黒いブラウス。黒いパンツ。黒いロングヘア──バスから降り立った少女は周囲を見渡した。
眩しい──手をかざす。
ハイウェイのアスファルト、砂丘の砂、入江の水面、もやわれたヨットの帆の群れ、彼方に見える薄汚い街の屋根、クリークの流れ、雑木の緑、でこぼこ道の小石──そして小さな喫茶店の銀色の壁面。
「何も変わっていないのね」
そう呟くと、喫茶店に入って行った。
薄暗い店内に、学生風の客がちらほら。
薄い色のサングラスごしに見回す。
「改装したのかな」
立ちつくしていると、突然、すみのテーブルで大声があがった。
「そんな! あのレポート、出来がいいっておっしやったじゃないですか?!」
青年の声。それに応える年老いた声。
「そりゃあな、レポートの出来はよかったよ、一回も出席せん割にはな。ただなあ君、一回も出席せんで単位だけ貰おうだなんてえ、そいつぁ虫が良すぎるぞ。」
その声を聞いたとたん、少女は目を輝かせて、そのテーブルの前にかけよった。
「先生! 真木先生じゃありませんか! お変わりありませんようで!」
「ん? どこかで聴いたことのある声だな? 誰だ?」
老人──真木教授は視線を上げて少女を見た。少女はにこにこして手をひらひらさせながら応えた。
「ぼけないで下さい。あたしですよ、火野──火野蜜子ですよ!」
そう言うと、腰に手を当てて胸を張る。真木教授は怪訝そうな顔をしていたが、突然ぽんと手を打つと少女を指差して叫んだ。
「思い出したぞ! あの一回もわしの授業に出席もせんで、しかもレポートも書かずに単位を奪い取っていった小悪魔じゃないか……どうした、今頃なにしに、のこのここんな田舎に戻って来たんじゃ?」
「いやですね、先生。ご挨拶ですよ。先生にはお世話になりましたんで」
「お世話ねえ……」
真木教授は茫然と蜜子を見つめた。
蜜子の目はサングラスの後ろで細く細くなっていく。
「しっつれえい」
突然、蜜子はテーブルに行儀わるく腰掛けて、飲みかけのアイス珈琲を横取りした。ずずっと音をさせてストローから珈琲を飲み干す。飲み物を取られた青年は茫然とそれを見つめた。
「ふむ? やっぱりそうか……しかたない……こいつは今度こそ、ちゃんとわしの研究室に居残るという訳か……」
老教授の声に、青年はやっと気を取り直した。
「居残るって……先生! 冗談じゃありませんっすよっ」
真木教授は黙ったまま。青年はとりあえずさっきの話を蒸しかえす。
「先生、だいたい、こっちの彼女にはレポートも何にもなしで単位をやって、何でぼくには駄目なんすか?」
教授は何も応えようとせず、片肱ついて頭をささえ、蜜子を睨んでいる。すると蜜子がにこにこしながら青年の方へ右手をさし出した。
「ま、あたしの場合はいろいろ裏から手をまわしたの。おかげで真木先生には単位を貰えたんだけど、いづらくなっちゃって……でも、そろそろほとぼりの方も冷めているころだろうと思ってね……」
何だかわけのわからない言い訳をしながら青年の手を握る。
「あの……あんたね……」
「ごめんね、君。名前も訊かないで」
にっこり。
「……ぼくは、熊野──熊野工一」
毒気を抜かれたような顔。
「オーケイ、工一。珈琲ごちそう様ね、かわいい後輩くん!」
立ち上がる。
「そんな訳で、じゃ、また!」
片手を挙げると、お冷やを持ってやっと出てきたウェイトレスには愛想を振りまいて、喫茶店を出ていった。
真木教授が言った。
「そういう訳だ。単位は諦めてくれ。」
そして唖然としている熊野青年を残して、ただしお金を払って、喫茶店を出ていった。
しばらくして。
