精神の余裕と言つてをられるのは本當の事でせう。俺にはそんな餘裕が無いのです。「知的遊戯」としての「面白い」の類には、最早興味がありません――と言つたら嘘で、でなければ虹裏なんて覗いてはゐない訣ですが、あれは反省してゐる暇がないくらゐ、とんでもないスピードで目の前で物事が進展して行くからのめり込めるのであり――ドストエフスキーが賭博にのめり込んだのも同じでせう――自分が何をやつてゐるのか反省出來る「のんびりした状況」では、とてもパズルのやうな暇潰しは、やつてゐられません。ストイックと言へば、死までの暇潰しにパズルを解いてゐる人の方が餘程ストイックでせう。「何故生きてゐるか」が俺には最大の問題です。
社会学徒の中には、単に思想のみ興味を持つものと、その思想を産んだ人そのものに興味をもつものとがある。私の如きは後者の部類に属する。私が本書に於て単に社会思想を語らずして、社会思想家を語ったのは、此の故である。人に関心を持たない人の多くは、白己の課題を始めより特定して、その課題に対する解答を諸々の人より探らんとする。然しいかなる課題を持つべきかを最先の課題とするものは、人に関心を持たざるをえない。蓋し先人の抱いた課題を探ることは、自己が何を課題とすべきかに貴重なる示唆を与へるからである。私は多くの人が始めより自己の課題を特定してゐるのを見て、尠からず不安を感ぜざるをえない。何故なればその課題は自己の主観的な偶然性により与へられたか、或いは自己なるざる周囲より流行的に与へられたに過ぎないものが多いからである。私は過去十数年、社会思想家の門を敲いて、先ずその人々の課題を探ることに努めた。本書はかかる思想家巡礼の一産物である。
……。僅か二世紀前までは、無神論者は罪人のやうに人眼を避けて後暗い生活を送つてゐたものである。しかるに今日では彼は西歐の世界に於て市民權の全部を獲得した。完全に無神論者であることを標榜して、しかも國事に參與し、社會の共同生活に加はることを憚らない。國家、社會をわがものと感ずる點ではキリスト教徒の場合と大差はない。否それ以上かも知れない。何となればキリスト教徒としては大多數の同胞によつて最早守られてゐない掟、信じられなくなつた信念にいまだに制約されてゐるゆゑに、近代の世界を多少棲みにくい世界と感ぜざるを得ないのに反して、無神論者は何の遠慮も割引もする必要なくして、百パーセントの近代人たり得るからである。ただ時たま戴冠式のやうな場合に昔のキリスト教的秩序が忽然、生活の表面から頭を出してわれわれの注意を一瞬間、要求する。私が無心論者といふ時、もちろん神の存在に對して思辨的な疑ひを懷いてゐる人をいふのではなくて、その人の生活と思想の全體が、あたかもキリスト教徒やマホメット教徒の場合、神の存在とその神意に基礎づけられてゐるのと反對の意味で、神の不在と宇宙の無神性に基いてゐるやうな場合を指すのである。
かかる状態は問題の一面に過ぎない。他面に於てわれわれはキリスト教の傳統が、たとへ散漫な漠然とした形にしろ、それにも拘らず、生きた現實の力として今日の世界に持續してゐる事實を考慮に入れなければならない。それは單に時々、タイムズ紙に寄せられる投書のなかにキリスト教國たるものが、或はキリスト教文化がかくかくの事柄を默認していいのかといつたやうな驚きと憤慨の氣持を表明したものが今でも見出される――そのやうな現象をさしていふのではない。むしろわれわれの文化がキリスト教的でないことを誰よりもはつきり認識し、キリスト教徒たることを標榜しない人々自身が、私生活に於ては感じないまでも、
……今日、非獨裁國家が代表してゐる意味は、自由主義でなくしてデモクラシーである。昔日の自由主義者逹自身が認め、今日でもなほクローチェの指摘するごとく、この兩者は決して同じものではない。自由主義とは個人の權利と、私の意見及び私の利害の自由とを意味し、デモクラシーとは大衆の權利と公論及び共同利害の主權を意味する。……。
