闇黒日記

平成十六年十二月三十一日
37.0度→36.7度。
ねます。
平成十六年十二月三十一日
某サイトの作り直し。
從來「縱書きサイト」と稱してゐたサイトなので、「縱書きにしなくても良い」と言つて貰つてゐるけれども一往、それつぽくしてみようと思つた。
で、振分け機能(<!--[IE5]>)と縱書き機能(writing-mode:tb-rl)とを組合せて、Internet Explorer 5.5以降限定で「縱書き」になるやうなものを作つて見た(IE以外でもまともに見られるやうに、IE 5.5以降のみ振分けて專用のスタイルシートを讀込ませる)。が、最うぶち切れですよ。
Internet Explorer 5.5 における縦書きレイアウトの使用
つまり、BODY 要素は、内部に縦書きレイアウトを持つ要素が含まれていても、常に水平にレイアウトされることを意味しています。
横書きの世界の中に縱書きのボックスを作らせようと云ふのだから、完全に阿呆の考へた仕樣。横書きで書字方向が「左から右へ」「右から左へ」の「世界」が言語的に「あり」とされるのならば、當然、縱書きで書字方向が「上から下へ」の「世界」も「あり」にしなければをかしい。ペインの基點を右上に設定したブラウザを「あり」にするのがマイクロソフトの義務。と言ふより、「縱書き」「横書き」への對應は、Windows自體でするのが筋。日本語のやうに、縱でも横でも構はない言語もあるので、きちんと選擇出來るやうにすべきだ。
取敢ず、マイクロソフト仕樣の姑息な「縱書き」が、W3Cの正式の規格に取込まれない事を希望する。「横書き前提のUser Agent」を想定した規格を、ウェブ標準として作られてしまつては困る。
平成十六年十二月三十一日
二十九日に新宿京王百貨店の歳末・新春蔵開き古書市を見てきた。業者でないから参加はしてゐない。今囘は、規模が小さい方の古書市。山田孝雄『五十音圖の歴史』が出てゐたけれども四千圓なので買はなかつた。「言語生活」1969.No.214、湖南内藤虎次郎『東洋文化史研究』及び『中國近世史』を購入。
平成十六年十二月三十一日
餘りに不具合が多いので、某サイトの縱書き化計劃は獨斷で取止め。獨斷で始めたのだから問題ない。
平成十六年十二月三十一日
一月二十九日はOKです。よろしく御願ひいたします。

平成十六年十二月二十九日
HTMLでぐぐれ。
……何う云ふ事?
平成十六年十二月二十九日
あれれ、闇黒バナーを雪だるまに變へたら、今日は一日、雪だつたよ。
平成十六年十二月二十九日
某サイトの手直し。
取敢ずとっぷぺーじから弄り始めたのだけれども、餘りにも情報が混亂した形で並べられてゐるので、その整理が必要だと斷定。ディレクトリの切直し、文書の再配置をばんばんやる。
もちろん、文書自體のマーク附けも全部直す必要がある。HTML Tidyであんまりにもあんまりな記述を修正してから手作業で作り直し。
と、中間報告。
私見は書込まない積りなので、思ひ附きでぶち込んだ文言をさつくり削除。と言ふか、あれはあそこではやばいだらうと自粛。そんな訣で、自分のサイトで使用してみたり。
平成十六年十二月二十九日
今度、ここ使ひません?
歐州料理【BISTRO BERLIN】

平成十六年十二月二十八日
午前樣。新橋より歸投。
ムスメット最終囘の頭が一秒ほど切れた。氣にしたら負けかも知れないので氣にしない事にする。
平成十六年十二月二十八日
いろいろとアレな噂が流れてゐる玉川大学出版部版『國語問題論爭史』が出る。
平成十六年十二月二十八日
オタクとは、目的であるXを達成する爲に、最小限の努力で最大の效果を擧げようとする、合理的な人の事である。と定義する。
日本人は合理主義を學ぶべきである。
ならば、日本人はすべからくオタクになるべきである。
ええと、私はオタクは認めるけれどもフェチは認めませんので。
平成十六年十二月二十八日
日本語練習中 - LCフォントとその周辺
平成十六年十二月二十八日
「ライトノベル☆めった斬り!」のオーフェンの紹介文、アザリーをアザリンと誤植。

平成十六年十二月二十六日
二十七日は事務所に直接集合、と云ふ事で良いのですか?
平成十六年十二月二十六日
「Φなる・あぷろーち」最終囘。最後はおまけの馬鹿話。
平成十六年十二月二十六日
ローゼンメイデン、最後はエヴァ風味が入つたけれども、まづまづ。水銀燈あはれ。
個人的にはDearSの方が好きなのだけれども、世間的にはもえもえのローゼンメイデンの方が評價は高さう。

平成十六年十二月二十五日
本棚から。
龜井勝一郎『私の人生觀』(文藝春秋新社)
平成十六年十二月二十五日
山崎のロールパンから蟲が出て來た。赤茶色の、ありんこみたいな奴。
平成十六年十二月二十五日
舞-HiME - 風華学園オフィシャルWeb
「第三回風華祭」。ただの人氣投票。
なつきクライシス!

平成十六年十二月二十四日
天長節の昨日、別に皇恩なんてものを感じない現代人の私は平然と夕方三時過ぎまで惰眠を貪り、無爲に時を過ごしたが、實にもつたいない話。全くもつて休日は時間の經つのが早いものである。云々。
で、世間樣は普通、寢るべき時間になつてから、AT-Xの吸血姫美夕インテグラルなんてものを觀たのだけれども、これ、何度觀ても早見さんらしいなーと。本人を知つてゐるか知らないかでこれは樂しめる度合が變つて來る。氛圍氣がいかにも早見さんなのです。ええと、美夕TV版は、貶す人も多いけれども、樂しい御話です。ホラーになつてゐます。ホラーは、時々仕掛けが見えてしまつて、失笑出來るものでないと。云々。
で、その後、BS-iのローゼンメイデンを觀たり、キッズステーションのカレイドスターを觀たり。WindowsXPのネットワークの設定ではまつたり。云々。ねます。
平成十六年十二月二十四日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20041223#p1
まあこれでこの話題は終了でよいかと思う。
と云ふ事なので、この話題は終了と。
で、此處から私が「天皇制」なる虚構の問題に話を移して行つたりすると、渡邊さん大迷惑。
神社神道では、「今の神道のシステムは明治に作られたものだけれども、一度それでやり始めたのだから、これからもそのやり方を續けるしかない」、と考へてゐて、だからこそ、「國家神道」のいろいろな問題點をも引繼いだ神社神道を戰後も維持してゐる。で、この考へ方を述べた文章の、「神道」を、「天皇」「皇室」或は――左翼用語で嫌な言葉だが――「天皇制」と置換へても、私は「良い」と思ふ――或は、「憲法」「歴史的假名遣」等に置換へても良いと思ふ。明治時代に「西歐」の文化・文明を受容れた日本國においては、さう云ふ形でしか、近代における「傳統の維持・繼續」は、あり得ない。そして、傳統は意識的に維持し、繼續すべきものである。なぜなら、傳統は、意識の上で斷絶されると、慥かに表面的には消滅するが、無意識の領域に逃込み、復讐を果すからだ。縱令、「天皇制」――實は、左翼の言ふ「天皇制」なるものは存在しない――を廢止ししたとしても、それで日本人は即座に封建的な精神を捨去る事など出來ない。税金で飯食いやがって早よ死んだらええんや、と言ふ「あるおじさん」は、一見合理主義的だが、その發言の根柢にあるのは單なる嫉妬である。實際のところ、日本の進歩主義者に、この種の嫉妬、敵を見下す態度、右翼と看做す相手を嘲笑する姿勢が、無かつた事は滅多にない。彼等のそのやうな意識は、私にはとても進歩的なものには見えない。戰爭に反對し、國家に對して個人の權利を主張する人が、常に寛容の精神を缺いてゐるのは、私には餘りにも奇異な事に見える。そこにあるのは、左翼の渠等が罵る右翼の人間と、全く同じ、排他的な精神である。口先許り平和と寛容を唱へながら、その實、極めて排他的な精神を持つ左翼よりは、まだしも右翼の方が正直であり、論理的には筋が通つてゐる。しかしながら、左翼にはその邊の問題が、問題として意識されない。彼らは、進歩すべき事を悟つてゐるからだと言ふのである。だが、さう言ふ彼らは、常に革命精神を要求し、漸進的で合理的な進歩を主張する人間を嘲笑ふ。ここに私は、かの大東亞戰爭の時の右翼の鼓吹した精神主義を、再び左翼に見出すのである。だから、本質的に日本人は、發想を轉換して、合理主義をとらなければならないのだが、さう言ふと、再び合理主義はイデオロギーと化し、精神主義に陷つてしまふ。結局のところ、「合理主義の傳統がない」と云ふ日本の傳統が、何時まで經つても解消されないで、根強く日本人を支配し續けてゐるのである。
平成十六年十二月二十四日
クリスマスなんかちつともめでたくねえや、と云ふのが虹裏「」の總意。
日本では、聖書で禁じられてゐるあんなことやこんなことを樂しくやるのがクリスマスイヴらしいですよとクリスチャンの某Yさんに。もつとも、イエス樣にしてみれば、クリスチャンでない人間の事なんか、何うでも良いのでせうが。非キリスト教徒は、何んなに良い人でも、死んだら、煉獄のはしつこの方に住まなければならないらしいです。ダンテ『神曲』に據る。
平成十六年十二月二十四日
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々しき小説である『坂の上の雲』なんかよりも、福田和也の『乃木希典』の方が短いのでまだ増し。
それよりは古川薫『軍神』の方が良く書けてゐる。と思ふ。
平成十六年十二月二十四日
虹裏みながら中原めいこ。

平成十六年十二月二十三日
なんか今はやつてゐるらしい。
ゆずゆ
平成十六年十二月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20041222#p1
まず道徳について。私は道徳とは第一に共同体の規範であり(例えば宗教の戒律)、第二に個人が自律的であるための当為に基づく実践であると考えている。
第一のものは「徳目」と呼ばれるものです。第二のものですが、實踐であると云ふ點については部分的に同意します。但し、自律に據るか他律に據るかが重大な問題である事、また「当為」に從ふ事も從はない事も共に道徳的である事を、私は主張します。
他者との人間關係が、やり直しが效く效かない、と云ふ點で、相對的か絶對的か、と云ふのは、問題になりません。それは、本質的に人生はやり直しが效かないものである、と云ふ認識に據ります。そして、それは價値相對主義と何の關係もありません。
共同體には異るレヴェルのものがある、と云ふのは、慥かに事實です。儒教では、修身斉家治國平天下と言つて、やはり段階的な考へ方をします。しかし、修身斉家と治國平天下との間に決定的な斷絶がある――と云ふのが私の考へです。それ以外のレヴェルの差異は相對的であるが、この間の差異は絶對的である、と考へます。別に、治國のレヴェルでも平天下のレヴェルでも發言して構はない――が、それは結局、政治のレヴェルの發言であり、道徳のレヴェルの發言ではありません。
「従軍慰安婦」なる「フィクション」が發生するのにもそれなりの必然がある――と云ふのは、理窟では解ります。が、それならば「女を見たらレイプしたくなる」と云ふ鬼畜な發想にも「それなりの必然がある」と云ふ事になつてしまふのではないですか。
戰爭犯罪については、戰爭が他の手段を以てする政治の延長である以上、道徳的な問題となり得ない事は自明です。ただ、重要なのは、飽くまで政治的な問題である以上、政治的のレヴェルで謝罪して見せるパフォーマンスが可能である、と云ふだけの話であつて、それを歴史的とかヒューマニズムの思想とかの觀點から評價する事は絶對に許されない、と云ふ事です。この點で、例のYahoo!掲示板等で「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」は「あつた」と主張する連中は根本的な勘違ひをしてゐました。裁判所で「従軍慰安婦」が「事実」として「認定」された――それを、歴史的・思想的に評價出來る事と考へるのは、根本的に政治と歴史・思想とを混同した考へ方であると言へます。
道徳は個人を救濟するか――個人に幸福を齎すものとはもちろん言へません。が、幸福を齎す事が救濟であると言ふ事は、道徳的な觀點からは必ずしも言ひ難い――少くとも、「何もしないよりは惡い事をした方が善い」と云ふ發想の下では、言ひ難いと思ひます。その生が不幸であるにしろ何うであるにしろ、その生をまざまざと感ぜしめる――苦惱なり歡喜なりを、まざまざと實感せしめる――それが道徳の、文學の、宗教の使命であると、さう福田恆存は述べてゐますし、私は福田氏の意見に贊成します。
キリスト教に於るGodは、人間に不合理な戒律を押附け、嫉妬する、怒れる絶對者であり、同時に、全ての人間の積んだ「天の寶」を確實に知り、それに報いる、愛の絶對者でもあります。クリスチャンの連中にとつて、誰も知らない善行も、誰も知らない惡行も、Godには見られてゐる、と云ふ意識があります。私はGodを信じない神道の國・日本の日本人です。が、さう云ふ日本人にとつては、善行をするのも「痩せ我慢」に據るしかありません。Godなる仕組は、人間に道徳的態度を強ひる極めて巧妙な仕組であると言へます。
文藝作品の美は構造の美である――と云ふ發想は、サルトルの發想と似てゐるのですが、根本的に異ります。サルトルは『嘔吐』で、この世界の事象が全て全くの無秩序であり何の必然性もない偶然に支配されてゐる事に氣附いて「嘔吐」する主人公を描いてゐます。その主人公は、嘔吐すべき世界に於て、必然に支配された秩序としての藝術に慰めを見出します。福田氏のサルトル論は興味深いものです。ただ過去から現在、そして未來へと一直線に流れる時間の流れの中に、一日、一週間、季節、一年、等々、の區切りを見出して來た人間の行爲――リニアな時間の流れに見出される圓環の繰返しを、福田氏は、平板な生に定期的にリズムを再賦與するものと見ます。ギリシャの演劇において悲劇に引續いてサテュロス劇が演じられるのを、福田氏は冬に一年が死んで春に新年が再生する事を象徴的に表はした再生の儀式であると見ます。そして、藝術とは死と再生を演ずる儀式である、と言つてゐます。
趣味や嗜好に基いた判斷は、樂しみの判斷として、あり得ます。が、私は、人生觀にまで結び附いた味はひの判斷こそが、藝術的判斷には重要であると考へます。
平成十六年十二月二十三日
あれれ、鞄の中から『岩波講座日本語別巻 日本語研究の周辺』が出て來たよ。三日めの收穫。本書所收の鈴木孝夫「日本語學はなぜ成立しなかったか」は、良い文章なのだけれども、讀めと言つても讀む人、少いだらうなー。
平成十六年十二月二十三日
主体性の問題
左翼の皆さんは、日本の國家が命令で「日の丸・君が代禁止! 絶對嚴禁! 違反したら死刑!」とか言つたら、「強制反對!」を叫ぶのですかね。
主體的に考へるべきだとか強制反對だとか言ふ人でも、内閣告示で強制された漢字制限とか「現代仮名遣」とかには大賛成なんですからねえ。
どうせ結論が先に決つてゐるんだよ。主體性だの強制反對だのは、目的を達成する爲の戰術的言ひ訣に過ぎない。

平成十六年十二月二十二日
買つて許りだと財布が輕くなつて部屋の中が狹くなつて行く一方なのだが、だからと言つて、手持ちの本を讀んだところで、今ある本の山が小さくなる訣でもないので、讀まないうちからまたぞろ古書展で古本を買込んで來るのである。
と云ふ訣で新宿展。
一日め。吉川幸次郎『論語のために』(筑摩書房)、司馬遼太郎対談集『日本語と日本人』、筧泰彦『日本語と日本人の発想』(日本教文社)井上幸治・林健太郎編『西洋史研究入門』、Donne "Select Poems"。
二日め。ヴァレリイ全集第六卷、クルチュウス『フランス文學』(樂浪書院)、辰野隆『印象と追憶』、『ショウ一幕物全集』、アーノルド.J.トインビー『交友録』(社会思想社)、大類伸『改稿 西洋中世の文化』(冨山房)。
三日め。林健太郎『流れをとらえる』(新潮社)、文部省『国語科学習指導法(表記編)』、国語国文学研究史大成15『国語学』(三省堂)、山田孝雄『奈良朝文法史』(昭和二十六年寶文館)。最終日にこれだけのものが殘つてゐるのは信じられない。しかも千五百五十圓。
さてヲタとは或目的に最短距離で到達しようと言ふ人間の事であるから即ち合理主義の人間であつて日本に合理主義を定着させる爲にはヲタと云ふ存在を日本に定着させなければならないのである――と先日、某所の呑み會で演説したのだが。
平成十六年十二月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20041221#p2
政治と道徳を混同してはならない、というのは、確かにわかるのだが、しかしそれはある事象に関して、それを「政治」と「道徳」という領域に振り分けそれらの間は没交渉である、というようなものではなく、ある事象を考えるときに、それを政治的に考えるときには道徳性はいったん考慮から外す、また同じ事象を道徳的に考えるときは政治性は考慮しない、といったような区別の仕方をするものだ、と私は思っている。
沒交渉と言ふよりも、別次元なのだけれども。或事象は、人間の行爲であるならば、道徳的なものであるか、政治的なものであるかだ。見方によつて事象が政治的に見えたり道徳的に見えたりするものではない。道徳と政治とは、絶對的に區別されるものだと私は考へる。政治がマイノリティに優しくなりつゝある――それは事實であらう。しかし、マイノリティですら、既に個人ではなく、社會的集團であり、一種の共同體である。共同體の生存維持の原理は全て政治の原理である。道徳の原理は個人が善い生き方をする爲の原理である。そして今、「善い生き方」と言つた時の「善い」は「良い」とは違ふ意味を持つ。それは、幸福や安穩を――必ずしも――意味しない。苦惱や葛藤もまた、「ゼロではない」と云ふ理由で、道徳的な善に屬する。これは、共同體に於いては絶對的に存在しない理念である。共同體は苦惱しない。共同體には、生存・生命の維持のみが原理としてあり得る。政治は、協同體の全體としての維持のみを支援し得る。政治は、個人の苦惱を全的には救濟し得ない。國家に據る謝罪は、屡々、個人を喜ばせるが、實は謝罪ではなくポーズである。謝罪の主體としての國家と言ふものはあり得ない。謝罪が道徳的な行爲であるならば、その主體は個人である筈であり、あるべきである。共同體に據る謝罪はあり得ない。
國家の域を越えた範圍の聯帶は、早く第一次大戰後に提唱された。そして、國際聯盟以後の世界の政治の歴史は、さう云ふ氛圍氣に基いて流れてゐる。これは林健太郎が指摘してゐる。しかし、それは政治的氛圍氣に過ぎない。實際のところ、さう云ふ氛圍氣に迎合する事が政治的に有利だから、政治家は迎合してゐるだけである――世界的に見ればの話、日本の政治家には勘違ひした人が多い――。國際的な聯帶と協調の氛圍氣に反したファシズムは、ナチスのV-2ロケットミサイルによる攻撃があるとの情報をキャッチしながらターゲットの町に警告を發しなかつた政治家チャーチルらに據つて粉砕された。そこにあるのは、自國の勝利とそれに據る自國の國民の總體としての生存の維持を實現する爲の、冷徹な政治の原理である。
その冷徹な政治の原理は、現在の日本の政治家には理解されてゐない。それは、日本の國民に理解されてゐない爲である。「従軍慰安婦」の問題にしても、それは所詮、政治の問題である。「従軍慰安婦」の「被害者」の女性は現在、日本人ではない。彼等の行動は、結果として、單に日本を不利にし、韓國なり支那なりを有利にする。マイノリティの救濟として、「従軍慰安婦」の問題を見る事は出來ない。日本國の利害――と言ふより、日本國に損害を與へ、韓國なり支那なりに利益を齎らす、それが「従軍慰安婦」問題に於て發生してゐる事態である。何と言つても、彼ら「被害者」が、日本の國家を敵として訴へてゐるのだから、國家レヴェルでの政治鬪爭であり、國家を超越した個人の鬪爭とは言へない。
そして、既に述べた通り、私は「従軍慰安婦」なるものの實在を否定する者である。假に、實在したとしても、個別の軍人による個別の行動について、禁止したにも拘はらず抑制し得なかつたと云ふ理由で、國家が責任を取らねばならないとしたら――「國家の所爲にすれば國民は何でもやつて良い」と云ふ事になつてしまふ。大日本帝國政府が當時、軍人に「レイプしろ」とは命じないで、それとは逆の通達を出してゐた事實はあるのであつて、それでも責任を追及する必要があると言ふのならば、實行犯のそれをこそ追求すべきであつて、國家なる上位組織の責任を追求すべきではない。
さらに、この論理が通用しないとしても、再三述べてゐる通り、私は「従軍慰安婦」なる事象はなかつたと見てゐる。
實は、「従軍慰安婦」なる「事件」の「被害者」が、日本政府の責任を追求する爲には、「事件があり、自分が當事者であつた事」「事件の直截の加害者でなく、加害者の上位組織が責任を取るべき事」の證明が必要である。さらに、それを歴史的に評價する爲には、「國家に據る謝罪」を要求する道徳的有效性の證明が必要である。Yahoo!掲示板でやり合つた連中で、「従軍慰安婦」は「あつた」と主張した人は、その邊の考察を完全に缺いたまゝ「日本は惡い」「日本は責任を取れ」と言つた結論を出し、反對者を道徳的不具者扱ひするのが常であつた。そして今、渡邊さんも、「共感(センチメントの共有)」「人類的連帯」「普遍的な人権」と言つた、本質的に政治的な概念を用ゐ、或意味自覺的に政治的に振舞ひながら、同時に、日本人的な政治と道徳の混同を行つてゐる。その邊の曖昧さは、また「従軍慰安婦」問題は当初韓国のフェミニズム運動から派生した問題であって、アジアで「戦争における女性」という視点がほとんど無視されてきた歴史を考慮すれば、単純に「データが存在しない」からといって無視するべきではないと思う(当たり前の話だが、だからといってデータ捏造が良いとか「やむをえない」とかといっているわけではない)。と云ふ曖昧極まる發言にはつきり表はれてゐる。「共感」が正に渡邊さんの發言の原理である。感情論なのである。そこには徹底した合理主義がない。そして私は、政治に於ては、飽くまで合理主義を採用したいのだ。マキャベリズムと言つても良い。日本にはマキャベリズムの政治が餘りに少い。政治に「道徳的」な感情論が餘りに屡々入り込む。だが、これは逆に、道徳への政治の侵入なのである。私は、政治を守りたくて政治からの道徳の分離を主張してゐるのではない。道徳を守りたい爲に、政治と道徳とを分離したいだけである。
一方、一言述べておきたいのだけれども、マキャベリは、マキャベリズムの反動思想家である訣ではなく、ヒューマニズムの近代的思想家である。これは一時期まで誤解を生じてゐた。
或は、「従軍慰安婦」が歴史的な虚構であるとしたら、その虚構の上に立つてなされたヒューマニズム「救濟」は、實に頼りないものになつてしまふ――そもそも政治的な「救濟」が救濟であるのかと云ふ疑問もあるが。ヒューマニズムを確立する爲にも、やはり、確實な合理的根據に基いた判斷は必要であらう。目の前の「共感」を實現する爲に、嘘を吐くのは、或は、嘘かも知れない事を根據にするのは、何とも危なつかしい事だと思ふのである。やはり、データが捏造かさうでないかに「拘る」事は必要だと思ふ。カトリックに於る聖人の認定の際には、「惡魔の辯護人」に據る聖人に對する批判が行はれる。その批判を悉く論破しなければ、聖人は聖人と認定されない。
なほ、私はヴォルテールを餘り高く評價しない。同情や憐憫から誰かを擁護する事は、決して失禮な行爲だと思はない。地震や颱風の被災地の人々に對する慈善行爲は、決して道徳的な善事でない――殊、日本人にとつて。誰かの役に立つ事は即、善事である、と云ふ訣ではない。他人を惱ます事であつても、人間關係と云ふ道徳的な觀點から見て何もしない惡よりは増しである事がある。グレアム・グリーンが何處かで「何もしないよりは惡い事をした方が善い」と述べてゐる。
例へば、私はせきせいいんこが好きだ。極まれに、せきせいいんこの事を扱つてゐるウェブサイトを見る事がある。それは樂しい時間であるが、時として哀しい時間でもある。小鳥の死が報告されてゐる時、私は屡々悲しむ。だが、それは、例へば「カイルロッド」でミランシャの「死」を讀んで悲しむ事が可能であるのと同じである。しかし、私は漠然と「せきせいいんこの死」なる概念を悲しむ事は出來ない。死なる概念――概念に共感する事は不可能である。漠然と「従軍慰安婦」なる概念――それは概念である――に共感する事は、少くとも私には出來ない。一方で、具體的なせきせいいんこの「はっちゃん」や「ななちゃん」の死の報告に、私は共感し得る。ミランシャの最期は今でも強い印象に殘つてゐる(その後のエピソードもまた)。
Xなる行爲が善の行爲であるか、僞善の行爲であるか――それを我々は、自己滿足の次元で反省する。が、それは我々がストイックの文化の世界に住む日本人だからである。實は、日本人にとつて、自己滿足は單に「汚らはしい」だけの事である。それを絶對的な惡と認定し斷罪する何かは存在しない。その「何か」は、キリスト教に於てはGodと云ふ絶對者である。日本人に絶對者は存在しない。だから、自己満足のレヴェルで滿足しても、他人は咎めるかも知れないが、その他人の言葉に從はなければならない必然性は存在しない。一方で、絶對的・道徳的な善事を爲して、他人に咎められた時、「それでもGodが見てゐて下さつてゐる」と云ふ觀念は、神道の信者である多くの日本人は持ち得ない。ここに、價値相對主義が日本人の間に瀰漫する契機が存在する。それに對して、絶對の價値觀や合理主義を提示する動機は、日本人には――私にも――ない。それらの觀念は全て外來のものである。だが、それでも私は外來の概念である絶對の價値觀と合理主義の――皮相上滑りであつても――模倣を主張する。
ええと。一言で言ふと。「従軍慰安婦」の事なんて知つたこつちやねえやくらゐ言へなければ、文藝なんてものはやつてゐられないと。
だが、絶對の觀念が存在しない日本に於て、文藝は可能なのか、と云ふのが、私には根本的な疑問としてある。現代小説の九割九分までが――スタージョンの法則を持出す迄もなく――屑である。月刊誌に載る全ての現代小説を私は讀まない。だが、讀む價値が無いと私は「知つてゐる」。失禮な事を言ふが、渡邊さんの現代小説も、私は全然讀んでゐないし、讀むほどの價値はないと既に判斷してゐる。笙野頼子ががんばつてゐるらしいけれども、日本人の現代小説は(ほぼ)全て讀むに値しない。まだしも推理小説やライトノヴェルのやうなエンタテインメントの方が好ましいと思ふ。暇潰しに讀むには、純文學よりも電撃の方が都合が良い。此れは證明する必要のない事實だと思ふ。最近のあにめには純文學的な要素が侵入しつゝあるやうで、鬱展開が辛いのだけれども、さう云ふ嫌な話を書く事が純文學だと思つてゐる純文學の作家は――常識的に――少くないやうに思はれる。しかしそれは、嘗ての私小説と同じで、それこそ書き手の自己滿足に過ぎないのではないか。もちろん、私小説にも嘉村磯多がゐて、福田恆存に私小説の極致と評されたのだけれども、福田の作家論で、西歐作家論の諸篇と比べて、日本人作家論が詰らない事は否めない。
平成十六年十二月二十二日
以下、前項までと無關係。
平成十六年十二月二十二日
手塚の漫畫から政治思想だけを讀取らうとするのは如何なものか――とする主張を見掛けた。
ARTIFACT ―人工事実― | 手塚治虫氏と赤旗
だが、政治的な文章からそれとは違ふ何かを讀取るのは、難しいのではないか。小林秀雄はマルクスの資本論を讀んだらしい。感心な事だ。私は、マルクスの政治的な論文からマルクスの人間的魅力を讀取れるほど、文章を樂しむだけの力量はない。
本多勝一の文章は、上手な文章だ。だが私は本多氏の多くの政治的な文章を、政治的であるがゆゑに、樂しく讀めない。例外として、氏の非政治的な本――山登りの本とアムンセンとスコットの本――を、私は大體、樂しく讀んだ。大體、と言ふのは、時々へんな事を本多氏がコメントとして書いてゐるからである。

