闇黒日記

平成十六年七月三十一日
徹底的に駄目なあにめなのに、DearSが面白くて堪らない。

平成十六年七月三十日
めも。
クロネコメール便
平成十六年七月三十日
松屋淺草の古本まつり、五人行く人がゐたら俺も行く事にしようかと思ふので點呼。
平成十六年七月三十日
平成15年度「国語に関する世論調査」の結果について

常用漢字以外の漢字の使用について,次の二つの考え方を示し,どちらの考えに近いかを尋ねた。結果は以下のとおり。

  1. 常用漢字表にない漢字であっても,積極的に使っていくべきである
  2. 難しい漢字も使われるようになるので,余り望ましいことではない
明かに誘導尋問だが、これでも42.0%の人が常用漢字表にない漢字も積極的に使つて行くべきだと答へてゐる。
讀賣新聞朝刊がこの調査結果を一面トップで採上げてゐたが、見出しに「檄(げき)を飛ばす」「姑息(こそく)」「憮然(ぶぜん)」は,7割が本来とは異なる意味で理解の部分を用ゐてゐた。讀賣は、スポーツ面で屡々「ゲキを飛ばす」の誤用をやらかしてゐる新聞である。
實際のところ、この手の「アンケート」には、それ自體、餘り意味がない。ただ、使ひやうによつて、國語改革推進派に極めて有利な形で解釋が出來る、と云ふ問題があつて、個人的に感心しない。今囘の調査でも、設問自體が「或種の傾向の囘答を期待してゐる」やうに思はれる。日本では、國語政策の主體に、國語の破壞を推進したいと云ふ手合がうようよしてゐるので、この手の「調査」には警戒せざるを得ない。
平成十六年七月三十日
例の「人名用漢字」の擴大の件だが、「人名に使ふべきでない漢字は排除すべきだ」と主張する馬鹿が餘りにも多かつたらしく、幾つかの字が追加候補から落とされてゐる。しかし、その手の馬鹿は、どうして「常用漢字」を非難しないのだらう。「人名用漢字」から「惡い文字」を排除したところで、既に「常用漢字」に「悪」だの「魔」だのが含まれてゐるのである。しかし、この種の「惡い文字」の排除を始めたら、漢字の善し惡しの吟味と云ふセンチメンタルな論爭が始まるに決つてゐる。それこそ不毛である。よつて、個人的には、漢字制限等一切無くすべきだ、と考へるのだが、世の中には御上に自由を規制して貰はないと氣が濟まない人間が、相變らず澤山ゐるのである。そして、その種の人間に限つて、エロに關しては御上の干渉を物凄い勢ひで排除しようとするのである。
ちなみに、如何にも「惡い漢字」である「惡」であるが、源義平が「惡源太」を名告つたやうに、必ずしも「惡い意味」を持つとは限らない。(參考:http://www3.ocn.ne.jp/~seasnow/newpage64.htm)保元物語に「惡次」「惡五」の名も見える。一方、今でこそdream的な意味合ひを強くしてゐる「夢」は、もともと「夢か現か」の「夢」で、惡い意味で使はれてゐた語である。
平成十六年七月三十日
例によつて。
堀米庸三『歴史と現在』(中公叢書)
坂口安吾『信長』(筑摩書房)
清水幾太郎『人間を考える』(人と思想■文藝春秋)
あとがきで、「何でもよいから先生の好きなことを書いて下さい」「先日、A誌にお書きになったのと同じような話を私どものB誌にもお書き下さい」と要求するのは(清水氏にとつては)「悪い編集者」で、「思いもかけぬ問題を私に押しつける」例へば明治時代の宗教について何か書いてみませんかと藪から棒に言つて來る編集者は「善い編集者」であると書いてゐる。
「平和運動」に關はつてゐた時期の文章は半分しか私(清水氏)のものでないから收録されてゐないが、例外が二篇だけある、それは「内灘」と「今こそ国会へ」である、「内灘」は社会党から睨まれる原因となつた、「今こそ国会へ」は共産党から非難されるきつかけとなつた、と書いてゐる。氏が關係した「平和問題談話会」については、この集団には、さまざまな――敢えて言えば、右から左まで――立場のインテリが参加していた、と述べてゐる。
二十四篇の文章は、長い期間に亙っているため、仮名遣いや句読点などがいろいろと異なっているが、最小限度の整理は除いて敢えて統一を試みなかった、と書いてゐるにもかかはらず、戰前の文章は「現代かなづかい」に改められてゐる。
清水幾太郎『評論集 生活の叡智』(實業之日本社)
以下、清水慶子氏による跋文から。

彼(清水幾太郎)は今、南方灼熱の地に元氣に働いてゐる。彼の留守中この評論集を世に贈る事が出來たのは、私逹のよき友である福田恆存氏、財前康昌氏、三谷昭氏の御助力に依るものであり、私逹はここに三氏に對して厚く御禮申し上げる。

『講座 現代の哲學6 現代文明論』(有斐閣)
中村雄二郎「現代世界における合理と非合理」を收める。
福永武彦『海外文學新選/ボォドレェルの世界』(矢代書店)
国立国語研究所『研究報告集』1、2、4
「研究報告集1」には、宮島達夫・高木翠氏の「雑誌九十種資料の漢語表記」が收められてゐる。この「報告」は、内容よりも、漢字の訓讀みを徹底的に排除した表記に注目したい。この種の、表記に關して偏つた考へを持つ人がゐるから、國語研究所の報告や調査は信用出來ないのである。
もつとも、彼等と同じ流儀の表記を、歴史的假名遣派である高島俊男氏までもが採用してゐたりする。歴史的假名遣を擁護する立場でも、漢字を憎んでゐる人は結構ゐるもので、その中の大物に、和語の固有名詞は全て假名で書くべしと考へて實踐した、つださうきちがゐる。一方、新かな派でも、同じやうな事を考へたのがなかのしげはる。

平成十六年七月二十九日
メイドだとか奴隷だとかにキャラクタを設定するのは勝手だが、servantのservantたる資格が如何なるものかも知らないで、適當にめどいさんとかレンレンレン(略)とか作るのは云々。
使用人を出すならば、その前に、例へばJ.M.バリの「あつぱれクライトン」とかT.S.エリオットの「秘書」とかを讀んでからにしろと。後者はそれほど出來が良くない御芝居だが。
田舎から出て來た娘もマイ・フェアレディになるのだし、ノラは目覺めるのである。單なる馬鹿女を「萌え」の對象として商品とし續けるのは云々。

平成十六年七月二十八日
體調が惡いし寢不足氣味なのだが、既に一度觀てゐるTVKの藍青縁(再)とMXTVのDearSなんかをうつかり觀てしまつたり云々。
DearSつて、ドラえもんなのですねー。俺は馬鹿な女が嫌ひだし、あんまり氣に入る要素がない筈なのだが、見捨てられないで毎囘觀てゐる。
と言ふか、なんで深夜にこんなに澤山あにめをやつてゐるんだ? 世の中をかしいよ。と俺が言つても説得力が無いかも知れないが自分を棚に上げて言ふ。
平成十六年七月二十八日
例によつて田村書店の店頭で森銑三『月夜車』(彌生書房)を購入。「猫が物いふ話」をはじめとするオバケの話や、森氏の思ひ出話のやうな、所謂「雜文」を收録した本。戰中に出たものの復刻版。

