(略)惡意あつての事ではない。私怨も當然ながらない。揶つて樂しむと云ふやうなそんなさもしい精神も持ち合せてゐない。そんな暇もない。結婚して子供もゐるから、實生活で樂しむ事は幾らでもあるのである。
野嵜氏も最初は謙虚な人であつたと思ふが、あの樣な増上慢にした責任の一端は過大評價して必要以上に持上げ過ぎた私にもあるのではないかと思ふが、もしさうならば、これまた悔まれる事になるが、それは考へ過ぎであらうか。
さて、今囘、「論爭史」騷動の纏め頁を公開しようと思つて野嵜氏の日記での私の批判文や當ブログのコメントへの反論文を書かうと思つて讀み直してみたが、餘りにも酷過ぎる。
話が横に外れて仕舞ふから軌道修正。野嵜氏の發言が餘りにも酷いので當ブログでのコメントのみを纏め頁に掲載する事にする。
しかも品がない。等と拔かしてゐるが、中村、「俺は品が良いのだ!」と本氣で信じてゐるらしい。ねちねちと嫌みを言ひつゝ「品が良い惡い」言ふのは、アレクセイもさうだし、何處ぞの「資材係」もさうだつた。
何が、或意味樂しみだ。しかもくだらない何番煎じかも分らない樣な使ひ古された知的遊技。
「アンチ」を焚附けて煽つて騷動にして何が樂しいのかね。とか言つてあんたも煽つてゐませんかね。
「荒し」は「スルー」が原則で、それが掲示板の「空氣」である筈だがと書くのも馬鹿馬鹿しい限りである。とは、全くのところ、呆れて口が塞がらないとはこの事である、と言ひたい。スルーもしないで一々
纏め頁に掲載するのは誰ですか。要は、何んなに惡口を重ね、人を惡人のやうに言ひながら、中村は俺を「荒し」と認定する事が出來ないのだ。
それから、野嵜氏の最近の日記の私に關する記述に就いても書かうと思つたが、馬鹿正直に付合つてもどうせ自分本意で恣意的な事しか書かないだらうから止めて措く。
男系に依る皇統護持と拉致被害者の全員奪還を熱望するブログ。なんて「御立派」な事を書くのだからねえ。知つてゐる人間は平氣で裏切れる中村も、知らない人には同情出來るものらしい。隨分薄つぺらい同情だこと。政治主義者とはかう云ふ輩の事を言ふ。當人、勘違ひを勘違ひと氣附けないのだから、處置なし。
でもニューミュージックが左翼のもの自國に感心のない若者の者と云ふイメーヂが打破されるのは良い。
アンケエトとか
テエマとか
ウヰブ(ウヱブの誤?)とかつて音引きを使はないで書くのでせうねえ。
アンケエトは數日後に
アンケートになつてゐる。謎。
おやおや、本氣にしないでください。
西暦の表記において漢數字を徹底したり、「言論の自由」とかのテエマが凄いですね。まるで皇紀二千六百年、タイ歴二千五百四十九年みたいです。どうせなら右から左に書き記したはうが良かつたのではないでせうか。「軍海國帝本日大」みたいに。
右から左に書き記してゐると云ふのだらう。これは「後から前に書き記してゐる」と言ふ。
もしかして: Trainingなんて言はれる。ぐぐる先生を見直した。
優れたインターフェイスデザインによる直感的な操作性は云々とあるのは何うしたものか。
それと個々の読者以外に抽象的な「読者」というものがあって、多くの作家・批評家はこの来るべき「読者」に向って書く、という部分を持っているんじゃないかと思います。
芸術一般の快楽なるものを全く理解しない者なのですが、そもそも「芸術の快楽」とは何でせうか――否、「芸術」とは? 美と同一視されたのが近代以前における日本の藝術の不幸、政治と同一視されたのが近代における日本の藝術の不幸であつた訣ですが、では何事にも縛られない文學なるもの、それは一體全體何なのか。
Macつて、メニューをキーボードで操作する方法つて、あるのですか?については、
Ctrl+F2。ただしデフォルトでは無効。なのですと。今度ためしてみますね。
