闇黒日記


平成十八年四月三十日
アニメのオフィシャルサイトはエピソード紹介コーナの各エピソードのタイトルを畫像にするな。DVD-Rに燒く爲に、オフィシャルサイトのデータからコピーアンドペーストしようと思つたら、テキストではなく畫像だつた等。TMPGEnc DVD Authorでメニューを作る時、手打ちしなければならなくなるので非常に困る。云々。
時々アニメのオフィシャルサイトでエピソードの題名を誤植してゐるのを見かける。誰か指摘してやつたら何うかと思ふのだが俺も一々報告なんてしないので他人樣の事は言へない。
平成十八年四月三十日
次のWindowsでWXGは使へるのでせうか。使へなくなるのでしたら何とか今の「資産」を引繼げるやうな何かを何とかしていただかなければ。
WXGで育つた俺の正字正かな辭書、使へないやうになつたらそれは或意味傳統の斷絶。
平成十八年四月三十日
世間一般では「何事にも疑問を持つのは良い事だ」と云ふ話だけれども。

そもそも何故CDの中のファイルは個別に削除出来ないのだろう。

やつぱりこの手の疑問でも持たないよりは持つた方が良いのかな。
平成十八年四月三十日
ウェブサイトの注意書だのプログラムのエラーメッセージだのを利用者は讀まないものだ。
ちなみに「下」の「管理者メニュー」ボタンを押すと投稿した記事の訂正が出來ますので。と書いておいたのに、何度も何度も「訂正」の投稿を繰返す人が。
あと、空氣讀めない人多過ぎ。

平成十八年四月二十八日
「愛國心」と言ふと戰時中の「忠君愛國」の教育を聯想する、と云ふ御老人が、その聯想以外の如何なる發想もする事が出來ないまゝ、政府の最近の「愛國心」教育を非難する、と云ふ構圖。
平成十八年四月二十八日
AcrobatとかFLASHとかShockwaveとかQuickTimeとか、ウェブブラウザの中で動く嫌なプラグインを作つて來たメーカつて、Mac用のプログラムを作つて來たところが多いやうな氣がする。
平成十八年四月二十八日
東京古書會館の古書展。書窓展。毎囘期待してゐるが今囘も古い本が多くとても良い雰圍氣の古書展だつた。ただ人が多いのはアレ。俺は最近古い雜誌を集めてゐるので古書會館の古書展はとても有難い。神保町は古本屋に意外と古雜誌がないので困つてゐるのだ。最早田村書店の無料箱にしか興味が無い。以下、購入したもの。「新潮」昭和二十五年六月號(小林秀雄「年齡」、きだみのる「モロッコ」掲載)。「臨時増刊 文藝 太宰治讀本」。「展望」昭和二十六年四月(二十六號)(ジイド特輯)。「季刊社会思想1-3 '71」(清水幾太郎・川上源太郎「対談 二十世紀研究所」掲載)。アラン『散文論』(作品社)。里見岸雄『憲法と神社』(錦正社)。「季刊邪馬台国」1993年秋号(虚妄の偽作物「東日流外三郡誌」。安本美典氏が古田武彦氏のいんちきを指摘してゐる)。その他。
あと、福田さんの本が散見せられた。評論集になるより前の著作集の評論篇を二册購入。

平成十八年四月二十七日
いぬかみと.hack觀ないでハルヒと吉宗を觀てゐる俺。東京MX。
平成十八年四月二十七日
「Web 2.0」の概念がもてはやされてゐるけれども、昔から人氣が出るウェブサイトの人氣が出る所以は變つてゐない。今、SEOとかSEMとか、或は「なんとかテクニック」の類、そんなものが獨り歩きして、世間に流布してしまつてゐる觀がある。やつぱり「基本」が忘れ去られてゐるからだらう。檢索エンジンに最適化だか何だかして、Googleの順位が技術的な理由で上る。それで閲覽者が見に來たとする――そこですつからかんの無内容のサイトが目に映つたとしたら。
「ウェブで人氣を得ようとするならば、ナンバーワンかオンリーワンにならうとしなければならない」とか云つた「Web 1.0」時代の「常識」、今でも通用すると思ふ。「フォロワー」では駄目なんだよ。眞似つ子ではなく、既存のものを乘越えようとするのが大事。新味がないのでは、そのサイトは「存在意義がない=別になくても困らん」と云ふ事になつてしまふ。
この邊、何とか業者ですら屡々勘違ひしてゐるのだが、勘違ひは勘違ひ、技術はあつても、内容のないサイトに存在意義はない。閲覽者は、技術を見に來るのではなく、内容を見に來るもの。

平成十八年四月二十六日
窓の杜 - 【NEWS】フリーの日本語OCRソフト「SmartOCR Lite Edition」の制作・配布が終了
今ならまだVectorでLite Edition 1.0.7を落せる。今後は何うなるか不明。
SmartOCR Lite Edition(WindowsNT/2000/XP/文書作成)
平成十八年四月二十六日
また「野嵜さんがをかしな事を言つてゐます」みたいな事を書かれさうだけれども。
「野嵜フォロワー」なんてゐるのか何うか知らんけれども、うちのPC Tipsを讀んで「正しいHTML」に目覺めて「よし、俺も正しいHTML入門を作ろう!」と思つた人は結構ゐる筈。で、さう云ふ人に申し上げたいのだけれども、それは「誤解」です。「正しいHTML入門」を作る――それを野嵜は推奬してゐる訣ではありません。
「PC Tips」は飽くまで「言葉 言葉 言葉」なるサイトの一コーナに過ぎません。「ウェブで言ひたい事」「ウェブで表現したい事」があつて、それを實現する手段として「正しいHTML」が「ある」と――と言ふより、もともと「言葉 言葉 言葉」なるサイトの知名度を上げる手段として野嵜は「PC Tips」を作つた。この事を御理解いただければと存じます。
うちを參考にして呉れるのならば、「手段としてのHTML」或は「戰術としてのサイト作り」についての野嵜のやり方を參考にして呉れた方が良いのであつて、「正しいHTMLの啓蒙」がサイト制作の動機になつたり目的になつたりして貰つては困る。
平成十八年四月二十六日
今日の買物。雜誌「Web STRATEGY Vol.3」(發行・MdN。發賣・インプレス)。
MdNの[本]
流行りの「Web 2.0」の事は、卷末に幾つかある連載コラムの中の一つで輕く言及されてゐるに過ぎない。けれども、實際の「e-コマース」においては「Web 2.0」なんて概念など(極端な言ひ方をすれば)「何の役にも立たない」のであつて、具體的に「ウェブを使つて何をやりたいのか」から始まる「サイトの戰略」を考へる方がずつと有益だ。やりたい事があつて、それを實現する爲に「Web 2.0」の方法論が參考にされる――「Web 2.0」を實現する爲にサイトをそれつぽく作る、とか、そんなのは本末轉倒だと思ふ。「Web 2.0」をめぐつて「哲學もどき」の觀念遊戲を樂しむ、なんて、そんな事が個人サイトで横行してしまつてゐるのが現状だけれども、何うかしてゐる。たなけん氏ではないが、「Web 2.0」が新興宗教みたいになつてしまつてゐる。「Web 2.0」なる觀念を弄り囘して見せるよりは、それを生かして具體的に「良いサイト」を作つて見せる方が良くはないか。
猪野潤氏が同誌連載コラムWeb2.0という言葉をよく耳にするが、ラクダ本の会社が定義しているらしいとコラムWebサイトの進化と制作現場の運営の第三囘で皮肉つてゐる。
平成十八年四月二十六日
荻野貞樹『ほんとうの敬語』超オススメ
平成十八年四月二十六日
卓球延長の所爲でテレビ東京いぬかみっと.hackが三十分遲れに。オリンピックと言ひ卓球と言ひ、スポーツは本當に迷惑だ。無論プロ野球も。プロ野球ファンのアニヲタと言ふものは論理的に矛盾。

