二百十日に台風八号がやってきた。
各地に大雨洪水強風波浪警報が出ている。
各地で道路が寸断され、鉄道ダイヤも大幅に乱れている。
今では天気予報が発達しているから、こんな時には出歩くこともないのだが──出歩かねばならない人もいるのである。
新幹線が止まった。
車内放送が流れ、復旧の見通しが立たないと伝える。
出張帰りのサラリーマンが座席でうんざりしたような顔をする。子供は泣く。親は喚く。
嵐は吹きすさぶ。屋根を大粒の雨が叩く。二重ガラスの外には風に舞う木の葉が見える。
「これだから、旅はいやなのよ」
全身、黒づくめの少女が座席を立つ──黒いブラウス。黒いパンツ。黒いロングヘアにサングラス。
荷物はなし。手にした文庫本も、ぽんと座席に投げ捨て、手ぶらでデッキに出る。
「どいて、降りるの」
釣り道具を抱えた中年をしっしっと追い立て、風の吹き捲る高架のホームに立つ。
階段を降りる。壁に描かれた地元名物の紹介を見て、ふんと鼻を鳴らす。
「広告の方がこれみよがしで、いっそいさぎよいわ」
駅員もおらず、開放されたままの改札を抜ける。そのまま駅を出る。
少女の姿を見たタクシーが扉を開けるが、少女は無視。
駅前の広場から商店街のアーケードへと抜ける。
商店はほとんどシャッターを閉めている。たった一軒開いていたのは喫茶店だが、客などいる訳がない。
有線放送が聞える──今回の台風は大型で強い勢力を保ちつつ……。
「来ちゃえば、並も大型もないでしょうに」
がさがさと新聞紙が道を転がっていく。アーケードと商店の隙間から覗く空は、どんよりとした鉛色。
「ねえちゃん、あんたも新幹線で足止めくらった口かい」
だらしないなりのおやじが声を掛ける。
「ねえちゃんよ! おいっ、どこ行くんだ。この雨ん中を」
「あんたに関係ないでしょ」
少女は無視してずんずん歩く。
「ひどい言い方だな、ねえちゃん。困った時はお互い様っていうじゃねえか。おいらもさ、ここで宿を見つけるつもりなんだけどさ、なかなか見つからなくて困ってんのよ」
「なにがお互い様よ。あんたあたしに宿、探させる気でしょ」
少女はサングラスをずり下げ、すさまじい目つきでおやじを睨んだ。おやじはひるむ。
「てっ──てめえ……」
「やるの」
少女は歩みを止める。おやじが開き直って睨みかえす。
いきなり少女はおやじの膝のうしろに蹴りを入れた。おやじは目をまるくしてひっくり返る。そこを蹴る。踏みつけるのではない──蹴る。蹴る。蹴る……。おやじは悲鳴もあげられない。
すぐに少女は暴行をやめた。
「あたしはね、今、気が立ってる。今のあたしに声を掛けたのが悪かった」
おやじはひっくり返ったまま、少女を見上げる。
「第一、なにがねえちゃん、ねえちゃん──なれなれしい!」
少女は再び歩きはじめる。
「蜜子──私は蜜子。今は覚えときなさい。そして苦痛と共に思いだしなさい」
ひと睨み。おやじはふるえあがる。
「ふん! 嵐だからね、これはあたしの気まぐれ。命があるだけありがたいのよ」
おやじは呻くだけ。少女──蜜子はふんと鼻を鳴らして歩きはじめる。
アーケードが切れて、国道に出た。
標識を確認して、蜜子は東京方面に歩きはじめる。
嵐──叩きつける風。横殴りの雨。
天気はますます悪くなる。時刻はだんだん遅くなる。空はいよいよ暗くなった。
少女の黒づくめの衣装は、芯までぐっしょり濡れた。サングラスの面は水滴に曇る。漆黒のロングヘアから水がしたたり落ちる。
道を行く車は少ない。たまに通り過ぎるごと、いちいちヘッドライトが歩道を歩く蜜子を浮び上がらせる。
田圃の中を一直線に切り裂く道。水が車道にまであふれている。車が通ると泥水がはねあがる。蜜子は泥水を頭からかぶって、それでも歩く。
どうせ雨水が洗い流すのだ。それに泥水は汚くない。
竹藪がいっせいに傾いて、次の瞬間、逆の方になびく。
家々はみな一様に雨戸を締めきっている。まだ昼間だというのに、街灯がつく。田舎らしく、白熱灯のあわい灯がところどころ残っている。
