おんみが若し善人であらうと欲するならば、まづ自らの惡人であることを信ぜよ。なんて言葉が收められてゐる)。『寿岳文章集』。横光利一『雪解』(養徳叢書12)。濱田青陵『希臘紀行』。宮崎市定『東洋的近世』(教育タイムス社)。山本健吉『近代俳句』(岩波講座)。雜誌「展望」昭和二十五年五月號(辰野隆「優越者と宿命者」、吉田健一「ハムレット」、小林秀雄「表現について」、唐木順三「春の鳥」、その他を掲載)。雜誌「文藝」昭和二十六年七月號(「チャタレイ裁判特集」。福田恆存「辯護人仰天記」を掲載)。
Linuxに慣れている方なら、「そんなのちょっと設定を変更するだけで実現できるよ」と言うかもしれない。実際そのとおりで、Ubuntuの補完機能が賢いのも、タネを明かせば、bash附属の保管設定ファイル(略)を読み込んでいるだけのことである。だが、便利な設定が"初めから"施されていることに意味がある。ちょっとした設定変更で使い勝手が良くなるのなら、初めからそうしておいてくれればよい。そのほうが初心者にはずっと親切だ。云々。
a要素の rel属性値を nofollow にすると、googleの中の人は、そのリンクをページランクの集計から除外するようです。
- http://www.w3.org/TR/1999/REC-html401-19991224/types.html#h-6.12
- http://www.w3.org/TR/1999/REC-html401-19991224/struct/global.html#adef-profile
nofollowという属性値は「標準では」決められていないので、サイト制作者はプロファイルを置く必要があります。そういった手間を掛けていないサイトでは野嵜さんの言われるような情況は依然として生じます。尤も仕様書には関係なくGoogle独自の「設計」なので当面は有効だろうと思います。
以下、ねたという事で。
nofollowを使うよりもサイト制作初期の段階でGoogleロボットをサーバサイドで確実に拒否する方が良いような気がします。ページランクが付いて居ない、または相当低いサイトがいくらリンクしても、相手のランクを押し上げることはほとんど無いようです。
アニメ7月の新番組メモ
久々に 「IEコンテキストメニューセット」 を更新した。
テキストデータは圧縮すると30%ぐらいに小さくなるが、画像(バイナリ)データは頑張っても90%ぐらいにしかならない。
音楽に表現しえぬものを表現する力があることは、すべての言葉をあやつる芸術家の中でも最も偉大な人によって認められている。と述べてゐて、
シェイクスピアが音楽に助けを求めたのは、その音楽のえらび方が正しい限り、決して無駄ではなかったことを指摘してゐる。
8.教科書22頁以下を参考にしつつ、押し付け憲法論について、あなたの考え方を5行以上で述べなさい(上限はなし。なお、教科書以外の本の参照も歓迎するが、その場合には、参考文献を明示すること)。
ここでいう教科書とは、芦部信喜(高橋和之補訂)・憲法〔第三版〕(2002年、岩波書店)のことであり、22頁以下は日本国憲法の制定の歴史に関する概説となっている。
この問題は、教科書、そしてその他の文献を参考にしつつ、自らの考え方を論理的に示す答案を期待しているものである。従って、押し付け憲法論が正しいか誤っているかという結論自体の是非を問うものではない。ただ、押し付け憲法論の内容を理解しておく必要はある。それは、結局、日本国憲法の制定の歴史をいかに理解しているかにかかっている。
押し付け憲法論は、日本国憲法の草案が日本人によってではなく、GHQの内部において作成されたことをとらえて主張されるものである(ちなみに、指針となったのがSWNCC-228である)。しかも、この憲法草案に示された基本原理の修正を日本政府がなすことは一切認められなかった。そのため、押し付け憲法論が主張されたのである。これは、日本国憲法無効論や自主憲法制定論(日本人自身が草案作成から何からを行って独自の憲法を制定しようとする主張)に結びついている。
たしかに、日本国憲法の制定過程を概観すると、憲法第9条などについては議論があるものの、基本的には、それこそ密室の中で、GHQによって草案が作成された(マッカーサー草案という)。その過程には、日本政府の関係者が加わっていなかったのである。日本政府側も松本委員会草案を用意していたが、これはGHQに全く受け入れられなかった。日本政府は、マッカーサー草案に抵抗したようであるが、それも全く意味を成さなかったのである。
