闇黒日記


平成十七年十二月三十一日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051229/p2
多分渡邊さんは「個人的な問題」を「日常的な話題」とかそんな意味で把握してゐると思ふのだけれども、俺にして見れば「個人の問題」と言つたら「個人の生き方の問題」に他ならないんですよ。それは「大衆の問題」とは全然次元が異る。姉齒の話にしろ列車轉覆の話にしろ、「讀み手」がいろいろ考へる事は考へるでせう。けれども、その種の話は全部「大衆の問題」にしかならない。
本を讀んで、それを日頃の生活における話題と聯關させて書く、なんて、そんな「個人的な話題」の話をされても、別に俺は興味を持てないでせう。さう云ふ「個人的な話題」は何うでもよろしい。書いてゐる小説と聯關させて論ずる、と云ふのも、その種の「個人的な話題」の話に過ぎません。では、個人的な快樂とか欲望とかは何うか――それもまた「個人的な話題」に過ぎないと思ひます。「樂しい」と渡邊さんはおつしやつてゐますが、その「樂しい」と云ふのが「個人的な欲望とか快樂とか」の「文脈」で言はれてゐるのならば、それも所詮「個人的な話題」に過ぎない。何時も私が渡邊さんの書評を讀飛ばす所以です。
多分、渡邊さんが精神の余裕と言つてをられるのは本當の事でせう。俺にはそんな餘裕が無いのです。「知的遊戯」としての「面白い」の類には、最早興味がありません――と言つたら嘘で、でなければ虹裏なんて覗いてはゐない訣ですが、あれは反省してゐる暇がないくらゐ、とんでもないスピードで目の前で物事が進展して行くからのめり込めるのであり――ドストエフスキーが賭博にのめり込んだのも同じでせう――自分が何をやつてゐるのか反省出來る「のんびりした状況」では、とてもパズルのやうな暇潰しは、やつてゐられません。ストイックと言へば、死までの暇潰しにパズルを解いてゐる人の方が餘程ストイックでせう。「何故生きてゐるか」が俺には最大の問題です。
「死んだ男」でD.H.ロレンスが生の喜びについて書いてゐますし、福田恆存が人は生甲斐を覺えなければならないと書いてゐますが、「生き生きとした生」と云ふものを俺は求めてゐる訣です。「大衆の問題」――それが社會的な運動の話であれ國家のあり方の話であれ――政治的なものが、自分の生き方に何か關係するとは思はれない。身につまされるやうなものではありませんから。
福田さんが書いてゐるやうに、演劇と云ふものは元々祝祭に關聯するもので、人の生き方を整へるものでした。演劇に限りません、サルトルが『嘔吐』で書いてゐるやうに、藝術は無意味な時間の流れの中において意味のある完結した連續體を形成し、人に活力を與へるものです。完全な藝術作品とは、だから、完全に自己證明を果した作品であると考へます。それは圓環構造による完全な構成を持つた創作であり、完全な語の選擇と韻律とに據つて書かれた詩であり……ところで、その種の完全な藝術を、現代に於て得る事は、困難になつてゐます。現代が混沌とした時代であるならば、その状況は藝術作品にも反映されます。小説にはそれが内容的に表れてゐますが、同時に、ジャンルとして批評に表はれてゐると言へます。さうした現代において、再び完全な藝術を創出するには、寧ろ批評的な方法が要請されてゐる。漫然とした書き方は「あり得ない」と渡邊さんは仰つてゐますが、實際に俺が書いてゐる「闇黒日記」なるものは明かに「漫然」たるものです。しかし、現代の批評は、かうした「漫然」たる「書き方」をせざるを得ない――。
現代の批評における斷片的な書き方が、ただ「漫然」と書かれてゐる事に據るのか何うか、寧ろ、批評の對象たる現代の状況が斷片的な批評と云ふ形態を必然的に要請してゐるのではないか。齋藤緑雨は傑出した批評家ですが、緑雨の批評が最も優れた形で表はれてゐたのはアフォリズムと云ふ形式に於てでした。批評と云ふ形式は、現代に於て重要なジャンルとなつてゐます。詩人T.S.エリオットも澤山の批評を遺してゐますし、批評精神の上に晩年の劇作は成立つてゐると言つて良いでせう。そこでは解體された現代の事象を認識した上で、意圖的に再統合し、現代に完全な藝術を再生しようと云ふ意圖が見られます。
思ふに、現在、「漫然」たる書き方をしてゐるとしても、それが現代と云ふ時代を把握する行爲であるならば、それは「あり」なのではないか。批評――「これ」は日記ですが――は創作ではありません。ただその先に完全な藝術の實現を構想してゐる事は、解つて頂きたいと思ひます。「闇黒日記」は、全て「リスト形式」でマーク附けされ、「覺書」である積りでゐるのですが、これは意圖的に擇んだスタイルです。
國字問題は――福田さんが「これだけは讓れない」とした或事を、同じやうに「讓れない」と言ふ、それによつて福田さんの生き方をなぞつてゐるものです。人が生きるのには指針が必要でせう――福田さんの生き方は、俺にとつて重要な指針である、と云ふ訣です。全く同じには生きられません、が、「生き方の違ひ」があるからこそ、他人の生き方をなぞる事には、自らの生を生き生きとさせる效能が「ある」のだと信じてゐます。どうもですね、「自分だけの生」を生きる事――現代的な意味で「自然」のまゝに生きる事――こそ、俺にとつては漫然たる生き方にしか思へないんですね。單に「生きる」よりは、何らかの「生き方」をしたいと、さう考へてゐる。
平成十七年十二月三十一日
人は「保守的」と言ふと「ただ『昔に歸れ』みたいな事許りを云ふ事だ」と思つてゐる。けれども「現代とは何か」が解つてゐないと「現代を否定するもの」としての「過去」の意義が解らない。そこに保守派が「現代的」なセンスをも持合せなければならない理由がある。それに「古いものは全て良い」と云ふ訣でもない。古い土壤の土地には、時には新鮮な物を持込んで活性化を圖らねばならない、と云ふ事も、保守派は解つてゐなければならない。保守的である理由は「世の中は良いものでなければならない」と云ふ理想主義であるべきだ。だから、保守派が機械的な「單なる反動」に墮して「住み難いだけの詰らない世の中」を作らうとするのであつたら、それは間違つてゐる事として糺彈されなければならない。
平成十七年十二月三十一日
河合榮治郎『社會思想家評傳』「序」より。

社会学徒の中には、単に思想のみ興味を持つものと、その思想を産んだ人そのものに興味をもつものとがある。私の如きは後者の部類に属する。私が本書に於て単に社会思想を語らずして、社会思想家を語ったのは、此の故である。人に関心を持たない人の多くは、白己の課題を始めより特定して、その課題に対する解答を諸々の人より探らんとする。然しいかなる課題を持つべきかを最先の課題とするものは、人に関心を持たざるをえない。蓋し先人の抱いた課題を探ることは、自己が何を課題とすべきかに貴重なる示唆を与へるからである。私は多くの人が始めより自己の課題を特定してゐるのを見て、尠からず不安を感ぜざるをえない。何故なればその課題は自己の主観的な偶然性により与へられたか、或いは自己なるざる周囲より流行的に与へられたに過ぎないものが多いからである。私は過去十数年、社会思想家の門を敲いて、先ずその人々の課題を探ることに努めた。本書はかかる思想家巡礼の一産物である。

平成十七年十二月三十一日
クリストファ・ドーソン「イギリス國王戴冠式に關する考察」(『政治の彼方に』所收)

……。僅か二世紀前までは、無神論者は罪人のやうに人眼を避けて後暗い生活を送つてゐたものである。しかるに今日では彼は西歐の世界に於て市民權の全部を獲得した。完全に無神論者であることを標榜して、しかも國事に參與し、社會の共同生活に加はることを憚らない。國家、社會をわがものと感ずる點ではキリスト教徒の場合と大差はない。否それ以上かも知れない。何となればキリスト教徒としては大多數の同胞によつて最早守られてゐない掟、信じられなくなつた信念にいまだに制約されてゐるゆゑに、近代の世界を多少棲みにくい世界と感ぜざるを得ないのに反して、無神論者は何の遠慮も割引もする必要なくして、百パーセントの近代人たり得るからである。ただ時たま戴冠式のやうな場合に昔のキリスト教的秩序が忽然、生活の表面から頭を出してわれわれの注意を一瞬間、要求する。私が無心論者といふ時、もちろん神の存在に對して思辨的な疑ひを懷いてゐる人をいふのではなくて、その人の生活と思想の全體が、あたかもキリスト教徒やマホメット教徒の場合、神の存在とその神意に基礎づけられてゐるのと反對の意味で、神の不在と宇宙の無神性に基いてゐるやうな場合を指すのである。

かかる状態は問題の一面に過ぎない。他面に於てわれわれはキリスト教の傳統が、たとへ散漫な漠然とした形にしろ、それにも拘らず、生きた現實の力として今日の世界に持續してゐる事實を考慮に入れなければならない。それは單に時々、タイムズ紙に寄せられる投書のなかにキリスト教國たるものが、或はキリスト教文化がかくかくの事柄を默認していいのかといつたやうな驚きと憤慨の氣持を表明したものが今でも見出される――そのやうな現象をさしていふのではない。むしろわれわれの文化がキリスト教的でないことを誰よりもはつきり認識し、キリスト教徒たることを標榜しない人々自身が、私生活に於ては感じないまでも、

平成十七年十二月三十一日
クリストファ・ドーソン「イギリス國王戴冠式に關する考察」(『政治の彼方に』所收)

……今日、非獨裁國家が代表してゐる意味は、自由主義でなくしてデモクラシーである。昔日の自由主義者逹自身が認め、今日でもなほクローチェの指摘するごとく、この兩者は決して同じものではない。自由主義とは個人の權利と、私の意見及び私の利害の自由とを意味し、デモクラシーとは大衆の權利と公論及び共同利害の主權を意味する。……。

……自由主義者にとつて重力の精神的中心は個人にあつた。また個人の意見個人の利害の領域が理想の世界であつた。故に自由主義者が宗教をば純然たる私の問題として語る場合、それは毀損の意味が含まれてゐた。教會を國家から分離すること――宗教を政治の外に置くことは宗教を高次の精神價値の世界に高めることであつた。しかし今日、民主的世界ではこれらの價値は逆轉されてゐる。個人生活からその精神的優位が失はれ、社會生活に高い信望を奪はれてゐる。それ故、宗教を純然たる個人的、私的問題として取扱ふことは宗教から現實性を奪ひ、宗教の價値と效力とをますます低い平面に引き下げることである。宗教を社會生活から遮斷することは該當に青春の生命が横溢してゐる時、ばらんの植木鉢に背被附きの椅子といふすこぶるヴィクトリア王朝式の黴臭い北向應接間にこれを閉ぢ込めるやうなものである。その結果が教會の宗教が次第に實生活から逆離し、その代用物として民主的社會が街頭と廣場(フォーラム)の新宗教を創造することになつたのである。

社會的良心に直接訴へ、政治、經濟の領域にその表現を求めるこの新型の宗教、或は擬態宗教ともいふべきものの最も重要な例は社會主義と國家主義である。これらの新信條は自由主義時代に、即ち自由主義が社會生活を世俗化することによつて生み出した精神的空虚に乘じて生れたものであり、それが生長するに及んで自由主義を滅ぼしたばかりでなく、デモクラシーが議會主義と代表制度と一致する限り、即ちデモクラシーと自由主義とに共通の要素を意味する限りデモクラシーそのものまでを威嚇するに至つたのである。

さて種々の點からみてこれらの新らしい社會宗教はキリスト教の傳統、道徳、信念と對立するものである。最惡の場合、反キリスト教的無神論的であり、最善の場合でも現世的なるものの優位を主張し、階級もしくは民族、もしくは國家の利害を人間の魂の要求の上に置くものである。それらは世俗的宗教――「この世界」の宗教である。それにも拘らず、種々の點で純粹宗教の特質を備へてゐるのである。重要な一點では普通の近代のキリスト教との宗教よりも遙かに宗教的である。彼等は生命を分割することを拒否する。生命の全體が彼等が目して最高價値ありとする社會的目的に集中され、獻身されることを要求する。その結果キリスト教徒は彼等の要求に抵抗しようとしてもおのづから不利な立場に立たされる。何となれば彼等の方法に如何なる誤りがあるにしても、ともかくも物質的なもの、利己的なものをより高い目的のために從屬せしめることを目的とし、つまりいはば、社會生活の再聖化の要求を主張してゐるものと感ぜざるを得ないからである。

