外から見た様子。外見。外観。を表はすのは「見場」。「見場を良くする」なんて言ふよ。
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- 当社のJ:COM TV デジタルの新サービスで、ハイビジョン録画対応のハードディスク内蔵型STBのこと。ハイビジョン画質番組の録画をはじめ、裏番組や2番組同時録画が可能で、多彩なデジタル放送を自由に楽しむことができるサービスである。
ハイデッガーの哲学は、様々な曖昧さを持つように思われる。この哲学は、事実上キェルケゴール、ルッター、アウグスティヌスを基にして実存哲学を考えているが、しかも同時にそれを、科学的、現象学的、客観化的にも考える。……。
知識が増えるのは悪いことではありません . ただ思うのは態々正字正かなにしなくたっていいでしょうよつか現代字が要らないでしょうだったら正字正かなに統一しちゃえばいいんだし .
しちゃえばいいとか言つてゐるのは、「現実に統一されないのだから、それにはそれなりの理由があるんだろw」みたいな言葉を暗示してゐるのである。全て暗示でごまかすのが「優れた」詐欺師の方法。しかし、さう云ふ「現實主義」は、合理主義ではないよ。勿論合理的でもない。現實主義者を標榜する人に屡々勘違ひが見られるのだが、「現實である」=「合理的である」と云ふ事ではない。それが本當なら、「現實に不合理なんて全く存在しない」と云ふ事になる。けれども、そんな馬鹿な話はない。
句読点がないのは仕様です , カンマとピリオドの方が見やすいと思ったので
仕様ですがはてなのキーワードになつてゐる。
不具合などに対し、「もとからそういうものです」と開きなおるための常套句。
コンピュータ・プログラム以外の場面でも使われる。
例:「デートの日に限って雨が降るのは仕様ですか」
見やすいと思ったみたいな言ひ方で、即座に「良い」と認められる事に「なる」と云ふ發想、「何なのだらう」と何時も不思議に思ふ。「なぜ
見やすいと言へるの?」のやうな簡單な突込みにも耐へられない、脆い主張に過ぎないのだが、當人、「思った」と力強く言へば免責されるだらうと、不思議な事に確信してゐる。
記事の価値がないかもしれませんしあるかもしれません。俺は「ない」と思ふけれども、まあ一往リンク張つておく。
俺が伝統それ自体にろくすっぽ価値を見出していないこと、正しいという言葉にかなり懐疑的になってしまうことが多いことを考えると、多分これ以上は確実に平行線でしょう。そもそも「伝統」それ自体の捉えかたや「正しさ」に対するスタンスが根本的に異なるようなので。
個人的にやってる分にはいい筈の事だ。ところがKuwata Chikara氏は、
個人的にやってる分にはいい筈の事であつても、それが「一般化」すれば率先して從ふのである。「一般化」が何んなに惡質なやり方でなされたのであつても、結果として「一般化」されたのであれば、Kuwata Chikara氏は全く氣にしない。Kuwata Chikara氏は、結果だけ見て、それが自らにとつて利益になるか何うかだけで物事を判斷する。それは現代の日本人にとつて一般的な態度だが、それをやつてゐるから諸外國の人々に日本人を嫌はせる結果となつてゐる。
正しく批判されてゐるならば對立意見でも不愉快ではないのは勿論です。問題は意見を讀ませてくれないことから反論も出來ないリンクに曝されることにあります。
この記事を支持の意志とともに紹介された乱土さんのことをどうかうは思はないけれど、自分はかうした問題を「国益」のみの観点で扱ふ姿勢そのものに大きな疑問を感じる。
私は小泉純一郎を「狡猾な政治家」だと信じたいと思ってきたが、五年にわたるその期待はどうやら報われぬものだったようである。と、嫌な人間が常にするやうに、氣に入らない對象を見下して見せた事である。憎んで罵倒するのは相手の立場を認めてゐるからする事だ。罵倒する主體は、罵倒される對象を決して見下してはゐない。自分の立場は寧ろ罵倒の對象よりも下である。一方、人を見下すのは、自分を高みに持上げる事である。自分を高みに持上げる事は、大變に傲慢な事だ。その邊、根本的に勘違ひしてゐる人が日本には飛んでもなく澤山ゐる。
