闇黒日記


平成十八年三月三十一日
終盤のいろいろな失速が哀しいマジカノ最終囘 @ tvk。こんな終り方、期待してゐなかつた。と言ふか春生のキャラが弱過ぎたから云々。あー噂に聞いてゐた程は非道くありませんでした。
平成十八年三月三十一日
CSS+HTML -できる!CSSを使いこなす-
平成十八年三月三十一日
アメリカの大学生より日本の高校生の方が実はかなり衝撃的:できる!CSSを使いこなす

メールで友達全員に「今日、どこ行く?」って配信するより、自分のブログに「今日、どこ行く?」ってアップし、コメント欄等で返事を待った方が効率的なわけだ。

あんまり驚異的に感じない。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~chic/2006/03/200603_124.htmlより。
平成十八年三月三十一日
謎のトリス・ガリ氏のはてなアンテナが時々妙に遲くなつてゐて、ブラウザが「おとなりアンテナ | おすすめページ」を表示したところで長い事何かを讀みに行つたまゝその下が白紙になる、と云ふ事があるのだけれども、HTMLのソースを表示させると</html>まである=「完全なHTML文書」になつてゐる=最う最後までデータは來てゐる。何で表示されないのだらう。
20060331THA.jpg
平成十八年三月三十一日
http://www.w3.org/TR/html4/struct/text.html#h-9.3.4
PRE要素は視覚系ユーザエージェントに、囲われているテキストが「既に整形されている」事を伝えます。既に整形されているテキストを扱う時、視覚系ユーザエージェントは:
非視覚系のユーザエージェントはPRE要素の中身にある余計なホワイトスペースを顧慮しなくても結構です。
ラインブレークに関するSGMLの仕様についての詳細は、appendixの「ラインブレークについてのメモ」を参照して下さい。
上記のDTDは、どの要素がPRE宣言の中に出現してはならないか、を示しています。これはHTML 3.2と同じで、一定の行間と列の配置を保持して、テキストが固定ピッチのフォントでレンダリングされるようにする意図があります。
譯註――と言ふか「闇黒日記」の中なので、DTDの断片は書きません。あと、シェリーの詩を使つた例示も省略。まとめの人はフォローよろしく。
水平タブ文字
水平タブ文字([ISO10646]と[ISO88591]における十進9)は通常、視覚系ユーザエージェントに、八文字ごとのタブストップに行の文字を位置揃えするのに必要な、少くともゼロでない数のスペースとして解釈されます。水平タブを既に整形されたテキストの中で使うのは、やめて下さい――と、そう私達が強く申しますのは、編集時にタブスペーシングを八字以外に設定するのはありがちな事で、文書の配置をおかしくする事につながるからです。
平成十八年三月三十一日
四月一日にはLCPの更新作業を行ふ豫定。エイプリルフールと云ふ事でイヴェントをやるサイト、イタいサイト名にしたらそれをそのまゝLCPでアンカーの文字列に使ひますのでよろしく。多分半年くらゐ放置されるから云々。
平成十八年三月三十一日
MOON PHASE 雑記 - 「Canvas2 〜虹色のスケッチ〜」第24話
MOON PHASE 雑記 - ▼WebClap/Formレス 2006-03-28
MOON PHASE 雑記 - ▼WebClap/Formレス 2006-03-30
Canvas2感想關係。あれの一番の失敗はですね、最終囘がずつと雪だつた事です。御終ひの方で晴れにしなければ駄目でせう。そこで虹が出るんですよ。何と言ふか、ハーレム系エロゲあにめの最大の問題は、もともと「どの女でも落せるシステム」のゲームを原作にしてゐる事。主人公が誰かと結び附くべき必然的な理由が缺如してゐるから、話として纏まらないし、無理に纏めると文句が出る。ゲームは藝術たり得ない。
MOON PHASE 雑記 - ▼WebClap/Formレス 2006-03-23
慥かにCanvas2こそ「俺逹の戰ひはこれからだ」エンドにすべき御話だつたよな。
MOON PHASE 雑記 - 「かしまし〜ガール・ミーツ・ガール〜」第12話
かしましはあかほり分が足らないので詰らなくなつた非常に珍しい例。
平成十八年三月三十一日
たろぁーるの日記 - 灼眼のシャナ 全体を通して

まぁこの辺の話は,陰からマモルとかを観ていても思ったんですが,ベタなアニメ的手法の作品が意外に心地良く見れる場合もあったり,一方でよみがえる空みたいにドラマ的手法の作品があったり,どうも「リアル」とか「ベタ」とか「いかにも」とかというより,それぞれの狙いどころの中での絶妙のバランスとかいうのがあるんだろうなぁ…と。

平成十八年三月三十一日
古書展。他の客と喧嘩したり云々。雜誌ばつかり。「書評」昭和二十四年二月號。「展望」1970年4月「創刊100号記念特別号」(卷頭「展望・雑誌への注文」の欄に福田恆存が「自戒の辯」を執筆)。「文藝往來」昭和二十四年四月號(鎌倉文庫)(卷頭「某月某日」欄に福田恆存が執筆)。「文藝往來」昭和二十四年五月號(鎌倉文庫)(鼎談 高見順・平林たい子・新田潤「批評家に何を望むか」と中村光夫・小田切秀雄・福田恆存「小説家に何を望むか」掲載)。「批評」61 ボオドレエル特輯(創元社)(福田恆存「インテリかたぎ」掲載)。「批評」一九六〇年冬季号(T.E.ヒューム・中村保男譯「塹壕日記」連載開始)、「批評」一九六一年冬季号(「唐木順三氏との一時間『無用者の系譜』をめぐって」掲載)。「批評」一九六八年冬季号(泉靖一・福田恆存・西義之・土居健郎「座談会 日本人の価値観について」掲載)。單行本。中谷宇吉郎『日本のこころ』(文藝春秋)(毎日新聞昭和29年11月1日「寄書」欄中谷氏「原子炉の問題」切拔きが挾まつてゐた)。
平成十八年三月三十一日
めも。スキャナの蓋を閉めるとスキャンしたい物が動いて斜めになつたりするのが困る――そんな時はポストイットで留めると良い。
平成十八年三月三十一日
なんかまた「申 し わ し た ぞ」の人がうろついてゐますね。流石エイプリルフール。
http://seijiseikana.g.hatena.ne.jp/iwaman/comment?date=20060314#c
平成十八年三月三十一日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/comment?date=20060130#c
http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/comment?date=20050617#c
http://8242.teacup.com/canoe/bbs
http://alice-no-ouchi.de-blog.jp/sophia/2006/03/14_3478.html#comment-2753547
平成十八年三月三十一日
"お ま え ら 、き つ く 申 し わ し た ぞ 。" - Google 検索
之等の全ての投稿をプリントアウトして警察署に持つて行つたら名譽毀損で「義」を逮捕する事が出來るでせうか。刑法に詳しい方、教へて下さい。辯護士か探偵さんか、御聯絡下さい。或は、どなたかを御紹介下さい。取敢ずこれらの全ての投稿、證據として保全よろしく御願ひします>各方面。
と言ふか、警察方面とか法律方面とかにうちの讀者は存在しない?
平成十八年三月三十一日
何うして何年も何年も「申しわたしたぞ」ではなくて「申しわしたぞ」なんて間違つた日本語の文章を平氣でコピー&ペーストし續けられるんですかね。「義」の頭の中を見てみたい。大丈夫なんですかね。或は、もしかして、「義」は日本語に御不自由な方なのですか。ひよつとして、日本人ではなくて××人ですか。ふたばでも何處でも粘着は例外ナシに××人らしい。
平成十八年三月三十一日
ジャングル、CSSデザインページを簡単に作成できるWebページ作成ソフト
プレスリリース:ホームページ作成経験者も納得の先進性!「魅せる」CSSデザインページを簡単作成できるホームページ作成ソフト『Web Design Works8』 - 株式会社ジャングル
平成十八年三月三十一日
ネット違法情報の通報窓口設立へ、警察庁の有識者会議が提案
「義」の事を通報して簡單に逮捕させられるやうな仕組が早く出來て欲しい。民間團體でなくて警察が直接やつて呉れると助かる。
平成十八年三月三十一日
Yahoo!ブログ - あぁ岸監督の「超ぽじ」なアニメ現場話などなど
マジですか。
平成十八年三月三十一日
さて、もし俺が各地の掲示板や「ブログ」に「申しわしたぞ」等と書き捲るスパマーであり、或は惡性氏や黄東洋や竹下が言ふやうに「掲示板荒し」であるとしたら、さう云ふ人間がW3CにHTMLの仕樣書の飜譯をやつてゐるとして登録された時、世界から日本人が何んな風に見られるものであるか。「義」やその他の嫌がらせをして呉れてゐる人々には良く考へて貰ひたい。
妨碍工作をされればされる程、俺は意地でも今やつてゐる事を止めないからなと思ふやうになる。風説を流したり名前を騙つたりして俺の評價を落さうとする奴がゐるなら、それに對抗して、評價が上がるやうな事をするのは、當り前の事だ。

平成十八年三月三十日
LEMON ANGEL PROJECTがしつかり纏めて來た。今期の最終囘では良い方に入る。よみ空の次かその次くらゐ。
かしまし。いろいろアレだつたが、最後がやつぱりわけわからんかつた。Canvas2にしてもさうだが、この手の戀愛だか何だかの御話では相當巧く話を落さないと。
鍵姫。話は前囘で終つてゐて最終囘は番外篇。これはこれで「あり」かと。宮崎監督、今囘は作畫が良くて良かつたです云々。
平成十八年三月三十日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - 生産と流通と消費と蕩尽
未だに何かを經濟(學)の言葉で語らうとするのは何うかと思つた。特に文學。引用文、渡邊さんは兎にも角にも「意味が通じる」と思つてをられるやうなのだが、俺には全く意味が判らないものにしか見えない。渡邊さんの「与太話」もまた。渡邊さんの方は鉤括弧附きで語を用ゐてゐるが、これは引用だからに過ぎない。
と言ふか、「文學は個人が好きでやるものである」とか言つた見解、好い加減、抛棄した方が良いと思ふよ。文學が、ただ單に面白がる對象に過ぎないのなら、もつと面白い物によつてとつてかはられるのは必然と云ふ事になるからだ。「いや、そんな事はない、蓼食ふ蟲も好きずき、俺は相對的に詰らなくなつた文學を好きでやつてゐるのだ」とか言ふのは、文學を馬鹿にした考へだ。或は、そこまで自虐的に考へなければ文學なんて「やつてゐられない」と云ふやうなものなのだらうか。自虐は氣持ち良いが、「氣持ち良い」だけが理由の主張では「チラシの裏に書いてろ」みたいな罵倒をされても當然。
「文學もまた科學である」なんて事は言はないけれども、自然科學や社會科學にそれぞれ特異の一般的價値があるやうに、文學にも一般的價値はあると俺は信ずる。「いや、そんな事はない、さう云ふ價値觀こそ打破すべきものだ」と反論されるかも知れないけれども、その反論の根柢にある價値觀は何。ただ單に抵抗を面白がつてゐるだけでは駄目だよ、何らかの意義がある事を説明出來ないのでは。説明を求められた時に説明をしないのは知的怠惰――と言ふか、俺にして見れば自己正當化の爲に理窟を竝べ立てるのは大變好ましい事であり、「好きにさせろよ」式の逆切れは氣に入らない事だ。逆切れ的な抵抗は、反省を抛棄したものであり、誤を絶對に撤囘しない系の人間であると宣言するやうなものだ。そんな事をやるのが「文學」だ、と云ふのでは、慥かに「文學」は要らないものであり、好きでやるやうなものだ、と云ふ事にならう。さう云ふ駄目な前提の下で「文學」を語る人が多過ぎる。はつきり言ふと渡邊さんもその一人。だから詰らない經濟用語の羅列を面白がつてしまふのだ。
單純な秩序の打破・權威への抵抗は、現代人の一部に於ては當然の事と看做される一方、昨今、その意義が疑はれつゝある。そこで「説明しないのが主義である」式の「説明」に據る抵抗が行はれるのだけれども、其處まで目茶苦茶で徹底的にカオスなのが人間的であり得るのか、と云ふのが最近の批判の本質である事に氣附かれたい。秩序の相對化としての渾沌の意義の強調は「あり得る」のだが、それを通り越したカオス萬歳のドグマ的思考に陷つてしまつてゐるのでは、再度ドグマ思考の打破の主張が表明されても仕方がない。

平成十八年三月二十九日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20060327

しかしいちいちこの程度の嫌みな遊びに目くじらを立てるのも劣等感の裏返しみたいで醜悪な感じがするんですが、どうなんでしょう?

開き直りか逆切れに見える。
平成十八年三月二十九日
クラスターエッジが盛返して觀られる最終囘に。やつぱり可成意味不明だけれども。
平成十八年三月二十九日
今期のあにめが悉く討死にして行く。なんかいろいろ嫌な情報が續々。非道い最終囘が幾つも幾つも。
平成十八年三月二十九日
アニメ新番組リスト-----アニ通 「アニメ」、「声優」ファンサイト
アニメ新番組情報
MOON PHASE - ANIME/MOON PHASE 雑記

平成十八年三月二十八日
Canvas2御終ひ。結構頑張つて話を纏めたやうな氣はする。前囘雰圍氣を盛上げ過ぎて外した感があるのと、最後の最後でアレしてしまつた感があるからアレだけれども。
初囘は良いけれども途中で弛れてしかし最後に一氣に盛上げて決着みたいな話に比べると、間は良いけれども最初と最後が今一つなCanvas2みたいな話は印象が惡くなる。個人的にはそれほど非道かつたとは思はない。寧ろ今期の佳作。
平成十八年三月二十八日
LEMON ANGEL PROJECT @ tvkの最終囘は水曜深夜。シャナの枠にて。要注意。
平成十八年三月二十八日
練馬大根最終囘。わけわかんないだけであんまりヤバくなかつた。小泉なんてウェブだと普通にネタにされてるからなー。と言ふか、一番ヤバい視聽者批判なんてどうせやらないと言ふかやれないんだから大してヤバくないに決つてゐる事は最初から判り切つた話。
視聽者・讀者のやうな身方を斬るなんて本當にヤバいネタは、まともな人間はやらない。まともでない俺は屡々やる。やつたからと言つてそんなに偉い訣ではない。ナベシンレヴェルでは云々。
平成十八年三月二十八日
夜櫻見に行かうと思つたら嵐になつてる。
平成十八年三月二十八日
日刊ゲンダイに「プロ野球選手に車は、なんとかに刃物か」なる非道い記事が載つてゐた。なぜ野球選手はヒマさえあれば事故、違反を起こすのかなんて言つてゐる。ちなみに一面記事は「朝日社長長男大麻逮捕」。なぜ新聞・雜誌の關係者は暇さへあれば不祥事を起すのか。
ゲンダイネット
http://gendai.net/?m=view&c=010&no=17604(2006年03月28日 掲載 プロ野球選手に車は、なんとかに刃物か)
それにしてもなぜプロ野球選手は交通違反や事故を起こすのか不思議だ。その理由は、違反や事故を起こしても、よほどのことでない限り表面に出にくいからだ。
尤もらしく解説してゐるが――そもそも、事實としてプロ野球選手の違反率は一般人の違反率より高いのか? ゲンダイは何を根據にこんな「解説」をしてゐるのだらう。「義」が「野嵜が××なのは無職だからだ」なんて良く言つてゐるが、それと同じ種類の「解説」でしかない。「さう考へれば納得出來る」と云ふ奴だ。別に「さう考へなければならない」必然的な理由はない。惡質なレッテル貼りで、かう云ふレッテル貼りを「良い事だ!」と思ひ込んでゐるゲンダイの記者は「義」と同レヴェル。「一般人ならば捕まつても目立たないが、プロ野球選手なら捕まると騷がれる。だから選手の方が愼重に運轉する」なんて「理窟」だつて言へるのだ。自分に都合良く展開される適當な「抽象論」くらゐ、たちの惡いものもない。
「今日のゲンダイ」は小泉のやりたい放題を傍観する庶民のこれからなんて見出しの下、總理と國民を罵つてゐる。視聽者の惡口は言はないナベシンよりもゲンダイの方がマジヤバらしい。
と言ふか、「なんとか」なんてぼかした書き方をしてゐるのは如何なものか。ゲンダイははつきり「きちがひ」と書くが良からう。ゲンダイにも怖いものがあるらしい。
あとWikipediaの「日刊ゲンダイ」の項、「狐の書評」に觸れてゐて、そのレベルの高さには定評がある。なんて書いてある。Wikipediaは信用ならない。

