闇黒日記


平成十八年八月三十一日
いぬかみっ(テレビ東京)→ちょこシス(東京MX)→吉宗(東京MX)→財前(テレビ朝日)。今期の水曜深夜は豐作だな。
平成十八年八月三十一日
Internet Explorerで文字のサイズ(「最大」「大」「中」「小」「最小」)を指定するのも、OperaでMinimum font sizeを指定するのも、ユーザスタイルを適用させてゐる事になるんぢやねえの? OperaのMinimum font sizeに16pxを指定してゐるのは俺。俺は目が惡いんだ。
あと、×「見榮へ」→○「見榮え」。歴史的假名遣でも「榮える」。ただ、ブラウザでの表示なんかの話をする場合、「見た目」等の方が言ひ方として正しい(事が多い)。「見榮え」は「する」もの。或は、外から見た様子。外見。外観。を表はすのは「見場」。「見場を良くする」なんて言ふよ。
平成十八年八月三十一日
一生懸命書いたメールが效を奏して鄭重な御詫びの文面とともに早々に工事に來る事工事費用を何とかする事の通知がJ:COMから屆いた。俺の文章が他人を動かすのは大變珍しい。サポートの人困つただらうな。すまぬ。
平成十八年八月三十一日
ITmedia News:楽天証券、Wikipediaからの情報削除で謝罪
樂天は良い會社だ。某日本たばこ産業なんて、社員が就業時間中にYahoo!掲示板で他人を侮辱したり他人に粘着行爲をしたりしてゐても、何とも言はなかつた。
平成十八年八月三十一日
地震の時は雜談中。なぜか白内障の話で盛上がつてゐたのだけれども、取敢ず話を中斷しておもむろにGoogleで「虹裏」を檢索。
都營新宿線が遲れてゐたよ。急行が來ないでつつじが丘行きの各驛停車がやつて來た。新宿で乘換へて京王の急行を利用。これも調布で九分遲れになつて、多摩センターで十五分遲れに。別に細かい事は氣にしないけれども学園アリス觀逃した。取敢ず10-000系が多摩センターを出て南大沢まで無闇に飛ばすのを堪能出來たのは昨日が最後と云ふ事に。
平成十八年八月三十一日
小川図書でどきどきしながら小西友七『現代英語の文法と語法』(大修館書店)等を購入。『現代英語の〜』の小西先生は、アンカー英和辞典のちにジーニアス英和辞典を編纂した英語學の偉い人。この本の「文法研究」の項を讀み始めたのだけれども、英語つて難しいね。日本語の敬語は難しいと言はれるけれども、英語の敬語の方がずつと難しいよ。進行形・時制、假定・條件、語順、受身形、疑問文――これらの違ひで、微妙に文章がニュアンスを持つやうになる。語法に據つて卑下とか敬意とかその邊の事を微妙に表現するのが英語。英國の連中なんか物の言ひ方で階級が判るのださうだ。敬語を馬鹿にする人が日本には結構ゐるし、さう云ふ連中は「日本語以外に敬語は無い」とか言ふ事があるけれども、實際には英國民でも米國民でも敬語を使ふ。さう言ふと「敬語は不要」に話を摩り替へて議論を挑んで來る人もたまにゐる訣だが、彼我で共通認識なんて無いのであつて、こつちが不用意に物を言へばあつちの人が怒つてしまふ事も大いにあり得る。割と日本人は無頓着だし、ふらんくに何でも外國人と言合ふのが今風とか思つてゐる人も多いし、上司と部下とか、結構身近な處でも社會的な立場の違ひなんて存續してゐるのだし、さうすると昔ながらの敬語のやうな立場に據る表現の差なんてものも存續する事になつてしまふ。敬語――小西先生の所謂「禮讓形式」――に限らず、英語には英語圈特有の言囘し、と言ふか、イディオムには殆どジャーゴンに近いものが含まれてゐるのだけれども、さう云ふものをきちんと知つて使ひこなせなければ、英語の文章なんてすらすら讀めません。「いや、讀める!」と言ふ人もゐるだらうけれども、そんなニュアンスのない文章ばつかり讀んでゐるからさう思へるのであつて、英語にはさう云ふのではない文章もいつぱいあります。そして、さう云ふややこしい文章にこそ讀む價値のあるものがある。
"Wouldn't he just"なんていきなり言はれても、解らないよ。文脈を見てもこんなの解らない。あつちの人ならぱつと見て判るのだらうけれども、日本人は語法を注意して見て、それで知らなければアウト、知つてゐれば意味は何とかなるけれども、それでもニュアンスまで即座に理解出來るかと言へば、そんなの無理。
平成十八年八月三十一日
商賣で利益を擧げられるやうにする事だけが「國益を守る」事だと思つてゐる人も多いけれども、「國益」つてさう云ふ意味なの?
「國を守る」事も「國益を守る」事だよ。では「國を守る」つてどう云ふ意味なの? 軍隊が侵攻して來たら、それに立向かふのが「國を守る」事だと思つてゐる人も多いけれども、本當にそれだけなの?
「國民としての生き方」――文化を守る事も、「國を守る」事だよ。さてここで、「日本人の文化つて何」と云ふ重大な問題が現れる。

平成十八年八月三十日
J:COMのサポートに送る爲のメールを一生懸命書いて氣力が盡きたので、本日の「闇黒日記」は一囘休み。HDRが如何に駄目なサーヴィスで、こちらが何んなに嫌な目に遭つたか、を力説する内容。何で二箇月連續で工事費拂はなければならないんだよ。ヒューマックスのHDRを撤去して以前の松下製セットトップボックスに戻して貰ふ豫定。今囘の教訓。やつぱり韓國製は駄目。小林よしのりによればアンチ小林のネットウヨは嫌韓ださうだから、J:COMにヒューマックス使ふなと壓力かけて呉れないかね。と言ふか、俺は別に國産まんせーの國粹主義者である訣ではないが、相對的に松下の奴の方が俺の目的には合致するからそつちの方が良いと。松下のセットトップボックスもデジタル放送に對應したばかりの頃に出た奴で、動作がもつさりしてゐて糞だつたが、一往録畫豫約は融通が利くし、豫約すればちやんと録畫出來るし、その點ではヒューマックスのHDRよりも増し。
J:COM - IR情報 - 個人投資家の皆様へ - 業界用語解説
HDR
当社のJ:COM TV デジタルの新サービスで、ハイビジョン録画対応のハードディスク内蔵型STBのこと。ハイビジョン画質番組の録画をはじめ、裏番組や2番組同時録画が可能で、多彩なデジタル放送を自由に楽しむことができるサービスである。
「録畫が可能」は眞赤な嘘。デジタル放送なのだから自由等全くない。大體、HDDに溜め込めるだけで「自由」なんて誇大廣告も良いところだ。
録畫すると、HDDへの録畫か、外部機器への録畫(の爲に出力を固定する)か、を撰擇出來る、出來はする。けれども、HDDに録畫すると番組の冒頭が數秒必ず缺ける(=「録畫が不完全にしか出來ない」)し、外部機器で録畫すると、屡々番組の冒頭にノイズが乘る(=「保存データとして使へない」)。詰り、「録畫が不可能」な部分が(後者の場合は確率的にだが)存在する訣で、それで「録畫が可能」とは笑はせる。しかも、外部機器で録畫する場合、裏録畫・二番組録畫は不可能であり、それも「可能」であるかのやうに言つてゐるのは殆ど虚僞廣告に近い。
J:COM - ダブル録画のできるケーブルテレビ! - HDR
「これ1台」で「何でもやれ」と云ふ押附けサーヴィスと承知して、それで納得出來る人ならば多分納得出來るだらうが、俺は納得出來ない。
と言ふか、そもそも、個別のTVやヴィデオデッキ或はその他のレコーダにそれぞれチューナが載せられれば誰も困らないのであり、録りたい番組が重なるなんて事も問題にならない。わざわざセットトップボックスにTVやら録畫機器やらをぶら下げさせる、なんて馬鹿な事をするから問題が起る。ところが現在の放送事業者は兔に角利權を確保したいから、必死になつて視聽者に番組を見せまいとして、それで今のやうな不便な仕組を考へ出す。けれども、全く番組を見られないなら視聽者はゐなくなるから見られるやうにしなければならない訣で、その邊の矛盾が現在の放送の在り方ををかしくしてゐる。
CS/ケーブルテレビの有料放送と云ふ奴、はつきり言つて放送である必然性が全く無いものだ。コンテンツを賣るなら、通信の形式でやれば良い。けれども、通信の場合、複製の問題が重大な問題になるからやつぱり問題はなくならない。「コンテンツビジネス」と云ふものが根本的に何か問題を含んでゐる、と云ふ事が言へないか。やつぱり、情報の共有とかそんな事を普通に言つてゐる世界で「御金を取らう」だなんて、發想が間違つてゐるんだよ。資本主義の仕組それ自體が「コンテンツビジネス」を要求してゐるのだが、それが進歩した技術と矛盾を生じてゐる。もし技術を信ずるならば、資本主義それ自體の存在意義を根本的に疑ふ必要がある。

平成十八年八月二十九日
ストパニ @ tvk。ふでやす脚本、無茶苦茶面白いのだけれども、毎囘展開が荒くて、前後の話と微妙に整合がとれてゐない氣がする。要さん良い人なのだけれども相變らず迷言。と言ふか英語間違つてね? 作畫は微妙と言ふか可なりの部分で崩潰してゐるのだけれどもストパニでは全然氣にならないと言ふか良い作畫だと不安になるからこれくらゐで良い。ぐだぐだの動畫の割にテニスの場面がそこそこもつともらしく見えるのは何でだらう。なんかG'sにエロポスターが附くらしいので明日買つて來る。
平成十八年八月二十九日
つよきす @ tvk。そんなに惡くない氣がする。
平成十八年八月二十九日
N・H・K @ tvk。それなりに制作者ががんばつてゐる感じはする。
平成十八年八月二十九日
G's買つて來た。あとハルヒの公式。
電車の中では人目があるのでそれらは封印。先日拾つた花井等『国際外交のすすめ』(中公新書)を淡々と讀む。

平成十八年八月二十八日
ARIA @ tx。本篇より面白い説。
ゼロの使い魔 @ tvk。なんかまるで別の番組になつてる。面白い。
うたわれるもの @ tvk。無茶苦茶ガチな展開で盛上がつて來たが來週おやすみ。次囘は九月十日深夜に二話連續放送。ARIAともろにかぶる。此處まできちんと説得力のある「爲政者の御話」を構築し得たTVアニメーションは無かつたやうな氣がする。「TVアニメの限界」と「アニメとしての媚び・阿り」は「ある」けれども、良くがんばつてゐると思ふ。
平成十八年八月二十八日
拾つて來た本とかを適當にあれこれ讀んでゐるのでどれで何を讀んだかごちやごちやに。
「戰爭責任を問ふ人は、『何うやつて責任を取らせるのか』を考へてゐるのか。その種の『犯罪』については極刑か無罪放免かのどちらかしか考へられないが、だから自分は無罪にするしかないとしか考へやうが無い」とか。「他の教科よりも國語科で教へる文章の方が易しいのはをかしい」とか。
平成十八年八月二十八日
ヤスパース『聖書の非神話化批判』を讀み始めたが譯文が非道過ぎて投げた。西田康三譯。

ハイデッガーの哲学は、様々な曖昧さを持つように思われる。この哲学は、事実上キェルケゴール、ルッター、アウグスティヌスを基にして実存哲学を考えているが、しかも同時にそれを、科学的、現象学的、客観化的にも考える。……。

「哲学は哲学を考えている」つて何ですか。
――かう問ふと、親切な人が掲示板に出て來て意味を説明し始めて呉れるのが何時ものパターン。けれども、俺は文法的に「日本語としてをかしい」と云ふ事を言つてゐるので、そこでせつかく意味を推測していただいてもちよつと。と言ふか、譯者の人も讀者がさう云ふ「親切な讀者」である事を期待してゐる節がある。良くないよ。
あと、「客観化的に考える」も謎。
平成十八年八月二十八日
十年以上探してゐたシェストフの『アテネとエルサレム』を田村書店の表のワゴンで見附けたよ。これで植田譯シェストフが揃つた筈。西歐に於る合理主義と宗教に關する論攷。「序文」で、スピノザやライプニッツ、或はカントの合理主義禮讚は、實はキリスト教の信仰における悦びの代用物である、と云つた指摘がなされてゐる。シェストフは、昔は盛に讀まれたけれども、今ではさつぱり流行らない思想家。合理主義者の人には是非讀んで貰ひたい人だが、實は俺もあんまり讀んでゐない。譯文はそんなに惡くないのだけれども、内容的に讀むのがしんどい。

平成十八年八月二十七日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - みんなが森鴎外の印象を語る
舞姫等の初期作品は鴎外の中でも詰らない方。學校ではその邊の作品しか教へないし讀ませないからそれで鴎外を判斷してしまふ人が多いやうだけれども、全くもつてもつたいない話。鴎外が書いた歴史小説の短篇はどれも絶品、多くの人におすすめしたい。澁江抽齋なんかは長いから「歐外入門」としては必ずしもすすめられないのだけれども、鴎外の史傳の中では良く出來てゐるものとの評判。鴎外には現代小説もあつて、短篇は良いのだけれども、長篇が拙くて、それで損をしてゐる。坊つちやんと青年とでは漱石の方に軍配が上がる。漱石は短篇よりも長篇の方が有名だし、慥かにその方が巧い。今は長篇を書けないと作家として認められない時代だから、鴎外よりも漱石の方が名前が通つてしまつてゐるのだらう。可哀想な鴎外。
平成十八年八月二十七日
恋する天使アンジェリーク @ tvk。話は相變らずアレだけれども毎囘超展開で樂しい。今囘は作畫に石野聡が入つてゐる。
平成十八年八月二十七日
J:COM HDRのHUMAX製セットトップボックス(JC-5000)非道い。HDD録畫時頭の數秒必ず缺ける。外部録畫の際、チャンネル切替を一々確認しに來る(何もしないと切替るが鬱陶しい)し、切替るのぎりぎりだし、切替つた後、たまに番組の冒頭にノイズが乘る。
平成十八年八月二十七日
http://www.keio.co.jp/news/nr060731v01/index.html
京王電鐵、京王線・井の頭線でダイヤ改定。九月一日から。
慥かに「改正」でなく「改定」。明かに惡くなつた部分がある。京王のリリースには出てゐないが、橋本では朝の八時臺が改惡で、急行が二本廢止される(八時二十六分橋本發→多摩センター始發に。三十七分橋本發急行→三十分發通勤快速)。九時臺以降に急行の増發を設定したからそれで良いと京王は思つてゐるのだらうが、廢止される急行のみならず、その前の列車の乘客にまで、相當多くの利用者が影響を受ける筈。八時二分急行、八時八分通勤快速の混雜が非道い事になるのでないか。その他、着驛の到着時刻を守る爲か、發驛の發車時刻が早められてゐる等、全體に後ろ向きの改定と言へる(調布邊の工事の關係と云ふ理由も「ある」やうだが、今のきつきつのダイヤで常時「遲れ」を生じてゐるのを何とかしたかつたらしい)。晝間〜夜間の都營線直通列車が十兩編成化されるとの事だが、舊式の6000系で運用されるなら(と言ふかさうに決つてゐる)歡迎出來ない。
本線系統も非道いらしい。良くなるのは今までが惡過ぎた高尾線(休日は改惡らしいが)。
平成十八年八月二十七日
鐵ヲタどもの「ブログ」や掲示板では分割特急廢止が「殘念」とか、そんな下らない話許り。
平成十八年八月二十七日
京王の最大のネックは明大前。あと千歳烏山。調布を直すより前にあの邊を直した方が良いやうな氣がする。
平成十八年八月二十七日
都営地下鉄新宿線のダイヤ改正を行います。 | 東京都交通局

平成十八年八月二十六日
つよきす @ MX。それなりに面白いやうな氣が。tvkで觀てMXでまた觀てゐる。
平成十八年八月二十六日
ウィッチブレイド @ tbs。この手の御話の中でも可なり面白いやうな氣が。良い終り方をしてほしい。
平成十八年八月二十六日
と言ふか金魚大人氣だな。
平成十八年八月二十六日
電子レンジを使ふと部屋の明りが急に暗くなるのはレンジが相當電力食つてゐるからだらうと思ふのだけれども、今の時代、稼働しても一氣に電力を消費しにかからない家電つてそれなりに需要があるのではないか。
あと冷藏庫。扉の開け閉てをすると、電源オン・オフされるらしいのだけれども、その度に一々電磁波を出すらしくて、アナログのTV放送にノイズが乘る。録畫マニアにとつてその手のノイズは敵。
「IT機器に優しい家電」のやうなものは今後、何處のメーカも發賣を檢討して良いと思ふ。今の家電の擧動はラフ過ぎる。まあ、電波にノイズが乘るとか乘らないとかは、近隣の住宅環境が結構重要で、地域でしつかり對策とらないと駄目だけれども。あと、うちのブレーカのアンペア數がアレとか、その手の問題も「ある」筈だけれども、普通の家庭で電氣を安定して使へる環境なんて、そんなに整つてゐるものでもないのではないですか。

平成十八年八月二十五日

知識が増えるのは悪いことではありません . ただ思うのは態々正字正かなにしなくたっていいでしょうよつか現代字が要らないでしょうだったら正字正かなに統一しちゃえばいいんだし .

