つまり、BODY 要素は、内部に縦書きレイアウトを持つ要素が含まれていても、常に水平にレイアウトされることを意味しています。
参加はしてゐない。今囘は、規模が小さい方の古書市。山田孝雄『五十音圖の歴史』が出てゐたけれども四千圓なので買はなかつた。「言語生活」1969.No.214、湖南内藤虎次郎『東洋文化史研究』及び『中國近世史』を購入。
「第三回風華祭」。ただの人氣投票。
まあこれでこの話題は終了でよいかと思う。
税金で飯食いやがって早よ死んだらええんや、と言ふ「あるおじさん」は、一見合理主義的だが、その發言の根柢にあるのは單なる嫉妬である。實際のところ、日本の進歩主義者に、この種の嫉妬、敵を見下す態度、右翼と看做す相手を嘲笑する姿勢が、無かつた事は滅多にない。彼等のそのやうな意識は、私にはとても進歩的なものには見えない。戰爭に反對し、國家に對して個人の權利を主張する人が、常に寛容の精神を缺いてゐるのは、私には餘りにも奇異な事に見える。そこにあるのは、左翼の渠等が罵る右翼の人間と、全く同じ、排他的な精神である。口先許り平和と寛容を唱へながら、その實、極めて排他的な精神を持つ左翼よりは、まだしも右翼の方が正直であり、論理的には筋が通つてゐる。しかしながら、左翼にはその邊の問題が、問題として意識されない。彼らは、進歩すべき事を悟つてゐるからだと言ふのである。だが、さう言ふ彼らは、常に革命精神を要求し、漸進的で合理的な進歩を主張する人間を嘲笑ふ。ここに私は、かの大東亞戰爭の時の右翼の鼓吹した精神主義を、再び左翼に見出すのである。だから、本質的に日本人は、發想を轉換して、合理主義をとらなければならないのだが、さう言ふと、再び合理主義はイデオロギーと化し、精神主義に陷つてしまふ。結局のところ、「合理主義の傳統がない」と云ふ日本の傳統が、何時まで經つても解消されないで、根強く日本人を支配し續けてゐるのである。
まず道徳について。私は道徳とは第一に共同体の規範であり(例えば宗教の戒律)、第二に個人が自律的であるための当為に基づく実践であると考えている。
政治と道徳を混同してはならない、というのは、確かにわかるのだが、しかしそれはある事象に関して、それを「政治」と「道徳」という領域に振り分けそれらの間は没交渉である、というようなものではなく、ある事象を考えるときに、それを政治的に考えるときには道徳性はいったん考慮から外す、また同じ事象を道徳的に考えるときは政治性は考慮しない、といったような区別の仕方をするものだ、と私は思っている。
また「従軍慰安婦」問題は当初韓国のフェミニズム運動から派生した問題であって、アジアで「戦争における女性」という視点がほとんど無視されてきた歴史を考慮すれば、単純に「データが存在しない」からといって無視するべきではないと思う(当たり前の話だが、だからといってデータ捏造が良いとか「やむをえない」とかといっているわけではない)。と云ふ曖昧極まる發言にはつきり表はれてゐる。「共感」が正に渡邊さんの發言の原理である。感情論なのである。そこには徹底した合理主義がない。そして私は、政治に於ては、飽くまで合理主義を採用したいのだ。マキャベリズムと言つても良い。日本にはマキャベリズムの政治が餘りに少い。政治に「道徳的」な感情論が餘りに屡々入り込む。だが、これは逆に、道徳への政治の侵入なのである。私は、政治を守りたくて政治からの道徳の分離を主張してゐるのではない。道徳を守りたい爲に、政治と道徳とを分離したいだけである。
講談社ゼミナール選書『日本語は乱れているか』を讀んでふむと思つたのは、要するに、國語改革は規範化のためにおこなはれたのだといふことであつた。
……その前に一般に戰後の國語改革は國語の民主化といふやうなたてまへでもつて、やつてきたものであるけれども、それは國語的にはどういふ意味を持つてゐるんだらうか、私(土岐善麿)としてはまづその問題を考へてみなければならなかつた。當用漢字なりかなづかひなりに對するいろいろな批判がありますが、そこにはいろんな誤解もあるので、その制定の基本的な考へ方といふものは、結局正書法の決定といふことにあると思ひますが、あれを制定したときには、その點がはつきりしてゐなかつた。現實的にはさういふことになるやうだけれども、正書法といふ基本的な考へ方ははつきりとは出てゐなかつたと私は判斷したわけです。
たとへば「ジヂ」「ズヅ」の問題です。これは必ずしも表音的ではない。その矛盾が非難の對象になるわけです。一口に表音的といつても、その同じ表音的といふものの中にも幅がある。その音の上では同じなのに、書く場合、別々になつてゐる。どうしてさうなつてゐるかが問題ですが、それはかなづかひに語意識といふ考へを加へてゆけば、現代かなづかひは表音的ではないかといふ形の非難なり批判に答へられる。語意識といふものが加はれば説明がつくだらう、といふ工合に私は考へたわけです。そこで正書法といふことをいひ出した。つまりかなづかひの語意識の問題を考へて、正書法といふものへ導いてゆけるだらうといふ工合に私は考へたわけです。
「従軍慰安婦」問題の事実認定に関しては、私は蓋然性として「ありうる」という認識であって、断言できるほどの判断能力を有していない。したがってそれについて議論はできないが、何故野嵜さんが「でっちあげ」と断言するのかその根拠を知りたいとは思う。何故私が「ありうる」と思うかと云えば、それは私自身の祖父が中国大陸に兵隊として赴き、さまざまな残虐行為があった、と語ったことがあったからである。その個々のケースについてここで書く気にはなれないが、それは日本軍による中国人女性の強制連行・監禁・性的暴行などが充分にあり得た話だろうと思わせられる内容だった。
私が「難しい」と云っているのは、この判決について、この私が「一歩前進」と云ってしまって良いのだろうか、という倫理的な問題である。
ウェブは、日常生活と切り離してはならぬと私は考へてゐる。それゆゑに、生活上で起こることも当然ウェブで起こるべきだと思ふし、実際起こつてゐる。たとへば、ああこの文章は面白いな、と思つた文章に対して、コメント欄にコメントする、それは、日常われわれが行なつてゐることだ。しかし、野嵜氏はそれを「トートロジー」として認めない。
なぜか。それは、何かの言及がすべて議論、勝負事だと思つてゐるからだ。と、勝手に話を進める。しかし、私はそれに反應しない。今までは、さう云ふ勝手讀みに基いた加納氏の「戰線擴大」に、こちらも一々附合つたのだが、附合ふと、後で加納氏に「議論を長引かせる爲」云々と惡口を言はれるからである。一言だけ言つておくと、私は、「議論は正しい事を勝たせる爲になされるべきである」と考へてをり、「勝つた者が正しくなる」と云ふ「勝てば官軍」式の考へ方をしてゐない。
ゆゑに、テオリア氏の文章も、自分を否定するものだと早とちりした。の「ゆゑに」は論理的に意味不明。
或いは、私が文学と政治に関する言及をしたときもさうだつた。に關しては、既に加納氏が「スルーした」と云ふ證據を持つて加納氏の非を指摘してゐる。
或いは、別の見方を示したはうが、公正かもしれない。野嵜氏は、自身を「西欧的」といふ枠組みで規定してゐるが、それは、前近代的な「西欧的」と言つたはうがより正確であるやうに思はれる。私なりに言へば、それは形而上学である。以下は完全な惡口であり恨み言である。