……自由主義者にとつて重力の精神的中心は個人にあつた。また個人の意見個人の利害の領域が理想の世界であつた。故に自由主義者が宗教をば純然たる私の問題として語る場合、それは毀損の意味が含まれてゐた。教會を國家から分離すること――宗教を政治の外に置くことは宗教を高次の精神價値の世界に高めることであつた。しかし今日、民主的世界ではこれらの價値は逆轉されてゐる。個人生活からその精神的優位が失はれ、社會生活に高い信望を奪はれてゐる。それ故、宗教を純然たる個人的、私的問題として取扱ふことは宗教から現實性を奪ひ、宗教の價値と效力とをますます低い平面に引き下げることである。宗教を社會生活から遮斷することは該當に青春の生命が横溢してゐる時、ばらんの植木鉢に背被附きの椅子といふすこぶるヴィクトリア王朝式の黴臭い北向應接間にこれを閉ぢ込めるやうなものである。その結果が教會の宗教が次第に實生活から逆離し、その代用物として民主的社會が街頭と廣場(フォーラム)の新宗教を創造することになつたのである。
社會的良心に直接訴へ、政治、經濟の領域にその表現を求めるこの新型の宗教、或は擬態宗教ともいふべきものの最も重要な例は社會主義と國家主義である。これらの新信條は自由主義時代に、即ち自由主義が社會生活を世俗化することによつて生み出した精神的空虚に乘じて生れたものであり、それが生長するに及んで自由主義を滅ぼしたばかりでなく、デモクラシーが議會主義と代表制度と一致する限り、即ちデモクラシーと自由主義とに共通の要素を意味する限りデモクラシーそのものまでを威嚇するに至つたのである。
さて種々の點からみてこれらの新らしい社會宗教はキリスト教の傳統、道徳、信念と對立するものである。最惡の場合、反キリスト教的無神論的であり、最善の場合でも現世的なるものの優位を主張し、階級もしくは民族、もしくは國家の利害を人間の魂の要求の上に置くものである。それらは世俗的宗教――「この世界」の宗教である。それにも拘らず、種々の點で純粹宗教の特質を備へてゐるのである。重要な一點では普通の近代のキリスト教との宗教よりも遙かに宗教的である。彼等は生命を分割することを拒否する。生命の全體が彼等が目して最高價値ありとする社會的目的に集中され、獻身されることを要求する。その結果キリスト教徒は彼等の要求に抵抗しようとしてもおのづから不利な立場に立たされる。何となれば彼等の方法に如何なる誤りがあるにしても、ともかくも物質的なもの、利己的なものをより高い目的のために從屬せしめることを目的とし、つまりいはば、社會生活の再聖化の要求を主張してゐるものと感ぜざるを得ないからである。
- 136 :名無し草 :2005/12/30(金) 12:32:49
- 叢はISO-HTMLにしないのだろうか。のあたんフォロワーなんだし。
- 137 :名無し草 :2005/12/30(金) 22:19:04
- >>136
明日から正字正かな遣ひを止める。
さういふ答へで納得してくれる?
枠に當嵌められてしまつたのを嫌がつて、わざと「フォロワーに見られないやうにしよう」とするさもしい根性が氣に入らない。山岸さんは2ちゃんねらーに追随したいのだらう、2ちゃんねらーに氣に入られるやうにこれからも精々努力するが良い。この界隈には2ちゃんねらーが多いから、山岸さんの態度は受けるだらう。受けだけを狙つて生きて行くのも人生だ。勝手にすれば良い。
見れるなんて「ら拔き言葉」を平氣で使へる正かな使ひなんて、本當の正かな使ひとは認めない。
何故に正字正かな遣ひを使わなくなっただけで野嵜さんを侮辱した事になるのかが私には理解出来ないのですが。
使わなくなったのならな。
もしかして野嵜さんは 2ch の件の書き込みだけで私が正字正かな遣ひを止める事を決意したとでも思っているのですか。私が正字正かな遣ひを使っていたのは野嵜さんの正字正かな遣ひ論に賛同したからとでも思ってるいるのですか。
ネタで正字正かな遣ひを使っている人は私以外にも絶対にいます。
叢日誌の特定の section をリンクする場合は http://over.nysox.jp/diary/YYYY/MM#dDDnNN という形式の URI で行って下さい。それ意外では私に対する侮辱になります。止めて下さい。
遊びとして正字正かな遣ひを使うのは良くない事なのですか。
よくもまあ云々と言つてゐるのだらう。
所謂吉野家コピペ。とか言つてゐるが、意味が解らない。俺は別に「コピペ」等してゐないが?