平成十六年七月二十七日
0時55分頃、東海地方で地震。結構大きかつたみたい。
あと30分遲かつたらMADLAXにかかるところだつたとか不謹愼な事を言つて寢る。
平成十六年七月二十七日
田村の店頭でフィールディング『怪盗一代記』(世界文學社)を購入した。「ジョナサン・ワイルド」の飜譯。一卷本。
平成十六年七月二十七日
日本古典文學大系の『近世和歌集』を、いつまでも机の上に置いておくのもアレなので囘收して來た。背中にマジックで「93」と書かれてゐるだけで無料になつた可哀想な奴(於田村書店)。

平成十六年七月二十六日
AT-Xのlainを觀たよ。DVD/VC版だつた。謎メールならヘッダを見れば或程度、出自は判る。筈。エルフェンリートに比べれば、觀るのは苦痛でなかったなー。
せんせいのお時間は今夜もないのだなー寢るか。科白棒讀み。
平成十六年七月二十六日
今晩は。
今日も京王の古書展。但し半分見たところでリタイア。何しろ私はバーチャルネット(中略)90歳であるからして云々。
福田恆存『藝術とはなにか』要選書3(帶の記述に據ると日本圖書館協會選定圖書)

《藝術と文明》といつても、それは兩者の相關關係について解説したわけではありません。《藝術と文明》といふ副題の眞意は、現代文明に抵抗を感ずる藝術の危機といふことにあります。今日、藝術の本質を――いひかへれば、藝術とはなにかを――語らうとするならば、さういふ角度から語る以外に方法はないと、ぼくはおもつてゐます。ひとつの藝術作品の美について語りあひ、その感動をわけあふためにも、あらかじめこれだけの地盤を設定しておく必要があるとおもつてをります。そして、一度それができあがりさへすれば、それこそあとは一行でことたりるでせうし、あるひは無言のうちに共感が成立するでありませう。すなはち、藝術とはなにかなどといふやぼな問ひも答へも不必要になるのです。

グレアム・グリーン『負けた者がみな貰う』筑摩書房
丸谷才一対談集『言葉あるいは日本語』構想社
服部四郎『新版音韻論と正書法』大修館書店
時枝誠記はソシュールの言ふ「言語」(小林英夫による「ラング」の譯語)を誤讀した、としつこく書いてゐる(私見だが、時枝氏は、誤讀したのでなく、寧ろ、正しく理解した、そして、その上で、文字通りの意味での言語をこそ言語學は研究對象とすべきだと主張した、と讀む方が良い)服部氏だが、ローマ字論を本氣になつて書いてゐるところを見ると、發音記號と表記とは別物である、と云ふ事を理解してゐなかつたのではないか。即ち、研究對象としてソシュールに據り定義された「言語」を、言語の本質と服部氏は取違へたのではないか。
日本思想大系39『近世神道論 前期国学』岩波書店
寺田透評論集『北窓の眺め』筑摩書房
理が勝ち過ぎてゐるやうなねちねちした文體の文章で、餘り好きになれない人だが、寺田氏も正かな派。

旧著『和泉式部』と同じく、この本も、本文は新かな、「あとがき」は旧かなといふ体裁で出る。そのわけは次のやうである。

最初編集されたこの本の原稿に当る雑誌切抜きは、その大部分が雑誌社の手で、新かなで組まれてゐた。旧かなを新かなに直すにはあまり間違ひは起らないが、その逆は実に多くの訂正不足の誤植を残す。そのためすべて新かなで統一することにきめたのだが、あとから補足した分は、逆に殆どすべて旧かなで印刷されてゐた。はじめから今の内容で原稿をととのへれば、かなづかひは大体新旧半々だつたらうと思ふ。もしさうだつたら僕は、本文も全部旧かなで統一する方向を選んだことだらう。

今書いても詮ないことだが、僕の文章を旧かなで組んでくれた人々への挨拶のつもりで付加へておく。

昭和四十七年の筑摩書房なのだから、何とかなつたのではないかとも思はれるが。
平成十六年七月二十六日
文語文と云ふのは要するに漢文の事なのだが、これは昭和二十年代の國語改革で死んだのではなく、それ以前に廢れてゐたものだ。單純な文語文復興運動に私が懷疑的であるのはその爲。
中島敦は、漢文の素養があつた最後の作家だ。強い印象を殘す「山月記」は漢文が文體の根柢にある。しかし、中島の書く文章は、漢文そのままの文語文ではない。硬いが、古臭さよりも寧ろ、清冽な印象を與へる、モダンな文章だ。これは、漢文の素養がそのまま表はれてゐるのではなく、作家の意圖で露はにならないやう抑制されてゐる爲に生れてゐる效果である。
平成十六年七月二十六日
横書き文語体日記 やまとにありて: 謗る者など
源氏名は良かつたね。文録具とか輪区とか電網とかの宛て字には感心しないが。

平成十六年七月二十五日
多少赤肩氣味だが一往。
XHTML 2.0
XHTML™ 2.0 W3C Working Draft 22 July 2004。
平成十六年七月二十五日
Opera、ツールバーやメニューをIEそっくりにカスタマイズするツール
ところでSDIにできますか? でーきーまーすーかー? できますよ一往。
窓の杜 - 【NEWS】Opera Software ASA、Webブラウザー「Opera」v7.00の英語正式版をリリース
従来はWebブラウザーの表示スタイルとしてSDI/MDIの2種類を「Opera」起動時に選択する方式だったが、v7.00では基本的にMDIスタイルのタブ切り替え型Webブラウザーとして動作するようになった。ただし、任意のタブを「Opera」ウィンドウの外側へドラッグ&ドロップすることで、そのタブをSDIスタイルの独立ウィンドウに分離することが可能。
Changelog for Opera 7.50 for Windows
  • Open new page: Ctrl+N in MDI, Ctrl+Shift+N in SDI.
  • Open new window: Ctrl+Alt+N in MDI, Ctrl+N in SDI.
  • Close page: Ctrl+W. Closing last page in SDI closes Opera.
  • Close (application) window: Ctrl+Shift+W in MDI, Ctrl+W in SDI.