私とこば氏のやり取りの一端を見て「koba-koba氏の方が分が良いやうに思はれる。」なんぞと言つてゐたのはあんただらう。それが今になつて「加納氏とkoba-koba氏のやり取り等何うでも良い」と言ふのである。と加納氏は言つてゐる。加納氏は、何を勘違ひしてゐるのだらうか。平成十六年十二月一日のは「加納氏の主張とkoba-koba氏の主張のどちらが正しいか」の話であり、平成十六年十二月十四日のは「koba-koba氏の主張は正しいのか」の話である。「どちらが正しいのか」なる疑問文は、「koba-koba氏と加納氏のやりとり」を前提とする。「koba-koba氏の主張は正しいのか」なる疑問文は、「koba-koba氏と加納氏のやりとり」を前提としない。それだけの話である。何も矛盾してゐないし、論點の摩り替へにもなつてゐない。比較しても相對的にkoba-koba氏の方が勝ちである、そもそも、絶對的にkoba-koba氏の勝ちである――私はさう言つてゐるに過ぎない。見方が、相對的から絶對的に移つたに過ぎない。論點の摩り替へも糞もない。と言ふより、論點の摩り替へ、と云ふ言葉が出たから、加納氏はそれに拘つて、何でもかんでもそれに故事つけて、こちらを非難しないではゐられないのではないか。それこそ、加納氏が勝負に拘つてゐる證據である。好い加減にして呉れ。
私の解釈は、「ネット全体を指している」のは「ネットやチャットは異常者の共同体」だといふ、小林氏の一般化できない決め付けであるといふ点で、こば氏と(或いは野嵜氏と)一致してゐる(「情論を前提(「驚いたな、こりゃ!」)とし、一般論ではない(「わしに言わせれば」)ことを断った上で」)のだ。さうではなく、(当初の私の疑問では)「思え」といふ言葉によつて、覚悟を促してゐるのではないか、つまり、小林氏の判断や思想が提示されてゐるだけではないかと言つてゐたのだ。と加納氏は言ふ。しかし、ここで加納氏が重大なミスを犯してゐた事、それを未だに加納氏が自覺してゐない事が判る。加納氏は、小林よしのりの發言の目的に拘つてゐるのである。しかし、目的等何うでも良い、飽くまで「思え」と言はれてゐる内容が、koba-koba氏にしても私にしても、地球儀の中の人にしても、問題なのである。と言ふより、この時點で、加納氏は既に論點を摩り替へてしまつてゐるのである。「思え」を念頭に入れろ、と加納氏は言つてゐる。これはkoba-koba氏の日記の文脈から完全に外れた指摘で、論點の摩り替へに他ならない。
私とこば氏とのやりとりの意図とは全然関係のないものをすり替へて持ち出したのは野嵜氏、あんたではないか。と加納氏は言つてゐるが、そもそも加納氏がやつたから、こちらも附合つたまでの事だ。しかし、
判る人には判る。つて何だよ。俺の眞似? それなら、俺が加納氏の眞似をしても、加納氏は吝嗇を附けなければ良からう。以下、「思え」と云ふ小林よしのりの文句に拘つてkoba-koba氏の事實に關する議論に「覚悟」なんてものを持込んだ最初の過ちを認めないDQNの發言として無視する。無駄な事を何度繰返さうが、それは無駄な努力であつて、加納氏のした事は無駄な努力である。そんなものは無視する。當り前だ。レトリックにレトリックを重ねるも何も、出發點で加納氏が間違つてゐると云ふのが俺の根本的な批判だから、その根本的な批判以外のところで加納氏が反論しようが、そこでこちらが加納氏に揚げ足を取られようが、本質的に關係ない。問題は加納氏の最初にした過ちであり、それを加納氏が未だに認めてゐない事が議論を無駄に長引かせてゐる原因である。レトリックにレトリックを重ねる「過ち」をしてゐるとしたら、それは加納氏が仕組んだものであり、こちらの責任ではない。
この人は、なんでも自分の都合でしか解釈しない。ここまで自分勝手に議論する人間もはじめてだが、ここまで食ひ下がる人間もはじめてだ。――食下がるも何も、こちらが正しいのに、間違つてゐる加納氏が食ひ下がつて引かないだけである。引かないばかりか、體調が惡いと言ひつゝ、加納氏相手に言つてゐない事にまで一々食つて掛かつて呉れてゐる。しかも、人の事を文盲だの何だのと。
小林氏の判断を的外れとするならば、小林氏の文脈を読まなければならない。それが、「思え」の解釈のことである。だから、こば氏も「思え」の解釈を示した。――「思え」の解釋を示す必要はない。そもそも「ネットは異常者の共同体である」と云ふのは事實に反するから、「思え」と言はれても思ふ必要はないのであり、思つた時の效能なんてものを考察する必要はない。koba-koba氏が「思え」の解釋を示したとしても、それは加納氏に迫られて、する必要のない事をしただけである。加納氏は、自分のフィールドに無理矢理他人を引き込んで、叩きのめして、好い氣になつてゐるだけである。そして、加納氏が好い氣になつてゐるのは、人を文盲だの何だのと惡口を言つてゐるのを見ても判る。
アホ。後の文章を読め。と加納氏は言つてゐるが、これこそ加納氏が「印象操作」をした證據である。後の文章は言ひ訣である。そして、先の文章で「印象操作」をやつてゐれば、先入見が出來る。「印象操作」では、その種の先入見が問題である。「印象操作」を問題視したければ、物を書く順番にも氣を附ける事だ。
加納さんと野嵜さん、どちらも正しいのでは?
ヘーゲルの歴史哲学というのは、あれ明らかに、キリスト教と関係がある。キリスト教の歴史観を前提としていますから。この前にも申し上げたんですが、彼のいう世界史というのは、ヨーロッパのことですからね。インドやシナのことなんか書いてますけれど、これは全然信用も何もできない。結局は自分達のところに戻ってきて、ここの所で世界史は完成するという考えですからね。今どうこう言ってもそれは無理です。あの場合は多分に西洋的なものですから、今ヘーゲルがまちがっているといったって意味はないと思うし、正しいということを言っても意味はない。歴史哲学は明らかにヨーロッパ近代の立場で書かれていますからね。だからわれわれが正しいとかなんとか言ってもはじまらないように私は思いますね。
マルクスの生れた家というのはそんなに貧乏じゃないんでしょう。ただユダヤ人として――キリスト教に改宗しているんですね、彼の家自体が。彼も若いときに改宗というかそれに入っていますね。それでもなおかつユダヤ的な問題が残っている……。
そうじゃなくてと述べてゐるけれども、先日述べたやうに、反感とコンプレックスの形でユダヤ人に對する意識がある、と云ふ點、ヨーロッパの文明・文化の特徴的な事實であると言ふ事が出來る。そして、それはキリスト教と關係がある。で、マルクスも、唯物論の共産主義を創始したのだけれども、その背景にキリスト教文明・キリスト教文化・キリスト教社會の傳統と云ふものがある、と言ふ事が出來る。
野嵜氏はどうもをかしい。それは、文脈を無視し、自分の主張する方向に文脈を無理矢理捻じ曲げて仕舞ふ氏の悪癖のせゐである。加納氏こそ、自分の主張する方向に論點を無理矢理すり替へてしまふ惡癖を持つてゐる。
教育的な文脈として読むべきでとあるが、教育的だらうと何だらうと嘘を吐いて「教育」も無いものだらう。「ネットは全て異常者の共同体である」と云ふ訣ではない。教育上の方便との名目で、「さう思へ」と言はれても、こちらは子供ではないのだから、さう思ふ必要は全く無い。そして、この時點で、加納氏の解釋は間違つてゐるのであり、koba-koba氏の判斷は正しい。だから、加納氏の言ひがかりは言ひがかり以上のものではないし、その言ひがかりが異常なものであつた以上、koba-koba氏の應對が加納氏の期待した方向のものでなかつたとしても、koba-koba氏に責任はない。
そのやり取りに口をはさんだ野嵜氏は何を言つたのかと言へば、「異常者の共同体」は「ネット全体」をさしてゐる、つまり「「ある〜は…である」の論理性を強調し以って「すべて〜は…であると思え」の説得力を弱めんとする」ことであつた。しかし、そもそも私とこば氏とで、そのやうなやり取りは存在しない。と加納氏は言ふ。しかし、加納氏とkoba-koba氏のやり取り等何うでも良いのであつて、koba-koba氏の文章が表現してゐたのは