平成十八年四月二十五日
小説の運命が批評の運命と一致するのならば批評の消滅した今の小説は死んでゐる。
ウェブを見る限り現在成立してゐる批評と言へばアニメ批評とライトノヴェル批評。
平成十八年四月二十五日
「(笑)」とか「謎」とかフォント弄りとか「ここはネタですよ皆さん笑つて下さいね」「ここは突込みどころですよ」と「明示」して見せるのは結局のところネタをネタと氣附かない讀者がウェブには澤山ゐるので豫防線を張つてゐると云ふ事なのだらうと最近解りつゝあるのだがだからと言つて安全策をとるほど俺は利巧でないので云々。
平成十八年四月二十五日
ハルヒが解り易い話だつたらちつとも面白くなかつただらう。小説は作者が讀み手を煽りに煽つて讀者の間で贊否兩論となるやう仕向けた作品。その意圖通り、世間では話題になつた訣で、當然のやうに映像化。
で、あにめでもまた原作に忠實に無茶をやつて、結果として視聽者の好き嫌ひが激しい作品になりつゝある。ハルヒ孃が鬱陶しいあにめだが、それが作者の狙ひなのだから仕方がない。
ええと涼宮さんちのハルヒの話です。
平成十八年四月二十五日
吉永さんちのガーゴイル。DearSのスタッフ(監督・脚本)なので樂しみにしてゐたあにめ。最初は若本以外今一つ煮え切らない地味な展開で微妙だつたのだけれども段々調子が出て來たみたい。
平成十八年四月二十五日
ストロベリー・パニック作畫相變らず微妙だつた。云々。Opの恰好良さは今期隨一。Edは曲自體惡くないのだけれども映像が大慘事なので云々。
平成十八年四月二十五日
制作者が計算づくで視聽者に話題を提供するのがメジャーなアニメで、天然で何かをかしくて視聽者の間で話題になるのが駄ニメ。現代のきっちゅな状況下では敢て後者を樂しむ方が「正しい」態度だと言へる。
か何うかは知らない。

平成十八年四月二十四日
來週日曜深夜は世界卓球選手權2006の所爲でARIA The NATURAL・スクラン二学期の開始が遲れる。場合に據つては延長。神奈川邊ではtvkのFateのみならずうたわれるものとかぶるので卓球には是非とも自重していただきたい。と言ふか、アニヲタは野球とかの番組の延長には本當に迷惑してゐる。
RDとPC×二臺がなければ即死だつた。
平成十八年四月二十四日
新宿展 @ 東京古書會館。『新文學講座 第一卷理論編』(新潮社)(福田恆存「小説の運命」所收)。若杉慧『泉は鳴る』。和辻哲郎『面とペルソナ』。などなど。

平成十八年四月二十三日
tvkの駄ニメたいむ。ひまわり→ひぐらし→女子高生→夢使い。ひまわりっの落ちと夢使いの落ちに吹いた。女子高生はAT-Xで觀てtvkでも觀た。ひぐらしは怖い話の筈なのだけれども原作を知らないのでにんともかんとも。
このあとは西の善き魔女。地震が無くてテロップが乘らなければ良いと思ふ。
平成十八年四月二十三日
西の善き魔女の超展開に吹いた。やつぱり深夜あにめだ。
平成十八年四月二十三日
佐藤守さんの「ブログ」に「義」が野嵜の名前を騙つて書込んでゐる模樣。井上さん御報告何うも有難うございます。まあ粘着が附くなんて我々の業界では勳章です。
軍事評論家=佐藤守のブログ日記
ちなみに野嵜は基本的に餘所の「ブログ」や掲示板にコメントを附したり書込んだりする事はありません。「闇黒日記」があるのにわざわざ餘所に書込んでも仕方がない。
平成十八年四月二十三日
と言ふか、「ブログ」とか掲示板とかWikiとか、不特定多數の人が書込めるやうな「危險なサイト」は運營したくない。「正字正かな掲示板」も、作つてしまつたものだから維持してゐるけれども、本當は無くしたいくらゐだ。掲示板を作る人は、きちんと書込みの制限とか削除とか、管理をしなければならないが、それは途轍もなく面倒な事だ。サイトを閉鎖してインターネットから去る人が、なぜか掲示板をほつたらかしにしておく事があるけれども、極めて迷惑な事で、無責任な事だ。取締りの對象とされて良いとすら思ふ。「掲示板を残しておきます」なんて、何か善い事であるかのやうに書く人すら存在する。管理者の存在しない掲示板くらゐインターネットで迷惑な存在はない。
平成十八年四月二十三日
初心者向けの「ほーむぺーじ入門」が「インタラクティヴなサイト」の作成を安易に勸めるのは異常。Winnyが著作權侵害行爲の幇助だと言ふのなら、掲示板や「ブログ」は誹謗中傷や侮辱の幇助をしてゐるやうなものだ。ユーザが掲示板に書込むのを、ISPはそろそろ制限したら何うか。實際、世の中には、Winnyを使へなくするプログラムや「サーヴィス」と同樣に、2ちゃんねるに書込めなくするプログラムだの「サーヴィス」だのが存在するさうだ。掲示板に書込む行爲もまた「問題がある」と看做される場合がある。
Web 2.0なんて言つて喜んでゐる連中は、粘着や荒しのやうな惡意の人間が存在する、と云ふ事を解つてゐない、世間知らずの御氣樂蜻蛉だ。良識のある人は、こんないんちきなスローガンに惑はされる事なく、「インタラクティヴなサイト」なんてものに手を出さないやうにして頂きたい。無責任な「言説」を垂れ流せるやうなシステムは要らないんだよ。掲示板も「ブログ」のコメント欄も、無責任な事を言散らす連中を利するだけのものだ。インターネットで物を言ひたい人は、NetNewsに投稿するかサイトを作るかすれば良い。インタラクティヴなウェブサイトなんて要らない。
平成十八年四月二十三日
と言ふか、「義」も俺に粘着するならすれば良いのだが、俺とは無關係の餘所のサイトに迷惑をかけ捲るから良くない。
もし俺が間違つた事を言つてゐると言ふのなら、はつきりそれを指摘すれば良いだけだし、問題がある事を言つてゐると言ふのなら、サーヴァ管理者に報告すれば良いだけだ。「義」がさうしないのは、さう出來ないからに過ぎない――即ち俺は、間違つた事を言つてをらず、問題がある事を言つてゐない。
餘所で「義」が俺の名前を騙つて掲示板や「ブログ」を荒しても、俺には責任がないし、俺は責任を取る積りもない。頭の惡い人が「野嵜は掲示板荒し」とか思ひ込む事もあるだらうけれども、聡明な人ならばそんな事はない。それに、事實として俺が荒してゐないのだから仕方がない、世間の評判が何うならうが知つた事ではない、事實として俺は荒してゐないのだから、それだけの事だ。「義」が野嵜の名前を騙つて野嵜らしからぬ文章をあちこちの掲示板や「ブログ」のコメント欄に書込み捲つても、俺の言ふ事が何うなると言ふものでもないし、俺の人格が變化するものでもない。ただ「義」と云ふ粘着がゐて野嵜を陷れる爲に野嵜の名前を騙つてゐる、と云ふ事實が殘る。
俺は、誰にも粘着してゐないし、ただ「義」に粘着され續けてゐる被害者となつてゐるだけだ。そして、粘着するよりは、される方が、遙かに増しである。