- 言葉 言葉 言葉
- 松原正信者、野嵜健秀氏ご自慢のHP。
記事カテゴリ、「ノンジャンル」と「松原信者」が設定されてゐるが、「ノンジャンル」なる「ジャンル」は「ない」から、事實上「松原信者」の「ウオッチ」が目的と見て良い。即ち、粘着行爲、ストーカー行爲である。何處ぞの青方の中村が「一無名人」等と名乘つてやつてゐるのと全く同じ「ブログ」の「立上げ方」である。
自分がよく出入りする2ちゃんねるの某スレッドにて、以下のような書き込みを行いました。
- 926 名前:吾輩は名無しである 投稿日:2006/10/24(火) 17:32
松原の「人間通になる読書術」にこういう記述がある。
が孔子は時に激しく怒つた男なのだ。「樂しんで以て憂を忘れ」るのみならず、時に「憤を發しては食を忘れ」た男たのだ。
論語の「発憤亡食」つうのは、松原が言うような「怒りのあまり食を忘れる」じゃなくて正しくは「(学問に)発憤して食を忘れ」というのが正しい解釈。
このことは呉智英が指摘しているし、岩波文庫から出てる「論語」にも普通に記載されている。
「一部分が駄目なら全体が駄目である」という松原の持論に照らし合わせれば、「人間通になる読書術」は駄本ということになる。
そして、この書き込みを前田嘉則さんのブログに紹介したところ案の定、野嵜健秀氏と木村貴氏の両大将から素敵な批判をいただきました。
予想通り、木村・野嵜の両御所からありがたい批判?を頂きました。、
そして、この書き込みを前田嘉則さんのブログに紹介したところ案の定、野嵜健秀氏と木村貴氏の両大将から素敵な批判をいただきました。、と書いてゐる。事實として、喜六郎は自分の「ブログ」に野嵜の反論を引用してゐない。野嵜が反論してゐないのだから引用のしやうがないし、ならば「野嵜の反論は存在しない」のは喜六郎自身、承知してゐるのだが、にもかかはらず、喜六郎は二囘も「野嵜から批判された」と言つてゐる。これは何なのだらう。要するに、喜六郎はデマを流して野嵜の評判を落さうと劃策してゐるのである。
謝れ!夏目漱石に(ry
「一部分が駄目なら全体が駄目である」という松原の持論に照らし合わせれば、と喜六郎は言つてゐるが、何うして「照し合せなければならない」のか、「照し合せて決定的に駄目出ししなければならない」のかを俺は全く納得してゐない。
三歳児、餓死についてびい氏が述べて曰――
人か?
子供がぐったりしている、として通報したとのこと。だが、ちょっと待ってほしい。食事を与えていなければぐったりするのも当然。
略。
このような脳神経系の未熟さと、出生後の急速な脳の発達ということや、それを阻害するもとが胎児期から出生後しばらくの間にあり、特に未熟児のような場合、この期間が要注意だということは、あまり知られていないようです。
それを証明するように「うちの子は一歳のときに脳性マヒにかかりまして……」とか、前にあげた例のように「もっと治療できないのですか」というような声ばかりが、社会には多いのです。そういう人々に、この基本を説明すると、百人が百人、そういう話ははじめて聞く、本当にそうなのかと、なかなか信用してもらえないほどなのです。
それは、健康という問題が、身体の健康な働きに基本があることに気づかず、病気を治すという面からだけ考えられているからではないかと思います。そして、病気の対症療法(発熱しているなら、熱をどうしたら下げられるか、ということ)という点だけが強調されすぎていることも原因になっているのでしょう。
權衡を保つということは、対症療法を一つ一つの病気にあてはめることで解決がつく問題ではありません。生命活動の大きな流れとしての健康の問題と、それに逆う一つの問題としての病気をとらえて行かない限り、真の健康を得ることはできないのです。
