占領され、政權をぶつ潰されるやうな事にならなければ、それはまだまだ「ぬるい」ものです。そして、連中が日本なんかを相手にせず、アメリカや中國と話をしようとしてゐるのは、彼等が強力な軍事力を持つてゐて、それを行使されれば自分逹が危ふいからです。取敢ず米中を何とかすれば、日本なんて怖くない、と、さう考へてゐるのです。
ところで、今囘の實驗、改憲を言出す「良いチャンス」なのですが、安倍首相、何も言はないのでせうか。さうでせう。
平成十八年十月十日
なんか北朝鮮の核實驗を「暴挙」とか「愚行」とか言つてゐるけれども、北朝鮮の連中、よくよく考へて、やつても大丈夫と蹈んでやつたのだと思ふ。だつてさうだらう、中國、北朝鮮の事を怒つてゐてもさうさう北朝鮮に手を出せない、「やる」ならアメリカと共同で攻込む事になるだらうが、その結果として北朝鮮が民主主義勢力の支配下に入つたら、中國は困る。で、中國がOkを出さなければアメリカもさうさう簡單に手を出せない。何しろ中國のすぐ隣の國だからだ。となると、容易に兩國とも自分のところに攻めては來ない、ならばどんどん挑發してやれ、と北朝鮮の連中は考へる――と言ふより、考へても不思議ではない。もちろん、リスクはあるが、リスクにもかかはらず「やる」ならばそれは決斷した上での行爲だ。自分で決斷したのなら、自分で何も決斷できない日本よりは遙かに増しだ。愚かと言つて罵る事は出來ない。
「義」や「や」会長なんかがさうで、大體人と言ふのは、自分の氣に入らない相手を侮辱するのに一生懸命になるもので、それが「多少のリスクがある」うちなら最う何處まででも突走る。それが止まるのは「行き著くところ」まで行つた時で、詰り、ウェブの名誉毀損行爲なんかだと「公權力」の發動が迫つた時だが、國際社會では警察だの法律だのが存在しないから、軍事力の發動と云ふ事になる。アメリカや中國が「動く」事になるまで、北朝鮮は挑發を止めまい。そして、「義」や「や」会長を「愚か」と罵つても何うにもならないやうに、北朝鮮を罵つても何うにもならない。
大體、軍事力を持たない日本を、北朝鮮は舐め切つてゐる。そんな日本が幾ら北朝鮮を罵つても、北朝鮮は何の痛痒も感じない。經濟制裁を加へても、それは北朝鮮の人民が困るだけで、指導者階層はちつとも困らない。却つて意氣が揚がるだけだ。精神主義の「效能」、日本人はとても良く知つてゐる筈だ。
平成十八年十月十日
川口士『戦鬼』讀了。富士見の第十八囘ファンタジア大賞で大賞をとつた小説だが、俺が審査員だつたら何うしただらうか。ネタは結構微妙で、いろいろと文句を附けたいところがある。結構構成はきちんと練られて御話が良く出來てゐるので一次審査では通すだらうけれども。
平成十八年十月十日
あと一つ。
野嵜さんによる罵倒のなかで觸れられてゐたやうに
俺は根據ナシの罵倒等してゐない。根據を擧げて批判しただけだ。何うして斯うやつて人の言動を惡く見せかけようとするのだらう。惡質だ。と言ふか、最初に惡態吐いたの誰だよ。自分の言つてゐる事は「要望」だとか言つていい子ぶりやがつて。
それにしてもこの人、アンテナの名前が「はてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナ」だからと言つて因縁を附けてゐる訣だが、内容が全く同じでただ――例へば「うんじゃらげアンテナ」とかそんな訣のわからないタイトルででもあつたならば「文句なんて言はなかつた」とでも言ふ積りだらうか。
平成十八年十月十日
【今期視聴アニメ:2006/10/10】鷹澤遊戯場 過去日記
てか、ちょっと前に放送してた、落語天女とか云々。
マジで後藤さんが心配だ。がんばれ後藤さん。
落語天女おゆい
一往DVD シリーズ好評発売中!!らしいが……。
平成十八年十月十日
外野のライパチくんも、チームの一員なんだよ。何うでも良いが。

