闇黒日記


平成十八年九月三十日
新作アニメ・特撮情報
平成十八年九月三十日
Bremen-net(AngelNet)被害者の会
スラッシュドット ジャパン | ISPが夜逃げ?

平成十八年九月二十九日
今更MO云々。
平成十八年九月二十九日
藍上陸『ブール・ノアゼット』(スーパーダッシュ文庫)讀了。スーパーダッシュ小説新人賞の佳作。大賞の本と一緒に書泉グランデで買つて來た。どちらかと言ふと(立讀みの結果)こちらの方が御目當て。俺が氣に入るやうなものだから世間的には相當に微妙であらうと思つてゐたがぐぐるとまいじゃーが採上げてゐて吹いた。さう云ふ小説。きちんと伏線を消化して話を疊んでゐる。日本的な「純文学」なんかよりもかう云ふ「ライトノヴェル」の方が世界的な意味でずつとまともに「文學してゐる」と思ふ。第二作以降作風變るだらうな。のあたんおすすめです。
ブール・ノアゼット―世界一孤独なボクとキミ | まいじゃー推進委員会!
スーパーダッシュ文庫
ウォーターバード::Reading LightNovels - Beurre・Noisette 世界一孤独なボクとキミ:藍上陸(世間的には非常に珍しいと思はれる否定的な見方を含まない感想だが俺も大體同じ感想なのでリンク)

平成十八年九月二十八日
テレビ東京でいぬかみっが最終囘なのにちょこシスをtvkと東京MXで梯子して觀てゐる俺。
平成十八年九月二十八日
今更PhotoCDの研究なんかしてゐる俺。
平成十八年九月二十八日
畫像の色の問題。いろいろ。
平成十八年九月二十八日
MacFace大活躍。ハルヒの表情を入れてゐるといろいろ言はれる。

平成十八年九月二十七日
福田恆存さんが「荒稼ぎ」をしたとか「や」の会長氏があちこちの掲示板で觸れ囘つてゐるけれども、實際に「稼ぐ」事を目的とした著作と認められるのはただ一作のみ。昭和二十八年三月から七月まで新大阪新聞、新潟日報、北國新聞に連載された新聞小説『謎の女』がそれ。「全集」第二卷「覺書」に、その年の九月にはロックフェラー財團の招きで一箇年の海外旅行に出るはずになつてゐたので、その間の家族の生活費の足しにしようと頑張つたのだ。とある。
雜誌「近代文學」昭和二十八年四月號に十返肇の「福田恆存論」が載つてゐて、そこで十返氏、福田氏や小林秀雄等評論家の小説を論じて曰、ところで知性的な「オフエリヤ異聞」や「ホレイシヨー日記」には私はいささかも感心できなかつた。やり方には感心したが、その結果はどうも頂けなかつた。云々と述べてゐる。登場人物の臺詞が登場人物の肉聲と化してをらず、依然、作者の生の聲に近い、と十返氏は指摘してゐる。續けて十返氏、昨日きくところによると福田恆存は近く新大阪新聞に連載小説を書くといふことだが、これは作者福田恆存にとつてよりも、それを掲載する新聞にとつて冒險英斷であらう。と書いてゐる。これが『謎の女』の事らしい。
『謎の女』は、新聞連載完結後、新潮社から單行本が出、のちに河出新書から再刊されてゐる。ともに新かな。早い時期に絶版となつて入手不可能になつた模樣。全集にも入つてゐない。福田さんの讀者の間でも決して評價は高くない。大して賣れなかつただらうと思はれる。とても「荒稼ぎ」が出來たとは思はれない。「家族の生活費の足し」になつたか何うかも不明。實際のところ、主人公のキャラクタは、福田氏の創作としては非常に珍しい事に「一般向け」に作られてゐて、それほど惡いものでもない。テーマ性・深みに缺け(てゐるやうに見えるし)、風俗面の描寫が古びてゐる現状、一般的な意味で小説として「讀む價値」は無い。福田氏のファンならば、極めて珍しい福田氏の小説(唯一の長篇小説)である訣だが、運命とか悲劇的と云ふ事とかに關するストーリーは福田氏の思想を反映してゐるもので、讀めばそれなりに興味深い筈。
平成十八年九月二十七日
『平和論にたいする疑問』(文藝春秋)あとがきより。出典は全集第三卷「覺書」。

この本の校正刷ができあがるころ、二十五歳の青年といふ未知のひとから、こんな手紙がきました。自分は戰爭中、軍閥政治にをどらされて、なにも勉強せずにすごした。ところで戰後はあなたのいふ似而非進歩主義者に脅されて、かれらのいふことを一から十まで服膺してきたが、それがみんな輕薄な虚僞とわかつた。そこにあなたの「平和論」攻撃が出たので、なにか救はれたやうな氣がした。ところで話は三轉四轉して、その青年のいふには、ごく最近「新潮」といふ雜誌を讀んでゐたら、福田の論文は人寄せの花火みたいなものだ、いい氣になつて反論を書けば、福田に利用されるだけだといふ匿名批評を讀み、自分はほとんど絶望の谷に突きおとされるやうな氣がしたといふのです。

そして、かれは私に問うてをります。あなたもやはり國民を置きざりに勝手な御託をならべ原稿料かせぎをする、「文化人」なのかと。私はばかばかしくなりました。かれは私から「さうぢやない、私はまじめだ」といふ返事をもらへば、それで安心するといふのでせうか。私の「文化人」批判は、さういふ知識階級のふがひなさへの非難にも通じてをります。

云々。
福田氏、全集第三卷「覺書」にこの文章を引用して、私は當時を思ひかへして「暗然」となる、今日の論壇も當時と少しも變つてゐはしない。と述べてゐる。「論壇」と言つてゐるが、今現在平成十八年九月二十七日ではインターネット/ウェブもまた最早「論壇」の一部となつてゐる。この「新しい論壇」だが――「當時の論壇」と何も變つてゐない。そんな氣がする。「や」とか前田氏邊とかの言つてゐる事を見て、俺はさう思つた。

平成十八年九月二十六日
ストパニ最終囘 @ tvk。終つたとしか言ひやうがない。ネタアニメとしては最高の終り方であるやうな氣がしないでもないが……。思ひ附きは脚本家だらう。きつと第二期やるだろなこれ。と言ふか、こんなにコメントし辛い最終囘も珍しい。

平成十八年九月二十五日
ARIA The NATURAL。いい最終囘だつた。
平成十八年九月二十五日
無線USBマウスならあるよ。今使つてゐるから判る。なんか物理的に繋がつてゐないと怖い。
平成十八年九月二十五日
岩波新書の桑原安治『白内障』を讀んだ。千九百七十五年の本なので手術などの説明は古びてゐる。けれども、別に昔も今も白内障に違ひはないので、その邊の事を承知で讀めばそれなりの知識を得る事が出來る。昔の白内障の手術は大變だつたんだねとか結構感慨深い感想も。大體本が出た頃の(俺は白内障ではないけれども)眼科の治療と云ふものを體驗してゐる俺としては、この頃の目の御話は興味深い。
古い本の知識だけでは不十分なので、ありがたい事にウェブに存在する白内障の記事をぐぐつて幾つか拜見。今では隨分手術が樂になつてゐるけれども、相變らず白内障の本質的な原因は解つてゐないのださうで、外科的な治療と言ふか手術しか「治す方法」はやつぱり「ない」のだと。手術の方法は洗練されたけれども、豫防とか薬物療法とかの面では殆ど進歩がない――さう云ふ訣で、相對的な話だけれども、古い結核の本よりも古い白内障の本の方が「現代的」である、と云ふ事になる。だから何だと言はれても困るが、本の價値が本の外部の世界の進歩によつて相對的に決つてしまふ、そんな本の價値とは一體何なのだらうか。普通の人は最うこんな古い本、絶對に讀まない訣で、さう云ふ意味では最早「價値がない」事になる。けれども、文章は良いものだから、さう云ふ意味では依然として「價値がある」と言へる。
T.S.エリオットが散文と詩の違ひについて論じて、普通の文藝書でなくても、文章の良いものを幾つか採上げて褒めてゐたのだけれども、さすがに實用書までは採上げてゐなかつた。
では、實用書の價値は、「現代的」である事だけ、と言つて良いのだらうか。さうなると、過去に出版され、現在も出版されつゝある膨大な量の實用書は、ほぼ全てが一定の時期を經ると價値を失ふ、と、さう言つて良いだらうか。では、俺が今、白内障の古い本を讀んで十分暇を潰せた事は、一體何だつたのだらうか。
平成十八年九月二十五日
なんかぐぐつたら古本屋で今でも三百圓とかの値段が附いてゐる模樣。俺の手持ちのは田村書店の無料箱で拾つたもの。
平成十八年九月二十五日
なんか調べてみたら桑原先生、偉い先生みたい。さう云ふ先生の本だから今でもそれなりに「價値がある」のだらうなー。
医学書院/週刊医学界新聞

平成十八年九月二十四日
しかし、國に敬意を表すのと、國旗國歌に敬意を表すのとは、全く同じ事なのだが、全然別ものだと信じて疑はない人は少からず居るよね。
――と言ひたいのだが、理念で成立した國とその理念を象徴した國旗・國歌を持つアメリカではさうであるけれども、ただ何となく存在するに過ぎない・ただ地理的に存在するに過ぎない日本ではそんな事は言へない。
が、ならば問ふ、なんで日本は一つの國でなければならないのか。君が代・日の丸を拒絶する一方で日本は一つの國であると信じて疑はない人に、納得のいく説明をして貰ひたい。
「歴史的」と云ふ根據は全く存在しない。「現代の日本」は、過去の日本の歴史とは完全に斷絶してゐる筈だ――だからこそ我々現代の日本人は君が代・日の丸を拒絶「しなければならない」のだし、歴史的假名遣を憎惡しなければならない訣だらう。少くとも、日の丸・君が代を嫌ひ、歴史的假名遣を嫌つてゐる人々は、日本が一つの國として存立する根據を、歴史以外に持つてゐる筈である。ならば説明して貰ひたい。なあ、なんで日本國は「ある」んだ? 別に日の丸・君が代を尊重しなくても良いから、ただ、あなたの支持する「日本國」は「なぜ存在する」のか、教へてほしい。
【『国旗掲揚国歌斉唱を守らない奴は非国民だから日本国憲法が保証した労働の権利は適用されないゆえ剥奪』却下:2006/9/22】鷹澤遊戯場 過去日記
別に責めてなどゐない。ただ、俺は本氣で今の日本國が存在する理由を知りたいだけだ。日本の歴史的な一貫性を完全に否定してゐる現代の日本人が、どうして日本人として一つに纏まつてやつて行けるのか――俺は馬鹿だから、理解出來ないでゐる。歴史的な存在を否定してゐる御利巧な方々は、眞理を知つてゐる筈である。ならば、けちけちしないで教へて呉れ。俺は納得したいのだ。
平成十八年九月二十四日
俺の疑問はガキつぽいものに過ぎないだらうか。
だが、もしさうなら、日の丸・君が代の「押附け」に反抗するのもまたさうなのではないか。
平成十八年九月二十四日
コヨーテラグタイムショーはこんな話が一話完結で全十二話だつたら傑作だつた。一クールも引伸ばすなよ。なんか社長が脚本で誰も文句言へなかつたらしい。コンテンツビジネスでは社長が介入すると大概巧く事が運ばない。
平成十八年九月二十四日
人が風邪を引くほどの寒さの中で月下美人が咲いてゐる。
20060924Gekka01.jpg
20060924Gekka02.jpg
映りが非常に惡いけれども、これはカメラが惡いのであつて、撮つた人間の腕の所爲ではない。PowerShot A40が大分前から變で、露出オーヴァ氣味と言ふか白飛び氣味にしか撮れなくなつてゐるが、その所爲。
そもそもこいつは基本設計がなつてゐなくて、液晶畫面を見て露出なんかを調整しても全然違ふ風にしか撮れないから、いつも殆ど勘で適當に合せて撮るのだけれども、今は最ういろいろをかしくなつてゐる状態でもあり、二十枚撮つてもまともに映つたものが殆ど無い。上の二枚は、これでもまともに撮れた方で、それをPhotoshopElementsで弄つて、それでこの程度。
と言ふか、二度とキヤノンのデジカメは買はない。

