闇黒日記


平成十七年九月三十日
阪神優勝の所爲でサンテレビぺとぺとさんが朝の五時五分から放映。被害者續出の模樣。かみちゅ最終囘は十月六日に。關東は被害なし。
平成十七年九月三十日
海馬日記 - 「ザウ」の讀み方
讀み方以前の問題として。
  1. Linuxを「りぬくす」ではなく「リナックス」と讀む事の疑問。
  2. OSにLinuxを採用したZaurus全般を指す愛称。として「リナザウ」と呼ぶ事の疑問。
  3. 「リナックスザウルス」を「リナザウ」と略す事の疑問。
Linuxが「リナックス」ならば、Zaurusは「ざうらす」とでも讀んだら何うか。
もりやま氏が惡いのではない。
平成十七年九月三十日
海馬日記 - はてなブックマークに對する不滿
これつて何うよ。はてなブックマーク - 闇黒日記
この如何にも惡意に滿ちた引用文やキーワードのセレクトは何。かう云ふ「ブックマーク」を放置してゐるのは誰。闇黒日記で誰が誰を侮辱してゐるつて? 闇黒日記が朝日新聞や佐高信を專門にしてゐる? 出たら目も良いところだ。
かう云ふ「ブックマーク」を默認してゐるはてなユーザは明かに闇黒日記の敵。今後、はてなユーザによる闇黒日記の閲覽は禁止。
平成十七年九月三十日
本日の買物。石田英一郎・伊東信雄・井上光貞・江上波夫・小林行雄・関晶『シンポジウム日本国家の起源』(角川新書)。C.S.ルイス『悪魔の手紙』(新教出版社新教新書32)。山田孝雄『國語學史要』(岩波全書)。『日本国家の起源』は、前に買つた事があるやうなないやうな、記憶が曖昧なのだけれども、討論の出席者の名前が全部すぐに變換できたところを見ると、ダブりだと思ふ。
平成十七年九月三十日
C.S.ルイス『悪魔の手紙』(新教出版社新教新書32)「序」

悪魔に関して人間は二つの誤謬におちいる可能性がある。その二つは同じ誤りであり、しかも相反するものでもある。すなわち、そのひとつは悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度の、そして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらい喜ぶ。すなわち唯物主義者と魔法使とを同じように喜んで歓迎する。この本に使用されているような原本は、一度そのこつを覚えた人は誰でも容易に手に入れることができるが、たちの悪い人や、興奮しやすい人たちは悪用するかも知れないから、私は教えるわけにはいかない。


平成十七年九月二十九日
「インターネットにおける積極的な廣告・宣傳は、例外ナシに全てスパム行爲である」と教育するのは何うか。
平成十七年九月二十九日
「政教分離の原則」を根據に、總理大臣が靖國神社を參拜するのに反對する人がゐる。けれども、その反對者が、例へばクリスチャンであつたら何うだらう。クリスチャンが政治に口を出してゐる。これは「政教分離の原則」に牴觸する事になるのではないか。
「政教分離の原則」が、「政治家は無宗教でなければならない」と云ふ規則であるとしたら、合法的な政治家は社民党と共産党にしかゐなくなるのではないか。少くとも、宗教家は政治から締め出される事になる。これは一種の差別だらう。人は信條や門地によつて差別されないとする憲法の規定は何うなつてゐるのだらうか。
餘りにも杓子定規に「政教分離の原則」を適用し過ぎるのが惡い。アメリカでは、議會で宣誓する時には聖書に手を置いて行ふ。これが「政教分離の原則」に牴觸しないのである。ヨーロッパにはキリスト教の政黨が多數ある。これが「政教分離の原則」に牴觸しないのである。
「政教分離の原則」の運用が、日本では異常なやり方で行はれてゐる。
平成十七年九月二十九日
「A級戰犯」が祀られてゐる靖國神社に參拜する事は即座に「ファシズムを禮讚する事を意味する」「民主主義を否定する行爲である」等とは言へない。ならば、「A級戰犯が祀られてゐる事」を理由に首相の靖國參拜を非難するのは不可能である。「A級戰犯」を持出して靖國参拝を非難してゐる人は例外ナシに「トンデモ」であると言つて良い。
「A級戰犯」が祀られてゐる靖國神社に參拜する事は即座に「戰爭の美化である」と云ふ理由で首相の靖國參拜を非難する人もゐる。まづ、「それは本當に戰爭の美化なのか」と云ふ疑問を呈する事が出來る。勿論、そこには論理の飛躍がある。また、假に「美化である」と言へるとして。次いで「一般に戰爭を美化するのは惡い事であると言へるのか」と云ふ疑問を呈する事が出來る。そして「自分逹のやつた戰爭を美化するのは惡い事であると言へるのか」と云ふ疑問も呈する事が出來る。「そもそも戰爭は惡い事なのか」と云ふ疑問も呈する事が出來る。
ところで、「假に」と云ふ事を理解出來ない人間がこの世に存在するのは事實である。「假にその否定さるべき概念Xを肯定するとして」と言ふと、即座に「こいつは矛盾した事を言つてゐる。頭がをかしい。みんなこいつを無視しようぜ」「お前は矛盾した事を言つた。お前は頭がをかしいんだ。默れ。これ以上何か言つたらぶつ潰す。お前は氣狂ひなのだから何をされても文句は言へないんだぞ」みたいな事を言つて惡質な嫌がらせを働く人間は存在する。Yahoo!掲示板の「南京大虐殺」論爭で「あつた派」の人間は、確かにそれをやつた。當人は、自分の事を論理的な人間であると思つてゐたに違ひないし、嫌がらせの積りは毛頭なかつたに違ひないが、自覺症状のない人間くらゐ困つたものはない。彼等は「戰爭を肯定する奴は人間ではない」「人間以下の存在は人間以下の存在として取扱ふのが當り前だ」と信じ込んでゐるから、「戰爭肯定」の「南京大虐殺はなかつた派」に「嫌がらせ」をするのは「當り前」の事だと考へる。もちろん、「戰爭を肯定する奴は人間ではない」「人間以下の存在は人間以下の存在として取扱ふのが當り前だ」の何れの考へも、獨斷であり、何の根據もないし、そもそも主觀的な價値判斷であるが、さう云ふ主觀的な價値判斷を大前提に彼等は「議論」をしようとする。この「議論」が、單に彼らの氣に入らない對象を皆で寄つてたかつて糺彈する吊し上げ大會に他ならないのだが、かう云ふ吊し上げを當り前と思つてゐる連中が「戰爭犯罪者」「戰爭責任者」を吊し上げる爲に「議論」と稱して主觀的な極附け・レッテル貼りをやつてゐる。「A級戰犯」と結び附けて靖國参拝の「議論」をしようとしてゐる連中は、さう云ふ連中である。
平成十七年九月二十九日
「爲政者によつて威壓的に主義主張を押附けられると、論理的に反論出來ない」と云ふ日本人の「體質」があつて、その爲政者が自己の押附けを正當化する爲に「皇國史觀」なる理論を作つたのであるならば、表面的な現象に過ぎない「皇國史觀」を否定しても、本質的な問題である日本人の「體質」は全く改善されない。

平成十七年九月二十八日
唐木順三『古いこと新しいこと』讀了。著者の晩年に近い頃の隨筆集。唐木氏の文體は好きなのだが、この頃の唐木氏はニヒリズムから禪へ/唐木順三と禪で書いたやうに政治的な文章を幾つも書いてゐて、それが紋切型だらけで頗る拙く、讀んでゐて白ける。人類が何度も絶滅出來るくらゐの核兵器を持つてゐるのはバカだ愚かしい云々と罵つてゐるけれども、ウェブの「ブログ」で素人が書いてゐるやうな事だ。
「二十年前の京都日記」は昭和三十二年秋の唐木氏が京都に二箇月程滯在した時の日記だが、ガブリエル・マルセル來日の時の樣子が記録されてゐて興味深い。
十一月十二日

三時から京大の大講堂でマルセルの講演會。「眞理と自由」といふ題で伊吹武彦氏の通譯。まさに滿員で大變な人氣である。話の内容はさう特筆すべきことがない。アムール、といふやうなことが最後にでてきて、宗教論になつたが、かういふことはカソリックに通じても、僕には通じない。あとで文學部會議室で質疑の會が一時間たらずあつた。あと上田、武内、武藤、石田といふ若い人たちと北野へでて飮む、たまたま深瀬老來り會してつひに「仁和波」にて同宿。

十一月十三日

「仁和波」にてめをさましたときが十時、深瀬老はすでに講義にでかけてゐた。十二時に歸り、また飲みはじめ、「能鷹」「天久」等にて夜に入るまで飮んで歸る。この一日は、忘失の一日。

マルセルは十一日に修學院へいつたが、これは世界で最も美しい庭園だと大變なよろこびであつた由。京都のうちの都會的なところは大嫌ひ、自然が實にすきのやうだ。

家から冬物をつめた大きな荷物がとどいてゐた。昨夜歸つて、この荷物をみて旅愁の感あり。

十一月十四日

快晴、朝十時、日佛會館にマルセルをたづね、小島、有島の兩氏とともにマルセルを洛西に案内する。龍安寺の池のある庭は非常に氣に入つたらしいが、石庭は感じなかつたやうだ。いろいろと骨折つて、禪とか水墨とかの連想で話して見たが、何故石があるのか、石の美はどこにあるのか、といふやうなことで、禪の否定、無は觀念としては解つたが、實感としてはわからないやうであつた。歸りにあの池のほとりをゆつくり歩いてゐるとき、口ひげあたりが妙にぴくぴくうごくとみてゐるうちに、すぐに彼のドラマが、有島さんに語りかけられた。アルベールといふ前夫を失つて、いまはモリスにとついでゐる女(名前は忘れた)が、いま夫の名をときどき間違へてアルベールとよんでしまふ。夫がふんがいすると、絶對のなかではアルベールもモリスも同じだといふやうな女のアポロギアがでてくる。なかなか皮肉な爺さんで、さういふドラマを考へるときが一番たのしさうな顏をしてゐる。廣隆寺の彌勒にはやはり感心したらしい。四條の萬養軒へ歸つて晝食、そこから桂へゆく途中、大覺寺へ立寄り、山樂の牡丹だけをみせたが、これにも感心しない。然しこれは解つた上で感心しないといふわけで、昨日みた智積院の方がよい、といつてゐた。そこから小生だけ別れて歸宿、東京から來てゐる奥村夫妻が宿にすでに待つてゐた。夫妻をともなつて大和小路「ちとせ」にて會食。

十一月十五日

四時から日佛會館でマルセルをかこんでの座談會。三宅、西谷、高坂、高田その他の四、五人がでる。私は何もきかなかつたが、話をきいてゐて感じたことは、マルセルが、音樂や美術に深い共感と理解を示してゐること、それが彼の哲學を美しいものにしてゐるが、その反面、現代のニヒリズム、またキリスト教團の無力に對しては、激しく對決してゐないといふことである。何処か美的であつて、悲劇的ではない。例へばニイチェの神の死といふやうな、悲劇的な考へがない。

夜七時頃から瓢亭で宴會、來會十四名、日佛會館の館長もみえてゐたが、このひとは傲岸で、ゐばつてゐる感じ。西谷さんが、マルセルからいたくほめられ、シェリングの後裔が、この東に花咲いてゐる云々といふやうな讃辭をうけた。西谷氏には、ひどく感じたらしい。小島がかういふ席では妙にそぐはないことを口にする。宴後深瀬さんと四條へ出て飮んで歸る。