わざわざ略字略かなにしなくたつて良いでせうに、だから正字正かなに戻せ――と、ただそれだけの事を言つてゐるのですが? シンプルな發想でせう。
正字正かなに「する」のは「態々する」のではなく、ただ「元に戻す」と云ふだけの事です。正字正かなは既に「あつた」ものなのだから。「態々」略字にしたのは國字改革の推進者。だから、國字改革の推進者には責任がある。しかし、既に「あつた」ものである正字正かなを用ゐる事には全く責任が無い、あり得ない。
「何故戻すの?」とか聞かないで下さいね。國字「改革」が不合理なもので失敗であるのが明かになつてゐるのだから。失敗と判つたら、元に戻す。當り前の・常識的な態度ですね。
多くの略字略かな「主義者」の人々は、意地でも略字略かな「でなければならない事にしてしまはう」と思つてゐるらしいけれども、「失敗がわかつてゐるのに反省しない」つて何ですか。
と言ふか、しちゃえばいいとか言つてゐるのは、「現実に統一されないのだから、それにはそれなりの理由があるんだろw」みたいな言葉を暗示してゐるのである。全て暗示でごまかすのが「優れた」詐欺師の方法。しかし、さう云ふ「現實主義」は、合理主義ではないよ。勿論合理的でもない。現實主義者を標榜する人に屡々勘違ひが見られるのだが、「現實である」=「合理的である」と云ふ事ではない。それが本當なら、「現實に不合理なんて全く存在しない」と云ふ事になる。けれども、そんな馬鹿な話はない。
平成十八年八月二十五日

 句読点がないのは仕様です , カンマとピリオドの方が見やすいと思ったので

仕様ですがはてなのキーワードになつてゐる。

不具合などに対し、「もとからそういうものです」と開きなおるための常套句。

コンピュータ・プログラム以外の場面でも使われる。

例:「デートの日に限って雨が降るのは仕様ですか」

上の例文が「開きなおるため」なる定義の語の例文として適切か何うかは微妙だが、取敢ずsmallball(A bc yamaguchi)氏の發言について言へば、これは最う明かに開き直り。で、「開き直り」と云ふ事は、普通は「本人は兔も角他人から見れば非道い話だ」と云ふ事になりますね。
しかし、見やすいと思ったみたいな言ひ方で、即座に「良い」と認められる事に「なる」と云ふ發想、「何なのだらう」と何時も不思議に思ふ。「なぜ見やすいと言へるの?」のやうな簡單な突込みにも耐へられない、脆い主張に過ぎないのだが、當人、「思った」と力強く言へば免責されるだらうと、不思議な事に確信してゐる。
平成十八年八月二十五日
カラリオ|スキャナ|GT-X900|トップ|エプソン
ドライバダウンロード
以前のMac用のドライヴァはバグだらけで御話にならなかつたのだが、八月十八日に新しいドライヴァが出てゐてそちらは隨分良くなつた。いろいろと困つてゐたユーザの人は更新してみよう。
平成十八年八月二十五日
夏ばて。古書會館の古本市行けなかつた。また水銀體温計壞しちやつた。

平成十八年八月二十四日
吉宗 @ tvk。今囘は雪だるまのホラー。途中からパロディネタ大量投下のカオスな話になつてゐる。毎囘無駄に出來が良いけれども、このあにめ世間で何人くらゐが觀てゐるのだらう。
平成十八年八月二十四日
内閣権力犯罪強制取締官財前丈太郎 @ テレビ朝日。Aパートが比較的普通にをかしい程度だつたのだけれども、Bパートが再び異常にをかしな事に。シリアスな話の筈なのに笑ひが止まらない。何うしてこんなにつつこみどころが多いのだらう。毎囘三十分經つのが早い。
平成十八年八月二十四日
よろしいならば問はう。國字改革は合理的なのかね。「現代仮名遣」「常用漢字」は合理的なのかね。
「現代仮名遣」「常用漢字」に拘る必要はないでせう。基本的に正字正かなを讀める人間は略字略かなも讀める。ならばそれで良いではないですか。讀めないよりは讀めた方が良い。「愚民どもは文章など讀めない方が幸せなのだよ」つて、何處の獨裁者の言葉ですか?
眞の挑戰者は、より大きな困難に挑戰するものだ。新しいものを好きな連中に媚びるのは簡單だ。
現在は過去の先にあるべきである。過去の破壞の先にあるべきではない。
大體、書く時に略すから略字なんだし、書く時面倒とか言ふ前に默つて略字使へば良いだらう。「活字が正字體だと手で書く時も正字體をきつちり書かなければならない!」なんて電波な發想、何處から出て來るのだらう。昔から日本人は書く時には字を略す。歐米でも、活字體と筆記體とは全然違ふ。それが當り前だ。一々活字と筆記とで字體を一致させねばならないなんて主張する奴は頭がをかしい。現代の日本には頭のをかしい奴が多すぎる。逆に言へば、手書きで略字體を使ふからと言つて、何で活字にまで略字を用ゐなければならないんだ? 書く際と印刷する際とで完全に字體が一致しなければならない合理的で必然的な理由を説明出來る人間がこの世にゐるとは思はれない。
と言ふか、讀める文字が多ければ、昔の文獻も今の文獻も樂に讀める。知識があれば面倒が無くなるのに何で「面倒臭い」なんて頓珍漢な事を威張つて言へるのだらう。
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20060823/p9
ちなみに上のリンク先、記事の価値がないかもしれませんしあるかもしれません。俺は「ない」と思ふけれども、まあ一往リンク張つておく。
平成十八年八月二十四日
一往言つておくが俺は「過去が好き」なんぢやあない、過去だらうが未来だらうが、「合理的/役に立つ」物は使ふ。
なあ、「現代仮名遣」「常用漢字」は合理的か? それを使つてゐると「古文を讀めない」事になるのに「役に立つ」と言へるか? そこで「さうだ」と答へる奴は頭がをかしい。
しかし、「合理的=役に立つ」と云ふ發想、何處から湧いて出たのだらう。何か「それつぽい」事を適當に言つて、もつともらしく見せかけてゐるやうにしか思はれない。まあ、そいつの頭の中で「合理的」とはその程度のものなのだらうが、頭の程度が知れる。
平成十八年八月二十四日
誰が何う考へても、「現代仮名遣」「常用漢字」は不合理だ。不合理ならば當然「現代仮名遣」「常用漢字」を拒否する理由となる。ところで、何時も「合理的」「合理的」と言つてゐる連中が、或は、「傳統」「傳統」と言つてゐる西部みたいな奴が、そこで突然「みんなが使っている」と言出す。それは、自分の主張の根據――と言ふより原理をすり替へる事になるのだが、彼等は自分のやつてゐる「詐欺行爲」をさうだと自覺出來ない。なぜなら、彼等は自分逹が現在用ゐてゐる表記を兔に角何であれ結果として正當化出來さへすれば「良い」と思つてゐるからだ。結果として自分の現状を正しいかのやうに見せかけられれば――と言ふより、「ほかのみんな」も何うせ大部分が現状維持を望んでゐるだらうと甘えて、或は、大衆に阿つて、論據なんてものは何うでも良いから取敢ず自分逹を正しいやうに見せかけて、それで自分を安心させようと、無意識でさう思つてゐるのである。
しかしだ、「俺は過去が嫌ひぢやない」と思つてゐるのならば、「過去のもの」である歴史的假名遣や正字體をそんなに憎む事等、出來る訣がないだらう。なのにさうしてゐるのは何う考へても異常。さう言ふと、連中、「いや、憎んでいるんじゃないよw」とか言ひ訣をするに決つてゐるのだが、憎んでゐないのならば何でまたそんなに必死になつて現状を肯定しようとしてしまふのか。連中、「現代仮名遣」「常用漢字」に生れた時から洗腦されてゐるから、その洗腦を解かれようとすると驚くほどの抵抗を示すのである。カルト宗教の支配下で生れ育つた人間が、己れの信仰を否定された時に示す拒絶と同じ。「未だに正字正かな」の人間を「現代の日本人」が侮辱するのは、「未だ信じてゐない人間」を「信者」が侮辱して平氣であるやうなものだ。兩者の違ひは、ただ、人間が多いか少いかの違ひに過ぎない。國字改革なんて少數のカルトな思想の持ち主が指導して行つたもので、「略字略かなの信仰」はカルトな信仰であると言つて良い。ただ、「信者」が増えてしまつたもので、少數派に轉落した正字正かな派を、カルト信者である略字略かな「派」が、安心して嘲笑へる状況が出來してしまつたに過ぎない。
何度でも言ふが、昔からあるものに理由は要らないし、あるべき理由の説明を要求する必要もない。一方、既存のものを否定し破壞しようと言ふのならば、それには合理的な説明が要るし、合理的に行はれるべきであるし、結果として不合理が發覺したら失敗と認めて取り止める必要がある。國字改革は、實施する側が積極的にその意義(「簡單になる!」「便利になる!」と云ふ「效能」)を主張してゐるが、その合理性を主張した事は一度もない。事實、「現代仮名遣」は大量の矛盾を含んでゐるし、その矛盾を指摘された時、改革の唱道者は逆切れして歴史的假名遣を罵つただけである。歴史的假名遣は歴史的に成立したものだから、言はゞ「既得權」が「ある」のであり、「矛盾」だの何だの文句を言ふ意味は全くない。國字改革の推進者は、さう云ふ「不合理な歴史的假名遣を否定する」と云ふ立場なのだから、「現代仮名遣」を完全に合理的なものとしておかなければならないし、さうしてゐないならば怠慢であつて非難されるべきであるし、さう云ふものを國民に押附ける事は許されない。何度でも繰返し言ふが、歴史的假名遣は、歴史的に「ある」ものだから、押附けでも何でもない――押附けと云はれるべきは、後からやつてきた「現代仮名遣」の側である。漢字も同じやうなものだが、現在のPC・インターネットにおける文字コード・文字セットの解決不可能な問題は全て國字改革に原因がある。漢字の字體改革が不合理だから現在文字コード・文字セット周りでごたごたが澤山發生してゐるのであり、それは明かに字體改革の失敗を示してゐる。
國字改革が良い結果を齎さなかつた事は既に明かになつてゐるのであり、なのに未だに「國字改革は良かつた」だの「現状は決して不便でない」だのと言張るのは、單なる無知でなければ、曲學阿世の徒のする事である。

平成十八年八月二十二日
つよきす @ tvk。評判今一つみたいだけれどもそれなりに良いと思つてゐるの俺だけですか? ただ、若本に頼り過ぎ。
ストパニ @ tvk。エトワールさまと六條さんの御話決着。最初の頃から引張つて來た伏線を結構ちやんと囘收して行つてゐる感じ。この調子で最後に巧く全體の話を纏めて、綺麗に終つて貰ひたい作品。
平成十八年八月二十二日
掲示板でますます病んでゐると言はれた。それはさうだらう、無職のひっきーが鬱を抱へ込んでアレするのは良く知られた事だ。何の不思議もない。と言ふか、全てはN・H・Kの陰謀なんだよ。

平成十八年八月二十一日
ARIA→スクランとゼロの使い魔→うたわれるものが衝突。俺はtvk視聽組。ゼロの使い魔。原作改變で御馴染み吉岡脚本、今囘は二つのエピソードを合體させたらしい。結構觀られる。うたわれるもの。前半は愉快な御話、後半は凄惨な御話。可成ネタを詰込んでゐるらしくてばんばん話が進んで行く。録畫でARIA。銀河鐵道の御話。ふたばの實況で住人が電波扱ひしてゐて吹いたが客觀的に見て慥かにその通りだとしか言ひやうがない。
平成十八年八月二十一日
要約。國字改革が不合理であるのは明かだから、俺はそれを拒否する。改革を拒否するならば、改革以前に存在する傳統的な表記を採用するのは當り前。そこで一々「傳統の價値」なんて事を問はれても困る。
平成十八年八月二十一日
「傳統に價値はあるのか?」と疑問を呈する人は「合理的な改革に價値はある」と信じてゐる。ところが、彼等は「合理的でない『改革』には反對だ」と決して言はない。彼等は「改革」と稱したものを全て無條件で受容れる。「改革」と名の附くものは意地でも「合理的」である事にしてしまふ。
國字改革は合理的だつたのか? 否。國字改革は非合理的な押附けだつた。その證據を俺は多數擧げてゐる。俺は、「傳統が合理的だから支持する」と云ふ訣ではない、「改革と稱したものが不合理だつたから反對する」と云ふだけだ。
俺の知る限り、今、國字改革を支持する人は、常に「定着したならばそれは合理的である」と云ふ「論理」を用ゐる。ところが、その論理は傳統に對しても適用可能である。にもかかはらず、傳統を破壊したくて堪らない人々は、その「可能」と云ふ指摘を決して受容れない。受容れたら自分の立場が無くなるから、自説を撤囘しない爲に、今度は傳統を「最早傳統では無い」と言つて否定しにかかる。
平成十八年八月二十一日
國字改革の問題について、改革推進派(行はれた改革を既成事實として受容れてゐる人々も含む)は、自分逹の行動が合理的か何うかを判斷せず、ひたすら改革反對派に傳統の價値の説明を要求する。それはをかしい。國字改革が合理性を缺くならば、それは行はれてはならなかつたものであり、それを拒否する理由となる。
平成十八年八月二十一日
國字改革を支持するならば、國字改革が合理的である事、即ち、「現代仮名遣」「常用漢字」が、それ自體として合理的である事を積極的に證明しなければならない。その證明を拔きにして、歴史的假名遣や正字を否定し、或は改革反對派にそれらの合理性の證明を要求するのは、寧ろ不合理な態度である。
既に存在するものは存在するのであり、その存在を消し去らうとするならば、その行爲に正當性がある事を行爲者は積極的に證明しなければならない。既存の歴史的假名遣・正字を廢棄しようと言ふならば、廢棄すべき妥當な理由と、それらに取つて代る「現代仮名遣」「常用漢字」が歴史的假名遣・正字よりも合理的である事の證明が必要である。
「難しい」のが「簡單になる」、と云ふのは、合理的な説明でない。「こつちに來れば樂になるよ、こつちにいらつしやい」と云ふ甘言である。國字改革の推進者が常に言つたのは、その種の甘い言葉だけである。だから、改革は不合理だつた・「現代仮名遣」「常用漢字」は不合理である。それは決定的に言ふ事が出來る。合理的である事を望むならば、不合理な改革は拒否する事が義務である。
俺の知る限り、國字改革を合理的であると云ふ理由で支持し、「現代仮名遣」「常用漢字」を合理的であると云ふ理由で支持してゐる國字改革の支持者は存在しない。即ち、彼等は全員、不合理な判斷に基いて行動してゐる。彼等は、改革推進者の甘い言葉に誘はれて、合理的な判斷を抛棄してゐる。
平成十八年八月二十一日
Kuwata Chikara氏が大袈裟に傳統やら權威やらを「拒否する!」と宣言して見せるのも――いや實際それは宣言でしかないのであつて、そこに合理的な論據など何もない――「俺は今更表記を變へたくない」と云ふ、ただそれだけの感情的な判斷を、もつともらしく見せかけようと、さう云ふ意圖があるだけなのだ。「俺は自分の今のやり方を變へたくない」――それは合理的な判斷と言へるだらうか。寧ろ論理を超越した感情論と言ふべきではないか。
平成十八年八月二十一日
現在でも正字正かなを用ゐてゐる人々は、慥かに「傳統主義者」もゐるだらうけれども、一方、「不合理な國字改革を認められないから暫定的に歴史的假名遣等の既存の表記を用ゐてゐる」と云ふ人もゐる。俺は後者。
ねえ、「現代仮名遣」「常用漢字」の何處が合理的なの? 「傳統」嫌ひを宣言する人々に聞きたい。
多分、「歴史的仮名遣いだって不合理だよ?」のやうな囘答が返つて來るだらうけれども、そんなの答になつてゐないよ。歴史的假名遣よりも「現代仮名遣」の方が「總體として合理性の面で決定的に優位にある」と云ふ事を證明して見せて呉れよ。それが出來ないなら「私は感情論で國字改革を支持しています」と言つたら何うだ。
平成十八年八月二十一日
と言ふか、俺の觀察に據れば、傳統とかを否定する人は、感情的に傳統を嫌つてゐるに過ぎない。
彼らの主張を良く見てみると良い。「傳統の破壞は合理的である」と「合理的とは、傳統を破壞する事である」の間を往つたり來たりしてゐる。彼らの主張は屡々循環論法に陷つてゐる。
平成十八年八月二十一日
改革が行はれた時、「果してその改革は良いものなのか?」と問ひを投掛ける。その問ひに對して、改革派が自己を擁護する。それが當り前だ。
改革派が却つて「お前らに改革に疑問を投げつける權利があるのか?」等と言ふのは開き直りに等しい。そして、その種の開き直りが政治上の實踐に移されると、それは反對派の粛正になる。フランス革命をみよ。
保守派である筈の野嵜が傳統の定義なり傳統の價値なりについてはぐらかすやうな事を言ふ――さうすると、傳統破壞派はがつかりする(破壊したいにもかかはらず、彼等は傳統に期待を持つてゐる)。ところが、實はさう云ふ保守派の「曖昧な態度」は、それで全く問題がないのだ。寧ろ問題なのは、改革派の曖昧な態度である。
歴史的に、保守派の出現は、改革派の出現に續くものである。改革派の行ふ改革の行き過ぎ、それに「待つた」をかける事、それが保守派の歴史的使命であつた。だから、保守派の態度はそれ自體として主體的である事があり得ない。それを保守派が愧ぢる必要もない。
平成十八年八月二十一日
話は變つて。
平成十八年八月二十一日
ヨーロッパは「罪の文化」で日本は「耻の文化」である、と云ふ對比は徹底的に否定され、その結果、「日本は耻の文化である」と云ふ定義は忘れ去られてしまつた。けれども、この事は依然、日本の諸現象を説明するのに利用出來る。
嘗て高度成長期、「おとなりがテレビを持つてゐるのにうちは持つてゐない」と云ふのは耻であつた。テレビの普及は「耻の文化」が齎した、と言ふ事が出來なくもない。今、「地デジ」を普及させようと官廳やTV局その他ががんばつてゐる。なのに一向に普及する氣配はない。それはなぜかと考へたら、「別に地デジが觀られなくても耻ではない」と云ふ事實が「ある」。「見え」とか「耻」とかが全く氣にならない領域で、流行は發生しない。
インターネットにしても、「今の時代、インターネットも知らなければ耻かしい」とかいつたアレな發想が一時期おつさん連中の頭を支配して、それでビジネスの世界でインターネットの普及が進んだ事實がある。

