闇黒日記


平成十八年六月三十日
録り逃がしたとばつかり思つてゐた番組がRDのHDDやらDVD-RAMやらPCのHDDやらの中から續々と發掘される今日この頃、皆樣如何御過ごしでせうか。綱渡り状態ながらFate/stay nightが全部揃つてゐるのを確認。tvk版。
録畫のデータ、オーサリングして、DVD-Rに燒いて保存してゐるのだけれども、何でこんな檢索性の惡い「メディア」なんて代物を、人類は使ひ續けなければならないんでせうね。HDDが滿杯になるからメディアにデータを待避させる訣だけれども、待避させた瞬間から、そのデータは最う見られる事なく死藏される事になる。
俺は世間的にはアニヲタと思はれてゐるやうだけれども、違ふんだよ。録畫マニアなんだよ。録畫したら最う觀ないんだよ。普通さうだらう。
平成十八年六月三十日
うたわれるもの、七月七日から東京MXテレビで放送開始。毎週金曜18:30〜19:00。
平成十八年六月三十日
ぷろじぇくと、みすじら。 - 長門有希の追跡
平成十八年六月三十日
書窓展。なんか何處かの「新しい古本」以外が嫌ひで嫌ひで仕方がない「古本マニア」(?)の人が何時ものやうに酷評しさうな古い本、高い本が多い古書展。俺はとても楽しく見た。買つたもの。堀米庸三『わが心の歴史』。笠信太郎『西洋と日本』。佐久間政一譯『エピクテータス語録』(おんみが若し善人であらうと欲するならば、まづ自らの惡人であることを信ぜよ。なんて言葉が收められてゐる)。『寿岳文章集』。横光利一『雪解』(養徳叢書12)。濱田青陵『希臘紀行』。宮崎市定『東洋的近世』(教育タイムス社)。山本健吉『近代俳句』(岩波講座)。雜誌「展望」昭和二十五年五月號(辰野隆「優越者と宿命者」、吉田健一「ハムレット」、小林秀雄「表現について」、唐木順三「春の鳥」、その他を掲載)。雜誌「文藝」昭和二十六年七月號(「チャタレイ裁判特集」。福田恆存「辯護人仰天記」を掲載)。

平成十八年六月二十九日
TVアニメーション「夢使い」七月二日日曜日25:00〜BS FUJIにて放映開始。あんまりりおすすめしないが取敢ず俺はtvkで全部觀た。
夢使い
と言ふか、よりによつてこれが蟲師の後番組ですか。
平成十八年六月二十九日
tvk|アニメ番組

平成十八年六月二十八日
Linux WORLD 二千六年八月號の三十二ページ。「教えずにはいられない! 注目のLinux・今月の一押し」(Text by 編集部)。Ubuntu 6.06 LTS 日本語化版を紹介してゐて、コマンドラインでの使ひ勝手が非常によろしいと褒めてゐる。シェルの補完機能が非常に優れてゐると。しかしその補完機能が優れてゐるのは、bashの補完設定ファイルの記述が充實してゐるから。Ubuntu以外のディストリビューションでも、ユーザがちやんと設定すれば同じやうに補完機能が使へる。のだけれども、とは言へやつぱりデフォルトで使ひ易いやうなカスタマイズがされてゐるのは有難いよね、特に初心者、と、さう云ふ話が書かれてゐる。

Linuxに慣れている方なら、「そんなのちょっと設定を変更するだけで実現できるよ」と言うかもしれない。実際そのとおりで、Ubuntuの補完機能が賢いのも、タネを明かせば、bash附属の保管設定ファイル(略)を読み込んでいるだけのことである。だが、便利な設定が"初めから"施されていることに意味がある。ちょっとした設定変更で使い勝手が良くなるのなら、初めからそうしておいてくれればよい。そのほうが初心者にはずっと親切だ。云々。

Opera 9でさとみかんが重い件、「ユーザスタイルシートを使へば直せる=だから問題ない」と云ふ發言がちらほら見られるのだけれども、如何なものだらうか。
平成十八年六月二十八日
未讀の本が山になつてゐる上、欲しい本が山とある。
平成十八年六月二十八日
二十七日に日本書房で買つた本。
時枝誠記『国語教育の方法』(習文社)
平成十八年六月二十八日
網戸の外で家の中に入らうと蛾が頑張つてゐるのだけれども、お腹がキモいです。

平成十八年六月二十七日
西野神社 社務日誌 - 神社本庁
西野神社 社務日誌 - 神社庁
平成十八年六月二十七日
若本さん家のガーゴイル最終囘。大體視聽者の期待通りの終り方をした。地味ながら嫌味の無い話だつたのは好感が持てる。
平成十八年六月二十七日
ストパニ今囘も色々をかしい。もつとやれ。
相變らずメインのキャラだけ氣合が入つた繪でその他大勢の生徒の作畫が非道い。メインのキャラも結構屡々非道い。夜々……。
しかし地球温暖化が何うの斯うの言つて女を口説く女性キャラは初めて見た。月がとつても綺麗だからとか。
と言ふか、D.H.ロレンス的に言へば、マリみてよりもストパニの方が正直で遙かに健全。

平成十八年六月二十六日
うたわれるものに義が何うの斯うの逝つてる人が出て來た。原作ではうつかりさんらしい。
平成十八年六月二十六日
すつかり忘れてゐた。「肩が赤い」とか言はれさうだけれども一往「こんなものをやつてゐる」と云ふ事で報告しておきます。
億萬長者夫人
平成十八年六月二十六日
掲示板でカヅサツさん御指摘。

a要素の rel属性値を nofollow にすると、googleの中の人は、そのリンクをページランクの集計から除外するようです。

で、塗炭さんからも突込みが入つて。

nofollowという属性値は「標準では」決められていないので、サイト制作者はプロファイルを置く必要があります。そういった手間を掛けていないサイトでは野嵜さんの言われるような情況は依然として生じます。尤も仕様書には関係なくGoogle独自の「設計」なので当面は有効だろうと思います。

以下、ねたという事で。

nofollowを使うよりもサイト制作初期の段階でGoogleロボットをサーバサイドで確実に拒否する方が良いような気がします。ページランクが付いて居ない、または相当低いサイトがいくらリンクしても、相手のランクを押し上げることはほとんど無いようです。

ちゃんかずさんからも突込み。
Luv+Fun'key - ちゃんかずの戯言 - 辿ってほしくないリンクには
毎度何うも有難うございます。
米Google、リンク属性を利用したコメントスパム対策機能
ちょっとしたメモ - rel="nofollow"ほかメタデータのプロファイル
ちょっとしたメモ - rel="nofollow"と文書間の関係
hxxk.jp - Movable Type 'nofollow' plugin おぼえがき
rel="nofollow"のブログ・スパム対策とは? :検索エンジンの伝 ::検索エンジン三国志
デースケドガー情勢に rel="nofollow" は影響を与えるか? - PLAYNOTE
はてなダイアリー、コメントスパム対策の“nofollow属性”実装を見送り
平成十八年六月二十六日
http://www.finalbeta.jp/update_log/2006_06.html#log20060624_1
アニメ7月の新番組メモ

平成十八年六月二十五日
西の善き魔女 @ tvk。最う勢ひだけで最後まで押通す積りらしい。取敢ずこれだけ話が突走つてゐるのに主な登場人物のキャラクタがちやんと「立つてゐる」のは立派。來週はいよいよ大詰め。續篇作る積り無いだらうからガチで話が完全に終る筈。今期始まるまでは「切る」積りだつたけれども、觀てゐるうちに結構のめり込んでる。面白い。原作買つて來ようかな。
平成十八年六月二十五日
さっぱり風 「IEコンテキストメニューセット」置き場
久々に 「IEコンテキストメニューセット」 を更新した。
平成十八年六月二十五日
BLACK LAGOON終つた。いろいろはつちやけたあにめだつた。面白かつた。