平成十七年十二月三十一日
「野嵜のフォロワー」と呼ばれるのが嫌で正かなを使ふのを止めると言ふ人は、さつさと止めれば良いと思ふ。さう云ふ人は何うせ、何時までも「正かな使用者」=「野嵜のフォロワー」と見られるまゝでゐて良い、と思つてゐるのだから。當人に積極的に「正かなを擇んだ」と云ふ意識が無いのだ。ただ流されて正かなを使ひ始めたと言ふのなら、同じやうに流されて正かなを使ふのを止めれば良い。主體性のない話である。
ただ、正かなの使用を止めたところで、止めた理由が野嵜の存在にあるのなら、結局のところ、その人は野嵜の影響から逃れられてはゐない、と云ふ事は覺えておいて良い。野嵜の事を意識してゐるのなら、消極的な意味で「フォロワー」だと言へる。ただ正かなの使用を止めて、それで「俺は野嵜の影響から免れられた!」と喜んでゐるのなら、淺はかな考へをしてゐる。淺はかな人は正かな派には要らない。
自分の意思で、「正しいから正かなを擇ぶ」と云ふ事があつて良いし、さうでなければ困る。「俺がウェブにおける正かなの本家になるんだ」くらゐの意氣込みで正かなを使つて呉れて良い。「野嵜の存在なんて氣にならない」と云ふ人が出て來て、今のうちのサイトを超えるやうな立派なサイトを作つて呉れるのを俺は期待してゐる。俺は「フォロワー」なんて要らない。俺にしてみれば、「俺について來て呉れる人」よりも「俺がついて行けるやうな人」が出て來て呉れた方が有難い。助かる。
しかし、そんなにも「野嵜フォロワー」と呼ばれるのは苦痛なのですか。そんなに俺の存在が嫌なものであるのならば、俺はやつぱりサイトを閉鎖して消え去つた方が良いのでせうか。何うなのですか、叢日誌平成十七年十二月分の三十日で正字正かなを抛棄した山岸さん? あなたにとつて私の存在はそんなに苦痛なのでしたか? 私はあなたにとつてそんなにも嫌な人だつたのですか? 私はあなたの爲に、全てのサイトを潰して消え去るべきですか?\
136 :名無し草 :2005/12/30(金) 12:32:49
叢はISO-HTMLにしないのだろうか。のあたんフォロワーなんだし。
137 :名無し草 :2005/12/30(金) 22:19:04
>>136
明日から正字正かな遣ひを止める。
さういふ答へで納得してくれる?
山岸さん、私はあなたの事を「アンチノズラー」の一派であると看做します。「徳保氏の肩を持つ」やうな人に「フォロワー」でゐられても迷惑だし。大體、たかだか2ちゃんねらーのレッテル貼りを眞に受けて、一部の人間に枠に當嵌められてしまつたのを嫌がつて、わざと「フォロワーに見られないやうにしよう」とするさもしい根性が氣に入らない。山岸さんは2ちゃんねらーに追随したいのだらう、2ちゃんねらーに氣に入られるやうにこれからも精々努力するが良い。この界隈には2ちゃんねらーが多いから、山岸さんの態度は受けるだらう。受けだけを狙つて生きて行くのも人生だ。勝手にすれば良い。
しかし、相當無神經な方の俺ですら呆れるやうな無神經な人間がゐるのだからネットは廣大云々。山岸氏は自分が野嵜を非道く侮辱したのだと云ふ事を、全然自覺してゐないだらう。
あと、見れるなんて「ら拔き言葉」を平氣で使へる正かな使ひなんて、本當の正かな使ひとは認めない。
平成十七年十二月三十一日

何故に正字正かな遣ひを使わなくなっただけで野嵜さんを侮辱した事になるのかが私には理解出来ないのですが。

默つて使わなくなったのならな。

もしかして野嵜さんは 2ch の件の書き込みだけで私が正字正かな遣ひを止める事を決意したとでも思っているのですか。私が正字正かな遣ひを使っていたのは野嵜さんの正字正かな遣ひ論に賛同したからとでも思ってるいるのですか。

ますますあきれた言ひ方だ。

ネタで正字正かな遣ひを使っている人は私以外にも絶対にいます。

山岸氏は、コスチュームプレイを樂しむやうな積りで、正かなで書いてゐただけだつたと。
あんたは「野嵜フォロワー」と呼ばれるのが嫌だつたと、さう云ふ事だらう。それが俺を侮辱してゐる、と云ふ事だ。2ちゃんねらーが何うの斯うの、と言つて、野嵜がアンチ2ちゃんねらーだと強調したいやうだが、そんなのは關係ない。あんたが「俺は野嵜フォロワーと見られたくない」と宣言した事が俺に對する侮辱だ、と言つてゐる。

叢日誌の特定の section をリンクする場合は http://over.nysox.jp/diary/YYYY/MM#dDDnNN という形式の URI で行って下さい。それ意外では私に対する侮辱になります。止めて下さい。

馬鹿か。俺が「侮辱」と言つたのが悔しくて、對抗して「侮辱」と言ひたいだけだらう。「以外」を「意外」と誤變換したのを氣附いてゐないし、かつと來て勢ひで書いてそのまゝなのだらう。しかし、「侮辱」だと言ふのなら、「侮辱」である理由を述べてから言ふものだ。適當にレッテル貼りをして濟ませるものではない。俺はあんたが俺の事を侮辱してゐる理由を述べた。あんたはとぼけてゐるだけに過ぎない。
平成十七年十二月三十一日

遊びとして正字正かな遣ひを使うのは良くない事なのですか。

誰も「遊び」そのものを「良くない」とは言つてゐない。「ふざけ」とか「ネタ」とかが好きな人間は、非難されるとすぐに「ふざけ」とか「ネタ」とかを非難されたのだらうと極め込んで、話を摩り替へようとする。掲示板の条域もさうだ。
俺は「侮辱が惡い」と言つたに過ぎない。コスプレ云々はあんたが「ネタ」「ネタ」と言つてゐるから「ぢやあコスプレだな」と言つただけだ。「ネタ」として「愉しんでゐた」のなら「コスプレ」ぢやないか。違ふのか。
それから、「野嵜も誤變換をよくやらかすだらう」との指摘は何だらう。これもどうせ言はれたから悔しくて言返しただけなのだらう。それに、事實をずばり言當てられたからあんたは今、よくもまあ云々と言つてゐるのだらう。
所謂吉野家コピペ。とか言つてゐるが、意味が解らない。俺は別に「コピペ」等してゐないが?

理由なんてありませんが、捻り出そうと思えば幾つかなら捻り出せますが、出した方が良いでしょうか。

何を言つてゐるのだらう。あんたは俺を侮辱しただらう。何をとぼけてゐるんだ。あんたは俺を侮辱したんだよ。私は徳保さんも嫌いですし、野嵜さんも嫌いです。そういう事で納得してくれますか。――これだつて侮辱だらう。
正かなを使ふのを止める機会を作る爲に俺の名前を利用した事が、俺に對する侮辱なんだよ。

このような機会でなければ略字現代かな遣いに改める事は出来ないでしょうから、そうしたのですが、良くないのですか。

「野嵜のフォロワー」と見られたのが「良い機會」だと言ふのだらう。俺の名前を利用してゐるぢやないか。人の名前を利用して、それの何處が「良い」と言ふのだらう。良くないのですかも何もあつたものぢやない。とぼけるのも好い加減にしろ。慇懃無禮にも程がある。
平成十七年十二月三十一日
真名垣氏の場合、俺の名前を出して何う斯うと云ふ事は特になかつた。だから正かなをやめるにしてもそれは真名垣氏の判斷だらうとしか俺には言ひやうがないし、俺が何だかんだと文句を附けられた筋合ではない。別に「正かなを使はない事にする」のはそれ自體、文句を言へない事だよ、當り前ぢやないか、表記を何うするかは個人の自由だ。ただ、「正かなをやめる」理由が提示された時、その理由の是非を云々する事が出來るだけだ。山岸氏の場合、その理由に「野嵜が何う斯う」と云ふものがあつた、だから俺は苦情を言つた、それだけの事だ。
平成十七年十二月三十一日
俺の知る限り、「ネタ」とか言つて何時もは上機嫌でうはついた事を喋つてゐる人間に限つて、批判されると物凄く不機嫌になつて嫌みを言つたりする。ふざけるのが信條ならば、何を言はれても上機嫌でゐれば良いぢやないか。いざとなると本氣になつて言返し始めるのならば、平素から本氣であるやうに振舞つたら良いんだ。俺は「ネタ」とか言つてふざけてゐる連中を信用しない。
眞面目な人間がふざけたやうな事を言ふから面白いのだし、ふざけた人間が切羽詰まつて眞劍になるのはみつともないだけだ。もちろん後者も、別の意味で「面白い」と言へば「面白い」のだが、さう云ふのは「笑ひを取つてゐる」のではなく單に「嗤はれてゐる」だけなのだから何うしやうもない。意識して「笑ひを取つてゐる」積りの「ネタ師」は氣を附けた方が良いと思ふ。最近のイタい藝人のやうになつても良いと云ふ人は勝手になればよろしいが。
平成十七年十二月三十一日
と言ふかさ、俺は何時も必死だから今更「必死だな」とか言はれても「お前肩が赤いぞ」とか言つて返してゐて何の問題も無いが、普段餘裕ぶつこいてゐて餘裕である事を誇りに思つてゐる連中は自分が必死な樣子を指摘されたら愧ぢるべきだと思ふ。

平成十七年十二月二十九日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051228/p3

個人的に問いかけられているのに、問いかけを受けたことがない、というのはどういうことですか?

「に」と「な」を強調して暗示したのですが、「個人的に問ひかける」事における「問ひかけ」の内容と、「個人的な問ひかけ」の内容とは、必ずしも一致しません。或は、前者の言ひ方は、單に「問ひかけ方」を示してゐるのであり、その内容は非限定です。「個人」の次元とは異る「大衆相手」のものでもあり得ます。それに對して後者は内容的に「個人的」なものに限定されます。
平成十七年十二月二十九日
日本の公用語が英語になればなつたで、或はフランス語になればなつたで、誠實に生きようとする人は誠實に生きようとするだらうし、好い加減に生きようとする人は好い加減に生きようとするだらう。日本語が無くなつたからと言つてそこで何かが變はる訣でもないと思ふ。そこで日本語の效用を説いても、慥かに説けるのだけれども、窮極的には意味がないと思ふ。日本語が歴史的に成立して或程度の體系を備へてゐるのは事實だし、それゆゑに俺は正しい日本語があると思ふのだけれども、正しい日本語を支持すると云ふ發想が出て來る時、其處には間違ひなく飛躍がある。
「現代仮名遣」が一般的であると云ふ「文脈」の下で、「より言ひたい事が傳はる」のは慥かに「現代仮名遣」だ。それは間違ひない。「現代仮名遣」と歴史的假名遣とを比較してその良し惡しを隨分論じたし、歴史的假名遣の方が書き言葉として機能自體は優れてゐると信ずるけれども、それが絶對の眞實であるとは言ふ積りがないし、正かな派であつても場合によつて「現代仮名遣」に妥協する事はあり得る事だと思つてゐる。ただ、歴史的假名遣を使ふ俺は、歴史に義理立てしたいのだ。「現代仮名遣」が當り前の時代に「現代仮名遣」を使ふのはただ時代の中で「ただ生きてゐる」事に過ぎない。しかし「義理立てする」は「生き方」だらう。人は何らかの生き方を擇ぶものだし(此所で飛躍が「ある」けれども)擇ぶべきものだ。
平成十七年十二月二十九日
ラムネ→何も起らないでいいのに最終囘近くで餘計な波瀾。
ARIA→もうちよつと何かあつてもいいのに最終囘に限つて何も無し。
みたいな。
どつちも割と面白かつた。特にラムネは今期の拾ひ物の一つ。
平成十七年十二月二十九日
OKボタンの位置 - WebStudio
平成十七年十二月二十九日
ダイアログボックスの話。「OK」と「キャンセル」とでは結果が正反對になる、と云ふ事は案外見過ごされてゐる。時と場合に據つて、これらのボタンは押し間違へる事が許されない。それなのに、「OKボタン」と「キャンセルボタン」とが數ピクセルの間隔で隣り合つてゐる。これはをかしい事だと思ふ。だつて、マウスカーソルがちよつとずれれば誤操作になるんだよ。今の「OK」と「キャンセル」を「隣り合せに配置」する方式は、誤操作を誘發する爲に定められた仕樣だとしか思へない。
「操作の取消し」ボタンはダイアログの一番上の目立つところ、「操作の實行の許可」ボタンはメッセージの下、とか、見間違へにくく、押し間違ひにくいやうに配置したら何うだらう。距離が離れてゐればゐるほど、マウスカーソルがユーザの意圖に反して動いたりした時の誤操作を阻止出來る。採點者がチェックするのに便利なやうに出來てゐる「テスト問題の囘答欄」ぢやないんだから、今のやうに「ダイアログボックスではボタンを並べて配置するのが當り前」と云ふ通念は打破されるべきだ。プログラムは、ダイアログのボタンが互ひに離れてゐても全然氣にしない。
WindowsだつてMacintoshだつて、「OKボタン」と「キャンセルボタン」が隣り合せに配置されてゐるコモンダイアログは、マウスカーソルがちよつとずれただけで誤操作になる。その點、どちらも何ら變りがない。缺陷仕樣だ。「OKボタン」が必ず一定の場所にあるからと言つてありみかさんはMacintoshの仕樣を賞揚するけれども、「押し易いか何うか」なんて觀點で議論してしまふのはちよつと何うかと思ふ。「素早く操作出來る」事を目指してユーザビリティが考へられてゐる現状があるけれども、「正しく操作出來る」事を目指すのが本當のユーザビリティの發想ではないかと思ふ。
中野さんは、單純に「ボタンを一つにしてしまふべきだ」と述べてゐて、「確定」「實行」をするかしないかはボタンを押すか押さないかで決定すべきだ、と云ふ事。最新の状態を表示し、即座に設定の變更を可能な状態にしておく事で、行きつ戻りつをしないで濟むやうにすれば良い、と。複雜な内容を取扱ふアプリケーションの場合には極めて有效な方式だと思ふ。ただ、「××と云ふファイルを削除しますか?」みたいな單純な選擇の場合、この方式は使へない。
平成十七年十二月二十九日
あと、コモンダイアログのボタンのサイズがVGAの時代から全然變つてゐない事も問題。コモンダイアログ自體のサイズがVGAを前提に設計されてゐるのも問題。これ等の事は最う何年も前から問題になつてゐる。
平成十七年十二月二十九日
MadDic2-- 簡略拗音と歴史的仮名遣いについて
歴史的假名遣と言ふか正確には字音假名遣ぢやね?