十一月十六日

マルセル、朝八時半、奈良へ出發するのを見送る。

云々。
平成十七年九月二十八日
日経ビズテックとランティエを買つた。
平成十七年九月二十八日
国民講座『討論・現代日本人の思想』より「西欧と日本」
平成十七年九月二十八日
R.O.D -The TV- 第三話「神保町で逢いましょう」 @ AT-X。奥野書店……。

平成十七年九月二十七日
めも。
SenderBase
平成十七年九月二十七日
反復(2005年09月):中庸
kahusiの日記擬き:2005年9月16日(金曜日)
加納氏と甲子氏その他。「中庸」とか「中道」とか。アリストテレスのは元々希臘語の飜譯。英語でgolden meanだが、これは「中庸」とも「中道」とも譯せる(gooの辭書に據る)。ぐぐつただけで書いてゐるので適當。
平成十七年九月二十七日
RobaQ's Memo 2005-08
RobaQ's Memo 2005-09
反復(2005年09月):文章における平衡
Hatena::agenda(2005-09-22)
反復(2005年09月):jintrick さんへの返信
Hatena::agenda(2005-09-26)
反復(2005年09月):jintrick さんへの返信2
G_ONE氏、ろばQ氏、加納氏、そふぃあ氏(ジントリックさん)。
「修身齊家」と「治國平天下」とは違ふ――即ち道徳と政治とは違ふ――と云ふ事が解つてゐないと、或は、それらを區別すべきであると考へてゐないと、話がぐだぐだになる。そこで更に「責任」「責任」等と言ふと、最う話は支離滅裂になる。「何の責任」――「道徳的な責任」と「政治的な責任」とは別の話として認識しなければならないし論じなければならない。「責任」と云ふ曖昧な用語を使つた所爲で、「道徳」と「政治」とが恰も「連續性のある概念である」かのやうに見えてしまつて、話が異常にややこしくなる。「責任」と云ふ用語は不用意に使はない方が良い。
ろばQ氏がつつついたG_ONE氏は、この邊の觀念がごつちやになつてゐる。ろばQ氏は、それに引きずられてしまつて、話がぐだぐだに。加納氏が其處を衝いてゐるのだが、「政治的」とか「文學的」とか、鉤括弧に入れられた言葉を使つて話し始めて、何だか良く解らない状況に。
平成十七年九月二十七日
詳細なデータに基づくプロ野球の仮想実験のページ by G_ONE

防衛の為の軍事力を自前で持ちたいと思ってるんですが、太平洋戦争の失敗を分析出来てなきゃ持つべきじゃないと思うんです。失敗と言ってもいろいろあると思いますが、ここで言ってるのは戦略的な部分は置いといて、明治維新後急速に植えつけられた皇国史観です。(以下略)

何で「置いておく」かな。何で精神論に話を持つて行くかな。G_ONE氏は、精神論を批判してゐるやうで、全ての原因として精神論にのみ注目し、事實の問題を閑却する事で、却つて精神論の立場に陷つてしまつてゐる。「或特定の精神論」に對して「或特定の精神論を批判する精神」をぶつけても、何の意味もない、と云ふ事に氣附いてゐない。歴史を論ずるには、事實と精神の兩方を過不足なく適切に取扱はなければならない。皇國史觀は、日本の歴史全體の中で考へなければならないのであり、單純に「結果」と結び附けて價値判斷するのは安直極まりない。
G_ONE氏の致命的な缺點は(G_ONE氏のみならず、例の青梗菜もさうだし、ウェブでも現實世界でも多くの人が同じ誤に陷つてゐるのだが)、結論とすべき價値判斷を、議論を始める時點で「當り前の事」として大前提に持込んでしまつてゐる事。明治維新後急速に植えつけられた皇国史観です、と、G_ONE氏は、恰もアプリオリの事實であるかのやうに言つてゐるのだけれども、こんなのは無批判に採用して良い事實ではなく、當然、議論の大前提として良いものではない。
G_ONE氏は、「皇國史觀が惡いのは餘りにも當り前の事で、反論は許されない。そして、その『當り前の事』を大前提に歴史の事實を評價するのが良い歴史の評價の仕方である」と信じ込んでゐる。「最初に價値判斷Xに基いて事實なり何なりに一つの價値を與へ、それを大前提に議論して、結論として價値判斷Xを下す」――「根據がX」で「結論がX」と云ふのは、まともな議論ではありません。
或イデオロギーが「信じろ」と命ずるところの或種の價値判斷を、事實と混同する事が、G_ONE氏のみならず、ウェブでも現實世界でも「ある」のですが、さうした混同を混同と認識出來ないからこそ、「責任」とか「義務」とかが「歴史の話」にすぐ出て來るのではないですか。
昔、Yahoo!掲示板で「南京大虐殺」の論爭があつて、「あつた派」が、「これは單なる歴史の事實の確認である」と主張しながら「南京大虐殺を行つた責任者」の「責任追求」をやらうとし、そもそもの歴史的事實に關して疑念を呈した「なかつた派」の人格を否定し、「南京大虐殺はなかつた」と云ふ主張を封殺しにかかつた事がある。議論の仕方がをかしい=結論ありきで議論しようとする人間に限つて、論者の「責任」だの「人格」だのを問題にする。さう云ふ人間も「國を良くしたい」とか言つたりするのだけれども、「國を良くする」と云ふ名目を持出して、「自分の望む通りの國」を實現したいと考へてゐるのではないですか。やつぱり、價値判斷――「××は惡い」「××は責任をとるべきだ」――を大前提にした議論をするのは良くないですよ。ところが、この手の人のする「議論」、突込みどころが滿載なのだけれども、さう云ふ人種に限つて、突込まれると變な方向に話を持つて行つて論點をぼかすのが上手だつたりする。擧句、突込んだ人に別の人がさらに變な突込みを入れて行つて、話が目茶苦茶になつて、最初の人の「責任」が完全に何處かに行つてしまふ。要は、結論ありきの議論では、議論の仕方で議論になつて、何が論點だつたのかがさつぱり判らん事になり勝ちだと云ふ事。いづれにしても最初の人は自分の好きな事を言ひつ放しに出來る訣で、馬鹿を見るのは批判者の――の筈なのだが、批判する方も「どうせ自分の言ひたい事を言ひたい放題に言ふだけだ」と云ふ積りだつたりするのであつて、それでは傍觀者が當惑する結果になるだけで議論は何も生み出さない。イデオロギーに基いた「××を罵倒しませう」式の「歴史の議論」は、本當に困つたものだと思ふのだが、さう云ふ「議論の仕方」の時點で「解つてゐない」人が溢れてゐるのが世間でありウェブであると。云々。
平成十七年九月二十七日
と言ふか、ウェブでは「議論の仕方」の議論が多過ぎる。政治とか歴史とかの議論は、屡々「議論の仕方の議論」にすりかはつてゐる。
平成十七年九月二十七日
議論の大前提として採用すべき「價値判斷」は「確率論的に正しい可能性が高いと言へる事以外は餘り信頼しないやうにする」と云つた程度の事くらゐだらう。「トンデモ學説」の見分け方くらゐは一往承認しておいた方が良い。けれども、案外その邊の事が「解つてゐない」人は多いやうだ。「全てはいろはもどきで解決する」「明治天皇が暗殺されてゐたと考へると説明のつく事が幾つかあるからそれは事實、反論した奴は掲示板荒し」のやうな主張は論外だけれども、「南京大虐殺は『あつた』のだ」と云ふ主張も現状では「トンデモ」である事が「解らない」人は極めて多い。今の處、「南京大虐殺」は「あつた可能性がある」としか言へない、即ち「可能性」の話しか出來ない。それなのに、さも當り前のやうな顔をして「南京大虐殺」を「歴史事實」であるかのやうに語る人が案外多い。「邪馬臺國は大和にあつたのですよ」と斷定的に語るのも「トンデモ」。九州説が「正しい」可能性は「高い」と俺は思つてゐるけれども、斷定したらそれも誤。
しかし、さうした可能性の論にしかならない事實の認識の話は、斷定的に價値判斷に結び附けられる場合がある。「疑はしきは罰せず」と云ふ規則は、價値判斷の議論では、全ての論者が承認してゐなければならない。もつとも、「疑はしきは罰せよ」式の發想は「ファシズム的である」と看做せるので、「ファシズムに反對」の立場の人間は「疑はしきは罰せず」の立場を必然的に受容れざるを得ない、と言へる訣で、さうなると、「承認」も糞もなく、單に論者の立場が論者の主張を論理的に限定するだけである。さて「南京大虐殺」の場合、「あつた派」が「論點」としてゐるのが「責任問題」である。この「責任問題」の議論は、價値判斷の議論である訣だが、事實の認識の議論から必然的な結論を引出せる。「可能性の話として『あつたかも知れない』と言ふ事は出來る」と云ふ事實の認識の話は裏返しに「なかつたかも知れない」と云ふ認識でもある。「疑はしきは罰せず」と云ふルールに基き、「南京大虐殺は疑はしい」のだから、よつて「現状では南京大虐殺の責任を誰かに問ふ事は出來ない」と云ふ結論を必然的な結論として引出す事が妥當である、と云ふ事になる。
平成十七年九月二十七日
かう云ふ諄い文章つて、讀まれるものなのですか。俺は讀む氣にならんのだけれども。昔も今も、讀者が俺に需める文章が何んなものなのか、全然判らない。
平成十七年九月二十七日
書泉グランデで那珂通世『支那通史 下册』を買つた。前に九月末日までの買物券百圓分を當てたので使はなければならないのだけれども、他に買ひたい本がなかつた。上册は無料、中册は百圓で、例によつて田村書店で拾つたのだけれども、下册だけなかつたので仕方なく。

平成十七年九月二十六日
別に欲しくなかったけれどもネタとして購入 @ 田村書店。二百圓。
市川三喜『言葉・言葉・言葉』(中央公論社・國民學術選書)
平成十七年九月二十六日
アイ・オー・データのGV-MVP/SXを買つて來てMonsterTV V-Fと畫質を比較してみたり。同じやうに搖れたりちらちらしたりするところを見ると、共同アンテナから來る電波は本當に腐つてゐる模樣。
メインで使つて來たGV-M2TV/USB2は、補正機能が結構優秀であつたので、非道い電波でも何とかなつてゐたらしい。何の補正機能もないMonsterTV V-Fは御藏入り。とある特定の用途向けには極めて優秀な機械なので何とか再利用したいところなのだが、この秋からもまた深夜アニメが非道いかぶり方をしさうなので録畫機能優先でキャプチャボードも撰擇。
土曜日に立てたU/Vアンテナからの入力は、ゴーストが非道かつたけれども、GV-MVP/SXでは補正されてそこそこ見られる畫質になる。特定のチャンネルは「使へさう」なので、木曜深夜邊の番組を録畫する際のソースに利用する積り。何で三本も四本も深夜アニメがかち合ふんだらう。日本は病んでゐる。見る方が病んでゐるのかも知らんが。云々。
ちなみに、録畫の際、GV-MVP/SXは、「スピード」重視のデフォルト状態だとMPEG2の品質がぼろぼろになるので、設定を「品質」重視に變へなければならない。「品質」重視で處理させるやうにすると、可成録畫データの畫質が良くなる。

平成十七年九月二十五日
おくさまは女子高生最終囘。tvk→MX。放送がスタートした頃の駄目駄目な感じが後半どんどん愛ほしくなつて行くと云ふ稀有な作品だつた。こんなに終つてしまふのが寂しく感じられる駄目あにめも珍しい。と言ふか、個人的には今期のあにめ裏ベスト。と言ふか、一部の人にしか受けてゐない。

