壁には染みがある。カーテンは色あせている。天井はたばこの煙で黄ばんでいる。安いビジネスホテル。

 蜜子がチェックインしたのは夕方六時ちょうど。秋の日は釣瓶落し、外は暗い。

 サングラスを外すと、小さな机の上に置く。買い込んできたサンドイッチと握り飯を、缶コーヒーで喉に流し込む。美味いとも思わない。

 鉄格子のはまった窓から外を覗く。目の前には隣のビルの壁しか見えない。蜜子ははあっとため息をついて、服を脱ぎ出す。

 黒いブラウス、黒いパンツ──これらはベッドに放る。ついで下着を脱ぎ捨て、ユニットバスで湯を浴びる。バスから部屋に通じる扉は開け放ったままだ。

 バスタブで湯につかることもなく、バスタオルで全身の水気を拭うとさっさと上がってしまう。素裸のまま椅子に腰掛け、テレビの電源をオンにする。

 ニュース番組。アナウンサーがスポーツ情報を読み上げ、日本記録が生れた瞬間の映像が流れる。ぼんやりと蜜子は選手の体を眺める。

 つと立ち上がると、蜜子は紙袋から新しい下着を取り出し、値札をとると身に着けた。そしてベッドの上の黒いブラウスと黒いパンツを床に放り、布団を被って寝てしまった。テレビは無為に流れ続け、明かりはつけっぱなしだった。


 朝目覚めると、ちょうど九時だった。そのまま起きあがると、ブラウスとパンツを身に着け、古い下着を紙袋に放り込み、部屋を出た。

 チェックアウト。

 外に出て、そばのごみ捨て場に、紙袋を置く。

 そして、歩きだそうとして、静止する。

「やっぱり、待っていたのね」

 蜜子の視線の先には、ベージュ色のスーツをだらしなく着込んだ若い男が立っていた。

「うん。妹たちもきみの退路を塞いでいる」

「そうみたいね、川崎公路」

 蜜子は両手をポケットに入れた。一瞬、ぎょっとした表情を浮かべた男──すぐ苦笑いの顔になった。

「嬉しいな、きみにまたその名を呼んでもらえるとは。それにしてもきみは変わらないな、癖まで昔といっしょだ」

「あんた、名前変えたってね。ばかみたい」

 侮蔑の言葉に、男はますます渋い顔になった。

「ふん。おれだって、そんなことで中身が変わるとは思っちゃおらんよ」

「ならば、なんで無駄なことをするの」

「きみに言われたくないなあ。きみのやってる、追憶の消去なんて、まったくもって無駄というべきじゃないのかな」

「ま、あたしのプランに協力してくれてるつもりなんでしょうけど」

「そうじゃないんだがね」

 男──川崎公路は苦虫を噛み潰したような顔であった。

 川崎は片手を腰に伸ばした。

「動くな、川崎。貴様のすることは昔と同じだ」

 蜜子は川崎にすたすたと近寄り、腰のホルスターから拳銃を抜き去った。

「……」

 川崎は蜜子の目を睨む。

「下らない武器」

 蜜子は平然と拳銃をアスファルトの地面に投げ捨て、ローヒールの靴で踏みつける。

「こんなもの無くたって、あんたはあたしを殺せる。なのにそれをしようとしない」

 蜜子はサングラスごしに川崎に冷たい視線を浴びせていた。

「ははは」

 力なく笑うと、川崎は踏みつけられた拳銃を、蜜子の靴の下から救出しようとした。しかし蜜子はがっちり踏みつけてしまっている。川崎が泣きそうになりながら銃身を引っぱる。

「ばかね、あんた──下手したら、暴発するわよ。自分に当るわよ」

「そうだ。きみは人が死んだら悲しむからな。自分のことはどうでもいいんだからな」

 かがんだまま蜜子の顔を見上げる川崎。

「ねえ、あんたの妹どもはどこにいるの……あの、ばか娘ふたり」

「ばかとはなんだよ」

「事実よ」

 川崎を見下しながら蜜子は言う。

 不意に川崎の顎を蹴り上げる。

「ばあか」

 そして蜜子は歩き出す。口中血まみれになってひっくり返る川崎。


 手を挙げてタクシーを停めた。後部座席に蜜子は乗り込む。

「嫌な時代よ」

「お客さん、どこまで」

「知らないわよ。適当にやって」

「何を考えてるんだ──昼間から酔っぱらいか」

 最後の台詞は口の中にしまっておいて、運転手は車をスタートさせた。

「お客さん、お金あるの」

「あるわ。安心して」

 蜜子が懐の財布を出して、ミラーに中身を映すと、運転手はひゅうと口笛を吹いた。

「お客さん。どこかのご令嬢かなんか──ですか」

「あんたも古めかしい言い回しを、よく使うねえ」

「ばかみたい」とまでは言わない。

「あっしもねえ、これでもインテリなんですよ。今じゃタクシー運転手なんてやってますけどね」

 苦笑いしながら、運転手はハンドルを切った。

「そう。あたしはね、大学中退」

 言いたくもないことを言うのに、何気ない風を装う。まったく、思い出したくないことを思い出させる奴らばかりにめぐりあうものだ。しかし蜜子は、自分がすきこのんでそういう運命を呼び寄せるとは思わなかった。

「あっしはねえ、あのW大学をね──六年間やったんですよ。勉強? たしかにね、あの頃は遊んだねえ。麻雀をしたり、酒を飲んだり。そんなことばっかりやったね。でもね、あっしはあの頃が懐かしいよ。今こうして車を走らせて、金貰って、家に帰って、ビールを飲む──虚しいよ。俺は何やってるんだろう、ってねえ」