平成十八年四月二十一日
アルゼンチンがフォークランドなる島をぶん取つてしまはうとした時、イギリスは「正義の戰爭」を仕掛けて島を取返したけれども、韓國が竹島を分捕らうとした時、日本はイギリスと同じ事が出來ますかねえ。「出來ない」と判つてゐてそれで韓國が今のやうな態度をとつてゐるとしたら、惡いのは寧ろ日本。
平成十八年四月二十一日
日本は、あの戰爭で負けて「反省しろ」と命じられて「反省します」と答へたのだが、さう云ふ一見「しをらしい態度」をとられても、それだけで韓國や支那は嬉しい訣がない。日本は、國益の爲の戰爭を繰返して、大東亞戰爭をやらかしたらこれで徹底的に負けて、負けたものだから「ならいつそ戰爭なんてしない方が良い」となつて、さう云ふ時に聯合國の命令は實に都合の良いものであつたからあつさり「戰爭は最うしません」と宣言してしまへた。それで日本は戰後、「平和國家」と言つて威張つてゐる訣だけれども、その「平和國家」と云ふのは「さうした方が儲かるから」と云ふ理由で採用されて來たのであり、實際、朝鮮戰爭の時、平和な日本は大儲けして、それで日本は經濟大國になつた。韓國にしても支那にしても「反省してゐないだらう」とつつこみたくなつても當然。連中、日本人は正義の戰爭なんてやつた事がないのだから、平和主義だつて正義の爲ではなく金儲けの爲に採用したのだらうと解釋してゐる。金儲けが最優先事項と言ふのなら、韓國にしても支那にしても日本から領土を取上げて自分逹の利益を追究するのだつて(日本人的な意味で)「正しい」事になるだらうと、さう云ふ積りで日本人相手に「好き勝手」をやつてゐるに過ぎない。日本人が韓國や支那を非難しても、連中にして見ればそれは日本人の金儲けにしか見えない訣で、ならば自分たちだつて金儲けをやつて良いだらうと、さう云ふ態度で日本に臨んで來る。
韓國との外交交渉、問題の先送り以上の成果は擧げられないだらうし、さうならば先々、問題は再燃する。
平成十八年四月二十一日
と言ふか、日本は「反省した」と言つて「良い子」にならうとして、それで今、却つて蔑まれてゐる訣だが、そこに正義がないから蔑まれる訣で、だからこそ正義の觀念を日本人は理解すべきなのだが、それが多くの日本人には解らない。現代思想とかを西歐から持つて來て、「正義なんて相對的だ」とか言つてゐる人が澤山ゐる。さう云つた人々が「だから正義なんてものは顧みるべきでないのだ」等と言出すから困るのであつて、なぜなら相對的な正義を主張するのは全く問題ない許りでなく、寧ろ好ましい事だからだ。正義は輕んずべからざるもので、たかが「相對的である」と云ふ理由で閑却すべきではない。相對的な正義を主張しても憎まれるだけだ、と云ふ意見があるが、これこそ愚かしい意見だ。正義を主張しなければ蔑まれるだけだからだ。蔑まれるよりは憎まれた方がずつと増しである――政治では立場が下であるよりも上である方が良いのであつて、ならば憎まれた方が良い事は火を見るよりも明かな事だ。日本人はずつとずつと蔑まれるやうな言動許り國際社會で繰返して來た。正義の觀念を理解せず、ひたすら國益だけを考へてやつて來たからだが、その結果として日本は國際社會で非常に不利な立場に置かれてゐる。國と國との關係は結局のところ人と人との關係であるのだから、國際社會で經濟なんて非人間的なものをベースに立廻らうとしてゐたら關係がギスギスするのも當り前だし――と言ふより、阿漕な商人は普通、輕蔑される。
イギリスと云ふ國は、あんなに憎まれてゐる國もないだらうが、何時も「自分は正しい」と云ふ堂々とした態度をとつてゐる爲に、輕蔑はされない。あの圖々しさを日本は見習ふべきだと俺は考へる。「良い子」になつて蔑まれるよりは「憎まれつ子」になつてゐた方が「世間を渡つて行く」には大體のところ有利だらう。
平成十八年四月二十一日
そして、韓國にしても支那にしても、日本が憎むに價するやうな國であつた方が良かつたのである。嘗ての宗主國・アジアの支配者が、今のやうな情けない國に成下がつて呉れたのでは、連中も憎めなくて詰らないだらう。氣に入らない相手を憎めるのは精神衛生には良いものだ。今の「良い子」の日本は、連中にとつて何とも嫌らしい存在である事だらう。さう云ふ風に見られるのは、結構、危險な事だ。憎惡であれ何であれ兔に角日本を評價して呉れてゐるのなら、韓國や支那は日本に眞正面からぶつかつて來て呉れるだらう。しかし、日本が輕蔑の對象なら、連中はどんな出たら目で理不盡な事を日本にして來るか判らない。互ひに仁義を守り合へるやうな關係を作つて置く事が、國際關係では重要だ。「何時何をされるか判らない」關係よりは「事前に通告が來る」やうな關係の方が、同じ「仲が惡い」であつても増し。
平成十八年四月二十一日
シャープペンシルは小さな字を書くのに適してゐるけれども大きな字を書くのには適してゐない。
俺は鉛筆派。

平成十八年四月十九日
花ざかりの庭・2006年牡丹篇その1
平成十八年四月十九日
Days of SpeakEasy: う〜ん
平成十八年四月十九日
2006年01月|weblogconcent徒然草冠III/情報編集術*その技術と技法の将来
平成十八年四月十九日
久々に闇黒日記を読んで・・・|weblogconcent徒然草冠III/情報編集術*その技術と技法の将来
平成十八年四月十九日
「義」が何箇所に例の「申しわしたぞ」を書込みに行くか見物。「義」は闇黒日記の愛讀者。
平成十八年四月十九日
nozたんblogを語る。 @ 2005年10月 @ ratio - rational - irrational @ IDM

平成十八年四月十八日
ストロベリー・パニック第三話も作畫が非道かつた。・゚・(ノД`)・゚・。
平成十八年四月十八日
日本人は絶對の觀念を持つてゐないのであつて、それは典型的日本人である「義」の發言を見れば判る。もし「義」が絶對者を信じてゐたのなら、「義」なる人間に同じ人間である野嵜を裁く權利など無いのだ、と理解してゐた筈で、ならば何とかして野嵜を不快にしてやらうなんて考へて野嵜を誹謗中傷し捲るなんて眞似はした筈が無い。
そもそも「義」は野嵜を「親不孝」と罵つてゐるのだから、「人の上の人」の觀念しか持つてゐない事は明か。しかし「義」の親御さんは、自分の子供が他人を匿名で誹謗中傷してまはつてゐると知つたら何う思ふだらう。多分、インターネットなら身許がばれないから親にもばれない、ならば何の問題もない、と「義」は思つてゐるのだらうし、それで何時までも誹謗を續けてゐるのだ――が、これは「義」が絶對者の存在を意識してゐない事の明白な證據と言つて良い。絶對者が存在すると信じてゐたなら、世間にばれなくても絶對者に見られてゐる、と云ふ意識がある筈だから、匿名による攻撃であつても「義」は躊躇しただらう。「義」にそんな躊躇の跡は見られない。「自分は正義である」と信じて「義」は嬉々として野嵜を攻撃してゐる。「義」は、「人の上の人」しか信じないから、「人にばれない」ならば何でも出來るし、その時「義」は自分が恰もこの世で一番偉い人間であるかのやうに振舞つて愧ぢない。「親の目」をかすめる事が出來るならば、「義」は何んなに惡い事でも「する」――そしてその時、「義」は自らが「絶對の正義」の化身なのだと殆ど思ひ込んでゐる。
かうした獨善は、「人の上の人」しか認めない日本人は屡々陷り勝ちだけれども、日本人の深刻な問題であつて、我々日本人は全員、俺も含めて、警戒しなければならない。福田恆存は西歐から絶對を學びつゝ、しかし日本人としてストイシズムに基いた生き方をした。我々もまた絶對を信ずべきだが、心から信じられるほどの傳統を持つてゐない事を意識しつゝ、やむを得ず我々日本人の御先祖樣が持つてゐたストイシズムで何とか自らを律して行くしかない。そして、西歐と絶對の觀念が入つて來た以上、日本人は最早、ストイシズムの不完全を意識せざるを得ないのである。松原先生が強調されるのは、ストイシズムしかない日本人がストイシズムを信じ切れず、しかし絶對の觀念も信じられない現状、そしてそれに日本人が耐へねばならない現状がある事である。日本人は、既に絶對者を理解したとか、或はストイシズム(例へば武士道)で十分だとか、そんな風に屡々言ひ勝ちだが、それは自己欺瞞である。日本人は東洋と西歐との間で宙ぶらりんになつてゐるのだが、さう云ふ非道い状況を即座に解消する特效藥はない。松原先生はだから日本人は痩せ我慢をして何とかやつて行くしかないと仰つてゐる。
平成十八年四月十八日
教育勅語の復活を唱へる右翼の人がゐる訣だけれども、あれをして國民道徳が何うの斯うのと言ふのも何うかしてゐる。大體あれは道徳ではない、單に徳目を並べ立てただけのものだ。爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭儉己れを持し云々。そんなものを唱へてゐれば人は即座に親孝行になり皆仲良しになつて「立派な人」に「なる」か――世の中そんな簡單には行かない。さう云ふ人が「あり得る」としたら、三島由紀夫の「憂國」のやうな(惡い意味での)フィクションの中だけだらう。が、そもそもそんな人が本當に「立派な人」であるのか。「さうだ」と言ふなら、我々は人殺しであるラスコーリニコフの登場する『罪と罰』や(畧)を讀むべきでない。文學なるものは全く以て「反道徳的」と云ふ事になる。が、グレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』における不良少年は、道徳的である。
日本人の全く駄目なところは、教育勅語流の徳目を矢鱈と有難がる事で、それで道徳の問題は全て解決してしまふと思ひ込んでゐる。新霊光輝が「アニメは子供が見るものだ」と曰ひ、「義」が「親の脛齧りの無職」が何う斯うと書いて廻る、何れもこの手の御題目を唱へる趣味の人間が好い氣になつてゐるだけで、全く道徳的と言へない行爲だが、當人、自分は「善い事」をしてゐるのだと心から信じてゐる。波江の作るいろはもどき歌が悉く詰らないのも、それらがただただ徳目を繰返し敷衍してゐるだけの單純な物でしかないからだ。
徳目を幾ら口にしても、その人は善人にはならないんだよ。徳目を居丈高に押附けても、それで説教者が偉い訣ではない。「道徳の貧困」と云ふ奴だが、「ネットウヨ」に粘着してゐる積りの「義」自身が「ネットウヨ」と同じメンタリティで、徳目の效能を信じてゐる邊、全く以て濟はれない。三十歳邊以上の齡の人は、日本船舶振興会の笹川會長が「お父さんお母さんを大切にしよう」と徳目をTV-CMで叫んでゐたのを覺えてゐる事だらう。「義」等は笹川氏と同じ事をやつてゐる訣である。
俺は徳目を創造しようとは思はないし、或は徳目を押附けようとも思はない。

