よく晴れた金曜日。六限の授業。進学校の高校三年生のクラスとはいえ、緊張のゆるむ時間帯である。

 生物の老教師は黒板に向かい、ぶつぶつと何事かを呟いているが、聴いている生徒は誰もいない。

 窓際、一番前の席。くせっ毛のショートカット、大きな目、少し吊り上がった眉──久子はぼんやりと窓の外を眺めていた。周りの生徒は内職をしたり、ひそひそと、あるいはおおっぴらに喋っている。

 突然、老教師は切れた。

「やかましいっ。いっいっいっ、いいか、生物の授業は、そんなに受験で選択するものは多くないかもしれないがね……。」

 あいかわらず、教室はやかましいままだ。教師の迫力のないこと。

 大きな音に教室が静まり返った──教師が机を叩いたのだ。

 一瞬だが、生徒が教師を注目する。

 だが、久子は窓の外をぼんやりと見つめていた。


雲は不定形。

子供は、雲がアイスクリームみたいだ、という──そんなことを書いた詩人がいた。

飛行機みたいな雲? 家みたいな雲? ばかみたい。

雲は雲よ。綿菓子みたいだなんて、そんなことはありえない。

ぼんやり見ていると、雲は少しずつ、形を変えていく。それも、一瞬たりとも何かに似ることはない。

鰯雲? 鱗雲? すじ雲? それは、雲の分類。あの雲この雲、組み合わせてみる。

そうね、うまく言ったものだね。誰が考えたのかしら?

そうだ。人が作ったものに似ている雲はないのよね。


……久子、久子、久子?

「舟木久子!」

 はっ、と久子は正気にかえった。

 わたし、いま何を考えていたの?

 とまどい。

 一瞬前まで思っていたこと、考えていたこと、それがふっと、消えてしまった。

 混乱。

「舟木?」

 教師の声がする。いらだちの気配が薄れ、少し心配するような調子が入っている。

「はい」

 久子はささやいた。はっきり声に出してしまったら、何かを忘れてしまったことを、忘れてしまうかもしれない。?

「大丈夫か?」

「はい」

 はっきり声に出してしまった。もうだめかもしれない。でも、思い出すべきことなら、思い出すだろう?

 授業は進む。教室はまた、次第にやかましくなっていく。

 そのうちまた、教師が怒りを爆発させるだろう。

 だが、いい。教師の興味は、久子から外れた。

 ぶつぶつと、呟くような教師の声。

 久子は目を閉じた。


網膜の裏? の模様。赤と緑と、黄色と、不思議な色のパターン。赤い世界に浮かぶ、緑の固まり。絶えず動き回っている。己の意志とは関わりなく、しかし、意思的に動く? 存在。どこにもない存在。

閉ざされた目の見る、不思議なヴィジョン? そんなもの、ない。うすい皮膚を透してきた外界からの光が、視神経を刺激しているだけ。

何かがある? 仮想的。バーチャル・リアリティ。偽りの感覚。幻覚。残像。

記憶の中のイメージ。想像のイメージ。

デジャ・ヴュ。ジャメ・ヴュ。


「遺伝子」

 教師の言葉が、耳に入ってきた。


遺伝子。受精。卵。胚。発生。

ヒトの発生。最初から、ものすごく小さな人間が出来ていて、大きくなって、赤ん坊になって、生まれて来る?

そんなことはないのだ。遺伝子が、形を決める。はじめに形ありき、ではない。

イメージはイメージ。情報は情報。イメージから、情報は派生しない。?


 久子は、目を開いた。授業終了のチャイムが鳴った。

 号令がかかった。起立・礼。型通り。一斉に。

 騒がしい授業も、最後だけは静かだった。おかげで、平穏に、あるいはさっさと、授業は終る。

 放課後がはじまる。いやいや、その前に、掃除の時間。

 「掃除の時間」? 「xの時間」? 時間は流れるだけのもの。ものではないもの。そんなものにも名前がついている。ものでないものに名前をつけるのは誰?


 坂道の多い通学路。学校から駅まで、UP-DOWN-UP-DOWN。

 久子はひとり、脇目もふらずに歩いている。

 高級マンション。コンビニ。ラーメン屋。床屋。賃貸マンション。外人墓地。

 見なくても分っている。見てもそんなもの、意識しないでいる。

 最後の下り坂。DOWN。左手にはスーパー。二階は本屋。三階以上はマンション。

 このスーパーも、本屋も、久子には未知のもの。毎日その前を通り過ぎるが、入ったことがない。知識としてのスーパー、本屋。

 駅前の交番。信号機。盲人横断用のメロディー、「通りゃんせ」。「天神さまの細道」。それは駅前の「道」のアナロジー/シンボル。

 駅。自動改札。定期券をスロットに抛り込む。液晶に浮び上がるメッセージ、「ありがとうございました」。誰が言っているのだろう。わたしは誰かに感謝されているのだろうか?

