喫茶店・GUY。
舟木久子は愛書会のメンバーが誰もいないGUYに入ってくると、がらんとした店内を見渡した。
久子の肩にぽんと置かれた手。久子は振り返った。
「あの、すみでいいだろう」
「黒田さん」
二人はすみの席に座った。
お冷やが出て、註文をして……あとは無言。二人は黙って、本を見ている。
食事が出る。本をしまうと、二人は黙々と食事をとる。
そこに幹事長の佐々木が現れた。
「よっ」
そして狭い店の真ん中の席に陣取る。ぷかぷか煙草を吹かす。
店内には有線のJ-POPが流れている。あとは、がちゃがちゃという食器を洗う音がするのみ。
「よおっす。みんな、元気ないぞ」
めがねの加藤がにこやかに入ってくる。黒田と佐々木がじろりと見る。視線を浴びて、加藤が頭を振る。
「なんだよ」
「いいから、座れ」
佐々木の命令に、加藤は素直に従った。競馬雑誌を取り出す。佐々木がそれを取り上げる。
「何するんだ、きみは」
「どうせもう読みおわったんだろう。ちょっと見させてくれ」
「ティーエスミラクル特集」と書かれたページを開く。先日引退した馬の追想記事だ。佐々木はこの馬が妙にお気に入りだった。
あいかわらず空気が重い。
そこにやって来たのが金田だ。傘を持っている。
「おう、降ってきた降ってきた」
「え……ひょっとして雪ですか。わたし、傘持ってきてない」
久子が顔を上げた。
「たいした降りじゃないよ。そのうち止むんじゃないかな……それより、いいもの持ってきたぞ」
「なんですか」
「この間話した、おれのときの同人誌──闇塚さんが持っててさ。借りてきた」
闇塚というのは愛書会の大先輩である。本が家中を占拠しているのはもちろんのこと、録画したアニメのビデオが天井裏に山をなしている──という噂がある。それはともかく……「インフェルノ」なる題名の同人誌を、金田はかばんから無造作に引っぱりだし、テーブルの上に放り出した。
「けっこう不気味な表紙だろう」
蝙蝠と拳銃のデザイン画が、赤と黒のインクでべたりという感じで刷られている。佐々木も加藤もそれを見つめるだけで、さわろうともしなかった。
黒田がすみのテーブルを離れて、やってくると、黙って同人誌を取り上げた。
ぱらぱらとページをめくる。
「『蜜子の敵』……」
それは金田の書いた小説だった。
「調べて見たらさ、おれが書いた短篇だけが蜜子の小説で、ほかに蜜子のこと書いたやつ、いなかった……誰か書いていたような気がしたんだが……」
「なんですか、このぜなとかざなとかいう変な名前は」
「夢に出てきたんだ。是名と座名と書く……ひとりは冷たく人を肯定してつきはなす少女で、もうひとりは傍観者を気取る嫌味な少女」
つくづく嫌そうに言う。
「金田先輩、自分の書いた小説のキャラクター、好きじゃないんですね──でも、先輩の登場人物の名前の解釈って、なんか、あとから考えたもののように思うんですけど……」
久子の問いに、金田は頷く。
「おれさ、小説を書くときはさ、必ず夢で見たことをもとに書くんだ。だからさ、おれがする自分の小説の解釈って、結局夢判断なんだよ。けどさ、夢判断っていうのは、しょせんおれ達が経験から抽き出す教訓みたいなもので、意味はないんだよ。っていうかさ、自分を納得させて、安心するためのものにすぎない訳……だからおれ、もう小説書かないよ。書いたってしかたない気がするんだ……ここで宣言しておくからさ。これがおれの最後の小説」
そう言って、出てきたアイスコーヒーをすする。寒いのに。
「本当に、もう書かないんですか」
黒田は、古いワープロの汚い印字をコピーした汚らしい紙面を食い入るように見つめていた。
「金田先輩って、心理描写が上手ですよね。ぼくのなんか、情景を描写するので精一杯で……先輩、すごく丁寧に小説を書いてる──小説を書くのが好きなんだな。だから先輩、小説家になりたいんじゃないかって、思ったんだけど」
