その年の九月にはロックフェラー財團の招きで一箇年の海外旅行に出るはずになつてゐたので、その間の家族の生活費の足しにしようと頑張つたのだ。とある。
ところで知性的な「オフエリヤ異聞」や「ホレイシヨー日記」には私はいささかも感心できなかつた。やり方には感心したが、その結果はどうも頂けなかつた。云々と述べてゐる。登場人物の臺詞が登場人物の肉聲と化してをらず、依然、作者の生の聲に近い、と十返氏は指摘してゐる。續けて十返氏、
昨日きくところによると福田恆存は近く新大阪新聞に連載小説を書くといふことだが、これは作者福田恆存にとつてよりも、それを掲載する新聞にとつて冒險英斷であらう。と書いてゐる。これが『謎の女』の事らしい。
この本の校正刷ができあがるころ、二十五歳の青年といふ未知のひとから、こんな手紙がきました。自分は戰爭中、軍閥政治にをどらされて、なにも勉強せずにすごした。ところで戰後はあなたのいふ似而非進歩主義者に脅されて、かれらのいふことを一から十まで服膺してきたが、それがみんな輕薄な虚僞とわかつた。そこにあなたの「平和論」攻撃が出たので、なにか救はれたやうな氣がした。ところで話は三轉四轉して、その青年のいふには、ごく最近「新潮」といふ雜誌を讀んでゐたら、福田の論文は人寄せの花火みたいなものだ、いい氣になつて反論を書けば、福田に利用されるだけだといふ匿名批評を讀み、自分はほとんど絶望の谷に突きおとされるやうな氣がしたといふのです。
そして、かれは私に問うてをります。あなたもやはり國民を置きざりに勝手な御託をならべ原稿料かせぎをする、「文化人」なのかと。私はばかばかしくなりました。かれは私から「さうぢやない、私はまじめだ」といふ返事をもらへば、それで安心するといふのでせうか。私の「文化人」批判は、さういふ知識階級のふがひなさへの非難にも通じてをります。
私は當時を思ひかへして「暗然」となる、今日の論壇も當時と少しも變つてゐはしない。と述べてゐる。「論壇」と言つてゐるが、今現在平成十八年九月二十七日ではインターネット/ウェブもまた最早「論壇」の一部となつてゐる。この「新しい論壇」だが――「當時の論壇」と何も變つてゐない。そんな氣がする。「や」とか前田氏邊とかの言つてゐる事を見て、俺はさう思つた。
挑発なんでせうけど、妄言師には駄々ッ子に見えて仕方がない。
駄々ッ子と罵る資格があるだらうか。それに、駄々つ子である事は惡くない筈ではないか? もし惡いのなら、妄言氏自身が惡い事になつてしまふ。或は、「人は屡々自らを否定すべきで文句で以て他人を罵る」つて奴ですか。さもありなん。
他のサイトを巻き込むやうなマネをしたくなかつただけだ。
上の引用文の直前には「妄言氏は狡いんだよ」と書いてあつた・・・・・・今ごろ気づいたの?つて何? 自分が狡い事を誇らしげに言ふのつて何うかしてゐるんでないの? 大概、かう云ふ自分の事は棚に上げる人間に限つて、他人の人格を一々貶めては喜ぶんだけれども、何なのだらう。意地の惡い話だ。結論、妄言氏は、卑怯な人間だから、トラックバックだの何だのと難癖をつけて、うちに嫌がらせをしました、と。詰らん。
制作サイドの思惑に乗せられるのがバカらしいので、云々と妄言氏は言つたではないか。これは、「制作サイド」を馬鹿にした言ひ方ではないか。俺がしたのは「制作サイド」の辯護に過ぎない。さう云ふ辯護を「してはならない」と言ひたいのなら、勿論さう云ふ立場はあつても構はない、しかし、それならそれなりの理由を提示すべきだらう。頭から「惡」と極附ける傾向が妄言氏にはある。
駄々ッ子と侮辱して喜んでゐる。何なのだらう。
妄言師はこれを読んで、いたく反省したのである。ブログに書いたのは自戒だ。
野嵜さんには相当数の敵がゐるらしい。さういふ状態では、たとへ善意でも悪いやうに受け取つてしまふのだらう。被害妄想が実社会で爆発しないことを祈る。