具体的な作品分析を伴ってなされている批判は「ある」との御話。
注意:当文庫中、一部PDF文書は「旧式明朝印刷体」「明治欽定かなづかい*1」である。
当文庫では「正字」「正かな」とは、けっしていわない*2。
また、TEXT文書はEUCである。これには書体・字形もへったくれもない。好みのFontをつかえ*3。
この点、誤解なきよう。
*1亀井孝氏による。
*2秘密結社『じめじめ団』では「正字」(ただしい字)とは楷書のみである。
*3JIS例示字形にしたがって明朝印刷体向きに符号化してあるので、使用Fontにあわせるのに必要な符号変換は各自されたし。
明治欽定かなづかいなんてものは存在しない。明治天皇が假名遣を發布したなんて事實は無い。龜井孝の言ひ方は事實に反する言ひ方で、こんな事を本氣で言つてゐたとしたら龜井の言語學者としての資質は問はれねばならないが、縱令揶揄だとしても揶揄する事自體がをかしいし、そんな揶揄を喜んで使ふ奴は「や」会長並の低能と言つて良い。
ユーザ参加型のウェブサイトがあったとしよう。聞こえてくるのは、いつも同じ1%のユーザの声であって、自分から声を発することのない90%のユーザの意見とは当然異なっている。これがトラブルの元となる。
むろんこれをたんに構成的破綻とよんでしまうならば、不毛な批評に終わるほかはないとしか批評出來ない。
漱石の作品なかんづく『こゝろ』を含めた中期の長編小説に「構成的破綻」があるという指摘は当時の文芸批評において常識的見解であったと考えられるが、にもかかはらず例へば『こゝろ』は依然「傑作」であると云ふ結論が一般に突崩される事が無かつた――「それが問題だ」と松原先生が先日の講演會で御話しされてゐたよと。
前田さんは雑音に惑わされることなく、どんどん自分の書きたいことを書いた方がいいと思いますよ。これならノートか日記帳に松原正論を書いていった方が、はるかに実りの多いものができるでしょう。衆人環視の中でいい作品が出来上がっていく訳がない。やっぱりブログやサイトは、手段としてあまり良くないのかもしれません。
「義」さんなんて言つてゐるのだから「義」に好感を抱く惡質な野嵜粘着である模樣。餘程俺の事が憎いらしく、俺の事を
雑音と極附けてゐる。
眼前を飛び交う蝿と言つた「喜六郎」なる輩と同一人物であるやうだ。しかし、そんな事を言へば、ますます前田さんが困る事になると氣附いてゐない邊、何うしやうもないとしか評しやうがない。俺の印象を惡く出來さへすれば良いと思つてゐるらしい「♪」だが、困つてしまつたのか前田さん、完全に沈默してしまつてゐる。
福田センセーの文章はショーとかエンターテインメントでしたか 投稿者: 福田恒存をやっつける会会長 投稿日:10月11日(水)09時35分28秒 KHP222000058190.ppp-bb.dion.ne.jp
もちろん、一種の見せ物である。といつて、ジェスチュアー紅白試合と異なり、素面、素籠手の眞劍勝負でもある。 投稿者: fankee_jr 投稿日:10月11日(水)19時05分57秒 60-62-214-135.rev.home.ne.jp
惜別 と書きたいところだが 投稿者: 福田恒存をやっつける会会長 投稿日:10月18日(水)12時38分52秒 KHP222000058190.ppp-bb.dion.ne.jp
そして、けっきょく説明されなければわからないなら、〈新字〉だって〈旧字〉だってそう大きな違いはない、多くの人が〈新字〉を使い慣れている現状があるなら、ことさら〈旧字〉を使用し普及させるような運動をする時間があったら、むしろ漢字に対する理解を深めたほうが有意義だという考えが出てくるのも自然だと思います。(ぼくはこの考えです)
