闇黒日記


平成十八年七月三十一日
うたわれるもの @ tvk。面白い。
取敢ず毎日更新。

平成十八年七月三十日
コヨーテラグタイムショー @ tvk。話はアレだつたが地震が空氣を讀んで呉れてテロップ吹いた。

平成十八年七月二十九日
BLOOD+ここにきて面白くなつて來た氣がする。携帶待受畫像ぷれぜんとのパスワードが(r

平成十八年七月二十八日
西田幾多郎著『哲學概論』
平成十八年七月二十八日
東京古書會館の古書展。雜誌「劇作」九册。「文藝」第十一卷第五號「特集・岸田國士追悼號」。中橋一夫『シェクスピア』河出書房・市民文庫。
京王新宿恒例の古書展。ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』中公文庫。吉井勇選『現代名歌選』養徳叢書11。竹友藻風譯・ダンテ『神曲 地獄界』創元社。「宇宙戦艦ヤマト」映畫パンフ。

平成十八年七月二十七日
折々の妄言の2006/07/23の項。
何がそんなに解り難いのだらうと思つたが、「俺の使つてゐるOSはWindows」と云ふ大前提を書き忘れてゐた。常連さんならそんな事くらゐ百も承知だと思つてゐたから云々。
「WindowsアプリはWindowsアプリらしく、MacアプリはMac以下略」と言つてゐるだけだよ。「MacアプリもLinuxアプリもWindowsのアプリケーションと全く同じGUIにせよ」なんて、そんな馬鹿な事は言つてゐない。「Windowsのインタフェイスが一番使ひ易いインタフェイス」なんて事も言つてゐない。何處を何う讀めば。globalismなんてものまででつち上げて呉れてゐるし。だから妄言なのか知らんが言つてゐない事を言つた事にされるのは不愉快だ。
と言ふか、妄言の中の人の文章、俺には物凄く諄くてしつつこい文體のやうに見える。ねちねち嫌みつたらしく分析して見せるのは喧嘩を賣つてゐるのか? 俺は諄くて人の言つてゐない事をもつともらしく理窟を附けてさも言つてゐるかのやうに見せかける文章が大嫌ひだ。アレクセイとか。
わざと横文字を使つてゐるのもスノッブで嫌らしい感じがする。なぜ片假名でプログラムと書かず、横文字でprogramと書くのだらう。
と言ふか、「プログラムを作る人がプログラムのインタフェイスを輕視してゐるのは良くない」と俺が非難してゐる事、この人は判らなかつたのか? さうだらう。妄言の中の人は、リンク先の文章も見ないで俺の文章だけを讀んで「分析」してゐたのだらう。文脈くらゐ讀めよ。と言ふか、俺の文章を讀んだだけでも、「インタフェイスが惡いプログラム」を非難してゐる事は解るだらう。何うしてそれが判らないのだらう。

全體を讀むと、「ネイティヴのプログラム」とは「ネイティヴのWindowsアプリ」、良い interface とは「Windows風のGUI」であるとの前提をもとに、「複數のOS上で動作」しようがすまいが、GUI は Windows のそれにあはせるべきだと、主張してゐるのだと分かつてある意味納得。但し、後味の惡さは殘る。

どうしてそんな事が「讀めてしまふ」のか、さつぱり解らない。俺がそんな主張をしてゐない事は、普通に讀めば解る筈だ。「俺の使つてゐるOSはWindows」と云ふ大前提を書き忘れてゐたのが俺のミスだとしても、だからと言つて此處までひねくれた讀み方をして良い理由にはならない。大體、普通に俺の「闇黒日記」を讀んでゐれば、前提として「野嵜はWindowsユーザである」と云ふ事は判る筈だ。それをすつとぼけて妄言の人、適當に野嵜の話を作つてゐやがる。當人、「俺は巧く野嵜の言つてゐる事を纏めた!」と思つてゐるのだらうが、野嵜の文章に於る論理の流れを無視して、話の順序を適當に入換へてしまつてゐる。さう云ふ「話の入換へ」自體が「話のでつち上げ」になる事は解つてゐないらしい。人の言つてゐる事を纏めると云ふのは、ただあつちで言つてゐる事と此方で言つてゐる事とを適當に繋ぎ合はせて自分流に解釋すると言ふのでなく、相手の論理の大前提小前提結論を正しく整理する事だ。妄言の人は、ただ野嵜の言葉尻を捉へ、適當に話を繋ぎ合せて、「野嵜の言つた事」をでつち上げてゐるに過ぎない。かう云ふでつち上げをもつともらしくされるのが、俺は一番嫌ひだ。
と言ふか。

(1) 白い program も、黒い program も、「インタフェイスの作りが惡い」program は、皆、惡い program であり、(2) program の interface の良し惡しと、multi-platforms 對應云々は相關關係にない、(3) 1, 2 のいづれも common sense である、との思ひ込みがあるから、「けれども」がどうつながるのかがわからない。

こんなに讀み難く意味のとりづらい文章もあつたものではない。白だの黒だのと言ふべき理由が全く解らない。programだのinterfaceだのとなぜか英語。common senseなんて、どうしてわざわざ英語で言はなければならないのか。相關關係が「ある」と言つてゐるのに、わざわざ「ない」と勝手に極附ける。「けれども」と言つたら常に「逆接」と思ひ込んでゐる。「僕だけれども、今日暇かい?」と電話があつたら、妄言氏は「わからない」とでも答へるだらうか。頭が惡過ぎる「分析」の仕方だ。世の中には「文章の正しい讀み方」がある。妄言氏はそれが解つてゐない。
平成十八年七月二十七日
財前シェイクスピアネタ。この世が舞臺。俺今すつごい笑顏。
平成十八年七月二十七日
涼宮ハルヒの小説。既刊分を讀み終へた。あにめではSF的な部分をばつさり切捨ててゐるけれども原作は時間テーマSFをガチでやつてゐる。ただのパズルとしての時間テーマSFは詰らないものだけれども(さう云ふのが素人小説には割と多い)、ハルヒは「伏線を張る」演出として時間SFの構成が利用されてゐるので結構讀めるものになつてゐる。と言ふか、ハルヒが出て來ないと時間SFになる。
憂鬱で感じたけれどもハルヒのシリーズは何處か古めかしい或はなつかしい雰圍氣を持つてゐて、一昔前のヤングアダルト小説を良く讀んでゐた人はノスタルジックな氣分になれるかも知れない。

平成十八年七月二十六日
MacFace用涼宮ハルヒの表情を使ひ始めて以來、俺及び俺周邊でHDDやシステムが逝つてしまふ現象が頻發してゐるのだけれども何うしたものだらうか。
平成十八年七月二十六日
録畫用PCに載せてあるアイ・オー・データのGV-MVP/RZ2とGV-MVP/RX2のドライヴァ・サポートプログラムが二十四日附けで更新されたのでアップデート作業をしたが、ダウンロードしたアップデータ添附のreadmeの指示通りに作業をしたら今まで兩方使へてゐたのが使へなくなつた。
デヴァイスの削除とかmAgicTVのアンインストールとか再インストールとかを繰返したら何とか動くやうになつたが、何うしてこんなにややこしい仕組にしたのだらう。同じメーカの製品だと、「共存出來るやうに作つてある」製品でないと共存出來ないし、「共存出來るやうに作つてある」製品でも巧くやらないと共存しない――これは一體何う云ふ事だらう。「それが當り前だw」とプログラマとかの人は平氣で言ふと思ふけれども、一般人の常識的な感覺からすればそれはをかしい。
メインで使つてゐる(以前は兔も角現在は録畫專屬にはしてゐない、テキスト入力その他で常用してゐる)PCでは、GV-M2TV/USB2とMonzterTV-Vとが共存してゐた。他社製品同士が普通に仲良く共存するのに、同じメーカの製品同士が喧嘩をする、と云ふのは、プログラマ・設計者の常識としてをかしくなくても、一般人の常識からすればをかしい。同じメーカの製品同士ならば、仲が良いのは當り前の筈――さう思はない一般の消費者はゐない。いや、「ゐた」としても、それは「知識がある」人だ。そして、現在のPC用の製品は、さう云ふ「知識がある」人には「簡單」「便利」であるやうにしか出來てゐない。俺はさう云ふ知識を「持つべきだ」とかねがね主張して來たものだが、しかし、さう云ふ知識が「ない」人であつても「使へる」のは「理想」なのであり、その「理想」を目指さないのは何うかしてゐると思ふ。言葉の問題は「簡單」「便利」なる觀點で濟ませてしまつてはならないが、技術・テクノロジーの問題はさう云ふ觀點で濟ませて良いし、濟ませるべきだ。簡單・便利に使へる「やうにする」のが技術の存在意義だ。今のPCは難し過ぎる。
プラグアンドプレイの機能と云ふ奴、これは慥かに「良く解つてゐない人」の爲に「ある」。けれども、それを巧く動かす爲にユーザは「良く解つてゐる」事を必要とする。往々にして巧く動かないプラグアンドプレイ機器を、何とか動かす爲に、ユーザは要らん知識を必要とする。と言ふか、プラグアンドプレイ以前の機器は、ちやんと仕組を解つた上で導入する必要があつて、面倒だつたけれども、知識があり仕組が解つてゐればミスをしない限りちやんと動いた。プラグアンドプレイだと、ユーザが仕組を解る解らないの話とは關係なく、プログラムが巧く動く動かないで、機器が動作したりしなかつたりする。そして、インストーラ・セットアッププログラムの動作・Windowsのプラグアンドプレイ機能の動作が、屡々「運任せ」状態である事は改めて指摘するまでもない。そこで要求されるユーザの知識と云ふ奴、これは何なのだらう。機器に對する理解よりも、そこではセットアッププログラムの使ひ方、Windowsのデヴァイスマネージャの使ひ方、コントロールパネル・プログラムの追加と削除の使ひ方、そんな何うでも良いやうな知識ばつかりが要求される。後は根氣と意地。ソフトウェア的な設定と、ジャンパの設定と、どちらが簡單だらう。プラグアンドプレイ以前のPCで、IRQだの何だのが「難しい」事になつてゐたのは、單に「足らなかつた」だけの事であり、それらが解決しさへすれば、プラグアンドプレイなんかよりも機械的な設定の方が、簡單に機器のインストールが出來る事になつてゐたのではないか。慥かに最初の設定が面倒かも知れないが、一度設定したら、なぜか或日突然設定が飛んで危機が認識されない、なんてソフトウェア的なコンフィグレーションの缺陷はなかつただらう。
と言ふか、PCを再起動するとmAgicTVで認識されるデヴァイスの順番が變つてしまつて、GV-MVP/RZ2で録るべき豫約がGV-MVP/RX2Eで録る事にされてしまつたりする。アンテナケーブルの繋ぎ方の都合上、信號が弱くなつてゐる上、畫質向上機能があんまり附いてゐないGV-MVP/RX2Eではバックアップ的な目的でしか録りたくない訣で、それでメインの録畫は全部GV-MVP/RZ2で録るやう指定してあるのだが、PCを再起動すると往々にしてそれが逆になつてしまふ。だからWindowsXPであるのを良い事に數箇月PCの電源を入れつぱなしにしてあつたりする訣だが、便利なのだか不便なのだか最うよくわからない。
ちなみにアイ・オー・データの複數のTVキャプチャ機器を共存させてゐる場合、アップデートの手順は以下の通りにする必要がある。mAgicTVを最初に削除、ドライヴァを一つづゝ更新して、最後にmAgicTVを再インストール。かうしなければ、二つの機器をmAgicTVがきちんと認識しないし、巧くインストール作業が出來ない。ドライヴァを入れてシステムにキャプチャ機器を正しく認識させてから、最後にmAgicTVを入れる事。アップデータ添附のreadmeに記述された手順に從つてはならない。それは單品で使用してゐる時にとるべき手順だ。

平成十八年七月二十五日
毎度作畫が微妙なれど神脚本のストパニ @ tvk。いよいよエトワール選が話題に。
取敢ずOp前のアンジェリークのCMとA後のドワンゴのCMに吹いた。空氣嫁。みさかじマンはいつになつたらカウンタックに乘れるのか(はマジで何うでもいい)。俺は何夜連續tvkの死亡確認をしてゐるのだらう。
ところで横浜銘菓ありあけのハーバーのCMで、有明製菓のウェブサイトのURLがhtttp://www.ariakeseika.co.jpになつてゐるのだが、何うしたものだらうか。
有明製菓/復活横浜銘菓「ありあけのハーバー」
平成十八年七月二十五日
スカパー→CATV(J-COM)→RD→GV-M2TV/USB2で接續すると、何うもコピーワンス信號無視して呉れるみたい、の件。取敢ずAT-Xでシムーンとマリみて録つてみたら録畫出來た。S端子接續で綺麗。RDで録畫濟みのデータを再生→GV-M2TV/USB2で録畫、もOKの模樣。多分RD通さないでも行けるが、セットトップボックスの出力端子に空きが無い。

