OSにLinuxを採用したZaurus全般を指す愛称。として「リナザウ」と呼ぶ事の疑問。
悪魔に関して人間は二つの誤謬におちいる可能性がある。その二つは同じ誤りであり、しかも相反するものでもある。すなわち、そのひとつは悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度の、そして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらい喜ぶ。すなわち唯物主義者と魔法使とを同じように喜んで歓迎する。この本に使用されているような原本は、一度そのこつを覚えた人は誰でも容易に手に入れることができるが、たちの悪い人や、興奮しやすい人たちは悪用するかも知れないから、私は教えるわけにはいかない。
- 十一月十二日
三時から京大の大講堂でマルセルの講演會。「眞理と自由」といふ題で伊吹武彦氏の通譯。まさに滿員で大變な人氣である。話の内容はさう特筆すべきことがない。アムール、といふやうなことが最後にでてきて、宗教論になつたが、かういふことはカソリックに通じても、僕には通じない。あとで文學部會議室で質疑の會が一時間たらずあつた。あと上田、武内、武藤、石田といふ若い人たちと北野へでて飮む、たまたま深瀬老來り會してつひに「仁和波」にて同宿。
- 十一月十三日
「仁和波」にてめをさましたときが十時、深瀬老はすでに講義にでかけてゐた。十二時に歸り、また飲みはじめ、「能鷹」「天久」等にて夜に入るまで飮んで歸る。この一日は、忘失の一日。
マルセルは十一日に修學院へいつたが、これは世界で最も美しい庭園だと大變なよろこびであつた由。京都のうちの都會的なところは大嫌ひ、自然が實にすきのやうだ。
家から冬物をつめた大きな荷物がとどいてゐた。昨夜歸つて、この荷物をみて旅愁の感あり。
- 十一月十四日
快晴、朝十時、日佛會館にマルセルをたづね、小島、有島の兩氏とともにマルセルを洛西に案内する。龍安寺の池のある庭は非常に氣に入つたらしいが、石庭は感じなかつたやうだ。いろいろと骨折つて、禪とか水墨とかの連想で話して見たが、何故石があるのか、石の美はどこにあるのか、といふやうなことで、禪の否定、無は觀念としては解つたが、實感としてはわからないやうであつた。歸りにあの池のほとりをゆつくり歩いてゐるとき、口ひげあたりが妙にぴくぴくうごくとみてゐるうちに、すぐに彼のドラマが、有島さんに語りかけられた。アルベールといふ前夫を失つて、いまはモリスにとついでゐる女(名前は忘れた)が、いま夫の名をときどき間違へてアルベールとよんでしまふ。夫がふんがいすると、絶對のなかではアルベールもモリスも同じだといふやうな女のアポロギアがでてくる。なかなか皮肉な爺さんで、さういふドラマを考へるときが一番たのしさうな顏をしてゐる。廣隆寺の彌勒にはやはり感心したらしい。四條の萬養軒へ歸つて晝食、そこから桂へゆく途中、大覺寺へ立寄り、山樂の牡丹だけをみせたが、これにも感心しない。然しこれは解つた上で感心しないといふわけで、昨日みた智積院の方がよい、といつてゐた。そこから小生だけ別れて歸宿、東京から來てゐる奥村夫妻が宿にすでに待つてゐた。夫妻をともなつて大和小路「ちとせ」にて會食。
- 十一月十五日
四時から日佛會館でマルセルをかこんでの座談會。三宅、西谷、高坂、高田その他の四、五人がでる。私は何もきかなかつたが、話をきいてゐて感じたことは、マルセルが、音樂や美術に深い共感と理解を示してゐること、それが彼の哲學を美しいものにしてゐるが、その反面、現代のニヒリズム、またキリスト教團の無力に對しては、激しく對決してゐないといふことである。何処か美的であつて、悲劇的ではない。例へばニイチェの神の死といふやうな、悲劇的な考へがない。
夜七時頃から瓢亭で宴會、來會十四名、日佛會館の館長もみえてゐたが、このひとは傲岸で、ゐばつてゐる感じ。西谷さんが、マルセルからいたくほめられ、シェリングの後裔が、この東に花咲いてゐる云々といふやうな讃辭をうけた。西谷氏には、ひどく感じたらしい。小島がかういふ席では妙にそぐはないことを口にする。宴後深瀬さんと四條へ出て飮んで歸る。
- 十一月十六日
マルセル、朝八時半、奈良へ出發するのを見送る。
防衛の為の軍事力を自前で持ちたいと思ってるんですが、太平洋戦争の失敗を分析出来てなきゃ持つべきじゃないと思うんです。失敗と言ってもいろいろあると思いますが、ここで言ってるのは戦略的な部分は置いといて、明治維新後急速に植えつけられた皇国史観です。(以下略)
明治維新後急速に植えつけられた皇国史観です、と、G_ONE氏は、恰もアプリオリの事實であるかのやうに言つてゐるのだけれども、こんなのは無批判に採用して良い事實ではなく、當然、議論の大前提として良いものではない。
テメェらの眼は飾りかコラァ!!
