制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」2000-10-10
「闇黒日記」平成13年7月20日
セブンアンドワイみんなの書店「書肆言葉言葉言葉」
公開
2003-02-15
改訂
2018-02-22

ジョージ・オーウェル『1984年』

0

「正義を實現する」と云ふ名目の下、一切の自由を奪はれた世界を描く。「現代仮名遣い」「占領漢字」を使ふ今の日本人にとつて、本書の「新語法(ニュースピーク)」は他人事ではない。「言葉の制限は思想の制限にほかならない」と云ふ事を、オーウェルは何度も述べてゐる。

『1984年』と云ふ題名は、本書の書かれた1948年の48をひつくり返したものであり、特に深い意味はない。出版當時、本書を批評して或人が「これは現代のイギリスの現實そのままだ」と述べたと言ふ。

1

管理社會を批判し、「盜聽法」に反對してゐる人が、日本には意外な程澤山ゐる。さう云ふ人逹は、この『1984年』を書いたジョージ・オーウェルを自分達の身方だと思ふかも知れない。

しかし、オーウェルはむしろ、さう云ふ連中の敵である。

2

オーウェルの『1984年』は徹底した管理社會を描いた小説である。刊行當時(1948年)、『1948年』はその頃のイギリス社會をそのまま描いた小説だ、と評されたさうである。今も當時も、イギリスは自由主義の社會である。にもかかはらず、オーウェルは、言論の自由を保證された民主主義の母國をも、批判の對象にした。

『1984年』では、ビッグブラザーなる獨裁者が人民を支配してゐる事になつてゐる。しかし、この設定こそが、オーウェルの仕掛けた羂である。ビッグブラザーと云ふ人物が確かに存在すると、『1984年』には書かれてゐない。

人民を管理し、その思想を統制する獨裁者ですら、人民の作りあげた虚構であるかも知れない――オーウェルはさう言つてゐるやうに、私には思はれる。

3

『1984年』に出てくる人民は、敵を憎み、敵に罵詈雜言を浴びせかける事を、ビッグブラザーなる存在に「強要」されてゐる。オーウェルは、狂亂したやうに敵を罵る人々を描いてゐる。

ところが、そのビッグブラザー自體が虚構であるかも知れないと云ふのだ。ビッグブラザーの統制を人民は意識できないでゐる。思想統制の下にあるにもかかはらず、恰も自分の意思に基いたかのやうに、人民は「憎むべき敵」を憎み、罵倒する。しかし、實は人民は「強要」等されてゐないのではないか。ビッグブラザーすらも、人民が望んで生み出した「虚構」であるかも知れない。


オーウェルは、何とも嫌な「1984年」の社會を描いてゐる。この嫌な社會、小説の中に存在するだけだ、とは言切れない。「ビッグブラザー」はゐなくとも、率先して自由を放棄し、自ら進んで「思想統制」の支配下に入り、「敵」を罵つて快を貪る「人民」は、今の日本の社會にも澤山存在する。


「盜聽法」に反對し、匿名で他人を罵倒する事を「言論の自由」だと思ひ込んでゐる人が日本には澤山ゐる。さう云ふ人は、「自分がしてゐる罵倒もまた、何者かに管理され、強要されたものなのではないか」と疑つてみると良いと思ふ。

そもそも、「右翼が作る管理社會」も「左翼が作る管理社會」も、どちらも嫌な社會である筈だ。なのに、多くの左翼は、「右翼が作る管理社會」が出現しさうだと叫ぶばかりで、自分逹が管理社會を作りつつあるかも知れないと反省する事がない。

『1984年』の管理社會は、決して惡意によつて作られたものではない。善意によつて出來上つてしまつた社會である。左翼の諸氏は、惡意ではなく、善意で、管理社會に對する警告を發してゐる。それが結果として、左翼による管理社會を出現させてしまふ悲劇に繋がらない事を私は願ふのだが、どうも、世間の多くの人は左翼的な管理社會を歡迎してしまつてゐるやうに、私には思はれる。

日本の社會では――事實、私もまたウェブで被害に遭つた事があり、現在も遭ひつゝあるのだが――左翼的ならざる言動に對して、非道い壓迫を加へる左翼が存在するのである。最早惡意によるものとしか思はれないやうな惡質な嫌がらせを働く人間すら存在する。

全ての左翼が惡意で右翼を叩いてゐるのではない筈だが、右翼を叩く事に快感を覺える左翼は確實に存在し、さう云ふ人々が社會を管理する可能性もゼロではない。

が、實は、見える形での管理社會ならば、今の日本ならば心配する必要はない。形あるものは叩かれる――それが今の日本だ。だが、目には見えない「管理社會」、或種の言論を壓迫する見えない暴力が横行する社會、それは決して叩かれない。今の日本には、と言ふより、今のウェブには、さう云ふ「状況」としての「管理社會」が出現しつゝある。私はさう云ふ「状況」の出來に抵抗してゐる。

4

政治主義に我慢ならないのが文學者である筈で、彼らは政治とは全く異る次元で一面の眞理を提示し續ける。それは即ち道徳と云ふ事であり、道は近きにあり、道徳は個人に屬するものだが、政治主義からはかけ離れた一面の眞理と云ふものを、政治主義的な人間は全く理解しようとしない。その點では、右と左が共同戰線を張つてゐるやうにすら、私には感じられる。

左翼の獨裁主義・全體主義を非難し續けたジョージ・オーウェルを、ソヴィエトの共産主義者やイギリスの社會主義者は攻撃し續けた。「左翼の結束を亂すものだ」と云ふのが彼らの言ひ分だつた。

日本に限らず、政治主義的な人間は大勢力を誇つてゐるから、反政治主義の人間の分は極めて惡い。しかし、政治が救ひ得ない人間は存在する筈であり、さう云ふ人間を救ふ爲に文學は存在するのであり、優れた文學者の呈示する價値觀は政治主義者によつてどれほどの彈壓を受けようとも輝きを失はない。

ソヴィエト聯邦は崩潰したが、オーウェルが『1984年』で警告した「善意の全體主義」が出現する危機は決して去つてゐない。

そもそも、「善意の全體主義」を齎すのは、左翼でもあり得るし、或は右翼でもあり得る。否、特定の政治イデオロギーを信奉する人ならば、どんな人でもあり得る。彼等の狂暴で野蠻な或種の人々は、現在のウェブでも猛威をふるひ、正常な言論を壓迫してゐる。殘念な事に、さう云ふ人々は、大抵既に『1984年』を讀んでをり、知識としてオーウェルの主張を理解してゐる。その知識が、オーウェルのやうな「言論の自由」を主張する人々を論破し、「言論の自由」を破壞する目的で利用されてゐるのだ。人々の求めるものは、自由でも眞實でもなく、どうやら他人を打ち負かす快樂であるらしい。

リンク

inserted by FC2 system