平成十八年七月二十四日
どうなる年末カウントダウン? 地デジでは「時報」が無くなる、の真相を探る! / デジタルARENA
これ、隨分前から問題になつてゐて、何で今頃話題にするんだらう、肩が赤い。と言ふか夕方の時報なんかがアナログ放送でも消滅してゐて、それで時報で時計合せするヴィデオデッキなんかが時計を合せられなくなつて大騷ぎ、と云ふ事態が既に發生してゐる。
デジタル放送のデメリットは兔に角何でもかんでも遲い事が擧げられる。「畫面が綺麗」とか、メーカや放送局やその他の關係者が一生懸命宣傳してゐるけれども、デジタル放送は必ずしもメリット許りとは言へない。デジタル放送のチャンネルの切換が無茶苦茶遲いのは、昔ながらのアナログ放送に慣れてゐる人にとつては極めて嫌な事で、體が受附けなくてデジタル放送も觀られるのに敢てアナログ放送を擇んでゐる老人もゐる。
「操作しても反應が遲い」と云ふのは、それだけで「操作性が惡い」事になるのだが、何うもデジタル放送關係者はそれが解つてゐない節がある。以前J-COMの人に文句を言つたら「それは遲いです(w」とか答が返つて來てがつかりした。と言ふか、操作性が惡い事、今のデジタル放送關係者は――と言ふより、BS開局以來、全ての放送關係者が「問題だ!」と思つてゐないみたい。俺みたいなヲタなら「地上波」「BS」「CS」なんて言はれても理解出來るけれども、七十過ぎの老人に、入力ソースを基準にしたチャンネル撰擇なんてやらせようとしても、無理だよ。大體、VHFとUHFすらも判らない人は多いと思ふし、その所爲でUHF局の番組を觀ない人も未だに多いのではないか。さう云ふ人に「地上波」「BS」「CS」を撰擇して觀させようだなんて、無茶な要求だと思はないか。行政は餘りにも御氣樂に考へる傾向がある。話を無理やり繋ぐやうな氣もするけれども、あの國語改革だつて、相當氣樂にやつたやうな氣配がある。
平成十八年七月二十四日
GV-M2TV/USB 2が普通にコピーワンス信號スルーして呉れる。?
スカパー→CATV(J-COM)→RD→GV-M2TV/USB 2だと録畫可能だつた。

平成十八年七月二十三日
http://elastic965.80code.com/blog/2006/07/validity
假名遣の問題と語彙の問題とがごつちやにされてゐる俗論で何うしやうもないが、さう云ふどうしやうもない俗論こそ日本人が愛してやまないものだから、この俗論は多くの日本人にとつて「説得力を持つ」ものだらう。反論してもその「反論する」と云ふ行爲そのものが日本人にとつては反感を持つべき決定的な根據となるのだから、この手の「俗論」は言つたもの勝ちで、だから困つたものだと思ふのだが、言つてゐる當人は「俺は良い事を言つた!」と思つてゐるのだから仕方がない。
あのですね、「昔の言葉をそのまゝ使はう」とは誰も言つてゐないのであつて、正字正かな派はただ「過去から現在までの國語の變遷を大事にすべきだ」と主張してゐるに過ぎません。まあ、文語の苑とかの中の人は何うだか知らないけれども、少くとも俺はあゝ云ふ試みは迷惑だと思つてゐる。
国語審議会であれ誰であれ、過去との繋がりを持たない言葉遣ひや表記を「正しい日本語」として押附けてはならない、人爲的に「正しい日本語」を作つて押附けてはならない、と、さう正字正かな派は主張してゐます。そして、その「やつてはならない事」が戰後の國字改革では行はれた、「だから新字新かなを認める事は出來ない」と、さう云ふ事です。
正しい日本語を決めるのは誰なのか?――誰でもない、歴史です。歴史が基準です。だから「歴史的假名遣が正しい」と言つてゐる訣です。
平成十八年七月二十三日
「見られる」「食べられる」としか俺は言ふ積りはないけれども、森銑三のやうな俺よりももつときちつとした人は、「言へる」「思へる」のやうな言ひ方も「正しい日本語」ではないと考へて、ちやんと「言はれる」「思はれる」と言つてゐた。「思へない」ではなくて「思はれない」と云つた風に森氏は書いてゐる。俺は森氏よりも世代が若いから、さすがに其處まで嚴密な態度はとらない。
平成十八年七月二十三日
http://lan.rgr.jp/diary/2006/07#Twentythree-Three
正かなのサイト、俺以外にも誰か作つて呉れよ。
正字正かなの主張が、本では『私の國語教室』のただ一册、ウェブサイトでは「言葉 言葉 言葉」のただ一箇所が「決定版」みたいな風になつて「他にない」と云ふ事になつてゐる現状は異常。非正字正かな派が正字正かな派を非難するのは許せないが、俺にならば「正字正かな派の怠慢」を非難する資格は「ある」だらう。黄東洋の「各論を突く」やり方は氣に入らないし、黄が全體として何を言ひたいのかはさつぱり解らないが、正字正かな派が「福田恆存の本の宣傳屋」か「教條主義の宗教團體」に墮してゐると云ふ黄の非難は「當つてゐる」と言へなくもない、さう云ふ正字正かな派も一部にはゐる。さう云ふ批判が正字正かなの誤を指摘したものとならないのは當然の話で、にもかかはらず黄が正字正かな派を論破したやうな顔をしてゐるのは異常だが、正字正かな派の態度に改めるべき點がないとは言へない。
平成十八年七月二十三日
と言ふか、何で日本人は誰かに物を決めて貰ひたがるのだらう。何でも良いから兔に角日本語の言ひ方を一つに統一しさへすればそれで「言葉の紊れ」は「なくなる」と思ひ込んでゐる日本人が多過ぎる。
「取決め事」を作りさへすればそれで全てが片附くと思つたら大間違ひだ。若しさう云ふ觀點からW3Cの仕樣を支持してゐる「正しいHTML」の「信者」がゐたら、そいつは俺の敵だ。「HTMLには仕樣書があります」「だから仕樣書に從ひなさい」「仕樣書に從つてゐないから間違ひだ」――さう云ふ態度をとつてゐる「W3C信者」なんて人がゐたら、そいつはをかしい。
とは言ふものの實際、さう云ふ事を言つてゐる人は結構多さう。困つたものだ。そいつは何も考へてゐないんだよ。
平成十八年七月二十三日
常に諸子の先頭に在り 陸軍中将栗林忠道と硫黄島戦 留守晴夫 慧文社

平成十八年七月二十二日
Web 1.0とWeb 2.0の違ひとは――
Web 1.0
行動の主體が「私」
Web 2.0
行動の主體が「我々」
――と云ふ事になるのではないか。
ウェブの「政治化」を憂へる。
平成十八年七月二十二日
複數のOS上で動作するプログラムが最近は流行りだけれども、さう云ふプログラムがネイティヴのプログラムに比べてインタフェイスの作りが惡い場合があるのは如何なものか。
池嶋俊 Skype日記 : 複数のOSに対応させるための工夫
Skypeはがんばつてゐるみたいだけれども、Operaですら「Windowsアプリケーション」としては不完全だし、Mozilla/Firefoxに到つては端からWindowsアプリつぽくする事を抛棄してゐる。
ネイティヴのWindowsアプリでも、最初からWindows風のGUIにしないものも多いし(特にマルチメディア方面)、秀丸みたいに非道いインタフェイスのものもある訣だけれども。
平成十八年七月二十二日
CNET Japan Blog - 中島聡・ネット時代のデジタルライフスタイル:YouTubeを使ったテレビ番組の『引用』の合法性に関する一考察
Life is beautiful: YouTubeを使ったテレビ番組の「一部引用」の合法性に関する意見募集
Life is beautiful: YouTubeが違法なら、ソシアル・ハードディスク・レコーダではどうだろう
自分の「ブログ」なり何なりの中に埋め込まれてヴィデオクリップが存在し、そこだけで觀られるものであるならば「引用」としての條件には當嵌り得るけれども、そのヴィデオクリップが「ブログ」等とは別のサーヴィスを利用して公開され、それだけ・單獨で鑑賞可能であるやうになつてゐたら、それは「引用でない形での利用」が可能である訣で、現行の著作權法的にはまづいだらう。ヴィデオクリップを「不特定多數の人々と共有する場所」としてのYouTubeなるサーヴィスが、「特定の文獻と密接に結び附くべき引用」の目的に「使へる」か何うかは疑問。だから著作權法を變へろとさう云ふ話になるのだらうけれども。
平成十八年七月二十二日
例の昭和天皇のメモが出て來た件。後に「A級戰犯」とされた人々が祀られる事になつた靖國神社には參拜したくないと云ふあれ。それはしたくなかつただらう。野嵜と後の「戰犯」諸氏とは赤の他人だけれども、昭和天皇と後の「戰犯」諸氏とは良く知つてゐる「身内」で、しかも天皇は「天皇の名に於て」と言はれつゝ自分の意嚮と全く無關係の政策が彼等に據つて實施されてゐるのを知つてゐた。嫌な人間は死んでも嫌なものだ。「身内」の葬祭についてだつて、イデオロギー的な發想でなく感情的な發想で考へるのは自然。政權から干された自由主義者、或は反體制の共産主義者なんかと、政權に利用された天皇とで、當時政權にゐた後の「A級戰犯」に對する態度が根本的に異つてゐてもそれが當然だ。で、あのメモが出て來たので「戰犯」の「分祀」論が勢ひを得るだらうと云ふ話だけれども、何かを勘違ひしてゐるとしか言ひやうが無い。それが出來ない事だから、昭和天皇は靖國神社を二度と「參拜しない」事にした。「祀られてしまつたら終り」の話だつた訣で、それで天皇は靖國神社の當時の宮司を非難してゐる。神道に教義は存在しないけれども、一度祀つた「神樣」を、その座から引きずり下す事は出來ない、と云ふのが神道の考へ方。「分祀」と言つても、神樣を靖國から「分ける」事が可能と云ふだけで、靖國から引つぺがしてそこには存在しないやうにして別のところに持つて行く、と云ふのは不可能。そこを勘違ひして「分祀すれば最う靖國に戰犯はゐなくなるのだ!」と叫んでゐる人が物凄く澤山ゐるけれども――或意味これは、日本人が最早「神道の信者」でなくなつてゐる事を象徴してゐるやうに思はれる。大多數の日本國民が、神道なんて信じてゐないし知りもしない。支那の共産黨が首相の靖國參拜を非難したのに、日本人がまともに對應出來ないのも當り前だよ。本氣で信じてゐない神道を否定されても、今の日本人は何の痛痒も感じない。寧ろ、無神論の日本人は唯物論の支那の非難を無意識に受容れてしまつてゐるのでないか。右翼諸氏ががんばつたところで何うにかなると云ふものではない。と言ふか、個人的な關係に基いて決定された昭和天皇個人の靖國參拜拒否と、その他の人々の參拜とを、同じレヴェルで議論しては駄目だよ。或は、またぞろ「天皇の名」が政爭で利用されてゐる事になる。右も左も、自分の主張を正當化する爲に「天皇の名」を利用してゐる。昭和天皇にして見れば全く以て「困つた事」だらう。
軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - 昭和天皇御発言“メモ”の信憑性
なんかメモそのものが怪しい説もウェブでは流布してゐるけれども……陰謀論は如何なものか。と敢て言ふ。
平成十八年七月二十二日
野球のオールスターゲームが中止。BLOOD+は通常の時間で放送される事に。野球はやつてもやらなくても迷惑。
TBSテレビ番組表
平成十八年七月二十二日
BLOOD+。コーヒー吹いた。
平成十八年七月二十二日
XML tree - UserJS.org
Opera 8向け。