 ひとりで質問して、ひとりで答えている。しみじみとした口調だが、目はまっすぐ前を向いている。蜜子はそんな運転手の表情を、ミラーごしに観察した。運転手は、ミラーに映る蜜子の視線など気にもしなかった。

「安全第一さ。たしかにね──あっしの仕事のモットーは、あっしの生き方のモットーになっちまったんだ」

「そこ右」

 蜜子はいつまでもまっすぐ車を走らせる運転手に、とつぜん指示を出した。

「ん? 目的地、あったんですか」

 運転手が怪訝そうな口調できいたが、それでもあいかわらず目はまっすぐ前を向けていた。

「あたしは安全でまっすぐな道に飽きた──気まぐれに横道に逸れた女なの」

 そしてあんたが羨ましいの──心の中のどこかでもう一人の蜜子が呟くのを、蜜子は意識した。


 まだ日は高い。

「暇だわ」

 タクシーを降りた蜜子は、公園のベンチに座った。

 目を閉じてため息。川崎公路との再会で、蜜子はなにかを期待していたのかもしれなかった。期待は裏切られた。川崎はあいかわらず退屈な男。

 蜜子は川崎をひどい目に遭わせた。だが、それだけだった。詰らない男相手にできることは詰らないことだけだ。

「あんな事をしたって、しかたがないのにね」

 目を閉じたまま仰向く。うっすらと瞼を開き、空を見上げる。サングラスの後ろに細く見える目。一文字に結んだ口。

「秋ねえ──ねえ、『川崎ぜな』」

 とつぜん目の前に立った少女に、蜜子はリラックスしたまま話しかけていた。

「ふふ。私の名前を覚えてるの。へえ」

 白いワンピースにカーディガンをひっかけた、清純そうな、同時に意地悪そうな目をした少女──川崎ぜなは蜜子をばかにしたように鼻を鳴らした。

「あたりまえ──あたしはあんたらのような、ばかじゃないから」

「非道い女──あたしたちの兄さんのことも、邪険にして……」

 恨めしそうに、ぜなは上目使いに、蜜子を見つめた。

「あんたの『兄貴』は鼻血を吹いて、歯を三本は折って、繁華街のど真ん中でひっくり返って、目を剥いていたわ──なかなか恥ずかしい恰好よ。いい気味」

 蜜子は無表情の細い目を、笑みの表情の目に変えた。

「何言ってるの、蜜子。あんた、兄さんを泣きながら蹴ってたじゃない」

 にこにこしながら凄い目で、ぜなは蜜子を睨んだ。

「嘘を言うな、ぜな」

「嘘なんて、あたしは言えないのよ。あたしみたいな存在はね」

「そりゃ、あんたはばか娘──一人前の人間じゃないんだから」

「否定しないわ。でもね、蜜子、あんたこそ──ばか。この世から自分を抹殺したいという蜜子の願いを、蜜子は自分でぶち壊した──ほんとのばか」

 笑みを消し、凄い目の視線をまともに蜜子に向ける。

 蜜子は怯んだ。

「さ、あんたはあたしたちの兄貴を傷つけた。あたしはあんたの心を傷つけた、おあいこね」

 ぜなは右手を差出した。

「握手」

 反射的に蜜子はその手を打ち払った。ぱちん。

「あーあ。何やってんのよ、あんたたち」

 煙草を吹かしながら、ぜなと同じ顔の少女が、二人に近づいてきた。両手のひらを上に向け、肩をすくめている。

「道化芝居は、笑えなければお終いよ」

「姉さん」

「川崎……ざな」

 ぜなの嬉しそうな声と蜜子のうざったそうな声が重なる。ざなはつくづく呆れたという表情を浮かべた。こげ茶色のワンピースのポケットに手をつっこむと、拳銃を取り出す。

「ほら、兄さんの拳銃……記念にあげる」

「いるもんか」

 つくづく嫌そうに、蜜子は横を向く。

「蜜子。あんた、これ、踏みつけたのよね」

「そうよ」

「なんでそんなことしたの」

「知らないわ」

 蜜子は不機嫌になった。自分の感情なんて、見据えたくないし、誰かに分析されたくない。

「それよ。知らない、知らないって、駄々っ子のように──あんた歳いくつ」

「女の子に歳をきくの」

 ぜなが茶々を入れる。蜜子は思わず苦笑する。

「あたしの歳か……そんなこと、忘れたな」

「蜜子は、思い出したくないだけ──そして人は忘れるのだ。忘れてしまえばいちばん楽だから」

 ぜなが注釈めかして言う。

「そして同時につらいこと」

 ざなが歌うように言う。

「だから蜜子は忘れたがって、忘れたがらない。忘れてしまえば自分の存在はなくなる。でもそれは悲しい──悲しい思いを忘れられなければ、また蜜子は蜜子の存在を意識せざるをえない」

 ぜながまじめな顔になる。ざながぜなの横に歩いてくる。二人がならぶ。まったく同じ顔──そして対照的な顔。清純そうなぜな──たばこを咥えたざな。

「あんたたち二人にね、そんな風に言ってもらうことが、あたしの生きる支えになるのかもよ」

 蜜子は皮肉を言ったつもりだった。

「それは光栄」

 二人は蜜子の皮肉を、まともに肯定した。蜜子は心の奧に痛みを覚えた。

「あんたたちは、そうやってひとをばかにして面白がる──ふたりとも、違う性格のようでいて、根本的にはいっしょの人格なのよ」

「その通り。彼女たちは──ぼくの人格の、一部なのだから」

 川崎公路が現れた。ぜなとざなの肩を抱く。口もとに青い痣ができている。

「多重人格の現実への顕在化──リマインダーの副次効果による、公路好みのばか娘が二人。リマインダーの性格って、暗いわよ」

「きみに言われたくないぞ、裏切者・蜜子──インタフェイサー」

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