平成十八年四月十五日
大和魂にしても愛國心にしても似たやうなものだ。
保守とは何か・第四囘
平成十八年四月十五日
三島由紀夫には「暗渠で日本に通じてゐる」やうなところがあつた。
国民講座『討論・現代日本人の思想』より「西欧と日本」
平成十八年四月十五日
「義」は闇黒日記の讀者である模樣。数学屋氏のブログに早速野嵜の名前を騙つて「き つ く 申 し わ し た ぞ」を書込んでゐる。
今囘「義」はネタ潰しに走つた訣だが、何とも空氣を讀めない奴だなあと思つた。こんな事をして誰が喜ぶのだらうか。竹下義朗か、アレクセイか。あんな連中を喜ばせて何うするんだ? 「義」はトンデモ。
平成十八年四月十五日
取敢ず「義」の嫌がらせに俺は屈しません。或は、「義」の暴力に屈したとしても、それが「野嵜の主張が誤であつた」と云ふ事を立證するものでない事は明かです。
「義」は暴力で他人を屈服させる事を望んでゐるのだらうが、それで眞理はなくならない。野嵜個人が默つたところで、眞實は相變らず語り續ける――或は野嵜以外の誰かに據つて語られ續ける。今、俺が默つても、眞實が後から俺の過去の發言を裁く事になるし、「義」の行爲を裁く事になる。「義」も、「義」の宣傳を見掛けた人も、本質的には俺を裁き得ない。ただ、眞實だけが永遠の中で人の價値を定める。
平成十八年四月十五日
眞理や眞實を、人は完全に認識する事など出來ない。眞理や眞實に至らんとする努力はなされ得るが、それが目的地に到る事等ないのであり、永遠に(もつとも、宇宙は有限だから、完全な永遠はあり得ないが、人間の尺度から見れば殆ど永遠と言へるものは想定して良い)人の考へは假説の域に留まる。全て人の思想は、直觀的に結論が――或は、結論に至る道筋が構想される。この結論が、提案される時には假説と看做される訣だが、證明・論證、實驗など樣々な方法・手段によつて檢證される。この檢證を通して、假説は眞理になり得ると云ふのが数学屋氏の發想である訣だが、ポパーはさう云ふ發想をしない。證明であれ論證であれ實驗であれ、完全に眞理を證明するものではないとポパーは考へてゐる。眞理は直截把握出來るものではない。だが、依然、檢證の意義は「ある」――それがポパーの考へ方で、直截眞理を示すのでなくとも、その假説が誤である訣ではないと確認する爲に檢證は行はれる。即ち、眞理の候補であるが(ポパーの用語・例・或はその類、ではない)、決定的に眞理「である」と斷定は出來ない。ポパーは(マルクス主義的とは必ずしも言へない)一種の唯物論者であり、神樣なんて信じてゐないが、眞理か何うかは神樣にしか解らないもので、一般の人間には相對的な「正しさ」しか認識出來ない。
檢證の作業は、假説を「眞理の候補」から脱落させ得るものであり、積極的に假説を「眞理の候補」から「眞理」に「する」ものではない。ただ、ポパーは、その「眞理の候補」から脱落させ得る餘地を持たないやうに最初から仕組まれた「假説」なるものを認めなかつたのであり、「出來レース」で「眞理」を作り出す事を避けようと考へた。だから、假説に可能なのは「眞理の候補」として生殘つて行く事である。假説としての思想・意見・主張は、消極的に「今の處『眞理でない』と判明してはゐない」と言へる事が必要である。「確實に誤」のものをふるひ落す事、それだけが人間には可能な事である。
平成十八年四月十五日
頭が半分寢てゐる状態で書いてゐたのでいろいろアレだつたけれども微修正。
平成十八年四月十五日
「地球は平面である」「地球は球體である」と云ふ過去の時點における對立する二つの假説は、觀察によつてどちらも反證可能だつた。この點で地球の形状に關する議論は科學的な議論たり得た。觀察の結果、現在、「地球は丸い」と「言へる」やうになつた訣だが、「丸い」なる曖昧な言ひ方は反省されつゝあるし、觀察の精度も上つてゐる。現在、地球は「完全な球體でない」事が判明してゐる一方で、中谷宇吉郎が言ふやうに、本に印刷したり黒板に書いたりする場合――縮小して描畫する場合――には「丸い」と看做して構はない程度に「丸い」 と言へる事になつてゐる。かうなると「地球は丸い」は、不完全な表現、曖昧な 表現として、假説としての妥當性を失つてゐると言ふ事が出來る。最早「地球は 丸い」は、歴史的に「科學的な檢證・反證が不可能な定義である」と言はざるを 得ないやうなレヴェルの表現になつてしまつてゐる。
平成十八年四月十五日
天動説が詭辯であつたと言ふ事は出來ない。現在も、天動説は立派に生きて ゐるからだ。もちろん、理論として廣汎に用ゐられる訣ではないが、「見掛けの位置」と云ふ言ひ方で空の何處に天體が見えるかが表現されるものである。理科年表なんかでは、一々太陽を中心にした太陽系の圖を描いて惑星の位置を示す事等なく、「見かけの位置」を示す。これは觀察の便宜の爲だが、さう云ふレヴェルで天動説は現在でも必要であり有用である。地動説にしても、素朴な「太陽が宇宙の中心である」と云ふ初期の發想は否定されてゐる。で、新惑星の發見だが、コペルニクスやケプラーの説と言ふより、ニュートンの萬有引力説の方がその基礎となつてゐると言つて良い。ニュートンの假説は慥かに大體の觀察に適合する事が明かになつてゐる。けれども、それがまた現在では宇宙の説明に不十分である事は判明してゐるのであつて、そこでアインシュタインの相對性理論や、或は量子力學が出て來る。かうなると單純に實驗で眞理性が明かになる等とは言へない訣で、そこで「假説の提唱の仕方」の時點で假説の科學性が議論されなくてはならない事になつた。ポパーの「反證可能性」に關する主張は、論理學を根據にして「説として『なつてゐる』假説」のあり得る形式を定めたものである。なるほど、慥かにわざわざ「反證可能性」と「言はなくても良い」かも知れない、が、「言つてはならない」でない以上、「言つても良い」事は明かだ。「詭辯を使ふな」と言つてそれで人が納得して、結果としてちやんと科學的な議論を出來てゐれば、それはそれで結果として問題はない。ポパーの言つた事は、数学屋氏が勘違ひしてゐるやうに「全ては疑はしいものである」等と云ふ單純な懷疑説でないのであつて、話は全然逆であり、「より確實な事を言ふべきである」と云ふ當り前の事である。