「異常者の共同体」は「ネット全体」をさしてゐる、つまり「「ある〜は…である」の論理性を強調し以って「すべて〜は…であると思え」の説得力を弱めんとする」ことであるから、koba-koba氏の發言を私は正しく讀取つてゐたのだし、加納氏はkoba-koba氏の發言の意圖とは全然關係のない事で言ひがかりをつけたのである。そして、言ひがかりをつけた時點で、加納氏がをかしい事は明かである。
ところが、野嵜氏は、そのやうなやり取りの流れや文脈を、読んでゐないせゐで理解できてゐないにも関らず、云々。嫌になるね、この人。そんな意味のないやり取りは何うでも良いのだよ。加納氏の論點ずらしに始まつたやり取りは――否、そもそも論點が全然異る事を以て加納氏が言ひがかりをつけた事を私は指摘し、問題視してゐる。加納氏には、それが解らないらしい。出發點からしてをかしい、と私は言つてゐるのだ。
今度は私が「小林シンパ」であるなぞといふ新たな材料を持ち出して、こば氏とのやり取りは解釈の問題ではなく正邪の問題であると言ひ出した。なぜ加納氏が言ひがかりをつけたのか、と云ふ疑問に對して、あり得る囘答は、加納氏が「小林シンパ」だから、小林の發言を否定されたのが面白くないからだらう、と云ふ推測である。別に變な推測ではなからう。
しかし、私は論理的に妥当な諸条件を突き詰めて解釈なり疑問なりを述べなければならぬと言つてゐる。と言ふが、それなら加納氏は、可能な加納氏の動機を擧げてみたら良からう。加納氏の論理主義は、論理主義が出發點であり到着點である。それは、人間心理の觀點からして、納得出來たものではない。
一々応答しては話をズラして「レトリック」を展開するのが野嵜氏の常套手段なので、もうそんなことはしない。これに關しては、加納氏は「自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る」を實踐してゐる、としか言ひやうがない。私は、koba-koba氏の最初の發言を正確に讀取つてゐる。加納氏は、それを讀み違へた。加納氏は、自分勝手な解釋で「疑問」の形で言ひがかりをつけ、koba-koba氏を困惑させ、さらに應對の「態度」を問題にして論點を摩り替へ、koba-koba氏に居丈高な態度で説教をかまし、koba-koba氏が示した文章を罵り、剩へ、野嵜に批判されると、自分がずらした論點に野嵜が反應しない、或は加納氏が期待したやうに反應しない、と言つて、野嵜を罵り、厚顔無恥にも、自分がやらかした誤を認めてゐるにもかかはらず居丈高な態度を改めない。
といふか、野嵜氏は前提を固めてから論理を構築するといふことからやつて欲しいものだ。馬鹿も休み休み言つて貰ひたい。私は、koba-koba氏の最初の小林發言に關する判斷は正しい、と云ふ前提から、加納氏の「解釈」だの「論理」だのををかしいと言つてゐる。その點で加納氏はkoba-koba氏に負けてゐる、と述べてゐる。それに對して、加納氏は有效な反論をしてゐない。加納氏は「あとのやり取りを讀んでゐないから野嵜に批判する資格はない」と言つてゐる。しかし、そんなもの、讀まなくたつて良いのである。ただ、加納氏が居丈高にkoba-koba氏を罵つてゐるから、その當座の根據を探る爲に斜め讀み、飛ばし讀みしたに過ぎない。そして、その、あとのやりとりで加納氏が如何に筋が通つてゐたとしても――否、逆に、それこそ加納氏が耻の上塗りをしてゐる事に他ならない。そして、そのあとのやりとりも、どうも加納氏はをかしいのである。そのをかしいゆゑんは散々書いた。判る人には判る。
といふかね/クリスマス・イヴが近づいてプレゼントを悩んだり体調が悪くなつたり年末進行的なアレな具合の時に、こんなに無意味なことをしてゐられないのですが。どうにかしてください。偉い人=野嵜さん。加納氏は、かう云ふ人を食つたやうな態度で話をする惡癖がある。しかし、かう云ふ事を平氣でやる人間は、かのアレクセイもさうだが、論理だの何だのと言つても、結局は保身が大事なだけなのである。或は、ふざけるな、と言ひたい。何が「偉い人=野嵜さん」だ。馬鹿野郎。加納氏には、人と眞面目に話をする氣がない。koba-koba氏に對しても、野嵜に對しても、加納氏は眞面目に話をしようとしてゐない。koba-koba氏に對しては居丈高に、野嵜に對してはおちよくるやうに、加納氏は應對してゐる。眞面目に議論をしようとしないで、覺悟も糞もあつたものではない。結局、小林よしのりも加納氏は讀めてゐないのである。
つまりかういふことと言つて、野嵜が常に文意を讀取れないかのやうに見せかける「印象操作」を加納氏はやつてゐる訣だが、加納氏に自覺はあるのだらうか。
例によつて例のごとくとか
やはり文章が読めない人なのではないかとか、文章の表現に意圖は顯れる。
ところがある日、HTMLはSGMLを元にしているらしい、ということを知ることに なる。SGMLといえば、教養部の頃に国語学の演習でmtoyo先生に教わったSGML である (なぜ国語学でSGMLなのかはこの際おいておく)。云々。
左翼の論客が良く使う「レトリック」ですな。と言はれてゐるのだけれども、それでは福田恆存は左翼だつたのだらうか。
2004-12-07 論理的な回答。
無駄と思ひつゝ溜息を吐きながら述べれば、「説明できなければお前は間違つてゐる」なんて論理的にをかしいことを野嵜氏はつひに気付かないのである。云々。
そして、説得力がなければ間違ひと断じ、批判と捉へる氏は、説得力よりも正しいことを求める云々と言つておきながら、実のところ説得力を重視してゐるのだ。
説得力がなければ間違ひと断じたのだらう。私が何時、
説得力を重視してゐると言つたのだらう。加納氏が斷じ、加納氏がさうしてゐる、と私は非難したのである。
「説明してください」→「説明できなければお前は間違つてゐる」=「批判」。と云ふ常識的な判斷が世間にある事を、單に述べたに過ぎない。そして、加納氏は、さう云ふ常識的な方法で他人を批判してゐると述べたに過ぎない。ところが、加納氏は「いや、實はさうではない」と述べる。「では、加納氏の立場は何なの?」とこちらは尋ねたい。
私の思想とはかけ離れたものを例として持ち出せれてゐる。と常に言ふ。さうやつて自分の立場を曖昧にし、誤魔化し續ける事で、加納氏は「私の立場を理解できないあんたは馬鹿」と極附ける。しかし、その曖昧な態度が、私には非常に汚らはしいものに見える。人は、自らの立場を鮮明にして、論爭に挑むべきである。さうしないと、論爭の決着が附かないからである。物事の正邪を重視する立場である私は、だからこそ、物事の如何なる事が正しい事であるか、をはつきり意識した上で、論爭しなければならない、と考へる。加納氏のやうに、ただ「疑惑」を表明し「説明して下さい」とだけ言つて、相手に何であれ難癖をつけて、何時までもずるずると「会話」をし續けて、相手を困らせる、と云ふ風になつてしまつてはならない。
当初の議論は「思え」によつて一般化を避けてゐるのだから、「ネットは異常者の共同体である」といふのは、論理的にきちんと答への出るやうな百パーセントの一般論としての「全体」として小林氏は述べてゐない、と言つてゐるのだ。
それなのに、教育的に「覚悟しておけ」といふ、むろん全体ではないが、さう思はせることで教育させるといふ手法が、ほぼ常識としてあることを、野嵜氏は無視してゐる。
本当は一部も健全なユーザがゐます、と事実としての正しいことを言ひたいが、子供に警戒心を抱かせるために「全て」と敢へて言ふやうなことは常識だと私は思ふが、野嵜氏はさうではないのである。
そして、その文脈から外れたままこば氏は一部の主張を認める。と言ふが、文脈を外してゐるのは加納氏の方である。