平成十八年八月二十日
ぶつちやけた話、英語で書かれた文章よりも正字正かなで書かれた文章の方が讀む氣が起きる。正字正かなの場合は解らない單語も無いし知らない漢字も推測で讀めたり讀めなくても字形で意味は解る事が多かつたりするし解らなくても漢和辭典を引けば問題ないしそもそもそんなに解らん漢字も無いから問題ないが、英語の場合全然知らない單語が山のやうにあるのでずつと敷居が高い。俺は文章を個別の文字單位で認識すると言ふよりも、文脈で全體の流れを把握する事が結構多いので、その文脈すらも解らないレヴェルで意味が解らないと云ふのは讀む上で極めて大きなハンデになる。何となくかう云ふ文脈だらうと推測して讀むのは出來なくはないが、しかしこの單語はかう云ふ意味だらうと推測しながら讀むのはしんどいし、屡々推測すらも出來ない。基礎的な單語力がないのだと言はれればそれまでだが、さうは言つてもエリオットとかパウンドとかになるとW3Cの勸告を讀める程度の單語力では齒が立たない事があるんだよ。
でも何よりもでかいのは、正字正かなで書くのは日本人だが、英語で書く奴は外人であると云ふ事だ。一體英語圈の連中が肚の中で何を考へてゐるのか、さつぱりわからん。何か合理的な理由があつて物を言つてゐる事は、判るやうな氣がするけれども、日本人の感覺と全然違ふから意味だけ判つても違和感があるし、何うも英國民の文章の文體と云ふ奴が俺の肌にはさつぱり合はない。W3Cの勸告程度なら云々エリオット云々。あ、アメリカ人の文學はさつぱり面白くないね!
と言ふか、或程度正字正かなを知らないと古本集めは樂しめん。
平成十八年八月二十日
と言ふか、「旧かななんかクソの役にも立たねえ」とか言つてゐる連中は、自分がクソ役にも立たねえ存在になつたら何うするんだ? 自分が無職になつた時の事を想像してみろ。
平成十八年八月二十日
「旧かな派は現代仮名遣いよりも旧かなの方にアドバンテージがあるから旧かなを支持しているんだろ!」とか、をかしな事を言ふ人がゐる。「伝統なんて全く意味がないんだよ、アドバンテージだけが問題なんだよ」とか。「個人でやってろ」とかもう最低。
さう云ふ人に限つて、「あんたは要なし、明日から出社する要を認めず」と、全く根據ナシに企業から通告されて一方的に解雇されれば、眞赤になつて怒つて訴訟でも何でもして復職だの補償だのを要求する。「だつて、労働者が職についてゐれば、それは文句なしに権利でしょ」と言ふ訣だ。ところが、「旧かな」が全く根據なしに一方的に破毀されても問題視しないし、「アドバンテージ」だの何だのと言つて積極的な價値を主張するやう主張する。「伝統」はそれだけで存在を主張し得る十分な權利なんだよ。傳統は、良い惡いの問題ではなく、「優れてゐる」とか云つた價値の問題で論ずる事は許されず、兔に角「あつた」事を以て現在も「ある」事、そして今後も「あり續ける」事を權利として主張して良い。過去に「あつた」事、現在「ある」事、そして未來に於ても「あり續ける」事は――それが傳統と云ふものだが――「價値がある」とか「役に立つ」とかそんな理由附けを拔きにして、問答無用で認められる筈のものであり認められるべきものだ。
「博物館に飾つて置けば良い」とか、そんな事を言つてしたり顏をしてゐる馬鹿もゐるが、傳統は「生きてゐる」から意味があるのであつて、死んだものを飾つておいても何の意味もない。
英語を教へさへすればそれで日本人は十分英語を喋れるやうになるとか、その程度の發想しか持てないのが「アンチ旧かな主義者」の頭の程度を示してゐるが、頭の中が空つぽの人間が幾ら英語を喋つても空つぽの内容の文章しか出て來ないに決つてゐる。教育において重要なのは、意味のない言葉詰らない觀念を垂れ流せるやうにする事ではなく、ちやんと内容のある文章を構成出來る知性を育てる事だ。それが解つてゐるならば、纔かな期間にしか生きられない人間にとつて長期に亙つて蓄積された傳統が自己を形成する上で大變貴重である事は自明の話。何んな國民でも長い歴史に培はれた生き方があつて、それが傳統と云ふものだが、その傳統が常識を作り出す。そして、その常識を知つてゐると云ふ事が人間としての厚みを作り出すものだ。人間としての厚みと言ふのは、何も貫祿とか權威とか、そんな事を言ふのではない、普通に他人に親切に出來るとか、目上の人間に敬意を拂へるとか――極當り前の事だ。ところが、さう云ふ人間として當り前の事が出來ない人間が、現代の日本では増えてゐる。傳統を輕視し、ひたすら目先の利益を追求した事が、その原因となつてゐる。古文、漢文――それらの教育が明治以來、大して意味をなしてゐなかつた事は慥かにさうである。けれども、それは教育の方法が間違つてゐたからであつて、古文や漢文それ自體に價値が無い事を意味するのではない。寧ろ、古文や漢文の傳統から切離されて、それで現代の日本人は生き方そのものを失つてしまつたと言つて良い。
現代の日本人は、中途半端に歐米化されつゝ、一方で、根柢の部分では古臭い日本人的な因習を殘してゐる。傳統と云ふものの重要な意義は、惡しき因習に對してそれを意識化し、同時に反省の機會を與へる、と云ふものだ。同時に、外來の文化に對しても、それを受容れる一方で、それを批判する根據として、傳統は機能する。生き方の上で、或種の生き方を我々は最終的に撰擇する。現在、我々は、意識の上では餘りにも單純に歐米文化を受容れてゐる一方、無意識の中で餘りにも舊式の發想を維持してしまつてゐる。それらを客體化し、對象化する爲には、傳統の意式的な恢復が必要となる。傳統は、なるほど金錢的に、目に見える形で、役に立たない=一錢にもならない。けれども――御金にならないならば、それは全くこの世に存在する意義はないのか。傳統にも重大な意義はある。大體、「金にならない事」でも人間は動くのである。「金になるか、ならないか」だけに拘るのは金の亡者のする事だ。人間のする事ではない。
平成十八年八月二十日
と云ふのは、以下の記事に對する反論。
http://return0.dyndns.org/d/2006/08/19
平成十八年八月二十日
ヤクザのやうな存在がなぜ日本では受容れられてゐるのか、に關しては、会田雄次の優れた考察がある。会田雄次『日本の風土と文化』(角川選書55)。
平成十八年八月二十日
と言ふか、「傳統の繼承」を、Kuwata Chikara氏は「死んだ傳統の繼承」と極附けてゐるやうだ。Kuwata Chikaraは、英語で喋るにしても、プログラミングをするにしても、表現する内容とか、作るプログラムのアイデアとかには、人間のセンスが現れる、と云ふ事が全く解つてゐないし、敢て解らない振りをしてとぼけ通さうとしてゐるやうに思はれる。そして、全ての人間のセンスは、傳統によつて培はれるものだ。
平成十八年八月二十日
とか書いてゐる間にとなグラ終つちやつたよ。Kuwata Chikara氏は責任をとれ。
平成十八年八月二十日
私が國語國字問題で一番注目してゐるのは、「**する自由」を「**されても具體的な被害は何もないけれど、とにかく嫌だと思ふ心」によつて押し潰さうとする事に、多くの人々が賛成してゐる事だ。
平成十八年八月二十日
西野神社 社務日誌 - ダブルスタンダードの政教分離
と言ふか、何處の國でも「追悼」に關して政教分離なんて馬鹿な事はやつてゐない。
そもそも完全な政教分離を實現しようと言ふのならば、「追悼」なる宗教的な概念を政治家が口にする事自體が許されない事になる。
大體、創價學會なる宗教團體と結び附いてゐる公明黨とか、西歐の傳統であるメシア思想の末裔と言はれるマルクス主義なる「擬似宗教」に基いてゐる共産黨とか、「政教分離が出來てゐない」政黨がいつぱいあるのだから、それで一々「政教分離」なんて言ふ事自體がをかしい。西歐にもキリスト教の政黨が澤山ある。大體、平和主義だつて一種の宗教だし。
平成十八年八月二十日
JavaScriptをonにしたOpera 8.54で、はてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナとかはてなアンテナ - 見晴らしの遠眼鏡とかを見に行くと、データをロードしてから暫くの間、異常なまでにOperaが重くなる。何なのだらう。はてなアンテナ - トリス・ガリのアンテナでは何も問題ナシ。
平成十八年八月二十日
http://return0.dyndns.org/d/2006/08/20
「伝統、権威、宗教への憎惡」を煽り立てる「左翼」「進歩主義者」ほど現代社會で問題になつてゐる存在もないのだが?
「欺されないようにしましょう」なんて大袈裟に言立てる善意の左翼に限つて、をかしな間違ひを平然とやらかしがちだ。傳統を破壞し、既存の權威を否定し、宗教を大衆の阿片と極附けた共産主義者が、これまでどれほどの過ちを冒した事か。
共産主義が間違つてゐたのではない、唯物論の的用が間違つてゐたのだ――さう考へる現代人は、屡々進歩主義・合理主義・價値相對主義を安易に信じ込む。しかし、さう云ふ物質主義で割切れるほど、人間は單純ではない。傳統や權威、宗教にもそれなりの眞實が「ある」から、それらは「信じられた」のだ。大體、過去の多くの人々が「騙されて來た」と云ふのが事實であるならば、それは「人間が本質的に愚かである」事を證明するものだ。ならば、さう云ふ「愚かな人間」が、今になつて「完全に誤から免れ得てゐる」とは、寧ろ論理的にあり得ない事ではないか。
何うもKuwata Chikara氏は「現代人は既に完全に蒙昧から脱却してゐる」と勘違ひしてゐるらしい。さう云ふ發想をしてしまふKuwata Chikara氏を、俺はとてつもなくおぞましい存在だと思ふ。なぜなら、過去の人間を全て「愚か」と極附け、現代に生きる「我々」を過去の人間とは全く違つた「利發」な存在であると――いやいや、Kuwata Chikara氏は、「今でも騙される愚かな人間が澤山ゐる」と言ひたいのだ。だからこそ、「騙されるな」とKuwata Chikara氏は善意で忠告してゐる訣だ。けれども、俺には、Kuwata Chikara氏の態度は、「俺はさう云ふ愚かな人間とは違ふのだよ!」と云ふ傲慢な宣言に見える。それはさうだらう、「伝統、権威、宗教」をKuwata Chikara氏は非難するが、それは「伝統、権威、宗教の否定」でしかなく、單純に「反伝統、反権威、反宗教のすすめ」を説いてゐるに過ぎないからだ。俺にはKuwata Chikara氏の主張も「矢鱈と偉さう=權威的」で、「一種の宗教に屬する」ものであるやうに見える。Kuwata Chikara氏が非難する人々とKuwata Chikara氏の違ひは、傳統的か反傳統の立場であるか、の、たつたそれだけの違ひでしかない。そして、その「たつたそれだけ」と云ふ事を自覺出來るやうになる爲には、傳統とか權威とか、或は宗教とか、さう云つたものを「自分の外にあるもの」「自分とは無關係のもの」と看做して考へないやうにするのではなく、「人間一般に屬する事」即ち「我が事」として考へる態度が必要である。
何か知らんけれども、「俺は過去の因習から完全に解放たれた!」「俺は現代人であつて、過去の全ての人間とは斷絶してゐる!」と、何の根據もなく信じてしまつてゐる人が異常なまでに澤山ゐる。にもかかはらず、過去から我々人間は途切れる事なく社會を作つて來てゐるのであり、さう云ふ社會に過去から引繼がれてゐるものは存在する。それを「單純に切捨てる」と云ふのがKuwata Chikara氏の立場なのだが、それは無理だ。大體、何であれ切捨てればそれはアンダーグラウンドに潛つて惡さをするものだ。その「惡さ」の問題を俺は重視する。寧ろ現實社會では、「切捨てられないもの」としての因習・習慣を知り、それと如何に巧くつきあつて行くか、が問題となつて來よう。そこで無意識的な因習と對立的に、意識的に確立された傳統と云ふものを、我々は區別して知つておかねばならない。因習が「惡」であるならば、それを抑へる「善」の存在たるべくして傳統が要請されて來た(ここで言ふ「善惡」は、道徳的に正確な意味でのそれではない)。さうした傳統を、現代人の觀點から單純に切捨てる事は、屡々行はれる事である。けれども、さうして切捨てた時に、代りに未知の・既知の代替物Xが入り込んで來る――我々は人間であるから、全く即物的・唯物的・合理主義的に生きる事など出來ない。そのXが、代替物である限り、代替される前のものよりも常に劣る事は論を俟たない。そして、そのXの存在を、「切捨て」を「容易に出來るものだ」と考へる人々は、無視しようとする。存在が明かであつても「ないもの」と極附け、極度に硬化した態度をとる。それこそ一種の詐欺であるのだが、他人を騙す以前に自分を騙してゐるのだからよつぽどたちの惡い代物だと言へる。
宗教が「他人を欺す」ものである――なるほど、或意味、それは當つてゐる。けれども、では、人は何時如何なる場合にも「欺される」べきではないのだらうか。宗教を切捨てたマルクス主義が、宗教の代替物と化し、人類救濟のメシア思想と化して、却つて宗教よりも冷酷非道な人々の行爲を誘發した事は、我々の記憶に新しいところである。西歐では、單純な近代主義を反省し、切捨てられた宗教・傳統の復活が、前世紀の始めより既にひつそりと行はれてゐる。それは例へばT.S.エリオットの詩劇であり、クリストファ・ドーソンのカトリシズムである訣だが、それがマルクシズムやサルトルの實存主義との平行現象であつたが爲に、現代の日本人には「過去のもの」として再び「切捨て」が行はれてしまつてゐる。しかし、では、と今の思想界を省みる時、其處にあるのは以前にも増して不毛な世界である。
西歐で自然に發達した近代なるものを、全くの他人のものとして受容れねばならなかつた日本に於ては、西歐と違つて一度に重疊的に受容れねばならない宿命を持つ。その爲に、一面的な近代萬歳の思想――或は、近代の一面に對して萬歳する思想――を、Kuwata Chikara氏のみならず、多くの日本人がとつてしまつてゐる。近代の日本史を檢討すると、反動思想家の存在以上に、多くの進歩的思想家の存在が目立つ。そして、反動的な思想家が惹起こしたとされるあの戰爭ですら、寧ろ近代化の最先端に立つてゐるべき軍隊が主導して行はれたものである事を指摘せざるを得ないのである(兵器と云ふものは、合理的に作られるものだ)。政治的な指導者を看ても、過去の傳統の支配下にあつた者・權威に抑へ附けられてゐた者の方が寧ろ合理的な指導を行つてをり、さうした傳統から切離され――と言ふよりは、日本の傳統(と、それを象徴する天皇)を自らの信念・利益の爲に利用する事を覺えた合理主義的、否(惡い意味で)プラグマティックな(當時の)「新世代」の者の方が惡質な政治を行つたと言つて良い。
平成十八年八月二十日
此處まで書き毆つて來て急に空しさを覺えたので打切。何んなに長く書いても――と言ふより、長く書けば書くほど、相手はこちらを異常者扱ひする事が判るからだ。歴史は人文科學に屬するものである。歴史的な意見は自然科學のやうに必然的な論理ではない。ところが、人文科學の領域に屬するものであつても、唯物的(共産主義的、と云ふ限定された意味ではなく、傾向としての唯物的と云ふ事)な人はそれを自然科學の中に勝手に引込んでしまつて、自然科學の持つ合理性を持たないと言つて、單純に拒否する。その結果が「傳統・權威・宗教」の單純な否定なのだが、この「單純さ」が彼我の思想の交流を決定的に不可能にしてゐる。詰り、「自然科學のやうな發想をするな」と俺が幾ら言つても、その發想以外にあり得ないと言ふのが彼の信念であり、「自然科學の領域における必然的な論理=合理的な説明」を彼は要求し續け、それが無いと判ると「私は納得しません」と云ふ極めて單純な囘答で話を濟ませてしまふ。最う其處まで俺には話が讀めてしまふのだ。
根本的な價値觀・世界觀の相違が「ある」訣だが、この種の相違を彼が絶對に認めない――或は認めてゐるからこそ、「自分だけでやつて呉れ」と説得を拒絶する事は、俺には判つてしまつてゐる。理解と云ふ次元に於て既に壁を作られてしまつてゐる人間に對して説得を試みる事くらゐ、空しい行爲も無い。そして、Kuwata Chikara氏に限らず、途轍もなく多くの現代に生きる日本人が、最早この種の價値觀の支配下に「ある」のである。何を書いても最初から受附けられる筈がない。それが目に見えてゐる。だから空しい。
あー、Kuwata Chikaraさん、俺の文章もまた何うせ「電波かヨタ話か忌避すべき何か」なのですよ。氣にしないで下さい。さやうなら。
平成十八年八月二十日
そもそも「正しい」と云ふ事が日本では餘りにも輕視されてゐる。のみならず、根本的な勘違ひから、「正しい」と云ふ事に過剩な期待を抱く傾向がある。相對的な「正しい」に期待し過ぎるのが間違ひなのに、期待すれば當然のやうに「何か良い事」が「ある」だらうと思ひ込んでしまふ。しかし、繰返すが「正しい」と云ふ事は相對的なものだ。そんな漫畫ではあるまいし、正義の身方が何時でも勝利し、「善人」が報いられる、なんて、そんな事は滅多にない。ところが、何を勘違ひしたのか、「正しい」事をすれば「儲かる」のやうな變な思ひ込みを抱いてしまふ人がたまに出て來る。さう云ふ人は現實への反動で屡々「正しい」に對する無茶苦茶抵抗するやうになる。
日本人にはなぜかさう云ふ妙な幻滅を味はふ人が續出する。さう云ふ人は、物凄い勢ひで「正しい」に疑問を呈し、依然として「正しい」と云ふ事を信じてゐる人を猛然と攻撃する。否、今、曖昧な位置にゐる人々を積極的に教化して、「正しい」なんて「馬鹿な事」だと信じ込ませようとする。ところが、ここで我々は彼が「『正しい』なんて事は正しくない」と云ふ觀念を「正しい」と信じてしまつてゐる、と云ふ變な事態が生じてゐる事を認識せねばならない。
http://return0.dyndns.org/d/2006/08/20#s2

俺が伝統それ自体にろくすっぽ価値を見出していないこと、正しいという言葉にかなり懐疑的になってしまうことが多いことを考えると、多分これ以上は確実に平行線でしょう。そもそも「伝統」それ自体の捉えかたや「正しさ」に対するスタンスが根本的に異なるようなので。