平成十七年十二月二十八日
中古 自轉車でぐぐつたら正字正かなのサイトが幾つか見附かつたのでリンク集に追加。
平成十七年十二月二十八日
コシヌケな御意見番 : 何がトラックバックだコンニャロメ
と言ふかダイアログボックスの話と一緒で「URLがあつたらそれが何のURLなのか確認しないで即リンク」みたいな事をやつて、で、一往「りんくのどうさかくにん」をしてみたらえらーとか言はれてあれれと。
世間のぶろがーの人もたまに「記事へのリンクのURL」と「トラックバックのURL」とを取違へてあれれとか言つてゐたりするんでないですか。何で二つのURLを記述しないとトラックバック出來ないんだらう。
トラックバックの仕組を泥縄で調べたのだけれども、トラックバック用のURLを記述すると「ブログツール」が先方の「ブログ」のサーヴァにpingを打つ、すると先方の「ブログ」に「こちらのブログ」へのアンカーが設置される、と、そんな事になつてゐるんだと。しかし、その時、先方の「ブログ」がこちらの「ブログ」にpingを打返して來て呉れて、それでこちらの「ブログ」にも先方へのアンカーが設置されると、そんな風になつてゐれば、わざわざ二つもURLを記述しなくて良いのでないか――なんて、そんな事を素人の俺は思つた。ついでに「こちら」が最う一囘「先方」へpingを打返して「相互リンクの確認」でもするやうになつてゐれば「トラックバックスパム」の類なんて出て來なかつたのでないかとも思つたが、そんな面倒な事をやつてゐたらネットワーク的に迷惑だつたりとか信頼性が低かつたりとか何か問題があるのでさうならなかつたのだらう。良く知らないが、ネットワークのいろいろなことは、俺なんかよりも頭の良い人が考へてゐる筈だから、さうさう間違ひなんて無いだらうし云々。
平成十七年十二月二十八日

まず、現状のトラックバックという仕組みを廃止して、それに変わるスマートな仕組みを構築する。とはいえ別段、新たな手法を用いるわけではない。いわゆる「アクセス解析」にある、リファラの仕組みをそのまま使う。「もしウチの記事へトラックバックを張りたけりゃ、アンタのページからこっちへのリンクを張れ。ああ、いつもどおり、URLだけで構わんよ。ほんだらな、アンタのページからこっちに閲覧者が来たときに、その閲覧者のリファラ情報を使って、アンタのページへ勝手にリンクしてやるからよ」という仕組みにすればいい。

アクセス解析してリファラからリンク元を見附けてこちらからもリンクを張る、と云ふのは實際にトラックバック以前から存在する方式で、と言ふか、今でもめじゃー(はてなダイアリーなんかにもある)。ただ、「誰も見てゐなくて閲覽者がリンクを『蹈んで』呉れない廢れたウェブ日記」とかだとリンクしても先方が氣附いて呉れないなんて事があり得るがゆゑに(と言ふかこの理由が本當か何うかは知らないけれども)自分で先方にリンクを報告出來て確實にこつちにリンクを張つて貰へる「信頼性の高い『トラックバック』」なる方式が考へ出された。らしい。
と言ふか昔、この手の方式と「闇黒式引用」との絡みで一席ぶつた事がある。闇黒日記 平成14年12月19日邊を參照の事。pre agendaの「政治的な存在」の項とかべた日記 (2002年12月)の「だだっこ」の項とか。胡桃の中の航海日誌 - 「ケシカランというまえに」/如星的茶葉暮らし・神慮の機械への言及/ねこめしにっきへの言及 - , 「ケシカランというまえに」 , , 如星的茶葉暮らし・神慮の機械への言及 , ねこめしにっきへの言及 ,が發端だつけ。すつかり忘れてゐる。
平成十七年十二月二十八日
パソコン遊戯
パソコン遊戯日記〜2005年11月の二十一日邊。
平成十七年十二月二十八日
http://d.hatena.ne.jp/dokusha/20040329#p2

最近、こふいつた表記が増てゐるやうに感じるのはこのおじさんの影響かしらん。

「最近、かういつた表記が増えてゐるやうに感じるのはこのをぢさんの影響かしらん」が正解。「こふいつた」なんて出たら目な書き方では訣がわからんのが當り前。つーか、アンカーぐらい奢れっての。とか言つてゐるのが時代を感じさせる。
平成十七年十二月二十八日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051227/p2

書くことはつねに黄昏のなかの呟きであり、読むことのなかで生起するざわめきを喚起する永遠との熱狂的なダンスにほかならない。そのざわめきを聴きとり行為するのはあくまで読者の方であって、ゆえに、書くことはとても簡単で、軽はずみに誰にでもできるが、読むことは誰にでもおいそれとできることではないのだ。書くことの困難は、それが真に読まれるまでの長い長い宙吊りの時間に耐えることにある。

文章は個人をしか動かさない。個人の集合が「大衆」であったとしても、それは別の次元にあり、理論に可能なのは分析・記述・批判という実践のみであって、それは読者の一人一人に向けて書かれる「問い」であり、読者である個人の思考の道具(助け)となるだけだ。と云ふ指摘には、或程度、贊成であり同意するのだけれども、では渡邊さんが常日頃してゐる讀書は「眞の讀み」なのだらうか、と云ふ問ひが浮かんだ。大衆と個人とは別の次元の存在である、と云ふ事には、異論が無い――のみならず、それは俺の常日頃の主張だ。だが、俺には本を「個人の思考の道具」とのみ看做す事が出來ない。個人としての渡邊さんと、渡邊さんの讀んでゐる本との結び附きと云ふものが稀薄であるやうに俺には思はれる。
個人が讀む本は、個人ではなく、個人の思考と結び附いてゐれば良いのだ、と、渡邊さんは諭されるかも知れない。けれども、それならば、「個人の思考とは何なのだらう」。一人一人の個人の思考が「ある」のならば、それはその個人の生き方と切離せない筈だ。ならば、讀書と個人の生き方とは密接に結合してゐなければならない。渡邊さんの讀書が渡邊さんの生き方とどのやうに結合してゐるのか、或はそもそも結合してゐるのか。
EXPLORE MONOGAMY BLOG - 『消去』(下)トーマス・ベルンハルト(みすず書房)で渡邊さんはもちろんそれは嘘であって(あるいは、それは半分だけしか正しくない)、我々は我々の「終わり」を語らねばらない。と文章を締め括つてゐる。此處で「我々」なる複數形の主語が用ゐられるのは何故か――と云つた揚げ足取りは可能だらう。想定される讀者が個人であるならば、「我々は」なんて演説のやうな言ひ方は決して現れ得ない。けれども、そもそも渡邊さんは思考なるものに必ずしも強い關心は抱いてゐないのでないか、そこに「我々」なる恰も「他人ごと」のやうな言ひ方が現はれる理由があるのではないか――俺はさう思ふ。
渡邊さんの讀書に關する記事には毎囘、理論と知識に裏打ちされた渡邊さんの本への理解が看て取れるのだが、その理解が渡邊さんの生き方と何か關聯があるのか、と云ふ疑問が何うしても拭へない。渡邊さんが「面白い本」の事を語つてゐても、その本が「我々」――書き手の渡邊さんと、讀み手の野嵜――にとつて一般に身近なものであるやうに思はれた事がさつぱり「ない」のだ。ただ「人によつては面白いのだらう」としか思はれない――が、「どんな本でもさう云ふものでしかない」と云つた信條を、俺は持つてゐない。矢張り、或種の本は「我々」にとつて切實な内容を持つ、それゆゑその本は名著である。さう云ふ本こそ讀むに値するし、さう云ふ本にぶち當つた時にはその切實なる所以を語るべきであると思つてゐる。渡邊さんが本について語つて、その種の切實さを俺をして納得せしめた事は、今までに殆どなかつた。渡邊さんは讀んだ本の作者から個人的問ひかけられてはゐるのだらうと思ふ。けれども、「個人的問ひかけ」は受けた事はないのではないか。
平成十七年十二月二十八日
田村書店で世界文學を二十三册纏めて買つた。1949年8月號に高田市太郎・並河亮・福田恆存・中橋一夫の座談會「勝利の世界をのぞく」が載つてゐる。各百圓。

平成十七年十二月二十七日
コシヌケな御意見番 : 対話になってない対話の箱
平成十七年十二月二十七日
IT關係の用語解説では「○○を使へば××する事が出來ます」式の解説が屡々見られるのだけれども、定義として何うなのだらう。
「HTMLとは何ですか?」「HTMLを使へばホームページを作る事が出來ます」――何の定義にもなつてゐない。效能なんて何うでも良いんだよ。
「トラックバックとは何ですか?」「トラックバックを使へば自分のブログから他のブログへ『リンクを張つたよ』と通知出來ます」――これで多くの人が「何となくわかつた」氣はするだらう。けれども「では、具體的には何をするの?」と俺は更に質問したくなる。
平成十七年十二月二十七日
「トラックバックのURL」と「記事の個別のURL」とを俺は屡々混同するのだが、世間の多くの人は混同しないのだらうか。(「トラックバックのURL」にリンクを貼つちやつた。だつて「参照通知」つて書いてあるんだもん、參照するならそのURLかなつて思つちやふよ。閑話休題)
しかし、「トラックバック」つて、何で「httpで始まるURL」に送信なんて事にしたんだらう。それ專用のプロトコルを作れば良いのに。
あと、「リンク通知」とか言へば良いのに、なんで「トラックバック」なんて變な言葉を使ふのだらう。
平成十七年十二月二十七日
福田恆存の登場した「悲劇喜劇」
矢口書店で買つて來た。
平成十七年十二月二十七日
OperaもInternet Explorerも、HTML文書を*.txtに保存した時、img要素のalt屬性を展開して呉れない。
平成十七年十二月二十七日
「現代仮名遣」が一般的な現代に於て「現代仮名遣」で育つた人間が歴史的假名遣を用ゐるのは「演戲でしかない」と云ふのは、慥かにその通りだと思ふ。けれども、演戲でなく、身に着いたものとして「現代仮名遣」を使ふ、とは何なのだらうか。それは「自然な事」ではあるだらう。けれども、それを「正しい事」と言張るのは、單なる自己正當化に過ぎないのではないか。其處には他者の介入を許さぬと云ふ排他的で獨善的な發想が這入り込む隙がある。しかし、思ふのだが、自己否定への契機を持たない自己正當化――「自己の絶對化」――は、現代思想の名に價しないのではないだらうか。
既に失はれた傳統として、歴史的假名遣は最早、自然には――社會的には――存在しない。ただ「傳統が失はれた」事を意識して、演戲として歴史的假名遣を用ゐる事は出來る。と言ふより、演戲と云ふ形でしか、我々は失はれた傳統と再び結び附く事は出來ないのではないか。ただ「失はれた傳統」を意識して歴史的假名遣を用ゐる時、「傳統」が逆説的に復活して來る。さう考へると、ウェブに於る歴史的假名遣の使用者を腐して「コスプレ」と呼ぶのはナンセンスだと言つて良い。演戯するのは當り前の事であり、それを「演戲してゐる」と言つても批判にはならない。(「ヲタつぽい」と云つたニュアンスを籠めて言つてゐるのかも知れないが、それは單なる中傷である。しかし、他人をヲタと罵る當人に寧ろヲタつぽいところがあると云ふのでは、ちよつと何うしやうもないのではないか)