平成十六年十二月二十一日
十九日、早稻田に「うどん子」なる御店があるのを見附けたので一往報告。
平成十六年十二月二十一日
livedoor グルメ / 東京グルメ / うどん子 早稲田 讃岐うどん
Google 検索: うどん子

平成十六年十二月二十日
Diary / + PCC + / Pasts : 2004年12月19日(日) 字形意識(2)
講談社ゼミナール選書『日本語は乱れているか』を讀んでふむと思つたのは、要するに、國語改革は規範化のためにおこなはれたのだといふことであつた。
土岐善麿が、文藝家協會での座談會で、「正書法」の考へ方が最初ははつきりしてゐなかつた――詰り、「規範化」と云ふ發想は後附けのものであつた――と述べてゐます。

……その前に一般に戰後の國語改革は國語の民主化といふやうなたてまへでもつて、やつてきたものであるけれども、それは國語的にはどういふ意味を持つてゐるんだらうか、私(土岐善麿)としてはまづその問題を考へてみなければならなかつた。當用漢字なりかなづかひなりに對するいろいろな批判がありますが、そこにはいろんな誤解もあるので、その制定の基本的な考へ方といふものは、結局正書法の決定といふことにあると思ひますが、あれを制定したときには、その點がはつきりしてゐなかつた。現實的にはさういふことになるやうだけれども、正書法といふ基本的な考へ方ははつきりとは出てゐなかつたと私は判斷したわけです。

たとへば「ジヂ」「ズヅ」の問題です。これは必ずしも表音的ではない。その矛盾が非難の對象になるわけです。一口に表音的といつても、その同じ表音的といふものの中にも幅がある。その音の上では同じなのに、書く場合、別々になつてゐる。どうしてさうなつてゐるかが問題ですが、それはかなづかひに語意識といふ考へを加へてゆけば、現代かなづかひは表音的ではないかといふ形の非難なり批判に答へられる。語意識といふものが加はれば説明がつくだらう、といふ工合に私は考へたわけです。そこで正書法といふことをいひ出した。つまりかなづかひの語意識の問題を考へて、正書法といふものへ導いてゆけるだらうといふ工合に私は考へたわけです。

この土岐氏の「問題發言」は、福田恆存『私の國語教室』においても、注目すべき發言として採上げられてゐます。
簡單に言ふと、あの「改革」は「取敢ず一歩でも國語を表音的なものに近附ける」と云ふだけの目的で、何の方針も無く、適當或は出たら目に行はれたものだ、と云ふ事。
後附け設定で皆が納得してしまふのは、あにめの世界では當り前の話みたいになつてゐて、例へばガンダムでは單なる電波の妨碍物質だつた筈のミノフスキー粒子が、何時の間にかミノフスキー物理學なんて後附け設定のせゐで、波動エネルギー竝の便利な代物に變質してしまつたりしてゐる。けれども、さう云ふ好い加減な後附け設定を安易に受容れてしまふ日本人の設定厨的體質は、改められるべきではないか。説明が附けばそれで良い、と云ふものではないだらう。
平成十六年十二月二十日
文章は中學生の頃から全く進歩してゐないのだけれども、繪の方は小學生の頃から進歩してゐないらしい。
平成十六年十二月二十日
吸血姫美夕OVAの御終ひの十五秒を録り損じた。@ AT-X。だが、いろいろな方法で補完する。
平成十六年十二月二十日
いや、だから、書きますつて。多分。
平成十六年十二月二十日
新興展で配られたビラ。
2005年古書即売展一覽(GIF:150kbくらゐ)
平成十六年十二月二十日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20041219#p1
なんか例のでつち上げの「従軍慰安婦」の「被害者」が裁判を起して、東京高裁で「原告側の請求を棄却」なんて事になつたらしいけれども、「被害実態を認めた」とかで裁判長は「従軍慰安婦」を「事実」と認めてしまつた訣ですね。困つたものです。
ええと、國が「被害者」に御金を拂ふ事になつたら、國民の税金が謝罪に使はれる事になつてしまふ訣ですね。日頃税金の用途に煩い事を言ふ方々が、かう云ふ事になると途端に默つてしまふ、と云ふのは、如何なものでせうか。「従軍慰安婦」なんてものはでつち上げに決つてゐるのですが、そんなものの爲に使はれるなんて、全くもつて税金の無駄使ひですね。税金の無駄使ひはよろしくないと主張する方々は、是非とも「従軍慰安婦」の「事實認定」に愼重になるやう、政府に働きかけて下さい。
合理的に物事を判斷しない傾向が強まつて行く情勢の中で、全く評價出來ない判決だつたと思ひます。日本人の近代化は、また一歩後退したやうです。しかし、所詮は政治の問題で、簡單な問題なのですが、どなたもかう云ふ政治問題は難しいものと考へがちで、それも困つたものです。
取敢ず、三權分立の民主主義では、政府に裁判所が反抗して國益を損ふ、と云ふ事が起り得る訣で、實際今囘それが起きたのだけれども、結果として民主主義的ならざる共産主義の支那が潤ふ結果となりました。民主主義と云ふのも良し惡しです。――と言ひたいが、實際には、政府の人間も「従軍慰安婦」だの「南京大虐殺」だのは「あつた」と感情的に思ひ込んでゐるのだから、裁判所と政府はぐるなのです。
平成十六年十二月二十日
と言ふか、形の上では國が勝訴なので、「被害者」が上告しなければ、「従軍慰安婦は事実」と云ふのが判例の上で確定する。こんな形で「事実」なり何なりが決つてしまふ、と云ふのは、例の靖國訴訟でも問題になつたけれども、やはり問題だと思ふ。
平成十六年十二月二十日
ちゆ12歳が年末になつて突然更新再開したのだけれども何なのだらう。
平成十六年十二月二十日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20041220#p1
「従軍慰安婦」問題の事実認定に関しては、私は蓋然性として「ありうる」という認識であって、断言できるほどの判断能力を有していない。したがってそれについて議論はできないが、何故野嵜さんが「でっちあげ」と断言するのかその根拠を知りたいとは思う。何故私が「ありうる」と思うかと云えば、それは私自身の祖父が中国大陸に兵隊として赴き、さまざまな残虐行為があった、と語ったことがあったからである。その個々のケースについてここで書く気にはなれないが、それは日本軍による中国人女性の強制連行・監禁・性的暴行などが充分にあり得た話だろうと思わせられる内容だった。
當時の日本人が支那とか朝鮮とかの人々に對して隨分差別的かつ嗜虐的な行爲を行つたとは聞いてゐます。が、それが、「組織的」な「南京大虐殺」とか「従軍慰安婦」とかの「犯罪行爲」に直結するかと言ふと、その可能性はゼロだと。
私が「難しい」と云っているのは、この判決について、この私が「一歩前進」と云ってしまって良いのだろうか、という倫理的な問題である。
それこそとても簡單な問題だと思ひます。「従軍慰安婦」の問題は政治問題であり、倫理的な問題として扱つてはならない、と云ふだけの話です。「対岸」にゐる私にとつて、支那人の女性がどう思つてゐようが「対岸の火事」も同然であつて、同情なり何なりする必然的理由がない。何しろ、個人として「彼女」らを私は知らないのです。知らない人間に心から同情する事は、人間は不可能です。そして、その「知らない人間」の事を主に扱ふから、政治は政治であるのです。
例へば、例の加納氏は、私との關係はあゝなつてゐるけれども、一往「袖すり合ふ」の關係にあり、加納氏が「體調が惡い」と言へば、こちらとしてもそれなりに心配するし、して良い。
けれども、例へば、ちゆ12歳が、長い事サイトの更新をしないでゐても、中の人の事を私は本氣で心配する事は出來ないし、したら僞善である。そこで「心配して見せる」としたら、それは飽くまで政治的行爲であつて、道徳的な行爲ではない。
同じ日本人のちゆ12歳の中の人ですら、道徳的な行爲の對象でないとしたら、海の向うに住んでゐて、日本と云ふ國家を相手に裁判を起してゐると云ふだけの事で我々に知られてゐる人物ですから、「彼女」に私は道徳的な行爲をなす事は出來ませんし、それは渡邊さんも同じであります。道徳的に言つたら、渡邊さんの「前進」はナンセンスです。私としては、そのナンセンスゆゑに――そして、そのナンセンスな「困難」を、多くの日本人が感じて見せるであらうがゆゑに――却つて道徳的に日本人は「後退」してゐる、と表現したい訣です。はつきり言つて、合理主義の時代に、「おかはいさうに」と云ふ感情論で判斷をしてゐる訣です。それは困つた事だと。
平成十六年十二月二十日
昨日、近所に出來たリサイクルの御店に、古本もあると言ふので行つて來たのだけれども、豫想通りろくなものがなかつた。えろ漫畫コーナーであつし先生のを探してみたのだけれども、見附からなかつた。普通は無いものなのかな。
平成十六年十二月二十日
20インチ液晶を縦で使いたいと思い付いて即実行。
我ら(「」)があつし先生の記事。
以下餘談。「モニタを横倒し/畫面をrotate→フォントを縱書き」で、縱書きWindowsの出來上り。
普通の状態で横書きのWindows。
モニタを横倒しに/畫面をrotateして、フォントを縱書きフォントにすると、縱書きWindowsになる。
GUIのフォントに縱書きフォントを指定するツールつて無いですかね。
平成十六年十二月二十日
NHKの謝罪番組を見たが、禿げのおつさんが出て來て氣持ちが惡いので、直ぐに見るのを止めた。
NHKは、可愛い女の子を會長にすれば、人氣を取戻せるかも知れない。と他人事なので適當な事を言つて見る。NHK會長のえる。
平成十六年十二月二十日
活字屋・あすか正太ウェブ
なんか東西線で凄い事になつてゐたらしい。
平成十六年十二月二十日
新宿展で配られてゐたちらしによると、來年一月三日からすずらん通り三省堂本店隣コンビニのビル五階で、常設古書展をやるのだと。
本の街神田に新名所誕生! 神保町古書モール 新年1月3日オープン!

平成十六年十二月十九日
うた∽かた最終囘。ぐだ∽ぐだ。
平成十六年十二月十九日
Φなる・あぷろーち。最終囘みたいな話だつたのだけれども、なぜか「つづく」なのだと。落しどころがアレ過ぎなければ今期のベストになる筈だと思ひつゝ來週が非常に不安なのだが大丈夫だつたら問題ない。
平成十六年十二月十九日
趣旨を害はない範圍で假名遣ひを變更した引用は許される筈。
平成十六年十二月十九日
DearSとローゼンメイデンのコミック版を買つて來て取敢ず一氣讀みしたけれども、途中から何だかぐだぐだ感が。と言ふか、真柴ひろみ以外のストーリーのある漫畫本を買つて來たのは久し振り。

平成十六年十二月十八日
來年の事を言ふと鬼が嗤ふらしいけれども言ふ。來年は小説をがんがん書かうと思ふ。つまんないとか糞だとか言はれても書く積り。のあとあやのの愉快なろりこん小説も書く積り。だから、某方面の名無しさんは期待して待つやうに。あと、某作品の書直し版と、某作品の續篇と言ふか前篇とが、ウェブでの公開を待つてゐる。
と、適當に煽つて見るのだが(自分を)、全ては俺の頭の中にあるだけなので、忙しかつたり、餘計な事に惱まされたりすると、出て來なくなる可能性あり。
ちなみに、創作は批評を專門にやる人間にも必要だ、と松原先生はおつしやつたのである。自分で小説なり戲曲なりを書いてゐると、それが如何に下手であつても、他人の小説や戲曲を批評するのに役に立つ、と云ふ事である。
平成十六年十二月十八日
日経ビズテックの來年二月發賣の五號から松原正先生の連載が開始の豫定。
平成十六年十二月十八日
早稻田のBOOK OFFで魔法使いTai! キャラクターファイル(徳間書店)を見附けて衝動買ひしたが、さすがに誰にも話せず。
平成十六年十二月十八日
大切なのは今や未來でなく過去。相手がしてしまつた取返しのつかない失敗を指摘するのは、された方はただ辛くなるだけでしかないかも知れないが、する方だつて別に氣分の良い事ではない。それでも指摘するのは、過去の過ちを改めてこそ、過去から繼續する未來がより良いものとなるであらうからだ。過去を重視するのは、より良い未來を見据ゑての事だ。未來だけを見てゐても、本當に良い未來は到来しない。
と、名指ししないで批判する不誠實な態度をとつて見る。
平成十六年十二月十八日
俺には日記を書いてゐると云ふ意識は無い。書きたい時に書きたい事を書いてゐるに過ぎない。
日附なんて飾りです。偉い人にはそれがわからんのです。

平成十六年十二月十七日
Text:オフ会レポート in jungamix / iMachannel+
なぜに俺の名が?
平成十六年十二月十七日
東京古書會館の古本市。業者ではないから「參加」はせず。單に見ただけ。見て買つただけ。客の態度惡し。平臺の上で本を擴げて讀みふける親爺一名。棚の配置に責任ナシ。以下、購入したもの、堀米庸三『ヨーロッパ中世世界の構造』(岩波書店)、グァルディーニ『近代の終末』(創文社歴史学叢書)。
木村さんと遭遇してみたり。

平成十六年十二月十六日
日本人は、戰爭で負けると直ぐ反省して見せた、反省したから自分は純粹無垢になつたと思ひ込んだ、そして、餘所の國や自分の國の反省しない人間を居丈高に罵つた。日本人には、反省すると、それまでの罪障が全て取除かれ、却つて偉大な人間になる、と考へる傾向がある。
「南京大虐殺」は「あつた」と主張する手合は、「あつた」と「認めた」がゆゑに自らは偉大な人間であると錯覺し、「なかつた」と主張する人間を人間扱ひしないで居丈高に罵る。
間違ひを自分ででつち上げ、勝手に反省して、偉くなつたやうな氣になる日本人の惡習は、好い加減、反省すべきであると考へる。特に、偉くなつたやうな氣になる事。
平成十六年十二月十六日
Wikiで、ディレクトリを掘れない奴は、ディレクトリで情報を分類出來ないから、大規模になればなるほど情報がごちやごちやになつて、混亂が非道くなるやうな氣がする。特にWikipedia。
平成十六年十二月十六日
猫跨ぎ
平成十六年十二月十六日
http://www.poesia.jp/notebook/0412.htmlの2004-12-16の項。
こちらが「戰線を擴大」したのは、加納氏が戰線を擴大し捲つて議論の本題からどんどん離れて行つてゐるのに附合つたに過ぎない。そして、擴大された議論において何うであれ、議論の本題で加納氏が間違つてゐるのだから仕方がない。既に述べた通り、koba-koba氏が小林よしのりの「ネットは異常者の共同体」發言に觸れたのに對して加納氏が「『ネットは異常者の協同体』と思え」を論じない事に疑問を呈した時點で、加納氏は間違つてゐたのである。そして、私は既に、koba-koba氏のしたのが引用でなく言及である事、小林のレトリックとしての「思え」ではなく思はされる事實が問題である事、等を指摘し、加納氏の「思え」まで含めて解釋しなければならないと云ふ主張に、論理的必然性がない事を述べた。それに對して、加納氏は「最う話は進んでゐるんだ、それを讀まないで野嵜は人を批判してゐる」と言ひ、剩へ「文章が讀めない」とまで極附けてゐる。これが左翼の論法でなくして何なのか。とぼけるのも好い加減にし玉へ。加納氏がkoba-koba氏と話を進めた事が、それ自體、「戰線の擴大」であり、論點をぼかして何時までも議論を續けて泥沼に陷らせようと云ふ行爲であり、左翼的な論爭戰術なのである。そして、こちらは素直だから、さう云ふ加納氏の擴げた戰線に一々附合つたに過ぎない。私が議論を長引かせてゐるのでない。私は、加納氏が長引かせた對koba-koba氏の議論を、後追ひして、それを加納氏は罵つてゐるに過ぎない。即ち、加納氏は、自分とkoba-koba氏との「会話」に野嵜が首を突込んだ事自體が氣に入らないのである。しかし、居丈高に罵る權利がない加納氏が居丈高にkoba-koba氏を罵つてゐるのを見れば、それも論理の名の下に非人間的に他人をやつつけてゐるのを見れば、やはり論理を重視する立場を標榜する者としては見過ごしてはおけない事だつた。
ウェブは、日常生活と切り離してはならぬと私は考へてゐる。それゆゑに、生活上で起こることも当然ウェブで起こるべきだと思ふし、実際起こつてゐる。たとへば、ああこの文章は面白いな、と思つた文章に対して、コメント欄にコメントする、それは、日常われわれが行なつてゐることだ。しかし、野嵜氏はそれを「トートロジー」として認めない。
私は、一般論として「面白いと思つた事についてコメントするのはトートロジーである」とは言つてゐないし、それに加納氏の行爲が當嵌るとして非難したのではない。加納氏は今、言ひ訣の爲に、一般論を持出して、自己辯護をしてゐる。加納氏は、今の今まで「面白いからコメントを附けた」とは言つてゐない。「會話の爲に會話した」と言つてゐる。「會話」の理由を書いてゐない。この種の「後出し」で理由を附けるのが、左翼の戰術と言はれる所以である。人の意見をでつち上げた加納氏は、なぜか。それは、何かの言及がすべて議論、勝負事だと思つてゐるからだ。と、勝手に話を進める。しかし、私はそれに反應しない。今までは、さう云ふ勝手讀みに基いた加納氏の「戰線擴大」に、こちらも一々附合つたのだが、附合ふと、後で加納氏に「議論を長引かせる爲」云々と惡口を言はれるからである。一言だけ言つておくと、私は、「議論は正しい事を勝たせる爲になされるべきである」と考へてをり、「勝つた者が正しくなる」と云ふ「勝てば官軍」式の考へ方をしてゐない。ゆゑに、テオリア氏の文章も、自分を否定するものだと早とちりした。の「ゆゑに」は論理的に意味不明。或いは、私が文学と政治に関する言及をしたときもさうだつた。に關しては、既に加納氏が「スルーした」と云ふ證據を持つて加納氏の非を指摘してゐる。或いは、別の見方を示したはうが、公正かもしれない。野嵜氏は、自身を「西欧的」といふ枠組みで規定してゐるが、それは、前近代的な「西欧的」と言つたはうがより正確であるやうに思はれる。私なりに言へば、それは形而上学である。以下は完全な惡口であり恨み言である。
「論点のすり替へ」以下は、そもそも加納氏が最初に論點を摩り替へ、その後も摩り替へに摩り替へを重ねてkoba-koba氏を罵つたのが原因だ。その摩り替へにこちらは取敢ず叮嚀に附合ひ、それに加納氏がまた馬鹿叮嚀に附合つて、罵つて呉れたものだから、こちらとしても附合つて反論せねばならず、結果、それが繰返されたに過ぎない。全ての原因は、論點の摩り替へでkoba-koba氏と遣り合つた加納氏にある。だから野嵜が論點を摩り替へてゐると言はれても、私に非は一切無い。私とこば氏のやり取りの一端を見て「koba-koba氏の方が分が良いやうに思はれる。」なんぞと言つてゐたのはあんただらう。それが今になつて「加納氏とkoba-koba氏のやり取り等何うでも良い」と言ふのである。と加納氏は言つてゐる。加納氏は、何を勘違ひしてゐるのだらうか。平成十六年十二月一日のは「加納氏の主張とkoba-koba氏の主張のどちらが正しいか」の話であり、平成十六年十二月十四日のは「koba-koba氏の主張は正しいのか」の話である。「どちらが正しいのか」なる疑問文は、「koba-koba氏と加納氏のやりとり」を前提とする。「koba-koba氏の主張は正しいのか」なる疑問文は、「koba-koba氏と加納氏のやりとり」を前提としない。それだけの話である。何も矛盾してゐないし、論點の摩り替へにもなつてゐない。比較しても相對的にkoba-koba氏の方が勝ちである、そもそも、絶對的にkoba-koba氏の勝ちである――私はさう言つてゐるに過ぎない。見方が、相對的から絶對的に移つたに過ぎない。論點の摩り替へも糞もない。と言ふより、論點の摩り替へ、と云ふ言葉が出たから、加納氏はそれに拘つて、何でもかんでもそれに故事つけて、こちらを非難しないではゐられないのではないか。それこそ、加納氏が勝負に拘つてゐる證據である。好い加減にして呉れ。
私の解釈は、「ネット全体を指している」のは「ネットやチャットは異常者の共同体」だといふ、小林氏の一般化できない決め付けであるといふ点で、こば氏と(或いは野嵜氏と)一致してゐる(「情論を前提(「驚いたな、こりゃ!」)とし、一般論ではない(「わしに言わせれば」)ことを断った上で」)のだ。さうではなく、(当初の私の疑問では)「思え」といふ言葉によつて、覚悟を促してゐるのではないか、つまり、小林氏の判断や思想が提示されてゐるだけではないかと言つてゐたのだ。と加納氏は言ふ。しかし、ここで加納氏が重大なミスを犯してゐた事、それを未だに加納氏が自覺してゐない事が判る。加納氏は、小林よしのりの發言の目的に拘つてゐるのである。しかし、目的等何うでも良い、飽くまで「思え」と言はれてゐる内容が、koba-koba氏にしても私にしても、地球儀の中の人にしても、問題なのである。と言ふより、この時點で、加納氏は既に論點を摩り替へてしまつてゐるのである。「思え」を念頭に入れろ、と加納氏は言つてゐる。これはkoba-koba氏の日記の文脈から完全に外れた指摘で、論點の摩り替へに他ならない。私とこば氏とのやりとりの意図とは全然関係のないものをすり替へて持ち出したのは野嵜氏、あんたではないか。と加納氏は言つてゐるが、そもそも加納氏がやつたから、こちらも附合つたまでの事だ。しかし、判る人には判る。つて何だよ。俺の眞似? それなら、俺が加納氏の眞似をしても、加納氏は吝嗇を附けなければ良からう。以下、「思え」と云ふ小林よしのりの文句に拘つてkoba-koba氏の事實に關する議論に「覚悟」なんてものを持込んだ最初の過ちを認めないDQNの發言として無視する。無駄な事を何度繰返さうが、それは無駄な努力であつて、加納氏のした事は無駄な努力である。そんなものは無視する。當り前だ。レトリックにレトリックを重ねるも何も、出發點で加納氏が間違つてゐると云ふのが俺の根本的な批判だから、その根本的な批判以外のところで加納氏が反論しようが、そこでこちらが加納氏に揚げ足を取られようが、本質的に關係ない。問題は加納氏の最初にした過ちであり、それを加納氏が未だに認めてゐない事が議論を無駄に長引かせてゐる原因である。レトリックにレトリックを重ねる「過ち」をしてゐるとしたら、それは加納氏が仕組んだものであり、こちらの責任ではない。
この人は、なんでも自分の都合でしか解釈しない。ここまで自分勝手に議論する人間もはじめてだが、ここまで食ひ下がる人間もはじめてだ。――食下がるも何も、こちらが正しいのに、間違つてゐる加納氏が食ひ下がつて引かないだけである。引かないばかりか、體調が惡いと言ひつゝ、加納氏相手に言つてゐない事にまで一々食つて掛かつて呉れてゐる。しかも、人の事を文盲だの何だのと。
小林氏の判断を的外れとするならば、小林氏の文脈を読まなければならない。それが、「思え」の解釈のことである。だから、こば氏も「思え」の解釈を示した。――「思え」の解釋を示す必要はない。そもそも「ネットは異常者の共同体である」と云ふのは事實に反するから、「思え」と言はれても思ふ必要はないのであり、思つた時の效能なんてものを考察する必要はない。koba-koba氏が「思え」の解釋を示したとしても、それは加納氏に迫られて、する必要のない事をしただけである。加納氏は、自分のフィールドに無理矢理他人を引き込んで、叩きのめして、好い氣になつてゐるだけである。そして、加納氏が好い氣になつてゐるのは、人を文盲だの何だのと惡口を言つてゐるのを見ても判る。
「読めないなら黙れと何度でも言はう。」の項。アホ。後の文章を読め。と加納氏は言つてゐるが、これこそ加納氏が「印象操作」をした證據である。後の文章は言ひ訣である。そして、先の文章で「印象操作」をやつてゐれば、先入見が出來る。「印象操作」では、その種の先入見が問題である。「印象操作」を問題視したければ、物を書く順番にも氣を附ける事だ。
平成十六年十二月十六日
http://jrw.to/wslash/diary/2004_12_15.html#timestamp1103057470
加納さんと野嵜さん、どちらも正しいのでは?
實は、「どちらも正しい」のならば、「どちらの解釋もアリ」と云ふ事になり、加納氏自身の主張に基いて、加納氏の負け、と云ふ事になる。或は、「加納氏のkoba-koba氏批判を野嵜が批判した事」に意味があるならば、野嵜のした事は「有效」な事であり、加納氏には否定する權利がなくなる。加納氏は、絶對的に「加納氏のkoba-koba氏批判を野嵜が批判した事」を否定しなければ、對野嵜論爭で「勝ち」にならない。
小林よしのりの「思え」を、誰もが例外ナシに受容れ、「覚悟」として解釋し、教訓としなければならない理由を、加納氏は今の今まで、一言も述べてゐない。單に、相對的に、さう云ふ解釋もある、と述べてゐるだけである。「否、小林の發言は小林の文脈において常に解釋しなければならないから、常に加納氏式の解釋が要求される」と加納氏は言ふかも知れないが、文脈だの何だのがあつたところで「思え」なる命令の内容である「ネットは異常者の共同体」と云ふ事は事實に反する。その時點で「思え」なる小林の命令を受容れず、結果として全體の小林の發言の目的なんてものを考慮に入れないで批判するのが可能である事は、私は既に述べてゐる。そして、尾崎氏の指摘を加納氏は受容れてゐるのだから、加納氏は既に「『思え』を無視した『ネットは異常者の共同体』に關する議論」に正當性がある事を認めてゐる。そして、これが今囘の議論の出發點であり、當然、議論の論點である。その論點で加納氏に勝ち目はない。引き分けは加納氏の負けである。そして、加納氏がこの論點において負ける事は、加納氏がkoba-koba氏批判したのが不當であつた事を證明する事であり、野嵜によるkoba-koba氏擁護が成功した事を意味する。最後に言つて置くが、私はkoba-koba氏を擁護する爲に今の對加納氏論爭で勝たうとしてゐるのであり、一般に議論において相手を負かす事を樂しみにしてゐる訣ではない。
ついでに言つておくと、私は何時だつて誰か・何かを擁護する爲、論爭をしてゐる。自分一人の爲にはしてゐない。
平成十六年十二月十六日
あと、「加納氏に附合つた」のは、別に惡意でやつた事でなく、素でやつた事だ。わざと加納氏に附合つて、加納氏の眞似をして「論點ずらし」をやつて、とか云ふ嫌がらせの積りはない。ただ、うつかり附合つただけだ。加納氏が「讀んでゐない」と言ふから、讀んでしまつて、一々附合つてしまつただけだ。讀まなければ良かつただけである。「嫁」「嫁」と云ふ手合には、本當に氣をつけなければいけない。
平成十六年十二月十六日
猫跨ぎ記事終了。
平成十六年十二月十六日
「トップをねらえ2!」第一話は、昔の「トップをねらえ!」の第一話と比較すべきではないか。昔の「トップ」の全體と比較するから「トップ2」は非道く見劣りして見えるのだけれども、昔の「トップ」の第一話も結構非道い話だつた。それを庵野御大があんな風に無茶な展開をして呉れて、結果として名作であると云ふ事になつてゐるけれども、それは結果なのであつて。
と擁護してみるが、今後に期待してゐないのは俺も皆さんと同じです。

