病院

 蜜子はとあるビルの三九階にあるカフェテラスから、錯綜する副都心の道路群を見下ろしていた。

「なんとかしてやらねばな」

 コーヒーをブラックで、少しづつ啜りながら、呟く。

「奴らは黒田を自らのブレイクスルーに使おうとした。これは許されるべきことではない」

 サングラスをかけていないが、そのほかはいつも通り──黒のブラウスに黒のパンツといういでたちである。サングラスは──胸ポケットに片方のつるでひっかけている。

 爛々と光る目で、窓の外を見やる。

「ザナドゥ──データと書物の違いを理解せぬ存在者・ざな、か。厄介な者が出現した」

 苦笑と同時に溜め息。

「代償行為者──ざながあたしの代償行為者? あたしも知らなかったあたし自身の一面──というよりは、あたしの願望が顕現した仮の存在」

 真木教授の『人間読本』をぱらぱらとめくる。

「体裁は出来の悪いシンボリック・アクティング・スタディの本だけど──これは預言書なのだね、先生」

 今は亡き真木の面影を浮かべようと、軽く目を閉じる蜜子。そして失敗したとでもいう様にすぐに首を振った──真木の顔が醜かったのを思い出したからだ。

「代償行為者は殺せない──か。当り前だな。願望も欲望も限りはない。残る手段は……」

 立ち上がると、マグカップに残っていたコーヒーを一気に喉に流し込む。すっかり冷めきっていてとてつもなく不味いが気にしない。味に拘っていたら、コーヒーなど、飲めたものではない飲み物である。

「……折合いをつけるしかない、か。一番厄介な解決法だな、先生」

 マグカップをトレイごと近くの店員に押しつけると、胸ポケットのサングラスを引出しながら、蜜子はガラス戸を押した。


 ビル風が吹捲る。

 飛ばされそうになる女性や親爺の間を、サングラスに黒のブラウス、黒のパンツの女性がしっかりとした足取りで進んでいく。目指すは副都心のビル街にある日本有数の大病院であった。

 黒田はここに入院していた──入院して以来、ずっと植物状態である。意識が戻らない。ただし脳死ではない──脳に損傷はない。

「意識の回復を、何か──本人内部の何かがブロックしているのですな。これは時間がかかるかもしれません」

 担当医師の見立てだ──要するに見放されているのである。現代医学では直しようがない──というよりは心理学・精神病理学の範疇の問題なのだが、意識が無い人間にそれらの学問は役に立たないに決っている。

 さて蜜子はといえば、ずかずかと病室に入り込んでいた。誰も見とがめない──蜜子はそういう存在なのだ。いついかなる時であり、場所であろうとも、蜜子を拒み、阻むべき人間は存在しない。


「おい黒田、起きろ」

 その蜜子の怒鳴り声は、黒田だけにきこえるものだった。隣の部屋の老人患者は気付かなかったし、廊下を巡回中の医師と看護婦も気付かなかった。

「もう一度だけ言う、目覚めよ、シンボライザ!」

 だが黒田はびっくりして飛び起きた──もっともそれに医師も看護婦も気づきようがない。起上がった黒田は二重写しの様に、寝台の上で眠ったままの黒田と重なり合っていた。というより、今の黒田の位相は通常空間からはずれている──いつのまにか蜜子の位相もずれている。

「ああ、蜜子か」

 半透明の黒田は、半透明の蜜子に片手を挙げて挨拶した。

「のんきな奴だな。お前は死にかけているんだぞ。否、お前は精神的な死を迎えようとしている──体は生きているが」

「はは、そうですね」

「笑い事ではない。お前に死んで貰っては困るのだ」

 蜜子は真面目な表情のまま、黒田と向い合った。

「死んでもらっては困る、ですか。勝手ですね。この間はぼくに、利用させてもらうとか言ったくせに」

「事情が変わった──というよりは、主導権はもともとあたしになかった、というだけのことかもしれない」

 自嘲気味に蜜子は嗤った。不愉快そうに黒田は眉を顰める。

「ぼくが今回の事件のメイン・シンボライザだからですね」

「その通りだが……」

「ぼくの手記は──どうせあなたのことだから、もう読みましたよね。あれはぼくの失敗でした。誰かが読むなんて思わなかった──考えてみればぼくたちの前にあなたはすでに現れていたんだ。ぼくはあの手記を破棄したけれども、その前にあなたはもうその存在を知っていた。存在者は存在を自動的に認識する──そうですよね」

「どこからそんな知識、手に入れた?」

 蜜子は少し眉間に皺を寄せて、改めて黒田を見つめた。黒田は相変わらず何も考えていない様ににこにこしている。

「外面的には意識がない状態ですし──実際意識なんてないんですけど──内面でぼくは生きて精神活動を行っている訳です。そこに──何て言うのかな──なんらかの存在者の、そうですね、接触みたいなものがあったんですよ。何だったかな──そうそう、ザナドゥ──ざなという女性らしき存在が一気に知識を頭の中に流し込んでくれました。別に嬉しくも何ともなかったけれども……いや、余計絶望感が増したのかな。そうだな──彼女、蜜子さんによく似ていましたよ、一見。ただ、妙に機械的だったような印象がある」

「そりゃそうだ。あの娘、あたしのリフレクション──鏡に映った影みたいなものに過ぎないからな。というよりは、あたしのイミテーション。あれは機械人形──自動機械。あんなものから得た知識なんて、詰らないし、役に立たないし、生きる意欲を失わしめるだけ──死んだ知識」

 蜜子は下を向いて溜め息をついた。あの馬鹿娘め! やっぱり駄目じゃない。あんな大見得切っておいて、何がパンドラの希望か!

