制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成十五年六月十一日
「闇黒日記」平成十五年六月十二日
公開
2006-01-03
改訂
2011-01-19

『自由主義の歴史と理論――東大に於ける特別講義――』

書誌

概要

メモ

第一部 歴史 第一章第一節 より「自然」「自然法則」「自然法」について

nature「自然」と云ふ語について。

まづ、自分の意識の外に獨立して存在する「自然」。既に存在し、人間が感覺で知る「自然」。この「自然」に存在してゐるものが「自然法則」。

次に、人間内部に賦與され、それを生かし、それに從はなければならない「自然」。さうするのが當然であると云ふ「自然」。この「自然」を規範として、實現すべき法則としたものが「自然法」。

第一部 歴史 第一章第一節 より 近世以前の自然法の思想について

ギリシアのストア哲學が自然法の思想の淵源である。ゼノンによれば、人間は生れ附きプノイマ(心靈)を持ち、このプノイマは宇宙の根源的存在でもあるから、人はプノイマの命ずるところにより、「自然に從つて」生活しなければならない。ゼノンの「自然」は、「自然本性」の意だが、「宇宙意志の自然本性」と「人間の自然本性」の區別が附けられてゐない。

ゼノンのストア哲學の影響を受けて、ローマの法律學者は、社會の實定法と、人間の社會生活を支配する天理とも言ふべき自然法とが存在する、と考へた。ローマ時代には、訴訟の當事者が雙方ともローマ市民である場合に適用されるローマ市民法と、當事者の一方がローマ市民でない場合に適用される萬民法とがあつた。この萬民法が、條文が少く粗雜であり、またローマ帝國内の諸民族の風俗・慣習とも合致しない事が多かつた。そこで、民族を越えた理法を究明し、實定法の不備を補ふ爲に、自然法學説が生れた。

このローマの自然法思想が、アリストテレスの哲學とともに中世に傳はり、近世に傳はつた。

が、近世に至るまで、客觀的な原理である自然法則と、規範としての自然法と云ふ二つの矛盾する概念が、混同されてゐた。學問が進むと、この矛盾が意識され、一方を採り、一方を捨てる状態が出來した。大陸では自然を規範的に解釋する傾向が強く、英國では自然を科學的法則と看做す傾向が生じた。英國では、自然法思想から規範的な解釋が排除され、自然主義が暫く支配的だつた。ベンサムの功利主義はイギリスにおける自然主義の集大成的な思想と言へる。イギリスでは、十九世紀後半になつて、理想主義が自然主義に取つて代つた。大陸では、逆に、理想主義的な思想から自然主義的な思想に移行してゐる。ルソーによる個人意志と一般意志との區別が、カントによつて整理され、フィヒテやヘーゲルへと續くドイツ觀念論の傳統を作つた。十九世紀後半、ヘーゲル哲學を批判する形でマルクスが登場し、自然科學を根據とした唯物論が生まれた。

第一部 歴史 第一章第二節 より ルソーの自然法思想について

自然法の思想における代表的な思想家はルソーである。ルソーに據れば、社會が成立するまで、人間は孤立した自然状態にあつた。そこでは自然法が行はれをり、人間は自由で平等であつた。だが、孤立状態では不便だつたので、人々は集まつて契約を結び、社會を作つた。この契約をルソーは「社會契約」と呼んだ。

「社會契約」の結果、社會的規律を施行する國王と、實定法とが出現した。しかし、社會はただ人々の契約に基礎を置くだけで、人の生得の權利である自由と平等とは侵犯されてはならない。自由と平等とを侵害するのは「社會契約」違反であるから、違反者である支配階級に對しては反逆する權利がある。

――かかる自然法思想を、ベンサムは批判した。まづ、「社會契約」と言ふが、契約はそもそも法律上の概念であり、社會を前提としたものだから、孤立状態に在つて社會を形成してゐない人間がそのやうなものを結ぶ事は出來ない(「社會契約」説は、論理的・時間的に顛倒した理論である)。次に、「社會契約」を我々の祖先が結んだ事實は確認不可能であるし、假に結んでゐたとしても、子孫の我々がどうしてその契約を履行しなければならないのか、説明されてゐない。そして、社會が作られる以前、人間は孤立状態にあり、「自然法」が存在してゐたと言ふが、假にも「自然法」が「法」であり、さう云ふ「法」が必要であつたと云ふ事は、人と人との間に交渉があり、社會が存在したと考へざるを得ない。