平成十七年九月二十四日
アンテナを買つて來た。MonsterTV V-F畫質改善の爲、電波から改善してやらうと。安物買ひの錢失ひを地で行つてゐるやうな氣がする。
うち邊、地上波アナログは、「J-COMの再送信」か「地域の共同アンテナの再送信」を利用してゐて、PC周りは共同アンテナの電波を使つてゐるのだけれども、これが今一つなので久しぶりに「自前」のアンテナで見てみようかと思つた訣。MXが、共同アンテナでも、J-COMでも、餘りに非道い。
詳細は省くがなかなか苦勞してヴェランダに安物U/Vアンテナを取附けた。明日颱風が直撃したら多分落ちるので、來ないでいただきたいものだ。閑話休題。流石に共同アンテナを押附けられてゐる地域だけあつて、「生」の電波はやつぱり非常にアレだつた。ブースターを通せばそれなりに見られるチャンネルが幾つかあつて、そのチャンネルでは共同アンテナの電波よりも「見られる」。ノイズだらけのNHKも、多摩中繼局のUHF再送信の電波でならばそれなりに見られる。日本テレビが餘り畫質が良くないが、録畫したい深夜アニメをやつてゐないので問題ない。一方、tvkはゴーストで全然駄目。と言ふか、鶴見は遠いらしい。MXも今一つで、芝の電波も、多摩の再送信も微妙に弱い。仕方がないので當座、tvkを視聽する際には共同アンテナに繋ぎ、MXやVHF各局を視聽する時は「自前」のアンテナを利用する、と云ふ方法で乘切らうと思つてゐるが、十月の番組改變でローゼンと舞-乙HiMEとまじかるカナンがかぶるらしいので何うしたものかと。
ブースターを――そもそもアンテナを、もつと「良い」ものに變へれば、増しな電波――延いては増しな映像が得られる筈である事は、ちよつと考へれば直ぐに解る。來週、新宿か秋葉原のヨドバシを見に行つて、取敢ず新しいブースターを買つて來ようと檢討中。今使つてゐるブースター、VTR-301SEと云ふ奴だが、二十年くらゐ前の奴なので、使ひ勝手がよろしくない。性能は不明。ぐぐっても何も情報ナシ。アイロンは半世紀前のものより今のものの方が「良い」のだから、ブースターだつて今の技術で作られてゐる物の方がずつと良いだらう。
と言ふか、電波關係の事を良く知つてゐて、ヴォランティア精神旺盛の方の支援を希望。キャプチャカードも、知つてゐる人が側に附いてゐれば、もつと「良い」物を買へてゐたかも知れない訣で、物知りの知人はゐた方が絶對に良い。最近、技術の進化についていけないんだ俺。
平成十七年九月二十四日
MonsterTV V-Fを買つて來たのと同じ頃からなぜかMicrosoftのなすび型マウスが現役に復歸してゐたりする。まさかマウスが足らなくなる事態に陷るとは思はなかつた。

平成十七年九月二十三日
MXTVプレイボールに地震テロ。畜生だれがこんなことを。
頼むからtvkではL字にならんで呉れ。颱風來るな。
平成十七年九月二十三日
例のcite問題。
何か良く解らないけれども。
こんな變な對立構造が誰かさんの頭の中には出來てしまつてゐるらしい。

平成十七年九月二十二日
極上生徒会25話。極上展開。ちやんと全篇の伏線を囘收してゐる。絢爛生徒会とかチャダ山さんとか。實質今囘が最終囘かな來週何うするんだらう黒田。と言ふか便利だな神宮寺の力。
平成十七年九月二十二日
せつかく極上で極上の氣分だつたのに、陳言斎の揚げ足取りの所爲ですつかり氣分を害した。
奇魂掲示板
かう云ふ馬鹿は何うしたら良いと思ふ?

平成十七年九月二十一日
「ブログ」で「トラックバックURL」がアンカーになつてゐる事が屡々「ある」けれども、如何なものか。
不用意にさう云ふ「もの」を用意すると、「ブロガー」ではない只の閲覽者が、何も知らないでクリックして、「エラーです」みたいなメッセージを見せられて、「何これ?」と不思議に思つたり、「俺何か惡い事しちやつた?」と不安になつたり、と、そんな事態が「あり得る」。餘りにも「ブロガー寄り」の「ブログ」の「GUI」は、何も知らない非「ブロガー」の方々に、ちよつと不親切な事がある。
平成十七年九月二十一日
先日來、「電源投入→五秒くらゐで勝手に電源が落ちる→タイミングを見計らつて電源再投入」とやらないとPCが起動しないやうになつてゐたのだが、今日は何度やつても電源が落ちて起動しない状況に陷つたので、そのうち取附けようと思つてゐながら諸事情に據りほつたらかしにしてゐたオウルテックの静音電源に交換したら、案の定、一發で起動した。前の電源、逝つてゐたか電源容量不足になつてゐたかしたらしい。山ナシ落ちナシ意味ナシ。

平成十七年九月二十日
こころのしずく 呆れて物が言えません
テメェらの眼は飾りかコラァ!!
眼なんて飾りです。偉い人にはそれがわからんのです。
私は呆れないし物もいう
mustanのウェブ日記 - 毒舌は是非読みたい
平成十七年九月二十日
唐木順三を久しぶりに讀んでゐるよ。『古いことと新しいこと』(筑摩書房)。唐木氏は俺が大好きな文章家だけれども、うちのサイトの閲覽者に案外讀者がゐない。唐木氏のコンテンツを作つた俺も、唐木氏の著作を全然褒めてゐないからなーさもありなん。唐木氏の文體は好ましい。
當時全集未收録――と言ふより未發表だつた「文學・歴史・宗教」は、武田泰淳が書いた三島由紀夫に關する文章を讀んだ唐木氏の感想とか印象とか。雜誌『海』新年號所載の武田泰淳さんの「三島由紀夫のこと」を讀んだ。云々。人生とか歴史とかについて語つた一般論は讀めるけれども、それが三島個人と何う關係があるの? と問へば、ただ、三島は(と言ふより、三島について語つた泰淳の文章は)唐木氏の聯想を引出す材料にしかなつてゐない。唐木氏は、寺田透に「『人』ではなく『文獻に表れた人』を對象に論じてゐるのが弱點だ」(野嵜なりの要約)と批判されてゐるが、この短い文章でもその弱點が表はれてゐるやうに思ふ。松原正氏の三島論を通過して來た人間には、唐木氏が三島本人を正しく捉へてゐるとは見えない。と言ふか唐木さん、三島がそんなに好きではなかつたらしい印象がある。
平成十七年九月二十日
フリーダム展。三日目でがらがら。黒つぽい本が多くてとても雰圍氣が良い古書展だつた。以下は買つたもののメモ。監修鈴木大拙・編集西谷啓治『講座 禅』第四卷 禅の歴史――日本――(筑摩書房)。坪内雄藏『劇と文學』(冨山房)。竹山道雄『みじかい命』(新潮社)。林健太郎『歴史の精神』実業之日本社。ジョン・ラスキン『二ツ乃道』(玄黄社)。安本美典『日本神話が解き明かす77の謎 封印された邪馬台国』(PHP)。教養文庫三册。

平成十七年九月十九日
「ブログ」つて、只の閲覽者にとつて役立つ機能が少くて、ほかの「ブログ」製作者が言及する爲の機能ばつかり目立つから、嫌なんだよね。「URLがコピーし辛い」なんて、「ブログ」制作者にとつては大問題かも知れないけれども、只の閲覽者には何うでも良い話ぢやない? 見出しがアンカーになつてゐる「ブログ」つていつぱいあるけれども、それを突ついたら何うなるものなの? 「ブログ」に據つて、本文で話題にしてゐる「餘所のサイト」に飛ばされるものもあれば、その本文を再表示するものもある。最う出たら目、あつちの「ブログ」のルールがこつちの「ブログ」では通用しない。ローカルルール亂立し過ぎ。何か見た目だけ皆似てゐるものだから、閲覽する側にとつてはややこしい事この上ない。
見出しをアンカーにしてゐるサイトでありがちなのが、「他所の『ブログ』の人がURLをコピーし易いやうに設けてあるアンカー」。「ブログ」の主宰者本人は「便利だ!」と思つて、他所の「ブログ」や「ウェブ日記」の中の人にも「設置しろ!」と言つて押附けようとさへするもの。しかし、「ブログ」をやつてゐない人間にとつて、そんなアンカーは情報としてノイズでしかない。「それ自身へのアンカー」=「クリックしても何も起きない、何處へもジャンプしないアンカー」=「只の閲覽者にとつては役に立たない・要らないアンカー」=「良く解つてゐない閲覽者にとつては混乱を惹起こす羂以外の何物でもないアンカー」。「ブログ」の世界の中の事しか考へない人は、只の閲覽者に對する配慮を屡々忘れる。
平成十七年九月十九日
blockquote要素のcite屬性にのみURLが記述されてゐる時、「ブログ」の中の人は、時として「言及し辛い」=「惡い」=「許し難い」と云ふ「聯想」を行ふ。そして、「『ブログ』制作者が利用し辛い」=「一般的に利用し辛い」=「ユーザビリティが惡い」「アクセシビリティが惡い」と考へる。「只の閲覽者」が置いてけ堀になつてゐる。
「只の閲覽者」でも、話を追ひたいだらうから、出典のURLをアンカーとして設置すべきだ、と、主張する事は「あり」だと思ふ。けれども、それは所詮、「ユーザビリティ」とか「アクセシビリティ」とかの話に過ぎない。「より使ひ易くする」と云ふだけの話だ。これは、法的な話とは何の關係もない。「使ひ辛いから違法」とか、そんな馬鹿な事は常識のある人間には言へたものではない。
紙の文獻でも、出典は何らかの方法で示されてゐれば良いのであり、本文とは別に、後ろの方に纏めて注の形で書かれてゐても構はない。文章を讀みながら出典が何かを知るには本の後の方だか何處だかを見なければならない、と云ふ事態はあり得る。けれども、だからと言つてそれは「著作權法違反の不正な引用だ」等と言ふ事は出來ない。何處であれ、出典が示されてゐれば良いのだから。
blockquote要素のcite屬性にのみ出典のURLが書かれてゐる――その問題は、ただ「使ひ辛い」だけでしかない。公開の場にはつきり出典が明示されてゐる以上、法的に違法とされる訣がない事は、火を見るより明かだ。少くとも、引用者に出典を匿す意圖が「ある」と判定出來ない以上(ソースは誰でも見る事が出來るし、「出典はソースを見れば判るから、知りたい人にはソースを見て貰ひたい」と云ふのが引用者の明白な意圖であるから)、「引用の出典をblockquote要素のcite屬性にのみ記述する」事を「故意の犯罪である」と斷定すべき決定的な理由は「存在しない」と言つて良い。
平成十七年九月十九日
CD/DVDドライヴ。トレーの開閉ボタンが多くの場合、トレーの下に附いてゐるけれども、トレーが開いてゐる時、押し辛い。短氣な俺はトレーを閉める時、何時もトレーの頭にがつんと一撃。
PCやそのパーツを作つてゐるのは理系の頭の良い方々だから、文系の俺には容易に知る事の出來ない何か合理的な理由でさうやつてゐるのだらう。よろしければどなたか、文系の俺にも理解出來るやうな説明をして頂けませんでせうか。
平成十七年九月十九日
「見出し全部を自分自身へのアンカーにする」事に抵抗感を覺える「ブログ」主宰者が屡々やるのが、「_」とか「■」とかを「自分自身へのアンカー」にする事だ。「これで只の閲覽者には迷惑がかからないだらう」と云ふ訣だ。けれども、そこに「_」なり「■」なりで「アンカー」が「ある」以上、只の閲覽者がそれを「間違つて突つく」可能性はゼロではない。「ゼロではない」――それが問題だ。「誤つてクリックした」閲覽者は、矢張り混亂する事だらう。「何も起きない筈なのに、俺、何かしちやつた???」。
矢張り「自分自身を指示する見出し(近邊)のアンカー」は、「只の閲覽者」=「ブログを主宰してゐないし、ブログ邊のローカルルールを一々知らうとし度くもないライトなユーザ」にとつて「ないに越した事はない」ものだと思ふ。
平成十七年九月十九日
私見では、キャディの時代からの「傳統」を引きずつてゐるのではないかと。キャディなら、がちやんと押込めば良いから、「イジェクトボタンを押してロード」なんて變な事はする必要がない。よつて「キャディの插入口の下」にイジェクトボタンがあるのは正しい。
平成十七年九月十九日
めも。
西垣研究所 南浦和支部 - テレビ・受信の情報・知識をお届け
平成十七年九月十九日
月下美人が咲いた。