平成十八年六月二十四日
skkimeを入れてみたけれども何が何だかさつぱりわからない。北極三號を入れても正字に變換されないし。
大體、「skkの使ひ方」みたいな記事がウェブに殆ど無い、と云ふのはどう云ふ事? 使ひ方を勉強しなければ使へないのに、ドキュメントが全くない、と云ふのでは、勉強のしやうがないだらう。それに、元々unixのものだから、Windows版を使ふのにはunix版と違つたノウハウが必要になる。けれども、開發中のものだからそんなノウハウは何處にも溜まつてゐないし、そもそもユーザがゐない。これでは使へない。
Firefoxにしてもさうなのだけれども、「移行してみれば?」と言はれて使つて見ても、それまで使つてゐたプログラムと全然違つて戸惑ふ事ばかり、しかも「開發中」だから不具合は多い、使つてゐるとストレスがどんどん溜まる、と云ふ「良いプログラム」が多過ぎる。
unix出自のものや、unix文化の下で「繁榮」してゐるオープンソースの社會のものは、變なunix方面の「文化」だか何だかに染まつてゐて、Windowsユーザには全く判り辛い。プログラム自體、「兔に角移植」「兔に角動くやうにする」のレヴェルで提供されてゐる代物で、バグだらけ、不具合だらけ――しかも癖だけは異常に強い。調べようにもドキュメントは無い。文句を言へば「ぢやあ開發に參加しろ」と脅迫される。
「調べる」事自體が極めて困難、と云ふのが、unix社會らしい。良く利用されてゐるsourceforgeの、いろいろなプロジェクトのサイトは、「わかるひとにはわかる」のかも知れないが、一見しただけでは何が何だか全然解らないデザインになつてゐる事が多い。あと、「Wikiがある」と云ふパターン。Wikiが「開發者向け」になつてゐて、殆ど初心者御斷り一見さん御斷り状態になつてゐる事も屡々。
昨今名前が知られて來たAnthy、これがまた、ウェブで調べようとしても何も判らないものだつたりする。Wikiに「概要」が書かれてゐるけれども、「プロジェクトです」とあつて、それにかかる形容句は、ただ技術の名前が並んでゐるだけ。「良いものを目指します」なんて美辭麗句が書かれてゐるけれども、美辭麗句を讀んで「良く解つた」と言ふ人間はこの世に一人も存在しない。セキュアかどうかは知らない、どんな風に使へる入力システムなのか、が判らなければ何うしやうもない。キー操作の方法は? 文法は? そもそも、動く環境は? 開發者が獨り合點してゐて、「何も知らない人」に説明する爲の説明になつてゐない。敢て言ふけれども、unix方面のプログラムは開發者が獨り合點してゐるプログラムが多い。「だからいいんだよ」と言はれるかも知れないが、俺は嫌だ。
日本語入力システム、假名漢字變換プログラムの類、美辭麗句はいい、「かなを漢字に變換出來ます」、そんな「説明」はナンセンスだ。「文法」「單語」を「何う扱ふか」、それをはつきり説明して貰ひたい。俺の場合に限つてだが、その邊の説明が無いのでは、正字正かな入力する爲に何う工夫すれば良いか、全然わからん訣だ。俺は、理想の假名漢字變換プログラムが欲しいのではない――正字正假名で普通に入力出來るけれども、それ以外の部分では常識的な「ただの連文節變換」のインプットメソッドが欲しいだけだ。癖だの個性だのは無くて良いんだよ。さう云ふものに馴染みたくないんだ。普通に打込んで、變換操作をすれば、すぐに正字正かなの文章が出て來る――そんな普通のIMEがあれば良い。あと、今使つてゐるWXGのユーザ辭書をそのまゝ移行出來るもの。別にデフォルトでWXGの形式のデータを讀込めるとか、そんな事は出來なくて良いから(そこまでは望まない)、ただ、こちらでプログラムに抛り込めるやうなデータを作れるやうに、辭書の形式・文法の仕樣、等々をきちんとドキュメント化して公開して欲しい。一々こつちでハックだか何だかして解析やつて苦勞して何う斯うする、なんて事はしたくない。開發者なら仕樣を纏めて公開して呉れ、と。美辭麗句の賣り文句は要らない。
Vistaが出ても、最うメンテナンスもされないWXGを動かして何とかするしかないんだらうな。と言ふか、Windows專用のIMEつて、最う開發されない訣? MS-IMEとATOKしかWindows用のIMEが無い、つて何う云ふ事だよ。VJEもWXも無くなつてしまつた。unix出自の移植ものは先づ間違ひなく使ひ物にならない。寒い時代だと思はんかね。
平成十八年六月二十四日
「Windowsへの移植ものが嫌なら元々のunix使へば良い」とか、そんな聲も聞こえて來さうだけれども、unixに移行すると云ふのがそれ自體「Windowsユーザには敷居が高い」訣だ。PCで使へるunixと言ふと、普通にはLinuxになる訣だが、Linuxなんて「unixのオープンソースの世界」の文化から生れて來た代表みたいなものだし、バグや不具合はまだまだ多いし、それらの解決法は根氣強く探さなければ見附けられないし、文句を言へばすぐ「ぢやあ開發に參加しろ」と言はれるし、ユーザが不滿を持つても「開發中」なる「黄門樣の印籠」がすぐに振りかざされる、素人にとつては近寄るのも嫌な代物だ。
「ユーザの不滿が封印されるシステム」つて何なのだらう。「NO消し」すれば誰もが受容れる、と云ふものではないんだ。正字正假名の運動で「NO消し」は随分やつたけれども、それだけで略字略かなから正字正かなに移行する人はあんまりゐなかつた。その邊の「人情」と云ふもの、正字正かなの人も解つてゐないし、unixの世界の人も解つてゐない。「取敢ず使つてみませう」と言つて、使はせれば、全ての人が普通に使ふやうになる、と、正字正かなの人もunix方面の人も、同じやうに考へてゐる。「文語の苑」なんかの思想は典型だし、波江の「いろはもどき」の主張もさう云ふ傾向を含んでゐる。多くの初心者向けLinux本の底の淺さは非道いものだ。「取敢ず使はせる」、それは結構、けれども初心者は慣れない人だから初心者、必ず「困難に直面する」。その時、フォローは何うなつてゐるの? 「わかりやすいMac」でもさうだつたが、最初はユーザを猫撫で聲で引込んで、或地點から先ではユーザを突放す、と云ふ仕打ちをするヴェンダや開發者は極めて多い。根氣がなくて投出すユーザは多い訣だが、「投出す方が惡い」みたいな言ひ方をして、開發者や專門家、或はヴェンダ・メーカは屡々「好い氣になつてゐる」――そんな氣がする。
あと、Linux、Linuxつて一纏めにして言ふけれども、「同じLinux」でもディストリビュータ毎に中身は全部違ふ。ディストリビュータが違ふと、表面的には似てゐても、ちよつと深入りすると全部違ふ、なんて事が普通に「ある」訣だ。ならば、「同じLinux」と言つて簡單に一纏めにしてしまふのはをかしいだらう。そして、ディストリビュータが澤山「ある」事が、「或Linux」における問題の解決方法を探すのにユーザが苦勞する原因となつてゐる。Windowsなら、みんな同じだから、バグ情報なんかもすぐに共有される。けれども、Linuxの場合、或ディストリビューションでトラブルが起きても、他のディストリビューションでは起きない、そんな事は當り前。「同じLinux」のユーザでも、不具合に關する情報は共有され難いし、そもそも共有しても仕方のない事も多い。或ディストリビューションにしか含まれてゐないツールの不具合を、別のディストリビューションのLinuxを使つてゐるユーザが良く知つてゐても仕方がない。さうなると、結局のところ「Linuxユーザ」なるものは存在しないのであつて、個別のディストリビューションのユーザが存在するだけであり、或は、極端な言ひ方をすると、一臺一臺の機械に搭載されてゐる「Linux系」のOSは全部違ふ。「個性」が好きなユーザはさう云ふ状況は好ましいものであらうが、多くのユーザが存在する製品を安心に思ふユーザの方が普通だらう。道具には個性なんて要らない、と思つてゐるユーザは少くない。
平成十八年六月二十四日
Googleの缺陷。制作者の意圖として「否定的」な意味でのリンクであつても、Googleは「リンク」である事實だけを以て「評價されてゐる」と看做してしまふ。電波なサイトから非難された時、敢て反論すると、一々Googleでの相手の評價を上げてしまふ事になる。さうなると、「スルーする」「無視する」と云ふ事が最大の相手への攻撃になる訣だが、これは「論爭するな」と云ふ事だ。リンクを張らずに當てこすりを言つてゐるのが、Google時代のサイト間の鬪爭では「最良の戰術」と云ふ事になり兼ねない。

平成十八年六月二十三日
ウェブページのデザイン事情
「●圧縮比 _ 2006.6.19」の項。

テキストデータは圧縮すると30%ぐらいに小さくなるが、画像(バイナリ)データは頑張っても90%ぐらいにしかならない。

jpegとかgifとかpngとかは「既に壓縮濟み」なのではないかと。
無壓縮のtifで25MBある畫像、jpegで保存したら最高畫質でも6MBに――なんて事は良くある話。
平成十八年六月二十三日
バグがあつたり不具合があつたりしても――と言ふかしよつちゆう「ある」訣だけれども――兔に角文句を言ふべき對象がはつきり存在してゐるWindowsと、バグ・不具合の類についてはコミュニティで相談すればとか自助努力が必要とかそんな風に言はれて誰にも文句を言へないLinuxとでは、どつちがユーザにとつてストレスが溜まらないものなのか。これはちよつと檢討してみる價値がある。のではないかと俺は思ふのだが如何。
世の中、解決や對處法よりも、ストレスを發散する爲の八つ當りの對象を必要とする人は少くない筈。俺含む。