平成十七年十二月二十六日
アプリケーションのダイアログボックスにおけるボタンの配置について。
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2005/12b.html#d26n02
私見だけれども、「ボタンを並べて、まとめて配置する」事それ自體が反省されて良いと思ふ。
「mAgicガイド」の「番組データのダウンロード」の爲のダイアログボックス
「ユーザ登録サイト」「ダウンロード開始」「閉じる」の三つのボタンが右上に並んでゐる。「ダウンロード開始」を押してデータを貰ふ。その後、「閉じる」を押してダイアログボックスを閉ぢると、そのデータがmAgicガイド本體に讀込まれて番組表の表示に反映される。「ダウンロード開始」「閉じる」の二つのボタンを順繰りに押すのが決り切つた作業となる――で、ここで問題なのが、二つのボタンが近い場所にある事。「ダウンロード開始」でデータを貰つて來て、で「閉じる」で作業を終らせようとして、誤つて「ダウンロード開始」を最う一度押してしまふ、そんな事が良くある。無駄なダウンロードの作業が二囘行はれるのだが、まあ、いろいろと無駄な事になる訣だ。けれども、ボタンが近い場所にあることで、かうした押し間違ひは發生する。
みずほ銀行の中の人がジェイコム株を誤發注したあの問題、あれも入力欄が並べて配置されてゐてそれで數字を入れる場所を間違へたのだとか云ふ話だけれども、やつぱり「ボタンは並べて配置するもの」「入力欄は並べて配置するもの」と云ふ常識的な餘りに常識的な制作者の發想が、ユーザの誤を惹起してゐる事には注目して良い。
殊に「最後の確認」の場面で、「OK」「キャンセル」の二つのボタンを、全く同列に扱つてゐるダイアログは、ユーザに誤つた操作をさせる爲にあるのではないかとすら思はせる。ユーザと「對話」し、ユーザに應答を求める爲のダイアログボックスが、屡々ユーザの反射的なクリックを誘發させる爲のものとなつてしまつてゐる場合が多過ぎる。「右か、左か」「上か、下か」と云ふ「機械的に並べただけのボタン配置」を餘りにも當然のやうに思つてしまつてゐる人が多過ぎる。「Windowsユーザ」「Macintoshユーザ」と言つた觀點から、ありみかさんは「どつちのインタフェイスの方が優れてゐる」みたいな議論をやらかしてしまつてゐるけれども、それでは問題の本質的な解決にはならない。根本的にダイアログのボタン配置の問題は、「並べた上で、その相對的な位置を何うするか」ではなく、「單純に並べるのではない、もつと判り易い配置を何うするか」の考察によつてのみ、解決に近附けると思ふ。「機械的な配列」「機械的なユーザの操作」――そのどちらもダイアログボックスの使ひ勝手、と言ふよりは、ダイアログボックスの存在意義を失はせる。
機械的に「OKならどつち」みたいな反射的な行動がなされる事は、實は決して望ましい事ではない。「OKか何うか、ユーザが確認する」事をダイアログボックスはユーザに要求してゐる。ところが、その確認ナシでユーザはボタンを押さうとしてしまふ。これが問題だ。ユーザは屡々「どつちがOKボタンかな?」と迷ふ。それは「OKを押す」事を大前提と思ひ込んで、ただ操作を完了するだけの爲に操作してゐるからだ。しかし、「OKを押して良いのか何うか」、この事がユーザには意識されなければならない。ダイアログボックスは本來、「よろしいのならばOKボタンを押して下さい」と言つて、ユーザに判斷を要請するものである。ダイアログボックスはユーザに「OKを押せ」のやうな操作の強要をしてしまつてはならない、それではダイアログボックスの意味がない。ところが、現状、多くのダイアログボックスが、ユーザにとつては「決り切つた事」=「OKボタンを押す事」を、單純作業として要求するだけのものに成下がつてゐる。ユーザにとつて、ダイアログボックスのボタンを押す事は、「自分の指示が正しいか何うかを最終的に確認する必要な作業」ではなく、「作業を完了する過程で出現する餘計な仕事」になつてゐる。
「ボタンを押すのは單に手間のかかる事にしか思へない」――これでは困る。
機械的な「並べて配置」式の現状屡々見られるボタン配列は反省されて良い。「OK」(に限らず、ダイアログボックスのデフォルトのボタン)は「押し易ければ良い」と云ふものではない。ボタンを押す手間を省きたければ、ダイアログボックスは「無ければ良い」だけの話だ。ダイアログボックスのボタン配置は、ユーザに「考へて押す」事をきちんと要請出來るやうにデザインされてゐなければならない。その點で、Windowsのコモンダイアログボックスも、インタフェイスガイドラインに則つたMacintoshのアプリケーションのダイアログボックスも、決して良く出來たものではない。「押し間違へたら困るボタン」は、ユーザが機械的に選擇してしまはないやうに、少くとも「並べて配置しない」のが良いと思ふ。
平成十七年十二月二十六日
あと、「OK」「キャンセル」と云ふ「譯語」、何うなのかなー。IBM版のWindows 3.0では「了解」「取消」と云ふ譯語が當てられてゐたのだけれども、あの妙な「IBM用語」の方がまだしも良かつたやうな氣がする。今の言ひ方は、「PCが偉い」みたいな感じ――ユーザはPC樣からの確認に對して、「OK」ならば「かしこまりました、よろしく御願ひします」、「キャンセル」ならば「おそれながら、その處理は取止めていただけませんか」みたいな、なんか卑下したやうな態度で應對をさせられてゐるやうな、そんな感じがする。個人的には「よろしい」「駄目だ」みたいな言ひ方も良いかなと思つたりする――PCに命令してゐるみたいで。誰かコモンダイアログにパッチをあてるか何かするツールを作つて、このネタ實裝してみて呉れないかな。
平成十七年十二月二十六日
掲示板にもトラックバック機能を装備すると云ふアイデアは如何だらう。何處かの「ブログ」の事を話題にしてゐる時とかに便利。
平成十七年十二月二十六日
このブログがすごい!BLOG:「坪内祐三&福田和也」対談に思うこと

平成十七年十二月二十五日
クリスマスにDCSS見てゐる俺は何なのだらう。
平成十七年十二月二十五日
iMa氏とかありみか氏とかがHTMLやCSSについていろいろ言つてゐる人々(含俺)を戰士だの何だのに見立てて語つてゐるけれども、それにもまたこれがジョークのつもりならちっとも面白くないし、よしんば、大まじめならばもう何をかいわんやと言ったところである。と云ふ批判は當嵌らないだらうか。
平成十七年十二月二十五日
刹那的な「面白いネタ」がふんだんに(リアルタイムでバンバン)供給される某所を常日頃見てゐると、ニュースサイトですら「何を今更」なネタが少しづゝしよぼしよぼと紹介されるだけの詰らないサイトにしか見えなくなるし、況してやウェブ日記は本當にネタ的には貧弱な供給源でしかないとしか認識出來なくなる。そこで俺はウェブ日記や「ブログ」に何を期待するかと言ふと本當に何も期待しないのであつて、それは自分の「闇黒日記」なるコンテンツですらさうなのだが、先づ「長い記事」は讀まないし、ネタとして投下されてゐる記事も讀まない。某掲示板では絶對に投下されないやうなネタ・記事であり、それが當方にとつて關心の持てるものである場合に限つては、飛ばし讀みも同然の讀み方ではあるけれども、まあ興味を持つて讀む事はある、と云ふ程度なのが此頃。昨今の「テーブルレイアウト」とCSSの議論とかその他の論爭とか、その邊にも關心はそれほど持たなかつたのであり、話にコミットする氣力もさつぱりなかつた。さう云ふ訣で俺の發言には昨今投げやりの度合が強まつてゐるのだけれども、さう云ふ俺にとつて何か一生懸命力説したり、本人は「面白い!」と思つてゐるのだらうなと云ふネタを投下したりと云ふ各地の「ブログ」「ウェブ日記」は、古い言ひ方をすれば「イタい」ものでしかない。何うしてそんなに「たかがブログ」「たかがウェブ日記」の「ネタ」如きに一生懸命になれるのだらうと。「ネタ」ならば本人は「我ながら面白い」なんて思つてゐるのがばればれの提示の仕方をしては行けないと思ふ。落語でも漫才でも、演じてゐる藝人は如何にも氣分よささうにはしない――笑みを浮かべても、含羞のそれである。「ブログ」や「ウェブ日記」では、たかが「ネタ」であつても、矢鱈と氣分良ささうにそれを提示してゐる人が少くない。で、周りの連中も、慥かに皆が皆、面白がつてゐるやうに「見える」場合も「ある」のだけれども、それが一コミュンの中だけの事であり、コミュン外の人間が見たら何だそれと言つた感想しか抱けない事もあり得る。が、さう云ふ時に、その「ネタ」を投下した「ブロガー」や「ウェブ日記の管理人」は耻かしさを覺えないで良いのだらうか。
――いや、いいのです。皆樣、氣にせずに今のまゝ、御話を御續け下さい。これは野嵜の獨り言ですので。氣にならない人は氣にしないのが幸せです。幸せでゐたければ、樂しいと思ふ事を反省しないで樂しくやつて行くのが一番。云々。
平成十七年十二月二十五日
ネタはネタ掲示板で「やる」のが一番だと思ふやうになつたし、さうなると餘程の大ネタを提供するか、はたまたネタの保管庫をやるか――でなければ最早ネタではない眞面目な情報や役に立つ情報を提供するしか個別のサイトには出來る事がないのではないか。いや、小ネタでも少しづゝ毎日なり何なり出し續けてゐればそれなりに受けてそれなりに常連も出て來るだらうと、さうしてコミュニティも出來て來るだらうと――しかし、それは既に存在價値の薄れて來てゐる「現象」なのではないか。
平成十七年十二月二十五日
「ブログ」なりSNSなりのコミュニティがブームとなつてゐる現状であつても、其處で行はれるコミュニケーションが必ずしも活發であるとは言へない現實がある。いや、一日に十も二十もコメントが附くんだ、とか、2ちゃんねるで晒されるんだ、とか、そんな反論もあるだらう。しかしながら、そのコミュニケーションがリアルタイムで進行するものでない事は、誰しも認める事であるだらう。「ウェブ日記」「ブログ」同士のやりとり、これは以前からウオッチャー諸氏には關心の的であり、コミュニティの「關係者」にも一往目を配るべき對象であつた。そして、それはそれなりにコミュニケーションとして樂しめる状況は「あつた」。けれども、議論をすれば、一つのネタが毎日のコンテンツの更新の最中、じりじりと展開され、三箇月も半年ものんびりと使はれ續ける。それはネタの熟成と醗酵とを伴ふ――事もあるが、大概はだらだらと續いた言爭ひが周圍を倦ませ、當事者にも惰性のパフォーマンスを強ひる結果にしかならない。兔に角、コミュンと言つても、關係する人の数が餘りにも少い――「ROM」の存在が壓倒的である一方、發言者が餘りにも少い。話題が偏つてゐて相對的に閉鎖的となつてゐて成立してゐる「ブログ」や「ウェブ日記」、或は個人サイトのコミュニティ、其處では慥かに或程度のコミュニケーションが行はれてゐる。けれどもそのペースは極端に遲く、月刊誌や週刊誌、或は新聞よりは増し、と云ふ程度のスローペースなものでしかない。チャットやメッセンジャーの類におけるコミュニケーションの持つスピードは存在せず、實に「まつたり」したものでしかない。これはこれで「良い」と思ふ人も多いだらうが、スピード感には中毒性がある、一度、例へば虹裏にはまつたりすれば、最早スローなウェブサイト間コミュニケーションはやつてられないと言つた事になる。そして、さう云ふ時代は到來してゐる。リアルタイムなコミュニケーションの刹那的な快樂に對して、個人サイトはスローペースな更新しかあり得ない。今、個人サイトは、そのありやうを反省しなければならない時期に來てゐるのでないか。
平成十七年十二月二十五日
リアルタイムなコミュニケーションがあり得ない小規模な個人サイトにおいて、CMSのやうなものが果して必要であるのかどうか。
平成十七年十二月二十五日
serial experiments lainで表現された、繋がれたコンピュータに據るリアルタイムの御喋りが當然のやうに行はれる――と云ふのは、實際にはまだ一般的ではないし、一般化し得るほどインフラが整備されてゐない。現状の機械で數千人單位のユーザが同時にアクセスしてネタを投下し捲りレスし捲りと言つた事は、安定的には不可能だらう。さう云つた現状であるけれども、一部でそれに近い形態のコミュニケーションサイトは實現してゐるのであり、リアルタイムで二十四時間、御喋りが出來る、と言つた掲示板は「ある」。今の時點ではマイナーであるべきサーヴィスであり、自然、利用者が偏つたネタで外部の人間を極端に排除してゐるけれども、さう云つたサーヴィスが現在「ある」事は將來に一般化し得る可能性が「ある」事を意味してゐる。そして、その種のサーヴィスは單純に「樂しい」ものでもなく「荒れる」事も矢鱈と多いのだが――それもユーザが増えれば増えるほど――にもかかはらず中毒性が高い事も事實である。即ち、刹那的なハイペースのコミュニケートは現在も今後も存在し得るのみならずより多くのユーザに受容れられる可能性があるのであり、さうしたコミュニケートにおいて面白いだけのネタ、「いい意味でバカ」なネタは生きる。とすると、それ程コミュニケートのペースの早くない、閲覽者が少く、更新も少い個人サイト、マイナーサイトにおいて、ネタ的な發言は可能であるのかどうかが問題となる。勿論、可能ではある。が、たまにぽつぽつとネタが提示されるよりは、斷續的に誰かがネタなり餌なりを投下し續けるリアルタイムのチャットのやうなコミュニケーションサーヴィスの方が、間違ひなく「面白い」と云ふ事になるし、よりユーザを引きつける事にならう。さうした状況が出來し得る時期が來てゐる。「長持ちのするサイト」は、何時如何なる場合にも望ましい事は、俺は何年も前から言つてゐるが、いや、言つてゐないかも知れないが、とにかく、眞理であらう。それは今後、刹那的な超ハイペースコミュニケーションが實現した時代であつても、變らない眞理たり得る。が、その眞理が成立する條件として、當座のネタはペケ、と云ふ事になるだらう。今でも個人サイトのウェブ日記や「ブログ」で、寒いネタをちよろちよろと書いてゐる人は、ちよつと許り自分のやつてゐる事の寒さを自覺する方が良い。俺は「闇黒日記」のネタが屡々可成寒い事を自覺してゐる。XHTMLが何うとかISO-HTMLが何うとか、そんなのは俺の頭の中では最う「何うでも良い」の域に入つてゐるネタでしかない。
平成十七年十二月二十五日
銀盤カレイドスコープ最終囘。決して名作だとは言へないと思ふけれども豫想以上に面白かつた。
平成十七年十二月二十五日
例へば「閲覽者にとつて役に立つからXHTMLを採用したのか」「もし制作者にとつて役に立つてゐるからXHTMLを採用してゐるのであるのならば、それが現状、閲覽者にとつて役に立つてゐるのかゐないのか」「制作者にとつてのみ役に立ち閲覽者にとつて役に立つてゐないとしたらXHTMLである事は良い事なのか惡い事なのか」云々。
現状、「制作者の論理」でもつてXHTMLやXMLが擁護されてゐるのだけれども、それが閲覽者にとつてのメリットたり得るのか何うかの議論が完全に缺けてゐるのは納得行かない。XMLマンセーの人の主張は「私は」「私は」式のもの許りで、どの主張も俺は全く納得出來ないでゐる。制作者の自己滿足レヴェルの説が多過ぎるやうな氣がする。こんな事を言ふと例によつて「野嵜さんがまた變な事を言つてゐますが」「野嵜さんの指摘は理解出來ません」式の非難が出て來ると思ふけれども敢て言ふ。
「これからはXMLの時代だ、乘り遲れるな」のやうな輕佻浮薄な發想でXMLなりXHTMLなりを使つてゐる人がゐるとしたら。さうした意識が「まだXML使つてゐないの?」「まだXHTML使つてゐないの?」のやうな態度となつて表はれてゐるとしたら。自己滿足の考へ方が閉鎖的なコミュンを作つてその中で何の發展もなく停滯するよりは、外部への説得の過程において説得の手段として現實的で有益な利用方法なり何なりを提案してより進歩した状況を作る方が有益であらうと思ふ。
「おいしいよ」とか言つて無理やり相手の口に食べ物を押込まうとするよりは、何とか相手を納得させられるやうな食べ方なり盛附けなりを工夫してみる方が、いろいろと發展性があるだらう。相手は子供ではないんだからさ。野嵜だけを納得させれば良いとかさう云ふ考へでは困る。世間一般の人を納得させられるだけの利用方法なり論理なりを考へ出すのがXMLの效用を信ずる人にとつては大事な事だらう。それはXMLだけの話ではない。
平成十七年十二月二十五日
「XHTML」と言つてゐるけれども、XHTML 1.0 TransitionalもまたXHTMLである事は覺えておいて良い事だと思ふ。