平成十七年九月十八日
ふたば実況のふたご姫スレに、本文正字正假名で「駄目駄目ファイル」うpを報告してゐる人がゐる。俺ではない。
平成十七年九月十八日
TMPGEnc DVD Author 2、なんでDVDヴィデオのメニューを「メニュー作成ウィザードを實行」しなければ作れないやうに仕樣を改惡したのだらう。
GUIアプリケーションの「ウィザード機能」は「ない」方が良い。アプリケーションのGUIが出來が惡くてユーザにとつて理解し辛いものである時、多くの人がやるであらう操作を手助けするとの名目で、プログラマやアプリケーションのGUIのデザイナが「本來のやり方」とは別に用意する、本來の操作性が惡いのを胡麻かす爲に用意する機能が「ウィザード機能」だ。アプリケーションのGUIが操作し易いやうに設計されてゐるのなら、「ウィザード機能」は要らない。
この「ウィザード」しかメニューが「ない」プログラムが最近、世間に蔓つてゐるけれども、プログラムを作つてゐる人々は何を考へてゐるのだらうか。
あと、御仕着せメニューの「ダブルトラック」が、トップメニューで一つしかトラックを表示しないやうになつてゐるのだけれども、何なのだらう。ダブルトラックぢやないぢやん。「1」では何ともなかつたから「2」のはバグ?
何か色々駄目な「2」には文句を言ひたくなる。良くなつたのは「トランスコード機能が附いて、たまに便利な事がある」「音聲をAC3でエンコードして呉れる」「CMカットとチャプタ作成の畫面でプレヴューが高速化された」と云つた事くらゐ。あとは全ての面で「1」よりも退化してゐる。惡くなつたのは「GUIが獨自化された重くなつた」「前から今一つだつたプログラムのメニュー構成が改惡されて『ウィザード』頼みになつた」「元のMPEGファイルを削除すると保存しておいたプロジェクトが開けなくなり、前にどんなDVDメニューにしたのか確認したくても出來ない」エトセトラエトセトラ。
DVD AuthorではないTMPGEncも、ヴァージョンアップされる度に駄目になつて行くので、俺は今でも2.5を使つてゐる(但し製品版「TMPGEnc Plus」)。MPEG2作成に關する機能は、2.5のが一番充實してゐる。あとのはコンシューマ向けに「解り難い機能が削除されてゐる」。代りにWMV作成機能が追加されてゐたりするけれども、Microsoftの純正のツールもある訣で、TMPGEncで「なければならない」必然的な理由は存在しない。
平成十七年九月十八日
TVアニメの公式サイト、デザインに凝つてゐるのは何なのだらう。迷惑極まる。Flashのメニューも迷惑だが、コンテンツの作りで何でも一々畫像にしてしまつてゐるのも迷惑。態とデータを「再利用し難い」やうにしてゐるのだとしか解釋しやうがない。
過去のストーリー紹介でわざわざサブタイトルを畫像にして呉れてゐるサイトが幾つもある。これではサブタイトルをコピー出來ない。Flashで全部コンテンツを作つてゐる馬鹿サイトもたまにあるが、やつぱりテキストをコピー出來ないのは同じ。テーブルレイアウトだの何だのでテキストをコピーすると餘計なタブ文字が紛れ込むサイトも矢鱈と多い。見た目が綺麗ならそれで良いと思つてゐるのだらうか。ウェブサイトは、存在すらも知らない人間にアピールして認知させる「看板のやうなもの」ではなく、一往存在は知つてゐて、詳細な情報を求めてゐる人間にデータを提供する爲のものだから、デザインに凝るのは間違つてゐる。
ちなみに、なぜサブタイトルをコピーし度いのかと言ふと、録畫したデータをDVDに燒く時、メニューに入れる爲だ。手入力なんて馬鹿げた事は、餘りやり度くない。手入力では誤入力があり得る。しかし、コピー&ペーストならば、元のデータが正しい限り、複製も正しいものとなる。

平成十七年九月十七日
引用論争 - Weblog
アクセスアップなると踏んで「引用論争」をするのであれば、何か根本的に間違っているような気がします。 理念理想を求めない「話し合い論争」なら、長々と続ける必要はない。
同感。
――と、長々と引用した擧句、一言で話を終らせようと思つたのだけれども、言ひたい事が出て來てしまつたのでネタ崩潰。理念理想を求めない「話し合い論争」なら、長々と続ける必要はない。と書いた後に、三宅氏の議論が何故か利害得失と云ふ理念・理想と全然關係のない現實的な觀點に基いて進められて行く。これは如何なものか。
平成十七年九月十七日
スラッシュドット ジャパン ユーザ「yasuoka (21275) のユーザ情報」→yasuoka の日記 (21275)
yasuoka の日記 (21275)2005 年 09 月 13 日 PM 04:20 - 人名用漢字別表の告示
yasuoka の日記 (21275)2005 年 09 月 11 日 PM 10:14 - JIS Z 8903-1969 機械彫刻用標準書体(当用漢字)
平成十七年九月十七日
alp の日記 (1425)2005 年 08 月 17 日 01:01 PM 論外:学ばない人は死んでも学ばないものです:論外:学ばない人は死んでも学ばないものですコメント一覽:論外:学ばない人は死んでも学ばないものです「JIS委員の南堂久史」→ITmediaニュース:「Vista」新フォントは「国語政策的にも正しい」
平成十七年九月十七日
引用文の出典をリンクで明示しなければならないと考へる人がゐるけれども、では、その時のアンカーがスタイルシートで下線が消されてゐたりしてアンカーだと判り難くなつてゐたら、それはやつぱり「著作權侵害」に「なる」のだらうか。
平成十七年九月十七日
blockquote要素のcite屬性にだけ出典のURLを記載したのでは「明示」に「ならない」とする人がゐるけれども、ではblockquote要素のtitle屬性に出典のサイトを記載してゐたら何うなのだらう。Internet Explorerのポップアップに「出る」のだから「明示」した事にならないか。「ならない」としたら、スタイルシートで下線を消したアンカーも「明示ではない」みたいな風に「言へてしまふ」のではないか。
平成十七年九月十七日
リンクを、下線附きでテキストのアンカーではなく、畫像による「ボタン」風のアンカーにしたら、それは「明示」と「なる」のか。畫像によるメニューやら何やらを見ても「アンカー」だと氣附かない御老體も世間には結構多いのだとか。
平成十七年九月十七日
「引用の出典を明示する方法」の問題を檢討する際に、ユーザビリティだのアクセシビリティだの話を下手に絡めてしまふのは、話がをかしくなり兼ねない。避けるべきだ。
要は、見た目に拘つては行けないと云ふ事。見た目なんて飾りです。偉い人にはそれがわからんのです。
平成十七年九月十七日
と言ふか、何年ぶりですか、この界隈【何處】でかう云ふ祭【何】になつたのは【謎】。
平成十七年九月十七日
全然関係無い話なのですが、自称「とっぷぺーじ」よりもこの日記の方がPVが高いのは自分でもどうかと思う。流れ的には当たり前なんだろうけど。
うちなんか最う何年も前から言葉 言葉 言葉の十倍くらゐ闇黒日記の方が讀まれてゐるよ。と言ふか、サイトの他のコンテンツを一つも讀まないで日記だけ讀んで呉れてゐる人もゐるみたい。みんなひどいよ。
平成十七年九月十七日
なんか寒くね?

平成十七年九月十六日
はてなダイアリー - サーバー様とは
うちは「無斷リンク禁止」を禁止してゐるので云々。
takoponsの意味 - サーバー様はこれを見て、良しとされた。
HTMLの仕様通り、cite属性に URIを記述することによって W3Cの中の人が満足されるであろうことは容易に想像がつくと思います。
中の人などゐない。云々。
もうだめかもしれんね。
平成十七年九月十六日
http://lan.rgr.jp/diary/2005/09.html#Sixteen-Two
平成十七年九月十六日
引用の話題は野嵜さんにお任せ
(´д`;)
別に轉載して良いけれども、「轉載業者」にやられると云々。
平成十七年九月十六日
そもそも cite 属性を理解しない UA が悪い [2002年12月16日の湾岸日記 その1]
引用元を cite 属性で済ませるアレ [2005年9月16日の湾岸日記 その2]
平成十七年九月十六日
「いわゆる」を「所謂」に直すべき必然的な理由は「ない」だらうと思ふ。「いわゆる→所謂」改變問題はAkky氏の「勝ち」だと思ふので、長々とAkky氏批判を書いてみたけれども、削除。しかし真名垣氏には「しれつと修正して、一言謝る」と云ふ手がある。別に拘る必要もないところには拘らなくても良いと思ふ。たかが「いわゆる」だし。何か氣分が良くないならば「ちやんとした表記に改めるのは改めるに價する文章だけで十分だ」とか思つておけば云々(はつきり書く必要ナシ)。真名垣氏が「いわゆる」に修正したら、Akky氏は最うその點について文句を言はないだらうし、言へないだらう。そこでぐだぐだ餘計な事を言つたら、今度はAkky氏の方が法律上、不利になつてしまふ。Akky氏は、馬鹿でないから、自ら進んで不利な立場にならうとすまい。それでこつちの話は御終ひになる。真名垣氏は、しかし、だからと言つて、論爭に全體として負けた事にはならない。寧ろ、瑣末な問題が解消されて、本來の議論のテーマに話を戻せるから、茲で讓るのは戰術的に「あり」だ。
參考:takoponsの意味 - 引用のやり方と著作権。新潮文庫邊なら、これと逆の改變を、事前に著作權者の同意を得てやつてゐるが、あれは色々と「逆」だつたりするので認められてゐるもの(謎)。
無断リンク禁止とか-日々是自己主張の「無斷リンク禁止」問題についてのAkky氏の意見、俺も大體同意出來る。引用しないでリンクを張つただけなら「同意」の一言でも問題はないだらう。世間の多くの「ブログ」で「同意」の一言しかコメントの附いてゐない引用は「ざら」だが、事例の多寡はAkky氏に限つては判斷の根據とならない。
で、「いわゆる→所謂」改變を非難する間にAkky氏、「blockquote要素のcite屬性で出典を示すやり方」について「判斷を保留する事にした」と述べてゐる(この鍵括弧の中の文章は、引用ではなく野嵜に據る要約。引用でないから特に漢字の字體を氣にする必要ナシ。さう言へば昔、某木村さんのした要約を引用と勘違ひして「引用で勝手に假名遣ひを改竄するな。違法だ」と言つて騒いだ惡性の人がゐましたね。あゝ、法螺の人でしたつけ。同一人物ですよね、まあ、その邊の事は突込んで議論しない方が良いかも知れませんね。Akkyさんもこめんと欄で投稿者のリモートホストについて觸れて、その邊の事は論じないとか言つてをられますね。閑話休題)。判例も何も無いのだから、嚴密に法律上の問題として話をしようと思つたら、今の處さうするしかないに決つてゐる。
なお、「明示方法」の可否については、先の記事でも触れましたとおり、当方にそれほどの知識がなく、また当方の調べる限りにおいて、そのような事例を扱った判例や学説がないことから、今回の問い合わせに際しましては、敢えてその事実を主張することを止め、今後の法律上の論議の推移を待ちたいと考えています。:分かりました-日々是自己主張
「blockquoteのcite屬性にしか出典が書かれてゐない」事については、「問題それ自體に議論の餘地はあるけれども、問題として訴へるのは今の處はちよつと無理つぽい」と、さう云ふ事だらう。Akky氏、一往茲では愼重にならざるを得ないが、氏の立場としては仕方がない。
この邊の問題、何でもごた混ぜにして論じられる傾向があるけれども、「引用時の表記の改變」と、「引用時の出典の明示」とは、問題が別だから、議論する人は注意して下さい。俺は傍觀。俺は慥か三年くらゐ前に結論を出してゐるので、今更繰返しません。繰返しても良いけれども、「引用の出典は、blockquote要素のcite屬性で記述出來るのだから、アンカーに拘る必要はありませんよ」と。
平成十七年九月十六日
本日の買物。古書展。室田源三郎『江戸川柳の謎解き』、ハルミ・ベフ『日本文化人類学的入門』(教養文庫)、G.スタイナー『ハイデガー』(岩波ライブラリー)、中村正直譯『――スマイルス自助論――西國立志編』、芳賀矢一『國民性十講』(冨山房百科文庫)、大類伸『日本の城』(アルス文化叢書・27)、寺田透『同時代の文學者』(講談社)。
平成十七年九月十六日
『同時代の文學者』に新聞の切拔きが挾まつてゐた。平野謙と寺田透とが同時期に作家論を出した(平野『現代の作家』、寺田『同時代の文學者』)のを採上げて奥野健男が感想を書いてゐる。曰、今日において作家論はもっとも高級な知的な娯しみを与えてくれる芸術と言ってよいだろう。平野氏は作家のモチーフの追求に重点を置く。氏の論は作家の思想より、人間そのものを感じさせる。これに反し寺田氏は、作家の人間を論ぜず、作品の思想を問題にする。云々。
ところで俺は、日本人批評家が日本人作家を論じた文章を大して面白いとは思はない。批評家は作家や作品を、「論ずる」と稱して、實は論じてゐない事が屡々である。奥野氏や平野氏の書いた文章、新潮文庫の解説で讀めるが、どれも詰らないものだ。大體、作家の傾向、作品の傾向が、具體的な小説そのものと違つて、「評論」では抽象的に述べられてゐるに過ぎない。寺田氏の小説論も、實は作家の個性を改めて述べてゐるに過ぎない。そして、どこそこの表現が面白い、キャラクタが面白い、作家の姿勢が興味深い、云々、と、感想が附けられるのだが、日本人批評家の批評では、飽くまでそれは感想に過ぎない。ただ單に、批評家個人の個性的な嗜好に基いた感想に過ぎないのだ。寺田氏は述べてゐる。