平成十八年十月九日
テレビ朝日|日本全国徹底調査!好きなアニメランキング100
月バラ2時間スペシャル 芸能界アニメ通が集結!徹底調査アニメランキング100
(福)にだまされた。
平成十八年十月九日
月バラの裏バラ
コメント欄が炎上しさうな豫感がする。
凄い事になつてゐるね。
平成十八年十月九日
MPEG2のデータファイルの異常をチェックするプログラムつて存在しないのかね。ぐぐつても何一つ出て來ない。
DivXならDivFixなんかがあるのに、MPEG2如きでその種のツールが存在しないのは異常。
平成十八年十月九日
TMPGEnc DVD Author 2のヘルプファイルの使へなさは異常。片面一層のDVD-Rに何MBまで書込めるかを調べても出て來ない。こんな基本的な情報がすぐに出て來ないところに匿されてゐるヘルプファイルは存在價値が全くない。ヘルプを作る人間が、使ひ手が何んな情報を求めるものか、何も解つてゐないで適當にそれつぽい「へるぷらしきもの」をでつちあげて「これでいい!」とか思つてゐるから糞みたいなヘルプが量産される事になる。

平成十八年十月八日
tvk土曜日深夜のあにめ。
乙女はお姉さまに恋してる。ネタ的にアレな氣がする。ダカーポつぽいのが氣になる。
少年陰陽師。ネタ的に云々。可もなく不可もなし。
らぶドル。ネタ的にアレ。と言ふか可なりひどい。深夜に爆笑させるな。萬が一化けると困るので視聽繼續。
くじアン。ネタアニメとして見ればそれなりに面白い。氣がする。何と言ふか毒を拔き過ぎるほど拔いてゐる。氣がする。
Gift。ネタを幾つのぎゃるげからパクつてゐるんだ。と言ふかぎゃるげ以外からもパクつてゐる。よりダカーポつぽいのが氣になる。
平成十八年十月八日
「チェーンメール」は「惡いものだ」と言はれるのに、「バトン」は「とても良いものだ」と思はれてゐるらしい。何なのだらう。どちらも似たやうなものでないか。
平成十八年十月八日
言葉の救はれ――福田恆存論: 松原正先生の講演會について

……松原先生はやはり知識人に語り、知識人に書くべきだらうとも思つた。さういふ媒體がない不幸をあらためて感じた。先生の言動には空しさが漂つてゐた。

……しかし、その空しさは、sc恆存の言つた「言論の空しさ」とは違ふ。松原先生は、知識人の批判しかしないが、sc恆存は知識人のみには語らない。『私の國語教室』のはじめに書かれてゐるやうに、誰に語つても通用するものを書いた。そして芝居を書いて庶民を相手にした。しかし、松原先生は、知識人しか相手にしない。