「おれは単位がほしいんだー!」
工一は喚いた。
喫茶店の脇から、クリーク沿いに続くでこぼこ道。蜜子は宙を舞うひばりを探しながらのんびり歩いていた。ぽーっとした様子で、独り言。
「真木のやつ、まだ大学に残っていたか」
「おうよ。ここにいればお前はいつか現れるからな」
あとから追いかけてきた真木教授が、蜜子の独り言に応えた。蜜子はびくっとして振返った。
「あちゃー」
髪を掻きあげ、天を仰ぐ。
「何を言っとるんだ。お前、まったくいい時に来てくれるもんだから、あのうるさい青年をからかう楽しみが、ぱあになっちまったじゃないか。責任とってもらうぞ」
「いや、別にあんたの楽しみぶち壊すためにきたつもりじゃないんだけど……」
眉間にしわを寄せて言う。
「そりゃそうだろうな、あたしには楽しみはない、とか言っとったくらいだしな」
真木はズボンの左右のポケットに手をつっこみ、のしのし歩いた。
「いいんですか、あの子ほっといて」
「かまわん。お前がきたんじゃ、大学の方が心配じゃ」
蜜子は急に目に鋭い光を宿らせた。
「やっぱり……あれのことじゃろう。まったく、レポートも出さんであんなもんにかかわっていたんじゃからな……」
「黙りなさい──まったく、忘れていればよかったのに」
「無茶言うよ──いや、無茶なのは君の生き方だ。蜜子君」
「……真木先生、あんたいい先生だったよ。だけどねちょっと──おせっかい」
「ああ、長いこと世間にいりゃ自然と、ね」
真木教授は蜜子の灰色の瞳を見つめた。蜜子は単に視線を返しているだけ。
ぷい、と蜜子は視線を外して、歩きはじめた。
クリーク沿いに続く道は、雑木の林を抜けて、丘の上のキャンパスに続いている。
「なんにも変わらない大学ね。やっぱり貧乏大学って困りものよ」
「教授は一流なんじゃがな」
「自分で言わないの」
正門から入る。巨大な樅の木が出迎えてくれる。
「まだクリスマスツリーなんてやってるの」
「年中行事は、変えられんさ」
「そうね……変えないでいいこともあるんだっけ」
ゆるい坂を上り、校舍に向かう。道は砂になかば埋もれかけ、歩きにくい。
「おや、真木先生、こんにちは」
中老の女性教授、松山が、坂を下ってくるのに出くわした。
「ああ、どうも」
「銀猫亭、ですか」
さっきの喫茶店である。この大学の関係者はみな、よく利用する。
「ちょっと、問題のある学生がおりましてね」
「そりゃ、授業にでなくちゃだめですよ」
松山教授の目が蜜子に向いたので、真木は弁解しようとした。
「いや、その子じゃないんです。彼女は卒業生でね……」
「あのすみません。ちょっとあたし、急いで先生に手続きしていただかないとなりませんので……」
蜜子は強く、真木の手を引っぱった。
「……そうでした。急いでるんでした。すみませんね、松山さん」
ずんずん蜜子は引っぱっていく。
松山は不思議そうな顔もせず、正門に向かって歩きだした。
「あの先生だからまだいいんだけど、ね。だめよ、真木先生。あたし、この大学は出入り禁止なんだから」
「自分で勝手にそうしたくせに」
「なんか言った」
「うんにゃ」
引きずる手を振りほどき、真木はふところから煙草を取り出した。
「まったく、世話の焼ける教え子ほど、かわいいというのは困ったもんじゃ」
「ありがと」
ぽっ。蜜子が喫茶店の燐寸を出して、煙草に火をつけてやる。
「すまんな」
「別に……ただだもん」
火の消えた燐寸棒をそこいらに放る。
「さ、いきましょ。あんなもの、放っときゃ──かってに風化してくれるわ」
ステンドグラスからさまざまな色の光が降りしきる。モザイクの床にモザイクの光彩。