平成十七年十二月二十四日
うちのサイトのスタイルは今後最う二度と變更しないからな畜生。
平成十七年十二月二十四日
時事ネタ。爺ネタでもある。
サンタクロースサイト(グリーンランド国際サンタクロース協会公認サンタクロース 日本代表)
NORAD Tracks Santa 2005
NORAD目に惡いよ。あとピカチュウ問題的な。
平成十七年十二月二十四日
田村書店で三百圓だつた本。
T.ゴーチェ・渡邊一夫譯『青春の囘想』(角川書店飛鳥新書)表紙
渡邊一夫の獻辭
平成十七年十二月二十四日
虹裏邊を見てゐるとしろはたとかPiroさんとか今更喪男もないだらうとか思つたりする今日この頃云々。
平成十七年十二月二十四日
笠慎太郎『知識と知恵その他』(人と思想■文藝春秋)の「日本の言論」は、半分位古びてゐるが、今でも通用するやうな處もある。以下、適當に拔き書き。

基本的には、こんどの戦争まで、日本のなかにデモクラシーが本質的にはほとんど生成せず、古いことばでいうと、官尊民卑というものがずっと残っていた。そしてそのなかでさらに軍部が、一つのもっとも固い皮に包まれた特権的な特殊の地位を占めていたということで、それに対して、いわゆる民間――実業界なり、教育の場の人なり、あるいは新聞をやっていた連中も同様ですが――これがそういう官僚的な、お役所的なもの、なかんずく軍・官僚と離れて間隔をつくっており、時局が昂ぶうてくると、いよいよ普通にこだわりなく話をするような空気が稀薄になってきた。いや、話はしている。料理屋なんかでは肝胆相照らしたような調子でやっていたが、ほんとうには話し合っていない。というのは、かまえて話すというんじゃなく、ごく普通に意思が疎通するように、不断から、なんのわだかまりもなく話をするということが欠けていたのです。

相手が自分より上であるとか、下であるとか、相手が社会的に主たる役割りのものであり、こちらが従であるとか、少しでもそういうこだわりがあっては話というものはできない。デモクラシーというのは、国会制度に中心があるのではない。もちろん、制度的には国会にまで積み上げてこなければならないけれども、その下にある共同社会のなかで、ほんとうになめらかにこだわりなくお互いに話ができるかどうかというところに、デモクラシーの本体があるにちがいありません。

戦前にはこれがなかった。軍人のいないところでは、みんな兵隊はけしからぬといった。しかし兵隊と話をするとぎには、戦況の話などを聞いているに過ぎないというような態度で、どうも君らの考えていることは根本的におかしいじゃないか、ということがいえなかった。満州事変などが起こってしまうと、もう話がしにくくなるのは当然だが、問題はその前にあった。何もない時にあったのです。クラブでも、料亭でも、町かどでも、どこででも戦争など考えられないような普通のときに、なんの屈託もなく、平気な調子で話ができておれば、たとえ戦争になっても、その戦争の調子が大いに違っていたと思うのです。時期が違うとか、やり方が違うとか、そして場合によっては戦争をやらなくってもすむというようになっただろう、と私は思う。そういうことは議会だけででぎるものではない。斎藤隆夫氏がひとり痛烈な演説をしてみても、実効はない。結局は、所もあろうに、肝腎の議会のなかで、一佐官が「だまれ!」と一喝するようなことになり、そのあとは一層しゅんとしてしまう。も 億う何もいえなくなる。私はこんどの戦争は、こういう真に平ったい地盤がぜんぜんなかったというところに、深い根因があると思う。 言論などもそういう社会の状況の上に立っているので、それから超然たることがなかなかできなかった。新聞は、ある程度は一般的な空気とは少々の開きをもって、ものをいうことができる。現にわれわれは、いまそういった角度でものをいっているわけですが、それからひどく飛躍したことはできない。とくに新聞の立論というものは、リアリズムを性格としているから、雑誌などに学者などの立ち場から書くのとはどこか違わざるを得ない。リアリズムということになると、どうしてもその時の社会の状況が土台になってくる。しかも、その状況というのが、実は徳川時代から続いている侍と町人の関係をそのまま移して、官僚、軍人と民間人との関係が本質的に変わっていないということ、いわゆる官民の関係がきわめて特殊であるということが、意外に大きな条件となっているのです。その点が、ヨーロッパの状況と非常に違う。

……。

そしてわれわれの目は、そういう観念のほうへでなく、実際に動いている事実のほうに向かっているわけですが、ものごとを説明する場合には、部分的にはこういう古い観念の一部を利用したりするけれども、それはまったく常識的な観念として部分的に用いているにすぎないのであって、実際は目の前にある、もっと幅と深さのある現実的なものから一つの判断を導き出している。それを導き出す場合に、いろんな道具がわれわれにはある。それがわれわれの社会科学、自然科学というものなんです。それを利用して判断するわけですが、そのさい、とどのつまり、判断する人間、私なら私自身が、いろんな違った道具によって解明したいろいろの側面を私という不可分的な人間が統一して結論を出している。現実にはそういうやり方をやっているわけなんです。

なぜそういうふうになるかというと、いまの科学自体は、自然科学も社会科学も、みなバラバラのものです。ある科学と他の科学との間にはちっとも統一がない。物理学は経済学とはなんの関係もない。経済学と社会学とは関係がありそうに見えるが、二つの立ち場を考えてみるどこにもつながっているところはない。社会学と心理学とは、その立ち場においてはぜんぜん関係がない。科学というものがなぜそういうふうにできているかというと、それはある観察が論理的に筋を通して説明されうるためには、それは一つの平面に投影できるものでなけれぱならぬ。かくして例えぱ一つの心理学の体系がつくられる。かようにしてここでは物理学の体系をつくる、あちらでは経済学の体系をつくる。そういうことをいまの二十世紀の科学はやっているのですが、その科学と科学との間にはなんら統一がない。これは、よかれあしかれ、だれもやった人はいません。物理学と化学のように、ある程度部分的にはできようが、いまのところ例外的である。たくさんの学問をもってものをいう場合には、本人がその統一の主体になっているものだと思うのです。バートランド・ラッセルの哲学というのは、数学的哲学と物理学と心理学と論理学といったものを合わせて、一つの考えをつくったというふうに自らいっている。これはラッセルという人間、あるサブジェクトが、いろいろと鋭利な道具を使ってつかんだ結果を、このサブジェクトが最後に統合するということになる。

一般的にいってみると、なにかそこに社会的な事件が起こったとする。あるいは殺人事件が起こったとする、また日本と中共との間に一つの問題が起こったとする。そういう場合に、それをわれわれが判断するのに、なんらかのイデオロギーをもってきて、それにおっかぶせたら、ずいぶんおかしな結論になろうかと思う。おそらく常識的には通用しないものになってくる場合があろうと思うのです。たとえば共産党の立ち場からは、中共のいうことをきかなければ悪いのだ、という結論が出てくる。もしそれを日本人に押しつけるなら、本人はそれで満足するだろうが、ほかのものは迷惑しよう。ただその場合に、これに立ち向かうためには、いろいろと知識をもっていなけれぱ問題にならない。知識のもとはすぺて学問、科学にひっかかっているのですが、そのなかに中国に関する知識がはいっていないのでは、中共に関する間題は論じられない。知識をもち、かつ見通しをもち――見通しは知識から出てくるが――その見通しの線の上に問題をもってきて、八方からつついて結論を出す。その場合最後の結論の出し方は、結論を出さんとする人それ自身の統合によるわけです。その人が統一をすることによって一つの意見が出てくる。それを私は現代の理論的な立ち場というのです。

そうすると、いまの新聞は社会群的にものを考えることはなかなかむつかしいと思うのです。たとえば賃金の問題を考える場合に、社会党の立ち場から賃金問題を考えるのと、そうでない立ち場から考えるのとでは少し違う。そこには社会群というものがある程度考えられないことはないけれども、そういうものも検討されるべぎ要素のなかにいれて問題を考えるのが、現代的な新聞の立ち場であろうと思う。中正ということばの意味は、単に左右の真ん中という意味でなくて、できる限り多くの観点から検討を加え、その結果を本人自身が客観的と信ずるかたちで統一することによって中正な答えが出るのであって、なにかものさしで真ん中をとるということではない。理論的な立ち場は、こうして多元論的な立ち場ということになると思う。現代は、私は、多元論の時代だと見るのです。

……。

それから第三番目の問題についてはもう時間もありません。それは技術的な問題というか内容的な問題というか、内容的には要するに勉強しなけれぱいかぬということになるんじゃないか。いまの多元論的に成功するためには無限の勉強がいる。イデオロギーならば、われわれはマルクスよりえらくなれないという立ち場に立つようなものだから、マルクスをひっかぶって、お前はマルクス的だとか、マルクス的でないとかいう議論をしていればいい。多元論的な立ち場に立つと、理論が相手でなく現実が相手だから、その現実を見落とさぬよう、見方にすきがないように、用心をしなければならぬ。四方から見るのと八方から見るのと違うし、八方から見るのと十六方から見るのとは違う。非常にこまかく見てみる。その意味で相当に勉強しなければならぬということをつけ加えておきます。