平成十八年七月二十一日
ハウルの動く城。いろいろ言ひたいが取敢ずこれが惡くないなら西魔女もそんなに惡くなかつたんだなつて思つた。
平成十八年七月二十一日
東京古書會館の古書展。趣味展。古めの本が多め。山田孝雄『國語學史要』多分ダブり。金田一京助『國語の變遷』これも多分ダブり。大月書店の講座日本語『1 民族とことば』『2 日本語の構造』『3 日本語の種々相』『7 国語教育』。二卷で波多野完治・時枝誠記・魚返善雄が對談してゐて、波多野氏が「時代が下るにつれて文章は一般に短くなる傾向がある」と云ふ話を振つたものの、時枝氏魚返氏が乘つて來ないと言ふか簡單に「そんな傾向はない」と云ふ結論。その後話は二氏の國字改革批判に。魚返氏曰、中国の当用漢字は制限的な意味じゃなくて、民衆教育の一つの段階として、ここまではおぼえたがよいといって教えるのです。日本語のはそうじゃなくて、活字まで全部鋳つぶしてしまう。あれは秦の始皇帝みたいなやり方で、これでは、いやでも応でも当用漢字のわくのなかに閉じこめられるほかはない。東京元々社版・東京ライフ社刊の宇宙科学小説シリーズが各三百圓。各と言つても二册しか出てゐない。グルフ・コンクリン『宇宙恐怖物語』。F・マッコーマス『時間と空間との冒険』。福田恆存「ホレイショー日記」を掲載した雜誌『季刊 作品』VOL.3、1949年・春號。目次で「ホレーショ日記」と誤植。
横光利一の何とかと云ふ本が、こつちの棚のは五百圓だけれどもあつちの棚のは何千圓、と教へて呉れた見知らぬをぢさんがゐた。取敢ず良くある事と返しておいた。

平成十八年七月二十日
姫様ご用心 @ WOWOW。最終囘。面白くなかつた訣でもないが、視聽者が期待してゐたのとは全然違ふ話になつたのはちよつと何うかと。先週までの話の盛上げが結構良い線行つてゐたのにこれは無いだらう。きちんと話を纏めてゐれば終盤までの評價を完全にひつくり返して良作になつてゐた筈だが、此處まで散漫な最終囘ではにんともかんとも。
平成十八年七月二十日
ちょこッとSister @ tvk〜東京MX。日記……。ねこにゃんだんす。
平成十八年七月二十日
吉宗 @ 東京MX。結構面白いんだけれども。今囘はちび姫の出番が少い。
平成十八年七月二十日
ウェブページを作る人に8の質問(再掲):メモランダム
使用しているエディタは?(テキストエディタ・オーサリングツールなど)
秀丸エディタ。
使用しているテキスト置換ソフトは?
テキスト置換なんて普通テキストエディタで出來る。
TextSS。滅多に使はない。リンク集のタイトルを變へる時に使ふ。
使用している画像編集ソフトは?
Adobe PhotoshopElements。ごくまれにWindowsのペイント。gimpは入れてあるだけ。使ひ辛い。
使用しているカラーピッカーは?
カラーピッカーつて何ですか。何でそんなものが必要になるのだらう。質問に質問で返すのは云々。
リンクチェックは?
大體手動。或は他人任せ。教へて貰ふ。
構文チェックは?
しない。しなくても間違へなければ問題ない。と言ふか、たかがHTML文書なのに、何でそんなにチェックしなければならないほどややこしい事を書く必要があるの?
たまにW3CのValidatorにかける。まれにAHL。
ファイルのアップロードの方法は?
FFFTP。
その他使っているソフトがあればどうぞ
いろいろ。GVとか。
重要なのは電信八号。メーラはサイト制作者の基本ツール。閲覽者の方々からの御意見はサイト制作に重要なもの。何時も何うも有難うございます。
常用のウェブブラウザはOpera。
平成十八年七月二十日
ハルヒの續きを買つて來て讀んでゐるのだけれども、原作のライブアライブ、アニメ版に比べると無茶苦茶話がしよぼい。と言ふかアニメ版が良すぎ。

平成十八年七月十九日
O&O defrag(free版)でデフラグして、終了したところで何かやつたらHDDが認識されなくなつて、結局一臺HDDがやられた。再起動時にchkdskがかかつてバンバンファイルシステムエラーが出てファイルが削除され捲る。仕方がないので生殘つたファイルを別のドライヴにコピーしてフォーマット。現在2%。重複データを突込んであるドライヴなので損害は殆ど無いが存在するデータを消される事くらゐ腹立たしい事はないので腹立たしい。
原因はO&O defrag(free版)が惡さしたものとは斷定出來ず、IDEのケーブルの不良、HDDそれ自體の不良、IDEの擴張ボードの不良、等々が考へられる。特に怪しいのはケーブル。平べつたいフラットケーブルではない、ラウンドケーブルと云ふ奴を使つてゐたのだが、この種のケーブルは信頼性が無いので使ふべきでない。のだがうつかり使つてゐた。ラウンドケーブルは個々の線がばらばらなので斷線し易い。素人でなくてもおすすめできない。以下状況。ケーブルには丸ごとi:ドライヴのMaxtorのと丸ごとj:ドライヴの日立のとがぶら下がつてゐる。i:とj:とが認識しなくなつたので、i:のチェックをかけてしまつたのだが、エラーが出捲つたので電源を落す。取敢ずラウンドケーブルを手持ちのフラットケーブルに變へたらj:は普通に讀める。問題は中途半端にエラー訂正をやつてしまつたi:で、これは中途半端に死に體。仕方がないので生殘つたファイルを略。現在3%。今後。いろいろな方法で失はれたデータ(主にあにめの録畫データ)を補完する必要がある。と言ふか全てのデータが「何時か觀る」積りで寢かせてゐたものなのでDVDの山を漁れば何處かから出て來る筈。出て來なければAT-X。
教訓。デフラグするな。IDEのラウンドケーブルは使ふな。あとエラーが出たからと言つてすぐにchkdskするな。落ち着け。
平成十八年七月十九日
面倒臭いので途中でformat強制終了してformat /qした。レガシーな俺はコマンドライン派。
平成十八年七月十九日
j:をchkdskしたら消し忘れ? の*.mpgが一箇えらーで引掛つた。讀取りモードでは修正出來ないとの事なのでchkdsk /fしたら元のデータを削除した上、8.3形式の空のファイルを作つて終了して呉れた――と言ふか、どうやら既に削除済みのデータの名前が、どさくさ紛れにファイルシステム上に復活して、揉め事を起してゐたらしい。

平成十八年七月十八日
TMPGEnc DVD Authorつて矢鱈重いプログラムだよね。何とかならんのか。
平成十八年七月十八日
ストパニ @ tvk。面白かつた。と言ふか無茶苦茶シナリオ良く出來てゐないか。取敢ず今度カルメン讀んでみよう。と言ふか大昔フランス語の授業で讀まされた記憶がかすかに。
ちなみに某実況の正字のレスは俺のものではない。
平成十八年七月十八日
『涼宮ハルヒの消失』讀了。まつさらのキャラが段々人間らしくなつて行くのは良い。面白かつた。時間テーマのSFで樂しく讀んだのは多分初めて。
平成十八年七月十八日
はてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナでcztest.hatena.ne.jpが何かユーザネームとパスワードを要求して來るのですけれども?
20060718cztesthatena.png
平成十八年七月十八日
http://arlik.blog15.fc2.com/blog-entry-420.html
Opera 9.x の ja.lng を正字正假名化しました。
平成十八年七月十八日
将棋の駒萌え美少女化計画

平成十八年七月十七日
CMでデジタルTV放送はアナログTV放送よりも畫像が鮮明とか言はれてゐるのだけれども、キッズステーションのゼロの使い魔で盛大にブロックノイズが發生する樣子を見るとさう云ふ宣傳は信用出來ないんだよなー。
平成十八年七月十七日
うたわれるもの @ tvk。毎囘よくやるよな。今囘も作畫がんばつてゐる。ハクオロさんの評判を惡くする爲に何でもやる、とても嫌なかーっかっかっかの師匠退場。と言ふか喰はれた。
平成十八年七月十七日
会田雄次『カラー版世界の歴史12ルネサンス』(河出書房)讀了。「あとがき」に據れば「日本人の視點から西洋を見る」と云ふ立場からルネサンスと宗教改革を扱つてゐる。實は中村賢二郎との共著で、中村氏は新世界の發見と宗教改革の項を執筆。さう言はれれば慥かに「讀みもの」的な工夫がなされてゐるのは前半のルネサンスの項だ。会田氏が書いたらしい前半部は、事實の羅列の域に留まらず、キリスト教社會の外部の人間の觀點からなされた批評が含まれる(もちろん偏つた内容である訣でもなく公正を期したものであり、その點、誤解無きやう)。後半、中村氏の分は、積極的な批判が含まれる前半と違つて、どちらかと言ふと「普通の歴史概説」となつてゐる。
千九百八十九年に文庫化されてゐて、そちらでは会田氏中村氏の共著とはつきり書かれてゐるやうだ。
セブンアンドワイ - 本 - 世界の歴史 12

平成十八年七月十六日
アンジェリーク @ tvk。ちよつと面白い。取敢ず土曜日深夜のあにめでは一番氣樂に見られる。
ネタとして觀ればそれなりに面白いと云ふのであつて、そんな汎くおすすめできるやうな代物でない事は一往斷わつておきます。期待して觀た人に「詰らなかつた」とか言はれても困るので。
平成十八年七月十六日
★スパムコメントを幾度と無く貼られ東横線の女性専用車両を容認するどころか積極的に賛成するに至つた緑犀淨庵鬱日記★彡 - フォークの向かふに海が見える。
取敢ず「シュークリーム男」の稱號を獻上したい。
平成十八年七月十六日
蛮茶庵 ごまめの歯ぎしり フォト・エッセイの漢文攻撃。
http://ya-ban.jugem.jp/?eid=323(漢文といふ奇妙な科目 samedi 15 juillet 2006 (07/15))
http://ya-ban.jugem.jp/?eid=324(亡霊にとり憑かれて dimanche 16 juillet 2006 (07/16))
もともと支那では方言の爲に「同じ支那人同士」であつても口語に據る意思疎通が困難で、それで作られたのが漢文の文體だつたとか。一種の「標準語」であるのだけれども、それを用ゐた漢文の文献も、口語とは別の文章語だつた訣だ。それを日本人が輸入して、で、讀む時に、てにをはとか訓點とかを附けて「讀める」やうにして、それで日本流の漢文の讀み下しが成立した。この時、概念を示す詞を漢字で表現し、文法上の機能を示す辭を假名で表現する日本語の表記のパターンの原型が成立したと言つて良い。で、日本でもやつぱり江戸時代までは地方によつて言葉が違つて、各地から參勤交代で江戸に武士が集るやうになると意思疎通に困難を來すやうになつた。それで漢文訓讀調の言ひ方が「標準語」として用ゐられる事になつた。それが明治時代にまで引繼がれて、漢文訓讀調が所謂文語と呼ばれるやうになる訣だけれども、それを打破して「話した通りに書く」べしと云ふ言文一致の運動が起る。なるほど、慥かに言文一致の運動以後、漢文は「過去のもの」となつた。
けれども、では漢文は無くなつてしまへば良いのかと言ふと、何うもさう安易に言ふ事は出來ない。別に漢文は外国語教育方法のスタンダードではないよ。何處からさう云ふ發想が出て來たのか知らないが、漢文教育は日本語教育にほかならない。日本語の表現が漢文とその訓讀に多くの恩惠を受けてゐる事は否定出來ない。今、漢文訓讀調の文章が書かれないからと言つて、或は、現代的な外國語教育の方法論と一致しないからと言つて、安易に漢文を排除しようとしても、その結果は現代の日本語を日本語の源流から切離す結果に終るだけだ。そして實際、漢文の授業時間は減少させられてゐて、それで生徒の國語力や、或は外國語の能力が向上したかと言ふと、そんな事はない、寧ろどんどん低下してゐる。

こんな学習を続けること自体、国家的な損失である。若い才能を無駄にしてゐるのである。同時に国力の育成を阻んでゐるのである。

歴史的假名遣や正字體による漢字を非難し、それらを教育の現場で用ゐる事に就いて、表音主義者らは何と言つただらうか。彼らもまた、歴史的假名遣や正字體の漢字を、因習、過去の遺物と看做し、單なる教育上の困難と極附け、排除せよと叫んだのである。それと全く同じ事をこの蛮茶庵の中の人は主張してゐる。俺は、表音主義者の主張を側面からでもサポートしてしまふやうな、蛮茶庵の主張を支持する事が出來ない。
俺は「漢文で書け!」「漢文訓讀調を復活せよ!」とは主張しない。「漢文訓讀調で書けば」何う斯うと云ふ「文語の苑」や「いろはもどき歌」の人みたいな「效能の主張」はしない。けれども、過去の漢文を讀めるやうになるくらゐは必要だらうと思ふ。漢文は漢文、國語は國語、と切り分けてしまふ必然性は、日本語に於ては「無い」と言つて良い。漢文を「外國語」と極附けるべき理由は存在しない。と言ふより、蛮茶庵の人も解つてゐて、中国語とは完全に袂を分かつことになつてしまつた、と書いてゐる。漢文は日本語の表記を生んだのである。

天然地形、陸続きでない、交流の持てない奇妙さがこんなものを生んだのである。さうして、いまだに過去の遺物とならないで、いまも生き残つて、幽霊のやうに蠢いてゐるのである。