平成十八年九月二十三日
のあ
「萌える闇黒日記」つて何うかな?
平成十八年九月二十三日
風邪ひいて咳が止まらないよ。呼吸するだけでむせるよ。呼吸を止めて一秒。
平成十八年九月二十三日
ウィッチブレイド最終囘 @ tbs。終つた事は確か。ちよつとおせんちな終り方だつた。
平成十八年九月二十三日
BLOOD+最終囘 @ tbs。こちらの方がちやんと最終囘らしい最終囘になつてゐた。やうな氣がする。一往一年間觀續けてきて俺良く頑張つた。
平成十八年九月二十三日
Wikipedia:井戸端/旧字旧仮名の使用について - Wikipedia
俺、これだからWikipedia嫌ひで、書くの、やめたんだよな。Tropicalia氏も、そんなところに固執する必要ないよ。
と言ふか、本文だけがWikipediaで、井戸端だの何だのはただの掲示板なのだと思つてゐたけれども、違ふのか。Wikipedia原理主義者に據れば兔に角Wikipedia關係の全ての場所で正字正かなは排斥されなければならないらしい。非道いね。
Wikipediaは「アンチ正字正かな派」の牙城と云ふ事で決定。

平成十八年九月二十二日
最近うちのPCが矢鱈不安定なのだけれども何なのだらう。最近半月の間に二囘もハングしたんだ。OSはWindowsXP。
平成十八年九月二十二日
「受け手側では何もしないやうにしつゝネットワーク越しにGB單位のデータの受渡しをする」と云ふのよりも、「受け手側でもGB單位のデータをHDD間でコピーしつゝネットワーク越しにGB單位のデータの受渡しをする」と云ふ方が、なぜかかかる時間が短い。うちだけ? OSはWindowsXP。
平成十八年九月二十二日
生徒が學校の式典に出席しない自由だか權利だかは無いのだらうか。校長先生の訓辭中に寢る權利とか。
例へば、生徒が、教師の權威なんてものは認めない、教師による權威の押附けは斷然拒否する、とか主張したら何うだらう。外部の權威を認める先生ならば、さう云ふ生徒にであつても平然と權威の押附けをするだらうし、それで十分、生徒も納得するだらう。けれども、外部の權威を認めない先生に、さう云ふ生徒を納得させる事は出來ない。
平成十八年九月二十二日
例へば、だ、我々は何うして裁判官の權威なんてものを認められるのだらうか。「認めなければ社會が崩潰してしまふぢやないか、阿呆か野嵜は」とか嘲笑が返つて來さうだが、では、「社會が崩潰しないやうにする爲」と云つた「效能主義」(?)が「認められる」のならば、「社會・國家を維持する爲」と云ふ名目で行はれる事は全て「認められる」のか。日本の國家が「日の丸・君が代」を「國家を維持する爲」と云ふ名目で「押附け」る場合、それは「認められる」のか。
あり得べき反論として「日の丸・君が代である必然性はない」。ところで、この反論をしてゐる人々に御尋ねしたいのだが、では、日本國が日本國でなければならない必然的な理由つて何ですか。
何度でも言ふが、我々日本人が集まつて日本國を作つてゐる必然的な理由はない。歴史的に「さうなつてゐる」と云ふ説明も、既に「日の丸・君が代」なる歴史的な存在を否定する人々が日本人の中にゐる以上、妥當な説明ではあり得なくなつてゐる。となると、我々はどうして一緒になつてやつて行かなければならないのか、そもそも我々は日本と云ふ獨立國をやつて行かなければならないのか、と、さう云ふ疑問が必然的に生じて來る。
否、「日の丸・君が代」を否定する人々は、案外さう云ふ事を疑問に思はない。「いろいろな考へ方がある」――それが「分離主義」に「ならない」のは日本國の異常な處である筈だが、「別の考へ」を徹底的に排除する人々ですら「自分は日本人である」と考へ、「日本國は存在するし、自分は日本國民である」と信じ切つてゐる。
否、「私はコスモポリタンである」と信ずる人もゐる(らしい)。けれども、さう云ふ人であつても「現實に日本國は存在するし、國と云ふ括りの中でしか私は動けない」と、事實を認識してゐるし、受容れてゐる。
何うだらう。斯う考へて來ると、日本人は本當に觀念とか理想とかを信じてはゐない、と云ふ事が言へるではないか。「日の丸・君が代の押附けに反對」の人でも、反對して、それが通つてしまへば大滿足。「で、「日の丸・君が代を支持する人と支持しない人、その兩者が同じ日本人つてどう云ふ事?」――そんな質問をぶつけられても、彼等は何とも思はない。と言ふより、目の前で行はれる「押附け」に抵抗してみるし、「思想の自由」を支持して見せる、其處に何の疑問も彼等は感じない。
「いろいろな思想があるものなのだ」と寛容な事を言ひながら、「あいつ(等)の思想は氣に食はない」と憎惡を剥き出しにして「敵」を罵る。「思想の自由」を言ふ人が他人の思想を侮蔑する、それはをかしな話である筈だが、なぜか「をかしい」と自覺する人が少い。
「天皇制に反對」の人が、「天皇を支持したい奴らは自分逹のサークルの中で勝手にやつてろ」式の事を言ふ――「あなたは天皇を尊敬しないのか?」と問はれると、最う徹底的に侮辱的な事を言ふ。「思想の自由」を認めるならば、「自分と違ふ思想を持つ人」の思想も尊重する必要がある。けれども、政治的な思想は相對的でどれが絶對の正解と云ふものでもないのに、それだけに一方は他方を驚くほど過激に罵る。或は、驚くほど侮辱的に嘲笑する。
ところで、我々右傾化する現代の日本人は、左翼の連中の抱へる内部矛盾を良く知つてゐるが、一方、既に右翼が喜劇化してゐる事をどれだけ自覺してゐるだらうか。
「日の丸・君が代の押附けに反對」と言はれてかーっと來る「右翼」の人でも、本當に日の丸や君が代を愛してゐると云ふ訣ではない人は結構ゐるのではないか。活動家の人々の恰好や言動は、既に一般の國民から乖離し、變つたもの好きの多くのアレな人々から「愛される」やうになつてしまつてゐる。が、彼等のやうな恰好をしてゐない市井の右寄りの人が、彼等ほどに日の丸や君が代を愛してゐると言へるだらうか。もちろん、日の丸を見、君が代を聞くと、涙を流してしまふやうな人も、少數はゐるだらう。けれども、例へば旗日に日の丸を上げる御家庭がどれだけあるかを考へれば、日本人の可成多くの人は最早日の丸に愛着を持つてゐない、と斷定的に言ふ事が出來るだらう。この時、少數の人々の反論は無意味である。國民の全てと言つて良いくらゐの人々が愛してゐるからこそ國旗であり國歌である意味がある。
アメリカ人が星條旗を愛してゐるやうに日本人は日の丸を愛してゐるだらうか。アメリカは歴史を持たない國だけれども理念を持つ國である。では日本國は? 今の日本國は歴史を持たない國である(若し歴史を持つてゐるのなら、我々は歴史的假名遣を用ゐ、天皇を君主として戴いてゐる筈である)。理念もまた。ならば何でまた日本國なんて「ある」のだらう。「此れほどの根なし草國家も世界にまたとない」と言つたら嘘になるが、普通その手の國と言へば、宗主國の所爲で出來てしまつた舊植民地のアフリカや南米の邊の國である。
平成十八年九月二十二日
http://diary.imou.to/~AoiMoe/2006.09/late.html#2006.09.22_s01
珍しくこのお兄ちゃんの言つてゐる事に納得出來たのでリンクを張つておく。
平成十八年九月二十二日
趣味展 @ 東京古書会館。古めの本・古めの雜誌が多かつた。古めと言ふか、戰中と戰後直後邊の雜誌が山のやうに。以下、買つたもの。雜誌「諷刺文學」昭和二十二年十一月號(坂口安吾「新カナヅカヒの問題」等を掲載)。雜誌「個性」昭和二十四年四月號伊藤整・福田恆存・神西清・方山修三・花田清輝「座談會 小説について」掲載)。雜誌「近代文學」昭和二十八年四月號(十返肇の福田恆存論を掲載)。雜誌「文藝」昭和二十一年一・二月合併號(唐木順三「言葉の回復」掲載)。河合榮治郎編『學生と先哲』。

平成十八年九月二十一日
テレビ朝日|内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎
今期はいろいろアレな最終囘が多かつたけれども財前思つたより良かつたんでないか。この演出のまゝ映畫化されたら是非觀に行きたい。
生放送ねとらじカオス過ぎる。
平成十八年九月二十一日
吉宗最後の最後になつてぐだぐだになつた。
平成十八年九月二十一日
アメリカは或理念の下に人が集まつて國を作つてゐるのだけれども、日本はたまたま近い場所に住んでゐる人が集まつて國を作つてゐる。だからアメリカは、自由があるし認められてゐるけれどもその範圍は自づから制約されるから案外思想的な混亂はない。日本はただの「烏合の衆」の國だから思想は混亂するのが常態となつてゐるし、それを「自由主義」の名の下に認めてしまつたからこれから事態は惡くなる一方だらう。どうして我が日本國は日本國として「あらねばならない」のか、日本人は考へると良いと思ふ。容易に答の出ない疑問には考へる價値のあるものが結構ある。
平成十八年九月二十一日
氣狂ひが「法律の專門家」になれる國なんだぜ日本は。自己申告だから本當か嘘かは知らんが。

平成十八年九月二十日
めも。
ブラウザの墓場たち | F+R (FplusR)
平成十八年九月二十日
苛めないものだからうちの庭がとかげの樂天地になつてゐて、朝なんかに玄關先でひなたぼつこしてゐる奴を見かけてこちらがびつくりしたりする。
平成十八年九月二十日
このページの表示が認められていません: IE設定の個人的な覚え書き
平成十八年九月二十日
IEの「インターネットオプション」-「詳細設定」で、「SSL 2.0 を使用する」にチェックを入れない事。デフォルトでオフになつてゐるがそのまゝにしておく事。
平成十八年九月二十日
IE7 RC1、なんでいまだに「ページの切り替えを行う」なる記述が直つてゐないんだらう。これ「トランジション效果を使用する」の誤譯なんだけれども。
Internet Explorer 6 ステップ バイ ステップ ガイド : ページの切り替えを行う
なんかマイクロソフト、誤譯だと氣附いてゐないつぽい。と言ふか、せめて「ページの切り替え効果を使う」くらゐには直して貰ひたいもの。IE4だと「正しい譯」だつたのに云々。
InternetExplorer5の便利な使用法

