そもそも何故CDの中のファイルは個別に削除出来ないのだろう。
ちなみに「下」の「管理者メニュー」ボタンを押すと投稿した記事の訂正が出來ますので。と書いておいたのに、何度も何度も「訂正」の投稿を繰返す人が。
Web2.0という言葉をよく耳にするが、ラクダ本の会社が定義しているらしいとコラムWebサイトの進化と制作現場の運営の第三囘で皮肉つてゐる。
爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭儉己れを持し云々。そんなものを唱へてゐれば人は即座に親孝行になり皆仲良しになつて「立派な人」に「なる」か――世の中そんな簡單には行かない。さう云ふ人が「あり得る」としたら、三島由紀夫の「憂國」のやうな(惡い意味での)フィクションの中だけだらう。が、そもそもそんな人が本當に「立派な人」であるのか。「さうだ」と言ふなら、我々は人殺しであるラスコーリニコフの登場する『罪と罰』や(畧)を讀むべきでない。文學なるものは全く以て「反道徳的」と云ふ事になる。が、グレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』における不良少年は、道徳的である。
「暗渠で日本に通じてゐる」やうなところがあつた。
長音記號<ー>は文字ではないので原則として使ひません。と書かれてゐて唖然とした。「ローマ字」を「ロオマ字」と書いたら何うなると言ふのだらう。「ローマ」は外國語の音を寫したもので、「ロ」も「マ」も發音を示してゐるものだし、「ー」も長音を長音として發音を示してゐるものだ。カタカナ語は、カタカナ語である限りにおいて、ただ日本語の音韻で以て外國語を書表しただけであり、そこに綴りは存在しない。敢て「ー」を排除し、茲では「オ」と書いたところで、表意的な書き方になる訣でも何でもない。ただ單に異樣な書き方になるに過ぎない。あと、本文の漢字の用ゐ方が變。何うして
今囘の基礎講習會は、次代をになふ小中學校の生徒から、戰前戰中に教育をうけながら「正かなづかひ」を忘れかけ、この機會に再修したいと思つてをられる七十八十代の方、また戰後の國語教育に疑問や批判をもつてをられる方を對象にします。なんて、用言で規則性ナシに時々漢字を使はない書き方をするのだらう。
ひろく、
ください、
ルビをふります、もさうだが、用言は漢字で書くべきだ。
可能なかぎり、
できる、も漢字で書くべきだと思ふ。用言ではないが、
うへ、
こと、
ためも漢字で書くものだ。「御子樣、御孫樣づれ」も何うかと思つた。せつかく接頭辭の「御」を漢字にしてゐるのに臺無し。
それから、見出し語に「赤新聞」といふのが出てゐるのは、戦時中だからかな。説明には「俗悪新聞」と。
Q2111 履歴書などで「現在にいたる」と書くとき、この「いたる」は「到る」と「至る」のどちらで書くのがよいでしょうか?
結局のところ、現代日本語での「至」と「到」の違いは、よくわかりません。ただし、『常用漢字表』で「いたる」という訓読みが認められているのは、実は「至」だけなのです。したがって、はなはだ無粋な理由からではありますが、履歴書の場合は「現在に至る」と書いた方がよいでしょう。
なんたって履歴書は、人生を左右しかねないことがある大事な書類。意地悪なおじさんから、「キミは『常用漢字表』も知らないのかね」などと、つまらないケチをつけられたくはないですからね。
つまらないケチをつける方が惡いのに、どう云ふ訣か「ケチをつけられないやうに使はないやうにしよう」と云ふ結論になつてゐる。「義」みたいな口調の
おじさん、慥かに存在しさうだが、「義」が惡い事は火を見るよりも明かな事であり、「常用漢字」を楯にとつて嫌がらせをする「おじさん」が惡い事もまた火を見るよりも明かな事だ。