平成十六年七月二十四日
「ビルマの竪琴」は、少年向けの讀物だが、實業之日本社の兒童雜誌「赤とんぼ」の昭和二十二年三月號から掲載された。當時は一般に、戦った人はたれもかれも一律に悪人である、と云ふ風に考へられてゐた。日本軍を罵る事は、當時は正義だつた。後には、「一般の兵隊は、軍部に騙されて戰爭をさせられてゐた」と云ふ話になつて行くのだが、當時はもつとストレートに「戰つた主體である兵隊は惡人である」とされてゐた。
さう言つた風潮がある中では、戦死した人の冥福を祈るような気持は、新聞や雑誌にはさっぱり出なかつたのも當然の事だつたし、義務を守って命をおとした人たちのせめてもの鎮魂をねがうことですらも逆コースであつた。「ビルマの竪琴」は、さう云ふ時代に世に出た作品である。G.H.Qの檢閲で、當初は戦争をあつかってあるとして掲載不許可となり、その後、第一囘の掲載許可は降りたが、續きは完結してから全文を調べて、それで許可を出すか出さないかを決める、と云ふ話になつた、と言ふ。
當時としては、「ビルマの竪琴」は、反動的で危險な作品だつたのである。それが今では、平和主義がテーマだと受取られかねない。
「『ビルマの竪琴』ができるまで」(竹山道雄「精神のあとをたずねて」所收)
さて、戰爭で戰つてゐる敵身方が互ひに他を憎み合ふのは、第一次世界大戰以來の事であると言ふ。日露戰爭の奉天大會戰の際には、事前に婦女子を避難させるやう、日本軍がロシア軍に申入れてゐると言ふが、これは當時としてもさすがに異例の事であつたらしい。いづれにせよ、戰爭は、機械と機械が機械的に戰ふものではなく、人間と人間が戰ふものである、と云ふ事は、戰爭を考へる際に念頭に置いておくべき事である。別に、日本軍の兵士とイギリス軍の兵士が「埴生の宿」を合唱したところで、平和だヒューマニズムだ、と極端な仕方で理解する必要はない。
平成十六年七月二十四日
http://d.hatena.ne.jp/Roquentin/20040716#p1
福田恆存『私の幸福論』の感想。
この章の主な分析は、女性の「母性」についてなのだけれども、私が今回読んでて面白いと思ったのが、「セックスは通路であります」という一文。このとき福田の頭に意識的にだろうと無意識的にだろうと存在していたイメージは、おそらく膣だろうと思う。
えええええ(AA略。
「道」とか「通路」とかは、福田氏の用語なのだけれども。
エリオットの選んだ道は、ふたたび神とつながることである。
これは福田氏のエリオット論(『西歐作家論』の一篇)にある文章なのだけれども、「通路/道」=「膣」説で考へると、變な事になりはすまいか。

平成十六年七月二十三日
東京古書會館→京王百貨店。
福田さんの『教育とは何か』の二册めと、大野晋の『上代假名遣の研究』の三册目をうつかり買つてしまつたので、引取つて呉れる人募集。
趣味の古書會では吉川幸次郎『杜甫ノート』、中橋一夫『道化の宿命』、中村雄二郎『ミシマの影』等を。
京王では、ハイデッガー『形而上学とは何か』『哲学とは何か』、福原麟太郎對談集『文學的人生』、竹山道雄『精神のあとをたずねて』、ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』、等を購入。

平成十六年七月二十二日
ITmedia エンタープライズ:Lotus Notesからの移行を考える (1/2)
限られたリソースでは有用だつた獨自仕樣のプログラムも、マシンやネットワークの性能が向上した現在では汎用性のあるシステムに移行した方が良い状況が生れてゐる、しかし、一度作つてしまつたシステムは容易に變更出來ない、困つたものですね、と云ふ御話。
平成十六年七月二十二日
ITmedia エンタープライズ:ライブドア堀江社長「Operaを1年で20万本売る」
なんかトランスウェアが實は結構アレな事をしてゐたとか色々情報が出て來てゐる昨今、皆樣いかが御過ごしでせうか。それにしても、ライブドアの中の人も大變ですね。
寢不足と暑さとで何かばて氣味。
平成十六年七月二十二日
統一教会系のサイトで言葉遣ひについて書いてをられる某Mせんせいが、義の流言蜚語を半ば信じてゐると云ふ噂。
平成十六年七月二十二日
書泉→東京堂→三省堂と梯子したけれども、何と言ふか、最近は本屋にゐても樂しく感じられない。
二十三日金曜日は趣味展か……あと京王も行かないと。さいか屋はどうしようかなー。

平成十六年七月二十一日
http://www.2log.net/home/otemo2004/archives/blog149.html
「価値相対主義」と言ふよりも、この人の場合、「価値観相対主義」とでも言つたら良いのであつて、個人の持つ價値觀や正義はどれも絶對ではないよと、どれも等しく尊重したら良いのだよと、そんな事を言つてゐると理解しておく。
この時點で、當方の價値觀と衝突するのだが、私は個人の價値觀や正義であつても、社會的・歴史的に見て、妥當性や一般性を持ち得る、と思つてゐるし、他人から見てそれらを評價する事が出來ると考へてゐる。
平成十六年七月二十一日
ついでに言ふと、理系のみならず文系であつても、合理的な判斷は必要だし可能だよ。藝術であつても、文學であつても、感性的な好き嫌ひでものを言つて良いのではなく、理性的な批判は可能だし必要。優れた戯曲は合理的に書かれてゐるし、優れた繪畫は合理的に構成されてゐる。そこに感性を持込んで合理的な意識を排除しようとするのが日本人の日本人的な餘りに日本人的なやり方だが、それを「正しい」と判斷するのは好惡による判斷でしかない。文學であれ何であれ、對象を主觀的に鑑賞する態度と共に、客觀的に批評する態度はあり得る。そして、感性が極端に重視される現在、客觀性の主張は必要である。この私の主張が氣に入らなければ「主觀の相對化の爲に」と云ふ御題目を附ければ、相對主義者にも大義名分は立つだらう。

平成十六年七月二十日
十七日の御話でも名前が出た栗栖弘臣元統幕議長が、十九日に死去。八十四歳。
軍人と「文民」とでは、意見が一致してゐないと國が立ち行かないが、時として喰ひ違ふ事がある。その時、取敢ず「文民」の意見に軍人が從ふ事にする、と云ふのが、あり得る「文民統制」である、と云ふ御話。
平成十六年七月二十日
top
例によつてtitleが腐つてゐるが、ブロッコリーによる吉田直氏の訃報。
平成十六年七月二十日
作家・吉田直氏の訃報
こちらは角川。
平成十六年七月二十日
http://www4.zero.ad.jp/thores/diary?date=2004-07-19
平成十六年七月二十日
訃報
平成十六年七月二十日
『ジェノサイド・エンジェル――叛逆の神々』は昔、讀んだよ。思ひ出したよ。

平成十六年七月十九日
西尾實『國文學入門』讀了。アテネ文庫だから云々。
和歌・俳句、物語、日記、戲曲、小説と言つた文藝を、文藝として研究するに當り、どのやうな立場があるかを論じたもの。

わが國における學問發達の近状は、新しい分野の開拓にしても、新しい部門の樹立にしても、その開拓や樹立に對する發見の興奮から、他の分野や部門に對する感情的否定に傾き、獨尊孤立の弊に陷り易い。しかも、それが妥協を排し、批判を嚴正にしていく態度であるかのような誤信に墮してさえいる。そうして、それが、何か意義のある闘争であるとまで思いこんでいる。しかし、それは、個人的主觀的な興奮であつて、眞の批判でもなければ、眞理を目ざしての闘争でもない。われわれは、むしろ、そういう個人的主觀的興奮を克服して冷靜に歸り、肯定否定を客觀的に嚴正にし、盲目的にすべてを排撃し否定する破壞の代りに、明らかにそれぞれを批判し定位する建設を意圖すべきであろうとおもう。日本文藝學の建設を、統一・調和の名においてする妥協苟合に墮せしめないとともに、それの裏返しにすぎない獨善排他の弊に陷らせないためには、何よりも、まず、批判の客觀的基準の發見につとめ、それに基づく諸部門の定位が必要である。