平成十六年十二月十五日
「アメリカ人やイギリス人は必ずしも鬼畜ではない」と事實を指摘すると、「『鬼畜米英と思へ』とは覺悟を言つてゐるのだ」とか言はれるのだらうか。何だとメガトロン。覺悟と言つたのだ愚か者め。最う許さんぞサイバトロン戰士アタック。さあ戰ひだ。
平成十六年十二月十五日
「國語國字改革に反對」と言ふと、「国語改革の後、議論も研究も進んだのだ」「お前は一次資料も読んでいない」と極附けられ、國字改革そのものの是非がうやむやにされてしまつたり、なぜか「国語改革は正しかった」と云ふ事にされてしまつたりする。
平成十六年十二月十五日
五年ぶりくらゐに某Futakoto_Mikoto_Yokotoに答へる。
以下、『どう考えるか(2) 知識と人間』の樫山欽四郎氏の發言より。

ヘーゲルの歴史哲学というのは、あれ明らかに、キリスト教と関係がある。キリスト教の歴史観を前提としていますから。この前にも申し上げたんですが、彼のいう世界史というのは、ヨーロッパのことですからね。インドやシナのことなんか書いてますけれど、これは全然信用も何もできない。結局は自分達のところに戻ってきて、ここの所で世界史は完成するという考えですからね。今どうこう言ってもそれは無理です。あの場合は多分に西洋的なものですから、今ヘーゲルがまちがっているといったって意味はないと思うし、正しいということを言っても意味はない。歴史哲学は明らかにヨーロッパ近代の立場で書かれていますからね。だからわれわれが正しいとかなんとか言ってもはじまらないように私は思いますね。

ヘーゲルの思想をマルクスは受繼いでゐる訣だが、そのヘーゲルは多分に西歐的であり、西歐的とはキリスト教的である。今言ふキリスト教的とは、先日來述べてゐるやうなものの事を言つてゐる。キリスト教文明と言ふのは、宗教の信者としての生き方をしてゐる人間だけの文明と云ふ意味でなく、まあ、西歐文明の謂である。

マルクスの生れた家というのはそんなに貧乏じゃないんでしょう。ただユダヤ人として――キリスト教に改宗しているんですね、彼の家自体が。彼も若いときに改宗というかそれに入っていますね。それでもなおかつユダヤ的な問題が残っている……。

實際に信者としてクリスチャンであつたか否かと云ふのは大して重要な問題でない。ただ、この後、話の流れで、ユダヤ人であるマルクスが、却つてユダヤ人に對して輕蔑を剥き出しにして罵つてゐる事、或種のコンプレックスがあつた事が指摘されてゐる。この「ユダヤ人に對する負目」のみならず「キリスト教の負目思想」と云ふものが、ヨーロッパにはある、と樫山氏は述べてゐる。樫山氏は、ユダヤ人に對する負目の意識と云ふものについてはそうじゃなくてと述べてゐるけれども、先日述べたやうに、反感とコンプレックスの形でユダヤ人に對する意識がある、と云ふ點、ヨーロッパの文明・文化の特徴的な事實であると言ふ事が出來る。そして、それはキリスト教と關係がある。で、マルクスも、唯物論の共産主義を創始したのだけれども、その背景にキリスト教文明・キリスト教文化・キリスト教社會の傳統と云ふものがある、と言ふ事が出來る。
Futakoto_Mikoto_Yokotoは「共産主義は唯物論だからキリスト教とは何の関係もない」と言つて人を嘲笑したのだけれども、それは餘りにも單純で形式的な議論だと思ふ。
平成十六年十二月十五日
Opera 7.60 pr4が、廣告の讀込みに失敗して落ちる。と言ふか、そのせゐで起動しない。殺す。
平成十六年十二月十五日
「ネットは異常者の共同体」→是→「『ネットは異常者の共同体』と思え」を「覚悟」の奬めと解釋する餘地が生れる。
「ネットは異常者の共同体」→否→「『ネットは異常者の共同体』と思え」と言はれても受容れられない→「覚悟」云々の解釋まで話を進める必要はない。
平成十六年十二月十五日
ゴシックロリータの恰好をした御孃さん二人連れ+おまけ一名を目撃。黒だの白だの。おまけの人はをばさん。
平成十六年十二月十五日
天井から何かが降つて來た。良く見ると小さな蜘蛛だつた。本に附く惡い蟲を食べて呉れる狩人なのだらうと思ふので、そつと本の山の中に放してやつた。
平成十六年十二月十五日
或日突然、今まで動いてゐたPCが、何もしないのに動かなくなるのは、哀しい事だ。
だが、メインの機械は何も問題なく動いてゐるので、問題ない。安定して動く機械が一臺ある事は、安心出來る事である。
平成十六年十二月十五日
今は元アニヲタがアニメ制作者になりつゝある時代である筈だが、なぜそのアニヲタ出身のアニメ制作者が一々アニヲタを挑發するやうな眞似をするのだらうか。ヲタに受けるアニメをヲタならば知つてゐる筈である。何故それを作らないのか。
富野御大の惡影響か。
變な啓蒙主義がアニメ界を覆つてゐるやうに思はれる。エンタテインメントで良い、と云ふ事が、何故か今のアニメ制作者の多くに解つてゐないやうである。
鬱アニメ反對。
平成十六年十二月十五日
言語において、意味と發音とに必然的な結び附きはない。これはソシュールが指摘した事だ。だが、これは話し言葉の話だ。
書き言葉の領域でも、實は意味と表記とに必然的な結び附きはない。
そして、重要な事だが、發音と表記とにも、やはり必然的な結び附きはない。實例は、漢字である。
だから、發音と表記とに必然的な關係を構築しようとする表音主義は誤である。

平成十六年十二月十四日
http://jrw.to/wslash/diary/2004_12_13.html#timestamp1102977718
何うも失禮いたしました。
平成十六年十二月十四日
猫跨ぎ
平成十六年十二月十四日
Other Voices(2004-12) -Poesiaの2004-12-14の項。
「結局野嵜氏はどうかしてゐるといふこと」以下。野嵜氏はどうもをかしい。それは、文脈を無視し、自分の主張する方向に文脈を無理矢理捻じ曲げて仕舞ふ氏の悪癖のせゐである。加納氏こそ、自分の主張する方向に論點を無理矢理すり替へてしまふ惡癖を持つてゐる。
「掲示板にて」の項。教育的な文脈として読むべきでとあるが、教育的だらうと何だらうと嘘を吐いて「教育」も無いものだらう。「ネットは全て異常者の共同体である」と云ふ訣ではない。教育上の方便との名目で、「さう思へ」と言はれても、こちらは子供ではないのだから、さう思ふ必要は全く無い。そして、この時點で、加納氏の解釋は間違つてゐるのであり、koba-koba氏の判斷は正しい。だから、加納氏の言ひがかりは言ひがかり以上のものではないし、その言ひがかりが異常なものであつた以上、koba-koba氏の應對が加納氏の期待した方向のものでなかつたとしても、koba-koba氏に責任はない。
そのやり取りに口をはさんだ野嵜氏は何を言つたのかと言へば、「異常者の共同体」は「ネット全体」をさしてゐる、つまり「「ある〜は…である」の論理性を強調し以って「すべて〜は…であると思え」の説得力を弱めんとする」ことであつた。しかし、そもそも私とこば氏とで、そのやうなやり取りは存在しないと加納氏は言ふ。しかし、加納氏とkoba-koba氏のやり取り等何うでも良いのであつて、koba-koba氏の文章が表現してゐたのは「異常者の共同体」は「ネット全体」をさしてゐる、つまり「「ある〜は…である」の論理性を強調し以って「すべて〜は…であると思え」の説得力を弱めんとする」ことであるから、koba-koba氏の發言を私は正しく讀取つてゐたのだし、加納氏はkoba-koba氏の發言の意圖とは全然關係のない事で言ひがかりをつけたのである。そして、言ひがかりをつけた時點で、加納氏がをかしい事は明かである。
ところが、野嵜氏は、そのやうなやり取りの流れや文脈を、読んでゐないせゐで理解できてゐないにも関らず、云々。嫌になるね、この人。そんな意味のないやり取りは何うでも良いのだよ。加納氏の論點ずらしに始まつたやり取りは――否、そもそも論點が全然異る事を以て加納氏が言ひがかりをつけた事を私は指摘し、問題視してゐる。加納氏には、それが解らないらしい。出發點からしてをかしい、と私は言つてゐるのだ。
今度は私が「小林シンパ」であるなぞといふ新たな材料を持ち出して、こば氏とのやり取りは解釈の問題ではなく正邪の問題であると言ひ出した。なぜ加納氏が言ひがかりをつけたのか、と云ふ疑問に對して、あり得る囘答は、加納氏が「小林シンパ」だから、小林の發言を否定されたのが面白くないからだらう、と云ふ推測である。別に變な推測ではなからう。しかし、私は論理的に妥当な諸条件を突き詰めて解釈なり疑問なりを述べなければならぬと言つてゐる。と言ふが、それなら加納氏は、可能な加納氏の動機を擧げてみたら良からう。加納氏の論理主義は、論理主義が出發點であり到着點である。それは、人間心理の觀點からして、納得出來たものではない。
一々応答しては話をズラして「レトリック」を展開するのが野嵜氏の常套手段なので、もうそんなことはしない。これに關しては、加納氏は「自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る」を實踐してゐる、としか言ひやうがない。私は、koba-koba氏の最初の發言を正確に讀取つてゐる。加納氏は、それを讀み違へた。加納氏は、自分勝手な解釋で「疑問」の形で言ひがかりをつけ、koba-koba氏を困惑させ、さらに應對の「態度」を問題にして論點を摩り替へ、koba-koba氏に居丈高な態度で説教をかまし、koba-koba氏が示した文章を罵り、剩へ、野嵜に批判されると、自分がずらした論點に野嵜が反應しない、或は加納氏が期待したやうに反應しない、と言つて、野嵜を罵り、厚顔無恥にも、自分がやらかした誤を認めてゐるにもかかはらず居丈高な態度を改めない。
といふか、野嵜氏は前提を固めてから論理を構築するといふことからやつて欲しいものだ。馬鹿も休み休み言つて貰ひたい。私は、koba-koba氏の最初の小林發言に關する判斷は正しい、と云ふ前提から、加納氏の「解釈」だの「論理」だのををかしいと言つてゐる。その點で加納氏はkoba-koba氏に負けてゐる、と述べてゐる。それに對して、加納氏は有效な反論をしてゐない。加納氏は「あとのやり取りを讀んでゐないから野嵜に批判する資格はない」と言つてゐる。しかし、そんなもの、讀まなくたつて良いのである。ただ、加納氏が居丈高にkoba-koba氏を罵つてゐるから、その當座の根據を探る爲に斜め讀み、飛ばし讀みしたに過ぎない。そして、その、あとのやりとりで加納氏が如何に筋が通つてゐたとしても――否、逆に、それこそ加納氏が耻の上塗りをしてゐる事に他ならない。そして、そのあとのやりとりも、どうも加納氏はをかしいのである。そのをかしいゆゑんは散々書いた。判る人には判る。
といふかね/クリスマス・イヴが近づいてプレゼントを悩んだり体調が悪くなつたり年末進行的なアレな具合の時に、こんなに無意味なことをしてゐられないのですが。どうにかしてください。偉い人=野嵜さん。加納氏は、かう云ふ人を食つたやうな態度で話をする惡癖がある。しかし、かう云ふ事を平氣でやる人間は、かのアレクセイもさうだが、論理だの何だのと言つても、結局は保身が大事なだけなのである。或は、ふざけるな、と言ひたい。何が「偉い人=野嵜さん」だ。馬鹿野郎。加納氏には、人と眞面目に話をする氣がない。koba-koba氏に對しても、野嵜に對しても、加納氏は眞面目に話をしようとしてゐない。koba-koba氏に對しては居丈高に、野嵜に對してはおちよくるやうに、加納氏は應對してゐる。眞面目に議論をしようとしないで、覺悟も糞もあつたものではない。結局、小林よしのりも加納氏は讀めてゐないのである。
加納氏がをかしいのは、會話をする爲に會話をする、疑問を呈する爲に疑問を呈する、と言つてゐる事だ。
或は、「Xと思へ」と言つてゐる、その「思へ」と命令されてゐる内容Xについて、koba-koba氏は否定的な態度をとつてゐる。それに對して、「Xと思へ」全體の意義を論じなければならない、と加納氏は命令した。しかし、koba-koba氏は、さう思つた結果の效能については觸れてゐないのだし、ただ、Xであるかどうかだけを、日記の或日の記事で書いてゐるだけである。koba-koba氏の日記の文脈から、koba-koba氏の引用した意圖を加納氏は讀取らなければならなかつたのだが、それを加納氏は怠り、單に小林發言の事實そのものについて論じ始めてしまつた。その時點で、加納氏は負けてゐるのである。それが未だに加納氏は解らない。
平成十六年十二月十四日
端的に言ふと――加納氏は、後のやりとりで色々偉さうな事を言つてゐるが、最初が間違つてゐるのだから何うしやうもない。だからkoba-koba氏對加納氏の論爭は加納氏の負けである。
「思え」に小林よしのりの意圖がある、と加納氏は言ふのだが、koba-koba氏は「思え」と言はれてゐる「事實」としての「ネットは異常者の共同体」の是非について述べてゐる。さう云ふ文脈を、加納氏は讀まないで、何の脈絡も無く、疑問を出して、會話をしようとした。
以下は加納氏の言動が全體としてをかしい事を言つてゐるに過ぎない。加納氏の最初の行動――疑問を呈した事――は、小林擁護と云ふ動機を以て説明しない限り、意味不明である。私は、心理的に意味不明と言つてゐる。それに對して、加納氏は、論理的な根據の提示ナシに疑問を呈するのは許されないとして、野嵜を非難してゐる。しかし、加納氏の全體の言動に、「論理的な筋」以外の動機が何一つ見出せないとしたら、それこそをかしいのではないか。狂人とは、論理を失つた人間の事ではなく、論理以外の全てを失つた人間の事である。
或は、議論で論理的に筋を通すのは結構、しかし、何の爲に議論するのか、を忘れてしまつてはならない。加納氏は、何の爲にこんな議論を長々と續けてゐるのか。最初の論點――koba-koba氏が下した「ネットは異常者の共同体」なる小林發言に對する判斷の是非――だけが議論の爭點であつたならば、こんなに長々と無駄な話はしないで濟んだのである。「思え」なる文言に對する判斷を入れないでkoba-koba氏が論じた是非を――否、加納氏は、そこで、論ずる以前に、當り前の態度として「非」の判斷を下してゐる。これがそもそも話の爭點をぼやかして、だらだらと論點ずらしを加納氏が續けられる原因である。そもそもの出發點からして、論點がずらされてゐるのである。それが惡い。この、そもそもの論點――否、「論點ずらし」をした事について加納氏が負けを認め、それによつて今までの議論の全てが崩潰する事を加納氏が認めなければ、言爭ひは終らない。
平成十六年十二月十四日
あと、つまりかういふことと言つて、野嵜が常に文意を讀取れないかのやうに見せかける「印象操作」を加納氏はやつてゐる訣だが、加納氏に自覺はあるのだらうか。
例によつて例のごとくとかやはり文章が読めない人なのではないかとか、文章の表現に意圖は顯れる。
平成十六年十二月十四日
猫跨ぎ記事終了。
平成十六年十二月十四日
TV放送に録畫の制限・コピーの制限を加へようとしてゐる連中は、テレビ番組はリアルタイムで視聽すべきだと考へてゐるらしい。しかし、複數のチャンネルがあり、複數の番組が平行して放送されてゐるのだから、常にリアルタイムで見られる訣ではない、と云ふ事は自明である。
多チャンネル時代に録畫は必須である。
平成十六年十二月十四日
何んなに美しい畫像であらうとも、保存できないのであれば、要らない。
保存できるのならば、多少畫質が落ちたところで問題はない。
平成十六年十二月十四日
何十、何百とチャンネルがある現状、ホームターミナル一臺で同時に一つの番組しか視聽出來ないCATVのシステムは時代錯誤である。
平成十六年十二月十四日
何時いかなる場合にでも確實に希望の番組を觀られる、と言ふのならば、録畫する必要はない。が、何時再放送されるか、セルプログラム化されるか、判らない現状、本放送時の録畫は必須である。更に、再放送でのヴァージョン違ひ、DVD版での手直し、といつた事を考へると、再放送での録畫、DVD版の保護も必須である。それがヲタの心理である。
平成十六年十二月十四日
コピー制限附きテレビ放送及びケーブルテレビ、或は、デジタルBS/CS/地上波に關する以上の全ての問題を解決するには、ヲタを撲滅すれば良い。ヲタがゐなくなれば、素人ばかりになり、録畫に固執する人間は消滅し、コピーガード等の意圖は達成される。或は、そもそも、コピーガード等の措置が要らなくなる。
しかし、現在の多チャンネル化されたCSは、ヲタをターゲットとしてゐるし、ヲタの支持がなければ專門チャンネルは成立たない。ヲタを撲滅するのは不可能であるし、してしまつたら放送事業者自身が困る事になる。
録畫マニアのヲタを撲滅できないし排除すべきでないとすると、現在のコピー制限は、CCCD等と同樣、百害あつて一理なしとして、廢止すべきであるし、スクランブル放送とそれを解除するホームターミナルの設置をCATVは再檢討すべきであると云ふ事になる。

平成十六年十二月十三日
ローゼンメイデンをDVD-Rに燒きながら、出隆『懷疑論』(角川書店・哲學叢書)を讀む。例の拾つて來た奴。
平成十六年十二月十三日
御血操作魔でした。もとへ。御馳走樣でした。
平成十六年十二月十三日
User-Agent Compatible CSS < Blog < Black Box
CSSの指定をPHPでやれば變なテクニックなしでブラウザの振分けを出來るよと云ふ御話。
平成十六年十二月十三日
Unordered lists: more than just bullets
ul要素のすゝめ。
平成十六年十二月十三日
http://www.ne.jp/asahi/txt/moon/n/200412.html#13_t1
「大崩れ日記」2004/12/13 (月)「私とHTMLの10年」
ところがある日、HTMLはSGMLを元にしているらしい、ということを知ることに なる。SGMLといえば、教養部の頃に国語学の演習でmtoyo先生に教わったSGML である (なぜ国語学でSGMLなのかはこの際おいておく)。云々。
詳細希望。いやうpれ。
平成十六年十二月十三日
http://jrw.to/wslash/diary/2004_12_11.html
左翼の論客が良く使う「レトリック」ですな。と言はれてゐるのだけれども、それでは福田恆存は左翼だつたのだらうか。
「中立」を標榜する新聞を批判して、福田氏は公正とはどう云ふ事かを論じた。私は、福田氏の主張を尤もだと思つてゐるから、それに從つてゐる。
平成十六年十二月十三日
めも。
http://d.hatena.ne.jp/hkt_o/20041207
2004-12-07 論理的な回答