僕は一體文學者に何を求めてゐるのであらうか。

僕のうちの性急なわがままな讀者は、作家が自分の好みに合ふやうに變ることを、前後の思慮もなく要求する。彼がその要求を口にする聲が、作家論の筆をとるときなど、鈍いがもつとも強いひびきで聞えて來る。彼の要求には、根深い根據があるにちがひない。彼こそ、もつとも確實な遺傳的素質と時代や個人的環境の影響と生存本能の荷ひ手だからだ。といふことは、彼こそ、僕が何を考へ、何を感じ、また文學に對して何を望まうと、それに耐へ、また、それを都合によつては振り捨てて、頑強に生の道を進むものだといふことである。彼こそ、人類の生存の受けつぎ手であり、又、傳へ手なのだ。その意味で、彼こそ、あらゆる文學のよつて立つ地殼の提供者なのだ。

恐らくいはゆる一般讀者の聲といふものは、かやうなものの集團的表出であらう。

しかし僕は、この聲にのみ從ふわけには行かない。彼には、ものごとを劃一化し、習慣になづみ、同時に反射的に現實を否定しようとする無反省な衝動にかられる傾向があるからだ。それは、特異であるかいなかをみづから自覺することなしに專制的である。

云々。例によつて冒頭しか讀んでゐない状態で俺は冒頭の文章を引張つて來て論じてゐるのだけれども、まあ、大體のところ、寺田氏は、作家を「かう云ふ作家である」と定義し、作品を「かう云ふ作品である」と定義して、それはそれで「あり」であるとして納得し、そこに描かれてゐる現實もそれはそれで「あり」であるとして納得する。
批評家は、小説を讀んで、如何に納得したかを書く。作家の動機を考へて「さもありなん」と思ふ。描かれた作品世界が捉へてゐる世界のありやうを「さもありなん」と思ふ。で、そこで發する不滿と言へば、「もつと『さもありなん』と思ふやうな事をいろいろ書いて欲しい」といつた事だ。そして、その「さもありなん」は、讀み手としての批評家の嗜好に基いてゐる――その個性的な嗜好が、批評家の個性を支へてゐる。作家は個性的である――作家を「論ずる」批評家も、矢張りまた個性的である。奥野氏が作家論は文芸批評というより、それ自体完結した意味を持つ、独立した芸術のジャンルを形成していると言つた方がよく、特定の対象に向って自己の力を験す、力較べといった趣さえ感じさせる。と言つてしまふのも「さもありなん」。
しかし、その「自分なりの納得の仕方」を表現する事は、「論」であるのだらうか。一般性への志向を失つた「論」――これは、敢て言ふのだが、極めて「非科學的」なものではないか。或種の原理とそれに基づいた法則によつて對象を裁斷し、一般的な價値を決定する、それを科學と稱するのであれば、我々の「作家論」は、科學とは呼べないものだ。科學と藝術とは異ると云ふのが現代の常識ではある。けれども、本來、その二つのものは、一つではなかつたか。我々はギリシャ時代の自然科學が哲學の一部門であつた事を知つてゐる。勿論、哲學から自然科學は分離した。分離したからには理由がある。方法論が變つたのである。けれども、飽くまで方法論の差に過ぎないのであれば、依然、自然科學と哲學とは根本の部分で同じ物に屬してゐよう。それは學問である。さて、今、俺は、方法論によつて對象を裁斷する事を學問的價値判斷であると定義する。この時、我々の「作家論」は、學問的ならざるものと言つて良いのではないか。
思ふのだが、文學者が「より普遍的な價値」を信じなくなつたのは、近代以來の事ではなかつたか。ダンテもシェイクスピアも、近代的な文學者ではないが、決して個性の價値なんて物を信用してゐなかつた。個性の價値が認知され、同時に、普遍への囘歸が文藝から消滅したのは、スタイナーが『悲劇の死』と呼んだ現象である。これは、現代の英文學に於いては、例へばT.S.エリオット等によつて「Godの不在」の問題として反省された。一方で、エリオットの詩は、日本において、現代的で個性的な詩として受容された。しかし、エリオットの批評がより普遍的な價値判斷であるのと同樣に、その詩も案外傳統的な形式を守つてゐる。モチフが現代的になつただけだ。
日本に於ては、作家は個性的な人物である。批評家も、個性的な人物である作家を個性的なまゝに把握しなければならない。そして、批評家自身、把握した作家像を個性的に表現しなければならない。日本に於ては。だが、さう云ふ日本的な餘りに日本的な文學觀は、果して「學」としての文學を可能にするだらうか。
「テクスト」を讀む、と云ふ「方法論」は輸入された。が、これは普遍への囘歸であるだらうか。否。作品の單なる劃一化であり一般化であるに過ぎない。我々はただ、作品を「切り刻む」事だけは學び得た。切り刻んだ斷片が、如何に或種の構造に合致してゐるかを認識し、「さもありなん」と納得する事は、なし得た。が、これは結局、作家の動機から作品の性質を納得する事と、何ら變らない。ただ「それつぽい」感じがする、と、心理的に納得出來るだけの事だ。それは普遍への囘歸ではない。
或種の假説に基いて、原理、そして一定の法則が成立する。それを現實に照らして、檢證する。自然科學の學問である。けれども、同じやうな事は昔、ギリシャのアリストテレスが、御芝居を論じた「詩學」でやつてゐた事であつた。シェイクスピア批評で、ジョンソン博士やコウルリッジがやつたのも、個性的な批評ではなく、普遍的な批評であつた。それが古い批評である事は指摘されて良い。けれども、さう云ふ批評の方法の延長上にエリオットの批評もあつた。
エリオットとは毛色の違ふ人物・チェスタトンも、評論を書いてゐる。表現は奇拔だと言へる。だが、そこで表現された内容は何うだつただらうか。個別の對象を、チェスタトンもまた、全世界の中に位置附ける作業を行つてゐた。
D.H.ロレンスは、炭坑夫の父と良家の出の母との間に生れ、息詰るやうな鑛山の雰圍氣と清教徒的な雰圍氣との下で育ち、死んだやうな生の壓迫感が横溢した現代社會に抵抗した文學者だが、單純に生れと育ちとによつて説明しただけで濟ませられるやうな小説も評論も書かなかつた。默示録論に典型的に表れてゐる通り、ロレンスは個人的な生(性)と超個人的な普遍(自然)との合致を主張した反近代の思想の人物である。
かうした人々をイギリスやその他のヨーロッパ諸國は、慥かにそれぞれの御國柄の下で生んだ。けれども、御國柄と言つて説明を濟ませて良いものではない思想を、ヨーロッパ人の文學者はこの世に齎してゐる。それはきちんと論じられ、現代の世界に於て位置を獲得してゐる。位置附けと云ふ學問的な作業がなされて來たからだ。が、それは飽くまでヨーロッパでの話である。日本ではどうか。
相變らず、作家の思想は作家の個性として認められてゐるだけである。作家論において、作家の思想は、ただ、作品を説明する爲だけに使はれるものである。個性的な作家の思想は、作家一人の作品をのみ説明し得る。それが文明論となり、人間一般の性質をずばり指摘し、「さもありなん」の域から超越したのは、日本では漱石・鴎外の他、何人ゐたであらうか。作歌は矮小化するばかりである。それを助長するのが「作家論」を書く(素人・玄人を問はない)日本の「批評家」である。このまゝで良いのか。
日本人の所謂「作家論」は、どうも詰らない。感想文として書かれた感想文の方が、批評・作家論の名の下に書かれた感想文より、まだしも素直で増しである――が、さう云ふ感想文も、所詮、個性の發露に過ぎない。個性の域を超えた普遍的な評論が、我が日本國にも必要だ。が、その前提として、我々は、超個性的な文學を持つてゐなければならない。實は、福田恆存が日本人作家を論じた文章を俺は未だに避け續けてゐる。福田恆存の『西歐作家論』は(ジョイス論を除けば)どれも面白い。しかし、嘉村磯多その他を論じた日本人作家論はどれも大して面白くない。世評でも福田氏の日本人作家論は「今一つ當つてゐない」とされてゐる。けれども、日本人作家論は、福田氏のものでなくても皆、そんなに面白いものではないと思ふ。批評家の價値判斷も面白くないし、作家の小説そのものも大して良くないからである。「樂しむ」以上の讀み方をしようとすると、日本人作家の小説は大概「役に立たない」。

