闇黒日記

平成十六年六月三十日
近鉄球団買収交渉に関する記者会見(要livedoor ID/要ログイン)
近鐵球團買收に動いた、との事で話題のライブドア。なんで無料プロバイダが? 云々と言はれてゐたりしますけれども、今のライブドアは、もとエッジですよ(2004年2月に社名變更)。エッジはかのPRO-G<プロジー>の親會社。プロジーは、もともとトランスウェアが扱つてゐたOperaの日本國内での販賣權を取つてしまつた會社(Opera 7.5以降)。
平成十六年六月三十日
とつぜんアンケート。公職選挙法を最初から最後まできちんと讀んだ事がある人。擧手。
公職選挙法
俺は讀んでゐない。

平成十六年六月二十九日
「謎」とは言つてゐるけれどもクエリはクエリなのだし、クエリ附きで要求されたリソースが、クエリなしで要求された時に送出すべきリソースと別に存在しても不思議ではない。
平成十六年六月二十九日
http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20040607
http://www.lcv.ne.jp/~denori/diary/diary0406.htm#D040608
「中身がない見出しが存在する」とか。
平成十六年六月二十九日
櫻花さん更新。
せんせいのお時間の影響が露骨だな。

平成十六年六月二十八日
せんせいのお時間終つたけれども、色々な意味で微妙だ。色々な理由で意圖は解るが。あと1クール續くのなら今のノリは正しいのかも知れないがー。ここで終りは色々と拙いだらう。取敢ずDVD待ち。
平成十六年六月二十八日
その「國學院雜誌」昭和三年二月號に、かの保科孝一が「國語教育の使命と教法の研究」と云ふ文章を寄せてゐる。
内容は、國語科の授業では無駄の多い教授法が漫然と行はれてゐる事が多い、その無駄を省け、と云ふもの。保科氏は「實用」と云ふ事を頻りに言つてゐる。本論では、保科氏の「實用」説はそれなりに妥當。
しかし、國學院は、國字改革派で、假名遣表音化の急先鋒であつた保科氏を、警戒すべきではなかつたか。
平成十六年六月二十八日
「國學院雜誌」昭和十六年七月號の編緝後記に以下のやうな記述がある。

聖戰第四周年、七月七日を迎へて、感慨そゞろに新たなるものがある。思へば滿洲事變以來、國の内外の新體制、着々その軌道に乘り、日本的なるものゝ探究は熾烈を極めるに至つた。只熱し易く、冷め易い一面を有すると考へられる民族性を思ふ時、今こそ不退轉の勇猛心の必要が痛感せられると同時に、時局に便乘せんとする徒の續出せんことを憂ひ恐れるのである。


最近一部に假名遣問題をめぐつて、この種の便乘主義者の策動蠢動あるを聞くことは、誠に悲しむべきことであると思ふ。


昭和六年九月、十月、十一月、十二月の四號に亙つて、本誌がこの假名遣問題を取上げ、各方面の權威の説を網羅し、世の反省を促して正に十年、今又かゝる輕擧妄動者、單視眼者流の爲に、起たねばならなくなつたことは、思へば遺憾の極みである。

云々。

平成十六年六月二十八日
割田報告
平成十六年六月二十八日
小熊研究会プレゼン(仮)・『「国語」という思想』
平成十六年六月二十八日
「國語」と「國語政策」とが常に混合して論じられてゐる事。
國語問題に關する「改革派」「保守派」が、政治上の「改革派」「保守派」と、屡々混同して論じられてゐる事。
平成十六年六月二十八日
堀米庸三氏は『歴史と人間』(NHKブックス32)の四章「昭和史論争の歴史的背景と論争の展開」の中で、歴史における客觀性と主観性の問題に觸れて、尾藤正英氏の「歴史における思想――思想史の方法に関する一試論――」を紹介しつゝ、同書136ページで以下のやうに述べてゐる。

ここでさきほどの家永(三郎)氏の批判にかえるのですが、尾藤氏によれば、家永氏は津田(左右吉)氏の立場を基本的に継承しているばかりでなく、津田氏とは違った実践的関心をもっているために、氏による津田氏の主観性容認は一層強烈な主観性の主張となってあらわれるとします。たとえば家永氏が「私たちは犬のように鋭敏な嗅覚をはたらかせて、価値のかぎ分けに努力しなければならない」、「実践的関心から企てられる思想史において、否定せらるべきものと継承せらるべきものとの鑑別はきわめて重要である」というとき、尾藤氏は「研究の過程にこのような主観的価値判断をはたらかせた場合、その結果について、家永氏はどのようにして学問的な客観性を保証しようとするのであろうか」と危倶の念を表明するのです。尾藤氏の危倶を私なりにパラフレーズすれば、それは歴史的価値判断と主観的価値評価の混乱ということになろうかと思います。つまり歴史的な価値判断、換言すれば歴史的重要性の評価と、ある思想が進歩的であるか反動的であるか、または判断を行なう歴史家の主張にとって正しいか正しくないかは、別個の次元にぞくする事柄であり、混同されてはならないということであります。

平成十六年六月二十八日
XML parsing failed: xml processing instruction not at start of external entity (Line: 2, Character: 0)
エラーメッセージがValid XHTML 1.1なのは結構ですが、肝腎の中身が見られません。Opera 7.xが惡いのですか?
平成十六年六月二十八日
藤山さんは、何でまた、又吉イエスなんかを應援してゐるのかと。
平成十六年六月二十八日
「トンデモ」系のサイトでは闇黒CSS及びその派生CSSの使用を禁ず、とか言つてみるテスト。

平成十六年六月二十七日
未だにサイトの構成が全く理解できない妖精現実 フェアリアルの記事より。なぜかIDを含めたURLでないと特定の記事にリンクを張れないやうなのだが。
BMP外のJIS第3・第4水準漢字 - faireal]の「CJK Extension B上のJIS第3〜第4水準の漢字303」
平成十六年六月二十七日
d-s-j: ブログ正統派
うちはブログではないから。
個人の誹謗・中傷・非難はしない、つて、そんなのブログに限らず當り前の話だらう。ただ、「誹謗」「中傷」のやうなレッテルを「自分に都合の惡い事」を言ふ人には例外ナシに貼つてしまひ、正しい批判まで封殺するやうな事は止めて貰ひたい。
他人のサイトに迷惑を掛けないの例として、「喧嘩を売らない」「迷惑コメントをしない」「相手を負かす目的の反論をしない」を擧げてゐるが、これはをかしい。自分がやられたら困ることをしないという常識的なものです。と筆者は書いてゐるが、間違ひにつつこまれ事を「困ること」だと極附けるのは、何うかと思ふ。要は「論爭を避けたい」と云ふのが本音だらう。「ブログの正統は馴れ合いである」とでも言ひたいのだらうか。
で、「ブログ正統派」のURLはd-s-j。例によつてtitleが腐つてゐる。
平成十六年六月二十七日
餘所樣を批判して何が惡いか。
自分が正しいと思ふから批判をするのであり、「勝ちに行く」のは當り前。
理由を擧げてするから批判であり、問題はその理由が正しいか何うかにある。批判であるならば、夫れ自體は何ら問題は無いのであつて、批判である事を問題視してはならない。
論爭では、勝ちに行つて構はない。が、自己の主張の根據が問題であり、それが崩されたら引き下がるべき。そこで勝ちに固執すれば叩かれても仕方がない。
平成十六年六月二十七日
で、例のさとみかん問題。技術的には問題ないと云ふ事なので、引き下がる。
平成十六年六月二十七日
例の「謎クエリ」つきのURLでリソースを要求された時、サーヴァは414 Request-URI Too Longを返してはいけないかな?
平成十六年六月二十七日
又吉イエスを應援してゐる白光日記は、白光真宏会と何か關係でもあるのかねえ。
平成十六年六月二十七日
@NetHomeが勝手にとつてゐるアクセスログ。先月分(一部)。
200405accesslog.txt
平成十六年六月二十七日
今月は、時節柄、「梅雨」に關する記事が人氣の模樣。それと人名用漢字關聯。小説の書き方のあれは先月からの勢ひがまだ多少殘つてゐるやうだ。

平成十六年六月二十六日
Google 検索: 怒りのページ
平成十六年六月二十六日
めも。
数式エディタTIPS
平成十六年六月二十六日
数式エディタのサイトでも作らうかと突然思ひ立つて、Wordを起動し、[挿入]-[オブジェクト]で「マイクロソフト 数式 3.0」を擇んで数式エディタを立上げ、ヘルプを見たり、適當に数式を作つてみたりしたあと、[Esc]でWord畫面に戻つて、そこで氣附いたのだが、オブジェクトはインラインで插入される。
Word文書の中にWord文書のオブジェクトを貼り込む事も出來る。
HTMLのobject要素の仕樣は、現状のままで正しい。
なほ、Wordでは、なぜかウイルスバスターOn-Line Scanがオブジェクトとして貼り込めるやうに表示される。のだが、實際に貼り込んでみると、ライヴアップデートに失敗とかエラーメッセージを出して、うまく行かない。適當に弄つてゐたら、そのうちWordを卷込んで落ちて呉れた。ただし、うちのWordは98。今のヴァージョンで何うかは知らない。
ワードパッドでは、常識的なオブジェクトしか插入出來ないやうになつてゐる。

平成十六年六月二十五日

ヴィトゲンシュタインの生活と人格について沢山の根拠のない伝説があったように、かれの弟子たちの間にもきわめて不健全な派閥主義が現われてきた。これがヴィトゲンシュタインをひどく苦しめることになる。かれは、自分の教師としての影響力が、全体として、弟子たちの独立心の涵養に有害であると考えた。残念ながら、わたくしは、かれが正しかったと思う。わたくしは、なぜかれの影響力が有害にならざるを得なかったかを、少しは理解できると思う。それは、かれの考え方の深さと独創性のために、かれの思想を理解することがきわめてむずかしく、まして、かれの思想を自分自身の考えに組み入れることなど更に困難であったからである。同時に、かれのパーソナリティとスタイルは、もっとも魅力的で説得力があった。かれの表現形式やきまり文句を使うようになったり、さらにはかれの声の調子とか物腰とか身ぶりとかを真似するようになったりすることなしに、かれの下で勉強することはまず不可能であった。その危険は、思想が堕落してコトバの遊戯になってしまうことであった。偉大な人間の教えは、しばしば単純さと自然さをそなえていて、むずかしいことがやさしく把握できるように見えるものである。それゆえ、その弟子たちは通常とるに足らない模倣者になってしまう。偉大な人間の歴史的な意味は、その弟子たちによって明らかになるのではなく、もっと間接的で微妙な、しかも往々にして予期できないたぐいの影響を介して明らかになるものなのである。

ヴィトゲンシュタインのもっとも著しい特性は、かれの偉大にして純粋な真剣さと、その強力な知性であった。この二つの点に関して、わたくしは、かれほど強い感銘を与えてくれた人に出会ったことがない。

思うに、真剣な性格には二つの形態がある。一つは「強固な原理」に立脚しているもの、もう一つは情熱的な心情から生まれてくるものである。前者は道徳的であり、後者は、思うに、宗教に近い。ヴィトゲンシュタインは、鋭敏で苦しいほどに義務というものに対して敏感な人であったが、かれの人格のまじめさと厳しさは、第二の種類に近かった。けれども、かれが世間並み以上の意味で「宗教的」であったと言えるかどうか、わたくしにはわからない。かれがキリスト教の信仰をもっていなかったことは確かである。しかし、かれの人生観はゲーテの場合のように非キリスト教的ないし異教的なものではなかった。ヴィトゲンシュタインが汎神論者でなかったと述べることは、重要なことを述べることであろう。かれは「神は世界の中では自身を啓示しない」と『論考』の中で書いている。神について考えることは、とくにかれにとっては、恐ろしい審判について考えることだったのである。

平成十六年六月二十五日
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2004/06.html#d25n04
デメリット――「さとみかん」のデータ量が増える。表示に時間がかかる。
データ量の問題ばかりではない。數字を附加する處理、ブラウザを判別する處理、ブラウザごとに行はれる何某の處理――「さとみかん」はそのやうな處理を多數行つてゐるが――さう云ふ處理には時間がかかる。
「謎クエリ」が、ある場合よりも、ない場合の方が、表示されるまでに、かかる時間が短縮される事は間違ひない。「親切」はありがたいが、それよりも、當方としては、一秒でも早くデータを渡して貰へる方が嬉しい。私は時間を無駄にしたくない。
「既讀か未讀かが判る」と云ふ「メリット」については、そもそもアンテナなのだから「上」の方が未讀なのに決つてゐる。とにかく早くデータを貰へれば、後はこちらで判斷する。
それから、Mozilla、Mozillaつて言ふけれども、Mozillaなんて重いブラウザは使つてゐられないし。
平成十六年六月二十五日
窓の杜 - 【NEWS】画像ビューワー「GV」が4年ぶりにバージョンアップし再びGIF画像表示が可能に
なつかしいプログラムがヴァージョンアップ。私は0.85をずつと使つてゐますが。
さらに、表示中の画像を壁紙に設定することもできようになった。つて、前から出來たよ? 画面全体に拡大して壁紙表示する機能を追加。が正解。壁紙に表示するとき、事前の壁紙が拡大して表示されているとおかしくなるバグをFIX。助かる。
平成十六年六月二十五日
『論語』「爲政第二」に、子曰、攻乎異端、斯害也已、とある。
澁澤榮一は「異端をせめるのは」と讀んでゐるさうだが、これは「攻める」の誤讀。「攻める」は「をさめる」で「研究する」の意。
宮崎市定は「新しい流行の眞似をするのは」と譯してゐるが、これは譯し過ぎ。
吉川幸次郎は、普通は「異端の説を研究することは」と解するが、「異端」なる語は用例が他に見えず意味を確定し難い、よつて、「もっとも慎重な態度をとれば、この条の本来の意味は、わからない」と述べてゐる。
ただ、いかにも怪しい「トンデモ」學説や怪しい人物の言ふ事を面白がつたり信じたりするのは有害であり、全うな學問をやるのは有益である、と云ふ事は、確かな事である、と言つてよろしからう。
平成十六年六月二十五日
今囘もまた棚の配置に某氏がまた文句を言ふのだらうが、手荷物預かり所を何うにかして貰ひたい古書會館の古書展。
潁原退藏『風雅の道』七丈書院
正宗白鳥『文學修行』三笠書房現代叢書13(多分ダブり)
ジイド・アラン・ヴァレリイ『最近の文藝思想』三笠書房
志水速雄『ペテルブルグの夢想家』中央公論社
大類伸『列強現勢史 ロシヤ』戰前版冨山房百科文庫30
リデル・ハート『世界大戰――その戰略』戰前版冨山房百科文庫80
山岸光宣他譯『ドイツ戰話集』戰前版冨山房百科文庫90

