聖戰第四周年、七月七日を迎へて、感慨そゞろに新たなるものがある。思へば滿洲事變以來、國の内外の新體制、着々その軌道に乘り、日本的なるものゝ探究は熾烈を極めるに至つた。只熱し易く、冷め易い一面を有すると考へられる民族性を思ふ時、今こそ不退轉の勇猛心の必要が痛感せられると同時に、時局に便乘せんとする徒の續出せんことを憂ひ恐れるのである。
最近一部に假名遣問題をめぐつて、この種の便乘主義者の策動蠢動あるを聞くことは、誠に悲しむべきことであると思ふ。
昭和六年九月、十月、十一月、十二月の四號に亙つて、本誌がこの假名遣問題を取上げ、各方面の權威の説を網羅し、世の反省を促して正に十年、今又かゝる輕擧妄動者、單視眼者流の爲に、起たねばならなくなつたことは、思へば遺憾の極みである。
云々。
ここでさきほどの家永(三郎)氏の批判にかえるのですが、尾藤氏によれば、家永氏は津田(左右吉)氏の立場を基本的に継承しているばかりでなく、津田氏とは違った実践的関心をもっているために、氏による津田氏の主観性容認は一層強烈な主観性の主張となってあらわれるとします。たとえば家永氏が「私たちは犬のように鋭敏な嗅覚をはたらかせて、価値のかぎ分けに努力しなければならない」、「実践的関心から企てられる思想史において、否定せらるべきものと継承せらるべきものとの鑑別はきわめて重要である」というとき、尾藤氏は「研究の過程にこのような主観的価値判断をはたらかせた場合、その結果について、家永氏はどのようにして学問的な客観性を保証しようとするのであろうか」と危倶の念を表明するのです。尾藤氏の危倶を私なりにパラフレーズすれば、それは歴史的価値判断と主観的価値評価の混乱ということになろうかと思います。つまり歴史的な価値判断、換言すれば歴史的重要性の評価と、ある思想が進歩的であるか反動的であるか、または判断を行なう歴史家の主張にとって正しいか正しくないかは、別個の次元にぞくする事柄であり、混同されてはならないということであります。
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個人の誹謗・中傷・非難はしない、つて、そんなのブログに限らず當り前の話だらう。ただ、「誹謗」「中傷」のやうなレッテルを「自分に都合の惡い事」を言ふ人には例外ナシに貼つてしまひ、正しい批判まで封殺するやうな事は止めて貰ひたい。
他人のサイトに迷惑を掛けないの例として、
「喧嘩を売らない」「迷惑コメントをしない」「相手を負かす目的の反論をしない」を擧げてゐるが、これはをかしい。
自分がやられたら困ることをしないという常識的なものです。と筆者は書いてゐるが、間違ひにつつこまれ事を「困ること」だと極附けるのは、何うかと思ふ。要は「論爭を避けたい」と云ふのが本音だらう。「ブログの正統は馴れ合いである」とでも言ひたいのだらうか。
ヴィトゲンシュタインの生活と人格について沢山の根拠のない伝説があったように、かれの弟子たちの間にもきわめて不健全な派閥主義が現われてきた。これがヴィトゲンシュタインをひどく苦しめることになる。かれは、自分の教師としての影響力が、全体として、弟子たちの独立心の涵養に有害であると考えた。残念ながら、わたくしは、かれが正しかったと思う。わたくしは、なぜかれの影響力が有害にならざるを得なかったかを、少しは理解できると思う。それは、かれの考え方の深さと独創性のために、かれの思想を理解することがきわめてむずかしく、まして、かれの思想を自分自身の考えに組み入れることなど更に困難であったからである。同時に、かれのパーソナリティとスタイルは、もっとも魅力的で説得力があった。かれの表現形式やきまり文句を使うようになったり、さらにはかれの声の調子とか物腰とか身ぶりとかを真似するようになったりすることなしに、かれの下で勉強することはまず不可能であった。その危険は、思想が堕落してコトバの遊戯になってしまうことであった。偉大な人間の教えは、しばしば単純さと自然さをそなえていて、むずかしいことがやさしく把握できるように見えるものである。それゆえ、その弟子たちは通常とるに足らない模倣者になってしまう。偉大な人間の歴史的な意味は、その弟子たちによって明らかになるのではなく、もっと間接的で微妙な、しかも往々にして予期できないたぐいの影響を介して明らかになるものなのである。
ヴィトゲンシュタインのもっとも著しい特性は、かれの偉大にして純粋な真剣さと、その強力な知性であった。この二つの点に関して、わたくしは、かれほど強い感銘を与えてくれた人に出会ったことがない。
思うに、真剣な性格には二つの形態がある。一つは「強固な原理」に立脚しているもの、もう一つは情熱的な心情から生まれてくるものである。前者は道徳的であり、後者は、思うに、宗教に近い。ヴィトゲンシュタインは、鋭敏で苦しいほどに義務というものに対して敏感な人であったが、かれの人格のまじめさと厳しさは、第二の種類に近かった。けれども、かれが世間並み以上の意味で「宗教的」であったと言えるかどうか、わたくしにはわからない。かれがキリスト教の信仰をもっていなかったことは確かである。しかし、かれの人生観はゲーテの場合のように非キリスト教的ないし異教的なものではなかった。ヴィトゲンシュタインが汎神論者でなかったと述べることは、重要なことを述べることであろう。かれは「神は世界の中では自身を啓示しない」と『論考』の中で書いている。神について考えることは、とくにかれにとっては、恐ろしい審判について考えることだったのである。
さらに、表示中の画像を壁紙に設定することもできようになった。つて、前から出來たよ?