しかし、ここで〈旧字〉の限界がきます。〈旧字〉では器をあらわす象形文字の「口」と、人間の口をあらわす「口」が同じ形になってしまっているため、〈旧字〉を見ても「人間の口が四つあるなかに犬」という、字面だけではなんだかわからないものになっています。とaruka氏は述べますが、しかし、では「新字」を見たら「解る」のかと言へば、ますます解らない。「新字」だけで説明が出來ないのなら、「旧字」で説明しなければならない。「旧字では不十分である」とaruka氏は述べるのだが、「新字ではもつと不十分である」。
漢字に対する理解を深めるのが
有意義ならば、そのきつかけとなる「旧字」を一般に用ゐる方が
有意義である。
つまり、漢字のなりたちや古代中国の文化や習俗に理解がなければ〈旧字〉を見たってそれが何を意味するかわからない一方、理解さえあれば〈新字〉を見たってそれが何を意味するか理解できる知識が身につくからです。
むしろ、白川静に代表されるようなきちんと漢字を研究してくれる学者がいなくなってしまうことのほうが、漢字文化にとって危機的な状況だとおもいます。上にあげたような「器」という字の意味なんて、一般的な現代人が字面をみただけではわかるはずなく、研究者が説明してくれて初めて理解できるものだとおもうからです。
説明を「してほしい」と思ふ人がゐなければ、學者のなり手がありません。
となると、文字の象形性にこだわるなら、器の「口」と人間の口の「口」は見分けがつくように字体を変えるべきではないかという意見が出てきそうです。
……。常用漢字の字形は犬を大(手足を広げて立つ人を正面から見た形)に変えているが、これでは器の字の意味を理解することができない。
このページを閲覧するにはJavaScriptがONにして下さい。と言はれた。
JavaScriptをONにしてご利用ください、構はず「探す」と
JavaScript対応ブラウザ、もしくはJavaScriptをONにしてご利用ください。と言はれた。
<a href="#idxaccesstarget" class="alt">番組メニューへジャンプ</a>
がbodyの直下にある。以前は当サイトは所謂無断リンクをお断りさせていただいておりましたが、リンクに関して検証した結果、現在は原則としてリンクを開放しております。但し全てのリンクに対して、受け入れを示すものではありません。相手方のリンク設定の拒否は出来ませんが、それを受け入れる必要はなく、何らかの手段を用いてこちらで拒否をすることは問題ないと考えています。リンク行為が表現の範囲内であるならば、リンク拒否もまた同様との考えです。よって、リンク元如何によって、リンク受け入れを制限したい場合には、技術的な手段を用いてリンクを拒否することをご承知おきください。この場合あくまでその経路からの入場を拒否しているに過ぎないので、別の経路または直接入場からであれば普通にサイト閲覧は可能です。
当サイトではアクセス解析を行っております。リンク元、ご利用のブラウザ、リモートホストなどの確認をしております。この情報は、当サイトの利用状況を把握するために用いております。なおこれらの情報は、非公開としておりますのでご了承ください。
今回、「理想」や「文章添削」をめぐる前田さんの主張に同意する部分が少なくなかったです。文章が論理的であることは大事ですが、事実に反することを書くのは、それ以前の問題ですね。他人の片言隻句をとらえて、ほとんどデマすれすれの、自分の都合のいい方向に議論を持っていく人間もいますしね。「政治と文学主義」の今後の展開に期待します。それと、信奉者の書き込みの一部は、「説得」というよりは「威嚇」や「折伏」みたいで、改めて霊異なものを感じてしまいました。
事実に反することを書いたつて?