平成十八年三月二十七日
よみ空。良い最終囘だつた。今期は豐作だつたなー。これ一本出て來ただけでも十分だよ。他のあにめも結構良くまとめて來てゐるし。と言ふかスクラン空氣嫁。
平成十八年三月二十七日
P要素はパラグラフを表します。ブロックレヴェル要素を(P自身も)中に持っている事ができません。
平成十八年三月二十七日
http://www.w3.org/TR/html4/struct/text.html#h-9.3.2
ラインブレークの制御
ラインブレークはキャリッジリターン、ラインフィード、あるいは、キャリッジリターンとラインフィードのペアである事と定義されます。全てのラインブレークはホワイトスペースになります。
BR要素はテキストの現在の行を強制的に中断(終了)します。
視覚系ユーザエージェント向けに、BR要素に続くマーク附けが、左あるいは右マージンにフロートしている画像やその他のオブジェクトの周囲を回り込むかどうか、その種のオブジェクトの下から始まるかどうか、を決定するため、clear属性を使えます。詳しくは「配置とフローティングオブジェクト」のセクションにて説明します。フロートしている画像とオブジェクトの周囲におけるテキストの回り込みを制御するには、制作者はスタイルシートを使って下さい。
双方向性の整形を顧慮すると、BR要素は[ISO10646]のLINE SEPARATORキャラクタが双方向性アルゴリズムでする振舞いと同様の振舞いをすべきです。
ラインブレークの禁止
時として、制作者はラインブレークが二語の間に出現するのを阻止したいと思うかもしれません。&nbsp;エンティティは空白として振舞いますが、そこでユーザエージェントはラインブレークを生じません。
――こんなのを譯すのに三十分以上かけてゐる俺。内田譯と言ふか補完委員会譯を參照してゐるが、どうも意譯や超譯が多いやうで(?)、あんまり參考にならない。
About the HTML 4.01 specification Japanese translation
determine ... whether ... ,or whether ...
HTML401_932.gif
あと、「HTMLのコーディングチェック」の譯が消滅してゐる。W3Cには報告されてゐないらしい。未だに飜譯へのリンク集からリンクが張られたまゝになつてゐる。
http://www.w3.org/MarkUp/html4-updates/translations.html#Japanese
平成十八年三月二十七日
渡邊さん御立腹。何度も言ふけれども、遊びで本氣になるのは野暮と言ふものだと。遊びを批判されて本氣になつて怒るくらゐだつたら最初から「これは遊びではない」と思つておいた方が。
と言ふか、「遊び」は讀み手が気附くか氣附かないか程度でやるのが良いのであつて、これ見よがしにやれば嫌みだと思ふ。「わかる人はわかる」けれども「わからない人は氣にしないで良い」とかはつきり言ふのは物凄い嫌み。

平成十八年三月二十六日
W3Cの文書の翻訳
HTML 4.01仕様書(日本語訳)
取敢ず形だけ作つて見たよ。
原典のマーク附けやら何やらまで再現するの、めどいです。そこまで徹底してやらなくて良いですか。
實行するか何うかは微妙。やるにしても適當な抄譯になる氣配。屬性とかの表まで一々持つて來る必要あるか知らん。説明の文章だけ譯せばそれだけで參考にはなるんでないですか。
平成十八年三月二十六日
試譯。譯文は需要を考慮して略字略かな。
http://www.w3.org/TR/html4/struct/text.html#h-9.3.1
P要素はパラグラフを表します。ブロックレヴェル要素を(P自身も)含む事ができません。
私達は制作者が空のP要素を使うのをやめさせます。ユーザエージェントは空のP要素を無視すべし。
問題點の列擧。representの譯語。include/containの譯し分け。we。discourage A from B. shouldの譯語。
三日くらゐやつてみて、氣力が續かなくなつたらやめる。いろいろな方法で反應よろしく。と言ふか、突込みが無かつたらやめる。
譯文の轉載は自由。と云ふ事にして、誰かにまとめサイトを作つて貰ふ、と云ふのも一つの方法。なので、誰かやつて下さい。
平成十八年三月二十六日
W3Cの飜譯に關する報告の規定、「あちこちのサイトとか掲示板とかが連携してオープンな形でやる」と云ふやうな事を考へて作られてゐないよな。誰か個人が作業する・複數の人でもクローズドな場で協議しながら作業する、公開するサイトは公開する以前に完全に構築されてゐる――さう云ふ事が大前提の規定にしか思はれない。今、世間では「Web 2.0」とか言つてゐる人がゐるけれども、W3Cのこの規定は「Web 2.0」の時代から取殘されてゐる。何と言ふか、W3Cも最う古いんだよ。
平成十八年三月二十六日
コシヌケな御意見番 : 独自インタフェイスにも礼儀あり

平成十八年三月二十五日
LF-M821JD+Zulu2+DVD-R47PWX10PTで書込みに失敗する。DR-120TY10BAでは全く問題なく書込みが成功する。
平成十八年三月二十五日
LF-M821JD+DVD-R47PWX10PT、念の爲TMPGEnc DVD Author 2附屬のSONIC製DVDライティングツールでテスト。書込むデータは同じもの。ライティングツールは、燒きにかかつた瞬間、異常終了。ディスクがまた一枚無駄に(「書込み濟み」である事にされてしまつてゐる)。何が惡いのか全く判らない。
平成十八年三月二十五日
DVD-Rマジ死ねよ。千圓を溝に捨てたやうなものだ。損害賠償でも請求してやらうか知らんと思つたが、何處に請求すれば良いのかすら判らない。
書込みに失敗するやうなメディアなりドライヴなりソフトウェアなりが生産・販賣される、と云ふ事がDVD規格の缺陷を示してゐる。ハードディスク以外の全てのメディアが「信頼性が低い」と云ふのを「當り前」としてゐるのは本當にをかしい。世の中根本的に何かがをかしいと思ふのだが、何うして誰も思はないのだらう。たかがDVDだが、こんな代物を作るのが技術の進歩なのだらうか。著作權保護なんて何うでも良いんだよ、ユーザにとつてはデータを確實に保存出來る事が一番重要なんだ。
平成十八年三月二十五日
最う一度LF-M821JD+Zulu2+DVD-R47PWX10PTで書込みテスト。同じデータ。全く問題なく書込みが成功した。訣がわからない。
平成十八年三月二十五日
Panasonic LF-M821JD
ドライヴが駄目つぽい。16倍速で燒いたのが惡いつぽい。TDKだから駄目な筈はないのだが。8倍速でも燒けなかつたりしたし。太陽誘電のDR-120TY10BAとは相性が良いのだらう。もつとも、うちの場合、詳細に燒け方の状態は調べてゐないから、ベリファイかけてOKでも、致命的でないエラーが多いとか「ある」かも知れない。何と言ふか、DVDつて本當に信頼出來ないメディアですね。
ドライヴの個體差もあるかも。
平成十八年三月二十五日
何と言ふか、相性とか個體差とかが「ある」時點で、工業製品として駄目だと思ふ。PC關聯の機材はもつと品質が安定しないと行けないと思ふ。なぜかPC關聯では品質のばらつきが「當り前」と思はれてゐるけれども云々。
平成十八年三月二十五日
TDKの超硬、意外と駄目なんだな。光が當つても劣化し難い、と云ふのと、レーザで綺麗に書込み出來る、と云ふのとが兩立する、なんてあり得ないからな。レーザは光なんだし。
平成十八年三月二十五日
と言ふかさ、なんで高速で燒けなければ行けないんだ? 4倍速以下のDVD-Rが滅亡寸前と云ふ今の状況は異常。今後は8倍速用とか16倍速用とかのメディアしか無くなるやうだけれども、それでは過去のレコーダとかのユーザは何うすれば良いんだ? 1〜16倍速對應なんて書いてあるけれども、16倍速の書込みに最適化すれば、1倍速2倍速の書込み時に最適な状態で燒けなくなる事は自明で、ならばさう云ふメディアを低速ドライヴで安心して使ふ事は出來ない。
現状、16倍速のドライヴはそんなに安定してゐないし、高速書込み對應のメディアも信用出來ない。低速ドライヴでまともに書込めるメディアは絶滅寸前。今はDVDが「まともに燒けない」時代である。寒い時代だとは思はんかね。
ブルーレイなんかが出たらDVDのメディアは入手すら困難になるかも知れない。さうなつたらDVDレコーダのユーザは何うすれば良いのだらう。乘換へを強要されるくらゐなら録畫趣味を抛棄した方が良い?
平成十八年三月二十五日
現在もヴィデオテープは潤澤に流通してゐる。デッキもある。もちろん、本當に高級なデッキは絶滅してゐるし、高品質のテープもない訣だが、取敢ずVHSは現役。
DVDはもうすぐ命脈が盡きる。本當に「あつと言ふ間」に消える事になる訣だが、「技術の進歩が速い」所爲でデータの保存が困難になると云ふのは何なのだらう。今のDVDを讀めなくなる時代もそのうち來るのではないか。さうなると、DVDからデータを吸出してコンヴァートしなければならなくなる訣だが、そこまでしてデータを引繼いで行かなければならないか。
DVDの世界では互換性を無視して使ひ勝手を追究する傾向がある。俺は互換性原理主義者だから、今のやうな状況は惡いと言ふ。ユーザは、高品質なデータの保存が出來る事を望むべきであつたのであり、ドライヴの高速化・メディアの(コスト削減に據る品質低下を伴ふ)低價格化を望むべきではなかつた。互換性が大事である事を皆全然理解してゐない。
平成十八年三月二十五日
HTMLでもさうだ。互換性は二の次、「使ひ勝手」とか「見た目」とかを最優先にしてしまつてゐる。テーブルレイアウトでも良いんだとか、そんなデータの互換性を無視した意見が大手を振つて罷り通つてゐる。と言ふより、「ブラウザでレイアウトが崩れないのは互換性が高い證據」なんて恐ろしくレヴェルの低い勘違ひをしてゐる人が多過ぎる。畫面上の「もの」の配置がぴしッと決つてゐるのが「互換性が高い」事なら、全部一枚の畫像にしてしまふのが一番「互換性が高い」事になるだらう。しかし、それではテキストのデータを再利用出來ない。テーブルレイアウトでも、テキストとして再利用が容易なら、それはそれなりに「互換性がある」事になる。けれども、そんなレイアウトの爲の記述が紛れ込んだHTML文書より、素のテキストに近いHTML文書の方が、データとして再利用し易いんだよ。「なら、素のテキストが良いんぢやねえの?」とか言出す人も出て來るだらうが、見出しと本文位の區別は共通のデータフォーマットとして示されてゐた方が便利。だからシンプルなHTML文書が、一番互換性があつて、良いデータなのだ。
データは再利用出來なければならない。何であれ互換性は高い方が良い。
平成十八年三月二十五日
俺はIBM PC/AT原理主義者だが、PC-9800やMacintoshが駄目だと思ふのは互換性が低いから。初代PCから最近のPCまで、全てのIBM互換機でPC-DOSが動く――これは驚くべき事で、これ程まで互換性を重視してゐるコンピュータのアーキテクチャは珍しい。PC-9800は、畫面回りの融通のきかなさが原因で、DOSからWindowsへの移行に問題を生じた。MacはモトローラからPowerPC、そしてintelへと、何度もCPUを變更してゐる。
搭載されてゐる機能、優れた使ひ勝手、立派な思想――そんなものは何うでも良い、コンピュータでは互換性が一番重要だ。
平成十八年三月二十五日
互換性と言ふとunixの名前が出て來るだらうが、unixは互換性よりも個性を重視してゐる。Linuxなんかが典型だが、unixの世界では、全ての機械がユーザの都合によつて個別にシステムが構築される。ソースは共用出來ても、實際に機械の上で動くプログラムは全て個別の機械上でコンパイルされる(それが建前)。Linuxは、カーネルだけが共通のもので(實際には機械毎に再構築される)、ツールの類は個別のユーザが用意するものだ(それが面倒だからディストリビューションが發達したに過ぎない)。
平成十八年三月二十五日
Windowsの場合、セットアップされるのは基本的に同じもののコピー。可能なカスタマイズはメーカが許したものだけだ。
Windowsは、劃一的であるが、標準化が徹底してゐると言ふ事も出來る。
樣々な機能が追加され、操作性も變化してゐる。けれども、WindowsXPで昔風の(Windows 3.0頃のやうな)操作をしても結構自然に使へてしまふ。Windows9x系からWindowsXPに乘換へても、割と自然に移行出來るだらう。どのWindowsを使つても「同じWindows」と感じられるのは良い。Mac OS 9からOS Xに乘換へた時には違和感を覺えた人が續出した。と言ふか、殆どの人が別物と感じた筈。
Macの人はWindowsの使ひ勝手なり何なりについて惡口を言ふ。しかしWindowsは「長續きしてゐる」。俺がPCとWindowsを氣に入つてゐるのは、色々な面で兔に角「長續きしてゐる」からだ。PCの世界は、Microsoftとintelが支配してゐるやうに屡々言はれるが、實は「膨大な數のユーザが存在する」と云ふのが兩社にとつて物凄い「無言の壓力」になつてゐる。Macは、個性的なユーザが多いやうだし個性的なコンピュータであるやうに言はれるやうだが、その實Appleが支配する世界である。と言ふより、スティーブ・ジョブズが支配する世界である。unixなんかになると、個人主義が變に行き渡つて無個性の――と言ふより非人間的な世界になつてしまつてゐる。やうな氣がする。
平成十八年三月二十五日
Linuxなんか、ディストリビューション間の互換性が低過ぎる――Windows的な感覺からすれば、だが。Linuxは「一つのOS」だと言へない。プログラムは、最惡、ソースからコンパイルし直せば使へる。けれども、そんなのは素人向けではない。
同じディストリビューションでも、GNOMEとKDEとで全然別の世界になつてしまふ。此處からしてWindowsに慣れた素人には理解し難い。
unixは、個人が一生懸命「自分の世界」を作らなければ、やつて行けない。これは面倒な事だ。その種の面倒を面倒と思はず努力して行く事が人の向上に繋がる、と、さう云ふ意見もあるだらうが、技術は「人が樂をする」爲にあるのであり、自助努力だの人の向上だので技術の未發達を正當化するのは許されない。
個人的に不滿に思ふのは、unixの世界では、自助努力で何でもやらなければならない割に、參考に出來る資料がない――と言ふより、ある事はあるが、目的の情報に辿り着き、正確に解釋するのが無茶苦茶難しい、と云ふ事。manを讀むのは億劫だ――文章が詰らない。それに、manの情報で、ユーザが惱む問題は大概解決しない。そこで各種FAQを見ろと、さう云ふ話になるのだが、FAQの數は膨大だし、何處にあるのか判らない。特に自分が知りたい情報を探し出すのは素人には無理だ。それに、FAQはほぼ全ての場合、對症療法が書かれてゐるに過ぎない。unixでは基本的に何處にどんな形でデータや設定が保存されるかとか、その邊の手頃なリファレンスは案外ない。「初心者向け」のLinuxの本が、「Linux上で使へるプログラムの紹介」しかしないのは、初心者が困るところを編緝者や執筆者が見て樂しみたいだけなのではないかとすら思はれる。初心者が惱むのは、「作つたデータは何處にどんな名前で保存すべきなのか」とか言つた事なのだ。それがきちんと解説された「初心者向け」の「Linux入門」は案外ない。非道いものだ。「ウェブで配布されているプログラムを導入しましょう」みたいな記事は幾らでもある。しかし、「ウェブで落したプログラムは何處に溜め込んでおくべきか」とか、さう云つた事に關する情報は少い。unixは、ハードウェアとしての記憶媒體を隱蔽するから、データをなんとかディレクトリに置いてディスク上を占有しても、ディスクの殘り容量が容易に判らなかつたりする。プロでもディスクを溢れさせたりするものだが、素人もデータを溜め込み過ぎてディスクを溢れさせる事はあるだらう。さう云ふ時何うすべきかを、「初心者向け」の「解説書」は絶對に解説しない。だからその手の本は「使へない」のであり、一方、そこから次のステップに移らうとしても、用意されてゐる參考書・解説は最早ハックの本なのである(クラックではない)。素人が中級者レヴェルに移行した時、システムを概觀し、ざつと理解出來る、と、さう云ふ解説書・解説記事は殆ど存在しない。かつてのWindowsならwin.iniやsystem.iniについて――DOSならconfig.sysとautoexecbatについて――或はシステムの構成について、ちよつとした本で採上げられ、説明されてゐた。unixは、兔に角專門家向けで、内輪だけで理解されるジャーゴンが多く、素人には判り難い。「それが良い」と思ふ人もゐるだらうが、俺は嫌で嫌で堪らない。
平成十八年三月二十五日
一時期までLinuxの解説書は本當に非道くて、ネットワークの設定について「管理者に尋ねて下さい」みたいな事を平氣で書いてゐた。個人ユーザが自宅でLANを組んでゐる時、管理者なんてゐる訣がないので、尋ねるなんて事も出來る訣がない。必要なのは「個人ユーザが管理者としてネットワークをどのやうに組むか」の説明でありそれを實現する爲のLinuxの設定方法の説明であつた訣だが、その邊について親切に記述した入門書は一時期まで全く無かつた。
平成十八年三月二十五日
「プロならば判る事」について、プロは解説しない。しかし、素人が惱むのはさう云ふ事柄だ。かうした「素人には判らないがプロにとつては判り切つた話」は、何時でも存在する。だが、素人とプロとの懸隔が開けば開くほど、このギャップは解消されなくなる。かうした素人とプロとのギャップは――意識の差・認識の違ひは――素人が指摘しなければ存在そのものが意識されない。しかし、素人は寡默なものだ。默つて去る。默つてLinuxを捨てる。だからLinuxの爲には素人のセンスを持つた批評家が必要となる訣だ。そして、Linuxに限らない、素人のセンスはプロが存在する領域では依然、必要となる。俺は意識して素人であらうと思つてゐる。プロになりさへすれば問題が解決する訣ではない。
平成十八年三月二十五日
問題は、解決される以前に、先づ意識される事が必要だ。俺の書き方が屡々挑發的にならざるを得ないのも、意識されてゐない事を意識される目的があるからだ。挑發は反感をも生むが、反感も持たれないやうな生ぬるい事を言つても注目されるのは難しい。激しい抗議は牽制の手段として有效なものだ。それが反感を買ふにしても、眞實を含んでゐるのなら、判る人には感情的な反撥を超えて認識される。そして、さう云ふ認識こそが必要なのであつて、と云ふのは、眞實の認識があれば問題の解決へは一本の道が通じてゐるからだ。素人の同意とか同情とかが幾らあつても、問題の解決が無ければ意味はない。眞實を含んでゐないなら――それなら反感を買ふだけだが、その方が世の爲には良い事だらう。
平成十八年三月二十五日
以上たつた今思ひ附いた事日頃考へてゐた事をランダムに毆り書き。
平成十八年三月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20060323