画面全体に拡大して壁紙表示する機能を追加。が正解。
壁紙に表示するとき、事前の壁紙が拡大して表示されているとおかしくなるバグをFIX。助かる。
子曰、攻乎異端、斯害也已、とある。
關聯電網核つて、何語なのだらう……。
この問題は、TABLE要素に記述される内容が原因。
名古屋市でも繁華街での路上喫煙禁止条例の制定に向けて検討を始めているとのこと。云々。「火気厳禁」の場所ならば本人にとつて「危険」だから喫煙者も喫煙しようとしないが、路上では他人が危險なだけだから喫煙者は喫煙しようとするに決つてゐる。俺は、烟草の烟が嫌ひだが、一日の半分、空氣の惡い都心にゐて平然としてゐるくらゐだから、別段、肺の健康に神經質になつてゐる訣でもない。ぶつかれば熱いだらうし、昔、韓國人の路上喫煙者の攻撃を受けた事があるが、何うでも良いと言へば何うでも良い。
このJIS規格原案5.3hでは、ナビゲーションの前に、本文などへ直接ジャンプできるリンクを置くことを推奨しているらしい。
愛知県の名古屋市を中心とするケーブルテレビ局「スターキャット」の
番組情報を提供するサイト。素晴らしい。
その事実の特殊性について、Mozillaを安易に他人に勧める「利用者」も「経営者」も「サポーター」も、不安定すぎて駄目だと罵る「消費者」も、あまりに無自覚すぎると僕は思う。
Gecko には、いまだに いびつな (baroque)部分があります。 その原因は、初期におけるデザインの制限と、中心的な問題をパッチで解決してきたためにコードが蓄積された事です。そして、Geckoは改良される餘地があり、改良する、と。
繰り返しますが、私たちはここで、ただ方向性を示しているだけです。と云ふ事。まだまだ先は長い事。
この拡張機能の対応バージョンはFirefoxの0.6から0.8+までですよ云々。
- 意味不明
- 読みづらい
- 説教口調
- 漢字率が高い
- 途中でコンピュータ用語や哲学用語が頻出する(ビジュアル系バンドの歌の歌詞に出てくる英語と同程度に意味不明)
- ↑のあたりで論理の飛躍がある
- オチはグダグダ。もしくは厭世的。自嘲もアリ
漢字率が高いの項だけ、仲間外れだと思ふが如何。
日夏耿之介博士華甲記念文集なのだと。
わたくしは近ごろ、できるだけシナもじを使はないようにしたいと思つてゐるし、またニホンの固有名詞はすべてカナで書くがよいと考へてもゐるが云々と語つてゐる。そして、
この書の刊行についていろいろのおせわになつた、いはなみ書店のぬのかは かくざえもん氏、ならびに校正をおたのみした同店のにしじま くすを氏に、厚く御禮を申し上げる云々、結尾の署名として、
りくちゅう ひらいずみ において つだ さうきちと書いてゐる。
漢字率は低くなるが、個人的にかう云ふのは何うかと思ふ。一方で、津田氏は、假名遣改定には反對の立場だつた。その爲、現在に至るまで、津田氏を身内と考へる國語國字改革反對派の人が少くない。しかし、津田氏の意見は、例の高島俊男氏のそれともども、贊成いたしかねる。
キング・イングリッシュとプレシデント・イングリッシュとを比べたら、プレシデントの方がずっと簡便だが、その簡便をもっと簡便にしたいと考えたプレシデントがあった。鼻眼鏡と虎狩りで有名なセオドール・ルーズヴェルトである。
動詞の語尾変化をみんなtの字だけつければよいことにしようという説など、相当共鳴者もあったのだそうだが遂に実現しなかった。言葉は生きもの、アメリカのような国でさえ簡便ということだけではどうにも動かせなかったところに微妙なものがある。
それを政府の方針だけで決め、一片の布告で国民に押しつけてしまったのが日本だから大したものだ、「新体制仮名づかい」とか「漢字制限」とか、まことに政府の権能は大したものである。ところがこれは、憲法学の権威故美濃部博士の説によると、明らかに憲法違反になるのだそうだ。そういわれるとわれわれ素人にもわかる気がする。それでこそ憲法だという気になれる。