「小説って、台詞が大事じゃないんだ。なにが大事って、地の文がさ、大事な訳だよ──台詞で登場人物を表現するんじゃなくて、地の文でああだこうだ、作者がね、さんざん説明してやる──それが小説なんだ。地の文が詰らなかったり、適当なことを書いている小説なんて、小説じゃないよ。小説としての、意義がないんだな。おれはさ、お前がこの間書いた小説──お前がちゃんと工夫して書いていたってわかったよ。それはそれでいいんじゃないかな」
アイスコーヒーを一気にすすり上げる。
「おまえにその同人誌、預けるからさ。事件解明、がんばってくれよ。じゃ」
かばんを取り上げると、お金をテーブルに置いて、金田はGUYを出て行った。
雪はだんだん激しく降りはじめた。
愛書会はこれから、GUYから駅前の本屋に移動する。
黒田は久子を傘に入れてやった。佐々木は煙草を吹かしながら、ゆうゆうと傘をさしている。加藤は嬉しそうに頭の上に雪を積もらせながら、傘も持たずに歩いている。
「あっ」
とつぜん久子が声を上げた。
「どうした」
「あそこ」
久子が指差す先を、黒田は見た──そこには、黒いブラウス、黒いパンツ、黒い髪で、淡い色のサングラスをかけた少女が走っていた。
「なんだ。蜜子か」
加藤がのんびり言う。
「まさに、蜜子──だよな! あれは」
少女──蜜子は、横断歩道を渡り、こちらに駆け寄ってきた。
佐々木が緊張した声で言った。
「もし、本物の蜜子だったら……おれ達は蜜子と話をしなきゃならない」
「そんなことできる余裕、無いようよ。逃げてきている……来る!」
久子が叫んだ。一同は一瞬、ぼうっとして、そして脇によけた。
蜜子が猛然とダッシュをかけてこちらに向かっている。
「誰かが追っている……それとも誰かを追っているのか」
黒田が呟いた。
その脇を黒い影のようになって、蜜子が駆けぬける。
「悠長なこと、言ってられない。追わなきゃ」
久子が走り出した。黒田がそれについて駆け出す。加藤と佐々木は、少し遅れてあとに続く。駅とは反対方向──GUYの前を通り、大学に駆け込んだ。
かつてはただの私道だったのに、校舍の間を通ることからいつのまにか大学の専用道路のような雰囲気になってしまった道──を蜜子は駆けて行った。そのあとを久子、黒田、佐々木、加藤の順で追う。
雪はますます激しくなる。顔面に叩きつけられるようだ。加藤が真白になった眼鏡に、前が見えなくなってすっころんだ。佐々木が助け起こす。
「いてえ」
泣きそうになりながら起きあがる加藤。眼鏡をはずして、雪を払う。
「馬鹿だな、気をつけろよ。階段だったら危なかったぞ」
加藤の背中の雪を払ってやる。
「それにしても、あいつら、まだ追っかけているのか」
「そうみたいだぜ」
加藤にうなづき返す佐々木。雪はさらに激しさを増し、風も出てきた。大都会のまっただなかで、まるで吹雪みたいだ。
「おい、帰るぞ、加藤」
「そうすっか」
二人は肩をすくめて、近くの地下鉄駅まで歩き始めた。
蜜子は講堂に走りこんだ。扉を閉ざす。
「だめだな、こんな所じゃ、隠れたことにはならない」
呟きながら薄暗いホールの中を見回し、左手奧の階段を見いだす。
駆けおりようとした瞬間、扉が開く。思わず振り向くと、顔を差し入れた久子と視線が合った。
「久子……」
体が硬直する──ひどく懐かしい、恐怖と緊張の感覚が、体を貫く。
「……待って、蜜子」
「来るな……来るな、久子」
久子はふらりと講堂に入り込んだ。扉を左手で軽く支える。
「どうしたの。あなた、何をおびえているの……」
がくりと体が揺れる。悲鳴を上げる暇もない。蜜子は狭い階段を転落した。
「蜜子!」
「おい、どうした?」
講堂の中に入った黒田。その前で立ちつくす久子。久子がゆっくり右手を挙げる。右手の人差し指が階段を示す。
「落ちた……蜜子が……落ちた」
「なんだって?」
くずおれそうになる久子を片腕で支えながら、黒田は階段へと近寄った。その時、背後で大きな音を立てて扉が開かれた。
「止まれ、黒田。そして、久子」
「……川崎、川崎公路……なんで、なんであたし、あなたの名前、知ってるの?」
久子は目を見開いて、呟いた。黒田は久子を支える。
二人の前で、川崎はにやりと嗤った。