平成十六年十二月十二日
今期のベストはΦなる・あぷろーち。やられた。西守歌を泣かすなよ涼。

平成十六年十二月十一日
猫跨ぎ
平成十六年十二月十一日
http://www.poesia.jp/notebook/0412.htmlの2004-12-11の項。
何を言つてゐるのだらうこの人は。
平成十六年十二月十一日
加納氏に對して「あんたは××なのだ」と言ふと、加納氏は、野嵜の考へこそが「××なのだ」と決めつけられる。これは、レトリックであり、論理的にはナンセンスであるから、私は「××」と考へてゐない。
無駄と思ひつゝ溜息を吐きながら述べれば、「説明できなければお前は間違つてゐる」なんて論理的にをかしいことを野嵜氏はつひに気付かないのである。云々。
それがをかしい事を、私は重々承知してゐる。そのをかしな事を、加納氏が主張してゐるからこそ、加納氏をなじつたのである。
そして、説得力がなければ間違ひと断じ、批判と捉へる氏は、説得力よりも正しいことを求める云々と言つておきながら、実のところ説得力を重視してゐるのだ。
私が何時、説得力がなければ間違ひと断じたのだらう。私が何時、説得力を重視してゐると言つたのだらう。加納氏が斷じ、加納氏がさうしてゐる、と私は非難したのである。
――だが、加納氏が、「自分はさうではない」と主張するなら、主張するで構はない。實は、それが私の狙ひだからである。加納氏は、「さうではない」と主張する事で、また自己の主張を曖昧にして、自ら不氣味な氛圍氣を纏ふ事になるからである。
私は、「説明してください」→「説明できなければお前は間違つてゐる」=「批判」。と云ふ常識的な判斷が世間にある事を、單に述べたに過ぎない。そして、加納氏は、さう云ふ常識的な方法で他人を批判してゐると述べたに過ぎない。ところが、加納氏は「いや、實はさうではない」と述べる。「では、加納氏の立場は何なの?」とこちらは尋ねたい。
加納氏は、「氏は」「氏は」と言つて、野嵜の事を非難してゐる。一方、加納氏自身の立場は、相變らず、曖昧なまゝである。加納氏は、私の思想とはかけ離れたものを例として持ち出せれてゐる。と常に言ふ。さうやつて自分の立場を曖昧にし、誤魔化し續ける事で、加納氏は「私の立場を理解できないあんたは馬鹿」と極附ける。しかし、その曖昧な態度が、私には非常に汚らはしいものに見える。人は、自らの立場を鮮明にして、論爭に挑むべきである。さうしないと、論爭の決着が附かないからである。物事の正邪を重視する立場である私は、だからこそ、物事の如何なる事が正しい事であるか、をはつきり意識した上で、論爭しなければならない、と考へる。加納氏のやうに、ただ「疑惑」を表明し「説明して下さい」とだけ言つて、相手に何であれ難癖をつけて、何時までもずるずると「会話」をし續けて、相手を困らせる、と云ふ風になつてしまつてはならない。
平成十六年十二月十一日
当初の議論は「思え」によつて一般化を避けてゐるのだから、「ネットは異常者の共同体である」といふのは、論理的にきちんと答への出るやうな百パーセントの一般論としての「全体」として小林氏は述べてゐない、と言つてゐるのだ。
「思え」は、「全てさう思へ」と云ふ事であり、「或事例はさう思へ」と云ふ事でない。加納氏の解釋は明かにをかしい。そして、それは、「原典」の文脈を見ても判る事だ。小林が、「ネットの或部分は異常者の共同体」と言つてゐるのだつたら、「全體としてネットは正常」と云ふ事になり、「ネットに據る輿論の形成」が可能となる。となると、小林は、田原の主張を否定しない事になる。そんな無意味な事を小林が主張してゐると、加納氏は言ふのだが、それでは小林はさらに馬鹿になつてしまふ。贔屓の引き倒しと言ふものであらう。
それなのに、教育的に「覚悟しておけ」といふ、むろん全体ではないが、さう思はせることで教育させるといふ手法が、ほぼ常識としてあることを、野嵜氏は無視してゐる。
手法なりレトリックなりと、事實認識とは違ふ。koba-koba氏は、事實認識を問題にしてゐたのであり、教育だの覺悟だのの話はしてゐなかつた。だから、koba-koba氏の文章において、koba-koba氏のコメントは妥當である。ならば、餘人が一々口を出して、小林のレトリックを説明する必要はない。
本当は一部も健全なユーザがゐます、と事実としての正しいことを言ひたいが、子供に警戒心を抱かせるために「全て」と敢へて言ふやうなことは常識だと私は思ふが、野嵜氏はさうではないのである。
そんな「深い話」はしてゐない。單に、koba-koba氏の文章の文脈から、事實認識のレヴェルで話をしてゐるだけである。加納氏は、話の次元を取違へて、自分の好きなレヴェルの話に持つていかうとしてゐる。事實上の「話のすり替へ」である。そして、その文脈から外れたままこば氏は一部の主張を認める。と言ふが、文脈を外してゐるのは加納氏の方である。
しかし、嘘を言つて教育するのが正しい、とは、加納氏の道徳論は恐ろしく淺薄である。
それは悪いわけではないが(良い文章とは言へないが)、正確に解釈してはゐない。そして、これを声高に主張すれば解釈の正邪論争だが、さうではないのである。さうではないから、私もこば氏も別に勝ち負けはない。何度も言つてゐることだ。
「良い文章とは言へないが、惡い訣ではない」とは、どう云ふ事か。koba-koba氏の「小林の論理には一理ある。が、全體としては無理である」と云ふ發言と、形式的に全く同一である。
加納氏は、「教育」とか「覚悟」とかのメタレヴェルで、koba-koba氏の發言を批判した。ならば、加納氏の今の發言を、或種のメタレヴェルで批判する事は、可能だらう。そして、それが可能であるならば、加納氏が如何に力強く、俺(=加納氏)のした「説明して下さい」は「批判ではない」と宣言しても、それは批判である。或は、批判であると解釋出來るし、解釋に對して「さうではない」と云ふ宣言が無效である事は言ふまでもない。對立的で有效な解釋を加納氏は持出すべきである。
私が野嵜氏の詭弁を指摘したやうに、野嵜氏もその「レトリック」とやらを指摘すればよいものだが、出来ないのだらう。
レトリックである事を指摘してゐる。そして、加納氏が言ふ「野嵜氏の詭弁」の指摘とは、一體何處にあるのだらうか。加納氏の言つてゐる事が詭辯なのだから、野嵜の言つてゐる事の方が正論である。
自分の考へを主張することは全て「自己正當化」か。むろん、さう思はせるやうに書いた私の文章技術も駄目なのだ(でも、さういふ風にとらはれるのが嫌なので、私は論理的に書いたつもりなのだ)が。
なぜ全て「正當化」か、と云ふ反論が「有效である」と加納氏は考へるのか。加納氏の場合は自己正當化である、と私は指摘してゐる。それを、加納氏は「一般論」として否定する事で、特殊の事例である加納氏の場合もまた否定されると言ふ。こんな目茶な論理はない。そして、加納氏は、さう云ふ目茶な論理を濫用してゐる。一般論と、特殊の論とを、加納氏は區別しないのである。
しかし私の主張はその反省すべき点だけではなかつたはずだが。それ以外は正当性を主張して当然だと思ふが。
加納氏の主張は、曖昧なので、何處までも擴張可能である。それが、議論においては、極めて不公正な方法である、と云ふ事に、加納氏は氣附かない。論點・爭點を絞らない事――それが、加納氏の「勝ち負けはない」の論に繋がる。しかし、それでは困る。一般論から言つて、議論をする際には論點を絞る事自分の立場を鮮明にする事が要請される。それで初めて、議論が成立つ。相對的であれ、自分の意見を正しいとするならば正しいとして、確乎たる自己の立場を自覺し、それを主張し合ふ――それによつて初めて「ディベート」としての議論が成立つ。加納氏はそれを否定してゐる。加納氏は、批判對象に對する自己の確乎たる意見を持たず、單に疑惑を示す。論點を設定せず、或はそれを相手に誤解させ、曖昧な形で「会話」を進め、相手の揚げ足を取つては「論理的でない」と極附けて非難・嘲笑する。本來の論點であるべき地點で負けても、曖昧で漠然とした「会話」である事を理由に、何時までも「それ以外の正當性」を主張し續けて、自己正當化をはかる。加納氏のやり口は、加納氏自身の中では一貫してゐるのだらうが、傍から見れば異常そのものである。
こば氏の解釈については(こば氏とのやり取りでは)「私が正しい」と言つてゐない。こば氏の態度の問題では「私が正しい」と言つた。
これが異常な論法なのである。解釋だけが問題であるべきところで、加納氏は態度の問題持出すのである。一般論として加納氏は再び野嵜のこの言ひ方を非難するだらうが、議論の方法として不正である、と野嵜は指摘してゐる。全て同列に扱つて事実を捻じ曲げてはいけない。と加納氏は言ふが、寧ろ「全て同列に扱つて論點をぼかしてはいけない」と私は言ひたい。そして、新聞がよくやる印象操作の手法としては、あれもこれもと一つの議論に多數の論點を設定する加納氏のやり口の方が當嵌る。
「話を逸らさうとしてゐる」もなにも、実際さうなのだが。
それが惡い事であると私は指摘してゐる。話を逸らすのは、それこそ新聞がよくやる印象操作の手法ではないか。加納氏は、をかしい。加納氏は、何故話を逸らすのか。矢張り、自分の正當化を實現出來る範圍で自己正當化する、と云ふのが、加納氏のやりたい事なのである。
なぜなら、私がこば氏に呈した疑問が議論の方向に(少なくとも私の中では)向いてゐないのに対し、野嵜氏のそれは「レトリック」と称した悪意から発してゐるからである。
野嵜のした事は意圖的なものであるが、加納氏のした事は意圖に反する結果となつたから、違ふ事である、と加納氏は言ふ。が、それでは、加納氏の意圖にそつた形で議論が展開したら、加納氏のした疑惑の表明は惡意になるのではないか。しかし、http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p3と私の「平成十六年十二月三日」のkoba-koba氏がしたやうな「ほんのちよつと」の言及は、小林よしのり氏に嫌がらせをするのが目的か。と云ふ記述を見て貰ひたい。
野嵜氏の常識には鉤括弧を私はつけたい。ふつう、会話のために会話することがあることは常識ではないですか。
koba-koba氏と加納氏とがしたのは、誰が何う見ても、會話ではなく、議論である。コメント欄だから、と云ふ加納氏の釋明は、形式主義に墮してゐて、認められない。
それと、野嵜氏や読者が、私を西部シンパだとか小林シンパだとか思ふのは全然かまはない。それは私が決めることではない。だが、それをもとに公に文章を公開して批判するのは如何なものか。
ならば、加納氏がkoba-koba氏の文章を「小林の文脈から外れて論じてゐる」と解釋するのも構はないが、それをもとに公に文章を公開して批判するのは如何なものかと、と言ひ得るだらう。
「事實として、加納氏は「こば氏は間違つてゐる」「私の解釋が正しい」と書いてゐる」のは野嵜氏とのやり取りにおいてでせうが。こば氏とのやり取りではそれはテーマではないだらうが。
どうして「疑惑を表明する」事は「批判でない」と加納氏は言張るのだらう。疑惑の表明は批判である。それだからこそ、加納氏は「小林シンパ」なる野嵜の「疑惑の表明」を必死になつて排除しようとしたのではなかつたか。強引なのは加納氏である。自己中心的に自分の態度を見るからさうなるのである。
野嵜氏の力説してゐるネット全体をさしてゐる云々は私もこば氏も解釈を異にしてゐない(と前にも書いた)。しかし、その「思え」があることによつて、小林氏の発言が「アホ」や「的外れ」と言へないものになるのではないか、と私は聞き、
それが「聞いてはならない事だつた」と私は何度も言つてゐる。そして、その一つの「聞いてはならない事」即ち惡い事をした加納氏は、默らなければならなかつた、と言つてゐる。
しかし、「覚悟」なんて事を言つてゐる、と言つて小林を支持するのは、何うかねえ。田原相手の論爭で、小林は「説得力」の爲に力強く「思え」と言つてゐるだけに過ぎないだらうが。力強く言ふ事は、小林の何時ものパターンである。一々「覺悟のすすめ」なる道徳的な説教に受取るほど、私もkoba-koba氏も、小林よしのりを信頼してゐない。
平成十六年十二月十一日
同。「応答3」に關して。
「積極的に否定してゐないが、無視は否定を意味する。」のださうで。では不愉快なテクスト 第一回 -Poesiaで私が同じやうなことを主張してゐることも付加へておきます。
一般論に還元するな。
どう「言行不一致」なのか説明してください。
とぼけるな。書いてある。良く讀め。
野嵜氏はそのやうに生きてこられたのですか。なんでも正邪に分けて考へてこられたのですか。それが野嵜氏の二元論ですか。普通はそんなことをしない。少なくとも日本人はしない。いくら野嵜氏が正邪を問はなければならないと「宣言」しても。
では、「加納氏はなんでも正邪に分けて考へてゐない」と、さう云ふ事になる。ならば、加納氏は徳保氏と同じだ。
私が指摘するまでもなく、相変らず「怪しい」が根拠なのだ。「怪しい」を根拠にして正邪をあらそつてはいけない。
ならば、加納氏はこの言爭ひを「会話」とでも解釋したら良い。そして、私と加納氏とは、仲良く「会話」してゐるのであらう。だが、加納氏が小林シンパか何うか、と云ふ加納氏の人間論をやつてゐるのではない、私はその「加納氏=小林シンパ」と言ふ論理が、加納氏がしたkoba-koba氏批判の論理と全く同一であると述べてゐるのである。
取り違へてゐるのはどつちだ。私はさうではない(「正義の議論」ではない)と述べてゐるではないか。いい加減にしてくれ。
そこが論點ではない。そして、批評對象を「小林よしのり」とするか、「koba-koba氏」とするかで、話は全然違つたものになつてしまふ。が論點だ。加納氏は、自分に都合良く、話のポイントをすり替へる。卑怯者めが。
私には野嵜氏が西尾シンパには見えませんが、野嵜氏がさう仰るならばそれでよいでせう。
一般論に還元するなと何度言へば。高坂氏の掲示板で、反米保守の高坂氏に對して、私は「親米保守」の西尾幹二の側に立つたやうな主張をしてゐる。高坂氏と野嵜との議論を見ても、加納氏は飽くまで私には野嵜氏が西尾シンパには見えませんがと言張るのだらうか。そして、野嵜氏がその前提で仰るならば、私のことを小林シンパと思つて下さつて構ひません。――今の小林よしのりの發言に關する議論では、誰が何う見ても加納氏は小林シンパである。が、加納氏の場合、一般論として小林シンパであると見る心理的必然性がある。
「特殊の事例にはその事例毎に特殊な檢討が必要である」といふのは一般論にならないのですか。
意味のない交ぜつ返しをして貰つては困る。ならば、加納氏は「今囘の事例では一般論で檢討すべきである」と云ふ主張をしたいのか。しかし、この種の交ぜつ返しは、徳保氏が得意とする事態の相對化であるやうに私は思つてゐるが。
平成十六年十二月十一日
「応答4」以下。野嵜氏が文章を読めないで誤解曲解の言説を撒き散らしてゐることを一々指摘するのは筆者である加納も飽き飽きしてゐる。野嵜は全く誤解曲解をしてゐない。寧ろ、加納氏の方こそ、勝手讀みを繰返してゐる。加納氏は、一般的な見方をすべきところで我流の見方をし、特殊の事例として扱ふべきところで一般論を持出してゐる。
「積極的な主張」もなにも。野嵜氏が御前は間違つてゐると言つたんだらう。それに答へれば「自己正當化」か。
答へれば、ではなく、加納氏のは、答へ方が如何にも自己正當化の爲の自己正當化だと言つてゐる。「惡い所があつたのは認める。しかし」と加納氏は執拗に言つてゐる。これの何處が自己正當化でないと言ふのか。
どうしても自分が勝利してゐるといふ風な印象を与へたいから野嵜氏は「飽き飽きしてゐる」と言ひながらこんなことを書いてゐるのだらう。
今強調した部分の、客觀的な根據を提示していただきたい。
これだけ繰り返し同じことを説明し指摘してゐるのに明確も糞もあるか。
肝腎のところをぼかしてゐるのは加納氏だ。
吐いた胃液の中に血が混じつてゐる状態で、誰がこんな無意味な言ひ爭いを好んでするか。
無意味であると言ふのならば、なぜ一々平成十六年十二月七日の人効論と事効論をまとめた野嵜氏の文章は素晴らしいもので、それに反論する身としてはいささかならぬ緊張を強いられる。等と言つて、加納氏に吹つ掛けたのではない議論に應じたのか。
平成十六年十二月十一日
加納氏は、自分の立場として「日本的」を持出してゐる。或は、これは、今のhttp://www.poesia.jp/notebook/0412.htmlの中で、加納氏が繰返し擁護してゐる概念である。しかし、その「日本的」と云ふ點で、加納氏は徳保氏と脈を通じてゐる。私はそれに抵抗してゐる。「西歐派」の野嵜にとつて、加納氏と徳保氏とは、同じ「日本的」の日本人であるやうに見える。
と言ふか、日本人的相對主義の立場をとるのなら、加納氏も徳保氏も、一々他人の言つてゐる事に口を挾まなければ良いではないか。そこからして、二人の言動は狂つてゐるのである。
平成十六年十二月十一日
と言ふか、加納氏は、自ら「会話」を打切つて、koba-koba氏批判を自分の日記に移した。そして、さらに今度は、poesiaに河岸を變へた。
koba-koba氏の方も、koba-koba氏の責任とは必ずしも言ひ難い「システム」の都合であるが、blogなので日附が變ると「ぺーじ」も變る。
これでは議論を追ひかけるのも面倒である。
山形氏のところの掲示板で大石氏がいきなり過去ログ扱いするとはどこまであんたはせこいのか。と怒つたのにも、一理はある。全體としての理はないので、大石氏はこの發言について、散々嗤はれてゐるが、言爭ひだの何だのにあの掲示板が向かない事は言ふまでもない。
そして、blogも、論爭の道具としては、それ自體、向いてゐないのではないか。
ウェブの日記なり何なりで論爭は可能か――と言ふので、私は「可能」の立場を採るのだけれども、その一方で、それは飽くまで「可能性」の話であると考へる。論點の無闇な擴大と、論ずる場の無闇な變轉は、論爭をそれ自體として完結させない。ウェブの議論は――實は、一般の議論もさうだけれども――論點を確定する事と、議論の流れを一本に纏める事とが必要である。が、メディアは全て、後者の「議論の流れを一望出來るやうにする」目的に適はない。實は、blogや掲示板は、メディアであり、それ自體として一面で論爭に向かないのである。それは、言葉がそもそも意思の疎通に十全の機能を持たない事の反映でもある。が、それだけに、注意すれば、限定された範圍で論爭は常に可能である。可能性の議論として可能である。
平成十六年十二月十一日
「ネットは異常者の共同体と思え」の、「ネットは異常者の共同体」を重視するか、「と思え」を重視するか、は、解釋の問題でなく、選擇の問題であり、價値判斷である。
價値判斷の問題は、正邪の問題であり、正義の問題である。
平成十六年十二月十一日
猫跨ぎ記事終了。
平成十六年十二月十一日
うちのサイトのテキストのデバッグをみつちりやつて下さつた方から御聯絡を頂戴しました。何うも有難うございます。
訂正しました。
平成十六年十二月十一日
切込隊長BLOG(ブログ) 〜俺様キングダム: 大石英司氏の物言いが気に入らない
そのネット界の名厨房二名が、山形掲示板で衝突しているという。山形氏の無造作な、しかし著しく先鋭的な物言いが理由である。それも一行。大石氏を暗に指して「あーいやだいやだ。低級な粘着自称「作家」の伝言ボーイなんかやってやる義理ねーよ。あー気持ちワル」である。ただそれだけ。おそらく山形氏の悪口を放つ才能をつぶさに観察してきた諸兄からすれば、この程度は刺身のつま、居酒屋のお通し、ゴング後のジャブ、訴訟は内容証明からといった軽度なものである。
平成十六年十二月十一日
『どう考えるか(2) 知識と人間』(二玄社)を讀んでゐるのだけれども、そこで「論理は普遍的なのか」「普遍的な論理はあるのか」と云ふ話がなされてゐる。で、さう云ふ設問そのものが論理の普遍性に依據してゐる、と云ふ批判があつて、普遍性とは何か、と云ふ事に樫山氏が執拗に疑念を表明してゐる。その一方で、或範圍内で論理が方法として有效である、と云ふ事が確認されてゐる。
現状、相對性理論と量子力學とは未統一で、それぞれ別個の原理に基いてゐる。が、そこで使はれる數式の數學的處理は同じである。
道徳に於ては、個人の善い生き方の原理が、原理である。政治に於ては、社會・協同體の集團としての生存の維持の原理が、原理である。さう云ふ、或フィールドに於る原理を假説として、そこから論理を展開する事のみが可能である。
「一般的な意味での論理的な態度」と云ふ立場は成立たない。ただ、自己の立場を確定した状態での、過程としての論理的態度だけがあり得る。