あ、そうそう野嵜さんがまた日記で反応してくれているのだが、もちろん日記というのはスタイルの問題であって、公的な場所で私的に振る舞うのが公開されている日記というスタイルのあり方のひとつなわけである。

何かが違ふと俺の本能が告げてゐる。
securecat's exblog
[謎]とか書かれてゐて、これは――と言ふかyuuさんの「ブログ」はわかる人間にだけわかればよい、というお遊びの一種であり、公的な場所で私的に振る舞うスタイルなのだが、「何の事だ?」のやうな「つつこみ」を入れると「氣にしないで良い」のやうな答が返つて來る。この手の「日記」の「あり方」は如何なものだらう。
「ウェブ日記」の類は「スタイルに過ぎない」のであり、私的なものではあり得ない、飽くまでスタイルとして「日記」であるだけで、書かれる事は事實として不特定多數の人間に讀まれるものであり、さう云ふ事を前提に書かれねばならない。外觀は「日記」でも、實質は日記でない。「ウェブ日記」「ブログ」は、一般の記事・文章と同じ性質を持つものであり、其處で書かれた事は公的な聲明である。讀者に「氣にしないで良い」と言放つ事は「ウェブ日記」の執筆者には許されるものではない。「お遊び」のやうな言ひ方は本當に氣に入らない(あの波江も言つてゐた文句だ)。「私的に振舞ふ」と言つても、公共の場であるならば本當に私的には振舞へない――公共の場ではあらゆる行爲が演戯として意識されてゐなければならない。「遊びの重要性」なんてものを絶對化・神聖化してしまふ傾向が今の日本にはあるが、何うかしてゐる。「遊び」と言へば何でも許されると本氣で思つてゐるのか。もちろん、「遊び」なのだから「本氣」になるのは矛盾だ。波江邊は本氣かも知らんが、遊びで本氣になるのは野暮と言ふものだらう。
――と言ふか、わざわざ「はてなのキーワードを讀め」と言つた理由が渡邊さん、御解りになつてゐないのだらうか。「それ、形式的に『引用』になつてゐないよ」と示唆してゐるんだが。
平成十八年三月二十五日
餘談だが、キーワードを「鍵詞」みたいに書く人が正字正かな方面にゐるけれども如何なものか。何度でも書く。漢字で書いても、元の外來語を想起させるだけのものならば、それは元の外來語と同じだよ。直譯では意味がない。
外來語は普通に外來語として片假名で書いておく、と云ふのも、今の日本では仕方がない事だ。それに耐へるのも必要な事だらう。

平成十八年三月二十四日
フジテレビの化猫の御話とtvkのマジカノを觀た。
平成十八年三月二十四日
WindowsXPの動作が妙に遲くなつた時はデフラグ、これ最強。
平成十八年三月二十四日
東京古書會館の古書展。意外にも古めの本が多かつた。井筒俊彦『意識の形而上学 ――「大乗起信論」の哲学』(中央公論社)。羽矢謙一訳『D.H.ロレンス文学論集』(書肆パトリア)。神社關係の本二册。岸田國士『チロルの秋』(養徳叢書28)。「書評」昭和二十四年四月號(日本出版協会)(福田恆存の書評「本多秋五『小林秀雄論』」を掲載。全集未收録)「文藝」昭和二十二年新春號(河出書房)(福田恆存「絶望のオプティミズム」掲載)。「文藝」昭和二十五年十二月號(河出書房)(福田恆存「青年について」掲載。全集未收録)。「知性」昭和三十年七月号(河出書房)(きだみのる・檀一雄「対談 オーロラの環の下で」掲載)。

平成十八年三月二十三日
なんか變なメールを頂戴したので晒し。

数年来の疑問がやっと言葉になりました。野嵜さんはなぜ HTML に拘るのでしょうか。或いは、なぜ HTML にしか拘れないのでしょうか? HTML のようなウェブページの記述言語に拘るなら、なぜ HTML に勝るものを開発しようとしないのでしょうか? かつて私も「正しい HTML 」普及のためにやれることをしました。しかしそれは余りに不毛だった。

私は野嵜さんにもっと意味のあることを書いてほしいと思っています。野嵜さんはなぜコンピューターの環境( OS だとかウェブブラウザだとか)に不満を漏らしながら、それを改善しようとしないのですか? もっと云えば、野嵜さんはプログラミングを学ぶべきなんです。ここまで云える野嵜さんだからこそ、作れるものがあるはずです。そしてプログラミングはコンピューターの環境に疑問を持つ野嵜さんの人生をきっと良くします。落ち着いて、冷静に考えて下さい。余暇を費やせば十分素晴らしいプログラマになれるんです!

俺がプログラマになつて何うなると言ふのだらう。結果として俺は默る事になるのだが、何うもそれを望んでゐるらしい。俺は默らない。俺が何かやるよりも、好き放題に物を言ふ方が良いと俺は信じてゐる。このメールを送つて呉れた人は「この世に批評家は存在する必要がない、否、存在すべきでない、批評をする位ならば默つて物を作れば良いのだ」と信じてゐる。俺は批評が必要であると信じてゐるから、メールを送つて呉れたこの人には贊成出來ないし、この忠告に從ふ氣も無い。
ちなみに俺はHTMLに拘つてゐない。何處を何う見れば拘つてゐると云ふ事になるのだらうか。澤山HTMLの事を書いてゐる――だから何なのだらう、そんなものが「拘つてゐる」事の根據になるだらうか、なる訣がない。と言ふより、本當に拘つてゐるのなら、このメール氏の言ふやうに、俺は既に新しい言語を開發してゐた事だらうしプログラマになつてゐた事だらう。と言ふより、俺は何にも拘れないでゐる。もし何かに拘れてゐれば、俺は「無職」のやうな謗りを受けないでゐただらう。
――殆どの閲覽者は理解して呉れてゐると思ふが、かう云ふメールが一通來たのは「解つてゐない」閲覽者がその背後に三十人位ゐると云ふ事を意味してゐる。もしかすると相當多くの閲覽者が「野嵜は正しいHTMLの傳導者だ」「啓蒙家だ」と思つてゐるのではないか。俺はただただ「正しい」と思ふ事を言つてゐるに過ぎないし、さう云ふ「言ふ」事それ自體――拘つてゐるとすれば言論の自由に「拘つてゐる」のだらう(言論の自由が「拘らなくても良い事」だとは思はないが)。
俺は「正しい事」を他人に實踐させようとする努力が不毛である事を良く承知してゐる。「運動」の積りでやれば、それあ「不毛だ!」と云ふ感想を抱いて投出しても當然だらう。メール氏は投出したのである。俺は「正しいHTML運動」なんて最初からやつてゐない。だから不毛だらうが何だらうが別に落膽もしない。そして、人は落膽しなければ何だつてやり續けられるのである。まあ、落膽する奴は御利巧なんだらう。俺は馬鹿だから云々。御利巧な人は物事を投出すのを「卒業する」と言ふ。紋切型辭典に追加しておかう。
しかし、本當に嫌みつたらしい文體のメールだと思ふ。俺も皮肉は良く言ふが、「恩着せがましい」と云ふ意味で嫌みつたらしい言葉なんて、耻かしくて言へたものではない。俺は何時でも人を斜め下から見上げるやうな恰好で皮肉つてゐる積りでゐる。上から見下すやうな形でものを言はうとは思はない。大體、正論なんてものは、愉快さうに言つてはいけないものだよ、皮肉つぽく言ふのが正解だ。陶醉してゐると見られるよりは、醒め切つた奴だと見られる方が増しなのだから。
と言ふか俺は英文學をやつた人間だからイギリス流のアマチュアリズムを信奉してゐるんだよ。所謂「プロ」になつたら駄目だと思つてゐる。
平成十八年三月二十三日
Yahoo! 360° - Yahoo! JAPANのソーシャル・ネットワーキング・サービス (SNS) のネーミング募集!!
畫面(何)を見て吹いた。
「〜しちゃおう」の類の文句には笑ひを禁じえない。
平成十八年三月二十三日
どら猫のHTMLの仕樣書の飜譯を見てひでえなとか思つた。自分で譯さうかと思つたがW3Cに申請するのが面倒なのでやらない。誰かが代りに申請して呉れたら譯す。
平成十八年三月二十三日
日本ペンクラブ:電子文藝館:笠 信太郎「ものの見方について (抄)」
平成十八年三月二十三日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - 黙るべき時を知る人は言うべき時を知る
引用なのですと。q要素とかblockquote要素とかになつてゐなかつたから判らなかつた(謎)。はてなキーワードの「引用」の項ははてなにしては珍しく餘計な一言が無く、比較的正確で有益。御一讀を。
オフラインで帖面かなんかにつける日記は書き手だけが讀み手なのでせうけれども、「ウェブ日記」はパブリックなものではないですか。オープンの場における「日記」と云ふのは、單なる形式でしかない。
平成十八年三月二十三日
Latest topics > Firefoxと窓の杜とプラグインと拡張機能 - outsider reflex
一往問題が解決したらしい。「インプレスのプラグインである窓の杜は」みたいな記事を書かうとしてゐたところだつたのだが(嘘)。

