大学通りを駅から十分ほど歩くと、青鳩堂という古本屋がある。授業が終わるとその二階の喫茶店・GUYにはよく行った。別にうまいコーヒーがある訳でもないんだが、習慣というやつで、ぼくらのサークル・愛書会はGUYをたまり場にしていたのだ。

 本読みは無口だというイメージがあるけれども、ぼくらはみんながみんな、喋らないわけじゃなかった。場合によっては席に着いた全員が本を読んでいることもあるけれども、たいていは誰かがお喋りしている。新入生の子は新入生どうしよく喋るようだ。

 その日ぼくは、青鳩堂で前から探していた昔の雑誌を見つけてご満悦だった。GUYに上がってきて、袋から雑誌を取り出そうとしたところで声をかけられた。

「黒田さん……」

 新入生の子だ。緑のブラウスにベージュのスカート──名前が出てこない。

「え?」

「舟木久子です。黒田さんにお願いがあるんですけど……」

 ぼくは袋の口を開けるのを中止して、顔を上げた。頭の回転のよさそうな、でも少し内気そうな目がこちらを見つめていた。

「どうしたの?」

 ぼくはちょっと機嫌悪そうに言った。手の中の雑誌に意識はなかば行っていたのだ。

「すみません、小説書いたんで、見てほしいんです」

「小説?」

 ぼくらのサークルにはもの書き志望者もけっこう多い。一方でぼくのように、新人賞の下読みをバイト感覚でやっているものもいる。そのことを、ひょっとすると前にちらっと喋ったのかもしれないし、誰かが彼女に教えたのかもしれない。

 ちょっと黙り込んでいたものだから、

「だめですか」

 少しがっかりしたような声。

「いや、ま……いいけど」

 雑誌とのご対面はうちまでお預けのようだ。鞄に袋ごと押し込む。

「今、持ってるの」

「はい」

 これ、と薄い原稿用紙の束を渡された。掌編だ。初心者にありがちな、思いついたから書いて見た、というやつ。

「じゃ、いま読んじゃうから、ちょっと待って」

 どうせすぐ読めるのだから──と思ったら、あわてて舟木君は止めた。

「ここじゃ読まないでください──恥ずかしいです。明日、ここで感想きかせてください。わたし、授業があるから行きます」

 一気に言うと、一礼して去って行った。ぼくは手の中の原稿用紙に困った視線を向けた。

 なんか騒がしい。まわりを見回すと、誰もこちらを見ないでわいわい議論していた。

「物語の神話性ってやつはさ……」

 ギリシャ神話と古事記の神様の類似とか、ありきたりの話なので、ぼくはお預けを食らった雑誌をあらためて読むことにした。開けた袋に、原稿用紙をたたんで入れる。

 肩を叩かれた。めがねの加藤だ。

「なに読んでるの? へーん、なんだ」

 表紙をちらと見てあっちに行ってしまった……たまにいるんだ、本に興味がないのに愛書会に入って来るへんなやつが。


 舟木くんの、恥ずかしいです、という言葉が頭にあって、電車の中でも原稿はひらかずじまい。マンションの部屋に帰りついても、なんとなく袋から出す気になれなかった。

 とりあえず炬燵に入って、買った雑誌をまた見かえす。幻想と怪奇の小説雑誌だが、店頭で見つけた時の昂揚感がかえってこない。立ち上がると、本棚の一番上に並んだバックナンバーの、第二号と書かれたやつの左にむりやりつっこむ。少しきついが、いつものように棚の中身の入れ替えをする気にならなかった。