 階段をのぼる。プラットホーム。駅名標。前の駅、この駅、次の駅。過去、現在、未来のアナロジー?

「勝手な連想よ。わたしには今しかない」

 久子は線路に向かって、直角に立ち、真正面を見つめている。

 生徒たちがホームのあちこちで、談笑しているらしい。知っている顔もある。知らない顔もある。仲良しもいる。久子の顔を見て、向こうのホームから、手を振る友人。

「また明日!」

 大声で叫ぶ友人。久子は、機械的に、微笑んで、叫ぶ。

「じゃあね!」

 ホームに列車がすべり込んだ。

 運よく? 久子は座席を見つけ、座った。


「試験、どうだった?」

蜜子が言った。小学校のころの同級生だ。何度か遊んだことのある子。あの頃のまま、変っていない。

そうだ、試験が返ってくるのだ。わたしは白紙で提出したのだ。

「だめよ。今回は絶対だめ」

「へえ、自信ありげじゃない?」

蜜子とは中学の頃は仲良しだった。今ごろどうしているのだろう──ちっとも喋る機会がない。

蜜子が、わたしと同じ教室にいる。ここは中学の時の教室だ。中二の時、校舍の改築のせいで、うちの学年ではわたしのクラスだけ、職員室の前の、もと会議室を使っていた。ほかのクラスは薄暗い照明のもと小汚い床の上で、わたしたちは明るい照明のもと白いリノリウムの床の上で授業を受けた。それは幸せなこととも言えなくはなかったが、ただ換気が悪かったので、夏の暑い日に室内は蒸し風呂状態だった。

連想が進む。

暑い。蜜子と、誰? わたし──わたしはあまりの暑さに、冷房のきいた職員室に、いた。

のどが渇く。ウォータークーラーの前は、もう生徒が列をなしている。

蜜子が微笑みかけてくる。わたしは、のどが焼けつくように渇く。

「明日からのお休み、どうするの?」

何を言っているのだろう、蜜子は。のどが渇いてしようがないというのに。

蜜子が、まるいレンズのめがねがずり下がってくるのを右手の人差し指で直しながら言う。

「ねえ、今度スキーに行かない?」

スキー? この暑いのに? まったく、彼女、黒いブラウス。黒いパンツ。暑くないのかしら?

一見、頭よさそうなのに、蜜子ったら、ぼけてるんだから。

「何言ってるのよ。明日から、夏季講習じゃない」

そうよ。明日からは夏休み。

チャイムが鳴る。あーあ。水が飲めないまま、授業が始まる。

「何で夏に、スキーしちゃいけないの?」

にやにや微笑みながら、蜜子が変なことで絡んでくる。

いすに座って、足を組んで、蜜子が微笑む。めがねの背後の目が、細く細くなりながら、灰色の瞳がわたしを見つめている──蜜子って、こんなに大人っぽかったっけ?

「早く、授業に遅れるわよ!」

そう言ってわたしは駆け出す。

駆ける。駆ける。急ぐ。急いで。


急がないと、電車が出ちゃう。早く、家に、帰らなきゃ。


 がたたん。ごととん。がたたん。ごととん。

 がたがたん。車輪がポイントを通過する。車体がゆれる。


 久子は眠りからさめた。あ、夢を見てたんだ、我に返って自然にそう思う。

 目をつむったまま、久子は怪訝に思った。夢?

 夢は秩序を持たない。しかし、夢にはルールがある。

 あの暑さ。あっ──背中に当たる夏の夕方の日差しが熱い。

 ──フロイトの夢判断。久子は、夢を見ることには、何らかの原因があることを漠然と知っている。この夢だって、不思議ではないだろう、と、一瞬考えた。

 小学校のころの知人と中学校の教室でわたしは一緒にいた──なんだろう。何が不思議なんだろう。何か不思議なことが、夢にはあるのだろうか。?

「不思議じゃないわ」

 久子は色つきの夢なんて見たことがなかった。今の夢でも──教室の鮮明な白い光の中で、蜜子は黒いブラウス。黒いパンツを着ていた。

 少し懐かしいだけ。ノスタルジー。

 よく考えてみよう、思い出してみよう。そう自分に言い聞かせながら、久子は目をあけた。


 がととん。がととん。がととん。


 終点の駅に列車は滑り込む。

 停車。ぷしゅうという間のぬけた音とともにドアが開く。

 乗客は降りはじめた。

 久子は座ったまま、茫然としていた。あの夢のことを「よく考えて見よう、思い出してみよう」そういう決意をしたことは覚えている。なのに、どんな夢を見たのか──目を開けた瞬間、忘れてしまった。

 夢を見たことは覚えている。夢の内容が思い出せない。

 一瞬前の夢? 出来事? 消えてしまった、失われてしまった。

 喪失感を覚える。失ってしまった、あの夢を。何かとても平凡な、なのにミステリアスな夢だった気がする。

「少し懐かしい夢だった、ような気がする」

 ぽつりと呟いて、久子は立ち上がった。鞄をつかむと、照明の消えた車内をあとにした。


 家。

 ベッドの上にセーラ服のまま、仰向けになって、久子は天井を見つめていた。


天井の模様。白地にそら色の、花の模様? 唐草模様? 雲の模様?


