メールで友達全員に「今日、どこ行く?」って配信するより、自分のブログに「今日、どこ行く?」ってアップし、コメント欄等で返事を待った方が効率的なわけだ。
まぁこの辺の話は,陰からマモルとかを観ていても思ったんですが,ベタなアニメ的手法の作品が意外に心地良く見れる場合もあったり,一方でよみがえる空みたいにドラマ的手法の作品があったり,どうも「リアル」とか「ベタ」とか「いかにも」とかというより,それぞれの狙いどころの中での絶妙のバランスとかいうのがあるんだろうなぁ…と。
しかしいちいちこの程度の嫌みな遊びに目くじらを立てるのも劣等感の裏返しみたいで醜悪な感じがするんですが、どうなんでしょう?
なぜ野球選手はヒマさえあれば事故、違反を起こすのかなんて言つてゐる。ちなみに一面記事は「朝日社長長男大麻逮捕」。なぜ新聞・雜誌の關係者は暇さへあれば不祥事を起すのか。
プロ野球選手に車は、なんとかに刃物か)
それにしてもなぜプロ野球選手は交通違反や事故を起こすのか不思議だ。その理由は、違反や事故を起こしても、よほどのことでない限り表面に出にくいからだ。
小泉のやりたい放題を傍観する庶民のこれからなんて見出しの下、總理と國民を罵つてゐる。視聽者の惡口は言はないナベシンよりもゲンダイの方がマジヤバらしい。
そのレベルの高さには定評がある。なんて書いてある。Wikipediaは信用ならない。
あ、そうそう野嵜さんがまた日記で反応してくれているのだが、もちろん日記というのはスタイルの問題であって、公的な場所で私的に振る舞うのが公開されている日記というスタイルのあり方のひとつなわけである。
[謎]とか書かれてゐて、これは――と言ふかyuuさんの「ブログ」は
わかる人間にだけわかればよい、というお遊びの一種であり、
公的な場所で私的に振る舞うスタイルなのだが、「何の事だ?」のやうな「つつこみ」を入れると「氣にしないで良い」のやうな答が返つて來る。この手の「日記」の「あり方」は如何なものだらう。
数年来の疑問がやっと言葉になりました。野嵜さんはなぜ HTML に拘るのでしょうか。或いは、なぜ HTML にしか拘れないのでしょうか? HTML のようなウェブページの記述言語に拘るなら、なぜ HTML に勝るものを開発しようとしないのでしょうか? かつて私も「正しい HTML 」普及のためにやれることをしました。しかしそれは余りに不毛だった。
私は野嵜さんにもっと意味のあることを書いてほしいと思っています。野嵜さんはなぜコンピューターの環境( OS だとかウェブブラウザだとか)に不満を漏らしながら、それを改善しようとしないのですか? もっと云えば、野嵜さんはプログラミングを学ぶべきなんです。ここまで云える野嵜さんだからこそ、作れるものがあるはずです。そしてプログラミングはコンピューターの環境に疑問を持つ野嵜さんの人生をきっと良くします。落ち着いて、冷静に考えて下さい。余暇を費やせば十分素晴らしいプログラマになれるんです!