ON/OFFパワースイッチ搭載によりPCとHDDに負担なく安心使用等と謳つてゐるが、何う見ても負擔がかかる代物。と言ふか、オンなのかオフなのか、見ただけでは全然判らないし。ボタンを押す毎にオンオフがトグルするらしいのだが、オンならオン、オフならオフ、とボタンの位置が決つてゐるのではないので、デヴァイスが動いてゐるかゐないかで通電してゐるかゐないかを判斷しなければならない。HDDならまだしもDVDドライヴでは非常に判り辛い。良く判るHDDなんかだと、動いてゐるところで電源オフにするとヤバさう。と言ふか、ためしてみたら、PCで「取外し」を指示しても、電源オフにならないのな。ハードウェア的に電源オフにしなければならない。明かにHDDに負荷がかかる。駄目駄目。また、この變換ケーブル、PCに繋ぐと、初囘はデヴァイスが割と簡單に認識されるのだが、使つてゐる間に何かの拍子に認識されなくなる事がある。と言ふか、しよつちゆう認識されなくなる。さうなると、ケーブルの拔差し、パワースイッチのON/OFFの何をやつても最う認識されない。泣いて頼んでも脅しても賺しても認識されない。PC本體を再起動すると、認識される事もあるが、されない事もある、されない事の方が多い。DVDドライヴの場合、ディスクを入れて置くと認識され易い氣もするが、全然認識されない事もある。どのやうな理由で認識されたりされなかつたりするのか全く解らない。だから、問題の解決のしやうがない。或動作の理由が解らないものは例外ナシに惡いものに決つてゐるから、IDE-35USは疑ふ餘地もなく惡いデヴァイスである事が確定。本當に非道い代物だと言はざるを得ない。新宿のソフマップで九百八十圓で買つたものだが、御金を溝に捨てたやうなものだ。何うせ最初から期待しないで遊びの積りで買つたものだから金返せとは言はない。ただ、他人には御薦めしない。
じつは私が某ウェブサービスをやめたのは、要求を示さず嫌がらせの予告が行われたからでした。私はそのサービスにおいて本名も勤務先も自己紹介に記載していました。そこに目をつけた某氏は、私が数回「**という属性を明かせる方のみ、ご意見ください」と書いていたのをとらえて、私の勤務先に「御社では社員に個人情報を集めさせていますが、何に利用しているのですか?」といった質問をする、という。これには参った。
べつに悪いことはしていないのだけれど、申し開きができればいいという問題じゃない。趣味領域のトラブルを仕事場に持ち込むこと自体が問題なのは、気弱な会社員の人ならお分かりいただけると思う。
相手は私を侮蔑する言葉などを日記に書くのみ。要求が皆目わからないので、私は困りました。悩んだ挙句、「目障りだから消えろ」ということか? と思ってサービスを退会したら、「これで許してやる」みたいな日記を相手の方がお書きになったので、ホッとしました。触らぬ神に祟りなし。この日記の読者様におかれましては、「あーそういうことがあったのね」とだけ思ってください。こういうこともあるんだなあ、と私は実感したわけです。
ところが松原においてはこれがいつの間にか文学は政治より重要な問題だ、という意識に変質している。例えば、かつて講演で松原が「北朝鮮による拉致問題などどうでもいい」と放言したのを聞いたことがある。まあ、聴衆向けのリップサービスであろうし、大目にみたいところではあるがその神経を疑わざるをえない発言であった。
その神経を疑わざるをえない発言等とレッテル貼りをして何うしようと言ふのだらう。なぜ
その神経を疑わざるをえない発言であるのかをあまカラ氏は全く説明しない。當り前だ、あまカラ氏はただ單に松原氏が氣に食はないだけなのだから。論理的に説明しようとしても出來る訣がない、だからあまカラ氏は最初から説明する努力を抛棄してゐるのだ。ただ「氣に食はない」と感情論を書けば、感情的な賛同のコメントを書込んで呉れる人間が出て來るし、實際、安倍佑月氏なる人物のコメントはさうである。「義」もこの闇黒日記の記事を見て喜んで「すばらしい」とか適當な禮讚の文句を書込むだらう。或は松原氏や野嵜その他の人間の名前を騙つて荒しを仕掛け、
ネット上の松原ファンの印象を惡くするやう仕向けるだらう。閑話休題。
しかし私は「恥部」かどうかはともかくとして、松原氏が福田恆存が持っていた一部分を拡大して持っていることだけは事実だと思う。と言つたあまカラ氏自身が、惡い意味で「一部分の拡大」をやらかしてゐるのは皮肉な話だ。そして、この手の非難の仕方が「松原氏批判」では横行してゐる。
ただ、「諸君!」の論文は軒並みくだらない、といった発言(単に政治問題を政治問題として論じた文章のどこがくだらないのか)や、上記の発言を見れば、松原氏は政治そのものを侮蔑しているのだとしか思えない。