黒田と蜜子は走った──静けさと慌ただしさが同居する病院の廊下を、人々も車も行き交うオフィス街を。歩道橋を渡り、二人は中央公園に辿りついた。

「大丈夫か」

 蜜子の瞳が黒田を心配そうに覗きこんだ。(瞳は灰色だった)息を切らせた黒田が上目づかいに蜜子を見る。

「ぼくは生まれつき体が弱いんです──今までだって意識した事はあるんだけどな、何か今、ぼくはもうあと何年も生きられないんじゃないかって思う」

「ふうん。自分で診断したって、当てにはならないんだけどね」

 にやにやとチェシャ猫のような笑いを浮かべる蜜子。黒田を放っておいて、すたすたと自動販売機に歩み寄ると一番左上の缶コーヒーを二本買う。

「飲みな」

 まだまだ寒いのに、冷たいコーヒーである。黒田は苦笑した。

 浮浪者の住まう段ボールハウスが林立する脇を二人は歩く。死んだような目をしたインテリゲンチャが汚い手に英字新聞を読むのを横目で見ながら、蜜子は話しはじめた──


 全ての責任はあたしにある。一切合財、この世の事もそうだけれども、特にきみには迷惑をかけた、黒田君。

 もとはといえば──アカデミーの鏡をあたしが割ったのが発端。もう大昔の事だけれども、それ以来アカデミーはイミテーションの鏡を飾り続けた。ないよりは増しだと思ったんだろう。鏡──あの鏡は世界の象徴だった。世界を映し出すばかりではなくて、世界がたまに自分の姿を映して反省するための鏡。

 あたしは反省という言葉が大嫌いだから、後ろ向きになったままの世界に進歩を与える為に、ある日その鏡を割った──それはすぐにあたしの仕業だとわかってしまった。というのは、それはほかの誰にも出来ない事だったからなんだけど。

 否違う──あれを割ったのは、あたしが行詰まりを感じていたからかもしれない。鏡の向こうとこちら側というのは、常に左右が逆転したまま全く同じに動くようになっている。でも、鏡に手をさしのべても、向こうのあたしも手をさしのべてくるけれども、鏡の表面に遮られて、二人は永遠に接する事はない。そしてあたしたちの世界と、黒田君、君たちの世界とはこの鏡をはさんで存在する二つの世界と一緒なのよ。あたしたちの世界はシンボリック・タイムの中に存在する大世界と呼ばれてメタファとしてとらえられ、君たちの世界は小世界あるいは現世と呼ばれてリアリティが存在する。


 シンボリック・タイムの存在は全ての現世の人間は識域下にとらえているんだけれども、それが明かになったのは今回の事件がはじめてだ。人類の星の時間──黒田君のいる現世の所属する時間──はあたしと川崎の二人のシンボリック・アクターが維持していた世界で、あたしと川崎が仲違いしなければ永遠に現世は平和なファンタジィの中にまどろんでいただろうと思う。

 シンボリック・タイムの中に存在するあたしたちや川崎みたいな存在者は、シンボリック・アクターと呼ばれる。そこに存在する全てのものが人類の星の時間を支え、特にシンボリック・アクターと呼ばれる選ばれた者たちは歴史の後見人としての役割を一人ひとりが振られている。アカデミーはアクター養成学校であり、同時にシンボリック・タイムを維持する──あるいはその存在自体が時間の象徴でもある。

 リマインダーはシンボリック・タイムに存在して現世の記憶を司る──思い出す事と忘れる事とは表裏一体だから、一人のアクターがこれを担当する。人類の星の時間では川崎公路がリマインダーだった。

 そしてリマインダーとペアになるのがインタフェイサー。インタフェイシングはシンボリック・タイム独特の用語だから、現世にはありえない言葉の用法よ。これは現世とシンボリック・タイムに明確な区別をつけるのがその役割。シンボリック・タイムと現世が入りまじるのはありえない事ではないから、そのお目付役という訳。

 リマインダーとインタフェイサーは現世を永遠の夢から目覚めさせない為に存在する。リマインダーは記憶を操り、現世の人間を過去と未来に結び付けて、孤独から開放された夢を見させる。インタフェイサーは孤独から開放された夢を見る人間たちを現世に幽閉し続ける。二人のパートナーシップは現世を維持するのに不可欠なもので、それは思い出せないくらいの過去からずっと続いてきた事だった……