平成十八年六月二十二日
オルダス・ハックスリがエッセイ「その先は沈黙」で、音楽に表現しえぬものを表現する力があることは、すべての言葉をあやつる芸術家の中でも最も偉大な人によって認められている。と述べてゐて、シェイクスピアが音楽に助けを求めたのは、その音楽のえらび方が正しい限り、決して無駄ではなかったことを指摘してゐる。
ハルヒの學園祭の御話、あの場面であの樂曲は慥かにあれで適切であつた、と言ふ事は出來よう。
平成十八年六月二十二日
實に微妙な第一囘でスタートしたまじぽかが、矢張り非常に微妙な最終囘で終つた。
平成十八年六月二十二日
吉宗のあにめは世間的にちよつと評價が低過ぎるのではないか。
平成十八年六月二十二日
Amazon.co.jp: 憲法無効論とは何か―占領憲法からの脱却: 本: 小山 常実
古書センター前のわごんセールで買つた。
憲法無効論とは何か
つくる会:ライブラリー
さるさる日記 - 《オロモルフ号の航宙日誌》
軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - 「建国の日」に考える
平成十八年六月二十二日
「日本国憲法」無効論 | 書籍案内 | 草思社
書評
平成十八年六月二十二日
世界一小さい新聞 - nikkansports.com : 日本国憲法は無効か?
現行憲法無効宣言
マッカーサー占領憲法無効論
謎のお告げ:憲法記念日 - livedoor Blog(ブログ)
初級編
■小沢一郎ウェブサイト■
オンラインコンビニエンス何でもそろう便利屋です: 戦後日本マルクス占領憲法解釈学からの覚醒
オンラインコンビニエンス何でもそろう便利屋です: 占領憲法無効論とは帝国憲法及占領憲法有効論
平成十八年六月二十二日
物凄く非道い「大學の課題」を見附けたので報告。
「日本国憲法」小課題その3

8.教科書22頁以下を参考にしつつ、押し付け憲法論について、あなたの考え方を5行以上で述べなさい(上限はなし。なお、教科書以外の本の参照も歓迎するが、その場合には、参考文献を明示すること)。

「日本国憲法」小課題その3・解説

ここでいう教科書とは、芦部信喜(高橋和之補訂)・憲法〔第三版〕(2002年、岩波書店)のことであり、22頁以下は日本国憲法の制定の歴史に関する概説となっている。

この問題は、教科書、そしてその他の文献を参考にしつつ、自らの考え方を論理的に示す答案を期待しているものである。従って、押し付け憲法論が正しいか誤っているかという結論自体の是非を問うものではない。ただ、押し付け憲法論の内容を理解しておく必要はある。それは、結局、日本国憲法の制定の歴史をいかに理解しているかにかかっている。

押し付け憲法論は、日本国憲法の草案が日本人によってではなく、GHQの内部において作成されたことをとらえて主張されるものである(ちなみに、指針となったのがSWNCC-228である)。しかも、この憲法草案に示された基本原理の修正を日本政府がなすことは一切認められなかった。そのため、押し付け憲法論が主張されたのである。これは、日本国憲法無効論や自主憲法制定論(日本人自身が草案作成から何からを行って独自の憲法を制定しようとする主張)に結びついている。

たしかに、日本国憲法の制定過程を概観すると、憲法第9条などについては議論があるものの、基本的には、それこそ密室の中で、GHQによって草案が作成された(マッカーサー草案という)。その過程には、日本政府の関係者が加わっていなかったのである。日本政府側も松本委員会草案を用意していたが、これはGHQに全く受け入れられなかった。日本政府は、マッカーサー草案に抵抗したようであるが、それも全く意味を成さなかったのである。

しかし、だからと言って押し付け憲法論が妥当するとは言えない。間接占領下にあったとは言え、憲法草案は帝国議会に提出され、衆議院および貴族院の審議を経ている。しかも、現在の第25条などはマッカーサー草案になく、帝国議会における審議の中で付加されている(GHQでは、アイディアを出すことすら無理であったと思われる)。しかも、憲法第9条についての審議過程などが示すように、この憲法草案に対する反対意見はほとんど存在せず、帝国議会において圧倒的多数によって可決されたし、国民の間でも支持されたのである。押し付け憲法論は、少なくとも、こうした事実を無視または軽視するものである。

それだけでなく、日本が外国によって「押し付けられた」ものは、何も憲法だけではない。それなのに、憲法だけが「押し付けられた」と評価されるのである。これは、物事を思考することの筋道としておかしい話なのである。

小山氏風に言へば、以上の記述には「歴史僞造」が「あつた」と云ふ事になる。
憲法草案に就いて、日本人の議員によつて審議が行はれた、とある。が、この審議はGHQのコントロール下で行はれたものであつた。反對意見はGHQに據つて豫め封殺されてゐた、と言つて良い。

だが、自由な審議が行なわれたというのは、全くの誤りである。そもそも、一九四六年一月四日に出されたGHQの公職追放令により、八十一名、八十一・八%の衆議院議員が追放されていた。……(中略)……。彼らは、四月に行われた総選挙への出馬資格を失ってしまう(増田弘『公職追放論』岩波書店、一九九八年)。

総選挙の後も、議員の追放は行われる。……(中略)……。したがって、議員たちは、いつ追放されるかという恐怖の中で、憲法改正について審議していたのである。

日本國民が憲法草案を支持した、と云ふ事實も存在しない。

当時の日本は占領下で言論の自由も表現の自由もなかった時代であり、当時の国民は食べるのに精一杯で憲法どころではなかった。また、北海道第一区等八選挙区の調査では、選挙公報で政府案について意見表明していた候補者は、全体の十七・四%にすぎない。

事實に相違したイデオロギーに基いた歴史の歪曲が、大分大学教育福祉科学部で行はれてゐた。嫌な話である。
それにしても、「押附けられたものは憲法だけではないのだから、『押附け憲法』と言つて憲法だけを問題視するのはをかしい」と云ふのは、何んな「論理」なのだらうか。敗戰と云ふ状況を無視して一般論に話を摩り替へてゐるのだが、このやうな話の一般化は普通、詭辯と呼ばれる「論理」である。かうした詭辯は、現行憲法を正當化する際には屡々用ゐられる。注意が必要だ。一般的に「外國からいろいろなものが押附けられた」と云ふ事と、「現行憲法は『押附け憲法』か」と云ふ法學的な問題とは、次元の異る問題であり、それをわざとごつちやにして問題を「無かつた事」にしようと云ふのは、議論の囘避であり、卑怯極まる護憲論者の「戰術」である。と言ふより、さう云ふ「戰術」を「結論」部に持つて來ざるを得ない邊、護憲論者は自分達の主張が甚だ脆弱な根據にしか基いてゐない事を「解つてゐる」のである。
平成十八年六月二十二日
憲法調査会の審議状況

まず、改憲派の一部が主張してきたいわゆる「押しつけ憲法」論は完全に破綻した。西修・青山武憲という名うての改憲論者以外の参考人は、すべてこれを明確に否定している。青山氏も現憲法が無効だと言っているわけではない。押しつけとも言える個々の事実が存在したことはどの参考人も否定していないが、松本烝治憲法問題担当大臣が「押しつけ」だと感じた感情・情緒を重視すべきではないこと(古関彰一独協大教授・高橋正俊香川大教授)、むしろ当時の幣原喜重郎や吉田茂などは天皇制を維持するためにGHQ案を主体的に「受け入れ」たものであること(五百旗頭真神戸大教授)、憲法の効力は「支える意思と支える諸力の関数として存在」するものであること(高橋正俊)、過去の事実は事実としてそれを改憲や現在の憲法への向き合い方に直結させるべきではないこと(北岡伸一東大教授・進藤榮一筑波大教授・五百旗頭)、憲法制定過程をより広い歴史的・国際的背景の中でとらえるべきこと(進藤榮一)などが各参考人から指摘されていた。

