佐々木は愛書会の連絡ノートに書き付けていた。
「今月三日をもって、GUYが閉店します。今後例会は、適当な場所が見つかるまで中止します。前幹事長より」
愛書会はやむをえず、大学の15号館ラウンジにずっと集まっていた。GUYでの例会は閉店を待たずに、なんとなく中止されていた。
「GUYなくなるんだよな──ふーん」
加藤が無感動に言うと、また競馬新聞を読出した。佐々木はその横で、マルボロの煙草を吹かしている。
黒田は年明け以来、愛書会に顔を出していない。久子も来ないようになってしまっていた。
「試験終わったらさ、みんな帰省だろう。どうすんだ、新歓対策」
西村というトンデモ本マニアが呟いた。趣味の割に、意外と常識人なのである。
「知らないよ、俺もう幹事長じゃないんだから──新幹事長が何か考えてるだろう」
視線をさまよわせる佐々木に西村は訊ねた。
「お前、本当に大学辞めるのか」
「ああ──まあ、試験は受けたよ。みんな受けるしさ。でも、何か馬鹿らしくなってさ──大学の勉強なんてさ。俺、今度本出すんだ。『競馬必勝ガイド』──印税入るしさ」
午後のラウンジには図書館のガラスの照り返しが射しこむ。
「あ、煙草買ってくる」
突然煙草を吸いはじめるようになった加藤が、新聞を佐々木に放ると、立ち上がった。きょろきょろと癖であたりを見回す。
「あれ、蜜子だ」
その言葉と同時に、慣れない大学のラウンジで迷っている蜜子は加藤の姿を見いだして、人ごみを掻きわけながらまっすぐ愛書会の連中の方に近づいてきた。
「黒田は死んだ」
あまりに唐突で単刀直入な蜜子の言葉に、一同は小さく叫び声をあげた。。
「えっ」
「公路への復讐だ。追憶を司るリマインダーは、時とともに人の苦痛の記憶をも和らげるべき存在なのだが、公路はその役割を怠った」
感情の籠らない蜜子の声。
「言い換えようか。記憶というものには二つの効能がある──覚えている事と、忘れる事だ。公路は記憶を司るリマインダーという存在であり、その使命は今言った二つしかない。しかし、彼は自分の分を越えた。君たちはその被害者という訳だ──君たちの脳髄には川崎に植付けられた偽の記憶が存在する」
冷たく言い放つ蜜子──それに佐々木が応じた。
「黒田はどうしたんだ?」
「死んだ──ことにしておこう。正確には精神をいったん破壊したに過ぎないのだが、君たちから見れば、死んだのと変わりはない」
「──それじゃ、あんたと公路とかいう奴が、黒田を殺したんだな。黒田にあんたら、何をしたんだ」
温厚で知られる佐々木が怒っていた。しかし佐々木は、怒りの対象である蜜子の言葉を完全に信じていた。その脇で西村は戸惑ったような表情で二人の顔を見比べている。
「佐々木、この女の人、誰なの。愛書会じゃ見た事ないけど」
「蜜子──火野蜜子。俺たちの記憶の中に刷りこまれ、実体をこの間やっと見せた──謎の女だ」
佐々木自身、説明しながらだんだん不審感をつのらせていった。そもそも自らの頭の中にある蜜子のイメージと、目の前の現実の蜜子とは、同じ様でもあり、違う風にも見えた。
「あたしが謎の女──それは面白いわね。それにしても、わからないかしら、あたしの正体」
サングラスを外す蜜子。
「……久子、久子そっくり……」
「よく似てるでしょう。いや、違う。久子こそが鏡で、あたしが本体。あの子はリフレクター──シンボリックな存在を反映し、現世界へメタファライズさせられた哀しい幻。もちろん幻といっても、存在してしまった今は本物の人とまったく同じ存在になっている」
何らかの意味で久子と共通点を持ちながら、あらゆる意味で違和感のある蜜子。だが、彼女の不可思議な説明を、何の苦もなく一同は納得しえた。
「蜜子。俺たちは多分、あんたの正体を自然に理解すべき存在だ──いや、あんたが俺たちに受入れられるべきものとして存在しているんだ。たださ、俺ははっきり言う──今のあんたが大嫌いだ。あんたは人じゃない──文字通りの意味じゃなくて、人としての感情から言うんだ。黒田は確かに愛書会ではどうでもいい奴だった。あんたも黒田を知っていたじゃないか。だけどさ、そんな黒田が死んだんだって言うんならさ、そんな仕事の報告みたいに言うのはよしてくれよ」
佐々木は出来るだけ感情を抑えたように穏やかな口調で言ったが、今にも蜜子を殴りそうにしていた──いつもの温厚な顔は紅潮していた。
「あたしは存在する意味のない存在だ。だから君に怨まれる理由はない。ただ──あたしは久子が心配なんだ」
「影に対する本体の憐憫か」
「そんなんじゃない──久子は、いわば偽の存在でありながらあたしを意識してくれた。もちろん公路があの子に偽の記憶を植え付けたんだけど──あいつの植え付けれられる記憶というのは、完全に嘘の記憶じゃない。一片の真実を含んだものだけを、いかなる存在もが受入れうるのよ。そして久子はその偽の記憶の中に、一片の好意を見いだしてくれた──無意識のものだと思うけど、私に頼ってくれた」
蜜子は至極真面目に語った。しかし佐々木はそんな蜜子の頬をはたいた。ぱしんという派手な音がラウンジに響いた。
「なんだい、自分への好意を喜んで、自分への敵意は無視するのか。俺はあんたの事、大嫌いだといったよな。おまけに言うよ──この大馬鹿女。あんた、自己満足しているだけじゃないかよ」
蜜子は赤くなった頬を押さえもせず、佐々木に向かって微笑んだ。
「あたしは自己満足すら許されない、無意味な存在……それが影であり鏡であり幻である久子の好意に縋って生きる事の虚しさを、あんたわかる?」
ぱしん! 再び佐々木の平手が飛んだ。蜜子はさすがに今度は二度はたかれた頬を片手で押さえた。
「俺たちの、誰に意味があって生れてきたんだよ。俺たちは無意味に生れてきて、無意味に死んでいく──ほんとか嘘か知らないけれどよ──俺は自分の生きる意味を見つけようとしているんだぜ。それがいかに下らなそうであってもさ。俺は自分なりに自分の生きる意味を見つけようとしているんだ。なのに、あんた、それを馬鹿に出来る権利があるのかい。自分の生の意味を見いだそうともしないで」
佐々木の言葉に蜜子はしゃくりあげた。
「ねえ、蜜子さん。ぼく思うんだけど。ぼくたちはね、あなたの事、偽かもしれないけど記憶の中でね、めちゃめちゃ恰好いい女性だと思ってた。なのに実際に会ったらなんていうか──幻滅した。ねえ、この場だけでもいいからさ、恰好つけていてほしかったよ」
言ったのは加藤だった。
「あんた、本当に蜜子かい?」