大学図書館は古く、外壁には蔦が這いずっていた。冬の木枯しと春先の雪に痛めつけられて、葉の落ちた蔓は茶色に変色している。
普段ならいくらか活気のあるこの建物も、今は休みのために静かである。受付の蛍光灯の光が侘しくホールを照らしている。中老の女性スタッフが二人、古い検索カードを整理している。後ろで黒縁眼鏡の司書がPCのモニタの前で欠伸しながら伸びをした。
その時、軋む音がして扉が開いた。リノリウムの床をローヒールで踏みしめながら、かつかつと足音をたてて黒いブラウスに黒いパンツ、サングラスをかけた背の高い女性が入って来た──蜜子である。
蜜子は狭いホールを通り抜け、林立する書架の中へと入って行った。人文・科学・社会・歴史……様々なやり方で奇妙な分類をされた本の群たちがならぶ書架の列。
一劃に、何の分類もなされていない棚があった。蜜子は迷わずそこに歩み寄った。
その時。
「蜜子──蜜子じゃないか!」
「工一……」
驚いたように蜜子は振返った。
「どうしてここにいるの……いや、いたって構いやしないんだけど」
「君に呼ばれたからさ。冗談じゃなく──最近ぼくたちシンボリック・アクターは前触れなくリヴァイヴァルを経験している」
工一の目は笑っていなかった。
「ふふん? あたしのせい?」
悪戯っぽく応える蜜子。
「そうだろう。ミラー事件以来──シンボリック・タイムは破壊されたまま、いまだに修復中だからな」
白髮で淡い茶色のレンズの眼鏡をかけた老人──熊野工一。
「昔は世話になったわね──あたしも若かったし、あなたも若かった」
「君は歳をとらないからな、ぼくと違って。だからこそぼくはアカデミーでは焦り続けたんだ」
「焦っていたのはあたし。ブレイクスルーをヒステリーで起こしてどうなるものでもないのに」
棚に置かれた本を一冊取る──図書館の本に必ず貼りつけられているラベルもない。
「松山が真木先生を責めていたよ。裏切者・蜜子を呼び込んだという事で──つらかったろうよ、真木先生」
「生徒を守るのは教師のつとめ」
冷たい口調だが、顔は笑っている。
「無責任だなあ、永遠の生徒は。教育者になった今になってわかるよ、先生たちが何を考えてぼくらを教えてくれたのか」
少しくたびれた背広のズボンのポケットに工一は両手をつっこみ、背をまるめた。
「あたしに責任はない。その代りすべての苦しみをあたしは忘れない」
「そうだ、蜜子──君は一冊の本に似ている。あらゆる出来事を記録し、後世に残す」
「本の方が気楽よ。悲しむ事がないから──あたしは悲しむ。楽しい事なんて何ひとつない」
蜜子は工一に手にした本を示した。
『人間読本』真木宙助著
「真木先生の唯一の名著。あの人は教師失格だったし、人間としても完成されていなかった──シンボリック・アクターとなるべき存在ではなかった。アクターとして駄目なら教師としても駄目に決まっている」
表紙の人という字と間という字の間に、涙が一滴。
「ただこの本だけよ──あたしはこの本だけであの人を尊敬する。この本にあの人は情熱を傾けた。決してすぐれた分析もないし、すぐれた観察もない。代りに──何か、あたしの心を揺さぶるものがある──愛情かしら。あたしに与えられた真木先生の心みたいなもの。川崎があの子たちに真木の記憶を植付けてくれた事だけは、川崎に感謝している」
笑顔を見せる蜜子──工一は戸惑った様な視線を返した。
「安心しなさい、工一。あなたたちシンボリック・アクターは死んで本になる。そして永遠の存在になる。無感動に過去を閉じこめながら、あなたはまた人を感動させる」
「そう。ぼくたちは死が新たなる永遠のはじまりだと知っている。しかし、蜜子……」
工一は片手をポケットからひきだし、蜜子の方に伸ばした。
その手から逃れるように身を引離す蜜子。
「あたしは──言うなれば生ける書物。そしてただ、人を感動させる事も出来ない壁──何であたしなんか、この世に生れたのか、わからない」
「きみだってアクトレスだからさ。永遠の生を演じ続ける一人の少女」