平成十六年十二月十日
今日のローゼンメイデンは、科白が冴えてゐた。しかし三文字作畫。
今日のローゼンメイデンは三文字作畫。しかし、科白が冴えてゐた。
この二つの解釋は、解釋であるのみならず、價値判斷である。價値判斷であるのみならず、一方は正の價値判斷、他方は負の價値判斷である。
それはともかく、今日のローゼンメイデンは、本當に色々な意味で科白が冴えてゐた。orz
平成十六年十二月十日
「変体英文」なんてものを思ひ附いた波江が、またスパム行爲で各地の掲示板を荒してゐる。
波江本人も最近は自分の投稿が場違ひである事を自覺してゐるらしいが、にもかかはらず「御免なさい」と言つて濟ませようとしてゐるのだから質が惡い。
そして、私がかうやつて書くと、「また騒いでゐるが」云々と波江は言ふ筈である。波江の「御免なさい」は、虚僞の態度である。
スパムで世直しは出來ない。
平成十六年十二月十日
例の言爭ひが續いてゐるので何時ものナヴィゲーション用リンクを設置。「リンクを設置」と云ふ言ひ方で良いのですか?
猫跨ぎ
平成十六年十二月十日
http://www.poesia.jp/notebook/0412.html
2004-12-10の項。
どうしてをかしいのでせうか。Aが成立すればBは成り立たないやうですので説明してくださいと言ふことの何がをかしいのでせうか。
「説明してください」→「説明できなければお前は間違つてゐる」=「批判」。
「説明」「説明」と加納氏は言つてゐるが、實は批判である。
さうですか?私は妥当だと思ふし、正当だと思ひます。今更掘り起こすなと言はれさうですが、どう読んでも「思え」は覚悟を促す記述だからです。
「〜と思え」の「〜」について、koba-koba氏は述べてゐます。そして、「思え」と言はれても、「〜」即ち「ネットは異常者の共同体である」は事實に反する、とkoba-koba氏は指摘しました。それに對して、「思え」だから「覚悟」と云ふ批判は、批判になりません。
なぜなら、あの章は少女をネットから救ひ出すには如何にすればよいかといふことが問はれてゐたからです。そのために、ネットは異常者の共同体だと思ひ教育しろといふのがあの漫画の文(?)脈なのです。
しかし、全ての「ネット」が「異常者の共同体」である訣ではありませんから、論理的に、小林氏の「思え」と言つてゐる事は事實に反します。そして、一部の「ネット」に「異常者の共同体」が「ある」事をkoba-koba氏は認めて、だから「小林の言ふ事にも一理ある」と述べたのです。
しかし、ただの傍注だから、そんなことを言つてもしやうがない。だから、違ふ解釈があれば説明してくれと言つただけなのだ。
ただの傍注である事が判つてゐて、それなのにわざわざ「説明しろ」=「説明できなければお前は間違つてゐる」と非難するのは、如何なものかと。しかも、その時點で、加納氏は原典を持つてをらず、また、論理ではなく、解釋の話をしてゐたのであり、確かな根據をもつて絶對的にkoba-koba氏を否定出來る立場になかつた。そして、加納氏のやつた「説明しろ」は、加納氏が如何にレトリックで批判でない事に見せかけようとしても、實質的に批判である。これは何う考へてもをかしい。
あの場できちんとこば氏が答へてくれたら、「あー、なるほど」と言つて、「しかしあのやうな騒ぎは本当に問題ですね」なんてコメントになつたかもしれないのである。
koba-koba氏が加納氏の期待した答へ方をしない事を、「きちんと答へない」と言ふのは、如何なものか。寧ろ、加納氏が、何を期待したのかを最初にきちんと説明しないで、一方的にkoba-koba氏を責めたのが惡い。
その指摘は甘んじて受けなければならない、といふことを、野嵜氏の読み違へで書いたのだが、氏はそれをしてもまだ責めるやうだ。
甘んじて受けなければならないと思つてゐるのならば、何故いつまでも加納氏は自己正當化を續けてゐるのか。「批判」を「説明を求めた」にすりかへたり、「自己正當化」を繼續しながら「批判は甘んじて受ける」と言つたり、加納氏の言動はちぐはぐだ。
どこをどう読んだら「解釋の正邪を爭」つてゐると読み取れるのか……。「正邪を爭ふ」ならば、まだ私はこば氏とやりあつてゐるだらう。なぜなら、私の解釈が正しい解釈だからである。
私が正しい、と言つてゐるのだから、加納氏は正邪を爭つたのである。ならば、解釋の話ではなく、解釋の正邪の話である。
ここで加納氏は、結論として「自分が正しい」と言張つて、そちらの議論に持込む事で、「解釋の議論」か「解釋の正邪の議論」かと云ふテーマから話を逸らさうとしてゐる。だが、私は加納氏の手には乘らない。あと、加納氏が言ふ「私の解釋が正しい」は、認めない。「思え」→「覚悟」と云ふレトリックの解釋と、「〜と思え」の「〜」が事實か何うかとは、關係がない。そして、koba-koba氏の文章は、飽くまで「思え」と言はれた「〜」即ち「ネットは異常者の共同体」が事實か何うかを問題にしてゐる。
私の動機ですか。それを述べても野嵜氏は「宣言」といふのでせう。違ふのですか。客観的な事実的根拠に裏打ちされてゐないものを述べても野嵜氏は認めないのでせう。自分はさういつた「心理的」なもの(客観的な事実的根拠に裏打ちされてゐないもの)を根拠にしながら私に向かつては「宣言」と断じる。そのバランスはどこでとつてゐるのですか。
しかしながら、その種の疑惑を私が表明する事は、自分が最初に疑惑で以つて議論を吹つ掛けた加納氏が、否定出來ない事である。
さういつたことを全て言つた後で動機を述べるが、そんな大仰なことではないことは、最初のやり取りを見れば明白なのであつて、先ほども言つたやうに、「いやいや、それでは辻褄があはないやうですよ」「それはかういふことだからです」「ああ、なるほど。さういふ風に考へれば納得がゆきますね。しかしさっきコメントしたやつもさうだが、確かに異常者は多いですね」なんて会話のためである。
納得なら、あのkoba-koba氏の發言とコメントを論理的に讀めば、誰でも出來る。「ネットは異常者の共同体」を、特稱命題と見れば「一理ある」、しかし、全稱命題と見れば事實に反する、とkoba-koba氏は述べてゐるのであつて、それは論理的に正しい發言である。「と思え」で爭つた加納氏の方がをかしい。
しかし、会話のために會話する、と云ふ加納氏の説明は、トートロジーの一種であつて、誰も納得出來る説明ではない。そして、あとで加納氏は、自分がいかに小林よしのりを讀んでゐるかを説明してゐる。また、西部邁のファンだか何だかである事も明かである。「加納氏が小林シンパである」と云ふのは、誰もが普通に持つ印象である。それを加納氏は、論理で否定しようとしてゐるが、私は常識に從ふ。
何度も言はせて頂くが、あの程度の会話で「主張が「ない」」のは当然でせう。私はコメント欄に己れの主張を繰り広げるやうなことはしないと何回も書いたではないか。
あの程度だらうがこの程度だらうが、「説明しろ」は「説明できなければお前は間違つてゐる」と云ふ己の主張に他ならない。何故か加納氏はそれを認めない。しかも、事實として、加納氏は「こば氏は間違つてゐる」「私の解釋が正しい」と書いてゐるのであつて、「説明しろ」が批判であり、批判であるからには主張である事は、明かである。
實際、koba-koba氏のあの私の解釈ではネット全体を指しているので、私としては的外れな意見には違い無いですが。と云ふコメントは、短いが、koba-koba氏の主張であり、それに反論した――しかし、koba-koba氏の考へてゐた「ネットは異常者の共同体」の是非ではなく、「〜と思え」と云ふ言ひ方から何を讀み取るべきかに拘つたのだから、讀み違へに基いて的外れな「反論」をしたのだが――加納氏は、主張をしたのである。普通はさう見る。
こば氏との当初のやり取りは議論ではない。こば氏のその後の態度は正義の問題で議論になりうる(か否かは野嵜氏との議論に持ち越されてはゐるが)。
「その後の態度」に論點を移す事自體が許されない。「当初のやり取り」だけが許される。加納氏は、「怒りの矛先」を、「解釈」から「態度」に移した。さう云ふ「戰線の擴大」が私には許し難いものに見える。
平成十六年十二月十日
http://www.poesia.jp/notebook/0412.html
2004-12-10の項。つづき。
あげあしと思はれたくはないのですが、「文学と政治を峻別」ではないかと。一応その前提で話を進めますが、
それは當方の書き間違ひなので、こちらも訂正しておきます。
私は野嵜氏の文学と「政治」を峻別することが道徳的だといふ主張を「否定」してゐない。野嵜氏の言ふとほりの意味での「政治」ならば賛成するが、本来的な意味での政治ならば反対するといふことを言つたまでだ。
積極的に否定してゐないが、無視は否定を意味する。
本当にいい加減にしてもらひたいが、私は「論理が出發點であり目的地である」といつ言つたのだ。
「koba-koba氏に絡んだのは、小林シンパとして小林の發言を否定されて頭に來たからではなく、會話の爲である」と加納氏は主張してゐる。加納氏のトートロジーを私は指摘してゐるに過ぎない。加納氏が「私は、論理を出發點にし、さらに論理を目的地にしてゐます」と宣言した、と私は言つてゐるのではない。理窟で考へて呉れ玉へ。
私は礼儀や態度が前提にあつて初めて論理が成り立つといふ立場であることは、氏も知つてゐるではないか。そして、論理がその礼儀や態度、すなはち生き方を一貫させ、考へるための方法であるといふことも、再三述べてきたではないか。
私は、そんな事を議題にしてゐない。單に、具體的に加納氏が「koba-koba氏に絡んだのは、小林シンパとして小林の發言を否定されて頭に來たからではなく、會話の爲である」と主張してゐるその(或はその他の)理窟を――加納氏が主張してゐる具體的な理窟について――「トートロジーだ」と言つたのである。それに對して、「私の立場はかうである」と「反論」されても困る。「加納氏は、宣言してゐる自分の立場と、自分がやつてゐる事とが一致してゐない」と私は指摘してゐる。言行不一致だと。
だーかーらー。野嵜氏は会話で一々正義を問ふのですか。前にも述べたが、これが小林よしのりの思想を批評したり、あの章そのものを批評したりする目的であれば(正しい解釈が必要になるから)私は「正義の議論」をしただらう。何が一貫してゐないのだ。
「それは本當に正しいのか」と加納氏はkoba-koba氏に「質問」したのだが、さう云ふ質問は批判であり、正邪を分かつべきであるとする態度に基いてゐるのであり、正義を問うてゐるのである。が、加納氏は「正義ではない」と主張してゐる。しかし、いくら「正義ではない」「説明を求めただけだ」と加納氏が宣言しようとも、加納氏のした事は正義を問ふ事であつた――否、普通は正義を問ふ事でなければならない。
koba-koba氏のhttp://d.hatena.ne.jp/koba-koba/20041127のコメントは、明かに小林よしのりの發言の論理的否定である。これは誰の目にも明らかだ。そして、koba-koba氏は、小林よしのりの意見についてですが、あの表現の仕方では文脈を考慮したとしても「ネット言論=匿名=全員やりたい放題の異常者」という主張と読むのが一般的な解釈だと思います。と、「解釈」を述べ、その妥當性の傍證として、そこらへんを分かりやすく説明されている文章を提示した。それに對して、加納氏は「態度が惡い」として怒つた。目茶苦茶である。しかし、加納氏は「目茶苦茶でない」「解釋ではなく、態度に議題が移つたのだ」と主張する。が、既に述べた通り、koba-koba氏の注目した「ネットは異常者の共同体」ではなく、「と思う」に加納氏が注目し、さらに、小林の發言から、koba-koba氏の「非論理的な態度」に話が移る。
一度整理してみる。加納氏は最初、會話するのが目的で、小林の發言の事實としての正邪なんてものに關心がない。だから、小林の發言の正邪を問うてゐない。だが、加納氏は、物事の正邪は閑却してゐない。――。
「ない」「ない」「ない」が連續してゐる。かう言ふのは怪しい、さう私は見る。「ない」を除くと、加納氏が求めてゐる物は「會話」だ、と云ふ事になる。だが、「會話の爲の會話」なるトートロジーは、認められたものではない。
と言ふか、加納氏は今、前にも述べたが、これが小林よしのりの思想を批評したり、あの章そのものを批評したりする目的であれば(正しい解釈が必要になるから)私は「正義の議論」をしただらう。と述べてゐる。しかし、さう云ふ目的で加納氏は「質問」してゐないのである。加納氏は、koba-koba氏の日記のコメント欄で、明かに、koba-koba氏の發言を批評してゐたのである。そして、批評對象を「小林よしのり」とするか、「koba-koba氏」とするかで、話は全然違つたものになつてしまふ。加納氏は、議題を取違へてゐるのである。
では、野嵜氏は西尾シンパか。野嵜氏は親米なんだらう。「特定の目的に一致してゐ」るから西尾シンパだらう。
議題が「親米か反米か」であれば、「西尾シンパ」として私は振舞ふだらう。高坂氏のサイトの掲示板で、事實上、そのやうな振舞ひをしてゐる。
私がわざわざ他の人も引ける辞書から引用してゐるのは、語彙の意味を四散させないためである。野嵜氏は、自分の「政治」の解釈からシンパの意味を拡大して解釈してゐるのである。
文脈に沿つて話をする際には、一般論に話を還元してはならない。これは議論の鐵則である。加納氏こそ、一般論に我々の議論を當嵌めようとしてゐる。しかし、一般論は一般論であり、特殊の事例にはその事例毎に特殊な檢討が必要である。
平成十六年十二月十日
實に下らない言爭ひで、讀者も飽き飽きしてゐるだらうが、筆者である野嵜も飽き飽きしてゐる。
「野嵜が嬉々として言爭ひをしてゐる」と見る人もゐるだらうが、さうではないと言明しておく。
と言ふか。「加納氏は、加納氏自身にどのやうな積極的な主張があつて、それで何を目的に物を言つてゐるのか」がさつぱり見えて來ない。單なる自己正當化が目的としか思はれないのだが、それだとこちらが引つ込まない限り何時までも加納氏は話を續ける筈で、迷惑この上ない。「さうではない」「俺は自己正當化したいのではない」と加納氏は言ふかも知れないが、しかし、さう言ふ加納氏が、話の決着の附くべき地點を決める論點を確定せずに議論を仕掛けてゐる以上、何であれこちらを言負かしたいのが動機であると判斷せざるを得ないのである。
平成十六年十二月十日
それにしても、某みん氏にしても、某高橋氏にしてもさうだつたが、加納氏も、議論が長引くと、河岸を變へるのである。
平成十六年十二月十日
猫跨ぎ記事終了。
平成十六年十二月十日
古書會館の古本市では、和辻哲郎『自敍傳の試み』(中央公論社)を買つたのみ。良い感じの本が多かつた筈なのだが、特に買ひたいものナシ。
あと、書架の配置は、某氏が言ふやうな長手方向に平行の書架配置(A)よりも、今囘のやうな配置(B)の方が良いと思ふ。
KoshokaikanFuruhonichi.gif
人の流れが出來るAの配置だと、人の流れと衝突し易く――或は、人の流れに乘らねばならず――、本棚を落著いて眺められない。寧ろ、Bの配置の方が、カオス化して、却つて自由に動き易い――と言ふか、勝手な事をし易いし、邪魔な人間を邪魔もの扱ひし易い。
平成十六年十二月十日
http://ruitomo.com/~hiroo/bbs/kohobu0078.html#kohobu20041210110308
色々な意味でさすがだ。

平成十六年十二月九日
Other Voices(2004-12) -Poesia
正しいのか正しくないのか分からないから説明してくれと言つてゐたのだ。
解らなければ自分で調べればよろしい。koba-koba氏の言つてゐる事が怪しいからと言つて、さう指摘するのは、をかしい。
解釈とは何かを読んでゐないことは明白であり、
讀んでゐるが、それが何か。
といつたやうなものであり、論理ではなく「怪しさ」なる印象でしかないのである。
加納氏は、「怪しい」と云ふ印象から、koba-koba氏に「説明」を求めてゐる。その加納氏が、「怪しさ」を根據にするな、と云ふ事は許されない。
そして、私は自分で考へうる限りの「妥当だと思はれる諸条件」を論理的に解釈をしてこば氏に疑問を投げかけたのだ。
論理的だと宣言する事は勝手だが、私に加納氏の「論理的」は、とても論理的なものに見えなかつた。
私は批判なんてしてゐないのである。
「飽くまで説明を求めただけである」と加納氏は言ふのであるが、しかし、ならばなぜ、すぐにkoba-koba氏に「論理的でない」と説教をしたのか。koba-koba氏の説明が惡い、と加納氏は答へるだらうが、それは理由にならない。そもそも、加納氏の聞き方がをかしいからである。
氏は、話合ひはなんでも勝ち負けのつく「勝負」だと思つてゐるのではないか。私はさうではないと思ふ。正義の問題において勝ち負けがつくのである。こば氏とのやり取りは正義の問題ではなく解釈の問題なのである。
加納氏の「解釈」と云ふ用語には、特殊な意味があるらしい。だが、解釋には、正しい解釋と、間違つた解釋とがある。ならば、解釋の正邪を爭ふのは正義の爭ひである。
こば氏は、どうやら小林氏の著作を結構読んでゐるやうだが、小林氏シンパではないだらうし、私も同様である。小林氏の思想の是非(正義)を巡つて論争してゐると仰るのならば、その証拠を挙げるべきである。どこにも、小林氏の思想を支持し、それの是非を論じてゐる箇所はないはずである。
それでは、加納氏がkoba-koba氏の些細なコメントになぜつつかかつて行つた――加納氏の言ふ「説明を求めた」――のかが、説明出來ない。加納氏が何故あんなちよつとした事に向きになつたのか、加納氏の動機が知りたい。私の「加納氏は小林よしのりが好きだから、小林批判であるkoba-koba氏の言及に腹を立てた」とする解釋は、心理的には誰でも納得出來る筈のものである。加納氏は「違ふ」「そんな事は言つてゐない」と言ふが、積極的な反論は現在までに何もない。
左翼は「左翼の主張」を肯定しようとするから「戰略的に、疑惑を仄めかす」のであつて、私は「私の主張」といふものがそもそもない段階なのだから「戰略的に、疑惑を仄めかす」ことなどできないのである。
それこそ何うかしてゐると思ふ。
加納氏に申し上げるが、加納氏の主張が「ない」事が、今囘の言爭ひの最大の問題となつてゐる。私は、なぜ加納氏が、積極的な主張を持たないのに、他人につつかかるのかが理解出來ない。加納氏には、何が正しい、と云ふ觀念がない。それは、暫定的なものであるにしても、少くとも、加納氏が相手と議論する中において、今のところ、一貫してさうである事は、否定出來ない事實である。が、それなら、「正しい物等何もない」と積極的に主張しつゝ他人を批判する徳保氏と變らないではないか。否、最後に正しい物を選ぶんだ、と加納氏は言ふかも知れない。だが、それならば最後まで下手に出なければならないのであり、koba-koba氏に對して居丈高に「論理的でない」等と説教をかます權利は加納氏にはない。
私の結論は「文学で政治を書いてもよい」といふものだからだ。 この結論を述べるために必要な前提と論証は私はこなしてゐる。そして当然、野嵜氏の言ふ「道徳的な葛藤」は、結論に至るまでには入つてしかるべき道筋である。その理由は野嵜氏が書いてゐるとほりである。しかし、この結論を述べるためにとりあげる必要はどこにもない。
しかし、それならば加納氏には、「文學と道徳政治とを峻別すべきだ」と云ふ私の主張を否定する動機がない筈である。加納氏は、ことさら否定する必要もないのに、相手に「説明」を求め、反論させては「そんな事言つてませーん」と返す。加納氏は、ただ相手を馬鹿にしたいだけなのではないか。koba-koba氏に「論理的でない」云々と説教して見下した加納氏の態度も含め、加納氏の全體の言動を巧く説明出來る説明は、ほかにはない筈である。
私は最後まで解釈についての論理を述べたのだ。
加納氏は「正確」な解釈を導くための論理的な検証と言つてゐる。しかし、加納氏の最初の質問における「論理」は、論理の爲の論理以上のものに見えないし、それ以後の「論理」も、論理の爲の論理以上のものには見えない。だが、論理が出發點であり目的地である、とする加納氏の態度は、人間の態度としてはをかしい。論理的でない。人間ならば動機がある。
この文だけでは確かにそのとほりだが、私は一貫して正確な、妥当な論理を求めてゐるといふ文脈を忘れられては困る。
それは結構な話だが、しかし、となると、既に指摘した通り、加納氏は正義の議論をしてゐたのであり、正義とは別次元の「單なる解釋」の議論をしてゐた訣ではない、と云ふ事になる。加納氏の自分の言動に關する説明は、一貫してゐない。
シンパとは「同調者。特に、特定の運動に共鳴して、陰で精神的・物質的な支持援助をする人。」のことである。私は、小林氏の思想に全て同調してゐるわけではない。なぜなら、たとへば氏の反米論をとつてみてもそれは私とは隨分と違ふものだからだ。
加納氏は、小林氏の思想に全て同調してゐるわけではないからシンパではない、と主張する。しかし、これは逆に加納氏が政治と道徳の峻別が出來てゐない事を證明する。政治に於ては、思想に全て同調する必要はない。大體一致してゐれば、否、特定の目的に一致してゐれば、政治的には「同志」である。そして、親米か反米かは、koba-koba氏の文章と何ら關係のない話である。加納氏の反論は、論理的に決定的な有效性を持たない。もし私が「小林シンパ」ならば、むろん小泉氏の発言にも小林氏と同様の考へを披露するだらう。と云ふ主張も、やはり有效性を持たない。
加納氏は、小林の「ネット」に關する發言から「覚悟」ノススメを讀取つてゐる。そして、それに同感してゐる。それは、加納氏の解釋に過ぎないが、しかし、その解釋によつて、加納氏は小林に、或面で「同調」してゐる。ならば、加納氏は小林のシンパである。
平成十六年十二月九日
同じOther Voices(2004-12) -Poesiaの「科学的であることは生活的観念的ではない」の項について。
ガリレイやブルーノが主張してゐるのは科学的な問題であり、それは人間がどう生きるのかといふ問題とは基本的に違ふ。
しりとり人物館・ブルーノ
ブルーノの主張は、科學的と言ふよりも哲學的と言ふべきものです。
自分の国が、侵略を受けて戦争になつた。日ごろから国のために死ぬべきだと考へてゐたAさんとBさんは、しかし、それぞれ違ふ立場を採つた。Aさんは、自分が今まで主張してきたことを成し遂げた、つまり、戦争に行き死んで仕舞つた。一方Bさんは、徴集がかかつたときに逃げて仕舞つた。さて、ではAさんとBさんはどちらが正しいのだらうか。確かにAさんもBさんも、同じ主張をしてゐた。そしてどちらも正しい主張であると仮定した時、彼らの生き方として正しいものはどちらだつたのか。私はAさんが正しかつたと言ふ。しかし野嵜氏は、AさんもBさんも正しかつたと言ふはずである。なぜなら、二人の主張はどちらも同じく正しかつたからだ。
主張については「正しい」「正しくない」の評價が可能である。しかし、生き方については、「善い」「善くない」の評價しか出來ない。或は、「Aの生き方は正しいが、Bの生き方は正しくない」と云ふ事は可能かも知れないけれども、AとBの生き方がそれぞれ善い生き方であつたか何うかは、加納氏の話だけでは決定出來ない。
むろん、言ふまでもなく、主張として、論理として彼らはどちらも正しかつた。だが、その論理とは何のためにあるのか。これも言ふまでもなく己れの生き死にをどう捉へ、実行するかといふもののためである。論理が正しくとも生き方が正しくなくては駄目だとはさういふことであり、野嵜氏の「論理さへ確りしてゐて、正しい結論が出てゐれば、それでよろしい」といふ考へは非道徳的な考へである。
思想が正しからうが正しくなからうが、生き方が善い生き方であるか惡い生き方であるかとは關係がない。オウム信者であつても、眞劍であれば、善い生き方をしてゐると言へる。人の善惡は道徳に屬する。主張の正邪は正義に屬し、廣い意味での政治に屬する。論理は、人間に由來するが、非人間的なものである。恒星の運動は、人間によつて決定されるものでなく、非人間的なものだが、論理に基いてゐる。
平成十六年十二月九日
同じく加納氏の「人効論と事効論」については、「敢て」なされた「反論」であるのだけれども、何しろこちらとしても言ふべき事を言盡くしてしまつて最早言ふ事が無い。
取敢ず、昨日のが、さう云ふ竹山氏の考へを認めた上で、私としては「しかし、にもかかはらず、日本人は西歐の文明を受容れねばならなかつたではないか」と言ひたい訣である。と云ふ發言を見ていただいて、「野嵜の選擇」の理由を看取していただければ倖。
野嵜の「論理主義」なり何なりは、漱石の言ふ外發的なもので、内發的なものでない。その限りで説得力を缺くのは已むを得ないと自覺してゐる。
だが、それだけに、野嵜の「論理主義」は「敢て」の選擇に據る立場である事を申し上げたい。それに對する加納氏の「論理主義」の據つて來るところのものが何であるかを、私は知らない。
平成十六年十二月九日
あと、揚げ足を取つておくと。
先にも言つたやうに、ニーチェは、キリスト教の道徳観から弱者のルサンチマンの正当化を見て取つた。
「野嵜は、koba-koba氏への『質問』から加納氏の『小林シンパ』の正當化を見て取つた」と云ふ事を「論理的」に否定した加納氏がニーチェに疑問を呈しないのは「論理的」に矛盾してゐるのではないか。
平成十六年十二月九日
http://jrw.to/wslash/diary/2004_12_09.html#timestamp1102540392
平成十六年十二月九日
日米開戰の日とジョン・レノンが死んだ日とが同じなのは單なる偶然だが。
千九百六十年代のヒッピー文化の頃、自由の象徴として若者が乘囘した車が、かのヒットラーの後援によつて世に出る事となつたフォルクスワーゲンの「ビートル」であつた、と云ふのは、考察して良い事實であると思ふ。
平成十六年十二月九日
ちくま學藝文庫でD.H.ロレンス著・福田恆存譯『黙示録論』が再刊された。
ちくま文庫の方では『チャタレー夫人の恋人』が出てゐる。
平成十六年十二月九日
坪内祐三・福田和也『暴論・これでいいのだ!』(扶桑社)を一往買つて來た。

平成十六年十二月八日
最近の子供は眞珠灣も知らないのださうで。
平成十六年十二月八日
竹山道雄が『人間について』(新潮社)所收の「聖書とガス室」で述べてゐる。以下、野嵜なりの要約。
キリスト教徒は、キリスト教だけが唯一の宗教であると考へてゐる。日本人は屡々、キリスト教を愛の宗教として受止めてゐる。しかし、キリスト教は昔から異教徒に對して苛烈な宗教であつた。聖書を讀めば、Godは愛の神であると同時に、怒り、嫉妬し、復讐する神である事が解る。
その聖書の中には、ユダヤ人を攻撃する文句が澤山ある。もともと、ユダヤ教から獨立しようとしたキリスト教が、反動としてユダヤ人を攻撃したものと考へられるが、キリスト教を絶對の宗教と考へたキリスト教徒は、聖書に書かれた通り、長い間、ユダヤ人を差別し、迫害して來た。
さう云ふユダヤ人迫害は、「傳統」として長い間存在して來たが、中世から近世にかけて緩和されつゝあつた。ところが、近代に至つて再び再燃した。そして、竹山氏は、さう云ふ「傳統」に連なるものとして、ナチスのユダヤ人迫害を見る。
このユダヤ人迫害に、コルベ神父等は抵抗を試みた。しかし、多くのドイツ人は消極的・積極的にナチスの政策に協力した。當時の教皇であるピウス十二世は、曖昧な囘勅を發しただけで、ヒットラーを破門もしなければ、ドイツのカトリック教徒にナチスのユダヤ人迫害に反對するやう指示も出さなかつた。竹山氏は、このピウス十二世の態度を詰るのだが、同時に、さうしたキリスト教徒のユダヤ人に對する冷淡な態度は、古くから存在する歴史的な物なのではないかと指摘してゐる。
かうしたキリスト教の排他的で反ユダヤ的な態度については、竹山氏の文章が發表された千九百六十年代になつて、キリスト教内部でも反省の氣運が高まつてゐた。聖書における排他的・反ユダヤ的な文言に對しては、批判的な讀みが廣まつた。しかし、竹山氏が糺彈するやうな排他的な、或は反ユダヤ的な文言は、結局、聖書から削除されてゐない。
キリスト教では、第二次世界大戰が終つて、漸く排他性への反省の氣運が生じ、他の宗教に對して敬意を拂ふべき事が言はれるやうになつた。現代のアメリカでは、ユダヤ・カトリック・プロテスタントの各宗教が併存してゐる。しかし、飽くまでかうした状況は、つい最近になつて生じたに過ぎない。
竹山氏は、例のシドッチを取調べた新井白石の感想を引いて、日本人にとつてキリスト教は不可解なものであつた筈である、と云ふ事を述べてゐる。そして、日本的な宗教における折衷的な態度――きよらかな自然観に浸って、祖先以来の民族感情にふれたいときには、神道による。慈悲の救いを聞きたいときには、仏教にたずねる。現世の人倫を教わりたいときには、儒教の本を読む。隣人の愛とは何かと思えば、(日本的に解釈された)キリスト教の説教をきく。――を、キリスト教的な立場から雑然たる折衷主義として切つて捨てるのは誤であると主張してゐる。日本人は、絶對者を戴くのではなく、自らがより高い境地に至るべく努力し、知られざるカミに参与しようとねがうものである、と述べてゐる。
竹山氏は、日本人的な立場から、キリスト教の不可解な側面を指摘し、日本人的な思考の或種の良さ――寛容――を述べてゐる。
平成十六年十二月八日
が、さう云ふ竹山氏の考へを認めた上で、私としては「しかし、にもかかはらず、日本人は西歐の文明を受容れねばならなかつたではないか」と言ひたい訣である。西歐人は、合理的で便利なものを發明した。が、さう云ふ發明をした許りでなく、その發明を利用して世界を侵掠し、さらに自らの宗教を現地人に高壓的に押附け、異教徒を人とも思はないかのやうな態度で扱つた。日本人は「和魂洋才で行く」と言つたが、結局和魂を失つてしまつてゐる。福田恆存は、日本人は西歐人によつて發明された物だけを受容れる事等不可能で、發明した精神もまた受容れなければならない、と指摘してゐる。
さう云ふ事を考へた上で、日本のクリスチャンが、一方で、愛の宗教として暢氣に「神を讃美します」と言つて陶醉したり、他方で、神道を憎んで靖國神社の前で抗議運動をやつたりしてゐるのを見て、何うか(してゐる)と思ふ。そして、この闇黒日記の讀者の中にはクリスチャンもゐる筈だが、キリスト教について書いても、或は、日本のクリスチャンに對する批判を書いても、彼等からはさつぱり反應が無い。
日本のクリスチャンは、一方で、日本人的にGodを愛の神と捉へ、他方で、かつての西洋人のやうに宗教的に排他的である。そして、さうした状況を、不思議とも思はない。しかし、私にしてみれば、それは大變に不思議な状況であるやうに思はれる。そんな事を一々細かく考へて、ブログなり何なりで野嵜に反駁しても、晝間の仕事に差支へるだけだし、爭ふのは氣分が惡い、と云ふ事なのかも知れないが、一度は考へておくべき事なのではないか。と云ふ事で、毎囘書いてゐるのだが、日本人としては野嵜の方こそ變なのだらう。
平成十六年十二月八日
再掲:安倍なつみ盗作疑惑
なっち裁判 判例集 - 査察報告書安倍なつみさんが飛行機からいろいろなものを無断で持ち帰った行為は、構成要件の点から窃盗に当たると思われますし、番組中の発言やエッセイの記述から時効が完成していない可能性が高いでしょう。これを無罪にするというのはネタとはいえさすがに無理があります。というわけで有罪にしました。と云ふ記述があるのだが、妙に示唆的である。黒田氏が元氣はつらつオロナミンC状態だつたら、日記なり何なりで觸れてゐたんだらうなー。
平成十六年十二月八日
黒須教授のUser Engineering Lecture:メーリングリストというメディア(2004年12月6日)
座長がゐないから議論は難しいと。
で、その黒須氏の記事が、次のヤコブ・ニールセンの記事と並んで掲載されてゐるのである。
Alertbox: 産業革命の Undo(2004年11月22日)
ここ 200 年の歴史は、中央集権化を推し進め、人間体験を進化とは逆行するものに変えてしまった。インターネットは、もっとバランスのとれた、中央集権型ではないライフスタイルを再構築してくれる。
工業化によつて人間は集まつて活動するやうになつたが、インターネットの發達で再び昔のやうな牧歌的な生活に戻れるかも知れない、とニールセン氏は述べてゐる。
ニールセン氏は、インターネットでは全てのコンテンツが平等であり、良質な物だけが勝ち殘る事が出來る、と述べる。しかし、黒須氏の立場は、皆が平等の立場であるメーリングリストで議論するのは難しい、と、反對の立場である。
ただ、黒須氏は、掲示板での議論についてはまた別の見解を持つてをられるらしいので、本質的な立場の對立であると言へるか何うかは、まだ解らない。