……。

平成十七年十二月二十四日
今は「日本人論」と言ふと「日本人論」であるがゆゑに「馬鹿にすべきである」と極附けたがる人がなぜか多いし、「外國人の日本人論」となると即座に「當てにならない」と評價すべきであると信じてゐる人がなぜか多い時代だ。しかし、日本人論と言つた時に渡部昇一とか西尾幹二とかイザヤ・ベンダサンとかの俗流日本人論しか思ひ起せないのは讀書の質が惡過ぎる。外國人の日本人論は當てにならない――日本人の事は日本人が一番良く解つてゐる――と言ふのは或意味偏狹なナショナリズムの馬脚を顯してゐるやうなものだ。「外國人の日本人論」には「日本人の日本人論」にない事がある。即ち外國人のものの見方だ。それは依然、學ぶべき事である。
G.B.サンソムの『西欧世界と日本』をじりじりと讀み進めてゐてやつと下卷の半ばを越えた。原書の時點で資料の選擇ミスがたまにあつたり、飜譯が矢鱈と惡かつたりするアレな點もあるが、全體として參考になる歴史の本だと思ふ。江戸時代と明治時代とに連續性があるとの指摘は、それ以前からの日本の歴史を一々點檢してゐる本書において説得力を持つ。そして、明治以降の「近代の日本」が連續的である事は言ふまでもない。當然ながら現代の日本が「近代以前」の日本とも連續的である事は理解されねばならない。勿論その連續は「或面での連續」であり、全面的な連續で「ない」事は否定しない。が、「連續してゐる部分」の問題は、今でも日本人は意識してゐて良い筈。同時に「連續してゐない部分」についても問題は依然として「ある」。
平成十七年十二月二十四日
言葉の救はれ――福田恆存論: 福田恆存の對談・鼎談
平成十七年十二月二十四日
クリスマス殺すとか書いたら誰かが何處かに通報して呉れるのだらうか。

平成十七年十二月二十三日
Lucky bag::blog: CSS デザインギャラリー
平成十七年十二月二十三日
http://www.satoshii.org/markup/notes/2005/12#date22
俺が大昔に書いたdel/insのdatetime屬性における日時の記述方法の説明は正しかつたらしい。
HTML文書を書く際の注意點
と言ふか俺、何を見てこんな斷定的な文章を書いたんだつけ。
平成十七年十二月二十三日
俺は傍から見て變なパロディ化したり揶揄したりして面白がる性癖はないし最早さう云ふ面白がり方をしてゐられるやうな年齡でもない云々。
福田恆存が自分の讀者は自分よりも右へ行つてしまふと昔嘆いたのださうだけれども、野嵜の「フォロワー」諸氏もまた云々。しかし俺は現状のXHTMLを否定し、飽くまで文書構造を示すと云ふ事をHTMLの原理と考へてゐるのだから、「XHTMLのどのヴァージョンを使はうか」のやうな發想をする人が俺の「フォロワー」である筈はあり得ない。
平成十七年十二月二十三日
HTMLやXHTMLの「原理主義」が屡々「仕樣に從つてゐさへすれば良い」式の主張に陷る。そして、「ブラウザの實裝が何うの斯うの」と云ふ主張と衝突する。現在も「フォロワー」同士が衝突してゐると某所や某掲示板で揶揄されてゐて、傍觀者の人が面白がつてゐる。で、「ユーモア分が足りない」とか「老獪さが足りない」とか言はれてゐる。けれども、どちらも的外れ。野嵜のやり方は「理想主義をベースに主張する」が「實踐は現實に妥協する」と云ふもので、そのどちらかに偏るから問題に「なる」だけに過ぎない。
「理想主義は非現實的」と云ふ突込みは「あり得る」。けれどもそこで「そんな事はない、このサイトを見よ」と言返す。「このサイト」とはうちのサイトの事なのだけれども、それで一發で反論が封じられる。これが俺のやりたかつた事だ。「闇黒スタイル」にしても「理想的なCSS」であると言ふよりは相當に「妥協的」なものだし、矢張り「理想的」であると「言ふ事も出來るであらう」ISO/IEC 15445:2000準據のサイトの文書と組合せてNetscape Navigator 4.xでも「そこそこ見られる」ものにしてある。
平成十七年十二月二十三日
「何時いかなる場合にも○○でなければならない」式の主張は原理主義であり、「或場合には○○も可能である」式の主張は價値相對主義だと言へる。俺はこの種の價値相對主義を採用してゐる。その點で原理主義者が野嵜の「フォロワー」であるとは言ひ難い。
平成十七年十二月二十三日
俺の主張は「文書があつて、その構造に基いてマーク附けして行くとHTML文書が生成される」と云ふものであり、「言語学的・意味論的なアプローチ」である訣なのだけれども、さうした原理を「認めるならば」あり得る或種の體系としてISO/IEC 15445:2000を當座「より正しい」ものと言つてゐるに過ぎない。だから、或種の條件ではHTML 4.01 Transitionalを採用したり「テーブルレイアウト」をしたりする事も體系性を持ち得るし、その場合には或程度の「正しさ」があり得る。ただ、その「正しさ」と我の「正しさ」とで、どちらがより體系的で整つてゐるかが問題であり、俺は俺の「正しさ」の方がbetterであらうと思つてゐるから俺の「正しさ」を推奬してゐる。その邊の事を理解しないで或種の「正しさ」を絶對視するならばそれは絶對視であると云ふ時點で原理主義であると言つて良い。
既にさうした原理主義はW3Cに蔓延してゐて、「XML原理主義」と云ふ奴だが、XHTMLの仕樣は「XML原理主義」の偏狹極まる物の見方に陷つてゐて俺は贊同出來ない。XHTML 2.0の策定の作業もまた、「とにかくXMLでありさへすれば良い」と云ふ發想に支配されてしまつてゐる。brが「XML的でない」から「とにかくXML的に見えるやうにマーク附けする方法を作らう」と云ふ事で、形式的な觀點から「l要素」なるものへ機械的に置換へられようとしてゐる。「h要素」と「section要素」に據る文書構造の記述は、一往規格に盛込まれようとしてゐるが、根本的な發想が「XML的にしよう」と云ふものでしかない。言語學的・意味論的な見地からHTMLなる規格を全體として反省し、マーク附け言語として體系的に再構成しようと云ふ發想はXHTML 2.0の策定作業には全く存在しない。現在公開されてゐるXHTML 2.0の試案は、全體として思想を缺き、ただ「既存のXHTMLよりはずつとXML的だ!」と主張するやうな中身のない代物になつてゐるに過ぎない。俺の目には「廢棄されたHTML 3.0を甦らせたもの」のやうにすら見える。
形式的にはHTML 4.01に「合はせた」ものになつてゐるISO/IEC 15445:2000が、文書構造を「暗示」するもの「にしかなつてゐない」事は事實であり、その點をXML派が屡々「缺陷」だと極附けるのだが、XML派の支持するXHTMLの1.0/1.1に文書構造を明示すべき必然的な根據は何一つ述べられてゐない。「divを使ふ」事は、飽くまで「定義されてゐない」構造の賦與が目的であり、それ以外にあり得ない必然的な「文書構造の明示の方法」ではない。代用品は所詮代用品であり、その代用品を利用してゐる事を以て威張る事は出來ない。XHTMLは現状、「テーブルレイアウト」の類も、見出しがh3から始まる事も、原理的に否定出來ない状態にある。「XMLでありさへすれば良い」と云ふ「XML主義」の「正しさ」を、俺は「慥かにある」とは認める。しかし、その「XML主義」に基いた現状のXHTML1.0/1.1及び策定中の仕樣であるXHTML 2.0は「XMLである」以外に何一つ「正しさ」がない――XMLの域を越えたレヴェルで、體系として「なつてゐない」――から、ISO/IEC 15445:2000に比べて絶對的に「優れてゐる」とは必ずしも思はない。XHTML 2.0の仕樣確定以降に決定されるべきISOの「ISO-XHTML(假)」が理想的なものとなり得る可能性は「ある」。が、さう云ふ物が今後、わざわざ作られるか何うかは判らない。當座、既に存在する仕樣としてISO/IEC 15445:2000に從ふ事は、保守的な態度として現時點では依然「あり得る」ものと考へる。

平成十七年十二月二十二日
alib.jp落ちてる? さとみかん使へないぢやん。
さとみかんの缺點が發覺。alib.jpが落ちてる時、一々alib.jpのCGI經由でジャンプするやうにリンクが張られてゐるので、さとみかんのGoogleキャッシュが利用出來ない。
平成十七年十二月二十二日
さとみかん避難所
平成十七年十二月二十二日
さとみかん復舊してゐるし。
平成十七年十二月二十二日
ITmediaニュース:IEとOutlook新版にFirefoxのRSSアイコン採用
平成十七年十二月二十二日
書きかえたい言葉

平成十七年十二月二十一日
本日の買物。森鴎外『鴎外隨筆』(白玉書房)。齋藤茂吉が解説を書いてゐる。

平成十七年十二月二十日
新宿展。中谷宇吉郎『科學小論集』(生活社)。尾崎士郎『天皇機關説』(文藝春秋)。『道元禅師全集 全』(春秋社)。

平成十七年十二月十九日
お笑いパソコン日誌・映画別館/ウェブリブログ
Firefox と IE でしか見てないけど、後は微妙な調整ぐらい。
W3CのValidatorでエラー。XHTMLなのにlink要素が閉ぢられてゐないとかカウンタのURLで&が&になつてゐないとか。
平成十七年十二月十九日
新宿展。津田左右吉『日本の神道』(岩波書店)。『ヤスパース選集7 聖書の非神話化批判』(理想社)。ソシュール『言語学序説』(勁草書房)。D・H・ロレンス『バーバラの熱き唇』(青踏社)。中村雄二郎『西田哲学の脱構築』(岩波書店)。「人間」第一卷第一號。

平成十七年十二月十八日
JS 経由で CSS を適用する意図
そんな事を言ふのなら、嬉しさうに新スタイル「plant」を追加なんて報告をしてゐるんぢやないよ。
スタイルを久々に追加。単純に「plant」と命名。しばらく、デフォルトにしておきます。――デフォルトでも何でもないだらう。徳保氏のデフォルトは「制作者スタイルシートなし」の筈。Opera や safari ではその JavaScript が動作しないが、私自身 Opera ユーザであり、差別ではない。CSS を提供しないという本来の意図がストレートに現れているに過ぎない。
画像が重いとか、幅固定だとか、配色が見づらいとかで不満のある方も多いことが予想されるスタイルですが、私自身は気に入っています――気に入っているなんて言つておいて、だから私は、趣味で運営しているこのサイトでは、製作者スタイルシートを提供したくないもないだらうに。
例によつて徳保氏は「私は一貫しない事を一貫したいのです」とか必殺の逃げ口上を言つて逃げようとするかも知れない。しかし、自分が一貫しない事しか言はうとしないのなら、他人の言つてゐる事に突込みを入れる權利はない。「私は間違つた事をしたいのです」と言ひながら「あんたは間違つてゐる」なんて何うして言へるんだ。徳保氏は「言へる!」と本氣で思つてゐるらしいが、何うかしてゐる。CSS は普及しても正しいマークアップはなかなか広まらない。SEO という起爆剤はあったが、全体を変革する力はなかったようだ。そのため、せっかくの CSS も単なる物理マークアップの置き換えになっている。見た目だけが重要という根本に変化がない。結局それでは、9割超が納得すればそれでいい、というレベルでおしまいだ。少数派が救われない。多数派への最適化ではなく、全員がそこそこ幸せになれる社会を私は望む。等と嘆いたりして見せてゐるが、「別にそれで何が惡いんだ? 徳保氏にとつて惡い事は良い事なんだらう?」とか言返された時、徳保氏には再反論する事が許されない。そこで言返すから徳保氏は電波だと言はれる。大體、納得させる爲には一貫した論理が必要であり、それを最初から徳保氏は投げ棄ててゐるのだが、さう云ふ徳保氏が「納得させられないのは何う斯う」と批評をするのはをかしい。徳保氏が、本氣で物を言つてゐるのでなく、ただ場當り的に氣分で物を言つてゐる事は、火を見るよりも明かな事だ。私の意図は上記の通りだが、これを自己満足と評する主張に反論はない。そのような評価もあるだろう。と捨臺詞を吐いてゐるが、そのような評価もあるではなく、さう云ふ評價しか徳保氏に對してはあり得ない。徳保氏は、「自分の意図は強く宣言する事に據つて絶對的に他人に押附けられる」と信じてゐる主觀主義の一派に屬してゐるのだが、さう云ふ主義は客觀的な評價や論理を信ずる人々からは單なる「自分勝手」としか見られない。百歩讓つて、「自己滿足」とか「自分勝手」とか云ふ評價について、そのような評価もあるだろう、と言ふ事が出來るとしても、さう云ふ評價の出現する餘地を殘しておく事は、その主張に非科學的・非論理的と云ふ致命的な缺陷の「ある」事の證據だと言つて良いだらう。或主張で殘しておいて良いのは反證可能性だけだが、反證可能性が「ある」事は、その主張が科學的・論理的である事の證據であり、必要な事である。科學的・論理的でない主張は反論・反證が不可能であり、「トンデモ」と看做される。一貫した論理が嫌ひな徳保氏は、自分の主張をさう云ふ反證不可能な主張にしようとしてしまつてゐる。
しかし、徳保氏のみならず、獨り善がりな事を言ふ手合は、矢鱈と偉さうな言ひ方をするものだ。波江とか。彼等は、自分が論理的にとても納得されないやうな事を言つてゐるにもかかはらず、他人が納得しないと、それが恰も道徳的な惡事であるかのやうに極附けたり、納得して貰へなくても良いよと拗ねて見せたりして、相手の責任であるやうに見せかける――自分には何も責任が無いかのやうな顔をしながら。しかし、「俺には責任がない」と言ひ、他人からの批判を受附けないやうな態度を取りながら、他人の事をあれこれ批評するのは、如何にも傲慢だ。
平成十七年十二月十八日
「責任」とか書くと、今は「何とか光輝」とか云ふイタいハンドルを名乘つてゐる粘着の「何とか係」が勘違ひした攻撃を仕掛けて來る訣だが、或主張をした時、「反證が可能である」と云ふ反論か、「そもそも反證可能性がない」と云ふ指摘があつたら、それに對して「その反證は正しくない」とか「自分の主張には反證可能性がある」とか再反論する事、それが「言論の責任を取る」と云ふ事だ。
平成十七年十二月十八日
小物の戯言 - 略歴雑記 - 本当は
平成十七年十二月十八日
facet-? - id/name 属性や cite 属性をリンク化する Permalink+
平成十七年十二月十八日
Alertbox: ブログのユーザビリティ:デザインの間違いトップ10(2005年10月17日)
平成十七年十二月十八日
コシヌケな御意見番 : HTMLを勉強するぞ
平成十七年十二月十八日
Luv+Fun'key - ちゃんかずの戯言 [個別表示]
切り捨てられたOpera