それで、本来なら、漢文は歴史学の一分野だ。と云ふ事で、漢文を切捨てろ、と言ふ。けれども、では、ただ漢文なる物だけを切捨てれば、それで十分なのか。漢文の訓讀から生れた漢字假名交じりと云ふ奇妙な表記、これもまた「切捨てる」必要が「ある」事になつてしまふのではないか。
なあ蛮茶、「歴史を切り捨てろ」と言ふのなら、どうして歴史的假名遣は切捨てないで良い事になるんだ? あんたの理論だと、歴史的假名遣もまた幽霊とか歴史学の一分野とか云ふ事に「されてしまひ兼ねない」んだよ? 歴史を歴史學に押込めてしまふ――それは過去の歴史を現在から切離し、歴史を切捨てるのと同義だ。それを批判する立場が歴史的假名遣を支持する人間の立場ではないのか。
漢文が奇妙な代物であると言ふのなら日本語の表記も奇妙な代物だ。だが、日本人は歴史的にさう云ふ奇妙なもので日本語を讀み書きして來た。それは歴史だから切捨てる事が許されない。漢文教育は日本語教育である。外國語教育として見て奇妙であると云ふ非難は成立たない。そもそも日本語それ自體が奇妙なものなのだ。

普遍文法なんて都合のよい、夢のやうな便利なものはある筈ない。AさんがBさんになり得ないやうに、ことばも、固有のひとつのことばなのだ。だから言語教育もそのことばをそのことばとして学ぶやうに切替へなければならない。ことばは人間同様置換不能である。他のことばに置き換へられない。ことばとは本来さういふものである。一時も早く悪夢から目覚めないと。

だが、歴史的に漢文と云ふものは成立し、固有のひとつのことばとなつてゐる。漢文訓讀は日本人だけのものだ。そして、漢文訓讀と云ふ基礎の上に現代の日本語は成立つてゐる。若し漢文を訓讀しなかつたら、日本人は漢字假名交じりなんて「奇妙な表記」を成立させる事は出來なかつただらう。だから日本人は漢文を捨ててはならない。現代の外國語教育のあり方と、歴史的な外國文化の受容の形態とを、混同してはならない。
支那の言葉を支那の言葉としてはつきり國語と區別したのは朝鮮の人々であつたが、彼らは漢字を「訓讀み」する、と云ふ方法を歴史的に持たない。韓國人は現在でも漢字は「音讀み」しかしない。「訓讀み」が、漢文訓讀のやうな方法で獨自に「外國語である支那語」を日本語化した日本人にしか持ち得なかつたものである事は、注意する必要がある。それの善し惡しを言ふ前に、一往、千年以上も「さうやつて來た」と云ふ歴史的事實の重みを意識する必要がある。
大體、漢文を切捨てるべきなら、どうして漢字を切捨てないで良いんだよ。蛮茶庵は支離滅裂だ。漢文が惡夢なら漢字も惡夢つて事になるだらう――それは表音主義者の主張だ。漢字は惡夢でない、漢文も惡夢ではない。
實際、過去の文獻を讀むのに、漢文訓讀の知識は必要だ。明治時代の文獻は、文語文だが、漢文の讀下し文なので、漢文の知識がないと讀めない。と言ふか、昭和に入つても、法律等の公用文は漢文訓讀調で書かれてゐたから、日本における近代的な法律の歴史を研究する人も漢文の知識を持つてゐなければやつてゐられない。なるほど「歴史學」の領分だが、さうした「歴史」がつい最近まで「生きてゐた」のである、戰前の法律の條文は最近まで生殘つてゐたし、慥かまだ少しは殘つてゐる筈である。慥かに、さうした「歴史」の切捨てが最近加速してゐるが、一概に「好ましい」と言ふ事は出來ない。
平成十八年七月十六日
oogattaの勉強日記

平成十八年七月十五日
『涼宮ハルヒの憂鬱』を讀返した。讀んだ筈なのだがすつかり忘れてゐた事に氣附いた。アニメ、無茶苦茶原作に忠實なんだな。
平成十八年七月十五日
ウィッチブレイド @ TBS。案外面白い。と言ふか戰鬪シーンない方が面白い。Op手拔き。
平成十八年七月十五日
涼宮ハルヒの表情 - misuzilla.org
平成十八年七月十五日
PCコラム - むぅもぉ.jp
Tips - むぅもぉ.jp
平成十八年七月十五日
夕方虹が出た。

平成十八年七月十四日
同時代も黒歴史である。
平成十八年七月十四日
例によつて東京古書會館の古書展。買つた本。塩田良平『現代日本文藝史』。大野晋『文集 日本語について』。文部省『公用文の書き方』。青木巖『ヘロドトスの「歴史」と人』。鈴木成高『歴史的國家の理念』。西日本新聞社『当用漢字物語 下巻』(「当用漢字」及び國字改革マンセーの本。普通に漢字の成立ちを説明してゐる解説もあるが、略字に根據がある事、略したのが良かつた事を強調し、康煕字典にも誤がある事を説き續けてゐる。「後書き」に、昨年の春、読者の要望にこたえて「当用漢字物語」(上巻)を刊行したところ、予想以上の好評と支持をえました。いままで漢字といえば、もう時代おくれの固苦しいものであるとの早合点から、敬遠されていたものも、やさしく漢字の一つ一つの誕生までを知って、共鳴してもらったからでしょう。とある。漢字惡玉論を葬り去つたのは國字改革の功績であると、先日紹介した國字改革の功罪を論ずる座談會で、改革を賞賛する「功績論者」が言つてゐた事だ。しかし、きちんと説明すれば解つて貰へると云ふのなら、別に文字の字劃を減らして「整理」する必要はなかつた訣だ)。雜誌『日本諸學』第二號。「文藝春秋」昭和二十五年十一月號(桶谷繁雄「ソ聯製の平和(マロニエ通信・7)」所收)。和辻哲郎『原典批評の方法について』(岩波講座 世界文學)。「早稲田学報」一九六二年四月号(時枝誠記「学問と延命長寿の法」所收)、同一九六四年五月号(藤田圭雄・千種達夫・時枝誠記「座談会 国語問題とその政策」所收。千種は當時東京高裁判事で國字改革支持の立場の人。國字改革を強制したと言つて国語審議会を批判する輩がゐるけれども、その人は勘違ひしてゐる、審議会はただ漢字表や假名遣を提案しただけで強制などしてゐない、告示したのは内閣だ(大意)、と述べ、「頭の惡い改革反對派」をせせら笑つてゐる。時枝氏が国語審議会は内容にだけは責任を負うけれども、あとそれが、どういうふうに実施されようと責任はないというのは、法律的に正しいのですか。と突込むと、嬉しさうに千種が正しいです。そりゃ正しいです。(笑)と答へ、藤田氏が堪り兼ねて法律家というのはひじょうに考え方が冷めたい(笑)と苦情を言つてゐる)。
平成十八年七月十四日
喪男が何うの斯うの言つてゐるブログはどうしてつまらないのか? 云々。
昔のしろはたは面白かつたよな。

平成十八年七月十三日
十分遲れ姫様ご用心 @ WOWOW。なんか半年經つてる。ルパン再登場。その他の人逹も再登場。ヤマトみたいなの來た。燃える。來週がマジで樂しみ。巧く話を纏められれば傑作になるかも知れない。
平成十八年七月十三日
ちょこシス @ tvk→東京MX。いろいろ突込み入れたくなるけれども入れたら負けなんだらうなーと思つた。と言ふかEd何。
平成十八年七月十三日
財前 @ テレビ朝日。先週に比べると遙かにまともな作畫。の一方で相變らずの超演出。多少パワーダウンしてゐる感じはするけれども、いろいろ突込みを入れながら觀るととても面白い。
平成十八年七月十三日
長い間積讀状態だつた『涼宮ハルヒの溜息』を讀んだ。あにめを見てから讀むと面白い。あにめでしれつと描かれてゐる事の「意味」が「書かれてゐる」――と言ふか、先に小説があつてそれであにめが「ある」。あと、キョンくんの言葉遣ひがあにめと小説とでは微妙に違ふ事に氣附いた。
『退屈』と『消失』を買つて來た。書泉で異る版の本が入亂れて積まれてゐて面白かつた。
平成十八年七月十三日
俺がジダンと同じ立場だつたら、地團駄蹈んで悔しがつただらうね。
とか詰らない駄洒落しか思ひ附かない。
平成十八年七月十三日
fankee_jr
のあとあやのみたいなヲタ臭いネタは正字正かなの普及に百害あつて一利なしと言はれ兼ねないから削除、つて何うかな。
あやの
何うかな、つて言はれても……あんたが一番アレだよファンキー坊主。
平成十八年七月十三日
ハルヒがアニメ史を變へたか何うかは知らないが、取敢ず最近のTVアニメでアニメ史に名が殘る事が確實なのはLEMON ANGEL PROJECT。ネームヴァリューの御蔭。

平成十八年七月十二日
http://www.takamagahara.info/notebook/2006/7#ID111
ATOKで快適に歴史的仮名遣ひをタイプする方法
平成十八年七月十二日
窓の杜 - 【NEWS】MS、「Internet Explorer 7」Beta 3の日本語版を公開
平成十八年七月十二日
韓国人の描く漫畫は質が悪い?
漫畫を下して見るつて何ですか。
韓国を下して見るつて何ですか。
下して見るつて言葉が「ある」とは聞いた事がない。ぐぐつてみたけれども十六件引掛かるのみ。
あと、再新記事つて何ですか。「最新」なら聞いた事があるけれども。ぐぐつてみると八件引掛かる。
平成十八年七月十二日
海に落ちたから既に世間では過去の話になつてゐる北朝鮮テポドン亂射事件。あの時、例へば一發でもミサイルが新潟邊に落ちてゐたら、日本は何うしてゐたのでせうかねえ。支那に落ちてゐたら今頃平壌は中共の軍隊に占領されてゐただらうと思ひますけれども、日本だつたらやつぱり今と全然變らない状況だつたかも知れません。。
平成十八年七月十二日
文化庁編集『言葉に関する問答集 総集編』(平成7年3月31日初版・平成11年3月15日3刷)を買つて來た。古本。
福島忠彦氏に據る「前書き」から引用。

なお、現行の国語施策として示されている「常用漢字表」「送り仮名の付け方」「現代仮名遣」等は、当然のことながら、国民の言語生活全般を拘束するものではなく、また、それ以外のものが日本語として全て間違いであるとしているものでもありません。しかし、社会生活を円滑に進めていくためには、法令・公用文書・新聞・雑誌・放送等の公共性の高い分野では、標準的な表記のための目安やよりどころを定めておく必要があるというのが、国語審議会の答申及びそれに基づく国語施策の趣旨であります。

如何にも官僚的な「答辯」で、言語明瞭意味不明の典型と言つて良い。「日本語として正しいか正しくないか」と「日本語の社会において正しいか正しくないか」とを微妙に區別してゐるらしいのだが、それらは區別出來るのか。

したがって、本書に掲げられている問答の答えも、国語施策の示すところに従って文章を書くとすれば、こうなるであろうというものを中心としており、本書の趣旨も国民の言語生活について規範を示そうとするよりも、むしろ人々が日本語について考えたり話し合ったりするきっかけとなり、参考となるものであることをねらいとしております。

嘘つけと言ひたくなる内容であるのは如何なものか。
續いて、「凡例」から引用。

過去二十年にわたって発行された原本の発行期間中に、次のような国語施策の改定が行なわれた。

「常用漢字表(昭和56年・内閣告示)」「現代仮名遣い(昭和61年・内閣告示)」「外来語の表記(平成3年・内閣告示)」

右の改定以前に発行されたものは、当然ながら旧施策をよりどころとして解説されている。しかし、その解説中にあらわれる「当用漢字表」と「当用漢字字体表」は「常用漢字表」に、「当用漢字音訓表」は「常用漢字表の音訓欄」に、また「現代かなづかい」は「現代仮名遣い」にと、それぞれ現行の施策に読み替えていただければ、内容的には、現在でもそのまま適用できるものである。

結局のところ、これは「国語施策の改定」が何の意味もなかつたと言つてゐるのでないか。
續き(十三日)。

原文における表記の基準は、漢字の字種・音訓・字体については、「当用漢字表」(昭和55年まで)及び「常用漢字表」(昭和56年以降)、仮名遣いについては、「現代かなづかい」(昭和60年まで)及び「現代仮名遣い」(昭和61年以降)、また、用字用語は「文部省用字用語例」、送り仮名は「文部省公用文送り仮名用例集」に基本的に従っている。これら国語施策の改定の前後で、若干表記の仕方の異なる部分があるが、本書にはあえて原本の表記のまま収録することとした。