平成十六年六月二十四日
國語問題協議會 表紙
關聯電網核つて、何語なのだらう……。
平成十六年六月二十四日
IEでページを印刷する際、意図せずに500枚以上印刷してしまう不具合
この問題は、TABLE要素に記述される内容が原因。
明かにレンダラのバグだが、Internet Explorerに限らず、tableをきちんと扱へないブラウザはかなり多い。やうな氣がする。巨大なtableで整形されたサイトを印刷すると、行の上と下とが泣き別れになるとか、右側が印刷されないとか、そんな事はブラウザでは日常茶飯事だぜ。
あと、Microsoftは、Internet Explorerのレンダリングエンジンの不具合を、HTMLやCSS等の規格と照し合せて、全部きちんと究明し、公表すべきだ。
平成十六年六月二十四日
OperaにURLを偽装できる脆弱性が発見される
平成十六年六月二十四日
RobaQ's WorkShopの「RobaQ's Diary 200406」がOpera 7.51でもInternet Explorer 6 SP1でも見られないのだが、ブラウザの方が惡いと?
あと、さとみかんが餘計な?+數字を附けて呉れるので、リンクを張るのに一々URLからゴミを削らなければならない。面倒極まる。さとみちんは、なぜあんな意味のない數字を生成するやうにしてしまつたのだらう。
平成十六年六月二十四日
田村書店で岩波新書等を山のやうに貰つて來た。が、自宅に持ち歸つたのは取敢ず六册。殘りは机の上。
あと、スタンダール『エゴチズムの回想』(冨山房百科文庫四)を購入。
さらに、廢棄物の山の中からN.マルコム他『回想のヴィトゲンシュタイン』を囘收。
青版とか黄版とかのカヴァが附いてゐない頃の岩波新書、最う古本屋では値がつかないらしい。星が丘のブックセンターいとうでも、既に破毀されてゐます。T.K生だの何だのの本なんて、今更誰も買はうだなんて思ひやしないのでせうねえ。
俺もしないから、無料で貰つて來た訣だ。

平成十六年六月二十三日
Articles - HTML に関する記事
平成十六年六月二十三日
本日の拾ひ物。@ 田村。
渡辺一夫『ヴィリエ・ド・リラダン覺書』弘文堂書房 ※表紙破れ
伊吹武彦『人間像を索めて フランス文學覺書』カホリ書房
野田又夫『デカルト』西哲叢書VII 弘文堂書房
ジョンソン 吉田健一譯『シェイクスピア論』思索社 ※表紙缺
頼山陽『日本外史』岩波文庫 ※表紙破れ
本日の買物。@ 田村。
佐藤正彰譯『スタンダァル選集第七卷 囘想録ナポレオン』竹村書房
平成十六年六月二十三日
情報アクセシビリティJISの制定
「情報の利用者に事前に諒解を得れば、アクセシビリティを低くしても構はない」と云ふ規格だと讀んだ。取敢ず、こんな形で公開しても普及しないよ。
「トップページ」に「トップページ」へのリンクがあるかろかろ随想記 (2004年6月分)より。
で、同じところより。名古屋市でも繁華街での路上喫煙禁止条例の制定に向けて検討を始めているとのこと。云々。「火気厳禁」の場所ならば本人にとつて「危険」だから喫煙者も喫煙しようとしないが、路上では他人が危險なだけだから喫煙者は喫煙しようとするに決つてゐる。俺は、烟草の烟が嫌ひだが、一日の半分、空氣の惡い都心にゐて平然としてゐるくらゐだから、別段、肺の健康に神經質になつてゐる訣でもない。ぶつかれば熱いだらうし、昔、韓國人の路上喫煙者の攻撃を受けた事があるが、何うでも良いと言へば何うでも良い。
平成十六年六月二十三日
ところで、同一のHTML文書に複數idの振られたところがある時、何箇所かのidにリンクを張る場合、アンカーポイントとすべき文字列はそれぞれどのやうに決めれば良いだらうか。titleを機械的に持つて來る方式は、ダブるのでアクセシビリティ的に駄目だと言はれる訣だが、では、何うすれば良いのか。
平成十六年六月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20040610の「Re:途中に異なる見出しレベルを含んだ地の文章は有りだと思う」。
XHTML 2.0では、footer要素でも作つたら何うか。
平成十六年六月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20040623このJIS規格原案5.3hでは、ナビゲーションの前に、本文などへ直接ジャンプできるリンクを置くことを推奨しているらしい
XHTML 2.0では、head要素の中にメニュー生成の爲の要素を作つたら何うか。
平成十六年六月二十三日
はてなダイアリー - Hatena::agendaWeblogList- Web Studioのやうに「見出しに他所へのアンカーがある」パターンと、えむもじらCorner Valleyのやうに「見出しに自分自身或は過去ログの同じ内容の部分へのアンカーがある」パターンとが、世間では混在してゐるが、これも標準化できないか。
平成十六年六月二十三日
さとみかんでは、リンクを張る際、URL+?+ゴミの數字としてゐる。これは如何なものか。あと、何か「引用符を生成」とか、Operaのステータスバーに出るのだが何ですか。
平成十六年六月二十三日
「きもちわるい」を「きもい」と略すと、同じ原理で「きもちいい」を略せないから困る。
平成十六年六月二十三日
葛西伸哉『《X》の足音』
「ライトノベルとは何か?」と云ふ問ひは「SFとは何か?」と云ふ問ひに似てゐる。
ミステリは――と言ふと、「フーダニット」の一言で説明出來るのだが。

平成十六年六月二十二日
新宿展。
アーノルド・トインビー『失われた自由の国 現代アメリカ論』毎日新聞社
アーノルド・トインビー『東から西へ 世界一周旅行記』毎日新聞社
照屋佳男『イギリス文學に學ぶ 文學と政治』エイジ出版 ※ダブりを承知で購入。欲しい人に上げます。何らかの方法で野嵜まで聯絡して下さい。先着順。
西谷啓治『根源的主體性の哲學』弘文堂書店
『松村明教授古稀記念 国語研究論集』明治書院
平成十六年六月二十二日
『松村明教授古稀記念 国語研究論集』の卷末に、尾崎知光氏の報告「橋本進吉博士の『国語學史概説』の講義ノート」が收められてゐて、興味深い。博士は生前、殆ど著書を出してゐない。しかし、當時から講義録が出まはつてをり、それなりに讀まれてゐたらしい。戰後に出た著作集では、第九册・第十册に「國語學史概説」「近世國語學史」が入つてゐるが、昭和三・四年の講義で、契冲以前、契沖、益軒・白石、賀茂眞淵とその門下、の語學研究についての講義の記録であり、富士谷成章、宣長門下、幕末の國學者、國學者以外、の語學・國語研究については、内容の項目がメモの状態で載せられてゐるに過ぎない。筆者・尾崎氏は、元東京大學教養學部教授の金子武雄氏から寄贈を受けた昭和五年度「國語學概論」、昭和六年度「國語學史概説」、昭和七年度「國語法概論」「國語音聲史」のノートを所蔵する事を報告し、内容を簡單に紹介して、既刊の著作集では知られない橋本博士の學説を追求してゐる。孔版プリント版については、その存在の報告と、それらを通して橋本博士の國語學史の記述が次第に體系化されて行つた事の指摘とが、なされてゐる。
平成十六年六月二十二日
「橋本進吉博士の『国語學史概説』の講義ノート」は正假名遣で書かれてゐる。本論文に續いて收録されてゐるまつもと ひろたけ氏の「奄美諸方言の〜danaの用法おぼえがき」は、新かなだが、和語を全てひらがなとする特殊な表記で書かれてゐる。比較してみると面白い。「詞」に當る語であつてもひらがなを用ゐてゐる後者の文章は「甚だ讀み難い」やうに私には感じられた。
平成十六年六月二十二日
小人さんnormalを配布してゐるメイキング・オブ・花迷路 〜創作サイトのつくりかた〜メイキング・オブ・花迷路 【HTML工房】には、何箇所にも突込みを入れたくなつたのだが。
呆状記(2004-06-19)經由。と敢て書いてみる。
何うでも良いけれども私的な話。最近は創作意欲が全く湧かない。
平成十六年六月二十二日
○ご ま だ ん ご○
平成十六年六月二十二日
HTMLソースやCSSソースに著作権は発生するか?
ISO/IEC 15445:2000で規定に基いて記述された、階層化された單純なHTML文書の場合、ソース自體を比較すればどれも似たり寄つたりになるが、その場合、著作權の侵害とはならない筈。
某方面的に記述されたCSSの場合、意匠として權利が認められる筈。
一往、うちのサイトのスタイルシートについては、複製・流用されても當方は文句を言はない、と云ふ事にしてゐますので、御安心下さい。ただ、自分のものと言張つて、俺やその他の人に「盗用だ! 金払え!」のやうな事を言はなければ、の話ですが。所謂「闇黒スタイル」は、いろいろな意味でフリーで利用可としますが、野嵜の著作者人格權は放棄しません。
平成十六年六月二十二日
チャンネルガイド
愛知県の名古屋市を中心とするケーブルテレビ局スターキャット」の番組情報を提供するサイト。素晴らしい。
平成十六年六月二十二日
「虹裏・ちょっと遊ぶつもりがムンクさんとか御大とか」。
適宜覚書: 言葉の伝わりやすさ。別にとしあきだけを選別する積りは。

平成十六年六月二十一日
せんせいのお時間終つた。來週で御終ひですね。たつた十三話。早かつたですね。早過ぎですね。當初は二十六話の豫定で、放映されなかつた話はDVDに收録して發賣するとか云ふ噂。だから八月發賣なのですね。と云ふ訣で、購入決定。DVDなんて買ふの、Noir以來だよ。
どうせなのでせんせいのお時間風CSSでも作らうかと思つたが多分これは思つただけで終る。
平成十六年六月二十一日
法務省 戸籍統一文字情報 トップ
平成十六年六月二十一日
佐藤琢磨三位きたー。
ねます。
平成十六年六月二十一日
新宿展。
金田一京助『國語の變遷』ラジオ新書71
『貴族院における日本国憲法審議』社団法人尚友倶楽部
『貴族院における日本国憲法審議 橋本實斐委員メモ』社団法人尚友倶楽部
『憲資・総第46号 日本国憲法成立の経緯』憲法調査会事務局
『論集 日本文化の起源』「日本人種論」池田次郎編「言語学」大野晋編 平凡社
『切支丹文學集』(上下)朝日新聞社
アーノルド・トインビー『文明の実験 西洋のゆくえ』毎日新聞社
福原麟太郎『愚者の智慧』新潮社
某氏が毎囘文句を言つたり褒めたりしてゐる棚の配置は何うでも良いが、レジをもつとまともにしろと。金勘定がちやんとしてゐるのか何うか、毎囘不安で仕方がない。

平成十六年六月二十日
松岡正剛の千夜千冊『漢字の世界』1・2白川静

平成十六年六月十九日
http://d.hatena.ne.jp/namnchichi/20040618#p3
http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20040619
取敢ず俺、「論客」つて言葉、嫌ひなんだ。
平成十六年六月十九日
http://white.sakura.ne.jp/~piro/latest/2004/06.html#d19の「未知の世界を歩くリスクと責任」。
その事実の特殊性について、Mozillaを安易に他人に勧める「利用者」も「経営者」も「サポーター」も、不安定すぎて駄目だと罵る「消費者」も、あまりに無自覚すぎると僕は思う。
でもやつぱり、仕樣を固めないで行當りばつたりに開發を進める今のMozillaは良くないと思ふよ。取敢ず、Internet Explorerと戰へる物ではないよ。普及させてはいけないとすら思ふよ。
もちろん、開發が止まればプロジェクトは全體として死ぬ訣で、開發を止めろとは言はない。しかし、ただ開發を續ければ良いと云ふものでもないのではないかと。例の「何か」は、所謂オープンソースのプロジェクトではなかつたけれども、コミュニティの形成や周邊のディヴェロッパーの活動などなど、プロジェクトの進め方、普及に關して、樣々の教訓を殘してゐると思ふ。何時までも仕樣が固まらず、行當りばつたりに擴張を繰返し、ヴァージョンアップの度に動かなくなるGhostが續出、と云ふ「何か」は、しかし閑馬氏一人のプロジェクトであつたから或程度の我が儘が許され、それが一つの魅力となつてゐた事は事實であり、一方、集團で寄つてたかつて開發されてゐるMozillaではその場當り的である事は決して評價されべき事ではない。Mozillaは、どの方向に進んで行く積りなのか――その邊のところが甚だ不明確で、しかも現状、何だか變な方向にしか進んでゐないやうに思はれるのである。そこで「ならお前もプロジェクトに參加して、方向性を定める努力をしたら良いだらう」と云ふ話になるのだらうが、一人で開發してゐるプログラムならばともかく、オープンの場で開發されてゐるMozillaは、さうさう簡單に方針が決められるものではない。結局のところ、オープンソースのプロジェクトでは、船頭が多過ぎて舟が山へ登る、と云ふ諺を地で行く可能性があり、同時に、ちやんとした所へ行く可能性も無い訣ではないので、期待も捨てられない、と云ふディレンマがある。ただ、責任問題も曖昧になれば、方向性も曖昧になる、と云ふ、不安感が永遠に拭ひされないのが、オープンソースの世界の常である。ただ、その不安感と期待感とのどちらをとるか、と云ふ話になるのだらうが、面白がれる餘裕がある人はともかく、便利に使ひたいだけの人に、Mozillaのやうなプロジェクトは辛い。
ただ言へるのは、今のMozillaのプロジェクトが始まつて、もう――えーと、何年經つんだつけ。取敢ず、そろそろ厭きて來たと。
もじらの年表でも作つて見るかなー。
平成十六年六月十九日
Mozilla 開発ロードマップ
事の始まりは、1998年3月31日だつたつけ。
プログラム上の互換性維持の爲には1.4ブランチを使へ。最先端の技術を使ひたければトランクを使へ。
Gecko には、いまだに いびつな (baroque)部分があります。 その原因は、初期におけるデザインの制限と、中心的な問題をパッチで解決してきたためにコードが蓄積された事です。そして、Geckoは改良される餘地があり、改良する、と。
XULは捨てない、と。でも、XUL以外のフロントエンドも受容れる、と。
Seamonkeyのスイートは問題ありなのでブラウザやメールクライアント等は分離して開發すると。しかし、Seamonkeyも見捨てはしないと。
繰り返しますが、私たちはここで、ただ方向性を示しているだけです。と云ふ事。まだまだ先は長い事。
互換性を維持する爲に、「あれも、これも」状態になつてゐる事。プロジェクトが多岐に亙り、複雜になつてゐる事。
人的資源が足らない事。「參加すれば良い」けれども、「參加したくなる要素」「參加する事で得られる利益」がどれだけあるのか、不明な事。この點、「まづ参加」と言ふ「字数歌」の波江や「まず検証」と言ふ「英語(印欧語)の正体は漢字です!」の大和田に通ずるものがある。