第一部 歴史 第一章第二節 より ベンサムの功利主義について

ベンサムは「最大多數の最大幸福」と言ひ、功利主義を唱へた。ベンサムの功利主義における「幸福」は「快樂」の意味だが、身分に關係なく一人を一人として個人の快樂を計量し、計算して「最大幸福」を算出する、と云ふ「より客觀的」な道徳哲學の構築を、ベンサムは目指した。

「最大多數の最大幸福」は、利己的快樂主義ではなく、博愛利他的な立場に立つ思想である。しかし、ベンサムに據れば、人間は本來利己的で、快樂を求め、苦痛を避けるのが行動の原動力である。だから、法律によつて、「最大多數の最大幸福」を實現しよう行動した人間に襃賞を與へて利己心を刺戟し、その原則に反する人間に懲戒を與へる事で、人々は「最大多數の最大幸福」を追求するやうになる、と云ふ説である。

このベンサムの説には矛盾がある。「最大多數の最大幸福」を實現せしめるべく法律を定める人間は、法律に據らずして「最大多數の最大幸福」を追求する利他的な人間でなければならず、人間は利己的である、と云ふ定義に反する。また、「幸福」が「快樂」であらうとも、「最大多數の最大幸福」と云ふ理想を實現する爲には努力が必要であるのであるならば、人間の實踐的主體性が暗默の裡に前提されてゐる。

ベンサムは經濟上の自由主義を主張し、私有財産の自由處分や、契約の自由を認める事が「最大多數の最大幸福」を齎すとした。しかし、現實には、經濟上の自由主義が無産階級の沒落を招き、貧富の格差の増大、のちには經濟恐慌を生じた。「最大多數の最大幸福」の實現には、經濟上の自由主義を必ずしも墨守すべきでない事が明かである。

また、ベンサムは、人間の自由意志を認めず、利己的で快樂と苦痛に支配されるとしたが、自分自身は甚だ利他的かつ博愛的であつたと云ふ。

第一部 歴史 第一章第二節 より 功利主義から理想主義への過渡期的な思想を代表するJ.S.ミルについて

ミルはベンサムの影響下にあつて、ベンサム主義者として活動してゐたが、1826年以降、ベンサム主義に對して反省的・批判的となつた。

ベンサムの功利主義にミルは疑問を持つた。即ち、快樂を増進する事が人に幸福を與へるものなのかと云ふ疑問、そして、改革を行ふ當事者が改革を通して個人の幸福が實現した時それを自らの幸福・歡喜として味はふ事が可能なのかと云ふ疑問、である。この點でミルはコウルリッジの影響下に、外面的・社會的環境の改革を主張したベンサムに缺けてゐた内面的教養の意義を認識し、理想主義的思想に注目するやうになつた。

また、ベンサムに缺けてゐた歴史的・發展的な考へ方をミルは採入れた。

さらに、封建制度が殘存した時には最大多數の人間の爲に有益であつた自由放任主義が、今や社會的病患を齎しつゝあつた。博愛的な心情によつて無産階級を保護しようとするのなら、最早經濟における自由放任の原則は抛棄しなければならない。ミルは、サン・シモンやオーウェンの空想的社會主義に接し、無産階級への同情を持つやうになつてゐた。しかし、自由主義の體系に組込まれてゐる自由放任主義を體系から切離すには、改めて自由主義の體系を構築する事が必要となる。

ミルは『自由論』(1895年)を書き、「自己にのみ關する行爲」と「他人にも關係する行爲」とを區別し、前者に於てのみ自由を主張し得るが、後者に於ては自由を讓歩し得る事が可能であると説いた。かうした人間の行爲の二分法で、救ひ得べき自由の範圍をミルは決定しようとした訣であるが、問題は「果して斯かる二分法は現實に成立つのか」と云ふ事である。ミルは「その人の意志」を基準に考へようとしてゐるのだが、徹底を缺き、分類として不十分なものをしか提供出來なかつた。

ミルは、理想主義に傾斜しながらも、依然として功利主義から完全には脱却出來ないでゐた。人間における利己的なものと利他的なものとの區別、意志の自由と必然との區別――さう云つたものに關してミルの考察は徹底を缺いてゐた。