理由なんてありませんが、捻り出そうと思えば幾つかなら捻り出せますが、出した方が良いでしょうか。
私は徳保さんも嫌いですし、野嵜さんも嫌いです。そういう事で納得してくれますか。――これだつて侮辱だらう。
機会を作る爲に俺の名前を利用した事が、俺に對する侮辱なんだよ。
このような機会でなければ略字現代かな遣いに改める事は出来ないでしょうから、そうしたのですが、良くないのですか。
良くないのですかも何もあつたものぢやない。とぼけるのも好い加減にしろ。慇懃無禮にも程がある。
個人的に問いかけられているのに、問いかけを受けたことがない、というのはどういうことですか?
中古 自轉車でぐぐつたら正字正かなのサイトが幾つか見附かつたのでリンク集に追加。
まず、現状のトラックバックという仕組みを廃止して、それに変わるスマートな仕組みを構築する。とはいえ別段、新たな手法を用いるわけではない。いわゆる「アクセス解析」にある、リファラの仕組みをそのまま使う。「もしウチの記事へトラックバックを張りたけりゃ、アンタのページからこっちへのリンクを張れ。ああ、いつもどおり、URLだけで構わんよ。ほんだらな、アンタのページからこっちに閲覧者が来たときに、その閲覧者のリファラ情報を使って、アンタのページへ勝手にリンクしてやるからよ」という仕組みにすればいい。
最近、こふいつた表記が増てゐるやうに感じるのはこのおじさんの影響かしらん。
つーか、アンカーぐらい奢れっての。とか言つてゐるのが時代を感じさせる。
書くことはつねに黄昏のなかの呟きであり、読むことのなかで生起するざわめきを喚起する永遠との熱狂的なダンスにほかならない。そのざわめきを聴きとり行為するのはあくまで読者の方であって、ゆえに、書くことはとても簡単で、軽はずみに誰にでもできるが、読むことは誰にでもおいそれとできることではないのだ。書くことの困難は、それが真に読まれるまでの長い長い宙吊りの時間に耐えることにある。
文章は個人をしか動かさない。個人の集合が「大衆」であったとしても、それは別の次元にあり、理論に可能なのは分析・記述・批判という実践のみであって、それは読者の一人一人に向けて書かれる「問い」であり、読者である個人の思考の道具(助け)となるだけだ。と云ふ指摘には、或程度、贊成であり同意するのだけれども、では渡邊さんが常日頃してゐる讀書は「眞の讀み」なのだらうか、と云ふ問ひが浮かんだ。大衆と個人とは別の次元の存在である、と云ふ事には、異論が無い――のみならず、それは俺の常日頃の主張だ。だが、俺には本を「個人の思考の道具」とのみ看做す事が出來ない。個人としての渡邊さんと、渡邊さんの讀んでゐる本との結び附きと云ふものが稀薄であるやうに俺には思はれる。
もちろんそれは嘘であって(あるいは、それは半分だけしか正しくない)、我々は我々の「終わり」を語らねばらない。と文章を締め括つてゐる。此處で「我々」なる複數形の主語が用ゐられるのは何故か――と云つた揚げ足取りは可能だらう。想定される讀者が個人であるならば、「我々は」なんて演説のやうな言ひ方は決して現れ得ない。けれども、そもそも渡邊さんは思考なるものに必ずしも強い關心は抱いてゐないのでないか、そこに「我々」なる恰も「他人ごと」のやうな言ひ方が現はれる理由があるのではないか――俺はさう思ふ。
これがジョークのつもりならちっとも面白くないし、よしんば、大まじめならばもう何をかいわんやと言ったところである。と云ふ批判は當嵌らないだらうか。
基本的には、こんどの戦争まで、日本のなかにデモクラシーが本質的にはほとんど生成せず、古いことばでいうと、官尊民卑というものがずっと残っていた。そしてそのなかでさらに軍部が、一つのもっとも固い皮に包まれた特権的な特殊の地位を占めていたということで、それに対して、いわゆる民間――実業界なり、教育の場の人なり、あるいは新聞をやっていた連中も同様ですが――これがそういう官僚的な、お役所的なもの、なかんずく軍・官僚と離れて間隔をつくっており、時局が昂ぶうてくると、いよいよ普通にこだわりなく話をするような空気が稀薄になってきた。いや、話はしている。料理屋なんかでは肝胆相照らしたような調子でやっていたが、ほんとうには話し合っていない。というのは、かまえて話すというんじゃなく、ごく普通に意思が疎通するように、不断から、なんのわだかまりもなく話をするということが欠けていたのです。