さう云ふのは「主體的」と言はない。この手の詭辯が護憲論には多過ぎる。大體、左翼はすぐ「○○論は破綻した」「破綻した」と言ふ。
しかし、憲法が存在し得るのは「憲法を守らうと云ふ意思」に據るのだ、と云ふのは、法治主義を根本的に否定する思想ではないか。さう云ふ「意思」が「無くなつた」ら、途端に憲法は權威としての立場を失ふのださうである。「それが當り前」と云ふ發想が世間では一般的かも知れないが、それならば權威なんてものは要らない――目に見える成文憲法なんてものは要らない筈である。文章に表現されてゐなくても「意思」さへあればそれで十分ではないか。この手の「意思」説を主張する法學者は、「法律が何故必要か」を考へた事がないのだらうか。さうだらう。以前、某コミュンの法律をやつてゐる學生さんに聞いたが、法律の專門家と云ふのは、價値判斷を抛棄し、既成の法をあるがまゝに受容れて、パズルのやうに解釋を續けてゐさへすればそれで良いのださうである。
平成十八年六月二十二日
やわた48ドットコム---ニュース解説「282.「水と暮らしと産業−『畿央の杜』からの提案」」
公正な判斷に見える部分もあるが、非道い記述もある。

だが、決定的だったのは、昭和天皇が明治憲法の手続きに則って憲法改正を行なうという占領軍のシナリオ通りに動き、また、占領終了後「あれは強制されたもので本意ではなかった」とはいわなかったことである。

筆者は、つまり、日本国憲法に現実的な議論の余地がない合法性を与えたのは皮肉にも昭和天皇その人である。と述べるが、「いわなかったこと」が何うして「合法性を与えた」事になるのかが解らない。昭和天皇が政治に介入しなかつたからと言つて自分に都合良く解釋する議論が屡々行はれるが、この筆者の議論もその例外ではない。

もし、この憲法が押しつけであり、無効であったという立場をとるなら、昭和天皇は占領が終了した時点で、少なくとも退位は免れなかったであろう。うっかりすると、フランスのペタン元帥のように反逆を責められていたかもしれない。

この推測は何なのだらう。筆者は推測を大前提に、その後の議論を展開してゐるが、大前提が推測である議論は無效である。
平成十八年六月二十二日
http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/sengodemocracy_kenpo_kaitei.htm

これらの点はしばらくおくとしても、戦後五十余年間、今日に至るまで、 日本国憲法という法典が存在し、それが現実に法的拘束力をもって機能 しており、大多数の国民がこれを承認しているという厳然たる事実が 存在する。現実に拘束力をもっている法規範がなにゆえに効力がないのか。 無効論に投げかけられる疑問は、むしろこの点にあるといえる。

「既成事實化すれば何でもOK」と云ふ論理だが、かう云ふ「論理」が通用するならば、そもそも憲法なんて要らなくなるのではないか。違憲のものであつても、それが何十年も存在し、現實に機能してゐれば、それは「厳然たる事実」として肯定される事になつてしまふ(實際、明白に違憲である「自衞隊」が存在してゐる)。が、さう云ふ形で違憲が正當化されるのなら、成文憲法の存在する意義等ない筈である。成文憲法を持ち、法治主義を守る、と云ふ事が大前提で、憲法については議論されるべきであると野嵜は考へるのだが、どう云ふ訣か現行憲法を正當化する爲に法治主義そのものを殺してしまふ議論が世間では罷り通つてゐる。法治主義が死んだら、現行憲法も一緒に死ぬ事になるのだが。
平成十八年六月二十二日
西修『日本国憲法を考える』(文春新書、1999年)
橋爪大三郎『冒険としての社会科学』 /トート号航海日誌(読書録)

僕はこの「押し付け憲法無効論」には与しません。なぜなら、たとえ押し付けだったとしても、今の憲法は国民に支持されてきたのであり、十分正統だと考えるからです

この種の意見に野嵜は與し得ない。なぜなら、「國民の支持」のやうなものを根據にするならば、憲法そのものが要らなくなるからだ。法律には法律自體の權威が必要で――と言ふより、一度制定されたら法律には權威が生じ、それ以外の何物の支持も必要としないし、逆に言へば、不支持であつても法の權威自體によつて法は效力を持たねばならない。「惡法も法」と言はれるのは、法自體の權威を認めるからだ。そして法の權威は法の連續性によつてのみ維持される。だから「現在支持されてゐる」のやうな現行憲法擁護説は「あつてはならない」説だ、と云ふ事になる。明治憲法は、如何に古く、如何に今の國民に馴染みのないものであつても、法であるのだから、現在でも權威を持つ、と考へざるを得ない。
逆に言へば、將來の日本國民が獨裁者を支持するやうになつたとしよう。その時、現行憲法は無效になる訣だが、それで良いのか。「それでいいのだ」と言ふ人は結構多さうな氣がする。けれども「民主主義を守る」事が現行憲法の使命ではなかつたのか。民主主義を「守れない」やうでは、憲法として現行憲法を採用した意味が無くなるではないか。法に法自體としての權威を認めねば、現行憲法で民主主義を守れなくても、その事實を「厳然たる事実」として認めねばならなくなる。
野嵜は「明治憲法の精神を復活せよ」と叫んでゐるのではない、その點は誤解しないでいただきたい。民主主義・自由主義は守るべきである、ならば、その據り所として用ゐる憲法が正統性を持つてゐる事は必要である、だから、法的に妥當な形で正當な憲法である明治憲法を改正し、堅固な民主的・自由主義的新憲法とすべきだ――野嵜はさう主張してゐる。野嵜は、法治主義・民主主義・自由主義の全てを同時に完全な形で守りたい、と言つてゐる訣だ。
平成十八年六月二十二日
と言ふか、「戰後半世紀以上の間、國民が支持して來た」から「有效」であるのなら、今、國民が「支持しない」と意思を表明すればそれで「無效」と「なる」筈だ。前者が「厳然たる事実」であるのなら、後者もまた「厳然たる事実」となる筈だ。現行憲法無效論に致命的な打撃を與へたかのやうな「厳然たる事実としての現行憲法」説は「既に破綻してゐる」。
平成十八年六月二十二日
Windows Vista における 16 ビットサポート
お笑いパソコン日誌:今日のヴィスタ・互換性問題
Windowsの命は歴史的連續性=互換性にあるのだけれども、そんなものを日本人は必要としないだらう、と判斷されたらしい(邪推)。32ビットのアプリケーションは大丈夫なのかな。WXGが動かなくなつたら死ぬ。
平成十八年六月二十二日
村上ファンドの村上世彰さんは「モノ言う株主」だとか言はれてゐたけれども、「モノ」を言つて企業が改善策をとつたら株價が上がる、さうなつたら村上さんは株を賣つてしまふのでせう、さうしたら株主ではなくなつてしまふのだけれども? 株主でなくなる爲に「モノを言う」人も「モノ言う株主」なの? 經濟の世界もよくわからない。
適當に絡んでゐる(誰に?)だけだからこの項反論不要。
平成十八年六月二十二日
ヘンゼルとグレーテルは森の中で迷はないやうにパン屑を落しながら歩いた訣だけれども、閲覽者がサイトの中で迷はないやうに「何かを落しながら歩く」と云ふ事があつてその「落したもの」がウェブサイトの「ぺーじ」の中に書込まれ、それが「パン屑リスト」と呼ばれてゐる、と、さう云ふ事なら「パン屑リスト」なる言ひ方は認められる。けれども、實際には、閲覽者ではなく制作者が「迷はないやうに」と云ふ親切心で設置した「めにゅー」を「パン屑リスト」と呼んでゐる。これはをかしい。行動の主體がすり替へられてゐる。
何で誰も「パン屑リスト」なる言ひ方は「をかしい」、と言はないのだらう。
パンくずリストとは 【topic path】 ─ 意味・解説 : IT用語辞典 e-Words