他人の片言隻句をとらえて、ほとんどデマすれすれの、自分の都合のいい方向に議論を持っていく人間とは誰だ? 俺の事を言つてゐるらしいが、具體的に俺のどの發言がさうだと言ふんだ? 「匿名」氏は絶對に答へない。答へない事によつて「議論」に勝つ。何時ものやり方だ。この手のやり方で「勝つ」連中に松原先生が絶望して「空しい」と仰つてゐる――それが前田さんには解らない。
……そうなると、研究者が十人いれば十とおりの違った〈正字〉ができてしまってもおかしくないでしょう。
そうなると〈正字〉とはどれが〈正字〉と呼ぶにふさわしいか学者が研究し論議すべき対象であって、実用とはかけはなれた文字ということになりますが、それでいいんでしょうか。
時の権力者がこれが〈正字〉と定めたんだから〈正字〉だと言い切ってしまえるかというと、否定的にならざるをえません。と言つてゐるけれども、「当用漢字」の字體はそのやうにして「定められた」ものなので、それでうちは反對してゐる訣です。
時の権力者がこれが〈正字〉と定めたものである「当用漢字→常用漢字」に拘つてゐる人々つて、一體何なのでせうね。今の字體が權力者によつて「正しい」と定められて押附けられる直前、昭和二十年頃には、研究が進んで、漢字は學問的に隨分良いところまで整理が行はれてゐました。それを全部ぶち壞しにしたのが國字改革であり「当用漢字」。
態々來源を明示して讀者を宣言されるといふことは、私の感覺からすれば直截その相手に向つてはなしをすることをもとめられてゐるのに等しい。
その領域についての話題を提供しなければならないと、さう云ふ事だらうか。
私は要望を陳べてゐるだけです。もしも「ケチ」を付けてゐるやうに受取つてしまつてをられるならばそれは誤解です。
『この度のアンテナ登録に關しては「解除」を要望しますが、それが叶はなくとも今後はこの件には觸れません。更新については、再開の努力はしますがメンタルな影響から實現は稍々難しいかもしれません。今のところ閉鎖の預定はありません。』
野嵜さんによる罵倒のなかで觸れられてゐたやうに
てか、ちょっと前に放送してた、落語天女とか云々。
DVD シリーズ好評発売中!!らしいが……。
……松原先生はやはり知識人に語り、知識人に書くべきだらうとも思つた。さういふ媒體がない不幸をあらためて感じた。先生の言動には空しさが漂つてゐた。
……しかし、その空しさは、sc恆存の言つた「言論の空しさ」とは違ふ。松原先生は、知識人の批判しかしないが、sc恆存は知識人のみには語らない。『私の國語教室』のはじめに書かれてゐるやうに、誰に語つても通用するものを書いた。そして芝居を書いて庶民を相手にした。しかし、松原先生は、知識人しか相手にしない。
かうした感覺しかない以上、これら私が運營する複數の網誌を「ことば(※正字正かな)」に關する專門のアンテナで紹介され續けることは私には苦痛なのだ。――自分で自分を定義するのは愚かな事だ。誰が何う見ても正字正かなで書いてゐるのに。と言ふか、嫌がらせでも何でもない行爲を「私に苦痛を與へてゐる」なんて極附けて、恰も惡い行爲に見せかけようとするのは何うかしてゐる。
ひとりの運營する網誌をアンテナに入れ過ぎると、もつと他に讀まれるべき網誌が壓逼されてしまふ惧れがあるのではないかともおもふけれど、これは餘計なお世話か。――餘計な御世話だと思ふ。と言ふか、そんな「惧れ」なんてある訣がない。
- 「正かな」「正字正かな」と「括られる事」にアレルギー反應を起す人もゐるやうですが、別に「イデオロギーとして正字正かなの主張をしてゐる人・サイト」とか「言葉を專門にしてゐる人・サイト」とかの「括り」でリンクを張つてゐるのではなく、ただ單にそれぞれのサイト制作者の書き方が「正かな」「正字正かな」と一致する書き方をしてゐるのでリンクを張つてゐると云ふだけです。
- 「正かな」「正字正かな」以外の「括り」でなければリンクを張つてはならない、と云ふ誰もが納得せざるを得ない必然的で決定的な理由を提示された場合、此處からリンクを外しますので、嫌な方は御聯絡下さい。
- 基本的に制作者が正字正かなで書いてゐるやうに思はれるサイトにリンクを張つてゐますが、歴史的な經緯で(過去、正字正かなサイトが少かつた爲)取敢ず「正字正かなに好意的なサイト」にリンクを張つてそのまゝになつてゐる、と云ふ事があります。
Operaが落ちまくって困っている人は一度メモリキャッシュの量を確認すると良い
このまえ100円ショップのダイソーに行つたところ、大きなスコップが売つてゐた。