「しかし、あなたは川崎公路と喧嘩をした」

 黒田は蜜子の肩を抱いた。たった一本だけ満開になった馬鹿桜の下で、二人はベンチに腰掛けていた。

「あたしは代理のインタフェイサー。シンボリック・アクターには永遠の生が与えられているけれども、先代のインタフェイサーは精神自殺をはかった──肉体ではなく心の消滅。それはシンボリック・タイムからも現世からも消滅する事を意味する。そして、空っぽになった肉体に与えられた精神が──あたし」

 両腕がおのれの体を抱きしめる。

「インタフェイサーがアカデミーで学ぶ──永遠に続いているシンボリック・タイムの歴史の中で起きた椿事よ。シンボリック・タイムを維持するメンバーは常に世代交代し、アカデミーで若い日を過ごすけれども、永遠に生きているはずのシンボリック・アクターはもはや学ぶものはないのが当り前。でもあたしは永遠の若さという名の老いた肉体の中に閉じこめられた子供の精神にすぎない……」

 目を閉じる。

「鏡を割ったのは、あたし自身がインタフェイサーとして両世界の要として生きる自信がなかっただけ──否、あの時はこの二つの世界に安逸を貪らせておきたくないという理想はあったけど、でもそれは間違いだった。世界はたしかに押さえつけておいた方がいいほど、ダイナミックな存在だった」

 言葉を切る。脇で黒田が立ち上がる雰囲気。震える蜜子。

「目を開けて」

 黒田が囁いた。顔をあげる蜜子──その眼前に押しつけられた缶コーヒー。

「買ってきました。冷たい奴より、あたたかいのの方がいいでしょう」

 震える両手で受取る。

「永遠を生きてきた川崎に飽きたらなかったんでしょう、蜜子さんは。偉いですよ」

「違う。外見は若いが心は老人──そんな事が気に入らないんじゃなかった。老いてなお愚かなのが気に入らなかった。それだけだ。だか、今なら理解出来るかもしれない。たしかに人は長く生きるだけでは決して偉くはならないけれども……ただ立派に老いる事が人の存在証明になることだけはわかったから」

 蜜子の脳裡には老いた工一の堂々たる体躯が若き日の軟弱な青年の姿と重なっていた。

「あの川崎も、いつかは立派な老人になるのだろうか」

 そしてあたしも……あたたかいコーヒーの香りに落着きを取戻した蜜子の耳に、その時、少女の叫び声がきこえた。

「助けて! 公路が死んじゃう!」

「ぜな!」

 立上がる蜜子。その目の前に駆寄ってきたぜなの様子に、周囲の浮浪者の視線が集まった。

「どうしたの? 位相もずらさないで──目立ってしようがない。まずいな、場所を変える」

 蜜子は泣きじゃくるぜなの肩を支えて、歩きはじめた。黒田が後を追う。

「もっと近寄って。場と時の位相をずらす」

 黒田が傍らに近づいた気配を感じると同時に、蜜子はシンボリック・アクターの力を発動した。周囲の人間から自然に、三人の存在が消失する。

「ぜな、どうした?」

「あの子が……公路が、ざなと戦っている」

「何だって? どこだ?」

 ぜなが黙って右手の人差指で、彼方を示す。蜜子と黒田にはそれだけで川崎の存在が感じられた。しかし、

「ざなの存在感がない!」

「そう。あの娘はもうあたしの姉妹じゃない」

「当り前よ。あの娘はあたしのデッドコピーだし、あんたは川崎の──」

 蜜子は言いよどんだ。ぜなの正体とは、何なんだろう。

「公路を助けて。ざななんかに公路を殺させないで」

「しかたないね。あいつは仮にもあたしのパートナーだ……しかしまた、何であいつがざなと戦おうなんて考えたんだ」

「あの……」

 黒田が声を掛ける。居心地が悪そうだ。

「きみも来なさい。公路の戦いを見届けるのはきみの役目かもしれない──黒田君、きみは川崎公路のリフレクターなのだから」


 まるで夢見るような風景であった。凛とした姿勢で立つざなの前に、襤褸布のようになった川崎公路が片膝ついていた。あたりを薄紅色の花びらが舞う。

「山櫻の森……」

 黒田が呟く。

「シンボルの世界では古いものが場を占める。染井吉野なんて偽物はシンボリック・タイムには存在しない。ここには本物の櫻しか存在しないのよ」

 華やかさや、刹那的な華麗さとは無縁の山櫻から散る花びらが吹雪のように視界の中を舞う。

「花びらが公路を傷つけている」

「まずいな。踏込んだが最後、ざなの中に残った古代の精神があたしたちを切裂く。まったく──新しいものを追い続けたあたしの精神のデッドコピーが、正体を剥き出しにしてみれば、古代から続く古めかしいものだったなんて……」