平成十六年十二月七日
http://www.kh-web.org/about/new/0412.htm#dec06
何が原因なのか定かではないのですが,印刷の際,用紙サイズがずれるという事態がちょくちょく発生します.
まあそういうことを抜きにしてもバージョンごとに互換の問題が生じるのは MS Word の機能みたいなものであるのはいうまでもないことですが,それにリテラシーの問題が加わると問題がさらに拡大されるということで.
Wordは――と言ふより、Windowsの場合、GDI關係がディスプレイドライヴァとプリンタドライヴァに依存してゐるので、プリンタドライヴァ變へるとレイアウト總崩れ、なんて事は日常茶飯事です。
そもそもWordはレイアウトツールではない、と云ふ事が、世間の人には解つてゐない訣で。MicrosoftはWordのデフォルトの表示をアウトラインモードにして呉れないですかね。
平成十六年十二月七日
この數日間で、田村書店の無料箱から恐らく百册くらゐ囘收して來てゐるのだが、自宅に引揚げ切れてゐないので詳細は省略。
小林珍雄・H・エルリンハーゲン編集『倫理の本質』(春秋社)所收の松本正夫「現代人と倫理」に、人效論と事效論についての簡單な説明があつたので、引用する。

このように主観形式の絶対のみを強調して客観内容を単なる相対主義に委してしまう主観主義の傾向は、何もカント特有のものではなく、近代思想一般の特色にさえなっている。古くはプロテスタンティズムの秘蹟論、信仰論がそれである。伝統的なカトリック教会では秘蹟の事効性(ex opere operato)と人効性(ex opere operantis)とを共に説くのであるが、プロテスタンティズムは後者の人効性のみしか認めないのである。つまり前者の事効性とは秘蹟を行うものの主観的条件にかかわらず、実際に行われたという客観的事実(洗礼、聖体、告悔等)に基づいて秘蹟の効力が定まる、すなわち、聖寵が客観的に付与されるとすることであり、後者はそれを行うものの主観的条件(例えば、誠実さの度合等)如何によって客観的に付与された聖寵が主観的に果実を結ぶということを意味している。ところが主観的条件のみを絶対視するプロテスタンティズムは、秘蹟によって客観的に聖寵が与えられたか与えられないかとは無関係に、ただ主観的な条件のみによって聖寵の実効を期する、つまり、事効性を無視して人効性のみによって秘蹟を説明するのである。またカトリシズムでは、「信ぜられる信仰」(fides quae creditur)という信仰の内容の客観的教理内容と「信ずる信仰」(fides qua creditur)といわれる信仰の主観的な誠実さとを共に認めるのであるが、プロテスタンティズムはいきおい主観的条件に属する後者のみを重視する結果、前者たるキリスト教の啓示内容に権威を容認しないで、かえってそれを相対視して、矛盾相違する教理内容すら主観的誠実ささえ保たれるならば、平等に認めるようになった。シュライエルマッヘル(略)流の主観主義では、同じプロテスタンティズムの中でさえも教理的に多くの分裂を惹き起すことは必至である。

キリスト教の教義の體系と云ふものがある。それを受容れる人間がゐる。
カトリックだと、それらを個別の、別次元の要素として見る。信ずる側の人間(信徒)の態度が何うであれ、教理の正當性は影響を受けない。教會の定めた教理が何うであれ、信徒の信仰が有效になつたり無效になつたりはしない。事效論と言ふが、「事」と「人」との二元論である。
プロテスタントでは、それらのうち、人間の態度を優先的に考へる。極端な話、人間が眞面目ならば、教理は何うでも良い、と考へる。
また、聖職者の態度がどうであれ、聖職者が聖職者である限り、聖職者としての行爲は聖職者としての行爲である、と云ふのがカトリックの事效論である。醉ひどれ神父が信徒の懺悔の聽聞を行つたとしても、聖職者としての行爲であるから有效である。聖職者が、他人から尊敬される立派な人物であるか、輕蔑されるウィスキー神父であるかは、その神父の聖職者としての行爲の有效性に影響を與へない。ウィスキー神父が聽聞したのであつても、信徒の懺悔は有效である。
一方、聖職者は人間であり、時として誤を冒すから、信徒は直接、神と對峙しなければならないとするのが、プロテスタントの立場である。教會が資金を得る目的で免罪符を賣つたとしても、免罪符を買つた信徒の免罪は有效である、とカトリックの立場では考へる。それに對して、ルターは怒つた。
慥かに教會の教へは、人間が考へた教へだから、相對的な正義である。その正義に關する考へ方が、カトリックとプロテスタントでは違ふ。カトリックは、その相對的な正義としての教理も、それを認める信徒の間では絶對的に有效である、とする。一方のプロテスタントは、信徒の信仰のみが絶對的に有效であり、信仰の對象である教理は相對的に有效であるに過ぎないから交換可能である、とする。
プロテスタントの人效論は、事效論のカトリックの教會の内部が堕落したから反動として出現したものである。しかし、絶對者Godを根據とする事效論としてのキリスト教は、絶對者を持たない人效論の文化圈に於いては、新しい宗教であつた。だから、ヨーロッパに於て、プロテスタントは正しく反動であつたと言へる。しかし、この反動としての人效論が、近代の思想の一方向を決定してゐる。
松本氏の文章を續けて引用する。

以上では古い例を掲げたが、新しくはアンドレ・ジイド(略)の「誠実(サンセリテ)」の倫理である。「精神一到なにごとか成らざらん」というわけで「誠実(サンセリテ)のあるところに客観的な善徳も背徳もなく、「誠実(サンセリテ)」のないところに一切の偽善があるのみである。「誠実(サンセリテ)」は確かに主観的条件で、それの強調はそれによって「なにごと」がなされるかを問わないことになり、勢い客観的な行為内容についての相対主義に陥り、「窄き門」と「背徳者」とが共存することになる。この考えは現代人に強く訴える力があり、やがて主観ないし主体の「全裸性」ともいうべき実存主義への準備ともなるのである。

事理に關しては相對主義、個人の態度に關しては絶對主義――人效論は、或意味で二元的なのだが、それらが對立的でなく、絶對主義である個人の態度を相對的な事理の正邪より優先する。現代の人效論が一元論である所以である。この一元論的人效論は、反動である、と云ふ事で、ヨーロッパでは重要な意味を持つ。
日本は昔も今も人效論である。だから、現代の日本に於る價値相對主義は、絶對者への抵抗として生じたものではない。或意味、傳統的なものである。その爲、實は、日本人の價値相對主義は、強烈な批判を受けた事がない。
ヨーロッパに於いては、キリスト教の絶對者Godの觀念によつて、人效論、或は相對主義が徹底的に否定されて來た。一度、強烈な否定をされ、それに對して反動として生じて來たプロテスタンティズムだから、現代のヨーロッパの相對主義は極めて強力である。
日本人が戰後、ヨーロッパ的な相對主義を受容れたのは、日本の傳統と、ヨーロッパの相對主義自體の強さとが、あひまつた結果と言へる。が、逆に、それゆゑに、ヨーロッパに存在する、相對主義に對立するキリスト教と云ふ絶對主義の理解が、日本では進まない事になつた。
ヨーロッパの近代は、絶對主義としてのキリスト教と、それに對する反動としての相對主義の相克の内に成つた。それゆゑ、そのヨーロッパ近代を受容れるに當つて、日本人は相對主義のみを受容れる事は、片手落ちとなる事になる。表面的な成果を採入れる事は、或程度までは可能である。日本人は、ヨーロッパ文明の、技術をかなりの程度まで、學び、眞似する事が出來た。しかし、或レヴェルから先で、日本人はヨーロッパ文明の重要な部分を理解し損ねてゐる。
それが、事效論の「事」の大事と云ふ事である。
事理を、相對的であると考へる方法は、日本人にとつては馴染みのものであり、しかも現代のヨーロッパの相對主義によつて御墨附きとなつてゐる。だから、日本人は、昔ながらの日本人的な發想で――吉田夏彦氏の言葉を借りればアナロジーで(『どう考えるか(2) 知識と人間』二玄社)考へるし、説明して納得させるのでなく言わず語らずのうちにさとらせようとする。今の時代、それでやつてゐて良いのか、と云ふ反省が必要とされてゐる。即ち、事理の正邪を論理的に考へる事が要請されてゐる――と云ふ事を言ひたいのであるが、そのやうな主張は、ヨーロッパの相對主義によつて、既に相對化されてしまつてをり、多くの日本人には「解決濟み」の問題と考へる事しか出來ない。だが、やはりそれでは、近代文明の受容れ方として、不十分である。不十分である、と言つても、疑念の表明以上のものではないが、さうした相對主義への疑念の表明を行つてゐるカトリックの立場の存在が、ヨーロッパ社會では、相對主義そのものに比べて決して小さくない、と云ふ事實に、なかなか日本人は氣附けないでゐる。
相對主義を相對化する爲にも、日本人は絶對の觀念を學ぶべきではないか。即ち、キリスト教を、相對化するのでなく、キリスト教社會としての西歐社會における絶對的な存在として、理解する試みをして良いのではないか。
實際、それが現在のボーダレス時代の國際社會において要請される事態であるのは、主張可能であると思はれる。問題は、國内社會や、ウェブコミュニティにおいて、何うなのか、と云ふ事だが。
平成十六年十二月七日
IBMがPC事業売却に原則合意、8日正式発表へ--米紙報道 - CNET Japan
米IBMは、かつて、PC/ATを製造中止してPS/2を賣出したり、マイクロソフトのWindowsを敵にまはしてOS/2で對抗したりして來たが――今度は事業を賣却ださうな。米IBMはPCの事を何も解つてゐない。

平成十六年十二月六日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p1
どうぞおだいじに。
加納氏個人には何の恨みもないし、こちらもそんなに體調が良い訣でもないので同病相憐れむの精神で。
平成十六年十二月六日
落ち無いけど
助動詞の「ない」は漢字で書きません。
平成十六年十二月六日
五日は朝の七時までにじうらを見てゐて、起きたのは夕方の三時半くらゐだつた。何時もの事なので、唖然となどはしなかつた。私の人生は是で良いのである。私は反省しない。
平成十六年十二月六日
うちは水道水、備長炭でカルキ分だか何だかを拔いてから飮んでゐますよ。
平成十六年十二月六日
ラジオ機能つきHDD音樂プレーヤつて、出ないかな。録音、PCへの轉送可。
平成十六年十二月六日
颱風崩れと言ふより、二十七號は消滅したものゝ、その勢力やら何やらを温帶低氣壓が引繼いだのだとか。讀賣新聞朝刊に據る。
平成十六年十二月六日
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20041206#1102321655
はてな 引用を禁止しているサイトの文章を他のサイトに引用することについて、どう思いますか?
http://meiteiji.ameblo.jp/category-2a78f332050d453e56ad2193a20ca9e2.html
法的には、一般に、正當な範圍内で行はれる引用をする權利が認められてゐます。
國や地方公共團體の機關などが作成した著作物(第三十二條の二)、或は、學術的な性質を持たないマスコミの論説(第三十九條)については、「轉載禁止」と明記されてゐれば轉載禁止である、とされてゐます。しかし、「引用禁止」が明記されてゐる場合については、何ら記述がありません。よつて、「引用は禁止出來ない」「引用の範圍内であれば、引用する事は當然の權利として認められる」と解釋出來ます。
惡口や皮肉を言ふ爲の引用の是非については、惡口や皮肉が名譽毀損や侮辱に當るならば許されないと云ふだけの話です。引用する權利とは別の次元で論じられるべき問題です。
平成9年度第4回インターネット交流会レポート
辯護士の岡村氏の意見。以下、私なりの纏め。
憲法では「表現の自由」が保障されてゐる。「表現の自由」では、他の人が述べた意見を檢討し、批判する權利が認められてゐる。「引用禁止」なる文言で引用が本當に禁止出來たら、その文章を他人が引用して批判出來なくなつてしまふ。それでは、憲法に保障された「表現の自由」が制限されてしまふ事である。よつて、批評權の一環として引用する權利は認められる。
引用の範圍、批評の範圍は、當然、恣意的には決められない訣で、「引用」と言張つて轉載したり、「批評」と言張つて惡口を言つたり風聞を流したりする事は、もちろん許されない。が、きちんと引用の範圍内で引用し、批評の範圍内で批評する事は、憲法によつて保障されてゐる。と。
平成十六年十二月六日
と云ふ訣で。
てんびんの経済学
盗用,無断引用は法律により禁止されています.
此處は「無断転載」であるべきではないですか。
あと、コラムで、出典が明かでない「引用」がありますが? 或は、外務省が言つてゐるらしいですけれども、ちやんと外務省に諒承を得た引用で、「無断引用」ではないと? 云々。
平成十六年十二月六日
また地震か。

平成十六年十二月五日
今期のベストは或意味、Φなる・あぷろーちではないかと思ふが、何うよ?
平成十六年十二月五日
鷹澤遊戯場 過去日記【2004/12/5:暴風】
慥か前線が低氣壓の中心にまで入り込んだら温帶低氣壓とされた筈。と思ひつゝ、「温帯低気圧とは」でぐぐつてみた。
国土環境株式会社 METOCEAN気象情報 お天気アレコレ
お天気裏話:第69回 9月は大型台風の季節
台風について
もともと熱帶で温かい水面から發生する水蒸氣をエネルギー源に發達した低氣壓が熱帶低氣壓。それの強いのが颱風。だから、颱風が水面の温度の低い邊にやつて來て、水蒸氣をエネルギー源に出來なくなれば、衰へて、弱い熱帶低氣壓に戻る。が、その邊だと、屡々、冷たい空氣の塊、寒氣團がある。さうなると、温かい空氣と冷たい空氣の接する前線が出現する事がある。もと颱風や弱い熱帶低氣壓は、そのやうな邊では、今度は前線をエネルギー源にするやうになる場合がる。すると、それらは最早熱帶低氣壓ではなく、温帶低氣壓と呼ばれる事になる。と、さう云ふ事であるらしい。