平成十八年九月十九日
tvk月曜深夜は云々。N・H・K、地味に面白くなつて來てゐる氣がする。つよきす、俺はこれでも「あり」だと思つた。ストパニ、ネタ滿載なのは相變らず、豫想通りの展開になりさう。
平成十八年九月十九日
妄言師@無銘の銘柄 - 妄言師公認ファンサイト第1号の野嵜さまへ

挑発なんでせうけど、妄言師には駄々ッ子に見えて仕方がない。

例によつて「アンチ」特有の攻撃パターン――人格攻撃と云ふ奴だ。しかし、本の感想にかこつけて當てこすりを言ひ、他人を挑發するやうな輩に、俺を駄々ッ子と罵る資格があるだらうか。それに、駄々つ子である事は惡くない筈ではないか? もし惡いのなら、妄言氏自身が惡い事になつてしまふ。或は、「人は屡々自らを否定すべきで文句で以て他人を罵る」つて奴ですか。さもありなん。
トラックバックについての釋明は何もナシ。豫言が當つたね。何うでも良いところに勇んで突込みを入れるが、議論の核心には決して觸れない――と言ふか、反論出來ないからしなかつたのだらう。別にトラックバックを送らなければならない必然的な理由なんて何もなかつた。だから妄言氏の言つた事は間違ひだつた訣だが、さう云ふ自分の誤については觸れないのがこの手の「アンチ」の人の御決りの戰術。

他のサイトを巻き込むやうなマネをしたくなかつただけだ。

「あゝ言へばかう言ふ」。かう云ふ言ひ訣の仕方をした時點で、論理的な一貫性を抛棄した事を自分で證明してゐるんだよ。
と言ふか、上の引用文の直前には「妄言氏は狡いんだよ」と書いてあつた・・・・・・今ごろ気づいたの?つて何? 自分が狡い事を誇らしげに言ふのつて何うかしてゐるんでないの? 大概、かう云ふ自分の事は棚に上げる人間に限つて、他人の人格を一々貶めては喜ぶんだけれども、何なのだらう。意地の惡い話だ。結論、妄言氏は、卑怯な人間だから、トラックバックだの何だのと難癖をつけて、うちに嫌がらせをしました、と。詰らん。
名前がどうたらかうたらはただのネタだらうから無視。
平成十八年九月十九日
と言ふか、妄言氏よ、俺が何か惡い事を言つたか?
そもそも、制作サイドの思惑に乗せられるのがバカらしいので、云々と妄言氏は言つたではないか。これは、「制作サイド」を馬鹿にした言ひ方ではないか。俺がしたのは「制作サイド」の辯護に過ぎない。さう云ふ辯護を「してはならない」と言ひたいのなら、勿論さう云ふ立場はあつても構はない、しかし、それならそれなりの理由を提示すべきだらう。頭から「惡」と極附ける傾向が妄言氏にはある。
俺は「快感を味はふ事だけを目的に他人を惡と極附けて罵る」人種を嫌ふ。だから、「惡」と極附けられ、誹謗されてゐるものを辯護する。例へば、Yahoo!掲示板では、「南京大虐殺」は「あつた」と極附けてゐる連中がゐて、それで「惡」と極附けられた人を俺は辯護した。最近では、例の福田恆存をやっつける会会長なんて人間が福田氏を誹謗してゐるから、俺は福田氏を辯護してゐる。今、妄言氏は俺を惡と極附けて侮辱してゐる、だから、今は自分で自分を辯護してゐる。それだけの事に過ぎない。
否、他人を「惡」と極附ける輩に、俺は常に要求したいのだ、「なぜ惡と言へるのか、決定的な根據を示せ」と。決定的な證據があれば、俺は從ふ、從はざるを得ない。しかし、證據もないのに「俺が『惡』と決めるから、お前は俺に從へ」等と高壓的に言はれたら、俺は絶對に從はない。「南京大虐殺」なんかでも、「あつた派」に俺は決定的な證據を要求した。ところが、「惡」を決定する權利が自分には「ある」と思つてゐる連中は、さう云ふ要求を絶對に受容れない。「惡」を辯護する人間は「即ち惡人である」、彼等はさう考へる。實は「惡」か何うか判らないではないか、と指摘されても、彼等は「惡だと決つてゐる」と頑に答へる。しかし、「南京大虐殺」論爭で、「あつた派」は決定的な證據を何一つ提示しなかつた。「なかつた派」の突込みに耐へた證據は一つもない。ならば「南京大虐殺」で「惡」と極附けられた人間は無罪である。福田中略会長は、福田恆存が徴兵逃れをしたと斷定的に言つて宣傳してゐる。俺は「決定的な證據を出せ」と要求した。会長はそんな俺を嘲笑つた。
今、妄言氏も、俺を駄々ッ子と侮辱して喜んでゐる。何なのだらう。
「惡」と極附ける人々よ、諸君はなぜそんな事を言へるのか。何んな容疑者も、辯護士が附いて辯護をする。それを突破しなければ檢察は容疑者を犯罪者には出來ない。俺はその辯護士の譯を買つて出てゐるだけだ。なあ、辯護と云ふものは、しては行けない事なのか? 嘗てYahoo!掲示板で俺を嘲笑した「南京大虐殺あつた派」の人々よ、辯護人の指摘を無視し、彼を嘲笑しなければ、「南京大虐殺」を「あつた」事には出來ないのか。
俺は誰かを「惡」と極附けるやうな事はしてゐない。勿論、生きてゐれば氣に入らない事はあるし、それを書く事もあるけれども、その時には常に根據を提示してゐる。何うして極附けを行ふ人々は、根據のない極附けをして、誰かを罪に陷れようとするのか。さう云ふ極附けをされた人間を、俺は擁護してはならないのか。俺は、他人を侮辱する目的の發言等してゐない、多くの場合、侮辱・中傷された人間を擁護し、攻撃者に抗議してゐる。その抗議を採上げて、先に攻撃があつた事實を匿して、野嵜が一方的に何かしてゐるかのやうに極附ける人がゐるけれども――どうも斯う考へて來ると、極附けと云ふものが何うしやうもない厄介な代物である事が判る。兔に角極附けをする人には話が通じないと云ふ事だが――それで話を濟ませてゐては、この世は良くならないと俺は信じてゐる。俺は漱石の『坊つちやん』を愛する者である。
平成十八年九月十九日
妄言師@無銘の銘柄 - 妄言師公認ファンサイト第1号の野嵜さまへの追伸
「私信」と稱してゐるが、インターネットと云ふ公開の場で公開する文書が私信である訣があるだらうか。否、ない。

妄言師はこれを読んで、いたく反省したのである。ブログに書いたのは自戒だ。

實に殊勝な事を言つてゐるが、これも「パターン」である。大體「反省」なんて口にする人間は信用ならない。これは俺の經驗から言へる事だ。そして、かう云ふ「道徳的」な説教を言ふ人間が決つて言出すのが「被害妄想」。

野嵜さんには相当数の敵がゐるらしい。さういふ状態では、たとへ善意でも悪いやうに受け取つてしまふのだらう。被害妄想が実社会で爆発しないことを祈る。

「俺は反省をした、だから最う俺は聖人君子であり、俺はお前より偉いのだ、この偉大なる俺樣がお前に宣告を下してやらう、お前は被害妄想に陷つてゐるのだ」――このパターンである。何樣の積りだらう。俺が「被害妄想」なら、妄想氏は誇大妄想狂である。

ちなみに妄言師にとつて野嵜さんは敵(アンチ)でも味方(マンセー)でもない。そもそも野嵜さんとの関係は、@野嵜さんが妄言師のブログを引用・言及する → A野嵜さんのサイトから大量のアクセスがあり、妄言師が驚く → B妄言師が野嵜さんのサイトをみる、といふ関係に過ぎない。ただ1年以上前から、野嵜さんが時々このブログを引用して難癖を付けるので、“たまには褒めてね(はぁと)” といふ願ひを込めて “公認ファイサイト第1号” に認定しただけである。

敵か身方かは本質的に何うでも良い事だ。實際、それを解つてゐるから、妄想氏は「敵でも身方でもない」と言つて見せる。問題は、妄想氏が俺を惡者だと極附けてゐる事だ。妄想氏は、「野嵜は難癖を附けてゐる」と言つてゐる。何度でも訊くが、俺が何んな惡い事をしたかね。批判した、だが、批判は惡い事なのか。と言ふか、人を惡人と極附けておいて、何が「寛容」だ。とぼけるのも好い加減にして貰ひたい。

反論に窮した先方は、人格攻撃を仕掛ける・・・おそらく野嵜さんの常套句なのだらう。

常套句ではない。「アンチ」のパターンだ。

“最低な野郎” いふのは人格攻撃に当たらないのかね(w

當る訣がない。なぜなら、妄想氏が引用してゐる通り、俺は、さうだとしたらと言つてゐる。ちやんと理由を擧げて説明してゐる。理由を擧げてゐるのならば根據のない人格攻撃には當らない。妄想氏は、根據なく、俺の言つてゐる事を「難癖」と極附けてゐるし、俺を「被害妄想」と極附けてゐる。さう云ふ極附けを人格攻撃と言ふ。妄想氏は何も解つてゐない。ただ、言葉尻だけを捉へては「御互ひ樣だらう」と言つてにやにやする。「アンチ」のパターンである。
なあ、御立派な妄想氏よ、あなたは「反省」出來るさうではないか。だが、あなたは野嵜を惡人扱ひしてゐる事を反省出來ないのか? もしあなたが本當に寛容な人間で、自分の言つてゐる事を反省出來る人間ならば、野嵜の批判を根據ナシに「難癖」と言ひ、野嵜を「被害妄想」と極附けたのを反省して、謝罪する事が出來るのではないか。もしそれが出來ないのならば、あなたは聖人君子のやうな顔をして説教するのは、やめた方がよろしい。
平成十八年九月十九日
大體、「反省」だの何だのの、自己申告は當てにならない。オウムの麻原が「私は潔白だ」と言つたら、即座に無罪放免かね。他人に濡れ衣を着せる妄想氏のやうな人種は、何故か自分に限つては「自己申告が決定的な無實の證據になる」と信じてゐる。
平成十八年九月十九日
何度でも言ふ、今囘の言爭ひの發端、それは斯うだ――妄想氏が涼宮ハルヒの「制作サイド」に難癖をつけた。
妄想氏が難癖を附けたのである。その難癖の附け方が嫌らしいものだつたから、俺は「制作サイド」を辯護した。それだけの話だ。ところが、偉大なる妄想氏さまに楯突く行爲が御氣に召さなかつたらしい、妄想氏は野嵜の辯護を「難癖」と極附け、野嵜を侮辱し始めた。
北朝鮮の連中と一緒で、妄想氏は自分がこの世で一番偉いと思つてゐるから、自分のやつてゐる行爲は恩惠だと野嵜に恩着せがましく言つてゐる。反省せざる事偉大なる首領さまの如し。
俺だつて別にこんな下らない言爭ひはしたくないよ。しかし、妄想氏が頻りに煽つて來るから仕方ない。妄想氏が野嵜の批判を「難癖」呼ばはりし續ける限り、俺は己の名譽を恢復する爲に反論し續ける。
平成十八年九月十九日
平野啓一郎ブログ - web2.0的世界において、「名誉」を守るということについて
日記: 2006.9.16
野嵜對妄言氏みたいな對立とか適當な要約。Wikipedia方面の人は讀んでいろいろ檢討する事。これらを讀んで公平な記事を書けるか何うかは不明。
平成十八年九月十九日
DeepParanoia-アニメ地方放映状況まとめサイト:2006年10月期
MOON PHASE - ANIME

