常用漢字以外の漢字の使用について,次の二つの考え方を示し,どちらの考えに近いかを尋ねた。結果は以下のとおり。
- 常用漢字表にない漢字であっても,積極的に使っていくべきである
- 難しい漢字も使われるようになるので,余り望ましいことではない
「檄(げき)を飛ばす」「姑息(こそく)」「憮然(ぶぜん)」は,7割が本来とは異なる意味で理解の部分を用ゐてゐた。讀賣は、スポーツ面で屡々「ゲキを飛ばす」の誤用をやらかしてゐる新聞である。
明治時代の宗教について何か書いてみませんかと藪から棒に言つて來る編集者は「善い編集者」であると書いてゐる。
半分しか私(清水氏)のものでないから收録されてゐないが、例外が二篇だけある、それは「内灘」と「今こそ国会へ」である、「内灘」は社会党から睨まれる原因となつた、「今こそ国会へ」は共産党から非難されるきつかけとなつた、と書いてゐる。氏が關係した「平和問題談話会」については、
この集団には、さまざまな――敢えて言えば、右から左まで――立場のインテリが参加していた、と述べてゐる。
二十四篇の文章は、長い期間に亙っているため、仮名遣いや句読点などがいろいろと異なっているが、最小限度の整理は除いて敢えて統一を試みなかった、と書いてゐるにもかかはらず、戰前の文章は「現代かなづかい」に改められてゐる。
彼(清水幾太郎)は今、南方灼熱の地に元氣に働いてゐる。彼の留守中この評論集を世に贈る事が出來たのは、私逹のよき友である福田恆存氏、財前康昌氏、三谷昭氏の御助力に依るものであり、私逹はここに三氏に對して厚く御禮申し上げる。
《藝術と文明》といつても、それは兩者の相關關係について解説したわけではありません。《藝術と文明》といふ副題の眞意は、現代文明に抵抗を感ずる藝術の危機といふことにあります。今日、藝術の本質を――いひかへれば、藝術とはなにかを――語らうとするならば、さういふ角度から語る以外に方法はないと、ぼくはおもつてゐます。ひとつの藝術作品の美について語りあひ、その感動をわけあふためにも、あらかじめこれだけの地盤を設定しておく必要があるとおもつてをります。そして、一度それができあがりさへすれば、それこそあとは一行でことたりるでせうし、あるひは無言のうちに共感が成立するでありませう。すなはち、藝術とはなにかなどといふやぼな問ひも答へも不必要になるのです。
旧著『和泉式部』と同じく、この本も、本文は新かな、「あとがき」は旧かなといふ体裁で出る。そのわけは次のやうである。
最初編集されたこの本の原稿に当る雑誌切抜きは、その大部分が雑誌社の手で、新かなで組まれてゐた。旧かなを新かなに直すにはあまり間違ひは起らないが、その逆は実に多くの訂正不足の誤植を残す。そのためすべて新かなで統一することにきめたのだが、あとから補足した分は、逆に殆どすべて旧かなで印刷されてゐた。はじめから今の内容で原稿をととのへれば、かなづかひは大体新旧半々だつたらうと思ふ。もしさうだつたら僕は、本文も全部旧かなで統一する方向を選んだことだらう。
今書いても詮ないことだが、僕の文章を旧かなで組んでくれた人々への挨拶のつもりで付加へておく。
源氏名は良かつたね。
文録具とか
輪区とか
電網とかの宛て字には感心しないが。
ところでSDIにできますか? でーきーまーすーかー?できますよ一往。
従来はWebブラウザーの表示スタイルとしてSDI/MDIの2種類を「Opera」起動時に選択する方式だったが、v7.00では基本的にMDIスタイルのタブ切り替え型Webブラウザーとして動作するようになった。ただし、任意のタブを「Opera」ウィンドウの外側へドラッグ&ドロップすることで、そのタブをSDIスタイルの独立ウィンドウに分離することが可能。
- Open new page: Ctrl+N in MDI, Ctrl+Shift+N in SDI.
- Open new window: Ctrl+Alt+N in MDI, Ctrl+N in SDI.
- Close page: Ctrl+W. Closing last page in SDI closes Opera.
- Close (application) window: Ctrl+Shift+W in MDI, Ctrl+W in SDI.