言葉の救はれ――福田恆存論: にもかかはらず 1
言葉の救はれ――福田恆存論: にもかかはらず2――理想なくても批判有
言葉の救はれ――福田恆存論: にもかかはらず3――話を振り出しに
實を言ふと、前田さん、本當に何うでも良い事に拘つてゐるなーと俺は思つてゐる。「スタイルの違ひ」があるだけぢやん。問題は、言つてゐる事が正しいか何うか、言つてゐる事が重要か何うか、だ。言ひ方が「庶民風」か「大學の先生風」かは何うでも良い事だ。
しかし、「福田さんは庶民一邊倒、松原先生は知識人一邊倒」つて、そんな二分法、「あり」なのかねえ。と言ふか、一元論者に限つて單純な二分法で割切る安易なやり方に陷りがちなのは何なのだらう。
地獄の箴言: 二つの大切な問題
地獄の箴言: 松原正論の註の註
地獄の箴言: 主張の正否は中身で決る
地獄の箴言: 松原正論の註の註
地獄の箴言: 理想無ければ批判無し
地獄の箴言: 明々白々に語られた理想
地獄の箴言: 「庶民」はそんな話を聽くべきではない
平成十八年十月八日
唐突だが波江究一の「言葉は遊ばせてやらねばならない→いろはもどき歌を作る『遊び』は『すべきである』」理論の致命的な缺陷。「遊びなら遊びの世界で勝手にやってろ」と云ふ反論を波江は許してしまふ。即ち、「現實社會では『いろはもどき』なんて必要ない」と言はれても、「遊び」説の波江はその反論を既に認めてしまつてゐるのだ。
一方、「『いろはもどき歌』を作るには歴史的假名遣を知らなければならない、歴史的假名遣を復興させるには『いろはもどき歌』の普及が一番の手段だ」と波江は主張する。これもまた、歴史的假名遣を「遊びの世界」に押込めて現實の社會から放逐すべき主張に與するものとなる。
正假名遣の運動があり得るとしたらそれは正假名遣をありとあらゆる場面において使つて良いと自然に受容れられる環境を復活させる事が目的である筈である。言換へると、簡略的な表記である「現代仮名遣」なり表音的假名遣を本來あるべき「簡略な表記が求められる場面」に押込める事が目的である筈である。社會の片隅に「ゐても良い場所」を與へられる事を正假名遣復興の目的としてはならない。
「文語では歴史的假名遣を用ゐるから歴史的假名遣を復興させるには文語を復興させるのも一つの手だ」と云ふ「文語の苑」の主張も、同じく「文語は文語で勝手にやってろ」式の「反論」を否定出來ないから俺は認めない。
平成十八年十月八日
覚え書き@kazuhi.to: links for 2006-10-07
リッチなリスト - Weblog
俺は定義リスト厨だから茲は當然のやうにdl-dt-ddを使ふべきだと云々。
何うでも良いけれども俺、常用のPC無名戰士二號くんMkIIにFirefox入れてねえや。