あにめにしても小説にしても、好き嫌ひの鑑賞的態度を根據に語る傾向が今も無いとは言へない事は、ウェブの日記・ブログの類を幾つか見てゐればすぐに判る事である。しかし、社會的でより一般的な方法に據る文藝作品の批判は可能である。そして個人的・主觀的な見方に留まる事なく、妥當な解釋と、それに基づいた批判が適正に行はれる事が、「文藝學」が「學」として成立する爲に必要である。西尾氏の言ふ「批判」と云ふ語が、根據のない主觀的な攻撃を意味しない事は、引用の文章を見れば解るだらう。そして、當方としても、このやうな客觀性のある批判の必要を主張してゐるのである。もちろん、自分のものの言ひ方に屡々險がある事は否定しないが、だからと言つて、全ての自分の發言が感情的で一方的な極附けであるとは私自身は思つてゐない。「面白い」「嫌ひだ」の類の發言をする際にも、客觀性・一般性には考慮してゐる積りだ。
殘念ながら、客觀的方法論に基かない主觀的な擬似科學の類は今も存在し、「四の五の言はずに俺のやり方に從へ」式の獨善的な主張をする波江や、獨斷的に「印歐語の正體は漢字です!」と極附ける大和田、「野嵜は××」式のレッテル貼りをして自分の好き嫌ひを客觀的な事實に見せかける匿名氏のやうな人物が、ウェブの掲示板には跋扈してゐる。これらの人物がこの世から消え去る事はあり得ないが、一方でその種の主觀的な意見を無視すると云ふ事で取敢ず對抗しないでやり過ごさうとする人がかなり多いやうであると云ふ問題がある。
平成十六年七月十九日
ABC關聯。
http://d.hatena.ne.jp/nuit/20040715#1089852405
http://d.hatena.ne.jp/mohri/20040716#abc2
http://sonobasho.exblog.jp/678003
平成十六年七月十九日
日刊リウイチ 【7月16日】に據れば、「青山ブックセンターはまだ倒産してゐないぞ、落ち着け」(意譯)との事。
たしかにまだ帝国データバンク倒産情報に出てゐない。

平成十六年七月十八日
小林よしのり氏が何か最高裁で勝訴してゐたり、裁判長が横尾和子氏なる人物だつたりするのだが、この界隈(何處)では誰も觸れてゐないですね。
平成十六年七月十八日
松原隆一郎氏 v.s. 山形浩生氏。
思考の格闘技の「バカさゆえ・・・(7月6日)」
Response to some Dick Pulling by Matsubara: What Keynes REALLY said(「松原隆一郎へのお返事:ケインズが本当に言ったこと」)
平成十六年七月十八日
吉川幸次郎『中國文學入門』讀了。アテネ文庫だからあつと言ふ間に讀める。

平成十六年七月十七日
柵。
平成十六年七月十七日
PC關係の記事を充實させなければならない事。
平成十六年七月十七日
アルコールが入つてゐると本を讀んでも頭に入らない事。
平成十六年七月十七日
自分に「さん」を附けるのは愚かしいと云ふ事。
例を擧げるといろいろ差障りがあるかも知れないがFumingさんとか柾さんとか。
平成十六年七月十七日
http://www.kt.rim.or.jp/~tyamamot/betterorworse.html#idx19
(略)このコメントに対する、委員の一人からの反論には驚いた。The Chicago Manual of Styleに欧文のワード・スペースは全角の1/3が標準だと書いてある、というのである。編集者向けのガイドブックとして長年にわたって定評のあるThe Chicago Manual of Styleに書いてあることは、正しいという理屈である。これでは、まったく反論になっていないではないか。なぜThe Chicago Manual of Styleはそのように書いているのかを説明していただきたいものだと思ったが、それ以上の説明はその委員から聞き出せなかった。
根據を擧げて論ずるのは結構だが、日本人の場合それが屡々「官僚主義」に陷る、と云ふ問題がある。
平成十六年七月十七日
高田保『ブラリひょうたん』讀了の事。
病氣をして復歸した後、朝鮮動亂の時期で、ひたすら平和主義的論調になつてゐる事。それまでは面白い事。やはり元氣な時でないと、良い文章は書けないらしい。
平成十六年七月十七日
實用一邊倒の一元論では困る事。
人名用漢字の問題でも、「常用平易」だけを原理とする現状を反省すべき事。
平成十六年七月十七日
ゲーテはロリコン。
だが、ロリコンだからと言つて、ゲーテのやうになれるとは限らない。逆は必ずしも眞ならず。
と言ふか、2ちゃんねらーは2ちゃんねるに歸れ。
平成十六年七月十七日
田村書店が捨てたので拾つて來た岩波新書の山の中にTK生の屑本が紛れてゐた事。
マルクシズムの經濟の本が古びて讀めない事。地學の本が古くても古いなりに讀める事。
まあ、無料でなければ手に取りもしない訣だが。
上田誠也『新しい地球觀』(岩波新書青版779)。ウェゲナーの地動説が一度「死」んで、のち復活した事。地學の知識として既に古びてゐる部分もあるし、當時、現在進行形で調査中・分析中の事柄もある事。論爭史として纏まつてゐるので、それなりの讀み方をすればそれなりに感銘を受けられる事。
平成十六年七月十七日
鈴木義司氏死去の事。ソースはYahoo!ニュース。
平成十六年七月十七日
トルストイの飜譯家で反戰運動家の北御門二郎氏が死去したさうだが、そんな名前、聞いた事も見た事もない。
信念の人、北御門二郎さんに会う
北御門氏が徴兵を拒否したところ、「氣狂ひ」と云ふ事で御咎めなしとなつたらしい。

平成十六年七月十六日
金曜日。東京古書會館の古書展の日です。
小野祖教『純粹論理學』亞里書店
内藤虎次郎『清朝史通論』弘文堂書房
河合榮治郎全集。四册。
平成十六年七月十六日
http://d.hatena.ne.jp/funaki_naoto/20040715#p2
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040716#thatsright
平成十六年七月十六日
青山ブックセンター倒産。自己破産。
新文化 出版業界紙http://www.shinbunka.co.jp/news/04-07-16-photo.htmに、六本木店での撤收作業の寫眞が掲載されてゐる。
橋本驛前のABC、何時行つても客が入つてゐなかつたしな……。
栗田だから支へ切れなかつたのかな?
平成十六年七月十六日
『トリニティ・ブラッド』の作者・吉田直氏死去。
無断引用無断転載はもちろん禁止です。と曰ふ篠田真由美氏(@ 木工房 風来舎HOME)の「DIARY」(http://www.aa.alpha-net.ne.jp/furaisya/shinodadiary.html)より。著作權法で無斷引用は當然の權利として認められてゐるので當然のやうに無斷でリンクを張るし無斷で引用する。と言ふか事實の報道ならば、引用も何もそれ以前に事實そのものに著作權が存在しない。また、上の無断引用云々の「引用」文については、創作性が全く認められないから矢張り著作權は存在しない(據つてこれを「引用」と言へるか何うかも不明)。リンク云々については、篠田氏は訴へたければ訴へ玉へ。何で訴へるんだ? リンクを張るのは自由云々(dnoz : nozaki directory project 特記事項/「言葉 言葉 言葉」へのリンクについて)。閑話休題。
吉田氏の本、買つたけれども讀んでゐないな……。

平成十六年七月十五日
龜井高孝・林健太郎『概説西洋歴史』(吉川弘文館)を買つて來た。
平成十六年七月十五日
十日にあんな事を書いたら、虹裏のデフォルトネームがとしあきでなくなつた。
と言ふか、恐らく因果關係はない。筈。
平成十六年七月十五日
としあきが消えたのにうろたへて書くのを忘れてゐたが森嶋通夫氏死去。