平成十八年九月十八日
妄言師@無銘の銘柄 - 塩野七生『ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず』
なあ諸君、當てこすりを言ふ事が「寛容」であるとは、ローマ人もびつくりな「事實」ではないかね。
人の意見に寛容であるとは、人の意見を受容れる事だ。妄言氏、俺の言つてゐる事を何一つ受容れようとしてゐない。何處が寛容なのだらう。ただ「氣に入らない事を言つてゐても笑つて許してやるよ」と云ふ事を言ひたいのなら、それは寛容ではなく、人を小馬鹿にする事だ。何うも自分に都合良く話をねぢ曲げる人が日本人には多い。あー、妄言氏、ローマ人に學んでゐると言ひつゝ、結局のところ、日本人の領分を守つてゐるだけではないですか。
ところで我々はローマが滅んだ事實を知つてゐる。ついでに言ふと、ルネッサンスより後、イタリアが世界史の第一線に現れる事が無くなつた事實も知つてゐる。
あと言つておくけれども、妄言氏が煽つてゐるから俺は反應してゐるだけです。今後、「アンチ野嵜」の人が今囘の「事件」を引合ひに出して「野嵜が惡人である證據」みたいな事を言ひさうなので念の爲。なんか知らないけれども俺の豫言は當り過ぎるほど當るので、嫌な話云々。
平成十八年九月十八日
この宇宙と言ふものは開闢以來――今の科學に據れば開闢なんてものはなくて、時間の最初の邊はx軸y軸z軸と時間軸とが一緒くたであつたさうだが――膨張し續けてゐて――一説に據れば、ビッグバンの後、宇宙は膨張しようとしてし切れなくて潰れてそこでエネルギーを溜め込んで再びビッグバンを起して、と云ふのを三十何囘繰返して今囘やつと膨らみ續ける事が出來てゐるさうだが――兔に角膨らみに膨らんで永遠に大きくなり續けてゐるらしい。が、どんどん大きくなる一方だと、中にある物質は一定量であり、エントロピーは増大するだけだから、何時か中身は一樣になつて熱的死を迎へるのださうである。
さう云ふ事が物理學では豫言されてゐるのだが、さうすると我々人間が死んだ後、歴史に名が殘つても、それは何時か、必ず、消えてしまふ訣だ。個人のみならず文明も、人類も消えてしまふ。
で、宗教と云ふものがあつて、神がゐるのだとか、創造主が何うとか、死後の世界とか、色々説いてゐる。我々人間はさう云ふ教へを見て、信じたり信じなかつたりするのだが、現代に於ては信じない方が大勢力となりつゝある。俺もまた「信じない」の側にゐる訣だが、「信ずる」側の方が屡々幸福である事は論ずるまでもない事實だ。
その「幸福である」事が宗教の宗教たる所以だが、その宗教が我々を論理的に説得出來るかと言へば、それが出來ないから今の状況が生れてゐる。少くとも合理的に説得する事は出來ない。パスカルなんかが「賭け」の喩へで、信仰を持つのを奬めてゐるが、ではなぜキリスト教を擇んで他を擇ばないのかと問はれれば、パスカルは兔も角一般のクリスチャンは案外説明出來ないのでないか。いろいろ「こつちの水は甘いぞ」と勸誘するだらうけれども、それは「信じると云ふ賭けに勝つた」時の話であつて、その「賭け」が「正解」である理由ではない。合理的に「キリスト教の救濟こそ眞實である」と説明出來るクリスチャンはゐないだらう。勿論、他の宗教でもそんな事は不可能である。
さうすると、我々は合理的には何も信じ得ないし、さうなると、死後の生なんて事をどのやうにして信ずれば良いのかと云ふ事にも合理的に結論を出す事は出來ない。キリスト教社會ではクリスチャンになる、アラブ社會では云々と云ふ事になるのならば、結局のところ、宗教もまた相對的な價値觀でしかない。勿論、そんな事は現代人の我々(特に日本人)は承知であつて、だから我々は屡々「無宗教」を自稱する。
そんな我々が、なぜ文明を維持し、國家を維持するのか、共同體を保たうとするのか――實はこれこそ現代の最大の問題であり、最大の謎なのだが、案外誰も氣にしてゐない。

平成十八年九月十七日
tvk土曜深夜のあにめは不作だな。
平成十八年九月十七日
MacFace 長門有希 顔パターンセット
平成十八年九月十七日
妄言師@無銘の銘柄 - ひとりごと
「追記」にこんな事が書かれてゐる。

追記(9月16日)。このブログへのリンク元を調べてゐたら、この文章が方々に誤解を与へてしまつてゐることが分かつたので、少し補足しておく。妄言師はどうせ貶されるなら、陰口を叩かれるよりも、面と向かつて罵倒される方を選ぶ。ただネットでは相手の顔が見えないので、“面と向かふ” 代はりにトラバを送れといふことを言ひたかつたのだ。ただ論争を挑まれても、ディベート慣れしてゐない妄言師は、小泉首相並みの論理しか振りかざせないので悪しからず(w

妄言師@無銘の銘柄 - ファンサイト を強引に作つたゾ が出来たゾ
同じく「追記」。

追記。このブログを引用した他のサイトのみなさま、誤解を与へるやうなことを書いて正直、スマンカッタ。

なあ諸君。俺は全く理解出來ないのだ。妄言氏に據れば、「トラバを送る」事は「面と向ふ」事の「代用品」であるのださうだが――これは何う云ふ事かね。誰か、説明して呉れないか。トラックバックを送つたら面と向つて罵倒した事になる。意味がさつぱり解らない。妄言氏の論理は、當人は「小泉首相並」と言つてゐるが、小泉首相以下の代物としか言ひやうがない。小泉首相の言つてゐる事は解るが、妄言氏の言つてゐる事はさつぱり解らない。
既に書いたが、妄言氏の「ブログ」の記事に、「リンク元」なるものが出てゐるのは、何なのだらう。それを見れば、「批判されてゐる」なんて事は簡單に判るではないか。しかも妄言氏、今、「リンク元を調べた」なんて自分で言つてゐる。調べて判るなら、問題ないではないか。何が問題なのだらう。
それに、こちらはトラックバックなんて送れるやうな「ブログ」ではない。それを承知で妄言氏が「トラバ」云々と言つたのなら、それこそ意地の惡い「難癖」ではないかね。
そもそも、公開の場であるインターネットで、リンクを張つて他者を批判するのは、一般的な行爲でないのかね。雜誌で批判するのも、ウェブサイトで批判するのも、言論活動として見たら、同じ事だらう。そして、「○○と云ふ雜誌で批判された」と云ふ事を以て「面と向つて罵倒してゐない」等と非難する論者がゐたら、そいつはをかしいのではないか。公開の場である雜誌でする批判は「陰口」ではない。同樣に、公開の場であるインターネットのウェブサイトでする批判もまた「陰口」ではない。當り前の事だ。そんな當り前の事を妄言氏は解つてゐない。妄言氏は小泉首相に「トラバ」を送つたかね。送つてゐない。當り前だ。さうだらう。ならば俺が妄言氏に「トラバ」を送らないのも當り前だ。當り前の事・問題ない事を恰も問題が「ある」かのやうに極附けて相手の人格を非難する――何處ぞの福田中略会長なんかが嬉しさうにやつてゐる事だが、さうやつて他人を「無實の罪」に陷れて、何が樂しいのかね。言歸正傳。
「他のサイトのみなさま」諸君、「誤解」をしてゐるのは諸君だ、と妄言氏は言つてゐる。諸君は「誤解」をしてゐるのださうだ。何うだろう。諸君は「誤解」してゐるのだと。けれども、本當に誤解してゐるのは妄言氏ではないかね。「他のサイトのみなさま」よ、如何思はれるか。
しかし、妄言氏は何うして「誤解してゐるサイトがある」なんて「陰口を叩く」のだらう。妄言氏は、リンクを張つて、はつきり何處と何處と何處と何處のサイトが「誤解してゐる」と言はない。何故なのだらう。理解出來ない。そもそも、妄言氏は、「闇黒日記」にリンクを張らないで、このブログを引用して難癖をつけてゐるサイトがあるやうだと言つた。實に汚い態度だと思つた。野嵜は、貶されるなら、陰口を叩かれるよりも、面と向かつて罵倒される方を好む。けれども、妄言氏は野嵜の陰口を叩いた。なあ、妄言氏よ、あんたこそ、「何處」とはつきり言はないで陰口を叩いたのではないかね。自分には好い加減な事を許しておいて、他人がする批判にはわざと「嚴正な態度」を求める――それが妄言氏のやり方だが、隨分狡いではないか。いやいや、妄言氏は、「他人からは陰口なんて叩かれたくない・面と向つて罵倒されたい」が、一方、「自分からは他人を面と向つて罵倒したくない・しかし他人の陰口は叩きたい」と、さう云ふ風に思つてゐるのでないか。さうだとしたら妄言氏は最低な野郎だが、どうもそんな感じがする。何時も妄言氏は、陰口を叩いたり、具體的に誰と言はないまゝ當てこすりを言つたりしてゐる。妄言氏は狡いんだよ。
さて、野嵜の豫言は良く當る。以下は豫言である。これだけ長々と書いたのだから、反論すべき事は幾つも「ある」筈だが、妄言氏は野嵜の指摘を全て無視するだらう。「難癖」と極附け、「誤解」と辯解してゐるが、次には「野嵜は氣狂ひ」とか言出すのでないか。何れにせよ、「反論しない事によつて勝つ」と云ふ、「アンチ野嵜」の連中が常に採用する嫌な「あれ」を、妄言氏は採用し續ける筈である。「義」や「会長」、或はアレクセイ・竹下邊がすり寄つて行く事も考へられる。「義」が「無職は」云々と例の中傷文書を書込んだら、面白い事になるだらう。
平成十八年九月十七日
鳥山喜一『支那・支那人』(岩波新書赤版90)

ところで中華民國國民政府でも、その名稱を國際的に現はす場合などには、すべて此のChinaやChineなどを用ゐ、中國とか、中華民國とかの支那音によるローマ字表現などはしないほどに、明らかに此の支那を承認してゐるのである。

それでややもすればいはれるやうな、支那人は日本人が支那・支那人といふのを、自己に對する蔑稱として、之れを不快に思つてゐるといふ巷説には、私は疑問を有してゐる。一體どういふ人人がいひ出したものか、それも合點の行かないことである。それは感情の問題であつて、理性の判斷ではないといはれればそれまでの事のやうではあるが――。もとより我が國のやうに漢字を常用してゐる限り、公文書その他で、中華民國と書くべき場合にも、かつてのやうにわざわざ支那共和國などと――見やうによつては重譯的な用法などは、極力避けるのは言を待つまでもないことである。しかし支那とか支那人とかいへば、それが輕侮となり、中華・中國といひ、中國人・華人とすれば、さうではないとする解釋には、必ずしも根據があるともいへないと私は思ふのである。西洋崇拜の一方に、日清戰爭以來の支那侮蔑の氣持が續いてゐたとしたら、それは文字稱呼の上で、中華としたつて華夏と書いたところで、中國人といはうが、華人と呼ばうが、それは支那への理解を深めることも出來ず、また我が日本を彼れに知らせることも出來ない不幸を導くものであらう。それは單なる文字の變更にかかる問題ではない。もつと根本的な問題である。早い話が支那人への侮稱として最も忌むべき、かの「チャンコロ」といふ語が、もとを正せば「中國人」の支那音であることを想起するのが、かういふ際にいい反省となるであらう。