- 私は<em>とても酸っぱそうな</em>緑のレモンをまる齧りしました。
さらに一歩進めたのがこれ。緑である事が明示される。
- 私は<em>とても酸っぱそうな</em><font color="green">緑</font>のレモンをまる齧りしました。
行き過ぎなのはこれ。黄である事とレモンである事は別。
- 私は<em>とても酸っぱそうな</em><font color="green">緑</font>の<font color="yellow">レモン</font>をまる齧りしました。
緑と云ふ言葉。font要素のcolor屬性の値"green"は、單に「そこの文字列をgreenなる色で着色して表示せよ」とグラフィカルなウェブブラウザに指示を出してゐるだけに過ぎないのであり、何の意味も示してゐない。
とても酸っぱそうなではなく
緑をem要素にする必要がある。いや、どつちも強調なんだと言ふのならどつちもemの中身にすれば良い。それだけの話だ。
HTML's multimedia features云々と書かれてゐて、HTMLがマルチメディアの機能を持つ、即ちHTMLがプレゼンテーションの爲の機能を持つ、とW3Cは言つてゐる。ならばプレゼンテーションの爲のfont要素だつて廢止する事は無からうと思ふのだが、この邊の論理的な整合性、何うなつてゐるのだらう。W3C關係者は何か理窟を用意してゐると思ふのだが探すのが面倒。W3C關係の議論は、オープンな場で行はれてゐるのだが、分り易くまとめられてゐないし、そもそもメーリングリストや掲示板等の議論はそれ自體として情報がごちやごちやになつてゐるもので、オープンではあつてもわかりにくい。W3Cは、最終的な見解の表明に至るまでの過程をわかりやすく整理して示すべきで、「メーリングリストの過去ログを見ろよwww」みたいなおざなりな對應を繰返して來たW3C關係者のこれまでのやり方は反省されるべきだ。國字改革でもさうだつたが、HTMLの策定も、議論の過程が「良く調べないとわからない」やうな状態にされて、ただ最終的な「議論の結果」としての仕樣書なり何なりが一般人の目の前にいきなりぽんと抛り出されて「お前逹、これは上意であるぞ」と云つた「義」の言ふやうなやり方で押附けられて來た。これは本當にをかしい。「HTML入門」では、「良質」なものですら、HTML 4.01 SpecificationでもISO/IEC 15445:2000でも、仕樣書が策定される過程の議論を全く無視して「仕樣書を解説する」と云ふやり方が屡々とられてきた。と言ふより、さうするより他やりやうがないやうな状態にされて來た。これは反省されるべきである――と言ふより、HTMLの仕樣策定者には反省を要求する。HTML關係の議論が起き續けてゐるのは、仕樣策定者が説明をしないからだ――或は、「説明は既にある」と言つて、わかりにくいメーリングリストの過去ログの山を示すなんて手拔きをし續けて來たからだ。と言ふか、XHTML 1.0の仕樣書の手拔き具合は異常。「HTML 4.01を見よ」みたいな書き方をするのは何うかしてゐる。
この”文字を考える”シリーズのきっかけとなったのは、昨年7月15日の産経新聞に載った『断 郵政民営化のどたばた』という記事でした。筆者のT氏はコラムニストですが、「ながめて(眺めて)」「おもう(思う)」「じょうず(上手)」「かんがえる(考える)」「わたしたち(私たち)」「わるい(悪い)」(カッコ内は一般的な用法)など、小学生でも使っている文字が平仮名で次々と出てくるのです。漢字を使わない主義なのかと思いましたが「辞書」「嘘」「的確」「辞める」など漢字も結構出てきます。どう使い分けているのか? としばし思案に耽りました。千数百年にわたり漢字で培わてれきた日本語を、もっと大切にしてほしいと思います。
もう一つ、私が常に抱いている疑問は、『現代仮名遣い』が採用されてすでに半世紀以上もたち、その中で育った人が大部分なのに、『旧仮名遣い』にこだわる作家や評論家が一流誌の誌面に登場していることです。文中に例えば「やうだ(ようだ)」「だらう(だろう)」「云ふ(言う)」「ゐた(いた)」などが多出、戦前・戦中の学生時代にこうした表記法を叩き込まれた者でさえ強い違和感を覚えます。阿川弘之氏のような戦前派は仕方ないとしても、小堀桂一郎氏(1933年生れ)や中村粲氏(1934年生れ)は中学生のころから『現代仮名遣い』で育ったはずです。