ちなみに妄言師にとつて野嵜さんは敵(アンチ)でも味方(マンセー)でもない。そもそも野嵜さんとの関係は、@野嵜さんが妄言師のブログを引用・言及する → A野嵜さんのサイトから大量のアクセスがあり、妄言師が驚く → B妄言師が野嵜さんのサイトをみる、といふ関係に過ぎない。ただ1年以上前から、野嵜さんが時々このブログを引用して難癖を付けるので、“たまには褒めてね(はぁと)” といふ願ひを込めて “公認ファイサイト第1号” に認定しただけである。
反論に窮した先方は、人格攻撃を仕掛ける・・・おそらく野嵜さんの常套句なのだらう。
“最低な野郎” いふのは人格攻撃に当たらないのかね(w
さうだとしたらと言つてゐる。ちやんと理由を擧げて説明してゐる。理由を擧げてゐるのならば根據のない人格攻撃には當らない。妄想氏は、根據なく、俺の言つてゐる事を「難癖」と極附けてゐるし、俺を「被害妄想」と極附けてゐる。さう云ふ極附けを人格攻撃と言ふ。妄想氏は何も解つてゐない。ただ、言葉尻だけを捉へては「御互ひ樣だらう」と言つてにやにやする。「アンチ」のパターンである。
追記(9月16日)。このブログへのリンク元を調べてゐたら、この文章が方々に誤解を与へてしまつてゐることが分かつたので、少し補足しておく。妄言師はどうせ貶されるなら、陰口を叩かれるよりも、面と向かつて罵倒される方を選ぶ。ただネットでは相手の顔が見えないので、“面と向かふ” 代はりにトラバを送れといふことを言ひたかつたのだ。ただ論争を挑まれても、ディベート慣れしてゐない妄言師は、小泉首相並みの論理しか振りかざせないので悪しからず(w
追記。このブログを引用した他のサイトのみなさま、誤解を与へるやうなことを書いて正直、スマンカッタ。
このブログを引用して難癖をつけてゐるサイトがあるやうだと言つた。實に汚い態度だと思つた。野嵜は、貶されるなら、陰口を叩かれるよりも、面と向かつて罵倒される方を好む。けれども、妄言氏は野嵜の陰口を叩いた。なあ、妄言氏よ、あんたこそ、「何處」とはつきり言はないで陰口を叩いたのではないかね。自分には好い加減な事を許しておいて、他人がする批判にはわざと「嚴正な態度」を求める――それが妄言氏のやり方だが、隨分狡いではないか。いやいや、妄言氏は、「他人からは陰口なんて叩かれたくない・面と向つて罵倒されたい」が、一方、「自分からは他人を面と向つて罵倒したくない・しかし他人の陰口は叩きたい」と、さう云ふ風に思つてゐるのでないか。さうだとしたら妄言氏は最低な野郎だが、どうもそんな感じがする。何時も妄言氏は、陰口を叩いたり、具體的に誰と言はないまゝ當てこすりを言つたりしてゐる。妄言氏は狡いんだよ。
ところで中華民國國民政府でも、その名稱を國際的に現はす場合などには、すべて此のChinaやChineなどを用ゐ、中國とか、中華民國とかの支那音によるローマ字表現などはしないほどに、明らかに此の支那を承認してゐるのである。
それでややもすればいはれるやうな、支那人は日本人が支那・支那人といふのを、自己に對する蔑稱として、之れを不快に思つてゐるといふ巷説には、私は疑問を有してゐる。一體どういふ人人がいひ出したものか、それも合點の行かないことである。それは感情の問題であつて、理性の判斷ではないといはれればそれまでの事のやうではあるが――。もとより我が國のやうに漢字を常用してゐる限り、公文書その他で、中華民國と書くべき場合にも、かつてのやうにわざわざ支那共和國などと――見やうによつては重譯的な用法などは、極力避けるのは言を待つまでもないことである。しかし支那とか支那人とかいへば、それが輕侮となり、中華・中國といひ、中國人・華人とすれば、さうではないとする解釋には、必ずしも根據があるともいへないと私は思ふのである。西洋崇拜の一方に、日清戰爭以來の支那侮蔑の氣持が續いてゐたとしたら、それは文字稱呼の上で、中華としたつて華夏と書いたところで、中國人といはうが、華人と呼ばうが、それは支那への理解を深めることも出來ず、また我が日本を彼れに知らせることも出來ない不幸を導くものであらう。それは單なる文字の變更にかかる問題ではない。もつと根本的な問題である。早い話が支那人への侮稱として最も忌むべき、かの「チャンコロ」といふ語が、もとを正せば「中國人」の支那音であることを想起するのが、かういふ際にいい反省となるであらう。