平成十六年六月十八日
正直言つて、Mozillaみたいに、しよつちゆう仕樣が變るプログラムは、使ふ氣になれない。
http://white.sakura.ne.jp/~piro/latest/2004/06.html#d17
この拡張機能の対応バージョンはFirefoxの0.6から0.8+までですよ云々。
XULだの何だのは結構だけれども、どうせそのうち仕樣が變る、と云ふのでは「使へない」のですよ。
例の「何か」でもさうだつたけれども、プラットフォームが勝手にどんどん使用を變へて、ディヴェロッパやユーザはそれに追隨しなければならない――せつかくやつたカスタマイズや、せつかく作つたプラグイン、その他、が、すぐに使用できなくなる――と言ふのでは、プラットフォームの側の人間が「良いものを作る爲」だと主張しても、一般の人間にとつて安心して「使へない」「駄目な」プログラムでしかない。
Mozillaの關係者やユーザに「アンチマイクロソフト」の人がゐるかも知れないけれども、マイクロソフト製品では、基本的にデータの互換性がかなりとれてゐる。その點ではマイクロソフトを評價出來ると思ふ。例へば、Word 1.2Aで作つたデータでも、最新のWordで開ける、過去にWordBasicを捨ててVisualBasicを採用した、と云ふ「犯罪」をやつた事があるマイクロソフトを、必ずしも絶讃は出來ないのだけれども。
Mozillaは、プログラム自體として、仕樣變更が多過ぎて、擴張ツールを作るのも怖いし――そもそもカスタマイズやブックマークですらヴァージョンアップ時に繼承できない可能性があるのでは、話にならない。以前は、テーマを標準のものから變へてゐると、ヴァージョンアップしたあと、Mozillaが立上がらなくなる、と云ふどうしやうもない不具合があつた。私は以來、面倒の原因となるテーマの使用は避けて來た。そして、Mozillaそのものが面倒な代物に思へて來て、使ふ氣が失せてしまつた。
何年かかればMozillaは仕樣が固まるんだらうか。
で、この手の仕樣變更は、オープンソースのプログラムではやたらと多いやうに思はれる。メーカ製品でも、メーカがなくなつたり、開發・販賣元が變はつたりして信用出來ないものが最近は多い訣で、いつまでも使へる訣ではないのだが、毎日新しいテスト版が出るやうなオープンソースのプロジェクトのプログラムは、餘程好きな「追つかけ」の人でないととても使つてゐられない。仕事にはとても使へない。プログラムの見た目のカスタマイズが繼承されない程度ならばまだ良いが、例へば、ワープロで出力されたデータが、次の日には最う使へない、と云ふのでは話にならない訣で、仕樣變更が多いのは不安材料である。
平成十六年六月十八日
データの繼承と云ふ點では、メールクライアントの世界は最惡の状況にある。「他の製品からの乘換へ」には便利に出來てゐても、「他の製品への乘換へ」が矢鱈やり難いプログラムは良くある。
平成十六年六月十八日
データがバイナリだと、互換性は低くなる。
だから俺は、メールユーザエージェントを電信八号から別のものに乘換へる氣になれない。
平成十六年六月十八日
RDで録畫したデータをPCのDVD-MovieAlbumで切出さうとしたら、直でコピー出來なくて、再エンコしやがんの。
MPEGは、規格自體はきちんとしてゐる筈なのだが、データを扱ふプログラムの側にろくなものがないので、直であちこち持つて歩く事が出來なかつたりする。AVIでは、少しでもファイルが破損してゐると、再生そのものが出來なくなる。
平成十六年六月十八日
デジタルだとコピーしても劣化しない、なんて言はれてゐたけれども、MPEGで再エンコードすると畫室は、アナログ同樣、劣化する。そして、DivXだのWMV9だので壓縮しようとすると、アナログのコピーよりも時間がかかる。
VHSの二時間テープだと、三倍で30分番組を一クール分、收める事が出來る。DVD-RAMだと、RDでならば、それなりに見られる畫質では、一枚に30分番組を七話分しか收められない。一クールを保存するには、DVD×二枚が必要となる。畫質を落とせば、DVD×一枚に收められるが、それだとVHSを使ふのと變らない。
ファイル交換であにめや映畫をただで觀られると言ふけれども、結構大きなサイズになるのだから落とすだけで時間がかかるし、いろいろとリスクも大きい。ビデオで良いのならば、中古のお店には1本500圓程度から竝んでゐたりするし、割と多數のものが出囘つてゐるので、案外安く、コレクションできる。レーザーディスクも、ソフトもハードウェアも中古價格が暴落してゐるので、取敢ず觀る、と云ふのであれば、結構使へる。
今、技術は進歩したと言ふけれども、本當に便利になつたのかねえ。
平成十六年六月十八日
FlowerLounge: これであなたもプチ論客! 語った気になれるマジック・ワード集
  • 意味不明
  • 読みづらい
  • 説教口調
  • 漢字率が高い
  • 途中でコンピュータ用語や哲学用語が頻出する(ビジュアル系バンドの歌の歌詞に出てくる英語と同程度に意味不明)
  • ↑のあたりで論理の飛躍がある
  • オチはグダグダ。もしくは厭世的。自嘲もアリ
漢字率が高いの項だけ、仲間外れだと思ふが如何。
と言ふか、結局「意味不明」と言ひたいだけなのではないかと思ふが如何。
「揶揄的である」と云ふのも、現代的な「プチ論客」の條件だと思ふが如何。
平成十六年六月十八日
本日の買物。東京古書會館の古書展。
大島一彦『英国滞在記』旺史社
辰野隆編『近代日本の教養人』
柳田國男『妖怪談義』修道社現代選書
E.H.カー『革命の研究』社会思想研究会出版部
津田左右吉「日本上代史の研究』岩波書店
『近代日本の教養人』は、日夏耿之介博士華甲記念文集なのだと。
津田博士は本書の「まへがき」で、わたくしは近ごろ、できるだけシナもじを使はないようにしたいと思つてゐるし、またニホンの固有名詞はすべてカナで書くがよいと考へてもゐるが云々と語つてゐる。そして、この書の刊行についていろいろのおせわになつた、いはなみ書店のぬのかは かくざえもん氏、ならびに校正をおたのみした同店のにしじま くすを氏に、厚く御禮を申し上げる云々、結尾の署名として、りくちゅう ひらいずみ において つだ さうきちと書いてゐる。漢字率は低くなるが、個人的にかう云ふのは何うかと思ふ。一方で、津田氏は、假名遣改定には反對の立場だつた。その爲、現在に至るまで、津田氏を身内と考へる國語國字改革反對派の人が少くない。しかし、津田氏の意見は、例の高島俊男氏のそれともども、贊成いたしかねる。
『妖怪談義』は、ダブり臭いのだが、本棚の何處かに隠れてしまつてゐるので、確認出來ない。
平成十六年六月十八日
『ブラリひょうたん』「審査投票」で高田保が書いてゐる。

キング・イングリッシュとプレシデント・イングリッシュとを比べたら、プレシデントの方がずっと簡便だが、その簡便をもっと簡便にしたいと考えたプレシデントがあった。鼻眼鏡と虎狩りで有名なセオドール・ルーズヴェルトである。

動詞の語尾変化をみんなtの字だけつければよいことにしようという説など、相当共鳴者もあったのだそうだが遂に実現しなかった。言葉は生きもの、アメリカのような国でさえ簡便ということだけではどうにも動かせなかったところに微妙なものがある。

それを政府の方針だけで決め、一片の布告で国民に押しつけてしまったのが日本だから大したものだ、「新体制仮名づかい」とか「漢字制限」とか、まことに政府の権能は大したものである。ところがこれは、憲法学の権威故美濃部博士の説によると、明らかに憲法違反になるのだそうだ。そういわれるとわれわれ素人にもわかる気がする。それでこそ憲法だという気になれる。

国語をいじくると、これがもしもフランスだったら大騒動だろう。何しろドイツ語は馬の言葉で、英語は犬の言葉で、わがフランス語だけが人間の言葉だと誇っている国民である。事がフランス語に関したらそれはフランスの伝統的道徳につながる問題だとして騒ぎ立てる。その事例なら数え切れぬほどであるだろう。

「ブウルボン宮殿をアカデミイの如くにした」と木下杢太郎がパリ通信の中に書いているのもその事件の一つだ。中学校の必修課目としてラテン語、ギリシャ語を残すべきか除くべか、日本ならば平気で文部省内の一局ぐらいで片付ける問題だが、これが国会の議題となり、甲論乙駁、二十日余りにわたってやっと納まったのだそうだが、国会が、ためにアカデミイの如き観を呈したということ、われわれとしてはただうらやましいと嘆息するだけである。

最高裁判官の経歴書というのが廻って来たが、これだけではどうにも頼りない。曖昧なものは判定の材料として取上げぬのが裁判の常識だと聞いていたが、これで投票しろというところをみると、裁判と審査とは違うのだろう。それにしても、もしも文芸家協会あたりで「新制仮名づかい」の決定を憲法違反で告訴してくれていたらと思った。

つまりその判決次第で、私は確信的×印をつけることが出来たろうからである。

  • (一・二三)
その高田氏が、福田恆存との對談で斯う述べてゐる。『二つの椅子』
福田
言葉にしても五線紙の上に書くものは世界語だし、絵画にしても色調というものは、つまり一つ言葉でしょう。その点、文學に比べて羨ましいですよ。
高田
日本文学にノーベル賞が來ないのは日本語で書いているからだと、事もなげに石川達三君が言ってるんだが、
福田
事もなげには困るけれども、日本語の地方性というものが日本文学の世界性を妨げていることだけは事実でしょう。
高田
その事実を認めるから、ぼくはこの際思い切って國語國字の革命をやってしまえという論者なんだが、しかし文学者諸君はその問題に対して大体保守主義者らしい。
これが「ブラリズム」なのですかねえ。『二つの椅子』の刊行は昭和二十五年。
なほ、昭和30年の龜井勝一郎編『若い人々のための文學論』で、他の執筆者が正假名遣を用ゐてゐる中で、福田氏は新假名遣ひを用ゐてゐる。對談の時も、特に國字改革には反對の立場でなかつた筈である。その後、昭和33年の秋から「聲」に『私の國語教室』を連載、國語國字改革反對の旗幟を鮮明にする。
ちなみに、高田保は昭和二十七年に死去。著作權は消滅してゐる。
平成十六年六月十八日
index
例によつてtitleがアレだが、サイトの内容は間違いやすい言葉の正誤判定
平成十六年六月十八日
ブレーク24・「ブタもおだてりゃ〜」は最近のことわざ
NHKが何年か前にやつてしまつたらしい?
某所(謎)の發言(謎)によると、講談師が講談「豊臣秀吉」をやる時に良く使つた文句だとか。
平成十六年六月十八日
http://www.zakzak.co.jp/top/2004_06/t2004061719.html
昔は「英雄色を好む」と言つたものだが。ええと、ここで「(謎)」と言つておけば良いのかな。
記事の末尾に事件のあらましがきちんと書かれてゐるのは、好感が持てる。紙の新聞だと、「有名な事件」の場合、「誰もが知つてゐるもの」として、知らない人を置いてけぼりにするやうな記事を平氣で載せるからな。
平成十六年六月十八日
紙の新聞の場合、記者がはしやいでゐる場合、何も知らない讀者が屡々置いてけぼりにされる。
高橋女史を「Qちゃん」と呼ぶとか、元巨人軍の松井選手を「ゴジラ」と呼ぶとか、さう云ふ御約束を、新聞の讀者は全員、知つてゐなければならない。「半年POMれ」とでも言ふ積りだらうか。虹裏ぢやあるまいし。
スポーツ面のリード記事では、最初に「キャッチー」な文章をいきなり書いて讀者を引きつけようとする、非常にわざとらしいものが屡々ある。それも署名記事。福田恆存が、かつてこの類の記事について論じて、文學者になり損ねた元文學者志望の記者の自己滿足である、と指摘した事がある。

平成十六年六月十七日
めも。
『二つの椅子』には、福田恆存と高田保の對談も收録されてゐる。
平成十六年六月十七日
本日の買物。
三宅雪嶺・芳賀矢一『日本人論』冨山房百科文庫8
鶴見祐輔『ナポレオン』潮文庫3
岸俊男編『日本の古代14 ことばと文字』中央公論社
一誠堂書店で清澤冽『日本外交史』上下卷揃を目撃して値段を確かめたところ二萬圓也。某ピート氏が例の詞の八街を京王の古書展で見掛けて二人で肩をがつくり落した云々と漫畫的に書いてゐて、見て來たやうな嘘はいけないなー俺は肩を落したりはしなかつたぞそもそも詞の八街は特に欲しい訣ではなかつたしと思つたのだが、日本外交史はとても欲しかつたので溜め息を吐いてみたりした。日本外交史はとても面白い本だ。
なぜ面白いと判るかと言ふと、下卷を持つてゐて、少し讀んでゐるからだ。五十嵐書店は千圓で古書會館の古書展に出して呉れたのだけれども。
平成十六年六月十七日
例のCDの輸入の話。
違法だらうが何だらうが、俺(達)にはCDを輸入して聽く權利がある、と言ふのならば、輸入すれば良い。筈だ。違法行爲として取締られたら、裁判に訴へれば良い。筈だからだ。最高裁まで行つて、例の法律が違憲である、と云ふ判決が出れば、無罪放免で、しかも法律まで潰す事が出來る。筈である。
一往日本國では、憲法によつて、最高裁判所に違憲立法審査権がある事になつてゐる。違憲の法律を潰す事は、一往、手續きを取れば可能である。筈である。
筈である筈であるとしつこく書いてゐるのは、まあ、結局のところ、所詮は「筈である」と云ふだけの話だからだ。御金と時間が勿體ない、と云ふ理由があり、さらに、リスクを冒したくない、と云ふ極めて強力な理由もあれば、敢て無茶をやる日本人はゐない。そして、それが明かになつた時點で、日本は法治國家である、と云ふのも建前である事は明かである。
平成十六年六月十七日
愛國心を教へろ教へるなの議論について。
「反日的教育の禁止」と言つておけば良いんぢやないのと適當な事を言つておく。
平成十六年六月十七日
http://d.hatena.ne.jp/ryuryusese/20040605#1086385001
今頃になつて氣附いた。
現代假名遣ひより派生した俗語を歴史的な假名遣ひの文章中に用ゐるのはのりピイ語で叮嚀語を使へと言はれる位難かしいのですが現在ネツトワアク上で正字正假名を御使ひの皆樣は如何折合ひを即けていらつしやるのでせうか
私はあんまり氣にしないで書いてゐますが。
のりぴー語とはなつかしい。あれですね、やっぴーのりぴーべんぴーとかさう云ふ奴ですね。稍違。
平成十六年六月十七日
宮崎市定『西アジア遊記』讀了。
と、しれつと書いても、誰も氣にしないだらうから、面白かつた、とコメントしておく。
平成十六年六月十七日
講談社学術文庫版の『マホメット』は1989年に、中公文庫版の『マホメット誕生』は1990年に出てゐる。
前者はアテネ文庫版を、後者は人文書院版を底本にしてゐるから、一往別物と言へる事は言へるのだけれども、ちよつと何うかと思つた。

平成十六年六月十六日
牛歩戰術とか、何う考へても數で負けてゐて通る訣のない内閣不信任案提出だとか、さう云ふ事をやつてゐる連中は、税金を無駄使ひしてゐないらしいのである。
平成十六年六月十六日
イラク復興關聯。多國籍軍に自衞隊が參加するしないの問題について、正直な事を言つてゐる政治家が一人もゐない。強ひて言へば、正直者は社民党の連中くらゐだ。連中は本氣で平和主義を信じてゐるから、自衞隊がする事を全否定するのも無理はない。共産党は、自分逹が政權を取れば、軍備をして、アメリカに反旗を翻し、北朝鮮や中国と共鬪する事を考へてゐる筈なのに、おくびにも出さない。自民党は、改憲の事を考へてゐる筈なのに、わざわざ自衞隊も、自衞隊の多國籍軍參加も合憲だと言張つてゐる。民主黨は良く知らないが、この期に及んで變な戰術を使つて、まともな議論をしようとしてゐないのだから、何か變な事を考へてゐるに決つてゐる。
自民党、或は小泉首相は、ひよつとして、自衞隊を多國籍軍に參加させて、既成事實を作る事で、濟し崩し的に自衞隊を軍としてしまひ、憲法を骨拔きにして、改憲に持込む氣ではないか。その邊の事をちやんと意識して、それでわざと素知らぬ顔をしてゐるのならば、日本の現實を良くわかつてマキャベリズム的な行動を取つてゐる事になるので、或意味、評價出來る。が、評價出來ない可能性が高いやうな氣がする。
ただ一つだけ言へる事は、今の世界情勢で、自衞隊を出さない訣には行かない、と云ふ事だ。さう云ふ情勢を勘案して、「自衞隊」なる組織の事を考へてゐる政治家は――否、政治評論家も、井戸端評論家の諸氏も、さう云ふ觀點で考へてなどゐない。國内の狹い世界の論理だけで、多くの日本人がものを考へてゐる。
平成十六年六月十六日
先日、某アカシヤ書店でトンデモ本を熱心に漁つてゐる少女を目撃したが、三次はやつぱり駄目ですね。何の話。
平成十六年六月十六日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20040616
h5やh6がpよりも小さい駄目ぶらうざなんてものがあるので油斷できません。
平成十六年六月十六日
横浜が14點入れて勝つた。なんか、TBSの放送終了にきつちり間に合はせて呉れてゐるし。
平成十六年六月十六日
電撃hp。Vol.30。なんだよこの厚さ。既に何年も前から買ふだけで讀んでゐないのだけれども。と言ふか、最う四册も、本棚に並べもしないで、その邊の床に放置してゐるし。

平成十六年六月十五日
地下室の古書展にて。
吉川幸次郎『読書の学』筑摩叢書323
福田恆存編緝・解説『坂口安吾選集四 中編小説集』銀座出版社
高田保『ブラリひょうたん(上・中・下)』毎日新聞社
高田保 對談集『二つの椅子』朝日新聞社
例によつて例の如く、古本屋が擇んだ「いかにも」な本だけが置かれてゐる古書展だが、今囘はなぜか福田恆存氏の本が何册も出てゐた。一册二千圓では買へない。最う持つてゐるから。
平成十六年六月十五日
drplつて、新しいPerl+新しい秀丸では動かないんだつけ?