この本、昭和十七年四月に出てゐるが、擔當編集者は吉野源三郎氏であつた模樣(著者の「はしがき」に據る)。
平成十八年九月十七日
TVのデジタル放送には「データ放送」がおまけでくつ附いて來るが、此れのインタフェイスがとんでもなく惡い事は餘り指摘されてゐない。使ふ人が少いからだらうか。ウェブサイトなんかよりももつと非道い。御爺さん御婆さんには絶對使へない。
デジタル放送は一般人には難し過ぎる。普及させるなんて無茶だと思ふ。
平成十八年九月十七日
デジタル放送のメリットは「畫質が良い」事ださうだが、どうして良い畫質の畫面にわざわざテロップをかぶせるのだらうか。緊急時・災害時には仕方がない、なんて、放送關係者は辯明する。或は、さう云ふ時の爲にこそ放送は「ある」、等と威張つて言ふ。けれども、それならば、放送に於て優先されるべきは、「畫質」よりも「緊急時に使へる事」になる。ところが、緊急時となると、デジタル放送よりもアナログ放送の方が信頼性は高いのでないか。少くとも、チューナはアナログ放送の方が簡便である。
現状のデジタル放送には「理が無い」と俺は思つてゐる。
平成十八年九月十七日
前に拾つて來た吉原賢二『私憤から公憤ヘ』(岩波新書青版951)を讀んだ。ワクチン禍の話。戰後の日本で、國は「公共性」を錦の御旗にして、役にも立たない・根據の薄い・危險なワクチンの注射を國民に強制して來た、それによつて好い加減なワクチン接種が行はれ、多くの子供が被害に遭つて來た、然るに官僚や醫師達は社會問題になるまでそれまでのワクチンの問題を見過ごして來た。で、子供がワクチン禍に遭つた筆者等が、それでは行けないと運動を起して、それで大體昭和四十年代に非道かつたワクチン方面の行政が隨分良くなつた。その邊の事情がこの本には書かれてゐる。
思ふのだが、かうやつて大量の人死にが出ると、日本國ではやつと問題と判つて對策が徐々にとられるやうになる。勿論、問題が明るみに出るまでは、非合理的な理由と官僚主義に基いて、全て「なかつたこと」にされてしまふ訣だが、兔に角人命が關はつて來ると日本人は大騷ぎするから、そのうち解決の道が探られるやうになる。人命さへ關はれば問題は問題として認識される。それで多くのワクチンの問題は、現在では解決してしまつてゐる。今でも決してトラブルが生じない訣ではないけれども、以前に比べれば隨分良くなつた。
しかし、これは、「人命が關はつて來ないと日本人は決して問題を問題と認識しない」事の裏返しである。「人命が關はつて來ないと、問題を問題として認識出來ない」――これは日本人の極めて重大な弱點である。俺はさう思ふのだが如何。
ワクチンは、公共性を理由に、「多少の副作用」には目を瞑つて(それがワクチン禍を惹起こした)、全ての國民に押附けられた。「感染者が出れば流行して大勢の犠牲が出る、ならば、少數の犠牲者が出るにしても、大多數の國民が恩惠を蒙るワクチンは良いものである」――それが國の「論理」であつたが、實際には、效果の少いワクチンあり、或はワクチンのもとにするウイルスの株の選定に問題があり、或は、感染しても既に保健の體制が確立されてゐて病院等で十分對應が可能である場合もあつた。さうした事情は、調査すれば判る事だつたが、行政はその調査を怠つて、「一度決めた事」に拘つた。勿論それは非合理的であり官僚主義的である訣だが、日本人はこのワクチン禍の問題を、人命輕視の問題としてしか認識出來ない。行政における合理性の缺如と、官僚主義とが、戰後のワクチン禍を惹起こした原因だが、さう云ふ原因を取除くべき事が全く意識されない。兔に角「人命を輕視した!」と云ふ事で「責任をとれ!」と云ふ罵倒の類に話が行つて、行つたきりになる。行政の官僚主義は改まる事が無いし、結果として行政の「人命に關らない方面」での非道い状況は決して改まらない。
要は、国字改革なんかも、同じやうに行政の怠慢が起した戰後の非道く重大な問題なのだけれども、殆ど全ての日本人にこれが「問題である」と認識されない、とさう云ふ事。表記の變更が事實上「強制」された訣だけれども、それで死んだ人間は一人もゐない。死人が出なければ、日本では「問題」と云ふ事にならない。しかし、それで良いのだらうか。
『私憤から公憤ヘ』の筆者・吉原氏は、この手の運動に關る人々が陷るやうな、ありがちな感情論に陷つてはゐない。科學者だからである。然るに、所謂自然科學でなく、人文科學・社會科學に屬する領域で、問題が起きた時、人は感情論に陷りがちである。そして、その種の感情論が跋扈する領域での問題にも、重大な問題は「ある」のであり、しかもさうした問題もまた理性的・合理的な解決が必要である。
平成十八年九月十七日
発掘!あるある大事典II WEBSITE
今夜のあるあるは人の第一印象の話。好印象とか惡印象とかは何うして「ある」のか。で、科學的にさう云ふ事は説明可能であつて、目や口が光つてゐるとか頬の筋肉が良く動くとか、そんな事で好印象を持たれる顏が出來るのだと。で、そんな顏を「作る」には毎日訓練すれば良いと、あるある御馴染みの體操が紹介されてゐて、「なるほど! 僕も/私も好印象を持たれる顏にならう!」と思つて視聽者はがんばつてやつてみる(そして結構多くの人が挫折する)訣だけれども、俺は實に空しく思つた――結局、人格とか人柄とかは關係なくて、唯物的に人の印象は決る訣だ。惡印象を持たれるやうな顏の青年が、一週間頬の筋肉を鍛へたら、好印象を持つ人が増えた。笑顏が多くなつて良かつたと、勤め先の店長さん大喜び。けれども、印象は人柄ではないんだよ、精神論で何うにかなるものではなかつたんだよ。
ところで、俺の知つてゐる限りでの話なのだが、唯物論者を自稱する人に限つて、やけに論者の人柄を云々するものなのだけれども、あれは一體何なのだらう。精神論をぶつ唯物論者つて、根本的に何かをかしいやうな氣がするのだが。
平成十八年九月十七日
AT-XでLEMON ANGEL PROJECT再放送開始。うつかり觀てしまつたが始まつてすぐに覺える背中がぞくぞくする感觸。しほの涼下手だよなー。或意味鳥肌が立つ作品。なんでこんなあにめにはまつてゐるんだ俺。現在進行形。
平成十八年九月十七日
福田恒存をやっつける会会長がYahoo!掲示板で「南京大虐殺」は「あつた」と言つて「活躍」してゐた連中と接觸してゐる。

平成十八年九月十六日
つよきす @ MX。金髮、スタッフに餘り愛されてゐないやうな氣がする。
平成十八年九月十六日
ウィッチブレイド @ tbs。クライマックスに向けて無茶苦茶話が盛上つてゐる。來週綺麗に纏まれば、今期一番のあにめになるだらう。
平成十八年九月十六日
妄言師@無銘の銘柄 - ファンサイト を強引に作つたゾ が出来たゾ
所詮 “難癖” のレヴェルなので相手にする必要はないのだが、云々。
頻りにうちが全く意味のない「難癖」を「附けてゐる」だけと宣傳してゐるが何なのだらう。「アンチ野嵜」の連中は例外ナシに宣傳が好き。アレクセイしかり竹下義朗しかり資材係しかり白波しかり福田中略会長しかり。

悪口でも何でも、それが契機となつて、カウンターの数字が増えるのはやはり気持ちがいい。

さう言つて妄言師氏、「此所」にリンクを張つて呉れてゐるが、うちのサイトの「カウンターの數字」を増やしたいと云ふ事らしい。さう云ふ訣で、俺もhttp://d.hatena.ne.jp/meigara/を野嵜公認「ファンサイト」に認定する。「相互ファンサイト」。別に「広宣流布」なんてして呉れなくて良い。どうせしやしないだらうし。
平成十八年九月十六日
と言ふか。
妄言師@無銘の銘柄 - 『涼宮ハルヒの憂鬱』
妄言師の中の人、思ひつ切り嵌つてゐる。

総評:『アニメ感想率調査』の方法を用ゐれば、ラスト3回――就中『ライブ〜』――に免じて『名作*1』。『憂鬱』全6回は面白くなかつた。

大體同意。と言ふか、「ライブアライブ」で嵌つてゐる邊、明かに制作サイドの思惑に乗せられてゐるよ。
平成十八年九月十六日
オルダス・ハックスリ氏の興味深いエッセイ「その先は沈黙」に教へられたのだが云々。

音楽に表現しえぬものを表現する力があることは、すべての言葉を操る芸術家の中でも最も偉大な人によって認められている。『オセロウ』を書き『冬物語』を書いたその芸術家は、音楽によって意味しうるすべてのものを言葉で表現することができた。しかも(この点については、私はウィルソン・ナイト氏のある興味深いエッセイに教えられたのだが、)しかもその芸術家シェイクスピアは、超感覚感情や直観と結びついた的なものをつたえようとする時には、いつもきまって「それを言いあらわす」ための助けとして音楽をかりた。私にもごくわずかながら、舞台の演出にたずさわった経験がある。その経験によって、シェイクスピアが音楽に助けを求めたのは、その音楽のえらび方が正しい限り、決して無駄ではなかったことを、私に教えてくれる。

私の小説『対位法』を脚色した戯曲があるが、その最後の幕において、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲イ短調の、緩徐調の部分が、劇の欠くべからざる要素として使われている。戯曲も音楽も私の手になるものではない。したがって私ははばかることなく、この「神に対する聖なる感謝の歌」が、舞台から実際に聞こえてきた時、その効果は少なくともこの私にとっては心ときめかすものであった、と言うことができる。

「われらにじゅうぶんな世界と時間がありさえすれば……。」しかし、じゅうぶんな世界と時間は、まさしく劇場が私たちには与えてくれないところのものである。私の小説においては「主旋律」の耳ざわりの悪さを和らげていた、少なくとも和らげるはずになっていた「対旋律」が、短くちぢめた戯曲では、かくれたものもはっきりしたものも、ほとんどすべて省略されざるをえなかった。したがって戯曲のほうは、全体として見て奇妙なぐあいに、厳しい乱暴なものになっていた。このほとんど和らげるもののない耳ざわりな世界に、あの「神に対する聖なる感謝の歌」が突然鳴り始めた時、超自然的なものがそこに現われたように思えた。おそれおおいがしかも心に安らぎを与えてくれる神、すべての理解をこえた平和のうちに神秘につつまれている神、神々しく美しい神がであった。

私の小説『対位法』は『ヨブ記』になりえたかも知れない。その脚色者キャンベル・ディクソン氏は『マクベス』の作者になりえたかも知れない。しかし、私たちの能力がどのようなものであれ、また私たちがどんな労苦をはらうにしても、この三、四分にわたるヴァイオリンの音が、すべての聴く耳をもつ観客に閃光のように啓示したところのものは、言葉や演技によっては絶対に表現し得ぬものであったろう。