それは悪いわけではないが(良い文章とは言へないが)、正確に解釈してはゐない。そして、これを声高に主張すれば解釈の正邪論争だが、さうではないのである。さうではないから、私もこば氏も別に勝ち負けはない。何度も言つてゐることだ。
私が野嵜氏の詭弁を指摘したやうに、野嵜氏もその「レトリック」とやらを指摘すればよいものだが、出来ないのだらう。
自分の考へを主張することは全て「自己正當化」か。むろん、さう思はせるやうに書いた私の文章技術も駄目なのだ(でも、さういふ風にとらはれるのが嫌なので、私は論理的に書いたつもりなのだ)が。
全て「正當化」か、と云ふ反論が「有效である」と加納氏は考へるのか。加納氏の場合は自己正當化である、と私は指摘してゐる。それを、加納氏は「一般論」として否定する事で、特殊の事例である加納氏の場合もまた否定されると言ふ。こんな目茶な論理はない。そして、加納氏は、さう云ふ目茶な論理を濫用してゐる。一般論と、特殊の論とを、加納氏は區別しないのである。
しかし私の主張はその反省すべき点だけではなかつたはずだが。それ以外は正当性を主張して当然だと思ふが。
こば氏の解釈については(こば氏とのやり取りでは)「私が正しい」と言つてゐない。こば氏の態度の問題では「私が正しい」と言つた。
全て同列に扱つて事実を捻じ曲げてはいけない。と加納氏は言ふが、寧ろ「全て同列に扱つて論點をぼかしてはいけない」と私は言ひたい。そして、
新聞がよくやる印象操作の手法としては、あれもこれもと一つの議論に多數の論點を設定する加納氏のやり口の方が當嵌る。
「話を逸らさうとしてゐる」もなにも、実際さうなのだが。
新聞がよくやる印象操作の手法ではないか。加納氏は、をかしい。加納氏は、何故話を逸らすのか。矢張り、自分の正當化を實現出來る範圍で自己正當化する、と云ふのが、加納氏のやりたい事なのである。
なぜなら、私がこば氏に呈した疑問が議論の方向に(少なくとも私の中では)向いてゐないのに対し、野嵜氏のそれは「レトリック」と称した悪意から発してゐるからである。
koba-koba氏がしたやうな「ほんのちよつと」の言及は、小林よしのり氏に嫌がらせをするのが目的か。と云ふ記述を見て貰ひたい。
野嵜氏の常識には鉤括弧を私はつけたい。ふつう、会話のために会話することがあることは常識ではないですか。
それと、野嵜氏や読者が、私を西部シンパだとか小林シンパだとか思ふのは全然かまはない。それは私が決めることではない。だが、それをもとに公に文章を公開して批判するのは如何なものか。
「事實として、加納氏は「こば氏は間違つてゐる」「私の解釋が正しい」と書いてゐる」のは野嵜氏とのやり取りにおいてでせうが。こば氏とのやり取りではそれはテーマではないだらうが。
野嵜氏の力説してゐるネット全体をさしてゐる云々は私もこば氏も解釈を異にしてゐない(と前にも書いた)。しかし、その「思え」があることによつて、小林氏の発言が「アホ」や「的外れ」と言へないものになるのではないか、と私は聞き、
「積極的に否定してゐないが、無視は否定を意味する。」のださうで。では不愉快なテクスト 第一回 -Poesiaで私が同じやうなことを主張してゐることも付加へておきます。
どう「言行不一致」なのか説明してください。
野嵜氏はそのやうに生きてこられたのですか。なんでも正邪に分けて考へてこられたのですか。それが野嵜氏の二元論ですか。普通はそんなことをしない。少なくとも日本人はしない。いくら野嵜氏が正邪を問はなければならないと「宣言」しても。
私が指摘するまでもなく、相変らず「怪しい」が根拠なのだ。「怪しい」を根拠にして正邪をあらそつてはいけない。
取り違へてゐるのはどつちだ。私はさうではない(「正義の議論」ではない)と述べてゐるではないか。いい加減にしてくれ。
そして、批評對象を「小林よしのり」とするか、「koba-koba氏」とするかで、話は全然違つたものになつてしまふ。が論點だ。加納氏は、自分に都合良く、話のポイントをすり替へる。卑怯者めが。
私には野嵜氏が西尾シンパには見えませんが、野嵜氏がさう仰るならばそれでよいでせう。
私には野嵜氏が西尾シンパには見えませんがと言張るのだらうか。
そして、野嵜氏がその前提で仰るならば、私のことを小林シンパと思つて下さつて構ひません。――今の小林よしのりの發言に關する議論では、誰が何う見ても加納氏は小林シンパである。が、加納氏の場合、一般論として小林シンパであると見る心理的必然性がある。
「特殊の事例にはその事例毎に特殊な檢討が必要である」といふのは一般論にならないのですか。
野嵜氏が文章を読めないで誤解曲解の言説を撒き散らしてゐることを一々指摘するのは筆者である加納も飽き飽きしてゐる。野嵜は全く誤解曲解をしてゐない。寧ろ、加納氏の方こそ、勝手讀みを繰返してゐる。加納氏は、一般的な見方をすべきところで我流の見方をし、特殊の事例として扱ふべきところで一般論を持出してゐる。
「積極的な主張」もなにも。野嵜氏が御前は間違つてゐると言つたんだらう。それに答へれば「自己正當化」か。
どうしても自分が勝利してゐるといふ風な印象を与へたいから野嵜氏は「飽き飽きしてゐる」と言ひながらこんなことを書いてゐるのだらう。
これだけ繰り返し同じことを説明し指摘してゐるのに明確も糞もあるか。
吐いた胃液の中に血が混じつてゐる状態で、誰がこんな無意味な言ひ爭いを好んでするか。
平成十六年十二月七日の人効論と事効論をまとめた野嵜氏の文章は素晴らしいもので、それに反論する身としてはいささかならぬ緊張を強いられる。等と言つて、加納氏に吹つ掛けたのではない議論に應じたのか。
いきなり過去ログ扱いするとはどこまであんたはせこいのか。と怒つたのにも、一理はある。全體としての理はないので、大石氏はこの發言について、散々嗤はれてゐるが、言爭ひだの何だのにあの掲示板が向かない事は言ふまでもない。
そのネット界の名厨房二名が、山形掲示板で衝突しているという。山形氏の無造作な、しかし著しく先鋭的な物言いが理由である。それも一行。大石氏を暗に指して「あーいやだいやだ。低級な粘着自称「作家」の伝言ボーイなんかやってやる義理ねーよ。あー気持ちワル」である。ただそれだけ。おそらく山形氏の悪口を放つ才能をつぶさに観察してきた諸兄からすれば、この程度は刺身のつま、居酒屋のお通し、ゴング後のジャブ、訴訟は内容証明からといった軽度なものである。
どうしてをかしいのでせうか。Aが成立すればBは成り立たないやうですので説明してくださいと言ふことの何がをかしいのでせうか。
さうですか?私は妥当だと思ふし、正当だと思ひます。今更掘り起こすなと言はれさうですが、どう読んでも「思え」は覚悟を促す記述だからです。
なぜなら、あの章は少女をネットから救ひ出すには如何にすればよいかといふことが問はれてゐたからです。そのために、ネットは異常者の共同体だと思ひ教育しろといふのがあの漫画の文(?)脈なのです。
しかし、ただの傍注だから、そんなことを言つてもしやうがない。だから、違ふ解釈があれば説明してくれと言つただけなのだ。
あの場できちんとこば氏が答へてくれたら、「あー、なるほど」と言つて、「しかしあのやうな騒ぎは本当に問題ですね」なんてコメントになつたかもしれないのである。
その指摘は甘んじて受けなければならない、といふことを、野嵜氏の読み違へで書いたのだが、氏はそれをしてもまだ責めるやうだ。
どこをどう読んだら「解釋の正邪を爭」つてゐると読み取れるのか……。「正邪を爭ふ」ならば、まだ私はこば氏とやりあつてゐるだらう。なぜなら、私の解釈が正しい解釈だからである。
私の動機ですか。それを述べても野嵜氏は「宣言」といふのでせう。違ふのですか。客観的な事実的根拠に裏打ちされてゐないものを述べても野嵜氏は認めないのでせう。自分はさういつた「心理的」なもの(客観的な事実的根拠に裏打ちされてゐないもの)を根拠にしながら私に向かつては「宣言」と断じる。そのバランスはどこでとつてゐるのですか。