雜誌『海』新年號所載の武田泰淳さんの「三島由紀夫のこと」を讀んだ。云々。人生とか歴史とかについて語つた一般論は讀めるけれども、それが三島個人と何う關係があるの? と問へば、ただ、三島は(と言ふより、三島について語つた泰淳の文章は)唐木氏の聯想を引出す材料にしかなつてゐない。唐木氏は、寺田透に「『人』ではなく『文獻に表れた人』を對象に論じてゐるのが弱點だ」(野嵜なりの要約)と批判されてゐるが、この短い文章でもその弱點が表はれてゐるやうに思ふ。松原正氏の三島論を通過して來た人間には、唐木氏が三島本人を正しく捉へてゐるとは見えない。と言ふか唐木さん、三島がそんなに好きではなかつたらしい印象がある。
アクセスアップなると踏んで「引用論争」をするのであれば、何か根本的に間違っているような気がします。 理念理想を求めない「話し合い論争」なら、長々と続ける必要はない。
理念理想を求めない「話し合い論争」なら、長々と続ける必要はない。と書いた後に、三宅氏の議論が何故か利害得失と云ふ理念・理想と全然關係のない現實的な觀點に基いて進められて行く。これは如何なものか。
全然関係無い話なのですが、自称「とっぷぺーじ」よりもこの日記の方がPVが高いのは自分でもどうかと思う。流れ的には当たり前なんだろうけど。
HTMLの仕様通り、cite属性に URIを記述することによって W3Cの中の人が満足されるであろうことは容易に想像がつくと思います。
なお、「明示方法」の可否については、先の記事でも触れましたとおり、当方にそれほどの知識がなく、また当方の調べる限りにおいて、そのような事例を扱った判例や学説がないことから、今回の問い合わせに際しましては、敢えてその事実を主張することを止め、今後の法律上の論議の推移を待ちたいと考えています。:分かりました-日々是自己主張
今日において作家論はもっとも高級な知的な娯しみを与えてくれる芸術と言ってよいだろう。
平野氏は作家のモチーフの追求に重点を置く。氏の論は作家の思想より、人間そのものを感じさせる。
これに反し寺田氏は、作家の人間を論ぜず、作品の思想を問題にする。云々。
僕は一體文學者に何を求めてゐるのであらうか。
僕のうちの性急なわがままな讀者は、作家が自分の好みに合ふやうに變ることを、前後の思慮もなく要求する。彼がその要求を口にする聲が、作家論の筆をとるときなど、鈍いがもつとも強いひびきで聞えて來る。彼の要求には、根深い根據があるにちがひない。彼こそ、もつとも確實な遺傳的素質と時代や個人的環境の影響と生存本能の荷ひ手だからだ。といふことは、彼こそ、僕が何を考へ、何を感じ、また文學に對して何を望まうと、それに耐へ、また、それを都合によつては振り捨てて、頑強に生の道を進むものだといふことである。彼こそ、人類の生存の受けつぎ手であり、又、傳へ手なのだ。その意味で、彼こそ、あらゆる文學のよつて立つ地殼の提供者なのだ。
恐らくいはゆる一般讀者の聲といふものは、かやうなものの集團的表出であらう。
しかし僕は、この聲にのみ從ふわけには行かない。彼には、ものごとを劃一化し、習慣になづみ、同時に反射的に現實を否定しようとする無反省な衝動にかられる傾向があるからだ。それは、特異であるかいなかをみづから自覺することなしに專制的である。
作家論は文芸批評というより、それ自体完結した意味を持つ、独立した芸術のジャンルを形成していると言つた方がよく、特定の対象に向って自己の力を験す、力較べといった趣さえ感じさせる。と言つてしまふのも「さもありなん」。
眼鏡の作り方:
よく解らないのだが、普通に眼鏡屋に行くだけでいいのか?