御芝居その他の藝術において音樂を正しく用ゐる事を、ハックスリは素直に且つ穩當に評價してゐる。で、これを偶々放映直前に讀んでゐたから俺はハルヒの「ライブアライブ」を、アニメーション作品のクライマックスとして適切であると判斷し得た訣だが、けれども、同時に今でも俺は結局のところハルヒが臺詞劇でない事を意識せざるを得ない。「もともと臺詞劇を作る意圖が制作者にない」事は明かだが、だが、さう云ふ意圖がない事――と言ふより、さう云ふ意圖を持つ制作者が現代の日本の映像作家に一人もゐない事を俺は殘念に思つてゐる。
涼宮ハルヒを評價するにしても、結局のところ、それは「映像作品として」否「TVアニメとして面白い」と云ふ事でしかない。そこで商業主義を云々しても意味のない事だ。
シェイクスピアの周邊をめぐつて許りゐて何處にも辿り着かない航海をして見せた大井邦雄先生なんかも、演劇に於る音樂の重要性を頻りに説いてゐたが、如何なものだらう。言葉の藝術に於て「映像とか音樂とかの效果許りが注目される」。アニメーションにしても演劇にしても、或は映畫にしても、臺詞があるのならば、それは言葉の藝術に屬するのであり、そこで殊さら言葉・臺詞の無用・無意味を主張するのは――「言葉の藝術」と云ふ前提條件に拘らなくとも、優れた藝術が各要素のバランスの上にのみ成立つものであるならば――矢張り、「根本的に間違つてゐる」のではないか。一方、「言葉に頼らない」事を言ひ、音樂に「語り得ぬものを語らせる」事を好む現代の日本の映像作家は、重要な事をするかり忘れてゐるのではないか。
平成十八年九月十六日
よみがえる空-RESCUE WINGS-
十九日まで第十三話(テレビ未放映・番外篇)を無料で觀られる。
平成十八年九月十六日
ただ、抽斗4 - 正字辭書preview版 release2
私はけーたいを持たない教の信者なので云々。無職のひきこもりには云々。興味はある。御金はない。申し訣ないです。
平成十八年九月十六日
居間のケーブルテレビ録畫用PCから自室のDVD-Rオーサリング用無名戰士二號くんMk.IIにデータを持つて來るのに、ネットワーク經由で半日かかるのが耐へ切れなくなつてUSBの外附けHDDを使つたら十五分かからなかつた。やつぱり外附けデヴァイスは便利。

平成十八年九月十五日
妄言師@無銘の銘柄 - ひとりごと

好きなものを妄言師に貶されたせゐだらうか、このブログを引用して難癖をつけてゐるサイトがあるやうだ。それはそれで構はないが*1、某chでもあるまいし・・・

トラックバックぐらゐは送れや。

うちの事らしいが、何でトラックバックなんてものを送らなければならないのだらう。訣がわからない。うちは「ブログ」ではないからトラックバックなんて送れないし、そもそもトラックバックなんてものを送らなければならないなんて法はないから「トラックバックが無い」とか言つて怒つたり何かしたりするのはをかしい。と言ふか、「リンク元」にURLが出てゐるからそれで十分だらう。一々「何でトラックバックを送らないんだよ」みたいな難癖を附けるのは何うかしてゐる。自稱「人気者」の「ブロガー」の考へる事は、よくわからない。
あと、俺は別にハルヒが殊さら好きな訣でもないし、難癖などそもそも附けてゐない。ただ「詰らない觀方をしたね」と言つてアカンベーしたに過ぎない。
と言ふか、サイトがあるやうだつて何だよ。はつきり言へよ。「トラックバック送れ」とか言ひたければ、その前に「リンク張れ」。
平成十八年九月十五日
それにしても、俺を罵る人間が皆が皆、俺を「2ちゃんねらー」と云ふ事にしたがるのは何うよ。俺は2ちゃんねるなんて觀てゐないよ。
ええと、「某ch」つてもしかして「ふたばちゃんねる」の事ですか? まさかね。
平成十八年九月十五日
東京古書會館の古書展。紙魚の会。古めの本が豐富で良かつた。いろいろ面白さうな本があつた。買つたもの。マックス・シェーラー『愛憎の現象学 ルサンチマンと文化病理学』(金沢文庫)。ランケ選集 第四卷『十九世紀ドイツ・フランス史』(三省堂)。E・マイネッケ『歴史的感覚と歴史の意味』(創文社歴史学叢書)。鈴木成高『ヨーロッパの成立』(筑摩書房)。和辻哲郎・高坂正顯・西谷啓治・唐木順三・森有正『共同討議 ドストエフスキーの哲學 神・人間・革命』(弘文堂)。スティーヴン・スペンダー『破壞敵要素』(荒地出版社)。ニイチエ選集 第一卷(創元社・カヴァ等缺・本體表紙「第二卷」と誤植)。つだ さうきち『歴史の矛盾性』(史苑叢書2)。清水幾太郎『日本的なるもの』(潮新書29)。鳥山喜一『支那・支那人』(岩波新書赤版90)。龜井勝一郎『讀書に關する七つの意見』(中央公論社)。雜誌「文藝」昭和二十三年七月號(河出書房・福田恆存「批評ノートIII」を掲載)。ダブりを承知で買つたもの、既に買つてあるのにすつかり忘れてダブらせたもの混在(未確認)。

平成十八年九月十四日
水曜深夜のあにめはをかしいよ。いぬかみっ! @ テレビ東京→ちょこシス @ 東京MX→吉宗 @ 東京MX→内閣権力犯罪強制取締官財前丈太郎 @ テレビ朝日。
ちょこシスがいぬかみ化。なんか最近の流行は取敢ず採入れてゐるらしい。
吉宗は相變らず堅調。所謂「世界觀」が根本的に適當な癖に「見合寫眞」がきちんと正字體だつたのは評價出來る。
財前今囘は絶好調。作畫が微妙だとなぜか演出が冴え捲るらしい。笑ひが止まらない。しかし意外な事にクライマックスに向けてきちんと話が盛上つて來てゐるのだから凄いあにめだ。次囘で御終ひですか。
平成十八年九月十四日
wx310kdic - greengablez.net
平成十八年九月十四日
妄言師@無銘の銘柄 - 『涼宮ハルヒの憂鬱』
別に何んな鑑賞の仕方をしても構はないけれども、涼宮ハルヒの場合に限つてはリアルタイムの視聽が一番面白い觀方だつたらうと思ふ。出來れば實況。と言ふか、制作サイドの思惑に乗せられるのがバカらしいので、云々つて何なのだらう。「俺はわざと白けるやうな觀方をして白けてみたい」と云ふ事だらうか。隨分馬鹿馬鹿しい鑑賞方法だと思ふ。
serial experiments lainなんかでもあつた、制作者と鑑賞者の一種の「馴れ合ひ」としての擬似的な「一體感」の釀成――それは、ハルヒでかつてなく露骨に行はれた。その「露骨さ」に辟易する人も多かつたやうだけれども、一方で、演出としてのプロモーションの巧さもまたハルヒでは際立つてゐたと言つて良い。さう云ふ部分まで解つて全てを承知で「樂しむ」と云ふ事は、「すれたファン」のする事かも知れないが、しかし、それは藝術の「樂しみ方」として實は正しいものだ。

平成十八年九月十三日
めも。
窓の杜 - 【NEWS】WMV/ASF動画をプレビューしながら無劣化で編集できるソフト「AsfBinMaster」
平成十八年九月十三日
しょぼいカレンダーの件。「設定」で設定すれば良いとの事。何うも有難うございます。
Operaで終了時にcookie削除する設定にしてゐたのを削除しないやうに變更した。
まじかんと雑記: Re: 闇黒日記

平成十八年九月十二日
tvk月曜深夜。N・H・K鬱展開に突入。想定の範圍内だから問題ない。つよきす話が盛上つて來た。時既に遲しの觀ありで來週最終囘。ストパニ天音樣記憶喪失の白ける展開。前囘の糞アクシデントのフォローだから仕方がないと言へば仕方がないけれども温暖化の立場がない。渚砂が動かないから、何とかしてエトワール選に主體的に關はらせる爲に、今になつてこんなネタをつつこんだのだらうけれども、物語の構成根本的にミスつてゐるよ。もつと早い段階で渚砂を吹切らせて、自分から動くやうにしておかないと。次の話で天音樣復活→最終話でガチバトルだらうけれども、驅け足の展開になりさうな感じ。と言ふか、雜誌でもえとわーる選編盛上らなかつたみたいだし、あにめは延々「たのしい學園生活」の御話をやつた方が良かつた氣がする。
平成十八年九月十二日
今まで殆ど豫約録畫に失敗した事のないGV-M2TV/USB2が今日突然動作が異常になつて、豫約した番組の冒頭十七秒しか録畫しないで呉れてゐた。三本録り逃し。二本はフォロー可能だけれども一本は完全にロスト。舞乙の二囘しかないAT-Xの二囘目の放送だから最う録畫機會は無い訣で、地上波で録つてある分で我慢するしかない。
原因は全くわからないが、録畫機からメインのPCにネットワーク經由で録畫したMPEG2のデータ5GBをコピーしたのが惡かつたのかも知れない。けれども、ネットワークで大量のデータをコピーするのが惡い事だと俺は思はない。惡いのはきつとアイ・オー・データ。或はMicrosoft。
取敢ずPCを再起動して、この後のパワーパフガールズZの放送で三十分録れるか何うか確認する。うまく録れるやうになつて呉れないとマリみて(AT-X)とストパニ(KIDS STATION)とつよきす(AT-X)とドクロちゃん(AT-X)の録畫が出來なくなるからうまく録れて欲しい。取敢ずラブゲッCHUのバックアップの豫約はRD-XS41の方に切換。RDだとDVD-Rに燒くのに4Mbps以上でないとHalfD1になるからアレなのだけれども。
今日のやうに録畫には失敗する事があるから、バックアップの録畫は必要。「放送」と云ふ形態のコンテンツ配布が存在する限り、録畫は絶對に必要な事だ。そして、放送事業者の連中が録畫し辛くすればするほど、視聽者はより愼重に、複數の方法で、確實に録畫出來るやうに努力しなければならない。「録畫し辛くすれば録畫しなくなるだらう」のやうな放送事業者の連中の發想は餘りにも「解つてゐない」ものだ。
と言ふか、デジタルのCSなんかだと「録畫し辛いやうにした方が視聽者の利益になる」なんて異常な論理でコピーワンス制限をかけてゐるけれども、放送事業者の連中、本當に頭がをかしいのではないかとすら思はれる。違法コピーが出まはつても視聽者には何のデメリットも無いんだよ。あにめだの何だののを御金を拂つてまで觀たい人間にとつては、無料で手に入るやうな形でコンテンツが流通してゐようがゐまいが關係ない。兔に角觀たい番組が有料であれ無料であれ手許に殘せればそれで良いのだ。「御金を拂つた人だけが番組を觀られる、それが視聽者の權利を守る事だ」、そんな事を言つてゐる放送事業者は、根本的に勘違ひしてゐる。
パワーパフガールズZの録畫成功。多分永遠に觀ないだらうけれどももし萬が一觀なければならない事があると困るから保存。十時半からマリみてに再トライ。
平成十八年九月十二日
さう言へばこのサイトのアクセス解析に據ると(そんなもの存在しない)壓倒的に新字新かなの人が多いのですが、このサイトで一番ダントツでアクセスの多いのも、此の闇黒日記なのです。云々。
正字正かな派でない人は、此處に何を期待されてゐるのでせう。云々。
平成十八年九月十二日
つよきすとドクロちゃん、金曜日に録畫濟みなのが發覺。GV-M2TV/USB2の豫約録畫をラブゲッCHUに變更。
何を録畫したのか既に把握出來ない状態。ぷろぐらまの人なら録畫濟みデータベースとかその手の類のものを考へるかも知れないが、實は一番確實なのは紙の表に纏める事。で、新聞とかザ・テレビジョンとか、或はEPGとかの既存のテレビ番組表は、その種のチェックの役には立たない。番組名が省略されてゐるのみならず、あにめの場合、地上波・BS・CSの對照に必要な話數とサブタイトルが省略されてゐる為。誰が何う考へても不要なGコードなんてものを入れる爲にこの手の省略が行はれるやうになつたが、新聞が文字を大きくするやうになつたのも相まつて、テレビ番組表が一般に無價値になつてしまつてゐる。
J:COMの番組ガイドも話數を平氣で省略してゐるが、「話數を省略したら番組表は無價値だ」と云ふ事を、その手の情報雜誌の編緝者は知らないらしい。
オンラインの番組表、あにめだとしょぼいカレンダーが極めて有益であるのだけれども、これも「とっぷぺーじ」の畫面は全く役に立たない(全國のあにめ番組を地上波BSCSごたまぜに詰込んでゐる爲)。
20060912Shoboi.png