平成十八年四月十四日
tvkで觀たけれども東京MXでもLEMON ANGEL PROJECT最終囘を鑑賞。二千六年一〜三月期のベストはよみ空だが、LAPはその次邊に來る。
今期はあにめ多過ぎ。なんか觀るものは決つて來る訣だけれども。ストロベリーパニックはtvkで觀てキッズステーションでまた觀る、ハルヒと夢使いはtvkで觀てMXでまた觀る、云々。
平成十八年四月十四日
数学屋のメガネ - 科学的真理はどのようにして証明されるか 2
ポパー讀んでないだろ。
ちなみに俺は『科学的発見の論理』上卷の五十八ページまでがんばつて讀んだ。えっへん。

平成十八年四月十三日
田村書店の無料箱が今週やけに「充實」してゐる。今日は須藤新吉『論理学要綱』(内田老鶴圃新社)を拾つた。某先生による論理學おすすめ本三册のうちの一册。他の二册は吉田夏彦『論理と哲学の世界』(新潮社)とG.H.フォン・ヴリグト『論理分析哲学』(講談社学術文庫)。これら三册を眺めておけば古典的な形式論理學から最近の訣のわからん論理學方面のいろいろな状況まで一往大雜把に把握出來る。

平成十八年四月十二日
NetFrontでさとみかんを閲覽してゐるとメモリ不足でエラーになる。どうもアンカー移動してゐるとさうなるので、例のJavaScriptが惡さをしてゐるのでないか。スタイルシートにしてもスクリプトにしてもウェブサイトの汎用性・互換性を低めるやうな使ひ方はよろしくないと思ふ。
もちろん、cookie讀込みを強要するvoid GraphicWizardsLair( void ); //の閲覽の際にも問題が生ずる。と言ふか閲覽出來ない。
平成十八年四月十二日
「ブログ」とかITmediaとかに見られる、所謂「段組」レイアウト、或は廣告その他の大量のリンク、これらのものがNetFrontを使ふと、なんとも邪魔なものに感じられる。マウスを使つてゐると自然にスルー出來るものも、リモコンのボタンでちまちまちまちま移動する時には、殆ど物理的な障礙物としてユーザの前に立ちはだかつて來る。
平成十八年四月十二日
國語問題協議會から『國語問題協議會四十五年史』と「國語國字」第百八十五號が屆いた。
なんか波江が喜びさうな「いろは歌」運動なんて言つてゐるけれども、感心しない。トンデモ説には接近しない方が良い。
「關聯電網核・團體」と書いてゐるけれども、これも感心しない。internetはnetとnetとを相互(inter-)に接續したもので、敢て言ふならば「網際」であり、單純な「網」「電網」ではない。siteは敷地とか用地とか、或は場所を意味するのであつて、「核」なるものを意味しない。そもそもウェブサイトを敢て漢字で書かねばならない必然的な理由が無い。もし全てのカタカナ語を漢字で書かなければならないのなら、「ルビ」「ラジオ」と書いては行けない筈だが、それらは「國語國字」で普通に使はれてゐる。谷田貝常夫氏の「電腦ソフト」、市川浩氏の「パソコンソフト」のやうな用語も「電腦軟件」だか何だかに置換へねばをかしいだらう。また、市川氏はキーボードと書いてをられるが、「キーボード」は日本アイ・ビー・エムによつて「鍵盤」と譯されてゐる。「電腦ソフト」は何うかと思ふが(「電腦」と云ふ言ひ方が氣に入らない)、ソフトウェアとかキーボードとかが問題ないもので、テレビ・ラジオも問題ないものであるとしたら、インターネットやウェブサイトも問題ないと看做さざるを得ない。わざわざそこで差別して「電網核」と言はねばならないと言ふのであるならば、それはきちんと説明して納得させるべきであり、默つて使ふべきではない。大體、誰も「電網核」なんてウェブでは言つてゐない。奇妙な用語を國語問題協議會が創作して率先して用ゐるのは避けるべきだ。あと、インターネットのウェブサイトと組織・團體とは全く異る概念のもので、それらを對當のものとして並べるのは不適切。今の國語問題協議會の中の人達は、インターネット關係の事について話をする時、世間の多くのおつさん達がさうであるやうに、浮かれてゐるのではないか。
「國語かなづかひ講習會」の案内が入つてゐたが、「追記」として長音記號<ー>は文字ではないので原則として使ひません。と書かれてゐて唖然とした。「ローマ字」を「ロオマ字」と書いたら何うなると言ふのだらう。「ローマ」は外國語の音を寫したもので、「ロ」も「マ」も發音を示してゐるものだし、「ー」も長音を長音として發音を示してゐるものだ。カタカナ語は、カタカナ語である限りにおいて、ただ日本語の音韻で以て外國語を書表しただけであり、そこに綴りは存在しない。敢て「ー」を排除し、茲では「オ」と書いたところで、表意的な書き方になる訣でも何でもない。ただ單に異樣な書き方になるに過ぎない。あと、本文の漢字の用ゐ方が變。何うして今囘の基礎講習會は、次代をになふ小中學校の生徒から、戰前戰中に教育をうけながら「正かなづかひ」を忘れかけ、この機會に再修したいと思つてをられる七十八十代の方、また戰後の國語教育に疑問や批判をもつてをられる方を對象にします。なんて、用言で規則性ナシに時々漢字を使はない書き方をするのだらう。ひろくくださいルビをふります、もさうだが、用言は漢字で書くべきだ。可能なかぎりできる、も漢字で書くべきだと思ふ。用言ではないが、うへことためも漢字で書くものだ。「御子樣、御孫樣づれ」も何うかと思つた。せつかく接頭辭の「御」を漢字にしてゐるのに臺無し。
平成十八年四月十二日
個人が個人である爲には個人を超えた絶對者が必要で、だから個人を超えたGodが存在する西歐に個人主義が成立し得た訣だけれども、日本には個人の上に個人しか存在しない。具體的に言へば先生であり上司であり(中略)天皇である。云々。福田恆存においても、D.H.ロレンスと云ふ個人の上の個人が存在しただけであり、絶對者は存在しない――だから福田氏は「キリスト教の無免許運轉」と稱したのであり、「日本にも天の概念がある」と自信なさげに主張する事しか出來なかつた。福田氏には自然に對する信頼があり、それゆゑ松原正氏が「神道の信者」と説明したのだが、さう云ふ福田氏の態度にキリスト教的な世界觀は「自分のもの」としてあり得なかつた。福田氏は、日本と西歐との間に通路を作りたかつた訣だが、その爲に西歐の世界觀への反逆者であるロレンスに福田氏は關心を持ち、「反近代の思想」を通して西歐の世界觀を日本に導入しようとした。福田氏は「同じ人間同士なのだから、人間と犬の間、人間と馬の間よりも日本人と西歐人との間の方が解り合へる部分は多いだらう」と、そんな見通しを持つてゐた。福田氏が生涯を通じてやつてみた事は、「日本は明治以來、西歐の文物を導入する方針をとつて來た」と云ふ「歴史の流れ」の中で行はれた事だ。福田氏にして見れば、個人主義は既に西歐で克服されたものであり、日本人が個人主義を學ぶのは個人主義を克服する過程でしかない。ただ、西歐における「個人主義の克服」は個人主義を理解した結果、生じたものだ。「日本人も、西歐人と同樣に個人主義を克服する必要があるならば、西歐人と同樣に個人主義を經驗し理解しなければならない」と福田氏は主張したに過ぎない。

平成十八年四月十一日
ストロベリー・パニック第二話の作畫が非道かつた。・゚・(ノД`)・゚・。

平成十八年四月九日
?D 一波未平一波又起 - 『明解新辭林』(昭和十八年発行)

それから、見出し語に「赤新聞」といふのが出てゐるのは、戦時中だからかな。説明には「俗悪新聞」と。

「赤新聞」は、赤い紙を使つてゐた萬朝報に由來する言ひ方で云々。共産主義の新聞の事ではないよ。
http://www.ne.jp/asahi/nihongo/okajima/zatu/akasinbn.txt
新聞記事文庫 新聞紙別一覧「万朝報」

平成十八年四月八日
株式会社ぺガシス:TMPGEnc 4.0 XPress

平成十八年四月七日
例に依つて東京古書會館の古書展。趣味の本そこそこ。古めの本もそこそこ。個人的に今一つの感はあるが云々。「文芸」1965年12月号(福田恆存・芥川比呂志「対談 『罪と罰』について」掲載。微妙にぴりぴりした雰圍氣が感じられる)。「伝統と現代」第20号(座談会「近代の超克」復刻)。「浪漫」1974年5月号(桶谷繁雄「”言論の自由”というまぼろし」掲載)。波多野精一『パウロ』(新教出版社)。上林曉編『武蔵野』(宝文館)。小野祖教『神社神道講話』(神社新報社)。

平成十八年四月六日
いぬかみエロ。まじぽか(半分しか觀てゐないが)惡くない感じ。吉宗。蛙男。プリンセス・プリンセス。なんか今期はをかしい。
平成十八年四月六日
http://www.taishukan.co.jp/kanji/qa_mean2.html#Q2111
Q2111 履歴書などで「現在にいたる」と書くとき、この「いたる」は「到る」と「至る」のどちらで書くのがよいでしょうか?