平成十八年十月七日
蟲師
BSフジで第一話から放送が始まつた(觀逃した)と云ふのでぐぐつたらフジテレビのサイトに何時の間にかこんな「お知らせ」が出てゐた。
平成十八年十月七日
さがさないでください。: もはやこれまで。
かうした感覺しかない以上、これら私が運營する複數の網誌を「ことば(※正字正かな)」に關する專門のアンテナで紹介され續けることは私には苦痛なのだ。――自分で自分を定義するのは愚かな事だ。誰が何う見ても正字正かなで書いてゐるのに。と言ふか、嫌がらせでも何でもない行爲を「私に苦痛を與へてゐる」なんて極附けて、恰も惡い行爲に見せかけようとするのは何うかしてゐる。
ひとりの運營する網誌をアンテナに入れ過ぎると、もつと他に讀まれるべき網誌が壓逼されてしまふ惧れがあるのではないかともおもふけれど、これは餘計なお世話か。――餘計な御世話だと思ふ。と言ふか、そんな「惧れ」なんてある訣がない。
はてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナが「ことばについて專門のサイト」へのリンク集・アンテナでない事は明かだと思ふが? この人は「言葉 言葉 言葉」を「言葉に關するサイト」なんて例によつて極附けたいのだらうか。
と言ふかこの人、複數のサイトを作つておいて何うして「リンクするな」なんて言ふのだらう。見られたくなければウェブに公開しなければ良いのに。「リンクされたから更新を止めます」なんて言つてリンクを恰もアプリオリに惡い行爲であるかのやうに見せかけるのは、リンクが極めて重要であるウェブで殆どテロのやうな行爲だ。「無斷リンク禁止」と同樣、「リンクされたら更新を止める」のは、ウェブサイトの「營業妨害」に當ると言つて良い。しかし、勘違ひしてゐる人は、逆に「無斷リンク」「リンク」を自分のサイトの「營業妨碍」だと言張る。困つたものだと思ふ。
と言ふか、自分が公開する情報を「ゴミ」と自分で言ふ人は、何を考へてゐるのだらう。「ゴミ」レヴェルの情報をウェブに「投棄」するのは「良い」事なのか? 「だからリンクしないで下さいつて言つてゐるでせう」とか言ふかも知れないが、ではあなた、檢索エンジンに登録されないやうにしてゐますか。かう云ふ愚かな事を言ふ人はほぼ例外ナシに「檢索エンジン對策」なんてとつてゐない。それはさうだ、何も知らないから變な事を言ふのだもの。もし「檢索エンジンには登録されて良い」とか思つてゐるのなら、あなたは阿呆ですよ、「ゴミ」レヴェルの情報が邪魔になるのは檢索エンジンの檢索結果に出て來る時だからだ、個人サイトからリンクを張られた時ではない。檢索エンジンで檢索した時に出て來る檢索結果、そこに役に立たない情報が出て來た時、それは「ノイズ」であり「ゴミ」である、さう云ふ「ノイズ」「ゴミ」を垂れ流してゐると自覺があるのなら、さつさとサイトを疊んでリアルワールドに引籠る事だ。いやいや、自分で自分の言つてゐる事を「ゴミ」と稱しつゝ、にもかかはらずその「ゴミ」に對するリンクをコントロールしたいなんて考へてゐるのは、實は自分の文章を「ゴミ」でないと信じてゐるのだ。自意識過剩の人間に附ける藥はない。
平成十八年十月七日
某シュークリーム愛護リンク集の正字正かな(正統表記)の項に但し書きを追加。
  • 「正かな」「正字正かな」と「括られる事」にアレルギー反應を起す人もゐるやうですが、別に「イデオロギーとして正字正かなの主張をしてゐる人・サイト」とか「言葉を專門にしてゐる人・サイト」とかの「括り」でリンクを張つてゐるのではなく、ただ單にそれぞれのサイト制作者の書き方が「正かな」「正字正かな」と一致する書き方をしてゐるのでリンクを張つてゐると云ふだけです。
  • 「正かな」「正字正かな」以外の「括り」でなければリンクを張つてはならない、と云ふ誰もが納得せざるを得ない必然的で決定的な理由を提示された場合、此處からリンクを外しますので、嫌な方は御聯絡下さい。
  • 基本的に制作者が正字正かなで書いてゐるやうに思はれるサイトにリンクを張つてゐますが、歴史的な經緯で(過去、正字正かなサイトが少かつた爲)取敢ず「正字正かなに好意的なサイト」にリンクを張つてそのまゝになつてゐる、と云ふ事があります。
昨今は煩いくらゐ一々説明を書いておかないといろいろアレする事があるから仕方がない。
平成十八年十月七日
閉鎖するということ:INUさいと