「見つけたぞ──リフレクター。久子、きみが蜜子のリフレクターなのだな」
その時、銃声がホールに轟いた。
「川崎、その娘を狙うのはよしな。無駄だ。あたしは裏切り者のインタフェイサー。あたしの影は必要ない」
柱の陰から、額から血をしたたらせる蜜子の顔が現れた。影の中に浮び上がる、蒼白の蜜子の顔。赤い血。白い手。銃の放つ鈍い光──黒いブラウスと黒いパンツは完全に闇に溶けこんでいた。まるで闇に浮ぶ手首が銃を捧げ持っているかのようだ。
「ふむ。必要がないのならなぜ彼女をかばう。私はこの娘を、ただの慰みのために殺そうと思っているのだよ」
「馬鹿が……馬鹿なのだな、お前は。川崎公路、阿倍野正男、枚方信夫……凡庸な男らしい凡庸なネーミングセンス──お前らしい偽名の数々。いいよ、教えてやるよ、なんであんたが殺そうという娘を、あたしが助けようとしているのか」
「……」
「あんたのやろうとする行為はいつでも馬鹿らしいということを、あんたに思い知らせるためだよ」
銃声。川崎が右肩を押さえる。
「来い、久子。それから黒田もだ。急げ。今のうちに逃げる」
茫然自失となっている二人に叫ぶ蜜子。はっとなった黒田が久子を抱えて階段に歩み寄る。
「急げ、って言ってるんだよ。早くしろ」
蜜子はいらだった。その様子に黒田と久子は慌てて駆け出す。蜜子は階段をひらりと飛び降りる。そのあとを二人が追う。
「くそ、いてえ」
うずくまる川崎の両脇に、いつのまにかぜなとざなが寄り添う。
「大丈夫、兄さん」
「まぬけだねえ、しっかりしなよ」
両肩をつかみ、引き起こす。一瞬苦悶の表情を浮かべた公路は、次の瞬間再び自信に満ちた表情を取り戻す。
「不覚を取った。大丈夫だ。あんな小娘、じっくり料理してくれる」
肩の銃創から黒ずんだ血とともに弾丸がこぼれ落ちる。みるみるうちに傷がふさがる。
「そう、大丈夫なんだね、兄さん」
「ふん、あたしらに迷惑かけるんじゃないよ」
ふっと双子の少女たちが消える。
川崎公路はぎろりと階段を睨んだ。
「逃がさんぞ、蜜子」
地階──小講堂の前からうねうねと続く迷路のような回廊を伝い、螺旋階段を駆け登り、大講堂に続く楽屋脇を抜け、汚らしいサークルの掘っ立て小屋の立並ぶ裏庭に出る。雪はすでに一センチは積もっている。
聳えたつ時計台をきつい目で見上げる蜜子に、久子が声を掛けた。
「駄目よ、火をかけたりしちゃ」
「わかっている──そこまでやるつもりはない。あたしが決着を付けるべき場所は、ここではないから」
苦笑いしながら右手で額の汗と血を拭う。黒田が黙ってハンカチを差し出すが、それを無視して黒いパンツになすりつける。
「あたしの存在はシンボリックなものだ──あたしの流す血も汗も涙も、汚いものではないし、美しいものでもない」
「でも……」
「ありがとう、久子。だが心配は無用だ」
掌を見せる。べたりとついていた血が黒田たちの目の前ですうっと薄れる。
「お前たちにはこれから迷惑をかけることになる──川崎の野郎、何年も前から、お前たちを罠に、あたしを狙っていたんだ」
「え」
「すると、ぼくたちが蜜子……あなたを知っていたのは」
「そうだ。川崎の──リマインダーによる模造記憶だ……どんな記憶だかは知らないが。よければ教えてほしい……いや、そんな暇は今はない。後回しにしよう」
にやりと笑う。
「あの……川崎って、さっきの男ですよね」
「ああ、そうだ」
「蜜子さん、あの男と何があったんですか……いや、そもそも蜜子さんはあの男から逃げていたんですか」
「嫌なことをきく子だね……そうだよ。あたしはあの川崎から逃げていたんだよ。そうはっきり言えば満足かい……でもね、あたしだって負けてはいられない。これから私は川崎たちに仕返しをはじめる」
顔を引締めて蜜子は、黒田と久子を順にねめつける。
「悪いが今後、お前たちを利用させてもらう」
蜜子の鋭い視線を受けて、黒田は縮み上がった。しかしその脇で、久子は蜜子を静かに見つめていた。
「久子、悪いね。あんただけだよ、頼れるのは」
表情を和らげて──蜜子は久子にわざわざ微笑んでやった。