平成十六年六月十四日
せんせいのお時間終つたけれども。
さすがとしか。色々な意味で。世間では賛否兩論だらうな。
平成十六年六月十四日
財務捜査官・雨宮瑠璃子終つた。
年増だけれども良い眼鏡だと思つて見てゐたのに、何で最後に眼鏡外すんだよ。
何うでも良いが、年増を戸島と最初に變換するうちのWXGはあ〜るの讀み過ぎ。
平成十六年六月十四日

でも、一応言いますけど、日本って「法治国家」なんですよねー。だから、別に「お上が決めた事」とか関係なく、法律ができる事って大きな事なんです。(それに従って国を運営するって事なんですから。)だから、そこに文句をつけるのは当たり前の話でしょう。

法律にしても政治にしても過大評價してゐる人だなーと思ひました。それから、私自身、「お上」って考え方をしてないし書いてもいないハズなんですね。と宣言してゐるけれども、やつぱり、理由を附けて、「お上」のする事はすごい、と言つてゐるんですよねー。理由を附ければ良いと言ふものではないし、宣言すれば良いと言ふものでもありません。私が勝手に規定してゐるのではありません。それを言ふのならば、netwind氏の自己規定こそ、「勝手な規定」です。否、自分で自分を規定する方が勝手だ。他人の目よりも自分の規定の方が客觀的な事實である、と云ふ判斷は出來ない筈です。しかし、「お上の言ふ事だから」と、「日本は法治主義だから」の間に何んな差があるのか、私には解りません。お上にしても法治主義にしても、「何か偉いもの」と見てゐるのならば、同じです。
法治國家と言へば、確かにアメリカも法治國家ですね。けれども、かつて禁酒法なんてものを作つた時、國民に守られない上、アングラ化したせゐで、結局、アメリカの政治家は法律を廢止してしまつた。
法治國家だからと言つて、法律は法律であるがゆゑに絶對に守らなければならない、と云ふ事にはならないんですよねー。「誰も守れない法律」は、「誰も守れない」ゆゑに廢止される。法治國家と言つても、別に法律絶對主義の國家と云ふ訣ではないんです。法治主義には現實主義が優先するんです。法治は所詮、現實で許される範圍でのみ有效なものでしかありません。
CDの輸入禁止の法律は、施行されても效果が發揮されない場合、却つて副作用が大きい場合、禁酒法に倣つて、爲政者の側で廢止される事があり得ます。或意味、それが實現すれば、日本に本當の法治主義が定着したと言へると思ふのですが、如何でせうか。もちろん、日本國の政治家が、官僚主義的・前例主義的に「一度出來た法律だから」と言張つてごり押しする可能性はあります。しかし、それこそ「法治主義」の「惡用」でせう。法治主義は結構ですが、法律以前の常識が健全でなければ、社會も政治も良くならないのです。
常識とは、バランス感覺であり、血肉化された正しい知識を適切に運用する習慣であります。ただ、觀念的に「わかつてゐる」だけの事を常識とは言ひません。バランス感覺は、容易に身につける事が出來ません。議論を通して――と言つても、當座の問題ではなく、問題の根柢にあるものまで洞察した上で、數世紀に亙つて議論、或は鬪爭を續けなければ、人は、或は國民は、落とし所のない困難な問題に對處する智慧を得る事は出來ないでせう。しかし、そこまで行かなければ、良識としての常識は、世間に存在し得ない、と私は考へます。
「自分で自分を相對化しつゝ、バランスのとれた議論をしよう」――確かに、立派な心がけです。しかし、自己相對化は、人が人である限り、完全には行ひ得ない。自己を相對化し得るのは自分以外の他者でなければなりません。ならば、議論において、自己の意見を自分で相對化しつゝ、相手の意見にききわけの良い態度をとる、と云ふのは、不可能であります。寧ろ、議論においては、積極的に自己の意見の正當性を主張し、相手が主張する正義を論破しようとする態度こそが求められるのではないか――さう、私は思ひます。これは、冷靜になれ、と云ふ意見と矛盾するやうですが、實はしません。感情に訴へる戰術を用ゐ、論戰を戰はうとするならば、クールさを失ふのは必定です。しかし、論爭を――論理に據る爭ひを――心がける限り、人は冷めてゐる事が出來ます。と言ふよりも、熱戰を戰ひつゝ、心の一部が醒めてゐる、と云ふ状態を持續する事、これが眞のバランス感覺を養ふのには有效なのではないか。
平成十六年六月十四日
CDは、世界のどこでも再生できます。だから輸入版が大規模に存在する訣です。
DVDでは、リージョンコードが導入され、地域外でのDVDの再生に制限があります。そのため、技術力のある一部のユーザを除いて、一般の、と云ふ事は多數のユーザにとつて、輸入版の利用が制限されてゐる、と云ふ事を意味します。DVDでは、法律的な議論拔きの技術先行に據る制限が、既に實現してゐる、と言へます。
法律に據る規制が必要なCDと、業界の自主規制が既に行はれてゐるDVDとを、比較して考察する事は、意味があるのではないでせうか。或は、ないかも知れません。
そして、今の議論において、、47氏がかつて述べたとされる「著作權の概念を崩す」と云ふ發想も、絡めて考察する事は可能だと思ひます。
それは、「法律に據る制限」や「著作權などの既存の概念に基いた理論」と、「技術的に制限を實現してしまふ事」「技術的に著作權の概念を突崩す事」との對比、言換へると、「形式による現實の規定」と「現實に據る形式の變容」との對比の意味であります。
平成十六年六月十四日
金魚屋の二卷とか朝霧の巫女の四卷とか辰野隆『青春囘顧』とかを買つた。巖谷大四『戦後・日本文壇史』を拾つた。以前拾つた『明治大正文學全集22 國木田獨歩』(春陽堂)を囘收。俺の私物置場にする訣にもいかんし。
平成十六年六月十四日
三菱自動車、三菱ふそうの車の缺陷が問題になつてゐる今日この頃。
私は東京三菱銀行が昔呉れたおまけグッズの糊の蓋の不具合に惱まされてゐますがそれが何か。

平成十六年六月十三日
のあ
今夜の虹裏、重いね。
あやの
……女子あき?
平成十六年六月十三日
法務省はそれほどたちが惡い訣ではなくて、問題は文部科學省。
あとJIS方面も所謂「文字コード」關係で國語國字問題に關はつてゐるので要注意。
何と言ふか。文字の事をあちこちの省廳・機關が場當り的に決めてゐるのは、日本の國民が日本語を輕視してゐる事實を如實に示す事である。と思ふ。
省廳は、互ひに繩張り爭ひをしてゐるから、あつちが「常用漢字表」を持つてゐると言ふのに、こつちはむざむざ「人名用漢字」を手放してしまふ、なんて事はしないよ。
平成十六年六月十三日
http://white.sakura.ne.jp/~piro/latest/2004/06.html#d13
at most countable: 価値観の異なる反応も・・・
「何が自分にとって大切か・譲れないか」――人に據らずして、一般的な觀點で、やはり、區別が可能だと思ふ。それが「道徳」と「政治」との區別だと、俺は前から執拗に言ひ續けてゐる。ついでに言ふと、それに関わる事なら、その人にとっては重要な事でしょ?――「でしょ?」等と押附けがましい言ひ方をされると、かちんと來る。「でしょ?」は、例の紋切型辭典に收録すべき文句だと思つてゐる。
CDを買へなくなると何が困るかと言へば、趣味の充足が出來ない、と云ふ事だ。しかし、趣味は趣味でしかない。
レコード輸入権の問題は、輸入盤を買う人たちには重要な問題な訳で。――「問題」と言ふが、「高い國内版を買はなければならないのは問題」と言ふのならば、「國内版を安くする」と云ふ解決策がある。「國内で發賣されず、輸入版でしか手に入れられないものがあるのは問題」と言ふのならば、「國内版を出す」と云ふ解決策がある。
職業が法律で廢止される――と云ふ時代に、民主的な政治運動が出來る、と考へるのも、或意味、非現實的ではないか。
そもそも、俺は「反論するな」と言つてゐるのではなく、「反論出來るから民主主義」「抗議出來るから民主主義」と言つてゐる。ただ、抗議なり反論なりを出來るのだから、法律で決つたくらゐで大騷ぎするのは如何なものかと言つてゐる――と言ふよりも、一度法律で決つたものは「お上が決めたから」と云ふ事で「既成事實」であり、絶對的な命令である、と思ひ込むところが日本人にはあるが、それは困つた事だ、と俺は言つてゐる。そのやうな「お上」的發想は、「政治の過度の尊重」によつて助長されるだけであり、だからこそ、「政治は相對的なもの」と云ふ觀念をこそ日本人は持つべきだ――そのやうに俺は主張してゐる。政治で決つた事は所詮、相對的なものだから、問題があると思はれる法律は、抗議なり何なりをしてじやんじやん改正すれば良いし、さう出來る風潮があつて良い。ただ、權力者・政治家の側の權威を落とす代りに、抗議・反論する側に權威を作つてしまつては、結局、政治の権威は變らないのであつて、政治で決められた結果――法律――が無闇にありがたがられるだけの事にしかならない。
「好みは人それぞれ」と言つて、却つて個人の嗜好を絶對化してしまふのは、相對主義の過ちであらう。價値の相對化をするのならば、バランス感覺が必要だと俺は考へる。法律を決める政治家なり權力者の権威を相對化するならば、法律の相對化も、反對運動の相對化も、適切に行ふべきである。運動に有利になるやう、抗議の對象である政治家・權力者の権威は相對化すべきであると言ひつゝ、自分の運動は絶對化する、と云ふのは、運動家には當然の事と思はれるのかも知れないが、俺には非常に嫌な事であるやうに思はれる。
「政治は煩はしい」なんて、そんな低次元の話ではないんですよ。ただ、切實さの點で、道徳的な事柄と、政治的な事柄とには、絶對的な差はあると思ひますがねえ。
運動家の「熱し過ぎ」も、Piro氏の言ふ「諦め」「冷笑的」も、餘りにも感情的過ぎると思はれる。もつとクールになつて良いのではないか。
一方で、今の日本國では、問題が存在すると、とにかく「ハッスル」する人が矢鱈ゐるので、さう云ふ人を利用して政治的な目的を遂げる、と云ふのが、政治家なり政治運動家なりの常套手段であり、政治的には――ここでは、マキャベリズム的には、の意味で受けとつて良い――それが「正しい戰術」である。が、そのやうな戰術に據る鬪爭の繰返しが日本人にとつて有益な事であると信ずるのは、個人的には反對したい事である。庶民レヴェルで落著いた議論を行へる政治的土壌を作らうとするのは、庶民の感情を利用しようとする政治的な政治家の一方的な支配を拒否する、迂遠かも知れないがそれなりに有益な戰略ではないかと俺は思ふのだ。
が、そのやうな迂遠な事は「してゐられない」と云ふせつかちな人が多いのは現實である。ならば、世間は進歩しないものである、と觀じて、諦めるのが最も正しい、と云ふ事になる。が、それで良いのか。
「今すぐ輸入版が欲しいのだ」――かうなると、最早、政治の問題ではない。マニアにとつて、政治運動ですら迂遠のやり方である。彼等にしてみれば、政治運動で輸入版を認めさせるよりも、個人輸入なり何なりによつて、現物を手に入れるのが先である。或は、高い金を拂ひたくない、と言ふ人は、何らかの手段を用ゐて(この邊は敢て表現をぼかす)安く音樂を手に入れようとするだらう。彼等に、政治的な方法を説いても無駄である。政治的に正當なやり方をとるよりも、現物を手に入れる手段の方が、彼等にとつては切實な問題となる。
平成十六年六月十三日

 かつて小林を読みはじめたころ、私が最初につよいこだわりを感じたのは次の点についてであった。すなわち、彼は、近世初頭においてデカルトが提出した〈ボン・サンスbon sens〉を、あえて〈常識〉と訳していることである。つまり、〈良識=理性〉とのいわゆる学問的区別よりも、常識の意味の拡がりと意味の厚味を重視していたのである。私も初めは、デカルト自身が「〈ボン・サンス〉あるいは〈レゾンraison〉」(理性)と言っていることや、「われ考える、ゆえにわれあり」"Cogito, ergo sum"というかたちで完全に推論式化していることから、この小林のとらえ方にはつよい抵抗を感じた。それに、デカルトの思想は「大陸の合理論であり、F・ベーコンたちは「イギリス経験論」の立場にあるものとして、やはり一応は、区別しておくべきだろうと、思っていた。ところが、この「大陸の合理論」と「イギリス経験論」という分け方は決して不動なものではないこと、両者はともに近世ヨーロッパの合理主義理論の二形態であり、いわば「同根」のものであることが私にもはっきりしてきた。とすれば、いわゆる学問的な「大陸の合理論」と「イギリス経験論」という区別は大した意味を持たなくなる。むしろ、両者の区別は、あまりにも西洋の近世哲学史的(大学教育的)であった。それは、あくまで時代思想の遠近法のなかで成り立つ、一種の約束事であり、〈制度的なもの)であったのである。