しかし、だからと言って押し付け憲法論が妥当するとは言えない。間接占領下にあったとは言え、憲法草案は帝国議会に提出され、衆議院および貴族院の審議を経ている。しかも、現在の第25条などはマッカーサー草案になく、帝国議会における審議の中で付加されている(GHQでは、アイディアを出すことすら無理であったと思われる)。しかも、憲法第9条についての審議過程などが示すように、この憲法草案に対する反対意見はほとんど存在せず、帝国議会において圧倒的多数によって可決されたし、国民の間でも支持されたのである。押し付け憲法論は、少なくとも、こうした事実を無視または軽視するものである。
それだけでなく、日本が外国によって「押し付けられた」ものは、何も憲法だけではない。それなのに、憲法だけが「押し付けられた」と評価されるのである。これは、物事を思考することの筋道としておかしい話なのである。
だが、自由な審議が行なわれたというのは、全くの誤りである。そもそも、一九四六年一月四日に出されたGHQの公職追放令により、八十一名、八十一・八%の衆議院議員が追放されていた。……(中略)……。彼らは、四月に行われた総選挙への出馬資格を失ってしまう(増田弘『公職追放論』岩波書店、一九九八年)。
総選挙の後も、議員の追放は行われる。……(中略)……。したがって、議員たちは、いつ追放されるかという恐怖の中で、憲法改正について審議していたのである。
当時の日本は占領下で言論の自由も表現の自由もなかった時代であり、当時の国民は食べるのに精一杯で憲法どころではなかった。また、北海道第一区等八選挙区の調査では、選挙公報で政府案について意見表明していた候補者は、全体の十七・四%にすぎない。
まず、改憲派の一部が主張してきたいわゆる「押しつけ憲法」論は完全に破綻した。西修・青山武憲という名うての改憲論者以外の参考人は、すべてこれを明確に否定している。青山氏も現憲法が無効だと言っているわけではない。押しつけとも言える個々の事実が存在したことはどの参考人も否定していないが、松本烝治憲法問題担当大臣が「押しつけ」だと感じた感情・情緒を重視すべきではないこと(古関彰一独協大教授・高橋正俊香川大教授)、むしろ当時の幣原喜重郎や吉田茂などは天皇制を維持するためにGHQ案を主体的に「受け入れ」たものであること(五百旗頭真神戸大教授)、憲法の効力は「支える意思と支える諸力の関数として存在」するものであること(高橋正俊)、過去の事実は事実としてそれを改憲や現在の憲法への向き合い方に直結させるべきではないこと(北岡伸一東大教授・進藤榮一筑波大教授・五百旗頭)、憲法制定過程をより広い歴史的・国際的背景の中でとらえるべきこと(進藤榮一)などが各参考人から指摘されていた。
だが、決定的だったのは、昭和天皇が明治憲法の手続きに則って憲法改正を行なうという占領軍のシナリオ通りに動き、また、占領終了後「あれは強制されたもので本意ではなかった」とはいわなかったことである。
つまり、日本国憲法に現実的な議論の余地がない合法性を与えたのは皮肉にも昭和天皇その人である。と述べるが、「いわなかったこと」が何うして「合法性を与えた」事になるのかが解らない。昭和天皇が政治に介入しなかつたからと言つて自分に都合良く解釋する議論が屡々行はれるが、この筆者の議論もその例外ではない。
もし、この憲法が押しつけであり、無効であったという立場をとるなら、昭和天皇は占領が終了した時点で、少なくとも退位は免れなかったであろう。うっかりすると、フランスのペタン元帥のように反逆を責められていたかもしれない。
これらの点はしばらくおくとしても、戦後五十余年間、今日に至るまで、 日本国憲法という法典が存在し、それが現実に法的拘束力をもって機能 しており、大多数の国民がこれを承認しているという厳然たる事実が 存在する。現実に拘束力をもっている法規範がなにゆえに効力がないのか。 無効論に投げかけられる疑問は、むしろこの点にあるといえる。
僕はこの「押し付け憲法無効論」には与しません。なぜなら、たとえ押し付けだったとしても、今の憲法は国民に支持されてきたのであり、十分正統だと考えるからです
英語では、パンくずリストの直訳「breadcrumbs list」のほかに、意味を捉えた「topic path」(トピックパス)という語も使われる。
9936×9936ピクセルでの取込みが出來てゐる例。Windowsだと大丈夫なのかな。