平成十八年三月二十二日
W3C Renews and Expands Web Services Activity
Web Services
About W3C: Activities
平成十八年三月二十二日
TMPGEnc DVD Author 2.0、何でこんなに不具合が多いんだ?
インタフェイスは最惡だし。獨自にGUI構築してゐるんぢやねえよ。家電風にすれば良いと本氣で思つてゐるのか?
平成十八年三月二十二日
DVD再生プログラムのインタフェイスがどれもこれも家電風だか何だかの兔に角非Windows的なものになつてゐるのは何なのだらう。WindowsではWindows風のインタフェイスなのが良いんだよ。昔、「WindowsのGUIは恰好惡い、獨自に構築したGUIは恰好良い」と宣傳し捲つた馬鹿がゐて、その惡影響が今に至るまで殘つてゐると言ふか最早惡影響がWindowsの世界を席捲し捲つてゐると言ふか――最うWindowsの世界は目茶苦茶。獨自のGUIをプログラムのデザイナが創造する事は當り前になつてしまつてゐる。
日本の場合、家電メーカがPCを賣る時、メーカの人間が家電原理主義者なのだかどうだかは知らんが、ユーザにとつては本當に迷惑な話なのだけれども、家電風のGUIをかぶせる風習がある。家電と云ふものがPCに與へた惡影響は本當に深刻な問題で、Microsoft自身ですらもWindowsのGUIをぐちやぐちやにしたがる始末。しかし、家電の使ひ勝手は惡いんだよ。ボタンがこちやこちやと配置されたリモコンの使ひ勝手が惡い事を考へれば、家電の操作性が惡い事は明か。DVDレコーダのインタフェイスなんか、ソニーやらシャープやらが變にうねうねと動くメニューを作つてゐて、そんなの「恰好良い」だけで使ひ辛いだけだらう。Windowsは操作し易いやうにインタフェイスが作られてゐた(過去形)。Windowsアプリケーションなら、タイトルバーがあつて、メニューバーがあるのが當然。こんなに判り易いインタフェイスは無い。それををかしくしたのは家電。メニューバーを無くしてボタンを畫面に貼り附ける――こんなインタフェイスの何處が判り易いんだ。ボタンの表面には、「恰好惡いから」とか云ふ感性的な理由で文字は無く、抽象的なアイコンが貼られてゐる。Windows標準の部品を使つてゐないから動作はもつさりしてゐる。家電風のインタフェイスを持つプログラムは例外ナシに使ひ辛い。家電の罪は重い。
勿論、家庭用ゲーム機の支離滅裂なインタフェイスをPCの世界に持込むゲームメーカにも罪がある。ゲーム機のインタフェイスなんか非道いものだが、連中にして見れば「Windowsのインタフェイスは恰好惡い」らしいのだ。Windowsの中ではWindows風のインタフェイスなのが當り前で、ゲーム機風のインタフェイスは異樣なんだよ。なんでそれが解らないんだ。家電屋にとつて世界は何時如何なる場合にも家電を中心に廻つてゐるべきであり、ゲーム屋にとつて世界は何時如何なる場合にもゲーム機を中心に廻つてゐるべきであるらしい。しかし、WindowsではWindows風である事が正義なんだよ。ユーザもメーカの連中や「專門家」の言ふ事に騙されて、すぐに「Windows風なのは恰好惡い」なんて信じるんぢやねえよ。
平成十八年三月二十二日
PowerDVDなんかのインタフェイスよりもMediaPlayerClassicのインタフェイスの方がわかりやすいものである事は火を見るよりも明か。
平成十八年三月二十二日
HTMLの靜的なメニューの方がFLASHのダイナミックなメニューよりも大概使ひ易い事。マウスを上に持つて行くとアニメーションしてぴかぴか光つてぼわわわんとメニューがプルダウンして――FLASH職人の努力は認めるが、ユーザにとつてそんなメニューはただただ使ひ辛いだけなのだ。lainのアニメーションに出て來るOSなんかは、典型的な「恰好良い」インタフェイスなのだが、あれは何うしやうもなく使ひ辛い代物だらう。あれはMacファンが考へた「恰好良い未來のOS」だが、あゝ云ふ物を未だに「恰好良い」と思つて「實現すべきだ」とか考へてゐるとしたら、そっち方面のクリエイターは本當に何うしやうもない。
そんなのがあるのか何うかは知らんが、アトム世代やドラえもん世代はロボットが良いインタフェイスだと思つてをり、80年代の連中は家電風ゲーム機風FLASH風のインタフェイスが良いインタフェイスだと思つてゐる。みんなセンスが古いんだよ。Windows以前の世代の連中はGUIの畫面を知らないで育つたから駄目なんだ。
SFで、人工知能やコンピュータは、常にロボットに搭載されたり會話したりすると云ふ物理的な餘りに物理的な形で表現されて來た。或は、ボタンをぽんと押すとコンピュータの或機能が徐に動き出す、と、そんな風に表現されて來た。SF作家のイマジネーションは貧困で、今のモニタにウィンドウを表示するコンピュータを豫見出來た作家は一人もゐない。1980年代にすら、ウィリアム・ギブスンは人が電腦空間に入り込んでプログラムやデータと物理的に接觸出來るやうになる事を構想してゐた。現在のコンピュータにおけるウィンドウシステムに、SF作家の貢献は餘りにも少い――と言ふより皆無である。彼等の貧困なイマジネーションは却つて現在のITを束縛してゐると言つて良い。アシモもアイボもコンピュータ的な發想で作られたものではない。もつとも、1980年代末から1990年代初頭にかけてSFは、「現實」に完全に追越され、凋落した――SFは現實に復讐されたと言ふ事が出來る。はつきり言はう、lainですらセンスが古いんだよ。
古い世代の人間は、具體的に「觸れる」やうなものでないと納得出來ない。モニタ越しにデータを扱ふ、なんて今のWindowsでは當り前の事も、彼らは本質的に理解出來ないのだ。いや、若い子でもをぢさんをばさんと同樣、具體的でないと理解出來ないと云ふ人は多い。だから、HTMLではtableでレイアウトしてfontでカラフルにするんだ、なんて發想をしてしまふ。繪文字、アスキーアートを使ふ、と云ふのも抽象的發想が出來ない舊世代の人間の發想だらう。御年寄り連中は、プルダウンメニューを理解出來ないらしい、ボタンをぽんと押すと決り切つた何かが起る、と、さうなつてゐないと困惑するのださうだ。新しいTVで、「地上波アナログ」「地上波デジタル」「BS」「CS」をリモコンで切替へるやうになつてゐるものがあるが、こんなのですら理解出來なくて、機能上は綺麗な地上波デジタル放送を觀られるやうになつてゐると言ふのに、なつかしい地上波アナログをゴースト交じりで觀てゐたりする。

平成十八年三月二十一日
HDD Healthを入れたらWindowsの動作がをかしくなつてハードウェアリセット。アンインストールしようとしても動作がをかしいので再びハードウェアリセット。HDD Healthなんて使ふものではないと云ふ事が解つた。
平成十八年三月二十一日
  • 私は<em>とても酸っぱそうな</em>緑のレモンをまる齧りしました。

さらに一歩進めたのがこれ。緑である事が明示される。

  • 私は<em>とても酸っぱそうな</em><font color="green">緑</font>のレモンをまる齧りしました。

行き過ぎなのはこれ。黄である事とレモンである事は別。

  • 私は<em>とても酸っぱそうな</em><font color="green">緑</font>の<font color="yellow">レモン</font>をまる齧りしました。
「緑」なる意味を示してゐるのは本文のと云ふ言葉。font要素のcolor屬性の値"green"は、單に「そこの文字列をgreenなる色で着色して表示せよ」とグラフィカルなウェブブラウザに指示を出してゐるだけに過ぎないのであり、何の意味も示してゐない。
緑と云ふ事を強調したいのならとても酸っぱそうなではなくをem要素にする必要がある。いや、どつちも強調なんだと言ふのならどつちもemの中身にすれば良い。それだけの話だ。
私は<em>とても酸っぱそうな緑</em>のレモンをまる齧りしました。
たなけん氏は「色を附けて表示させる」事を「意味を明示する」事と直接結び附けてゐる訣ではあるまい。恐らく、font云々のソースを見て「これは何となく意味を示してゐるみたいだ」とただただ感じてしまつたのであらう。かのとほほ先生が陷つたのと全く同じ誤だ。良く考へないで適當に物を言つて、突込まれたから「これは意味だ!」と強辯して、言拔けをしてゐるに過ぎない。font要素は何も意味を示さない。大體、emだの何だのも、本質的には意味を示す事なんて、あり得ないのだ。
全てのHTMLの要素は「既存の暗示的な要素を明示する」と云ふ以上の機能を持たない。未だにHTMLの要素の議論で「意味」「意味」と言つてゐるのは遲れてゐる。まあ、W3Cが意味論意味論言つてゐるからをかしいのだが。
平成十八年三月二十一日
http://www.w3.org/TR/html401/struct/objects.html#h-13.1なんかを見ると、はつきりHTML's multimedia features云々と書かれてゐて、HTMLがマルチメディアの機能を持つ、即ちHTMLがプレゼンテーションの爲の機能を持つ、とW3Cは言つてゐる。ならばプレゼンテーションの爲のfont要素だつて廢止する事は無からうと思ふのだが、この邊の論理的な整合性、何うなつてゐるのだらう。W3C關係者は何か理窟を用意してゐると思ふのだが探すのが面倒。W3C關係の議論は、オープンな場で行はれてゐるのだが、分り易くまとめられてゐないし、そもそもメーリングリストや掲示板等の議論はそれ自體として情報がごちやごちやになつてゐるもので、オープンではあつてもわかりにくい。W3Cは、最終的な見解の表明に至るまでの過程をわかりやすく整理して示すべきで、「メーリングリストの過去ログを見ろよwww」みたいなおざなりな對應を繰返して來たW3C關係者のこれまでのやり方は反省されるべきだ。國字改革でもさうだつたが、HTMLの策定も、議論の過程が「良く調べないとわからない」やうな状態にされて、ただ最終的な「議論の結果」としての仕樣書なり何なりが一般人の目の前にいきなりぽんと抛り出されて「お前逹、これは上意であるぞ」と云つた「義」の言ふやうなやり方で押附けられて來た。これは本當にをかしい。「HTML入門」では、「良質」なものですら、HTML 4.01 SpecificationでもISO/IEC 15445:2000でも、仕樣書が策定される過程の議論を全く無視して「仕樣書を解説する」と云ふやり方が屡々とられてきた。と言ふより、さうするより他やりやうがないやうな状態にされて來た。これは反省されるべきである――と言ふより、HTMLの仕樣策定者には反省を要求する。HTML關係の議論が起き續けてゐるのは、仕樣策定者が説明をしないからだ――或は、「説明は既にある」と言つて、わかりにくいメーリングリストの過去ログの山を示すなんて手拔きをし續けて來たからだ。と言ふか、XHTML 1.0の仕樣書の手拔き具合は異常。「HTML 4.01を見よ」みたいな書き方をするのは何うかしてゐる。
平成十八年三月二十一日
今に至るまでHTMLの議論が絶えない、と言ふより、HTMLに關して混亂が續いてゐると云ふのは、HTMLの仕樣書が個人の著作物でなく大勢の人間が寄つてたかつて作つてゐるものである事に由來してゐると言つて良いと思ふ。XHTMLは、意味論的な觀點から(?)改良が加へられようとしてゐるとしても、全體として一貫性を缺き、その點で全く人間味を缺いてゐると言はざるを得ない。個人の生産物は、良かれ惡しかれ統一性・一貫性を持つてゐるものだ。HTMLは、TBL個人の手から離れて良かつたのだらうか。今のHTMLは無個性的・沒個性的な代物で、最早議論の對象となり得るものではない。
平成十八年三月二十一日
「A要素はaの時に使ひます」のやうな今の仕樣書の書き方は手拔き。もちろん、技術的な仕樣書だから「なぜ」を「説明しない」のは「當り前」だと言ふのだらうが、その所爲で仕樣が決められた意圖が判らなくなつて、混亂を生じてゐる。「いや、メーリングリストで議論されたんだ、過去ログをよくよく探して貰へればその邊の檢討の過程は誰でも知る事が出來る」とか言はれるだらうが、さう云ふ手拔きの説明は好い加減にして貰ひたい。
と言ふか、W3Cはわざと「メーリングリストの過去ログ」しか用意しない事によつて、膨大な情報の山の中に仕樣策定の經緯を匿しつゝ、「自分逹はオープンな組織である」と言拔け出來るやうにしてゐるのではないか。今のやうに「專門家にしかわからない」のでは「オープンにした」事にはならない。そして實際、「知的エリート」が「無知な一般人」をせせら笑ふやうな態度が横行してゐる。「W3Cはわかりづらい組織だ=W3Cはクローズドな組織だ」と俺は思つてゐる。
平成十八年三月二十一日
EXPLORE MONOGAMY BLOG
渡邊さん、最近、本文と全く關係のない見出しを書いてをられるのだけれども、何か意味があるのだらうか。
平成十八年三月二十一日
「残業が終らない」とか「今から寝ます」「(コメント欄で)起きました」とか、そんな事がだらだら書き綴られてゐる「ブログ」の存在意義(謎)つて何なのだらう――最近そんな事を思ひました(謎無)。さう云ふ「ブログ」の書き手がHTMLとかCSSとかの事で「権威」(謎)みたいになつてゐるのは何なのだらうとか。

平成十八年三月二十日
何と言ふか、よみ空毎囘凄いな。
平成十八年三月二十日
「鉄道ジャーナル」誌2006年5月号卷末の「こちらジャーナル編集室」なる記事が餘りにも非道いので全文轉載して晒す。執筆者は同誌編集長らしいが、これ程頭の惡い人間が編集長をやつてゐられると云ふのはどう云ふ事なのか。☆文字を活かす工夫と努力(その3)

この”文字を考える”シリーズのきっかけとなったのは、昨年7月15日の産経新聞に載った『断 郵政民営化のどたばた』という記事でした。筆者のT氏はコラムニストですが、「ながめて(眺めて)」「おもう(思う)」「じょうず(上手)」「かんがえる(考える)」「わたしたち(私たち)」「わるい(悪い)」(カッコ内は一般的な用法)など、小学生でも使っている文字が平仮名で次々と出てくるのです。漢字を使わない主義なのかと思いましたが「辞書」「嘘」「的確」「辞める」など漢字も結構出てきます。どう使い分けているのか? としばし思案に耽りました。千数百年にわたり漢字で培わてれきた日本語を、もっと大切にしてほしいと思います。

もう一つ、私が常に抱いている疑問は、『現代仮名遣い』が採用されてすでに半世紀以上もたち、その中で育った人が大部分なのに、『旧仮名遣い』にこだわる作家や評論家が一流誌の誌面に登場していることです。文中に例えば「やうだ(ようだ)」「だらう(だろう)」「云ふ(言う)」「ゐた(いた)」などが多出、戦前・戦中の学生時代にこうした表記法を叩き込まれた者でさえ強い違和感を覚えます。阿川弘之氏のような戦前派は仕方ないとしても、小堀桂一郎氏(1933年生れ)や中村粲氏(1934年生れ)は中学生のころから『現代仮名遣い』で育ったはずです。

”物書き”の使命は、一人でも多くの人に著作を正しく読んでもらい、内容をよく理解してもらうことだと考えます。そのためには自分のこだわりを押えることも大切です。また出版社には「編集権」があり、このような場合は編集者が毅然とした対応をすべきではないでしょうか。

千数百年にわたり漢字で培わてれきた日本語を、もっと大切にしてほしいと思います。と言つたそばから、千数百年にわたり使はれて來た歴史的假名遣を「使ふな」と命令する。歴史的假名遣は日本語でなく、漢字だけが日本語であるらしい。支離滅裂だ。
いいか、歴史的假名遣を使ふと云ふのはだな、「こだわり」なんかぢやねえんだよ。それ自體が「言ひたい事」なんだよ。竹島紀元編集長にはそれが解らないのか。あんた、何處に目を附けてゐるんだ。編集長の癖に日本語が讀めないのか。さうなのだらう。書き手にとつて、歴史的假名遣を使ふ事はそれ自體、「日本の文化を守る」事と同義なんだ。何が「自分のこだわり」だ。「こだはり」とは「拘らなくても良い事に拘る事」だが、歴史的假名遣はそんなものぢやねえんだよ。日本語を大切にする事を中村氏も小堀氏も實踐してゐるんだ。それを理解する事が彼等の著作を「正しく讀む」と云ふ事だ。編集長の癖に何で筆者の意圖が理解出來ないんだ。雜誌屋の都合で何でも考へてゐるから駄目なんだよ。言葉で以て勝負する物書きにとつて、言葉の表記はそれ自體が生き方なんだ。
竹島編集長よ、あんたは驕つてゐるんだ。「編集権がある」とは良くも言つたものだ。あんたの「編集権」とは詰り、御上のお逹しはへへーっとひれ伏しておしいただきながら、目下の「物書きども」には「御上には默つて從ふんだよ!」と居丈高な態度でその御逹しを押附ける、と、さう云ふ事をする「権利」なんだな? あんたは御代官さまか。雜誌は、自分の都合で國字改革に協力し、文部省と一緒になつて國語を破壞したのだが、鉄道ジャーナルは今も文部省の御先棒を擔いで日本語の破壞に邁進したいと、さう云ふ訣だ。文字種を限つて、物書きの物の言ひ方を劃一化すれば、活字を組むのは樂だからな――今はDTP製版だが、わざわざ正字正假名で印刷するのは面倒だからな。「編集権」は政府とJISに進んで屈從する事で得られるものらしい。日本の雜誌に自主性ナシ。
「正論」の編集長が正かな嫌ひである事は夙に有名だが、ならば「正論」は日本の文化を守りたいのではなく單に日本の国益を守りたいだけ――いやいや、彼等のは單なる愛國趣味に過ぎない。讀者だつて皆さうだ、大體、文化なんて何うだつて良いと思つてゐる。ただ嫌韓だの中国が氣に入らないだのと言つて感情的に餘所の國を罵つてゐるに過ぎない。「鉄道ジャーナル」の編集長も、前に「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」の問題について保守派ジャーナリズムの主張に同調してゐた。鐵道趣味なんてものは土臺反動的なもので、だから鐵道關係者は保守的である、と、さう思つてゐて俺は今まで鐵道には好意的だつたのだが、しかし今囘の竹島の發言で、「鉄道ジャーナル」はやつぱり「保守的である」のではなく、單に「愛國趣味=保守主義である」に過ぎない事が判つてしまつた。連中、日本の文化なんて何うでも良いんだよ。竹島は、日本人の生き方なんて何うでも良いと思つてゐるんだ。所詮ジャーナリストなんだよ。
平成十八年三月二十日
☆「こちらジャーナル編集集室」の再録(続2)('03年9月号)