蜜子は奥歯を噛みしめて、口を真一文字に結んでいる。
後悔していた──おやじのことではない。あんな見知らぬ男、少女にとってはどうでもいい。いや、あれも失敗だったのではないか。
蜜子は自分という存在をこの世から抹殺したかった。あらゆる場面で彼女は自分の印象を残さなかった──あまりにも派手で、斬新で、鮮烈で、強烈な印象を与えると、ひとはその印象ばかりを記憶に残す。その印象を生み出した人物の、本当の姿など見る人にはわからない。
カムフラージュ。仮面。仮装。
あらゆる手段を使ったのかもしれない、蜜子は本当の自分を消すために。
そのうちに蜜子にも、自分が何なのか、わからなくなった。
ただ──不安という感情が、自分を意味づけた。不安に思う自分とは何者なのか。
自分は自分の本当の姿を知っている──それはおそろしいことだったのだが、いまの蜜子に自分の本当の姿はわからない。だから安心していいはずなのに、不安。
自分はなにが望みなのだろう。自分は自分になにを望んでいるのだろう。
自問自答を重ねつつ、嵐の中を蜜子は歩く。
時刻は夕方。腕のスウォッチを見る。まもなく六時。
風はますます強くなる。雨はほとんど水平に降る。
一歩足を前に進めるごとに、体が揺らぐ。ぐっしょり濡れた服が体から熱を奪う。
車道を通る車は列をなして、いつのまにか渋滞となっていた。
蜜子はいくつかの好奇の視線を意識する。
サングラスのうしろの蜜子の目が、細くなり、見開かれ、また細くなる。
はたしてあの視線たちは──ドライバーたちの好奇の思いは──事実なのか。あるいは蜜子の幻想ではないか。彼らは本当に蜜子を見ているのか。
知るもんか、と思ったが、急にいやな気分がして、逃げるように脇道に入る。
国道と平行して走る旧街道。
落ち着いた屋並。急に感情が静まった。
蜜子は自覚した──今回は無理をしすぎた、熱がある。
──まずいな。
怒りはもう収まっている。後悔はもうしない決心をした。だけど……冷静になった今、あたりを見回しても、もう後戻りもできないことになっている。
見知らぬ土地だ。ここはどこなのだろう。
よく思い出してみようとするが、なんと降りた駅の名前もわからない。ただ感情のおもむくまま、嵐の中を、ただ東京の方向に歩いて来ただけなのだった。
無意味。無駄。ナンセンス。愚挙。愚行──これは自分の望んできたことのような気もしたが、ぜんぜん違うような気もする。
吐き気を覚える。ばからしい!
目の前が真暗になる。意識が薄れる。なにか白いものを見たような気がした。
目を覚ますと、ぼんやりと梁が見えた。身じろぎすると、声がかかった。
「気づいたかね」
年寄り──おばあさんの声だ。
「あれ……あたし、どうしたんだ」
起きあがる。夜具がずれた。八疊くらいの座敷──隅の方が暗くかすんでいる。小さな卓の上にろうそくがぽつんと光を放っている。
「あんた、倒れてたんだよ──うちの前に。自治会の見回りをしてた昌平の坊やが見つけてね」
ことことと障子が揺れる。ざあざあ・ばらばらばらという雨の音もきこえる。蜜子はしわの少ない老女の顔を見つめた。
「台風かい。さっき上陸したってねえ。今ちょうどこの辺を通っているところじゃないかね。停電しちまって、テレビがつかないんだよ」
天井を意味もなくちらと見ると、ふたたび蜜子の方を向いてにっこりした。
「あ……あたしは蜜子、火野蜜子」
どもりながら言う。
「ご迷惑、おかけします……こんな時に、急に……」
「いいの、いいのよ。ここは宿屋よ。わたしも寂しくてねえ──こんな天気じゃ、お客さんなんて一人もいなくって。不安でしかたがなかったら、あんたがかつぎこまれて……でもね、寝てるあんたを見てたら、なんか落ちついちまってね」
にこにこ笑っている。
蜜子は不思議そうに、老女を見つめ続けた。
「わたしかい、わたしのことは秋江と呼んどくれ。福富秋江。この宿はね、橋屋っていうのよ。……ちょいとお待ち」
秋江は座敷を出て行った。廊下は闇のはずだが、懐中電灯ももっていない。とんとんという音が聞こえたのからすると、老女は階段を降りて行ったらしい。