 いやに気が重い。炬燵の上の袋を立ったままとりあげる。袋から引き出した原稿用紙の、メーカーをチェックする。大学せいきょう製の原稿用紙。

 題名を見て驚愕した──「蜜子の夏」。

 蜜子──ぼくは蜜子には思い出がある。舟木くんも蜜子のことを知っているのか。疑惑が頭をよぎる。

 ぼくは震える手で、巧いとも下手ともいえない女の子特有の文字をひとつひとつ辿りはじめた。


 次の日、ぼくは朝いちばんに大学に出かけた。正門の前でじっと待つ。一限の授業に出るために学生がちらほら現れはじめた。

 舟木久子くんが一限をとっているか知らない。しかし、とりあえず来るまで待つつもりだった。

 ひとしきり人の群れが駆け込むと、授業が始まって、じき人影がまた絶えた。こうなっては二限の始まるのを待つしかない──あきらめてポケットから文庫本を取り出す。

 ……くしゃみをした瞬間、声をかけられた。

「黒田さん!」

 ぼくは顔を上げた。茶色のコートを着た舟木くんが正面に立っている。

「舟木くん、きみ……」

「え」

「蜜子のこと、知っているのか」

 舟木くんはちょっと虚をつかれたような顔になった。

「蜜子……蜜子さんて、知り合いの人がいるんですか」

 ああ、やっぱり知らなかったのだ。

「高校の時にね……いや、実はよく知らないんだけどさ」

 またくしゃみ。

「風邪ひいちゃいますよ。あったかいところ……GUY、行きましょ」

「授業は」

「どうせ遅刻だし、あまり面白くないからあとでノート借ります」

 もう一度くしゃみ。はなみずが垂れてきたのでティッシュで拭く。くしゃみが止まらない。

「大丈夫ですか」

「大丈夫。それよりきみの小説……」

「ええ、下手でしょ」

「……」

 にこやかに言ってのける彼女に、ぼくは別に失望もなにも感じない。ぼくだってそんなに物を書くことに真剣じゃないのだから、彼女が真剣でなくてもしかたがない。

 GUY。着席。彼女はコートを脱いだ。今日はうす緑色のセーター姿。

 コーヒーを註文して、品がやって来るまでに軽く感想を言ってやることにした。

「小説も、楽しみで書くんだったらいいんじゃない。割と面白かったよ。ただ……」

「名前、ですね」

 ぼくはくしゃみが出そうになったふりをして、ティッシュで口と鼻を押さえた。

「そう。蜜子、なんて名前──ざらにあるようで、こんな字書く子はめったいない。きみ、もしかして蜜子のこと、知ってるんじゃないかと思ったんだけど」

「蜜子って……夢に出てきたんです。一度だけ、高校の時に。それで、忘れてたんです──長い間。なのにこのごろ急に思い出して。なんとなくわかるんです、蜜子ってわたしと正反対の性格の子なのに」

「正反対の性格?」

 会ったこともないのに、何でわかるんだろう。

「蜜子、わたしに言ったんです。自分のことを嫌っちゃいけないって。不幸になるよって。でも、そんな蜜子自身、自分のことが嫌いなんじゃないかと思ったんだけど……わからなくて。ただ思いついたことがあって、書いたんです」

「これだね」

 鞄から原稿用紙を引っぱり出す。

「そうです」

 ちょうどその時、コーヒーがきた。彼女は角砂糖二個とミルクをいれるが、ぼくはブラックだ。

「お砂糖、入れないんですか」

「胃にはよくないんだけどね」

 甘いのが嫌いじゃないんだけど、後味が気に入らない。

 二人の間に原稿用紙。コーヒーをすすりながら、飲み物の話を少し。

「原稿、返すよ」

 気まずい沈黙。

「ぼくが持っててもしようがないからさ」

 黙って原稿を手にする久子くん。

「愛書会でも、同人誌出すやついるから、載せてもらってもいいし。誰かに読んでもらった方が書いてて楽しいよ」

「わたし、読者は黒田さんだけでいいです。小説って、誰かが読んだからうまくなるってものでもないっていうじゃないですか」

 じゃあ、ぼくが読むこともないだろうに、と思ったが、黙っていた。

「今日、一日あいてます?」

「うん」

「買い物したいんですけど、つきあってください」

 頷くと、久子くんはカップのコーヒーを一気に啜った。


 一日付合わされたのは、冬物着物バーゲンセールとかいうもの。そのあと帰りに「お礼に」とかいうことでケーキ屋に寄らされた。

「金曜日は、ペアで食べ放題なんです」

とのこと。たまに愛書会の新入りたちと来るらしい。

 ぼくはケーキ七つでいやになったが、彼女は十一個つめこんだ。どこに入るのかは知らない。普通の食事とはちがうところにいくのだろう。

「なんか顔あかいですよ。黒田さん」

「そう」

 少し顔がほてる感じがして、目の前の久子くんの顔がゆがんで見える気もしたが、どうでもいいや。

「それにしても……黒田さん、食が細いんですね」

「甘いものは苦手なんだ」

「……それは、すいませんでした」

「いいよ、別に」

 食後のサービス、紅茶一杯。

 話がつながらない。しかたがないので、興味はないが、先程のバーゲンセールで買った服のことをきいてみる。もちろんさっぱり訳がわからないし、お互いなんとなく空々しい会話にしかならない。

「きみ、夢の中で、蜜子に会ったって」

 話がとぎれた沈黙にたえられなくて、思わず蜜子のことを口にした。

「会った……たぶん会ったんだと思うんですけど、よくわからない」

 かたわらをみる。ソファの上には原稿の入った手提げバッグが、紙袋たちと並んでおいてある。

「小説の中の、蜜子の描写──驚いたんだよ。蜜子はね、笑うと目が線のように細くなる。ちょっと近眼でね──いや、目が生まれつき弱かったそうなんだが、度の入った薄い色のサングラスをよくかけていたよ」