国語をいじくると、これがもしもフランスだったら大騒動だろう。何しろドイツ語は馬の言葉で、英語は犬の言葉で、わがフランス語だけが人間の言葉だと誇っている国民である。事がフランス語に関したらそれはフランスの伝統的道徳につながる問題だとして騒ぎ立てる。その事例なら数え切れぬほどであるだろう。
「ブウルボン宮殿をアカデミイの如くにした」と木下杢太郎がパリ通信の中に書いているのもその事件の一つだ。中学校の必修課目としてラテン語、ギリシャ語を残すべきか除くべか、日本ならば平気で文部省内の一局ぐらいで片付ける問題だが、これが国会の議題となり、甲論乙駁、二十日余りにわたってやっと納まったのだそうだが、国会が、ためにアカデミイの如き観を呈したということ、われわれとしてはただうらやましいと嘆息するだけである。
最高裁判官の経歴書というのが廻って来たが、これだけではどうにも頼りない。曖昧なものは判定の材料として取上げぬのが裁判の常識だと聞いていたが、これで投票しろというところをみると、裁判と審査とは違うのだろう。それにしても、もしも文芸家協会あたりで「新制仮名づかい」の決定を憲法違反で告訴してくれていたらと思った。
つまりその判決次第で、私は確信的×印をつけることが出来たろうからである。
- (一・二三)
- 福田
- 言葉にしても五線紙の上に書くものは世界語だし、絵画にしても色調というものは、つまり一つ言葉でしょう。その点、文學に比べて羨ましいですよ。
- 高田
- 日本文学にノーベル賞が來ないのは日本語で書いているからだと、事もなげに石川達三君が言ってるんだが、
- 福田
- 事もなげには困るけれども、日本語の地方性というものが日本文学の世界性を妨げていることだけは事実でしょう。
- 高田
- その事実を認めるから、ぼくはこの際思い切って國語國字の革命をやってしまえという論者なんだが、しかし文学者諸君はその問題に対して大体保守主義者らしい。
間違いやすい言葉の正誤判定。
現代假名遣ひより派生した俗語を歴史的な假名遣ひの文章中に用ゐるのはのりピイ語で叮嚀語を使へと言はれる位難かしいのですが現在ネツトワアク上で正字正假名を御使ひの皆樣は如何折合ひを即けていらつしやるのでせうか
でも、一応言いますけど、日本って「法治国家」なんですよねー。だから、別に「お上が決めた事」とか関係なく、法律ができる事って大きな事なんです。(それに従って国を運営するって事なんですから。)だから、そこに文句をつけるのは当たり前の話でしょう。
それから、私自身、「お上」って考え方をしてないし書いてもいないハズなんですね。と宣言してゐるけれども、やつぱり、理由を附けて、「お上」のする事はすごい、と言つてゐるんですよねー。理由を附ければ良いと言ふものではないし、宣言すれば良いと言ふものでもありません。私が勝手に規定してゐるのではありません。それを言ふのならば、netwind氏の自己規定こそ、「勝手な規定」です。否、自分で自分を規定する方が勝手だ。他人の目よりも自分の規定の方が客觀的な事實である、と云ふ判斷は出來ない筈です。しかし、「お上の言ふ事だから」と、「日本は法治主義だから」の間に何んな差があるのか、私には解りません。お上にしても法治主義にしても、「何か偉いもの」と見てゐるのならば、同じです。
「何が自分にとって大切か・譲れないか」――人に據らずして、一般的な觀點で、やはり、區別が可能だと思ふ。それが「道徳」と「政治」との區別だと、俺は前から執拗に言ひ續けてゐる。ついでに言ふと、
それに関わる事なら、その人にとっては重要な事でしょ?――「でしょ?」等と押附けがましい言ひ方をされると、かちんと來る。「でしょ?」は、例の紋切型辭典に收録すべき文句だと思つてゐる。
レコード輸入権の問題は、輸入盤を買う人たちには重要な問題な訳で。――「問題」と言ふが、「高い國内版を買はなければならないのは問題」と言ふのならば、「國内版を安くする」と云ふ解決策がある。「國内で發賣されず、輸入版でしか手に入れられないものがあるのは問題」と言ふのならば、「國内版を出す」と云ふ解決策がある。