天井には明りとりの窓もある。そこからは穏やかな夕方の日が差し込んでくる。
漆喰の壁と、古く焦げたような肌をした木の柱。
絵──写真。肖像。長く白い髭の老人のポートレイト。精悍で小さな目。
蜜子は第一校舍のホールで、それらを一々検分した──まるでいとおしいもののように。
はがれかけたポスターを手で伸ばし、飛んできて足もとに止まったかすれた文字のビラをかがんで拾う。
「ばからしいのよ、こんなもの。もっと大きなものが、大学にはのこされる」
大きな鏡が、階段わきの壁にかかっていた。
「ふん、気にくわない」
がしゃん! という大きな音がホール全体に響きわたった。
「そうよ。あんたよ。永遠にうつろうものを映し出しながら、それ自体変わらないもの──鏡というもの。あたしは呪われている、鏡のせいであたしは呪われている」
「気はすんだかね」
「すまないわ! 何であんなものが残っているのよ! あたしは消し去ったはずだわ」
「忘れられなくてね。お前が大学をやめる理由にした、この鏡がね」
右手を押さえながら、真木教授が言う。煙草はもう吸っていなかった。
「この鏡──いや、お前が割った鏡はだね、私がこの大学に赴任してきた時、目の前で据えつけが行われていたんだ。このホールに足を踏み入れた、まさにその時にだよ」
右手から血を流しながら、真木は蜜子に微笑んだ。
「それでもあたしは許さない──鏡というものをね」
右足で破片を踏みつける。
「なんでもいいさ──でも、お前がここに来たのは、本当に消さなければならないものがあったからなのだろう。この鏡はわしが誤って割ったことにしておく。そろそろ人が来る、早くお前はなすべきことをなしにいくがよかろう」
「そうね」
蜜子が走って去ると、入れ違いに用務員が飛んできた。
「ああすまない、煙草を吸ったら足許がふらついてしまってね……もう年なのかな」
「ばかいっちゃいかんよ。あんたあここの先生だろうに。しっかりしんしゃい」
正門。
右手をつった真木。
「さよなら」
蜜子は手も挙げない。そっけない挨拶だけ。
「ああ、さようなら。気をつけて行きたまえ」
黙ってくるりと蜜子は後ろを向く。
教授は蜜子の後ろ姿に呟いた。
「海岸の遊歩道だがな──砂に埋もれちまったよ。世の中は自然に変わっていくんだ。気にすることはない」
蜜子は振り返らない。クリーク沿いの道をずんずん歩く。
「お前が消したかったものをわしは知らんがね、思い出には残っちまうもんだよ。思い出だけは風化せんのだからね」
銀猫亭のところで、ハイウェイを渡る。海岸沿いに歩く。
海岸の砂浜。赤いロウ・ヒールの先で少し砂をほじくり返す。アスファルトの面が現れる。
「消えやしないのよ。痕跡は地の底にもぐっても残るの。だけどそれを見逃さない」
砂を崩してならす。アスファルトはもう見えない。
「消えるはずがない。消してはならないものをとっておくためには、消えてもいいものもとっておく必要があるから。だからこそ今のうちに消し去っておかないといけなかったのに──」
海岸の砂浜は岩場に変わる。少しづつ、道が現れる。道は上り坂に……
遊歩道は岬に続いていた。岬の突端には灯台。灯台の前の広場は芝生に覆われている。
「そうよ。思い出なんて消し去るためにきたのに──鏡が悪いんだ。憎しみのせいで、また思い出を作ってしまった」
風が冷たくなった。空には一番星、二番星、三番星……。月は三日月。日を追いかけて沈もうとしている。
あたりは夕闇に覆われた。少女の姿は、細い目だけのこして闇に溶けこんでいく。
とつぜん灯台の光が、闇を切り裂いた。