さういつたことを全て言つた後で動機を述べるが、そんな大仰なことではないことは、最初のやり取りを見れば明白なのであつて、先ほども言つたやうに、「いやいや、それでは辻褄があはないやうですよ」「それはかういふことだからです」「ああ、なるほど。さういふ風に考へれば納得がゆきますね。しかしさっきコメントしたやつもさうだが、確かに異常者は多いですね」なんて会話のためである。
会話のために會話する、と云ふ加納氏の説明は、トートロジーの一種であつて、誰も納得出來る説明ではない。そして、あとで加納氏は、自分がいかに小林よしのりを讀んでゐるかを説明してゐる。また、西部邁のファンだか何だかである事も明かである。「加納氏が小林シンパである」と云ふのは、誰もが普通に持つ印象である。それを加納氏は、論理で否定しようとしてゐるが、私は常識に從ふ。
何度も言はせて頂くが、あの程度の会話で「主張が「ない」」のは当然でせう。私はコメント欄に己れの主張を繰り広げるやうなことはしないと何回も書いたではないか。
私の解釈ではネット全体を指しているので、私としては的外れな意見には違い無いですが。と云ふコメントは、短いが、koba-koba氏の主張であり、それに反論した――しかし、koba-koba氏の考へてゐた「ネットは異常者の共同体」の是非ではなく、「〜と思え」と云ふ言ひ方から何を讀み取るべきかに拘つたのだから、讀み違へに基いて的外れな「反論」をしたのだが――加納氏は、主張をしたのである。普通はさう見る。
こば氏との当初のやり取りは議論ではない。こば氏のその後の態度は正義の問題で議論になりうる(か否かは野嵜氏との議論に持ち越されてはゐるが)。
あげあしと思はれたくはないのですが、「文学と政治を峻別」ではないかと。一応その前提で話を進めますが、
私は野嵜氏の文学と「政治」を峻別することが道徳的だといふ主張を「否定」してゐない。野嵜氏の言ふとほりの意味での「政治」ならば賛成するが、本来的な意味での政治ならば反対するといふことを言つたまでだ。
本当にいい加減にしてもらひたいが、私は「論理が出發點であり目的地である」といつ言つたのだ。
私は礼儀や態度が前提にあつて初めて論理が成り立つといふ立場であることは、氏も知つてゐるではないか。そして、論理がその礼儀や態度、すなはち生き方を一貫させ、考へるための方法であるといふことも、再三述べてきたではないか。
だーかーらー。野嵜氏は会話で一々正義を問ふのですか。前にも述べたが、これが小林よしのりの思想を批評したり、あの章そのものを批評したりする目的であれば(正しい解釈が必要になるから)私は「正義の議論」をしただらう。何が一貫してゐないのだ。
小林よしのりの意見についてですが、あの表現の仕方では文脈を考慮したとしても「ネット言論=匿名=全員やりたい放題の異常者」という主張と読むのが一般的な解釈だと思います。と、「解釈」を述べ、その妥當性の傍證として、
そこらへんを分かりやすく説明されている文章を提示した。それに對して、加納氏は「態度が惡い」として怒つた。目茶苦茶である。しかし、加納氏は「目茶苦茶でない」「解釋ではなく、態度に議題が移つたのだ」と主張する。が、既に述べた通り、koba-koba氏の注目した「ネットは異常者の共同体」ではなく、「と思う」に加納氏が注目し、さらに、小林の發言から、koba-koba氏の「非論理的な態度」に話が移る。
前にも述べたが、これが小林よしのりの思想を批評したり、あの章そのものを批評したりする目的であれば(正しい解釈が必要になるから)私は「正義の議論」をしただらう。と述べてゐる。しかし、さう云ふ目的で加納氏は「質問」してゐないのである。加納氏は、koba-koba氏の日記のコメント欄で、明かに、koba-koba氏の發言を批評してゐたのである。そして、批評對象を「小林よしのり」とするか、「koba-koba氏」とするかで、話は全然違つたものになつてしまふ。加納氏は、議題を取違へてゐるのである。
では、野嵜氏は西尾シンパか。野嵜氏は親米なんだらう。「特定の目的に一致してゐ」るから西尾シンパだらう。
私がわざわざ他の人も引ける辞書から引用してゐるのは、語彙の意味を四散させないためである。野嵜氏は、自分の「政治」の解釈からシンパの意味を拡大して解釈してゐるのである。
正しいのか正しくないのか分からないから説明してくれと言つてゐたのだ。
解釈とは何かを読んでゐないことは明白であり、
といつたやうなものであり、論理ではなく「怪しさ」なる印象でしかないのである。
そして、私は自分で考へうる限りの「妥当だと思はれる諸条件」を論理的に解釈をしてこば氏に疑問を投げかけたのだ。
私は批判なんてしてゐないのである。
氏は、話合ひはなんでも勝ち負けのつく「勝負」だと思つてゐるのではないか。私はさうではないと思ふ。正義の問題において勝ち負けがつくのである。こば氏とのやり取りは正義の問題ではなく解釈の問題なのである。
こば氏は、どうやら小林氏の著作を結構読んでゐるやうだが、小林氏シンパではないだらうし、私も同様である。小林氏の思想の是非(正義)を巡つて論争してゐると仰るのならば、その証拠を挙げるべきである。どこにも、小林氏の思想を支持し、それの是非を論じてゐる箇所はないはずである。
左翼は「左翼の主張」を肯定しようとするから「戰略的に、疑惑を仄めかす」のであつて、私は「私の主張」といふものがそもそもない段階なのだから「戰略的に、疑惑を仄めかす」ことなどできないのである。
私の結論は「文学で政治を書いてもよい」といふものだからだ。 この結論を述べるために必要な前提と論証は私はこなしてゐる。そして当然、野嵜氏の言ふ「道徳的な葛藤」は、結論に至るまでには入つてしかるべき道筋である。その理由は野嵜氏が書いてゐるとほりである。しかし、この結論を述べるためにとりあげる必要はどこにもない。
私は最後まで解釈についての論理を述べたのだ。
「正確」な解釈を導くための論理的な検証と言つてゐる。しかし、加納氏の最初の質問における「論理」は、論理の爲の論理以上のものに見えないし、それ以後の「論理」も、論理の爲の論理以上のものには見えない。だが、論理が出發點であり目的地である、とする加納氏の態度は、人間の態度としてはをかしい。論理的でない。人間ならば動機がある。
この文だけでは確かにそのとほりだが、私は一貫して正確な、妥当な論理を求めてゐるといふ文脈を忘れられては困る。
シンパとは「同調者。特に、特定の運動に共鳴して、陰で精神的・物質的な支持援助をする人。」のことである。私は、小林氏の思想に全て同調してゐるわけではない。なぜなら、たとへば氏の反米論をとつてみてもそれは私とは隨分と違ふものだからだ。
小林氏の思想に全て同調してゐるわけではないからシンパではない、と主張する。しかし、これは逆に加納氏が政治と道徳の峻別が出來てゐない事を證明する。政治に於ては、
思想に全て同調する必要はない。大體一致してゐれば、否、特定の目的に一致してゐれば、政治的には「同志」である。そして、親米か反米かは、koba-koba氏の文章と何ら關係のない話である。加納氏の反論は、論理的に決定的な有效性を持たない。
もし私が「小林シンパ」ならば、むろん小泉氏の発言にも小林氏と同様の考へを披露するだらう。と云ふ主張も、やはり有效性を持たない。
ガリレイやブルーノが主張してゐるのは科学的な問題であり、それは人間がどう生きるのかといふ問題とは基本的に違ふ。