かつて小林を読みはじめたころ、私が最初につよいこだわりを感じたのは次の点についてであった。すなわち、彼は、近世初頭においてデカルトが提出した〈ボン・サンスbon sens〉を、あえて〈常識〉と訳していることである。つまり、〈良識=理性〉とのいわゆる学問的区別よりも、常識の意味の拡がりと意味の厚味を重視していたのである。私も初めは、デカルト自身が「〈ボン・サンス〉あるいは〈レゾンraison〉」(理性)と言っていることや、「われ考える、ゆえにわれあり」"Cogito, ergo sum"というかたちで完全に推論式化していることから、この小林のとらえ方にはつよい抵抗を感じた。それに、デカルトの思想は「大陸の合理論であり、F・ベーコンたちは「イギリス経験論」の立場にあるものとして、やはり一応は、区別しておくべきだろうと、思っていた。ところが、この「大陸の合理論」と「イギリス経験論」という分け方は決して不動なものではないこと、両者はともに近世ヨーロッパの合理主義理論の二形態であり、いわば「同根」のものであることが私にもはっきりしてきた。とすれば、いわゆる学問的な「大陸の合理論」と「イギリス経験論」という区別は大した意味を持たなくなる。むしろ、両者の区別は、あまりにも西洋の近世哲学史的(大学教育的)であった。それは、あくまで時代思想の遠近法のなかで成り立つ、一種の約束事であり、〈制度的なもの)であったのである。
民主的な法治国家で法律が成立すれば職業が成り立たなくなる可能性はあると思います。ダフ屋という職業は法律(条例?)で禁止されてるのではないでしょうか。
HMVとかTOWER RECORDとかと、
ダフ屋とは、同じ「職業」である、と。この邊、議論の爲にする議論に墮してゐますね。
例えば自分の仕事が突然法律で禁止されたら、そういう法案が成立するぞってなったら、どうします?と云ふめたか氏の文章と、
民主的な法治国家で法律が成立すれば職業が成り立たなくなる可能性と云ふnetwind氏のコメントの文章とは、全然違ふ話ですねー。
自分の仕事が突然法律で禁止されたらと云ふ記述に對して話をしてゐます。
議論には2種類ある、ディベートとディスカッションとか、
「数学的帰納法」って実は「帰納法」じゃないんですよねー。とかいつた「對話」がある。これが、觀念的な對話であり、觀念的とは皮相的の謂だと私は思つてゐるから、さつぱり感心しなかつた。議論では相手の意見を否定しようとするのが當り前の人情であつて、ただ、相手を叩き潰す戰術を使ふか、相手を説得する爲に論理を用ゐるか、の違ひがあるだけだ。單に、ものわかりが良くなればそれで良い、と云ふ事にはならない。政府が決めた法律に徹底抗戰する積りでゐる人間が、
議論って相手を論破する事って思っていそうな人、多いじゃないですか。とか、
相手を論破することだと思っている人が多いというのは、本当にその通りだと思います。とか言合つてゐるやうでは、話にならない。
HMVとかTOWER RECORDとかが潰れるかも知れませんね、だからみんなで法律に反対しましょう」と言ふのは、古めかしい「労働者よ、団結せよ!」を現代的にソフトに言換へたものだ、と私は思つた。
私たちの与り知らぬところで、自分の関与しないままに、色んな事が決まっていってしまう、と云ふのは、餘りにも當り前の、間接民主制の常識である。と言ふより、代表者に政治を任せるのが間接民主制である。それが嫌なら、直接民主制にするしかないが、何でもかんでも意見を聞かれ、それに應へたり應へなかつたりしなければならない、と云ふのは、煩はしいだけである。
昭和二十年一月、お宅の附近に爆撃のあった翌々日、(橋本進吉)先生は、夜中のうちに誰にも知られずに息を引きとられた。先生は、ヤミのものをお買いにならなかったので、栄養失調で亡くなられたものと私は思う。