これは、金田一春彦先生によれば「言葉の乱れ」に當るのではないか。(金田一に據れば、國語改革に據つて「正しい言葉」の「基準」が作られたから「言葉の乱れ」は「少なくなった」事になるのだが、その國語改革で「基準」が變ると、かうした(金田一の所謂)「言葉の乱れ」が「生ずる」事になる。となると、金田一の所謂「言葉の乱れ」を生じさせない爲に、金田一は言葉の固定を主張しなければならなくなるし、當然、國語施策の變更に反對しなければならなくなる。が、さうすると、今度は「言葉は變化する」「言葉は生きてゐる」と云ふ觀點から金田一は批判される事になるし、同時に國語施策そのものが否定される事になる。一方、國語改革の主導者逹は、戰後の改革で實施された施策について「固定的なものではない」と辯解してゐる。國語改革を支持する立場の人々は、それぞれ場當り的に改革擁護の論理を展開してゐる。それらを綜合して考へると、國語改革を一貫する論理は全く存在しない事が判る。彼らはただ、既存の國語を破壊したかつたに過ぎない。その目的を達した後、如何にして「新しい國語」を創造するかが問題になつたのだが、そこで見解の相違が明かになり、結果として混亂が生じてゐる)

平成十八年七月十一日
ストパニ @ tvk。初めて男登場と言ふか多分これ以外に出て來さうにない。中等部の連中、何やつてゐるんだ。面白い。おでこの會長さん、やつぱりおでこがアイデンティティになるらしい。毎度の事ながら次囘が樂しみ。
NHKとかつよきすとかは――つよきすは何か少しだけ面白くなつて來たやうな氣がした。
平成十八年七月十一日
キタ━━━━━━(°∀°)━━━━━━ !!!!!
金田一春彦『新日本語論 私の現代語教室』
買つて來た。副題は『私の國語教室』への露骨な當てつけ。
「言葉は亂れてゐる、が、言葉は亂れてゐるものである、だから言葉は亂れてゐて良い」と繰返してゐる本。なぜ「だから」に「なる」のかさつぱり解らないが、日本人の殆どが「その通りだ!」と「納得してしまふ」であらうと思はれるし、「偉い學者」である金田一先生が仰つてゐる事だから、と云ふ事で盲信してしまふ人も多いであらうと思はれる。
平成十八年七月十一日
許し難い事に、金田一春彦は、桶谷繁雄氏の發言を、桶谷氏の意圖に反して利用してゐる。
101ページ。「言語生活」第十五號の「日本語は科学には不利か」と云ふ座談會から金田一は以下のやうな發言を引用してゐる。對談者は桶谷繁雄氏と緒方富雄氏。
編集部
アメリカでは、大学生が英語の表現法についてのレッスンを受けさせられるという話を聞いたんですが、ヨーロッパではどうなんですか。
桶谷
私の知っている例を言いますと、文章を書くこと、それを言葉として表現すること、これが昔に比べて非常に劣って来たという事実があるんですね。たとえば、ポリテクニックという有名な学校、そこでフランス語の作文をやらせているんですが、フランス語が支離滅裂だ。これじゃフランス語が衰亡の一途をたどるから、大いに高等学校あたりでそういう点をよくしなければならない――ということを言っているくらいで、言葉の乱れは世界共通じゃないかと思います。……
緒方
世界共通ですよ。アメリカはアメリカで猛烈に悩んでいるんですよ。「イギリスがうらやましい」という。ところが、イギリスに行くと、また、「乱れてる」と言ってるんで、まったく世界共通ですよ。桶谷君の言うとおり。……
金田一春彦は、言葉の乱れは世界共通と云ふ桶谷氏の發言を至言であろう、と評してゐる。ところが、この對談を扱つた章を、金田一は以下のやうに結んでゐる。第二篇 外国でも国語は乱れている 第五章 結び――言葉の乱れは各国軒なみ

おそらくこの「言葉の乱れは世界共通」というのが至言であろう。菊池寛氏の『時の氏神』に出てくる話であるが、ある人が戸山が原へ行って、芝生に腰をおろそうと思って足もとを見たら、自分のいるところは芝生が薄くてきたない。二、三間むこうは、それにひきかえ、いかにもよく芝が茂ってきれいである。で、そこまで歩いて行って腰をおろそうとすると、そこも真上から見ると、前のところと同じようにまばらにしか生えていない。しかも、そこから前いた方を見ると、今度は前にいたところの方が、よく茂っていてきれいに見えた、という。

言葉の乱れもちょうど同じようで、日本人が日本語を特別に乱れていると思うのは、日本語を一番よく知っているからではないか。決して、日本語が特に乱れているのではなく、これが生きた言語の常態であるのではないか。言いかえれば、日本語は「乱れていない」言語だと見ることもできるのではなかろうか。

桶谷氏が「言葉の亂れは良くない」と考へてゐることは明かである。ところが、その桶谷氏の發言を利用して、金田一は「言葉の亂れなんてものは無い」と主張してしまふ。非道いものだと思ふ。大體、どうしてこんな「言いかえ」が出來てしまふのか、さつぱり解らない。
金田一は、日本人が日本語を特別に乱れていると思う、と――わざと「特別に」を入れて――言つてゐる。「特別に」なら、「何も特別には思はないで良いのだよ」と言つてやれる訣だ。讀者は誰もが自然にさう思ふ。金田一はそこに附け込む。金田一は「特別に」を拔かして「何も思はないで良いのだよ」に話を摩り替へてしまふ。實に微妙な話のすり替へで、讀者は金田一のすり替へに氣附けない。擧句、「言いかえれば」である。何も言換へになつてゐないのだが、ぼーっと讀んでゐる讀者は金田一のこの種の話術に騙される。金田一は、幾つも詭辯を積重ねてゐる。この種の詭辯を利用する人間は、信用してはならないのだが、金田一は「偉い學者」だから、多くの日本人が騙される。
金田一の主張は徹底的に檢證して、その詐術を曝露しなければならない。例の「会長」が、その邊の事を異常な熱意で以てやつて呉れると有難いのだが、あゝ云ふ人物は自分が樂をするのを正當化するやうな理論しか支持しないから、金田一の詭辯も手放しで受容れてしまふ。
平成十八年七月十一日
金田一は、「国語の乱れ」について、極めて特殊な観点から検討を進める。
歴史的假名遣について、金田一は「そもそも基準としてなつてゐない」(要約)と考へてゐる。原理的な檢討が進行中である歴史的假名遣は、「國語を統一する=国語の乱れを解消する」(金田一の發想)の役には立たない。明治・大正・昭和にかけて、歴史的假名遣は普及したが、そもそも歴史的假名遣では書き方が確定しない場合が多い。それが戰後、表音的な「当用漢字」「現代かなづかい」が定められ、新聞・雜誌が從つた事でそれらが一般に普及して、それで日本語は「乱れが収まった」と金田一は述べる。金田一に據れば、基準は何でも良い、兔に角何んな理由であれ定まつた基準であればそれで良い、さう云ふ考へから見れば、今の日本語は昔の日本語よりも「乱れが少ない」と、さう金田一は述べる。金田一は、私のモノサシと言つてゐるが、さう云ふ私のモノサシで「国語の乱れ具合」を計るのは「正しい」と思つてゐる。
だが、こんな私のモノサシを認められる訣がない。「いや、認められる!」と、案外多くの日本人が考へるのでないかと思ふのだが、認められる訣がないではないか。大體、「自然な言語の状態」としての「言葉の乱れ」を論じて來たのに、いきなり「言葉の乱れ」を計るモノサシが「人の定めた基準」にすりかはつてゐるのである。金田一の言つてゐる事は詭辯も良いところだ。ところが多くの日本人が金田一の詭辯を見拔けない。やつぱり、「偉い學者」が言つてゐる事だからと、權威主義的な發想で、進んで騙されてしまふのだらう。
平成十八年七月十一日
「第三章 現代日本語の乱れの診断」の「第七章 結び――今の乱れは騒ぐに当たらず」で、金田一は以下のやうに言つてゐる。

……昭和三十八年の秋、『読売新聞』の夕刊で「日本語の乱れ」という題で、五、六人の人がかわるがわる一千字ぐらいずつの短文を執筆していたが、中で福田恆存氏は、はっきり例をあげて、自分は「見られる」を「見れる」というように言うのを乱れていると言うのだと言って、さすがにすじが通っていた。これはこれなりによかった。それから、池田弥三郎氏は、一体「乱れている」、「乱れている」と言って、どこがどう乱れているんだ、と開きなおっており、これはもっとよかった。……

開き直つて何うするんだと俺なんかは思ふのだが、金田一は嬉しくて仕方がないらしい。
平成十八年七月十一日
同じ章で、福田恆存批判を金田一がやつてゐるので引用する。福田恒存氏は文部省と同意見か

私は、ここで根本的な疑問を提出する。たとえば、福田恆存氏のような人は、現在の日本語を乱れていると見て、筆をとればその乱れを嘆いておられる。乱れがおさまることを願うような口調である。が、ほんとうのところはどうなのであろうか。

福田恆存氏は、日本語の乱れを心配すると言われる一方では、文部省が送りがなの基準を定めたことを攻撃し、また、今、国語審議会で「むずかしい」と「むつかしい」との両形あるのを一つに統一しようとしたりしていることを、つまらぬことだと言われる。しかし、そういう審議会の仕事は、日本語の乱れを改める仕事であることは明らかである。氏は、送りがなの統制のなかった昔をよかったと言い、「むずかしい」「むつかしい」のようなちがいは無視せよと言われる。氏の論を軽率に読むと、文部省というものは、日本語を乱すように乱すように政策を打ちたててきたようにとれる。が、実際は、そうではないこと、上に述べたとおりである。さればこそ、『国語白書』などで、しきりに日本語の乱れを説いているわけで、この点などは、福田氏と文部省とは口うらを合わせているようだ。

福田氏の考えは、私に言わせると、乱れの統制を内閣告示というような形で行なうのがいけない、ということにある。とすると、氏が、無造作に、「日本語は乱れている」と言われることは、誤解を招くおそれが多分にある。氏は、「日本語の乱れ」を心配しているのではない。氏の趣旨は、文部省の新しい国語政策の攻撃にあり、氏の言われる「日本語は乱れている」は、かりて来た錦の御旗である。

「日本語が乱れている」と人びとに警告を発することは悪いことではない。大いにけっこうなことである。これによって人びとは正しい日本語を使おうと気をつけることになる。また、文部省の国語政策に対して、批評することも、けっこうである。たしかに、適当でない政策がいくつかあった。今から改めなければならないところはたくさんある。しかし、それに対して、「日本語が乱された」と言って攻め寄るのは、すじがちがっていた。

金田一に據れば、そういう審議会の仕事とは、即ち表記の基準を示したりする事であるが、それが日本語の乱れを改める仕事であると云ふのは全く明かな事實ではない。「むずかしい」「むつかしい」と異る言ひ方がある事を金田一は「国語の乱れ」と稱し、それらの違ひを統一するのを「良い事だ」と信じてゐる。だが、そんな馬鹿な話はない。「むづかしい」「むつかしい」は、歴史的假名遣で書けば明かなやうに、「づ」「つ」の違ひ、濁音であるか清音であるかの違ひでしかない。濁るか澄むかの違ひでしかない。これを統一しようとするのが「つまらない事」である事こそ、日本語の歴史・日本人の感覺を持出すまでもなく「明かな事」だと言へる。
金田一は、福田氏は、私に言わせれば、むしろ、日本語の乱れを楽しんでいる一人である。と極附けてゐる。この極附けは、逆に金田一の動機を説明してゐる。金田一は、自分が「日本語の乱れを楽しんでいる」から、批判對象である福田氏もさうだらうと思ひ込んでゐるのである。金田一は、私もある点においては、日本語の乱れを歓迎している。と述べてゐる。「ある点」と金田一が強調するのは、「乱れであっても使いやすいなら良い」「乱れであってもそれが日本語をよくしていくのに役立つなら良い」と云ふ事である。が、どうもかうした一見プラグマティックで合理主義的な發想、安直であるやうに思はれてならない。が、それなら一々「日本語の乱れと言う人」の動機など穿鑿せず、ただ「良い『乱れ』」と「悪い乱れ」を、理由を擧げて述べればそれで良かつたのではないか。金田一はかう述べる。