英語では、パンくずリストの直訳「breadcrumbs list」のほかに、意味を捉えた「topic path」(トピックパス)という語も使われる。


平成十八年六月二十一日
デジタル放送の機器の反應が矢鱈と鈍いのは何とかならないものだらうか。
放送開始一分前には最う録畫豫約を入れられない、つて何う云ふ事よ。
平成十八年六月二十一日
Mac OS XのGUIは、WindowsXPのGUIなんかよりずつと良い、とMac黨の人は自慢するけれども、では、Mac OS 7.5.3邊までのGUIと比べて美しいと言へるだらうか、と疑問を呈してみる。
例へば、妙にWindowsつぽく灰色を基調にデザインされたボタンやら何やらの「皮」が、舊來の白黒部品でデザインされたGUIの上に被さるやうになつた一時期以降のMac OSのデザインは、俺にはWindows95以降の「醜惡」とされるGUIよりも汚らはしいと思はれたものだ。初期のMac OSのGUIデザインは、古めかしい爲に「捨てられた」ものだが、一貫性があり、慥かに「納得出來る」ものだつたし、良い意味で「玩具」つぽい雰圍氣もあつて好ましいものだつた。
Mac OS 9では、例へばアプリケーションを強制終了させる爲のキー操作をすると白黒のダイアログボックスが出て來て、「近代的なデザイン」が所詮は「皮」に過ぎない事をありありと示す。これは俺にはとても醜惡な仕樣だと思はれる。もちろん、Windows95なんかでも、Windows 3.1以前のGUIの上に新しいGUIが乘つかつてゐた(ゐる)のだけれども(アプリケーションがハングした時、妙なデザインのウィンドウが殘る事で判る)、Windows、と言ふよりもPCでは、さうした無骨さは全く問題にならない。あのMacでこの無骨さは何なのか――俺はPC派だが、依然、Macには幻想を懷いてゐる者の一人である。
Mac OS 7.5.3を十年ぶりに起動した。
平成十八年六月二十一日
オルダス・ハックスリに據れば、ボードレールは現實に幻想を懐き、現實に裏切られたが故に、反動で、現實を蔑んだ――クリスチャン以上にキリスト教的な理念を懐き、理想を崇拜してゐたが、理想が現實には實現しないので絶望し、反動で惡魔主義者になつた、と、さう云ふ事なのださうである。
平成十八年六月二十一日
ハンス・ケルゼン『デモクラシーの本質と價値』(岩波文庫3633-3634)
纏めて引揚げて來た本の中に埋もれてゐた。少し前に田村書店の無料箱か百圓均一かで入手したものらしい。記憶にない。
平成十八年六月二十一日
http://car.s35.xrea.com/diary/200606.php#D21-03
「問題」について「どうすればよいのか」の「解決法」を「書いた」けれども「消しました」と云ふ報告。「どうすればよいのか」を書けば情報として價値があるのだが、情報を「消しました」なる報告は情報として無價値でしかない。「解決法は茲で説明されてゐる」と、例へばリンクを張ればそれはそれで有益な情報になるが、「探せば解決法はすぐ見附かる」とだけ述べてもそれは全く何の意味もない情報でしかない。
平成十八年六月二十一日
涼宮ハルヒの學園祭ライヴコンサート。何囘も觀返してゐるのだけれども、演奏が始まる前のガヤ、みんな「彈けないだろ」「彈けないだろ」で、長門さんが話題の中心になつてゐたりする(ヴォリュームを上げて聞いてみよう)。學園祭終了後、ハルヒがキョンくんの前でちよつと寂しさうにしてゐる場面、長門さんに「良いところ」を少からず持つて行かれたのを自覺してゐるのだと見る事も出來る。長門さんの事を「完璧」と褒めてゐたり、ENOZの人に長門さんに感謝するやう言つたりしてゐるのも、或意味「自分より凄い」人物の存在を意識しての事と解釋する餘地はある。原作未讀。と言ふか『憂鬱』しか讀んでない。

平成十八年六月二十日
ハルヒCD買つて來ようかな。完璧なCD販促。
あ〜るにしてもさうだが、かう云ふ「お話」のあり方が、創作物の「あり方」として「あり」なのか何うかは、檢討の餘地がある。この種のノスタルジーに依存した「良いお話」――鑑賞者の望む「あり得べき世界」を表現した「お話」――と、伏線を張つたり巧い科白を人物に吐かせたりする事で成立する御話――制作者が巧みに作り上げた藝術作品――とは、根本的に對立する。
平成十八年六月二十日
tvkでは埋沒ぎみの吉永さん家のガーゴイルだが、地味にクライマックスへと進行中。
平成十八年六月二十日
ストパニ。「深夜の番組」なので觀ようと思ふ人は「さう云ふもの」だと承知しておく事。と言ふか、いいのかこんなんで>MW。全然中高生向けでない。畜生眠れない。
平成十八年六月二十日
各地で既報。Opera 9.0正式版が出た。
操作方法が大幅に變はつたりしてゐて、既存ユーザにとつては非常に使ひ辛くなつた。ベータ以來、さとみかんをまともに表示出來なかつたりするのも改善されてゐない。糞ヴァージョンつぽいので8.54に上書きしないで樣子見。と言ふか、多分9には乘換へないで8.54使ひ續けると思ふ。
Opera 9.x(Win32版)
平成十八年六月二十日
Mac OS X、Safariが結構良い感じだけれども、Opera 8.54が標準でヒラギノを使つて呉れてゐてやけに「美しい」表示をして呉れる。
平成十八年六月二十日
新宿展。今日買つたもの。清水幾太郎『青年の世界』。壽岳文章『平日抄』。アウレリウス・木村毅譯『瞑想録』。アーノルド・トインビー『失われた自由の国 現代アメリカ論』。トインビー『試錬に立つ文明』。ヤスペルス『戰爭の責罪』。三浦つとむ『現実・弁証法・言語』。等。タイトルを假名漢字變換すると判るダブりの數々。
新宿驛西口では神奈川縣方面の古書店による古書展をやつてゐるさうだけれども行つてゐない。

平成十八年六月十九日
Web 2.0とか言つてゐるけれども、結局のところ「それ」は「仕組」でしかないのであり、「仕組」を使ふ「人間」は今の處ヴァージョンアップしてゐる氣配は無い。
平成十八年六月十九日
うたわれるもの。tvkでは久々且二話連續。今一つなアレな處もところどころにあるけれども、無茶苦茶頑張つてゐるのは評價したい。と言ふか可なり面白い。
平成十八年六月十九日
朝刊がワールドカップの記事だらけ。
何うして新聞記者はスポーツの記事となると平氣で煽情的なものを書くのだらう。見出しを見ると、「日本が勝てなくて悔しい」と云ふ記者の感情がありありと判つてしまふ――と言ひたいが、其處で表現された「記者の感情」は讀者に阿つたものであり、と言ふより、記者は讀者の「持つべき感情」を率先して「持つて見せてゐる」。「大體世間ではかう云ふ感情を持つてゐるのが普通なんだよ、ほら、御前も同じやうに感じろよ」と、さう新聞記者は讀者に暗示してゐる。「輿論の形成」を記者は狙つてやつてゐる。だが、それは許される事なのか。ワールドカップでかつかと來てゐる人は「さうだ、新聞記者は正しい、なぜなら俺が他人に押附けたいと思つてゐる感情を俺に代つて押附けて呉れてゐるからだ」と言ふだらう。けれども、新聞は冷静かつ客觀的で公正な記事を提供する任務があつた筈である。日本が勝つても勝たなくても、新聞は全面的に冷靜な報道をすべきであり、感情的な發言は愼む必要がある。
戰爭中、「大本營發表」ではあつても、兔に角熱狂的に報道を行つた新聞の體質は、案外今でも變つてゐないのではないか、と、スポーツ關係の話題で一々浮れる新聞記者の姿を見て思ふ。――と言ふか、斷言する、新聞の體質は今も昔も全く變つてゐない。大東亞戰爭中、新聞は軍部の命令に嬉々として從つたに違ひない。
平成十八年六月十九日
Mac OS XはMac OS 9に比べてとても良いと云ふ事が解つた。10.3だけれども。
平成十八年六月十九日
GT-X900、高さとか幅とかが4000pxを超えるやうな形で畫像をスキャンすると、データが壞れる。みたいだ。何なのだらう。
カラリオ|スキャナ|GT-X900|トップ|エプソン
なんでドライヴァのダウンロードの「ぺーじ」にダイレクトにリンクを張つて呉れてゐないんだ?
エプソン | ダウンロード
一々「ダウンロードの綜合ぺーじ」から機種名でダウンロードすべきファイルを探さなければならない。
ドライバダウンロード
ちやんとGT-X900のドライヴァの「專用ぺーじ」が「ある」。ならば、GT-X900の「ぺーじ」から、判り易い形で「專用ぺーじ」にリンクを張る事は可能だ。
平成十八年六月十九日
Regret Style GT-X900の話
GT-X900、ポジとかネガとかをスキャンする時、コマ毎にサムネイルプレビュー作つて呉れるモードがあるのだけれども、デフォルトで範圍が小さく設定されてゐる。コマの天地や左右が切れてゐて使ひ物にならない、と御嘆きの方は、環境設定でサムネイルの取込領域を最大にして下さい。
カラリオ|スキャナ|GT-X900|フィルムスキャン|エプソン
と言ふか、デフォルトで最大にしておけよ、と思つた。エプソンのスキャナドライバ、最近のものは使ひ勝手が惡くなつてゐるやうな氣がする。
平成十八年六月十九日
オンナのクラカメ道: 「GT-X900」とCD-R取込みサービスの比較
9936×9936ピクセルでの取込みが出來てゐる例。Windowsだと大丈夫なのかな。
平成十八年六月十九日
ただの埃除去をやらせるとGT-X900のドライヴァ、なかなか非道い感じにディテールを破壞して呉れる。フィルムをスキャンする時には「DIGITAL ICE」を使つた方が良い。時間がかかるけれども、細かい部分をぼかすとかして胡麻かすのではなく、執拗にスキャンをかけたりいろいろ考へたりしてごみとか傷とかの部分だけを取つて周りとうまく馴染ませて呉れる。取り切れない汚れは矢鱈目立つ形で殘して呉れるので手作業で直す時に發見し易い。紙燒きとかの反射原稿も「DIGITAL ICE」の修復機能を使へる筈なのだけれども、實際にやらせると、細かい模樣を傷だか何だかと誤認識して潰して呉れたので二度と使はない。
平成十八年六月十九日
東京古書會館の古書展。新宿展。買つたもの。竹友藻風『書物と人』。福原麟太郎『トマス・グレイ研究抄』。B・ウィレー著・深瀬基寛譯『十七世紀の思想的風土』。J・M・マリ著・深瀬基寛譯『來るべき自由社會 第一部』。中村雄二郎『かたちのオディッセイ』『考える愉しみ』。会田雄次『ヨーロッパ・ヒューマニズムの限界』『ルネサンス』。龜井勝一郎『現代史の中のひとり』。ホイジンハ『わが歴史への道』(筑摩叢書160)。大類伸『城郭之研究』。
平成十八年六月十九日