平成十八年九月十一日
ARIA The NATURAL。例によつて御説教臭い話なのだけれども今囘に限つては文句言はない。
平成十八年九月十一日
小宮山書店の表のワゴンでレオン・パジェス『日本切支丹宗門史』(上中下卷・岩波文庫)を、田村書店の百圓均一でショペンハウエル『意思と現識としての世界』(前篇・一〜五卷・改造文庫)を買つた。
三省堂書店で留守先生の『諸氏の先頭に在り 陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』(慧文社)を買つた。
平成十八年九月十一日
尊皇・愛國のホームページ「彌榮」
平成十八年九月十一日
隠居の書斎
Opera 8は讀込むとえらーで落ちる。

平成十八年九月十日
海馬日記
右Alt+Fでファイルメニューを開くのは俺だけなのかな。右Ctrl+W、右Ctrl+A、右Ctrl+Sなんかも普通に使ふ。
俺の場合、左のCtrlとAltは滅多に使はない。左Altを使ふのは半角/全角キーと一緒に押す時だけ。かな漢のトグルを未だにAlt+半角/全角でやつてゐる。右Ctrl+Wは使ふけれども左Ctrl+Oなんて使はない。
と言ふか、大體左手はホームポジションに置いて、右手はあつちこつち移動させる、と云ふのが俺のスタイルらしい。
左Shiftは良く使ふみたい。
と言ふか、世間では109キーボードなんかが標準ですか。Windowsキーとかうぜえ。
平成十八年九月十日
A bc - 14:47
秀丸エディタなる物が存在するのであれば秀丸ブラウザと言うものはなぜないのだろうか
あるよ。
秀まるおのホームページ−Hidemarnet Explorer

平成十八年九月九日
Introduction - D H Lawrence Resources - Manuscripts & Special Collections - The University of Nottingham
先日事情があつてD.H.Lawrence關係のウェブサイトめぐりなんてやつたのだけれども、それで見附けたサイト。と言ふか、ぐぐると上位に出て來るめじゃーなサイト。人物を扱ふサイトとして典型的な作りと言へるだらうけれども、FAQとか傳記とか、要所をきちんと押へてゐて、良く出來てゐる。學術サイトだから「面白み」がそんなにある訣ではないが、「ブログ」なんかは兔も角、普通のサイトを作る上では參考になる。
平成十八年九月九日
ウィッチブレイド @ tbs。放送が始まる以前には大味なアクションものになるのかと思つてゐたけれども、叮嚀に作られた良作になりつゝある。ハッピーエンドになれば觀てゐる人は「良かつた」と思ふだらうけれども、可哀想な終り方をしてもそれはそれで納得出來るやうに話が進められてゐる。言換へると、結末が氣になる。最後まで視聽者が興味を持てるやうに作られてゐる、と云ふ點で上手な作品だ。
平成十八年九月九日
つよきす @ 東京MX。綿あめ喰つてる金髮可愛い。
平成十八年九月九日
實は内藤虎次郎『日本文化史研究』をダブらせた。『論理學綱要』はダブりを承知で買つたけれどもこつちは氣附かなかつた。讀んでゐなかつたのが原因。少し最初の邊を讀んだ。
「日本文化とは何ぞや(其の一)」

何れの國にも、國民には所謂お國自慢があつて、そのお國自慢の中にも、自國の文化が自發的であると云ふ事が、餘程重きを爲してゐるのである。しかし、是は或る少數の古い國、埃及とか、支那とか、印度とかいふ者を除いては、理由なき謬想であつて、例へば、兒童が生れ落ちてから、漸次智慧が附いて來る年頃は、年長者から導かれ教へこまれることが、其の知識の基礎になることは明瞭なる事實であるが、其の兒童が成人した後、自己の知識の根本に就て自慢を有し、自己の知識は最初から他の知識を撰擇するだけの識見を具へてゐて、年長先進者の知識を自己に同化し、以て今日の發達を來したと云ふことを主張したならば、何人もその無稽なることを嘲笑せざるものはないであらう。個人間では、斯くの如き知れ切つた道理が、妙に國民間に於ては、道理に外れた解釋を下さうとする。日本文化の起源に於ても、恰度其れと同一の謬想が存在する。國史家始め多くの日本人は、今日でも動もすれば日本文化なるものゝ、最初からの存在を肯定し、外國文化を選擇し同化しつゝ今日の發達を來したと解釋せんと欲する傾きがある。此の謬想は隨分古くからあつて、國民的自覺が生ずると同時に、日本人は既に此の謬想に囚はれてゐたと云つても宜い。維新以前の日本文化起源論とも云ふべきものは、最後にこの立論の方法で殆ど確定せられてゐた。日本が支那文化を採つて、其れに依つて、進歩發達を來したと云ふことは大體に於て異論はない。尤も徳川氏の中頃から出た國學者逹は之にさへも反對して、凡ゆる外國から採用したものは、總て日本固有のものよりも劣つた者であり、其れを採用したが爲めに、我國固有の文化を不純にし、我國民性を害毒したと解釋したものもあつた。今日では、その種類の議論は何人も一種の負け惜しみとして之を採用しないが、しかし、自國文化が基礎になつて、初めから外國に對する撰擇の識見を具へてゐたと云ふことだけは、なるべく之を維持したいといふ考が中々旺盛である。

湖南内藤虎次郎の上の發言は、大正十一年に大阪朝日新聞に掲載されたもの。いかがだらうか。腹を立てる人、澁い顔をする人、今でも結構澤山存在しさうだ。
平成十八年九月九日
内藤湖南 日本文化とは何ぞや(其一)
平成十八年九月九日
JIS X 0208と0213規格票の包摂関連項目
「包摂基準」なんて言つてるけれども、「これが包摂です!」と「具體例」を擧げてゐるだけで、一貫した包攝の原理なんて何も無いんだな。後附けの設定だからぐだぐだなのも當り前だが、これで納得してゐる人が澤山ゐると云ふのは何なのだらう。

平成十八年九月八日
すつかり話を忘れてしまつて、AT-Xの十兵衞ちやんを結構樂しく觀てしまつたのは私だ。他の人の感想を探してぐぐつたら自分の書いた文章が引掛かつて讀返したら可なりの惡文だつたので書直したのも私だ。二千四年に録畫した「2」を觀始めたよ。何時か觀たくなるかも知れないから、さう云ふ時に觀られるやう取敢ず何でも録畫しておくのは正しいのだ。
昔の事つて忘れてしまふよね。櫻花さんの設定を思ひ出せなくて新作書けない。誰か代りに書いて。
平成十八年九月八日
紙メディアのデザイナーさんは、ウェブサイトのデザインでも、かつちりレイアウトしないと氣持ちが惡くて仕方がない。ところが、がちがちに「部品」が配置されたウェブサイトは、ブラウザで印刷しようとすると常に巧く行かない。ところが、デザイナーさんにはそれが理解出來ない。
平成十八年九月八日
をぢさんとかをばさんとかはコンピュータを巧く扱へない。なぜなら、目的に到達する「正解」を彼等は「知つてゐなければならない」と信じてゐるし、正しいやり方を「一發で完璧に成し遂げなければならない」と信じてゐるからだ。で、我々「コンピュータを普通に使へる人間」は、「トライ&エラーに據つてやり方を自分で見附ける」事を「當り前」だと思つてゐるものだ。實際、「サポート」を依頼された時、我々が「正解」を既に「知つてゐる」事は滅多にない訣で、大概御年寄連中に「何をやりたいのか」を確認しつゝ、色々試して巧く行く方法を探つてみるものだ。
平成十八年九月八日
さて、かうしてちよつと考察して見ると解る事だが、PCを巧く使へない「舊世代」の人々=「アナログ人間」と呼ばれるべき人々が實は相當固定的な發想に留まつてゐる一方で、PCを使ひこなせる「デジタル人間」は可なりファジーな發想でコンピュータを扱つてゐる。
「操作を誤つてもアンドゥすれば大丈夫」と云ふのは、PCを使へる人間にとつては餘りにも當り前で意識するまでもない事だが、PCを使へない人々にとつては全く理解出來ない事であるらしい。
と言ふか、「PCの操作」に限らないのであつて、「ヴィデオの録畫豫約」もまた同じ。あれだつて、「出來る人」は、一發で正しい豫約を「出來るもの」だとは思つてゐないのであつて、取敢ず豫約を設定してから確認畫面を呼出してミスがないかを確かめるし、ミスがあればそこで訂正する。それが當り前だと思つてゐる。ところが、「録畫豫約を出來ない人」は、一發で正しく豫約「しなければならない」と信じ込んでしまつてゐるらしい。
平成十八年九月八日
で、こんな事は當り前の話であつて、何故わざわざ今更確認しなければならないのかと言へば、「さう云ふ人々」がウェブサイトを閲覽する時にやつぱり失敗を恐れて一發で「正解」に辿り着かうとする傾向があると云ふ話に繋がる爲。ユーザビリティとかの話も、結局のところ「さう云ふ人々」を基準に考へようと云ふだけの事なのだ。
平成十八年九月八日
東京古書會館の古書展。諸事情に據り夕方慌ただしく廻つたので雰圍氣を觀察してゐる餘裕ナシ。購入したもの。中屋健一『新米国史』。須藤新吉『論理學綱要』。唐木順三『鴎外の精神』。

平成十八年九月七日
いぬかみっ @ テレビ東京→ちょこッとSister @ 東京MX→吉宗 @ 東京MX→内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎 @ テレビ朝日。水曜深夜は大豐作だな。
いぬかみは、變態分の御蔭で「」なんかに受けてゐるけれども、こんなものと思つて觀るとまあこんなもの、熱い展開のやうだけれども良く考へるとぐだぐだ。ちょこシスは今囘もまあいろいろとぐだぐだ。吉宗、矢鱈とキャラが立つてゐる人物同士の關係が無茶苦茶絡み捲つてゐる上、無駄に伏線が張られ捲つてゐて、所謂「世界觀」が出たら目にもかかはらず、しつかり話が進んでゐて、可なり面白い。財前、設定もストーリーもしつちやかめつちやかだが、愉快な演出で樂しめるし、今囘は何だか良くわからないが話が盛上り過ぎ。
疲れた。
平成十八年九月七日
はてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナ
Windows版/MacOS X版OperaでJavaScriptを有效にして閲覽すると途轍もなく重くなる。
<script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Base.js"></script>
<script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Iter.js"></script>
<script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/DOM.js"></script>
<script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Style.js"></script>
<script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Signal.js"></script>
<script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Async.js"></script>
<script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Logging.js"></script>
<script type="text/javascript" src="/js/VisitedCheck.js"></script>
<script type="text/javascript" src="/js/TimedObserver.js"></script>
<script type="text/javascript" src="/js/Hatena/Antenna.js"></script>