これを要するに、多くの人は今の日本語に色々不満をもっている。そういう人たちは、その不満があるということを「乱れている」と表現しているのだと思う。

人は自らを否定すべき文句で以て他人を罵りがちである。一々「日本語の乱れと言う人」を批判して見せる金田一には、「日本語の乱れ」と言はれる事に不滿があつたのである。そして、「福田こそ文部省の手先」のやうな言ひ方をしてゐる金田一、實は金田一こそ文部省の手先――國字改革の實行者の手先――を務めたかつた、と云ふだけの事を曝露してゐるのではないか。
ところで、金田一の福田批判だが、改めて文脈を確認しておきたい。それは「なぜ今の日本人は『日本語の乱れ』を『言う』のか」と云ふ「動機の説明」である。かうした「動機の説明」が詭辯の一種である事は説明するまでもない(「なぜ野嵜はウェブでものを言っているのか、それは野嵜が無職だからだ」と云ふ、例の「義」に據る「動機の説明」を想起して貰ひたい)。例によつて詭辯でもつて金田一は讀者を騙さうとしてゐる。
平成十八年七月十一日
「あとがき」で金田一春彦は、以下のやうに書いて、保守派・國粹主義者の批判を躱し、或は彼等に阿らうとしてゐる。

なお、この「日本語は乱れていない」という論は、もともとは私自身への警告のために書いたものである。私は趣味・嗜好の点ではきわめて国粋的・保守的の人間で、机のわきのラジオからエレキ・ギターが聞えてくると、うるさがってスウィッチを切るが、長唄やお箏が聞えてくると、勉強をやめて演奏に聞きほれる方である。だから日本語でも、旧字体・旧仮名に愛着をもつ。「唄」や「箏」が当用漢字にもれたことを悲しく思う。「日本語が乱れている」という叫び声は、そういう私の耳にはきわめてこころよく響く。しかし、そう考えていいものかどうか。それは個人的な感情にもとづくものではないか。そう考え出したら、次から次へ疑問が起こり、それを書き連ねてみたら、このような文章が拙来たというのが実情である。

だから、私は、言語学を専攻する者としては、私の論が論破されないことを願うが、個人としては、私の議論を論破して迷いをさましてくれる人が出ることも望んでいないとは言えない。その意味でも忌憚のない御意見をうかがいたいと思う。

實に謙虚な態度に見える文章で、だからこそ多くの日本人は金田一の文章に騙される。自省的な金田一は素晴らしい人格の持ち主である、だからその説は信用できる。一方、かう云ふしをらしさを見せず、ひたすら敵を攻撃する正字正かな派は、多くの人にとつて「傲慢」と云ふ事になる。だが、正字正かな派の側から言はせて貰へば、謙虚さをこれ見よがしに見せる態度こそ傲慢である。金田一の「謙虚」は、見え透いてゐるのである――と言ひたいが、實は本氣で金田一は自分が謙虚である積りでゐる。ところが、謙虚な人間ならば、「日本語の乱れと言う人々」の動機なんて物を一々臆測して見せるなんて眞似はしないだらう。金田一の「批判」は、「自覺のない嫌がらせ」であるし、だからこそ金田一は實に厭らしく嫌味を言つて見せるのである。俺にして見れば、金田一のやうな嫌みたらしい人物よりも、寧ろ正字正かな派の蠻カラの方がよつぽどすがすがしく好ましいやうに思はれるのだが、世間の人は坊つちやんのやうなガキよりも赤シャツのやうな大人の態度を好むものらしい。
平成十八年七月十一日
ストパニつづき。良く考へると、渚砂が例の件があつたのにエトワール樣との間にあんまりわだかまりだか何だかがないと云ふのは不自然とか、その邊どうして突込んで描かないんだらうとか、不思議な事がいつぱい。深夜あにめだから觀てゐる側もぼんやり觀てゐる訣で、取敢ず當座氣にしないでスルーしてしまつてゐたらしい。
書忘れたけれども、ル・リムの子達は他の二校の連中に比べてのどかで良い。もつとも千華留會長は結構しつかりしてゐる模樣。副會長と書記は要らない子状態。
平成十八年七月十一日
MacのHDDが逝つてしまふ過程を目撃した。止めを刺したのはノートン先生。ちなみに俺の機械ではない。
アクセス音が三拍子だつたのは何なのだらう。
平成十八年七月十一日
NISIMON top page
平成十八年七月十一日
昔の「言語生活」も買つて來たのだけれども、噂通り國字改革マンセー漢字制限マンセーの偏向甚だしい代物だつた。筑摩書房から出てゐた雜誌。
1977年4月号の特輯「新漢字表を考える」では「当用漢字表」の「功罪」を問ふと云ふ座談會をやつてゐるのだけれども、參加者が全員「功績論者」で、「当用漢字表」は「良いものだつた」と言つてゐる。
長谷川鑛平は、もはや引き返せない。今さら方向転換はできないと思います。と述べる。
林大は、後になってわかったことですが、あそこ(「当用漢字」:野嵜注)で用いられている略字っていうのは、決してあの時になってやったんじゃなくて、大正十二年の常用漢字の時に略字の百五十四字というのが示されて、それを見ると、当用漢字の略字はほとんど常用漢字の時に示されているわけでして、あの時にもっとほかの略字も入っているから、当用漢字を決める時に、もう少し勇気を出してもう一段やさしくすりゃ出来たはずだがなというくらいに思うんですよ。とまで言つてゐる。また、重要な發言として、「当用漢字」は前文にたまたま「制限」ということばがあるから制限というような感じになったと思うんですけれども、結局、目安として制限していたんだと思うんで、国民が漢字を使う時に、ああ、だいたい、この辺の漢字を使って、この範囲内でやって行ったらいいんだな、というふうに使う目安が出来て、日本語の中での漢字の役割というものがあれでわりと落ちついてきたと思うんです。と云ふものを引用しておく。現在の「常用漢字」も「目安」と言つてゐるが、林の發想からすれば、これも「制限」になりさうだ。
中島健蔵が、また昔の話になって申しわけないんだけど、当用漢字表をどうしても作らなきゃならんということを、戦後の国語審議会の委員会が承認したのは、占領軍が実行した読み書き能力の調査の結果だったんですよ。「リテラシー」ですね。その結果があんまりひどいんでびっくりしちゃった。こんな調査は占領下でなきゃ出来なかったと思うんですが、その調査結果は、現に東大の出版会から出たと思う。と發言してゐる。前にその調査結果について「闇黒日記」で書いたけれども、實は「国語審議会の委員会」の委員の理解の仕方が異常で、「占領軍の調査」の結果を正しく讀取れる人間の目から見れば、日本人の讀み書き能力は全然非道くなかつた。統計のデータは客觀的なものだが、それを分析し、解釋する人間の主觀で何うとでも利用可能になる。日本の國字改革でも統計データの「分析結果」が惡用されてゐる。そして、何度でも改革の實行者らはその「結果」を用ゐて、自分逹の惡行を正當化する。
長谷川鑛平は、新字体の功績は、さきほどもおっしゃったように、その一つは、新字体と称して略字を認めたことですね。と述べる。中島健蔵がそれに便乘して、ただ正字法という考え方がね、怪しいんですよ。国木田独歩全集をやった時に、塩田良平君が正字主義なんだ。あれは厳密に言えば『康煕字典』的な考えなんですよ。云々と、塩田氏を非難してゐる(擧句、塩田君も、後で多少反省していた。と附加へる。「塩田氏本人が自らの非を認めた」のだから「塩田氏が間違つてゐた」のは確實、と云ふ印象を人に與へるのが中島の目的である。そして、塩田氏がゐない場所で中島が勝手に「塩田氏が非を認めた」事にしてしまつてゐるのが問題)。さらに中島は、ぼくなんかでも初めは略字が嫌いで、正字が好きという傾向があった。青年時代っていうのは案外保守的なんですよ。難しい字を書くのがうれしいんだね、正直言うと。案外、青年時代っていうのは変にペダンティックなとこがあって。と言つて、正字を使ふのは尻の青い愚かな連中が粹がつてする事だ、或は、若氣の至りに過ぎない、と「大人」の立場から極附ける。略字を平氣で使ふのが「大人」なんだよ、と言つて、中島は「敵」を「諭してゐる」。人を馬鹿にした態度で嫌らしい。中島の物の言ひ方では、中島の反對者は「青年」であり「物事が解つてゐないガキ」になつてしまふ、それでは「大人」の中島に反論する事それ自體が「愚かしい事」になつてしまふ。かう云ふ風な「事實上の反論封殺」が中島は得意である。
中島、漢字の場合、当用漢字表がいちばん初めに出来たとき、これは永久に固定しようっていう気は一つもなかった。と述べる。なるほど、それは慥かにさうだらう、だから「当用漢字」と云ふ訣だ。だが、「漢字表」が可變であつても、「漢字表の精神」が不變であつたらどうしやうもないのだ。中島は言ふ。いわゆる国語白書っていうやつがある。「国語問題要領」ですよ。あれはぼくが原案を起草したんだけど、その時にもそういう考へははっきりしていた。望ましいこととして、難しい漢字をむやみに使うな。同時に、もしも漢字の知識が与えられなければ社会生活が出来ないじゃないか。われわれはその意見だった。中島には、「漢字の字劃を減らす事=漢字を易しくする事」で初めて日本人は日本語を書けるやうになり、社會生活を送れるやうになる、と云ふ發想がある。そんな馬鹿な話はないし、實際、昭和二十年まで、そんな事實はなかつたのだが、事實はなくても中島は理念で現實をねぢ曲げる。そして、理念に盲ひた人間にとつて、強硬な反對者は恨むべき人間となる。中島は言ふ。ところが頑固だったのは作家だ。舟橋聖一なんぞとは、ぼくは遠い親類なんだけども、当用漢字表を制限としか考えず、国語審議会でけんかのし続けだった。「漢字表を固定する事」と「漢字制限」とは全然別の話の筈だが、なぜか中島の頭の中ではリニアに繋がつてゐる。この邊の中島の發言は目茶苦茶な上に、敵を呪ふ非道いものだが、かう云ふ人物が戰後の国語改革を主導した、と云ふのは全く以て嫌な話である。が、世間の人はさうは思はない、今の国語の表記にして呉れた「恩人」として、中島をマンセーする。
林大は中島の言葉を受けてそうですよ。と賛意を表する。ですから今度の新漢字表っていうのは、当用漢字の延長線上にあるもので、一大改革とか、戦後の方向が変わったものじゃ全然ないとわたしも思っているんですよ。だけど、どうも各紙の報道は、復活派の勝利とか、方向転換……ずっと漢字が減る方向へ方向へと行きつつあったのが、ここで歯止めがかかって、また増える方向に行くんじゃないかというふうな受け取り方をしていますが、あれはおかしい。どこにそういう気配があるんだろうと思ってね。全然そうじゃなくて、当用漢字の千八百五十字という線は、だいたい良い線なんだということを言ってるわけでしょう。ただ個々の字は、もっと適当なものがあるかもしれない。それこそ時代が変わって行けば、字だって種類も変わりますもんね。だから当然二十年ごとぐらいに一部の差し替えということはやって行って、基本は変わらないけども、小部分はいつも変わっている。その点では中島先生のおっしゃるように、三十年も放っといたのがいけないということはありますね。――林大は「常用漢字」以降も國語政策に關はつて來た人物であり、その人物が述べてゐるのだから、現在の「常用漢字表」は「当用漢字表」の「一部の差し替え」でしかなく、國字改革の精神――「正字を使はせない」と云ふ方針――は不變である、と云ふのは、事實である訣だ。
中島曰。ぼくは以前、漢字はなるベく少なくしたほうがいいとさんざん主張したほうなんですよ。今は変節したわけじゃないけど、現在の程度なら残しといてもいいというふうに変わっちゃった。その時は、理論的には、ぽくはローマ字論者でしたが、ここには、話しことばと書きことばとの混同があった。話しことばを中心に考えれば、いやでも表音主義になる。ところが黙読の場合は形象論が重要になる。今でも、理論的にはなるべく表音にしたほうがいいと思うけれども、自分の習慣として、横書きで全部ローマ字なんていうのは、自分で原稿を書いても早く読めない。ローマ字でタイプで日本語を打ってごらんなさい、打つのは早いけど、自分で読むのに骨が折れてしようがない。(笑)ローマ字では拾い読みになって断片的にしか形象化できないんですね。だからぼくは一生、漢字かなまじり文の右書きのタテ書きで通す。それを製版の時に横組みにしようと、それはかまわないというふうになったんですよ。例の福田氏を散々罵倒した「会長」氏、中島は「変節したわけじゃない」と言つてゐるが、あんたは何う見る? どつちにしろ、こんな考への人が國字改革を主導する立場にあつた、と云ふのは問題でないか。そして、かう云ふ人物に主導された國字改革は、やつぱり間違つてゐたと見るべきでないか。にもかかはらず、既成事實として國字改革は「受容れなければならない」ものか。司会が、そして漢字で書いたほうが同じ紙面の中に伝える情報量がたくさん入るわけですね。とコメントすると、中島は、そういうことになる。と受ける。理屈を言やァいろいろあるでしょうけども、平がなで漢字かなまじり文というのが安定しちゃったんじゃないですかね。
ちなみに中島、続けて言つてゐる。じゃ片かなを廃止しろというのも反対なんだ。これははっきり変節ですよ。もとは、音表文字は一つにしろ、いやならローマ字をやれとか言ってたんだけど、考えてみると、日本では漢字があるだけでなく、平がながあり、片かながあり、ローマ字があるんですよ。コンピューターが入って来たでしょう。あれは将来四種類みんな記号として使えるんですよ。そういうことを考えると、いたずらにシステムを簡略化するということがいいか悪いか疑問になって来ちゃった。「会長」氏はこの「變節」、認められるか、られないか。しかし、「變節」後が「正しい」としたら、その前の考へ方は誤なのであつて、その誤つた發想に基いてとつた行動は、反省されてしかるべきでないか。もちろん、反省したら、その行動は撤囘するのが普通だらう。なぜ中島は何も反省しないのだらう。なぜ國字改革自體を撤囘しないのだらう。中島は、「この程度の變節は何の問題もない」と思つてゐる。だが、本當に「何の問題もない」のか。俺は「問題がある」と思つてゐる。中島の「變節前」の發想に基いた國字改革は撤囘されるべきだと思つてゐる。
國字改革を實施した連中は、實に安易に――實に好い加減に――物事を考へてをり、實に無責任な態度をとつてゐた。ところが、彼らは全く糺彈されず、彼らの殘した「負の遺産」たる「常用漢字」「現代仮名遣」は使用され續ける――。