相手が自分より上であるとか、下であるとか、相手が社会的に主たる役割りのものであり、こちらが従であるとか、少しでもそういうこだわりがあっては話というものはできない。デモクラシーというのは、国会制度に中心があるのではない。もちろん、制度的には国会にまで積み上げてこなければならないけれども、その下にある共同社会のなかで、ほんとうになめらかにこだわりなくお互いに話ができるかどうかというところに、デモクラシーの本体があるにちがいありません。
戦前にはこれがなかった。軍人のいないところでは、みんな兵隊はけしからぬといった。しかし兵隊と話をするとぎには、戦況の話などを聞いているに過ぎないというような態度で、どうも君らの考えていることは根本的におかしいじゃないか、ということがいえなかった。満州事変などが起こってしまうと、もう話がしにくくなるのは当然だが、問題はその前にあった。何もない時にあったのです。クラブでも、料亭でも、町かどでも、どこででも戦争など考えられないような普通のときに、なんの屈託もなく、平気な調子で話ができておれば、たとえ戦争になっても、その戦争の調子が大いに違っていたと思うのです。時期が違うとか、やり方が違うとか、そして場合によっては戦争をやらなくってもすむというようになっただろう、と私は思う。そういうことは議会だけででぎるものではない。斎藤隆夫氏がひとり痛烈な演説をしてみても、実効はない。結局は、所もあろうに、肝腎の議会のなかで、一佐官が「だまれ!」と一喝するようなことになり、そのあとは一層しゅんとしてしまう。も 億う何もいえなくなる。私はこんどの戦争は、こういう真に平ったい地盤がぜんぜんなかったというところに、深い根因があると思う。 言論などもそういう社会の状況の上に立っているので、それから超然たることがなかなかできなかった。新聞は、ある程度は一般的な空気とは少々の開きをもって、ものをいうことができる。現にわれわれは、いまそういった角度でものをいっているわけですが、それからひどく飛躍したことはできない。とくに新聞の立論というものは、リアリズムを性格としているから、雑誌などに学者などの立ち場から書くのとはどこか違わざるを得ない。リアリズムということになると、どうしてもその時の社会の状況が土台になってくる。しかも、その状況というのが、実は徳川時代から続いている侍と町人の関係をそのまま移して、官僚、軍人と民間人との関係が本質的に変わっていないということ、いわゆる官民の関係がきわめて特殊であるということが、意外に大きな条件となっているのです。その点が、ヨーロッパの状況と非常に違う。
……。
そしてわれわれの目は、そういう観念のほうへでなく、実際に動いている事実のほうに向かっているわけですが、ものごとを説明する場合には、部分的にはこういう古い観念の一部を利用したりするけれども、それはまったく常識的な観念として部分的に用いているにすぎないのであって、実際は目の前にある、もっと幅と深さのある現実的なものから一つの判断を導き出している。それを導き出す場合に、いろんな道具がわれわれにはある。それがわれわれの社会科学、自然科学というものなんです。それを利用して判断するわけですが、そのさい、とどのつまり、判断する人間、私なら私自身が、いろんな違った道具によって解明したいろいろの側面を私という不可分的な人間が統一して結論を出している。現実にはそういうやり方をやっているわけなんです。
なぜそういうふうになるかというと、いまの科学自体は、自然科学も社会科学も、みなバラバラのものです。ある科学と他の科学との間にはちっとも統一がない。物理学は経済学とはなんの関係もない。経済学と社会学とは関係がありそうに見えるが、二つの立ち場を考えてみるどこにもつながっているところはない。社会学と心理学とは、その立ち場においてはぜんぜん関係がない。科学というものがなぜそういうふうにできているかというと、それはある観察が論理的に筋を通して説明されうるためには、それは一つの平面に投影できるものでなけれぱならぬ。かくして例えぱ一つの心理学の体系がつくられる。かようにしてここでは物理学の体系をつくる、あちらでは経済学の体系をつくる。そういうことをいまの二十世紀の科学はやっているのですが、その科学と科学との間にはなんら統一がない。これは、よかれあしかれ、だれもやった人はいません。物理学と化学のように、ある程度部分的にはできようが、いまのところ例外的である。たくさんの学問をもってものをいう場合には、本人がその統一の主体になっているものだと思うのです。バートランド・ラッセルの哲学というのは、数学的哲学と物理学と心理学と論理学といったものを合わせて、一つの考えをつくったというふうに自らいっている。これはラッセルという人間、あるサブジェクトが、いろいろと鋭利な道具を使ってつかんだ結果を、このサブジェクトが最後に統合するということになる。