平成十七年九月十五日
眼鏡の作り方:よく解らないのだが、普通に眼鏡屋に行くだけでいいのか?
目の状態が判らないのだが、信頼出來る眼科できちんと檢診して貰つて、眼科に出入りしてゐる・眼科の指定する眼鏡屋で、醫師の指導に基いて作る事を御奬めする。素人判斷で擇ぶのではなく、專門醫の判斷を仰いで、自分の目に合つた眼鏡を作るべき。
信頼出來ない眼科ではなく信頼出來る眼科を利用するのがポイント。醫師と眼鏡屋との間でコミュニケートが出來てゐて、患者の目の特殊な問題について醫師から眼鏡屋に情報が傳はるやうなところが良い。
眼科ではなく眼鏡屋で簡單な視力測定だけやつて貰つて、それで適當に作る、と云ふ「一般的」な眼鏡の作り方は、個人的には御薦めしない。醫療行爲としての眼鏡の製作には、醫師による檢診が必要となつてゐる。一往、眼鏡屋でも眼科醫が常駐して檢診をする事になつてゐる。しかし、その邊、好い加減なところが結構多い。
好い加減な眼鏡を作ると、却つて目が惡くなる事がある。眼鏡をかけるのは、視力に問題があつて、目や腦に負擔がかかつてゐるから、それを取除く爲。餘計な負擔を除去するのが目的で眼鏡をかけるのに、合はない眼鏡の所爲で更に目に負擔がかかつて、眼精疲勞が惡化し、頭痛が非道くなる、なんて事になつては、眼鏡をかける意味がなくなつてしまふ。少しくらい手間や御金が掛かつても、目に合つた眼鏡を作るべきだ。
きちんとしてゐる眼鏡屋では、きちんとしたものを作つて呉れるかも知れないが、目の病氣・視力の問題に關しては、やつぱり眼科に行くべきだと個人的には思ふ。町の眼鏡屋さんの判斷は案外當てにならない。
症状によつては眼鏡よりもコンタクトレンズの方が目への負擔が少い事もある。特に左右の目の視力に差がある時、眼鏡よりもコンタクトレンズを奬められる。しかし、人によつてはコンタクトレンズが目に合はない場合もある。眼鏡屋は客が註文した通りの眼鏡を作つて呉れるに過ぎない。けれども、醫師は、その邊の事まで考へて、患者の目を調べたり、患者に合つたアドヴァイスをして呉れたりする場合がある。
平成十七年九月十五日
横から口出し。名前が言及されてゐるから俺には口出しする權利がある。多分。
無為徒食日記 2005年9月
例によつて「引用論爭」。
AAぶろぐ:【2005-09-14】「馬鹿」はどっちやねん

……ていうか、そんな自分のエゴイズムのために他人の文章を勝手に改竄しないでください。

文章というものは、使用する漢字や仮名遣い等の表記によって、発音は同じでもニュアンスや受ける印象が変わるので、勝手に「漢字→かな」とか「かな→漢字」などの改竄をすれば、元の文章と比べて読者の印象等も変わってしまうからです。

「引用された」人が「引用した」人に文句を言ふ時は常に「改竄」と稱するのだけれども、どうして「引用された」人はエゴイズムを「引用した」人に押附けて良いのでせうね。「改竄」か何うかを決定する權利が「引用した」人に「ある」のでせうかね。
「改竄をすれば」と言つて、高橋雅奇氏は「改竄の效果」を説明してゐる。これは「既に許されない改竄がある」と云ふ前提での説明に過ぎない。しかし今、問題となつてゐるのは、「その改變は許されない改竄か」と云ふ事だ。高橋氏は「全ての表記の變更は改竄である」と云ふ事を、事前に證明してゐない。高橋氏は「證明するまでもなく全ての表記の變更は改竄である」と信じ込んでゐる。かうした未證明の思ひ込みに基いた主張は、一方的なエゴの押附けにほかならず、全ての議論において無效だらうし、エゴイズムを否定する高橋氏の主張においても當然無效だらう。現時點での高橋氏の真名垣氏批判は、論理的に「正しい」ものとは言へない。或は「説得力を缺く」。

実際に、あなたのやった行為でAkky氏(無為徒食日記の管理人氏に文章を”引用”された方)が迷惑をこうむっているのです。

文意を歪曲されたとか、言つてゐない事を「言つた」事にされたとか、そんな事が「あつた」ならば「迷惑した」事になるでせうが(例:「義」が野嵜の文章を改竄してコピー&ペーストしてまはつた事)、たかだか「いわゆる」を「所謂」に改めたところで、文意は全く變らない。ただ「表記を變更されて氣分を害した」程度の事で「迷惑を蒙つた」と言つたとしたら、それは主張として「妥當だ」と言へない。「或人が『自分は迷惑を蒙つたと主張した』」と、「事實として『或人が迷惑を蒙つた』」とは、區別して考察される必要がある。また、本人の申告は、必ずしも信用出來ないもので、客觀的な檢證・傍證を必要とする。裁判でも、自白は證據として決定的なものとされない。誰かが「迷惑と感じた」と言つたとしても、それで即座に「迷惑行爲があつた」事の證明にはならないし、その事を事實と斷定してはならない。例へば、竹下義朗やアレクセイが野嵜を「掲示板荒しだ」と言つたからと言つて、實際に野嵜が「掲示板荒しだ」とは斷定出來ない。野嵜の竹下批判・アレクセイ批判が妥當なもので、その批判を封殺する爲に竹下・アレクセイが風説を流してゐる可能性も「ある」からである。氣に入らない人物の引用行爲を妨碍する爲に、引用された人が「改竄だ」と風説を流す可能性もあり得る。或は、引用された本人でない人間が「誰某はお前の所爲で迷惑を蒙つてゐるんだぞ」と根據なく極附ける事も許されない。
平成十七年九月十五日
あと。

 ∩( -_-)∩  ←馬鹿認定

大體かう云ふ問題で他人に絡む人つて、かう云ふ事をやるんですよねー。何なのでせうねー。と言ふか、認定だけが問題なのではないですか。人は主觀的に「認定」するものだ、と、かう云ふ人は信じてゐる。客觀的な檢證によつて認定が可能である、とは信じてゐない。けれども、さう云ふ主觀主義の立場に據つてゐては、客觀的な議論は出來ないよ。と言ふか、「改竄」だの「迷惑」だのと云ふ既に價値判斷が含まれた用語を用ゐて議論してゐる時點で「レッテル貼り」をやらかしてゐる事は明か。
平成十七年九月十五日
「行爲Xは『許されない改變』か何うか」を議論して、根據に基いて「行爲Xは許されない改變である」と云ふ確定的な結論が出た時、初めて「誰某は改竄をした」と言へる。議論の最初から「お前は改竄をしてゐるんだよ」と極附けるのは、「レッテル貼り」であり、許されない。
「引用における表記の變更論爭」において、「表記の變更は許されない」と主張する人は例外ナシに「改竄」と云ふ用語で話を進めようとする。固定觀念に基き、教條主義で物事の價値を極附けてゐるだけであるやうに思はれる。
平成十七年九月十五日
以下は一般論。「全ての表記の變更が『許されない變更=改竄』であるとは極附けられない」「場合によつて、表記の變更は、改竄とは看做されず、妥當な行爲と看做される」「被引用者は、引用者が『表記の變更』を行つてゐる場合、それが『許されない表記の變更』であると決定的に證明出來る場合を除いて、引用者の行爲を『改竄』と極附けられない」「被引用者は、引用文で表記に變更があつたからと言つて、即座に『改竄だ』『私は迷惑してゐる』『私は被害を蒙つた』と主張する事が許されない」「引用者は、引用文において表記を變更する場合、變更すべき妥當な理由を持たなければならない」。
また。「引用者は、被引用者に引用の許可を求める必要がない」「引用は無斷でして良い」「被引用者は不當な理由で引用を禁止してはならない」「妥當な表記の變更は、被引用者に無斷で行つて良い」。
平成十七年九月十五日
海外で、誰かが野嵜の文章を引用する時、「活字が無い」「マルチリンガル環境下のDTPが使へない」等の技術的な理由で、ローマ字表記に改めたら、それは著作權法に照らして「正當な表記の變更だ」と言へる。
一方、國内で、ローマ字主義者が野嵜の文章を引用する時、ローマ字主義者だからと言つて野嵜の文章をローマ字表記に改めて引用したら、それは著作權法に照らして「違法」と言へるだらうか、野嵜はそのローマ字主義者を訴へられるだらうか。どうも、裁判をやつても、野嵜はそのローマ字主義者氏から賠償金はふんだくれないやうな氣がする。
では、世間一般の人が野嵜の文章を引用する時、「現代仮名遣」に改めて引用したら、それは何うだらうか。野嵜は「迷惑を蒙つた」とか言つて訴へる事が出來るだらうか。無理だと思ふ。
表記の變更と、「義」がしたやうな文意の歪曲を目的にする文章の改竄とは、話が違ふと思ふ。「表記の變更も改竄だ」と言ふ人は、「義」がやつた野嵜の文章の改竄と各地の掲示板へのコピペを側面から支援してゐるやうにすら俺には思はれる。
平成十七年九月十五日
MonsterTV VFを買つて來たけれども、電波状態が良くないうち邊では「外れ」臭い。補正機能ナシの爲。録畫用にしても「豫備」なので氣にしない事にしようかと思つたけれども、ソフマップで中古のMTV1000でも買つて來ようかなーと。まだしもそつちの方が増しな畫質になりさうな豫感がする。

平成十七年九月十四日
泉井久之助『ヨーロッパの言語』(岩波新書青版699)讀了。讀み通すのに一箇月くらゐかかつた氣がする。語形の變遷を扱つてゐるけれども、名詞一語とか動詞一語とかを採上げて單純に變化の樣子を見るとか云つたものではなく、格とか數とか性とかの文法上の機能に著目して、詳細な「意味の違ひ」や「ニュアンスの違ひ」やを表現するのに如何にそれぞれの言語が特殊な發達を遂げたか、といつた事を――それと同時に、如何に「保守的」にラテン語やそれ以前の古い印歐語の決り事を守つて來たか、といつた事を、具體的に例を擧げて説明してゐる。「文法上の機能を表はす語」=「『記號的な意味を表現する語』を結合して飛躍的に思想を生成する語」について、本書では歴史的な觀點から説明されてゐて、或程度參考になる――ソシュール以來の構造主義的・記號學的言語學では、その邊の檢討が、特に初級の・入門的な參考書ではきちんとなされないやうな氣がするので、言語とか言語學とかに興味を持つ人は、問題意識を持つ爲にも、本書のやうな言語史にも接する機會を持つのが良いだらうと思ふ。と言ふか、專門に言語學をやつてゐる人にはかう云つた本も常識なのだらうけれども、「我々」――所謂正字正かな關係者も表音主義者も、「素人」である「我々」――は案外知らない。日本の表音主義者には漢語排斥論者みたいな人もゐたけれども、現代のロマン諸語がラテン語由來の言葉を拔き取られると學問もやれないやうな状態に陷るなんて事實がある訣で、「外來の單語は排斥すれば良い」みたいな言ひ方が安易に出來ない事は洋の東西を問はない。單純な「ことばをやさしく」のやうな運動も良かれ惡しかれで、習ひ易く直ぐに簡單な事を言ひ表せてるやうにしても、熟達して複雜な表現をするのが極めて難しい、と云つた事態に陷る事はあり得る。さう云つた事を理解するには視野を擴げておく必要がある訣で、逆に言へば、視野が狹いから簡單に「人の手で言語は改變出來る」のやうな事を主張出來てしまふ。さう云つた主張に説得力のある反駁を行ふ爲にも、正字正かな派の人にはそれなりに視野を擴げておいていただきたいと思ふ。「それなりに」と言ふのは、「マニアになる勿れ」と云ふ事。マニアはマニアで矢張り視野狹窄に陷り勝ち。或程度は自分のやつてゐる事を冷靜に反省出來るやうな、良い意味で「素人」の域に留まつておくのが安全だと思ふ。
平成十七年九月十四日
応用顰蹙学会 - ホッテントリに絡んでみるとか
さがさないでください。: 文章の「表面」について。とりわけ「文字/かなづかひ」といふ限定された側面のコト。