最初からロシアの精神への深い理解から出發してゐるマリは、目下の緊急問題――ロシアの共産社會と西歐の自由社會とのあひだの原理的な問題の探究者として最適任の批評家といふことができるであらう。初期の文藝批評のことはここに觸れる直接の意味はない(拙著『現代英文學の課題』――昭和十四年・弘文堂教養文庫――參照)『コンミュニズムの必要』(一九三二年)と『平和主義の必要』(一九三二年)の二つのマリの著作を讀んだことのある人は、マリが一九四八年現在の本書中、二つの章、「平和主義の危機」と「共産主義の道徳的ニヒリズム」において述べてゐる論旨のなかに、彼がどれだけ現實の世界情勢に即しつつ進歩したかを見るべきであつて、單なる觀念的矛盾を指摘すべき筋あひでは決しない。このやうな現實的進歩こそ、エドマンド・バーク以來のイギリス的批判の傳統なのである。
兵庫、西宮の奥、仁川の里に、明を失っている竹友藻風は、大震災のころから同僚であった。平田禿木先生が、ふたりは仲が良いんだのにケンカして困ると、生前なげかれたそうだ。いまはケンカなどちっともしませんから御安心下さい。
(これを『毎日新聞』に書いたら、読んだかたが、藻風の住所を私に聞いてこられた。そんなことから、藻風夫人がこの小文を発見して、藻風に読んできかせられたら、彼はただ微笑していたそうである。その秋、彼は天国の人となった。)
昔、ヘーゲルは、「自由とは認識された必然である」ということをいい、これはまた、マルクス主義者が好んで使う言葉でありますが、この必然ということを、歴史全体を通ずる法則のようなものとして考えると、そのような法則は存在しないのですから、それはかえって人間の自由を圧殺するか、あるいは間違った行動に人を駆り立てることになります。しかし、歴史の法則というものを正しい学問的な意味でとらえ、つまり、もろもろの限定された因果性を無限に探究するという態度をもって歴史に対するならば、それは行動の主体としての人間というものの意義を何ら減殺するものでなく、かえってこれを正しく評価することになります。……。
……。マルクス主義の必然論そのものには、後年の社会民主主義になるものがたしかに含まれているのですが、同時にマルクス自身には革命を近い将来に期待し、それにすべての救済をかける性質があった。その点彼の思想にはキリスト教の終末論(エスカトロジー)、一千年王国(ミレニウム)のようなものが含まれているということは、今日のマルクス主義研究家によって指摘されております。そして現代においてもなおマルクス主義が勢力を持っているのは、むしろこの救済説のほうが一種の宗教として信仰されることによるところが多いからだと思われます。
自分は「現代仮名遣」を用ゐない、歴史的假名遣を用ゐるが、新聞に載る文章では「現代仮名遣」に改められる事を容認する、と言ふのは、假名遣自體としては歴史的假名遣の方が正しいが、論理的には筋が通らないにせよ「現代仮名遣」で育つた讀者が大多數である新聞に於いては「現代仮名遣」の方が「正義」である、と云ふ「釋明」。渡部晋太郎『国語国字の根本問題』。單行本化の際、「きのふけふ」に改題、正字正かなに。
私の文章は今の若い人になじみの無い正かなづかひで書かれてゐる。なぜ私が現代かなづかひを用ひないか、それは最後の「せりふの美学・力学」(二)に説いた事とも関聯があるが、詳しくは『私の国語教室』(新潮文庫)を是非読んで戴きたい。と書いてゐる。
なほ、本書の仮名遣ひは、歴史的仮名遣ひ、即ち正統仮名遣ひによつた。それは伝統を重んずる保守的立場によるものであり、しかも語義、語法の点で合理的であるからでもある。と述べてゐる。十一月、PHP研究所より『文化なき文化國家』を出版。「あとがき」で、
本書の假名遣ひが正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)によつてゐる事について、讀者の中には反撥を懐く人もあらうかと思ふので、一言、辯じておく。と述べ、簡單に國字問題の出現した理由や「改革」の問題點を説明してゐる。
算用数字が読み難いと言えば、それを更に分り辛くさせようとする人がいる。三桁毎にコンマを打つ人だ。先程の1698000000円に三桁毎にコンマを打つと、1,698,000,000円となる。が、これでは分り辛い。三桁毎にコンマを打つのは、算用数字が生出されたインドや、それを広めたアラビアでは、三桁毎に単位が変るからだ。
誰でも自己のうちにある自愛を憎み、また自己を驅つて神たらしめようとする本能を憎まぬ人は、全く盲目である。なぜなら、それほど正義と眞理とに反することはないからだ。