平成十八年七月十日
うたわれるもの @ tvk。何時もガチなあにめだが今囘は特にガチ。主に動畫。觀逃した人も東京MXで三箇月後くらゐにやるから安心。
平成十八年七月十日
指向性メモ::2006-07-07::W3Cが構想するXHTML2.0の方向性の話
一往リンク張つておくけれども、俺は最うマーク附け言語からは手を引いたから。何か素人の手に負へない世界に行つてしまつてゐる感。
平成十八年七月十日
「わからない事があつてもコミュニティで相談すれば良いから安心・便利」と考へるか、「問題が起つたらコミュニティで相談しなければ解決しないから面倒・不便」と考へるか。「コミュニティ内」の人・「コミュニティ」を「良いもの」と看做す人は前者の考へを推すが、「コミュニティ外」の一般人は屡々後者の考へ方を「するものである」と云ふ現實。
「指導者」的なウェブの「活動家」の人の間で、「マニュアル」とか「メーカーサポート」とかを輕視する傾向が最近は極めて強く、「コミュニティ」の「力」を兔に角重視する人が増えてゐるけれども、どんどん一般人の發想から離れて行つてゐるやうな氣がしてならない。
平成十八年七月十日
Spread Firefox in 秋葉原・渋谷・鎌倉 | Spread Firefox
スラッシュドット ジャパン | Mozilla Japanの3週連続イベント「Spread Firefox in 秋葉原・渋谷・鎌倉」
Mozilla Japanの3週連続イベント「Spread Firefox in 秋葉原・渋谷・鎌倉」
Latest topics > 秋葉原でのイベントを「失敗」と考える人の見解の一つを見て思ったこと - outsider reflex
「センスがない」と言ふか、ナウなヤング (死語?) が集まる渋谷。なんて事を言つて「俺は面白い事を言つた!」と思つてゐるやうな「オヤヂ」の人がやるイヴェントだから、最う何うしやうもない。(死語?)なんて自分で自分の言つてゐる事に「突込み」を入れて何うするんだよ。
ウェブでいろいろ物を言つてゐるプログラマだかSEだかの人に、この手の笑ひに關して「妙なセンス」を持つてゐる人が多いのは何なのだらう。「(謎)」とか連發したり。「(謎)」も自分で自分に「突込み」入れてゐるやうなもの。それはね、そんな風にして判り易くしておかないといろいろと「危ない」と云ふのはわかりますよ。けれども、それでは「面白くない」のです。
平成十八年七月十日
ゼロの使い魔 @ tvk。割と面白かつたのだけれども印象が餘り……今夜はうたわれるものの印象が無茶苦茶強かつたから。
平成十八年七月十日
Firefoxの例の件、Piro師の「ブログ」のコメント欄で話が盛上つてゐるけれども――そもそも一般人に普及させて良いやうな代物なのかFirefox。「それ自體、使ひ方は簡單」では話にならない。「トラブルが起きた時、素人が對蹠可能なものか何うか」或は、「素人が對處出來ないやうなトラブルについてフォローする體制が完備してゐるか何うか」――それが問題。MozillaにしてもFirefoxにしてもヴァージョンアップしただけでトラブルがユーザに降つて來るやうな難しい作りのプログラムだし、今のMozilla方面のコミュニティは素人には敷居が高過ぎてサポート體制としてなつてゐない。一般人に薦めるのは無茶だと言はざるを得ない。大體、機能擴張を容れなければ「まともに使へない」やうなブラウザ、どうして「簡單」と言へるんだ。Operaも慥かにいろいろアレだし、サポート體制もアレだが、一往「それ單體」で「使へる」プログラムだから、それほど問題にはならない。と敢て書く。

平成十八年七月九日

「等」に「など」と云う読み方はないと云う話を聞いた。詰り、「膠着語、屈折語、独立語など」を「膠着語、屈折語、独立語等」と書くのは間違いらしい。典拠が分らなかったので、辞書で調べて見た。

單に「當用漢字音訓表」で「等」の字に「など」の訓が認められてゐなかつた、と云ふだけの話。
日本広報協会/Reseach&Data:広報広聴Q&A:広報全般について知りたい

しかし、広報紙の記事で使う場合は、住民に対して話しかけるように文章を書くことが望ましいので、「〜など」を使ったほうがいいでしょう。

平假名を使ふと話しかけるような表現に「なる」と云ふ理窟が全く解らないが、何うしてこの文章を讀んでこれによると、「等」に「など」と云う読みはないらしい。等と解釋出來るのか解らない。
と言ふかさ、うちの文章を讀んでゐる筈の人が「『當用漢字』が惡いのでは」と思ひ當る事すらも出來ない、と云ふのは何なのだらう。かなりがつかりした。
平成十八年七月九日
Opera 8.54のバグ。Print PreviewでPrintを實行すると、印刷のオプションのダイアログが出ない。9.00では修正されてゐる。
平成十八年七月九日
Opera 8.54を殘してゐる所爲か、Opera 9.00にFlashを導入出來ない。インストーラを實行してもOpera 9.00の方に入らない。Flashは糞。
平成十八年七月九日
コヨーテ ラグタイムショー @ tvk。今期の第一話ではベスト。のやうな氣がする。個人的な感想だからあんまり信用しないでね。と言ふかufotableだから第二話以降は不安。
平成十八年七月九日
アンジェリーク @ tvk。本來の作品の意味とか意圖とかとは全然別の理由で面白くなつてしまつてゐるアニメ。コヨーテよりもおつさんあにめだと云ふのが何か最ういろいろと。
平成十八年七月九日
言葉の救はれ――福田恆存論: 言葉の救はれ――宿命の國語92

平成十八年七月八日
虹裏mayが
平成十八年七月八日
虹裏米騒動。セキュリティホールを衝かれた模樣。管理畫面にパスワードがかかつてゐなくて誰でも入れたらしい。スレを消す投稿者のリモートホストを出す等、管理人さんでなくても誰もが好き勝手出來る状態に。
管理人さん15:16に米騷動スレを立てる→16:07に聲明を出す。

平成十八年七月七日
たなばた。
平成十八年七月七日
涼宮ハルヒ終盤の話をDVD-Rに燒く作業。DVDの規格に據ると、日本向けのDVDの場合、音聲はドルビーサラウンドにする必要がある(でなければPCM)。日本の場合、MP2はオプションでも何でもなくて、再生機器では大概の場合、MP2のDVDも再生出來るけれども、「互換性原理主義」の立場からはちやんとドルビーサラウンドに「する必要がある」事になる。キャプチャの際、音聲はMP2になつてゐるから、何時もはTMPGEnc DVD Authorで再エンコードしてゐるのだけれども、再エンコードすれば當然の事ながらデータが劣化する。ライブアライブの囘は出來れば「そのまゝ」取つておきたい訣で、仕方がないから「ドルビーサラウンドに再エンコードした規格に合致する版」と「再エンコードしないでMP2のまゝオーサリングした規格には(必ずしも)合致しない版」の二つを作つてそれぞれDVD-Rに燒いた。
――と言ふか、PCで録畫した分だけ燒いたのであつて、RDで録つた分はまだRDのHDDの中。そのうち燒く必要がある。
平成十八年七月七日
十時間のんびり寢た日よりも、プリプリDなんかを見てマジに吐きさうになつた擧句二時間ちよつとしか寢てゐない日の方が「或意味體調が良い」と云ふのは何なのだらう。
ストパニ觀た擧句の火曜日は全然寢てゐなくても一日調子が良いのですがそれは何の不思議もありません。
平成十八年七月七日
櫻花さん番外地の番外篇「宇宙海賊キャプテン・のあの大冒險」なるネタを思ひ附いたのでメモ。ファンキージュニア先生とサイトの企劃を檢討中。ぶつちやけ「うそ」と云ふ話ですが。
平成十八年七月七日
「平成十八年七月」でぐぐると「闇黒日記」がトップに出て來るつて何うよ。
平成十八年七月七日
蚊の襲撃を受けて寢られなかつたので吾妻ひでお『うつうつひでお日記』を讀む。新現実に載つてゐた分は既讀だけれども通して讀んだ。面白い。特に、ところどころに見られる身も蓋も無い言ひ方。ウェブの轉賣屋の話とか普通書かない。ちなみに俺は吾妻ひでおの二十年來の讀者。吾妻氏が「斷筆」した後に讀み始めた變な人です。
平成十八年七月七日
東京MXで最初のガンダムラスト三話一擧放送。ガンダム終盤の濃さは異常。疾走感溢れるストーリー展開になつてしまつてゐるが、打切の爲に話を詰込んだ御蔭で無駄が削られてさうなつたのなら打切さまさまと言ふしかない。エヴァが二十六話に收まらなくて映畫で「餘計な話」を附加へてだらしのない終り方をしたのとは好對照。と言ふか、Z要らない。
それにしても、七月スタートの新作あにめが悉く駄目なのは如何なものか。四〜六月期が異常だつたのだらうが。あれだけ作品があつたのに、案外さつさと切つた作品は少かつたやうな氣がする。今期は既に幾つか觀る氣を無くしてゐる。つよきすとか。
平成十八年七月七日
BLACK LAGOON。澁い話だと思つてゐたけれどもめいどさんが出て來た邊からはつちやけた。Opはこの期間一番の出來。
ARIA The NATURAL。のんびり觀られるのは有難い。時々説教が煩い。
うたわれるもの。ところどころ描寫が足らないのは惜しいが眞面目に作つてゐるところには好感が持てる。まだまだつづく。ちなみに東京MXでは今日放映開始だつた。
涼宮ハルヒの憂鬱。この期間の本命と目されてゐたあにめだが、視聽者の期待を裏切らないどころかその遙か上を行つたのは立派。ライブアライブの囘は、結構多くのあにめ制作者が挑戰し、失敗して來た演出を成功させた稀有な例。LEMON ANGEL PROJECTもこんな最終囘やりたかつたんだらうなー。
吉永さん家のガーゴイル。ちつともハートフルでないハートフルコメディとして知られる事になつたけれども、地味な展開を續けながら結構ちやんと話を纏めた。可成説教臭いけれども良作。監督と脚本はDearSあにめを作つた人々。
ストロベリー・パニック。雜誌の駄目企劃をあにめが救つた非常に珍しい例。露骨にマリみての後追ひ企劃なのだけれども、あにめの御蔭でアイデンティティを確立、或意味マリみてを超えた。大體面白いが、たまに物凄く面白いエピソードがある。ストパニ厨にとつて駄目作畫すらもこのあにめの醍醐味の一つ。ゲームは轉けさうな豫感。
エア・ギア。世間では評判最惡だけれども、そんなに非道い訣でもないやうに思ふ。時々觀てゐる。
ラブゲッCHU。世間では評判が良くないやうだけれども、最惡と言ふほど惡い訣でもない氣がする。時々。
姫様ご用心。視聽者の期待は裏切つたけれども豫想は全然裏切つてゐないあにめ。話が全然進んでゐないやうでちやんと進んでゐる邊は評價して良いやうな氣がしないでもない。殘りの話で伏線を全部囘收して來たら大化けする可能性がある……。
いぬかみっ。視聽者の豫想は裏切つたけれども期待はそれほど裏切つてゐないと言つて良い……? 一往まだ追つかけてはゐる。
錬金三級まじかる?ぽか〜ん。視聽者がノーマークだつたところにいきなり現はれた怪作と言ふか佳作と言ふか微妙なおりじなるあにめ。妙な處でスタッフの氣合が入つてゐる事でファンには知られる。第一話と最終話を除いては大體面白い。
吉宗。今期最も世間的に評價されてゐないあにめの一つ。思つたよりも下らなくて笑へる話が續いてゐる。ちやんとキャラも立つてゐるし、もつと評價されて良いと思ふ。繼續視聽中。
魔界戦記ディスガイア。世間で散々言はれてゐるほど非道くはなかつたやうな氣がする。世間でも終盤のエピソードはそれなりに評價されてゐる模樣で、尻上がりに良くなつたらしい。「らしい」と云ふのは俺自身は途中で半ば投出してしまつて良く觀てゐないから傳聞。
ウィッチブレイド。いろいろ惜しいところがあるけれども思つたよりも樂しく觀られる。繼續視聽中。
Soul Link。若本に頼り過ぎ。
BLOOD+。繼續視聽中。二週ほど連續してしまった見逃した。たまに面白い時がある。
ひまわりっ! 個々のエピソードはのんびり觀られるものが多い。全體として何を言ひたいのかさつぱりわからないのが問題。と言ふか、制作者は話の核心を描き忘れてゐる。
ひぐらしのなく頃に。エピソードとか構成とかは割とげーむに忠實に作つてある模樣。それが良くないと云ふ説がある。繼續視聽中。
女子高生。始まる前は「あざとすぎる」とか思はれてゐて、實際或程度さうだつたのだけれども、思つたほど非道くなかつた。結構樂しく觀られた作品。終り方は何うかと思つたけれども。と言ふか終つてゐないし。
夢使い。原作とは懸離れた作りのあにめに原作ファン落膽。第一話は面白さうだつたのに、その後迷走した感あり。それなりに話を纏めて終らせたのは良いが、全體を觀れば水準作と言つたところ。
西の善き魔女。思つた以上に面白かつたのだけれども、大山鳴動鼠一匹と言ふかあの最終囘には肩透かしを喰つたやうな氣がした。詰込み過ぎと言はざるを得ないくらゐネタは詰込まれてゐたけれども、やつぱり話の核心が巧くストーリーに絡んで來なかつた。