日本語の表記について本誌ではかなり神経を使っています。創刊から三十数年、基本は守りながら部分的に改変したケースも幾つかありますが、どの書籍よりも「常用漢字」「現代仮名遣い」を大切にしつつ、本誌ですでに定着しているものはそのまま残す…という。方針を貫いているつもりです。

「鉄道ジャーナル」が國字改革を全面的に肯定し、文部省・國字改革推進派に協力してゐる事は明か。
平成十八年三月二十日
「鉄道ピクトリアル」なんかでも、昔の雜誌の記事を復刻する際には必ず「常用漢字」「現代仮名遣」に改めるんだからな。
平成十八年三月二十日
俺は鐵道には好意的だつたが、かう云ふ事を「鐵道ジャーナリズム」にやられると裏切られたやうな氣分になる。いや、實際、裏切られたのだ。俺は最早、鐵道を擁護しない。と言ふか、趣味の人間を信用するなんて間違つてゐたんだ。
モータリゼーションは定着した。自動車が一家に一臺あるのが當り前である現在、鐵道なんて最早地方では見向きもされなくなつてゐる。かう云ふ時代に「鉄道ジャーナル」のやうな鐵道に拘る雜誌が必要か。地方の赤字ローカル線は即刻廢止すべきである。交通の使命は、效率良く人間を運ぶ事である。その爲には自分の趣味は抑へて、技術の進歩・時代の變化に對應する事が大事である。政府には鐵道會社に免許を交付する權利がある。不要な鐵道には政府が毅然とした對應をすべきではないか。
――かう云ふ事を言はれたら、竹島さんよ、あんたは反論出來るのか。まあ、しれつと「いや、鐵道は必要ですよ」とか言出ふのだらう。しかしだな、鐵道なんてたかだか數百年しか歴史がないものだよ――日本では百五十年程度。歴史的假名遣の歴史は其れよりもつと長いんだ、歴史的假名遣が要らないものならば、鐵道なんてもつと要らないものだらう。もし鐵道が誰かに必要とされてゐるのならば、歴史的假名遣だつて必要とされてゐて良いだらう。「編集権」等とぬかして、誰かの書く權利・讀む權利を壓迫するのは、やめて貰ひたい。
平成十八年三月二十日
日本の傳統(伝統)を守らう!:新字は漢字學習の障碍になる
平成十八年三月二十日
DVD-R47PWX10PTが三枚連續で書込みエラーになつた。TDK使へない。太陽誘電の八倍速の奴は一度もエラーを出さなかつたのに。太陽誘電のはうちのドライヴと相性が良かつたらしい。
技術は進歩してゐるらしいが、メディアの書込みに失敗する事があると云ふのは何なのだらう。こんなに信頼性の低いメディアを生み出す事が技術の進歩だと云ふのだらうか。著作權保護だの何だのと議論してゐる暇があつたら、もつと信頼性が高く、書込みに失敗する事もなく、データが決して飛ばない、そして安い、と云ふ理想的なメディアを開發したら何うか。DVD-Rなんて何う見ても「保存されたデータを飛ばす」のが目的のメディアだよ。映畫産業・映像産業の連中は、自分逹の著作物を保存されたくないのだから、メディアの信頼性を落さうとしても不思議ではない。何でDVDみたいな「纖細なメディア」を作らうとするのだらう。ブルーレイもHD-DVDも今以上に信頼出來ないメディアになりさうな氣がする。おまけに、これからは著作權ががちがちに「保護」されて、メディアのバックアップも出來ないやうな時代になるのだから――。地上波アナログの放送が終つたら、わざわざTV番組の保存なんてやる人間はゐなくなつて、當然、アニメだの何だののファンは消滅して、結果として映像産業とかメディアの製造業者とかが潰滅する事になるのではないか。正直、さうなつた方が良いやうな氣がしてゐる。
平成十八年三月二十日
「TMPGEnc DVD Author 1.0/1.5/1.6」がサポート終了になるさうだけれども、殘る「TMPGEnc DVD Author 2.0」は「缺陷品」だよ。非道いよこれ。重いは操作性最惡だは。何でキーボードで操作出來ないのだらう。メニューバーを持たないアプリケーションは全て例外ナシに操作性が惡いと言つて良い。「その方が恰好良い!」とか「クールだ!」とかプログラマだかプログラムGUIデザイナだかは思つてゐるのだらうが、プログラムに恰好良さなんて要らないんだよ。プログラムは使ひ易くて高性能である事が重要なんだ。大體、Windows御仕着せのGUIの上に自前のGUIをまた重ねて、それで「恰好良い」も糞もあつたものではない。重くて仕方ないんだよ。その手のプログラムは「ピザ」とでも呼んでやるべきだ。
TMPGEnc DVD Author 2.0、終了時に出て來る「プロジェクトを保存しますか」のダイアログが本體のウィンドウの背後に隱れる事があるのだけれども、これつてバグだらう。マウスの設定でダイアログのデフォルトのボタンにカーソルが移動するやうにしてゐても、TMPGEnc DVD Authorの場合、カーソルが飛んで行かないのだから、何か變な事をTMPGEncの方でやつてゐる事は明か。標準に從はないプログラムは不便極まる。
出力されるデータの互換性を考慮すると他のプログラムは全く使へないのであり、それで仕方なくTMPGEnc DVD Authorを使つてゐるのだが、技術が發達したこの時代にプログラムの撰擇肢が何でまたかうも無くなつてしまつてゐるのだらう。

平成十八年三月十七日
「インタラクティヴの貧困」云々。
平成十八年三月十七日
フジテレビの怪「化猫」が無茶苦茶やつてゐて面白い。
平成十八年三月十七日
コンピュータの世界でネットワークと言つたらコンピュータとコンピュータを結ぶ事だが、コンピュータネットワークの世界であるウェブで「ソーシャルネットワーキング」なんて言ふと、變な事のやうに聞こえる。
平成十八年三月十七日
正字正かなの人で「電網核」なる言葉を使つてゐる人がゐるのだけれども、變なので、やめて下さい。横文字を毛嫌ひして、新發明でも妙でも構はないから兔に角漢字でそれつぽく見える言葉を用ゐる、と云ふ人がゐる。漢字であつても無理に作られた言葉よりは、既成の横文字の言葉の方がまだ増しだと思ふ。
あと――個人的な感想だが――「電腦」よりは「電子計算機」の方が好ましい用語であるやうに思はれる。コンピュータは、自分で考へる腦ではなくて、單なる計算機だから。
平成十八年三月十七日
東京古書會館の古書展。今囘は愛書會。趣味の本・新しめの本が多くて個人的には氣に入らない古書展だつた。けれども、かう云ふ古書展では逆に俺の好む古めの本・眞面目な本が「不當に」安い値で賣られる事があるので、「掘り出し物」探しの樂しみがある――と自らに言ひ聞かせつゝ、詰らねえ本ばつかりだなーと思ひながら以下の本を購入。本と言ふより殆ど雜誌。高坂正顕・西谷啓治・高山岩男・鈴木成高『世界史的立場と日本』(中央公論社)。「思想の科学」第一号・第十号(思想の科学社)(葦津珍彦「「国民統合の象徴」「続・国民統合の象徴」をそれぞれ掲載)。「思潮」創刊號(昭森社)(林健太郎「歴史認識の新段階」を掲載)。「臨時増刊文藝 志賀直哉讀本」(河出書房)。「文藝」昭和二十七年十二月號(河出書房)(三島由紀夫・福田恆存・大岡昇平「座談會 僕たちの實體」掲載)。「書物」昭和二十五年七月・第三號(美松書房)(福田恆存「藝術とはなにか」より「選民の藝術」を轉載、及び「著者のことば」を掲載。「著者のことば」は「あとがき」として單行本に收録)。「あるびよん」1・3・5號(新月社、のち日本放送出版協會)(編集は創刊號が林達夫・吉田健一・福田恆存。第三號では西村孝次が加はつてゐる)(創刊號には福田恆存「メカニズムへの意志 ――デヴィッド・ガーネットをめぐつて――」掲載。これは後に『西歐作家論』に收録される)(第5號「あるびよん談話室」欄に福田恆存が「『嵐ヶ丘』の感動」を執筆)。教養文庫二册。
平成十八年三月十七日
朝、都營乘入れ用の新しい9000系が二本立續けに來た @ 京王橋本驛。

平成十八年三月十六日
餘りにもカオスと云ふ事が重視され過ぎてゐる今、秩序の重要性が忘れ去られてゐる嫌ひがないでもない。
近代化の過程で混亂が整理され、秩序が確立されるのは當り前の事だ。西歐ではそれが行はれて來た。西歐の近代化は自然な事だつた。日本では、自發的な近代化が行はれないうちに、西歐で出來上つた西歐的な近代が採入れられた。これは不自然な事だが仕方がない。そして、西歐では、出來上がつてしまつた近代を反省し、改めて近代以前の渾沌とした状態を見直す動きが出て來た。これは自然な事だ。日本は、西歐の後追ひである爲に、西歐で行はれた近代の反省もまた採入れようとする――けれども、これは自然な事か、不自然な事か。日本に於て、西歐的な近代が「出來上つた」と言ふ事は可能か。若し不可能であるならば、西歐的近代の反省も不可能である。安易に「日本は既に完全に西歐化を達成した、しかし今、西歐は近代を反省してしまつてゐる。日本も西歐と同じやうに近代を反省しなければ置いてけぼりにされる」等と言ふ事は出來ない。
今、カオスとか渾沌とかを賞揚する日本人の多くは、西歐の近代を安易に否定し、日本の未だ前近代的な状況を無理に正當化しようとしてゐるだけのやうに思はれる。
平成十八年三月十六日
Google 検索: 緊急地震速報
既に虹裏で實現してゐる事だ。肩が赤い。

平成十八年三月十五日
私見・偏見(2006年)の2006年3月14日の項。

 旧字体が新字体になつたと言つても、新字体はもともと俗字や略字として使はれてゐたものが殆どだといふことがその一つである。新字体と言つても、無いものを新たに作つたものではないのだ。

略字體が惡いのでない事は確かにさうだけれども、「当用漢字表」以來採用されて來た一貫性のない略字群は惡いに決つてゐる。戰後の國字改革では、字を體系的に略したのではなく、場當り的に「或字はかう略す或字はあゝ略す」と適當な事をやつた。
そして、改革の當事者は、或字をかう略すのはどう云ふ訣であるかと云ふ事を一切説明して來なかつた。今、「或字はどこそこに出典がある」と説明する人がゐるけれども、それは全て後附けの説明でしかない。實際にさうした事まできちんと考へて或字が略されたか――或は、字の略し方について改革に當つた人々の間でちやんとコンセンサスがとれてゐたか、と言へば、そんな事は全くない。
「略し方に一貫性がない」――これが現在通用の略字の重大な問題だ。私見・偏見の中の人は何が問題であるかを全く理解してゐなかつた。偏見氏は、なんか根據らしきものを持出されたので、安心して「俺は良かつたんだ!」と叫んでしまつた。

つまり、新字体と言つても、公式の文書、活字に組んだ文書で使ふ漢字を、既に存在する簡単な字体で書くことにしただけのことなのである。といふことは、新字体を使つてゐるからといつて、日本の伝統文化から断絶してゐることにはならないのである。

だけのことぢやねえよ。それもまた問題なんだよ。と言ふより、それが一番の問題。國字改革が「略字を略字として採用する」と云ふのだつたら改革推進派の罪はまだしも輕かつた。連中は「これまで略字と呼んで來たものをこれからは正しい字とする事を命じます。從來の字體は抹殺する事とし、今後、公式の場で用ゐる事を禁止します」と言つた。これが許される事か。「許される! だつて簡単になるんだもの!」と改革推進派とその支持者逹は叫ぶが、本氣でそんな「理窟」を信じてゐるのか。「簡單」とか云ふスローガンの前に屈服すべき理由は全くないし、實際、場當り的な略し方が行はれた所爲で、漢字を理解する事は極めて困難となつてしまつた。「考へるな、感じるんだ!」と「略字」主義者は命令するだらうが、さう云ふ發言は虹裏のネタに留めておくが良い。
正字の體系が崩潰させられた事で、日本の文字文化は崩潰させられたんだよ。

 私が旧字体を使はないのは、ごちやごちやして見場が悪いからだけだが、この本を読んでからは、著者の趣旨とは逆に、漢字の成立ちは旧字体で学ぶとしても、使ふのはこのまま新字体でいいかなと思へてきた。

別に略字を使ふ事は構はないけれども、「正しい文字がある」と云ふ意識だけは持つてゐて貰ひたいものだ。文字セットが國字改革の影響下に作られた状況下、ウェブでも略字體を用ゐざるを得ないのは事實だが、略字體になつてしまふのは望ましくないが已むを得ない事であり仕方のない事である、或は現實に妥協しての事である――正しい日本語の表記を使はうとする人には、さう云ふ意識が必要だ。
寺田透も言つてゐたけれども、「新字体」を「良い」と思ふ正かな派の人間が「ゐる」のである。これは大變に困つた事だと俺は思つてゐる。かう云ふ感性的な人間くらゐ、信頼出來ない人もゐないからだ。彼らは今、正假名遣を使つてゐるにしても、何時「敵に寢返る」か判らない。漢字で寢返つたのだから假名遣でも寢返らないとは限らない。感覺・感性では駄目なんだよ。理窟で納得しなければ、人は立場を簡單に變へるものだ。正字も正假名遣も論理的に正しいから俺は使つてゐる――この論理的と言ふのは、機械的・唯物的な意味でとつてはならない、人間的・歴史的・心理的な觀點からも檢討されて、と云ふ事だ。歴史や心理にも論理はあるし、それらを無視して考へる事を人は屡々「論理的」である事だと思ひ込んでゐるが、そんな「論理」が人間的な事に關して考へる時には通用しないのは明かだ。論理的に考へるとは、條件に基いて場合分けして考へる事であり、何らかの圖式なり原理なりで押通す事ではない。
理論或は論理を單純に否定し、感性的な餘りに感性的な日本人のあり方をただ安直に肯定して今の日本人に媚び捲るのが藤原正彦の『国家の品格』だが、實に非道い本だと三ページくらゐ立讀みして思つた。イギリス人が日本人と同じやうに腹藝だの何だのでやつてゐると藤原氏は本氣で思つてゐるのか。
平成十八年三月十五日
正字正かなグループ - 正字正假名覺書 - 「略字は昔から使はれてゐた」といふこと
平成十八年三月十五日
携帯電話なんかの爲に正字を使つてたまるもんか。
平成十八年三月十五日
歸宅する時東の空を見たら大きなお月樣が昇つて來てゐた。
「地平近くの月は中天の月よりも大きく見える」と云ふ事の理由は良く解つてゐないのだとか。取敢ず錯覺の所爲らしいだの人の感性に據るものらしいだのと説明されてゐるみたいだけれども、「感性は人それぞれ」とか言はれながら皆が一樣に「地平近くの月は中天の月よりも大きく見える」と思つてゐるのは面白い。人の感性は言はれるほど「人それぞれ」ではないらしい。