平成十七年九月十三日
最近のW3C情報。例によつて赤肩。
xml:id Version 1.0
内容についてはXMLに詳しい人に聞いて下さい。
平成十七年九月十三日
日記。の2005年09月13日「岡田代表と責任」の項。

学生時代、学校の壁を破壊した人がいました。その人は責任を持って修復しました。雪を詰め込んで。おかげで失笑…というか爆笑を買いましたが別に退学になったり自主退学になったりということはありませんでした。いや、雪を詰め込んだから責任を果たしたというわけでも無いのですが。壁は別途修復されたようです。

これでは責任を持つとか持たないとか(何)の喩へ話(謎)になつてゐないやうな氣がする(謎)のですが、單に受けを狙つただけ(笑)なので氣にしません(謎)とかびいさん(誰)は釋明するのでせうか(謎)。
我ながら括弧うぜえな。

責任を放り出して、議席減フォー!!代表辞任おっけー!!とかいって(言ってません)逃げ出すような人を誰が選ぶものですか。

何と言ふか、びいさん、面白い事を言はうと工夫なさつてゐるのでせうけれども、白々しくて詰らない餘計な一言に見えるのみならず、餘計な一言の所爲で話の説得力を缺く結果となつてゐるやうに思はれます。「誰も説得する氣なんて端からありません」と仰るかも知れませんが、それなら、ただの惡口ですよそれ。
平成十七年九月十三日
「九条の会」アピール

侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定し、こうした世界の市民の意思を実現しようと決心しました。

侵略戦争をしつづけることで、が、何處に掛るかで、文意が變つてしまふ。

平成十七年九月十二日
ふたばの実況で既にスレが立たないtvkの萌えよ剣で見事にL字。
機動新撰組 萌えよ剣 TV
レッドエンタテインメント公式サイト|機動新撰組萌えよ剣TV
第11話のサブタイトルが「契りたがゑどゐたずらに」なのだけれども何なのだらう。第12話は「惚れて 暴れて うつむひて」。假名遣ひの考證くらゐやれよ広井王子。そもそもタイトル、「剣」ではなくて「劒」にするとか。少しはそれらしく見せる努力を――と言ふか、本當に「それつぽければ良い」程度の感覺で今の人は適當にやつてゐるのだらうなー。
本來の「新撰組」の時代に、「萌え」の觀念も、「萌え」を「萌え」と言ふ言ひ方も、「ない」と言つたら絶對に「ない」訣で、一々漢字の字體とか假名遣ひとかについて眞面目に批評する方が間違つてゐるのかも知らんが云々。
と言ふか、サブタイ、殆ど全部、假名遣ひの間違ひを含んでゐる。誰か「をかしい」と言はなかつたのか。レッドエンタテインメントにもトライネットエンタテインメントにも人材がないらしい。
平成十七年九月十二日
小宮山書店の百圓均一ワゴンで清水幾太郎編『現代思想事典』(講談社現代新書24)を拾つた。
『現代思想事典』表紙
購入した證據に表紙をスキャンしたのだけれども、畫像のクリーンアップをやり過ぎた。
平成十七年九月十二日
今囘の選擧のまとめ。
Hatena::Diary::int 2005-09-12 (Mon)
総選挙のディープ・インパクト - [よくわかる政治]All About
今回の総選挙の結論は「小泉はガンガンやってくれ」という意味である、とまで一歩踏込んで解釋する事もないだらうと思ふ。「據らば大樹」の精神が身に附いてゐる日本國民が、「多數派」である(やうな雰圍氣を小泉氏が作り上げた)「改革推進派」の側に附かうとし、何となく「少數派」にしか見えない「改革反對派」側に附くのを避けた、と、それだけの事だらう。「みんながそつちの側に附きさうだから」と云ふ理由で國民は小泉さんの側に「附いた」に過ぎまい。

平成十七年九月十一日
「賣つてゐる」問題。最近流行の「××と云ふ本が賣つてゐない」式の言ひ方について。
日本語の「賣る」は、他動詞だから、「本賣る」式の言ひ方をする。「本賣つてゐる」式の言ひ方はしない。「本が」の場合、「賣られてゐる」と、受身の形で言はなければならない。
英語の"sell"は、他動詞と自動詞とがある。自動詞"sell"は、「(人が)賣る・商ひをする」を意味する場合と、「(物が)賣れる」を意味する場合とがある。This book sells well.His new novel is selling briskly.と云ふ言ひ方は正しい。が、これらを日本語に譯す時、「賣つてゐる」ではなく「賣れてゐる」と譯す。
平成十七年九月十一日
NHK 2005衆院選 開票速報
NNN衆院選バンキシャ!スペシャル“激選”
乱!総選挙2005
総選挙2005 トップページ
www.fnn-news.com:選挙2005 > 開票速報TOP
asahi.com: 2005総選挙
テレビ東京 : TXN衆院選スペシャル ザ・決断! 世紀の決戦〜実録・永田町人間ドラマ〜 2005年9月11日放送
平成十七年九月十一日
Sankei Web 特集 総選挙2005
総選挙2005 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
MSN-Mainichi INTERACTIVE 2005衆院選
asahi.com: 2005総選挙
NIKKEI NET 衆議院選挙特集
平成十七年九月十一日
共同通信社/第44回衆議院議員選挙/トップ
SAFETY JAPAN 2005 特別寄稿
平成十七年九月十一日
衆議院選挙 - All About
livedoor ニュース 2005年 衆議院選挙特集
衆議院選挙 2005 - goo衆議院選挙特集
衆議院選挙2005 ブログ選挙ポータル
Yahoo!ニュース - 特集 2005年衆院選
Yahoo! JAPAN - 選挙に行こう!2005衆院選
衆議院 総選挙 2005 - infoseek 総選挙2005
衆議院選挙 | Excite エキサイト : ニュース特集
平成十七年九月十一日
衆議院議員総選挙・最高裁判所裁判官国民審査
衆議院議員総選挙・最高裁判所裁判官国民審査
平成十七年九月十一日
9月11日は衆議院議員総選挙・最高裁判所裁判官国民審査の投票日
東京都選挙管理委員会 | 衆議院議員選挙・最高裁判所裁判官国民審査

平成十七年九月十日
ITmedia +D LifeStyle:誰も「本物のハイビジョン」を知らない (1/4)
『デジタルテレビの興亡』が昔、ちやんと刊行されてゐたら、歴史は變つてゐたかな。

平成十七年九月九日
重陽の節句。
平成十七年九月九日
教育新聞社ホームページ:私の国語論
平成十七年九月九日
古代文字資料館
平成十七年九月九日
まぐまぐ - 萬有お笑い研究所(仮) -
平成十七年九月九日
八日の買物。關根秀雄『モンテーニュ入門』(八雲書店)。大山定一『ドイツ私抄』(養徳社)。大山定一譯『ゲーテ詩集』(創元選書175)。シュワイツェル『ゲーテ』(新教出版社)。T.S.Eliot "ESSAYS ON POETRY AND CRITICISM"(矢野禾積編註・松柏社)。
九日の買物 @ 古書會館。柳田國男『妖怪談義』(修道社現代選書)。新・日本語講座『1 現代日本語の単語と文字』『2 日本文法の見えてくる本』(汐文社)。『近代文学評論大系9 演劇論』(角川書店)。

平成十七年九月八日
JTA 最高裁判決「印刷用書体の著作物性」の声明文
平成十七年九月八日
http://www.impressholdings.com/release/2005/041/(ITニュースサービス事業の強化に伴う子会社再編のお知らせ)
この件について、Impress Watchに速報が出た。
インプレス、「Impress Watch」事業を分社化
平成十七年九月八日
Opera、300MBの無料ブログ/写真アルバムサービスを開始

平成十七年九月七日
http://homepage2.nifty.com/scorpio/elderris/diary2005_0901.html#DAYS05090605
相變らずOperaの標準であるかのやうに名乘つてゐるブルーライトノヴァ - Firefox - Opera 7 Standardの新版。「Opera Standard」でGoogle檢索するとブルーライトノヴァが最初に出て來る。
MozillaとかFirefoxとかの名前を使つてOpera用のツールでも作つてやらうか知ら。
平成十七年九月七日
靖國神社なんてわざわざ改まつて行く所だらうか。俺は毎朝拜んでゐる(但し神保町から遥々)。
平成十七年九月七日
政治や正義の話と、道徳・宗教の話とは、ごつちやにしては行けないと思ひます。
平成十七年九月七日
「陰謀論」――「○○は事實を隠蔽しようとしてゐる」と云ふ奴。かう云ふ「論」をぶつ人間は始末におへない。反對意見は即座に「隠蔽」の根據にされてしまふ。
平成十七年九月七日
録畫しておいたtvk版おジャ魔女どれみナ・イ・ショをDVD-Rに燒いた。CyberLinkのPowerDVD 6で再生してみたら、次囘豫告の尻尾が途切れた。何が惡いのだらう。信用出來ない順に、TMPGEnc DVD Author、DVD-Rのディスク、DVD MULTIドライヴ、を疑つてみた。どれも問題なささう。念の爲、MediaPlayerClassicで再生してみた。問題なく最後まで再生された。結論。「PowerDVD 6が惡い」。

平成十七年九月六日
本日の買物。蝶夢著・幸田露伴校訂『芭蕉翁繪詞傳』(戰前版冨山房百科文庫三十六)。新村猛『「広辞苑」物語 辞典の権威の背景』(芸生新書)。
平成十七年九月六日
『「広辞苑」物語 辞典の権威の背景』で新村猛は、ひい孫にやさしく書いてやる文句じつにむつかしそのかなづかひと云ふ新村出が晩年に作つた短歌を引き、續いて、「現代仮名づかい」と云ふ見出しの下、以下のやうに書いてゐる。

また、仮名づかいのむつかしさを詠んだ歌について言えば、父は国語調査委員会の臨時委員を務めたこともあって国語国字問題に早くから関心をもっており、『国語問題正義』(昭和十六年白水社刊)のほか、戦前戦後を通じて多くの発言を試みています。この歌からもわかるように、父はいわゆる現代仮名づかいには反対の立場をとっており、新聞などに寄稿する場合でも、できるだけ仮名づかいをいじられなくてすむように工夫をこらして書くのだと語っていました。この点で、父は伝統主義歴史主義を保守したように見えながら、この問題における父の保守主義は、一部の頑迷な国粋主義とはちがって、もっと学問的な裏づけを持ったものなのであり、戦後のいかにも文部省式な便宜主義による改革に不満だった父たちの主張は、依然として今日でも傾聴に値いすると思います。戦後一貫していわゆる革新派に属し平和と民主主義のために運動して来た私も、国語国字政策の問題になると、体制側の方向に賛成する革新派とはやや異なった見解を持たざるをえないのも、一つには私が父の子であってその感化を蒙っており、二つには長らく辞書作りにたずさわって来た経験によるのでしょう。