 結局のところ、現代日本語での「至」と「到」の違いは、よくわかりません。ただし、『常用漢字表』で「いたる」という訓読みが認められているのは、実は「至」だけなのです。したがって、はなはだ無粋な理由からではありますが、履歴書の場合は「現在に至る」と書いた方がよいでしょう。

 なんたって履歴書は、人生を左右しかねないことがある大事な書類。意地悪なおじさんから、「キミは『常用漢字表』も知らないのかね」などと、つまらないケチをつけられたくはないですからね。

つまらないケチをつける方が惡いのに、どう云ふ訣か「ケチをつけられないやうに使はないやうにしよう」と云ふ結論になつてゐる。「義」みたいな口調のおじさん、慥かに存在しさうだが、「義」が惡い事は火を見るよりも明かな事であり、「常用漢字」を楯にとつて嫌がらせをする「おじさん」が惡い事もまた火を見るよりも明かな事だ。
「兔に角御上の決めた事には逆らふものではないのだ」式の、「解説」の振りをした御説教をかます大修館書店は、矢張り國字改革を既成事實として容認する立場である訣だが、何うして言語學の關係者はこんなにも國家の權威を重んじて、言語學を輕んじ勝ちであるのだらう。思ふのだが、日本の言語學關係者は、はつきり「言語学は眞理を追究する學問ではない」と宣言したらどうだらうか。「言語を管轄するのは國家である」と云ふ事を言語學の研究者は認めたら良いと思ふ。さうしても何うせ彼等は困らないのだから。連中がやつてゐるのは、法律なり何なりで決つた事を國民に押附ける、と云ふ「國家の走狗」としての仕事である事に變りがない。
「國家が決めた事をそのまゝ受容れてただただ解釋して見せる」と云ふのが――CSSコミュンの某氏が前に言つてゐたけれども――法律屋の仕事であるさうである。法律屋はさう云ふ仕事をして何も疑問を感じないらしい。と言ふか、感じては行けないらしい。彼等は決して「日本国憲法」の正當性を疑はないし、疑ふのは(彼等にして見れば)「邪道」である。言語學の研究者も國字改革を疑問に思つてゐない。少くとも、大修館書店の連中にとつて、「常用漢字」「現代仮名遣」を疑ふのは「あり得ない」事であるらしい。國が右向け右と言つたら、大修館書店の中の人は逆らはずに右を向いたら宜しからう。日本國に限つての話だが、「利便性」と云ふ大義名分がある場合、國民は國家の命令に默つて從ふのが「正しい」らしいのである。
と言ふか、大修館書店、「文化」と名乘つてゐるのに、「國家の決めた事には默つて從ひませう」を繰返すだけなのは如何なものか。國家權力が文化を歪めようとする時に、反對して文化を守らうとするのが學問の自由と云ふものだらう。大修館書店は漢字や假名遣を本當に文化だと思つてゐるのか。もし思つてゐるのなら、國字改革の結果を默つて受容れるのは止すべきであり、思つてゐないのなら、「漢字文化資料館」と名乘るのは止すべきである。
平成十八年四月六日
俺は、例へばトリノのオリンピックで日本が慘敗しても悔しくないし、何だかの野球の大會で日本が優勝しても嬉しくない、さう云ふ日本人である。「非國民」のやうに言はれるとしたら、「非國民」である俺が何うして「ネットウヨ」なんて呼ばれなければならないのか、尋ねて見たい。

平成十八年四月五日
DECAのIDE TO USB2.0 変換アダプター「IDE-35US」は使ひ物にならないので買つてはいけない。ON/OFFパワースイッチ搭載によりPCとHDDに負担なく安心使用等と謳つてゐるが、何う見ても負擔がかかる代物。と言ふか、オンなのかオフなのか、見ただけでは全然判らないし。ボタンを押す毎にオンオフがトグルするらしいのだが、オンならオン、オフならオフ、とボタンの位置が決つてゐるのではないので、デヴァイスが動いてゐるかゐないかで通電してゐるかゐないかを判斷しなければならない。HDDならまだしもDVDドライヴでは非常に判り辛い。良く判るHDDなんかだと、動いてゐるところで電源オフにするとヤバさう。と言ふか、ためしてみたら、PCで「取外し」を指示しても、電源オフにならないのな。ハードウェア的に電源オフにしなければならない。明かにHDDに負荷がかかる。駄目駄目。また、この變換ケーブル、PCに繋ぐと、初囘はデヴァイスが割と簡單に認識されるのだが、使つてゐる間に何かの拍子に認識されなくなる事がある。と言ふか、しよつちゆう認識されなくなる。さうなると、ケーブルの拔差し、パワースイッチのON/OFFの何をやつても最う認識されない。泣いて頼んでも脅しても賺しても認識されない。PC本體を再起動すると、認識される事もあるが、されない事もある、されない事の方が多い。DVDドライヴの場合、ディスクを入れて置くと認識され易い氣もするが、全然認識されない事もある。どのやうな理由で認識されたりされなかつたりするのか全く解らない。だから、問題の解決のしやうがない。或動作の理由が解らないものは例外ナシに惡いものに決つてゐるから、IDE-35USは疑ふ餘地もなく惡いデヴァイスである事が確定。本當に非道い代物だと言はざるを得ない。新宿のソフマップで九百八十圓で買つたものだが、御金を溝に捨てたやうなものだ。何うせ最初から期待しないで遊びの積りで買つたものだから金返せとは言はない。ただ、他人には御薦めしない。
http://www.deca-tech.com/
それにしても新宿ソフマップで賣られてゐる製品には「當り」がない。特に四階中古コーナ。Maxtorの「新品HDD」(バルク・250GB)もchkdskかけたら不良セクタが出て來たし。やつぱりマップは駄目だよ。一階の表で賣られてゐる安物DVD-Rなんかも買ふべきでない。あんな環境の惡い場所で賣られてゐるディスクなんかが良い訣がないよ。直射日光の當る場所で賣られてゐるDVD-Rなんて、使ふものではない。DVD-Rは光が當るとすぐに劣化する代物なんだから、螢光燈の下にも置くべきではないんだよ。冷暗所に保管すべきもの。薄型のプラケースも本當は良くないのであつて(簡單に歪むから)、DVD-Rは昔ながらの厚いケースに入れられてゐるべき――もつとも、やけにしつかりDVDが嵌まつてゐて、取出す時、無用の力を必要とするものもある。なんでそんなにまでしてDVDのディスクを歪み易くして、まともに記録出來ないやうにしたがるのだらう、と不思議になるのだが、メーカは手拔きをしてゐるのである。手拔きをしてコストを削つて、値段を下げてゐる。さうしないと競爭に勝てないからだが、競爭と云ふ事が世の中に害を及ぼしてゐる例である。著作權關係には矢鱈と煩い癖に、DVDの仕樣策定團體は製品の品質には矢鱈と鷹揚だ。駄目な製品は賣らせないとかすれば良いのに、見て見ぬ振りをしてゐるのか――國産でないDVD-Rの品質の惡さは異常。駄目な海外製品(と言ふか臺灣や東南アジアの製品)がどんどん値下げして、その所爲で國産品も値を下げて對抗してゐる。値段を下げる爲に、品質を下げてゐる。ドライヴが高速化されつゝある現在、ディスクも高品質にならなければならないのに、寧ろディスクの品質は下がつてゐる。書込み品質は昔に比べて相當下がつてゐるさうだ。困つた話である。
平成十八年四月五日
と言ふか、バックアップをとるべきデータのサイズがどんどんどんどん増えてゐるのに、何うしてバックアップメディアの容量がたかだか4.7GBなんだよ。HD DVDやブルーレイでもたつたの15GBか25GB程度でしかない。しかもデータは飛び易いと來てゐる。DVD-Rはフロッピーディスクよりも信頼出來るのですか。DVD-RAMは割と安心らしいけれども、PanasonicのディスクなんかはRDのドライヴで簡單に書込みエラーを出すくらゐで案外信用出來ないやうな氣がする。HDDのバックアップはHDDでとる、と云ふのがベターかも知れないけれども、電源の關係とかBIOSとかの關係でHDD間のコピーも意外と巧く行かない事があるやうだ。巨大な動畫のデータなんか、コピーしただけで壞れる事がある。
デジタルのデータは、複製しても劣化しない、と云ふのがメリットだと言はれて來た。けれども、データを保存する方法は結構アナログで、DVDなんかは決して單純にオン・オフ、1か0、と云ふ風に割切つてデータを保存出來てゐる訣ではない、かなりルーズに山だの谷だのを作つてゐて、データを讀取る時に區間の中で大體の傾向でオンかオフか、1か0かを見てゐるし、讀取り損ねてエラー訂正機構でデータを補正してゐる事もある、データの處理がデジタルであるに過ぎない。HDDでも結局物理的にデータを保存するのだから、物理的にデータは劣化する、ただ、讀取る時に物理的な劣化が問題にならないくらゐアナログの情報を切捨てて讀取る(それがデジタルなものの性質だ)から問題にならないだけ。デジタルデータも永遠でない事は明かなのだが、だからこそデータのバックアップは重要である訣で、さうなると、「確實にコピー出來る事」「高速にコピー出來る事」「大容量のデータを保存出來る事」がメディアとドライヴには要求する事になる。が、現在のHDDなんかは、最うその用には性能不足になりつつある。DVDなんかは最う駄目だらうと思ふ。
データを作る技術は進歩しても、それを保持する技術は全然進歩してゐない。
平成十八年四月五日
しかも、データを保存するメディア、「サイズを大きくしては行けない」みたいな決りが何處かにあるらしくて、データを如何に詰込むか、と云ふ方向にだけ「進化」を續けてゐる。好い加減、「狹いところに物を押込むのには無理がある」と云ふ單純な眞理に氣附いたらどうか。DVDのサイズでDVDの四倍の容量のデータを保持するとなつたら、データの壓縮とか保存の仕方とかで技術が必要になる。けれども、ディスクのサイズを大きくしたら何うか。そのまゝの技術で作つても、メディアの縱横の長さを倍にすれば、データは四倍入らないか。もちろん、そんなでかいメディアでは、場所塞ぎだし、PCに内藏出來ないし、ドライヴの中でぶん廻せないから高速化も難しいが、信頼性の高いメディアとして賣れば、それなりに需要は「ある」のではないか。
それにしても、CDのサイズが丁度PCの5インチベイに收まるサイズに定められたのは、良く考へられてゐたのだなー。
平成十八年四月五日
製品情報 / 機能情報 - HDDレコーダー RD-H1/H2 | 東芝 : HDD DVD
東芝、400GB HDDレコーダ「RD-H2」を値下げ
DVD-Rにバックアップなんて事は考へず、こんなものを使つてゐた方が良いのかも知れない。取敢ず地上アナログが生きてゐる間。デジタル放送のコピー制限うぜえ。
DVDドライヴがない「RD-H2」だけれども、いざと言ふ時(?)にはVirtualRDでPCにデータを移せるから安心。
「VirtualRD for Windows」と「番組ナビゲータ」の配布所

