初出(「何が怖いの『盜聽法』」)
1999-07-17
改題
2001-06-02
最終改訂
2002-01-15

「盜聽法」怖るるに足らず

その1

「組織的犯罪對策法」制定が話題になつてゐる。インターネットや反對派は皆この法案を「盜聽法」と呼んでゐる。

たまたまInfoseekでひつかかつたのだが、かう云ふ事を書いてゐるページ(「10月30日の国会請願デモ」)がある。

……この法案は、日本で初めて警察による盗聴を合法化し、同時に市民や労働者が「団体(何と二人以上にな(ママ)と団体による〈組織的的〉となるのです)」で活動することそのものを強く規制しようとするものです。わたしたちは、政府や地方自治体や企業などがおかしなことをしていると思ったら、友人・仲間(ママ)語らって反対運動をします。この「語らって」他者とつながっていくこと自体が警察には面白くないようですし、そのためには、電話、ファックス、インターネットなどを盗聴して、情報を入手しようとしています。こんなことをされると、プライバシーが侵(ママ)れるのみならず、友人・仲間の間の信頼関係をズタズタにされてしまいかねません。そんな力を警察に与えてしまった社会は、「壁に耳あり、障子に目あり」で、暗黒としか言いようがなくなるに違いありません。

☆仲間と語らって「悪」に立ち向かうのは、わたしたちの権利であり義務ですそのために表現・結社の自由が保障されているのです

ここにはごまかしがある。友人の間で信頼關係が「ズタズタに」されるのではない。同じ政治信條を持つて集つた組織のメンバー或は「同志」の信頼關係が破壞されるだけなのである。所詮「同志」の「信頼關係」など脆いものだと、自分で認めてゐるのである。しかも彼ら自身、自分達が必ずしも善ではないと承知してゐる。政府や自治體や企業の事を惡と言切るのに後ろめたさを感じてゐるから鉤括弧つきの「惡」と書かざるを得ない。

さて、この法案を「盜聽法」と呼んでゐるのは誰か。

Hot News! 1998/07/21 反盗聴法・集会と書籍」には1998年7月22日に「守ろう!プライバシー とめよう!盗聴法 市民の集い」が開かれると豫告があり、事實開かれたのであらう。この記事には以下の團體がこの「集ひ」を呼び掛けたとある。

これらは皆組織である。いやいや、「組織的犯罪對策法」に反對してゐるのは組織である。個人で反對してゐる積りの者も、反對を言出したどこかの組織に同調してゐるのだから、所詮は組織の一員である。或は皆で同じ事を言つてゐるのだから、この法案に反對してゐる連中はみな組織化されてゐるのである。

ただ組織は組織であるがゆゑに「組織的犯罪對策法」に反對する譯にはいかない。なぜなら「組織的犯罪對策法」に反對したら、その組織は「犯罪的組織」なのではないかと疑はれるからである──或は組織はあらかじめさう心配してゐる。組織は自分の側が「惡」だと思はれるのが厭だから、「盜聽法」と云ふ名前を發明したのだ。「盜聽法」なら、誰が反對したつて構はない事になる。

私は「組織犯罪對策法」に反對する組織の素性を怪しむ。この法案に「盜聽法」と云ふレッテルを貼つてまで反對しなければならない程、彼らの内情は他人に知られてはならぬものなのか。或は彼らはこの法案が通つたら、眞先に盜聽されるやうな「犯罪的組織」なのか。さらに言ふならば、上記の組織は皆左翼の組織である。左翼の中の左翼、共産黨などは、この法案に當然反對である。どうも左翼は盜聽されるとまづい事が、組織内部に存在するらしい。

彼ら左翼の組織は、國家が個別の政治組織の内情を知らうとする事は恐ろしいと言ふ。しかし私ならば、内情をひた隱しにする組織だつて恐ろしいだらうに、と言ふ。さうなると話は平行線である。後は數の勝負となる──ここで民主主義の出番であらう。結局、正しい、正しくないと云ふ話はここに存在しない。正邪は數で決定出來ない。或は「組織犯罪對策法」「盜聽法」の議論は數で決定可能な政治的な「正邪」の問題なのである。

所詮、私はこんな問題、論ずる價値などないと思つてゐる。そもそも組織なんて恐ろしくもない、國家權力も恐ろしくないと思つてゐるから、「組織犯罪對策法」であれ「盜聽法」であれ、私には興味がない。ただ私としては、何をそんなに怖がつてゐるの、と言ひたいだけである。あれだけ政權も及び腰なのだから、この法案は安心なものだと私は思つてゐる。


餘談だが、講談社の雜誌「現代」のWeb版「Web現代」が反盜聽法キャンペーンを張つてゐる。「オレンジリボン運動」なるものである。「現代」が左翼雜誌である事はよく知つてゐたが、その確證が一つ得られた譯である。

その2

「まるで暴走国会だ」。徹底した審議を望む国民をよそに、数で押す与党が重要法案を次々と成立させているのだから、その表現もあながち不当ではあるまい。

 法律は対症療法に効き目があっても、いずれは独り歩きをして取り返しの付かない副作用を生みかねない。国民に影響力の大きい法律であればなおさらのことだ。

「何が何でも今国会で決着させねば」。そんな与党の、なりふり構わぬ拙速主義と思い上がりには目に余るものがあった。

多數與黨が數を頼みに法案を成立させて何が惡いのだらう。民主主義のルールにのつとつて議決されたのだから、一新聞社ごときがケチをつけるのは不遜もいいところである。

それにそもそも盜聽法の何が惡いのだらう。民主主義のためには盜聽だらうが暗殺だらうが、何だつて許される──それが政治といふものではないですか。


某angriffの掲示板に投稿したもの。Re[15]:河北新報8月13日社説乱用は断じて許せない/通信傍受法、力ずく成立

私の得意技、「書きつぱなし」をここでもやつたのだが、あとで見に行つたら、反論──と言ふか嘲笑──の投稿が數件あつた。場所が場所だけに、私の記事は投稿者逹のお氣に召さなかつたらしい。

今の日本では、新聞・テレビなどのマスコミ、或は反權力の連中の方が、國家權力よりも餘程勢力を持つてゐると私は思つてゐる。さう云ふ「眞の權力者」を私は嫌つただけである。


しかし、一時は大ブームだつた「盗聴法反対運動」も、最近はさつぱりですねえ。騷いだ連中は、例によつて「御祭り」をやらかしてゐたに過ぎないのだ。

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