<script type="text/javascript">
<!--

connect(window, 'onload', Hatena.Antenna, 'initialize');
connect(window, 'onload', Hatena.Antenna.Group, 'initialize');


-->
</script>
何これ。
それにしても、何で一々「http://a.hatena.ne.jp/go」なんてものを經由してリンクしてゐるのだらう。
さとみかんでも「http://alimika.alib.jp/satomican/redir.cgi/」なんてものを經由してリンクして呉れてゐる。かう云ふ「CGI經由」のリンク、「CGIが死んでゐるとリンクを辿れない」と云ふ問題がある。そもそも、直接跳び先のURLが指定されてゐる方が、「CGI經由」よりも、遷移が早い。目的の「ぺーじ」が遲く表示される事は、閲覽者にとつて不利益である。
普通にリンクを張つて呉れた方が閲覽者にとつては有難い。なぜ制作者の人は閲覽時の輕快さを害ひたがるのだらう。
平成十八年九月七日
誰もリサーチなどしてゐないけれども何となく言へさうな事は、2ちゃんねるを利用してゐる人は、2ちゃんねるの書込みに對して信頼を寄せる傾向が高いやうです。
實際、最近はネット上で情報を檢索してゐる時に、2ちゃんねるのスレに遭遇する確率が非常に高くなつたと言はれます。云々。
平成十八年九月七日
本屋さんで星ナビを立讀み。
星ナビ.com
例の「惑星」の定義の話。みんな忘れてゐる事なのだけれども、「惑星」の定義の話でなくて、あつちの國の言葉であるplanetの定義の話なんだよ。色々ややこしい話になつてゐるけれども、結局のところ、日本は英語圈の連中の言つてゐる事に追隨せざるを得ない訣だ。planetとdwarf planetとの區別だなんて、小さければ一般的なplanetなる語にdwarfなる形容の語がくつ附いてゐるだけだらうと思ふのだけれども、「違ふ」ものなのらしい。けれども、「嚴密」を期して「違ふ」のだとか言はれると、どうも連中の言語感覺に違和感を覺えてしまふ。「水金地火木土天海がplanetである」とか言はれても「そんなの惑星の中で代表的なものと云ふだけの事だらう?」と云ふ程度の感想しか思ひ附けない。わざわざ基準を設けてでかい惑星と小さい惑星とを嚴密に分けようだなんて考へる天文學者逹は暇人だ。
あと、galaxyを「小宇宙」と譯すべきだと主張したのは鈴木敬信であるとか。「小さい宇宙」と云ふのも變だけれども、「銀河」はもつと變だらう。未だに「天の川銀河」なんて言はれると「馬から落馬」みたいで變な氣がする俺。「星雲」だと、星の集合とガスと區別出來ないから後者に限定するとかさう云ふ話らしいが――「嚴密」の方向に話が進むと、用語はどんどん記號化して行くやうな氣がする。
平成十八年九月七日
はてなダイアリー方面で流行る「声優バトン」とか「みちゃったらバトン〜オタク編」なんて云ふ○×附けるだけの下らない「バトン」とかは番組の情報探す時無茶苦茶邪魔。誰が始めたのだらうその罪萬死に價する。

平成十八年九月六日
XHTMLは何故失敗したのか――をそろそろ檢討すべきだ。
端的に言ふと、そもそもHTMLと云ふものですら普及してゐないのだから、より嚴密なXHTMLが普及する訣がない。
平成十八年九月六日
この犬も勘定に入れません?
吾妻ひでお「贋作ひでお八犬伝」が入つてゐない。
鳥が出て來るSFなんて何うだらう。
平成十八年九月六日
ガラ艦打切。
ガラスの艦隊 Special Blog:猪股プロデューサーが語るEPISODE-23「血戒のごとく…」 キーポイント
平成十八年九月六日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0609.html#6
乙彼。知らない天井でも見えるだけ増しだよ。麻醉が切れても何にも見えないのは辛いよ。さう云ふ手術を四囘やつたから解る。何で「カルメン」なのかは何となく判つた。
平成十八年九月六日
三輪史朗『血液の話』(中公新書)。文章ぐだぐだ。それなりに面白いが、はつきり言つて知らないでもあんまり困らなさうな内容。俺みたいな人間にとつては暇潰しの本。讀了。
中屋健一『アメリカ西部史』(中公新書)。文章、割と讀めるが時々ぐだぐだ。内容は參考になる。讀了。
馬場伸也『カナダ 二十一世紀の国家』(中公新書)。文章は一番まとも。と言ふか極々普通。餘り知らない國カナダの御話。勉強にはなる。變にカナダを持上げてゐるのが不自然。あと少しで讀み終る。
平成十八年九月六日
Microsoft Expression - ホーム

平成十八年九月五日
ストパニ @ tvk。超展開。荒れる靜馬さまとか落馬する天音さまとか。何時もさうと言へばさうかも知れないが何だか展開が無茶過ぎ。最うちよつと穩當な展開で普通に落着して呉れた方が良いやうな氣が。あんまりみんな不幸になつて欲しくない。來週も觀る。
平成十八年九月五日
と言ふか、一日考へたのだけれども、やつぱりあれは良くないよ。物語の進行で、あゝ云ふアクシデントに頼る、と云ふのがそもそも良くない。偶然で話を進めても視聽者は納得しないよ。
物語は全て例外ナシに人爲的に構築されるものであり、ならば物語の進行はすべからく必然性に基くべきである。制作者の意思――それが登場人物の思想と一致する必然性はない――は物語を積極的に構築する。一方、物語の中で、登場人物は「自らの意思」で以て自らの生き方を決定する。「さう云ふ生き方」を撰擇する筈の登場人物の「意思」を設定する事が、物語の進む方向を決定する。さうでなければならない。初期設定としての人物の意思と、結果として落着する物語の終局とが、必然的に結ばれて、それが制作者の意圖と合致する――その時、作品は「成功した」と言はれねばならない。或結論に至る爲に、人物を誘導すべく制作者がアクシデントを物語に插入する、それはアンフェアだとすら言つて良い。「アクシデント」=「機械仕掛けの神」に據る強引な決着を、屡々制作者は要請する。さうしなければ、持つて行きたい方向に話が進まないからだ。だが、それを現代に住む我々は、鑑賞者として一般に受容れる事が出來るか。事實として受容れてゐる人は多い。しかし、敢て言ふが、我々ははつきり制作者の失敗を指摘すべきだ。
どうもストパニは、個々のシナリオライターが勢ひで話を作る傾向があるやうで、それぞれのライター間で調整が出來てゐないのではないか。先週の展開も亂暴だつた(特に導入部)。けれども、兔に角、話は進んでゐる。その話を前提に次の話を作るのが本來のやり方だ。ところがその話の進行を否定するやうな形で今囘の天音の落馬と云ふアクシデントが出現してゐる。をかしいよ。靜馬の取り亂しやうも唐突過ぎてをかしいし。來週以降の展開も何となく豫想出來るが、見え見えの落ちでも、ちよつと「落ちに持つて行く」やり方があからさまに過ぎる。變にうろうろ道を迷つてゐるやうな印象がある。もつとすつきり話が進むやうに出來たのではないか。今の話の進め方を見てゐると、ストパニ、終盤に來て失速した觀がある。話を引張つて行くキャラクタの不在が混迷の原因になつてゐるやうだ。人物が「流されるタイプ」だと、話は却つて作り難いものだよ。
平成十八年九月五日
大和但馬屋フィクション日記
頭文字Dの4th stage觀てないなー。

平成十八年九月四日
ウェブページを作る人に8の質問の集計結果:メモランダム
纏め乙です。
平成十八年九月四日
めも。とか言つてリンク張るのも久し振り。
going after mandarin: 顛末書(書き直し)
平成十八年九月四日
KHTML for Win32
平成十八年九月四日
Kotori's WebSite
Java的リンク / XML的リンク
平成十八年九月四日
自虐ネタやつても許されるサイトの人が或意味うらやましい。

平成十八年九月三日
qkana
似非文語体変換用辞書『復古』(試作キ−01)

平成十八年九月二日
Firefox に日本発のマスコット登場! だれか僕の名付け親になってください!!
Opera8だと「フォーム」に入力出來ない羂。

平成十八年九月二日
ウィッチブレイド @ tbs。物語がどんどん哀しい方向に進んでゐる。キャラクタ一人一人の個性が立つてゐるし、最終囘に向けて視聽者の興味を巧く引き續けてゐる。ここまで良作になるとは放送が始まる前には豫想出來なかつた。繪は兔も角、話は叮嚀に作られてゐる。
平成十八年九月二日
昔々、イタリアにガリレオ・ガリレイなる科學者がゐた。ガリレイ氏、太陽が地球の周りを廻つてゐるのではない、地球が太陽の周りを廻つてゐるのだ、と、所謂地動説を主張したさうな。當時、天動説を支持してゐたローマの教會、すぐガリレイ氏に目を附けて、宗教裁判を起したのだと。ガリレイ氏、命が惜しいものだから、自分の地動説は誤でした、天動説が正しいのです、と認めてしまつた。ところが傳説ではガリレイ氏、その場を立去るに當つて捨臺詞を殘したのださうな。「それでも地球は動いてゐる」。何とまあ、不誠實な學者ではないか。誰が見たつて言つてる事が矛盾してゐる。俺は「ガリレイをやっつける会」の設立を促したいよ。会長は――さうだね、「福田恒存をやっつける会会長」氏が適任なんぢやないかな。
以上、fankee_jr氏談。

平成十八年九月一日
久しぶりに東京古書會館の古書展。古めの本が多くて良い古本市だつた。特に古雜誌。会田雄次『超越者のすまい』。森銑三『佐藤信淵』。雜誌「文藝春秋」昭和二十四年十一月號(「寸言集」を福田恆存・矢野件太郎・荒垣秀雄の三人で書いてゐる)。雜誌「文藝春秋」昭和二十五年新年號(J・サーバー・福田恆存譯「現代イソップ」掲載)。雜誌「人間」昭和二十三年十月號(福田恆存「假裝の近代性――中野重治について――」を掲載)。雜誌「群像」昭和二十四年新年號・二月號(「創作合評」に福田恆存が參加してゐる。他のメンバーは伊藤整と神西清)。「批評」一九五八年秋季号(創刊号)(シンポジウム「批評と現代(現代人の可能性)」の參加メンバーにに福田恆存が入つてゐる。他のメンバーは河上徹太郎、佐伯彰一、村松剛、篠田一士、開高健)(本棚を見てゐないがどうもダブり臭い)。
「寸言集」に入つてゐる蝿の御話のネタ元が「現代イソップ」である事。

關聯リソース

前の記事
日記バックナンバー
2006年8月
「闇黒日記」の關聯サイト
Love Cream Puff
言葉 言葉 言葉
PC Tips
inserted by FC2 system