平成十六年十二月四日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p1
加納氏が、自分勝手な論理で人を侮辱してゐる事は明かである。こちらの意圖を全然理解しないで、文章の表面的な文言を繼合はせて、加納氏は揚げ足を取つてゐるに過ぎない。かつての高橋氏がやつたやうに。
平成十六年十二月四日
小林氏の発言は本当にその通りだつたのか、そのとほりならば私は(私の)論理によつてかう解釈ができる。
あなたの論理とは、小林マンセーの論理だらう。違ふのか。私はさう「解釈」した。そして、その「私の論理」で、加納氏の言動は説明出來る。
koba-koba氏の日記の文章のテーマが小林よしのりであつたのでない事は、誰が見ても解る事で、にもかかはらず、加納氏が「小林よしのりの發言」とされる文言、しかも否定的な意見に反應した、と云ふ事は、加納氏が小林よしのりに興味がある、それも好意的である事を意味してゐる。
平成十六年十二月四日
私は最初から解釈しか問題にしてゐないことは先ほど言つた。
だから後で、自分の誤を「解釈」によつて正當化しようとしたのだらう。
平成十六年十二月四日
と言つても、礼儀と論理を論争では分けろと主張する野嵜氏は、やはり分からないのだ。つまり、生き方が一貫してゐないのである。事実、私は野嵜氏の一貫してゐない箇所をいくつも挙げた。
「加納氏の勝手な論理」で「一貫してゐない」と極附けられても困る。
そもそも、私は二元論の立場に立つてゐるから、全てを一元的に割切る事は無い。それを「一貫してゐない」と加納氏は非難してゐるだけである。
平成十六年十二月四日
確かに、私は背理法的に引用と解釈の説明を要求したが、その要求の仕方が分かりづらく駄目だつたといふのはそのとほりである。
そもそも「なぜ加納氏はkoba-koba氏に何かを要求したのか」、加納氏の動機が全然わからない。だから加納氏の行動は不氣味である。
平成十六年十二月四日
私が「讀んでゐない」のは何時もの事だし、それで細かいところでしよつちゆう間違ひをやらかすのは、讀者の方々は御存じである筈だ。だが、にもかかはらず、大筋で私の言つてゐる事が正しく、細かいところを突つく敵の方が全體として支離滅裂である事も、やはり御存じであると思ふ。
今囘、加納氏は、細かいところで揚げ足を取つて、偉さうに人の事を斷罪してゐる。しかし、全體として、加納氏の主義主張は、根本的になつてゐない。加納氏の「私の論理」は、根なし草の論理である。
私の「失禮だの何だのは知らない」の發言を、加納氏は正しく理解しないで、文脈を無視して切取つて、「晒し者」にして、それで勝つた氣になつてゐる。それは兔も角、續けて、私は常識的に、論理は礼儀があつて初めて成り立つとものだと思ふし、その礼儀とは生きる上での方法であると考へる。それが私の思想の根本なのである。人間が如何に生きるか、如何に人と会話するか、如何に書くか、如何に読むか。これらが一貫してゐないと、その人の思想はただ口だけの信用ならぬものとなる。と加納氏は述べる。加納氏は、論理の正しさではなく、説得力を重視する自分の態度を表明してゐる。これが私には氣に入らない點だ。徳保氏が論理的正しさを輕視するのと同樣、加納氏も論理的正しさを輕視するのが、私には氣に入らない。加納氏にとつて、正しさを保證するものは、論理よりも、論者の態度である。そんな馬鹿な話はないのだが、加納氏は大眞面目である。大眞面目に間違つた事を言ふ人くらゐ、困つた人はゐない。
平成十六年十二月四日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041201#p3
加納氏は、いろいろと夾雜物を混ぜて、話をややこしくして、自分に都合の良い「解釈」を引出してゐる。しかし、感情論だとか、一般論でないとか、さう云ふ状況の説明が、「解釈」の類に何らかの影響を與へる決定的な文脈であるとは思はれない。
さう云ふ文脈に關係なく、ネットだのチャットだのは、異常者の共同体だと思え。の「ネットだのチャットだのは、異常者の共同体だ」が全稱命題の文章である事を重視すべきである。小林が「思え」と言つて押附ける思想を,全稱命題で表現してゐる事は、正しく認識すべきである。そこではじめて、文脈による思想の適用範圍の檢討が可能になる。
ここで、「わし」の意見だから一般論でない、と云ふ加納氏の主張は、殊に小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』においては、説得力を持たないのは明かである。小林が毎囘「ごーまんかましてよかですか」なる奇妙な「決め臺詞」を伴つて述べる結論は、全て「わし」の意見であると同時に「一般論としての結論」である。これは、本多勝一の「独断と偏見」が「独断と偏見であるにもかかわらず真実」と云ふ事になる(本多ファンの説)のと同じである。
寧ろ、特定の事例において、相手を説得する、或はやりこめるのに、小林は一般論を提示する癖がある。田原総一郎相手にも、小林は「ネットは異常者の共同体」と云ふ私見を一般論として述べ、だから「世論」云々の發言に見られる田原の期待は誤である、と云ふ結論を押附けようとしてゐると見て良い。
一般論を提示し、特定の事例Xもまたその一般論の適用範圍であると言ふ事によつて、Xの評價なり何なりを決定する論法は、加納氏自身も濫用してゐる。
それから、煽り文句を使ひ、感情的な言ひ方をしてゐるからと言つて、小林が特殊の意味で發言してゐる、と云ふ事にはならない。それは、やはり煽り文句を使つてゐる加納氏が、それだけの理由で特殊の議論をしてゐる事にならないのと同じである。文脈から言つて、寧ろ小林は、一般論を持出し、批判對象がそれに含まれる事例であるとして、結論を下す論法を用ゐてゐる、と見るべきである。
平成十六年十二月四日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p3
たとへば女の子と付き合つてゐるとしよう。そしてその子が、誰かと喧嘩をして、自分が悪いにも関らず相手に文句を言つてゐるとする。そのときにとる立場はいくつかあると思ふけれども、その中でかういふ立場がある。それは、今は取り敢へず宥めることを先決にし、落ち付かせてから段々とその悪いところを気付かせてやる、といふ立場。これは、野嵜氏の言ふ「政治的」の意味ではないが、本来的な政治の意味である。
誰も、政治の話をしてはならん、などとは言つてゐない。私がジョージ・オーウェルの小説を推奬してゐるのは、加納氏も知つてゐる筈だ。
私は、私の言ふ意味での政治(加納氏の言ふ「本来的な政治」でないが、鉤括弧附きで書かない)を文學のテーマとしてはならない事を述べてゐる。
だが、本來的な意味での政治を扱つた文學作品は、本來的な意味での道徳を扱つた作品に及ばない。
シェイクスピアのハムレットは優れた御芝居である。ジュリアス・シーザーも優れた御芝居である。しかし、兩者を比べると、やはりジュリアス・シーザーはハムレットに及ばない。政治劇だからである。
鴎外の大鹽平八郎も、安井夫人や護持院原の敵討には及ばない。
ちなみに、親が誰かと喧嘩をして、自分が惡いにもかかはらず相手に文句を言つてゐるとする。その時にとるべき態度も、幾つかある。が、躊躇無く單純に「政治的な行動」(加納氏の言ふ「本来的な政治」であるが、私は敢てこちらの場合に鉤括弧附きで使ふ)を取る人は、多くない筈である。孔子の言ふやうに、親は子の爲に匿し、子は親の爲に匿すのが徳目で定められてゐるから、宥めすかして親を默らせる事よりも、親に加勢する事の方が「正しい」と考へる解釋があるからである。そこで生ずる葛藤は、道徳的な葛藤である。加納氏の擧げた好きな女の子の事例でも、實はこの種の葛藤はある筈なのだが、それを加納氏はスルーしてゐる。私は、茲でスルーする事こそが、非道徳的であるゆゑによろしくない事である、と考へる。そして、この葛藤をスルーしないできちんと書く事こそが、道徳的と云ふ事であり、文學の使命であると考へる。
平成十六年十二月四日
さらについでに言ふと、私の言ふ「文學的な讀み」は、今は引用として鉤括弧で括つてゐるが、本來は括らないで良いもので、實は、單純な「論理的な推測」よりも合理的な讀みの事を指す。文學的な讀み方は、「讀みとつて良い事」と「讀みとつてはならない事」とを峻別し、「讀みとつて良い事」のみを讀取るものである。私は、その讀みとつて良い事を讀み取る文學的な讀みで、文章を讀んでゐる。
寧ろ、加納氏の「解釈」主義こそ、私に言はせれば、「讀みとつてはならない事」を、屁理屈を故事つけて「讀みとつてしまふ」誤つた方法である。
いや、話が極めてこんがらがつてゐるから、書いておくけれども、加納氏にしても地球儀の中の人にしても、時と場合によつて、正しく讀み取つたり、恣意的に讀み取つたりしてゐて、一貫してゐない。そして、殊に小林よしのりの發言に關して、加納氏の「讀み」は「讀取つてはならない事」の方向に振れる。これは今、示した事である。
加納氏の小林の文章の解釋は、當座、正當のものであるかのやうに見えなくもない。だが、「小林の論じ方」と云ふ全體の觀點から言つて、をかしいのである。加納氏の論は、個別の事柄では尤もらしいけれども、全體として支離滅裂、とはこの事を言ふ。だが、それは傍證であつて、文章自體で既に意味は決つてゐる。小林の文章を讀めば、論じ方は解るのであり、加納氏の「解釈」は不可能である。
平成十六年十二月四日
koba-koba氏の引用が、不十分で、それ自體として解釋が定まらない、と云ふ加納氏の非難は、不當な非難である。引用なり言及なりは、筆者の説を補強する爲に傍證を示すもので、最小限で構はない。それに對して、筆者は自分の考へを述べれば良い。言及なり引用なりでは、出典が示される必要がある。それは、原典の筆者への儀禮的な理由もあるが、原典に當つて讀者が調べられるやうにする便宜も兼ねてゐる。だから、言及なり引用なりについては、筆者は必ずしも完全な形で説明をする必要はない。暫定的に、讀者は筆者を信用して讀むべきである。もし疑ひがあるのならば、讀者の側で原典に當つて、筆者の誤を指摘しなければならない。筆者の側に説明責任はない。
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#20041204f1で、また、こば氏の引用が不十分で解釈が定まり辛いといふ指摘はあたつてゐたといふ点で私の「勝ち」でありこば氏の「負け」なのである。と加納氏は述べてゐるが、さう云ふ形の勝負はないのであり、加納氏がそれを設定したのがそもそも不當である。そして加納氏は、しかしこれは、こば氏が違ふ解釈を提示したことにより、崩れたのだ。これは私の思考力が及ばなかつたといふ点で「負け」であり、解釈を提示できたこば氏が「勝ち」である。と述べてゐるが、こちらの「勝負」ならばまだ「妥當な勝負」である。
平成十六年十二月四日
私が「論理の正しさではなく、説得力を重視する自分の態度を表明してゐる。」とする根拠は不明である。氏は、私を「論理主義者」なるレッテルを貼つてゐたのに、今さらかういふことを言ふのだが、それは兔も角、説得力をつけようとするのは当り前のことだといふことが、野嵜氏には分かつてゐない。
直前の引用文が根據なのだが、例によつて加納氏は、不十分で解釈が定まり辛いと云ふ理由で、とぼけてゐるのである。
私は、論理的に正しく、説得力をもつて語りたいと思ふ。と加納氏は言ふ。だが、説得力だけなら詐欺師も持つてゐるのであり、「説得力を持つ事」はそれ自體、論理的に正しい事の論理的な根據とならない。
何も、「説得力は持つてはならない」等と私は言つてゐない。ただ、「説得力」と「論理的な正しさ」とは、次元が違ふ、と指摘してゐるに過ぎない。
が、問題は、今、「説得力がある」と云ふ言ひ方が、論理的な「合理的でシンプルな説明となつてゐる事」と、通俗的な「相手を納得させる力がある」との、どちらの意味で用ゐられてゐるかが曖昧である事だ。この種の定義の曖昧な用語の爲に、複數の解釋が成立し、時として詭辯が成立つ。
平成十六年十二月四日
二元論については、加納氏の理解が餘りにも淺薄である事に驚く。「論理的正しさ」と「説得力」とは、「あれか、これか」の對立的な概念ではない。對立的な概念と無關係なもの同士を並べて、二元論なんてものはある訣がない。
道徳と政治とは、完全に對立する概念である。そして、そのやうな對立概念を對立のまゝに受容れ、それに基づいて考へる思考を二元論的思考と呼ぶ。
加納氏の場合、道徳も政治も通用可能なものであり、それゆゑ單純に政治で割切つて考へる事が可能である。これを一元論的思考と言ふ。
平成十六年十二月四日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p1
例によつて、鉤括弧附きで話をしてゐるのに、私の天然の説であるかのやうに加納氏は言つて非難して呉れてゐる。私は、加納氏の考へをそつくりそのまゝ利用して、加納氏について述べて見せたに過ぎない。この種のレトリックが危險である事は、かのバークについての批評でも言はれた事だが、注意して讀んで貰へれば判る筈だと思つて私は使ふ。「解釈」を提示出來れば勝ち、と加納氏は言つてゐるのだから、こちらも「解釈」と言つたのである。こちらは、加納氏の論理に則つて、加納氏の用語を利用して、「加納氏流の論理」を生成したに過ぎない。
一方で、加納氏は、私とは異る加納氏自身の考へに基いて、私の言葉を繼接ぎして、恰も野嵜の「眞の主張」であるかのやうに言ふ。これは、かつてえろげの高橋氏が「天皇主義者」のレッテルを私に貼る際、用ゐたやり方で、許されない。
私が小林氏の「否定的な意見に反應した」といふことで、「加納氏が小林よしのりに興味がある、それも好意的である事を意味してゐる」とはならない。
だが、加納氏は、それに代る、もつと有效な「解釈」を提示出來るだらうか。
私は、私の小林氏の言論についての解釈が誤だとは思つてゐない。思つてゐないから正当であることを証明しようとした。
加納氏は二六時中小林の事を考へてゐて、それで既に「私の解釈」が完成してゐて、そこにたまたまkoba-koba氏の小林の發言への言及が出て來た、とでも加納氏は言ひたいのだらうか。さうではあるまい。何しろ、加納氏は、原典を持つてゐなかつたのだ。koba-koba氏の言及を見て、はじめて加納氏は小林の發言を解釋したのである。だが、そのやうな形で反射的にコメント欄に疑念を書込むのは、如何なものか。
加納氏が小林シンパである臭ひはぷんぷんする。それを加納氏がことさら否定する邊も、怪しさを増してゐる。そして、私は飽くまで疑念を呈してゐるのであり、斷定的には述べてゐない。しかし、加納氏が小林シンパであると云ふ「假説」をもつて加納氏の言動を説明しようとすれば、それ以外の理由を繼接ぎして説明するよりも、シンプルに説明出來るのである。このやうな形での論證は、許されるものである。
野嵜氏の掲示板にも、私よりきちんと分かりやすく野嵜氏の引用の間違ひや論理の指摘をされる方々がたくさんいらつしやるけれども、そのやうな行動は「不氣味」なのか。
誤字脱字の指摘は、誰が見ても誤字脱字の指摘だと解るものだ。その種の指摘は全然不氣味でない。歡迎すべきものだ。
一方で、例の「義」や、妹が鬱で云々の人は、非常に不氣味だ。
今度は経験則で相手を印象操作しようとしてゐるが、それは今に始つたことではないのでこれ以上は言はないでおく。
加納氏は、かうやつて「印象操作」をする癖がある。本人は意識してゐないだけに、質が惡い。しかも、續けて加納氏は書くのである。それよりも、野嵜氏はそれを証明しようとして文章を続けてゐる。証明しようとしてゐるのだから、論證であつて、印象操作でない事は明かなのだが、加納氏は印象操作だ、と極附けるのである。
平成十六年十二月四日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p7
言つてゐるといふならば、引用して御覧なさい。
これは私の思考力が及ばなかつたといふ点で「負け」であり、解釈を提示できたこば氏が「勝ち」である。
平成十六年十二月四日
「飽くまで疑念を呈してゐる」とはよくいつたもので、その「疑念」から徳保氏流の「論理」を「レトリック」と称して書いたことはもう忘れてゐるらしい。
加納氏は、自らを否定すべき文句で以つて他人を罵つてゐる。
そして、「シンプルに説明出來る」からそれが「正しい」わけではないし、そもそもその手の「疑念」を前提にした時点で論理的ではなく「論證」でもない。
加納氏は、論理學のいろはを知らない。
平成十六年十二月四日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p6
野嵜氏は、私の読み方を「「讀みとつてはならない事」を、屁理屈を故事つけて「讀みとつてしまふ」誤つた方法」などと決め付けてゐるが、私がそれについて説明しても反論せずにそのまゝにしてゐる。
私は反論して、絶對的に加納氏の「解釈」が誤である事を述べてゐる。なのに、それを讀みもせずに、「反論してゐない」と加納氏は極附けて、「印象操作」をやつてゐる。
そしてあらうことか、野嵜氏は「「小林の論じ方」と云ふ全體の觀點」を語つて仕舞つてゐる
だーかーらー。ちやんと「傍證」と書いたし、「傍證」拔きでちやんと説明出來る事は、説明したのだから、加納氏は判る筈だ。と言ふか、讀んでゐるくせに、加納氏はとぼけてゐる。惡質である。
平成十六年十二月四日
私は野嵜氏の発言にはすべて返信してゐるつもりだが、そのことごとくが一貫性のない非論理的な印象操作で、そもそもの原因が読んでゐないことを挙げてゐるのだが、それを「個別の事柄では尤もらしいけれども、全體として支離滅裂」とするのはどうかしてゐるし、それは野嵜氏自身なのである。
やつと理解したのだけれども、私が讀んでゐる、ゐないが、加納氏にとつては、勝ち負けの基準らしいのである。しかし、そんな事は、加納氏の言ひがかりの正邪の問題とは關係ない。私は、ちやんと、加納氏の言ひがかりが言ひがかりであるゆゑんを、論理的に説明してゐるし、それに加納氏は反論出來ない。別の方向に讀者の目を向けさせたり、話を擴大してテーマをぼやかしたりして、加納氏は誤魔化さうとしてゐる。
平成十六年十二月四日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p5
私は「小林シンパ」なる「解釈」には論理的な妥当性がないといふことをいくども述べた。
その加納氏の反論が、どれも「一解釈」に過ぎない事、私の「解釈」を否定するものでない事は、自明である。
では私にどうしろと言ふのだ?
加納氏が小林の著作を良く讀んでゐる事實、小林と仲良しの西部に好意的である事は、加納氏自身が提示した事だが、にもかかはらず加納氏は「俺は小林シンパぢやない」と主張してゐる。では、「シンパ」とは加納氏にとつてどのやうなものなのか。加納氏が「小林シンパ」でないのならば、この世に「シンパ」なんてものはなくなつてしまふ。何處までやらなければ「シンパ」にならないのか。加納氏は、その邊の線引きをやつて、その定義に事實がきちんと適合してゐる事を示せば良い。
平成十六年十二月四日
野嵜氏は過去に自分の書いたことを覚えてゐるだらうか。これらはすべて闇黒日記のバックナンバーからの引用である。
鉤括弧附きの語を含んでゐたりするのも何うかと思ふが、わざわざ左翼は、戰略的に、疑惑を仄めかす事が多い。自分の氣に入らない對象に惡い印象を與へる爲だ。を加納氏が引用したのは、それこそ如何なものか。加納氏こそ、最初にkoba-koba氏の引用に疑惑を仄めかしたのである。
平成十六年十二月四日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p4
赤と黒は讀んでゐない。
それはそのとほりなのだが、私は否定してゐないし、それが「正しい」と思つてゐる。にも関らず野嵜氏は私を「非道徳的」であると言つて批判するのだが、それは、氏が相変らず文章を読めてゐないからだ。
だが、加納氏は「スルー」したのである。書かれてゐないものを「嫁」と言はれても、私には讀めない。書かれてゐないものを讀み取るのは、しては行けない事である。と言ふか、「スルー」した事がそれ自體、非道徳的だ、と書いてゐるのに、加納氏はそれに對して根據ナシに「私は否定してゐない」と言つて、私の批判をスルーして、誤魔化してゐる。かう云ふやり方で、加納氏は私が「反論しない」と言ふのである。惡きレトリックである。
平成十六年十二月四日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p3
そもそも、koba-koba氏のは、引用でなく、言及だと。加納氏は私の文章を讀んでゐないのである。
引用とは「筆者の説を補強する爲に傍證を示すもの」ではない。自説と原典との対話であり勝負である。
根據を提示して貰ひたいものだ。過去の私の論爭を讀んでゐれば、私の引用の定義が十分、根據を持つ事は、判る筈だ。見下す見下さないについては、ちやんと私は書いてゐるので、やはり加納氏は、私の文章を讀んでゐないのである。
平成十六年十二月四日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p2
この人、さつき自分が言つたことも忘れてゐるらしい。
忘れてゐないから、「論理的正しさ」と「説得力」とは、「あれか、これか」の對立的な概念ではない。と書いたのだが。論理的な「正しい」「正しくない」は、對立的な概念である。「論理の正しさではなく、説得力を重視」してゐる云々といつて「對立的な概念と無關係なもの同士を並べ」たのは野嵜氏である。二元論の人間がものを二つ並べたら二元論か。この種の、理窟を考へないで適當に相手の言葉を繋ぎあはせるやり方を、加納氏は屡々とる。
しかし、野嵜氏は氏の「二元論」で私の一元論を論破できてゐないのだからどうしやうもあるまい。
立場で立場を論破する、と云ふのは?
平成十六年十二月四日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p1
私は野嵜氏の前提を論理的に否定してゐるのに対し、と言つてゐるが、加納氏が私の二元論的前提でなく、加納氏自身の一元論を前提にしてゐる事は、明かである。或は、私の理窟でなく、それを加納氏流に演繹した理窟で、私の前提をでつち上げてゐる事は、明かである。
「こちらの意圖を全然理解しない」文章を展開したのはどちらなのか。何と言ふか、かうやつて、人の文章を變な風に利用してゐるのは、如何なものかと思はれる。引用するなら、それなりに敬意を拂つていただきたいものだ。加納氏の前提が崩れてしまふではないですか。
野嵜氏は徳保氏と私を同列にならべるといふ前提をおき、私がそれを全然違ふものだと否定したのにも関らず、無視したのは誰だ。前提を置きではなく、それが結論だ。話が逆轉してゐる。また、加納氏の「否定」は、證明ではなく、常に宣言である。本人の宣言くらゐ、當てにならないものはない。自分で自分を説明する時、人は屡々飾つて言ふ。
平成十六年十二月四日
一言で言つて、加納氏は、koba-koba氏の言及を、引用と取違へたのである。
quoteとciteとの違ひは昔、論じたのだが、加納氏は讀んで呉れてゐないらしい。
と言ふか、世間の人は引用なるものを、そんなにまで神聖視してゐるものなのか。例の引用時における假名遣ひ變更論爭でも、敬意だの何だのが矢鱈うるさく言はれた。
平成十六年十二月四日
加納氏は人效論に據つてゐて、私は事效論に據つてゐる。
私は、論じ方によつて醸し出される説得力が何うであれ、論理さへ確りしてゐて、正しい結論が出てゐれば、それでよろしいと考へる。加納氏は、結論の正邪よりも、説得力のある論じ方をする事の方が重要だ、と考へてゐる。否、論じ方と論の結論とが大事だ、と加納氏は言ふだらうが、結論の正邪を重視する私の立場に比べれば、加納氏は結論の正邪を輕視して論の持つて行き方を重視してゐると言へる。
加納氏の立場から言へば、地動説を主張しておきながら教會の壓力に屈したガリレイは許し難いものとなるだらう。ガリレイはもつと説得力のある主張をして教會を言ひ負かさなければならないと、加納氏は考へねばならないからである。一方、ブルーノは自分の立場を讓らないで刑死した。加納氏は、ブルーノを支持するであらう。しかし、ヤスパースは兩者とも偉大であつたと述べる。地動説は科學的眞理であつて第三者による檢證が可能であり、後世の科學の進歩で必ず發見されたであらうからである。ガリレイ一人が頑張らなければならないものではなかつた。事實そのものは、説得力のある説明とは、相對的に獨立のものである。ガリレイが教會によつて意見を壓殺されたとしても、地球が太陽の周りを囘つてゐる事實は變らない。加納氏は、しかし、地球が太陽の周りを囘つてゐる説明をして、説得出來なければ、地動説は事實とならない、と考へる。それが加納氏の立場である。私は、ガリレイが發言を翻させられようが何うだらうが、或は、ガリレイ以前だらうが以後だらうが、地球が太陽の周りを囘つてゐる地動説は「正しい」とする立場である。
平成十六年十二月四日
加納氏は、「正しい論理」と「説得の態度」とを、ともに重視する。しかし、さうやつて簡單に割切る加納氏を、私は認められない。
カトリックの神父は、清廉潔白であるべきである――加納氏は、加納氏の立場から、それを認めるだらう。清廉潔白の方が、ミサをやるにしても、懺悔の聽聞をやるにしても、説得力があるからである。だが、では、醉ひどれで、女に手を出した破戒僧が、ミサをやり、懺悔の聽聞をやつたら、そのミサや聽聞は無效となるだらうか。「有效である」と言ふ爲に、グレアム・グリーンは『權力と榮光』を書いた。
平成十六年十二月四日
繰返し述べるが、加納氏は、koba-koba氏の言及を、言及とは異る引用の次元で論じ、非難を行つた。それは、傍から見て、滑稽な事である。滑稽であるが、加納氏は大眞面目であつた。だからこそ、koba-koba氏にとつては「いい迷惑」だつた訣である。だから私はkoba-koba氏を擁護した。

平成十六年十二月三日
http://d.hatena.ne.jp/koba-koba/20041203#p1
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p14
解釋なんてものは幾らでもある訣で、そこで御兩名が對立したのは、判斷が對立したのである。判斷の對立だから正義の對立である。
koba-koba氏の判斷
小林よしのりの發言には一理ある。しかし、事實に反する。
加納氏の判斷
小林よしのりの發言は事實に反する。しかし、一理ある。
ただ、加納氏は、小林の發言に見出す「一理」が精神主義的「一理」であり、加納氏の言葉では「覚悟」なるものだが、さう云ふものを受容れろと命令されてゐるからには受容れなければならないと主張した。koba-koba氏は、「覚悟」だの何だのといつた精神論の類は排して、事實として「ネットの一部の人は嫌な奴である」と云ふ事實を指摘するに留めて、あとは讀者が判斷すべきである、と述べたに過ぎない。
平成十六年十二月三日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p3
koba-koba氏がしたやうな「ほんのちよつと」の言及は、小林よしのり氏に嫌がらせをするのが目的か。さうではない。そして、それと同じやうに加納氏が野嵜の文章を「ほんのちよつと」言及して、話のつまにする、と云ふのは、可能か。今のやうに、「さあ、やるぞ」と云ふ氣構へで加納氏がやつたら、それは「ほんのちよつと」ではなく、惡意に基いた意圖的な行爲となり、「ほんのちよつと」にならない。
加納氏は、「ほんのちよつと」と「意圖的」とを、區別してゐない。物事を區別しないのは、非論理的であると思はれる。
平成十六年十二月三日
解釋は幾らも可能と加納氏は言ふのだが、事實があつて解釋は一通りだ。ただ、上に述べたやうに、「しかし」で繋がる文章で表現した時、解釋は判斷――價値判斷――へと變貌を遂げる。そして、價値判斷であるkoba-koba氏の、小林の文章の解釋はそれ自體、誤つてゐなかつた。ならば、加納氏は、解釋のレヴェルで爭へはせず、判斷のレヴェルで爭ふ事になる。價値判斷は正義だから、結局、今囘のkoba-koba氏對加納氏の論戰は、正義の論戰である。そして、加納氏は、正義は相對的である、と云ふ徳保氏と同じ考へ方で、論戰を戰つたのである。
上の比較は、單純化してゐるが、書いてゐない事がある。それを補ふ。
koba-koba氏の判斷
小林よしのりの發言には一理ある。しかし、事實に反する。だから、私は小林の發言を正しくないと思ふ。
加納氏の判斷
小林よしのりの發言は事實に反する。しかし、一理ある。だから、私は小林の發言を正しいと思ふ。
加納氏は、小林よしのりの發言を「正しくない」と「解釋」された事に腹を立てた。しかし、それは解釋ではなくて判斷である。解釋は二人とも同じである。
そして、判斷の次元での言争ひである事を、加納氏は意識しないで、解釋の次元の言爭ひになると期待して、攻撃を仕掛けたのである。それがそもそもの勘違ひ。
原典の文章を見ると、命令文で、平叙文でない。だから「解釋」の餘地があると、加納氏は考へた。しかし、「思え」と云ふ命令で押附けられる思想を、事實に反するからkoba-koba氏は拒絶したのであり、事實に反してゐるけれども加納氏は受容れると言つた。これは、小林よしのりの思想を受容れる容れないの問題であり、事實の認識については爭ふ餘地がない。
平成十六年十二月三日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041129#p1
わらい。つて何だ? 加納氏は「偉い人に噛み附いたんぢやない。馬鹿を見下したんだ」とでも言ひたいのか? 加納氏、變なところにプライドがあるやうだだ。
もうこの人、自分の妄想だけで話進めているから、論理も糞もないんだが。と云ふ言ひ方も、何うかしてゐる。妄想的なのはどつちだらう。そもそも、koba-koba氏の日記のコメント欄に書込んだ加納氏の文章が、訣のわからない非論理的な言ひがかりだつたのである。加納氏の要求がさつぱりわからなくて、koba-koba氏も困つただらう。
自分だけは論理的だと加納氏は思ひ上がつてゐるから、わらい。等と平氣で書けるのだ。かう云ふ思ひ上つた加納氏こそ、知的怠惰であると言へる。
どうしてこのような補記になるのか、私には全く解らないのですが、小林氏が「思え」というのは、つまり、全体ではないけれども、そう覚悟するする必要があるだろうという意味なのではないのですか?そうならば、「ネット全体を指している」わけでもなく、必然「的外れな意見」ではなくなります。
koba-koba氏が「解釈」と言つたから、その揚げ足を取つて加納氏は「解釈論争」さらには「引用の仕方が惡い」と云ふ言ひがかりにまで話を持つて行つたのだが、それこそ「どうしてそのやうな話の持つて行き方をするのか、私には全く解らないのですが」と云ふ事になる。
平成十六年十二月三日
http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20041202
地球儀の螺旋「小林よしのりとインターネット」
加納氏の言ひがかりを叮嚀に指摘してゐるが、私以上に「附合が良い」人だと思つた。
平成十六年十二月三日
ウェブの文章を讀返してゐるのだから、時間軸も滅茶苦茶だが、それでも解る人は解るだらうから氣にしない。加納氏はさう云ふところには神經質だから苛々するだらう。
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041129#p10
私はそこで、果して小林氏は「ネット全体を指している」のか?という点を問いただした。
問ひ質す事自體が間違ひなのである。なぜなら、小林が「ネットやチャットは異常者の共同体と思え」と言ふ場合、「ネットやチャットは全て異常者の共同体であると思え」の意味にしかならないからである。koba-koba氏は、それについて、「文學的」な「讀み」である「地球儀の螺旋のテキスト」を傍證として提示したのであるが、「ネットやチャットの一部は異常者の共同体と思え」では或種の思想を押附ける命令として意味を爲さない事は自明であり、當然、「ネットやチャットは全て」となる事が論理的に判斷出來る。その判斷を怠つて、加納氏はkoba-koba氏の「解釈」なる言葉に縋り附いて、論戰を仕掛けたのであるが、洵に知的怠惰であると思ふ。
平成十六年十二月三日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p4
なるほど、koba-koba氏に會ひたくないと言ふのは、會つたら尊敬してしまふからか。
私は西部邁なんて人間を尊敬できる人間は何うかしてゐると思ふし、小林よしのりは好人物だが主張は論理的に粗雜であると思ふ。松原氏は、論理的に詰めがしつかりしてゐるし、一方で、論理的である事が非人間的である事になつてゐないから、尊敬する。西尾幹二は、自畫自贊する事があるし、『国民の歴史』をゴーストライターに書かせて稼ぎ捲つたから、駄目だと思つてゐる。浅田彰も柄谷公人も、讀んでゐないが、讀むに値しない事は、讀者を見れば解る。福田和也は、太つてゐるしヲタ面なので、駄目だと思ふ。
平成十六年十二月三日
人は共同體に於て政治的に振舞ふ。しかし、親や妻や戀人や子や友人に對して政治的に振舞ふ事はないし、振舞ふべきでない。それを忘れてはいけないのであつて、何時いかなる場合にも人間は政治的動物であるなどと考へてはならない。それを忘れてしまつて、人間の眞實を描くべき文學で、例へば大江健三郎のやうに、自分の子供を政治的な目的で利用してしまふなんて事を、してしまつてはならないのである。
自分の片端の子供を片端であるがゆゑに殺してやりたいと書くのも「不道徳」だが、ストーリーの御終ひで唐突に「いや、この子を育てていかなければならない!」とか主人公が決心する、良く考へると納得の行かないキャラクターの行動を平氣で描くのは、非道徳的であり、許されない事である。
平成十六年十二月三日
三島由紀夫の「憂國」や「英靈の聲」も、「文學として許されない」を描いてゐる點で、非道徳的であり、不潔である。
平成十六年十二月三日
大江も三島も、自分の政治的なイデオロギーを文章の上で實現する爲に、登場人物に人としてあり得ない言動をさせてゐる。作者が登場人物を傀儡として操る事は許し難い文學的虚僞である。
登場人物は、著者から相對的に独立した存在となつてゐなければならない。それだからこそ、著者も登場人物を批判する事が許されるのである。
平成十六年十二月三日
この原則が解つてゐる人ならば、自分の思つた通りに他人を操らうとは考へないし、現實の人間の發言を自分に都合良く解釋して罵るなんて眞似もしない。
そもそも「文章を解釋していろいろな意味を持たせる」と云ふ眞似もしない。
文章を、それ自體として讀む、と云ふ事が出來なければならない。
平成十六年十二月三日
小林よしのりが説教してゐたからと言つて、その説教を眞に受ける必要はなく、「そう思え」と言はれても、「事實に反した思想は受容れられない」と言つて命令を拒絶する事は許されるし、それが當然の態度である。
koba-koba氏は、小林よしのりを信じてゐないし、積極的に疑つてゐるから、ただ「一理ある」と感想を述べただけであつて、本心では「そう思え」と言はれても思へたものでないと考へてゐるから、さう書いたのである。
加納氏は、小林よしのりを信じてゐて、積極的に思想を肯定してゐるから、「そう思え」と言はれれば「そう思う」と答へるし、それが當り前の人の態度だと思つてゐる。
koba-koba氏の態度の方が、常識的な人の態度だと私は考へる。
平成十六年十二月三日
「態度が一貫してゐさへすればそれで良い」と云ふ思想は、私は拒絶する。私は「正しい事を求める態度が一貫してゐるならば、それで良い」と考へる。正邪の觀念を喪失し、自分の主義主張だけを「正しい」と信じ込んだ人間が、思ひ込みで最初の方針を貫く事くらゐ、傍迷惑な事はない。それで軍部が突つ走つて、日本はアメリカに負けたのである。
平成十六年十二月三日
サイト作成における問題
平成十六年十二月三日
昨日今日、田村書店の無料箱から大量に本を貰つて來た。ドーソン『進歩と宗教』なんかが紛れ込んでゐるから侮れない。
あと、福田恆存『批評家の手帖』(新潮社)は、ちやんと御金を拂つて、買つて來た。
平成十六年十二月三日
某所より。

暫定的に、讀者は筆者を信用して讀むべきである。

思考停止して読めってことですか?翻弄されろってことですか?