明かに、「正しい」と云ふ事に過剰な期待をして、屡々裏切られて幻滅した人間の言葉である。
根本的に俺、野嵜は傳統と云ふ事に價値は「ある」と云ふ立場だが、そもそも「價値」の觀念そのものが彼我で異る。彼は「物質的に豐富になれる」=「價値がある」と考へてゐるが、我は「精神的に豐かになれる」=「價値がある」と考へてゐる。彼は「物質的に豐かになれば、精神的な滿足が得られる」と信じてゐる。俺は「物質的な充足と精神的な充足の關係は相對的な關係に過ぎない」と知つてゐる。
平成十八年八月二十日
要約。今の時代、「宗教」「權威」「傳統」――或は「正しい」と云ふ事が餘りにも疑はれ過ぎてゐる。寧ろ、さう云ふ状況をこそ我々は疑ふべきだ。
平成十八年八月二十日
「傳統」「權威」の類を否定し、「正しい」なる觀念に懷疑的だつた連中が、國字改革をやつて「現代かなづかい」「当用漢字」の押附けをやつた、と云ふのを俺は許せない。Kuwata Chikara氏に言はせれば、さう言ふ事は個人的にやってる分にはいい筈の事だ。ところがKuwata Chikara氏は、個人的にやってる分にはいい筈の事であつても、それが「一般化」すれば率先して從ふのである。「一般化」が何んなに惡質なやり方でなされたのであつても、結果として「一般化」されたのであれば、Kuwata Chikara氏は全く氣にしない。Kuwata Chikara氏は、結果だけ見て、それが自らにとつて利益になるか何うかだけで物事を判斷する。それは現代の日本人にとつて一般的な態度だが、それをやつてゐるから諸外國の人々に日本人を嫌はせる結果となつてゐる。
「現代の日本人の態度は身勝手である」と云ふ事に、日本人は無自覺でゐる。現代の日本人は、「自分さへ良ければそれで良い」と云ふ發想で常に行動してゐる。自己中心的で傲慢な態度だが、それを「當り前」と思つてゐる日本人は自覺出來ない。却つて自分に對して批判が來れば、「批判するな」「自分逹だけで勝手にやつてろ」のやうな不遜な言葉を投げ返して威張る事になる。
根本的な「價値觀の違ひ」を言つて、相互間に決定的な溝を設置し、相互理解を最初から否定するやうな態度をとる。「違ふ立場ならばあつちとこつちで勝手にやつてゐれば衝突しないでしょ?」と云ふのが「平和主義者」の發想なのだが、そんなに簡單に世の中は割切れない。さう云ふ「互ひの違ひ」を強調して、「批判を封殺する」事、それは結局のところ「自己防衞」の爲の戰術でしかない。「俺は絶對に説得されないぞ」と云ふ居直りは、屡々挑發的な態度と捉へられ、外部の人間を苛立たせる。それを、居直つてゐる現代の日本人は全く理解しない、或は、理解してゐてとぼけてゐる。「自分は相手のテリトリに入らない」だから「俺は惡くない」=「惡いのはお前らだ」――日本人が屡々使ふロジックである。これ程身勝手な「ロジック」も無いのだが、實際、日本人以外の人間はさう思ふものらしい。相互の干渉それ自體を認めてこそ、人間の間にはコミュニケーションが成立つ、そのコミュニケーションの存在を認めるがゆゑに自由主義・民主主義と云つた政治の方法があり得る。ところがそれを現代の日本人は根本的に否定しつゝ、にもかかはらず自分逹の立場を「自由主義」「民主主義」と「僭稱」する。諦めた諸外國が、日本に對して何も期待しないやうになり、常に金を引出す事だけを考へるやうになつたのも自然な話である。ところがそこで日本人は「金を出したのだから俺は偉いのだ」と云ふ困つた發想をし始める。さうしてどんどん惡循環に嵌つて行く。
依然、世界で正義の觀念が通用してゐる現状、或は、そもそも人間が「正しい」と云ふ事を屡々信じて行動してゐる現状、單純に「『正しい』なんて事は疑はしい」等と言つて切捨てるのは、寧ろ非現實的な態度である。そして、さう云ふ「切捨て」の行爲自體が、或種の正義を信じてゐる事の證據でもある。我々人間は「正しい」なる觀念から逃れ得ない事を自覺して行動する必要がある。正義の名の下に行はれた「詐欺」を指摘するKuwata Chikara氏だが、しかし、「正義を否定する」と云ふ事も「正義」なのであり、さう云ふ「正義」と自覺されない正義に據つてもまた「詐欺」は行はれ得る。我々は、だからこそ、自らの行爲における「正義」に自覺的である必要がある。單純に「正義を疑へ」なんて事を言つて、無意識の領域に「正しい」の觀念を押しやつても、「正しい」の觀念は却つてよりひねくれた形で我々に復讐するであらう。
重要なのは「自覺的か、無自覺であるか」である。無自覺になされる「正義」の行爲ほど、たちの惡いものはない。
俺には「Kuwata Chikara氏のやうな人々こそ、無自覺のうちに自分の正義を押附ける迷惑な存在である」としか思はれない。國字改革でだつて、改革派は「言葉の合理化」の名の下に、「個人でやつてゐれば良い」やうな表記を多數の人間に押附けたぢやないか。ところがKuwata Chikara氏は、「押附けを許せない」と言ひながら、「押附けは、成功したら許せる」と考へてゐる。かう云ふ「現實派」の發想は、他者を攻撃する際と、保身の際とで、基準を根本的に變へて、それで平氣でゐると云ふ發想だから、俺は許せない。「許せない」と云ふ發想は「正しい」と云ふ發想と結合してゐるものである。それは――「許せない」「正しい」と云ふ事は――實は價値觀そのものであり、價値觀は精義の觀念と必然的に結合してゐる。正義を疑ふとは、根本的に價値觀を疑ふ事だ。價値觀を認めるとは、多樣な價値觀を認める事である。一方、價値觀=多樣な價値觀を否定すると云ふ事は即ち一つの「價値」が――否、「事實」が決定的に「ある」と信ずる事にほかならない。渠にとつて、價値はない、あるのは全て「事實」である。ところで、その「信ずる」と云ふ事を、その主體が自覺しないとしたら……。その主體がなす行爲――客觀的に見た時、それは屡々「詐欺」と呼び得るものではないか。我々が眞に警戒しなければならないもの、それは自己欺瞞である。
平成十八年八月二十日
新井素子研究会
今更「正しいHTML!」とか「スタイルシート!」とか言つて紹介するのも何だけれども、まあ、一往。

平成十八年八月十九日
それはべつとして... - 昨日の日誌について。

正しく批判されてゐるならば對立意見でも不愉快ではないのは勿論です。問題は意見を讀ませてくれないことから反論も出來ないリンクに曝されることにあります。

それは同感で、だから「義」のやつてゐる事を當方「嫌がらせ」と書いてゐる訣です。
俺としてはリンクを張つて批判するにしても、ちやんと理由を擧げて、批判の妥當性を檢證できるやうにしてゐる積り。ところが「義」や「義」を支持する連中は、「リンクを張つて批判した」と云ふ現象だけを捉へる。そして「批判なんて事をするから惡い」と極附ける。「批判=惡い」と云ふ極附けが「義」にとつては自らの行爲の「復讐」としての正當性を保證してゐるものに見える(らしい)のだけれども、さうではない、と云ふ事は解つて貰ひたいものですよね。「義」の言ひ方、あれに當方は反論し得ません。俺のみならず全ての人間が、あゝ云ふ攻撃のされ方をしたら、論理的な反論が出來ません。「論理的に反論する」と云ふのが不可能な攻撃の仕方は、しては行けない。そんなの當り前だと俺は思つてゐるのですが、「何んな手段であれ結果として相手を默らせられれば勝利である」と信じてゐる「義」のやうな連中にして見れば、そんな野嵜の考へは受容れられない。
「批判の妥當性を檢證出來るやうな形」の批判ならば、反論は論理的には可能です。批判された側は、反論出來るならばその時には反論すれば良いのであり、反論出來なければ「負け」を認めればよろしい。それで議論が成立するのですから。ところがそこで「批判するな」式の事を言返す人がゐる――剩へ「リンクを張るな」と言ふ人がゐる。それはをかしいだらうと、さう俺は何時も言つてゐる。議論が成立し得るやうな形で俺は何時も物を言はうとしてゐます。そこで議論を成立させまいとするから俺は怒る。ところが、俺のやうに議論を成立させようとすると、議論拔きで暴力に據つてでも自分に都合の良い方向に世間を持つて行きたい「義」なんかは怒る訣です。
平成十八年八月十九日
ウィッチブレイド @ tbs。バトルシーンはアレながら可なり叮嚀にキャラクタの關係を描いてゐて終盤に來て無茶苦茶面白い事になつてゐる。十九話。後半急展開。そろそろ話が纏めに入つてゐるけれども終つてしまふのは寂しい。きちんと擴げた風呂敷を疊めたら佳作になりさう。ただ新しいOpはNG。

平成十八年八月十八日
それはべつとして... - "Anti-optimization"の立場から。
「リンクを張る側」も空氣を讀んでそれなりに「リンクを張つても大丈夫さう」な處を狙つて張らうとはしてゐるのだけれども……。

平成十八年八月十七日
吉宗 @ tvk。なぜかホラーとして矢鱈と出來が良い。
平成十八年八月十七日
内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎 @ テレビ朝日。財前さん、詰めが毎囘甘いです。今囘も何だか色々へん。
平成十八年八月十七日
大和但馬屋ハロゲン氷酢酸日記

この記事を支持の意志とともに紹介された乱土さんのことをどうかうは思はないけれど、自分はかうした問題を「国益」のみの観点で扱ふ姿勢そのものに大きな疑問を感じる

同感。
内田樹の研究室: 学習障害性ナショナリスト
「説明して呉れてそれに納得出來れば支持しても良い」と云ふ、矢鱈と持つて囘つた言ひ方。「説明しないのは知的怠惰である」と非難してゐるのだが、小泉首相は政治家であり評論家ではない。
松原氏が屡々知的怠惰を非難してゐるし、だから「松原信者」を非難する連中が屡々知的怠惰と言つて「信者」を非難する。その時「なぜ知的怠惰であるか」の根據として、常に言ふのが「説明しないから」であるが、最うこのパターンが大好きで大好きで仕方がない連中がゐると云ふ事が判つてしまつて、俺はうんざりしてゐる。何であれ「説明しない」ならば「知的怠惰である」と云ふのが非難する連中の「論理」だが、そんな論理は存在しない。「説明する必要がない」事を言つてゐる人に對して「説明しない! 知的怠惰だ!」と非難するのは馬鹿だらう。ところが、連中はそれが解らない。「アンチ松原」の連中は、非難を尤もらしく見せかける目的で、「信者」の言つてゐる幾つかの事を適當に結び附け、それらに因果關係があるかないかを全く檢討せずに「矛盾だ!」と極附ける。そんな非難の仕方があり得るものか何うかを考へないのだから、そつちの方が餘程知的に怠惰だと言へるのだが、それが連中には全く理解出來ない。頭が惡いからだが、それはさて置き、内田氏も「説明しない! 知的怠惰だ!」と言つて小泉氏を罵つてゐる。小泉氏の發言のあつちとこつちを適當に結び附けて「矛盾」と言つてゐる訣ではないけれども、内田氏の場合も罵るのが目的で、理由は明かにでつち上げたものに過ぎない。
「知る權利」のやうな馬鹿な事を内田氏は言つてゐるが、そんなものを振りかざして政治家に語らせようとするのはをかしい。民主主義の社會で、有權者は完全に政治家の主張に同感して投票するものではない。當り前の話だ。ただ、當座、自分逹の希望に近い事を政治家が「する」と言ふから、投票するに過ぎない。だから、政治家がそんなに一々説明なんぞする必要はないのであつて、その行爲が自分の目的に近ければ有權者は支持すればよろしい。説明は評論家が勝手にする事だ。もちろん、民主主義の社會に於て政治家は有權者に媚びる事で政治家に「なれる」のだから、異常な國である我が日本國に内田氏のやうな政治家に説明を求める人が極めて澤山ゐるが故に、説明して見せる事で有權者に阿つて當選を狙ふと云ふ政治家の戰術が「ある」かも知れない。けれども、それを正常な政治のあり方として唱道するのは如何なものか。内田氏の求める政治のあり方が、俺には寧ろ解り過ぎる爲に、俺は内田氏を支持出來ない。
また、ナショナリズム嫌ひの内田氏に尋ねたいが、では、あんたは自分の國が嫌ひで嫌ひでしやうがないのか。ならばなぜあんたは國益なんて觀點から話をしようと出來るのか。自分の國が嫌ひならば、「自國にとつて爲にならない事をした」小泉首相をあんたは支持する筈だ。内田氏は何を考へてゐるのだらう。いや、内田氏に限らない、自虐史觀の連中がをかしいのは、自分の國が嫌ひで、常に自國に不利になるやうな事を言ひながら、なぜか「國益を損ふナショナリズム」を非難する事だ。しかし、一概にナショナリストを知的怠惰と極附ける内田氏だが、さう云ふ「一概に極附けて非難する」と云ふ行爲そのものが知的怠惰である事に、何うして氣附かないのか。俺は内田氏が知的怠惰な人間である事を疑はないし、だからこそ例のアレクセイが内田氏を持上げてゐるのだと信ずる。
それにしてもおぞましいのは、内田氏が私は小泉純一郎を「狡猾な政治家」だと信じたいと思ってきたが、五年にわたるその期待はどうやら報われぬものだったようである。と、嫌な人間が常にするやうに、氣に入らない對象を見下して見せた事である。憎んで罵倒するのは相手の立場を認めてゐるからする事だ。罵倒する主體は、罵倒される對象を決して見下してはゐない。自分の立場は寧ろ罵倒の對象よりも下である。一方、人を見下すのは、自分を高みに持上げる事である。自分を高みに持上げる事は、大變に傲慢な事だ。その邊、根本的に勘違ひしてゐる人が日本には飛んでもなく澤山ゐる。
平成十八年八月十七日
首相の靖國參拜を支持するか・しないか――死者を悼むのは善い事だから俺は支持する。俺は、たとへA級戰犯であつても、死者を呪ふのは好ましからざる行爲だと思ふ。支那の共産黨の連中は、敵を呪ふ事を常にやつてゐるから、日本にも自分逹の眞似をしろと言つて來てゐるのだらう。それに同感する日本の人間は――さう云ふ連中に質問したいが、あなた逹は共産主義を支持するのか、しないのか。ここで「する!」と大聲で答へる日本人は大變に少い。だが、「しない」のならば、論理的には隨分無理をして、自分の立場を説明しなければならない筈である。そして事實、相當無理な説明をしてゐるのである。それらの無理な説明は、幾つかは既に採上げた。彼等は自分逹決して國を愛してゐないのではないと言ふ。そして、「眞に國を愛するならば」式の言ひ方で、小泉氏の參拜を非難する。この邊のレトリックが俺には大變に氣になる。軍國主義下で「天皇」の考へてをられる事が實に屡々便利に利用された。ただ持出される言葉が變つただけで、それと全く同じ事が今でも行はれてゐるのである。「言葉さへ違へば問題ない」とほぼ全ての日本人が考へてゐるが、言ひ訣の言葉は所詮言ひ訣である、やつてゐる行爲が同じならば評價も同じであるべきである。
平成十八年八月十七日
麻生外相が、靖國神社が自主的に解散する事を期待してゐる、と述べたとか云ふ話。「外部の人間が暗に示唆する事によつて、事實上の壓力が發生し、その爲に當事者がその示唆された事をする」と云ふのを麻生氏は「自主的」と言つてゐるのだが、そんな馬鹿な話はない。例へば2ちゃんねらーがどこぞのウェブ日記の發言に目を附け、騒ぎ出し、サイト制作者のプライヴァシーを掘起こしたりその他の嫌がらせをしたりしたとする、その結果、サイト制作者がウェブ日記を削除した――この時、サイト制作者は「自主的にサイトを閉鎖した」のだらうか。「さうだ」と騒いだ人々は言ふだらうし、「自主的でない閉鎖」は「サーヴィス提供者による強制的な閉鎖である」と定義もして呉れるだらう。にもかかはらず、俺にはさう云ふ壓力による閉鎖は、やつぱり「自主的」なものとは思はれない。同じやうに、示唆による解散ならば、やつぱり靖國神社の「自主的」な行爲とは看做し得ないのではないか。「當事者に無理やりやらせてゐる」場合であつても、主體が「當事者」であるのならばそれは「自主的」と呼んで良いものなのか――「良い」にしても、その時、さう云ふ「自主的」は意味があるのだらうか。何うも官僚的に形式的・圖式的な判定が「妥當である」と考へる人が日本には多いのだが、さう云ふ現實は困つたものだと俺は思ふ。「政府が命令して靖國神社を解散する」のは拙いが「政府が示唆して、それで宮司その他の關係者が集つて靖國神社の解散を決める」のは拙くない――俺にはさつぱり解らない。それらは同じ事ではないのか。「違ふ」と言ふ人は日本には途轍もなく澤山ゐるだらうけれども、俺は「同じだ」と思ふ。嫌な喩へだが、「義がナイフで以つて野嵜を刺殺す」のも、「義が野嵜を示唆して、さうせざるを得ないやうな状況に追込んで、ナイフを自分に突立てさせる」のも、俺にとつては同じ事だし、どつちも「義」に責任が「ある」筈である。後者は野嵜の「自主的」な行爲だと言ふ事は不可能だらう。麻生氏にして見れば、或は麻生氏以外のとても多くの日本人が、それらは「違ふ」と言ふのかも知れないが、しかし俺には納得が行かない。