……ていうか、そんな自分のエゴイズムのために他人の文章を勝手に改竄しないでください。
文章というものは、使用する漢字や仮名遣い等の表記によって、発音は同じでもニュアンスや受ける印象が変わるので、勝手に「漢字→かな」とか「かな→漢字」などの改竄をすれば、元の文章と比べて読者の印象等も変わってしまうからです。
実際に、あなたのやった行為でAkky氏(無為徒食日記の管理人氏に文章を”引用”された方)が迷惑をこうむっているのです。
∩( -_-)∩ ←馬鹿認定
学生時代、学校の壁を破壊した人がいました。その人は責任を持って修復しました。雪を詰め込んで。おかげで失笑…というか爆笑を買いましたが別に退学になったり自主退学になったりということはありませんでした。いや、雪を詰め込んだから責任を果たしたというわけでも無いのですが。壁は別途修復されたようです。
責任を放り出して、議席減フォー!!代表辞任おっけー!!とかいって(言ってません)逃げ出すような人を誰が選ぶものですか。
侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定し、こうした世界の市民の意思を実現しようと決心しました。
侵略戦争をしつづけることで、が、何處に掛るかで、文意が變つてしまふ。
今回の総選挙の結論は「小泉はガンガンやってくれ」という意味である、とまで一歩踏込んで解釋する事もないだらうと思ふ。「據らば大樹」の精神が身に附いてゐる日本國民が、「多數派」である(やうな雰圍氣を小泉氏が作り上げた)「改革推進派」の側に附かうとし、何となく「少數派」にしか見えない「改革反對派」側に附くのを避けた、と、それだけの事だらう。「みんながそつちの側に附きさうだから」と云ふ理由で國民は小泉さんの側に「附いた」に過ぎまい。
This book sells well.や
His new novel is selling briskly.と云ふ言ひ方は正しい。が、これらを日本語に譯す時、「賣つてゐる」ではなく「賣れてゐる」と譯す。
ITニュースサービス事業の強化に伴う子会社再編のお知らせ)
ひい孫にやさしく書いてやる文句じつにむつかしそのかなづかひと云ふ新村出が晩年に作つた短歌を引き、續いて、「現代仮名づかい」と云ふ見出しの下、以下のやうに書いてゐる。
また、仮名づかいのむつかしさを詠んだ歌について言えば、父は国語調査委員会の臨時委員を務めたこともあって国語国字問題に早くから関心をもっており、『国語問題正義』(昭和十六年白水社刊)のほか、戦前戦後を通じて多くの発言を試みています。この歌からもわかるように、父はいわゆる現代仮名づかいには反対の立場をとっており、新聞などに寄稿する場合でも、できるだけ仮名づかいをいじられなくてすむように工夫をこらして書くのだと語っていました。この点で、父は伝統主義歴史主義を保守したように見えながら、この問題における父の保守主義は、一部の頑迷な国粋主義とはちがって、もっと学問的な裏づけを持ったものなのであり、戦後のいかにも文部省式な便宜主義による改革に不満だった父たちの主張は、依然として今日でも傾聴に値いすると思います。戦後一貫していわゆる革新派に属し平和と民主主義のために運動して来た私も、国語国字政策の問題になると、体制側の方向に賛成する革新派とはやや異なった見解を持たざるをえないのも、一つには私が父の子であってその感化を蒙っており、二つには長らく辞書作りにたずさわって来た経験によるのでしょう。