「蜜子、あなたやっぱり勘違いしていたわね。あたしは現代の希望よ。パンドラの箱に残された、最後の呪いとしての希望とは違うんだから。今や希望とは即ち絶望のことじゃない? あたしはストレートに現代人に死を与える死神。もちろん勘違いしないでね、あたしの言う死、っていうのはね──それは永遠の生のことなんだから」

 突然の声にびっくりして顔を上げた蜜子の前に、ざながいた。寝台の上に体を起した黒田の上に浮んでいるざな。はりつけられたクリストの様に両手を大きく左右に広げている。

「やめろ! 黒田を永遠の生に引きずり込むな! お前の言うエターナル・ユートピアなんて所詮、地獄に過ぎない!」

 半透明な蜜子と実体の蜜子はずれを矯正し、半透明の黒田と実体の黒田を同時に引っぱった。その瞬間、二人の黒田は一致し、寝台から転げ落ちて意識を取戻した。呻く黒田。

「いてて……」

「幸いなるかな! ずれた位相の強制修復が成功した──ただの偶然だがな。とにかくいいか、黒田──お前あの女から逃げ切らないと、永遠の生を生かされることになる」

「永遠の生? それのどこが悪いんです?」

 きょとんとした表情の黒田。

「説明している暇はない! もし死を二度と願わないにしても、生き生きとした生もまた願わないというのでなければ、あたしの後ろに来い!」

 何だかよくわからないままながら、おとなしく黒田が背後に来ると、蜜子は左手で黒田をかばう。

「ざな。あんた、一度死んだよね」

「死? 違うな、あたし自身の連続が途切れただけだ」

「違うのよ、あんたやっぱり一度死んだのよ。今のあんたと以前のあんたは、微妙に違う。以前のあんたはただの傍観者、今のあんたはただの機械──って、よく似ているけどね」

 蜜子はにやりと嗤った。

「あんたはやっぱり一貫性を欠いている。そして、ここでまた死んで、再生すると、より機械的になっているんじゃないか──って思う。あんたはコピーにすぎない。しかもシンボリック・アクターはデジタルデータじゃないから、コピーのコピーをすると、存在が劣化する。あんた、自分のこと、不死だと思っているけど、正確にはただコピーを──それも劣化したコピーを作っているだけなのよ」

 蜜子は右手で懐から取出した──真木教授の『人間読本』を。

「あんたのような擬似存在者のことを、真木先生が予言していた。あの人は天才でもなんでもなかったけれども、なぜかこの本に書かれたことは正しいのよね……困ったことに」

「探し当てたの、蜜子、その本を? 惜しいわね──あんたの解釈、間違ってる」

 ざなは嘲笑った。蜜子は不愉快そうにざなを睨んだ。

「あのね、あたしはあんた──蜜子のデッドコピーよ。最初から気づかなかった? 愚かね、インタフェイサーも。ついでに教えてやる──ぜなは川崎のデータを女性化しただけのもの。川崎は自分だけがかわいいと思っている馬鹿だから、それを女性化すれば、川崎をただ甘やかすだけの存在になる訳よ」

 ざなが声をたてて笑う。

「なるほど……よくわかったことはわかったんですけどね。でも蜜子さん、あのざなって女の人、蜜子さんとどこか根本的に違いますよ。なんて言うのかな……底が浅いっていうか、なんか簡単に理解出来そう……」

 横から黒田が口をはさむ。

「そうよ、あれはあんたと違って人間ではない。だからすべてを理解することが可能。ただあたしは人間だから──あんたも理解しようなどと思うな!」

「あなたを理解しようなんて思っちゃいませんよ、蜜子さん」

 黒田がにやっと嗤った。それに応えるかのように、蜜子も軽くうしろを振り向いて微笑み返す──背中に目があるような行動だった。

「ぼくは蜜子さん、あなたを信頼しますよ。たとえ裏切られるとしても」

「ふうん、なぜ?」

「あの、ざなとかいう嫌な女よりはあなたの方がいい女だから」

「それはありがとう──だが、こんなところで冗談言うんじゃない」

「半分本気です」

「半分冗談なのが良くない」

 蜜子はざなと対峙しながら、頭痛を覚えた。黒田はどうも、どこかが壊れてしまったらしい──と、まだ冷静なまま残った精神の一部が蜜子に教えた。実際には蜜子本人もまた、どこかおかしくなりつつあるのだったが。

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