「古いものの方が新しいものよりも深く、沈潜しているんだよ」

 ぜなが呟く。黒田が目を剥く。

「あなたは……」

「公路に代って礼を言うよ、黒田君。あんたのおかげだ、リマインダーは今、本来の輝きを取戻しつつある」

「そうか、そうなのか、ぜな……」

「きみの考えは当っているよ、蜜子。私は先代のリマインダーだ。体はぜな──エターナルの存在を借りてはいるけれども。きみと同じだよ、リマインダーも代替わりしたんだ。公路もきみと同じ、永遠に立向かいはじめたばかりの若僧にすぎない」

「そうだったの……やっぱり。あんな坊や、永遠を生きてきたとは思えないもの」

 蜜子が目の縁を片手で拭う。

「それはきみだってそうさ。よくやっているよ、蜜子、きみは。ただきみは一人で何もかも背負いこみたがる。公路は泣いていたよ──あの性格だからね──自分だって蜜子の半分くらいはものを背負ってみたいってね」

「いや……のんびり話をしていていいんですか? 公路さん、どんどんずたずたになっていますけど」

 黒田の言葉が、蜜子とぜな──先代リマインダーは公路とザナドゥの戦いに関心を引き戻した。

「若僧とはいえリマインダーなのだからな。不注意から自分で勝手に生み出した存在くらい処理できんでどうするのか──とはいえ、あいつもそんな存在を生み出せるのだから、本当はなかなかの実力者ではあるんだがな」

 ぜなが言い訳がましく呟くのを、蜜子は黙って無視した。黒田がそんな蜜子をつついた。

「いいんですか、蜜子さん。あのまま公路さんを放っておいて」

「わかっている──否、わからないんだ、どうすればいいのか。ざなはあたしから生み出された存在だし、あいつは決して消せはしない。どうすればいいのか……」

「どうすればいいのかって、ざななんて存在が勝利を収めて、現世と、それからシンボリック・タイムまで支配されるなんてことになったらどうするんですか。インタフェイサーは蜜子さんしかいないんですよ!」

 その途端、ざながこちらを向いた。

「蜜子か! お前が逃げたから仕方なく、私はこの男を相手にせねばならなくなったのだぞ」

 冷たい機械のような声だった。

「まさか……」

「……そうだ。ざなは自分でコピーを繰返して、劣化している」

「劣化などではない! 私は生まれかわるたびに純粋な存在に近づいている!」

 戦いの中で傷だらけの公路が冷静に指摘するのを、ざなはいらいらしながら否定した。

「ふふ、zenithとzanyなのよ。絶頂と馬鹿者。ふふふ──なんとでも故事つけられる。でも、所詮あんたは川崎とあたしの間に生れた葛藤の副産物にすぎないのよ、ざな。ザナドゥとは何の関係もない。あんたの事はこの黒田君の手記にあらわれている」

 黒田があっと叫んだ。

「ぜなもざなも、黒田という青年が懐いた久子のイメージを投影した存在にすぎないのよ。久子へのイメージは分裂し、一貫性を欠き、ゆえに黒田君は久子への感情を統一できなかった。そして──あたしも知らなかったのだけれども──現世はシンボリック・タイムの事象を反映するばかりではなく、現世の事象もまたシンボリック・タイムに影響を与えるのよ」

 蜜子がささげるように持つのは黒田の手記──あの日、久子への恨みを綴った手記は、しかしそれだけのものではなかった──久子と会って以来、黒田は久子のイメージを書き続けていたのだ。