平成十六年六月十三日
民主的な法治国家で法律が成立すれば職業が成り立たなくなる可能性はあると思います。ダフ屋という職業は法律(条例?)で禁止されてるのではないでしょうか。
八百屋とか魚屋とかさらりーまんとかと、或は、HMVとかTOWER RECORDとかと、ダフ屋とは、同じ「職業」である、と。この邊、議論の爲にする議論に墮してゐますね。
例えば自分の仕事が突然法律で禁止されたら、そういう法案が成立するぞってなったら、どうします?と云ふめたか氏の文章と、民主的な法治国家で法律が成立すれば職業が成り立たなくなる可能性と云ふnetwind氏のコメントの文章とは、全然違ふ話ですねー。
私は飽くまで、めたか氏の自分の仕事が突然法律で禁止されたらと云ふ記述に對して話をしてゐます。
平成十六年六月十三日
あと、http://netwind.jugem.cc/?eid=81をみて思つたのだが、政治主義者のパターンにはまつてゐるなと。
政治はもちろん、國民が生延びる爲に、必要なものですよ。しかし、「それだけのものではない、政治は國民が幸福になる爲に大切なものなのです」と云ふところにまで、考へが行つてしまつてゐるやうに思はれる。「最大多數の最大幸」福なんてスローガンがありますが、あれはスローガンであつて、自分逹の意見は良いものだ、と云ふ印象を周圍に與へる爲のものでしかありません――と言ふより、テスト勉強の爲の圖式化に過ぎないんですが。「政治は幸福の實現の爲に積極的に必要なものである」と云ふ發想が、netwind氏の文章には見え隱れする。それが却つて政治の「惡用」に繋がる、政治家による庶民のコントロールに繋がる、と私は思つてゐます。寧ろ、庶民の側が政治をそんなに大した物と考へない事が、逆に政治に據る支配を囘避するのに重要な事ではないか。
平成十六年六月十三日
輸入版の問題は、當面の問題であり、當面の問題にその場その場で對處して行くのが、netwind氏等の考へなのだらうけれども、さう云ふ政治的な發想だけが「正しい」訣ではない。
日本人は本質的に政治的な國民である。政治にコミットしないからといつて、それが否定される訣ではない。日本人は、發想が政治的なのだ。だから、そこで「政治の重要性」が説かれるのは、「コミットメントの重要性」と「發想の重要性」とを考へない――言はば「底が淺い」指摘だと思ふ訣だ。そして、政治の一元論で話がなされてゐるのは、http://netwind.jugem.cc/?eid=81のコメントの項を見れば解る。そこには、議論には2種類ある、ディベートとディスカッションとか、 「数学的帰納法」って実は「帰納法」じゃないんですよねー。とかいつた「對話」がある。これが、觀念的な對話であり、觀念的とは皮相的の謂だと私は思つてゐるから、さつぱり感心しなかつた。議論では相手の意見を否定しようとするのが當り前の人情であつて、ただ、相手を叩き潰す戰術を使ふか、相手を説得する爲に論理を用ゐるか、の違ひがあるだけだ。單に、ものわかりが良くなればそれで良い、と云ふ事にはならない。政府が決めた法律に徹底抗戰する積りでゐる人間が、議論って相手を論破する事って思っていそうな人、多いじゃないですか。とか、相手を論破することだと思っている人が多いというのは、本当にその通りだと思います。とか言合つてゐるやうでは、話にならない。
と言ふか、CDの問題に關して、めたか氏とかnetwind氏とかは既に決定的な結論を出してしまつてゐる。彼等にとつては、最う、議論の餘地が存在しない状態になつてゐる。少しでも彼等の意見を相對化する意見は、彼等にとつて「邪惡」な意見であり、否定すべき對象である。さう云ふ「自己の絶對化」こそ、「相對主義者」は恐れるべきなのではないか、と私は指摘したい訣だ。しかし、政治運動を唱道する人々に、その種の相對主義は、却つて恐るべきものに見られてゐる。運動の妨げになるものは、運動家にとつては、全て敵である。そして、さう云ふ政治主義を日本人は疑はない。それに私は抗議してゐる。これを根源主義と呼んで呉れても構はない。根源的な事を知るのよりも、目前の問題のせつかちな解決だけが必要である、と云ふ意見に、私は反對してゐるからである。目前の問題が一つ一つ解決されれば、段階的に世の中は進歩する――と云ふ樂觀的な觀測を、私は信じてゐない。
平成十六年六月十三日
それから、言つておくけれども、めたか氏もnetwind氏も、私よりは人が好い筈である。そして、人が好い事は、必ずしも美徳ではない。政治問題に於いては、御人好しは馬鹿を見るだけである。私は、人間性惡説を採用するから――と云ふのは、性惡説は間違つてゐるならば性善説に切替へられるけれども、その逆は出來ないから――樂觀主義にはなれないし、單純な進歩主義を認めない。
平成十六年六月十三日
あと、「HMVとかTOWER RECORDとかが潰れるかも知れませんね、だからみんなで法律に反対しましょう」と言ふのは、古めかしい「労働者よ、団結せよ!」を現代的にソフトに言換へたものだ、と私は思つた。
政治主義者には、この種の「本當には身近に感じられない事」を、恰も自分の事であるかのやうに考へさせる、と云ふ惡癖がある。これは人間の感性を歪めるものだから、人間性の觀點から反對せざるを得ない。個人の政治的な権利が壓迫されるよりも、個人の感性が權利の名の下にであつても壓迫される事に、私は反對する。
平成十六年六月十三日
「安上がりに音樂を手に入れたい、手間を掛けずに樂して音樂を手に入れたい」と云ふ損得勘定を理由に、法律に反對する、と言ふのならば、納得出來ない。結局、それでは、レコード會社の論理の裏返しに過ぎないからだ。
藝術としての音樂を自由に享受出來ないやうにする法律はをかしい、とストレートに言ふのならば、好感が持てる。ただ、それを言へないのは、聽きたい音樂の藝術性を説明出來ない、と云ふ「消費者」の側の弱みがあるからではないか。
そして、一方で、「藝術」と言ふのを恐れる意見がある。權力者が「あれは藝術である」「これは藝術でない」と極附けて、特定のものを排除する可能性がある、と言ふのである。この意見にこそ、反對したい。政治によつて藝術が藝術であるか否かを決定出來る、と認めるのは、それこそ政治の萬能を認めた意見であり、藝術の敗北である。藝術を、政治から獨立せしめるには、藝術の価値を、政治的價値と、對等のものと認め、一般に認めさせる必要がある。
私は、「趣味的側面認める」のでなく、飽くまで藝術の藝術としての價値を守りたい。藝術を政治鬪爭の道具に墮しめるやうな意見には、與したくない訣だ。
趣味的な音樂ならば――音樂のみならず、あにめでも何でも良い――「駄目」と言はれれば、私は潔く捨てる積りだ。趣味は讓つても構はない。讓れないXを守る覺悟――覺悟、と云ふ言葉を使ふのは、個人的に好まないが、敢て言ふ――があるならば。守るのに樂をしたいから「自由」の領域を豫め擴げておく、と云ふ横着な發想は受容れたくない。
平成十六年六月十三日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0406.html#13p2
ひらしょー氏、ジッド「狭き門」を讀む。
平成十六年六月十三日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0406.html#13p7
ひらしょー氏、太宰治「女生徒」を讀む。
太宰は(r
平成十六年六月十三日
日曜日の分、追補。ひきこもつてゐるのも何なので、日が暮れかけてからおでかけ。太陽堂で安吾『桜の森の滿開の下』(講談社文芸文庫)。文教堂でかりあげクン(38)。太陽堂は或意味凄い古本屋。

平成十六年六月十二日
本日の買物。芳崎せいむ『金魚屋古書店出納帳(1)』少年画報社。
どれも「良い話」だが、136ページ右下のこまの文章の假名遣ひが氣に入らない。
BOOK OFFでたまたま見掛けたから買つた。なんか、週刊文春で紹介されてゐたらしいのだが、それで買つたのではない。
それから、この本に出てくる古漫畫は割とめじゃーなものばかりなのだが、この程度の事を喋つてゐれば結構ヲタ風を吹かせられる、と云ふのが漫畫の世界の底の淺さを示してゐる。と敢て言ふ。
平成十六年六月十二日
この本が氣に入つた讀者は、谷山由紀の『天夢航海』を讀むと滿足出來るかも知れない。ソノラマ文庫。古本屋ではないし、本の話ではないから傾向は少し違ふけれども、雰圍氣は似てゐる。
似てゐるけれども別に對比する必要はないし、どちらがどちらの正體と云ふ事もない。
平成十六年六月十二日
法務省
法務省パブリックコメント
人名用漢字の範囲の見直し(拡大)に関する意見募集
漢字制限をやめるのがよろしいかと。人名にはどんな文字でも使つて良いと云ふ事にすればよろしからうと。範圍を決める事がそもそも問題だと。
好い加減、「常用漢字」も「人名用漢字」も廢止すべきだ。
「常用漢字表」は、「目安」に過ぎないと云ふのは嘘で、「当用漢字表」の延長線上にある、と、かの野村雅昭先生もおつしやつてをられる。『東京堂 用字用語辞典』はしがき如何なる性格のものと定義されてゐたとしても、形として漢字表があれば、制限の目安に使はれるに決つてゐる。だから漢字表の類は廢止した方が良い。「制限の目安が無いのは困る」と言ふのは、官僚的發想でしかない。
平成十六年六月十二日
めも。
Lab letter from G.I.WORKS Top Page

平成十六年六月十一日
Google 検索: ぶるさがっている
平成十六年六月十一日
at most countable: 「政治アレルギー」の正体(シリーズ:CCCD問題の深層)
at most countable: 『「政治アレルギー」の正体』の反響より
俺は、日本人は餘りに政治的であり過ぎる、と思つてゐるから、どうして「もつと政治的になれ」と主張する人が出て來るのか解らない。今でさへ、日本人は十分政治的だ。しかし、政治的になれと主張する人には、今の状態でも、全然不十分なのだらう。
政治を囘避するのがシニシズムであると言ふのがそもそもをかしい。政治の過度の尊重をこそ警戒すべきだ。
俺は、積極的な道徳主義を主張する。
「法案」について言へば、結局のところ、成立させるやうな議員を選擧で當選させた時點で反對派は敗北してゐたのであつて、選挙後に運動をして「世間の人の目を覚まさせた」ところで何の意味もない。もちろん、世間の風潮が變つて、次の選擧で確實に成立した法律を廢止出來るやうになり、實際に「廢止する」と言ふ人を當選させ、法を廢止出來れば、その時點で運動は成功したと言へる。
が、たかがCDの事、或はたかが著作權の事が、選擧で爭點になる筈がない。選擧では、もつと目立つ事が爭點になる。私たちの与り知らぬところで、自分の関与しないままに、色んな事が決まっていってしまう、と云ふのは、餘りにも當り前の、間接民主制の常識である。と言ふより、代表者に政治を任せるのが間接民主制である。それが嫌なら、直接民主制にするしかないが、何でもかんでも意見を聞かれ、それに應へたり應へなかつたりしなければならない、と云ふのは、煩はしいだけである。
政治なんてものは、「自分のもの」として身近に感じなければならないものではない。誰かを自分の代りとして代表者として議會に送り込み、代りに政治をやつて貰ふ事は、當然の事として可能である。所詮、政治なんてそんなものである。それをわざわざ、「自分のもの」として感じたり考へたりしなければならない、と言つたつて、無理である。人間は、修身齊家までは自分の事として考へられるが、治國平天下となると最う、他人事である。そして、大事なのはせいぜい修身齊家までであり――と言ふより、その時點で相當の困難が存在する。治國平天下等と云ふ事を本氣になつて考へられるのは、はつきり言つて何處かをかしい。
寧ろ、「政治とは所詮、相對的なものである」と云ふ事をこそ、日本人ははつきり認識すべきだらう。「自分の知らない處」で勝手に物事が決められる事を、日本人は餘りにも大袈裟に考へ過ぎる。「そんな處で決つたから何うだつて言ふんだ」くらゐ、言つたら良いのである。「どこか」で決つた事を、「御上が決めた事だから」と言つて、頭から受容れてしまつて、ありがたく押し頂く、と云ふのは、恐らく江戸時代に出來上がつた庶民の常識なのだらう。しかし、警察國家であつた江戸幕府のお逹しではない(唐木順三『中世から近世へ』參照の事)、民主主義の時代の法律なのだから、「決つてしまつたものは仕方がない」と考へる必要はない。法律は、問題があるのならば、決つたものでも變へれば良いのである。寧ろ、法律は簡單に變へて良い。
法律を有難がる風調――と言ふよりも、政治で決つた事をありがたがり過ぎる傾向をこそ、私は「なくすべき事」だと考へる。政治を尊重し過ぎる現在の傾向をこそ、私は批判すべきだと考へる。
それとも、今の時代は、法律の規定に異議申し立て出來ないほど、非民主的な時代なのだらうか。封建の時代と違ふのは、「お上」のお逹しだらうと何だらうと、抗議する權利が誰にも認められてゐる事だ。
平成十六年六月十一日
古書會館では新潮の平成十三年四月號増刊「小林秀雄 百年のヒント」と、『日本誤音声学』(くろしお出版)を購入。買ひたくなるやうなものがない。
例の續き。岩波の日本古典文學大系版萬葉集一。續く。
平成十六年六月十一日
萬葉集の月報で大野晋氏が述べてゐる。

昭和二十年一月、お宅の附近に爆撃のあった翌々日、(橋本進吉)先生は、夜中のうちに誰にも知られずに息を引きとられた。先生は、ヤミのものをお買いにならなかったので、栄養失調で亡くなられたものと私は思う。

大野氏は、他の本でも同樣に書いてをり、參考にうちのサイトでもその事を書いてゐた(現在は削除してゐる)。しかし先日、橋本博士の遺族の方からメールを頂戴して、橋本博士は病死であつた、榮養失調ではなかつた、との御指摘を戴いた(何うも有難うございます)。
上の大野氏の推測は、飽くまで推測であり、事實ではない、との事です。大野氏に習つた方は、呉々も信じ込まないやう。
平成十六年六月十一日
http://d.hatena.ne.jp/dogplanet/20040611
人間は結構、殘虐なものを好むんだよなー等と今頃になつて買つて來たガンダムエースのギロチンの話を讀みながら思つたのだが。

 四方田犬彦は「隠されているものには真理が宿っており、それを露わにすることで心理に到達できる」*7という価値観に僕たちが縛られているのではないかと指摘する。たとえば女性器を見ることによって女性について知る作業が完了すると考える男性は多いが、たとえ裏ビデオでモロだし映像を見ても事態はなにも変化しない。「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた*8」と小林秀雄が語る意味での「成熟」をアダルトビデオで獲得できるかといえば不可能に近い。

殘虐の嗜好は、單に「好き」と云ふだけの話であつて、眞理とは何の關係もない。嗜好の滿足は、眞理獲得の滿足とは、全くレヴェルが違ふ。
「殘虐趣味」を滿足させる事など「何うでも良い」と考へる所以である。
キャラクターグッズを集めるのも、アニメのヴィデオを録りまくるのも、「所有欲」と言へばそれつぽいが、結局のところ、犬が骨を集めるのと一緒で、本能に近い。等と言つておく。お金を貯めるのも、生活の爲、と云ふ側面もあるが、時として、自己目的的に陷る事がある。本にしても同じ。コレクター魂は、一般人もマニアも差はない。金儲けですら趣味になり得る。そして、趣味としてのコレクションでは、對象以外のものへの執着が無くなりがちである。
平成十六年六月十一日
少女が變なキャラクターグッズを好むのは、某高橋氏が「殘虐趣味」を宣言するのと、或は、「字数歌」だの「英語の正体は漢字です!」だのといつた事を良い歳をしたをぢさんが嬉々として言ふのと同樣、單なる嗜好である。
嗜好は、蓼食ふ蟲も好きずきで、人それぞれだが、個人の好みの域を超えた「正しい事」も「ある」と認めておきたいものである。