話がやや先へ進み過ぎますけれども、『広辞苑』第二版で、巻末の附録に新しく「通用漢字一覧」を加え、いわゆる当用漢字以外のものも相当数選んで載せたわけも、現在の政府の漢字政策に対する私なりの批判があったからでした。それは、学校教育における漢字学習の負担を多くせよという意見ではなくて、現在一般に使っている漢字は、いろいろな調査結果から見ても「通用漢字一覧」に挙げた三千字程度はあり、これらの漢字の原義と読み位は国語辞典でも示す方がよくはないかという考え方によるものなのです。『広辞苑』初版では、そういう一字漢字の取り扱いが極めて不十分で、第二版校正中そのことに気づいて、大野晋さんや大野さんの後輩で名古屋大学在勤の金岡孝さんとも相談の上、応急の処置として、右のような一覧表を作ったのであります。
『大言海』の著者である大槻文彦先生は、その旧著『言海』の跋文に、
There is nothing so well done, but may be mended.という西洋のことわざを附記しておいでになります。私の父は大槻先生亡き後の『大言海』の編集事業に関与し、その後記の中に右のことばを引用しながら次のように言っております」。蓋し著者(注 大槻先生)の意、当時に在りて言海の決して完全無欠なるを思はず、いくばくか修訂を要すべき点の存すべきを察したるに外ならざるなり。従ひて著者の寛宏を懐ヘば、必ずや予輩が多少の修補を容るるに吝ならざるべきを信ずと雖も、退いて念ふに、言葉の海より拾ひし玉を磨かんと欲して、却て、新に瑕瑾を生ぜしむるに至らざりしか、之を危ぶまざる能はず。
私の気持もここで父が述べているところと全く同じでありまして、『広辞苑』第一版が編者である父にふさわしいものに改訂されたかどうかということについて
新に瑕瑾を生ぜしむるに至らざりしか、之を危ぶまざるをえないというのがいつわりない今の心境なのです。この気持は、単に、編者が私の父であるという私情から来るだけではありません。『広辞苑』が、これほど数多くの人々の利用に供せられ、またそれだけの社会的な信頼を受けているということに対する編者側の重立った一員としての責任を、編者である父が亡くなっただけに、ますます強く感じるようになりました。一人の編者の名を冠した辞典が当然に持たなければならない個性と統一性と、他方、それが辞典である限り必須に要請される規範性と普遍妥当性と、この両者が過不足なくそなわっているかどうか。もちろん、完璧は期しがたいとしても、どこまでそれに近づくことができたのか、私は父に対する子という関係を超えてきびしく反省しないわけにはゆきません。
『広辞苑』第二版発刊を機会に、父の学問と辞典編纂の経過を私なりにふりかえり、今後の修訂作業に資したい、というのがこの物語を始める私の個人的な動機であります。また、読者の方々には、辞典編纂の実情を知っていただくことによって、辞典への関心、ひいてはことばへの関心、正しく美しく、もっと良い日本語への関心を強めて下さるならば、私の喜びこれに過ぎるものはありません。
正しく美しく、もっと良い日本語を目指した改訂であるやうには思はれない。
辞書作りが、今日では、一人の篤志家の業というよりも、多くの学者の協業になる組織的事業であり、その事業の経営が、出版という資本の制約を免れないという実情であるとすれば、学究に加えて組織経営の能力がそこには必須のものとして要請せられます。すでにそれは個人や私企業の限界を越えているかも知れず、国家の事業として行うよう提案した父は意外に先見の明を誇ってもよいかも知れません。しかし、父が亡くなって間もなく、私どもの親族の一人が国立国語研究所の岩淵所長にお会いした際、『広辞苑』の仕事を研究所に引き継いでいただけないかとお話したところ、予算も人手もないからできません、とお答えになったという事実が、何よりもよく国の国語政策の貧困を物語っています。
郵政民営化は何のため