自分の国が、侵略を受けて戦争になつた。日ごろから国のために死ぬべきだと考へてゐたAさんとBさんは、しかし、それぞれ違ふ立場を採つた。Aさんは、自分が今まで主張してきたことを成し遂げた、つまり、戦争に行き死んで仕舞つた。一方Bさんは、徴集がかかつたときに逃げて仕舞つた。さて、ではAさんとBさんはどちらが正しいのだらうか。確かにAさんもBさんも、同じ主張をしてゐた。そしてどちらも正しい主張であると仮定した時、彼らの生き方として正しいものはどちらだつたのか。私はAさんが正しかつたと言ふ。しかし野嵜氏は、AさんもBさんも正しかつたと言ふはずである。なぜなら、二人の主張はどちらも同じく正しかつたからだ。
むろん、言ふまでもなく、主張として、論理として彼らはどちらも正しかつた。だが、その論理とは何のためにあるのか。これも言ふまでもなく己れの生き死にをどう捉へ、実行するかといふもののためである。論理が正しくとも生き方が正しくなくては駄目だとはさういふことであり、野嵜氏の「論理さへ確りしてゐて、正しい結論が出てゐれば、それでよろしい」といふ考へは非道徳的な考へである。
が、さう云ふ竹山氏の考へを認めた上で、私としては「しかし、にもかかはらず、日本人は西歐の文明を受容れねばならなかつたではないか」と言ひたい訣である。と云ふ發言を見ていただいて、「野嵜の選擇」の理由を看取していただければ倖。
先にも言つたやうに、ニーチェは、キリスト教の道徳観から弱者のルサンチマンの正当化を見て取つた。
きよらかな自然観に浸って、祖先以来の民族感情にふれたいときには、神道による。慈悲の救いを聞きたいときには、仏教にたずねる。現世の人倫を教わりたいときには、儒教の本を読む。隣人の愛とは何かと思えば、(日本的に解釈された)キリスト教の説教をきく。――を、キリスト教的な立場から
雑然たる折衷主義として切つて捨てるのは誤であると主張してゐる。日本人は、絶對者を戴くのではなく、自らがより高い境地に至るべく努力し、
知られざるカミに参与しようとねがうものである、と述べてゐる。
安倍なつみさんが飛行機からいろいろなものを無断で持ち帰った行為は、構成要件の点から窃盗に当たると思われますし、番組中の発言やエッセイの記述から時効が完成していない可能性が高いでしょう。これを無罪にするというのはネタとはいえさすがに無理があります。というわけで有罪にしました。と云ふ記述があるのだが、妙に示唆的である。黒田氏が元氣はつらつオロナミンC状態だつたら、日記なり何なりで觸れてゐたんだらうなー。
ここ 200 年の歴史は、中央集権化を推し進め、人間体験を進化とは逆行するものに変えてしまった。インターネットは、もっとバランスのとれた、中央集権型ではないライフスタイルを再構築してくれる。
何が原因なのか定かではないのですが,印刷の際,用紙サイズがずれるという事態がちょくちょく発生します.
まあそういうことを抜きにしてもバージョンごとに互換の問題が生じるのは MS Word の機能みたいなものであるのはいうまでもないことですが,それにリテラシーの問題が加わると問題がさらに拡大されるということで.
このように主観形式の絶対のみを強調して客観内容を単なる相対主義に委してしまう主観主義の傾向は、何もカント特有のものではなく、近代思想一般の特色にさえなっている。古くはプロテスタンティズムの秘蹟論、信仰論がそれである。伝統的なカトリック教会では秘蹟の事効性(ex opere operato)と人効性(ex opere operantis)とを共に説くのであるが、プロテスタンティズムは後者の人効性のみしか認めないのである。つまり前者の事効性とは秘蹟を行うものの主観的条件にかかわらず、実際に行われたという客観的事実(洗礼、聖体、告悔等)に基づいて秘蹟の効力が定まる、すなわち、聖寵が客観的に付与されるとすることであり、後者はそれを行うものの主観的条件(例えば、誠実さの度合等)如何によって客観的に付与された聖寵が主観的に果実を結ぶということを意味している。ところが主観的条件のみを絶対視するプロテスタンティズムは、秘蹟によって客観的に聖寵が与えられたか与えられないかとは無関係に、ただ主観的な条件のみによって聖寵の実効を期する、つまり、事効性を無視して人効性のみによって秘蹟を説明するのである。またカトリシズムでは、「信ぜられる信仰」(fides quae creditur)という信仰の内容の客観的教理内容と「信ずる信仰」(fides qua creditur)といわれる信仰の主観的な誠実さとを共に認めるのであるが、プロテスタンティズムはいきおい主観的条件に属する後者のみを重視する結果、前者たるキリスト教の啓示内容に権威を容認しないで、かえってそれを相対視して、矛盾相違する教理内容すら主観的誠実ささえ保たれるならば、平等に認めるようになった。シュライエルマッヘル(略)流の主観主義では、同じプロテスタンティズムの中でさえも教理的に多くの分裂を惹き起すことは必至である。
以上では古い例を掲げたが、新しくはアンドレ・ジイド(略)の「誠実(サンセリテ)」の倫理である。「精神一到なにごとか成らざらん」というわけで「誠実(サンセリテ)のあるところに客観的な善徳も背徳もなく、「誠実(サンセリテ)」のないところに一切の偽善があるのみである。「誠実(サンセリテ)」は確かに主観的条件で、それの強調はそれによって「なにごと」がなされるかを問わないことになり、勢い客観的な行為内容についての相対主義に陥り、「窄き門」と「背徳者」とが共存することになる。この考えは現代人に強く訴える力があり、やがて主観ないし主体の「全裸性」ともいうべき実存主義への準備ともなるのである。
アナロジーで(『どう考えるか(2) 知識と人間』二玄社)考へるし、説明して納得させるのでなく
言わず語らずのうちにさとらせようとする。今の時代、それでやつてゐて良いのか、と云ふ反省が必要とされてゐる。即ち、事理の正邪を論理的に考へる事が要請されてゐる――と云ふ事を言ひたいのであるが、そのやうな主張は、ヨーロッパの相對主義によつて、既に相對化されてしまつてをり、多くの日本人には「解決濟み」の問題と考へる事しか出來ない。だが、やはりそれでは、近代文明の受容れ方として、不十分である。不十分である、と言つても、疑念の表明以上のものではないが、さうした相對主義への疑念の表明を行つてゐるカトリックの立場の存在が、ヨーロッパ社會では、相對主義そのものに比べて決して小さくない、と云ふ事實に、なかなか日本人は氣附けないでゐる。
落ち無いけど
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小林氏の発言は本当にその通りだつたのか、そのとほりならば私は(私の)論理によつてかう解釈ができる。
私は最初から解釈しか問題にしてゐないことは先ほど言つた。
と言つても、礼儀と論理を論争では分けろと主張する野嵜氏は、やはり分からないのだ。つまり、生き方が一貫してゐないのである。事実、私は野嵜氏の一貫してゐない箇所をいくつも挙げた。
確かに、私は背理法的に引用と解釈の説明を要求したが、その要求の仕方が分かりづらく駄目だつたといふのはそのとほりである。
私は常識的に、論理は礼儀があつて初めて成り立つとものだと思ふし、その礼儀とは生きる上での方法であると考へる。それが私の思想の根本なのである。人間が如何に生きるか、如何に人と会話するか、如何に書くか、如何に読むか。これらが一貫してゐないと、その人の思想はただ口だけの信用ならぬものとなる。と加納氏は述べる。加納氏は、論理の正しさではなく、説得力を重視する自分の態度を表明してゐる。これが私には氣に入らない點だ。徳保氏が論理的正しさを輕視するのと同樣、加納氏も論理的正しさを輕視するのが、私には氣に入らない。加納氏にとつて、正しさを保證するものは、論理よりも、論者の態度である。そんな馬鹿な話はないのだが、加納氏は大眞面目である。大眞面目に間違つた事を言ふ人くらゐ、困つた人はゐない。