平成十六年六月十日
プロジーの動画カッター。重い、操作性最惡、バグだらけ。
一往、GOP單位の編緝、再エンコなしの高速保存は可能なので、使つてはゐる。
近所のノジマ、カノープスのMpegCraft、賣つてゐなかつたから代りに買つて來たけれども、駄目つぽい。MpegCraft、新宿のヨドバシででも買つてこようかなー。
平成十六年六月十日
本の雜誌で連載されてゐる坪内氏の「日記」に據ると、某書に、昭和二十年代末、創元社が潰れた時、角川が可なり資金援助だか何だかをしてゐて、それで創元文庫に入つてゐた本が紙型を活かしてごつそり角川文庫に移籍したのだと。福田恆存の作家論も、もとは創元で企畫されたらしいとか。立讀み。
話は全然違ふけれども、坪内氏は谷沢永一と如何にも氣が合ひさうだ。二人の對談は例によつて未讀。
平成十六年六月十日
IE6に任意のコードが実行可能な脆弱性、すでに悪用法が公開されている
平成十六年六月十日
一巡めを取敢ずコンプリート。
『新世界文學全集 第十六卷・第十七卷 緑の獵人』
平成十六年六月十日
東芝:プレスリリース (2004.6.9)
HDDに2番組同時に長時間録画が可能な「W録(ダブロク)TM」機能を搭載したHDD&DVDレコーダ「RD-XS53」「RD-XS43」を發賣。
かぶりまくり増えまくりの最近のあにめ状況に對應したものと推測。
平成十六年六月十日
ちなみに、唐木順三『中世から近世へ』を漸く讀了。

平成十六年六月九日
あー黒の方です。最う三週間も觀てゐませんが。
平成十六年六月九日
地獄の箴言: 馴れ合ひジャーナリズム
平成十六年六月九日
例によつて
『現代文豪名作全集 永井荷風集』河出書房
『現代日本小説大系 第二十卷 新浪漫主義 永井荷風・谷崎潤一郎』河出書房
『現代日本小説大系 第三十八卷 新浪漫主義 永井荷風・谷崎潤一郎』河出書房
編緝解説福田恆存『芥川龍之介作品集 第四卷』創元社

平成十六年六月八日
第一巡がまだ終つてゐないのに、二巡目に突入。今日も田村で無料の本を拾つて來た、と云ふだけの話だが。
『現代文豪名作全集 芥川龍之介集』河出書房
『昭和文學全集第 四十一卷 昭和短歌集 昭和俳句集』角川書店
言ふまでもなく續く。
平成十六年六月八日
昨日探して見附からなかつたSPA!だが、本日新しい號が出てゐるのを發見。と云ふ訣で、前囘の「對談」は讀めなかつたが、今度は讀んだぞ。と、坪内氏風の書き方をしてみる。
某所の某氏が前囘の對談を讀んで「坪内氏は、知識は多いが、態度が氣に入らない」と言つてゐたけれども、まあ、態度だけ見れば偉さうは偉さう。相手が福田和也だし。文壇の内輪の話をしてゐるのだから、偉さうに見えるのも無理はない。が、昔からこの手の對談は、さう云ふものだらう。目くぢらを立てるほどのものではない。この手の對談に、覺悟だの何だのと言ふのがをかしい。そんな深みのある意見を述べるべき類の對談ではないのだよ。空氣を嫁。
平成十六年六月八日
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平成十六年六月八日
ああ。深みのある意見を述べるべきでない對談だからこそ、「悪人の自白」だと言ふんだね。無茶苦茶なレトリックだが、本人は氣の利いた皮肉の積りなんだらう。
何と言ふかね、情報資本主義とかみんなサブカルとか、そんな出來合の言葉を使つたり、傲慢にも他人を勝手に定義したりするから、この人、我一人高みにおいて俯瞰のポーズで肝心の問題をそらす姿勢になつてしまつてゐるんだらうね。人は自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る。
この人、「みんなサブカル」と言つてゐるんだよね。それでゐて、最悪の意味でのサブカル相対主義者そのもの、なんて坪内氏を罵つてゐるんだよね。サブカルがサブカルを罵つてゐるんだよね。本家爭ひですか。俺は良いサブカルで、お前は惡いサブカルだと。同じ穴の狢つて言ふんだよ。サブカルの次元で爭つてゐるんぢやねえよ。それだからペラペラなサブカル・ナショナリストになってしまうんだよ。
で、http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040603#p3なんかを讀むと、馴れ合いくさい御世辭そのもので、醜悪だ、といつた感想を自然に抱いてしまふのだが、本人は氣持ち良く書いてゐるんだらう。さうなると、言い捨て読み捨て的な場で気の緩んだ「悪人の自白」として重要かもしれないなんて言葉がまた當嵌つて來たりする訣で。
俺もしつこいな。
で、http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040605#p2もまた、なんとも觀念的で、「口先だけ」のやうにしか思はれないのだ。
自ら言葉を使う者が、鬼の首を獲ったようにその限界を言い、それよって他を貶め得たつもりで、自分はそこから免れていると考えたとしたら、それはとても浅はかで傲慢なことじゃないだろうか?
この人、癖なんだらうね、すぐかうやつて、餘計な憶測をそつと文章に滑り込ませるんだ。何ですぐ、我一人高みにおいて俯瞰のポーズで肝心の問題をそらす姿勢だの自分はそこから免れているだのと言出すんだらうね。なんか、自白つぽいんだけれどもね。言葉を使ふものが、言葉の限界を自覺しつゝ、他と共に自己をも否定しかねない事を敢て言ふとしたら、それは淺はかだの傲慢だのとは到底言へないものだ。否、大概の人が平氣で自分で自分を否定するやうな事を言ふのだが、それを自覺しないから問題なのであつて、例の某氏にも、その危ふさがあると俺は感ずる。そして、その危險を意識すれば、人はものを言へなくなりかねない。そこまで追詰められた上で、ぼうふら氏はものを言つてゐるだらうか。
俺の見立てでは、覺悟だの何だのと赤面もせず言へる人間に、覺悟の類ひがあつた事はない。その手の人間は、單に「恥知らず」であるだけだ。例、アレクセイ氏。
平成十六年六月八日
極端な事を「非人間的」と思つてゐるらしいんだけれども、俺は、時として人間は極端になるものだ、と思つてゐる。正義に狂つた人間も人間。或價値を信じたせゐで他の價値を切捨てたとしても、それはそれでその人にとつては正しい事だし、正しい事をしようとするのは人間らしい事だ。その人が、わざわざ選んだ価値から零れ落ちるものを、忘れないやうにする、と云ふのは、模範解答的正論であつて、まあ、中途半端を正當化するのには便利な理窟だ。誰かの手から零れたものに、價値を見出したなら、見出した人間が勝手に拾へば良い。獨りで何でも全部やる必要はない。もちろん、何でも自分で引受けるのが正しい、と信ずるのならば、やればよろしい。眞面目にな。あんた、本氣で何でも引受けてゐるのかよ、言つてゐる事と違ふぢやないか、と批判された時に、「ディベートごっこはお止めなさい」などと言つて、自己の論理の責任を抛棄するやうな眞似をする卑怯な態度はとらない事だ。
平成十六年六月八日
と言ふか、ぼうふら氏、是々非々の立場のやうで、文章を讀んでゐると、やけに世間樣に氣兼ねしてゐる感じがするんだよな。言つてゐる事、どれもこれも、常識的で穩當な事ばつかりだし。
平成十六年六月八日
人殺しなんて誰だつてやりかねない。飛び降り自殺もさうだ。別に不思議でも何でもない。俺は少女がぶち切れて友人を殺しても驚かないし、俳優が高いところから飛び降りて死ななくても驚かない。世の中なんて、そんなものだ。人殺しを實行しないでも、したいと思つてゐる人間は澤山ゐる。ならば、殺人者と非殺人者との違ひは、實行したかしないかと云ふ、ほんのそれだけの違ひでしかない。
キリストは、「殺した」事實ではなく、「殺したい」と思つた事を咎める筈だ。しかし、日本人はそこがわからない。俺も、理窟では解るが、だからといつて、例へば「『義』を殺したい」と思つても、反省しない。「義」だつて、野嵜が「義」を「殺したい」と思つた事を咎めたりはしない。ただ、「野嵜は『殺したい』と書いた」と、書いた事實を咎めるだけである。俺が何も書かなければ、「義」も俺の内心までも咎めようとはしない。わからないからである。當り前の話だ。そして、他人に判らなければ、日本人にとつて「惡い事」も惡い事ではない。
「思つた事」それ自體を咎める宗教倫理を我々は持つてゐない。平和憲法も、平和を冒す「敵」への憎惡を咎める條文は持つてゐないし、假に持つてゐたとしても、そんな「模範解答的正論」が實效を持つ道理はない。平和を叫ぶ共産黨の街宣車のヒステリックな聲に、憎惡の翳を見出さない馬鹿は(社民党の馬鹿等を除いて)ゐない。平和主義者は、平和主義の敵を憎めと教へる。しかし、日本人は、それを當り前だと感じてゐる。敵は憎むものだ。憎惡は永遠である。そして、憎惡と平和とは、日本人の中では矛盾しないのである。
だが、憎惡の氣持は、ふとした拍子に、行爲へと姿を變へる。大人だらうが小學六年生だらうが、それは同じである。
適當に書いてゐたら、最初の邊と話が繋がつた。だからこの項、ここで終り。

平成十六年六月七日
さつき六日の記事を書いたばかりなのに今度は七日附けで書く。
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20040601から。
ブロガーとアホ読者 : HaTeHuMu*Pnoko -北国tv
ブロガーは、自分のサイト(ブログ)で自分の意見を言ってるだけ。他人の意見を変えたいわけでも強要しているわけでもない。
しかしながら、この筆者は、個人的な意見に対して、読者がコメントしたくなる気持ちは分かるが、相手(ブロガー)の意見を変えることを強要する行為自体、そもそもウザイことだと気づいて欲しい。と述べてゐる。
「○○しろ」は「強要」であり、「××に氣附いてほしい」は「強要」でない、とこの筆者は考へてゐるらしい。しかし、「××に氣附いた上で、○○しろ」と言つてゐるのと同じなのだから、「氣附いてほしい」は「事實上の強要」である。
さて、「アホ読者がゐる」と云ふ事に異論はないが、「アホ読者」の定義がこの筆者と俺とでは異る。この筆者は「あなたの意見は間違っている」というようなアホなコメントをしてくる人を「アホ読者」と呼んでゐる。しかし、俺はさう云ふ讀者を「アホ読者」だとは思はない。なぜなら、ちやんと意見に反應してゐるからだ。
意見そのものの是非を論じないで、「お前にはそもそも意見を述べる資格・権利がないのだ」と高壓的に言放つ人物がゐて、例へば例の「義」だが、さう云ふ讀者をこそ「アホ読者」と呼ぶべきであり、意見を述べたり、反論したりする讀者は「アホ読者」と呼ぶべきでない。「義」のやうな、人に向つて「默れ」と言はん許りの態度をとり、剩へ、實際に人が物を言ふのを妨碍するやうな行爲を行つてゐる人物を、「アホ読者」と呼んで、ウェブから締出すやうにすべきである。
Hiroshi Yoshii _The Daily Work: ●FLASHが腹立つ理由
吉井氏が「あなた」呼ばはりされたのにぶち切れたのは判る。「銀」氏が故意にとぼけてゐるのも判る。
けれども、言ひ方に穴があるのも明かで、「Posted by: yoshii : 2004年05月30日 20:15」の發言には、揚げ足を取られるべき理由がある。
「銀」氏のサイトをどう作るかなんてサイトの管理者の趣味です。と、吉井氏のウェブサイトはテレビでも映画でもなく、情報を得たくて訪れる場所だ。とでは、サイトの定義が根本的に異る。個人的に、吉井氏の言ふやうなサイトが多ければ、情報を探す側にとつてはありがたいし、君のために有益な情報を提供する場ではないと稱する「ブロガー」や企業サイトの擔當者が、サイト作りで遊ぶのは、やめて貰ひたいものだと思ふ。
のだが、個人の趣味丸出しのアニメ感想專門ブログなどを見てゐると、たまにやけに鋭い意見が出てゐて笑へる事があるので、通念で「情報」とか「遊び」とかを極附けるのは何うかと思はれる。
情報に辿り着き易い事は評價されて良い。ウェブで表明された意見に反論する自由がある事は、全面的に肯定されて良い。
いづれにせよ、「意見を言ふ自由」は肯定されてよろしい。そして、受容れられない意見には反論する權利を認めて良い。ただ、受容れられないかも知れない意見を述べてゐると自覺するのは良いが、それに反論される事も豫期する必要はある。その時、その反論が、反論として正當なものである必要はある。しかし、その正當性は、單に、意見に對する理性的・論理的な批判である事によつてのみ保證される。匿名での批判だからと言つて封殺されて良い理由にはならない。匿名を惡用し、意見を述べてゐる人物に對して反論・批判としては妥當と言へないやり口で攻撃を仕掛けた場合にのみ、その攻撃を否定する事は許される。しかし、いかに鄙劣で惡質なやり方をする人物であつても、嫌がらせの合間に論理的に正しい批判をしてゐて、それに反論できなければ、嫌がらせ自體はさておき、その批判自體は正當のものと言はなければならない。
匿名の人間が或論者を批判する場合、論者の發言する資格を問うてはならない。同樣に、論者は反論する人間の反論する資格を問うてはならず、匿名であると云ふだけの事を理由に反論自體を否定してはならない。
平成十六年六月七日
「私見」とか「個人の意見」とかを述べるのは許されるけれども、何であれ意見を言ふのならば「正しい意見」との繋がりを意識してゐなければならない。
自分の發言に何と言返されても、「俺の言つてゐるのは偏見だよ。それがどうした」と開き直るのでなく、自分の意見には或種の正しさがあると説明すべきである。
自己の偏見を肯定するならば、他者の偏見も肯定しなければならない。そして、偏見を認める事は、個人的には好ましくないと言はざるを得ない。偏見の域を超えた、普遍的な意見に繋がる意見をこそ、述べるべきである。普遍的であり、正しい意見であるならば、どれほど理不盡な攻撃を受けようとも、意見自體は力を失はない。逆に言へば、理不盡な攻撃をして他人を默らせても、その默つた人間の意見はそれだけで力を失ひはしない。或意見の效力を失はせられるのには、その意見の間違つてゐる事を證明するのが一番有效である。そして、重要な事だが、その種の反論が巧く行かなかつた時、もとの意見は却つて效果を増す、と云ふ事である。意見を述べるのも、反論するのも、そんなに氣樂には出來る事でない。
平成十六年六月七日
aozora blog: SEOまたはSEM
青空文庫にはいろいろ言ひたい事があるが。
取敢ず「青空文庫」でぐぐると青空文庫が一番に出て來るので安心していただければと。
平成十六年六月七日
ヨーロッパは「罪の文化」で日本は「耻の文化」だ――この種の單純な圖式は何うかと云ふ意見もあるが、別に圖式は圖式であり、事實と違つてゐても構はない。そもそも、單純化された時點で、事實は圖式からはみ出るものだ。そのはみ出ない部分がコアであるならば、それで十分だ。
ヨーロッパは罪の文化である、日本は耻の文化である、と云ふ。否、ヨーロッパの人間にも耻の觀念は有る、なるほど。しかし、日本人に罪の觀念があるか。あるとかないとか、議論の餘地はある。しかし、それは、單に、耻とか罪とかの定義が曖昧だからに過ぎない。
耻を「世間體」と定義し、罪を「イデアとしての絶對的な惡」と定義する。之は假の定義だ。定義としては曖昧だ。しかし、定義が無い状態よりは、遙かに嚴密だ。そして、嚴密化されるとすれば或方向に爲される事が期待出來る。そして、さう云ふ期待が實現される事を前提に、取敢ず、推論を進める。
日本人は、世間體を氣にし、世間に對して「耻」を感ずる。そして、それによつて自己の行爲を、良かれ惡しかれ、決める。この「良かれ惡しかれ」が問題で、自己抑制、自己相對化の方向に用ゐれば、「耻」の觀念は有益であり得る。しかし、他者に「耻をかかせる」と云ふ方向に用ゐるならば、有害である事も大いにあり得る。
世間に顏向け出來ないから「耻かしい事」を「しない」――これは、裏返せば、世間にバレなければ幾らでも「耻かしい事」を「して良い」と云ふ發想に繋がる。
此處に、「他者には耻をかかせる」「自分は耻をかかないで濟む立場に引籠る」と云ふ「戰術」が、「耻の文化」の社會であり得る事が推測される。
「罪の文化」のヨーロッパ社會には、「耻」の觀念ある――この時、圖式の批判者の意圖は閑却して良い。「罪」と「耻」との對立よりも、「罪と耻とが補完し合ふ二元論」と「耻と云ふ一元的な原理」との對立の方が、より事實に近い對立として考察に價する。圖式が不正確だと言ふのならば、より正確に近い圖式に訂正すれば良いだけの話である。しかし、圖式の批判者は、圖式を破壞して、それで事足れりとしがちである――日本の批判者は。ここで、日本の、と書いたのは、「批判」の目的が、日本人の場合、屡々「相手に耻をかかせる」爲の攻撃を目的とするからである。
世間の目と云ふ相對的の觀點は、囘避出來るし、利用出來る。だから、「耻」の原理だけで、人は自己抑制をし得ない。それは、日本でも西歐でも、どこでも同じだ。ただ、ごまかす事の出來ない絶對的の視點が、自己を見詰めてゐる、と云ふ固定觀念があれば何うか。氣に入らないX氏に耻をかかせたり、世間にバレないやうに不正な手段をとつたりする事は、「耻」の一元論で動く人間にはあり得る。實は、「耻」の觀念は、世間との利害得失によつて決定される價値の觀念で、物質的な――或は、唯物的な――損得勘定の觀念である。
これに對して、何時でも自分の言動を見詰めてゐる何か、どのやうにして匿さうとしても匿しきれない或種の存在、即ち絶對者の觀念がある人間――ヨーロッパ人には屡々「ある」と私は考へるのだが――世間の目は、「そこ」にない時、有效に機能しないのだが、彼の場合、何時でも「そこ」には絶對者の目がある。彼に於て、不正行爲は常に絶對者に見られてゐる。また、絶對者の「存在する」社會では、「耻をかかされた」人間も、それだけでは絶對的な價値を害はれてゐない事になる。
耻と罪とが補完し合ふ社會――世間の目と絶對者の目とがある社會では、「耻をかかせる」と云ふ行爲が、絶對的な效能を發揮し得ない。そして、「社會的な抹殺」と云ふものが、相對的な意味をしか持たない。絶對者一人に絶對は歸屬し、個人個人の意見は必然的に相對化される。このやうな社會では、却つて、意見の妥當性そのものの價値が相對的に高くなる。よつて、意見の正しさそのものの議論が、相對的に重きをなす。結果として、正しい結論が相對的に重視される。合理的な理論・思想・判斷がより尊重される。
「耻」の一元論で人が動く社會では、個人の意見が絶對化される。意見の正しさよりも、意見の支持者の多寡が重視される。支持された意見が常に正しいとは誰も斷言出來ないのであるが、にもかかはらず、支持されたと云ふ理由で或意見が屡々絶對化される。合理的な判斷よりも、感情的な同意が優先される。結果として、非合理的な結論がごり押しされる可能性が高くなる。
平成十六年六月七日
續き。齋藤勇『英文學史』(研究社)。ダブり。實はまだ續く。
平成十六年六月七日
やじうまWatchより。
Google 八分 の確認と対応の方法
餘談。マンガの中の聴覚障害者※ 代替スタイルシートで以前のスタイルが見られます。(Netscape 6 以上)とあるが、Operaでも見られる。