平成十六年七月十四日
互ひに親愛の上を以て接し、國民と國民とが信頼し合へば、戰爭はしないで濟む、兵器等要らなくなる、と主張する人と、個人情報が流出したら惡用されるかも知れないから困る、と主張する人とは、屡々同一人物である。
平成十六年七月十四日
日の丸や君が代に敬意を表する必要ナシと斷ずる教師は、生徒が海外でその國の國旗や國歌に敬意を表さず、その國の國民に憎まれ、何か非道い事をされても、責任を取る必要はないのであらうか。
假定の話をされても困る、と言はれるだらうか。
平成十六年七月十四日
1996年の頃の正論を見てゐたら、林健太郎さんが「右も左も反米と云ふ點で一致する」と述べてゐた。また、副島隆彦氏が「日本はアメリカの屬國である」と書いてゐた。
「日本はアメリカの屬國であつて良いのか?」――詰り、「日本はアメリカの屬國のままであつてはならない」と奇魂の高坂氏が執拗に繰返してゐるので、反動的に「日本は屬國ではない」と言返してゐたのだが、宗旨替へして、日本は屬國である、と考へる事にする。
そこで、では「日本はアメリカの屬國でなくなる事が可能であるのか?」「日本はアメリカの屬國であつてはならないのか?」と考へる。
「屬國でなくなるべきだ」と云ふのならば、自主獨立の國となれる確證が欲しいものだが、高坂氏に據れば「自主獨立が可能でなければ滅亡するけれども、それで良い」と云ふ事だつた。しかし、その「滅亡」と云ふのがどう云ふ事なのかまで、考へてみる必要がある。
滅亡したとして、日本列島が沈没する訣でもなく、單に再度、占領されるだけである。占領されて、屬國にされるだけである。
さて、そこで問題だが、「アメリカの屬國」と「中國の屬國」とではどちらが増しか。高坂氏は「反米」を示唆してゐるが、では「反米」の結果として「日本が中國の屬國となる」としたら何うか。
平成十六年七月十四日
やつつけ。
Thunderbird - Reclaim Your Inbox

平成十六年七月十三日
週刊媒体探偵団「022 狂気の価値」
平成十六年七月十三日
こんな話がある。昔、ふざけて犬の眞似をしてゐた或人が、突然、近くの人に噛みついたのださうである。大の大人がいきなり他人に噛みつくとは、尋常な事ではない。氣狂ひの振りをしてゐた積りで、本當に氣が狂つてゐたのである。
氣狂ひの眞似も大概にしないと、本當になつてしまふ事がある。佯狂は狂に似たり。御用心。
平成十六年七月十三日
いつたん六時に目が覺めて、取敢ずPCの電源を落とす(TV録畫の爲、一晩中つけつぱなし)。二度寢して七時十一分に目を覺ますが、もう一度眠り込まうとしたところで叩き起こされる。七時十四分起床。
うちの目覺まし時計は、背景が象の親子、秒針が鳥さん。支離滅裂。何度も机の上から落下して滿身創痍なのが痛々しい。銀行で貰つたものなので、ファンシーなのは俺の所爲ではない。
ちなみに、エアコンなしでは生きられない體になつてゐます。
平成十六年七月十三日
伊藤整編『文章讀本』(河出新書54)。昭和三十二年發行。芥川と大岡昇平の文體を福田恆存が論じてゐる。
大岡の文體について、福田は大岡昇平ほど論理的な文體を以て小説を書いた作家は日本にはいない。まずその特徴は定言命題が多いということだ。と述べてゐる。そして、定言命題の效果は書かれてある内容がいやおうない事實であるという安心感をあたえる、と指摘してゐる。その後、續けて、大岡の作品における論理的な文體の幾つかの效果を説明してゐる。
しかし、論理的な文體によつて與へられる事實であるかのやうな印象と、事實そのものとの關係については觸れられてゐない。
ちなみに、大岡の文體について論じた文章は新假名遣で、芥川の文體について論じた文章は正假名遣となつてゐる。理由は不明。