”物書き”の使命は、一人でも多くの人に著作を正しく読んでもらい、内容をよく理解してもらうことだと考えます。そのためには自分のこだわりを押えることも大切です。また出版社には「編集権」があり、このような場合は編集者が毅然とした対応をすべきではないでしょうか。
千数百年にわたり漢字で培わてれきた日本語を、もっと大切にしてほしいと思います。と言つたそばから、
千数百年にわたり使はれて來た歴史的假名遣を「使ふな」と命令する。歴史的假名遣は日本語でなく、漢字だけが日本語であるらしい。支離滅裂だ。
日本語の表記について本誌ではかなり神経を使っています。創刊から三十数年、基本は守りながら部分的に改変したケースも幾つかありますが、どの書籍よりも「常用漢字」「現代仮名遣い」を大切にしつつ、本誌ですでに定着しているものはそのまま残す…という。方針を貫いているつもりです。
旧字体が新字体になつたと言つても、新字体はもともと俗字や略字として使はれてゐたものが殆どだといふことがその一つである。新字体と言つても、無いものを新たに作つたものではないのだ。
つまり、新字体と言つても、公式の文書、活字に組んだ文書で使ふ漢字を、既に存在する簡単な字体で書くことにしただけのことなのである。といふことは、新字体を使つてゐるからといつて、日本の伝統文化から断絶してゐることにはならないのである。
だけのことぢやねえよ。それもまた問題なんだよ。と言ふより、それが一番の問題。國字改革が「略字を略字として採用する」と云ふのだつたら改革推進派の罪はまだしも輕かつた。連中は「これまで略字と呼んで來たものをこれからは正しい字とする事を命じます。從來の字體は抹殺する事とし、今後、公式の場で用ゐる事を禁止します」と言つた。これが許される事か。「許される! だつて簡単になるんだもの!」と改革推進派とその支持者逹は叫ぶが、本氣でそんな「理窟」を信じてゐるのか。「簡單」とか云ふスローガンの前に屈服すべき理由は全くないし、實際、場當り的な略し方が行はれた所爲で、漢字を理解する事は極めて困難となつてしまつた。「考へるな、感じるんだ!」と「略字」主義者は命令するだらうが、さう云ふ發言は虹裏のネタに留めておくが良い。
私が旧字体を使はないのは、ごちやごちやして見場が悪いからだけだが、この本を読んでからは、著者の趣旨とは逆に、漢字の成立ちは旧字体で学ぶとしても、使ふのはこのまま新字体でいいかなと思へてきた。
身につけて、また手に持って持ち運ぶことを意味する普通名詞であり、ややこしくなるから携帯電話の略語であるべきではない。
ジャンキー向けの多機能ブラウザは、OperaやSleipnirやLunascapeをはじめとして百花繚乱だし。
HTML の説明となり得るのは HTML 仕様書のみでありまして、これ以外は全て「自家版解説」です。 割り切って主観を交えて書くのもアリ。 Web にある、というだけなら誰も知ったことではない。 初学者が間違った解説を読むと混乱するという「正義感」も解からなくはないけれども、それを言うと Web には「正しい」ものしか置いてはいけないことになる。 これは検閲と同じこと。
それを言うと云々と云ふ事になるのだらう。
高みを目指して自分を研鑚する姿勢がどうたらかうたらと他人に説教する暇があつたら
自分を研鑽したら何うか。三宅氏は何うして他人に説教するんだよ。三宅氏が他人に説教して良いのなら、久樹さんが「正しいHTML」の解説を公開したつて良いだらう。
自分の研鑽等と言つてゐる三宅氏も、その三宅氏自身の考へを信じてゐるならば、自分が率先して默らなければならないにも拘らず、なぜか自分の事を棚に上げて他人を默らせようと御喋りしてゐる。
飛行機はなぜ飛ぶのか? 科学では説明できない! あたまが柔らかくなる科学入門と云ふduliuが好みさうな惹句が附けられてゐる。こんな本を讀んで、讀者は本當に
あたまが柔らかくなるものなのだらうか、俺は疑ふ、疑つたつて良いだらう。
- target=_blankの件 投稿者:まき 投稿日: 3月 1日(水)21時57分26秒 ...
お久しぶりです。
今のOperaで、target=_blankの場合にも同じ窗で開きたい件ですが。
私は「當該リンクを右クリック→開く」でやつてゐます。Drug & Drop よりこちらの方が速いやうな氣もします。
ふつう Cmd+↓ だよねぇ。
アンカーを、現在見ているサイトのタブにドラッグ&ドロップすると同じタブで開ける様です。