所詮 “難癖” のレヴェルなので相手にする必要はないのだが、云々。
悪口でも何でも、それが契機となつて、カウンターの数字が増えるのはやはり気持ちがいい。
総評:『アニメ感想率調査』の方法を用ゐれば、ラスト3回――就中『ライブ〜』――に免じて『名作*1』。『憂鬱』全6回は面白くなかつた。
制作サイドの思惑に乗せられてゐるよ。
音楽に表現しえぬものを表現する力があることは、すべての言葉を操る芸術家の中でも最も偉大な人によって認められている。『オセロウ』を書き『冬物語』を書いたその芸術家は、音楽によって意味しうるすべてのものを言葉で表現することができた。しかも(この点については、私はウィルソン・ナイト氏のある興味深いエッセイに教えられたのだが、)しかもその芸術家シェイクスピアは、超感覚感情や直観と結びついた的なものをつたえようとする時には、いつもきまって「それを言いあらわす」ための助けとして音楽をかりた。私にもごくわずかながら、舞台の演出にたずさわった経験がある。その経験によって、シェイクスピアが音楽に助けを求めたのは、その音楽のえらび方が正しい限り、決して無駄ではなかったことを、私に教えてくれる。
私の小説『対位法』を脚色した戯曲があるが、その最後の幕において、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲イ短調の、緩徐調の部分が、劇の欠くべからざる要素として使われている。戯曲も音楽も私の手になるものではない。したがって私ははばかることなく、この「神に対する聖なる感謝の歌」が、舞台から実際に聞こえてきた時、その効果は少なくともこの私にとっては心ときめかすものであった、と言うことができる。
「われらにじゅうぶんな世界と時間がありさえすれば……。」しかし、じゅうぶんな世界と時間は、まさしく劇場が私たちには与えてくれないところのものである。私の小説においては「主旋律」の耳ざわりの悪さを和らげていた、少なくとも和らげるはずになっていた「対旋律」が、短くちぢめた戯曲では、かくれたものもはっきりしたものも、ほとんどすべて省略されざるをえなかった。したがって戯曲のほうは、全体として見て奇妙なぐあいに、厳しい乱暴なものになっていた。このほとんど和らげるもののない耳ざわりな世界に、あの「神に対する聖なる感謝の歌」が突然鳴り始めた時、超自然的なものがそこに現われたように思えた。おそれおおいがしかも心に安らぎを与えてくれる神、すべての理解をこえた平和のうちに神秘につつまれている神、神々しく美しい神がであった。
私の小説『対位法』は『ヨブ記』になりえたかも知れない。その脚色者キャンベル・ディクソン氏は『マクベス』の作者になりえたかも知れない。しかし、私たちの能力がどのようなものであれ、また私たちがどんな労苦をはらうにしても、この三、四分にわたるヴァイオリンの音が、すべての聴く耳をもつ観客に閃光のように啓示したところのものは、言葉や演技によっては絶対に表現し得ぬものであったろう。
好きなものを妄言師に貶されたせゐだらうか、このブログを引用して難癖をつけてゐるサイトがあるやうだ。それはそれで構はないが*1、某chでもあるまいし・・・
トラックバックぐらゐは送れや。
サイトがあるやうだつて何だよ。はつきり言へよ。「トラックバック送れ」とか言ひたければ、その前に「リンク張れ」。
制作サイドの思惑に乗せられるのがバカらしいので、云々つて何なのだらう。「俺はわざと白けるやうな觀方をして白けてみたい」と云ふ事だらうか。隨分馬鹿馬鹿しい鑑賞方法だと思ふ。
秀丸エディタなる物が存在するのであれば秀丸ブラウザと言うものはなぜないのだろうか。