平成十八年十月六日
結局木曜夜は體力が持たずに就寢。あにめが多過ぎるとリアルタイム視聽を諦められる事もあるのだ。
平成十八年十月六日
アクセスアップはWeb1.0時代の遺物。
平成十八年十月六日
なあ、人は何故考へるのだと思ふ? 此れは本能のやうなものだ。
最終防衛ライン2 - 皆さんの記事の書き方を知りたいな
最終防衛ライン2 - 僕の記事の書き方
最終防衛ライン2 - 記事の書き方リンク集(最終更新日9/1)
みんな隨分意識的に書いてゐるんだなーと思つた。闇黒日記の文章は思ひ附いたまゝに書流してゐるよ。ただ、書いた文章は推敲してゐる。文章は推敲するものだ。書いて氣に入つたらサーヴァにぶち込む。氣に入らなかつたら何十行何百行書いても消す。リンクは張つたり張らなかつたり、氣分次第。タイトルは闇黒日記の記事に存在しない。
一往氣を附けてゐるのは、何ら讀者を裨益するところのない記事は書かないやうにする、と云ふ事。
平成十八年十月六日
あと、記事の構成とかは氣にしてゐない。文章は、始めがあつて、眞ん中があつて、終りがあるものだ。書くべき事が無くなつたら終り。別に落ちなんて附ける必要がない。
俺が文章を書く時、殊さら氣を遣つて意地になつてやつてゐるのは、根據を提示する事。あにめの感想なんかは何うでも良いが、録畫データが變だとかそんな事で怒つて書く時にも、一々理由や説明を附ける。案外誰も氣附いてゐないけれども、結論のインパクトなんてものは、はつきり言つて讀み手にとつて何うでも良い事で、だから落ちなんて下らないものを意識してつける必要は無いのだけれども、ただ、その結論の支へとなる根據を如何に説明するかが文章の肝だつたりする。闇黒日記に限らず俺の文章は大半が根據の提示と説明で占められてをり、結論なんてものはほんのちよつとしか出て來ない。俺の言つてゐる事がそれなりに受けてゐるとすれば、結論が面白いからでなく、兔に角矢鱈と説明してゐるところが面白いのだらう。まあ、氣狂ひが言つてゐる事を面白がつて聞く人は、結論そのものをそれ自體として面白がつてはゐないものだ。
平成十八年十月六日
「ブログ」とかのネタが全然見附からないと言ふ人はよつぽど忙しい人なのだと思ふ。例へば驛の階段を登る時とか、おといれでがんばつてゐる時とか、そんな時も頭の中が仕事の事でいつぱい。闇黒日記の一行ネタなんかは、そんな「空白の時間」に考へておくもの。
平成十八年十月六日
東京古書會館の古書展。岸田國士『言葉言葉言葉』初版が函入り美本であつたので購入。それだけ。古い本や雜誌が多かつたけれども俺と相性の良ささうな本を見附けられなかつた。
平成十八年十月六日
MacのExcelでぶち切れ。と言ふかMacのキーボードにぷち切れ。
平成十八年十月六日
古川 享 ブログ: 大浦博久氏のマイクロソフト退社と昨今のマイクロソフト事情
平成十八年十月六日
Japan.internet.com コラム/アクセス解析で学ぶデータ分析マーケティング
平成十八年十月六日
簡單な事を案外誰も言はないのだけれども、閲覽者が求める情報と、サイト制作者が提供する情報とが、たまたま合致したから、閲覽者はサイトに「來る」、と云ふ事はもつと強調されるべきでないか。。
平成十八年十月六日
Japan.internet.com コラム/売り上げを創るBtoBのデータベースマーケティング
アクセス數が「ある」からと言つて下手に儲けようとすると致命的な事になりかねないと、そんな話。
個人サイトの中の人は「御小遣ひ稼ぎ」の積りで安易にアフェリエイトなんかに手を出すけれども、よした方が良いと思ふ。一錢にもならん事を一生懸命やつてゐるから人が面白がつて見に來るものだと云ふ事を、個人サイトの制作者は肝に銘じておく必要がある。
平成十八年十月六日
CNET Japan Blog - 渡辺隆広のサーチエンジン情報館:「PageRank購入」の標的となったW3Cとその結末