平成十八年八月十六日
小泉首相は、平和の爲に靖國に參拜したと釋明した。
支那や韓國、或は日本の平和主義者は、靖國に參拜する事は戰爭を讃美するものであると非難した。
兩者の解釋は眞つ向から對立する。ところで、このどちらの解釋も、妥當性を檢證出來ない類のものである。
平成十八年八月十六日
十五日附け讀賣新聞朝刊に掲載された與謝野馨氏の發言に、それは決して、亡くなった人の本意でもないと思う。と云ふものがあつた。この種の言ひ方を日本人は大變に好む。しかし、この推測は、妥當なものであるか何うか、絶對に檢證出來ないものである。
平成十八年八月十六日
小泉首相の靖國參拜に反對してゐるのは、「外交の戰術上、拙い」と云ふものの他は、日本共産党や社民党、或は、キリスト教・佛教の關係者である。
NHKのニュースにも登場した平和遺族会全国連絡会なる團體は、キリスト教徒、佛教徒の遺族で構成される團體である。
法政大学大原社研 1985〜1986年社会運動概況〔日本労働年鑑 第57集 392〕
ところが、NHKではさう云ふ事實を全く述べず、一般的な市民團體(もつとも、市民團體と云ふもの自體が怪しいと言ふ事も可能ではあるが)として紹介してゐた。
日本のキリスト教徒や佛教徒が神道を敵と看做すのは當り前の話だが、「無信仰の國」「無宗教の國」である日本で、宗教の信者は「極一部の人々」でしかあり得ない。ところがさう云ふ事實を、故意にかうつかりにか、NHKのやうなマスコミは報道しない。何故だらう。
平成十八年八月十六日
「支那や韓國を刺戟するから、今は首相は靖國に參拜すべきでない」と云ふ意見がある。この種の「今は〜すべきでない」式の言ひ方は如何なものか。この種の批判をする人は、何んな場合にも「何年後にならば、しても良い」とは言はない。少くとも、根據に基いて「何年後」とは言はない。無責任だと思ふが、當人は「今參拜してゐる首相こそ無責任であり、それを批判する事について責任を問はれるのはをかしい」と信じてゐるから、何んな批判も受附けない。
平成十八年八月十六日
なぜか強國であるアメリカに反抗する事を主張する異常な「保守派」がゐるけれども、さう云ふ「保守派」に限つて支那や韓國――と言ふより「アジア」が大好きで、今囘の首相の靖國參拜についても、支那が批判するのを全面的に受容れて、彼等に從はうとする。アメリカには屈服したくないが、支那には率先して屈服したい――さう云ふ「保守派」は結構多い。が、彼等は本當に「保守派」なのであらうか。否、どつちが「眞性保守」か、と云ふ「議論」は全く以て何うでも良い話で、そんなのに拘るのは、保守と云ふ旗印がこの上なく大事に思はれる一部の人々だけである。と言ふより、戰後、保守=自由主義者、革新=社會主義者、と云ふ變な等式が成立してしまつてゐる事が、問題ををかしくしてゐる。實際のところ、俺は自由主義者であり、保守主義者ではない。「眞性保守」とか云ふ、西部邁が大好きだと思はれる肩書きに俺は興味が無い。そして、自由主義を支持するならば、支那の現體制は支持し得ないのであり、それを「支持する」と平氣で言へる「反米保守」=「眞性保守」=「反動」の連中には反對せざるを得ない。今囘の靖國參拜に就いて、首相は、例によつて「世論」に阿つて「平和」を言ひ訣にする自民黨の常套手段を使つてゐるが、あれだけの「談話」で理路整然とした説明など出來る訣がないのであつて、にもかかはらず取敢ずは議論の對象となり得るやうなそれつぽい説明をしたのは戰術として優れてゐる。例によつて「反米保守」の連中は、小泉批判の爲に、小泉氏の發言を頭ごなしに否定する「批判」をするだらうが、その邊の事は解つて言つてゐるのだらう。世間の人はそんなに「深く」考へずに支持して呉れるだらうからだ。そして、小煩い理屈を言つて「深く」突込んで批判する意見は、大體、「世論」にならない、と、小泉氏は知つてゐる。
平成十八年八月十六日
「支那とか韓國とかを刺戟するから、首相が靖國神社に參拜するのは惡い事だ」とか言つてゐる人がゐるけれども、參拜しさへしなければ支那や韓國は日本と仲良くするのか。そんな事はあり得ない。連中にして見れば、日本は何處までも讓歩すべきであり、窮極的には存在しなくなつて呉れればそれほどあり難い事はない――否、御金だけは供給してほしいくらゐは思つてゐるかも知れない。
支那にしても韓國にしても、隣國なのであり、國が違ふのならば心の底から仲良く出來るなどと云ふ事はあり得ない。日本人は、國を人が「作る」と云ふ意識が無く、國が自然に「ある」と云ふ感覺で何でも考へる。けれども、共産主義を實現する目的の中華人民共和國、その周邊國として・韓民族の國家として成立してゐる韓國の連中は、目的を持つて國を作つてゐる。目的を持つて集つてゐる集團ならば、他の目的を持つ(であらう)他の集團と自分逹とは「異る」と考へるのが普通であり、集團として自立する爲には「異ならねばならない」と考へるのも普通である。さうなると、善隣外交と云ふ事があつても、それは決して「一體になる爲の外交」ではなく、ならば他者としての隣國とは異るべき事の主張が必ず「ある」筈である。が、その時、その主張は隣國を刺戟してやまない。それで關係を斷切つてしまへば戰爭となる訣だが、それを望まないなら我慢して平和に並存して行く事になる。そして、それが大體のところ、常態である。ところが日本人は、なぜか相手と完全に思想を一致させ、「仲良し」にならねばならないと思ひ込んでゐる。そんな事は無理なのだが、無理を實現する理想主義を主張する事こそ素晴らしい事だと勘違ひしてゐる。それで、「支那を刺戟するな」「韓國を刺戟するな」と言つてしまふのだが、隣國を刺戟しないならば、では、日本人のアイデンティティとは何なのだらう。
そもそも、日本とは何なのだらう。「自然に存在する國」と云ふものしか日本人は知らないし、さう云ふ發想しか受附けないのだが、それで良いのだらうか。靖國神社・天皇の神道と云ふもの――これを日本の傳統と言ふのは、日本では極一部の「傳統主義者」に限られる。極一部の人しか言はないのなら、神道は傳統ではない。では、日本の傳統とは何なのだらう。傳統がないのなら、では、何をもつて日本人は日本と云ふ國を作つてゐるのだらう。日本人がただ「限定された或地域に住んでゐるから」と云ふだけの理由で「國を作つてゐる」のだとしたら、日本と云ふ國は随分慘めな國ではないか。憲法を見ると「平和主義」を國家存立の基盤としてゐるやうだが、あの定義からは、他から獨立し、自立してやつて行かう、と云ふ意圖が感じ取れない。日本人は「何故日本なのか」と云ふ疑問を、「決して考へては行けない」と言ふ。考へたら、日本と云ふ國があり得ないものになつてしまふ。そこで、さう云ふ非現實的な疑問を「大人げない」のやうに極附けるやり方で封じ込めるのだが、しかし、現實的なだけであるのは人間として「あり」なのだらうか。我々は、共産主義やキリスト教、或は佛教のやうな非現實的な觀念に依據して生きてゐる人々を知つてゐるし、屡々さう云ふ人々の主張を支持してしまつてゐるのだから、彼等を笑へるやうな立場にない。となると、さう云ふ異る思想を信奉する人々を糾合して日本と云ふ國を成立せしめてゐる、その根據は何か、考へるのは意味のない事ではない。實際のところ、考へても、そんな根據は「ない」のであり、答は出るものでないのだが、「答が出ない」と云ふ困つた事態に日本人が陷つてゐる事を自覺するのは意味のない事ではない。
平成十八年八月十六日
例へば、外交にしても、「日本が何んな風な國でありたいのか」を解つてゐないと、方針が定められない。
今の處、「平和主義」に基く事が國是となつてをり、それ以外に何一つ指針が無い――そんな日本の現状だが、その爲に外交の場では言ふ事が場當り的になり、信頼を失ふ結果になつてゐる。
内政でも、國會は、議員の間に基本的な合意がまるで無いまゝ、ただ數の論理のみに依つて動いてゐる。結果として一定した方針は存在し得ず、「百年の大計」と呼べるしつかりとした國策は出現しない。
全ての日本の問題は、日本人が日本國の存在理由を閑却してゐる事に理由を求める事が出來る。何らかの觀念が日本人全體に共有され、それを大前提とした理念が「ある」のならば、國家として取るべき態度は大體のところ決る。さうして決められた方針は、實踐で驗す事が可能であり、失敗すれば對策を取る事が出來る。ただ、「生存」なる「現實的」な目的しか無いのでは、人間は生き生きとした生を送るべき方策を見出す事が出來ない。言ふ事が場當り的となり、失敗しても言ひ訣がましい釋明をする事で濟まさうとする性向が出現する、やる事が長期的展望を缺き、短期的な成果のみを求めるやうになる――現在の日本の問題は全て「『生延びる』以外に目的がない」事に原因があると言へる。平和も福祉も、「生延びる」事が如何に樂になるか、と云ふだけの觀點で議論される事である。生を超える價値を日本人は持つてゐるだらうか。どうやらそんなもの、「ない」のではないか。
靖國に參拜する事の皮相な議論は全てナンセンスである。
平成十八年八月十六日
「反米保守」の連中にしても、さうでないにしても、支那や韓國の反撥に配慮して良いと考へてゐる人々は、實は、その「配慮して良い」と云ふ點で日本人が「主體的に」態度を決められるから「良い」と考へてゐるに過ぎない。
もし支那や韓國が「首相が靖國に參拜したら斷交」或は「戰爭」と言つてゐたら……その時には今、支那や韓國に阿る事を言ふ人々でも、「内政干渉だ!」といきり立つ事は疑ひやうがない。ただ、今は「抗議」でしかないから、のんびり構へてゐるに過ぎない。
平成十八年八月十六日
NTTのフレッツはやめとけ〜妄言師@無銘の銘柄 - 小泉首相、靖国参拝

支那・韓国も本気で腹を立てるなら、工作員に参拝客を装はせ賽銭の代はりに手榴弾をお見舞ひすればいいのに。「吠える犬は噛まない」とはかういふことか。

かういふのを「語るに落ちる」と言ふさうな。
平成十八年八月十六日
日々の気になるトピックス:首相の靖国参拝、国民は賛成多数
ちなみに野嵜個人は、支那が抗議をするのは勝手だし、韓國がするのも勝手だと思つてゐるが、それは餘所の國が勝手にする事だし、それに一々應對して日本が「對策」を取る必要はないと考へる。「分祀」を、政治的な戰術として語る人は多いけれども、それが神道の發想としてあり得ないものである、或は、不可能である、と云ふ事は強調しておきたい。神樣を、或神社から根こそぎ引つこ拔いて、別の神社だか施設だかに移す、なんて、そんな「分祀」は、神道の考へからはあり得ないのであり、それを政治的な目的で「あり得る事にすれば良いんだよ」と言ふのは、政治の宗教に對する重大な干渉だと言へる。宗教である神道の政治利用は、嘗ての軍國主義下で行はれた事だ。神道で分祀と言へば、或神社にゐる神樣から魂を分けて貰つて、元の神社にも、先の神社にも、兩方同じ神樣がゐるやうにする事を言ふ。何か根本的に勘違ひしたまゝ「分祀!」と言つて喜んでゐる人が日本には多いやうに思はれる。
これだけ國民に神道の知識が無いやうでは、やつぱり神道は日本の傳統ではないよ。
日本の傳統(伝統)を守らう!:政府による神道式儀式が出來ないやうなら、どのみち負け

靖國を國の管轄にしたときはもとより、それ以外の場合でも、 政府による神道式儀式(もしくは佛教でも良いが)を行つても 問題にならないやうな環境を作れなければ、 民族保守派の負け であり、私の思ふ日本といふ國の終焉で有ると考へてゐる。

「そんなの好きな人の間だけでやつてろ」式の罵倒を俺はYahoo!掲示板方面で散々浴びせられましたがね。
實際のところ、神道或は佛教が日本國民の間に定着した事實は過去になく、「無宗教」なるものへの日本人の信仰が強化されつゝある現状、今後もあり得ない。日本は喜劇の世界に近附きつゝある。
バビロン7の東奔西走狂詩曲: 完成!無宗教の追悼施設!!!
「民族保守派」は既に「負けてゐる」と言へる。
しかしまあ、「無宗教 追悼」でぐぐると、さう云ふ施設を批判する意見ばつかりが出て來る訣だが。例外として、官邸のサイトの記事が一件引掛かつてゐる。
追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会
大體、日本の「お上」は、「民意」がまともであると、どう云ふ訣か異常なアイデアを出して、をかしな人々に迎合して見せる、と云ふ奇怪な事を屡々やらかす(何時も言つてゐるけれども国字改革が典型)。「無宗教」の「追悼・平和祈念施設」もまた、どう云ふ訣か「お上」が熱心に唱道するもの。追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会なるものが出した「報告書」だが、最初から「在り方を考える」目的の「懇談会」だから、「在る」事は大前提で、批判に對しても、「在る」事を正當化する反論を熱心にするが、それを受容れようとする態度は見せない。
日本人は、最初に「變へる」とか「作る」とかの結論を決めて、「變へ方」「作り方」を一生懸命議論する。さうなると「變へて良いのか」「新しく作つて良いのか」と云ふ批判は全て握り潰される。どうしてさう云ふ風に議論の結論を最初に設定して議論の進め方を決めてしまふのだらうと俺は大變疑問に思ふのだが、なぜか誰も思はない。既に「追悼・平和祈念施設」を「作る」事は既定の事項で、後は「作り方」だけが問題になつてゐる。そこで「作つて良いのか」と疑問を出すと、「何を今更」と云ふ顔をされる。「作り方」の議論と云ふのは、他のいろいろなウェブの議論と同樣、官僚的・お役所的なものだが、日本人はさう云ふ事に限つて物凄く熱心にやる。日本人の一般大衆は、官僚を屡々非難するけれども、自分逹も官僚的に振舞つて屡々嬉しさうである。プログラマや法律屋、或は「歴史研究者」が掲示板や「ブログ」でしてゐる議論を見てゐると、何とも字句に拘つたり、何らかのパターンに事實を嵌め込んで見ようとしたり、如何にも官僚的な議論をしてゐるのだが、それを彼等は嬉々として行つてゐるやうに見える。そして、さう云ふ議論を好んでするのは、それらの人々だけではない。兔に角「本質的に考へる」と云ふのを日本人は徹底して嫌ふ。
平成十八年八月十六日
[教えて!goo] 無宗教の追悼施設?
「無宗教」を信じている宗教が無いという言葉で議論すると訳がわからなくなりますが、特定の宗教に依存しないと考えればいいと思います。と云ふ囘答が寄せられてゐるけれども、この種の「言換へで納得したら?」と云ふ意見が日本では普通に罷り通つてゐる。「特定の宗教に依存しない」と云ふ事ならば、さう言へば良いのだし、さう言はないのならば、なぜ不適切な「無宗教」なんて用語をわざわざ使ふのか、考へねばならない。ところが、日本人は「言換へませう!」と言はれると、「わかりました! 最う何も疑問はありません!」と、幼稚園兒のやうに嬉々として叫ぶ。
實際のところ、「無宗教」を「特定の宗教に依存しない」と言換へるべき必然的な理由は何一つ無くて、ならば「言換へれば良い」と言ふのはをかしな話なのだが、「言換へ」は正しい説明である、と日本人は信じてゐるから、疑ふ事が出來ない。
しかし、役に立った数:0件なのは、質問者も良く解つてゐる。
平成十八年八月十六日
そもそも、「宗教とは何か」と云ふ根本的な問題がスルーされた状態で話が進められてゐるのがいろいろと話ををかしくしてゐる原因。
「ネアンデルタール人が埋葬をやつてゐて、墓に花を入れてゐた。これは宗教心の芽生えである」と、そんな話があつたけれども、この話と「無宗教の追悼施設」とは觀念的に絶對に兩立しない。ところが、「それでは困る」と云ふので親切(御節介)な人が「無宗教とは特定の宗教に依存しないの意味です」等と言出すから話がをかしくなる。「親切」心に據る「言換へ」の提唱が、結果として議論を進め難くする。嚴密な話をする事こそが議論を適切に進めるのに一番役立つのだから、適當な「言換へ」はしない方が良い。
平成十八年八月十六日
と言ふか、六十年も昔の敗戰を今に至るまで引きずるつて何うよ?
左翼の人逹なんか、頭が良いから、二十年も經つてゐないソ聯の崩潰を最う乘越えて、反省なんて馬鹿らしい事は全くせず、平然と社會主義思想を唱道してゐると言ふのに。
平成十八年八月十六日
「首相の靖國參拜は中國との關係を惡化させる」と云ふ意見における「中國」は、一體何を指すのか。中共政權と、中國人民とを、一體のものと見て良いのか。實際には、支那の人民が反日感情を昂ぶらせる一方、それを中共政權が抑へつける、と云ふ構圖が出來上がつてゐる。政權の方は、首相を個人的に非難するにしても、對日關係を惡化させたくはない、と云ふ態度をとつてゐる。その爲、人民レヴェルの抗議行動を政權は抑壓する方向で動いてゐる。
一方、支那の人民に據れば、反日抗議行動は即座に反政府の行動へと轉訛し得るとの事。ここで日本人に尋ねたいが、我々日本人は、現在の支那の共産主義政權を「あつて良い」と認めるのか。それとも「共産主義政權は好ましくない」と考へるのか。もし共産主義の政權を「好ましくない」と考へるのならば、理由は何であれ、支那の人民に反政府運動を起させて、政權を打倒させようとするのは、戰術として「あり」であるのでないか。さうすると、外交的な戰術の觀點から首相の靖國參拜を「拙い」と極附けるのは、一面的な言ひ方である事になる。靖國參拜のみならず樣々な方法で支那の人民を焚き附けて、反政府運動を起させ、支那の政權を弱體化させる――それもまた一つの「戰術」だと言へるだらう。もちろん、そのやうにして支那の現政權を崩潰させ、のみならず、共産主義の一黨支配を破壞させれば、極東地域全體が不安定になり、また支那の體制がより強固な反日體制となれば日本にとつては不利になる、と、推測を進める事も出來る。けれども、さうなると、最早、必然的な因果關係による論理的な結論ではなく、推測を進め、臆測を重ねただけの心配と云ふ程度のものになつてしまふ。さう考へると、そもそも「戰術」の考察は全て相對的な意味をしか持たないものでしかない。別の言ひ方をすると、「支那との關係」のやうな發想は、受け身的な發想でしかないし、だからこそあれこれ考へて途方もない多くの可能性を吟味する官僚的な檢討に陷つてしまふ。それは不毛の議論である。ならば、「我々日本人は、受け身的『戰術』の議論から脱して、主體的な意見を持ち得るか」――それをこそ問題にせねばなるまい。そんな意見が「ない」としたら、我々は周圍の諸國に小突き囘され、引きずり囘されてゐる事になる。それで良いのか。我々の憲法は「良い」と言つてゐる訣だが、ならば、その憲法は見直されるべきでないか。しかし、見直すとして、では、何を日本國存立の根據とするのか。それは日本人にとつて等しく受容れられるものであるのか。事態は絶望的であるやうに思はれる。靖國に行つた行かない、と、その程度の事は重大事ではない。首相の責任だの何だのを議論しても仕方がない。首相の後繼者爭ひとか、そんな程度に問題は矮小化されてゐるけれども、問題の根は深いのである。
平成十八年八月十六日
「總理大臣が靖國に參拜する事は良いけれども、小泉が參拜するのだけは許せない」と云ふ「總論贊成・各論反對」式の「言論」が、「親米保守」を一々「ポチ保守」等と貶める言ひ方をする「眞性保守」の間に多數出現してゐる。誰がどう見ても「親米派の小泉は嫌ひ」以上の意見ではない。
Le journal de Franciszek - 姑息な靖国参拝 & ऋग्वेद
しかし、何うしてそんなに「反米」が好きなんでせうねえ。日本に於て、極左と極右は非常に接近してゐます。
日本が獨自に自主的な生き方を出來るやうな大國であれば好き勝手な事を言つても誰も文句は言はないのだが、實際には日本は小國でしかない。現實問題として日本には、「アメリカの自由主義か、支那の共産主義か」と云ふ「二分法」的な撰擇が、窮極的に突き附けられる。今、あれこれ言つてゐる「反米保守」の連中も、その究極の撰擇を「しなければならない」時が來れば「現實的」な立場からアメリカを選ばなければならないに決つてゐる。ならば反米・親中であるかのやうな發言をするのは止しておけば良いのに、それをしないのは、意地もあるだらうが、當座平和だから御氣樂に議論をしてゐるのである。しかし、さう云ふ態度は、左翼の御氣樂な態度・平和主義者の樂觀的な態度と全く同じである。
平成十八年八月十六日
維新政党・新風 【声明】−小泉首相の無礼な靖国神社参拝を糺す
要するに「やつてゐる事が中途半端、だから小泉は糞」と云ふ非難だが、中途半端と言へば維新政党・新風のウェブサイトの文章、正假名だつたり新假名だつたりと一貫性が無いのも中途半端なのでは。しかも時々假名遣が間違つてゐる。
正字正かなグループ - 正字正假名覺書 - 何これ
平成十八年八月十六日
「最初から讓歩してゐては交渉にならない」と主張する人に限つて「支那や韓國に對しては讓歩しなければならない」と考へる傾向が強い。首相の靖國參拜で隣國を刺戟するのを非難する人が極めて多いけれども、外國との交渉なんてものは相手を刺激してなんぼなのだから、この程度の「刺戟」を一々問題視する事がをかしい、と云ふ事にならないか。大體、「外國と交渉する」と言ふのならば、自國の側は一枚岩になつてゐるべきであり、自國の首相が何をやつてもそれを正當化するのが當然だらう。一々首相を惡者にして仲間割れして見せる事もないだらうに。たとへ首相が惡くても、自國の事なら何でも正當化して外國には當る、さう云ふ強氣な態度で出て、それでいざと言ふ時に引くから交渉が成立つのであつて、一々言ひ訣したり仲間割れしたりしてゐれば相手につけ込まれるのが當り前。外交と云ふ觀點から見れば、日本人はすぐに仲間割れする結束力の無い國民である。奇妙な事に、日本人は自國の首相に對してだけは矢鱈と嚴しく當る。小泉首相に讓歩したら負けみたいな發想があるやうだ。政治の話なのだから、大雜把に首相の靖國參拜を支持する・しないの單純な話で良い筈なのだが、やけに色々理屈を言つて、細かい議論にしようとする人が多過ぎる。その「細かい議論」が、大雜把に言へば「反小泉」なのだ。一方の支那については、いつもは反支那反中共の立場の人も、やつぱり色々理窟を附けて、今度ばかりは支持、と云ふ態度をとつてゐる。「細かい議論」はこちらにもあるけれども、大雜把に言へば「反小泉なら結果として支那と手を結ぶ事になつても已むを得ない」と云ふものになる。「反小泉」であれば何をしても正當化される、と云つた發想すら見受けられる。或意味、支那や韓國を日本人は内政問題に利用してゐると見る事も出來る。隨分、支那や韓國を馬鹿にした話だ。
――と言ふか、「反日」が、「反靖國」「反神道」のやうに、或は野黨の「何でも反對」のやうに、極めて簡單に結束出來る立場であるのに對し、それに應ずる日本の立場と云ふものは途轍もなく弱い。何度も言ふけれども「日本とは何か」――それをしつかり考へないでは、日本人は一々の外交交渉で場當り的な言ひ訣をして行くしかないし、それでは「反日」の諸國の壓力に堪へる事は出來ない。實際、今の國内の反日勢力も、その壓力に負けた結果として、さうした立場に逃込んでしまつてゐると見るのが妥當。いやいや、さういつた連中も、結局のところ、國内での權力爭ひにだけ興味があつて、「自國は自立して行けるのか」と云ふ觀點を缺いてゐるだけであると見た方が良いだらう。敵である筈の諸外國には發言させつゝも、自國内の「敵」には如何なる發言も許さないと云ふ人は、日本には極端なまでに多い。身近の存在の方が鬱陶しく感じられる、と云ふ、あんまり微視的な視點の持ち主が、日本には非常に多いのである。さう云ふ連中が、Yahoo!その他の匿名掲示板や「ブログ」等で右翼的な事を言ふ人間を侮辱したり、「ネットウヨ」と目した人間を社會的に抹殺しようと暗躍したりしてゐる。何うしてそんなに日本人同士の仲間割れを劃策するのか不思議に思ふのだが、昔から極右・極左は仲間割れが大好きである。
平成十八年八月十六日
意味もなく戰爭をしたがるのは狂人だが、戰爭は全て意味もなく起されてゐるものでもないし、戰爭を肯定するのは全て狂人であるとも言へない。ところが戰後、日本人は全ての戰爭を「してはならない」事だと口を揃へて言ふ。「いや、自衛戰爭は別だ」と云ふ事で「自衞隊」なるものを肯定するのだけれども、その人が「戰爭が無い世界は理想の世界である」等と言ひ、平和を讃美しつゝ、過去に戰爭で亡くなつた人々を「可哀想だ」と憐れむ。最早目茶苦茶だと思ふのだけれども、根本的に「戰爭=道徳的な惡事」と云ふ觀念を永遠の眞理と看做してゐる事から惹起こされる勘違ひである。かうした勘違ひをこそ是正する必要があるのだが、日本人は平和主義を絶對的・道徳的な善事と信じ込んでゐるから、少しでもそれを疑ふのを許さないし、それを否定する意見を狂人の意見と看做すし、のみならず、觸れるのもおぞましい禁忌であるかのやうに激しい不快感を示して見せる。これが自由に意見を持つ事の出來る自由社會であり得べき事なのかと俺は疑ふのだが、平和主義は日本に於て「絶對の眞理」であり、全ての日本人が信ずべき「教義」である。何うして茲まで一樣に思想が廣まり渡つたのか、どうしてそれを眞におぞましい事と誰も思はなかつたのか、不思議に思ふのだが、何も不思議はない、日本人は昔から、全ての人が全く同じやうに考へ、同じやうに振舞ふのを當り前だと感じ、少しでも共同體の方針から外れる事を「道徳的な惡事」と看做すのである。日本の封建制とか舊弊なシステムとか、そんなものを一生懸命論じてゐる人々がゐるけれども、圖式化して安心してゐるやうでは意味がないし、天皇が惡いとか神道が惡いとかの「攻撃目標」を「外部」に設定する式のやり方では自分を棚上げして好い氣になるのが落ちだし、全く意味がない。自分の内部で何が問題であるのか――それを意識して指摘する文明論者こそが必要なのだが、歴史學の「專門家」のやうな人々に、それを侮辱し嘲笑して妨碍する傾向がある。「何もわかつちやゐない」式の非難だが、「わかつてゐる」筈の人々が暢氣に構へてゐるから素人が常識を頼りに非常識な專門馬鹿を叩かねばならないのである。