平成十七年十二月十七日
博士問題の成行
何時も何うも有難うございます。今夜の御題。
平成十七年十二月十七日
新スタイル「plant」を追加

ご指摘の件への回答は、閲覧環境に関する注意書きで代用します。私は IE ユーザでも簡単に製作者スタイルを無効化できるように、JavaSript を通して CSS を提供しているのです。ちなみに私も Opera ユーザです。意識の高い人が多いであろう Opera ユーザに「製作者が推奨スタイルを提示するようなお節介」は無用だと判断しています。

なんか凄く腹が立つ囘答なのだけれども何うしてだらう。
平成十七年十二月十七日
「ユーザスタイルシートを使用出來るブラウザのユーザは必ずユーザスタイルシートを使用しなければならない」みたいな事を言ふ人つて何なのだらう。「ユーザスタイルシートを使用出來るブラウザのユーザなのにユーザスタイルシートを使用しない奴は頭がをかしい」云々。別にユーザスタイルシートは「使はなくても良い」ものだよ。
平成十七年十二月十七日
俺は一々ブラウザのスタイルを弄つたりしない。OperaでMinimum font sizeを設定してゐるだけ。「正しいHTML」で書かれたサイトばつかりだつたら「闇黒スタイル」をユーザスタイルとして使ふだらうけれども、正しくないHTMLで書かれたサイトの方が多い現状、ユーザスタイルを利用しても見易くならない事が多いから使はない。
平成十七年十二月十七日
ブラウザにしても何にしてもプログラムのカスタマイズなんてする氣にならない。ただでさへ面倒な事だし、ヴァージョンアップしたり別のPCに移行したりした時の事を考へるとやつてゐられない。
平成十七年十二月十七日
と言ふか、何でブラウザ毎に表示を變へようとしたりする訣?
「Operaユーザは意識の高い人が多い」? 何それ? Operaユーザに喧嘩賣つてんの?
何でJavaScriptでスタイルを指定しなければならない訣? どうして普通のCSSの指定をしない訣? CSSを使ふのなら、普通の使ひ方をして、オプションとしてJavaScriptで選擇可能にする、と云ふ風にすべきぢやない? JavaScriptを使はなければならない必然的な理由つて何?

注:Opera や Safari では私の用意している JavaScript がそもそも動作しません。Opera ユーザの方は deztec_CSSthink.js を User JavaScript として活用すれば CSSthink.css を適用できます。(原本+解説

完全にOperaユーザを舐め切つてゐる。
と言ふか、徳保氏の自己滿足臭いな。
平成十七年十二月十七日
Internet Explorerでは「インターネットのプロパティ」-[ユーザー補助]の「書式設定」「ユーザー スタイルシート」で制作者スタイルシートを使はずにユーザスタイルシートを使用するやうにする設定がある。
平成十七年十二月十七日
Internet Explorerでは「インターネットのプロパティ」-[セキュリティ]の「レベルのカスタマイズ」でActiveX、Java、JavaScriptを使はなくする設定がある。
平成十七年十二月十七日
で、Internet Explorerを意圖的に撰擇してゐるユーザは、當然の事だが「意識が高い」と言へる。さう云ふユーザは、セキュリティの事を考へて、JavaScriptをオフにしたりしてゐる「事がある」だらう。「セキュリティ」のレベルを「高」にしてもJavaScriptはオフになる。
さう云ふ「意識の高いInternet Explorerユーザ」は、徳保氏のサイトを徳保氏のスタイルを使用してInternet Explorerに表示させる事が出來ない。徳保氏は「何うせ意識が高いんだからさう云ふユーザはユーザスタイルシートを使ひなさいよ」みたいな事を考へてゐるのだらうが、それは即ち「意識が高いユーザはユーザスタイルシートを必ず使はなければならない」と云ふ極附けにほかならない。何でそんな事を極附けられるのだらう。「非論理的であるのは良い事である」と考へる徳保氏ならではの異常な發想だ。「極附けちやゐませんよ」みたいな言ひ訣をするだらうが、それは「さう云ふユーザは不便を忍べ。俺は知らん」みたいな考へ方にほかならないのであり、「不便を忍べ」と言はれる側の俺は腹が立つ。
平成十七年十二月十七日
羞恥心
随筆関係は解らない事もないけれども、情報関係と云ふ言ひ方は意味が曖昧だ(の情報かが分らない)し、連結関係と云ふ言ひ方は「リンク」の事だとすぐに判らない人も多いのではないか。
「このサイトについて」とか「他のサイトへのリンク」とか「より分かり易い表現」をする必要は「ない」のだらうか。
平成十七年十二月十七日
神保町の古書會館の古書展は、國語學關係或は國文學關係の人には、とても興味深いものだつただらうと思ふ。俺にも興味深いものではあつたのだけれども、高いとか、讀めないとか、いろいろの事情により井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』のほかには買はなかつた。勉誠社の富士谷御杖とか義門とかの印影本が澤山出てゐたけれども、俺は學がないから讀めない。
平成十七年十二月十七日
ドリコム CMS はよく出来ていると思う
XOOPSは、「テーブルレイアウト」大前提のアレなCMSで氣に入らないのだけれども、特定會員限定のコミュニティサイトを安上りに作るには他に撰擇肢が無かつたりする。
と言ふか、徳保氏が推奬してゐると云ふだけでドリコムCMSを使ひたくなくなる俺がゐる。
平成十七年十二月十七日
CSS Selectors
http://www.w3.org/TR/2005/WD-css3-selectors-20051215Last Call Working Draftになつてゐる。未讀。
平成十七年十二月十七日
CSS3 Advanced Layout Module
http://www.w3.org/TR/2005/WD-css3-layout-20051215が最初のWorking Draft。

平成十七年十二月十六日
博士問題
例によつて云々。
平成十七年十二月十六日
新スタイル「plant」を追加
HTML文書のソースを見る限り、「趣味のWebデザイン」の何處にもCSSの正しい指定が無いのだけれども? OperaでもJavaScriptをオフにしたInternet Explorerでも徳保氏のところはブラウザのデフォルトスタイルで表示される。

平成十七年十二月十四日
小説に用ふる天然
例によつてバグ取りを……。
平成十七年十二月十四日
クリストファ・ドーソン『政治の彼方に』(現代教養文庫32)

ファシズムと共産主義とが勝利を博したのは國家に單一の意志と目的とを取戻したところの革命的行動の政策に負ふこと甚だ大である。しかしこの成功を收めるためには彼等は政治的行動の領域を從來よりも擴大すると同時に、市民權の基底を狹める代償を必要とした。共産主義者、國家社會主義者、孰れにとつても共同體が國家を超絶する。そして政黨は政治の機構の一齒輪に留まることなく、共同體もしくは國民の神來的な機關となる。のみならず法律上、憲法上の諸制約を無視して、國家をば自己の超政治的理想實現の一手段として使用するがごとき神聖な絶對權を所有する。何となればこの場合、國家は國民に奉仕するためにのみ存在し、政黨もしくは政黨の總統が國民の意志を具體化した唯一の正繼者だからである。

かくて新しく生れた政黨はその民主主義的先輩とは殆んど共通點を持たない。彼等はむしろ宗教團體に類して、その團體の全員から服從を強要し、嚴格な訓練によつて團體の目的の手足となるべく團員を教育する。ただし宗教團體があらゆる場合に結局はキリスト教會の僕たるを失はないのに反して、全體主義的政黨は國家の主であり、國家を自己の目的通りに曲げるものである。實際どちらかといへば、國家に類するよりも教會に近い性質を有つてゐる。その團員たる資格が一箇の信條もしくはイデオロギーを宣揚することに基いてをり、それはまた市民權に基礎をもたずして總統の福音に對する信念に基いてゐるからである。それにも拘らず、たとへ政黨が國家の上にあり、超政治的機能を帶びつつも、早晩かかる政黨は國家と一體に融合する不可避的な傾向が存するのである。

ロシヤ、イタリー、ドイツを通じて孰れの場合にも最早やその政黨と政府とを區別することが不可能である。……。

平成十七年十二月十四日
クリストファ・ドーソン『政治の彼方に』(現代教養文庫32)

しかしながらわれわれの言分は別にある。即ち自由國民として、彼等のやつた事を自由を失はずして、われらの民族の社會的傳統と矛盾しない方法によつて實行する道はないかどうかといふことである。考へてみれば、共産主義にしてもその背後には既にピーター大帝時代にロシヤ國家を革命化した獨裁的暴力の傳統を有つてをり、また國家社會主義にしたところで軍隊訓練と一國皆兵の理想によつて築き上げられたやうな國家の傳統に訴へるより外に道はなかつたのである。

これに反して、われわれには更に古い自由の傳統がある。勿論、近代的な意味でのデモクラシーの傳統ではないが、個人の自由と團體自治の傳統がある。イギリスの議會制度といふものは他の多くの國々の場合のやうに、自由主義的理想主義によつて人爲的にでつち上げられたものではない。それは國民の生命の有機的な一部分であり、社會的現實のやむにやまれぬ推進力によつて世紀から世紀へと成長し來つたものである。イギリスはこの傳統を何か舶來のイデオロギーに取り替へるにはすでに餘りにも老成してゐるのである。もしも議會制度が全體主義的政黨制度と相容れないものとすれば(私はさう信ずるのだが)新體制はわれわれには向かないのである。われわれとしては國民を再組織し強化する他の何らかの方法を發見しなければならない。

ドーソンのイギリスと我が日本國とは状況が異る。其の點は注意が必要。日本にイギリスのやうな古い自由の傳統は無い。自由主義的理想主義によつて人爲的にでつち上げられた議會制度があるのみである。
平成十七年十二月十四日
クリストファ・ドーソン『政治の彼方に』(現代教養文庫32)

イギリスの議會制度はその本質上、非全體主義的である。そして今日までそれが成功した所以は、その議會制度の目的と權限がある限定された性格を有つといふことによつてゐるのである。國民的統一の象徴となり保證となり來つたものは議會よりもむしろ君主政體にある。そしてまた君主政體は更に議會以上にその存立を君主政體の限定された性格に負うてゐるのである。しかし、あらゆる場合にイギリスの制度に獨特の強みと社會的凝結性を與へて來たものは君主政體と議會の背後にあるところの社會的結合であり、君主政體も議會もその結合の政治上の機關ではあるが、社會的結合自體は政治を超絶してゐるのである。イギリスの政黨組織をして相互に排他的なイデオロギーを有する二つの敵對的な陣營に國民を二分することなく、了解の共有の地盤の上に作用せしめることの出來たのはこの結合あるためである。

手許の文庫本には、社會的結合自體は政治を超絶してゐるのである。の部分に註釋が附され、政治の彼方にと書込まれてゐる。この「政治を超絶した社會と君主――或は社會と議會――との結合」は、イギリスだから「ある」のであり、日本には「ない」事であるのには注意が必要である。日本における天皇と國民との紐帯と云ふ奴は、近代以來、政治的に作られたものであるに過ぎない――或は、明治以來、性急に「でつち上げられた」ものであるに過ぎない。日本の君主政體も議會制度も傳統に立脚しない弱體なものである事は否定出來ない。ファシズムにしても共産主義にしても、後進國において、傳統の上に成立し、それゆゑに強靱さを持つ。が、だからと言つて、矢張り後進國である日本も暴力的な獨裁を採用しなければならない訣ではない。日本は民主主義を採用したのであり、それが人爲的なものであつたとしても議會制度を運用して行かなければならない。ここには重大な問題がある。ドーソンの著作にしてもさうだし――イギリスに限らず歐米の文學書にしても思想書にしてもさうなのだが、日本の問題を解決するのには必ずしも役に立つと云ふ訣ではない。決定的な解決は不可能だ。ただ、問題が「ある」事を意識出來るやうにさせては呉れる。