平成十六年七月十二日
さて、0時15分現在、大體の形勢は判明したのだけれども、蒼穹のファフナーは中止なのである。又吉に入れた××は1226人。
平成十六年七月十二日
世代別の投票率を見ると、なんか安保世代とかその邊のアレな世代の率が高いみたいだ。
平成十六年七月十二日
又吉の得票、四千越えた?
平成十六年七月十二日
川崎さいか屋→京王→趣味展(順不同)オフなんてのを考へたのだけれども、參加希望者ゐます? 24日。
古本市カレンダー2004
平成十六年七月十二日
永野賢『にっぽん語考現学』(明治書院)より。子の名
或人、子供に「釣二」と名前を附けて「きんじ」と讀ませようとしたが、「釣」の字が当用漢字にも人名用漢字にも無いと役所で受附けられなかつた。それを聽いた別の或人曰、「きんじ」なら「鈞二」だ、「釣二」だと「ちょうじ」だぞ。で、はじめの或人、「ちょうじ」だと「弔辞」に通じるからよろしくないな。二人相和して、「釣」が当用漢字になくて良かつたな。云々。永野賢先生、小賢しい話を作つたものである。
平成十六年七月十二日
平井昌夫『風流国語教室』(角川書店)より。
「まえがき」で平井氏、国語国字問題に觸れて、野暮な事に國語改革反對派を罵倒し、敗戰後の國語政策を擁護してゐる。即ち、終戦後の国語政策の実施は国語の形式面や素材面の改革でした。国語そのものをいっそう正しく美しく正確にする仕事はこれからです。ところが、この形式面・素材面の改革にさえ、威勢良く国語問題を評論のたねにしているひとにぎりの人たちは大反対をとなえています。そして、インボウだとかウソツキだとか独裁だとかの”感情的なコトバ”をいとも手軽に投げかけています。(「インボウ」「ウソツキ」は原文のママ)等と言ひ、漢字制限でありそれ以上使つてはならないとするものであつた「当用漢字」についてこれだけはぜひしっかり教えてもらいたいという漢字を一、八五〇字にきめ、この漢字で文章を書けば国民としてはいちおう読めるようになっているという基準等と解説してゐる。もしその解説が事實であれば、わざわざ「目安」などと宣言した上で「常用漢字」を制定したりはしなかつただらう。
次いで、昭和三十一年に文藝家協會が行つたアンケート「教育、新聞で、当用漢字、現代かなづかいを採用している現状をどう思うか」の結果を纏めて、以下のやうに數字を示してゐる。
アンケート「教育、新聞で、当用漢字、現代かなづかいを採用している現状をどう思うか」(昭和三十一年)の結果を平井氏が纏めたもの
平井氏は、解答者の選択は文芸家協会が適当だと思う人をきめたのですから、客観性にとぼしいのです。それでも、とにかく認めているのが七七パーセントです。と要約する。これが福田恆存氏に批判を浴びた惡名高い數字の詐術である。
やむを得ないものとして認めるとは、「認めたくはないが已むを得ない」の意であり、實質的な反對である。それを恰も贊成してゐるかのやうに平井氏は言つてゐる。
アンケート「教育、新聞で、当用漢字、現代かなづかいを採用している現状をどう思うか」(昭和三十一年)の結果のより正しいと思はれる纏め方
また、昭和三十五年に「言語政策を話し合う会」が「朝日年鑑」の人名録からランダムに千名を擇んで行つたアンケートの結果も、平井氏は以下のやうに纏めてゐる。やはり數字のマジックを利用して、恣意的な結論を下してゐる。
「言語政策を話し合う会」による昭和三十五年のアンケート結果を平井氏が纏めたもの
「現状維持」は「これ以上の改革に對する反對」であると見るのが妥當だと福田氏は述べてゐる。そこで、この結果も以下のやうに書換へられる。
「言語政策を話し合う会」による昭和三十五年のアンケート結果のより正しいと思はれる纏め方
アンケートの結果を平井氏は改革推進派の「壓倒的勝利」と看做した。しかし、正しくは「贊否の意見が伯仲してゐる」と看做すのが妥當なところである。
この手の數字のマジックに頼つてゐた改革推進派が「私達はウソツキ呼ばわりされています!」と訴へてゐた。實際に嘘を吐いてゐたのだから、嘘吐きと言はれても仕方がないのに、である。然るに、數字の詐術によつてまでしてごり押しされた國語改革は、今に至るまで「やむを得ない」として「認め」られてしまつてゐるのである。
平成十六年七月十二日
大修館書店:漢字文化資料館
人名用漢字見直し案に関するアンケート、結果発表!
平成十六年七月十二日
白石大二『文法以前』(明治新書)。
卷末の第二十六章「言語と文字との基準――国語問題をめぐって――」で國語國字改革の問題に觸れてゐる。改革の實行者も反對者も「日本を良くしよう」と云ふ點では同じであるだらう、明治以來の國語政策も結局のところ教育を何うするかと云ふ觀點から行はれたものでなかつたか、さうした過程で國語のあり方が考へられてきたのではなかつたか、そして、實施された改革の意圖が如何なるものであるのか、それが良いものであるのか、手續きは妥當であつたか――といつた事が述べられてゐる。そして、さう言つた廣い見地から、國語改革については檢討が必要であるにもかかはらず、漢字表での文字の出し入れや字體弄りにばかり目を向ける人が多い、と云ふ現状がある、しかしそれは如何なものか、と筆者は指摘してゐる。全體として筆者が公正であらうとしてゐる樣子が窺へる。
また、「使ひ方」の問題でしかない漢字の問題よりも、原理の變更の問題である假名遣ひの問題の方が、國語問題の議論において、より重要である、と筆者は指摘してゐる。「現代かなづかい」については、原理的に問題があるにもかかはらず、長い間使はれてゐて「実績」があるから止むを得ず認める、と云ふ形で、現實には議論がなされない、と筆者は述べてゐる。しかし、この點の檢討は、本論では進められてゐない。現實問題としての漢字の問題や送り假名の問題、その他の「言葉の遣ひ方」の問題を筆者は後半、忙しく並べ立てて、議論を終へてゐる。
平成十六年七月十二日
特定の誰かを非難するものではありませんのであしからず。
http://diary.imou.to/~AoiMoe/2004.07/early.html#2004.07.10_s03
「自分でやつてゐない事を他人に『やれ』と言ふな」とか「自分では平氣でやつてゐる事を他人に『やるな』と言ふな」とか。自分の事を棚に上げて相手を納得させようと言ふのは蟲が良過ぎますね。當然。
「『落しどころ』を用意して、強引に自説を相手に押附けるな」とか「『どつちが正しいと云ふものはない』と云ふ相對主義を豫め持出して、何んなに間違ひを指摘されても自説の間違ひを認めないで濟むやうな『逃げどころ』を作つておくのはやめろ」とか。相手の意見を受容れないで自説を押通すのを正當化する手段として「價値相對主義」は論理的には或意味とても有效ですが、「眞面目に議論する氣があるのか」と疑はれたりしますので、避けた方が良いでせう。「正しい」「正しくない」と云ふ事を議論するから議論には意味があると言へます。「落しどころ」がある「議論」は、最初から結論が決つてゐる議論であり、八百長試合と同じです。物事の妥當性を檢討する、と云ふ點では、全く意味がありません。「自説が正しい」と云ふ信念はあつてよろしい。ただ、「正しい」と云ふ自己の信念を、他者の批判に晒して、果して客觀的に正しいものであるのか何うかを確認する、と云ふ目的で、議論は行はれるべきです。或は、「正しい」と云ふのを心から信ずるのではなく、議論の爲に「正しい」と信じてゐる事を演戯する、と云ふ意識を持つ事が、議論においては必要な事ではないでせうか。ここで言ふ「演戯」は、表面的な御芝居、と云ふ事ではなく、意識して「なり切る」事を意味します。單に演戯に醉ふのではなく、何時でも覺める事が出來る状態で演戯をする、と云ふ事です。逆に言ふならば、「議論で『なり切る』時は、自分の演技に醉ふな」。「お兄ちゃん」だの「ホランド」だのに「なり切」つて、自分に陶酔し、相手の事を考へないのは、何うか(してゐる)と思ひます。
「『ふむ』とか『〜だのう』とか『〜だわな』とか言ふな」。相手を見下してゐるかのやうな印象を與へる餘計な間投詞その他は、相手の感情を害しますから、やめるべきですね。
平成十六年七月十二日
單なる馴れ合ひこそが「議論」である、と言ふのならば、話は別。互ひに相手の事が解つてゐて、意見を戰はせた振りをして、結局は落著くべき處に落著いて、親睦を深める、と云ふのをやりたいのならば――そもそも議論なんかしないで「萌え−萌え−」とか言合つてゐるのが一番平和です。
平成十六年七月十二日
まあ、「落しどころが判る」と云ふのは、「何が正しいかが判つてゐる」即ち「自分の意見が正しく、相手の意見が間違つてゐると判つてゐる」から出來る事であつて、結局、相手を見下してゐる時にしか出來ない事ですからねえ。仲間内でならばともかく、他所の人間を相手にそれをやると、相手が頭が良い場合、覚られて、必ず憎まれます。馬鹿を相手にするのならば結構ですが、何時でも自分の方が偉い等とは思はない方が良いでせう。
と云ふ訣で。「いちいち相手に自分が餘裕である事を見せ附けるな」。
ええと、これはブレインストーミング的なメモで、特定の誰かを非難してゐる訣ではありませんよ? 云々。こんな事もいちいち書く必要はないのですがね。かんぬん。

平成十六年七月十一日
俺の處の投票所は兒童館なんだよ。まるで選擧ごつこみたいだ。
平成十六年七月十一日
参議院ホームページ(参議院のFAQ)
比例代表制 - Wikipedia
よくわかる非拘束名簿式比例代表制
參議院と參議院議員選擧の基礎知識を持つて投票に行つた人はどの位ゐますか?
平成十六年七月十一日
大勢あつさり判つてしまつたね。
MXTVが無茶苦茶やつてる。