平成十八年四月四日
涼宮ハルヒの憂鬱→吉永さん家のガーゴイル→ストロベリー・パニック。tvk。どれも結構觀られる感じ。パピヨンローゼで締め('A`) シムーン觀てないがなんかぐだぐだつぽい。
平成十八年四月四日
今日のはてな 明日のカテジナ
あにめ感想。かしまし、Canvas2、キン肉マンII世、タクロア、練馬、舞-乙、マジカノ、よみ空に關しては大體同意なので紹介。おゆいは、落語の事を忘れれば割と良作でないかと。崩れてゐても妙にキャラの表情が豐富だとか、終盤の作畫が異常に氣合が入つてゐて神とか、最終囘の後藤さんの演戲が眞に迫つてゐて演戲に見えないとか、結構いろいろ見所はあつたかと。

平成十八年四月三日
意味のある匿名は實名だと言へないから已む無く匿名なのであり、止むを得ず匿名を用ゐるものである、實名である事が望ましいにもかかはらず、それが不利益となるから匿名を使はざるを得ない――それが匿名の用ゐられるべき理由である筈だ。ならば、實名でも不利益を蒙らないやうなシステムを作るのが理想であり、匿名の自由を擴張し匿名を徹底して保護しようとするのは邪道である事は明かである。俺は實名の權利を主張してゐるが、本質的にをかしな事は言つてゐない積りである。匿名なんてものは無いに越した事はないのだ。
平成十八年四月三日
あまカラ氏叩き續き。政治問題に關する論文ならばつさり斬つても何の問題も無からう。何うせ非人間的な事を言つてゐる論文なのだから。拉致について、御涙頂戴式の事を言ふのが人間的だと思つたら大間違ひだ。何うせ拉致された人がおかはいさうだと、その程度の僞善的な感情論であまカラ氏は松原氏に反感を抱いたに過ぎまい。おかはいさうにで話が濟めば結構だがそれで濟む筈が無いのであつて、だから松原氏が政治的に決着する方法を講演で述べてゐるのだが、松原氏を貶めるのが目的の(それが政治主義的と云ふ事だ)あまカラ氏はわざと言及しない。ただ「放言」を殊さら強調して宣傳する。「義」のやるのと同じ事だ。大體「アンチ松原」の連中がやるのは、かう云ふ頭の惡い事で、兔に角宣傳して自分の都合の良い方向に世の中を引張つて行かうとする。掲示板では「ROMは」云々と言ふ手合だ。アジテータ以外の何ものでもない。あまカラ氏のもアジ演説に過ぎないのだが、アジられれば乘つかつて來る馬鹿がゐる訣で、さう云ふ連中と一緒になつて氣に入らない相手を罵つてゐれば彼らは氣分が良いのである。
實際の松原氏が「變つた」か。「月刊ランティエ。」二千五年十一月號に松原氏が岸信介元首相について書いてゐる。松原氏は人情味あふれる文章を書いてゐる。千九百七十年、松原氏は演劇雜誌「悲劇喜劇」で早野寿郎氏と一緒に(對談形式)演劇時評を擔當し、政治論文ではなく御芝居をばつさばつさと斬り捲つてゐるのだが、同年五月號の時評の末尾に以下のやうな發言がある。
時評
編集部
飯沢匡さんに聞いたんですけれども、チェコのトルンカという漫画映画の監督が死んだのですね。日本の新聞は一行も書かない。ドイツの演出家ピスカトールが死んだときも、一行もでませんでした。伝えないということはわかりませんね。劇団「雲」の演出家の関堂一氏が自殺したというニュースはびっくりしました。話題としては、非常に戯曲の出版が多くなったことで、これが非常に目につきますね。安部公房氏の戯曲全集もいい本ですよ。
早野
売れているんですか。
編集部
安部氏のはよく売れたようです。関堂氏の自殺について松原さん、なにかひとこと。
松原
ぼくは、二度ばかりお宅にうかがったこともあるし……何といったらいいか……ほんとに惜しい人を失なったと思います。残念です。
編集部
「野望と夏草」の演出の途中だっただけに劇団の人にはショックだったでしょう。奥さんは谷口香さんで……
松原
お通夜の晩にも、谷口さん、痛ましい限りで、お悔みの申上げようもなかった。
この囘はこれで話が終つてゐる。
俺は本質的に松原氏が人情味のある人であると思つてゐる。本質的と言ふのは「變つてゐない」と云ふ事だ。俺は人情味の薄い人間だから良く解る。
平成十八年四月三日
So-net blog:遠藤浩一覚書:〈「つくる会」――内紛の一部始終〉について
闇黒日記では「つくる会」の事に餘り觸れたくないのだが、一往リンクを張つておいても良いと判斷した。
「思想」方面でこの手の鬪爭が絶えない――と言ふか「絶やすべきでない」と考へて何時までも何時までも氣に食はない人間を陷れようと策謀を續ける「義」「西岡治秀」のやうな輩がゐると云ふのは、人間が嫌なものである事の證據だと思ふ。俺も人間だから彼等と同じ屬性を持つてゐる訣で、自分が人間である事を俺は屡々呪ふ。
平成十八年四月三日
軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - 眼を覚まそう、日本人!
「日本人」一般に呼びかけるのは云々('A`)
平成十八年四月三日
WindowsXPのtips。scandiskをたまにかけるよりchkdskを常用した方が良い。
平成十八年四月三日
So-net blog:遠藤浩一覚書:『諸君!』編集長への要請
「西岡治秀」なる名前のジャーナリストは從來存在しなかつた模樣で、ぐぐつても「諸君!」の今囘の記事の紹介ぺーじしか引掛からない。「諸君!」が使はなければウェブに存在しない文字列で、SEOコンテストのキーワードに使へたところだつた。勿體ない事をした(違)。