平成十八年八月十五日
世間では靖國だの終戰だの言つてゐる日だけれどもストパニ @ tvk。清水愛二役大變。エトワール樣やつぱり話に絡まない方が面白い。中等部良い。と言ふか、觀てゐたら頭痛が治つた。ストパニは健康に良い。
平成十八年八月十五日
下の記事、讀返してみたら慥かにうたわれるものを貶してゐるやうに見えるけれども、面白いと思つて觀てゐるので褒めてゐる積りなの。面白いからもつと落着いてじつくりやつてほしかつたなと。何だ「☆かつ棚」つて。うちのWXGの辭書は異常。
平成十八年八月十五日
Windowsのコモンダイアログ等のダイアログボックスで、OKとかキャンセルとかのボタンは何うしてみんな高さが1行なのだらう。おまけにみんなくつ附いてゐるし。畫面が廣くなつたのだから、その邊、もつと工夫して使ひ易くしたら良いと思ふ。
畫面が廣くなつたらその分、ボタンの領域は相對的に小さくなる。當然、狹い畫面よりもマウスでポイントし辛くなつてゐる訣で、その邊をGUIのデザイナが全然氣にしてゐないのはをかしい。
しかも、GUIのデザイナは、ユーザがボタンを押し間違ひ易くなるやうに、押し間違へては行けないボタン同士をわざわざくつ附けてレイアウトする。何を考へてゐるのだらう。昔からデザイナは「並べれば判り易い」と云ふ勘違ひをし續けてゐる。そんな事だから株屋がネットでの株の賣買をする時に數字を入れ間違へて、それでも氣にしないでどんどん賣りだの買ひだのの注文を出してしまふんだよ。實際にプログラムを使はないから、デザイナは使ひ勝手の事がわからないんだ。畫面のあちこちに、無秩序に、ボタンが分散してゐたら、それは慥かに使ひ辛いものだらう。しかし、だからと言つて、至近距離に全く逆の指示を出す爲のボタンを配置するのは如何なものか。しかもそれぞれがとても小さくデザインされてゐる。多くのGUIプログラムが、ユーザに極めて正確な操作を強要してゐる。注意深くプログラムを操作するのは、必要な事ではある。けれども、さう云ふユーザの細心さを信頼して、デザイナがプログラムのインタフェイスを適當に作つてゐる現状は、をかしい。で、さう云ふ文句を言ふと、デザイナは取敢ず「よろしいですか」のやうなダイアログを中間に插み込む。さう云ふ姑息な對策がユーザを苛立たせ、却つて機械的に「OK」ボタンを押す性癖を植附けてゐるのだが、それをデザイナは理解しない。いや、實際には、GUIのプログラムのデザインは、屡々プログラマ自身が行つてゐる。プログラムがきちんと動く事だけをプログラマは目標としてゐるのであり、デザインは二の次になつてゐる。だが、それで良いのか。「良いのだ!」と居丈高に曰ふプログラマが、unix方面には澤山棲息してゐるやうな氣がする。或は、逆に、變にユーザに媚びる事を以て「ユーザフレンドリー」だと勘違ひしてゐる人間が澤山ゐるやうな氣がする。ユーモアを見せる事が良いプログラマなのではないんだよ。ユーザは、巧く操作出來なくて苛々してゐる時に詰らないジョークやユーモアを見せ附けられると、却つて苛立つ。かうなると、「人情の機微すらもプログラマが解つてゐない」と云ふのが、プログラムのインタフェイス設計における最大の問題である事になる。
平成十八年八月十五日
IE7ベータの「インターネット オプション」の「詳細設定」、ヘルプの仕樣が變つてゐて使ひ辛い。
「設定」の、何て言ふのかな、あのスクロールする部分、この中で、前はマウスの第二ボタン(右利きの人は右ボタン)をクリックすると、あんまり役に立たないけれども取敢ずその場に合つたヘルプがポップアップしたのが、出なくなつた。また、ウィンドウ右上の「?」アイコンをクリックすると、ヘルプファイルが開いてしまふやうになつた。
何でこんな改變をしたのか解らない。他のWindowsのプログラムと異る仕樣になつてしまつてゐるからだし、そもそもこのやうな細かい部分で一々仕樣を變更されると微妙に使ひ勝手が變つてしまふので大々的に仕樣を改められるよりも寧ろ非道く使ひ辛く感じられるやうになる。プログラマの連中は、詰らないところで氣をきかせて見せるのが好きだが、そんな事をされてもユーザは喜ばないんだよ。そして、さう云ふ一般ユーザの指摘を、プログラマは屡々「はぁ?」と言つて、とぼける事でやり過ごす。プログラマの方言でなんか、一般のユーザは説明出來ないんだよ。その邊、融通をきかせるのはプログラマの義務だ。
「ブログ」を作つて色々報告したり何かしたりすれば、取敢ずユーザも滿足するだらう、とか適當な事を考へてMSの連中も「IEブログ」なんかをでつち上げたのだらうが、結局のところ連中、自分逹の信じてゐる方針に固執して、一般ユーザの意見はさつぱり採入れてゐないんだらう。俺は英語が讀めないから推測で書く。CSS關係の苦情をさつぱり受附けない邊、連中が頑なで閉鎖的である事は自明。
Operaも大して違ひはなくて、8から9にヴァージョンを上げるタイミングで既存ユーザを切捨てるやうな非道いインタフェイスの改變を平然と行つてゐるから、MSだけが惡い訣ではないが――何れにせよ、改變はやるなら大々的にやるべきであり、ちまちまとまるで小細工のやうに詰らない部分でそつとやるべきではない。
あと、もじら方面には何も期待してゐない。あつちは完全にプログラマ主導で「良いプログラム作り」に邁進してゐるから。素人が口出しすると「口ばつかり」「文句を言ふならお前もプロジェクトに參加しろ」と云つた非難が返つて來るだけ。オープンソースプロジェクトの一番惡いところは、兔に角人を參加させようとするところ。參加して來ない相手は非難すべき對象であり、その意見は徹底的に排除すべきものとなる。MSのやうな會社の連中は、さう云ふ事をやつても或意味「それが當然」であり、だからこそ「惡」として憎まれるが、オープンソースは「善」の存在であると決つてをり、「外部」から批判すればそれをした瞬間に一種の「惡」として社會的に看做される事になる。取敢ず、ブラウザ本體がヴァージョンアップすると擴張機能が動かなくなるなんて問題が、あちこちで批判されてゐるにもかかはらず一向に解決しないのだから何うしやうもない。
平成十八年八月十五日
Firefoxの拡張機能を装うスパイウエア「FormSpy」 (MYCOMジャーナル)
Firefoxがヴァージョンアップすれば、この手のスパイウェアも動かなくなる事が大いにあり得る訣だ。慥かにFirefoxはセキュアなブラウザだ。
平成十八年八月十五日
...::: AT-X:::...
アクセスランキングの一位が何時の間にか女王陛下のプティアンジェになつてゐて噴いた。
平成十八年八月十五日
トップ2! はてな方面では評判良いのか……なんで?

平成十八年八月十四日
ゼロの使い魔 @ tvk。取敢ず今期スタートのアニメの中でちやんと視聽者を惹きつけようと普通に努力してゐるのはこれだけのやうな氣がする。
平成十八年八月十四日
うたわれるもの @ tvk。がんばつてゐるのは解るけれども話を詰込み過ぎ。いろいろ状況が許さないだらうけれども、四クールでじつくりやれれば良かつたのにと思つた。
平成十八年八月十四日
宇宙戦艦ヤマト映畫後篇 @ テレビ朝日。マジ何度觀ても燃えるし笑へる。後半は前半に比べるとアレな筈なんだけれども。
知識が不十分な時代に作られたあにめの大仕掛けは、兔に角突込みどころ滿載ではあるのだが、今のあにめが持たないはつたりの派手さと勢ひとを持つてゐる。ヤマトも、さらば以降は(初代と比べて)科學的にまともになつてしまつて、小ぢんまりとまとまつてしまふのだが、初代ヤマトは古い時代のあにめの總決算とも言ふべき作品で、科學的には無茶苦茶、出たら目ばつかりなのだけれども、それだけに豪快で壯大なものになつてゐる。
平成十八年八月十四日
livedoor ニュース - 1万5千円が34万円に化ける!萌え錬金術
いもげでこんな文章でポイントもらえるなら、そっちの方が錬金術だなとコメントされてゐて、とても納得した。

平成十八年八月十三日
宇宙戦艦ヤマト映畫前篇 @ テレビ朝日。何十囘觀てもヤマトは良い。未見の人は、映畫だと端折り過ぎなので、TVシリーズで前半、太陽系を離れるまで必ず觀る事。と言ふか映畫版、名シーン連續で密度が濃過ぎるので疲れる。
平成十八年八月十三日
トップ2! @ AT-X。何が何やらさつぱりの展開。人間どらま要らなかつたのではないですか。良かつたのは初代トップのあにめに倚り掛かつた部分だけ、と云ふのは如何なものかと。
と言ふか、はつきり言つて詰らない。

平成十八年八月十一日
地域福祉推進課のホームページへようこそ
東京都福祉のまちづくり推進協議会 議事録
平成十八年八月十一日
東急澁谷の古書展。澁谷の東急東横店の中つてまるで迷路だよね。と言ふか澁谷の街自體がややこしい。何で山の手線の上を地下鐵が以下略。今囘は(も?)白つぽい本が多く、古い本はそれなりにあつたけれどもどちらかと言ふとエンタテインメント寄りで、個人的には詰らなかつた古本市。養徳叢書が何册か出てゐたものゝ、一冊千圓だつたので買はなかつた。俺は養徳叢書コレクションをしてゐる世にも珍しい人間だが、出來るだけ御金をかけないで集める方針だし、そんなに無理して買集めなければならないやうな叢書でもないし、云々。以下、買つた本。山田孝雄『萬葉集考叢』。『石田英一郎対談集 文化とヒューマニズム』(筑摩叢書165)(竹山道雄や会田雄次、山本新、堀米庸三等と對談してゐる)。笠信太郎『論理について』(講談社學術文庫12)。塚本邦雄『けさひらく言葉』(文春文庫)(毎日新聞連載。徹底した国語伝統主義者で、戦後の国語改革のほとんどすべてを否定し去るだけでなく、旧字体・歴史的仮名遣いの確固たる実践者である塚本氏が、新聞社の要請で略字略かなで書いたと云ふ、誰だかをやっつける会の会長が頭から湯氣を出して怒りさうな本)。雜誌「群像」(昭和二十四年九月號)(福田恆存「歸家本能を拒否せよ」を掲載)。