最初からロシアの精神への深い理解から出發してゐるマリは、目下の緊急問題――ロシアの共産社會と西歐の自由社會とのあひだの原理的な問題の探究者として最適任の批評家といふことができるであらう。初期の文藝批評のことはここに觸れる直接の意味はない(拙著『現代英文學の課題』――昭和十四年・弘文堂教養文庫――參照)『コンミュニズムの必要』(一九三二年)と『平和主義の必要』(一九三二年)の二つのマリの著作を讀んだことのある人は、マリが一九四八年現在の本書中、二つの章、「平和主義の危機」と「共産主義の道徳的ニヒリズム」において述べてゐる論旨のなかに、彼がどれだけ現實の世界情勢に即しつつ進歩したかを見るべきであつて、單なる觀念的矛盾を指摘すべき筋あひでは決しない。このやうな現實的進歩こそ、エドマンド・バーク以來のイギリス的批判の傳統なのである。

平成十八年六月十九日
福原麟太郎『中流人の幸福』(角川新書100)を讀んだのだが、その終りの邊、「好き日々のこと」なる章に收められてゐる短文「友」で、竹友藻風の事に觸れられてゐる。

兵庫、西宮の奥、仁川の里に、明を失っている竹友藻風は、大震災のころから同僚であった。平田禿木先生が、ふたりは仲が良いんだのにケンカして困ると、生前なげかれたそうだ。いまはケンカなどちっともしませんから御安心下さい。

(これを『毎日新聞』に書いたら、読んだかたが、藻風の住所を私に聞いてこられた。そんなことから、藻風夫人がこの小文を発見して、藻風に読んできかせられたら、彼はただ微笑していたそうである。その秋、彼は天国の人となった。)


平成十八年六月十八日
GyaoはWindows版Internet Explorerでしか見られないが、そのIEで必ず「ぺーじ」にエラーがあると言はれるのは何なのだらう。Gyaoの制作者は「IEで確認」をしてゐないのだらうか?
ウィッチブレイドDVD版第一話第二話がGyaoで公開中。
平成十八年六月十八日
林健太郎『歴史の精神』(実業之日本社)は、著者の講演を纏めたもので、一般向けだが、内容は決して低レヴェルでない。特に良いのは第四部に收められてゐる「歴史の理論と方法」で、信濃史学会での講演と云ふ特殊なものだが、内容は地域史・地方史の域を超えて、歴史學そのもののあり方について論じられたもので、「專門的」だが、汎く讀まれて良いものだ。

昔、ヘーゲルは、「自由とは認識された必然である」ということをいい、これはまた、マルクス主義者が好んで使う言葉でありますが、この必然ということを、歴史全体を通ずる法則のようなものとして考えると、そのような法則は存在しないのですから、それはかえって人間の自由を圧殺するか、あるいは間違った行動に人を駆り立てることになります。しかし、歴史の法則というものを正しい学問的な意味でとらえ、つまり、もろもろの限定された因果性を無限に探究するという態度をもって歴史に対するならば、それは行動の主体としての人間というものの意義を何ら減殺するものでなく、かえってこれを正しく評価することになります。……。

この講演では、何册かの基本的な「讀むべき本」が擧げられてゐて、參考になる。

平成十八年六月十七日

……。マルクス主義の必然論そのものには、後年の社会民主主義になるものがたしかに含まれているのですが、同時にマルクス自身には革命を近い将来に期待し、それにすべての救済をかける性質があった。その点彼の思想にはキリスト教の終末論(エスカトロジー)、一千年王国(ミレニウム)のようなものが含まれているということは、今日のマルクス主義研究家によって指摘されております。そして現代においてもなおマルクス主義が勢力を持っているのは、むしろこの救済説のほうが一種の宗教として信仰されることによるところが多いからだと思われます。

平成十八年六月十七日
西の善き魔女。原作の長い長い御話をガチで十三話に收めようと云ふ積りらしい。無茶な展開になつてゐるものの、最う全部勢ひでやつつけてしまつてゐる。きちんと擴げた風呂敷を疊めたら傑作になる可能性がある。
しかしなんかあちこちいろいろとをかしい。小ネタの多さは異常だが一々狂つてゐる。とは言へ、何か變な雰圍氣であつても、作中一貫してゐるのは非常によろしい事だ。變で面白い話が多い今期の中でも、西魔女は隨一の怪作になつてゐる。氣がする。個人的にかう云ふ變な話は大好き。

平成十八年六月十六日
Excite エキサイト : サーチストリーム

平成十八年六月十五日
整腸亭日乗 - 同時代から距離を置くべきこと
平成十八年六月十五日
[を] 「次」と「前」の意味と並び順
d.y.d.
平成十八年六月十五日
橋本の町 なつかし写真展