四方田犬彦は「隠されているものには真理が宿っており、それを露わにすることで心理に到達できる」*7という価値観に僕たちが縛られているのではないかと指摘する。たとえば女性器を見ることによって女性について知る作業が完了すると考える男性は多いが、たとえ裏ビデオでモロだし映像を見ても事態はなにも変化しない。「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた*8」と小林秀雄が語る意味での「成熟」をアダルトビデオで獲得できるかといえば不可能に近い。
HDDに2番組同時に長時間録画が可能な「W録(ダブロク)TM」機能を搭載したHDD&DVDレコーダ「RD-XS53」「RD-XS43」を發賣。
「悪人の自白」だと言ふんだね。無茶苦茶なレトリックだが、本人は氣の利いた皮肉の積りなんだらう。
情報資本主義とか
みんなサブカルとか、そんな出來合の言葉を使つたり、傲慢にも他人を勝手に定義したりするから、この人、
我一人高みにおいて俯瞰のポーズで肝心の問題をそらす姿勢になつてしまつてゐるんだらうね。人は自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る。
最悪の意味でのサブカル相対主義者そのもの、なんて坪内氏を罵つてゐるんだよね。サブカルがサブカルを罵つてゐるんだよね。本家爭ひですか。俺は良いサブカルで、お前は惡いサブカルだと。同じ穴の狢つて言ふんだよ。サブカルの次元で爭つてゐるんぢやねえよ。それだから
ペラペラなサブカル・ナショナリストになってしまうんだよ。
馴れ合いくさい御世辭そのもので、
醜悪だ、といつた感想を自然に抱いてしまふのだが、本人は氣持ち良く書いてゐるんだらう。さうなると、
言い捨て読み捨て的な場で気の緩んだ「悪人の自白」として重要かもしれないなんて言葉がまた當嵌つて來たりする訣で。
自ら言葉を使う者が、鬼の首を獲ったようにその限界を言い、それよって他を貶め得たつもりで、自分はそこから免れていると考えたとしたら、それはとても浅はかで傲慢なことじゃないだろうか?
我一人高みにおいて俯瞰のポーズで肝心の問題をそらす姿勢だの
自分はそこから免れているだのと言出すんだらうね。なんか、自白つぽいんだけれどもね。言葉を使ふものが、言葉の限界を自覺しつゝ、他と共に自己をも否定しかねない事を敢て言ふとしたら、それは淺はかだの傲慢だのとは到底言へないものだ。否、大概の人が平氣で自分で自分を否定するやうな事を言ふのだが、それを自覺しないから問題なのであつて、例の某氏にも、その危ふさがあると俺は感ずる。そして、その危險を意識すれば、人はものを言へなくなりかねない。そこまで追詰められた上で、ぼうふら氏はものを言つてゐるだらうか。
選んだ価値から零れ落ちるものを、忘れないやうにする、と云ふのは、
模範解答的正論であつて、まあ、中途半端を正當化するのには便利な理窟だ。誰かの手から零れたものに、價値を見出したなら、見出した人間が勝手に拾へば良い。獨りで何でも全部やる必要はない。もちろん、何でも自分で引受けるのが正しい、と信ずるのならば、やればよろしい。眞面目にな。あんた、本氣で何でも引受けてゐるのかよ、言つてゐる事と違ふぢやないか、と批判された時に、「ディベートごっこはお止めなさい」などと言つて、自己の論理の責任を抛棄するやうな眞似をする卑怯な態度はとらない事だ。
ブロガーは、自分のサイト(ブログ)で自分の意見を言ってるだけ。他人の意見を変えたいわけでも強要しているわけでもない。
個人的な意見に対して、読者がコメントしたくなる気持ちは分かるが、相手(ブロガー)の意見を変えることを強要する行為自体、そもそもウザイことだと気づいて欲しい。と述べてゐる。
「あなたの意見は間違っている」というようなアホなコメントをしてくる人を「アホ読者」と呼んでゐる。しかし、俺はさう云ふ讀者を「アホ読者」だとは思はない。なぜなら、ちやんと意見に反應してゐるからだ。
サイトをどう作るかなんてサイトの管理者の趣味です。と、吉井氏の
ウェブサイトはテレビでも映画でもなく、情報を得たくて訪れる場所だ。とでは、サイトの定義が根本的に異る。個人的に、吉井氏の言ふやうなサイトが多ければ、情報を探す側にとつてはありがたいし、