平成十八年十月五日
ちょこシスはエロ囘。
平成十八年十月五日
マージナルプリンス @ 東京MX。豫想外に笑へる。今期の伏兵あにめ。
平成十八年十月五日
蒼天の拳 @ テレ朝。思つてゐたよりもまとも。割と觀られる。
平成十八年十月五日
今期の水曜深夜は豐作だな。
平成十八年十月五日
GV-M2TV/USB2がいかれた。録畫すると時々帶状のノイズが乘る。今まで何も異常が無かつたのに、何うして突然こんな事になるのだらう。機械は同じやうに操作すれば同じやうに動くから價値があるのであつて、昔のイタ車のやうに急に壞れるやうなのは本質的に機械として無價値である。昔の車なら、壞れても自分で直しながら乘れるから増しだが、今のキャプチャユニットなんかは自分で直せないのだから、壞れてはならないものだ。何うして今のPC方面の技術者なんかは、部品を適當に安く作つて毀れ易くしておいても全然氣にしないのだらう。
東芝のRDシリーズも、レコーダの機能は最強だが、DVDドライヴが糞で何うしやうもないと云ふ時期があつた。ただ、さすがに「これは良くない」と東芝の人は解つたやうで、ユーザが自分でドライヴを交換しても大丈夫なやうに、一部の機器向けながらファームウェアのアップデートでメーカ純正でないドライヴにも對應するやうに修正を行なつてゐる。との事だ。RDシリーズを持つてゐる人でDVDドライヴやHDDの調子が惡い人は、調べてみると、良い事があるかも知れない。ちなみに俺のうちのRDは、もとがそれなりに「よかつた」せゐか、何も交換出來ない模樣。
平成十八年十月五日
と言ふか、帶状ノイズ、出たり出なかつたりする。
平成十八年十月五日
この種のノイズがMPEG2の映像の場合、時として「出る」と云ふ事は既に判り切つた話で、ところが家電關係者も放送關係者も、絶對にその事を口にしない。
デジタル放送、電波状態が惡ければ非道い事になるのだが、それ許りでなく、映像の動きなり何なりが凄くてビットレートが不足すればそれだけで畫面はモザイク状のノイズだらけになる。判り切つた話だ。ところが、何を考へてゐるのか、關係者はわざと「ゴーストが出ない」とか言つたメリット許りを強調し、「デジタル放送はノイズが無い」と云ふイメージを作らうとしてゐる。
しかも、デジタル放送の癖にコピーを妨害して、「コピーしても劣化しない」と云ふデジタルの最大のメリットを殺してしまつてゐる。實際、良く解つてゐる人はデジタル放送にメリットがそれほど無い事を強調するやうになつた。今や、デジタル放送の唱道者逹は、殆ど虚僞で以て欺いて、大衆に無理やり不便なものを押附けようとしてゐる恰好になつてしまつてゐる。
平成十八年十月五日
夜明け前より瑠璃色な @ BS-i。いかにも「この手のげーむ原作のあにめ」らしいあにめ。なんかアレな感じがした。
..:: BS-i Online :: エンタテインメント ::..

平成十八年十月四日
ゴーストハント @ TX。思つた以上にアレな駄ニメ。來週も觀てみる。
平成十八年十月四日
BLACK LAGOON 2で言葉狩り。
平成十八年十月四日
今期火曜深夜の豫定が立てられない。
平成十八年十月四日
「リンク禁止」とか言つてゐるサイトがあるなら、本當にみんなで村八分にして誰もリンク張らないでやればいいんでないかと最近思ふやうになつた。
「ディープリンク禁止」の場合であつても「とっぷぺーじ」にすらリンクしない。とか。
平成十八年十月四日
畫像處理とか動畫とかの世界では屡々「サイズがでかければでかいほど高品質」と云ふ事になる。
平成十八年十月四日
Webデザインとグラフィックの総合情報サイト - MdN Interactive - web creators最新号 - 2006年11月号
CSSとXHTMLの特集。なんかXML宣言は書かなくて良いらしい?
次號で例によつて「アクセスアップ」の特集をやるとか云ふ話。なんで無差別に「全てのサイトの制作者は一人の例外ナシにアクセスアップに勤しまなければなりませんよ!」なんて言ふのだらう、と疑問に思つた。
「アクセスアップ」神話の害惡は今や何んなに強調してもし過ぎたと云ふ事はないだらうと思ふ。中身の無いすつからかんのサイトでも、「兔に角宣傳すれば人が寄つて來る」と勘違ひしてひたすら「アクセスアップ」に勤しむ制作者が續出したのは「アクセスアップ」神話の所爲。或は、個人サイトで下手にアクセス數を増やさうとして變な人を呼び寄せてしまつて却つてサイトの維持が出來なかつたり。波江なんかが宣傳をやつて喜んでゐるのも「アクセスアップ」を「良い事」と言つてまはつてゐる連中がゐる所爲。
昨今「やーるーきーぜーろー」の野嵜が「アクセスアップのまぼろし」みたいなコンテンツを作らうかと思つてゐたりするのだから、事態は深刻なのだ。まきもきむくむく。
平成十八年十月四日
初アニメ化のネギま!? 録畫で觀たが3Mbpsでビットレート足りてない。BS-Japanで録り直す。俺は割と面白いと思つたよ。