一般的にいってみると、なにかそこに社会的な事件が起こったとする。あるいは殺人事件が起こったとする、また日本と中共との間に一つの問題が起こったとする。そういう場合に、それをわれわれが判断するのに、なんらかのイデオロギーをもってきて、それにおっかぶせたら、ずいぶんおかしな結論になろうかと思う。おそらく常識的には通用しないものになってくる場合があろうと思うのです。たとえば共産党の立ち場からは、中共のいうことをきかなければ悪いのだ、という結論が出てくる。もしそれを日本人に押しつけるなら、本人はそれで満足するだろうが、ほかのものは迷惑しよう。ただその場合に、これに立ち向かうためには、いろいろと知識をもっていなけれぱ問題にならない。知識のもとはすぺて学問、科学にひっかかっているのですが、そのなかに中国に関する知識がはいっていないのでは、中共に関する間題は論じられない。知識をもち、かつ見通しをもち――見通しは知識から出てくるが――その見通しの線の上に問題をもってきて、八方からつついて結論を出す。その場合最後の結論の出し方は、結論を出さんとする人それ自身の統合によるわけです。その人が統一をすることによって一つの意見が出てくる。それを私は現代の理論的な立ち場というのです。
そうすると、いまの新聞は社会群的にものを考えることはなかなかむつかしいと思うのです。たとえば賃金の問題を考える場合に、社会党の立ち場から賃金問題を考えるのと、そうでない立ち場から考えるのとでは少し違う。そこには社会群というものがある程度考えられないことはないけれども、そういうものも検討されるべぎ要素のなかにいれて問題を考えるのが、現代的な新聞の立ち場であろうと思う。中正ということばの意味は、単に左右の真ん中という意味でなくて、できる限り多くの観点から検討を加え、その結果を本人自身が客観的と信ずるかたちで統一することによって中正な答えが出るのであって、なにかものさしで真ん中をとるということではない。理論的な立ち場は、こうして多元論的な立ち場ということになると思う。現代は、私は、多元論の時代だと見るのです。
……。
それから第三番目の問題についてはもう時間もありません。それは技術的な問題というか内容的な問題というか、内容的には要するに勉強しなけれぱいかぬということになるんじゃないか。いまの多元論的に成功するためには無限の勉強がいる。イデオロギーならば、われわれはマルクスよりえらくなれないという立ち場に立つようなものだから、マルクスをひっかぶって、お前はマルクス的だとか、マルクス的でないとかいう議論をしていればいい。多元論的な立ち場に立つと、理論が相手でなく現実が相手だから、その現実を見落とさぬよう、見方にすきがないように、用心をしなければならぬ。四方から見るのと八方から見るのと違うし、八方から見るのと十六方から見るのとは違う。非常にこまかく見てみる。その意味で相当に勉強しなければならぬということをつけ加えておきます。
……。
Firefox と IE でしか見てないけど、後は微妙な調整ぐらい。
スタイルを久々に追加。単純に「plant」と命名。しばらく、デフォルトにしておきます。――
デフォルトでも何でもないだらう。徳保氏の
デフォルトは「制作者スタイルシートなし」の筈。
Opera や safari ではその JavaScript が動作しないが、私自身 Opera ユーザであり、差別ではない。CSS を提供しないという本来の意図がストレートに現れているに過ぎない。
画像が重いとか、幅固定だとか、配色が見づらいとかで不満のある方も多いことが予想されるスタイルですが、私自身は気に入っています。――
気に入っているなんて言つておいて、
だから私は、趣味で運営しているこのサイトでは、製作者スタイルシートを提供したくない。もないだらうに。