平成十八年三月十四日
自轉車の燈火の件。道交法とかの規定により、夜間に前照燈を點燈する事は義務。反射器材を備へ附けるか尾燈を點燈するかしなければならない。
で、びかびかライトの自轉車――私が見たものは皆、前照燈の代りに點滅するライトを附けてゐるんですね。これ、何うなんだらう。自轉車の前照燈は正射するものであるべき事が定められてゐる。色は白色か淡黄色(青白色は何うなのだらう)。ライトの點滅つて良いのだらうか。
びかびか前照燈もさうだが、今日の歸宅時には、反射器材の代りに點滅する尾燈を附けてゐた自轉車を見た。びかびか尾燈。嫌だなあ。
みんな何でそんなに點滅が好きなんだ? 點滅すれば警告になると本氣で思つてゐるのか? 點滅は車のウィンカーだけで十分。それ以外のライトが點滅するのは寧ろ周圍の人間を混亂させるから逆に危險だ。點滅する前照燈や尾燈の類ひを自轉車から追放せよ。
平成十八年三月十四日
あと、自轉車で並んで走るのは、特に許可されてゐるのでない一般の道路では禁止。ぺちやくちや喋りながら高校生が自轉車で並んで走つてゐるのは實に腹立たしい。
平成十八年三月十四日
嫌なもの。電車から降りた途端に携帯電話の電源を入れてメールチェックを始める人。しかも歩きながら。イヤホンで音樂を聽いてゐる人。しかも歩きながら。
この間は自轉車に乘つて携帯電話を弄りながら俺に向つて突つ込んできた奴がゐた。何でそんなにみんな携帯電話を弄りたいのだらう。
それと、どうして携帯電話を略して携帯と言ふのだらう。携帯は身につけて、また手に持って持ち運ぶことを意味する普通名詞であり、ややこしくなるから携帯電話の略語であるべきではない。
平成十八年三月十四日
スイカとか云ふ氣持の惡い名前のプリペイドカードも何とかして欲しい。
平成十八年三月十四日
自動改札が驛員による改札よりも遲くて改札口を「澁滯」させる事は知られてゐるが、その「澁滯」を更に惡化させてゐるのがプリペイドカードである事は案外知られてゐない。
所謂「パスネット」と普通の定期券とでは、自動改札機に投入してから排出されて來るまでの時間が異る。「パスネット」の方が時間がかかる。磁氣情報の讀取り・書換へ、そして裏面への印字、さうした事が「パスネット」では必要となる。だから「パスネット」利用者が改札機を通過するのには、通常の定期券・切符の利用者よりもより時間がかかる事になる。
ただでさへ遲い「パスネット」だが、問題は他にもある。「パスネット」は、プリペイドカードであり、使用出來る限度金額がある。利用者はその邊の事には無頓着である事が屡々である。金額不足だと自動改札機が閉まる。「パスネット」利用者は後戻りして、自動精算機なり窓口なりで精算する必要がある。「パスネット」利用者は機械の指示に從つて精算すれば良いのだが、ここで「澁滯」の原因が發生してゐる事が問題だ。「パスネット」利用者が金額不足で廻れ右してゐる間、自動改札機は閉つたまゝ。即ち、後續の人間は自動改札機を通れない。問題はこれだけではない。金額不足の「パスネット」利用者がうまくゲートに引つ掛かつて呉れればまだ増しなのだ。自動改札機の處理が遲いから、割と高い頻度で利用者はゲートをすり拔けてしまへる。もちろん、すり拔けられたら逃げたくなるものだから、「キセル」であるけれども、利用者は逃げる事がある。この時、自動改札機はキンコンキンコン警報音を鳴らしながら閉つたまゝとなる。かうなると、後續の人間は「泣く」しかない。
この「キセル」の問題は「パスネット」に限らず、普通の切符でも起り得る。そして、その時にも同じやうな問題を生ずる。が、切符なら目的地まで買ふのが原則だから、原則が守られるならば問題は起こらない。「パスネット」のやうなプリペイドカードの場合、原則が守られたとしても――「キセル」がなくても、金額不足で引掛かるだけで――人の流れを滯らせる問題を惹起す。
プリペイドカードの關係者はプリペイドカードを何とかして普及させようとしてゐるし、持つてゐる人にとつてカードが便利なものである事を強調する。一方、カードの利用者が周圍の人に迷惑をかけがちである事を決して言はない。しかし、現在のプリペイドカードには上記のやうな問題がある。
平成十八年三月十四日
ウェブサイトのアクセシビリティ――ユーザが求める情報に如何に容易に辿り着けるやうにするか――については矢鱈と問題になる。しかし、かうした事が問題になるのが假想世界だけである事は注意して良い。現實の世界では屡々ユーザが求めるものに辿り着けない。今日俺は新宿の京王百貨店で京王パスポートカードの綜合カウンタを探しあぐねたし、新宿のヨドバシカメラでも16倍速で書込めるTDKのDVD-Rを買はうとして十五分くらゐ賣場をさまよつた。京王の方は店内の案内板を見るなりすれば判る事は判るし、實際判つたのだが、ヨドバシの方は目印も何もないし賣場はぐちやぐちや、最う何うしやうもない。最終的にDVD-Rの山の隅つこにスピンドルが三つ位載せてあるのをやつと見附けた。
平成十八年三月十四日
と言ふか、TDK、DVD-Rの生産から撤退する訣で、それで最う市場から商品がなくなつてゐるのですか。今頃、何でTDKの16倍速のDVD-Rなんて指名買ひをしたかと言へば、これがTDKの内製品で高品質だと云ふ話だから。
プレスリリース [ 記録型CD・DVD製品生産からの撤退に関するお知らせ 記録メディア部門の構造改革を加速 ]
TDKの高品質なディスクを安く手に入れるのは今後不可能になる。一往、御金を出せば買へるらしいが……。DVDは最う駄目だ。
ヨドバシカメラで森メディアのDVD-Rを見たよ。十枚で四千八百圓なのだと。良いものなのは知つてゐるが流石に高過ぎて買へない。
平成十八年三月十四日
正直言つて、記録メディアがどんどん駄目になつて行く、と言ふか、どんどん次世代メディアに交替して行くやうな状況で、DVD-Rとか-RAMとか-RWとか+RWとかに記録する事をユーザに要求するDVDレコーダは最う魅力が無いんだよな。RDのやうにネットワーク經由でコピー出來るのが良いのだけれども、例のデジタル放送の場合、それが出來ないから問題。CPRM對應のDVD-RAMかDVD-Rにしか保存しちや駄目、つて何うよ。要は「TV番組は保存するな」と云ふ事なのだらうけれども、後世に殘せないやうな形で發信される文化つて何なのだらう。
平成十八年三月十四日
地上デジタル、何時の間にかうち邊のJ-COMでもパススルーになつてゐた模樣。セットトップボックスから出て來る信號で地上デジタルが見られる。氣紛れでうちのTVにチャンネルをスキャンさせたら映つた。

平成十八年三月十三日
Googleのバグ。日本語の言葉で普通に檢索したあと「○○のニュース検索結果」をクリックしてニュース檢索させると、言葉が文字化けして檢索出來ず、「××に該当するページが見つかりませんでした。」なるメッセージが出る。最う隨分前から存在する不具合なのだけれども、Googleの中の人は何で氣附かないんだらうな。
平成十八年三月十三日
ブラウザのペインの中でマルチメディアのファイルとかを動作出來るやうにする――と言ふか埋め込まれたobjectをプレイするプログラムを「プラグイン」、ブラウザそれ自體の機能を擴張するものを「機能擴張」と呼ぶのだとばつかり思つてゐたのだけれども。FlashとかShockwaveとかのプレイヤーのプラグインと、ブラウザのタブ機能擴張とは、全然違ふものですよね。何で兩者を混同して言はなければならなくなつたのだらう。テーマはテーマで全然別だし。
ところで、クロームなんて云ふ用語があつたやうな氣がするけれども、あれは何だつたのだらう。
平成十八年三月十三日
インプレスのサイトの中には何とかウォッチつてのがいろいろあるみたいだけれども、區別出來ないんだ俺。ひつくるめて「インプレスのサイト」とか言つてしまつて良いよね? 窓の杜もインプレスのなんとかウォッチの一つだと思つてゐるくらゐだし――Windows Forestとか名乘つてゐるけれども、あれ、何でWindows Watchと言はないのだらう。わかりにくい。大體、Windowsを「窓」と和譯して見せるのが氣に入らない。それは俗語の類だらう。インプレスは眞面目なサイトを運營する積りなら、「窓の杜」なる名稱を廢止すべきだ。今の名稱ではふざけてゐると思はれても仕方がない。
AKIBA WatchぢやなくてAKIBA PC Hotlineなんだな。今調べて初めて知つた。これも名稱變更が必要だ。
と言ふか眞面目な話、インプレスは何とかWatchのサイトの各とっぷぺーじのtitleを何とかした方が良いと思ふ。INTERNET Watch Title PageやBroadband Watch Title Pageは「Title Page」と云ふ文字列を入れてゐる。ケータイ WatchやAKIBA PC Hotline!は「Title Page」ナシ。Impress Watchや窓の杜もナシ。出たら目だ。デジカメWatch Title Pageとケータイ Watchは、スペースが入つたり入らなかつたり、「Title Page」なる文字列があつたりなかつたり。インプレス系のサイトの統一感の無さは異常。
あと、URLも規則性が無い。企業ならば何とかすべきだらう。
何でIT企業が自分のサイトの設計をちやんとしないで場當り的なサイト作りをやつてゐるんだらう。仕樣書も何もないのかよ。ないのだらうなあ。
平成十八年三月十三日
TDKが販賣してゐるDVD-R、品番DVD-R120PWX10Kを買つて來た。普通の厚みのプラケースなのは良い。薄型ケースだと重みがかかつたりした時に簡單に歪むのでディスクにダメヂが出易い。普通のプラケースは丈夫だから、保存の爲には良い。けれども、普通のケースの場合、ディスクの穴と、ケースの留めるところとのサイズが巧く合つてゐない事例が多いのも事實。薄型ケースだと、ケースの周りを持つて、留めてあるところを押すと、ケース自體が歪んでディスクが簡單に取り外せる。普通のケースの場合、さうは行かない、ディスクを持つて外さなければならない。ディスクの穴が小さく、とケースの留めるところが大きめだと、がつちりはまつてしまつて、ディスクがなかなか取り外せない。力を入れて外さなければならない訣だが、これだとディスクが歪んだり反つたり、場合に據つては貼り合せが剥がれてディスクが二枚に分離したりする(可能性がある)。
昨今のDVD關係のものは、コスト削減が最優先事項となつてゐて、クオリティとか使ひ勝手とかは徹底的に無視されるやうになつてしまつてゐる。DVDにバックアップと云ふのは必ずしもおすすめ出來ない訣だが、ハードディスクよりもバックアップメディアの方が信頼性が低いのは昔から變らない。何と言ふか、ハードディスクを澤山買つて來てコピーを澤山作つた方が、データは長持ちするのではないか。「のではないか」と疑問を呈す迄もなく、さう云ふものであるらしい。DVDとかの光メディアは要らない――どうせハリウッド邊が映畫を賣る爲に必要としただけのものである訣だし。
平成十八年三月十三日
最近、變な自轉車が増えたけれども、嫌だなあと思ふ。普通のサイズの自轉車、これは良い。これが普通だ。駐輪場でも普通に置ける。最近流行りだしたのが小さい自轉車。子供用のではなくて、車輪が態とらしく小さくて、なんか妙にハンドルやサドルが起き上がつてゐる、「おしゃれ」つぽい自轉車。高校生は大きめの自轉車に乘る。駐輪場で邪魔。ライトも變なのを附けてゐる自轉車が増えた。普通は前輪の下の方にぶら下がつてゐるものだが、最近流行りのは、ハンドルの正面にすゑつけられて、びかびかびかびか點滅してゐる。何で點滅させるんだらう。普通に光り續けてゐた方が良いぢやないか。如何にも不自然な點滅で見てゐて氣持ちが惡いし、燈が見えたり見えなかつたりはつきりしないのは其處に自轉車がゐるのだかゐないのだか良く判らない事になるから却つて危險だ。燈はずつと繼續して見えてゐた方が良いに決つてゐるのであつて、點滅してゐるのは見えない時間があるからその分危險が増えてゐるのだ。使つてゐる人は、買つた自轉車にそんなものが附いてゐたからそのまゝ使つてゐるのだらうし――と言ふより、新しいものだから惡い訣がないと信じて拒絶しないのに違ひない。しかし、「新しいから良い」と云ふ決りはない。世間では「疑へ」「疑へ」と言はれてゐるのに、なぜか人は新しいものは疑はない。「古いもの」だけ「疑へば良い」――「新しいものは既に古いものを疑つた結果として出現したのだ=だから新しいものは良いのに決つてゐる」――さう云ふ思ひ込みがあるのではないか。疑ふべきは新しいもの、新奇なものだ。古くから繼續して存在するものにはそれなりに妥當な理由がある場合もあるのだから、無闇に疑ひを抱いてさつさと捨去るのは、やめた方が良い。自轉車の場合、既存の自轉車のスタイルとサイズに標準があり、その標準に基いて駐輪場の駐輪の裝置が作られてゐる。其處で標準から外れた珍奇な自轉車に乘ると云ふのは、敢て既存のシステムに反抗する事である。反抗は良い事だと思つてゐるから珍奇なものに飛び附くのだし、それで「俺は個性的だ!」と滿足する訣だが、しかしさう云ふ新しいものも工業製品である限り或程度の規格化がなされてゐる。「個性的」と云ふ事が謳はれてゐる商品も、大量生産されてゐるものならば最早個性的ではあり得ない。ならば、さう云ふ「個性的」なものを擇ぶのも、より標準的なものを擇ぶのも、個性的でない點では變らない。個性を理由にするならば、「個性的」と謳つてゐるものを擇ぶ虚僞よりは、素直に非個性的なものを非個性的であると解つて擇ぶ方が増しだ。現代に於ては、非個性的なものを「擇ぶ」と云ふ行爲の方が、流行に流されて「個性的」なるキャッチコピーの附された商品を買はされるよりは、寧ろ、自覺的な行爲だと言へる。ママチャリ結構。大いに結構。標準に從ふのは良い事である。

平成十八年三月十二日
陰マモでとしあき。

平成十八年三月十一日
ディスプレイの調整
bungen's gallery 〜ディスプレイ調整コーナー〜
平成十八年三月十一日
Macの人が意地惡なのは明か。Mac版Internet Explorer 5でうちのリンク集を見た時、フォーム周りのレイアウトが亂れてゐる事を誰も指摘して呉れなかつたから判る。
平成十八年三月十一日
Winny開発者の裁判に村井教授が証人として出廷、検察側の主張に異議
情報共有の效率は等比級數的にアップするけれども、御金のやりとりの效率は等差級數的にしかアップしないとか適當な事を言つて見る。ネットワークでの著作權侵害の問題つて、結局のところ、著作權者のところに御金が入らないと云ふ問題なのであつて、其處がうまく行けば今問題になつてゐる事は問題にされなくなる。だから著作權の問題は道徳的な問題・善惡の問題ではない。

平成十八年三月十日
ゲームの所爲で「ゲーム腦」になる事はないらしいのだが、ならばなぜゲームで腦を鍛へる事が出來るのだらうか。
平成十八年三月十日
城南展 @ 東京古書會館。古めの本が多い、良い氛圍氣の古書展。買つた本。柳田國男『史料としての傳説』。サント・ブーヴ『パスカル小論』。等々。なんかダブつてゐさうな本ばつかり買つたので詳細を書かない。

平成十八年三月九日
Command+zとCommand+sは押し間違ひ易い。何うして操作ミスした後のデータを正しいデータに上書きしなければならないんだよ。Macのキーボードショートカットの定義は問題が多過ぎ。態と押し間違へ易いやうに近いキーだけで定義したとしか考へられない。Appleはユーザにマウスを使はせたいのだ。と言ふか、Macintoshの人には、キーボード操作を惡と看做し、マウス操作を善と看做す傾向がある。キーボードショートカットに使ふキーとしてqwasdzxcvのやうな至近距離にあるキーを割當てて押し間違ひ易くしたり、標準的な設計を採用したアプリケーションに限つて屡々ダイアログでのキーボードショートカットを定義してゐなかつたりするのがその證據。Macは使ひ辛い。閑話休題。
「元に戻す」はAlt+BackSpaceの方が良い。Alt+BackSpaceとCtrl+sを押し間違へる馬鹿はゐない。押し間違ひをやらかさないやうにキーボードショートカットは定義すべきで、Macのキーボードショートカットは根本的にをかしい。Windowsのキーボードショートカットは、元々押し間違ひし難いやうに定義されてゐたのが、Macの惡影響を受けて(Macの操作性は優れてゐると云ふ誤つた信仰の所爲)Windows 3.1以降、改惡されてしまつた(と言ふか、繼接ぎされて一貫性が無くなつてしまつた)。Macの――と言ふかAppleの罪は重い。
平成十八年三月九日
岩波文庫春の復刊。うひ山ふみなんかがまた復刊されてゐるけれども何でこんないくらでも見附けられるやうな本をわざわざ「復刊」と銘打つて重版するのだらう。我が国民思想の研究は、古本で買つてもあんまり値段が變らない氣がする。ウィンダミア卿夫人の扇は新潮文庫か何かで入手し易い筈。取敢ず奴婢訓が出てゐるので興味のある人は買ふとよろし。俺はクリスチナ・ロセッティ詩抄を買つた。