平成十六年六月六日
更新する時點で既に日附は變つてゐるけれども六日の記録。某プロジーの動畫カッターを買つて來た。
なんかまたへんに凝つたへんなインタフェイスのプログラムで、へんへんみんなへんといつた感じだが、取敢ず再エンコしないでGOP單位でのMPEGデータの切り貼りが出來る。

平成十六年六月五日
曖昧は誤謬の住む國である。ヴォーヴナルグ
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040603#p2
平成十六年六月五日
人は自分で自分を相対化などできない
人は、自己の相對化を出來る事もあるが、出來ない事もある。そして、内面では自己相對化など全然してゐないのに、外面だけ自己を相對化したやうに見せかける事も出來る。
平成十六年六月五日
もちろんそれは、客観的計量、判断の下しようのない俺の中の思いでしかないけれども、だからといってその「不確かさ」を盾にとって、外を見、自分を広げようとすることを放棄(することを正当化)しようとは思わない。
だからといって以下のぼうふら氏の宣言は何うでも良い。そんな宣言をしたぼうふら氏が、その宣言通りに物事を實行してゐるかゐないかは、話が別である。そして、ぼうふら氏の個人的な信條は、他人に押附けるべきものではない。他人への押附けは、その時點で傲慢である。
平成十六年六月五日
そうした普遍的な認識への試行と、同時に「こうでしかありえない」宿命の認識の振幅が、自己の絶対化への欲望に対するとき、必要不可欠なものだと思う。
坪内氏の外面的な發言を見て、即座に坪内氏の内面を斷定的に極附けるぼうふら氏は、内面の心情を問題にしてゐる。しかし、今、必要な事は、外面的な言動と、内面的な心情との關係を説明する事である。心情について、「道徳的」な説教をするのは、單なるごまかしに過ぎない。
そして、さう云ふ「道徳的」な説教によるごまかしは、あとでぼうふら氏が述べる、「不完全に生きていく」現実の人間に対する冷笑を自己保障へと摩り替えるような退廃、と紙一重である。
平成十六年六月五日
そして、正しく宿命を突き詰め対するためにこそ、安易な状況への媚や、外に目をふさぐ怠惰によって得るかりそめの絶対への固執こそ、厳に慎まなければならないのではないか。
ぼうふら氏は、坪内氏の、どのやうな發言が、どのやうな理由で、安易な状況への媚であり、外に目をふさぐ怠惰云々であるかを、指摘し、説明しなければならない。それらを省く事は、知的怠惰であり、松原氏が述べる通り、知的怠惰は道徳的怠惰である。
平成十六年六月五日
そして、「解決法がないこと」を指摘する保守主義に依存する精神は、しばしば「不完全に生きていく」現実の人間に対する冷笑を自己保障へと摩り替えるような退廃に陥ることがある。他と馴れ合わず絶対を志向する強さと公平さを保つためには、まず、そうした厳しいチェックを自分に課すことが欠かせないはずだ。
ぼうふら氏は今、模範解答的正論を述べてゐるに過ぎない。
平成十六年六月五日
これは(そして上の「為にする議論」という批判も。言葉尻だけ取り合う、ディペートごっこのようなことは時間の無駄だよ)は、坪内氏だけでなく、むしろあなたの文章について言ってる。そこをお間違えの無きよう。
ぼうふら氏よ、あなたのしてゐるのは、批判ではない。批判をするなら、道徳的な説教は、やめる事だ。道徳的な御説教は批判ではない。
ぼうふら氏は、ただ、現代的な模範解答的正論に依據して、坪内氏の發言に反撥し、坪内氏の讀者に道徳的な説教をかましたに過ぎない。
そして、ぼうふら氏は、反論を豫期してゐなかつた。これがぼうふら氏の非難が批判でない事の證據である。反論を豫期してゐれば、豫想される反論に對抗すべく、再反論が可能な論理を用意してゐるであらう。しかし、ぼうふら氏は、再反論を避け――と言ふよりも、そもそも反論する事自體を言葉尻だけ取り合う、ディペートごっこのようなこと根據なく極附け、時間の無駄とレッテルを貼り、道徳的な非難をしてごまかしてゐる。かう云ふごまかしをこそ、福田恆存は憎んだのではなかつたか。
「為にする議論」そのものを、福田氏は憎まなかつた。ただ、「為にする議論」であつても筋を通せ、と言つただけだ。ぼうふら氏よ、あなたはその邊を全然理解してゐない。
平成十六年六月五日
ぼうふら氏よ、あなたは正しさを模索するという、自立した姿勢が大切だと述べてゐる。しかし、さう云ふ態度の事を言ふあなたに、私は精神論の臭ひを嗅ぎつける。
あなたの言ふ「正しさの摸索」とは、具體的にはどのやうなものなのか。
言葉を曖昧に用ゐ、つつこまれると「道徳的」な説教をして居丈高に居直る――さう云ふぼうふら氏の態度は、福田氏が最も憎んだところのものではなかつたか。
福田氏は、「為にする議論」式の安易なレッテル貼りで、論敵の批判を躱さうとした事はなかつた。言葉の曖昧さを指摘する批判は、福田氏もした事だし、松原氏もした事だ。福田氏は批評家であり、論爭を避けなかつた。
ぼうふら氏よ、あなたは今、論爭を囘避しようとしてゐる――そして、論爭囘避の爲に、模範解答的正論に依存するような態度をとつてゐる。自分を意識的に引き受けることなく棚に上げてゐない、とぼうふら氏は反論するかも知れないが、しかし、そのやうな逃げ口上こそ、言葉尻だけを取つたものであらう。あなたの精神論は御立派だが、態度がそれを裏切つてゐる――そのやうに私には見える。
福田氏は「演戯する事」が大事だと述べた。自己を演じようと努力すべき事を主張した。そこには、單なる精神論はない。寧ろ、精神を匿す事、演技した結果としての外見を整へる事、抽象的で觀念的な精神論を超えた、具體的な態度で示す事を、福田氏は主張したと言つて良い。
そして、ぼうふら氏は何を言はれても自己保障の爲の現実の人間に対する冷笑を止めないだらうから言つても無駄だらうから、ぼうふら氏以外の讀者――と言ふよりも、サイトを持ち、「ウェブログ」を書いてゐる人に言ひたいが、「自分はかう云ふ人間である」と宣言し、「××として物を言ふ」と云ふ立場をとりつゝ、自己批判をして見せる、と云ふ態度をとるのは、やめるべきである。自分で自分を定義して、それを讀者にただ押附ける、と云ふのは、反論封じの爲の「逃げ」である。發言する際には「自己を棚上げ」する「演戯」も必要である。問題は、その「演戯」が巧いか拙いかだけである。

平成十六年六月四日
aozora blog: 人間らしさって何ですか?
そうなんだよなあ。だれでも、理性ばっかりではいられないんだよなあ。
狂気暴力は抑へ切れない、と云ふ文脈だと思つたら。
素手でとっくみあうことを知っていれば、鼻血を出したり腕を折るくらいですむ。それを飛び越していきなりナイフやカッターという最終手段を持ち出すのは……。
唐突に「抑へるべきだ」と云ふ話になつてゐる。
例の小學生の殺人事件だが、事件が起つた事は別に不思議でも何でもない。ただ、事件後、同級生がショックを受けてゐたと報じられたのが氣になつた。
「人間は暴力や狂氣を抑へ切れない」のであるならば、「でも努力しましょう」と精神論的な教育をする許りでなく、現實的な對處の仕方をも教へるべきではないか――「暴力や狂氣に耐へる精神」の涵養こそ、教育ですべき事ではないか。
平成十六年六月四日
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040603
なんかあなた呼ばはりされてゐるし。
しかしね、俺の文章が理解できなかったらしいから仕方ないのかもしれないが、各々自分の現実を引き受ける「勇気を挫く」ようなことを福田恒存が言っているというのは、どう考えても違うと思うよ
何う考へても、あなたみたいに割切つた事を福田氏は言つてゐないと思ふよ。
福田氏は、勇気を挫くやうな事言つてゐるよ。と言ふより、勇氣が必要である事を承知してゐるからこそ、福田氏は覺悟と言ふ。そして、覺悟なんてものは、簡單に出來てしまつては覺悟でないのだ。
福田氏は、率直に言つて、解決策など何處にも無いのだ。と述べてゐて、初期の文章で福田氏は、その批判されるべき「解決策」として、安易な「自己否定」を見出してゐる。福田氏が文藝評論を書いた時代は、「自己否定」の文學が流行の時代だつた。しかし、だからといつて、單に「自己否定」批判を福田氏がしてゐたに過ぎない、と見るのは間違つてゐる。それこそ、福田氏が批判した「安易な解決策」と同樣の安易な判斷である。
福田氏は「自己」を「肯定」するか「否定」するかの議論をしてゐるのではない――此處を誤りなく讀取らなければ、福田氏の主張は理解出來ない。
福田氏は、「自己」と附合ふのは大變に難しい、と述べてゐるのである。そして、「肯定」すれば良いとか、「否定」すれば良いとか、さう云ふ單純な解決策を安易に呈示されるのが困る、と主張してゐる。ただ、「時代の制約」で、福田氏が文章を執筆した當時の批判すべき對象が「安易な自己否定」であつただけである。
何より問題なのは、「情報資本主義に首まで浸かった現在、自分もふくめてみんなサブカルである」という現実を引き受けて、自分の問題として考えるのでなく、我一人高みにおいて俯瞰のポーズで肝心の問題をそらす姿勢(しかも、責任は巧妙に論敵へなすりつける卑劣なやり口)。とはてなダイアリー - ぼうふら漂遊日記の中の人は書いてゐるけれども、坪内氏、肝心の問題とは何かを解つてゐるから、小林よしのりを批判したのだらう。實際のところ、小林の漫畫を讀んでゐれば、小林が實に安易に解決策を呈示してしまつてゐる事は明かだからである。
坪内氏が高踏的であるとはてなダイアリー - ぼうふら漂遊日記の中の人は見てゐるやうだが、解決策の安易な呈示を留保してゐる、と見るならば、坪内氏の評價は變らう。坪内氏は、模範解答的正論に依存するような態度はとつてゐないし、寧ろ小林の方こそ、模範解答的正論を『戦争論』や西部邁との對談でぶつてばかりゐる。俺には、小林の性急さを、情念的と見る事は出來ないのであつて、飽くまで觀念的と見る。
平成十六年六月四日
ついでに言ふと、小林と福田氏とを結び附けて論ずるのは何うかと思はれる。小林の立場は西部のそれと近く、西部の立場は福田氏のそれと全然違ふ。
俺は西部を福田氏の後繼者と認めない。西部は福田氏の主張を全然解つてゐない。西部は單なる保守主義者である。
福田氏は、自分の後繼者は西部だとか言つたさうだが、自費出版のトンデモ本を送り附けたかの波江究一にも禮状を出し、波江を褒めてゐる。御蔭で波江が好い氣になつてゐるが困つたものだと俺は思つてゐる。
もし福田氏の言葉はとにかく何が何でも「正しい」と言ふ人がゐるならば、俺は申し上げたい、「福田氏の後繼者」に過ぎない西部よりも「福田氏を追越した」松原正氏の方が偉い、と云ふ事を無條件に認めるが良からう、と。(『知的怠惰の時代』推薦文參照の事)
なほこの項、ぼうふらの人の文章とは餘り關係がない餘談。と言ふか、俺は誰に怒つてゐるのですか。閑話休題。
平成十六年六月四日
と言ふか、はてなダイアリー - ぼうふら漂遊日記の中の人は、どうも福田氏の文章を殆ど讀んでゐないやうだ。少くとも、福田氏の文化論を理解はしてゐないやうだ。
あなたはサブカルと文学を対立するものととらえて、自分を文学の側に置いているつもりのように読めるけれど、俺が今言う「サブカル」っていうのは、有機的なコミュニティや人間関係の中で形を持って生きられる文化じゃなく、情報として文化が流通し享受されている状態のこと。
流通したり享受されたりするものは、福田氏の言ふ文化ではないのだよ。
平成十六年六月四日
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040603#p1
平成十六年六月四日
具体的な対象を前提にすることをせずに話していると、しばしば人は自分の基準や前提にこだわってひとりよがりになり、議論はただ自分の思い込みを守るため、言いっ放しの、ただ「為にする」ものに堕しがちだね。
結局のところ、具体的な対象としての例の對談を、ぼうふら氏は引用して批判してゐないし、俺はそもそも讀んでゐない。この時點で、ぼうふら氏の指摘はぼうふら氏と俺の彼我ともに當嵌る事になる。
ただ、俺はぼうふら氏のこの「議論」論を認めてゐない。だから、ぼうふら氏の文章の論理に、俺は束縛されない。しかし、ぼうふら氏は、ぼうふら氏自身の文章の論理に束縛される。
俺には、ぼうふら氏が、根據ナシに坪内氏の言動の動機や意圖を極附け、惡態を吐いてゐるやうにしか見えないのだ。そして、坪内氏が福田氏、及び松原氏の文章を讀み、理解してゐる事を確信してゐるから、ぼうふら氏の非難を俺は批判してゐる。そして、ぼうふら氏が説明を重ねる程に、氏が福田氏の文章を讀込んでをらず、理解もしてゐない事は明かになつてゐる。これでぼうふら氏の非難を頭から信じ込めるほど、俺は御人好しではない。
具體的に、坪内氏のXと云ふ發言は、Yと云ふ理由で、「爲にするものに墮してゐる」と、論證して貰へれば、こちらとしても「おつしやる通りです」と言ふしかない。
しかし、ぼうふら氏は堕しがちだねと、傾向の話をしてゐる。傾向の話をされても、傾向と可能性は何とでも言へるから、決定的な反論は不可能である。
と言ふか、推測だが、ぼうふら氏は、SPA!を立讀みしただけで、今、手許に持つてゐないのではないか。もし購入してゐたのなら、引用できる筈だ。今まで對談の發言を引用してゐないのは、對談の載つたSPA!をぼうふら氏が持つてゐないからではないか。
平成十六年六月四日
福田恒存が安易に「流通し、享受し得る」ような情報を文化と認めていないこともそのとおりだと思うけれど、だから今、文学として流通しあなたが享受しているのは、もはや文学じゃない(かもしれない)という認識は持つべきじゃないかと、言ってるんだよ。