平成十八年八月十日
ちょこシス @ tvk→MX。エロアニメだと思つて諦めて眺めてゐるとそれなりに樂しい。何んなアレな話でもEdで何もかも滿足出來た氣がする迷作。
吉宗 @ MX。毎囘紋切型の表現を積重ねて地味に笑へる話を作つてゐる。今期最も注目されてゐないあにめの一つだが結構良く出來てゐる。ちび姫とかくのとかすなつく紫の姐さんとか、それなりに見所も。三文字作畫が全く氣にならない逸品。
平成十八年八月十日
内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎 @ テレビ朝日。今期で一番三十分過ぎるのが早いあにめ。泣ける筈のストーリーなのに笑ひが止まらない。と言ふか俺、ストーリー把握出來てない。
平成十八年八月十日
インターネットを利用し始めた頃の事。なんかウェブ通販の擔當やらされて、手間かかる割に儲からねえなとかそんな事を思つてゐた。メールも、會議の議事録作れ、作つたらメール、とか、そんなので使はされるやうになつて、面倒臭えとかそんな風にしか感じられなかつた。ウェブは儲からない、メールは書くのが面倒、と、最初からインターネットには幻滅してゐたのだけれども、それは個人でインターネットを使ふやうになる少し前の事。海外から通販の申し込みがあるんだよ、申し込む方は手間要らずだけれども、商品を發送する方の身にもなつてよ。送料を計算して一番安いルートを探して、そして結局、郵便を利用する事になつて、それで本の山を臺車に積んで汗みづくになつて郵便局に持込んで――それでもせつかく註文して呉れたからと値引きするからさつぱり儲からない。フランスの本屋さんと辭書を引きながら英語でやりとり、なんて最う、面倒で面倒で。その結果として會社がなくなる半年前に退社して以來無職。さう云ふ意味では「他人と繋がつてゐる」事が當時から煩はしくて仕方がなかつたと。
殘業手當がつかないサーヴィス殘業が半年續いたりしながらも、忙しい最中に呑み會があつてみんなで自棄になつて騷いで、飮み屋から會社に戻ると返品されて來た商品の数を數へて、とか、そんな事を繰返してゐたのも、まあ、樂しい思ひ出だつたと言へば言へるかも。社長とは仲惡かつたな。この頃から俺、社長と呼ばれる人と反りが合はない體質だつたらしい。今から十年近く前の話。みんながPentiumのGateway2000使つてゐるのに俺一人DELLの486のマシンでちまちま作業してゐたり。Wordで販賣店向けのリリース作つてFaxでばら撒いたりしてゐたんだよ。讀者の數はもしかしたら今より多かつたかも知れない。この時ちやんとテーブルレイアウトだつてやつてる。巨大な畫像を貼り込んで、ファイルサーヴァに保存したら、ファイルがでか過ぎてサーヴァが落ちる、なんて日常茶飯事だつた。でかいと言つても精々16MBくらゐだつたと思ふけれども。昔のWindowsNTサーヴァは脆弱だつた。
平成十八年八月十日
Windowsで使つてゐる機材の情報をGoogleで探したらLinuxで使ふ方法ばつかりが引掛かつてがつかりした事。
同じく、本の紹介ページが引掛かつて、目次しか見られなくてがつかりした事。
平成十八年八月十日
何でネットワークの設定つて無駄に難しいのだらう。あつちのPCからはこつちのPCの共有フォルダが見えるのに、こつちのPCからあつちのPCの共有フォルダが見えないつて何う云ふ事よ。WindowsXPのユーザとかセキュリティとか訣がわからない。WindowsのGUIにunixの發想を接木してゐるから訣が解らなくなつてゐるんだらうな。
Q&A集を見ると「どこそこで設定して下さい」つて解説が「ある」のだけれども、そんな「どこそこ」なんて情報は全く無意味な情報であり、そこで「どのやうに」すれば良いのか、を説明しなければ、解つてゐない人は「設定する」事が出來ない。しかし、ネットワーク關聯の解説ではこの種の必要な説明の拔けが常に「ある」。兔に角「場所」さへ教へて「後は勝手にやれ」とユーザを突放す解説者がネットワーク關聯の文書では極めて多い。ユーザはネットワーク(LAN)の使ひ方について解らない事を調べても、解らないまゝになる事が多い。個人のユーザが自宅LANを組んでゐる時は、ユーザであつても管理者であるのだから、管理者向けの情報を解説者は書かなければならない。しかし、ネットワーク關係の解説者は、「管理者に聞いて下さい」と手拔きの解説をして「これでよし!」と思つてしまふ。ユーザの名前とかパスワードの設定とかセキュリティの管理とか、さう云ふものにはそれなりの作法があつて、それに從つて管理者はネットワークを管理するものだが、なぜかそれを知らせまいとする解説者が極めて多い。何なのだらう。ウェブの「○○Q&A」の類のコンテンツは、そもそも解説者が、自分では困つた事もない事について適當に何處から情報を集めて來て「まとめサイト」をそれつぽくでつち上げてゐる事が多い。だから解説者自身が「解つてゐない」)説明が羅列される事になる。
平成十八年八月十日
LinuxなんかのQ&A集は恐ろしい記述が滿載。「Q.或日突然○○が動かなくなりました」「A.その時には××して下さい」――動かなくなるには動かなくなる原因が「ある」筈だが、その原因については何一つ説明がない、ただアドホックな對處法が示されてゐる。或日突然設定が飛ぶOSなんて危なくて使へない筈だが、殆ど全てのLinuxユーザが、パワーユーザですら、平氣で使つてゐる。「ブログ」なんかでさう云ふトラブルを報告し、場當り的な對處をして「解決しました」と書く。何なのだらう。
平成十八年八月十日
ウェブの「隠しページ」を「ナンセンス」等と非難する人はゐるけれども、Windowsの「隠しツール」を非難する人は餘りゐない。コントロールパネルにregeditが登録されてゐない、或は、WindowsXPなんかでwindowsフォルダがデフォルトで「見えない」やうにされてゐる――どちらも初心者がうつかり觸つて變な事をしでかさないやうに、と云ふ「配慮」なのだが、しかし、「アクセスし辛い」やうにしてあるだけで、アクセス出來てしまへばやりたい放題何でも出來てしまふ。「隠してゐる」から「良い」と、さう云ふ發想は如何なものだらう。そもそも「隠す」と云ふ發想そのものがをかしいのではないか。漢字でもさうだが、兔に角制限しさへすればそれで良い、と云ふ發想は、好い加減、投げ捨てるべきだ。
平成十八年八月十日
TMPGEnc DVD Author 2.0。メニューの部品はキーボードで撰擇出來ないのに、マウスで部品を撰擇した後ではAlt+Enterでメニュー部品の設定が出せる。オプションもまたキーボードでメニューを引出せないのに、なぜかマウスでメニューを引出すと、そこからはキーボード操作が出來る。何なのだらう。プログラマの人には言ひ分があるのだらうが、ユーザから見るとただただ奇怪なだけでしかない。
平成十八年八月十日
フジテレビ「ノイタミナ」枠「ハチミツとクローバー2」は午前一時三十五分から。WOWOW、「機神咆吼デモンベイン」は零時十分から、「ザ・サード 〜蒼い瞳の少女〜」は零時四十分から。TBS「xxxHOLiC」、tvk「吉宗」「無敵看板娘」、東京MX「恋する天使アンジェリーク」は通常通り、テレビ朝日「貧乏姉妹」は三時十分から。

平成十八年八月九日
首相その他の閣僚が靖國神社に參拜するかしないかの問題について、神道關係のサイトにリリースなり何なりが出るのを待つてゐるのだが一向に出る氣配が無い。
俺は東條嫌ひだが東條が祀られてゐる靖國に參拜するのは全く問題ないと考へてゐるから、別に昭和天皇がメモを殘してをられようがゐまいが關係ない。もし誰かが祀られてゐるとその神社に參拜してはならないと言ふのなら、誰かが住んでゐるからその國を守つてはならないとかそんな話が當然通用する事になる訣で、それでは話がをかしくなるから俺はその説は採らない。共産黨員或は右翼がゐるからと言つて、右翼或は共産黨は「日本を防衞してはならない」等と主張しやしないだらう。
靖國參拜はそれ自體は良い事だが、極めて問題なのは小泉首相を始め全ての閣僚が「二度と戰爭を起さないと云ふ決意をした」云々と言ひ訣してゐる事。戰爭をやつた人々に「御前らのやつた事は間違ひだつたんだよ」と言放ちに行くと云ふのだからアレだと思ふのだが、誰も指摘しない。「戰爭を肯定するから戰爭をやつた人のところに御參りする」と言ふのなら理解出來るのだが、「戰爭を否定するから」云々と云ふのは訣がわからない。と言ふか、全ての日本人が「戰爭は惡い事だ」「繰返してはならない」と云ふ思想で統一されてゐる、と云ふのは何うなのだらう。それが民主主義なのだらうか。民主主義は多樣な思想の存在を大前提とした政體だが、戰前の日本が軍國主義一色だつたのと同樣、現在の日本は平和主義一色に塗り潰されてゐる。少しでも戰爭を肯定するやうな事を言へば非國民扱ひされて大彈壓を受ける――全ての閣僚が平和主義を守ると言はなければその立場が危ふい。何かがをかしいと言つたら俺は異常者だらうか。
自民黨の議員が、社会党や共産党が主宰する反核運動の集會に平然と參加し、その主張を全肯定する。これが日本の常態であり、日本人の誰一人としてそれを疑はない。けれども、どうして野黨――と言ふより反政府勢力の集會に政府の人間が行つてその反政府勢力の主張を自らも口にし、全面的な支持を表明しなければならないのだらうか。しかも、さう云ふ人間が主流である政府に對して、反政府勢力は相變らず反對を續けてゐる。目茶苦茶も良いところだと思ふのだが、日本人は誰一人疑はない。當り前だと思つてゐる。社会党や共産党は平和主義である。彼らは自民黨の政治に反對してゐる。ところがその自民黨の政治家が社会党や共産黨の主張に賛同してゐるし、賛同しないと政治生命を斷たれる。何なのだらう。
讀賣新聞の報道に據れば、閣僚の靖國參拜を日本人の半分が反對だと言ふ話だ。殘りの半分の更に半分が賛成であるに過ぎないと云ふ。だが、問題は單に贊成か反對かにはない。實は、現代の日本人のほぼ全てが神道を信じてゐない。ただ、政治的に有效か無效か、さう云ふレヴェルで靖國の問題を論じてゐる。支那と仲良くする事が出來なくなる、だから日本の政治家は支那の連中の禁ずるやうに、靖國に行つてはならない。「否、支那は關係ない」と言ふ「右翼」もゐる、けれども、その「右翼」氏ですら、神道の信者ではない。我々日本人は一體何を信じてゐる國民なのだらう。「無神論の信者である」――馬鹿馬鹿しい話だ。信ずる理想なくして人は何を出來るのだらうか。少くとも、さう云ふ人々が集り國家を作つた時、その國家に理念は存在し得ない。だから日本人は金儲け主義者と世界の人々に看做される訣だが、生きてゐる事こそが大事であり、生命を超えた價値を信ずるのは許されないと信ずるのが日本人だから、生命を超えた價値を信ずる世界の多くの人々を却つて異常扱ひして威張つてゐる。
長崎の反戰主義者の人々は、核兵器さへ無くせばこの世は平和になると思つてゐる。少くとも、NHKのインタヴューに答へた人々はさう信じてゐる。けれども、イスラエル・パレスチナの戰爭、あれは核兵器と何か關係があるだらうか。長崎の人々は、あの地域の紛爭について、何かする事が出來るだらうか。ユダヤ人とアラブ人、彼らは當初、平和に共存する事になつてゐたが、現在は對立し、排斥し合つてゐる。これを平和主義者は何う考へるべきか。ただ「愚か」と切つて捨てるのならば、それは平和主義者の選民思想と言ふべきものだらう。誠實に考へれば苦しい事になるのが當り前――だが、苦しいからと言つて日本人は、默るか、或は苦惱の表情を浮かべて「考へなければならない」と紋切型を言ふか、そのどちらかの方法で逃げる。實に無責任だと言ふしかないが、さう云ふ無責任な平和主義であつても、「平和主義ならば全く問題ない」「兔に角何であれ平和主義は素晴らしいのだ」「平和主義を疑つてはならないのだ」――さう考へるのが日本人である。「平和に共存して生命を保全するより、愛國心・愛郷心に基いて對立を選ぶ」と云ふ人々がこの世には存在し、彼らの立場もまた尊重しなければならない、と云ふ事が、現代の日本人には全く理解出來ない。しかし、良く考へてみて欲しい、愛國心に固執する事と、平和主義に固執する事と、何んな違ひがあるのだらうかと。自分と異る主義主張の持ち主を徹底的に排斥し、彈壓するのでは、結果として愛國主義者も平和主義者も同じではないか。同じ事をやりながら、掲げる旗が違ふだけで「俺は偉い」と思ひ込めるのならば、それこそ「愚か」な事ではないか。
或は、平和共存を建前とする平和主義者が、平和主義を全肯定はしない人々・戰爭を全否定はしない人々・戰爭を現にしてゐる人々と共存出來ないとしたら、それは原理的な矛盾ではないか。そこで「矛盾しても良い、俺は生延びたいんだ」と言ふ平和主義者がゐたら、しかし、現實的に、さう云ふ獨り善がりで自己中心的な平和主義が、この世で「あり得る」のか何うか。この半世紀、日本人が平和主義でやつて來られたからと言つて、今後永遠にこのまゝやつて行けるとは言切れない。そして、いざ「やつてられない」時が來たら、その時には覺悟するしかないが、重要なのはその覺悟を決められる事であつて、今の日本のあり方で日本人が覺悟を決められるか何うかは相當に疑問である。

平成十八年八月八日
ストパニ @ tvk。過去話。エトワール選の話になつてアレして來たと思つてゐたけれども此處に來て再び話が盛上がつた――と言ふかまた久々に氣合が入つた話。作畫半分位國産だし(モブは相變らず非道い)。たまにはEd變へて下さい。
平成十八年八月八日
先日入れたTVキャプチャボードが熱暴走するので茲數日ぷち切れ状態だつたのだけれども、今日はサイバーシックスを録り逃がして呉れて到頭本氣でぶち切れた。
當該録畫機は、筐體の中がせせこましくファンも附いてゐないと云ふ奴なのだが、毎日ウェブの更新やら虹裏やらで大活躍して呉れる。一方、その横で、前身が何うやらサーヴァ機だつたらしくファンが二つ附いてゐて兔に角でかいボディの癖に、以前遊びで入れた古いLinuxしか入つてゐなくて、おまけにモニタが足らず、遊んでゐる機械がある。これは何う考へてもあべこべで、あり得べきは中と外が逆である事だ。そんな訣で今日はいよいよ兩者の側と中身を取替へる事にした。
「遊んでゐる側だけサーヴァ機」の中身を拔いて、録畫に使つてゐる機械の中身をそつくりそのまゝ移し變へるだけ。大した事はしてゐない。何時ものやうに指が血まみれとかその程度。機會ある毎にねぢを拾ひ集めておいたのは役に立つた。身近でPCが捨てられる時、ハゲタカしようとする人は、ねぢを集中的に集めておくとよろしい。他のパーツは古びるけれども、ねぢだけは古びない。
――で、別に特記するやうな事もなくて、作業はあつさり完了。現在、圖體だけはでかくなつた「何時ものPC」で闇黒日記を書いてゐる訣だけれども、思ふのは「何でこんなにマザーボードと言ふ奴はボディにマウントし辛いのだらう」と云ふ事。或は「何でまたこんなに組立て辛いやうにPCのマザーボードとかのレイアウトは作られてゐるのだらう」と云ふ事。わざとでないかと思はれるやうに、マザーの電源コネクタ及びIDEコネクタと、HDDのマウント位置とが干渉する。でかい圖體の癖に相變らず同じやうな苦勞をしてHDDを取附けながら俺は一體何をしてゐるのだらうとふと思つた。
電源を入れると、面倒なので替へなかつたフロッピードライヴを認識しない。なんか知らないうちにミツミの3モードドライヴを使つてゐたらしい。そちらが御馴染みになつてゐるBIOSくん、突然繋がれた普通のドライヴを認識し損なつたらしいのだ。で、BIOSの設定を變へるよりも元の構成に戻す方が何となく安心なので、大人しくFDDを取替へて再起動。これでまともに行くかと思ひきや、さにあらず、HDDが一つ認識されない。と言ふかこの程度のトラブルは豫想濟みだ。HDDが認識されない時はケーブルの接續不良を疑ふ事。これが鐵則。ソフトウェア的なトラブルと勘違ひして弄るより、先づはハードウェアの方を疑つた方がよろしい。さう云ふ訣で、再び腹を開いて、コネクタを良く押込んでやる。再起動。普通に認識される。やつぱり。何と言ふか、デジタルの時代でも、機械はアナログで動いてゐるんだよなと實感される瞬間だ。謎。起動すると、何うやら偶然にもUSBのケーブルを元通りに完璧に刺せたみたいで、新しい機器が見附かりましただの何だのと言はれる事もなく、普通に使へてゐる。
しかし、思ふのだが、やつぱり内藏のボードよりもUSBの方が簡單だね。熱暴走もし辛いし。何でも内藏したがる人もこの世には存在するやうだが、外附けには外附けの良さがある。今こそ外附けデヴァイスを再評價すべきだ。云々。
平成十八年八月八日
ところでサイバーシックスだが、メインの録畫に使つてゐるIBM ThinkCentreと、バックアップ用のPanasonicのLet's noteの二臺でも録畫してゐるから、三臺めが轉けても問題ないと言へば問題ない。今囘は、常用の自作機「無名戰士くん二號」でバックアップのバックアップに録畫をしようとしてし損なつた、と云ふ話。ちなみに彼は今囘改名して「無名戰士くん二號マーク2」となつた。意味ナシ。と言ふか、無名のPCがうちには何臺も轉がつてゐる。PCなんて自作したくないのであつて、安定して動いて、機能が十分あれば、本當はそれが一番。さう云ふのがないし、あつても高い御金を出さないと買へないから出來合のものは買はないだけ。と言ふか買へない。無職だから。しかし、PCの知識なんてものは、無駄な知識の典型だと思ふ。下手にPCの事が解る人が企業でも御家庭でも使ひつ走り同然に使はれて不幸な事になり勝ちなのは、世間でも知られた事實。知らない方が良いんだよ。何も知らなくてもトラブルナシに使へるのが一番良い。機械は常に同じ事を命令されれば同じやうに淡々と仕事をこなすから存在價値があるのであつて、トラブルが起きてそれを解決しなければならなくなるやうでは機械に存在價値はない。俺は正しく動くべき機械が正しく動かないのが一番嫌ひだ。