話がやや先へ進み過ぎますけれども、『広辞苑』第二版で、巻末の附録に新しく「通用漢字一覧」を加え、いわゆる当用漢字以外のものも相当数選んで載せたわけも、現在の政府の漢字政策に対する私なりの批判があったからでした。それは、学校教育における漢字学習の負担を多くせよという意見ではなくて、現在一般に使っている漢字は、いろいろな調査結果から見ても「通用漢字一覧」に挙げた三千字程度はあり、これらの漢字の原義と読み位は国語辞典でも示す方がよくはないかという考え方によるものなのです。『広辞苑』初版では、そういう一字漢字の取り扱いが極めて不十分で、第二版校正中そのことに気づいて、大野晋さんや大野さんの後輩で名古屋大学在勤の金岡孝さんとも相談の上、応急の処置として、右のような一覧表を作ったのであります。

「仮名づかいのむつかしさ」とは、歴史的假名遣や「現代かなづかい」が「むつかし」いと云ふのではなく、歴史的假名遣でも「現代かなづかい」でも同じになる例の「広辞苑の序文方式」で書かうとすると「むつかし」い、と、さう云ふ事を言つてゐる。
平成十七年九月六日
新村猛は『「広辞苑」物語 辞典の権威の背景』の「はじめに」で、次のやうに書いてゐる。

『大言海』の著者である大槻文彦先生は、その旧著『言海』の跋文に、There is nothing so well done, but may be mended.という西洋のことわざを附記しておいでになります。私の父は大槻先生亡き後の『大言海』の編集事業に関与し、その後記の中に右のことばを引用しながら次のように言っております」。

蓋し著者(注 大槻先生)の意、当時に在りて言海の決して完全無欠なるを思はず、いくばくか修訂を要すべき点の存すべきを察したるに外ならざるなり。従ひて著者の寛宏を懐ヘば、必ずや予輩が多少の修補を容るるに吝ならざるべきを信ずと雖も、退いて念ふに、言葉の海より拾ひし玉を磨かんと欲して、却て、新に瑕瑾を生ぜしむるに至らざりしか、之を危ぶまざる能はず。

私の気持もここで父が述べているところと全く同じでありまして、『広辞苑』第一版が編者である父にふさわしいものに改訂されたかどうかということについて新に瑕瑾を生ぜしむるに至らざりしか、之を危ぶまざるをえないというのがいつわりない今の心境なのです。この気持は、単に、編者が私の父であるという私情から来るだけではありません。『広辞苑』が、これほど数多くの人々の利用に供せられ、またそれだけの社会的な信頼を受けているということに対する編者側の重立った一員としての責任を、編者である父が亡くなっただけに、ますます強く感じるようになりました。

一人の編者の名を冠した辞典が当然に持たなければならない個性と統一性と、他方、それが辞典である限り必須に要請される規範性と普遍妥当性と、この両者が過不足なくそなわっているかどうか。もちろん、完璧は期しがたいとしても、どこまでそれに近づくことができたのか、私は父に対する子という関係を超えてきびしく反省しないわけにはゆきません。

『広辞苑』第二版発刊を機会に、父の学問と辞典編纂の経過を私なりにふりかえり、今後の修訂作業に資したい、というのがこの物語を始める私の個人的な動機であります。また、読者の方々には、辞典編纂の実情を知っていただくことによって、辞典への関心、ひいてはことばへの関心、正しく美しく、もっと良い日本語への関心を強めて下さるならば、私の喜びこれに過ぎるものはありません。

最近の広辞苑の改訂、正しく美しく、もっと良い日本語を目指した改訂であるやうには思はれない。
平成十七年九月六日
『「広辞苑」物語 辞典の権威の背景』
新村猛著・昭和45年6月15日第1刷発行・芸術生活社。
今の處、拾ひ讀み状態。通讀してゐない。
平成十七年九月六日
新村猛『「広辞苑」物語 辞典の権威の背景』より「『広辞苑』の将来」

辞書作りが、今日では、一人の篤志家の業というよりも、多くの学者の協業になる組織的事業であり、その事業の経営が、出版という資本の制約を免れないという実情であるとすれば、学究に加えて組織経営の能力がそこには必須のものとして要請せられます。すでにそれは個人や私企業の限界を越えているかも知れず、国家の事業として行うよう提案した父は意外に先見の明を誇ってもよいかも知れません。しかし、父が亡くなって間もなく、私どもの親族の一人が国立国語研究所の岩淵所長にお会いした際、『広辞苑』の仕事を研究所に引き継いでいただけないかとお話したところ、予算も人手もないからできません、とお答えになったという事実が、何よりもよく国の国語政策の貧困を物語っています。

(´д`;)

平成十七年九月五日
Hatena::Diary::int
郵政民営化は何のため
正解は「日本國では體制や制度を變へると、理由は良く解らないけれども兔に角何かが『良くなる』ので、取敢ず『變へる』」ではないかと。深く考へない方が精神衞生の爲。
今囘の選擧、爭點が意味不明なのだけれども、かう云ふ訣のわからない事態になると俄然日本人は張り切るから、投票率高さう。
平成十七年九月五日
めも。虹裏の「」に教へて貰つた。
Arm Stand SET

平成十七年九月四日
その他 - スクリプト置き場
Camino べんりセット
引用マークアップを生成 - 徒書

平成十七年九月三日
Yahoo! ページ検索(YST)がCSSファイルをインデックス
tnstyle.cssでYahoo!検索してみたが。
はてなアンテナ - andesutoのアンテナ
ちよつと待て。
平成十七年九月三日
D-Point PICK UP - 491000 Musical Batton
そろそろバトンの季節も終りみたいなので敢て今頃答へてみたり。音樂ファイルは澤山。今は聽いてゐない。昔の事は忘れた。篠原美也子「名前のない週末」、中原めいこのいろいろ。ばとんは他人に渡さないのが俺のじゃすてぃす。毎日讀んでいただいてゐるとは……最近の闇黒日記の荒れ具合は何うしやうもないですね。見捨てないで下さいまし。
平成十七年九月三日
日本の「議論」における論者の態度。
自己の主張の正當性を樣々の理由を擧げて説明し、説得しようとすると、「意見の押附け」だ、と非難される。
論理的な説明はせず、「それが好きだから」とだけ言ひ訣して、傍若無人な態度で自分の意見を書續けるのは、「謙虚」なやり方である。
平成十七年九月三日
最近はめもしたからと言つてあとで何かすると言つた事は全然ないのだけれどもめも。
増殖web-FrontPage-増殖Web
平成十七年九月三日
正字正かなグループ - 正字正假名覺書 - 府川充男・小池和夫著『旧字旧かな入門』(ISBN:4760119973)
正字正かなグループ - ziomの日記 - 舊寺舊かな入門
karpa’s ― 非行非善 - なんともまあ
はてなダイアリー - 旧字旧かな入門
Amazon.co.jp: 本: 旧字旧かな入門
『旧字旧かな入門』
未だに話題になる邊が云々。俺は圖書館で借りただけ。「讀める」ページが少いデータ集を、わざわざ高い御金を出して買ひたいとは思はない。歴史的假名遣の確認なら、岩波国語辞典で十分だから、わざわざ「それ專用」の本を買ふ必要はないと思つてゐる。と言ふか、この手のデータ集を「必要とする」人と言ふのは何なのだらう。「辭書も持つてゐない人」? ――さう云ふ人が歴史的假名遣に興味を持つほど國語に關心を抱くものだらうか。あんまりその邊の事、この本の著者は深く考へてゐなかつたのではないかと思ふ。最近出る「旧字旧かな」關係の本の著者は、多分全員「よく考へない」で「それつぽい事」を本にしてゐるだけだと俺は思つてゐる。「美しい日本語」云々と言つてゐる萩野貞樹氏の本も、どうも變な記述が多い(『みなさんこれが美しい日本語ですよ』リヨン社)。そもそもの美意識が崩潰した現代に於て「美しい」と言つたつて、「感性は人それぞれ」みたいな價値相對主義的な反論が返つて來るのが落ち。未だに『私の國語教室』を越えた、説得力のある理論的な本が出てゐないと言ふのは何うかと思ふ。と言ふか、みんな「旧字旧かな」「旧字旧かな」と言つてゐるのが、俺は氣に入らない。「そんなに古いのが好きなのかよ」→「じゃあ古文で書け」みたいな非難・攻撃を誘發するだけなのに、「旧字旧かな」と「言はなければならない」と變に思ひ込んでしまつてゐる人が多過ぎる。
平成十七年九月三日
雄渾社のブックカヴァ
先日田村書店の無料箱から拾つて來たラディゲ『肉體の惡魔』(昭和二十九年十二月十日發行・昭和三十五年八月十五日十刷・新潮文庫)に雄渾社のカヴァが掛かつてゐた。雄渾社は、京都の書店・出版社で、今も健在。昭和四十年代から五十年代にかけては、メレシコフスキーやシェストフの著作を出版したり、「対話シリーズ」を出したり、文藝・思想書の出版で頑張つてゐた。今は最う、專門書とかを扱つてゐるだけらしい。
美乃美、雄渾社 HOMEPAGE
ところで、シェストフの『アテネとエルサレム』、小宮山か何處かで一度見掛けて、買ひ損ねた切り、二度と見てゐないので、未だに買ひそびれてゐるのだけれども、誰か持つてゐないかなー。この一册で雄渾社のシェストフが全部揃ふので、欲しい。あと、メレシコフスキーの『トルストイとドストエフスキー』も、田村で四册目までの揃ひを買つて、以來、最終卷の第五卷を未だに見附けられないでゐるのだけれども、云々。
平成十七年九月三日
郭沫若研究会報 第五号(総No.6)
郭沫若――その一面
藤原 正敏 メモ =読みたい書物(小説を除く)=
< ロシア > 2

平成十七年九月二日
マクセルのDVD-Rでも燒きミス發生。マクセルのメディアは信用出來ないが、これだけ何枚も燒けないのはをかしい。矢張りドライヴが逝つたのだとしか考へられない。週末買ひに行く。
平成十七年九月二日
政治的な文學は可能か。可能かと問はれればまあ可能な事は可能だらうとしか答へやうがない。ただ、登場人物が、作家の政治的な目的の爲に、登場人物の設定として言ふ筈のない事を言つたり、する筈のない事をしたり――そんな時、讀者は作家の作爲を「虚僞」として批判・非難する事が許される。或は、作家の政治的な意圖で、あり得ない設定が登場人物に豫め賦與されてゐる――そんな時も、讀者は作家を非難して良い。さうした批判・非難を受けない政治小説――それが果して政治小説と呼べるやうな政治的な小説であるか何うかは、實は議論の餘地がある。
平成十七年九月二日
買つて來た。
製品紹介 | LF-M821JD | DVDマルチドライブ | Panasonic
前のドライヴで燒いた時と全く同じファイルを全く同じ構成でZulu2を使つてTDKの八倍速のDVD-Rに燒いてみたら、問題なく燒けた。やつぱり前のドライヴがアレだつた模樣だが、もしかしたら最近の四倍速對應のメディアを二倍速對應のドライヴで燒かうとしたのが無理だつたのかも知れない。何で最う二倍速まで對應の良いメディアが賣られてゐないんだよ。
平成十七年九月二日
古書會館の古本市。大川周明『新訂日本二千六百年史』(第一書房)。『日本國憲法 解説と資料』(時事通信社)。鈴木安藏『新憲法の解説と批判』(新文藝社)。ラスキン『胡麻と百合』(岩波文庫)。G・S・フレーザー『日本印象』(朝日新聞社)。久保田万太郎『あぶらでり』(養徳叢書18)。八木一文『新世界と日本人』(現代教養文庫1563)。内藤虎次郎『支那上古史』(弘文堂書房)。安本美典『新考 邪馬台国への道』(筑摩書房)。

平成十七年九月一日
TDKのDVD-Rでも燒きミス發生。TDKのメディアが惡い訣がないし、Zulu2も惡い訣がないから、ドライヴがいかれてゐるのだと推測。週末買ひに行く積り。

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