平成十八年十月三日
今期月曜夜は早く寢られさう。
平成十八年十月三日
ファンタジア大賞の準入選、花凰神也『死神とチョコレート・パフェ』を讀んだ。話は新人賞の應募作の中ではこれでも割と上手に書けてゐる方に入るけれども、設定はこの手の新人賞に應募する人の一割くらゐが使ふやうなもの。何うして天使の上司つて例外ナシに「人が惡い」んですかねえ。描寫の殆どない芹沢サラなるキャラクタが作中妙に存在感を持つてゐるのは面白い。

平成十八年十月二日
深夜あにめの録畫豫約の計畫を立ててゐるのだけれども既に飽和が確定つて何うよ。
諦めてCSの放送でフォロー出來るものは全部先送りにするかなー。
平成十八年十月二日
金色のコルダがいろいろな意味で微妙に面白いかも。
平成十八年十月二日
うたわれるもの最終囘 @ tvk。決して完璧な出來とは言へないけれども制作者が一生懸命作つてゐた事が觀てゐる側にも傳はつた良作。
平成十八年十月二日
「美しい国=美国=アメリカ」云々。
平成十八年十月二日
エプソン販売株式会社とエー・アイ・ソフト株式会社の合併に関するお知らせ
平成十八年十月二日
スーパーダッシュ小説新人賞の大賞の方、アサウラ『黄色い花の紅』をとても樂しく讀んだ。銃器關係の書込みが暴走してゐるがストーリーは割と普通。キャラクタの造型では黒田氏が良い。二作め以降は作風が丸くなりさう。
スーパーダッシュ文庫
平成十八年十月二日
ブログは匿名で書かれるべきである:メモランダム
雜感(日記と匿名性)へのご意見・ご感想
日本人は和を以て尊しと爲す國民で圖太い神経を持合せてゐないからウェブでは一般に匿名で書くものである。日本人は歐米の連中のやうな個人主義を學ぶべきだから實名で書くやうにすべきである。云々。
日本人が匿名で書くのは趨勢であり傾向である。日本人が匿名で書くと云ふのは、單に事實を叙述したに過ぎないものである。單なる傾向を「べき」論に置換へる事を俺は認めない。「日本人は現在、新字新かなで書いてゐる。だから日本人は新字新かなで書くべきである」――そんな論理があるか。
平成十八年十月二日
http://car.s35.xrea.com/diary/200610.php#D02-01
Operaが落ちまくって困っている人は一度メモリキャッシュの量を確認すると良い
うちはAutomaticですがそれが何か。
平成十八年十月二日
一往つつこんでおくよ。
http://ariel.s8.xrea.com/news/2006_08.htm#01
お前は何を言つてゐるんだ。
こんな可愛い子が女な訣云々。

平成十八年十月一日
アンジェリーク最終囘 @ tvk。全然最終囘に見えないけれども最終囘。
平成十八年十月一日
TOKYO MX *アニメ番組表
平成十八年十月一日

このまえ100円ショップのダイソーに行つたところ、大きなスコップが売つてゐた。

大きなスコップが何を賣つてゐたのでせうか。
平成十八年十月一日
toyota.jp > Toyota Browser
toyota.jp マークX:X-Browser/Lunascape、トヨタ「マークX」ユーザー向け専用ブラウザ「X-Browser」提供
中身はどつちもLunascape。と言ふか、Internet Explorerのレンダリングエンジンを使用してゐて、側だけ獨自に作つたブラウザ。
ところで、この手の「ウェブブラウザ」と、Operaみたいなウェブブラウザとを同列に論ずべき理由つてあるだらうか。

關聯リソース

前の記事
日記バックナンバー
2006年9月
「闇黒日記」の關聯サイト
Love Cream Puff
言葉 言葉 言葉
PC Tips
inserted by FC2 system