第一部 歴史 第一章第三節 より トマス・ヒル・グリーンの理想主義について

ミルが依然、過渡的な思想に留まつてゐたのに對し、トマス・ヒル・グリーンは理想主義に基く自由主義を主張した。

グリーンの時代、自然科學と道徳との對立の解消、自然科學を成立せしめる認識に關して提唱されたカントの思想の導入、資本主義の弊害が表面化しつつある状況下で制定されつつある勞働立法と自由放任主義との矛盾の解決、これらの事が課題となつてをり、それらの課題を解決する爲にグリーンは新しい思想體系を樹立した。

當時のイギリスは、自然主義が支配的であつたが、ソフィストの相對主義に對立するプラトン・アリストテレスの思想に關する研究が盛に行はれ、また、大陸で發生したカントやヘーゲルの理想主義が移入され始めてゐた。人文の領域では、コウルリッジやカーライル、ラスキンが強い影響力を行使してゐた。社會的な傾向としてイギリスでは理想主義が受容れられ始めてゐた訣だが、それらは「閃光的」・散發的なものに過ぎなかつた。運動が永續的な運動となる爲には、強力な理論體系が要請されてゐたのであつた。グリーンの思想體系はさうした要請に應へたものであると言つて良い。

從來の考へ方では「人は快樂を求めて行爲する」と見る。それに對してグリーンは、「人は行爲する事によつて自我の滿足を感じ、時として快樂を覺える。しかし快樂は行爲の結果であつて目的ではない」と見る。快樂と行爲との直接的な因果關係を斷つ事で始めて「人が單なる欲望を抑へて盜みをしない場合」や「積極的に慈善行為を行ふ場合」等が説明出來る。人は、理性によつて、行動と欲望との直接的結合・自然的系列を切斷し、何が自己を滿足せしめるかを決定出來る。かうして人は行爲によつて全自我を表現し得る。また、行爲に於る責任の根據を見出す事が出來る。

問題は、自我は何に於て滿足すべきか、と云ふ道徳的なものとなる。グリーンに據れば、最高の價値あるものは性格の完成であり諸能力の實現である――即ち人格の完成である。自己を成長させる事と同胞を成長させる事が不可分の事であり、人格の完成は他人と牴觸しない。グリーンはさう云ふ立場から、ベンサムの「最大多數の最大幸福」なる道徳の基準が快樂主義の自然科學的人間観と矛盾し接續しない事、ベンサムの言ふ「幸福」が多義的であり計量不可能である事を指摘した。カントの説、ヘーゲルの説についてもグリーンは批判をしてゐる。

グリーンは、理想主義的な道徳哲學の上に立つて、あるべき社會制度を「我々に内在する善の意識、即ち人格完成への意志の表現である」とした。社會制度は我々が人格を完成させる條件であるが、同時に我々の善の意識を喚起する教育的作用を持つ。現實に存在する社會制度は、我々の善の意識の表現ではあるが、善の意識そのものが發展しつつあるものであり、一方で歴史的社會制度が完全に善の意識を表現し得てゐるものである訣でもない。從つて社會制度自體が常に善の意識に據り批判され改善されて行かなくてはならない。

社會制度は、社會の成員の人格の成長を妨げてはならないし、社會の成員の人格の成長を促進せしめねばならない。

グリーンは、自由を「強制なき状態」と「自己の意志を實現し得る状態」との二義に解してゐる。そして、自由放任論は消極的自由であつて「強制なき状態」であり、今や積極的自由である「自己の意志を實現し得る状態」を以て社會政策を定めなければならないとする。この「自己の意志を實現し得る状態」なる定義は、ヘーゲル的な道徳的自由の定義に一脈通ずるものがあり、保守專制主義的な壓迫干渉をも容認する危險を含むが、自由主義が一般化し封建制度が排除された現在では、「資本主義からの強制」の排除が自由主義の目的となりつゝあると解釋すべきであらう。

グリーンの思想は自由主義思想史上、劃期的な意義を有する。從來、自由が終局の目的とされてゐたが、今や、人格の完成と云ふ終局の目的に對し必要な條件として自由が求められる、と云ふ風に、發想の轉換がなされたからである。これにより、自由放任主義が否認され、社會改良主義の立場が認められた。

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