「わたしが見た夢じゃ、真暗闇の中に蜜子が浮び上がって……顔の輪郭が白くて、めがねの中の細い目が闇の中に溶けていきそうだった」

「そう。あいつのサングラスは、強い光が当ると色がつくんでね。暗いところじゃ素通し。普段は日の光の当らないところで過ごすんだって言ってた」

「ふうん……」

 なんとなく会話がとぎれる。

「じゃ、行こうか」

 店を出る。代金はそれぞれが払って、駅の改札まで黙ってならんで歩いて。

「それじゃ」

「じゃ」

 そして別のホームの電車に乗る。

 電車の座席で、くしゃみが出て悪寒がした。


 土日は熱で起き上がれなかった。月曜日は出ないとまずい授業があるので、無理して大学に行った。授業が終わったらまっすぐ帰るつもりだったが、習慣とはおそろしい。

 うっかりGUYに来てしまった。

 しかたないので、食事を頼む。うちで飯をつくる気力がない。夕飯のつもり。

「お、黒田。先週金曜日、舟木さんとケーキ屋行ってたろ」

 めがねの加藤が雑誌を片手にやってきた。どこから情報を得ているのかわからんやつである。

「どうだった」

「どうって、別に」

 ぼくは顔が少しほてるのを感じた。加藤は気づかない。

「鈍いな──いくつ食ったか、ってんだよ」

「……え、七つ」

「たったそんだけ。馬鹿だなあ」

 なにが馬鹿なのかわからない。

「あそこじゃ十五個がデフォルト」

 よくわからないことをぬかす。そのとき食事がきた。お冷やを飲んで、割り箸を割る。

 加藤がちらちら雑誌をさせるので、付合い。

「お前、どんな雑誌読むの」

「これ──馬、馬」

 にこにこしながら表紙を見せる。競馬雑誌。

「今度のレース、オオノプリティが本命なんだけどさ。久しぶりにビーナスクドーが出走するんよ。日曜の府中は荒れるぞー」

 するとわきから、幹事長が口をはさんだ。

「ヨッシースパイラルが大穴なんだぜ。でもこいつは終盤、追い上げるからな」

 わが愛書会幹事長は先日、十万円をもとでに大勝負をして三倍の収益をあげたとかいう話だ──なんの幹事長だかわからないが、とにかく好人物なのだからいいだろう。ぼくは幹事長とはあまり話をしないから、この人のことはよくわからない。

 二人は別のテーブルに行ってかってに盛り上がりはじめたので、ぼくはのんびり食事ができた。

 しばらくご飯を、カツをおかずに掻きこむ。この店はなぜかいいお米を使っている。

 おぼんの上の食事がなくなり、出てきたコーヒーをやはりブラックで飲んでいると、舟木くんが現れた。

「黒田さん、金曜日は、どうも」

 そこにすかさず、めがねの加藤が出て来る。

「ケーキ、何個食った」

「……十一個です」

「甘い! まだまだ食らい袋の名は譲れんな」

 わははは、と意味もなく高笑いする加藤の前で、舟木くんが所在なげにしている。

 ぼくは彼女に手招きした。なんだか頭痛がする。

 舟木くんはコートを脱いで、テーブルの向こう側に座った。

 ぽつりぽつりと会話。

 授業のこと。あまり面白くないらしい。だからといって、安易に授業を切ると、後悔するぞ。そして、

「やっぱり、あの小説、誰かに読んでもらった方がいいんでしょうか」

「そりゃ、文章はおのずから読まれることを欲する、っていうからな」

 舟木くんは、バッグを抱えてもじもじしている。

「なに、舟木さん、小説書いてんの?」

 めがねの加藤が目をうるうるさせて割り込んできた。

「こんどぼくさ、同人誌出すから、なんかあったらちょうだい」

「ばか、お前が雑誌やるんなら、おれが雑誌くらいだしてやるよ」

 あとから考えると、ぼくのこの言葉は熱に浮かされていたせいらしいのだが、どういう訳かその場でぼくを編集長に会内誌を作る計画が立ってしまった。

「んじゃね、黒田の雑誌が出て、そのあとぼくがもうひとつ出すからね、よろしく」

 なにがよろしくだかよくわからないが、物事は、えてしてこんな、いい加減な雰囲気のうちに決まるらしい。編集長のぼくに、舟木くんがアシスタントでつく、とかいうことになった。

「じゃ、黒田さ、熱っぽそうだからアシスタントの舟木くん、駅まで送ってやって」

 話がまとまったところで、幹事長がのたまった。

「あれ、黒田、熱あんの。大丈夫か」

 加藤はいつでもにこやかで辛辣だ。

「先輩たち、帰らないんですか」

 舟木くんが首をかしげる。通例、帰りは愛書会会員全員で駅の近くの本屋まで行き、そこで解散する。

「ぼくたち、これから第二部室行くから」

 加藤用語で、第二部室とは雀荘のことである。

「そういうこと。じゃ、あとはよろしくね」

 さわやかに幹事長が手を振った。


 ぼくは足元が定まらないのを感じた。肩を貸してくれる久子くんも心配そうだった。

 駅について、ぼくはかなり具合が悪いのを自覚した。

「大丈夫ですか。家、どこですか」

「×××だけど」

 それからあとの記憶がない。

 ただ、電車の中で、隣の席に座った久子くんの言った言葉だけ覚えている。

「黒田さん、なんで小説書かないんですか」

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