ネットだのチャットだのは、異常者の共同体だと思え。の「ネットだのチャットだのは、異常者の共同体だ」が全稱命題の文章である事を重視すべきである。小林が「思え」と言つて押附ける思想を,全稱命題で表現してゐる事は、正しく認識すべきである。そこではじめて、文脈による思想の適用範圍の檢討が可能になる。
たとへば女の子と付き合つてゐるとしよう。そしてその子が、誰かと喧嘩をして、自分が悪いにも関らず相手に文句を言つてゐるとする。そのときにとる立場はいくつかあると思ふけれども、その中でかういふ立場がある。それは、今は取り敢へず宥めることを先決にし、落ち付かせてから段々とその悪いところを気付かせてやる、といふ立場。これは、野嵜氏の言ふ「政治的」の意味ではないが、本来的な政治の意味である。
また、こば氏の引用が不十分で解釈が定まり辛いといふ指摘はあたつてゐたといふ点で私の「勝ち」でありこば氏の「負け」なのである。と加納氏は述べてゐるが、さう云ふ形の勝負はないのであり、加納氏がそれを設定したのがそもそも不當である。そして加納氏は、
しかしこれは、こば氏が違ふ解釈を提示したことにより、崩れたのだ。これは私の思考力が及ばなかつたといふ点で「負け」であり、解釈を提示できたこば氏が「勝ち」である。と述べてゐるが、こちらの「勝負」ならばまだ「妥當な勝負」である。
私が「論理の正しさではなく、説得力を重視する自分の態度を表明してゐる。」とする根拠は不明である。氏は、私を「論理主義者」なるレッテルを貼つてゐたのに、今さらかういふことを言ふのだが、それは兔も角、説得力をつけようとするのは当り前のことだといふことが、野嵜氏には分かつてゐない。
不十分で解釈が定まり辛いと云ふ理由で、とぼけてゐるのである。
私は、論理的に正しく、説得力をもつて語りたいと思ふ。と加納氏は言ふ。だが、
説得力だけなら詐欺師も持つてゐるのであり、「説得力を持つ事」はそれ自體、論理的に正しい事の論理的な根據とならない。
私が小林氏の「否定的な意見に反應した」といふことで、「加納氏が小林よしのりに興味がある、それも好意的である事を意味してゐる」とはならない。
私は、私の小林氏の言論についての解釈が誤だとは思つてゐない。思つてゐないから正当であることを証明しようとした。
野嵜氏の掲示板にも、私よりきちんと分かりやすく野嵜氏の引用の間違ひや論理の指摘をされる方々がたくさんいらつしやるけれども、そのやうな行動は「不氣味」なのか。
今度は経験則で相手を印象操作しようとしてゐるが、それは今に始つたことではないのでこれ以上は言はないでおく。
それよりも、野嵜氏はそれを証明しようとして文章を続けてゐる。
証明しようとしてゐるのだから、論證であつて、
印象操作でない事は明かなのだが、加納氏は
印象操作だ、と極附けるのである。
言つてゐるといふならば、引用して御覧なさい。
これは私の思考力が及ばなかつたといふ点で「負け」であり、解釈を提示できたこば氏が「勝ち」である。
「飽くまで疑念を呈してゐる」とはよくいつたもので、その「疑念」から徳保氏流の「論理」を「レトリック」と称して書いたことはもう忘れてゐるらしい。
そして、「シンプルに説明出來る」からそれが「正しい」わけではないし、そもそもその手の「疑念」を前提にした時点で論理的ではなく「論證」でもない。
野嵜氏は、私の読み方を「「讀みとつてはならない事」を、屁理屈を故事つけて「讀みとつてしまふ」誤つた方法」などと決め付けてゐるが、私がそれについて説明しても反論せずにそのまゝにしてゐる。
そしてあらうことか、野嵜氏は「「小林の論じ方」と云ふ全體の觀點」を語つて仕舞つてゐる。
私は野嵜氏の発言にはすべて返信してゐるつもりだが、そのことごとくが一貫性のない非論理的な印象操作で、そもそもの原因が読んでゐないことを挙げてゐるのだが、それを「個別の事柄では尤もらしいけれども、全體として支離滅裂」とするのはどうかしてゐるし、それは野嵜氏自身なのである。
私は「小林シンパ」なる「解釈」には論理的な妥当性がないといふことをいくども述べた。
では私にどうしろと言ふのだ?
野嵜氏は過去に自分の書いたことを覚えてゐるだらうか。これらはすべて闇黒日記のバックナンバーからの引用である。
左翼は、戰略的に、疑惑を仄めかす事が多い。自分の氣に入らない對象に惡い印象を與へる爲だ。を加納氏が引用したのは、それこそ如何なものか。加納氏こそ、最初にkoba-koba氏の引用に疑惑を仄めかしたのである。
それはそのとほりなのだが、私は否定してゐないし、それが「正しい」と思つてゐる。にも関らず野嵜氏は私を「非道徳的」であると言つて批判するのだが、それは、氏が相変らず文章を読めてゐないからだ。
引用とは「筆者の説を補強する爲に傍證を示すもの」ではない。自説と原典との対話であり勝負である。
この人、さつき自分が言つたことも忘れてゐるらしい。
「論理的正しさ」と「説得力」とは、「あれか、これか」の對立的な概念ではない。と書いたのだが。論理的な「正しい」「正しくない」は、對立的な概念である。
「論理の正しさではなく、説得力を重視」してゐる云々といつて「對立的な概念と無關係なもの同士を並べ」たのは野嵜氏である。二元論の人間がものを二つ並べたら二元論か。この種の、理窟を考へないで適當に相手の言葉を繋ぎあはせるやり方を、加納氏は屡々とる。
しかし、野嵜氏は氏の「二元論」で私の一元論を論破できてゐないのだからどうしやうもあるまい。
私は野嵜氏の前提を論理的に否定してゐるのに対し、と言つてゐるが、加納氏が私の二元論的前提でなく、加納氏自身の一元論を前提にしてゐる事は、明かである。或は、私の理窟でなく、それを加納氏流に演繹した理窟で、私の前提をでつち上げてゐる事は、明かである。
「こちらの意圖を全然理解しない」文章を展開したのはどちらなのか。何と言ふか、かうやつて、人の文章を變な風に利用してゐるのは、如何なものかと思はれる。引用するなら、それなりに敬意を拂つていただきたいものだ。加納氏の前提が崩れてしまふではないですか。
野嵜氏は徳保氏と私を同列にならべるといふ前提をおき、私がそれを全然違ふものだと否定したのにも関らず、無視したのは誰だ。前提を置きではなく、それが結論だ。話が逆轉してゐる。また、加納氏の「否定」は、證明ではなく、常に宣言である。本人の宣言くらゐ、當てにならないものはない。自分で自分を説明する時、人は屡々飾つて言ふ。
わらい。つて何だ? 加納氏は「偉い人に噛み附いたんぢやない。馬鹿を見下したんだ」とでも言ひたいのか? 加納氏、變なところにプライドがあるやうだだ。
もうこの人、自分の妄想だけで話進めているから、論理も糞もないんだが。と云ふ言ひ方も、何うかしてゐる。妄想的なのはどつちだらう。そもそも、koba-koba氏の日記のコメント欄に書込んだ加納氏の文章が、訣のわからない非論理的な言ひがかりだつたのである。加納氏の要求がさつぱりわからなくて、koba-koba氏も困つただらう。
わらい。等と平氣で書けるのだ。かう云ふ思ひ上つた加納氏こそ、知的怠惰であると言へる。
どうしてこのような補記になるのか、私には全く解らないのですが、小林氏が「思え」というのは、つまり、全体ではないけれども、そう覚悟するする必要があるだろうという意味なのではないのですか?そうならば、「ネット全体を指している」わけでもなく、必然「的外れな意見」ではなくなります。
私はそこで、果して小林氏は「ネット全体を指している」のか?という点を問いただした。
暫定的に、讀者は筆者を信用して讀むべきである。
思考停止して読めってことですか?翻弄されろってことですか?
