手記

 黒田の手記が発見された。われわれはこの手記を読んでもよいし、読まなくてもよい。これは一見して単なる資料に過ぎない──


 夜十二時。

 新都心の通りをタクシーが流れていく。

 足許の怪しい茶色い髪の少女が長いコートを引きずるようにして、駅の南口へと歩いていく──駅の電光掲示板には「運転終了」の文字ばかりが光っている。

 ラーメン屋の屋台にアベックが集う。

 アスファルトの地面の上に置いたかばんの上に腰掛けて、煙草を吹かす黄色いレンズのサングラスをかけた娘……。

 ぼくと久子と二人で、終電後の新宿駅前に立尽くしていた。

 別れ話は穏やかに終って──ただ、二人は共にいる理由を失いながら帰るすべをなくして共にいただけだった。

 どちらも言葉を発しなかった。

 昼間はオフィス街として華やかな新都心も夜は物騒だ。浮浪者がふらりふらりと路上をさまよい、時に泥酔した若者を介抱しながら、財布を平然と掏りとっていく。彼らも生残るために必死なのだ。野獣──というには汚らしい。鼠とでも称してしかるべき、軽蔑すべき俗物ども。

 相互不干渉のルールを、無意識のうちに相互に定め、何の反省もなく相互を縛る。意味のある匿名性が、次第に表情に劃一的な何かを上書きしていく。信頼し合ってもいない同士が肩を寄せあって暮らしていく。翌日会う時にはもう相手の顔もおぼえていないくせに、十年前からの知己のような顔をして、親しげな様子で互いの腹を探り合う──もちろん誰の腹も空っぽなのだ。

 ××ビルの下の交差点──横断歩道を渡るぼくに久子は黙って別れを告げた。冷たい視線がぼくの目を一瞥し──ぼくの視線を逃れるようにすっとあっちに行ってしまった。

 べとべとしたさざめきの中に溶けこんでいく彼女の後ろ姿──ぼくは未練がましい視線を向けたが、彼女は気付かなかった。

 駅の降りたシャッターの前に坐り、路上を見つめる占い師たち。彼らはぼくを呼び止めようともしなかった。

 歩道をひたすら歩いた。地下街への階段も降りてみた──中はシャッターで閉ざされていた。行き所のない冬蜂のような感覚を味わった。

 電子音が響き、小さなマイクロフォンに喚く少女とすれちがう。髪と唇が白くて顔の黒い──写真のネガのような少女。他愛もない話題を虚空に向かって楽しげに叫びながら歩く様を、ぼくは正常だと思い込もうとした。

 交差点の角に明りが見えた──終夜営業のファストフード店。この系列のお店には初めて入る。適当なセットを註文して、二階に上がる。

 十代の無邪気な顔の少女たちが三人、真夜中もとうに過ぎたというのに談笑している。二十分も三十分も話している──よくも話題が続くものだ。しばらく聞き耳を立ててみるが、同じアーティストのCDについて、えんえん同じ事を喋っている。

 座り心地のよくない椅子に腰を下ろし、壁に寄りかかって居眠りする脂ぎったおやじ──くたびれきったアタッシュケースの把手を右手でしっかり握りしめている。

 夜中の二時を過ぎたのに、食事を終えて出て行く若い女二人──赤いコートと黒いコート──二人は一体どこへ行くのだろう。虚しく空いたテーブルの上に、コーヒーの茶色い染みの跡を見つけた。ぼくは目の前の冷めきった自分のコーヒーを少し啜る。フライドポテトは冷めても温かい時と同様にまずい──いつも行く店は冷めてもそこそこうまいのに、とぼんやり思う。

 突然、店内清掃のアナウンスが流れ、店を追出された。清掃時間の三十分ほどをコンビニエンスストアで過ごそうと思う。ぼけた頭と目で、興味のある記事の載っている雑誌を立ち読みする。なかなか腕時計の針が進まない。隣に臭い男が立ったので、逃げ出して二軒目に行くと、こちらの方が雑誌の数が多かった。少し落着いた気分で読んでいるうちに、清掃時間はとうに終っていた。

 店に戻る。コーヒー一杯頼んで礼を言われる──悪い気もするが、店内では寝ている奴もいるし、やはり飲み物一杯だけで本を読んでいる奴もいる。三人でひとつの袋のポテトを分け合っているビジネススーツの男たちもいる。

 かばんの中から手帳とペンを取り出す。何ということもなく、細かい字で小さな紙面を埋めはじめる。下らない暇つぶしだ。落込む気持ちをそのままみみずののたくるような文字に移し変えていく。時計を見ても針が進んでいないのを意識する。隣に座った奴が異様な目をこちらに向ける。しかし本を取り出してテーブルに置くと平然とハンバーガーを頬張りはじめた。ぼくはそのまま文字を書き連ねていく。気付くと隣の奴は眠り込んでいた。

 時計の針はようやく三時を指した。目の前のカウンター席に、コートの男が着いた。今まで何をしていたのだろう。男はフライドポテトを喰いながら、時々脇の観葉植物に目をやる。そのうちコートを枝にひっかけると席を立ち、平然と手洗いを済ませてきた。禁煙席で平気な顔で煙草を吸う──しかし誰もとがめだてしない。

 夜も更け、異様な感覚がペンを支配していく。手帳の文字は段々小さくなりながら、淀みなくぼくの無意識を意識化していく。

 久子に対する愛惜の念を記しているつもりだったのに、いつのまにか紙の上には恨み、つらみ、そして愚痴が並びだした。いつのまにか自殺の遺言書のようなものが出来上がっていくのにぼくは気付いた。それを見ながら無邪気な満足を感じる自分に驚く──久子の顔が浮んでくるのに。こんな文章を久子が読んだらどうするんだ。別れた事を意識していても、ぼくは久子を傷つけたくない。しかしペンは次々とおそろしい言葉を手帳の上に書き付けていく。

 ああ! 彼女がこの文字の群れを見ない事を! ……しかしぼくは突然立ち上がると、店内を巡回してきた店員に、手帳を押しつけて、読んで下さい、と哀願した。


──破棄されていたはずの黒田の手記は何者かの手によって回収された。われわれはその陰鬱な内容を見ることが出来る。われわれはここから何かを学ぼうとする必要はないし、何も学べない。

 ただ言えるのは、黒田はこの主観的な──あまりに主観的な内容の手記を書付けると、人生から逃走をはかった、ということである。

 もちろんその逃走は実人生からの逃走であり、蜜子をめぐる闘争からの逃走でもあった。実人生からの逃走を黒田は望んだが、蜜子をめぐる闘争の中心人物である黒田はそこから逃れる術を必然的に持たなかった。黒田は当然の事ながらシンボライザの一人である。

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