平成十八年六月十四日
天皇を崇拜したい人は崇拜したい人の間でだけ崇拜してゐればいいんだとか主張してゐる反「天皇制」論者の方々に御願ひしたいのだが、ワールドカップは觀たい人だけが觀れば良いからテレビ東京は普通に深夜あにめを放映するやうにとTV局に壓力をかけていただけないものだらうか。今夜のエア・ギアとラブゲッChuは放映中止。どつちも或意味何うでも良い駄ニメだが。
平成十八年六月十四日
喧伝 - マルチメディア/インターネット事典
平成十八年六月十四日
福田氏の國語問題に關する態度の變遷。以下、發言・記事・刊本、その他について。取敢ずざつと纏めるから、關係者の人はいろいろな方法で補足よろしく。
昭和十六年、文部省外郭團體の日本語教育振興會に入り、十九年まで在職。外地の日本語教師の爲の雜誌「日本語」の編緝に携はる。
昭和十七年、「日本語普及の問題――政治と文化の立場」(「新潮」)。「漢字恐怖症を排す」(「新文學」)。
昭和二十一年十一月、「國語問題と國民の熱意」(東京新聞、八日、九日、十日)
昭和二十四年、伊藤整編『文章讀本』所收の「芥川龍之介の文章」は正かなづかひ、「大岡昇平の文章」は「現代かなづかい」。
昭和二十五年、高田保と對談(『二つの椅子』)。闇黒日記 平成十六年六月十八日。
某「会長」が指摘する『あっぱれクライトン』刊行は昭和二十八年。同年、新聞小説『謎の女』發表、翌年、新潮社から刊行、新假名。
昭和三十年。龜井勝一郎編『若い人々のための文學論』掲載の文章は新假名。同年、講談社「若い女性」九月號より「幸福への手帖」連載、昭和三十一年、新潮社より出版、新假名。『私の幸福論』
昭和三十年、「知性」十月號に「國語改良論に再考をうながす」(のち改題「『國語改良論』に再考をうながす」)を發表、翌年まで金田一京助と論爭。
昭和三十三年、十月から「聲」に『私の國語教室』連載。昭和三十五年、新潮社より出版。昭和三十六年、新潮文庫に收録。福田恆存著『私の國語教室』紹介
昭和三十三年、二月、「敬語について」。四月、「國語國字の問題點」(讀賣新聞、十四日)。五月、「表音文字と表音化」(讀賣新聞、八日)。九月、「國語よ、どこへ行く」(「週刊讀書人」、十五日)。十二月、「新『送りがな』への疑問」(東京新聞)→「國語審議會の廢止を求む」に改題。
昭和三十四年十一月四日、國語問題協議會設立。
昭和三十五年、三月「漢字は必要である」(朝日新聞、二十八日)。八月、「正しい國語について」(「經濟人」)→「國語の正しさについて」に改題。十二月、「國語表記法の原則」(「國語國字」)。
昭和三十六年四月、NHK「あなたは陪審員」に出演。「陪審員に訴ふ」より
昭和三十六年、四月、「審議會の愚民政策」(讀賣新聞、九日)→「國語審議會の愚民政策」に改題。五月、「表音主義の誤り――漢字とカナ」(朝日新聞、一日)。十月、「新國語審議會採點」(毎日新聞、十八日〜二十日)。十二月〜翌一月「國語問題早解り――連載時評」(上下)(「紳士讀本」)。
昭和三十七年、『國語問題論爭史』出版。一月、「言葉の陰翳」(「電信電話」)→「言葉は道具である」→「言葉は教師である」。
昭和三十八年、「きのうきょう」(朝日新聞、七月五日〜十二月二十五日)、新字新かな。自分は「現代仮名遣」を用ゐない、歴史的假名遣を用ゐるが、新聞に載る文章では「現代仮名遣」に改められる事を容認する、と言ふのは、假名遣自體としては歴史的假名遣の方が正しいが、論理的には筋が通らないにせよ「現代仮名遣」で育つた讀者が大多數である新聞に於いては「現代仮名遣」の方が「正義」である、と云ふ「釋明」。渡部晋太郎『国語国字の根本問題』。單行本化の際、「きのふけふ」に改題、正字正かなに。
昭和五十年、『増補版 私の國語教室』(中公文庫)。正字正かな。宇野精一氏、土屋道雄氏と共同編緝で八月より『崩れゆく日本語』、昭和五十一年四月、『死にかけた日本語』を新書判で出版(英潮社)。新字新かな。
昭和五十二年、「思ひつくままに」(「昴」第五號、二月)→「敬語について」。四月、「國語政策に關し總理に訴ふ」(「諸君!」)。十二月、「混亂の極みにある國語」(「國語國字」第九十九號)。
昭和五十三年、土屋氏と共同編緝で『なぜ日本語を破壞するのか』出版。正字正かな。
昭和五十四年十一月、玉川大学出版部より『せりふと動き』を出版。新字正かな。「あとがき」の末尾に「お断り」を載せ、私の文章は今の若い人になじみの無い正かなづかひで書かれてゐる。なぜ私が現代かなづかひを用ひないか、それは最後の「せりふの美学・力学」(二)に説いた事とも関聯があるが、詳しくは『私の国語教室』(新潮文庫)を是非読んで戴きたい。と書いてゐる。
昭和五十五年九月、玉川大学出版部より『教育とは何か』を出版。新字正かな。「あとがき」で、なほ、本書の仮名遣ひは、歴史的仮名遣ひ、即ち正統仮名遣ひによつた。それは伝統を重んずる保守的立場によるものであり、しかも語義、語法の点で合理的であるからでもある。と述べてゐる。十一月、PHP研究所より『文化なき文化國家』を出版。「あとがき」で、本書の假名遣ひが正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)によつてゐる事について、讀者の中には反撥を懐く人もあらうかと思ふので、一言、辯じておく。と述べ、簡單に國字問題の出現した理由や「改革」の問題點を説明してゐる。
昭和六十二年より福田全集刊行。第四卷卷末の覺書で築島裕『歴史的仮名遣い』(中公新書)を批判。
平成六年十一月二十日、死去。

平成十八年六月十三日
吉永さんちのガーゴイルが珍しくハートフルなコメディだつた。
平成十八年六月十三日
あにめ版ストパニ、相當豫算少なさうなんだが、關係者の誰もこんなあにめになるとは豫想してゐなかつたんでないかと言ふか無茶苦茶な作品になりつゝある。三文字作畫なのが本當に惜しまれる面白いあにめで、落し所を間違へなければ大成功作になる可能性がある。玉青役に清水愛を起用したのは大正解と言ふかEdの邊、制作者完全にわかつてやつてゐる事だらう。と言ふかストパニ、マルチメディア展開の中であにめだけが突出してゐる。あにめをベースに企劃自體を再構築すべきだ。

平成十八年六月十二日
今夜のARIA The NATURALは、全佛オープン+野球中繼延長で28:00〜。スクランは28:30〜。馬鹿か。
平成十八年六月十二日
時間變更もナシに淡々と深夜あにめを放映する東京MXはえらい。西魔女とか二週遲れだつたりするのはアレだが。なぜか吉宗がtvkより早い。うち邊では映りが一時期非道かつたけれども、J-COMに文句言つたら何時の間にか直つたらしい。
BLACK LAGOON、今週も面白かつた。
平成十八年六月十二日
IE7のバグ。貼られてゐる畫像がデッドリンクになつてゐるとその「ぺーじ」を*.mhtで保存出來ない。
平成十八年六月十二日
俺が田村書店の無料箱を漁つてゐると、急に人が集まり始めるのは何故。
法學方面の本を大量に放出した人がゐたらしく、その手の本がいつぱい。持參のビニール袋一袋分くらゐ拾つたけれども、家には佐々木惣一『立憲非立憲』(朝日文庫18)とか美濃部達吉『選擧法詳説』(書肆有斐閣)とか民主社会主義研究会議『日本における民主社会主義の課題』とかを取敢ず持つて歸つて來た。
平成十八年六月十二日
法治主義と云ふもの、ルールを決めて、それに則つてやりませうと云ふ事なのだと俺は理解してゐたのだけれども、自分達のやりたい事をするのに勿體を附ける爲、法律に故事つけるのが日本の「法治主義」らしいのだ。ルールとしての法律が「ある」としたら、それは既にきちんと確立されたルールであるべきだけれども、それを「解釋」に據つて自分の好きな方向にねぢ曲げるのがウェブの「法律談義」であり世間の「法律議論」である、と云ふのが屡々であるのは何なのだらう。
――と云ふやうな事を佐々木博士の文章を讀みながら(必ずしも本の内容とは直截の關係ナシに)考へた。明治憲法を作つて立憲政治が始まつた、ところが諸外國でも、或は國内でも、この立憲政治に悲觀的な見方が少くなかつた、と、さう云ふ事が大正七年に刊行された本で既に報告されてゐた。讀みかけ。
平成十八年六月十二日
例の繪の盜用をやつた和田氏を全面的に支持しさうな人物を俺は知つてゐる。俺の文章を良く盜用する「義」である。

平成十八年六月十一日
さとみかんがOpera 9のベータ(Build 8473)で無茶苦茶重いよ。何とかして下さい。
徳保氏のところもなんか普通にスタイルを適用させて呉れるし。重い。
Opera 9のAdd bookmark、キーボード操作で開く時、Ctrl+dなのは諦めるから、デフォルトでDetailsを開くやうに出來ませんかね。
平成十八年六月十一日
日本の傳統(伝統)を守らう!:民主主義
英雄の更迭
民主主義は、萬能でないけれども、軍國主義とか獨裁とかも萬能ではない訣で、そこは御兩人とも御承知かとは思ふけれども。
「人間は間違ひを冒す事があり得る」と云ふのが大前提で、それで民主主義は指導者に任期を設けてある。獨裁なんかの場合、「良い政治」をやつて呉れてゐれば「良い」と云ふ訣だけれども、「惡い政治」をやられた場合、それを止める手段が無い。民主主義は、「良い政治」をやつた指導者にも任期があるけれども、「惡い政治」をやつた指導者にも任期がある訣で、何年か毎に「政治の見直し」が出來る。その「見直し」をやる國民も人だから間違ひをやらかす可能性は「ある」けれども、そもそも國民が間違をやらかせる可能性すらも奪つてゐるのが獨裁。可能性のレヴェルで民主主義は「保險」をかけてゐるので、實際には巧く機能しない事もあるけれども、さう云ふ現實を楯にとつて「民主主義は糞」とか簡單に言へないやうになつてゐる。
平成十八年六月十一日
武蔵流プログラマへの道 - 延暦寺のSEOテクニック
Opera 9ベータで「武蔵流プログラマへの道」のレンダリングがをかしい。http://project-p.jp/halt/anubis/blog_show/nullにリンクが張られてゐるnullなる文字列のアンカーが繰返し出現。
ソースを見てみようとしたが、HTMLのソースを見るのに秀丸とかの外部プログラムを指定してもOpera 9が認識しないバグに遭遇。仕方がないのでOperaの裝備するHTMLヴューアで見るのだけれども、マウスのセンターホイール押下に據るスクロールが效かないバグに遭遇。
取敢ず氣附いたのだが、武蔵流プログラマ氏、blockquoteの直下に生のテキストを書いてゐる。が、nullの繰返しが出現する理由は解らない。Opera 9ベータのバグ?
平成十八年六月十一日
たかが畫像の保存で一々Transferのウィンドウに記録して呉れるなよOpera 9 ベータ。