平成十八年八月七日
うたわれるもの @ tvk。喜劇的な部分と悲劇的な部分とを織り交ぜて、退屈させない。最終囘に話が纏るか何うかが問題。今までのところ可なりの力作あにめ。
平成十八年八月七日
デジタル放送の缺點。「畫質が良い」とか宣傳してゐる癖、一々「綺麗な映像」の上に餘計なメッセージをかぶせる事。なんで「データを受信しています」だの何だのと畫面に表示するのだらう。番組以外の全ての存在は視聽者にとつてノイズだ。放送事業者は何も解つてゐない。データ放送が「ある」のに、わざとテロップを出したり、或は――前にも指摘したけれども――コピーワンスの制限をかけてゐる筈なのに局のロゴを出したり。
デジタル放送は、その長所だけが宣傳されてゐる。その缺陷を曝露し、アナログから移行するのが決して良い事許りでもない、と云ふ事を明かにしなければならない。アナログ放送にも長所は澤山ある。
平成十八年八月七日
大體、デジタル放送、MPEG2だからブロックノイズなんかはしよつちゆう出る訣で、アナログ放送に比べて「ノイズが少い」なんて事は言へたものではない。割當てられた帶域が狹くてビットレートが低いチャンネルは何うしやうもなく畫質が低い。
地上デジタルのNHK教育、一つの帶域を三つに分割してゐる事が多いけれども、さう云ふ時に見て觀ると畫像の質の低さがはつきり解る。アナログのNHK教育よりもずつと畫質が惡い。圍碁の番組なんかは、動きが少いからブロックノイズは出ないけれども、元々の映像ソースが古い上、ビットレートが低くて畫面が全體にぼんやりとしてゐるので、「取敢ず觀られる」レヴェルの非道い映像になつてゐる。

平成十八年八月五日
ウィッチブレイド @ TBS。案外面白い。戰鬪シーンが無ければ無いほど面白い。
平成十八年八月五日
のあ
クレクレタコラ島略してクレタ島。
あやの
……。
平成十八年八月五日
ケーブルテレビのJ:COM
J:COM - 見る・録る・ダブル。ダブル録画が出来るHDDレコーダー搭載型セットトップボックス。
うちにヒューマックス製セットトップボックスJC-5000が來たよ。略してHDR(略してゐない)。デジタル放送で垂れ流されるMPEG-TSをそのまゝ記録して呉れる裝置。畫質はオリジナルの放送と同じ。問題はDVDに書出せない事。RecPotには書出せるらしい。
ネットワークメディアプレーヤー・TV出力・ハードディスクレコーダー
「HDRで再生→RD-XS40で録畫」を實驗。「録畫出來ません」と言つてRDくん録畫を停止。これは當り前の動作。
製品情報 / 機能情報 - HDD&DVDレコーダー RD-XS40 | 東芝
一方、「HDRで再生→GV-M2TV/USB2でキャプチャ」は可能。とれたMPEG2はコピー制限の信號を含んでゐないから普通にDVDに燒ける。
GV-M2TV/USB2
ただ、HDRは、HDDに録畫したデータを再生させると冒頭の十秒弱の間、一々タイムバーを表示して呉れる。おまけに、録畫の際、マージンをとる事が出來ない。番組がはじまるぴつたりの時間に録畫を開始して呉れる。だから、「再生→キャプチャ」で番組を保存しようとすると、冒頭の數秒間、タイムバーも一緒にキャプチャされてしまふ。これがなければ完璧。ANIMAX邊の番組の冒頭に鬱陶しい放送局ロゴを流して呉れるところだと却つて助かるのだけれども、キッズステーションとかAT-Xとかだと厄介。
通常はPCのキャプチャユニットでアナログ放送を録畫し、録り逃し分を補完する目的ではそれなりに使へさう。兔に角「直接DVDに燒けない」事は録畫&保存マニアにとつては深刻的な問題で、メインの録畫機にする事は出來ない。
Neutral Scent - J:COM HDR HUMAX JC-5000レビュー
世間的には「所詮安物・所詮韓國製」「安い割には使へる」「良い機械に比べれば駄目」と云ふ評價である模樣。
松下製のセットトップボックスに比べれば、りもこんでの操作に對するレスポンスが良い。ただ、録畫前のマージンを設定出來ない點、今一つ。
平成十八年八月五日
と言ふか、デジタル放送の時代になつて、番組を録畫し保存する事が何うしやうもなく面倒な事になつた。技術の進歩とは使ひ勝手を良くする事便利にする事操作を簡單にする事だと俺は信じてゐるのだが、TVの技術に關して言へば、機械が複雜化し、操作性が低下し、やりたい事が制限されるやうになつてゐる。これは寧ろ技術的には退歩であると言つて良いのではないか。
「放送と通信の融合」なんて言つてゐたけれども、放送が通信の中に解消されると云ふ正常進化は實現されず、通信が放送の舊弊なシステムの制約の下に置かれると云ふ悲慘な事態が出來しつゝある。この種のをかしな「進化」が、進化の名の下に國民に押附けられた事例は過去にもあつて、それは國字改革の事だが、それでも「便利になつたんだよ」「簡單になつたんだよ」と洗腦されれば國民は極めて容易に信ずるのであり、それで異常で不便な状況は自覺されないまゝ後世に引繼がれ、さらなる問題を惹起す。どうせだから、國語でも放送でも、行着くところまで行つて行詰つて、破綻して呉れないかねえ。
平成十八年八月五日
CYBERSIX/日本語
なつかしいサイバーシックスだが、この夏、東京MXテレビで放映してゐる。既に六話まで放送濟み。月曜日からは晝の二時〜三時に二話づゝ放送。結構樂しい。
あと、Bugってハニーなんかも放送豫定。
東京MXテレビ *Bugってハニー メガロム少女舞

平成十八年八月四日
うたわれるもの @ 東京MX。放送終了後の提供のところで放送事故。
平成十八年八月四日
東京古書會館の古書展。がらくた市。結構充實してゐたやうな氣がする。古めの本が多く、古い本が嫌ひな古本マニアと云ふ變な人ならば氣に入らないかも知れない(何か矛盾してゐる表現のやうな氣がするが、さう云ふ人が實際ゐるのである)。買つたもの。ジョナサン・スウィフト『スウィフト政治・宗教論集』(法政大学出版局、叢書・ウニベルシタス277)。会田雄次『日本の風土と文化』(角川選書55)。『勅語敕諭集 附(戰陣訓)』(萬華通信社出版部)。中谷宇吉郎・吉田洋一・安騎東野・大町文衛『科學隨筆選』(養徳叢書2)(卷頭「養徳叢書發刊につきて」に據れば、養徳叢書の創刊は何うやら昭和十九年秋であつた模樣。昭和十九年十月吉日とある)。ポォル・ヴァレリイ、アンドレ・ブルトン、ポォル・エリュアル、堀口大學編譯『思考の表裏』(臼井書房)(ヴァレリイ「文學」とそのパロディであるブルトン、エリュアル「ポエジイに關するノオト」とを上下に並べて印刷してゐる)。雜誌「心」昭和四十一年十一月號 秋季特輯(平凡社)(深瀬基寛の遺稿「病室を道場にした男」を掲載。大した文章ではない。新字新かな)。「人間」昭和二十五年十一月號(獅子文六・辰野隆・福田恆存「座談會 笑いと喜劇と現代風俗と」を掲載)。「特集 文藝春秋 宇宙時代とソ連の科学」1957・11(林健太郎「人類史上記念すべき日」、桶谷繁雄「ヨーロッパは諦觀す」を掲載)。「文藝春秋」昭和三十年十二月號(芥川比呂志「父龍之介の出生の謎」を掲載)。

平成十八年八月三日
ちょこシス @ tvk→MX。始まる前に豫想してゐたよりは面白くなつてゐると思ふ。一往途中のネタを伏線にして落ちが附いてゐたのは良い。裏がたまに變な方向に暴走するいぬかみなのは可哀想。
吉宗 @ MX。ちやんとキャラが生きて動いてゐるし、ネタがしつこく引張られてギャグの效果をきちんと擧げてゐるし、結構面白い。誰も觀てゐないやうな氣がするけれども、もつたいない話。誰目當てに作られたあにめなんだらう。
内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎 @ テレ朝。何か最う色々をかしい。演出もさうだが何處をとつても變だ。取敢ず突込み入れながら見てゐると三十分くらゐあつと言ふ間に經つ。來週も觀る。
平成十八年八月三日
國語科なる教科の最大の問題は、教材の文章が、數學科や理科、或は社會科の教材の文章よりも易しい處にある。

平成十八年八月二日
Internet Explorerの致命的なバグ――「畫像がリンク切れになつてゐるとその『ページ』を*.mhtで保存出來ない」――は、Ver.7の正式版でちやんと修正されるのだらうか。

平成十八年八月一日
福田恆存『戲曲のリアリズムとはなにを意味するか ――主として「劇作派同人」に――(「劇作」第二十八號)

現實的な會話にではなく、會話のことばの内在律に眞實性を見ようとしたあなたがたは、戲曲がせりふによつて――いや、せりふのみによつて――つくられてゐることを自覺した最初のひとたちではあつたけれども、そのためことばによつて規正しえない人間の世界にまで深いりしようとはしなかつた。ぼくはかならずしも無意識の世界を描けといふのではありません。たゞ申しあげたいのは、人間といふものはときに身分不相應なことばを吐くものだといふことであります。そしてそのことばのためにおもひかけない結果をもちきたらすものであります。人間はことばを發するだけではなく、ことばが人間をうごかすことがあります。せりふの藝術としての自律性は――いひかへれば、それが日常生活の會話と異るゆえんは――さういふ能動性をもつてゐるかいなかにかゝつてゐるのです。せりふが洗錬されてゐるかどうか、その人物の心理のぎりぎりな表現であるかどうかは、むしろ第二義的な問題であります。

平成十八年八月一日
ストパニ @ tvk。或意味涼宮ハルヒ超えてる。マリみては完全に超えてる。渚砂・静馬の關係破綻。玉青がんばれ。來週も觀る。
平成十八年八月一日
N・H・Kにようこそ! @ tvk。主人公のひっきー佐藤君は中原岬の申し出を當座拒絶するだけの目的で適當にクリエイターになるとか言つて、その言葉からどんどん變な方向に動き始める。それはそれで良いのだけれども、そこから先がちよつと何うかと。「如何にも萌え産業の人逹が考へてゐるやうなヲタ」に佐藤は「なつて行く」訣だけれども、それが本當のヲタの姿なのかと言へば何うもさうとは思はれない。めいど喫茶に行つて喜んでみたりしてゐる佐藤だが、慘事に興味を持つ奴が本當のヲタだと言ふ事は出來ない。如何にも痛々しいヲタ・ひきこもりを描かうと云ふ本作だが、主人公が實はヲタらしくなくひっきーらしくもない、と云ふのが大問題。世間的・常識的に「繪に描いたやうなヲタ・ひきこもり」でしかない主人公に、視聽者の中の「本當のヲタでひっきーな人」が反感を抱くのは必至で、それでは實は本作、大失敗なのである。主人公の淺さ――それに輪をかけて變に「おしやれな雰圍氣」を裝つてゐる爲に、觀ながらむかついてゐる人が結構ゐる模樣。作者が眞性のヲタでない事、それゆゑにヲタとしての自分と對峙し得てゐない事、それが本作を決定的にアレなものにしてゐるのだが、取敢ず「それつぽい」ヲタ像を提示できれば制作者は滿足である。ヲタ産業・萌え産業の連中が、ヲタとは何かを全く理解してをらず、「萌え」なるキーワードで適當に商賣をやつてゐる現状、かうした中途半端な「常識的」作品が出現するのも無理はない。が、それで良いのか。世間的には「良い」のかも知らんが、現代の高等遊民諸君の評判を勝ち取れないであらうレヴェルで纏まつてしまつてゐては、「それなり」の作品としか評する事は出來ない。駄目人間として描かれてゐる筈の主人公だが、駄目レヴェルはそんなに高くない。本當にアレな人は主人公なんかよりもつとアレであるのだから、さう云ふ人が觀た時、本作は實に淺薄皮相的なものでしかない。それはそれとして、マクベスが王樣になると意氣込むのと、佐藤がクリエイター(と言ふかえろげの制作者)を目指すのとでは、雲泥の差があつて、ろくでもないものをしか目指さない現代の物語が、英雄たる事を望みつゝ失敗する悲劇に比べて魅力を持ち得ない事は自明である。
と言ふか萌えだの何だの言つてゐる人つて相當ライトなヲタにしか見えないんですが。めいど喫茶に行つてゐる人なんて、寧ろまともな方だらう。精神的に非道く病んでゐる人なら虹裏img邊にいつぱいゐる訣で、さう云ふ人逹と比べればアキバ邊をうろついてゐる連中なんてまだまだまともとしか言ひやうがない。大體あの主人公、本當のひきこもりではないよ。一人暮しのひきこもり。コンビニに行けるくらゐの人ならまだまだ大丈夫。ええと俺は何を熱心に語つてゐるのでせうか。これだから無職と(r
平成十八年八月一日
アニメーションだからと言つて御芝居・演劇と違はなければならないものであるとは思はない。映畫と演劇とでは慥かに「編緝」が出來るか出來ないかの違ひは「ある」。TVで觀るドラマと映畫館で觀る映畫、劇場で觀る演劇、慥かに違ひは「ある」。が、一方で、臺詞劇としてそれらが成立し得るものである事は慥かである。俺が不滿に思ふのは、さう云ふ臺詞劇が日本では兔に角徹底的に排除されてゐる事實である。「アニメなのだから」「ドラマなのだから」「演劇なのだから」――「映像の藝術」である事が殊更に強調され、臺詞はただの邪魔ものとして扱はれてゐる。「拙い臺詞」があつた時、「臺詞に頼るのが行けない」=「映像で語れ」と云ふ常識的な通り一遍の批判で濟まされる事が日本では極めて多い。臺詞が契機となり、其處から行動が引出され、その行動から再び臺詞が生れる――さう云ふ臺詞劇は、小説であつてもあり得るものだが、日本では忌むべきものと看做されてゐる。けれども、なぜまたそんなに映像だけに拘るのか。實のところ「拙い臺詞」は多くの場合、映像を重視し過ぎた結果として生ずるものである。臺詞を閑却した附けが常に「拙い臺詞」となつて現れる。藝術作品としての映像作品の中に、豫め少しでも臺詞の居場所を確保しようとしてゐさへすれば、臺詞はきちんと效果を發揮して映像とともに作品を成立させる要素たり得るのだが、それを制作者が排除しようとして、最初から邪險にしてゐれば、當然のやうに臺詞は作品に復讐する。日本の多くの映像作家がその邊の事を解つてゐない。もつとも、映像作家が臺詞を邪險にするのも理由がなくはない――と云ふのは、映像藝術を成立させ得るだけの巧い臺詞を書けるライターが、日本には存在しないからである。あにめの脚本家でも、巧いのはギャグ許り――或は「取敢ず恰好良い臺詞」を書いて、ど派手な映像と組合せれば、視聽者には強い印象が殘るだらう、と、その程度の認識でシナリオを書いてゐる人が多過ぎる。しやれた臺詞を書けばそれで十分なのか。さうではない。ところがシナリオライターにその邊の事が解つてゐない。とは言へ、適當な臺詞でも受容れてしまふ日本の視聽者にも、責任の一端は「ある」。橋田壽賀子の下らない御喋りが延々繰返される脚本が持囃される。非道いものだ。「説明的な臺詞」、慥かにそれは惡い臺詞だ、だが、だからと言つて「臺詞なんかに頼らないで、映像で語れ」――そんな風で良いのか。臺詞が行動を呼び、行動が臺詞を必然的に要請する、さう云ふ本當のドラマが、映像作品として成立して、何で惡いのだらう。「面倒」と云ふのが映像作家達の本音なのではないか。役者が、「目立ちたい」許りに、物語としての必然性を無視して、座附作者に舞臺の上で見榮えがするだけの脚本を要求した事は、歌舞伎以來の演劇の惡き傳統である。今、映像作家もまた役者の冒した過ちを繰返してゐるのではないか。彼らは目立ちたい、自分だけの映像を見せびらかしたい。彼等にとつて、臺詞は映像を提示する際のきつかけに過ぎない――臺詞は無ければ無いに越した事はない、そんなものである。が、それでは映像藝術は現代的な藝術たり得ない。パントマイムを否定する訣ではないけれども、今の映像藝術はパントマイムを理想と考へ、それだけを追求しようとしてしまつてゐるのではないか。けれども、「臺詞に頼らない」事に「成功」した映像作品が、時として子供つぽく、幼稚なものに成下がつてゐるのは、屡々「ある」事である。それに「説明的な臺詞」がくつ附けば、稚拙さは更に強調されるだけである。映像作家は臺詞を排除しようとするのではなく、寧ろ積極的に臺詞と協調する事を考へた方が良くないか。映像作家と脚本家が、互ひに相手を利用しようとして、ぎくしやくした關係に陷つてしまつてゐるのが、現在の映像藝術において映像と臺詞のバランスを缺く原因となつてゐるのではないか。映像作家は臺詞を蔑視し、脚本家は映像作家に劣等感を抱くのを止めよ。
平成十八年八月一日
ARIA The NATURAL。臺詞の説教臭さ――それは指摘してゐる。けれども、問題は、さう云ふ御説教の臺詞で納得する登場人物と、その納得する樣子を眺めてゐる視聽者との間に「馴れ合ひ」が存在する事だ。晃が藍華に「御前はアリシアにはなれない」と力強く説教する。藍華が泣きながら納得する。「あゝいい話だな」「良い最終囘だつた」と視聽者が納得して「今夜は良く寢られさうだ」と言つて床に就く。なるほど晃さんが力強く説教するのは、如何にも晃さんらしい行動だ。けれども、晃の説教に藍華が納得しなければならない物語上の必然的な理由はない。藍華の「納得」を支へてゐるのは、ただの「世間的な常識」――と言ふより、ただの「現代的な通念」でしかない。大體そんな事を言つておけば今の日本人は納得する――「自分らしく」。しかし、さう云ふ「常識」いや「通念」を殊さら強調し、改めて述べるのが藝術でありアニメーションであるのだとしたら、我々は何と詰らないものを喜んで觀てゐるのだらうか、と云ふ事になる――いや實際、詰らないのだ。我々は説教されて喜んでゐるに過ぎない。が、それでは何故、説教を藝術作品の形に仕立て上げなければならないのか。イギリスではシェイクスピア以前、教會がキリストの教へを傳へる爲に御芝居を演じたと云ふ。我々はシェイクスピア以前の御芝居を觀てゐるやうなものではないか。教會の御芝居は、シェイクスピアの御芝居に「進化した」筈である。
平成十八年八月一日
また田村書店の無料箱に岩波新書(等)が大量に出てゐたので拾つて來た。古本が机の周りで山になつてゐるのは許容されるよね。あと、貰ひ物のモニタとか拾つたマザーボードとか。
平成十八年八月一日
asahi.comの各記事にある「PR情報」、なんか文字化けしてない?
ソースを見たらJavaScriptでdocument writeしてゐる。Operaだと化ける。Internet Explorer 7だと大丈夫。doubleclick.netの中の人、Operaユーザなんて何うでも良いと思つてゐるんだらうなー。

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