平成十八年七月六日
海の向うでスペースシャトルが飛んだりテポドンが落ちたり。
「海の向うの事」なんて、日本人は氣にしないよ。三日經つたらみんな忘れてる。
平成十八年七月六日
江上照彦『会議は踊る』讀了。メッテルニヒを中心にナポレオンの頃の歴史を描いてゐる。とても面白い。社会思想社の教養文庫なので絶版。
平成十八年七月六日
内閣権力犯罪強制取締官財前丈太郎。豫想の遙か斜め上だか下だかを行く、とんでもない迷作。ためしに視聽繼續してみようと思つた。或意味無茶苦茶面白い。
平成十八年七月六日
涼宮ハルヒ、神樣なのだけれども、良い男を見附けられないで欲求不滿に陷つて、苛々して、世界をぶつ壞さうと思つてゐたけれども、キョンくんが現はれたので――と、さう云ふ話なんですな。キョンくん、高校生の癖にフロイトなんて讀んでゐる。
平成十八年七月六日
プリンセスプリンセスDをノーチェックで流してゐるテレビ朝日は異常。チェックしてその上で承知で流してゐるとしたらそれはそれで異常。ポケモン光線で氣持ち惡くなるのよりも、かう云ふので氣持ち惡くなるのの方が、よつぽど問題だと思ふけれども。
平成十八年七月六日
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ですが、日本は世界で一番成功した社会主義国家と言えそうです。――譬喩とか揶揄とか或は皮肉を云々。「一番成功した社会主義国家」なる言ひ方は、この場合、「鉤括弧附き」の言ひ方でしかない……。
と言ふか、無茶苦茶儲けると、それだけで警察に捕まる(^^;つて何だ??? 別に「それだけ」で捕まりはしないぞ。かの村上氏や堀江氏だつて、「儲けたから」捕まつたのではなくて、「儲け方が正しくなかつたから」捕まつたのだ。
好い加減な話をするのも大概にして貰ひたい。三宅氏は顏文字使へば濟むと本氣で思つてゐるのか?

平成十八年七月四日
涼宮ハルヒ最終囘 @ tvk。憂鬱で始まり憂鬱で終る涼宮ハルヒ。大體スタート前の期待以上の出來だつたと言つて良いと思ふ。なべて世は事もなし。しかし原作の憂鬱だと、夢か現か、結構微妙に書かれてゐたんだよな。續篇(小説)で神設定決定となつた模樣だが……。
平成十八年七月四日
ストパニ新Op&Ed。Op結構良い。本篇相變らず作畫が微妙。と言ふか好い加減動畫國産にして下さい(もつとも、「作畫の崩れはストパニの醍醐味の一つ」なる説もある)。話は普通に良い。Edなんだこれ。

平成十八年七月三日
ゼロの使い魔すたーと @ tvk。そんなに惡くないと思ふけれども。
平成十八年七月三日
うたわれるもの @ tvk。今囘も面白い。いろいろな情報に據れば最終的に不幸な事になるみたいだけれども。
東方不敗師匠が「憎しめ」なんて變な言葉を使つてゐるのは氣になつた。
うつかりさんは相變らずうつかりさん。
平成十八年七月三日
worris' 最古のウェブ日記

平成十八年七月二日
ひまわりっ!終了 @ tvk。非道い投げつぱなし。
平成十八年七月二日
BLACK LAGOON 第一話の再放送 @ tvk。良いDVD販促だつた。
平成十八年七月二日
深瀬基寛「英國の批評的精神――アーノルドの場合――(「あるびよん」創刊號掲載)

P・E・モアーの『批評論』を讀むと、その内容は全面的にアーノルド論であるほどにもアーノルドにおいて批評といふことは中心的課題である。逆にまた凡そ批評の問題に關する限り、それほどにもアーノルドは重要なのである。ところでかねがね私の考へてゐることは、わが國において文化の個別的な局面のどこを探しても見つからないものが實は、何でもない批評家といふ一個の職能者であり、ましてそれらの局面の綜合された文化の全局面を洞見するだけの識見に立つ批評家に至つては皆無に近いのではないかと思はれるのである。どの綜合雜誌を開いてみても、その卷頭を飾つてゐるものは或る特定の學問を專攻する學者の講義のノートの一片であつて批評ではない。どの新聞の社説を覗いて見ても特定の技術家の技術的勸告でなければ、いつまでたつても行儀の惡い日本の大人の通俗的訓誡以上の何ものでもない。文壇の批評といへば、どの小説家がこのごろ賣り出し、どの作家が落伍しかかつてゐるか、誰が誰を讚め、誰が誰をけなしたか、どの老大家が老來益々健筆であるかといふ風な文壇樂屋噺がその大部分を占めてゐる。この世界は年齡別、出身別、階級別などによるいくつかの陣營に分たれてをり、文藝活動に何か包括的な理念を導入することは何となく野暮臭い感じを誰もがいだいてゐる。

居酒屋ではどのカストリ醉人もみな批評家だが、その批評はいはば不平の客觀的對應物なので、心中の不平が泡盛りとなつて發散する時刻が批評の消滅する時刻である。一般に日本人はみな批評家であつて、しかも當の批評そのものはみな泡盛り批評であるといへるであらう。デモクラシーの大網が確立されたにも拘らず、巷に溢れる不平不滿は徳川政權の下において落首、落書に求めた表現をカストリに求めてゐるといふだけの進歩に過ぎない。その傍らにおいて雜誌の卷頭を飾る高級言論は思想の技術家の難解にして煩瑣な哲學史の一齣に外ならず、一部の知識人の知識欲を刺戟するだけで、實際社會の進歩と何の係りも持たない認識論や存在論に充ちてゐるといふ批評の日本的性格が反省されなければならないのである。

平成十八年七月二日
西の善き魔女終了 @ tvk。大山鳴動云々。壯大なんだかしよぼいんだか。取敢ず話は全部詰込んだ模樣。
平成十八年七月二日
深瀬基寛「英國の批評的精神――アーノルドの場合――(「あるびよん」創刊號掲載)

……もちろん批評家が批評家となる豫件として、有名なアーノルドの定義に示されたやうに、「この世において考へられ、知られた最も善きものを認識する」必要を負はされるといふ點では哲學者の任務と共通點を持つてゐる。結局、認識の問題は最後まで批評の任務として解除されることの出來ない重荷である。……しかしそれと同時に、運命の十字街頭に立つて二者擇一をせまられた場合、單に一方が他方より好ましいといふプレファランスの問題に留まるならば、それは何も批評家の出現を待つまでもなく、われわれ常人が本能的に具へてゐる身體的な分別といふに過ぎない。その際、眞の批評家の眼前に運命的な課題としてのしかかつて來るものは、どの道が好ましいかではなくして、どの道が正しいrighteousかといふ、極めて目標の明確な、決定的な、判斷と決斷の確かさである。このやうな狙ひの確かさといふもの、これのみが批評家を技術的哲學者から分つところの分岐點となる。批評家が必ずしも哲學者たるを要しないといふこと、しかも眞に偉大な批評家といふものがどれだけ稀有であるかといふ理由がここから發生する。何が正しいかを決定するものはその批評家の持參する單なる思想の正しさにあるのではない。思想と運命との交錯點から強要される決斷の確かさである。……。

この「正しさへの感覺」とは單なる正義感ではない。泡盛りの正義感、手盛りの正義感――これは戰前、戰中、戰後を通じて日本人の誰もが最も得意とする正義感なのである。居酒屋の醉人が一人として正義派でない者はないのである。self-righteousでないものはない。またイギリスはこのself-righteousnessを基盤として十七世紀以來「ピュリタニズム」の傳統を築き上げた。しかし眞の批評家における「正しさへの感覺」といふものはこのやうな直接の自己主張の形を以て現はれて來るのではない。誰もが自分の正しさを主張する――つまり、アーノルドが「自由主義」といふ美名からその歴史的光被を剥ぎ取つて、それに代るに(doing as one likes)といふアイロニカルな俗語を以てこれを揶揄した所以は、そのやうな直接的な自己主張に立つ正義感がまさに「教養」の否定としてのアナーキーに結果する必然の成りゆきを見拔いてゐたからである。思想の運命への預言者的洞見を有つてゐたからである。われわれの新聞が、雜誌が、毎日のやうに十年も二十年も凝り性もなく反覆し、發散してゐる正義感が現實には何ものをも建設することなくして、歴史的結果はむしろ意地惡くその反對側にばかり廻つてゐるといふ恐るべき勢力の浪費こそ、アーノルドが「アナーキー」といふ言葉で表現してゐる當のものなのだ。

平成十八年七月二日
深瀬基寛「英國の批評的精神――アーノルドの場合――(「あるびよん」創刊號掲載)

……「自然的勢力」の優勢が直ちに「正」の場となるのではない。もちろん自然的勢力の場を外にして如何なる「正」も實現されはしない。だから、人類の運命の大勢としてアーノルドはデモクラシイと平等の方向を一刻も見失ふことをしない。しかし一人の人間の思想を直ちに階級的・政治的立場において神格化することと、人類の歴史の傾向としてのデモクラシイと平等とは區別されなければならないのである。……。卑近な例をとるならば、日本の封建時代、明治の議會政治模倣時代、戰後の民主主義時代を通じて、何一つ實質的な政治的進歩の跡が見られないといふことは一體どういふことなのか。それは日本人の心理の習性として、いつまでも「正」の觀念が「自然的勢力」の範疇のなかで考へられてゐるといふことの結果なのである。政黨がいくつ生れても、その各々の政黨が自分免許の獨善を振り被つて、議會を力づくの押し合ひの土俵際と考へることの結果なのである。學生の野球の應援團が「勝つた方がえい!」と叫び、「勝てば官軍、敗ければ賊」といひ、戰爭に敗ければ飛行機が足りなかつたからだと考へ、無事に助かれば「まあよかつた!」と挨拶するその心理が問題なのである。つまり民主主義といふ形で一應「正」の發現場所が用意されたにも拘らず、心理的に未だ'right is not ready'(「正」が用意されてゐない!)ことの結果なのである。

イギリスの議會政治において、「正」は批判の形を以て、現實的に可能な限りにおいて理想的な表現を見出した。しかし、アーノルドの「正しさへの感覺」にとつては實はそれから先が問題なのである。政治の場に用意されたrightは未だ何時でもforceに左右される危險に曝されたrightにすぎない。だからアーノルドは必然に單なる政黨政治の評論家たることに甘んずることが出來ない。アーノルドにとつては政治を含めてのイギリスの文明の在り方が問題なのである。……。

平成十八年七月二日
GYAOの録画方法

平成十八年七月一日
若本に頼り過ぎSoul Link終了 @ tvk。

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