平成十八年三月六日
Latest topics > FirefoxとガンダムF90とデフォルトブラウザの地位 - outsider reflex

ジャンキー向けの多機能ブラウザは、OperaやSleipnirやLunascapeをはじめとして百花繚乱だし。

Operaはジャンキー向けらしい。慥かに虹裏見るのには便利だが。
平成十八年三月六日
右手中指第一關節の平の側を眞横に眞双津椿さん(誰)。理由は非常に説明し難いので省略と言ふか本の整理中云々。別に指を詰めた訣ではなくて皮を切つただけなので變な想像(謎)をしないやうに。キーボードもさうだがマウスを使ふのが非常に不便になつた。特にホイールの廻轉。
平成十八年三月六日
のあ
星新一のエフ氏はFankee_Jr、エヌ氏は野嵜つて説はどうかな?
あやの
どうかな、つて言はれても。エス氏は?
のあ
……さおりん。
あやの
…………後藤さんならG氏だぞ。
平成十八年三月六日
WXGが江洲さんである事を示唆。
平成十八年三月六日
正直言つて温泉なんかでうつつをぬかしてゐるのは老人。
平成十八年三月六日
今の時期、受け狙ひならやつぱりひょっこりひょうたん島ではないかと。

平成十八年三月五日
フェンリル牧野氏「SleipnirはF1カーのようなWebブラウザ」
SleipnirはレンダリングエンジンにMicrosoftのエンジンかGeckoを使ふのだけれども、さう云ふものでも獨立したブラウザとしてシェアをカウントして良いのだらうか。俺は所謂「タブブラウザ」をInternetExplorerかMozillaの亞流と見る。ユーザがSleipnirを使つてゐても、Microsoftのエンジンを使つてゐるのならInternetExplorerとして、Geckoを使つてゐるのならMozillaとしてカウントすべきだ。
シェアについて - WebStudio經由。
と言ふか、どうせInternet Explorer(或はMozilla/Firefox)と同じ風にHTML文書を整形するんだから、「タブブラウザ」なんて導入する意味ないぢやん。

平成十八年三月四日
養徳叢書 01-10
昨日の古書展で仕入れた養徳叢書の川端康成『愛』、同じ初版なのに裝釘が違ふ。
泉鏡花『照葉狂言』も裝釘の異るものがあるけれども、版が異るから不思議ではない。
平成十八年三月四日
正しい姿勢 - Weblog

HTML の説明となり得るのは HTML 仕様書のみでありまして、これ以外は全て「自家版解説」です。 割り切って主観を交えて書くのもアリ。 Web にある、というだけなら誰も知ったことではない。 初学者が間違った解説を読むと混乱するという「正義感」も解からなくはないけれども、それを言うと Web には「正しい」ものしか置いてはいけないことになる。 これは検閲と同じこと。

どうしてそれを言うと云々と云ふ事になるのだらう。
条域とかduliuとかもさうだし、三宅氏もさうなのだが、「『正しい』は自分の中だけにしておけ」のやうな事を言つて、誰かが正義感を發揮するのを牽制しようとする人がゐる。その方がよつぽど檢閲つぽいのだが、なぜか彼らは正義漢を罵つて「檢閲」だの何だのと極附ける。
何うして正しくないのを言ふのは自由で正しい事を言はうとするのは自由でないんだよ。条域らは「道徳」だの何だのと言ふが、そんなものが言論の自由を制限する根據になると本氣で思つてゐるのか。三宅氏も高みを目指して自分を研鑚する姿勢がどうたらかうたらと他人に説教する暇があつたら自分を研鑽したら何うか。三宅氏は何うして他人に説教するんだよ。三宅氏が他人に説教して良いのなら、久樹さんが「正しいHTML」の解説を公開したつて良いだらう。
条域にしてもduliuにしてもさうだが、「他人に干渉する權利」を云々する手合に限つて、自分にだけは無制限に他人に干渉する道徳的な權利がある等と思ひ上がつてゐるものだ。自分の研鑽等と言つてゐる三宅氏も、その三宅氏自身の考へを信じてゐるならば、自分が率先して默らなければならないにも拘らず、なぜか自分の事を棚に上げて他人を默らせようと御喋りしてゐる。
價値相對主義者――と言ふより、「絶對的な『正しい』は存在しない」等と氣樂に言ふ手合――は、どうして自分を絶對化してしまふのだらうか。
平成十八年三月四日
竹内薫『99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』なる新書が出てゐて本屋の店頭でちらつと見たが、何でこんなにまで「疑ふ」事許りが強調されねばならないのだらうと思つた。飛行機はなぜ飛ぶのか? 科学では説明できない! あたまが柔らかくなる科学入門と云ふduliuが好みさうな惹句が附けられてゐる。こんな本を讀んで、讀者は本當にあたまが柔らかくなるものなのだらうか、俺は疑ふ、疑つたつて良いだらう。
何うもこの手の本は昨今、讀み手に惡影響ばかりを與へてゐるやうに思はれる。
JBOOK:99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方:竹内 薫 著:書籍
世の中の多くの事が實はそんなに良く判つてゐる訣ではない――慥かに本當の事だ。だが、ここで我々は注意しなければならない、我々は此處で「本當の事」と斷定してゐる。これは何なのだらう、我々は疑つて良い。
「この世に確實な事は何もない」――かかる「本當の事」が「わかつてしまつた」連中は、条域は、duliuは、三宅氏は、自信を持つて他人に問ふ――「お前の言つてゐる『正しい』は、果して本當に『正しい』なのか」。
「疑へ」と命令されて疑つてゐる人々がゐる。彼らは「疑ふ事」それ自體を疑へない。「疑ふ」のは至上命令である。至上命令は疑ふ事が出來ない。だが、「疑ふ」事はどうして「疑つてはいけない」のか。
「疑ふ事」が果して本當に良い事なのか、それを考へるのがタブーである人々――知識の面で「柔らかい頭」を持つ事が出來たとしても、依然、彼らには固定的で機械的な態度が殘る事になる。實はこの固定的で機械的な態度こそが打破されねばならないものなのだが、彼らにはそれが解らない。ただ、機械的に「疑つて見せる」事を彼らは悦びとする。彼らは「正しい事」の啓蒙を愚弄しながら、「疑ふ事」を啓蒙してやまない。
理系の知識を扱つた本は、さう云ふ人間の圖々しい態度について、一切考察を缺いてゐる。それつぽい事が書いてあつたとしても、それは通り一遍の「良くある但し書き」の域を出ない。文句を言はれた時「豫め注意が書いてあります」と言逃れする爲の言ひ訣である。しかし「疑ふ」事は哲學的テーマである。
實際、疑ふ事が確實であるのならば――いや、それは確實な事である。我々は、疑ふ事それ自體を疑つて良いが、しかし、何であれ疑ふ事に變りはない。が、疑つた先に我々は何を求めるのか。我々は眞理を追究する。疑ふとしたら、ただ、眞理に近附けないのではないかと云ふ疑ひでなければならない。疑ふならば、その先、眞理により近附く爲の方法を希求しなければならないのだ。そして、隱された眞理を解明する爲に、我々人間は解明の方法を摸索して來た。それが最近になつて嚴密さ精密さを極端に増し、その爲に既存の方法を悉く否定するやうになつてゐる。が、その否定は眞理の否定ではなく、眞理を解明する方法の、それも既存の方法を否定してゐるに過ぎない。再び言ふが、價値相對主義者は否定すべき既存の方法論に對して、代替して用ゐるべき新たなるより正確・精密な方法を提示しなければならない。それをしないのならば、價値相對主義には何の存在意義も無くなると言つて良い。道徳だの自己研鑽だのと奇麗事を並べたてて、それで眞理から遠ざかる――何とも虚しい事ではないか。ここに俺は現代人のニヒリズム及びニヒリズムに對する鈍感を指摘したいのだが、今朝は眠いのでこれ以上の檢討はしない。
少しだけヒントを書いて置くと、眞理を探究する方法として存在する推論、これについてはきちんとした知識を持つてゐる必要がある。三段論法のやうな古典的な論理、これは慥かに最早古いのであつて、現代の論理學者に批判されてゐる。けれども、ニュートン物理學がアインシュタインの相對性理論や量子力學の成立した現代に於ても限定された領域で有效であるやうに、古典的な論理も或範圍では有效である。もちろん、三段論法のやうな推論が絶對的な正しさを持つものとは斷定出來ない。が、だからと言つて短絡的に因果關係の存在を極附けるなどと言つた亂暴な方法が「あり」になる訣ではない。我々には或程度の妥當な推論の方法が共通認識としてあつて良い。それは絶對の眞理ではないが、相對的により高い確率で眞理に到達し得るであらう方法である。それに對して挑戰して、確實性の劣る代替案しか提示出來ないのであれば、その主張に固執する事は愚かである。「お前はいろはも知らない」と巧く洒落で極附けられるからと言つて、即座に「この世の原理はいろはである」等と斷定してしまつたら、やつぱりどこかをかしいと考へなければなるまい。確率論は或意味、現代の不確實な世界で唯一の支配的な原理となりつつある。これが打破されるべき假説であるのか、或は全ての原理であるのか。結局のところ不確實であるものを扱ふのだから、「疑ふ事」と「確率で論ずる事」とは大して變らない。が、かうなると、相對主義でも相對的に増しなものであれば當座、或程度の範圍において、有效性を認めざるを得ないのではないか。と言ふより、或程度の有效性があればそれで良しと考へなければならない。どうもその邊の事すらも履違へてゐる人がゐるやうだ。どうだらうね、自分自身のやつてゐる事を反省する事の出來ない理系的な知識つて――何うなんだらうね。
平成十八年三月四日
例へば、中谷宇吉郎の『地球のまるい話』なんかは良い解説だつたと言つて良いのである。「地球は楕圓である」「洋梨型である」――かかる現代的知識、これが既存の「地球は丸いもの」と云ふ通念を打破したのであるが、かう云ふ新知識が絶對の眞理であるかのやうに喧傳されてゐる事を中谷氏は反省してゐる。地球は慥かに歪んでゐる。しかし、地球を縮小して描いたらどうなるか。コンパスで眞圓を描いた時の、鉛筆の痕の幅、そんな狹い中に、縮小して示された地球の歪みの範圍(或は海の底から山のてつぺんまで)は收まつてしまふ。「大體地球は丸である」と云ふ通念は、精密な見方では打破されたが、「縮小して表示する」と云ふ場合には「だいたいあつてる」事になる。單純な通念の打破は、必ずしも或場合における通念の妥當性を完全に否定するものではない。單純に「疑へ」と云ふ事だけが強調されたのでは、この「或場合における通念の妥當性」のやうなものは切捨てられてしまふ。
京王線に乘つて浦島效果もあつたものではない。我々の日常生活で、アインシュタインの理論の出番は必ずしもないのである。では、アインシュタインの理論はなぜ「ある」のか。かうなると最う、日常生活とか現實とかとは關係ナシに、眞理の探究が人間の根源的な性質であると言ふしかない。我々人間には眞理を探究しようとする傾向があるのである。「疑ふ」事はその真理の追究の過程で用ゐられる手段である。疑ふのは決して目的でない。かうなると、單純な價値の相對化は夫れ自體としては何の意味もないと云ふ事が判つてくる。より眞理に近附き得る方法なり何なり、それを提示する事――延いてはより眞理に近附く事が、價値相對主義と云ふ手段の目的である。疑ふだの研鑽するだのと偉さうに言つたところで、それらを窮極の目的と看做す事は許されない。意味もなく疑つたり研鑽したりしても仕方がないんだよ。
ニヒリズムから日本人は目を逸らし過ぎた。それで却つて虚無的な發想に陷つてしまふ。價値相對主義なる手段を目的と取違へて、目的を見失ふのは、何うしやうもない誤だよ。
平成十八年三月四日
http://mandel59.dw.land.to/sunbbs/#No.96
http://www.ushikai.com/web/web00a.htm
と言ふか、何を今更HTML 4.0つて感じだが――今ならHTML 4.01だらう。この點についてはまあ牛飼の文書は古いものだから云々。しかし古くても古いなりに良い解説はある訣で、牛飼がそれに該當するか何うかと云ふと結構いろいろ問題があつて云々。
平成十八年三月四日
半分寢てゐる状態で書き毆つたので誤字多數。句點の脱けもあつたし。訂正。内容については訂正ナシ。理系の人一般を罵つてゐるのでないと云ふ事は御察し下さい。中谷宇吉郎の名前を出して褒めてゐる訣だし。と言ふか、俺の立場としては理系文系の區別を認めない。亂暴な言ひ方をするけれども、現代的な科學も哲學も元を辿ればデカルトやパスカルに行着くのだから。
平成十八年三月四日
ニヒリズム云々は、上で述べてゐる「惡しき價値相對主義」の中途半端である事を非難したもの。全ては相對的と言つたところで、それでも何らかの價値が依然「ある」とその手の價値相對主義者は思つてしまふ――それが「自分と云ふ價値」である訣だ。が、このやうなパンドラの箱に殘された希望のやうな價値は、ニヒリズムにおいては存在し得ない。
現代科學の知識を以てすれば、哲學的なニヒリズムと同樣の、或はそれ以上の説得力で以て、世界に希望がない事を證明し得る。この宇宙が何處から來て何處へ行くか――宇宙論は恐るべき結論を示しつゝある。しかし、人間は遠大な未來を想像して、絶望しない。人間はそもそも樂天的に出來てゐるらしい。惡しき價値相對主義者は、さうした樂天的な人間性が實に良く發揮された結果、彼等の信條を得たものであるが、それ故、絶望に至り得ない中途半端な考へ方しかしない。他人の價値を否定しても、自分の價値だけは肯定してしまふ。自分の言つてゐる事は自分にとつては絶對に正しい事なのだ。
他人を疑ふ事と他人を否定する事とは同義である。昨今の「疑へ」ブームは、他人を否定したい惡しき價値相對主義者に強力な武器を與へる。ところが、その武器が彼ら自身に害を齎す事は「ない」。ブームだけに讀み手に快感を與へる本は多い。もちろん、「疑はない」讀み手に「疑へ」と要求する本はある、けれども、讀み手は「疑ひたい」のだ、「疑ひたい」讀者に「疑へ」と要求する書き手は、讀者の欲求に迎合してゐるに過ぎない。讀者は「なんでお前は疑はないのか」と叱られて、寧ろ嬉しいのである、その程度の「苦痛」は寧ろ快樂である。しかし、マゾヒストにも苦痛を感ずる事は「ある」――マゾヒズムを否定される事である。「疑へ」と言はれて「はい疑ひます」と答へる、それは簡單な事だ。(惡しき)價値相對主義者達は、簡單だから命令を受容れる。ところが、その「疑ひ」の對象が「疑ひ」そのものに、そして、「疑ふ主體」になつた時、問題は困難なものとなる。かかる困難を突き附けられるのを、簡單なものを喜んで受容れる彼ら(惡しき)相對主義者は苦痛に感ずる。そして、彼等の極めて深刻な缺陷だが、彼らは苦痛を囘避する術を「本能的に」知つてゐるのである。最初から彼らは苦痛となる自らに對する根本的な問ひを囘避するやうに「頭が出來てゐる」。斯くして、根本的に讀み手に反省を迫るやうな「疑へ」本は、ブームの最中で出現し得ない事になる。讀み手をして他人を疑はしめる本は多い、しかし、讀み手自身を疑はしめる本は先づ無いのである。もちろん、「あつても賣れない」と云ふ訣なのであるが。ブームの外にさうした立派な本は存在するだらう――。
絶望して人は沈默に陷るものだ。そこまで人を絶望せしめる本は、今の「疑へ」ブームの中から生まれない。条域にしてもduliuにしても、實に生き生きと他人を罵つてゐた。三宅氏も樂天家である。價値相對主義は樂天主義を助長せしめるのみである――俺はニヒリストだからさう云ふ現状を呪ふのである。ニヒリストは世の中を呪ふ者であり、現實變革の爲に動く者ではない。現實を變革して何にならうか。宇宙はいつか死ぬ。人類はもつと早く死滅する。個人はすぐ死ぬ。
平成十八年三月四日
全ての人間の希望を含んだ營爲は樂天的である。が、斯る樂天主義とニヒリズムとの間には飛躍がある。道徳にしても國防にしてもこのニヒリズムの前には説得力を失ふ。にもかかはらず道徳を論じたり國防を論じたりする人は存在する。が、全ては樂天主義であるとニヒリストは指摘する。
日本に於てもニヒリズムは早くから自覺されてゐて、だからこそ痩せ我慢の説なんかが出て來たのだが、今の日本人が痩せ我慢の積りで價値相對主義を云々してゐる訣はない。そこまで悲觀的な價値相對主義者は、少くともウェブでは見た事がない。右翼も左翼も樂天的だと俺は思つてゐる。
ニヒリズムの問題は、未だに、或は今だからこそ、眞劍に考へられなければならないと俺は思つてゐるが、世間の人は全く氣にしてゐない。遠い將來の完全平和の實現を考へるのが氣狂ひのする事でないのなら、遠い將來の人類の滅亡や宇宙の死やらを考へてニヒリズムを主張するのも氣狂ひ沙汰では無い筈だが、「考へない」事が許されてゐる領域が「疑へ」ブームの席捲する現代にも存在するらしい。
平成十八年三月四日
ニヒリズムに對して西歐ではキリスト教が存在し、人間の營爲を肯定してゐる。キリスト教がないから日本では痩せ我慢の説になる。けれども、このキリスト教が動搖してヨーロッパにもニヒリズムが出來し、それが日本に傳染して今非道い事になつてゐるのだが、ニヒリズムに對抗する強力な存在が「ない」事の問題は日本では氣にされてゐない。
宗教にしても科學にしてもその他諸々にしても人間の營爲一切が疑はれ得る。「正しい」が「存在しない」と批判される。この時、なぜ「自分」だけが希望として殘り得るのか。「何うせ死ぬのである」と云ふ青臭い指摘は、しかしながら眞實である。「死ぬのに何うしてあんたは生きてゐるの」なる質問に「だつて生まれちやつたのだから仕方がないだらう」では答になつてゐないだらう。ニヒリズムは一切の價値を否定する。この徹底した否定を乘越えなければ、一切の人間の營爲は價値を失ふ。ニヒリズムの問題は窮極の問題である。が、餘りにも論じられる事が少い。中二病呼ばはりされようがされまいが、かうしたガキつぽい疑問に「自稱大人」が答へないのは「答へられないからだらう」と俺は何度でも言ふ。何も考へなければ生きて行ける――それならば疑問なんて持つ事はないのだ、今の「疑へ」ブームは異常である。