君のために有益な情報を提供する場ではないと稱する「ブロガー」や企業サイトの擔當者が、サイト作りで遊ぶのは、やめて貰ひたいものだと思ふ。
※ 代替スタイルシートで以前のスタイルが見られます。(Netscape 6 以上)とあるが、Operaでも見られる。
曖昧は誤謬の住む國である。ヴォーヴナルグ
人は自分で自分を相対化などできない
もちろんそれは、客観的計量、判断の下しようのない俺の中の思いでしかないけれども、だからといってその「不確かさ」を盾にとって、外を見、自分を広げようとすることを放棄(することを正当化)しようとは思わない。
だからといって以下のぼうふら氏の宣言は何うでも良い。そんな宣言をしたぼうふら氏が、その宣言通りに物事を實行してゐるかゐないかは、話が別である。そして、ぼうふら氏の個人的な信條は、他人に押附けるべきものではない。他人への押附けは、その時點で傲慢である。
そうした普遍的な認識への試行と、同時に「こうでしかありえない」宿命の認識の振幅が、自己の絶対化への欲望に対するとき、必要不可欠なものだと思う。
「不完全に生きていく」現実の人間に対する冷笑を自己保障へと摩り替えるような退廃、と紙一重である。
そして、正しく宿命を突き詰め対するためにこそ、安易な状況への媚や、外に目をふさぐ怠惰によって得るかりそめの絶対への固執こそ、厳に慎まなければならないのではないか。
安易な状況への媚であり、
外に目をふさぐ怠惰云々であるかを、指摘し、説明しなければならない。それらを省く事は、知的怠惰であり、松原氏が述べる通り、知的怠惰は道徳的怠惰である。
そして、「解決法がないこと」を指摘する保守主義に依存する精神は、しばしば「不完全に生きていく」現実の人間に対する冷笑を自己保障へと摩り替えるような退廃に陥ることがある。他と馴れ合わず絶対を志向する強さと公平さを保つためには、まず、そうした厳しいチェックを自分に課すことが欠かせないはずだ。
模範解答的正論を述べてゐるに過ぎない。
これは(そして上の「為にする議論」という批判も。言葉尻だけ取り合う、ディペートごっこのようなことは時間の無駄だよ)は、坪内氏だけでなく、むしろあなたの文章について言ってる。そこをお間違えの無きよう。
批判ではない。批判をするなら、道徳的な説教は、やめる事だ。道徳的な御説教は批判ではない。
模範解答的正論に依據して、坪内氏の發言に反撥し、坪内氏の讀者に道徳的な説教をかましたに過ぎない。
言葉尻だけ取り合う、ディペートごっこのようなことと根據なく極附け、
時間の無駄とレッテルを貼り、道徳的な非難をしてごまかしてゐる。かう云ふごまかしをこそ、福田恆存は憎んだのではなかつたか。
「為にする議論」そのものを、福田氏は憎まなかつた。ただ、
「為にする議論」であつても筋を通せ、と言つただけだ。ぼうふら氏よ、あなたはその邊を全然理解してゐない。
正しさを模索するという、自立した姿勢が大切だと述べてゐる。しかし、さう云ふ態度の事を言ふあなたに、私は精神論の臭ひを嗅ぎつける。
「為にする議論」式の安易なレッテル貼りで、論敵の批判を躱さうとした事はなかつた。言葉の曖昧さを指摘する批判は、福田氏もした事だし、松原氏もした事だ。福田氏は批評家であり、論爭を避けなかつた。
模範解答的正論に依存するような態度をとつてゐる。
自分を意識的に引き受けることなく棚に上げてゐない、とぼうふら氏は反論するかも知れないが、しかし、そのやうな逃げ口上こそ、
言葉尻だけを取つたものであらう。あなたの精神論は御立派だが、態度がそれを裏切つてゐる――そのやうに私には見える。
自己保障の爲の
現実の人間に対する冷笑を止めないだらうから言つても無駄だらうから、ぼうふら氏以外の讀者――と言ふよりも、サイトを持ち、「ウェブログ」を書いてゐる人に言ひたいが、「自分はかう云ふ人間である」と宣言し、「××として物を言ふ」と云ふ立場をとりつゝ、自己批判をして見せる、と云ふ態度をとるのは、やめるべきである。自分で自分を定義して、それを讀者にただ押附ける、と云ふのは、反論封じの爲の「逃げ」である。發言する際には「自己を棚上げ」する「演戯」も必要である。問題は、その「演戯」が巧いか拙いかだけである。
