初出
「絶對の探究」
公開
2000-01-04
追記
2008-05-24

讀賣新聞の「エロ廣告の掲載を見合せ」を論駮する

要約
新聞に道徳的な問題を判斷する權利はない。

以前公開した記事

讀賣新聞社は講談社發行「週刊現代」と徳間書店發行「アサヒ藝能」の二誌に關して、新聞廣告を掲載しないとの聲明を發表した。兩誌の廣告には「毎號の廣告内容に、新聞に載せるのにふさはしくない極めて過激な性表現が多數含まれて、改善が見られない」ため、廣告掲載を當分の間見合はせる、との事。

「週刊現代」が左翼雜誌と云ふよりはエロ本であると云ふ事は周知の事實であるが、それを大新聞社も認めたのである──と言ひたいが、それだけで濟ます氣にならない。むしろ讀賣新聞を私は咎めたい。

讀賣新聞は己には檢閲官になる資格があると、大々的に宣言したが、それは思ひ上りではないのか、と言ひたいのである。殺人事件やら何やらの「道徳に反する事」で食つてゐるくせに、「過激な性表現」は「道徳に反する」として掲載しない、などとよく言へるものだ、と言ひたいのである。

「週刊現代」を應援したい譯ではないが、讀賣新聞のこの「見解」には納得がいかない。新聞社は所詮營利事業である。道徳に口出しをする資格などない。兩誌の廣告は「家庭に配れぬ煽情的な廣告」であると讀賣は言つてゐるが、銀行強盜やら政治家の不始末やらの記事が「家庭に配」つてよいものであると云ふ根據は何か。

性表現があると教育現場で新聞を使ふのに困る──とんでもない話である。そもそも新聞は子供に讀ませるべきものではない。戰前、まともな家庭では、新聞を子供に讀ませなかつた。「NIE(教育に新聞を)活動」など、もつてのほかの事なのだ。全うな教育者は學校に新聞を持込むな。


現代世界に存在するありとあらゆる虚言の最たる大嘘は、純粹性と穢らはしい秘密の嘘である。十九世紀の名殘たる沈鬱なる連中こそ、この嘘の權化にほかならぬ。かれらは社會において、新聞や文學において、その他いたるところで支配をほしいままにしてゐる。その當然の結果として、かれらは一般社會の大群衆を、自分たちの方向にぐんぐん曳きずつてゆく。

といふことはつまり、純粹性と穢らはしい秘密の虚僞に對して刃向かふものとみれば、なにものであらうとも彈壓せねば氣がすまず、逆に、純粹とはいふものの、その纖細な下着の陰で穢らはしい秘密を撫でさすつて倦まぬ好色文學、いはば大眼に見られた好色文學には、不斷の奬勵を惜しまないといふわけだ。沈鬱なる連中は字句の曖昧な好色文學の氾濫を許し、推奬しておきながら、あからさまなことばと見れば、容赦なく彈壓を加へて耻ぢぬのである。

追記

「週刊現代」、その後、エロ寫眞載せなくなりましたね。

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