CSS は普及しても正しいマークアップはなかなか広まらない。SEO という起爆剤はあったが、全体を変革する力はなかったようだ。そのため、せっかくの CSS も単なる物理マークアップの置き換えになっている。見た目だけが重要という根本に変化がない。結局それでは、9割超が納得すればそれでいい、というレベルでおしまいだ。少数派が救われない。多数派への最適化ではなく、全員がそこそこ幸せになれる社会を私は望む。等と嘆いたりして見せてゐるが、「別にそれで何が惡いんだ? 徳保氏にとつて惡い事は良い事なんだらう?」とか言返された時、徳保氏には再反論する事が許されない。そこで言返すから徳保氏は電波だと言はれる。大體、納得させる爲には一貫した論理が必要であり、それを最初から徳保氏は投げ棄ててゐるのだが、さう云ふ徳保氏が「納得させられないのは何う斯う」と批評をするのはをかしい。徳保氏が、本氣で物を言つてゐるのでなく、ただ場當り的に氣分で物を言つてゐる事は、火を見るよりも明かな事だ。
私の意図は上記の通りだが、これを自己満足と評する主張に反論はない。そのような評価もあるだろう。と捨臺詞を吐いてゐるが、
そのような評価もあるではなく、さう云ふ評價しか徳保氏に對してはあり得ない。徳保氏は、「自分の
意図は強く宣言する事に據つて絶對的に他人に押附けられる」と信じてゐる主觀主義の一派に屬してゐるのだが、さう云ふ主義は客觀的な評價や論理を信ずる人々からは單なる「自分勝手」としか見られない。百歩讓つて、「自己滿足」とか「自分勝手」とか云ふ評價について、
そのような評価もあるだろう、と言ふ事が出來るとしても、さう云ふ評價の出現する餘地を殘しておく事は、その主張に非科學的・非論理的と云ふ致命的な缺陷の「ある」事の證據だと言つて良いだらう。或主張で殘しておいて良いのは反證可能性だけだが、反證可能性が「ある」事は、その主張が科學的・論理的である事の證據であり、必要な事である。科學的・論理的でない主張は反論・反證が不可能であり、「トンデモ」と看做される。一貫した論理が嫌ひな徳保氏は、自分の主張をさう云ふ反證不可能な主張にしようとしてしまつてゐる。
切り捨てられたOpera。
ご指摘の件への回答は、閲覧環境に関する注意書きで代用します。私は IE ユーザでも簡単に製作者スタイルを無効化できるように、JavaSript を通して CSS を提供しているのです。ちなみに私も Opera ユーザです。意識の高い人が多いであろう Opera ユーザに「製作者が推奨スタイルを提示するようなお節介」は無用だと判断しています。
注:Opera や Safari では私の用意している JavaScript がそもそも動作しません。Opera ユーザの方は deztec_CSSthink.js を User JavaScript として活用すれば CSSthink.css を適用できます。(原本+解説)
随筆関係は解らない事もないけれども、
情報関係と云ふ言ひ方は意味が曖昧だ(何の情報かが分らない)し、
連結関係と云ふ言ひ方は「リンク」の事だとすぐに判らない人も多いのではないか。
Last Call Working Draftになつてゐる。未讀。
ファシズムと共産主義とが勝利を博したのは國家に單一の意志と目的とを取戻したところの革命的行動の政策に負ふこと甚だ大である。しかしこの成功を收めるためには彼等は政治的行動の領域を從來よりも擴大すると同時に、市民權の基底を狹める代償を必要とした。共産主義者、國家社會主義者、孰れにとつても共同體が國家を超絶する。そして政黨は政治の機構の一齒輪に留まることなく、共同體もしくは國民の神來的な機關となる。のみならず法律上、憲法上の諸制約を無視して、國家をば自己の超政治的理想實現の一手段として使用するがごとき神聖な絶對權を所有する。何となればこの場合、國家は國民に奉仕するためにのみ存在し、政黨もしくは政黨の總統が國民の意志を具體化した唯一の正繼者だからである。
かくて新しく生れた政黨はその民主主義的先輩とは殆んど共通點を持たない。彼等はむしろ宗教團體に類して、その團體の全員から服從を強要し、嚴格な訓練によつて團體の目的の手足となるべく團員を教育する。ただし宗教團體があらゆる場合に結局はキリスト教會の僕たるを失はないのに反して、全體主義的政黨は國家の主であり、國家を自己の目的通りに曲げるものである。實際どちらかといへば、國家に類するよりも教會に近い性質を有つてゐる。その團員たる資格が一箇の信條もしくはイデオロギーを宣揚することに基いてをり、それはまた市民權に基礎をもたずして總統の福音に對する信念に基いてゐるからである。それにも拘らず、たとへ政黨が國家の上にあり、超政治的機能を帶びつつも、早晩かかる政黨は國家と一體に融合する不可避的な傾向が存するのである。
ロシヤ、イタリー、ドイツを通じて孰れの場合にも最早やその政黨と政府とを區別することが不可能である。……。