それは決して、亡くなった人の本意でもないと思う。と云ふものがあつた。この種の言ひ方を日本人は大變に好む。しかし、この推測は、妥當なものであるか何うか、絶對に檢證出來ないものである。
支那・韓国も本気で腹を立てるなら、工作員に参拝客を装はせ賽銭の代はりに手榴弾をお見舞ひすればいいのに。「吠える犬は噛まない」とはかういふことか。
靖國を國の管轄にしたときはもとより、それ以外の場合でも、 政府による神道式儀式(もしくは佛教でも良いが)を行つても 問題にならないやうな環境を作れなければ、 民族保守派の負け であり、私の思ふ日本といふ國の終焉で有ると考へてゐる。
追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会なるものが出した「報告書」だが、最初から「在り方を考える」目的の「懇談会」だから、「在る」事は大前提で、批判に對しても、「在る」事を正當化する反論を熱心にするが、それを受容れようとする態度は見せない。
「無宗教」を信じている宗教が無いという言葉で議論すると訳がわからなくなりますが、特定の宗教に依存しないと考えればいいと思います。と云ふ囘答が寄せられてゐるけれども、この種の「言換へで納得したら?」と云ふ意見が日本では普通に罷り通つてゐる。「特定の宗教に依存しない」と云ふ事ならば、さう言へば良いのだし、さう言はないのならば、なぜ不適切な「無宗教」なんて用語をわざわざ使ふのか、考へねばならない。ところが、日本人は「言換へませう!」と言はれると、「わかりました! 最う何も疑問はありません!」と、幼稚園兒のやうに嬉々として叫ぶ。
役に立った数:0件なのは、質問者も良く解つてゐる。
こんな文章でポイントもらえるなら、そっちの方が錬金術だなとコメントされてゐて、とても納得した。
徹底した国語伝統主義者で、戦後の国語改革のほとんどすべてを否定し去るだけでなく、旧字体・歴史的仮名遣いの確固たる実践者である塚本氏が、新聞社の要請で略字略かなで書いたと云ふ、誰だかをやっつける会の会長が頭から湯氣を出して怒りさうな本)。雜誌「群像」(昭和二十四年九月號)(福田恆存「歸家本能を拒否せよ」を掲載)。
昭和十九年十月吉日とある)。ポォル・ヴァレリイ、アンドレ・ブルトン、ポォル・エリュアル、堀口大學編譯『思考の表裏』(臼井書房)(ヴァレリイ「文學」とそのパロディであるブルトン、エリュアル「ポエジイに關するノオト」とを上下に並べて印刷してゐる)。雜誌「心」昭和四十一年十一月號 秋季特輯(平凡社)(深瀬基寛の遺稿「病室を道場にした男」を掲載。大した文章ではない。新字新かな)。「人間」昭和二十五年十一月號(獅子文六・辰野隆・福田恆存「座談會 笑いと喜劇と現代風俗と」を掲載)。「特集 文藝春秋 宇宙時代とソ連の科学」1957・11(林健太郎「人類史上記念すべき日」、桶谷繁雄「ヨーロッパは諦觀す」を掲載)。「文藝春秋」昭和三十年十二月號(芥川比呂志「父龍之介の出生の謎」を掲載)。
現實的な會話にではなく、會話のことばの内在律に眞實性を見ようとしたあなたがたは、戲曲がせりふによつて――いや、せりふのみによつて――つくられてゐることを自覺した最初のひとたちではあつたけれども、そのためことばによつて規正しえない人間の世界にまで深いりしようとはしなかつた。ぼくはかならずしも無意識の世界を描けといふのではありません。たゞ申しあげたいのは、人間といふものはときに身分不相應なことばを吐くものだといふことであります。そしてそのことばのためにおもひかけない結果をもちきたらすものであります。人間はことばを發するだけではなく、ことばが人間をうごかすことがあります。せりふの藝術としての自律性は――いひかへれば、それが日常生活の會話と異るゆえんは――さういふ能動性をもつてゐるかいなかにかゝつてゐるのです。せりふが洗錬されてゐるかどうか、その人物の心理のぎりぎりな表現であるかどうかは、むしろ第二義的な問題であります。