平成十七年十二月十三日
日曜日の讀賣新聞朝刊の一面コラムで、イラク戰爭の反動からアメリカが再び孤立主義へ向つてゐると指摘されてゐた。
「イラク戰爭は誤だつた」との見方がアメリカ人からも出て來てゐて、日本の「反米保守」の方々は嬉しくて嬉しくて堪らないかも知れないが、それでアメリカが孤立主義に向ふのは好ましい事か何うか。
平成十七年十二月十三日
http://kara.ifdef.jp/diary/diary200512.html#D20051212-D
フッサールの『内的時間意識の現象学』を三册買つてしまつた私は云々。
平成十七年十二月十三日
MYCOM BOOKS - Web標準デザインテクニック即戦ワークブック〜XHTML+CSSを正しく賢く書くための15問
買つて來た。
平成十七年十二月十三日
東芝、AACS規格化の遅れでHD DVDプレーヤー発売を延期
コピーガードの仕組が出來てゐないから發賣延期。
平成十七年十二月十三日
TDK、カートリッジレスBD-R/REメディアをサンプル出荷
かうなるとブルーレイが勝ちさうな氣がする。
平成十七年十二月十三日
CSSコミュニティ 2.0。

平成十七年十二月十二日
頭痛がするので體温を測つて見たら三十七度。噫何と脆弱な肉體である事よ云々。
明日と云ふか今日はおやすみしようかと思ふが何うか。
平成十七年十二月十二日
原因は多分部屋の本の整理。なんか俺にとつては相當の重勞働であるらしい。
平成十七年十二月十二日
毛布をかぶつたり暖房をがんがん效かせたりして恢復。
小鳥は、ちよつと體調が惡くなつた程度なら、暖めてやるだけでも調子が良くなるんだとか。

平成十七年十二月十日
bodyにoncontextmenu="return false;"を書く馬鹿は死ねよ。
平成十七年十二月十日
たなけんの部屋

平成十七年十二月九日
東京古書會館の書窓展で色々とネタになりさうな本を物色。黒つぽい本が多くて良かつたけれども客が多くて樂しめず。年寄多過ぎ。何か「マナー」が「なつてゐない」客も多いし。日夏耿之介『鴎外文學』とか青木巖『ヘロドトス』(生活叢書一)とか教養文庫とか養徳叢書とか。

平成十七年十二月八日
navigate
  1. manage or direct the course of (a ship or aircraft) using maps and instruments.
    • sail on (a sea, river, etc.)
    • fly through (the air).
  2. (in a car etc.) assist the driver by map-reading etc.
  3. sail a ship;sail in a ship.

平成十七年十二月七日
http://lan.rgr.jp/diary/2005/12a#Six-Two
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2005/12a.html#d07n01
ユーザスタイルシートは兔も角、CSS非對應のブラウザ(lynxとか)で見た時に見辛いサイトつて云々。
平成十七年十二月七日
特攻野郎Aチーム : テレビ東京
平成十七年十二月七日
TMPGEnc DVD Authorは1.5から2.0にヴァージョンが上つて品質が落ちた。
MPEGファイルを削除しても、1.5ではプロジェクトデータを讀込めて、どんな風にメニューを作つたのか等を確認出來たのに、2.0では一々「何處にファイルがあるのか」と問合せて來て、「ない」と知るとメニューの確認が出來ないやうにしてしまふ。
なぜかDVD一式のファイルの書出しで異常終了する事が多い。
チャプタの設定畫面でMPEGのプレビューが高速化された事だけが改善點で、後は全ての面で退化してゐる。

平成十七年十二月六日
小宮山書店の百圓均一ワゴンで千九百七十年頃の悲劇喜劇を五册拾つた。

平成十七年十二月四日
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2005/12a.html#d04n01
定義リストは「見出し+本文」構造の代用たり得るか
たり得ない。
闇黒日記の定義リストは見出しや段落の代用ではない。リストだからリストにしてゐる。それだけの話だ。
さとみちんはなぜ代用だと思つてしまつたのだらう。不思議でならない。野嵜に代用なる意圖はない。さとみちんであつても野嵜の意圖を勝手に決定する事は許されない。
平成十七年十二月四日
小説ならば見出しと段落で構成される。しかし、さうでない文章では、必ずしも見出しと段落で構成されるとは限らない。
ふりがな論覺書(リスト形式でマーク附け)
「覺書」でリスト形式と云ふ事はあり得る。この文章に限つてはかう云ふ形式でHTML化する方がより妥當だと思つた。但し、オリジナルのテキストの「一」と云ふ記述を、敢て内容と看做さないのが許されるのか何うかは議論の餘地があるだらう。面倒なのでやつてゐないが、スタイルシートでリストの前に内容を插入する事は出來る。
ふりがな論覺書
同じテキストだが、敢て段落としてマーク附けを行ひ、その上で刊本のスタイルを再現してみたもの。決してスマートなマーク附けだと思はない。ただ、オリジナルのテキストの「一」と云ふ記述を、内容として「活かす」には、かうするしかない。
「目次」の橋本進吉博士著作集3ではISO-HTML版HTML版と表現したけれども、一往さう表現したに過ぎず、それが二つの文書の適切な區別であるとは自分でも思つてゐない。
平成十七年十二月四日
一人稱「漏れ」は如何なものか。好い加減2ちゃんねる用語は云々。
平成十七年十二月四日
UNIX USERから誌名の變つたオープンソースマガジン2005年12月號。のに子なる變なペンネームの人が連載をやつてゐて第八囘。Solaris 10を「ソルテン」とか勝手に呼んでみたり、いろいろ非道い。變な物の呼び方をして「俺は今、とても面白い事を言つてゐる!」とか思ふのは如何なものか。
「コンピタ」とかさ。
主婦と暮らしと電算機トップページ
なんかコンピュータ好きの人には變な用語を作つて面白がるとか浮かれた調子の文章とかを綴つて愉快がるとかそんな性癖の持主が多いやうに思ふのだけれども、それが最近とても鬱陶しい事がある。
平成十七年十二月四日
しろはたの本田透氏は喪男とか電波男とか言ふやうになつてからどうしやうもなく詰らなくなつたやうな氣がする。
平成十七年十二月四日
俺、Operaのマウスジェスチュアに馴れてゐるから、Firefoxとかに移行出來ないんだ。
Firefoxには、機能擴張にマウスのジェスチュアを使へるやうにするものがあるけれども、Operaと完全互換になつてゐないから駄目。ちよつとしたところで非互換なのが一番苛々するものだ。
何うせなら全く異る操作性である方がアプリケーションは乘換へ易い。OpenOfice.orgもMS Officeと「良く似てゐる」がゆゑに俺にとつては「乘換へ難い」ものであつたりする。プログラムなんて何うせ學習しなければ使ひこなせるやうにはならない物だから云々。

平成十七年十二月三日
Operaに完璧なんて求めてゐないからPiroさんのところの整形結果がをかしからうが所謂「日本語の文字」のフォントが何うだらうが氣にしない。
動きがもつさりしてゐなければ良い。Operaの6は、レンダリング結果は汚かつたけれども動きが俊敏で良かつた。7は、隨分綺麗に整形して表示するけれどもそれがなんかGecko風で嫌だつた。8は7と實質同じ。
綺麗だから良いと言ふものでもない。6は、何とか「日本語の文字」を表示してゐんですよみたいな、何と言ふか、「がんばつてゐます」感みたいな雰圍氣があつて、それが良かつた。
Geckoのレンダラは雰圍氣的に動きがもつさりしてゐる、嫌。
平成十七年十二月三日
と言ふか、Mac OS Xだつたら最うSafariが一番な訣だし、Konquerorと言ふかKHTMLには興味を持つてゐる。
まあ、KHTMLももじらもUNIX方面のプロダクトだから――Windowsネイティヴのブラウザつて最う出て來ませんかね詰らないですね。Internet Explorerと言ふかMicrosoftのHTMLレンダラはこれ以上進化しませんかね。俺は「ブラウザソフト」に興味があるのではなくてHTMLのレンダリングエンジンに興味がある。
影鷹は何うなりますかね。Javaのブラウザつて此頃動きがありましたかね。ブラウザなんて最う何うでも良いやみたいな。HTMLとかCSSとかには飽きちやつたし。Operaを使ふのもサイトを更新するのも惰性。何か面白い事ないかなー。
平成十七年十二月三日
厭きとかモチベーションの低下とか言つた事は大きな要因で、今更小汚いHTMLもどきを吐出すそこいら邊のCMSツールを拾つて來てISO/IEC 15445:2000に準據する單純かつ明快なHTMLを吐出すやうに改造してとかそんな事を樂しくやつてゐられるほど俺もサイト作りに興味を持つてゐない。文章を書く事は息をするやうなものだから止める事が出來ないけれども、それ以上の「サイト構築」なる作業は最う作業以外の何物でもないのであつて「わざわざやる」事でしかない。最低限のマーク附けは自然に出來るものだけれども、テキストデータをマーク附けをしてHTMLにして吐出すツールの作成とか改造とかそんな事は最早強い意志が無ければ出來たものではない。
平成十七年十二月三日
早速。
松坂忠則『国語国字問題 復古主義への反論』
福田恆存の文章に附けた言掛りについて。と言ふか、その邊しかちやんと見てゐない。が、大體松坂の論じ方の傾向はこれで解ると思ふ。本當に馬鹿だよ松坂。
松坂の言掛りの數々は正字正かなFAQのネタに利用して良いかも知れない。
平成十七年十二月三日
負の遺産としてのPC-98。PC-98フォーマットの3.5インチフロッピーとかPC-98フォーマットの5インチフロッピーとか。
平成十七年十二月三日
「スーパーリロード」つて公式の言ひ方なの?
平成十七年十二月三日
http://yowaken.dip.jp/tdiary/20051130.html#p03
うちでも「當」が登録出來なかつた。あと、「文字の分割」で良く落ちる。
平成十七年十二月三日
めも。
ミノタウロス見聞録: 「レンタルブログで小説」の記事を集めてみた
CMSとかCMSとかCMSとか。
平成十七年十二月三日
「HTMLを意地でも覺えないぞ」→「ブログ萬歳」みたいな發想が「ある」?
そんな人許りでもないみたいだけれども。
ヘッダを記述したテンプレートを用意しておいて、あとはh1〜h6、p、aくらゐ覺えておけば、サイトなんて作れるのに、なんで「HTMLは難しい」だの「HTMLを知らないでもホームページが作れる」だのと言ふのだらう。「fontだのtableだのを使ふ」事が「ほーむぺーじを作る事だ!」みたいな「思想」を、どこぞの御馬鹿さんが廣めてゐるのが惡い? 本當に本當に御馬鹿さん。
見出しはh1〜h6で、段落はpで括れば良い。それだけの事だ。恐ろしく簡單な事だ。なのに、なぜ「HTMLは難しい」なんて言つてしまふのだらう。特に小説を書いてゐる人。見出しとか段落とかは御馴染みのもので、全員理解出來る筈。「正しいHTML」で小説サイトを作つてゐない人は云々と言へば極論だらうが、さう云ふ極論が通用する世の中であつても良いと思ふ。
平成十七年十二月三日
コンテンツの充實よりも、コンテンツを收めるサイトのシステム作りとかツールの製作とかに熱中してしまふ人。

平成十七年十二月二日
ローゼン五卷持つてゐたよ。四卷五卷と連續でダブらせた俺は異常。
平成十七年十二月二日
ブラウザの議論、HTMLのレンダラとかアプリケーションの操作性とかをごたまぜにして論ずるのは如何なものか。
平成十七年十二月二日
和洋會。携帶ラジオを聞きながら棚を物色してゐる爺マジ不愉快。携帶電話で話したりもするし。戰後の教育を受けた所爲か何うかは知らんが、老人でも本當に駄目なのがゐる。本日の買物。D・H・ロレンス著・荒川龍彦・塘雅男譯『アポカリプス―默示録―』(昭和九年十月二十日發行・昭和書房)。『國學體系第十四卷橘守部集』(地平社)。『東洋人の思惟方法四 中村元選集第四卷』(春秋社)。蒲松齡『狐の詩情』(陽徳叢書外國篇1029)。日夏耿之介『日本近代詩史論』(角川書店・既に持つてゐるやうな氣がする)。ステファン・ツワイク『知性と感性』(河出書房)。ヤスパアス著・草薙正夫譯『ニイチェ(上下)』(創元社)。バジョット著・深瀬基寛譯『英國の國家構造』(弘文堂)。『敵討』(冨山房百科文庫戰前版68・カヴァ缺)。松坂忠則著『国語国字論争 復古主義への反論』(真昼文庫)。

平成十七年十二月一日
本日の買物。「かりあげクン トリビュート増刊」。『ローゼンメイデン』第五卷。『まじかるストロベリィ』第二卷。かりあげクン、解説の文章が一々寒い。おまけに間違つてゐる(展覽會で入選したのは、かりあげが描いた繪ではない)。ローゼンはダブつてゐる可能性あり。未確認。まじかるストロベリィは新刊。

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