「嫌なものよ」
「そうだ。ときに人は絶望からあらゆるものを憎み、挙句──自分を破壊したくなる。自分を拒んだ世界に復讐したくなるのだな。たまには自分自身に返りなさい。人は永遠に何かを演じられない──そしてきみがきみ自身に戻った時、歴史は動く」
工一の言葉に、蜜子は笑った。
「そうよ。今歴史は動きつつある──ビハインド・サイコロジスト・熊野工一くん。あなたの言うとおりよ。歴史は動いた──すべてあたしのせい。あたしはこの世界に絶望し、歴史を引裂き……もう百年以上になるかもしれない」
「そして引裂かれた歴史は元へと戻らず、そこに新たな世界がはじまる。古きシンボリック・アクターは必要ない」
ざなが現れ、工一の手を取った。
「あたし──あたしはざな、ザナドゥ。現代という過去とは違う時代に、あたしは存在すべきものさ」
あっという間に、工一はざなに吸収された。
「あたしの中で永遠に工一は生きる──彼は死なない。あたしの中で──ふふ──永遠の生! 工一は幸せに生きるのさ」
すれた感じの流し目で、蜜子を嘲笑う。蜜子はものすごい目でざなを睨みつけた。
「工一を! 非道い事! 永遠の生なんて……あの子には耐えられない。あたしでさえ耐えかねる永遠を──あの子は耐えずしてじきに狂う。狂った人間に救いはない」
腰から拳銃を引き抜いて、ざなに照準を合わせる。
「無駄よ。この間、あたしを一度消そうとしたじゃない。あたしは死んで、またここにいる。あたしは人じゃないの──あたしは人が存在する限りいくらでも出現するのさ」
「そう……ざな、あなたは人じゃない。だから感情を持たない──機械的なの……」
「その通り、機械は与えられた使命だけを無感動に繰返す」
ざなは無機質の微笑みを蜜子に向けた。蜜子は顔をしかめた。
「汚らわしい! 人は人でないものを本能で判別し、それを避ける。あなたはいつか人から排斥される!」
「そうかしら──現代という時代、あたしは現代人の望むアニマ。人の心を喪った人に残されたパンドラの希望。蜜子なんてもう、誰からも拒否されているのさ」
乾いた笑い声──ざなは笑うために笑った。そこに蜜子への侮蔑などが微塵も感じられなかったのが、蜜子はたまらなく嫌だった。
拳銃をおろし、右手をだらりと垂らす。
心底軽蔑した様に言葉を吐き出す。
「嫌な娘。人の姿をし、人と同じ言葉を喋るシンボリック・アクトレスとして生まれ、単なるシンボルに堕した哀れな存在」
拳銃をしまう。
「ざな、あんたを殺す意味などない。あんたは人間未満の機械──機械を殺す? 壊すの間違いだった。あんたはいつか壊れる──いいこと、有機物は腐ってもいつかは新たなる生命として復活する。しかし無機物は壊れたらもはやそれはごみにしかならない」
「ふうん──でもあたしは腐らないし、壊れてもまた新たに創造される。あたしは新たなる永遠者」
「嘘──死んだざなといま生きているざなの間には断絶がある。あんたは記憶が継続していればいいと思っているのかもしれないけれど、心が継続していなければ存在の一貫性は保たれない」
蜜子は仁王立ちになってざなを見下した。ざなは蜜子を上目遣いに見上げた。
「下らないな。あたしたちシンボリック・アクターはあたしたち自身が大事なのじゃない──あたしたちを覚えているシンボライザの存在だけが重要でしょう?」
「ふふ……確かにあんたは頭がいい。でもあたしがどれだけ生き続けてきたかをあんたは忘れている。あたしたちは──アクターもアクトレスも──一貫して生き続ける事に喜びを見いだしうる、一貫した生を生きる事によって。そうでなければあたしたちはシンボライザに生き甲斐を感じさせられない。そして生き甲斐を感じないシンボライザは生きたまま死を迎える。一人のシンボライザが死んだ時、たしかにあたしたちはその分だけ存在意義を喪う」
「機械は意義など意に介さない」
「そうね。存在意義のない哀れなわが娘──ざな。何をあたしの振りをしているの? 彼らは欺されない──彼らこそがシンボライザだから」