 じっと見つめていると、模様は蠢きはじめるような気がする。

 両手で、目を覆う。手を外す。久子は、いつもはめがねをかけていないが、少し乱視ぎみだった。

 目を閉じる。目を開く。目を閉じる。……。

 夕暮れ。初夏の長い昼間のおわりの陽射しが、カーテンのすきまから差し込んでくる。

 夏場はいつも、久子は雨戸を閉めないで寝る。不精というより、朝早くから差し込んでくる陽射しが大好きなのだった。

 夕陽には興味がない。一度、本を読んでいた時、薄暗くなったのにかまわず読み続けたことがある。陽が落ちて、夜の領域に入って、それでも読み続けた。

 いや──あたりが暗くなり、活字がかすれてきたのを意識したあの晩、本の世界が久子を離さなかっただけなのかもしれない。

 また、部屋は少し暗くなってきた。

 久子は眠りに落ちた。


鏡台。懐かしい、木造りの三面鏡。観音びらきに左右の鏡を開く。

顔。大きな目。少し吊り上がった眉。一見、自信満々の表情。それをわたしはおどおどと見つめている。

鏡は必ずしも真実を映し出すものではないよね。

あなたは誰? 鏡の中の像に問う。

「あなたは、久子?」

鏡の中のわたしの顔が微笑んだ。

「あたしは蜜子よ!」

鏡の中には蜜子がいた。細い目が細くなって、めがねの背後からこちらを見ている。

「なに、自分の顔、じっと見てたの? そんなに自分の顔が好き?」

蜜子は、まるで、チェシャ・キャットのようににやにや笑いながら、わたしを挑発するようにきく。

「好きなわけないじゃない! わたしの心と反対の表情ばかり浮かべる顔。いやでいやでしょうがないじゃない」

むきになる自分が不思議だと、わたしは冷静に自分の言葉を評価していた。

「そりゃ誰だってそうよね。あたしも、好きでこの顔、この体に生れついたわけじゃないけどね」

鏡台が闇の中に溶けこんでいく。

蜜子の目──暗闇の中に引かれた線。チェシャ・キャットは口を残して消えていったというけれど、蜜子は、目だけ残して消えていくのだろうか?

違う。黒いブラウス、黒いパンツ──だから闇に溶け込んでいくように見えるのだ。でも、この闇にわたしの目は慣れていかないのかしら?

「あなたも、自分のこと、嫌いなんでしょ?」

はっきりきいてみる。蜜子は、自分のことを言われるのが嫌いじゃないのかしら?

その時、わたしは、蜜子の目が笑っていないのに気づいた。

「あたし? 嫌いでもこの体を脱ぎ捨てるわけにはいかないからね。好きよ。好きでなきゃ、あたしなんて、やっていらんないじゃない」

そして、蜜子はとつぜんその目を見開いて、(瞳は灰色だった)とたんに真剣な表情になって、急に顔を寄せてきた。

「いい? あなたはその顔を憎んではいけないわ。自分をこの世から消そうとしてはいけない──それはつらいことだから」

忠告よ、あんたは自分の顔を憎んじゃいけない、眠りからさめても心に書き留めておくんだよ──そう、蜜子の声が、わたしの心にかすかに響いた。


 久子の意識が、現実に戻ってくる。

 夢か、夢を見ていたんだ、そう久子は思った。目を閉じたまま、「忠告」を反芻する。

 忘れちゃいけない、呟いてみる。まだ、はっきりおぼえている。慎重に目を開く。

 窓から、街頭の赤黒い光の反射が見える。すっかり夜も更けているみたい。時計を見る。八時半。夕食は、まだだ。久子の家の夕食は遅い。いつも九時すぎにはじまる。

「あっ」

 忘れてしまった、何か、大事なことだったのに──久子は、なぜか愕然とした。


 進学校の月曜日。寝ぼけまなこの生徒たちに、無情にも数学教師は、一限の朝っぱらから小テストを課した。かりかりという鉛筆の音だけが聞こえる。

 x、y、a、b、c……。

 久子は記号の群れに、ふといとおしさを感じた。

「なんなのかしらね。あんたたち、何を書き留めているのかしらね」

 その時、何かを思い出した。

「あ」

 ほうけたように黒板を見上げた久子の頭を、教師がこつんと叩く。

「静かに」

「すみません」

 かすれた声で応えた久子は再びテスト用紙に視線を落とす。

 その目は何も見ていない。


……蜜子なんて、わたしは、知らない。

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