平成十六年七月十日
Google 検索: ほぼテキストブラウザ
平成十六年七月十日
私はこれまで選挙で投票に行つたことがない。しかし、私がもし投票してゐたら選挙結果が変つてゐた、といふやうなことは一度もなかつた。つまり、私が投票したかしなかつたかは、選挙の結果には何の影響もなかつたのである。
もし支持者が一票差で落選することがあつても、何も困ることなどない、と思つて投票しないできた。私は不真面目な有権者である。ところが、世の中はそのやうな不真面目な有権者よりは、真面目に投票する人の方を尊重する。
マスコミは、どんな選挙でも必ず棄権するやうな徹底した不真面目人間ではなく、取敢ず投票だけはしたといふ「真面目」な有権者の意見にばかり注目するのだ。こんなけしからん事はない。
私は三回棄権したら選挙権を失ふやうにしたらいい、などといふ意見には反対である。不真面目でありたい有権者が不真面目である自由を失はせるのは、民主主義的でない、と考へるからである。もしさうすれば、政治のことを真面目に考へる人だけが投票できるやうになつて、もつと世の中は悪くなつてしまふ。「所詮政治は政治」と考へる人間が少しでもゐないと、世の中は政治主義一色に染まつてしまふからである。何でも、一色に染まるのは良くないことである。
以上は、私の私見・偏見である。
平成十六年七月十日
「見出しが写真と関係ない」 @ 2004年7月9日の湾岸日記
http://show.yomiuri.co.jp/photonews/photo.php?id=3926(YOMIURI ON-LINE / フォトニュース「猛暑、熱中症で4人死亡」)
YOMIURI ON-LINE / お知らせ
幼女の寫眞を買へるらしいですよとしあきさん?
平成十六年七月十日
http://d.hatena.ne.jp/inainaba/20040710#p1
亀井孝氏についての思ひ出話。

平成十六年七月九日
毎日新聞社版の高田保『ブラリひょうたん』(昭和五十三年)を中卷まで讀み進めた。なんか矢鱈誤植が多いのですが。
平成十六年七月九日
例の拾つた本。啄木全集の第一卷が混じつてゐたので、一握の砂をちらちらと。啄木の「良さ」が解る人には駄目人間の素質がある。と言つてみる。福田さんが指摘してゐたけれども、啄木の歌は視覺的・具體的で、讀むと情景が目に浮かぶのだけれども、そこにある詩的な情緒を感得するには矢張り、或種の知識・經驗――或は、知識・經驗の缺如――が必要なのではないか。實務的・實用的である人間、常に責任を果し得る能力の持ち主は、啄木を讀んでも、精々「同情」が良い處で、それどころか、輕蔑的な感情をすら覺えるのではないか。逆に、自己の現状に開き直つて、居直り氣味の自信を持つた人物にも、啄木は理解すべき對象ではないやうに思はれるのではないか。無職でハロワ通ひをし、晝間から虹裏に書き込んでゐるやうなとしあきであつても、さう云ふ自己の立場に安定し得ない氣持を持つ者であれば、逆にそれなればこそ、啄木の自嘲の歌を讀んで、内心忸怩たる思ひを抱き、獨特の感興を得る事が出來るかと思ふ。サラリーマン川柳よりも、啄木の歌の方が、寧ろ現代的であり、切實である。
平成十六年七月九日
開高健や司馬遼太郎を褒めてゐる谷沢永一が、どうして保守派なのですか?
平成十六年七月九日
『わたしの昭和史』で、子供の頃「天ちゃん」と言つてゐた、と嬉しさうに書いてゐた西尾幹二が、どうして『国民の歴史』なんて本を眞面目に作りますか。
と言ふか、あんな分厚い本を西尾先生、御一人で御書きになつたのですか。さすがですね。
私が『国民の歴史』を書いたと言うことは「踏み絵」を踏まなかったということですよ。
そんな事、讀者が判斷する事だ。と揚げ足を取つて見る。
あと、「柵」の意識はない、とか言つてゐますね。
平成十六年七月九日
開高健『声の狩人』(岩波新書青版470)。文章はさすがに讀み易い。

平成十六年七月八日
田村書店が捨てる本を毎日囘收してゐると、机の上がいつぱいになる事が判つた。持歸り切れない。
平成十六年七月八日
「無料」で御持ち歸り結構の本でも、他の店に行けば一册百圓取られるのだから馬鹿に出來ない。
平成十六年七月八日
ガンダムエースの八月號を今頃になつて買つて來たのだが、讀める處がない。ガンダム漫畫を描いてゐる人は、どうしてこんなに説明的で下手糞な科白しかキャラクタに喋らせられませんか。
平成十六年七月八日
Zの劇場版には何も期待してゐない。
ガンダムエースを第二號以來、毎號買つてゐる人間が言つても説得力がないかも知れないが、俺、ガンダムつて嫌ひなんだ。ロボットだし。
ところで誰か、餘つてゐるガンダムエースの創刊號があつたら、御讓り願へませんか。
平成十六年七月八日
持歸つて來た川本茂雄『ことばとこころ』(岩波新書988)を少し讀んでみた。結構面白い。「文脈と理解」とか「日本語の明晰性」とか。

平成十六年七月七日
松岡正剛の千夜千冊『オデュッセイアー』(上下)ホメーロス
7月5日の時點で、千冊までついに1冊。七夕(新暦)の本日、千册到達。の筈。
平成十六年七月七日
みか先生の家のクーラーは修理されたのだらうか。
夜なのに暑い。
平成十六年七月七日
松岡氏のhttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html、千册に到達。titleが松岡正剛の千夜千冊『良寛全集』(上下)良寛に變つてゐる。titleが毎囘變るので、リンクを張る側としては非常に困る訣だが、それも終り。
かと思つたら、あと一册あるのだとか。ナボコフの「一ダース」と一緒で、一つ多い「千册」であるらしい。

平成十六年七月六日
窓の杜 - 【NEWS】IEの“フレーム詐称問題”はセキュリティ設定で回避可能
Operaの場合、Preferenceの「Page style」で、「Enable frames」のチェックを外したら何うかな?
Secunia - Multiple Browsers Frame Injection Vulnerability Test
Welcome to the MSDN Library、noframesが無いから、frame無效にしたOperaでは利用できないけれども。
平成十六年七月六日
適宜覚書: ハードディスクは壊れやすいものである
そのユーザ氏には、HP200LXでも勸めたら何うか。生産は最う可なり前に終了してゐるけれども。
hp 200lx
WindowsCEだの何だののにもハードディスクを搭載してゐない機械はあると思ふけれども、やつぱりDOSだよな。
平成十六年七月六日
公約とかマニフェストとかで選擧を戰ふのは結構だけれども、共産党とか公明党とかみたいに、自分逹の信奉するイデオロギーとか教義とかに一切觸れないまゝ、政治問題に關してそれつぽい「正論」を言つて良い顔をする、と云ふのも如何なものかと思はれるのだ。
平成十六年七月六日
Operaでframeを無效にしてゐたら、何箇所かの政黨サイトに入れないよ。
と云ふ訣で、dnozの政治リンク集を更新してみた。
平成十六年七月六日
今朝の讀賣新聞で、漢字制限推進派の野村雅昭氏が今囘の人名用漢字の改定案について、コメントしてゐた。
文部科學省と法務省とに管轄が分かれてゐる事を批判してゐたのは正論で贊成出來る。
しかし、漢字が使へないのは言葉を使へない事ではない、現状、「苺」と名附けるのは駄目だが、「いちご」と名附ければ良いぢやないか、何の問題もない、とか言つてゐたのには、俺は反對。大反對。
平成十六年七月六日
めも。
敗戦後の日本語改革論争とナショナリズム
平成十六年七月六日
めも。
<国際派時事コラム>日本史にほしい「産業史」の切り口
平成十六年七月六日
めも。
東条内閣
東条内閣の国語政策に抵抗した神道人
平成十六年七月六日
めも。
小熊英二研究プロジェクトI 最終レポート
平成十六年七月六日
めも。
俳句のこと3
平成十六年七月六日
めも。
サクラメカニクス:■<人名漢字>戦後最大の見直し案
平成十六年七月六日
目安等と言つても「常用漢字表」は「ある」時點で漢字制限の根據とされる。だから「常用漢字表」は廢止されなければならない。或漢字が「平易」か何うか、吟味されなければならない、と云ふ事が、それ自體、をかしい。