平成十八年三月三日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0603.html#3p2
マガジン9条
マガジン9条「06年新春特別企画国民投票」
何時も思ふのだけれども、何で平和主義者は「護憲派」なのだらう。それに對して「改憲派」が「ある」のもをかしい。俺には「護憲派」對「改憲派」と云ふ對立構圖が全く理解出來ない。
平和主義者は自衛隊の存立を許してゐる憲法第九條を「守らなければならない」理由を持たない筈だし、國防・自衞の觀點から「自衞力」を持つ事が必要だと考へる現實主義者は、現實に自衛隊が存在してゐる以上、「自衞隊は軍隊でない」等と名前に拘つてわざわざ第九條に反對する必要はない筈だ。
「護憲派」の「マガジン9条」はこの「投票」で「平和主義の観点から断乎として自衛隊の存在に反対する」と云ふ理由で「自衛隊の存立を許さないために自衛力の類をも含んだ国の戦力の保持及びその行使を絶対に禁止するような条文に改正する」といつた撰擇肢を用意しなかつた。「護憲派」は最早さう云ふ方向での憲法改正は不可能であると最初から諦めてゐるから現行憲法を最後の據り所としてゐる訣だが、それは「守りの姿勢」でしかない。「護憲派」は、存在する「憲法第九條」を既成事實として、それに縋つてゐる。極めて消極的な保身の態度である。單なる保身くらゐ日本で嫌はれるものはない。それに對して「改憲派」は積極的な姿勢で主張をしてゐるので印象が良い。ただ、「護憲」には「平和主義」なる「理想のやうなもの」があるから必ずしも印象が惡くないやうに見え、「改憲」が屡々「單なる現實主義」で理想を缺いてゐる爲に印象を惡くしてゐるのに對抗出來てゐるに過ぎない。
憲法第九條は曖昧な條文を含んでをり、その爲に上で述べたやうな「捩ぢれ現象」が起きる――曖昧な條文だから問題が起てゐると云ふのならば、條文を明快なものにすべきである事は論を俟たない。當り前と言へば當り前の話。實際、何處の國でも曖昧な條文を明快な條文とする爲に憲法を改正するものだ。憲法第九條を曖昧な規定にしておかうとするのは、いろいろな解釋を可能にして水掛け論を何時までも續けさせるのが目的であるとしか言ひやうがない。「護憲派」は、「平和」なる「理想のやうなもの」を掲げながら、さう云ふ水掛け論を續けさせて世の中が變化するのを妨碍する、と云ふ「現實的」な戰術をとつてゐる。
日本の「護憲派」は、現實に「戰爭が起きさへしなければそれで良い」のに過ぎない。だが、「護憲派」にしてみれば、今は「一國平和主義」であつても、それは「世界平和」の過程に過ぎないとの考へがある。「護憲派」は「世界が平和になれば、日本國民は生延びる事が出來る」と云ふ信念を持つてゐる。一方の「改憲派」は、さう云ふ「護憲派」の「遠大な計畫」を「今の現實を見ない圖々しいもの」と思ひ、「當座、國民が生延びるのに軍隊は必要である」と云ふ「現實主義」の立場から「護憲」に反對してゐるに過ぎない。「護憲派」も「改憲派」も、「生延びる」事が窮極の目的である點で共通する。だが、「生延びる」だけならば、どちらも現實主義ではないか。
「護憲派」にも「改憲派」にも、理想がない。「平和」は、生延びる事が目的であるのならば、理想ではなく、單なる手段である。自衛とか國防とかが手段であるのと同じだ。もちろん、「平和の爲なら死んでも良い」と言ふ平和主義者は存在する――が、それは、今、平和が實現しない事で絶望して、自棄のやんぱちになつてついカツとなつて死ぬだけであり、單なる勘違ひに過ぎない。
それを實現すべく、希望を持つて、積極的に命をかけられるもの――それが理想であり、我々人間はさう云ふ理想を持たなければならない。信念とか正義とか、さう云ふものを人間は持つべきである。さうした理想を實現する爲に、人は生きてゐなければならないから、生延びる事を政治は保證する。さう云ふ訣で自衞とか國防とかの發想が出て來る。それが自然だ。だが、己れの信念や正義、理想を否定する他者が出現した時――命をかけて守らなければならない理想を、人は持つべきである。我々は、自衛とか國防とか言ふが、それで守るべきものは何だらうか。生命であるか。例へば「義」ならば、無職の穀潰しなんぞの生命等、守りたくもないだらう。では、生命はそれ自體として守るべきものではない。我々日本人は、何を守る爲に國を守らなければならないのだらうか。「護憲派」にも「改憲派」にも、その邊の考察は全く缺けてゐる――最近のオピニオン雜誌もウェブの掲示板も見てゐないが、今でもその邊の事を日本人が全く議論してゐない事は斷定出來る。生延びて何をするのか。命をかけて何を守らうと言ふのか。或者が命を捨てて他の或者が命をながらへる――それは結局命を守るだけの事だ。誰かが生延びるだけの事だ。理想は生命を超えたところに存在する。さう云ふものを日本人は持つてゐるか。平和とか防衛とかの議論で眞に重要なのはかう云ふ問題の解決であるのだが、「護憲派」も「改憲派」もその邊の事には一切觸れない。否、「護憲派」には理想に對する憎惡がある。彼らは理想よりも生命の方が大事である。が、さう云ふ「護憲派」は、生延びて何うしたいのだらうか。「平和が實現したら考へれば良い」のではない、どうせ遠い未來にしか實現しない平和の事を考へられるのならば、平和が實現した曉に人間が實現すべき理想を考へる事は可能だらうし、豫めその理想を提示しておかなければ平和を實現すべきである事の主張が説得的にならない。平和主義者が胡散臭いのは、平和の先に目指すべき眞の理想を提示しないからだ。が、それに反對する多くの現實主義者にも平和主義者の指摘する胡散臭い「理想」をしか掲げ得ない人がゐて、それが彼等の主張が必ずしも一般に受容れられないで「危險思想」と見られる理由になつてゐる。
平成十八年三月二日
東京古書會館。共産主義關係の本とか天皇制の本とかが多めの今一つ面白くない古書展。田中卓『古代天皇の秘密』(太陽企画出版)、鳥越憲三郎『天皇権の起源』(朝日新聞社)その他を購入。

平成十八年三月二日
掲示板で教へていただきました。
target=_blankの件 投稿者:まき 投稿日: 3月 1日(水)21時57分26秒 ...

お久しぶりです。

今のOperaで、target=_blankの場合にも同じ窗で開きたい件ですが。

私は「當該リンクを右クリック→開く」でやつてゐます。Drug & Drop よりこちらの方が速いやうな氣もします。

何時も何うも有難うございます。
平成十八年三月二日
ふつう Cmd+↓ だよねぇ。
はぁ? 何それ。聞いた事ないよ。いやかすかに聞いた覺えがあるやうな氣もするけれどもメニューの何處にも書いてないんぢやね? と言ふか普通開くはCmd+Oぢやないの? Finderのメニューに書いてあつたよ? Macのキーボードショートカットは訣がわからない。なんかMacつてわかりにくい。知つてゐる奴だけ知つてゐるみたいな知識が多過ぎる。ヲタ養成マシン。
Windowsならデスクトップのアイコンでも何でも擇んでEnterで起動だから判り易い。何でMacはEnterだかReturn(氣持ち惡い言ひ方だな)だかでファイル名の變更なんだよ。
Macが大嫌ひなのでぷち切れてみる。と言ふか、コンテキストメニューが出ないのは不便だな。何でマウスのボタンがたつた一つしかないんだよ。メニューは畫面の上に貼りついてゐるし。邪魔だし、アプリケーションの切替へがわかりにくい。なんかタスクを切替へると畫面上の部品がどつかに行つてしまふアプリケーションもあるし。氣持ち惡い。
平成十八年三月二日
WindowsXPのデスクトップでCtrl+→←↑↓はフォーカスを伴はないカーソルの移動。何か意味あるのかこれ。
平成十八年三月二日
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2006/03a.html#d02n01
今晩は。何うも有難うございます。
平成十八年三月二日
開發が續けられてゐたら今でも俺はOS/2を使つてゐただらうと思ふ。

平成十八年三月一日
「アンテナ」でぐぐるとはてなアンテナが一番上に出て來る。その下も、DXアンテナとか日本アンテナとか八木アンテナとかと、朝日奈アンテナとかとが混在。
ウェブサイトの更新を檢知するしすてむを譬喩的に「アンテナ」と稱して「俺は良いネーミングをした!」と喜んだ人が最初にゐたのだらうが、本來のアンテナを檢索したい人にとつては甚だ迷惑な結果になつてしまつてゐる。變なネーミングも考へものだが、一般名詞を本來のものとは全く別のもののネーミングに使ふのも考へもの。
Googleの檢索結果にアンテナハウスが紛れ込んでゐるのは御愛敬。
平成十八年三月一日
廣告ありし頃のOperaは、アンカーを廣告窗にドラッグ&ドロップすればtarget=_blankなんて嫌らしいものが仕込まれてゐるアンカーのリンク先も現在見てゐるサイトのタブと同じタブの中で開ける仕樣になつてゐた(別ウィンドウを開かないで濟んだ)のだが、廣告が無くなつた今、何うすれば同じやうな事が出來るのだらうか。廣告の復活希望。
平成十八年三月一日
Mac OS 9のIMの擧動は變。アプリケーションを切替へたりダイアログを出したりした時、變な風にonになつたりoffになつたりするやうな氣がする。Mac嫌ひ。
平成十八年三月一日
WXGでのキー割當て。
Enterキー
未入力時=無效。入力中=全確定。變換中=全確定。候補一覽中=文節カーソル右。文節長變更=文節變換。文節修正=全變換。
變換キー
未入力時=半角空白入力。入力中=全變換。變換中=次候補。候補一覽中=次候補。文節長變更=文節變換。文節修正=全變換。
無變換キー
未入力時=確定アンドゥ。入力中=全確定。變換中=全確定。候補一覽中=文節カーソル右。文節長變更=文節カーソル右。文節修正=文節カーソル右。
スペース
未入力時=文字入力。入力中=文字入力。變換中=文節カーソル右。候補一覽中=文節カーソル右。文節長變更=無效。文節修正=無效。
IMEのon/offはAlt+半角/全角。これ以外は認められない。Alt拔きの半角/全角だけでIMEのon/offが出來ると云ふのは邪道。なほ、今俺が「邪道」と言ふのは、論理的な根據のない感情的な極附けだからさう言ふのであり、反論不要。
平成十八年三月一日
切り取りはShift+Delete、複寫はCtrl+Insert、貼り付けはShift+Insertだとか、ファイルの上書き保存はShift+F12だとか、アンドゥはAlt+BackSpaceだとか言ふと「變態」呼ばはりされる事があるのだが、今のWindowsの一般的なキーボードショートカット即ちCtrl+XだのCtrl+CだのCtrl+VだのCtrl+SだのCtrl+ZだのはMacintoshの影響を受けたものでありWindowsの傳統の中では寧ろ變態的なものだと俺は未だに信じてゐる。
Macintoshのキーボードショートカット、良く考へられてゐると人は言ふけれども、何うだらう。Ctrl+OCmd+Oでファイルを開かうとして誤つてCtrl+PCmd+Pでファイルを印刷してしまつて「何これ」と言はれた。ネットワークのプリンタだから他人も出力した紙を見るんだよ。わざわざ誤つて押し易いやうにキーボードショートカットを定義したAppleは何うかしてゐると敢て言ふ。素早く押せれば良いと云ふものではないだらう。Macintosh信者はすぐ「素早く操作出來る」とか「直觀的に操作出來る」とか言ふけれども、それつて危險ではないですかね。
ちなみに間違つて印刷したのは文書のテンプレートからコピーした許りのファイル。必要な項目がメモしてあつたもの。變な畫像とかではない。
平成十八年三月一日
と言ふか、Shift+Delete等のショートカットキーはIBMがCommon User Access(CUA)で定義した「由緒正しい」もの。
IBM Systems Journal: The evolution of the Common User Access Workplace Model - Technical
平成十八年三月一日
Operaの件。教へていただきました。何うも有難うございます。
http://lan.rgr.jp/diary/2006/03a#One-Seven

アンカーを、現在見ているサイトのタブにドラッグ&ドロップすると同じタブで開ける様です。

平成十八年三月一日
FinderでCmd+O。
Input Method。

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