 黒田は真赤になった。まさかこんな所で自分の恥がさらされるとは……

「黒田君。ここはシンボリック・アクターの世界だ。現世とは切離されている。きみの心理はこの世界では単なる例証にしかならん」

 ぜな──先代リマインダーが慰めるように黒田の肩を抱いた。

「全然慰めになっていませんよ。それに慰めてもらうべき事でもないですし」

「まあ、それもそうだがな」

 ぜなと黒田のひそひそ話は、ざなには聞えていなかった。

「だからなんだというのだ、蜜子。私の誕生過程が、私の今持つ使命となんの関係がある?」

 ざなの表情が変っている。目は吊りあがり、般若の面の形相そのものであった。

「驚いたね。あんたは解消されねばならない存在なのよ。一度は乗越えないとならない壁……でしょう、先代リマインダー殿?」

「ははは、よくわかったね、新たなるインタフェイサー。君たちにリフレクターは一度しか現れん。その一度の機会に、インタフェイサーは現世とシンボリック・タイムとの相互干渉の実例をまざまざと知るのだ。リフレクターは単なる鏡ではないんだよ──いや、たしかに鑑とは言えなくもない。リマインダーもインタフェイサーも、リフレクターという鏡に惑わされるんだ。鏡は単に姿を映すだけではない、映し出された姿に我々は影響を受けるもの。それだけではない、人は鏡ではないものに自らの姿を見出し、自らを変容させる」

「そうか。私は貴様らの人生の教材にすぎぬというのか。馬鹿馬鹿しい。おためごかしは止めるんだ」

 ざながぜなに襲いかかる。蜜子も川崎も止める間もなく、ざなはぜなの首を絞めていた。しかし平気な顔でぜなが言った。

「私はすでに用ずみの存在だ。肉体は借り物、精神は老いて漂うだけの存在──残念だな、ざな、私は普遍的なのだよ……」

 ざながはっと気づいて手を離した時、ぜなの顔色は変わり、呼吸は止まっていた。

「ざな──ぜなとざなは姉妹だったのだよ、創造した時の公路の意識の中ではな」

 死んだぜなの口から漏れた先代インタフェイサーの言葉は、ざなにしか聞えなかった。

 ぜなの体が薄紅色に変わり、崩れだした破片は、花びらに混じって風に舞いはじめた。

「!」

 苦悶の表情を浮かべるざなに、蜜子が近寄った。

「あんたはあたしから川崎が生み出したあたしの分身。哀れな存在者よ。あたしはあんたの存在を受入れる──あんたが工一を受入れたように。そしてあたしの中であんたは永遠に生き続けるけれども、あんたの中で工一が味わうはずだった永遠の苦しみをあんたは味わわない。あんたの苦しみはあたしも味わうのだから」

 蜜子が泣き続けるざなを優しく抱きしめた。ざなは機械人形のように泣いた表情を崩さない。蜜子はにっこりと黒田に向かって微笑んだ。

 その時黒田は独白した。

「ざな……さん、あんた、気づいていたのか」

「あたしたちはシンボリック・アクターだよ。全て筋書きは出来ているんだ。さあ、あんたの頭に授けられた知識を使いな」

 頷く黒田。

「さようなら、蜜子……」

 別れの言葉。

 黒田は右手を挙げた。そして──彼方で川崎が左手を同じ様に挙げた。

 蜜子とざなの周りを薄紅色の花びらが舞った。大きな鏡が蜜子とざなの間に出現した。

 鏡に取りすがるような蜜子──向こうからこちらに取りすがるざな。裸の二人の体が崩れだしていく。鏡が消え、粘土のような塊だけが残った。

 いつの間にかあたりを舞う桜の花びらは消え、真の闇が支配した。

 目の前の肉塊がぶくぶくと泡立った。

 突然、絶叫するような表情が現れると、すうっとのびあがって……


 黒田は目を開いた。病院の一室。白い天井。そして視界には……

「久子……」

 泣きながら久子が覗きこんでいる。

「久子じゃないか……どうしたんだ?」

「蜜子が……ううん、きっと蜜子が、教えてくれたんです」

 久子が無理をするようにして微笑んだ。

「きっと?」

「ええ、だってあの娘、瞳が蒼かった──蜜子の瞳は灰色なのに……」

 まさか、な──と黒田は思った。

 あの時見たざなの瞳は蒼かったのだ──般若の面のように吊りあがった目の中の瞳を、黒田は忘れられない。

「蜜子でなくてもいいじゃないか。その娘は久子に教えたかったんだ」

 そして涙の下から微笑んだ久子に、黒田は蜜子の面影を見た。

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