何れの國にも、國民には所謂お國自慢があつて、そのお國自慢の中にも、自國の文化が自發的であると云ふ事が、餘程重きを爲してゐるのである。しかし、是は或る少數の古い國、埃及とか、支那とか、印度とかいふ者を除いては、理由なき謬想であつて、例へば、兒童が生れ落ちてから、漸次智慧が附いて來る年頃は、年長者から導かれ教へこまれることが、其の知識の基礎になることは明瞭なる事實であるが、其の兒童が成人した後、自己の知識の根本に就て自慢を有し、自己の知識は最初から他の知識を撰擇するだけの識見を具へてゐて、年長先進者の知識を自己に同化し、以て今日の發達を來したと云ふことを主張したならば、何人もその無稽なることを嘲笑せざるものはないであらう。個人間では、斯くの如き知れ切つた道理が、妙に國民間に於ては、道理に外れた解釋を下さうとする。日本文化の起源に於ても、恰度其れと同一の謬想が存在する。國史家始め多くの日本人は、今日でも動もすれば日本文化なるものゝ、最初からの存在を肯定し、外國文化を選擇し同化しつゝ今日の發達を來したと解釋せんと欲する傾きがある。此の謬想は隨分古くからあつて、國民的自覺が生ずると同時に、日本人は既に此の謬想に囚はれてゐたと云つても宜い。維新以前の日本文化起源論とも云ふべきものは、最後にこの立論の方法で殆ど確定せられてゐた。日本が支那文化を採つて、其れに依つて、進歩發達を來したと云ふことは大體に於て異論はない。尤も徳川氏の中頃から出た國學者逹は之にさへも反對して、凡ゆる外國から採用したものは、總て日本固有のものよりも劣つた者であり、其れを採用したが爲めに、我國固有の文化を不純にし、我國民性を害毒したと解釋したものもあつた。今日では、その種類の議論は何人も一種の負け惜しみとして之を採用しないが、しかし、自國文化が基礎になつて、初めから外國に對する撰擇の識見を具へてゐたと云ふことだけは、なるべく之を維持したいといふ考が中々旺盛である。
<script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Base.js"></script> <script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Iter.js"></script> <script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/DOM.js"></script> <script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Style.js"></script> <script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Signal.js"></script> <script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Async.js"></script> <script type="text/javascript" src="/js/MochiKit/Logging.js"></script> <script type="text/javascript" src="/js/VisitedCheck.js"></script> <script type="text/javascript" src="/js/TimedObserver.js"></script> <script type="text/javascript" src="/js/Hatena/Antenna.js"></script> <script type="text/javascript"> <!-- connect(window, 'onload', Hatena.Antenna, 'initialize'); connect(window, 'onload', Hatena.Antenna.Group, 'initialize'); --> </script>
Java的リンク / XML的リンク