言葉が萬能か否かと云ふ問題以前に、人と人とは何處まで理解し合へるか、或は、人と人とは理解し合へるか、が問題で――大體人と人とは皮膚の表面で接する以上にくつ附き合へるわけもなく、況してや「心も體も完全に一つになる」なんて事はあり得ない。
肉體的にも精神的にも個人と個人とは別物なのであり、個人と個人との間でコミュニケーションが巧く行くのは珍しい事であつて僥倖であるに過ぎない。人間同士の間で「完全なコミュニケーション」が成立するなんて事は絶對にない。
ボディランゲージでもボディコミュニケーションでも、繪でも――或はごはんなんかでも――人と人とはコミュニケートを試みるけれども、そのどれだつて完璧なコミュニケートになるわけではない。が、そこでがつかりしてしまつたら我々は完全に他者と斷絶する事になる。
コミュニケートの試みが屡々失敗する事を知つてゐる人間がコミュニケートを相變らず試み續けてゐるのは、結局のところ生きてゐる人間がみんな樂天家だからだ。さう云ふ樂天的な人間が、言葉が萬能でない事に落膽するとしたら、それは、言葉にだけは過剩に期待を抱いてゐた、と云ふだけの事だ。勘違ひの一種である。
人間、期待し過ぎると、反動が大きいものだ。