戦った人はたれもかれも一律に悪人である、と云ふ風に考へられてゐた。日本軍を罵る事は、當時は正義だつた。後には、「一般の兵隊は、軍部に騙されて戰爭をさせられてゐた」と云ふ話になつて行くのだが、當時はもつとストレートに「戰つた主體である兵隊は惡人である」とされてゐた。
戦死した人の冥福を祈るような気持は、新聞や雑誌にはさっぱり出なかつたのも當然の事だつたし、
義務を守って命をおとした人たちのせめてもの鎮魂をねがうことですらも
逆コースであつた。「ビルマの竪琴」は、さう云ふ時代に世に出た作品である。G.H.Qの檢閲で、當初は
戦争をあつかってあるとして掲載不許可となり、その後、第一囘の掲載許可は降りたが、續きは完結してから全文を調べて、それで許可を出すか出さないかを決める、と云ふ話になつた、と言ふ。
この章の主な分析は、女性の「母性」についてなのだけれども、私が今回読んでて面白いと思ったのが、「セックスは通路であります」という一文。このとき福田の頭に意識的にだろうと無意識的にだろうと存在していたイメージは、おそらく膣だろうと思う。
エリオットの選んだ道は、ふたたび神とつながることである。
わが國における學問發達の近状は、新しい分野の開拓にしても、新しい部門の樹立にしても、その開拓や樹立に對する發見の興奮から、他の分野や部門に對する感情的否定に傾き、獨尊孤立の弊に陷り易い。しかも、それが妥協を排し、批判を嚴正にしていく態度であるかのような誤信に墮してさえいる。そうして、それが、何か意義のある闘争であるとまで思いこんでいる。しかし、それは、個人的主觀的な興奮であつて、眞の批判でもなければ、眞理を目ざしての闘争でもない。われわれは、むしろ、そういう個人的主觀的興奮を克服して冷靜に歸り、肯定否定を客觀的に嚴正にし、盲目的にすべてを排撃し否定する破壞の代りに、明らかにそれぞれを批判し定位する建設を意圖すべきであろうとおもう。日本文藝學の建設を、統一・調和の名においてする妥協苟合に墮せしめないとともに、それの裏返しにすぎない獨善排他の弊に陷らせないためには、何よりも、まず、批判の客觀的基準の發見につとめ、それに基づく諸部門の定位が必要である。
このコメントに対する、委員の一人からの反論には驚いた。The Chicago Manual of Styleに欧文のワード・スペースは全角の1/3が標準だと書いてある、というのである。編集者向けのガイドブックとして長年にわたって定評のあるThe Chicago Manual of Styleに書いてあることは、正しいという理屈である。これでは、まったく反論になっていないではないか。なぜThe Chicago Manual of Styleはそのように書いているのかを説明していただきたいものだと思ったが、それ以上の説明はその委員から聞き出せなかった。
無断引用無断転載はもちろん禁止です。と曰ふ篠田真由美氏(@ 木工房 風来舎HOME)の「DIARY」(http://www.aa.alpha-net.ne.jp/furaisya/shinodadiary.html)より。著作權法で無斷引用は當然の權利として認められてゐるので當然のやうに無斷でリンクを張るし無斷で引用する。と言ふか事實の報道ならば、引用も何もそれ以前に事實そのものに著作權が存在しない。また、上の
無断引用云々の「引用」文については、創作性が全く認められないから矢張り著作權は存在しない(據つてこれを「引用」と言へるか何うかも不明)。リンク云々については、篠田氏は訴へたければ訴へ玉へ。何で訴へるんだ? リンクを張るのは自由云々(dnoz : nozaki directory project 特記事項/「言葉 言葉 言葉」へのリンクについて)。閑話休題。
大岡昇平ほど論理的な文體を以て小説を書いた作家は日本にはいない。まずその特徴は定言命題が多いということだ。と述べてゐる。そして、
定言命題の效果は書かれてある内容がいやおうない事實であるという安心感をあたえる、と指摘してゐる。その後、續けて、大岡の作品における論理的な文體の幾つかの效果を説明してゐる。
終戦後の国語政策の実施は国語の形式面や素材面の改革でした。国語そのものをいっそう正しく美しく正確にする仕事はこれからです。ところが、この形式面・素材面の改革にさえ、威勢良く国語問題を評論のたねにしているひとにぎりの人たちは大反対をとなえています。そして、インボウだとかウソツキだとか独裁だとかの”感情的なコトバ”をいとも手軽に投げかけています。(「インボウ」「ウソツキ」は原文のママ)等と言ひ、漢字制限でありそれ以上使つてはならないとするものであつた「当用漢字」について
これだけはぜひしっかり教えてもらいたいという漢字を一、八五〇字にきめ、この漢字で文章を書けば国民としてはいちおう読めるようになっているという基準等と解説してゐる。もしその解説が事實であれば、わざわざ「目安」などと宣言した上で「常用漢字」を制定したりはしなかつただらう。
解答者の選択は文芸家協会が適当だと思う人をきめたのですから、客観性にとぼしいのです。それでも、とにかく認めているのが七七パーセントです。と要約する。これが福田恆存氏に批判を浴びた惡名高い數字の詐術である。
やむを得ないものとして認めるとは、「認めたくはないが已むを得ない」の意であり、實質的な反對である。それを恰も贊成してゐるかのやうに平井氏は言つてゐる。
人名用漢字見直し案に関するアンケート、結果発表!
私が『国民の歴史』を書いたと言うことは「踏み絵」を踏まなかったということですよ。
千冊までついに1冊。七夕(新暦)の本日、千册到達。の筈。
松岡正剛の千夜千冊『良寛全集』(上下)良寛に變つてゐる。titleが毎囘變るので、リンクを張る側としては非常に困る訣だが、それも終り。
東条内閣の国語政策に抵抗した神道人
目安等と言つても「常用漢字表」は「ある」時點で漢字制限の根據とされる。だから「常用漢字表」は廢止されなければならない。或漢字が「平易」か何うか、吟味されなければならない、と云ふ事が、それ自體、をかしい。
かっこいいインタフェース。らしいのだが、PlugInを無效にしたOperaでは何も閲覽できない。