平成十八年六月十日
久々にブラウザがベータだらけになりつゝある。

平成十八年六月八日
まさか吉宗のあにめが面白くなるとは、今期、始まる前には全然豫想もしてゐなかつたよ。前囘がガチのホラーで今囘は古本漫畫の御話。

平成十八年六月七日
無爲徒食日記 二千六年六月上旬の「六日」邊の記事。

算用数字が読み難いと言えば、それを更に分り辛くさせようとする人がいる。三桁毎にコンマを打つ人だ。先程の1698000000円に三桁毎にコンマを打つと、1,698,000,000円となる。が、これでは分り辛い。三桁毎にコンマを打つのは、算用数字が生出されたインドや、それを広めたアラビアでは、三桁毎に単位が変るからだ。

thousand、million、billion、trillionで區切る、と云ふ説明。英語。
「日本人なら4桁毎にカンマを入れよう」と云ふのは本多勝一氏の主張。
平成十八年六月七日
Names for Large Numbers
平成十八年六月七日
さう言へばめりけんとジョンブルとではmillionより上の數字の勘定の仕方、違ふんだよな。昨今は英國の由緒ある言ひ方が廢れつつあるやうで嘆かはしい限り。milliardなんて良い言ひ方だと思ふがなー。日頃そのくらゐの單位で金勘定なんてしないから良く知らんが。
平成十八年六月七日
もじのなまえ - 国語分科会漢字小委員会の動き
平成十八年六月七日
田村書店の例の無料箱で鴎外全集を大量に拾つたので順次囘收中。今日は歴史小説の卷。最う何度も讀んだ話ばつかりなのだけれども、鴎外の歴史小説は何度讀んでも良いものだと思ふ。安井夫人、ぢいさんばあさんは鴎外の最良の小説。高瀬舟は今でも十分問題作だと言へる。最後の一句は或意味日本版アンティゴネと呼んで良いもので、キャラクタに共通するものがあるけれども、同時に決定的に異つてゐる部分があつて、彼の道徳觀と我等の道徳觀とを比較して見ると面白い。「お上の事には間違はございますまいから」なる科白、日本人的な餘りに日本人的な發想に據るもので、彼の地のソフォクレスには絶對に書き得なかつたものだ。鴎外が日本人の發想の肝たるものを見逃してゐなかつた事を示す科白と言つて良い(ただ、この言葉を發する時、少女が若干の思案を經てゐる事は、近代人である鴎外の創作であるやうにも思はれる)。

平成十八年六月六日
詭弁の特徴のガイドライン
議論のしかた
山本弘のSF秘密基地
詭弁論理学
詭弁学概論?
ロジカルスキル研究所
Debate Open Space
[詭弁]言葉のトリック!-Young risk taker.
平成十八年六月六日
福田恆存データ集

平成十八年六月五日
テレビ東京シムーン三十分遲れ。

平成十八年六月四日
BLACK LAGOON無茶苦茶面白い。こんなに面白くなるとは豫想してゐなかつた。

平成十八年六月三日
同じインタフェイスを、「ブログ」制作者・一般の閲覽者・他の「ブログ」の所有者、の三者が共有する、と云ふのは、「ブログ」の問題點ではないか。それぞれの爲の機能が理想的に配置されてゐると云ふのなら問題はないけれども、「ブログ」の現状を見る限り、狹い畫面に多くの部品が詰込まれて、ごちやごちやになつてゐる事が多いやうに感じられる。
要は、「ブログ」のインタフェイスつてわかりにくいね、つて事。
平成十八年六月三日
bugzillaのウェブサイトも(惡い意味で)訣のわからないインタフェイスだと思ふ。
Bugzilla-jp
平成十八年六月三日
Mac OS 9つて、テキストの取扱ひが苦手のやうな氣がする。なんかすぐアプリケーション上で文字化けするし。
平成十八年六月三日
例のGT-X900の件。CarbonLibをアップデートしたら落著いて呉れたやうな氣がする。3000x4000で畫像を取込むとデータが化けるとか依然、變な問題が出るけれども。
平成十八年六月三日
カナかな団首領の日記 - ブログ
實際、波江とか何とか会の会長とかが、「ブログ」も掲示板も區別ナシに、宣傳の書込みをし捲つてゐますよね。
平成十八年六月三日
風人物語
BS2で十七日から放送。
平成十八年六月三日

誰でも自己のうちにある自愛を憎み、また自己を驅つて神たらしめようとする本能を憎まぬ人は、全く盲目である。なぜなら、それほど正義と眞理とに反することはないからだ。

平成十八年六月三日
單純に人の「言行の不一致」を指摘するのはナンセンスである。何んな場合でも、理想と現實とは一致せず、「言行の不一致」なる指摘から逃れ得る人間は一人も存在しない。善き人であつても、出來得る限り言葉と行動とを一致させようと努力するのみである。
人は、一見言葉と矛盾するやうな行動をとる場合、それを正當化する理由附けを行ふ。それが如何に成功してゐるかが、その人の誠實さの證明となる。
「言行一致」への努力が缺如してゐる事、或は、理想を現實に妥協させる理由附けが不十分である事、それらを指摘する事は、時として可能である。それが批評の可能な唯一の形態である。この時、努力不足にしても、理由附けの論理にしても、辯明が可能である。この「辯明が可能である」事、即ち、批判された人に論理上の反論の餘地がある事が、批判の正當性・妥當性を保證する。
他人を責める人には、單純な「言行不一致の指摘」の域を出ようとしない人が極めて多い。彼は、氣に入らない人物の避けられない「言行不一致」を、大袈裟な身振りで「許し難い物」に見せかける。彼は、氣に入らない當の人物のみならず、その人物を擁護する人物・自らに敵對する人物を、ひとまとめに「言行不一致」の枠の中に押込み、「惡人」として裁斷する。かうしたやり方は、被攻撃者に據る反論を攻撃者が根本的に否定するものである。これは批判としての妥當性を缺くものと言へる。が、「反論されさへしなければ、それは決定的な批判である(のだから良い批判である・有效な批判である)」と勘違ひした人は、案外多い。

平成十八年六月二日
東京古書會館の古書展。買つたもの。『神保光太郎全詩集』。小野祖教『神社神道學入門』。福原麟太郎『英國的思考』。『フルシチョフ首相アジア訪問演説集』。ヴァグナー『ベートホヴェン』(養徳叢書1004)。中野好夫『ロレンス研究』。市川三喜『古代中世英語初歩』。「國學院雜誌」昭和五十七年十一月。季刊「作品」創刊號。『神社本廳教學研究所紀要』第二號。
「作品」は小林秀雄と坂口安吾の對談を掲載。『教學研究所紀要』は第十四回神社本庁教学研究大会報告を掲載、澁川謙一氏が語る戰後の神社神道成立の經緯が興味深い。市川氏、實用主義の立場から日本人は現代英語のみを學んでゐれば良い、ただ、研究の爲には古代・中世の英語を知つておくのが必要であるに過ぎない、と云ふ立場だが、さう云ふ實用主義から日本語に於ても國字改革の必要を認めてゐた氣配がある。フルシチョフの演説、ソ聯には政黨が共産黨の一つしかなく、據つて民主主義が無いと屡々非難されるが、國民は思想的に一枚岩であるのであり勤勞者のみによつて社會が構成されるのだから、その擁護者たる共産黨が唯一の政黨として存在するのは問題ないのである、とか言つてゐる。
平成十八年六月二日
ヴァグナー『ベートホヴェン』がダブりである事を養徳叢書コレクションで確認。

平成十八年六月一日
教養文庫のオルダス・ハックスリを讀んでゐるのだけれども結構面白い。
A・ハックスレイ<ハックスレイ・エッセイ集(1)>『文学と芸術』現代教養文庫341
「文学における卑俗性」は、高く評價されてゐる詩人や、偉い作家であつても、逃れる事の出來なかつた卑俗な書き方が「ある」と云ふ事を指摘した文章。現代に於ても、卑俗な書き方を「する」人が多いが、出来れば避ける方がよろしい。卑俗を避けるのも才能だから、わからない人にはとことんわからない訣だが、とは言へ、小説でも詩でも、或は音樂でも、兔に角藝術を「やる」人はこの文章、讀んでおいて損はない。
「猫の説教」なんてものも收められてゐるけれども、これも物を書かうと云ふ人向け。
ちなみに、殘念ながら本書は絶版。
平成十八年六月一日
先日重版がかかつた鈴木信太郎譯『マラルメ詩集』(岩波文庫)を買つて來たのだけれども、マラルメもかなり卑俗なところが「ある」詩人である事はいろいろな人によつて既に指摘されてゐる。
平成十八年六月一日
吉宗の御人形さんの御話がひぐらしのなく頃によりも怖い件に就いて。

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