平成十八年四月二日
エイプリルフール終了。
平成十八年四月二日
プレイボール2最終囘 @ tvk。良い最終囘だつた。
平成十八年四月二日
Windowsのヴァージョンアップは望まれてゐる事なのか何うか、と云ふ疑問。2000のまゝ、XPのまゝでも良い、と云ふ人は少くない。それどころか98で十分と云ふ人も依然存在する。
平成十八年四月二日
エイプリルフールエイプリルフールつてお前らインターネットはエイプリルフール村か云々。
寒いネタしよつぱいネタを「これはエイプリルフールのネタなのです、さあみなさん、笑って下さい、うふふ、面白いでしょ、ね?」みたいに嬉々として示されても白けるだけなんだよ。
平成十八年四月二日
「義」がISPを乘換へた模樣。掲示板に書込み。リモートホストはp298967.tkyoac00.ap.so-net.ne.jp。またぞろ野嵜關係者への執拗な粘着行爲が各地で繰返されると思はれるので、對策可能な方は事前によろしく。
平成十八年四月二日
冷たい人を憎むよりも

じつは私が某ウェブサービスをやめたのは、要求を示さず嫌がらせの予告が行われたからでした。私はそのサービスにおいて本名も勤務先も自己紹介に記載していました。そこに目をつけた某氏は、私が数回「**という属性を明かせる方のみ、ご意見ください」と書いていたのをとらえて、私の勤務先に「御社では社員に個人情報を集めさせていますが、何に利用しているのですか?」といった質問をする、という。これには参った。

べつに悪いことはしていないのだけれど、申し開きができればいいという問題じゃない。趣味領域のトラブルを仕事場に持ち込むこと自体が問題なのは、気弱な会社員の人ならお分かりいただけると思う。

相手は私を侮蔑する言葉などを日記に書くのみ。要求が皆目わからないので、私は困りました。悩んだ挙句、「目障りだから消えろ」ということか? と思ってサービスを退会したら、「これで許してやる」みたいな日記を相手の方がお書きになったので、ホッとしました。触らぬ神に祟りなし。この日記の読者様におかれましては、「あーそういうことがあったのね」とだけ思ってください。こういうこともあるんだなあ、と私は実感したわけです。

何も惡い事をしてゐないのに言ひがかりを附けられ粘着される、と云ふのが常態のウェブの現状はをかしい。俺は、匿名批判をしようとは必ずしも思はないが、實名の人間に對する匿名の人間の理不盡な攻撃には腹を立ててゐるので、「ウェブで實名で活動してゐる人間は、保護されるべきであり、特權を賦與されるべきである」と主張する。
實名の人間を攻撃して、匿名の人間が「消えろ」等と脅迫したり、名前を騙つて各地の掲示板に名誉毀損的な書込みを行つたり、複數のハンドルを使つて総括した――さう云ふ場合、その匿名の人物のプライヴァシーは保護の對象外にされるべきであらう。
システムとして、實名の人間は、警察に保護要請を簡單に出來るやうにすべきだ。ウェブの最大の癌は「粘着」の存在であり、「粘着」は如何なる手段をとつてでも根絶すべきである。警察を利用し易くして、匿名と云ふ隠れ蓑を良い事に「粘着」する鄙劣な人間を出現させないやうにするのが望ましい。匿名批判はあり得るが、匿名の嫌がらせは許されない。
一方、實名の人間には、匿名批判で許される程度の書き方も許されるべきであり、その點で言論の自由は保障されなければならない。俺は言論の自由を無くせと言つてゐるのではない、今の「粘着」行爲の横行は寧ろ言論の自由を危ふくするものだと言つてゐる。
平成十八年四月二日
あまカラ日記: ある思想家の末路

ところが松原においてはこれがいつの間にか文学は政治より重要な問題だ、という意識に変質している。例えば、かつて講演で松原が「北朝鮮による拉致問題などどうでもいい」と放言したのを聞いたことがある。まあ、聴衆向けのリップサービスであろうし、大目にみたいところではあるがその神経を疑わざるをえない発言であった。

その神経を疑わざるをえない発言等とレッテル貼りをして何うしようと言ふのだらう。なぜその神経を疑わざるをえない発言であるのかをあまカラ氏は全く説明しない。當り前だ、あまカラ氏はただ單に松原氏が氣に食はないだけなのだから。論理的に説明しようとしても出來る訣がない、だからあまカラ氏は最初から説明する努力を抛棄してゐるのだ。ただ「氣に食はない」と感情論を書けば、感情的な賛同のコメントを書込んで呉れる人間が出て來るし、實際、安倍佑月氏なる人物のコメントはさうである。「義」もこの闇黒日記の記事を見て喜んで「すばらしい」とか適當な禮讚の文句を書込むだらう。或は松原氏や野嵜その他の人間の名前を騙つて荒しを仕掛け、ネット上の松原ファンの印象を惡くするやう仕向けるだらう。閑話休題。
松原氏は政治を閑却などしてゐない。防衞の問題を論じ續けてゐるのだから、それは火を見るよりも明かだ。實際のところ、その「放言」をした講演で、松原氏は、政治のとるべき北朝鮮對策の方法をはつきり述べてゐた。それは全く文學的ならざる正確な意味で政治的な方法であり、「諸君!」「正論」等の論者が繰返してゐる北朝鮮論とは次元の異る現實的なものであつた。北朝鮮との交渉は、問題を實際に解決するものでなく、單に「解決の實現を求めて努力してますよ」と云ふ日本人の日本人に向けた浪花節的なパフォーマンスでしかない。あまカラ氏の、發言の一部分を採上げて恰もそれが發言の全體であるかのやうにすり替へるやり方は、非常に汚いもので、許されない。しかし私は「恥部」かどうかはともかくとして、松原氏が福田恆存が持っていた一部分を拡大して持っていることだけは事実だと思う。と言つたあまカラ氏自身が、惡い意味で「一部分の拡大」をやらかしてゐるのは皮肉な話だ。そして、この手の非難の仕方が「松原氏批判」では横行してゐる。

ただ、「諸君!」の論文は軒並みくだらない、といった発言(単に政治問題を政治問題として論じた文章のどこがくだらないのか)や、上記の発言を見れば、松原氏は政治そのものを侮蔑しているのだとしか思えない。

さう云ふ「身内を攻撃されたのが氣に食はない」式の發想が政治主義なのだ。政治問題を政治問題として論ずるのに一生懸命な文章が下らない事は火を見るよりも明かだ。「人間不在」の文章が下らない事は福田氏が述べてゐる。今の保守系雜誌の論文が軒並「人間不在」である事は――實は「『人間不在』の防衞論議」以來、變つてゐない。「おかはいさうに」が「人間的」だと福田氏は言はなかつた。
と言ふか、あまカラ氏は西尾幹二の恥部を擴大したやうな人間――と言ふよりさう云ふ類の人間が、松原氏を非難しなければならないと思ひ込み易いやうに思はれる。或は、福田恆存の恥部を擴大したのが西尾幹二――いやいや、福田氏に(言論的な意味で)恥部はないから云々。あと、西尾氏は排他的なところがある、身内の人間には判らないだらうけれども。西尾氏フォロワーにもまた。
ちなみに俺は柵の文章を讀んでゐない。謹慎中。何年謹慎すれば良いのだらう。

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