蜜子は自分の姿を検分する。白い寝間着。下着まで新しいものにかわっている。
ろうそくのある卓の上を見ると、サングラスが疊んで置いてある。手を伸ばして掛ける。一瞬ろうそくの光を受けて色が浮び上がったあと、闇に慣れて透明になる。
古めかしい木の建物。梁が見える。太い梁。黒ずんだ木の肌。座敷はあまり使われないらしく、疊もいたんでいない。
またとんとんという音がきこえた。
「さあ、召しあがれ。このへんの名物だよ」
鍋物。ぐつぐつ煮立っている。
起きだす。くしゃみ。
「なにかひっかけた方がいいね」
とってくれた赤と黒の模様の半纏に腕を通す。
敷いてくれた座布団に正座する。
箸を手に取る。お椀をとってもらう。
「猪の肉だよ」
蜜子が肉を口にすると、にっこり笑う秋江。
「あったかい」
唇の端についた汁を手で拭う。行儀が悪いと知りながら。
「おいしいかい」
「おいしい」
「このへんの名物なんだよ、この鍋」
そういえば、駅のポスターで見た。あの紹介には嫌悪を覚えたけれども、今目の前に置かれた鍋にはあたたかさしか感じない。
「おいしいです」
食べ続ける。
「おいしい……あたたかい」
同じ言葉を繰り返すたびに、秋江が微笑む。
「ごちそうさま」
箸を置いて、手を合わせる。食事のときの、蜜子の癖だ。
「お粗末さま」
秋江はにっこりした。鍋はからになっていた。
「さあ、ゆっくりやすみなさい」
「はい」
蜜子は素直に、老女の言葉にしたがった。
「ちょっと……お手洗いを」
「下よ。一緒に行こうか」
「ええ」
暗いところを怖れない蜜子も、ここの厠は少し怖いのだと思った。
歯ブラシも借りて、歯を磨いて、すぐに休んだ。
次の日は台風一過。よく晴れ上がった。
蜜子は昼まで布団の中にいた。布団で眠ったのは何年ぶりだろう、と夢うつつの中で思った。ぬくもりと、ベッドとは違う固い感覚に安心感を覚えた。長い間眠ったので、不思議な夢をいくつも見た。
「さあさ、いいかげん起きなさい」
秋江がおこしにきたとき、布団の中から蜜子は目だけ出して、老女を見つめていた。
「服は乾いている。お財布の中までびっしょりだったから、お札もひろげて一枚いちまい乾かしといたよ」
かんたんな朝──昼ご飯をサングラスも掛けず寝間着のまま食べていると、いつもの黒い服を持って、秋江がとんとんと上がってきた。
黙って蜜子は服を受取った。
服を手にして、じっとそれを見ている。
「どうしたの」
秋江が不思議そうに、蜜子の顔を覗きこんだ。
蜜子は憂鬱そうな表情を浮かべていた。
「大丈夫なの。もう一日泊ってく」
「いえ」
蜜子は顔を上げた。寂しげな表情を浮かべて。
寝間着の帯を解き、下着も脱いだ。素裸になってから、自分の服を身に着けはじめる。
黒いブラウス。黒いパンツ。
ベルトを締め、サングラスを掛け、黒いロングヘアを掻きあげる。
「用意はできたのかしら……」
「ええ。ご迷惑をおかけしましたね」
いつもの自信満々の顔であった。そんな蜜子の顔を見て、秋江はやはりにっこりするだけだった。
「迷惑だなんて、とんでもない。一晩楽しかったわよ」
二人は幾語も話を交わしていない。
「あたしも、楽しかったわ」
「またいつでも泊まりに来てね」
「ええ、ありがとう」
蜜子は立ち上がると、階段をかろやかに駆けおりた。とんとんと秋江が続く。
なるほど、ここは古い伝統のある宿屋だった。帳場がある。炭火のおこった火鉢がある。
「お代はいくら。ここは宿屋さんでしょ」
「いらないよ。あんたはお客じゃないんだから」
「そう。ありがとう」
蜜子はロウ・ヒールの靴を履いた。脇を見ると、丸めた新聞紙がいくつか転がっている。一晩かけて、秋江が乾かしてくれたらしい。
「ほんとに、ありがとう」
「いいのよ。困ったときはお互い様よ」
秋江はにっこりした。
「道を出てね、すぐ右の方だよ、ちょっと行くとバス停があるからね」
「ええ……じゃあ」
蜜子はあとを振り返ることもなく、軽い足取りで旧街道を歩いて行った。