文化といふ言葉は大體二樣に用ゐられてゐる。第一は、民族や時代の生活樣式を集中的に表してゐる建築、美術、工藝、音樂、文學、教育などを指す。無形文化財、室町文化がそれである。その他は第二の意味に屬する。すなはち、進歩的で西洋的でハイカラで、文明開化の響きを有してゐる。しかし、兩者ともに間違つてゐる。少くとも表面的である。では、文化とは何か。エリオットによれば、文化とは民族や時代の「生き方」なのである。

ぼうふら氏は、福田氏の文学に關する文章を讀んでゐないか、理解してゐないか、のどつちかだと思ふ。「一匹と九十九匹と」で福田氏は、文學がどんなものであるかを説明してゐるし、その説明は、一般的な意味での「時代の制約」を免れてゐる。
平成十六年六月四日
小林よしのりについて。觀念的である時點で本気さとリアリティを感ずる事は出來ない。
平成十六年六月四日
坪内祐三は、今俺があなたに言ったような意味で、小林よしのりに、自分の現実の認識と絶望が足りないと言いたそうだけれど(俺は、小林よしのりは相当にその現実に苛立ち、だから「自分はそうじゃない」と抗っているようにみえるし、彼の中の結論はどうあれ、本気さとリアリティは感じる。
ぼうふら氏の主觀を通した要約に基いて言ふのもアレだけれども、小林は「自分」を出し過ぎる。そこに自己欺瞞の影を見出すのは、福田氏ならば當然のやうにやつた事だらう。
平成十六年六月四日
認識によって繕いながら、自分の環境や体質を批判的に相対化することに対して相当に不徹底で、そうした利己や弱さを繕うために批評と処世のすり替えを巧妙にやっちゃうような部分が多分にある人だと俺は思うし(体質的には、福田恒存というより、例えば大岡昇平からやんちゃな少年性と余裕をひいたような感じに見える)、そこは気をつけて距離をとりながら読みたいといつも思う。
「自己を自分で相對化する事は可能だ」或は「自己を自分で相對化するやう、努力すべきだ」とぼうふら氏は考へてゐるのだけれども、率直に言つて、自己を自分で相對化する事など出來る筈がない。我々には、自己を相對化する精神とともに、自己を絶對化したいと思ふ精神がある。どれほど謙遜して見せたところで――否、見せる爲の謙遜こそ、傲慢であると言つて良い。一方、そこで開き直つて、傲慢の振りをして見せる事は、僞善が僞惡に姿を變へただけで、傲慢から免れた事にはならない。
傲慢から免れる爲の解決策が容易に見出せない事を、我々は自覺する必要がある。ここに、意識的な「自己の棚上げ」を福田氏が要請する理由が生ずる。そして、坪内氏はその邊の事を意識してゐると俺は信ずる。
平成十六年六月四日
そもそも。
若気の至り的な蛮勇や過信、他人任せの正義への依存を戒めこそしても。/そして、自分を意識的に引き受けることなく棚に上げて、模範解答的正論に依存するような態度こそ、誰よりも鋭く批判した人だと思うんだが。
俺には、ぼうふら氏の意見こそ、現代的な模範解答的正論であるやうに見えるのだ。
平成十六年六月四日
以下、ぼうふらの人とは無關係。
「闇黒日記」の記事は、リストであり、個々の記事は同じレヴェルで「日附」の下にぶらさがつてゐると解釋できる筈だが、多くの讀者が「上から下へ」讀んで一聯のリニアな文章として理解するだらうから一往。
もつとも、さう云ふ現實があるからこそ、俺はHTMLに關して、「上から下へ讀まれ、理解されるもの」と言ふ訣だが。だから俺はXHTMLを認めない、とも言ふ。
平成十六年六月四日
幼稚な人ほど「トンデモ」思想をありがたがる。
平成十六年六月四日
@ 神田古書會館。
芳賀矢一『日本人 附・戦争と國民性』冨山房百科文庫(戰前版)77
『サント・ブウブ選集1 中世及び十六世紀作家論』實業之日本社
マキアヴェルリ選集第五卷・第六卷『フィレンツェ史』創元社
龜井勝一郎編『若い人々のための文學論』要書房 昭和30年2月10日發行。福田恆存「小説の読み方」所收。萩原朔太郎、川端康成、武者小路實篤、三島由紀夫、龜井勝一郎、中野好夫が正かな。野間宏、福田氏が新かな。
川端康成『抒情歌』創元選書126
ヴォーヴナルグ『箴言と省察』創元選書156
河上徹太郎『道徳と教養 其他』創元選書147
河上徹太郎『自然と純粹 其他』創元選書125
ゲーテ『若きヴェルテルの惱み』創元選書179
某所の某氏がまた「書架の配置が」云々と言ふかと思ふと憂鬱。
平成十六年六月四日
例の「續き」は來週。取敢ず古書展の本を持歸るのが先。

平成十六年六月三日
何となく「_」でぐぐつて(謎)みたのだが、「在宅でできるお仕事」關係のサイトがヒットし捲る。なぜだらう。
平成十六年六月三日
例によつて續き。
『現代詩講座』3と4 創元社
スタンダール『戀を追う女(ラミエル)』新人社
アンドレ・モロワ『ヴォルテール』百花文庫
J.M.ボヘンスキー『現代のヨーロッパ哲學』岩波現代叢書 だぶり。
まだ續く。
平成十六年六月三日
Opera Changelogs
なんでリリース日を明記してゐないんだよ。
http://www.opera.com/windows/changelogs/751/はtitle間違つてゐるし。

平成十六年六月二日
つづき。
プロスペール・メリメ『二重の誤解』晃文社フランス文學選集1
モリエエル『孤客』筑摩書房(言ふまでもなくダブり)
伊吹武彦『近代佛蘭西文學の展望』白水社
A.シーグフリード『現代 二十世紀文明の方向』紀伊國屋書店
スタンダール『媚藥 他六篇』世界文學社
まだ續く。
平成十六年六月二日
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040601#p3
うした骨がらみの文化を失って久しい我々の誰もが、すでにサブカルだということをどう引き受け、そうした現実の自分達のあり方にどう対して行くのか、という問題に立ち向かう勇気を挫くようなズルさを、俺は問題にしてるんだよ。
意味が良くわからない。
福田氏自身が勇気を挫くやうな事を言つてゐるのだし。
だが、失はれた文化を早急に、しかも人爲的に再建する事など出來る筈が無い。率直に言つて、解決策など何處にも無いのだ。それなのに一方では性急に解決策を提示したがる人々がをり、他方、それをありがたく押し頂かうとする人々がゐる。そこから馴れ合ひと欺瞞が生じる。さういふ事にはもう充分懲りた筈ではないか。
すでにサブカルだということをどう引き受けと言はれても、別に引受けるも引受けないも無いと思ふのだけれども。何かを意識的に引受けようとする事がそもそも人爲的なのであつて。云々。
と言ふか、レゾンデートルレゾンデートルつて、茲はレゾンデートル村ですか。
そもそも、論壇内的発言とかしかも、責任は巧妙に論敵へなすりつける卑劣なやり口とか、レッテル貼りばつかり。
(サブカルに理解があるそぶりで、その実巧妙に権威的文学中心主義であるところも、高橋源一郎などに通じ、要注意だな...)
何と言ふか。「サブカルを絶對化するな」とか。何と言ふか、福田恆存に理解がある素振りで、その實巧妙にサブカル中心主義である處も。云々。
平成十六年六月二日
僕は、坪内氏の文化的博覧強記ぶりや見識には学ぶところが多いと思っているが、そうした装いによって繕われている部分にこそ、この社会の根本的な問題が露呈していると思う。
社會だの構造だのと言ふ輩が跳梁跋扈してゐる事こそ、この日本社會の根本的な問題があると思ふ訣で。
平成十六年六月二日
坪内氏にも言はうと思へば言へる事はあるんだけれども。
サブカルに理解があるやうに取られかねない言動は拙いよとか。
しかしそれを言つたらせんせいのお時間だのプリキュアだのと騒いでゐる俺も同罪になる。
だから俺は言はない。
今の時代、その手の發言を「戰略」として用ゐる事くらゐ、當り前なのだし。
平成十六年六月二日
と言ふか、俺は今期のアニメでは、プリキュアよりもせんせいのお時間の方が面白いと思つてゐるのだから、某所でプリキュア野嵜呼ばはりした輩は、みかせんせい萌え野嵜と言直すやうに。俺の最近の一聯の發言を良く讀んでゐれば、プリキュアもサヴァイヴもリアルタイムで見てゐないのに、せんせいのお時間だけは毎週律義に見てゐる事は判る筈だ。俺は何を言つてゐるのだらう。
平成十六年六月二日
推理によつて藝術作品を批判しようとすれば、もはや、固定的なもの、確實なものはなくなる。勝手次第なことが證明できるのだ。

平成十六年六月一日
テプラは、操作性、印字の品質、マニュアルの出來、の全ての點に於て劣惡。
平成十六年六月一日
ソフトバンクBB、恐喝未遂事件容疑者逮捕を受け発表会開催〜「PC JAPAN」休刊へ。容疑者の1人は「PC JAPAN」に執筆するライター〜
昔々、市ヶ谷で自衞官相手に演説を行ひ、クーデタを起せとアジつたものの野次り倒されて激昂して腹を切つた三島由紀夫と云ふ人がゐたのだけれども、誰の目にも三島氏は明かに犯罪者である。にもかかはらず、彼が執筆した雜誌は事件の所爲では一つも潰れなかつた。それどころか、三島の著作は、現在も文庫本で賣られてゐる。
先日、三島氏の著作『若きサムラヒのために』を紹介した野嵜の「闇黒日記」も、やはり無事である。
情報のセキュリティに關してはうるさく言はれるのに、國家のセキュリティに關しては何うでも良い事であるらしい。
――と書ければ良いのだが、野嵜の個人情報を勝手に流したり、見て來たやうな嘘を言つたりする人は、「ゐる」のであり、依然、無事である。寧ろ、そのやうな人物の所爲で、野嵜の方が危險な状況である。兔角この世は不條理である。
と言ふか、セキュリティセキュリティと皆、言つてゐるけれども、別に誰もセキュリティ等、氣にしてはゐないのである。企業なり誰かなりを叩く理由になるのならばわざと尊重して見せるし、逆に誰か個人を攻撃するのに使へるのならばわざと侵害して見せるのである。
それでは困る。
平成十六年六月一日
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040601#p1
はてなダイアリー - ぼうふら漂遊日記の中の人が坪内祐三氏の發言を怒つてゐるのだけれどもSPA!を讀んでゐないのでにんともかんとも。なんか坪内氏が小林よしのりを高く評價しなかつた――と言ふか、採上げておいて高く評價しなかつた――ので怒つてゐるらしいのだが。公平な目で見て小林氏を高く評價する「ナショナリズム」こそ何うかと思ふのだが。
讀んだ人の感想を希望してみる。
平成十六年六月一日
http://d.hatena.ne.jp/i-miya/20040503#1083574672
この人のいってる「○○」は、あの人の言葉でいえば「××」で、でもほんとはちょっとニュアンスが違う、とか、その反対に、ある人が作った「○○」という用語に別の人が勝手に違う意味を与えて使っていたり、極端な場合では同じ人の同じ用語でも初期と後期じゃ意味がちょっと違う、とか。もうちょっと互換性考えてくれよ! と文句も言いたくなるのだけれど、云々。
面倒臭がつてだか素でだか知らないけれども同じ「○○」と云ふ用語だからと言つて「意味も同じ」と極附けて讀んでしまふ某高橋氏に比べれば、実は私は哲学とか思想の本が苦手でしてと書くはてなダイアリー - i-miyaの日記の中の人はずつと誠實だ。と思つた。
平成十六年六月一日
読冊日記(http://member.nifty.ne.jp/windyfield/200305a.html#01_t1)の風野春樹氏が誠實であるのだと。いつもいつもどうもです。
http://member.nifty.ne.jp/windyfield/200305a.html#01_t1
実は私は哲学とか思想の本が苦手でして、その大きな理由は用語の煩雑さにあるのですね。この人のいってる「○○」は、あの人の言葉でいえば「××」で、でもほんとはちょっとニュアンスが違う、とか、その反対に、ある人が作った「○○」という用語に別の人が勝手に違う意味を与えて使っていたり、極端な場合では同じ人の同じ用語でも初期と後期じゃ意味がちょっと違う、とか。もうちょっと互換性考えてくれよ! と文句も言いたくなるのだけれど、この本だと、観客のいる場で行われた対談であるせいか、随所で用語のすりあわせが行われていてとてもわかりやすい。
はてなダイアリー - i-miyaの日記の中の人は、どうして見出し+アンカーで引用してゐるんだよ。QとかUnqとか訣のわからない文字列があると思つたら。ローカルな記法を使はれると迷惑だ。
平成十六年六月一日
編緝してゐたら訣がわからなくなつてついカッとなつてやつた。
惡氣はなかつた。
平成十六年六月一日
拾ひ物 @ 田村。その1。
桑原武夫・生島遼一『文學と女の生き方』中央公論社
アルベール・ティボーデ『小説の美學』白水社
モリエール『タルテュッフ』白水社・佛蘭西古典文庫3
モリエール『守錢奴』白水社・佛蘭西古典文庫12
明日に續く。

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2004年5月(その1)
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