そうなんだよなあ。だれでも、理性ばっかりではいられないんだよなあ。
狂気や
暴力は抑へ切れない、と云ふ文脈だと思つたら。
素手でとっくみあうことを知っていれば、鼻血を出したり腕を折るくらいですむ。それを飛び越していきなりナイフやカッターという最終手段を持ち出すのは……。
あなた呼ばはりされてゐるし。
しかしね、俺の文章が理解できなかったらしいから仕方ないのかもしれないが、各々自分の現実を引き受ける「勇気を挫く」ようなことを福田恒存が言っているというのは、どう考えても違うと思うよ。
勇気を挫くやうな事も言つてゐるよ。と言ふより、勇氣が必要である事を承知してゐるからこそ、福田氏は
覺悟と言ふ。そして、覺悟なんてものは、簡單に出來てしまつては覺悟でないのだ。
率直に言つて、解決策など何處にも無いのだ。と述べてゐて、初期の文章で福田氏は、その批判されるべき「解決策」として、安易な「自己否定」を見出してゐる。福田氏が文藝評論を書いた時代は、「自己否定」の文學が流行の時代だつた。しかし、だからといつて、單に「自己否定」批判を福田氏がしてゐたに過ぎない、と見るのは間違つてゐる。それこそ、福田氏が批判した「安易な解決策」と同樣の安易な判斷である。
何より問題なのは、「情報資本主義に首まで浸かった現在、自分もふくめてみんなサブカルである」という現実を引き受けて、自分の問題として考えるのでなく、我一人高みにおいて俯瞰のポーズで肝心の問題をそらす姿勢(しかも、責任は巧妙に論敵へなすりつける卑劣なやり口)。とはてなダイアリー - ぼうふら漂遊日記の中の人は書いてゐるけれども、坪内氏、
肝心の問題とは何かを解つてゐるから、小林よしのりを批判したのだらう。實際のところ、小林の漫畫を讀んでゐれば、小林が實に安易に解決策を呈示してしまつてゐる事は明かだからである。
模範解答的正論に依存するような態度はとつてゐないし、寧ろ小林の方こそ、
模範解答的正論を『戦争論』や西部邁との對談でぶつてばかりゐる。俺には、小林の
性急さを、
情念的と見る事は出來ないのであつて、飽くまで觀念的と見る。
あなたはサブカルと文学を対立するものととらえて、自分を文学の側に置いているつもりのように読めるけれど、俺が今言う「サブカル」っていうのは、有機的なコミュニティや人間関係の中で形を持って生きられる文化じゃなく、情報として文化が流通し享受されている状態のこと。
具体的な対象を前提にすることをせずに話していると、しばしば人は自分の基準や前提にこだわってひとりよがりになり、議論はただ自分の思い込みを守るため、言いっ放しの、ただ「為にする」ものに堕しがちだね。
具体的な対象としての例の對談を、ぼうふら氏は引用して批判してゐないし、俺はそもそも讀んでゐない。この時點で、ぼうふら氏の指摘はぼうふら氏と俺の彼我ともに當嵌る事になる。
堕しがちだねと、傾向の話をしてゐる。傾向の話をされても、傾向と可能性は何とでも言へるから、決定的な反論は不可能である。
福田恒存が安易に「流通し、享受し得る」ような情報を文化と認めていないこともそのとおりだと思うけれど、だから今、文学として流通しあなたが享受しているのは、もはや文学じゃない(かもしれない)という認識は持つべきじゃないかと、言ってるんだよ。
文化といふ言葉は大體二樣に用ゐられてゐる。第一は、民族や時代の生活樣式を集中的に表してゐる建築、美術、工藝、音樂、文學、教育などを指す。無形文化財、室町文化がそれである。その他は第二の意味に屬する。すなはち、進歩的で西洋的でハイカラで、文明開化の響きを有してゐる。しかし、兩者ともに間違つてゐる。少くとも表面的である。では、文化とは何か。エリオットによれば、文化とは民族や時代の「生き方」なのである。
文学に關する文章を讀んでゐないか、理解してゐないか、のどつちかだと思ふ。「一匹と九十九匹と」で福田氏は、文學がどんなものであるかを説明してゐるし、その説明は、一般的な意味での「時代の制約」を免れてゐる。