平成十六年七月五日
中央公論(第四十七年第十二號)附録『リットン報告書』(中央公論社)
平成十六年七月五日
<<XEBEC掲示板>>が早速非道い事に。
せんせいのお時間の後番組・蒼穹のファフナー、茲まで評判がアレだと却つて切れなくなつた。と言ふか、まだ本篇觀てない。
XEBEC's Page - Entrance
せんせいのお時間打切つて、代りに駄目なのをやったら、叩かれるに決つてゐるよな。
平成十六年七月五日
と言ふか、ファフナーやるために、もともと全二十六話の豫定のせんせいのお時間が全十三話になつたのですか? ファフナー殺す。

平成十六年七月四日
この手の投票つて、結局、番組の人氣投票になるのだが。
なんくるないさぁ〜(´ー`): 2004年上半期アニソンランキング結果発表♪
しかも個人サイトだし。
平成十六年七月四日
で、番組改編期にデジタル放送導入が間に合つたので、早速録畫豫約を入れ捲つてゐる訣だが。
番組情報その他のデータのダウンロードとかチャンネルの切換とかが一々遲い。畫質は以前に比べれば大分良い。
取敢ず、家電的な操作性は何とかして貰ひたい。今は最う、家電的發想で操作性を良くする、と云ふ時代ではないよ。システムが家電と懸離れてゐるのだから。
平成十六年七月四日
新書マップ〜テーマで探す新書ガイド〜
かっこいいインタフェース。らしいのだが、PlugInを無效にしたOperaでは何も閲覽できない。

平成十六年七月三日
いろいろと話題の。
ペプシブルーを混ぜてみました。混ぜ混ぜ
平成十六年七月三日
左手人差指の古創が突然痛みだしたのだけれども、天變地異の前觸れかな?
創の原因はGateway2000。俺に害をなしたものは全て報復を受ける。
平成十六年七月三日
blogのメニューの配置に關する議論の好い加減なリンク集。
http://404.junkwork.net/archives/000459.html
http://box.elsia.net/~blog/archive/2004/06/27/#id1088343912
http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20040701
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20040628
http://d.hatena.ne.jp/namnchichi/20040628#p4
http://seorg24.web.infoseek.co.jp/blog/archives/200403/02-2232sidobarside.html
http://sho.tdiary.net/20040625.html#p03
http://smbd.jp/diary/20040625.html#p06
http://svslab.jp/0x0a/20040623.html#p02
http://svslab.jp/0x0a/20040626.html#p02
http://svslab.jp/0x0a/20040627.html#p01
http://ud037.are.ous.ac.jp/d200406.htm#623
http://www.persistent.org/hiki/hiki.cgi?cmd=view&p=UI%A5%D7%A5%C1%A5%AB%A5%B9%A5%BF%A5%DE%A5%A4%A5%BA&key=UI%A5%D7%A5%C1%A5%AB%A5%B9%A5%BF%A5%DE%A5%A4%A5%BA
blogの記事にリンクを張る時のアンカーの内容、どうやつて決定すれば良いのだ? 言歸正傳。
取敢ず、何でもかんでも「一ページ」に詰込む今のblogのスタイルは何うかと思ふ。

平成十六年七月二日
録畫しておいた可なり前のせんせいのお時間を見返してゐたらこんな時間になつてしまつたのだけれども、何度觀ても面白いなー。
平成十六年七月二日
堀米庸三『歴史と人間』(NHKブックスr32)讀了。
堀米氏の結論を端的に言ふ。歴史とは、或種の假説に據つて現實を割切りつつも、省略された事實を閑却するのではなく、逆に、それを含めた全體の存在を示唆し、讀者にそれをまざまざと疑似體驗させるものである。
共産主義の「信徒」が冒した過ちは、學問の方法と價値觀・世界觀とを混同した事にある、と著者は指摘する。しかし、この當り前と言へば當り前の指摘は、現在の社會科學の世界において、依然、有效である。
唯物史觀に立脚した歴史家の、スターリン批判以後、「昭和史」論爭以後の自己批判を紹介し、それに對する自由主義の立場からの批判を加へた書物として、共産主義を理解する爲にも參考になるだらうと思はれる。ソ聯崩潰以來、單純な共産主義排斥と、形を變へて生延びた唯物史觀以來の「單線主義」的な現代の社會主義と云ふ大きな二潮流が出現し、今も兩者のドグマ的な對立が續いてゐる。そのやうな現代に於て、かう云ふ共産主義全盛期直後に出たやうな本の方が、思想的には却つて公正な内容となつてゐるやうに思はれる。
本書は、『昭和史』論爭及びスターリン批判以後に出現した歴史家の意見を比較・檢討し、古典的な道徳的・教訓的歴史觀や、單なる實證主義を超えた人文科學としてのあるべき歴史學の姿を追求した、優れた歴史哲學の書物である。また、歴史における主觀・客觀の問題について論じてゐる點、例へば岡田英弘氏の著作と比較しながら讀むのも良いだらう。おすすめ。
平成十六年七月二日
で、フリーダム展。某氏が文句を言ひさうな棚の排列だが、俺は、客の態度が問題であつて、棚の問題ではないだらうと思ふ。
『世界思想教養全集18ウェーバーの思想』(河出書房新社)
堀米庸三『紀行と随想』(近藤出版社)
宇野精一編著『孫文から李登輝ヘ 日華八十年の奇蹟』(早稲田出版)
林健太郎『共産国 東と西』(新潮社)
『チェーホフ-ゴーリキイ往復書簡』(和光社)
高田保『ブラリひょうたん』(創元社)
平成十六年七月二日
お月樣。

平成十六年七月一日
取敢ず過去帖送り。
平成十六年七月一日
南青山の本屋さんの話は買つた方がよろしいのでせうか。
平成十六年七月一日
忘却の旋律、先々週の放送分、録畫したデータをチェックしたら、後半が切れてゐるのに氣附いたのだけれども。切つてしまつて良いですか。
平成十六年七月一日
今川さんの鉄人、一囘録り損ねてゐるのだけれども、切つてしまつて(略)
平成十六年七月一日
【楽天市場】サーチ結果 - orz
【楽天市場】ミニカーとF1の店FORZA:ミニカー、F1グッズ多数取り扱ってます。実際のお店並みの品揃え!
平成十六年七月一日
Beyond validation - Quality Web Tips
The W3C Markup Validation Service
平成十六年七月一日
めも。
New
例によつてtitleが腐つてゐるがあにめ新番組一覽表。
平成十六年七月一日
月下美人が咲いた。その一。
月下美人が咲いた。その二。

關聯リソース

前の記事
日記バックナンバー
2004年6月
「闇黒日記」の關聯サイト
nozaki directory project
言葉 言葉 言葉
PC Tips
櫻花さん番外地
inserted by FC2 system