しかしながらわれわれの言分は別にある。即ち自由國民として、彼等のやつた事を自由を失はずして、われらの民族の社會的傳統と矛盾しない方法によつて實行する道はないかどうかといふことである。考へてみれば、共産主義にしてもその背後には既にピーター大帝時代にロシヤ國家を革命化した獨裁的暴力の傳統を有つてをり、また國家社會主義にしたところで軍隊訓練と一國皆兵の理想によつて築き上げられたやうな國家の傳統に訴へるより外に道はなかつたのである。
これに反して、われわれには更に古い自由の傳統がある。勿論、近代的な意味でのデモクラシーの傳統ではないが、個人の自由と團體自治の傳統がある。イギリスの議會制度といふものは他の多くの國々の場合のやうに、自由主義的理想主義によつて人爲的にでつち上げられたものではない。それは國民の生命の有機的な一部分であり、社會的現實のやむにやまれぬ推進力によつて世紀から世紀へと成長し來つたものである。イギリスはこの傳統を何か舶來のイデオロギーに取り替へるにはすでに餘りにも老成してゐるのである。もしも議會制度が全體主義的政黨制度と相容れないものとすれば(私はさう信ずるのだが)新體制はわれわれには向かないのである。われわれとしては國民を再組織し強化する他の何らかの方法を發見しなければならない。
古い自由の傳統は無い。
自由主義的理想主義によつて人爲的にでつち上げられた議會制度があるのみである。
イギリスの議會制度はその本質上、非全體主義的である。そして今日までそれが成功した所以は、その議會制度の目的と權限がある限定された性格を有つといふことによつてゐるのである。國民的統一の象徴となり保證となり來つたものは議會よりもむしろ君主政體にある。そしてまた君主政體は更に議會以上にその存立を君主政體の限定された性格に負うてゐるのである。しかし、あらゆる場合にイギリスの制度に獨特の強みと社會的凝結性を與へて來たものは君主政體と議會の背後にあるところの社會的結合であり、君主政體も議會もその結合の政治上の機關ではあるが、社會的結合自體は政治を超絶してゐるのである。イギリスの政黨組織をして相互に排他的なイデオロギーを有する二つの敵對的な陣營に國民を二分することなく、了解の共有の地盤の上に作用せしめることの出來たのはこの結合あるためである。
社會的結合自體は政治を超絶してゐるのである。の部分に註釋が附され、政治の
彼方にと書込まれてゐる。この「政治を超絶した社會と君主――或は社會と議會――との結合」は、イギリスだから「ある」のであり、日本には「ない」事であるのには注意が必要である。日本における天皇と國民との紐帯と云ふ奴は、近代以來、政治的に作られたものであるに過ぎない――或は、明治以來、性急に「でつち上げられた」ものであるに過ぎない。日本の君主政體も議會制度も傳統に立脚しない弱體なものである事は否定出來ない。ファシズムにしても共産主義にしても、後進國において、傳統の上に成立し、それゆゑに強靱さを持つ。が、だからと言つて、矢張り後進國である日本も暴力的な獨裁を採用しなければならない訣ではない。日本は民主主義を採用したのであり、それが人爲的なものであつたとしても議會制度を運用して行かなければならない。ここには重大な問題がある。ドーソンの著作にしてもさうだし――イギリスに限らず歐米の文學書にしても思想書にしてもさうなのだが、日本の問題を解決するのには必ずしも役に立つと云ふ訣ではない。決定的な解決は不可能だ。ただ、問題が「ある」事を意識出來るやうにさせては呉れる。
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を書く馬鹿は死ねよ。
- navigate
- manage or direct the course of (a ship or aircraft) using maps and instruments.
- sail on (a sea, river, etc.)
- fly through (the air).
- (in a car etc.) assist the driver by map-reading etc.
- sail a ship;sail in a ship.
定義リストは「見出し+本文」構造の代用たり得るか
代用だと思つてしまつたのだらう。不思議でならない。野嵜に
代用なる意圖はない。さとみちんであつても野嵜の意圖を勝手に決定する事は許されない。
ISO-HTML版・
HTML版と表現したけれども、一往さう表現したに過ぎず、それが二つの文書の適切な區別であるとは自分でも思つてゐない。