本気さとリアリティを感ずる事は出來ない。
坪内祐三は、今俺があなたに言ったような意味で、小林よしのりに、自分の現実の認識と絶望が足りないと言いたそうだけれど(俺は、小林よしのりは相当にその現実に苛立ち、だから「自分はそうじゃない」と抗っているようにみえるし、彼の中の結論はどうあれ、本気さとリアリティは感じる。
認識によって繕いながら、自分の環境や体質を批判的に相対化することに対して相当に不徹底で、そうした利己や弱さを繕うために批評と処世のすり替えを巧妙にやっちゃうような部分が多分にある人だと俺は思うし(体質的には、福田恒存というより、例えば大岡昇平からやんちゃな少年性と余裕をひいたような感じに見える)、そこは気をつけて距離をとりながら読みたいといつも思う。
若気の至り的な蛮勇や過信、他人任せの正義への依存を戒めこそしても。/そして、自分を意識的に引き受けることなく棚に上げて、模範解答的正論に依存するような態度こそ、誰よりも鋭く批判した人だと思うんだが。
模範解答的正論であるやうに見えるのだ。
うした骨がらみの文化を失って久しい我々の誰もが、すでにサブカルだということをどう引き受け、そうした現実の自分達のあり方にどう対して行くのか、という問題に立ち向かう勇気を挫くようなズルさを、俺は問題にしてるんだよ。
勇気を挫くやうな事を言つてゐるのだし。
だが、失はれた文化を早急に、しかも人爲的に再建する事など出來る筈が無い。率直に言つて、解決策など何處にも無いのだ。それなのに一方では性急に解決策を提示したがる人々がをり、他方、それをありがたく押し頂かうとする人々がゐる。そこから馴れ合ひと欺瞞が生じる。さういふ事にはもう充分懲りた筈ではないか。
すでにサブカルだということをどう引き受けと言はれても、別に引受けるも引受けないも無いと思ふのだけれども。何かを意識的に引受けようとする事がそもそも人爲的なのであつて。云々。
レゾンデートル
レゾンデートルつて、茲はレゾンデートル村ですか。
論壇内的発言とか
しかも、責任は巧妙に論敵へなすりつける卑劣なやり口とか、レッテル貼りばつかり。
(サブカルに理解があるそぶりで、その実巧妙に権威的文学中心主義であるところも、高橋源一郎などに通じ、要注意だな...)
僕は、坪内氏の文化的博覧強記ぶりや見識には学ぶところが多いと思っているが、そうした装いによって繕われている部分にこそ、この社会の根本的な問題が露呈していると思う。
推理によつて藝術作品を批判しようとすれば、もはや、固定的なもの、確實なものはなくなる。勝手次第なことが證明できるのだ。
この人のいってる「○○」は、あの人の言葉でいえば「××」で、でもほんとはちょっとニュアンスが違う、とか、その反対に、ある人が作った「○○」という用語に別の人が勝手に違う意味を与えて使っていたり、極端な場合では同じ人の同じ用語でも初期と後期じゃ意味がちょっと違う、とか。もうちょっと互換性考えてくれよ! と文句も言いたくなるのだけれど、云々。
実は私は哲学とか思想の本が苦手でしてと書くはてなダイアリー - i-miyaの日記の中の人はずつと誠實だ。と思つた。
読冊日記(http://member.nifty.ne.jp/windyfield/200305a.html#01_t1)の風野春樹氏が誠實であるのだと。いつもいつもどうもです。
実は私は哲学とか思想の本が苦手でして、その大きな理由は用語の煩雑さにあるのですね。この人のいってる「○○」は、あの人の言葉でいえば「××」で、でもほんとはちょっとニュアンスが違う、とか、その反対に、ある人が作った「○○」という用語に別の人が勝手に違う意味を与えて使っていたり、極端な場合では同じ人の同じ用語でも初期と後期じゃ意味がちょっと違う、とか。もうちょっと互換性考えてくれよ! と文句も言いたくなるのだけれど、この本だと、観客のいる場で行われた対談であるせいか、随所で用語のすりあわせが行われていてとてもわかりやすい。