「暫定的に」と書いてゐるので、筆者の意圖を理解するまでは、引用なり何なりに關する解釋については筆者を信用するしかない、と申し上げてをります。

もし疑ひがあるのならば、讀者の側で原典に當つて、筆者の誤を指摘しなければならない。

筆者の側に説明責任はない。

説明責任はなくても誤りを指摘されることはあるってばよ。

そのことに関して予防線張らないのはただの阿呆にしか思えないけれども。

だから、引用なり言及なりをする際に、原典を明示する、と云ふ規則がある訣で。と言ふか、原典を明示する事が筆者に與へられた説明責任なのだから。
で、一言申し上げると、誤の指摘ならば、原典に當つて、それではつきり「此所が斯う違ふ」と斷定的・決定的にする必要があります。ところが、加納氏は、koba-koba氏の言及について、原典に當らず、ただ疑惑を表明したに過ぎません。
引用文なり言及なりを見た讀者が一意に意味を決定出來、筆者のしてゐる引用文なり言及なりの解釋が明かにをかしいならば、誤と斷ずる事が出來ます。しかし、加納氏の今囘の疑惑の表明は、單なるkoba-koba氏の解釋の相對化であり、絶對的・斷定的な否定ではありません。今囘のやうな加納氏の批判の仕方は、をかしい。
平成十六年十二月三日
また、私の最初に下した結論、「加納氏の方が分が惡い」は、事實であつて、加納氏は反論出來ない。
加納氏は、明かに自分が勝ちだと考へたから、あれだけ居丈高な態度をとつたのである。或る意味で私の勝ちだつたり負けだつたりするのならば、加納氏が居丈高な態度をとる事は許されない。
あの態度をとつておきながら、「勝ち負けはない」が結論では、加納氏の方が、何う見ても惡者だ。それを言つたのである。
平成十六年十二月三日
「義」出現。今度はg037129.ppp.asahi-net.or.jp。

平成十六年十二月二日
本を買ふのは結構だけれども加納氏、そこであなたは解釋をしましたよね。解釋をして、それも自分に都合の良い方向に解釋をした。それでは駄目だ。と言ふか、「言つてゐる事は正しいが、お前の態度が氣に入らない」なんて言つて人を攻撃するのは、言ひがかり以外の何物でもないではないですか。
と言ふか、加納氏よ、あなたはどこまで戰線を擴大すれば氣が濟むのだ。

以前小林よしのりが「ネットやチャットは異常者の共同体と思え」と言ってネット全体を指している事から的外れな意見には違い無いですが。

どうしてこのような補記になるのか、私には全く解らないのですが、小林氏が「思え」というのは、つまり、全体ではないけれども、そう覚悟するする必要があるだろうという意味なのではないのですか?そうならば、「ネット全体を指している」わけでもなく、必然「的外れな意見」ではなくなります。

加納氏の話は、どんどん擴大して、koba-koba氏の態度の問題に到つてゐる。
平成十六年十二月二日
「私は小林の身方ではない」「西部の身方ではない」と宣言するのは自由だ。だが、傍から見て、あなたは小林シンパであり西部シンパである。詰らないコメントに一々食つて掛るのを見れば解る。論理的でないと言つて呉れても結構。文學的に私は加納氏の文章を讀んだのだ。大體、小林氏の「追つかけ」をやつてゐる事を自分で書いておいて、とぼけるのも大概にするがよからう。
平成十六年十二月二日
論理は、「論理」によつて逃げる事が出來る。だから私は「論理」を全面的には信用しない。特に自稱「論理」は。
一体粗雑なのはどちらか?十九世紀以降文学や思想は、宗教や道徳と密接に関りをもつてきた。それは当り前の話で、人間の精神や観念の働きが行動と密接不離だからである。それを考慮せずに、本来概念的な分類ですますべき事柄を、わけてしまふところに、いはゆる「松原一派」の誤がある。
論理的に考へられる人は、話を不用意に擴大しないものだ。
松原氏は自衛隊員とお話をされてゐるが、では聞く。もしこれから日本が戦争になつたときに、その自衛隊員に、「日本は大義ももたない戦争をするが、政治的にしやうがないので行つてこい」と言へるのか。
「アメリカの大義」と「日本の大義」を、加納氏は區別してゐない。「アメリカの言ふ大義」が間違つてゐたところで、その「間違つたアメリカの大義」に從つて日本が生延びる事は「日本の大義」となり得る。正義も大義も相對的なものだ。これがわからない加納氏には、マキャベリズムが滲透してゐないのだらう。
平成十六年十二月二日
私は松原シンパでも福田シンパでもありません。福田教松原派の信者です。
ちなみに、松原氏も福田氏も、Godではなくて人間です。
しかし、私がいつ、加納氏に福田恆存のいふことはすべて正しいのかとくつてかかつたんだらうねえ。
加納氏は、小林氏の言ふ事を全ては信じてゐないと宣言してゐるが、デフォルトで、良く知らない小林氏の發言は「全て正しい」と云ふ事にしてしまふ。これは小林シンパ的であると言つては行けないかね。
平成十六年十二月二日
十二月一日に原典が出て來ようが何だらうが、それが出て來るまでに既に泥仕合になつてゐたぢやないか。とぼけるのも大概にし玉へ。馬鹿。讀んでゐるもゐないも、そんなに加納氏は人の態度が氣に入らないのかね。正しいものは態度が何うであれ正しいんだ。論理的論理的と言ふのならば、態度なんてものに拘るな。加納氏は、論理的である筈なのに、一々感情的になる。加納氏の態度が一番惡い。
平成十六年十二月二日
取敢ず、koba-koba氏の最初の補記が間違ひでない事は最う明かになつたのだから、加納氏は引つ込んだら何うか。解釋だの何だのと言つて、言ひ訣をして、自分の誤を誤魔化さうとするのは、止めたら何うか。居丈高にkoba-koba氏を叩いた以上、引つ込みが附かないのだらうが、最初に自分が設定したテーマで敗北したのだから、最早加納氏は敗北者である。
平成十六年十二月二日

私は、こば氏に対しては、その意見が正しいのならば、きちんと引用してくださいと言つただけだし、引用が正しければその補記は違ひますよねと言つてゐるに過ぎない。そして、こば氏が納得できる違ふ解釈を示してきたら私はきちんと折れる。

「きちんと引用するかしないか」と云ふのは「態度」の問題ではありませんかね。

本当によく分からないのですが、私はこの引用で「koba-koba氏の態度」を問題にしてゐるのでせうか。

自分が何を話してゐるのか、この人、全然解つてゐないらしい。數分前に書いた自分の發言を、最う忘れてゐるのである。
平成十六年十二月二日

といふか、私は、かういふ読み方もありますねと言つたに過ぎない。「如何」と言つたに過ぎない。

「如何」ならば、下手に出てゐれば良いだらう。居丈高に「俺樣の解釋が絶對」と云ふ態度で罵つてゐる癖に、「ありますね」もないものだ。
大體、文章を讀めるならば、http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p3に對するkoba-koba氏の批判は正當であると判る筈だ。にもかかはらず加納氏は自分の解釋を「敢て」提示してゐる。何う考へても、加納氏は「自分の解釋」を、自分に都合が良いから、ごり押しして通さうとしてゐる。
餘談。うちのWXGが「化腦死の解釋」と誤變換した。だから何だと言はれても困る。
平成十六年十二月二日
「あゝ言へば斯う言ふ」と云ふ點では、加納氏は徳保氏以上だ。
徳保氏が「正しいもの等何もない」と言ふのに對して、加納氏は「私は疑問を述べただけである」と言ふのである。これはこれで困つたものである。
平成十六年十二月二日

量が多いので探すのに時間がかかりますので「こんなもの」といふのを書きますと、

その意見が正しいのであれば、きちんと引用して下さい。
平成十六年十二月二日
西部の事を福田氏が後繼者だと言つた事實はないのだから、何の問題も無い。
事實として「言つた」事があるにしても、福田氏は人であり、その發言は絶對ではない。
そもそも、私が福田氏を絶對視してゐようが、私は「福田シンパ」である事を公言してゐる。論理的に何ら問題はない。
一方、加納氏は、小林氏を絶對視してゐないと言ふが、一方で、小林シンパではない、とも言つてゐる。しかし、小林氏を絶對視しない事が小林シンパでない證據にはならないのだから、加納氏の辯明なり反撃なりは、論理的に無效である。
平成十六年十二月二日
加納氏は、またぞろ「論理」で泥仕合を仕掛けてくるだらうが、さうなれば、加納氏の提示した、論理的ということ/それは議論が霧散しないための最良の方法なのだが、それが出来なければこば氏の仰るとおり、ただの「泥仕合」となる。と云ふ命題は、再び三度、否定されてしまふ。
平成十六年十二月二日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p1
外野でわーわー騒いではならないと云ふ法はない。うちは「Web技術系サイト」もやつてゐるし、そつち方面の常識が技術的に正しいと信ずるから、それに隨ふ。「そつとしておいて貰ふ權利」「儀礼的無関心」の類は認めない。反論したくなければ無視すれば良からう。それが加納氏の前の發言と矛盾してゐないと論理的に故事つけられるものならば。
泥仕合にならぬやうな努力を加納氏がしたと私は認めないし、寧ろ加納氏が泥仕合を演じてしまつたゆゑんをさつきから書いてゐる。加納氏の反論は全て無效だ。
あゝ、では、かう言つてみるテスト。私は「加納氏の批判は正しくないですよね」と言つてゐるに過ぎない。そして、加納氏が納得出來る辯明を示して來たら云々。
平成十六年十二月二日
論理的に、加納氏が負けで、koba-koba氏が勝ち、と私は言つてゐる。それも、ちやんと論理を提示してゐる。
別に、燃料を投下したり、煽つたりしたりしてゐる訣ではない。
平成十六年十二月二日
失禮だの何だのは知らない。論理的に「加納氏が負けだ」と指摘したに過ぎない。この結論は動きはしない。本當に論理的なら、答へは一つだ。
私たちは結論をださうとしてゐるとは能くも言つたものだ。話し合ひですか。
誰が何う見ても、今囘の加納氏の態度は惡い。言ひがかりをつけた以上には見えない。失礼千万なのは加納氏自身だ。
今囘の議論は、加納氏の負けだ。それを、加納氏は、まるでどつこいどつこいに見せかけようとしてゐる。加納氏の態度は狡い。
平成十六年十二月二日
よくも知りもしないくせにとは良く言つたものだ。加納氏の最初のコメントを讀めば、加納氏が間違つてゐる事はすぐに解る。
それを確認したに過ぎない。
失禮かどうかは知らない。
俺は、横から口出しされたと言ふだけの事で怒つたりはしない。論理的に間違つた非難をされたら怒るだけだ。
平成十六年十二月二日
koba-koba氏のかたをもつふりもないものだらう。私は、論理的にkoba-koba氏が正しい、と言つてゐる。
加納氏こそ、論理的に敗北した事實を感情的に受容れられなくて、理窟つぽい事を言つて誤魔化さうとしてゐるだらうが。それこそ不道徳と言ふものだ。
平成十六年十二月二日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p1
koba-koba氏ではないが、一々説明した事にとぼけて突込みを入れて來られては、面倒だから應對する氣が失せる。
これのどこにもないだらう。俺が「これ」を問題にしてゐると言ふのか。勝手讀みも大概にし玉へ。
平成十六年十二月二日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p2
とぼけるのも大概にして呉れ。
そして現在も、購読はしていないが毎回立ち読みで(しかも流し読みで)SAPIOは読んでいる。
十分「追つかけ」だよ。加納氏の解釋を私は採らない。
平成十六年十二月二日
私は最初から小林氏の発言は分からないと言つてゐる。
なら、その時點でいちやもんをつけるのは何うかしてゐますね。他人樣の引用の仕方を云々出來た筋合ぢやない。
説明して呉れも何も、自分で確かめた上で、をかしければをかしいと言ふのが筋だ。をかしくなければ默つてゐるものだ。論理が何うの斯うのと言ふ前に、さう云ふ基本的な態度さへ守つてゐれば、泥仕合は避けられる。
話には順序がある事を解つてゐないのは加納氏。私が順を追つて話をしてゐるのに(原典が何うのの邊)、その途中のところを採上げて文句を言つてゐる。
加納氏の態度は、氣に入らない奴はぶつ潰すぞ、と云ふ、やくざの態度だ。徳保氏と結び附けてゐる云々については、加納氏の日記の過去ログを讀んでゐる人間ならば、私が加納氏と徳保氏とを結び附けるのも道理だと思ふだらう。
平成十六年十二月二日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p1
では野嵜氏が某「お兄ちゃん」を罵つた事実はどうなるのか。
良く意味がわからないが? きちんと引用していただければと。
私は権利の話をしてゐるのではない。礼儀の話をしてゐるのである。
加納氏の負けだよ。あんたは結局、議論の態度を一貫して問題にしてゐるのだ。http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p8で一度とぼけた加納氏、ほんの僅の間にそれを忘れてしまつたのだ
まだ私が負けを認めたり反論を述べる可能性が多々ある段階で、よく読みもしないで口をだし勝手に結論付けることを問題にしてゐる。
だーかーらー。論理的に、加納氏が負けなのは、明かだと。
加納氏は、koba-koba氏の發言が正しいか正しくないか、を問題にした。それが正しいと決つたからには、加納氏は引下るしかない。が、そんなの最初から解り切つた話だと私は言つてゐるに過ぎない。
平成十六年十二月二日
「毎回立ち読みで(しかも流し読みで)」といふのが「追つかけ」らしい。SAPIOは小林氏の雑誌らしい。
さうではないのか?
いや、そして現在も、購読はしていないが毎回立ち読みで(しかも流し読みで)SAPIOは読んでいる。と云ふ文章、加納氏が「自分はSAPIOを立讀みして、小林氏の漫畫を素通りする」と言つてゐるものだとは思へませんでしたもので。
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041129#p3の文脈から言つて、「SAPIOを立讀みする」は「小林の漫畫を立讀みする」の意味にしか取り得ない。
加納は、自分の特殊の事例を、一般論にすり替へて、誤魔化さうとしてゐる。これが「論理的」と言ふ人のする事かと思ふのだが。
平成十六年十二月二日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p1
何が「はいどうぞ」なのかねえ。
ちなみに、私が次の項に書いた文章。
平成十六年一月二十八日
遊びで石を投げつけられるのは迷惑だ。
遊びで人を間拔けに見せかける風説を流されるのは迷惑だ。
遊ぶな。
この「遊びで人に石を投げ附けた」某氏は、徳保氏以上の相對主義、と言ふより出たら目主義だつたのだが、結局引つ込んだのである。
平成十六年十二月二日
そろそろローゼンメイデンが始まるので御終ひ。
加納氏、苦しい言ひ訣も大概にしたら何うだ。私が何うだらうと、加納氏のいちやもんがいちやもん以上のものでない事は、明かだらうが。
平成十六年十二月二日
と書いて、華麗に本日の論爭を終へようとしたら、J-COMのネットワーク機器メンテナンスが始まつて呉れてインターネットの接續も切られて、何だかアレな事に。
平成十六年十二月二日
引用の解釋は正しいのか→原典からの引用でないから「論理」で論爭だ→原典を見たらkoba-koba氏の方が正しさうだ→今度は「解釋」で勝負だ→泥仕合。
加納氏は、何をテーマに論爭を仕掛けた積りだつたのだらうか。何をもつてして論爭の勝ち負けを決めようと思つてゐたのだらうか。その勝ち負けは、正邪とどのやうな關係ががあつたのだらうか。言爭ひの最中に、加納氏は視點や論點を、ずらしはしなかつただらうか。野嵜の批判をやり込める事で、加納氏自身のkoba-koba氏への言ひがかりは正當化されただらうか。
「横から口出しするな」と、加納氏が言ふ根據は何だらうか。
俺は斷言するが、koba-koba氏の最初の引用とその解釋とは妥當であつた。その結論で、加納氏對koba-koba氏の言爭ひは決着である。
加納氏の態度は餘りにも見苦しい。「論理主義」の立場から、加納氏や徳保氏の「いんちき論理主義」は迷惑だ、と言ひたい。
加納氏は、koba-koba氏の發言にいちやもんをつけて、一體何を守りたかつたのであらう。「事實の確認」以上の何を加納氏は求めてゐたのだらう。解釋なんて言ひ始めたら、議論が泥沼に陷る事は火を見るよりも明かな話だ。
平成十六年十二月二日
時代が變つても、「身近な個人」と「身近でない共同體」との區別は「ある」のであつて、道徳と政治とは截然と區別されるのである。
平成十六年十二月二日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p4
やはり私の「戰線の擴大」と云ふ批判を、加納氏は正しく理解してゐない。
私は「議論のテーマから外れるな」と言つてゐるのであつて、最初の批判からどんどん話を擴げて何でもかんでも非難の對象にする加納氏のやり方を「戰線の擴大」と呼んだ。
論理的な議論ならば、批判の對象を固定し、そこから無闇に話を擴げないのは常道である。それが加納氏は分かつてゐない。
小林の發言が一般的に感情論か何うかは、最初の加納氏のkoba-koba氏へのつつこみと何の關係もない。
平成十六年十二月二日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p3
では野嵜氏に問ふ。この論争は果して勝者や敗者はゐるのか?
徳保氏と同じ事を言ふ。
あるサイトにアップされた文章が、不確実な引用の元に結論を導き出してゐたとしよう。それは責められるべきことではないのか?
そんなの、俺も良くやる事だ。それに、あの場合、koba-koba氏の小林に關する發言は、文脈から言つて、議論のメインテーマではなく、傍證程度のものであり、論全體の中で大した比重を持たない。そこだけを採上げて批判すべきものではない。
しかし、これは前にも違ふところで言つたが、その論理に対して別の有効な論理をぶつければ、その論理は崩れるのである。
加納氏の場合、論理xが支持する結論Xが無い。だから、xが崩潰しても、いや、俺の結論はYなのだ、と言つて、話をどんどんずらして行く。
加納氏とkoba-koba氏の論爭では、もともと「koba-koba氏の引用の正邪」が問題だつたのが、いつの間にか「小林の論の形態」だの「引用の態度」だのに話がすり替はつて行つた。そして、その話のすり替へ、「戰線の擴大」をやつたのは加納氏である。
平成十六年十二月二日
ふざけたことを言ふもので、私は当初のコメント欄で「俺樣の解釋が絶對」といふ「居丈高」な態度はとつてゐない。
加納氏は、すぐに自分の日記で、居丈高な態度でkoba-koba氏を罵つたではないか。こちらは「当初から」などと言つた覺えはない。そして、それが間違ひなのだ。下手に出る積りならば、一貫するが良い。
加納氏の辯明は、行當りばつたり過ぎる。それを突込まれると、加納氏はすぐに解釋に話を持つて行く。解釋ならば、幾らでも出來るから、加納氏は逃げ切れると踏んでゐるのである。
しかし、「事實の確認」が議論の勝ち負けを決めるのならば、「こんな解釋も出來る」と言つた時點で、批判した側が負けなのである。相對的な解釋で、相手の相對的な解釋を完全にやりこめる事は出來ない。論理と解釋とは違ふ。小林よしのりの原典が提示された時點で、加納氏の解釋は打ち碎かれたのであり、そこでkoba-koba氏に解釋の議論を仕掛けても、絶對的に無意味である。
平成十六年十二月二日
あつさりといへば、どこからどこまで引用するのかといふ点で、引用者が本当にその文章を理解してゐるのかが分かるといつたことだ。
多分讀んでゐないが、讀んだところで何の感銘も受けなかつた事であらう。
まさにそれこそ、文學的な話であり、論理的な話ではない。
平成十六年十二月二日
私は論理も問題にしてゐるし礼儀や態度も問題にしてゐる。
一般論としては洵に結構だが、今囘の議論と云ふ特定の事例に於て、さう云ふ一般論が通ずるのか、と私は指摘してゐる。加納氏はすぐ、一般論に逃げる癖がある。
加納氏は、文脈を讀まないで、一般論で片附けようとする惡い癖を持つてゐる。
平成十六年十二月二日
嘘吐きの恥知らず。
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041202#p1
私がこば氏の記事の引用部分とそこから導いた結論に疑問を投げかける。
koba-koba氏は、小林よしのりの文章を引用し、そこから結論を導き出す記事を書いてゐない。ただ、本文で小林にちらりと言及し、「補記」でちらりと非難を書いたに過ぎない。取るに足らないちよつとした言及である。それに加納氏が向きになつて噛み附いたのである。
平成十六年十二月二日
と言ふか、私は讀むべきところは讀んでゐる。わかるものはわかる。
それに、加納氏は一貫してゐる筈だ。何處を切つても問題は無からう。
平成十六年十二月二日
実際、こば氏の引用は不十分だつたではないか。
不十分も何も、ほんのちよつとの言及に過ぎないもので、十分も糞も無いだらう。眞面目に議論するに値しない事だ。それを向きになつたから加納氏はをかしい、と私は述べた。
「原典を見たらkoba-koba氏の方が正しさうだ」とは思つてゐないし、私が正しいとも言ひ切れなくなったといふことだ(だから「如何」と書いてゐるではないか)。
正しいとも言ひ切れなくなったのなら、引込めよ。
何が問題なのか?
原典が出てきて、誰が何う見ても解釋の餘地無く、文章讀解のレヴェルで一意に文章の意味が決る事は指摘した。
と言ふか、私は「解釋」と鉤括弧附きで書いたのだが。私の文章を良く讀んでゐる加納氏には、「論理」と「解釋」とを鉤括弧で書いた意味はわかると思ふが?
平成十六年十二月二日

あの表現の仕方では文脈を考慮したとしても「ネット言論=匿名=全員やりたい放題の異常者」という主張と読むのが一般的な解釈だと思います。

koba-koba氏の極々初期のこの發言で、加納氏は參らなければならなかつた筈。引用も論理も、koba-koba氏は別に間違つてゐない。と言ふより、koba-koba氏のあれは、そもそも引用ではなく言及。と言ふか、ほんの「補記」の一言に、どうして加納氏はこんなにまで向きになつて噛み附かねばならないのだらう。「禮儀」と言つたら、koba-koba氏の僅かな言及になんて突込まないのが「禮儀」だらう。
小林よしのり擁護が動機である、と勘繰る心理的必然性は「ある」と言ふ事が出來る。それに對して加納氏が意地になつて「信者ぢやない」的な反論を返したのも、疑惑を深めさせる。
平成十六年十二月二日
「ヴァーチャルネット無職○○ひきこもり」と呼ばれてゐるからと言つて本當にそんな悠長な身分であるのでもない訣で、朝の四時まで不毛な言ひ爭ひをしてゐる義理も餘裕も無いのだけれども、それゆゑ加納氏にはそれなりに禮を盡したと言つて良からう。

平成十六年十二月一日
頭の惡いといふことだけが罪惡だ。
教育の、可能な内容は、たゞに科學ばかりである。
――と私が書くと反感を持つ人もゐるだらうが、これらは中原中也の言葉である。
田村書店の無料箱から『中原中也全集』第四卷と第五卷を救出。
適當に幾つか引用してみる。
近代都會の中では言葉を少くする必要がある。
面白くもないものを讀まぬこと。
中原中也、千九百二十七年の日記には「精神哲學の卷」なる副題が附されてゐる。以上の短文はその中から。
平成十六年十二月一日
千九百三十四年の日記ではこんな事を書いてゐる。

多分、繪畫の前でよりも音樂の前でよりも文學の前で人々は不遜である。多分、言語なら知つてゐるぞといふことから。

音樂の前でよりも繪畫の前で人々は不遜である。――樂器よりも鉛筆の方が手近かにある……

平成十六年十二月一日
なんでT360なんかが走つて來るんだ。Airのオープニングを觀て仰天した。
平成十六年十二月一日
http://d.hatena.ne.jp/koba-koba/20041127#p1
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041129
koba-koba氏對加納氏。論理主義の加納氏の方が言ひがかりをつけてゐるやうに私は思つた。
どつちもうろ覺えの話で書いてゐるから話がこぢれたのだと思ふ。論理的である事は議論が霧散しない爲の唯一の方法である、と云ふ事はない。事實に關する議論は、論理よりも事實に隨ふべし。小林よしのりの原典に當れば、話は一發で解決する。小林が「ネット」に關して何と言つてゐるかを、原典から引用すれば、それで話は濟む。何も『戰爭論』が何うの斯うの、と云ふ話をする必要はない。
そもそも、別に小林が何を言つてゐようが何うでも良い話だ。なんでまた加納氏はkoba-koba氏の補記に文句をつけたのか。小林よしのりの發言が的外れか何うかと云ふ事は、koba-koba氏(ややこしいな)の話の文脈から言つて、何うでも良い話だ。koba-koba氏は、「ウェブで嫌な事を言つてゐる奴がゐる」と云ふ事を述べ、それに關聯して小林の發言をうろ覺えで引用したに過ぎず、さらにそれにコメントを附したに過ぎない。加納氏の反應は過剩反應であるやうに見える。加納氏は、大好きな小林よしのりを出しに使はれて、怒り狂つたのだらう。
平成十六年十二月一日
ちなみに、西部が福田恆存に「後繼者と言つて貰ひたかつた」と云ふのは本當であり、政治的な揶揄ではない。
松原氏の西部批判も、讀めば解るが、加納氏の支持する論理的なもので、政治的な揶揄ではない。
加納氏こそ、好い加減に敵身方思考で敵を攻撃してゐるのである。しかもその敵身方の判斷がこれまた適當なのである。
平成十六年十二月一日
親米か反米かは、政治の問題であり、「生きる爲のパン」の問題である。だから「パン」の話しかしないのは當り前。
イズム、主義、思想は所詮、政治に屬するものであつて、道徳に屬するものではない。これが加納氏には分からない。加納氏にとつて、觀念的なものはみんな道徳か。粗雜な思考の人である。
ついで。反米は最初からアメリカを切捨ててゐる。親米は、永遠に親米である事を意味しない。時と場合によつて、切捨てる事だつてあり得る。ただ、今切捨てなければならない、と云ふものでないのならば、今切捨てる事はない、と言つてゐるに過ぎない。
所詮、政治の話なのだから、永遠に同じイデオロギーなり思想なりにしがみついてゐる必要はないのである。政治は相對的なものである。別に「親米だからアメリカに心根すべてを明渡してゐる」と云ふものではないよ。前から「アメリカは最大の假想敵國」と俺は言つてゐる。
と、一月ぶりに反應してみる。加納氏の日記は殆ど讀んでゐないので、何か言はれてゐる事にすら氣附かなかつたよ。
平成十六年十二月一日
賣國奴の愛妻家だつてあり得るのだ。グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』を讀み玉へ。
平成十六年十二月一日
加納氏は新字新かなで書いてゐるので、彼のはてなダイアリーははてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナから外すべきでせう。と某氏に。
平成十六年十二月一日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041201#p3
http://d.hatena.ne.jp/koba-koba/20041202#p1
で、その原典が出て來たが、解釋で言爭ひ。
koba-koba氏の方が分が良いやうに思はれる。
わしに言わせれば、ネットは『便所の落書き』である。しかも己れのクソで書いた落書きである。
日本社会は急速に「ネット思考」と「短絡世論」に落ちていっている。ネットだのチャットだのは、異常者の共同体だと思え。大人たちよ、少年少女を、意識下の迷路から救い出せ!
何う見ても、小林氏の「ネットは『便所の落書き』である」は、全稱命題の發言――即ち「全てのネットは『便所の落書き』である」――である。少くとも、小林氏の頭の中では、さうである。それを受けてゐる下の文章は、だから、やはり全稱命題の文章であり、「ネット」はネット全体を指していると判斷出來る。
もちろん、加納氏の解釋は、論理的には可能である。が、論理的には、koba-koba氏の解釋も「あり」である。そして、加納氏の解釋だけが唯一の解釋でないとしたら、論理的にkoba-koba氏の最初の補記は「あり」である事になる。ならば、加納氏が文句を言へた筋合ではない。

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2004年11月(その二)
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