もし疑ひがあるのならば、讀者の側で原典に當つて、筆者の誤を指摘しなければならない。
筆者の側に説明責任はない。
説明責任はなくても誤りを指摘されることはあるってばよ。
そのことに関して予防線張らないのはただの阿呆にしか思えないけれども。
或る意味で私の勝ちだつたり負けだつたりするのならば、加納氏が居丈高な態度をとる事は許されない。
以前小林よしのりが「ネットやチャットは異常者の共同体と思え」と言ってネット全体を指している事から的外れな意見には違い無いですが。
どうしてこのような補記になるのか、私には全く解らないのですが、小林氏が「思え」というのは、つまり、全体ではないけれども、そう覚悟するする必要があるだろうという意味なのではないのですか?そうならば、「ネット全体を指している」わけでもなく、必然「的外れな意見」ではなくなります。
一体粗雑なのはどちらか?十九世紀以降文学や思想は、宗教や道徳と密接に関りをもつてきた。それは当り前の話で、人間の精神や観念の働きが行動と密接不離だからである。それを考慮せずに、本来概念的な分類ですますべき事柄を、わけてしまふところに、いはゆる「松原一派」の誤がある。
松原氏は自衛隊員とお話をされてゐるが、では聞く。もしこれから日本が戦争になつたときに、その自衛隊員に、「日本は大義ももたない戦争をするが、政治的にしやうがないので行つてこい」と言へるのか。
福田恆存のいふことはすべて正しいのかとくつてかかつたんだらうねえ。
私は、こば氏に対しては、その意見が正しいのならば、きちんと引用してくださいと言つただけだし、引用が正しければその補記は違ひますよねと言つてゐるに過ぎない。そして、こば氏が納得できる違ふ解釈を示してきたら私はきちんと折れる。
本当によく分からないのですが、私はこの引用で「koba-koba氏の態度」を問題にしてゐるのでせうか。
といふか、私は、かういふ読み方もありますねと言つたに過ぎない。「如何」と言つたに過ぎない。
量が多いので探すのに時間がかかりますので「こんなもの」といふのを書きますと、
論理的ということ/それは議論が霧散しないための最良の方法なのだが、それが出来なければこば氏の仰るとおり、ただの「泥仕合」となる。と云ふ命題は、再び三度、否定されてしまふ。
私たちは結論をださうとしてゐるとは能くも言つたものだ。話し合ひですか。
失礼千万なのは加納氏自身だ。
よくも知りもしないくせにとは良く言つたものだ。加納氏の最初のコメントを讀めば、加納氏が間違つてゐる事はすぐに解る。
かたをもつふりもないものだらう。私は、論理的にkoba-koba氏が正しい、と言つてゐる。
これのどこにもないだらう。俺が「これ」を問題にしてゐると言ふのか。勝手讀みも大概にし玉へ。
そして現在も、購読はしていないが毎回立ち読みで(しかも流し読みで)SAPIOは読んでいる。
私は最初から小林氏の発言は分からないと言つてゐる。
では野嵜氏が某「お兄ちゃん」を罵つた事実はどうなるのか。
私は権利の話をしてゐるのではない。礼儀の話をしてゐるのである。
まだ私が負けを認めたり反論を述べる可能性が多々ある段階で、よく読みもしないで口をだし勝手に結論付けることを問題にしてゐる。
「毎回立ち読みで(しかも流し読みで)」といふのが「追つかけ」らしい。SAPIOは小林氏の雑誌らしい。
そして現在も、購読はしていないが毎回立ち読みで(しかも流し読みで)SAPIOは読んでいる。と云ふ文章、加納氏が「自分はSAPIOを立讀みして、小林氏の漫畫を素通りする」と言つてゐるものだとは思へませんでしたもので。
- 平成十六年一月二十八日
- 遊びで石を投げつけられるのは迷惑だ。
- 遊びで人を間拔けに見せかける風説を流されるのは迷惑だ。
- 遊ぶな。
では野嵜氏に問ふ。この論争は果して勝者や敗者はゐるのか?
あるサイトにアップされた文章が、不確実な引用の元に結論を導き出してゐたとしよう。それは責められるべきことではないのか?
しかし、これは前にも違ふところで言つたが、その論理に対して別の有効な論理をぶつければ、その論理は崩れるのである。
ふざけたことを言ふもので、私は当初のコメント欄で「俺樣の解釋が絶對」といふ「居丈高」な態度はとつてゐない。
あつさりといへば、どこからどこまで引用するのかといふ点で、引用者が本当にその文章を理解してゐるのかが分かるといつたことだ。
私は論理も問題にしてゐるし礼儀や態度も問題にしてゐる。
私がこば氏の記事の引用部分とそこから導いた結論に疑問を投げかける。
実際、こば氏の引用は不十分だつたではないか。
「原典を見たらkoba-koba氏の方が正しさうだ」とは思つてゐないし、私が正しいとも言ひ切れなくなったといふことだ(だから「如何」と書いてゐるではないか)。
正しいとも言ひ切れなくなったのなら、引込めよ。
何が問題なのか?
あの表現の仕方では文脈を考慮したとしても「ネット言論=匿名=全員やりたい放題の異常者」という主張と読むのが一般的な解釈だと思います。
頭の惡いといふことだけが罪惡だ。
教育の、可能な内容は、たゞに科學ばかりである。
近代都會の中では言葉を少くする必要がある。
面白くもないものを讀まぬこと。
多分、繪畫の前でよりも音樂の前でよりも文學の前で人々は不遜である。多分、言語なら知つてゐるぞといふことから。
音樂の前でよりも繪畫の前で人々は不遜である。――樂器よりも鉛筆の方が手近かにある……
わしに言わせれば、ネットは『便所の落書き』である。しかも己れのクソで書いた落書きである。
日本社会は急速に「ネット思考」と「短絡世論」に落ちていっている。ネットだのチャットだのは、異常者の共同体だと思え。大人たちよ、少年少女を、意識下の迷路から救い出せ!
ネット全体を指していると判斷出來る。